王平伝⑥

王平伝⑥

時は西暦231年。蜀軍と魏軍は天水で対峙していた。大軍同士で互いに動けぬ中、王平が蜀軍兵糧庫に奇襲をかけてきた張郃を討ち取った。これを機に魏延が総攻撃を唱え、総帥諸葛亮はついにそれを許す。漢王朝の復興をかけた戦いがいよいよ大詰めに入る。
・王平(おうへい)・・・漢中軍司令官。蜀の一武将として魏と戦う。
・句扶(こうふ)・・・蜀の隠密部隊、蚩尤軍の指揮官。
・劉敏(りゅうびん)・・・王平の副官。軍学に明るい。
・趙広(ちょうこう)・・・諸葛亮の護衛として天禄隊を率いる。
・夏候覇(かこうは)・・・魏軍騎兵部隊隊長。戦死した張郃の跡を継ぐ。
・諸葛亮(しょかつりょう)・・・蜀軍総帥。劉備の意思を継ぎ、漢朝の復興を目指す。
・蔣琬(しょうえん)・・・蜀の文官。成都にて北伐軍の後方支援をする。
・魏延(ぎえん)・・・蜀の武官筆頭。戦上手だが文官と仲が悪い。
・楊儀(ようぎ)・・・諸葛亮の近くで軍運営の補佐をする。魏延と仲が悪い。
・司馬懿(しばい)・・・魏軍総司令官。人知れぬ野心を抱える。
・辛毗(しんぴ)・・・司馬懿の補佐役。

五丈原へ

6-1
 冷たい空気が溜まる幕舎内で、諸葛亮は腕を組んで考えていた。
 どこで総攻撃を仕掛けるかだった。兵の小出しはしたくない。それは、軍学が最も禁じていることである。
 魏軍は地形を頼みにし、かなり強固な陣を布いていた。これを力押しで攻めれば、仮に勝てたとしても、かなりの損害を出してしまうだろう。
 ここで兵力を大幅に減らすわけにはいかなかった。ここに布陣する魏軍を抜き、東へ八百里駆け、長安という巨大城郭を落とさなければならないのだ。ここで失っていい兵力は、最悪でも三割。できれば二割以下に抑えておきたかった。軍学で言えば、城攻めには敵の三倍以上の兵力が必要なのだ。自軍が六万にまで減ったとすると、長安に籠らせる魏軍は二万以下に抑えなければならない。ここで八万の魏軍を二万以下に減らせたとしても、東方から援軍がやってくることを考えれば、長安の守兵を二万以下に抑えるというのはかなり厳しい。
 何らかの現状打破が必要だった。それは兵力によるものではなく、謀略による強烈な一手だ。
 初の北伐を敢行する前、魏延が長安を急襲する案を上げていた。今思えば、あれが最上の策だったのだという気がしてくる。当時の長安には、何の備えもされていなかったのだ。それに長安の太守は司馬懿でなく、愚昧な夏侯楙であった。天の時はあそこにあったのだ。
 幕舎に楊儀と費禕が入ってきて、近くに侍る姜維がそちらに一礼した。もうそろそろ、蜀軍の主立った武官たちが集まってくる刻限である。
「寒いですな」
 身震いしながら、楊儀が諸葛亮の隣に座った。諸葛亮の側近として兵糧分配等の軍政を仕切っており、今では自然とこの遠征軍の第二の地位に就いているという格好になっている。蜀軍の総帥である自分にもしものことがあれば、次の総帥は自分だと思っているようなところがある。それは、自分が死んだ時のことを考えれば、気にかけておくべきことであった。
 戦である限り、自分が死ぬことも想定しておかなければならない。しかしその時の後継は楊儀だとは考えていなかった。楊儀には人望が無さ過ぎて、この巨大な軍を統率していくには無理があるだろう。人の下に付くことで初めて力を発揮できるという男もいるのだ。
 武官の筆頭である魏延は、戦こそ上手であるが、漢王室の歴史的価値を理解しているとは思えない。そのことから、この軍の総大将には不向きだと言えるだろう。故なき武力は、破壊を生み出すだけの暴力になりかねないのだ。
 兵を養い、魏の打倒を目指すのは、漢王朝の復興という志に向かってのことである。自分が没した後に受け継がせるのは、軍という力ではなく、志に基づく政であるべきだった。軍というものは、その志を全うさせるための一つの手段に過ぎないのだ。
費禕が手を叩いて従者を呼び、炭に火を入れさせていた。費禕はいいかもしれない。尊王の心があり、尊王の意味もよくわかっている。そして次世代の戦のあり様も理解している。しかし費禕はまが若年であり戦の実績もなく、軍の総帥に向いているとは思えない。
やはり自分が死ねば、撤退の他ないだろう。遠征を繰り返した蜀の国力ももう尽きかけているのだ。そうなれば自分の後継は、蜀国の仕組みと法をよく理解している蔣琬が適当だろうと思えた。自分が死んで戦が終わるようなことになれば、しばらくは内政に力を入れなければならない。蔣琬を中心として、現場をよく知る費禕にその補佐をさせれば、戦で疲弊した蜀の体裁はかなり整うはずである。
隣では楊儀が指で卓を叩きながら何かぶつぶつ言っている。この軍の総帥が、負けた時のことを考えているとは露ほども知らぬといった顔である。
「張郃が動きましたな。王平軍が、上手くやってくれるといいんですが」
 魏軍に潜らせていた蚩尤軍から、張郃軍が南へ向かって進発したことを報せてきていた。それが一つの契機となると直感した諸葛亮は、蜀軍の緒陣地を守る武官に召集をかけたのだった。
 やがて外が騒がしくなり始め、魏延と馬岱が入ってきた。趙統も姿を見せ、他の武官たちも続いてきている。句扶と趙広は、黒蜘蛛から蜀の陣地全体を守っているため、この軍議には参加しない。
「ようやく敵が動いた。魏軍の騎馬隊五千が、南下を始めた。敵の狙いは十中八九、我らの兵站基地であろう」
 居並ぶ諸将の前に大きく垂れかけられた地図を指しながら、楊儀が説明し始めた。
「知らぬ者もいるので言っておく。この木門の兵糧庫は、偽装だ。わざと敵に位置を掴ませ、やってきたところを伏兵で討ち取る。その任は、王平軍に当たってもらっている。敵は罠にかかったのだ」
 それにざわめく武官達が居並ぶ中で、魏延が立ち上がった。
「恐れながら、丞相」
 楊儀が喋っている途中だったが、魏延がそれを無視するようにして言った。この二人は、あまり仲が良くない。
「蜀軍は、今すぐにでも総攻撃をかけるべきです」
「逸られるな、魏延殿。我々はそれを話し合うため、軍議を開いているのだ」
 楊儀が言ったが、やはり魏延はそれを無視した。
「張郃軍は、非常に絶妙な位置に陣取っていました。その絶妙さのため、我らは膠着していたと言っても過言ではないのです。それがいなくなったのは、正に我らにとっての天の時と言えましょう」
 魏延が必要以上に大きな声で言った。こういうのは、楊儀が最も嫌う物言いだろう。しかし言っていることは、あながち間違ってはいない。
「騎馬隊一つが動いたからすぐに総攻撃とは、早計過ぎではありませんでしょうか。動いたのは、たかが八万の内の五千なのですぞ」
 楊儀が反論した。魏延はそれを一瞥するだけで続けた。
「丞相は、どうお考えでしょうか」
 丞相、あなたも気づいているのだろう。そう言っているようにも聞こえた。隣では、楊儀が機嫌悪げに膝を鳴らしている。
 魏延が考えていることは、恐らく概ね正しい。しかし楊儀の立場も蔑ろにするべきではなかった。
「攻めなければならない理由を、ここにいる皆が理解しているわけではない。お前の考えを、全員がわかるように喋ってみろ、魏延」
 魏延は一つ頷き、揚々と地図の前に歩み発った。
「私が陣取る位置は蜀軍の最右翼にあり、眼前には魏平という将が天険に拠って陣を布いています。この高台にいる魏平の陣を奪うことができれば、敵の本陣にかなり近づくことになるということは、地図を見ればよく分かると思います」
 丁寧に説明し始めた魏延の方に、武官たちの目が注がれている。諸葛亮も同じくそちらを向き、それを聞いた。
「天険であるこの高地を攻め奪るのは、非常に厳しい。正面からまともに攻めれば、兵らはいい矢の的になるだけでしょう。しかしここには裏道があるのです。天険でありますが、人口でないが故、探せば穴はあります」
 講釈のような口調で言うその魏延の言葉は楊儀に向けられているようであったが、楊儀は目を瞑ってつまらなさそうにそれを聞いている。
「その裏道とは、ここです。この森を抜け、この岩壁に沿って進めば、敵陣からは見えません。しかしこの道を使うことはできませんでした。何故なら」
 魏延が張郃の陣を指差した。
「ここに張郃騎馬隊がいたからです。やや離れたように見えるかもしれませんが、あの騎馬隊なら一息でやってきます。しかし今は、それがいなくなった」
 自分の考えていることと、ほぼ同じだった。しかし本当にそれで上手くいくのか、という疑念はある。司馬懿がそれを読んでいたら、どう対処してくるのか。またそれにどう対処すべきか。そのことばかりを考えてしまう。
「王平軍からの報告が届いてからでは遅いのですか、魏延殿。司馬懿はかなりの策士です。焦って敵の策に嵌ってしまうことがあっては、元も子もありませんぞ」
「では、その司馬懿が考えている策とは、どんなものがありますでしょうか」
 魏延が間髪入れずに反論した。
「それを考えるための軍議ではありませんか」
「言ってしまえばきりがないのです、楊儀殿。疑念を重ね、機を失する。戦でそれは絶対に避けなければならないことなのです」
 物言いこそは丁寧だが、二人の間にはやはり微妙なものが流れている。そんな二人を、費禕がはらはらした様子で見ていた。
「攻めるとしたら、全軍だな、魏延」
 魏延がはっとした顔をこちらに向けた。
「左様。魏平の陣を奪えば、形成はぐっと我らの有利となります。それを妨害する、張郃の代わりとなる敵部隊が来ることを防ぐという意味での、全軍です。この作戦を中途半端に終わらせてしまえば、司馬懿は自陣の弱点に気付き、この魏平の陣を強化してくるでしょう。二度目はありません」
「よろしい、魏延。自陣に戻り、攻撃開始の命令を待て。他の者たちも、自陣に戻って沙汰を待て」
 俄かに幕舎内がざわつき、顔を色めかせ始めた武官たちがぞろぞろと退出して行った。
「いいのですか、丞相。せめて王平軍の報告を待った方が」
「魏延の言っていた魏平の陣は、私も見ていた。あそこは魏軍の弱点だ。魏延は蜀国の軍人として、そこに着目し、この戦に勝つために頭を凝らしている。それに対して感情的になってはいかん。勝とうと努めている者を潰してしまって、どうしてこの戦に勝てるというのだ」
 武官の全員が出て行った幕舎内で、諸葛亮は少し強めの口調で言った。
「勝負所はここだ。魏延が言っていたように、これを失してはならん」
「……わかりました」
 楊儀に不満はあるのだろうが、命令には忠実に動く。そして、きちんと仕事を成し遂げてくれる。
「漢中の李厳に、溜めてある兵糧を送ってくるよう使者を出せ。ここを一気に突破するぞ」
「大事な使者です。費禕に行ってもらうのが良いと思います」
 楊儀が言うと、座っていた費禕が立ち上がった。
「よかろう、すぐに支度をしろ」
 費禕が一つ返事をして出て行った。
 勝機が巡ってきた。幾度かの大きな戦を経験し、ようやく諸葛亮にもそれがわかるようになってきた。古今の名将が名将だと呼ばれる所以は、この機を逃さなかったということにあるのだろう。自分はそれを逃し続けてきたのだ。
「長かったな。情けないほどに、長かった」
 何が、という顔を楊儀が向けてきた。
「それは、これだけの大軍でございますから」
 諸葛亮は眉をひそめた。やはりこの男は、大きな物事を旋回させる主人物にはなりえない。
「そうではない。魏の打倒を掲げてから、もう三年が過ぎているのだ。それだけの時をかけ、ようやく機というものがわかってきた。その機を潰してしまうのは、己の内から出る不安や怖れだということも」
 では自分はどうなのだろうか。自分も物事を旋回させる主人物ではなく、その主人物を補佐する側の方が向いているという気がする。
「お前の魏延に対する態度に皮肉を言っているわけではない。軍を指揮する者として知っておかなければならないことを、儂は知らなかった。それを、年の近いお前に少しだけ愚痴りたいと思った。思えばこの三年間、この機を逃したのは一度や二度ではないという気がする。それを逃したのは、部下や兵糧のせいではなく、儂の弱さのせいだった」
「弱気なことを申されますな、丞相。この蜀という小国でこれだけの軍を編成し、こうして大国の魏に挑める力を持てたのは、他でもない丞相の力のお蔭ではありませんか」
「たまには弱気になってみるのも悪くはないぞ、楊儀。強気で虚飾を張るより、弱気になることで初めて見えてくるものもあるのだろう。そこで見えてくるものとは、決してつまらないものではない」
 その時、伝令が慌ただしく幕舎に入ってきた。護衛の姜維がそれに反応して一歩前に出た。
「何事だ」
 楊儀が半ば怒鳴るようにして言った。
「王平軍が、敵将張郃を討ち取りました」
 それを聞いた楊儀が卓を一つ叩いて唸り声を上げた。あの厄介だった張郃が消えた。しかし諸葛亮の心の中には、楊儀が見せるような猛るものはない。あるものは、ただ不安だけである。勝たなければならぬという不安だ。諸葛亮は周りに気づかれぬよう、その不安を己の中で噛み砕いた。
「連弩と銅扎馬釘に感謝するとのことです」
 銅扎馬釘とは、王平軍に授けてあった馬用の鉄菱のことである。これも、孔明が考え、作り上げていた。
「戦の事後処理は劉敏。王平は騎馬を率いて祁山へ。漢中からの兵糧輸送の兵は、王平軍の歩兵から出せ」
 命令を受け取った伝令が駆け出して行った。
「すぐさま全軍に攻撃開始の命を下せ。最優先目標は、敵将魏平の陣だ」
 この機を掴み、我が物にする。諸葛亮はその気迫を口から吐き出すようにして言った。伝令の後を追うようにして、楊儀も幕舎から駆け出て行った。

 蜀の陣地が慌ただしくなり始めた。長らく対峙が続いていたが、そろそろぶつかり合いが始まるのかもしれない。
 かなりの時を日の当たらぬ場に潜み過ごしていた。全身を草葉で迷彩し、息を殺してひたすら蜀軍の監視を続けていた。それが黒蜘蛛の一員としての自分に与えられている任務であった。
蜀の陣地から漢中へと続く道の一端である。郭循の他にも黒蜘蛛の何人かが近くに配置されているはずだが、詳しいことは知らされていない。知っておく必要もない。敵に捕らえられ、拷問にかけられた時のことを考えれば、知っていることはできるだけ少ない方がいいのだ。
 蜀にも黒蜘蛛と似た忍びの軍がいて、それは蚩尤軍と呼ばれていた。それが黒蜘蛛の敵である。戦では歩兵や騎兵によるぶつかり合いだけでなく、忍び同士の暗い戦いもあるのだ。
 動かぬことが自分にとっての戦いだった。ほんの少し身を動かしただけでも、蜀の忍びがそれを目聡く見つけ、気付けば背後に立たれていたということも十分あり得る。
 隊長である郭奕への接触は、任務中はほとんどない。できるだけ動きを減らし、敵に見つかる可能性を少しでも下げるためだ。報告は、何か異変があった時だけ、慎重に出す。今のところ、一度も報告を上げる必要はなかった。
 郭奕から命じられたことを、遺漏なく上手くやりとげたかった。そして郭奕から認められ、褒められたかった。幼い時から、自分の全ては郭奕なのだ。郭奕から疎まれて、見放されてしまえば、自分が生きる場所はこの世に一つとしてないのだ。蚩尤軍に見つかるよりも、郭奕に見放されることの方が怖かった。
 背後から微かな金属音が聞こえた。黒蜘蛛同士の合図の音である。
「どうだ、郭循」
 郭奕だ。気づいたら隣まで来ていた。異変は何もないと、郭奕と同じように唇を動かすだけで伝えた。
「蜀軍が攻勢に向けて動き始めた。気を抜くな。蚩尤軍には常に見られていると思え。お前はここで監視。ここで見たものは、後で全て俺に伝えろ」
 それだけ伝えると、郭奕は返事も待たず姿を消した。
そんな郭奕に郭循はいささかの不満を覚えた。蜀軍が動くということは、黒蜘蛛に他の働き場ができるということではないのか。しかし何故自分はここで監視の継続なのだ蚩尤軍との本格的な戦いが始まるのなら、自分も戦いたい。そして手柄を上げ、郭奕に褒められたい。しかし郭奕の様子は、この周囲に潜む黒蜘蛛に何かを命じ、そのついでに自分の所にも来たという感じだった。
昔から身体能力の高さを、郭奕からよく褒められた。その身体能力の高さを生かした忍びの技も数多く身につけてきた。それらの全ては、今のような戦場で発揮するためのものではなかったのか。こんな監視のような仕事は、体の老いた他の黒蜘蛛にやらせればいいのではないか。郭循は自分の体を石のようにしながら、そんなことを考えた。
蜀陣地から伝わってきていた慌ただしさが、次第に静かになっていくのを感じた。攻撃をかける準備が終わったのだろうか、嵐の前の静けさなのかもしれない。
同時に辺りから、ずっと感じ続けていた嫌な感じが消えた。触れると破裂してしまいそうな、雨霰のような緊張感がだ。黒蜘蛛が動き始めたのと同じくして、蚩尤軍も動き始めたのだと思えた。もうこことは違うどこかで、忍び同士の暗闘が始まっているのかもしれない。
郭循は焦燥を感じ始めた。辺りから蚩尤軍の警戒網が薄れたのは明らかである。その分の戦力がどこかで黒蜘蛛に向けられているであろうことも容易に想像できる。それなのに、自分はここで監視をし続けていていいのか。
ここで監視という命令を受けたのは確かだ。しかし郭奕は自分に、常に自分で考えて動くことも求めている。これだけの状況がありながら、ただ愚直に命令に従い、時を費やしていいものなのか。
肌で感じていた嫌なものが、はっきりとないものになった。ここは自ら判断し、動くべきではないか。それともここでじっとしておくべきか。例え見つかったとしても、少々のことなら自分の力で切り抜けられる自信はある。それだけの調練は、郭奕の指導の下で積んできたのだ。
監視だと言われている。それに従い、ここでじっとしているのは、容易であり、楽なことだ。しかし後になって、何故動かなかったのだと言われはしまいか。これだけの状況で、お前は何も考えなかったのかと、そう責められはしないだろうか。
蜀本陣の方から馬が駆けてくるのが見えた。伝令かと思い、郭循はそちらに目を凝らした。駆けてくるのは単騎で、馬上の者は格好からして普通の兵卒ではない。もしかしたら、名のある者なのかもしれない。
郭循の体の中で、何かが疼き始めた。あれを殺せば、郭奕に褒められるかもしれない。蜀の忍びは、この辺りから気配を消しているのだ。これは絶好の機会ではないのか。
郭循は考えることをやめた。やめると同時に体が動いていた。駆けてくる単騎の前に躍り出、短剣を投げ打った。影。その影に短剣が当たったかと思うと、その影が投げた短剣を投げ返してきた。郭循は咄嗟に飛んでそれを避けたが、避けたところにまた違う影がいて、髪を掴まれ何か固いものに顔をぶつけられた。そしてそのまま、地に顔を擦り付けるようにして倒された。
「なんだ、小者か」
 突っ伏した頭上から聞こえた。迂闊だった。気配は消えていたのではなく、消されていたのだった。それに自分は、まんまと乗ってしまった。
 最初に見えた影は、自分と同じ程の小男だった。そしてその左目には、眼帯がかけられていた。
「殺すなよ、趙広」
 眼帯を付けた男の後ろから、十人程の忍びが姿を現し、名があると思われる馬上の男を護るように囲んだ。郭循は息を飲んだ。ここにこんなにも潜んでいたのか。やはり自分は、誘い出されただけだったのか。
「こいつは縛り上げて連れていきます」
「ここはもう俺に任せておけ。お前はすぐに本営の護衛に戻るんだ。こいつが囮であるという可能性がある」
 蚩尤軍に護られた馬上の男は眼帯の男と少し言葉を交わした後、速やかにそこから離れて行った。
 両腕が後ろ手に縛られ、木の棒を咥えさせられた。連れていかれれば、恐らく拷問であろう。捕らえられた瞬間に舌を噛まなかったことを郭循は後悔した。
 眼帯の男が、こいつは囮かもしれないと言っていた。郭奕が自分を囮にすることなどあるのだろうか。あり得ないとは言い切れない。拷問に対する恐れよりも、自分が囮にされたかもしれないということの方が、郭循にとっては気がかりであった。父である郭奕が自分に過酷な調練を課し、散々な仕打ちをしてきたのは、自分のことを愛していてくれたからではなかったのか。
 縛られたまま引き起こされたその時、茂みの一角から黒蜘蛛の集団が現れた。郭奕の姿もある。同時に、蚩尤軍も周囲の茂みから湧いて出てきた。
「このごみは捨て置け。郭奕だ、趙広」
 その声が耳に入ったと思うと、後頭部に衝撃がきた。朦朧となって前のめりに倒れたが、意識は断たれていない。任務中の半刻の睡眠のような薄らいだ意識の中で、郭循は周りに広がる闘争の空気を感じた。体が持ち上げられた。持ち上げているのは、敵か、味方か、それすらわからない。
 体の自由が利かず為されるがまま運ばれ、闘争の気配はどんどん遠ざかっていった。耳の近くで撤収を告げる指笛が鳴らされた。聞き覚えのあるこの指笛は、郭奕のものだ。
 意識がはっきりとしたものに戻り始めた。
「降ろしてください」
 言うと郭奕は郭循を降ろし、腕を縛っていた縄を切った。そして、すぐに走った。かなりの距離を走り、黒蜘蛛の拠点であるほとんど植物に浸食された小屋に入った。そして、蹴り飛ばされた。
「何故動いた。監視を続けていろと、俺は命令したはずだ」
「私は」
 言おうとした口に、また蹴りが飛んできた。口の中に何か固いものが転がった。
「あの辺りに潜んでいた句扶の首を狙っていたのだ。恐らく、蜀の本陣から出た高官らしき者の護衛でもしていたのだろう。句扶はその護衛ついでに、黒蜘蛛を誘きだそうとした。お前はそれにまんまとかかったのだ。お前が俺の言うことを聞いておけば、その裏をかけた」
 ならば自分のことは見殺しにしてくれてよかった。そう思うも、口から血が止めどなく溢れ出て言葉にはならなかった。
「お前一人のせいで、どれだけ黒蜘蛛に被害が出たと思う。ただで済むと思うな」
 そう言った郭奕の目は、人を見るものでなく、物を見るような冷たいものになっていた。幼い時、自分を犯す郭奕の目は、常にこうだった。
郭循はそれに怖れを感じるとともに、ある種の喜悦も感じていた。このような事態になってしまったとはいえ、郭奕は自分のことを助けようと思ったのだ。郭循にとって黒蜘蛛に損害が出たということはどうでもよく、そのことだけが大事であり、蹴られた痛みに比べればそこから得られる喜悦はどれほども大きなものであった。
腹を殴られ、しばらく呼吸ができなくなった。それでも喜悦は留まることはなかった。殴られ、蹴られ続け、小屋の中の藁の上で体が襤褸切れのようになったところでようやくそれがやんだ。自分の犯した過ちは取り返しのつかないものだったが、これで許してもらえる。ただでは済まないものが、これで済んだ。残ったものは、郭奕が自分のことを助け、十分な罰を与えたという事実しかない。
郭循は藁の中に顔を入れながら、引くようにして笑った。郭奕の目からは自分が泣いているようにしか見えないだろう。殴られ続け、蹴られ続けることで、父なる郭奕から愛してもらった。それが、嬉しかった。
 郭循はしばらくの間、藁の中で泣くようにして笑い続けた。


6-2
 閑静となって久しい成都に、北からの早馬が矢継早に着き始めた。長らく膠着していた戦線に動きがあり、蜀軍が優勢に押し始めたのだという。魏軍の有力な武将である張郃を、王平軍が討ち取ったという報せも入ってきた。
 蔣琬は丞相府に籠り、董允と共に諸葛亮からの書簡を何度も読み返した。そこに書かれてあることをそのままのこととして取るのは、二流官僚のやることである。そこに書かれてあることから諸葛亮の真意を読み取り、ここで自分たちにしかできないことをやらなければならない。
「文面の勝ちが、いささか派手過ぎるな」
 董允が、蔣琬に確認するようにして言った。蔣琬は書簡から目を上げ、一つ頷いた。自分も同じことを考えていたからだ。
「これを、成都で広めろということか」
 書簡には、魏軍をどれだけ倒したかということだけでなく、どれだけの武具を奪ったかということまで詳細を窮めて書かれてあった。そんなことは、武具を消費する現場の指揮官らが把握しておけばいいことだ。それをこうしてわざわざ報せてくるということは、成都で貧困にあえぐ民にこの報を聞かせてやれということなのだろう。成都の丞相府で民政に苦慮する蔣琬に対する諸葛亮からのささやかな心遣いなのであろうが、その程度のものでは焼け石にかける水にしかならない。武器より首より、食物が欲しかった。
「兵糧を奪ったとは書かれていないな。それが一番大事なことなのだが」
 董允が息を大きく吐きながら言った。
「魏軍は我らの弱点をよく知っているのさ。恐らく、撤退する時に奪われそうな兵糧は全て焼いたのだろう。十万の大軍を抱えながら兵糧を焼くとは、敵の指揮官もなかなか思い切ったことをやる」
 蜀軍の弱点は、糧食である。何万もの大軍を短期間に何度も動かしたことで、成都の兵糧庫はほとんど空になっていた。その影響は街に住む民草にも出ており、市場からは活気が失せ、その日に食うものに困る者すら出始めていた。そんな者たちに必要なのは戦勝報告ではなく、一握りの穀物なのだ。
「陛下にはどう奏上すべきかな。本来なら勝ったと言うべきだろうが、こうも先が思いやられては報告のしように困る。黄コクが陛下に余計なことを吹き込むせいで、北に疑心を持ち始めておられるということもあるしな」
「勝ちはしたが、これはまだ局地戦に過ぎない。そのようにお耳に入れておけばいい。蜀軍が本当に勝ったと言えるのは、長安を攻略した時だ。黄コクが大人しくしている限りは、本当のことをお伝えすべきだ」
 何か政治的な理由があるにしろ、本来は帝に嘘の報告をするなどあってはならぬことなのだ。それは、漢という国が腐った大きな原因の一つであった。
「黄コクの抑えは郤正が上手くやってくれている。そちらの方は問題ない」
 郤正はまだ若いが、句扶が送り込んできただけあり、かなり優秀な忍びであった。兵では珍しく字が読め学もあり、勤王の思想もわかるようだった。その郤正が、礼服に身を包み、董允の従者だという建前で宮廷内に出入りしている。年が二回り程も離れているが、成都で数少ない良い同志ができた、と蔣琬は思い始めていた。
「問題は長安の方か。あの巨大な城塞が、そうそう簡単に落ちてくれるとは思えん」
「あそこだ。あそこを落とし涼州を奪れば、益州はかなり楽になる。長安を得てそこで進撃を止め、三年もかければ蜀の国力は以前の倍以上になる。俺なら、それができる」
「丞相なら、その半分でやれと言ってきそうだな」
「戦を最低限の準備で再開できる状態に持っていけと言われるなら、やれる自信はある。俺は丞相府に残さたことで、この国のことがよくわかってきた。強いところも、弱いところもな。労働力と時さえあれば、この国はまた復活できる。それに涼州が加わるとなれば、十分に魏に対抗できるだけの力を持つことができる。丞相には、必ず長安まで進んでもらわんとな」
 軍学で言えば、城を落とすには守兵の三倍の兵力が必要である。蜀軍はどうにかして、そこまで戦力差を離したうえで長安に挑まなければならない。
「蜀軍が丸々八万残っていたとしても、長安に三万も入られるともう厳しくなるな」
「長安は天下の堅城だ。二万でも厳しいと思う。それに東から魏の援軍が到着すれば、さらに厳しいことになるであろうな。補給のことから考えても、長期戦は避けねばならん」
「蜀軍の状況がそうした中にあるということも、奏上しておいた方がいいかな」
「当然だ。不利なことを言ってしまえば陛下は不安を積もらせてしまうだろうが、本当のことを言い続けることで、陛下と臣の信頼は増す。そしてそれが、国の強さにつながる」
 蜀の帝である劉禅は、諸葛亮に絶大な信頼を置いていた。劉禅の父である劉備の言いつけがあったからだ。この二人の信頼関係があれば、多少のことで詔勅による撤退が命ぜられることはないだろう。ならば自分たちは、諸葛亮の苦難を正確に伝え、陛下の信頼を得るということに努めるべきである。成都を任された丞相代理として、それは忘れてはならないことであった。
「蔣琬、正直に言ってみろ。蜀軍は勝てると思うか」
「勝ちを、長安を落とすまでと考えるならば、可能性はある。長安に大量の守兵を入れられたとしても、蚩尤軍を上手く使うのだ。長安に入れてある蚩尤軍の数は、決して少なくない。丞相も同じことを考えておられることだろう」
「仮に長安を落とせたとして」
「そうだ。さらに東には童関があり、洛陽があり、その背後にはさらに巨大な魏の国土がある。その巨大な国土が生み出す国力に打ち勝つには、かなりの年月を要するだろう。その年月を背負うのは、我々の仕事だ」
「ほう、そこまで考えていたか。丞相ができるのは、長安を攻略するまでだと」
「丞相ができるのは、ではない。今の窮乏した蜀ができるのは、そこまでだということだ。長安を奪り、涼州一体を版図に加えれば、益州の負担はかなり減る。反乱の兆しを見せている南方の異民族を押さえることもできる。そうして衰退した国力を回復させた時が、今一度の戦の時だ」
 机上の空論なのかもしれない。その感覚は、為政者として常に持つべきである。今の蜀軍は、長安を落とすことすら難しいという状況にあるのだ。しかし理想なくして、国を動かす者である資格があろうはずもない。
「お前は段々と丞相に似てきたな。近くにいてそう思うよ。しかしこれだけは忘れるな。蜀という国は戦をするためにあるのではない。三百年という歴史を紡ぐ漢という国を受け継ぎ、守っていくためにあるのだということをな」
「わかっている。歴史を持たぬ国に住む者など、欲のままに動く獣とさして変わらぬということもな」
 漢という国は、これからもずっと続いていくのだ。そうして続いていく国の中で、人は学び、叡智を身につけ、繁栄していく。諸葛亮が戦をすることで守ろうとしているのは、そういうものだ。国が替わり、帝が替われば、人々はまた一から歴史を紡ぎ直さなければならない。それは、それまで長い時をかけて育んできた人の叡智を捨て去ってしまうことと同義なのだ。
 こうした諸葛亮の想いは、他の廷臣からはあまり理解されていない。理解できぬ者たちは、諸葛亮をただの好戦的な男だと思っているようであった。戦によって勝ち取ることができるものは、金銀財宝や領土といった物質的なものだけではなく、目に見えないものも多分にあるのだ。しかしそういったものは、手に取れず、目に見えないが故、理解できぬという者が少なくない。理解できぬ者らが、歯痒かった。しかもその理解できぬ者たちは、数少ない理解できる者たちのことを、したり顔で攻撃してくるのである。
 部屋の戸が叩かれ、蔣琬の従者である王訓が入ってきた。
「新しい書簡が届けられました、蔣琬様」
 蔣琬は頷き、王訓から書簡を受け取った。ここ最近は毎日、こうして北から書簡が届けられるのだった。
「では、失礼いたします」
「待て、王訓。良い報せがあるぞ。お前の親父の報せだ」
「王平将軍の」
 王訓は王平のことを父とは呼ばない。しかしそれは王訓が父のことを嫌ってのことではない。父子である前に、蜀の臣であるという思いがあるのだ。蔣琬がそうしろと言ったのではなく、王訓が自分で考えてそうしていた。しかし蔣琬は、王訓に王平の話をする時は、お前の親父と言うようにしていた。
「魏の精鋭騎馬を率いていた張郃を、お前の親父が討ち取った。これは、この戦の戦功第一といっていいかもしれない」
「そうでございますか」
「嬉しくはないのか、王訓」
 董允が横から言った。
「それは、王平将軍が私の父であるからそう言っておられるのでしょうか。公務に携わっている限り、その様な私情は持ち込むべきではないと思います」
 言われた董允が面食らったような顔をし、蔣琬が弾けるようにして笑った。
「王訓、ちょっとこっちに来い」
「はい」
 近づいた王訓の頭に、蔣琬は手を乗せた。強情なところのある王訓だったが、蔣琬はそれが嫌いではない。むしろその懸命さが好ましく、可愛らしくさえ思えた。
「もし張郃を討ち取ったのがお前の父でなく、魏延殿だったらどうかな。もっと喜んでいたと思わんか」
「まあ、それは」
「それでもお前がそんな難しい顔をしているのは、お前が父子の関係に拘っているからだ。違うか」
「それは」
 蔣琬に目を向けていた王訓が、恥ずかしそうに俯いた。
「お前のことを責めているのではない。自分の父のことで、そう強情になることはないということだ」
「別に、強情というわけでは」
 父親のことで感情的になる王訓を見ていると、無性に羨ましい気分になってくる。蔣斌や蔣顕は自分のことをどう思っているのだろうかと、ふと考えてみたりもする。
「お前に北の戦況を教えてやろう。蜀軍はお前の親父の活躍を皮切りに、押しに押しまくっている。魏軍の武具をかなり奪いもしたようだ」
 言って蔣琬は、諸葛亮からの書簡の一部を王訓に見せてやった。王訓はそれに興味深そうに顔を覗き込ませている。
「帰ったらこのことを、蔣顕や妻にも教えてやってくれんか」
「わかりました」
 言った王訓の顔には、ようやく笑顔が浮かんでいた。
 女は噂好きである。その話を聞いた妻は、侍女や友人にそれを言って回るだろう。そうしてこの噂が成都中に広まってくれればいい。そしてその噂の中心には自分がいるのだと、妻には思わせてやればいい。家のために何もしてこなかったことに対する、せめてもの償いのようなものだった。
 王訓が出て行くと、蔣琬は渡された書簡を開いた。おや、と思った。それは諸葛亮からのものでなく、漢中の李厳からのものであった。
 一読し、そこに書かれてあることに蔣琬は驚愕した。顔から血が引き、手が震え始めた。
「どうした、蔣琬。俺にも見せてみろ」
 董允が蔣琬から書簡を奪うようにして読み、同じく顔を青冷めさせた。
 そこに書かれてあるのは、今の蜀軍では長安を絶対に落とせないという長々とした論拠、そしてその勝てない戦を止めさせるために兵糧は送らないということが書かれてあった。
 蔣琬は、力任せに卓を叩いた。
「ふざけるな。たかが一兵糧監の分際で、こんな判断が許されるとでも思っているのか」
 叫ぶようにして言っていた。董允も、天を仰ぐようにしている。
 その声を聞きつけたのか、王訓が部屋に戻ってきた。
「いかがなされましたか」
「早馬の準備だ。今ならまだ間に合う。蜀は、長安までは奪らなければならんのだ」
 王訓がわけもわからぬといった顔で駆けだして行った。

 蜀軍の総攻撃を受けた。魏軍はかなりの兵力を失い東へと後退させられたが、まだ長安は遠い。
 万全だと思っていた布陣が、魏平の陣から崩されたのだった。そこは、木門へと向かった張郃が睨みを利かせていた箇所でもあった。
 魏平の陣を抜いた蜀軍は、そこから堤を切った水の如く押し寄せ、司馬懿のいた本陣の目前まで迫ってきたのだった。
 司馬懿は即刻撤退を決め、事前に魏軍の隊長格の者に通達してあった瀧関まで下がった。蜀軍に蹴散らされ四散した魏の兵らは、続々と瀧関に集まり続けている。これで魏軍は兵力で蜀軍に劣ることとなった。
 司馬懿は瀧関に着くと、一番に蓄えられている兵糧を確かめた。前線へ兵糧を送る中継地点であったため、不足はない。先ずはそれに安堵した。あるべきものがそこにはないということも起こり得るのだ。
 辛毗が報告に上がってきた。
「今のところ、集まった兵力は四万です。最終的に瀧関に入る兵力は五万に達するかと思われます」
「五万か。意外と多いな。四万は切るかと思っていたんだが。ここの兵糧で、二月はここに籠れるといったところか」
 それを聞いた辛毗が、口を開けて呆れたような顔をしていた。
「恐れながら司令官、我らはこれで蜀軍に兵力で劣ることになりました。張郃将軍の安否もまだわかりません。後方から援軍を要請するべきだと思うのですが」
 司馬懿は辛毗を睨み付けた。それで、辛毗は開いていた口をきっと閉じた。
「余計なことだ、辛毗。この俺が、蜀軍なんぞに負けるとでも思っているのか。そんなことをして俺の顔に泥を塗りでもすれば、お前といえども首を飛ばすぞ」
 辛毗は言葉を失い、顔を引きつらせていた。やはり部下は有能で、このくらい臆病なくらいが丁度いい。
 司馬懿はふっと顔を緩ませて見せた。
「お前は気を動転させているのだ。この戦における魏軍の勝ちとは何か、そして負けとは何か、今一度考えてみろ」
「勝ちとは、魏領から蜀軍を退けることです。負けとは」
 そこまで言い、辛毗は言葉を詰まらせた。もう魏軍は負けてしまっているという思いが少なからずあるのかもしれない。
「そこだ、辛毗。戦に臨むからには、その勝ちと負けはなんであるかを明確にしておかなければならん。勝ちとは、今言ったことでいいだろう。魏軍の負けとは、長安を奪られ
涼州を失うことだ。
違うか」
「その通りでございます」
「我らにはまだ五万の兵力がある。いざとなれば、長安に籠ればいいのだ。あの城はな、備えさえあれば三万の兵力で十分に守りきれる。仮にそこまで蜀軍が八万残っていたとして、連戦長躯し伸びきった兵站線を抱えた蜀軍に、我々が負けるかな」
 司馬懿は低く笑った。その声が、妖しく室内に響いた。
「しかしこれでは、中央から何を言われるか」
「戦場から遠い者のことなど気にすることはない。お前はまだわかっていないようだから教えておいてやる。我々は、勝てる戦に乗っているのだ。長安が落とされる、つまり魏が蜀に負ける危険は、過去に一度だけあった。蜀軍が初めて戦を仕掛けてきた、あの一戦目だ。備えがなかったあの時の長安に奇襲をかけられていたら、或は落とされていたかもしれん。しかしあの一戦目で蜀軍は遠回りをすることで我々に負け、向けられていなかった魏の耳目を一斉に西へと向けさせた。この時点で既に、蜀軍が勝つ芽はほとんど潰れているのだ。そして俺は、この勝てる戦の軍司令官の地位を獲得した」
 外からは慌ただしく駆け回る兵の声が聞こえてくる。辛毗のように、この戦に負けるかもしれないと思っているのだろう。あれらの者共は、あれでいい。無知であることが役に立つということもあるのだ。
「戦とは何だ、辛毗」
「難しいことを聞かれます。戦とは、その、国と国との意思のぶつかり合いでありましょうか」
「異なる二つの主張による争い、というのは表面だけ見れば正しいのであろう。俺が言っているのは、長い人の歴史の中における、戦が持つ本質的な意味合いのことだ」
 辛毗が考える顔をした。しかし何も答えは出てこないようだった。
「この世の者共は、大半が阿呆だ。無教養であり、欲望と不安だけで動く者たちのことを言っている。所謂、下賤と呼ばれている者たちのことだ。国を支配する者は、適切にこのような者らを処理しなければならん。何故ならば、下賤の者が国を支配するようなことがあれば、その国は滅んでしまうからな。漢という国は、そのようにして滅んだ」
 辛毗は口を一文字にし、神妙な顔をして聞いている。このように言う司馬懿に批判的なところもあるのかもしれない。それでも、司馬懿は構わず続けた。
「国を守る兵士として従軍してきたにも関わらず、俺が軍市を与えれば、己の戦いの使命も忘れて、奴らは遊びに耽った。蜀軍により淘汰された三万とは、そのような者たちのことだ。勝ちが決まった戦の中で、俺は奴らの処理を行った。我らの勝ちは、より最上に近いものへと近付いているのだ。そのことを、心の中に刻み付けておけ」
「わ、わかりました」
 そう言う辛毗は、やはり困惑したような顔をしていた。
「よろしい。わかったら、実務だ。蜀軍はこの瀧関を攻める部隊と、北を回ってくる部隊とに分かれてくるだろうと予測される」
 司馬懿は卓の地図を指でなぞりながら言った。辛毗も気を取り直したようにして、そちらに目をやった。
「街亭方面に斥候を多めに放っておけ。裏に回られ退路を断たれ、ここが挟み撃ちに遭うことだけは避けなければならん」
 辛毗は返事をし、逃げるようにして部屋から出て行った。司馬懿は椅子の上で大きく息をついた。少し喋り過ぎたかもしれない。喋り過ぎたのは、自分の中で平静さが失われつつあるからなのか。
 どのように言い繕おうが、やはり三万を失ったのは、魏の朝廷内では負けと見なされるだろう。辛毗には三万を処理したのだと言ったが、それは事後の結果からそう言っているのであって、自分が意図的にそれを狙ったというわけではないのだ。天水周辺に布いたあの陣は、盤石であると確信していた。
 それでも長安という堅城があれば、この戦に負けることなどないだろう。しかし自分が描いていた勝ちから、現実は徐々に遠ざかり始めている。勝てると思っていた戦に負けるのは、恐らくこういう時なのだろう。気を抜くことはできなかった。
 時が経つにつれ、黒蜘蛛の手の者から情報が入るようになってきた。八万の魏軍を撃破した蜀軍の残党狩りは執拗を極め、瀧関に五万は入るだろうと思っていたが、実際に戻ったのは四万五千であった。やはり、想定していたことと現実に狂いが出始めているとしか思えない。
 焦ることはない。司馬懿は自分に言い聞かせた。最終的に、長安に三万の兵力を入れることができればこちらの勝ちなのだ。
 そして情報の中の一つに、驚くべきものがあった。張郃軍が蜀軍の伏兵を切り抜け、追撃から逃れながらも東に向かってきているというものだった。
 蜀軍が木門の兵糧庫に罠を張っていたということは、黒蜘蛛の調べにより知っていた。そこにあえて張郃軍を送り込んだのは、軍司令官の地位を脅かす張郃の存在を消してしまいたかったからだ。司馬懿は、複雑な思いを抱かざるを得なかった。
 しかしこうなれば、張郃軍でもなんでも利用しない手はない。張郃軍からは、瀧関の近くに伏せるので、やってきた蜀軍を挟撃しようと申し合わせてきた。
 司馬懿はそれを承諾した。断ることなどできないのだ。木門襲撃に反対する張郃に無理を言って死地に送り込んだのは、自分なのだ。
 そして機が巡ってくれば、この地で張郃を葬ってやればいい。
 司馬懿は地図を前にして、張郃騎馬隊のいる位置をそこに印した。


6-3
 寒空に乾いた赤黒い焚火の木片が、ぱちりと音を立てて弾けた。勝とうが負けようが、戦の星空の下では、焚火は常に同じである。
 魏軍の陣を破り、天水一帯を制圧することに成功した。魏延が敵の弱点を見抜いたのがそのきっかけとなったのだった。張郃軍を破った王平が主戦場に駆けつけた時にはもう、蜀軍による掃討戦が始まっていた。これで魏軍はかなり東へと退いたようだ。
 焚火を見つめていた王平のところへ、劉敏がやってきた。
「勝ち戦だというのに、あまり嬉しそうではありませんな、王平殿」
 劉敏がそう言いながら、焚火の近くに座った。
「戦はまだ終わっていない。浮かれているわけにはいかんさ」
「張郃を討ち取ったのは、お見事でした。丞相と幕僚の方々は大層喜んでいましたよ。この戦の第一戦功は、王平殿であるとも」
「そう言っていたのは誰か当ててやろうか。楊儀殿だろう。この戦の第一戦功は、魏の陣を破った魏延殿だ。楊儀殿にはそれが面白くないのだろう。あの二人は仲が悪いからな」
 劉敏が、見透かされたのを恥じるように苦笑した。
「俺は冗談で言っているのではないぞ、劉敏。どちらが第一戦功かという議論が加熱すれば、軍の中に不協和が生まれる。俺と魏延殿との不協和だ。その不協和は、そのまま軍の弱体化へと繋がるのだ。この王平は、戦功第一は魏延殿であると思っていると、お前にはそれを理解しておいてもらわねば困る」
「そこまでお考えでしたか。次に丞相に会う時には、そのように伝えておきましょう」
 王平はそれに頷いた。
「木門に残してきた杜棋と蔣斌はどうなった」
 張郃戦後、諸葛亮からすぐに主戦場に呼び出された王平は、木門での後処理を劉敏に任せていた。
「杜棋は、腕と腹の骨を数本折っていますが、命に別状はありません。時が経てば回復するでしょう。しかし蔣斌の方は少々厄介なことになりました。幸い大きな怪我はなかったのですが、心に傷を負ったようです。あの時のことを思い出すと、全身が瘧の様に震えるのです。もう、軍人としては使い物にならないかもしれませんな。だから私は、あれを連れてくるのには反対したというのに」
「そうか。二人とも無事だったのなら、とりあえず良しということにしておこう。蔣斌のことは俺がなんとかしてやる。あいつを戦場に連れてきたのは、俺にも責任があるのだからな」
「私はそのような意味で言ったのではありませんよ。あれをあんな目に遭わせてしまったのは、私の責任です。王平殿には、目の前の戦に専念してもらわねば」
「わかっている」
 張郃が奇襲をかけてきた時、杜棋の陣が第一の犠牲となった。蔣斌はそこに伝令として赴いていたのだった。張郃軍に踏みつぶされた杜棋の小隊は、散々のものだった。兵の首や腕が飛び、辺りに血の海ができた。初陣であんなものを目の当たりにしてしまえば、心に傷を負うのも仕方がないだろう。あの猛攻を受けて死ななかっただけいい。蔣斌が死んでいれば、蔣琬に会わせる顔がなかった。
「丞相は、今後のことについて何と言っていた」
「魏軍は今回の一戦で、少なくとも二万を失いました。そして瀧関まで退き、体制を立て直すものだろうと仰っていました」
 焚火に照らされた地面に、劉敏が木の枝で絵を描きながら説明した。
「蜀軍は二手に分かれ、東進します。二手に分かれるのは実は見せかけで、北側を進む軍は街亭の辺りで南へ向かい、合流した八万の全軍で瀧関を攻撃します。目的は瀧関を抜くことではありません。ここで一兵でも多くの魏兵を倒すのです。長安に籠らせる兵を一万程に抑えることができれば、蜀軍の勝ちです」
「少なくとも二万は減らしたと言っていたな。ならあと五万は減らさなければならんのか。難儀な戦になりそうだな」
「勢いは我が軍にあります。また一つ、丞相から秘計を授けられました」
 劉敏がにやりとしながら言った。
「ほう、聞かせてみろ」
「敵の司令官司馬懿に、張郃は生きていると信じ込ませるのです。瀧関の近くに張郃軍が伏せていると思わせて、魏軍を瀧関から引き出し野戦に持ち込みます。数で勝る蜀軍は、魏軍を散々に打ち破ることができるでしょう。その張郃軍に偽装するのは、王平軍騎馬隊です」
「面白い。丞相は俺に張郃になれと言っているか。上手くいけば二万は減らせるな」
「三万です、王平殿。そうすれば、魏軍は三万以下にまで減ります。そして瀧関から魏軍を追撃し、一万以下にまで減らそうというのが丞相のお考えです」
「大軍同士で対峙している時はどうなることやらと思ったが、蜀軍が勝てる見込みは出てきたようだな。進発は明早朝ということでいいか」
「はい。張郃軍となる王平殿の騎馬隊に、先ず進発してもらいます。本隊の歩兵たちには明日丸一日、魏軍の残した軍市で遊ばせるようです」
「遊ばせるだと。俺の前では、略奪だとはっきり言えばいい」
「まあ、そうなんですが」
 長らく陣に籠っていたのだ。兵にはこういった息抜きも必要であった。それが良いとか悪いとか言うつもりはない。戦とは、そういうものなのだ。兵に略奪を許そうが、丞相にはしっかりと兵を統率してもらい、計画通りに作戦を遂行してもらえればそれでいい。
 三年前、王双をこの手で斬った時、王双は長安にいる自分の女には手を出さないでくれと言っていた。そのことは忘れてはいない。魏軍を撃破し長安に入ることがあれば、その約束だけは守らなければならない。
 闇夜の中、王平軍に輜重が運ばれてきた。
「なんだあれは」
「張郃軍から奪った具足と軍旗です。王平軍騎馬隊には、これで偽装してもらいます。夜中による運び込みは、機密のためです」
「敵だった将の具足を身に着けるのか。あまり気持ちの良いものではないな」
「そう言わずに」
 運ばれてきた張郃の具足は、綺麗なものではなく、あらゆる所が傷つき、繕い直されていた。張郃が前線で戦い続けた勇将であった証だ。後方でふんぞり返っているだけの将の具足ほど、綺麗なものである。
 王平はその具足を手に取り、しばらく目を瞑った。具足が示している通り、張郃は優れた将であった。洛陽で王双と共に山岳部隊を育てていた時、初めて負けの味を教えてくれたのが、張郃であった。あの経験は、自分にとって決して小さなものではなかった。まさかこの将を、自分の手で討ち取ることがあるなど、考えたこともなかった。
「どうされましたか、王平殿」
「昔のことを考えていた。俺がここまで軍人として生きてこられたのは、この人のお蔭だったという気がする。俺が騎馬隊を動かす時、常に意識していたのがこの人だった」
「定軍山での戦の時は、魏軍での上官だったんですよね」
「そうだ。私利の無い人であった。こういう人が散っていくのも、戦の持つ一つの空しさであるな」
「王平殿」
 虚空の闇を見つめながら言う王平に、劉敏が心配そうな目を向けてきた。
「心配するな、劉敏。情に流されるほど若くはない。ただこの具足は大事に保管しておいてくれないか。似たようなものなら、他に探せばあるだろう」
「そういうことなら、わかりました」
 王平の周りに、小隊長格の者が一人、二人と集まってきた。明日からの作戦を伝えるためだ。
 劉敏が小隊長を纏めて作戦が伝えられ、それぞれの小隊に張郃軍の具足が配られ始めた。王平は張郃の具足を手に、自分の幕舎へと帰った。王平軍の陣は静まりかえっている。大詰めを迎えた戦を前にして、この軍は最上の状態にあると言っていい。
 張郃の具足を椅子の上に座らせるようにして置いた。それを前にした王平の心は、静かな軍中にあって、様々なもののために思い昂ぶった。

 張の旗を掲げ馬を走らせた。通り過ぎていく集落には、戦の気配を察して逃げ出したのか、すでに魏軍の徴発に遭った後なのか、人の姿が見えない。蜀軍に残していくものは何もないという、司馬懿の戦略なのかもしれない。
 三千の騎馬で丸一日駆け通し、予定していた瀧関近くの潜伏場所に辿り着いた。王平は気の利く者を選んで張郃軍が来着したという偽情報を持たせた瀧関に向かわせ、自身は数騎を連れて物見にでかけた。
 三千を伏せた林を抜けて緩やかな丘の稜線に立ち、瀧関前に陣取る敵を見渡した。ここに五万程の魏軍がいるはずである。ここから見て取れる魏軍は二万といったところか。五万の内の二万では少ない。残りは近くに埋伏しているのか、それとも諸葛亮が北に出した陽動部隊に数を割いているのか。それは自分の考えるべきことではない。自分がやるべきことは、付近に埋伏がないか調べ上げ、後方から続いてくる諸葛亮の本隊に報せることである。思えば、自分で考えるということが、昔と比べてずいぶんと減ったという気がする。それが悪いと思うわけではない。魏との戦が続き、蜀軍の一武将として働き続け、自分の領分以外のことに頭を巡らせることは時として重大な過ちを呼び寄せるのだということを学んだのだ。張郃に大敗を喫した馬謖は、自分の領分以外のことに手を出そうとし、大きな過ちを犯していて。ここでの自分の領分とは、魏を倒すという大きなものでなく、目の前の二万をどう打ち破るかということだ。それは、見誤ってはならないことである。
 王平は丘を下り、部下の待つ林へと戻った。そして兵に命じて焚火を熾させ、飯の支度をさせた。陣の方々から煙が昇り始める。司馬懿は瀧関からこれを見て、あそこに張郃軍がいると確信し安堵することだろう。
 王平が陣内を見廻っていると、諸葛亮につけられた句扶が姿を現した。格好は同じく張郃軍のもので、左目の眼帯では相変わらず蚩尤が不気味に笑っている。もう、見慣れたものであった。
「兜を深く被って下さい。黒蜘蛛がここを見ている気配があります」
 王平は頷き、兜を深く被り直した。
「魏延殿の先鋒隊が、明日には到着するはずだ。それに合わせてこの騎馬隊はここを離れ、敵の側面を突く。それまでに黒蜘蛛を炙り出しておけ」
「五十の部下を辺りに散らせております。先の魏軍の潰走で、黒蜘蛛の統制にも乱れが出ているようです。一匹残らず捕まえてみせますよ」
 そう言い、句扶は兵の中に紛れていった。この作戦の要は、敵に正体を見破られることなく、奇襲を成功させることだ。それは上手くいきつつある。
 日が落ち始めた頃に、瀧関に向かわせていた部下が戻ってきた。司馬懿からの使者も同行しているのだという。王平はそれには会わず、句扶を呼んだ。
「黒蜘蛛の駆逐を始めてくれ。それと、司馬懿が俺に使者を寄越してきた。ここに本当に張郃軍がいるのかどうか確かめに来たのだろう。あいつらに、瀧関の兵糧庫の詳しい場所を聞き出すのだ」
「帰す必要はないということですね」
「ない。聞き出したら、丞相に早馬だ」
「御意」
 すぐに、司馬懿からの使者が何かを喚き始めるのが聞こえてきた。しかしそれはすぐに消えた。
 聞き出すとはつまり、体に聞けということだった。昔はこういうことに些か抵抗があったが、今となってはこういうことに対する後ろめたさもない。殺すか殺されるかの戦なのだ。
 しばらく時が経ち、句扶が拷問と、周囲の黒蜘蛛の洗い出しが終わったことを告げてきた。王平は瀧関の兵糧庫の位置を頭に入れ、兵をまとめてその場を発した。
 自ら確認した敵の布陣は頭に入っている。それを大きく迂回するように馬を走らせ、敵の側面を突ける所で隊を止めた。かなり大きく迂回したので、既に夜は明けようとしている。
「魏延殿の先鋒隊が、ここから十里に近づいています」
 斥候が報せてきた。魏延の率いる精鋭だけあり、さすがに早い。これなら空が白くなる前に攻撃を始められそうだ。敵の陣容を報せる早馬も、魏延を通じて諸葛亮の本隊に向かっているはずである。あとの自分の仕事は、目の前の敵を撃破することだ。
 魏延の隊が目に見えるところにまで辿り着き、布陣を始めた。それはまるで一つの生き物のように広がり、しかしまとまりを失うことなく、見事な鶴翼を形作っていった。
 王平がそれを関心しながら眺めていると、魏延からの伝令がやってきた。
「申し上げます。早く敵に突っ込んで陣を崩せ、とのことです」
「なんだと。他には何も言ってはいなかったか」
「それだけです」
 士気も兵力もこちらが勝っているうえ、敵兵は関から出てきているのだ。魏延は何をそんなに焦っているのか。
「わかった。魏延殿には了解したと伝えておいてくれ」
 それに頷いた伝令が駆け戻っていった。
 王平は魏延に対して不快感を覚えたが、王平は兵をまとめて出撃する準備を整えた。勝ち戦を前にして功を焦っているのだろうか。ここは周到に準備をし、長安の攻城戦に備えて兵の被害をできるだけ抑えておくべきではないのか。
 王平は片手を上げ、三千の騎馬の先頭で駆け始めた。
 まだうっすらとした朝日に浮かんだ敵陣が見えてきた。昨日の陣容とは少し違い、自分が向かう先とは反対側の構えが厚くなっている。移動する前の自分の軍に備えているのだということはすぐにわかった。これなら容易く崩せる。
 敵陣が近づいてくる。敵兵がこちらに気付いたが、張郃軍の旗と具足を見て歓声を上げ始めた。やはり魏軍の中では、張郃の存在は大きかったのだろう。しかし残念ながら、俺は張郃ではない。
 敵兵の表情がわかるくらいまで近づいたところで、王平は駆け足だった馬を疾駆させた。魏軍兵士の顔がさっと青ざめるのがわかった。
 敵陣の一番脆そうなところを目がけて突っ込んだ。歓声が一気に悲鳴に変わり、辺りを包み始めた。敵を斬りつつ陣を完全に断ち割ったところで、後方から魏延の先鋒隊が鶴翼のまま走りこんできた。混乱した二万の魏軍が絵に描いた様に包み込まれていく。
 こうなれば、騎馬隊の役目は終わりである。あとは歩兵に任せておけばいい。
 王平は小高い丘に登り、蜀軍の攻勢を見守った。どこかに加勢がいるか思ったが、その必要はないほどに蜀軍は魏軍を押しに押している。そしてすぐに魏軍の潰走が始まった。
 それを眺めていた王平のところに、一際大きな黒い馬に乗った魏延がやってきた。
「こんなところで何をやっている、王平。早く瀧関の兵糧庫を制圧するんだ」
「突然何を。敵の兵糧庫は、関の向こう側にあるのですぞ。先ずはあの関を抜かねば」
「間道を探せばいいだけの話だ。とにかく急げ。俺が先導する」
「危険です、魏延殿。魏軍はどこに兵を伏せているかわかりません。それに、あの歩兵の指揮はどうするのです」
「劉敏と趙統も来ている。あとはあいつらに任せておけばいい。文句を並べていないで俺についてこい」
 それに言い返す間もなく魏延が駆けだしたので、王平もやむなく部下と共にそれに続いた。
 関の脇に連なる山に入り、馬がやっと通れる程の道なき道を進んだ。途中で足を踏み外して落馬する者も出始めたが、魏延はそれに脇目も振らずに進んだ。
 かなりの時をかけて山を抜けた時には、既に日は中天を越えていた。
 情報通りの所に魏軍の兵糧庫はあった。しかしそこには既に火がかけられていて、油まで注がれているのか、火は轟々と天に向かって燃え盛っていた。それを前にして、魏延が茫然自失としている。
「どういうことですか、魏延殿。このような強行軍に、どのような意味があったというのですか」
「どうもこうもあるか。戦は終わりだ。漢中に帰る支度をしろ、王平」
 魏延はそれだけ言い、ぷいとそっぽを向いて行ってしまった。
 瀧関は蜀軍によって既に制圧されていた。王平は手勢を率いて瀧関に入った。こんなことなら、わざわざ間道を縫ってまでの強行軍などしなくてよかったのだ。
 王平は城壁から火が燃え盛る兵糧庫をじっと見つめている劉敏を見つけた。その劉敏は、何故か悲痛な面持ちをして佇んでいる。魏延にしろ劉敏にしろ、何か様子がおかしい。
「おい、劉敏。勝ったというのに、どうしてそんな顔をしている」
 声をかけられた劉敏がはっとして王平に顔を向けた。そして、何か言い難そうにしている。
「魏延殿が、戦は終わったと言っていた。何があったちいうのだ。まさか、丞相が暗殺されたとでも言うのではあるまいな」
「違います。蜀軍には、もう兵糧がないのです。我々は、これ以上先に進むことができません」
 歯を食い縛る劉敏の目から涙が零れ、左頬の大きな傷跡を伝って落ちた。
「どういうことだ。魏軍の二万を散らしたのだぞ。それに長安まではもう一息ではないか」
「王平殿が張郃軍に偽装し出発された後に、漢中の李厳殿から書簡が届けられたのです。蜀の民が窮乏しているため、兵糧は送らないと。瀧関に蓄えられた兵糧を奪えればまだ望みはありましたが、それも断たれてしまいました」
 王平はしばらくの間、劉敏が何を言っているのかわからなかった。戦に勝ち、いよいよ長安に手が届こうかというのに、後方の味方からそれを阻止されることなどあるのか。
「馬鹿なことを言うな。そんなことがあってなるものか」
 王平は思わず大声を発した。魏延が焦っていたのは、つまりこういうことだったのか。天水に続き瀧関でも快勝し、魏軍の兵力を大幅に減らした。蜀軍は勝っているのだ。しかし長安を攻略するまで、それは本当の勝ちとは言えない。その本当の勝ちは、もうそこににまできているのだ。
「ここまで来て撤退はないだろう。何か手はないのか。諦めることで、考えることを止めるな、劉敏。考えろ。何か、何かまだ手は残されているはずだ」
「羌族に使者を送り、羊が手に入らないかと丞相は模索しておられます。しかし羌には既に魏の手が入っているようで、あまり期待はできません。それに羊が手に入ったとしても、八万の兵力では何日ももちません」
「俺が長安に走ってやる。あそこの兵糧庫を押さえれば、まだ戦えるではないか。すぐに早馬を出して丞相から許可をもらってこい」
「なりません。長安の兵糧は、城壁の中ではありませんか。王平殿の騎馬隊だけで、どうしようというのですか」
「がたがたと言い訳をぬかすな」
 王平は拳を振り上げ、劉敏の左頬に叩き込んだ。
「ここまでどれほどの犠牲が出たと思っている。今回の戦だけではない。今までの全ての戦は、この時のためにあったのではないのか」
「ここまでなのです、王平殿。私を殴ることで気が済むなら、いくらでも殴って下さい」
 殴られた劉敏は地に尻をつけたまま、赤い、しかし済んだ目で、怒りの色もなく王平を見つめていた。王平はそれから目を逸らし、ただ唇を噛んだ。
 漢中から手勢を率い、ここまでやってきたのは何のためだったのか。張郃を討ち取り、その軍の具足を身に着け戦に向かっていた自分は、まるで道化のようではないか。自分だけではない。魏延も、句扶も、劉敏も、身を粉にして強大な魏に立ち向かったのは、一体何のためだったのか。たった一人の愚かな判断が、全てを無に帰してしまった。こんなことがあっていいものなのか。
 王平は鼻の奥が熱くなるのを感じ、目を瞑った。これを悔しいと言わずして何と言おうか。自分たちは戦に負けて撤退するのではなく、味方の愚かな判断によって撤退するのだ。
「撤退だ、劉敏。漢中に帰るぞ」
 王平は吐き捨てるようにして言った。劉敏は立ち上がり、軍人らしい大きな声で返事をした。
 自分だけではないのだ。他の武官らも、兵らも、そして丞相も、そうなのだ。王平は湧き上がる怒りを胸の中で抑え、自分のそう言い聞かせた。


6-4
 蜀軍が引き揚げて行く。瀧関からさらに東へ二百里の陳倉まで退いた司馬懿は、その報を聞いて耳を疑った。
 瀧関にいた時に入ってきた張郃軍来着の報は、蜀軍の策略であった。瀧関に布陣させた二万の兵は、その張郃軍に偽装した騎馬隊に崩され、後続の蜀軍に殲滅された。だからこそ蜀軍撤退の報も、こちらを油断させるための謀略であろうと疑うべきだった。
 八万いた魏軍は、三万足らずにまで減っていた。比べて蜀軍は、天水で睨み合っていた時の八万からほとんど数を減らしていない。
 司馬懿は陳倉にまで来て、初めて戦が怖いと感じ始めていた。同数の八万であれば、最悪長安まで攻め込まれたとしても、蜀軍は半数にまで減っているだろうと予測していた。しかし瀧関を抜いた蜀軍は、ほぼ無傷のままなのだ。これでは長安を落とされてしまう。中央から援軍を頼み防衛に成功したとしても、自分の失脚は免れないだろう。それはただ単に魏軍が勝つというだけのことで、自分が勝つということにはならない。
 司馬懿は陳倉で、この状況をどうにか打破できないか考え続けた。敵は自軍の倍以上の八万である。こちらに迫りくる蜀軍の後方を乱し、兵站線を切るのが一番効果的であるだろうとは思うが、諸葛亮はそれに対する警戒を怠らないはずだ。その裏をどうかくべきか、司馬懿は考えに考え続けた。
 しかしそれは杞憂であることがわかった。蜀軍は本当に撤退し始めていたのだ。撤退したのは兵糧切れであるということも、黒蜘蛛の調べによりわかった。司馬懿はその報に接した時、陳倉の居室で一人高笑いに笑った。所詮は蜀軍も、戦もまともにできない愚か者の集まりだったのだ。それに対して本気で悩んでいた自分が馬鹿のように思えてきた。
 蜀軍を退けたからといって、全ての戦いが終わったわけではない。これからは魏の中での内部争いに身を置くことになるのだ。兵糧切れにより蜀軍は去ったが、自分が率いた魏軍が蜀軍に負けていたと中央に認識されるわけにはいかない。
 司馬懿は終戦処理の手始めに、魏軍の一武将である魏平を呼びつけた。
 やってきた魏平は、明らかに司馬懿を敵対視していた。
「貴様が何故ここに呼ばれたか、わかるか」
 陳倉城の大広間である。周りには司馬懿の側近が立ち並び、その中で魏平が一人孤立しているという格好だった。
「わかりません。私は魏軍の将校として、蜀軍と全力で戦いました。それなのにこれではまるで、私が犯罪人のようではありませんか」
 魏平は司馬懿を睨み付けながら言った。何を言われるのかわかっているのだろう。しかしこうした男を殺さなければならないのも、戦だった。
「天水での大潰走は、貴様の陣が抜かれたのがきっかけであった。それで我が軍は瀧関まで退くこととなり、兵力も半数以下にまで減ってしまった。戦に勝ちはしたが、私はこの軍の司令官として、この罪を見過ごすわけにはいかない」
 しんと静まり返った大広間に、司馬懿の声が響き渡った。魏平はそれを聞きながら、苦々しい顔つきで司馬懿を睨み続けている。
「あの陣は、張郃殿が後方にいてくれたから、蜀軍が攻めてこられなかったのです。その張郃殿を動かしたのは司令官ではありませんか。そしてその後に、何の手も打ってくれはしなかった」
「私は貴様のことを信頼していた。なんせ貴様は、普段から意気鷹揚に大言を撒き散らしていたのだからな。それが実戦となれば、この様だ。私は心底失望したよ」
 司馬懿は椅子の上で足を組み、魏平を見下ろすようにして言った。ここに立ち並ぶ全員に、魏軍の敗退はこの男にあったと印象付けなければならない。この中に、中央から内密に送り込まれた軍監が紛れていないとは断言できないからだ。いや、それは必ずこの中にいるだろう。その者は逐一、戦の成り行きを中央に伝達しているはずだ。
「魏軍が陳倉まで退いたのは、私の責任だと司令官はお考えですか」
「そんなことは言っていない。責任はあくまで司令官である私にある。貴様を信頼し、重要な陣地を任せてしまったという責任だ。その責任を、私は司令官として取らねばならぬ」
 司馬懿と魏平だけの声が響く大広間の中に、痛いくらいの視線を感じる。次なる戦いは、既に始まっているのだ。
「それでは何故、私はここに呼ばれたのですか」
「貴様がこの敗退をどう考えているか、確認しておきたかった。自分の陣を抜かれたことを深く悔いていれば、平民に落とすことで手打ちにしておこうと思っていたのだが、何も悔いてはいないのだということがわかった。貴様をこれ以上生かしておくことはできない。首を落とすぞ」
 それを聞いた魏平が、憤怒で顔を赤くし始めた。
「ふざけるな。張郃殿を死地に追い込み、軍市によって俺の部下を腑抜けにさせたのはどこのどいつだ。あんなことで敵に勝てるほど、戦は甘くないのだ。蜀軍に負けたのはお前のせいだ。それを、全て俺に押し付けようというのか」
 顔を赤くした魏平が叫び、司馬懿に飛びかかろうとした。しかしすぐに立ち並ぶ側近の間から黒蜘蛛の数人が飛び出し、魏平は取り押さえられた。
「無様なものだ、魏平。我が軍にここまで損害を出させ、それを咎められたら狂人となるか。やはり貴様を武将として使っていた私の罪は重い。故に貴様を処刑する」
「俺は全力で戦った。なのに、こんな侮辱があるか。この腐れ文官め」
 魏平を取り押さえる黒蜘蛛が、その口に布を捻じ込んだ。まだ何かを言おうとして暴れている魏平を尻目に立ち上がり、そこに並んでいた辛毗に目で合図をして大広間から出た。
「中央に戦捷報告だ、辛毗。魏軍は後退はしたが、それを敗退だとは思わせるな。蜀軍を自領に誘い込むための戦略的後退であったと記せ。そしてその作戦を取らなければならなくなったのは、魏平の怠慢があったからだとも加えておけ」
「わかりました」
 後からついてきた辛毗が、頷きながら答えた。
「魏平の首を刎ね、その首も共に送るのだ。兵力を減らしたことは、しつこい程に詫びておけ。そして兵力を減らしながらも、魏軍はしっかりと目標を達成したのだということも、強調しておくのだ」
「陛下は蜀軍の侵攻を、心から危惧されておられました。この報に、陛下はきっとお喜びになることでしょう」
 大広間から喧噪さが伝わってきた。処刑のために連行されていく魏平が、最後のあがきをしているのだろう。乱世の中では、力の無い者、賢明さに欠ける者から消えていくのだ。そして治世が訪れれば、優秀な者が生き残り、次の時代を作っていく。そしてまた愚かな者が増えてくれば、乱世だ。この国の歴史とは、そうして積み重ねられてきた。
 喧噪さが遠ざかっていく。愚かな者がまた一人、この世から遠ざかっていくのだと司馬懿は感じていた。自分が、あちら側の人間になるわけにはいかない。
「私は運がいい。戦では、私は確実に諸葛亮に負けていた。未だに勝ったという実感を得られぬほどだ。人は、こういうものを天佑と呼ぶのだろうな」
「天水で、司令官は躊躇なく自軍の莫大な兵糧を焼きました。瀧関でもです。それをやってのけた司令官を、私は決して負けたとは思いません」
 辛毗が言った。その顔に、媚などはない。こういう部下に恵まれるのも、自分の運が強い証なのかもしれない。
「負けだよ、辛毗。兵糧を焼いたのは、蜀軍に少しでも渡したくないと思ったからだ。それで蜀軍が撤退しようなど、誰が思うものか。蜀軍に兵糧があれば、寡兵で長安を護らなければならなかった。そして、長安を奪われていた」
「しかし、蜀軍は撤退しました。これはやはり、我が軍の勝ちです」
「もういい。早く中央への報告書を書いてしまえ」
 司馬懿は手を振って自分の居室に戻った。着替えもせずに寝台に横たわり、突っ伏した。勝ちはした。しかし、こんな勝ちで良いはずがない。蜀軍との戦いはこれからも続き、魏内での戦いも続く。こんな勝ちが、何度も続くはずはないのだ。頼るべきものは、運ではなく、力であるべきだった。
 しばらく突っ伏し、司馬懿は自分が泣いていることに気付いた。自分の思うように戦を進めることができなかった。それが、ただ悔しい。自分の力で蜀軍を撤退させてやりたかった。それができなかったのは、ただただ自分が非力であったからではないのか。無能な為政者は、この世に山ほどいる。その山ほどいる無能者たちと、自分にどんな違いがあるというのか。
 戸が叩かれ、魏平の処刑が終わったという報告がきた。司馬懿は首を確認し、すぐにそれを塩漬けにするよう命じただけで、また居室に戻って一人になった。
 蜀軍が兵糧切れを起こしていなければ、自分が魏平のようになっていたかもしれない。これをどうして勝ちだと喜ぶことができようか。
 司馬懿はまた寝台の上に転がり、処刑される直前の心境とはどのようなものか、ふと考えてみた。

 まだ微かに蝉が鳴く漢中に戻ってきた。八万の蜀軍はそこで解散し、王平は手勢の二万と共に楽城に入った。
 北の戦場とは違い、ここは長閑なものであった。蝉の他にも鳥が鳴き、地には牛馬を曳かせて農耕に励む人の営みがあった。何のために戦をしているのか分からなくなる程の、静謐さである。
 それでも楽城の執務室では、劉敏がせっせと軍政に関する書類を作っていた。魏との戦いはまだ終わったわけではない。これからまた兵馬を鍛え、穀物の増産に努めなければならない。戦に負けたとはいえ、諸葛亮が漢朝の復興を諦めたわけではないのだ。
 王平は楽城内にある療養所に足を運んだ。張郃戦で怪我を負った杜棋が、寝台に横たわって外を眺めていた。
「具合はどうだ、杜棋」
「あっ、将軍」
 王平に気付いた杜棋が寝台から飛び起きたが、まだ傷が痛むのか、顔を歪めて呻き声を漏らした。
「楽にしておけ。まだ骨が完全につながっていないと医者から聞いたぞ」
「こんな有様で失礼します。もう、一人で歩けるようにはなったのですが」
 王平は土産に持ってきた酒の筒を出した。
「飲め。少しくらいなら、傷に響くこともないだろう」
 杜棋は器を両手で包んで頭を下げ、王平からの酌を受けた。
「張郃を討ち取った将軍の御活躍、見事で御座いました。これで俺も怪我をした甲斐があるというものです」
「戦自体には負けたのだ。長安に辿り着けもせず、漢中に戻ってきて、そんなものは何の自慢にもならん」
 張郃を討ち取ったことで、蜀軍内での王平の評価は上がっていた。それに悪い気がするはずもないが、時に煩わしく感じた。長安を取れなかったから、その替わりに王平を褒めているという感じがしてしまうのだ。
 今回の戦は、長安を落として初めて勝ちと言えた。いくら実力のある張郃を討ち取ったと言っても、それは魏軍の一武将を倒したということに過ぎない。
「蔣斌はどうしている、大きな怪我はしなかったが、心に傷を負ったと聞いている」
「味方が一方的に殺されたのが、かなり応えているようです。木門から漢中に帰る時もずっと上の空で、ほとんど口をきいてくれませんでした」
「あの若さで、しかも初陣の相手が張郃だった。俺はあいつに酷なことをさせてしまったのかもしれない」
「今は、黄襲殿の飯屋にいます。ここにいたら、あいつは馬の嘶きを聞いただけでも全身を震わせてしまうのですよ」
「黄襲殿か。あの人なら兵の気持ちもわかるし、それはいいかもな。俺の息子も、あの人には世話になった」
「蔣斌はもう、軍人としたは駄目かもしれません。初陣で、それも唐突な敵襲で、何の心の準備もないのに、目の前で味方が腸を零すところを見てしまったのです。あれでどうにかならない方がおかしいですよ」
「一度、会いに行ってみるかな。お前も一緒に来い。歩けるのなら、駆け足でなければ馬にも乗れるだろう」
「自分も心配していたところです。お邪魔でなければ、是非」
 次の日、王平は執務室で書類と格闘する劉敏に一言告げ、杜棋と共に楽城を出た。馬を駆けさせると杜棋の腹の骨がまだ痛むらしく、二人はのんびりと馬を歩ませた。
「わかりましたと、一言だけ膝を震わせながら言っていたぞ。劉敏は蔣斌には厳しいが、あれはあれで気になっているのだろう」
「良い叔父貴だと思います。厳しくはありますが、蔣斌にとって意味のないことは言っていないと思います。そのとばっちりが俺のところに来るのは、勘弁願いたいものなのですが」
 そんな話をしながら、日が落ち始めた頃に漢中の街に到着した。
「黄襲殿、おられるか」
黄襲の飯屋に訪いを入れると、王平の声を聞いた黄襲が店の中から飛び出してきた。
「王平殿、御無事で何よりです。今回の戦も大変だったようですな」
「もう少しで長安を落とせてやれるところだった。魏の奴らは、あきれるくらいに悪運が強いようだ」
「兵糧ばかりで飽きていることでしょう。今から料理を出しますんで、ゆっくりとしていってください」
 言って黄襲は店の看板を片付け始めた。どうやら今日は自分らのために見せを閉めるらしい。王平はそれに遠慮をしたが、黄襲は構わないからと言って厨房の中に入っていった。
 いつもの個室でしばらく杜棋とくつろいでいると、二階から誰かが駆けてくる音がし、蔣斌が入ってきた。
「この度の戦は、大義で御座いました」
 さすがは蔣琬の子だけあり、蔣斌は折り目正しく王平らに挨拶をした。
 顔を上げた蔣斌の目の下は、ひどく黒ずんでいた。あまり眠っていないのかもしれない、と王平は思った。
「蔣斌、あの戦場でよく生き残った。おかげで俺は、張郃を討ち取ることができた」
「私は、あの戦場で戦うこともせず、ただ怯えているだけでした」
 苦笑する蔣斌の後ろから、まだ幼い子がひょっこりと顔を出した。
「その子は誰だ」
「句扶殿の子の、句安です。こっちに戻ってきてから、よく一緒に遊んでいるんですよ」
「何、句扶の子だと」
 王平は立ち上がり、まだ小さな句安の体を抱き上げた。なるほど、よく見ればどことなく句扶の面影があるかもしれない。
 突然抱き上げられて驚いたのか、句安が泣き始めたので、王平も驚いて句安の小さな体を降ろした。
「これ、句安。蚩尤軍の頭の息子ともあろう者が、こんなことで泣いてはいかん」
 蔣斌が句安を抱えると、句安はぴたりと泣くのを止めた。そして句安は蔣斌の胸に顔を埋めたまま王平の方を見ようともしなくなり、王平は閉口した。
「句安はお前に懐いているのだな」
「いつも遊んでいますからね」
「参ったな。俺はいきなり嫌われてしまったらしい」
 王平が言うと、杜棋が隣でおかしげに笑った。
「怪我はよくなりましたか、杜棋殿」
「もうほとんど治ったさ。体が頑丈なことだけが、俺の取柄だからな。お前も飯をたくさん食って体をでかくして、俺のように強くなるんだ」
「はい、そうですね」
 そう言い、蔣斌は顔を暗くさせた。頭の中では、嫌なことが思い出されているのかもしれない。
「やはりもう、戦場は嫌か」
 杜棋が聞いた。
「そんなことはないのですが」
 言って蔣斌は増々顔色を悪くさせた。初陣での衝撃が強過ぎたのだろう。杜棋が言っていたように、蔣斌はもう、軍人としては使えないかもしれない。
 男の生きる道は軍人だけではない。王平はそう言おうとしたが、口を噤んだ。そう言ってしまえば、余計に蔣斌の男の心を傷つけてしまいかねない。戦に出たがっていた蔣琬がそうだったのだ。ここは時が過ぎるのを待ち、見守り続けるのが一番なのかもしれない。
 黄襲の妻が料理を運んできた。大皿に、香辛料と一緒に焼いた羊の肉がたっぷり乗せられてある。部屋の中に大蒜の香りが立ち込め、王平らの食欲をかき立たせた。
 暗くなりかけていたその場の空気が、旨そうな料理でぱっと明るくなった。しかし杜棋が肉の骨に手をかけようとしたその時、蔣斌がいきなり口を抑えて嘔吐し始めた。
「あら、この子ったら」
 黄襲の妻が蔣斌に駆け寄った。その傍らでは、句安がその嘔吐物の臭いに顔を歪めてそれを見ていた。
 蔣斌が黄襲の妻に連れられそこから出ていき、句安もそれについて出て行った。それと入れ替わるようにして、黄襲が入ってきた。
「またやってしまいましたか。戦のことを思い出すと、気持ちが悪くなるようなのです。料理の匂いを嗅いで、我慢ができなくなったのでしょう。戦場ではよほど嫌なものを見てしまったのでしょうな」
 黄襲は蔣斌が吐き出したものを片付けながら言った。皮肉を籠めて言っているのではないのだろうが、王平にはその言葉が耳に痛かった。
「蔣斌は、そんなに酷いのですか」
 杜棋が、黄襲を手伝いながら尋ねた。
「思い出すと、たまにああやって吐いてしまうのですよ。夜もよく魘されて、あまり眠れていないようなのです」
「目の下に隈があったな」
 黄襲が頷いた。
「折角のお休みの時に、申し訳ありません」
「いや、黄襲殿の謝ることではない。これはあいつの、男としての問題だ。俺らは肉を食おうではないか」
 酒も運ばれてきた。三人で卓を囲みながら、戦の話で盛り上がった。張郃を討った時のこと、その張郃に偽装して瀧関を攻めた時のこと、そして勝手に兵糧の輸送を止めてしまった李厳のことが話題に上がった。
「李厳殿は、失脚を免れないでしょうな。下手をすれば、死罪もあり得る」
「正直言って、俺はあの人を許せん。もう少しで長安を落とせたのだ。長安を落とし、涼州を得ることができれば、貧困に喘ぐ蜀の民も救われたというものを」
 酒のせいもあり、王平は珍しく饒舌になっていた。それだけ李厳に対しては強い不満を持っているのだ。李厳があんな勝手なことをしなければ、今頃は長安の酒場でこうして酒を飲んでいたかもしれない。
「それでも、そのせいでこうやって漢中で一緒に酒を飲めることは、私にとっては嬉しいことです」
「それはいかん、黄襲殿。言ってしまえば悪いが、それは些細なことなのだ。俺は文字を読めないが、この国の歴史のことは知っている。俺らがいる今とは、その長い歴史の中の一点に過ぎない。この先もずっと続いていく、長い歴史の中の一点だ。男が戦う理由は、その長い、目には見えない不思議なものを護るためにあるべきなのだ。あの吐いていた青二才のためにも、それは守っていかなければならないものだ」
 そう言われ、黄襲が椀を一気に呷った。
「その通りです、王平殿。男は、今だけを考えていてはいけない。戦いに身を置く男なら、なおさらです。李厳殿は今しか見えていないから、あんなことをやってしまったんだ」
 黄襲も些か酔っているようだった。杜棋はそんな二人の会話を、酒を舐めるようにちびちびと飲みながら静かに聞いている。
「そして王訓のためにも、それは守っていかなければならないものですね」
 唐突に息子のことを言われ、王平は無性に気恥ずかしくなった。少し喋り過ぎたかもしれない。
 王訓のことが話に上がると、どうも気後れしてしまう。王歓のことや王双のことを、どうしても思い出してしまうからだ。こうして旨い酒と肉を喰らっていることも、何か悪いことをしているかのような気分になってしまう。
「戦は当分無いのでしょう。王訓に会いに、成都に行ってみてはどうですか」
「そうだな。考えておこう」
 それもいいかもしれない、と王平は思った。蔣琬とも会って、こうして酒を飲みたいという気もする。
 その日は黄襲の店に泊まることになった。
二階の部屋に入って寝ようとしていると、どこからか誰かがすすり泣く声が聞こえてきた。蔣斌だ。暗闇の中で、あの時の恐ろしい光景を思い出しているのだろうか。それとも自分のことが情けなくて泣いているのだろうか。王訓も、王双が死んでここに来たばかりの時は、こうして泣いていたのだろうか。そう考えると、どうにも居た堪れない気持ちになり、王平は耳を塞いでその声に背を向けた。王平が眠りに落ちるまで、その微か啜り泣きはずっと続いていた。
 夜が明け、王平が一階に降りると、蔣斌と杜棋は既に起きていて、二人で粥を啜っていた。久しぶりに杜棋と会えたのが嬉しいのか蔣斌は楽し気に話していたが、やはり目の下は黒い。
「王平殿。俺は今からこいつを鍛え直してやります。こいつ、このままじゃ本当に駄目になってしまいますよ」
 杜棋がそう言い、王平が頷いた。ここは蔣斌と仲の良い杜棋に任せておくのがいいのかもしれない。
 王平も朝飯の粥を腹に入れ、自分の部屋に戻った。外からは、二人が木剣で打ち合う声が聞こえてきた。杜棋にとっても、療養明けのいい運動になるだろう。
 今日は、句扶が訪ねてくることになっている。特に用があるということではない。しばらく戦はないし、ゆっくり酒でも飲もうということだった。
 日が大分昇ってきた頃に、句扶はやってきた。そして黄襲の妻が、酒と簡単な料理を持ってきてくれた。
「お前の子を見たぞ。抱き上げたら、いきなり泣かれて嫌われてしまったようだがな」
「そうでしたか。情けない奴め」
 そう言いながらも、句扶は珍しく笑みを顔に浮かべていた。この男もこんな父の顔をするようになったのかと、妙におかしかった。
「戦後の漢中はどうだ。相変わらず、黒蜘蛛は入り込んでいるのか」
「それ程でもないようです。兄者が張郃と戦っている時に、俺らの方でも黒蜘蛛とのぶつかり合いがあって、かなりの数を倒しました。残念ながら、郭奕は逃してしまったのですが」
「黒蜘蛛の統制に乱れがあると、瀧関でも言っていたな」
「忍びの戦いでは、こちらに分がありました。それだけに、李厳のしたことは悔やまれます」
 句扶は、自分な嫌いな者の話をする時は、その感情を隠そうとしない。李厳のことは、戦に参加した誰もが怒っているのだ。
「忍びの構成員の補充は、すぐにというわけにはいきません。兄者には言うまでもないことだとは思いますがね。今のところ、漢中に黒蜘蛛の脅威はありません」
「それを聞いて安心した。今度は蔣斌や句安が攫われたということになったらかなわんからな」
「俺の目が黒い内は、もうあんなことにはなりませんよ」
 昨年、魏軍が漢中に攻め込んできた時、王訓が黒蜘蛛に攫われた。その責任を取るため、句扶は自分の左目を抉ったのだった。その左目には、劉敏が作った蚩尤の眼帯が付けられている。
「蔣斌が、戦を怖がるようになったと聞きました」
「そうなのだ。あいつがいた部隊が、張郃騎馬隊に蹂躙された。目の前でかなり味方が殺されたらしい。何か良い考えはないかと思っていたところだ」
 句扶は窓から顔を出し、下で稽古をしている蔣斌らをちらりと見た。
「俺に考えがあります」
「ほう、どんなだ」
「しばらくの間、あいつを借りてもいいですか」
 句扶が口元に笑みを浮かべながら言った。さっきの笑みとは違い、忍びらしい悪そうな笑みだ。
 句扶が出て行き、稽古をしている二人と何か話をし、蔣斌と二人でどこかへ行ってしまった。
 どこへ行ったのだろうと思っていると、しばらくして句扶が一人で戻ってきた。
「どこへ行っていたというのだ、句扶」
「蔣斌を、妓楼に放り込んできました」
 それを聞いた王平は、思わず噴き出した。
「俺の子を産んだ女が以前に働いていた、ちゃんとした妓楼です。おかしなことにはならないと思うのですが」
「それはいいな、句扶。お前はこういうことにも知恵が働くのだな」
「男にできないことは、女に丸投げしてしまえばいい。俺はそう思いますよ。あいつには、句安が世話になっていることですし」
「女の体を抱けば、よく眠れることだろう。句扶に相談したのは正解だったな」
 一頻り酒を飲んで句扶が帰り、辺りが暗くなってきた頃に蔣斌は帰ってきた。帰ってきた蔣斌の顔を見ると、心なしか目の下の隈が薄くなっているという気がした。
「おう、蔣斌。どこに行っていたのだ」
 店の奥から杜棋がひょっこり出てきて言った。
「句扶殿に、昼寝のできる良い場所を教えてもらったんですよ」
 蔣斌と目が合い、王平は目で合図をした。それに気づいた蔣斌が、気恥ずかしそうに笑っている。
「ふうん。その昼寝ができる場所ってのは、どこなんだ」
「それは、句扶殿との秘密です」
 昨日は見られなかった笑顔で、蔣斌がそう言った。
「まあいい。なんか元気が出てきたようだし」
「杜棋殿、俺は腹が減りました」
「そうか。じゃあ黄襲殿に何かつくってもらおう。しかしお前、昨日みたいにまた吐く
じゃないだろうな」
「いえ、もう大丈夫です」
「今朝まで粥を食うのがやっとだったのに、妙な奴だな」
 そんなやりとりをして、二人は黄襲のいる厨房に入っていった。
 男とは単純なものだなと、二人の背中を眺めながら、王平は思った。


6-5
 蜀軍本隊の五万が、成都に戻ってきた。それで成都の街はかなり活気を取り戻してきた。やはり戦がなければ、この街には富む素地が多分にあるのだ。
 街が活気取り戻しつつあるのは、諸葛亮が丞相府に戻ってきたからということもある。諸葛亮は執務室に籠ったままほとんど出ることなく、この国を富ませる政策について腐心し続けていた。それは見ていて鬼気迫るものがあるほどだった。北から帰ってきて、戦ばかりする諸葛亮に何か言ってやろうと思っていた者も、その気迫に圧されて何も言えずにいた。
 諸葛亮の中では、まだ戦は終わっていないのだ。国を富ませようというのも、それは民のためでなく、魏との次なる戦のためだということは見ていてわかった。
 蔣琬はそんな諸葛亮と共に、執務室の中で書類に埋まりながら、丞相を補佐する日々を送っていた。戦時中のような憂鬱な気分はない。戦場への補給物資を整える軍政は、言ってみれば国を疲弊させる仕事であったが、今はそうではない。
 文字の山に囲まれながら、蔣琬は面白い書簡を一つ見つけた。それは漢中からのもので、王平が蔣斌と共に成都にやってくるのだという。最後に会ったのが北,伐が始まった年だから、王平に会うのは四年ぶりだ。その間に書簡のやり取りはあったが、会うのは久しぶりだということで、蔣琬の胸は弾んだ。戦で酷い目に遭ったという蔣斌がどうなっているのかも、気になった。
 ふと執務室の端に目を移すと、王訓がせっせと書類の整理をしていた。王訓がここに来てから三年が経ち、色々な仕事をさせることでかなり成長させてやることができた。父である王平には、胸を張ってこの姿を見せてやることができると思えた。
「王訓」
 蔣琬は手を招いて王訓を呼んだ。こちらに顔を向けた王訓が、走ってやってきた。
「なんでしょうか」
「今度な」
 王訓の精悍な眼差しが蔣琬を見つめてきた。三年前にあった目の暗さは、もうほとんどないと言っていい。
 蔣琬は王平のことを教えてやろうと思ったが、手元にあった書類を手渡して言った。
「これも、あそこに整理しておいてくれ」
「わかりました」
 やはり内緒にしておこうと思った。やってきた王平にいきなり会わせ、その反応を見てやるのも面白いかもしれない。
 それから半月が経ち、王平らが成都にやってきた。
 蔣琬はその日、嫌な顔をする諸葛亮から特別に暇を貰い、自分の屋敷で王平らがやってくるのを待った。
「今日は誰がやってくるというのです?」
 客間で共に待つ王訓が言った。王訓には、このことを黙ったままである。
「まあ、楽しみにしておけ」
 やがて玄関から誰かが入ってくる気配がし、王平と蔣斌が入ってきた。
「久しいな、王平」
「おう、蔣琬」
「父上」
 それを見た王訓は驚き、王訓を目にした王平は気まずそうに苦笑をしていた。
 王訓は口をへの字に曲げ、何かを堪えるような顔をした。そして、そこから逃げるようにして駆け出して行った。
「おい。王訓」
「構わんよ、蔣琬」
 駆け出した王訓を追うようにして、蔣顕の姿が廊下を横切って行った。
「やはり成都はいいな。むさ苦しい北の戦場とは違い、ここは落ち着く」
 王平が腰を降ろし、それに蔣斌も続いた。蔣斌は、良い顔をしていた。やはり蔣斌を王平に付けたのは、間違いではなかったと思えた。
「ただいま戻りました、父上」
「北での戦は、大義であった」
 蔣琬は喜びを抑え、威厳を以て答えた。
「なかなか大変だったと聞いている。父は王平殿と話がしたいから、お前は母者に顔を見せてこい」
「はい」
 蔣斌が出て行くとすぐに、妻の甲高い声が聞こえてきた。蔣琬はそれに眉を顰めたが、王平が気にするなという仕草をした。
「王訓は、よく働いているか」
「お前より働いているよ。今やあいつは、俺のなくてはならない従者だ。まだ十三だというのに、大した奴だよ」
「張郃を討ち取った俺よりよく働いているか。それはいいな。しかし俺は、相変わらず嫌われたままなのかな」
「そうでもないぞ。お前の戦果が書かれた書簡を、俺の目を盗んでよく読んでいる。あいつは気づかれていないと思っているようだがね」
「そうか」
 言って王平が笑みを零した。この男も、自分と同じで、父なのだ。
 酒と料理が運ばれてきた。蔣斌が帰ってきて機嫌が良いのか、妻が自らそれをやっていた。
「将軍、息子が御世話になっております」
 王平が頷き、妻が礼儀正しく下がって行った。
「いい嫁だな。これなら王訓のことも安心して任せられる」
「今日だけだ。いつもは俺に口も利いてくれん」
 王平の妻は、王訓を産んですぐに死んだと聞いていた。蜀軍が、漢中を巡って魏軍と戦っていた頃のことだ。
「蔣斌はどうしていた。劉敏にかなりしごかれていると聞いているが」
「始めは、よく調練に音を上げていた。それでも劉敏の言うことはよく聞いているよ。張郃戦では、危ういところだったが」
「心に傷を負ったと聞いていたが、さっき見た時はそんな感じはしなかった。むしろ良い顔をしているようだったが」
「それなんだがな」
 王平が、言い難そうにしていた。
「なんだ。隠し事をするのか」
「軍人としては、もう駄目かと思っていた。だがな、句扶が女を教えたのだ。それで、あいつは立ち直った」
 それを聞いて、蔣琬は呆れた。
「一皮剥けたのは、戦を経たからではなく、あっちの方だというのか」
 王平が高笑いをした。
「それでもあいつは、戦で乗り切るべきところは乗り切った。これからも、軍人としてやっていけると思うぞ」
「お前がそう言ってくれるのなら良いがな。あいつも俺と同じで、戦は駄目なのかと思っていた」
「初陣は、誰でも小便を漏らすものだ。その相手が魏軍最強の張郃だった。あれより強い軍はそういないとわかれば、戦場で怖いものはない。あいつは強くなるよ」
「そうなってくれればいいがな。お前の息子は、間違いなくいいぞ。まだ若いだけあって、俺が言ったことを全て自分のものにしていく。教えている俺が、面白くなるくらいだ」
 蔣琬は王訓の話題に切り替えた。こうでもしないと、この男は自分から王訓のことを話そうとはしない。
「もしかすると、いずれこの国の丞相になるかもしれん。その時は、俺もお前ももう生きちゃいないかもしれんが」
 王平はそれに、酒を飲みながら含み笑いをするだけだった。
「成都では大義だった。お前の働きがあるからこそ、俺たち軍人は北で存分に戦うことができる」
 王平が話題を変えてきた。自分の息子のことが、気になりはしないのだろうか。そう思いながら、蔣琬も口に酒を含んだ。
「しかし最後の最後で、李厳殿のあれだ。北で戦っていた者は皆、失望したことだろう。成都にいた俺でも、怒りを覚えたくらいだからな」
「李厳殿は、これからどうなるのだ。まさかこのままというわけにもいかないだろう」
 どうにかして一泡吹かせてやれ、と王平から言われているようだった。
「この後、宮中で朝議が開かれる。軍人たちは怒っているのだろうが、実は成都の廷臣の中には、密かに喝采している者もいるのだ。丞相のやり方に反対する者共のことなんだがな。そういう者らは、諸葛亮殿を丞相の座から引きずり降ろし、李厳殿を丞相にと思っている節すらある」
「そうなのか。この国の中にも、そんなところがあるのだな」
「そういう者らが、李厳殿を中心に結託したら厄介だ。その動きは、少なからずある。それは必ず阻止しなければならない。ここからは、俺の戦だな」
「お前の戦か。それは、俺のような者が口を挟めることではないのだろうな」
「任せておけ。お前らの無念を、俺はよく理解しているつもりだ。軍人たちが北で必死に戦ったように、俺も命を懸けて宮中で戦わねばならん」
 酒の甕を一つ空けたところで、蔣琬は腰を上げた。
「じゃあ、俺は行くぞ。王訓は、今日はずっと休みだから、少し話をしてやれよ」
「酒を飲んで評定に行くか。この不良文官め」
「道理のわからん馬鹿共を相手にするには、これくらいが丁度いいさ」
 蔣琬は衣装を整え屋敷を出た。さりげなく、周りから護衛が付いてくる。魏からの刺客に備えるということもあるが、反戦派の誰かが自分の命を狙ってくるということもあるのだ。事実、蔣琬は反戦派の一人である宦官の黄晧の力を削ぐため、刺客を放ってその近しい者を消したことがある。
 宮中に入ると、そこには既に主要な面々が揃っていた。
 蔣琬の席の隣に座る董允と費禕に目で軽く合図をし、蔣琬も腰を下ろした。向かいには宦官が居並び、やや上座に近いところに黄皓の姿もあった。そして下座の方に、静かに佇む郤正の姿もある。
 諸葛亮が、楊儀を侍らせて入ってきて、正面の一段高いところにある玉座に座った。そしてその横に楊儀が立った。蔣琬は、この楊儀という男があまり好きではなかった。戦場では諸葛亮の片腕としてよく働いていたそうだが、それはこの国のためではなく、自身のためにそうしているという節があるのだ。北の戦場から成都に帰ってきてからも、丞相の近くにまとわりつくようにして働いている。それは諸葛亮が頼んだのではなく、自分から強引にそうしているといった感じだ。諸葛亮の近くに居続けることで、蜀内での権力を伸ばそうとしているようにしか見えなかった。
 一方で、自分は嫉妬しているだけなのかもしれない、とも思う。本来なら成都で諸葛亮の片腕として働いているのは、自分なのだ。その地位を、楊儀に上手く持っていかれたと見る者は、決して少なくないだろう。だから蔣琬は、その不満を自分の胸の中だけにしまっておいた。うっかり口に出してしまえば、それが人の口を通じて伝わり、おかしな噂が流れてしまいかねない。
 しばらくすると、李厳が広間に入ってきた。縄は打たれていない。格好も、文官の礼装のものだった。
 蔣琬は、胸の中に嫌なものが湧いてくるのを感じた。
 蜀軍が撤退するに至ったのは、この男の愚かな判断のせいだったのだ。それが罪人としてではなく、こうして正装で宮中に入ってきている。第一次北伐では、同じく愚かな判断をした馬謖が、成都に召還されることなく首を落とされていた。
 李厳がそうならなかったのは、廷臣の中にいる反戦勢力の力があったからだ。その勢力の中には黄皓も含まれている。口では民の安寧のためだと言いながら、本当は己の周りだけの安寧を求めている、下衆い者達の集まりだ。国の腐敗とは、こういう者達の間から発生するのが世の常である。
 李厳の罪を、楊儀が読み上げ始めた。ここにいる誰もが知っていることで、今更確認しなければならないことは、一つもなかった。
「意見がある者は、言え。仮にそれが私のことを批判することになろうと、この蜀国のためであるものなら、私は何も言わん」
 諸葛亮が言った。誰もがそちらに目をやり、諸葛亮の顔を観察している。
 広間がしんと静まり返った。普段から李厳は死罪だと主張していた者も、口を開けずにいる。死罪であると言ってしまえば、李厳が死罪にならなかった場合に、大きな恨みを買ってしまうことになる。もしかすると諸葛亮は、こうすることで宮中に出仕する者らのことを測ろうとしているのかもしれない。
 ここは、自分が一番に開口すべきだった。
「も、申し上げます」
 言おうとした時、黄皓の甲高い声が先に広間に響いた。
「李厳殿は、功名に走ったわけでなく、私腹を肥やすためでもなく、この国の民のことを想い兵糧の輸送を止められました。第一次北伐では、功名に走った馬謖殿が、大きな過ちを犯してしまい斬首となりました。しかしそれとは違い、国のためを想ってしたことを罪とし、類稀なる人材を失わせてしまうことは、この国にとっての大きな損失となってしまいます。李厳殿の罪は、位二つの降格に値すると、この黄皓は主張いたします」
 廷臣の中に、それに頷く者がちらほら見て取れた。第一次北伐では、馬謖が斬首となり、諸葛亮も自身を降格させることで筋を通していた。それに倣えということなのだろう。
 蔣琬は舌打ちをした。様子を眺めていることで、出鼻を挫かれてしまうことになった。李厳は死罪というのが、この中での大方の見方であった。それがこのままでは、黄皓の主張に流されてしまいかねない。
「申し上げます」
 蔣琬が静かに言い、立ち上がった。下がる椅子の床に擦れる音が、その場に静寂を重くした。
「私は死罪を主張いたします」
 中央で佇む李厳の眉が、一瞬動いた。
「第一次北伐では、蜀軍撤退の契機を作ったのが、馬謖殿でした。撤退の契機を作ったという意味では、李厳殿も同じことです。これで死罪にならないというのなら、筋が通らないことになります。それに今回の戦では、蜀軍は長安を攻略しようとしていました。これは、その時の蜀軍と魏軍の兵力の差を見れば、当然のこととして分かることです。これを見れば、むしろ李厳殿の犯した罪は、馬謖殿の犯した罪より大きなものだと、私は判断いたします」
 今度は蔣琬の側から、それに賛同する声が上がった。
 玉座では諸葛亮が、その二つの様子を黙って見ている。
 黄皓がまた口を開いた。
「長安を奪れそうだったと仰いましたが、長安を奪ったところで何になりましょう。そうなれば、魏は長安を奪回しようとして軍を差し向け、また戦となったはずです。そうすればさらに益州は疲弊したことでしょう。涼州を版図に加えたといっても、そこに蜀の民政を広めようとすれば、長い時が必要となるのですから。それは丞相府で働く蔣琬殿なら、よくお分かりのはずです」
 蔣琬は面食らっていた。正直、ここまで反論されるとは思っていなかった。
 黄皓は、この場で名を高め、宮廷内での自分の発言力を大きなものにしようとしているのだろう。負けるわけにはいかなかった。
「長安を奪るということは、二万以下までに減った魏軍を東へ追い返すということだ。比べて蜀軍は、八万の軍勢で長安を防衛することになる。城攻めに三倍の兵力を要するのなら、魏軍は二万になった兵力を二十四万にまで膨らませ、長安を攻めることになる。魏にそこまでの力があっただろうか。魏も我が蜀国と同じく、戦に明け暮れ疲弊しているのだ」
「二万まで減らしたのなら、それでいいではありませんか。これで昨年のように、蜀が魏から攻め込まれるということは当分ありません。窮乏した国内を回復させるための民政に、心置きなく力を注ぐことができるではありませんか。逆に戦が続いていれば、それは叶わぬことでした」
「それは聞き捨てならぬな、黄皓。ならば蜀軍が魏を打倒しようとしているのは、何のためだと心得ておるのだ」
「漢朝の社稷を護るためです。そしてその社稷は、現に滅びることなくここにあります。魏を討つことは、それを護り続けるために当然必要なことではありますが、国を疲弊させてしまえば、それだけその社稷が危ういものになってしまうのです。国とは、豊かな民あってのものなのですから」
 詭弁だ、と蔣琬は思った。こいつらは要するに、国を豊かにすることで富を吸い上げ、自分の懐を肥やしたいだけなのだ。
「今だけ見れば、それでいい。魏軍はしばらくの間、蜀を攻めることはできない。しかしそれはいつまでも続くものではない。時が経てば国力の差は開き、いずれ蜀は魏に圧倒されることになるだろう。それを防ぐためにも、長安は奪っておくべきであった。それを妨げた李厳殿の罪は、やはり重く大きい」
「確かに、罪は小さなものではないかもしれません。勝手な判断をしてしまったわけですから。しかし死罪は重過ぎではないでしょうか。国を想ってやったことなのです。ここにいる各々方は、それぞれに国を想う心をお持ちのはずです。その心に従い、一つの過ちを犯したとして、それを死罪としていいものでしょうか。それで、国が立ち行くものなのでしょうか」
 蔣琬は苛立った。情に訴えかけ、論点をずらそうとしている。そしてここにいる全員を、巻き込もうとしている。しかし苛立ちを露わにするわけにはいかない。論戦では、如何に相手が馬鹿げたことを言おうと、先に苛立った方が負ける。
「もうよい」
 蔣琬が言い返そうとする前に、諸葛亮が言った。
「今の蜀の困窮は、私の非力が招いたものだ。私は先ず、それを皆の前で謝るべきであった。これだけの困窮がなければ、このようなことにはならなかった」
 論戦で多少色を成し始めていた面々が、静まり返った。
 俺は負けたのか。蔣琬はそう思い、臍を噛んだ。
「しかし李厳がしたことに非が無いとは言い難い。自らの職を怠り、軍を撤退に導いたのだ。それは今までの戦で死んでいった全ての者に対する背信である。降格で許されることではない。しかし、死罪は重すぎるという黄皓の考えも道理である。よって李厳は、平民に落とす。異議のある者は言え」
 死罪ではないが、これで李厳は政治の場から去ることになる。それはそれでいいのかもしれない。
 李厳擁護派の者からも、異議は何も上がってこない。
 中央では、李厳が無表情のまま顔を俯けている。心の中では、死罪にならなかったことに、喜んでいるのかもしれない。
「異議がなければ、解散」
 言って、諸葛亮はその場を後にした。にわかに広間がざわめき始めた。
 蔣琬はそのざわめきの中を縫って、諸葛亮の後を追った。丞相府へと続く人の少ない廊下で、追いついた。
「丞相、申し訳ありません」
 諸葛亮は足を止め、横目を蔣琬の方に向けてきた。
「何を、詫びる」
「戦場に立った者らのために、私は黄皓を論破すべきでした」
 諸葛亮はまた歩き出し、蔣琬もそれに続いた。
「お前が論破できなかったのは、黄皓の言うことに理があったからだ。お前が悪いわけではない」
「李厳殿の罪のことなど、あの者らにはどうでもいいことなのです。あの者らは、反戦にかこつけ、丞相を引き摺り下ろしたいと考えているだけなのです。そして意の適う李厳殿を、丞相の座につけたいと」
「そんなこと、儂が分かっていないとでも思っているのか」
「だからこそ、私が黄皓を論破し、奴らの力を削いでおくべきでした」
 言っても仕方のないことを言っていた。諸葛亮の前では、たまにこういうことを言ってしまう。
「お前はよくやってくれた。もしかすると、奴らの反発で平民に落とすことすらできないかと思っていた」
「それでも、軍人らは怒るのではないでしょうか。その矛先が丞相に向かえば、もう戦はできなくなるかもしれません」
「しばらく、戦をするつもりはない。民政に力を入れるとなれば、反戦派の者らの働きも必要になってくるのだ。いかにその者らの主張を入れ、李厳を罪に落とすかが、今回の大きな課題であった。平民に落とすというのは丁度良い」
「後顧に憂いを残すことになったと思います」
「戦に負けるとは、ただ軍事的に後退させられるということではない。戦に負けるとは、こうなるということだ。お前はそれを、よく持ちこたえてくれた」
 後ろから誰かが駆けてきた。広間に取り残された、楊儀だ。
「お前は、儂が死んだ後にあいつらをどうやって扱うか、今からよく考えておけ」
 そう言い、諸葛亮は行ってしまった。その後を、楊儀が蔣琬に一瞥もくれずに追いかけて行った。
 重いことを言われたという気がする。自分の後継は、お前だということなのだろうか。そんな気もするし、違うという気もする。
 蔣琬はそんなことを考えながら、宮中を後にした。
 李厳を、死罪に落とせなかった。これはやはり、自分の負けなのだろう。それはただ悔しかった。これを言えば、王平はどんな顔をするだろうか。
 屋敷に着くと、庭先から木剣が鳴るのが聞こえてきた。王平が、王訓に稽古をつけていた。蔣琬はしばらく、立ち尽くしながらそれを眺めていた。


6-6
 心の中から、嫌なものが消えていた。
 それは自分でも驚く程で、何故消えてしまったのかは、考えてみてわかることではないのだろう。育ての親であった王双に対する敬慕の想いは、消えたわけではないのだ。
 嫌なものが消えてしまったことに、王訓は些かの不安を感じていた。それを消失させてしまうことは、最後の時まで自分に優しくしてくれた、王双に対する背信ではないのか。何の罪もないばかりか、自分を育ててくれた王双の首を、父は斬り落としたのだった。
 理屈ではわかる。敵軍の将が、子を届けに来ただけとはいえ、自陣に乗り込んできたのだ。それに王双は、蜀の名のある将軍を討ち取っていた。蜀の軍人として、ただで帰すわけにはいかなかったのだ。それは蔣琬から何度も聞かされたことでもある。
 それでも、見逃すことはできなかったのか。人の心があり、情があれば、自分の子にとっての一番大事な人を、ああも簡単に殺すことができるものなのか。
 王平は、自分の手で決着をつけたのだ。蔣琬はそうも言っていた。しかし王訓には、それが理解できなかった。自分の子から恨まれてもそうすることが、何の決着になるのか。
 あれから三年が経ち、あの時のことを、幾らか冷静に見られるようになってきた。長い時の流れが、王訓の心から刺々しいものを洗い流し、丸みを帯びさせてきたとも言っていいかもしれない。それでいいのかという、嫌な想いもある。しかしその嫌な想いは、前に持っていた嫌な想いより、ずっと小さなものだった。
「難しい顔をして、何を考えているのだ」
 顔を上げると、蔣斌がいた。
「なんでもありません」
 王訓は目を逸らしながら答えた。
「まあいい。これから弟と釣りに行くから、一緒に行こう」
 誘われ、王訓は頷いた。五日に一度の休みである。休みの日は、いつも蔣顕と何かしらをして遊んでいた。蔣斌が成都に戻ってからは、三人で過ごすことが多い。
「今日はどこで釣るかな」
 三人が川場に着くと、王訓は岩場を飛んで魚のいそうな所を探した。釣りをするなら、いつも違う場所でやれと、蔣琬から言われているのだ。それにどんな意味があるのか、王訓にはわからなかったが、言われた通りにしていた。
 魚がいそうな所を探すのは、得意だった。川面を眺め、流れを見て、川の底を想像する。こういうやり方は、長安にいた時、王双が教えてくれたのだった。
「ここがいいと思います」
 王訓が言ったそこに三人は腰を下ろした。穀物を固く練ったものを針の先に付け、竿を垂らした。
「この間の話の続きを聞かせてくれよ、兄上」
 竿を片手に、蔣顕が言った。魚が釣れるまで、蔣斌は北での戦場の話をしてくれるのだった。
「漢中での調練の話はしたな。じゃあ今日は、戦の話をしてやろう」
 蔣顕が顔を色めかせた。臆病なところはあるが、戦の話は妙に好きなのだ。王訓も、戦で叔父を失いはしたが、戦の話は嫌いではない。
「張郃という魏の将軍を知っているか」
「魏軍の騎馬隊長の名ですね。王訓の御父上が討ち取ったという」
「そうだ。蜀軍の兵なら誰もが恐れていた将の名だ。天水の戦場で、蜀軍は魏軍と睨み合っていた。互いに大軍同士だから、どちらも容易に動けずにいたのだ。そこで丞相は、先ず魏の有力な武将である張郃を誘い出し、討ち取ってしまおうと考えた」
 蔣顕が聞き入っていた。王訓も、魚に餌を突かれるのを手に感じながら、聞き入った。
「本陣から後方の木門という所に、蜀軍の兵站基地はあった。俺が所属していた王平軍は、そこにいたんだ。正確に言えば、そこに伏せていた」
「それで」
「引いているぞ」
 言われて、蔣顕は舌打ちをしながら魚を釣り上げた。拳より少し大きな魚だった。それから素早く針をはずして魚籠に入れ、また竿を垂らして話の続きを急かした。
「丞相は、わざと敵に兵糧庫の位置を察知させようとしていた。そこを襲撃しにきた敵を討ち取ろうという作戦だったんだ。その兵糧庫には、焼かれてもいいように、藁を詰めた袋が積まれていた」
「伏せていたとは、どこかに隠れて、じっと動かずに敵を待っていたということですか」
 王訓が聞いた。
「まさか。簡単なものだが軍営はあった。そこでは飯が食えたし、寝ることもできたよ。そうして木門の周りに二万が分散して時を待っていた。待っている間も、気を抜くことはできなかった。王平殿が何の前触れもなくやってきて、召集をかけるんだ。集まるのが遅れると、飯が抜かれた」
「そうやって、いつ敵が来てもいいように備えていたんですか」
 蔣顕が言い、蔣斌が頷いた。
 王訓の竿も引き始めたので、釣り上げた。さっき蔣顕が釣ったものと、同じくらいの魚だった。
「埋伏は、言ってみれば釣りのようなものだな。ここのようにすぐに釣れればいいが、木門ではそうはいかなかった。一日が、長く感じられたものだ」
「それで、張郃は」
「来たさ。唐突に、来た。俺は叔父上から伝令を頼まれ、杜棋という隊長のもとに向かっていた時のことだった」
 蔣斌の言う叔父上とは、劉敏のことだ。王平軍の副官だとは聞いていたが、王訓はその人のことをよく知らなかった。
「杜棋殿と話をしていると、いきなり敵襲の鐘が鳴った。俺は焦ったよ。胸が高鳴り、手は震え始めた。その場の空気に飲まれていたんだ。なんせ、初めての戦闘だったからな」
 竿が引いていたが、もうそれは無視した。隣で、蔣顕が唾を飲む音がしたような気がした。
「始めは馬止めの溝を挟んでの矢交わしだった。そこまではよかった。その溝があったおかげで、王平殿の騎馬隊が駆けつけてくるまで、時は稼げると思ったんだ。杜棋殿も、そう思っていただろう。しかし張郃軍の別働隊が、溝を避けてやってきたんだ。今思えば、あの矢交わしは囮だったんだろうと思う」
 言いながら蔣斌が竿を引き上げた。そこにはもう、餌は付いていなかった。
「もう、いいところで」
 蔣斌は急かす蔣顕を尻目に、ゆったりと餌を付け直していた。
「この先は悲惨だぞ。それでも聞きたいか」
「それは、ここまで聞いたんですから」
 蔣斌が竿を脇に置いた。王訓がふと見ると、その手は微かに震えているように見えた。見られているのに気付いたのか、蔣斌は竿を持つ手をぐっと握り締め、震えを抑えようとしていた。
「杜棋殿の他にも、隊の中で仲の良い者はいた。張才、雷静、陳仁、ただの兵卒だったが、皆が俺の友人だった。その皆が、腕を飛ばされ、腹を裂かれ、首を刎ねられた。するとどうなるかわかるか。斬られた腕からは血が脈打って噴き出し、腹からは腸が零れ、さっきまで笑っていた顔がただの物になるのだ。そして皆が、恐怖と痛みで叫び声を上げる」
 そこで蔣斌は言葉を切り、目を閉じた。涙が流れてくる。見てはいけないものを見てしまったという気に、王訓はなった。
「もう、やめましょう」
「構わん、王訓。俺は戦を知った者として、お前らにこのことを話しておかねばならん」
 涙を流しながら蔣斌が言った。もう手の震えは、隠そうともしていない。
「戦を、華やかなものだとは思うな。そこには、血があり、叫びがあり、死がある。そんな当たり前のことを、俺は知らなかった。それからしばらく、立ち直ることができなかった。情けないことだった」
 二人は黙ってそれを聞いていた。戦を華やかなものだと思うな。蔣斌のその言葉が、重く感じられた。
「それでも、兄上は軍人であり続けるのですか」
 蔣顕が、遠慮がちに聞いた。
 蔣斌はそれに頷いた。
「恐ろしくても、誰かがやらねばならないのだ。俺はもう、軍人になってしまった。それで恐いからと言って、辞めてしまおうとは思わん。辞めてしまうことは、それを誰かに押し付けてしまうということだからな。そんなことは、したくない」
 それを聞きながら、王訓はふと思った。自分の父も、このような想いで戦場に立っているのだろうか。そして死んだ叔父上も、そうだったのだろうか。そもそもそんな思いまでしてやらなくてはいけない戦とは、なんなのか。
 蔣斌が涙を拭った。拭ったその顔には、もう笑顔が戻っていた。
「情けないところを見せてしまった。しかし、一度言っておくべきだと思った。俺はまた、漢中に行く。戦いのために行く。成都に残るお前らには、俺がどんな想いでいるかを知っておいてもらいたかった」
「忘れません。蔣斌殿。必ず、憶えておきます」
 蔣斌が頷いた。
「ああ、心が乱れてしまったな。少し一人になりたい。俺は、先に帰ってるよ」
 言って蔣斌が腰を上げ、行ってしまった。
 残された二人は、しばらく無言でそこに佇んでいた。
 王訓はその日の夜、寝台の中で蔣斌の言葉を何度も思い返していた。争いなど、無いのが一番良いに決まっている。そうすれば、叔父である王双が死ぬことはなかった。
 蔣斌は、目の前で友が死に、しばらく立ち直れなかったと言っていた。それでも、戦うことを辞めるつもりはないとも言っていた。
 何故なのか。戦をしようとする者がいるから戦が起こるのなら、先ず自分が戦をすることを辞めてしまえばいいのではないのか。
 その道理が理解できない程、蔣斌や、叔父や、父が愚かだとは思えない。ならば皆が戦おうとするのは、何かそれよりも大きな、優先すべき理由があるからということなのだろうか。大事な誰かが苦しみながら死んでいくの無視できる程の、大きな理由があるというのか。
 翌朝、王訓は蔣琬の持ち物をまとめ、登庁の準備を整えてから朝食を摂り、蔣琬と共に屋敷を出た。さりげなく護衛の数人が付いてくる。始めは外を歩くだけで命懸けなのかと恐ろしく思ったものだが、もう慣れたものだ。
「ここでまとめているものは、また戦によって費やされるのでしょうか」
 執務室に積まれた書類を前にして、王訓は言った。
「そうだ。そのために我らも、ここでこうして戦わなければならん」
 運ばれてきた湯気の立つ茶を啜りながら、蔣琬が答えた。茶を飲むのは、仕事が始まる前のいつもの日課である。
「蜀と魏の戦は、いつまで続くものなのでしょうか」
 蔣琬は目を閉じながら、静かに茶を啜り続けていた。
「それがわかれば、仕事にもやり甲斐があるのですが」
 怒らせてしまったのかと思い、王訓は遠慮がちに言った。
「蔣斌が何か言っていたのか」
 蔣琬が、茶を置いて言った。目は怒っていない、と思った。
「戦で、友を失ってしまったと言っていました。それも、酷い殺され方で」
「戦であった。仕方のないことだ」
「戦が無くなれば、そういうこともなくなると思うのですが」
 蔣琬が鼻で笑った。
「お前も宦官のようなことを言うようになった。なるほど、戦など無い方がいい。確かにその通りだ。なければ、この国の民が飢えることもなかった」
「なら、何故」
「お前はつまり、こちらが戦うことをやめれば、相手もやめてくれると思っているのか」
「人が戦の無い世を得るには、先ずは誰かがやめねばとは思います」
「やれやれ、王平将軍の子ともあろう者が、困ったことを言う。しかし、こういうことを誤魔化しておくわけにもいかないのだろうな」
 そう行って、蔣琬は椅子の上で座り直した。
「人は飯を食べたり、眠ったり、誰かより優位に立ちたがったりする。こういう人の行動には全てにきっかけがある。それが何だかわかるか」
「欲望、ですか」
「そうだ。それとは他に、恐れというものもある。人は欲望を満たすために動き、恐れから逃れるために動くのだ。この二つがある限り、人は争うことをやめん。これは人が人である限り、どうしようもないものなのだ。そしてこれら二つのものを制御する仕組みのことを、我らは政治と呼ぶ」
 何か難しい話をされていると思った。それでも王訓は、蔣琬が言おうとしていることを理解しようと努めた。
「人は、人の富を奪おうとする。欲望があるからだ。また人は、その富を守ろうとする。誰かにその富を奪われるのではないかという恐れがあるからだ。だから、争いは起こる。その富とは、何も金銭だけではない。人が人へと伝えてきた、目には見えない大事なものも、富だ」
「その大事なものとは、何なのでしょうか」
「難しいな。言葉にすることは、とても難しい。だからこそ、なかなか理解してもらえず、人は苦しむ。理解できない何人は、平気でその富を破壊しようとする」
 蔣琬は背もたれに身を預け、頭上に目をやっていた。
「ならば王訓、お前は家畜の様に生きたいと思うか。ただ誰かのために、働くためだけに生きる、家畜だ」
 王訓は首を振った。
「そこなのだ。人は、人らしく生きたいと思うから、それを守るために戦う。その戦いは、誰かから何かを奪おうとする暴力的なものではない。人らしさを守るための、武力だ。漢王朝は、長年この国に住む人々の社会の中心であった。三百年以上続いたそれを破壊することは、人間が育み続けてきた目に見えぬ富を破壊するということだ。それは、人が人らしさを奪おうとすることだと言っていい。それを守り続けるために、この国は戦い続けねばならんのだ」
 やはりその話は、王訓にとって難しかった。目に見えぬものとは何なのだ。実際のところ、そこには何も無いから、それは目に見えぬものなのではないのか。そういった虚像をさも存在するもののように言ってしまうから、戦が起こってしまうのではないのか。
「わからぬという顔をしているな。まだ、わからずとも良い。私も十三の時に同じ話をされていたら、理解できていなかっただろう」
 言って、蔣琬の顔が微笑んだ。そこまでにしておけ、と仕草で促されたので、王訓は諦めて仕事を始めた。
 多忙な中で日はすぐ昇り、昼食の時間になった。王訓は仕事中、蔣琬から言われたことをずっと考えていた。目に見えぬ富とは、何なのか。自分がここで働く意味は、明確にしたかった。自分のしている仕事は、誰が死ぬ、戦と同じことなのだ。
 王訓は食堂には行かず、宮廷の廊下で何をするでもなくうろうろと歩いた。ここにいれば、戦を続けることに反対している誰かが通るかもしれない。
 数人の宦官が、何かを喋りながらやってきた。宦官は戦に反対していると聞いていたので、王訓はその数人の方へ歩み寄った。
「何か用か、小僧」
 宦官らは足を止めることなく言った。
「質問があるのです」
 王訓はそれを追いながら言った。
「だから、何だ」
「戦に反対する理由を聞きたいのです」
 それを聞くと宦官らは露骨に嫌な顔をし、手で王訓を追い払う仕草をして行ってしまった。聞き方が悪かったのかもしれない。そう思い質問の仕方を変えてみようと考えながら他の誰かが通るのを待ってみたが、昼食時だからか誰もこない。しばらく待ち続け、諦めて食堂に行こうとした時、後ろから呼び止められた。
「小僧」
 振り返ると、さっきの宦官の一人が王訓の方を見ていた。
「黄皓様」
「戦に反対する理由を聞きたいと言っていたな。誰に聞いて来いと言われたのだ」
「誰かに言われたわけではありません。私自身が、その意見を聞いてみたいと思ったのです」
 黄皓が、王訓の顔をじっと見つめてきた。髭がなく、肌に不自然な艶があり、男でありながら女のようだと思った。
「飯はもう食ったのか」
 宦官特有の、甲高い声で聞かれた。こうして宦官と話をするのは初めてだ。
「まだです。でも一食くらい抜いても」
「飯は運ばせる。儂の部屋に来い、王訓」
 そう言われて、自分の名前を憶えられていることに驚いたが、その驚きを声にするより先に黄皓が背を向けて歩き出したので、王訓も黙ってそれに続いた。
 促されるまま席に着き、しばらくすると黄皓の従者が蒸した魚と野菜を煮たものを運んできた。
「蔣琬殿に、何か言われて来たわけではないのだな」
 向いに座り、自分の皿を箸で突きながら、黄皓が言った。
「誰かに何かを言われたわけではありません」
 王訓も野菜で魚肉を包んで口に入れた。味は薄く、あまり美味いとは思わなかった。
「戦に反対する理由を聞きたいと言っていたな。その前に、戦について、お前はどう思っているのだ」
「わかりません。私の父は軍人で、北での戦いに従事しています。また、私を育ててくれた叔父は魏国の武将で、陳倉で戦死しました」
「ふむ」
 黄皓は、口の中を洗い流すようにして、湯を飲んだ。
「近しい者が死に、その悲しみで、戦はない方がいいと思ったか」
「はい。しかし戦が無くなることはありません。それは何故なのかと思いました。蔣琬様は、目には見えない大事な富を守るために、戦はあるのだと言っていました。正直、私にはよくわかりません。なら、戦に反対する方々の意見も聞いてみたいと思いました」
「特殊なことだな」
 黄皓はまた、湯を口に含んだ。その挙措は、ゆったりとして無駄がなく、上品なものだと思った。
「戦は、国の富みを食い尽くす。そうして民は貧しくなるのだ。国とは、民あってのものだ。戦そのものを否定することを儂はしないが、それが過度なものとなってしまえば、別の国から滅ぼされなくても、その国は内から崩れ瓦解してしまう。儂はそれに憂慮しているのだ」
 それは、国事についての書類を整理しているので、王訓にもよく理解できる。物が動けば書類上の数字も動くので、それはわかりやすい。
「では逆に、黄皓様が肯定される戦とは、どのようなものなのでしょうか」
「子供のくせに、難しいことを聞くのう。そうだな、北伐が始まる前、蜀は南で戦をしていた。あれは良かった。何故ならば、南蛮の物産を支配下に入れることで、蜀の富はかなり潤ったからだ。民は豊かになり、国は強くなった。それは国というものが求める姿であり、国の本能のようなものだと言っていい」
「わかる気がします」
「そうか、わかってくれるか。ならば聞こう。北での戦も、南での戦も、同じ戦だ。しかし北のそれは理解できなくて、南のは理解できるというのか」
 そう言われ、王訓ははっとした。
「それだ、王訓。弱い者を相手にする戦は良くて、強い者を相手にする戦は良くない。それは誰でも理解できることだ。蜀と魏のことを言ってみれば、蜀が弱者であり、魏が強者だ。にも関わらず、この国はその強者に戦をふっかけている。そこに矛盾が生じるのだ」
 王訓は腕を組んで唸った。自分が長安にいた頃、蜀が南蛮に攻め込み支配下に入れたという話は聞いていた。それについては、何の疑問も持っていなかった。考えてみれば、戦をしたという意味では、同じではないか。
「ならば黄皓様、蔣琬様の言っている目には見えない富とは、何だとお考えでしょうか。それを守るべきものだとは、黄皓様もお考えでしょうか」
「それは、人から人へと受け継がれてきたものだろう。蔣琬殿がそう言っているのを、私は何度も聞いているよ。それは理解できる。人は営みの中で、知恵を得、技術を得、安寧を得てきた。文字を持たぬ南蛮の者共は、それらを継承する力に乏しく、滅ぼされた。まずい飯を食い、雨が降れば濡れる寝台に身を伏せ、不潔な厠で糞をする。病に抗う術なく苦しみ、外敵が来れば蹂躙されてしまう。それが、目に見えぬものを持たぬということだ」
「ならば蜀は、それらの知恵や技術を守るために、魏と戦をしているのですか」
「数々の知恵や技術は、それぞれが独立しているわけではない。それらが役立ち、また育つには、それらが属する背景が必要なのだ。その背景が、国というものだ。そしてこの国の中心には、漢王朝がある。それを守るために、遠くには軍人があり、近くには我ら宦官がある。それを守るということと、国土を拡張するということは、関係のないことだ」
「漢王朝を守り続けるのに、魏の土地を奪う戦をすることは、筋違いだということですか」
「そうだ。この大陸は、広い。統治するにはいかにも広過ぎる。人の統治が届く範囲には限りがあるのだ。それはこの大陸の歴史を見ればわかる。蜀は、今はまだ益州と呼ばれるこの天険に護られた国土を堅持し、富めば良い。そして時が経てば、この土地を益州だという呼称はなくなり、確固とした国を表す呼称が生まれ、人々の間に定着するだろう。それはただ待たなければならないものだ。今、魏と戦をし、仮に勝ちその国土を併呑したとしても、その膨らんだ国は自らの大きさに耐え切れず、またいずれ瓦解するであろう。それは、今日までの歴史が、我らに教えてくれていることだ」
 黄皓の中にも、蔣琬の言う目に見えない何かがあるのだと思えた。しかし二人の言う目に見えないものは、それぞれが違うものだという気がする。蔣琬は、これまで自分が生まれる前から続いてきた、何か大きなものが富だと言っている。黄皓は、今あるものが富だから、それは守るべきなのだと言っているように聞こえる。
「そろそろじゃないか」
 頭の中で様々なものが巡っていたが、黄皓にそう言われて気付いた。外から、人の声が聞こえ始めている。昼食の時間が終わったのだ。
「ありがとうございました。仕事に戻ります」
「早く行け。お前がここにいて遅れれば、儂も蔣琬殿から何を言われるかわからん」
 憎まれ口だが、顔は微笑んでいた。王訓は一礼してそこを後にした。
 宦官の悪い噂はよく耳にしていたが、意外とそうでもないかもしれないと、王訓は思った。


6-7
 兵の徴募に人が集まりにくくなっていた。この大陸から、人が減っているのだ。
 平時には気にもならないことだが、乱世が続き、それが目に見えてわかるようになっていた。
 人が減れば税収が減り、徴兵できる頭数が減り、それは国力の衰退に直接つながってくる。外敵からの侵略を受け易くなるということだ。政を成す上での最大の焦点はここであると、司馬懿は思い定めていた。
「人とは愚かなものだ。こんな状況になっても、まだ戦をやめようとはせん」
 司馬懿は長安政庁の執務室にあり、息子の司馬師を前にして言った。
 昨年までは朝廷のある許昌に弟の司馬昭と共にいたが、対蜀戦の最前線である長安を見せてやろうと呼び寄せたのだった。
「この長安を見てどう思うか、言ってみろ」
 久しぶりの父を前にして緊張しているのか、司馬師は微かに顔を強張らせていた。
「先ず、人の多さに驚きました。許昌からここへ来るまで、数々の荘や村を見てきましたが、こんなにもかと思うくらい人がいませんでした。なのにここは、許昌と同じくらいに人がいます」
 良い所を見ている、と司馬懿は思った。今の世で人の多寡を気にすることは、かなり大事なことだ。
「長安には、富があるのだ。銭という、富だ。それを求めて人は集い、物流は盛んになり、またその物を求めて人が来る。そしてその人の集まりは、そのまま力となるのだ」
 司馬師は頷きながら聞いている。
 司馬懿は、長安の太守として、銭を鋳造する権利を得ていた。平時ではありえないことだが、蜀の侵攻に備えるためという名目で、自分の思うように銭をつくることを許されているのだ。それは想像していたものより、ずっと大きな力だった。
「人が何かを成すには力が要る。その実質的な力が、軍による武力と、銭による資金力だ。この二つの力は、表裏一体だと言っていい。銭が無ければ武力となる人は集まらず、また人が集まらなければいくら銭があっても意味はない。一人の武勇を信奉する愚か者は未だ朝廷内にいるようだが、お前はどうかな」
 この息子が、そんな信奉者の一人であることを、司馬懿は見抜いていた。無理もないのだ。戦の無い地で談話のような知識に身を浸してしまえば、人は誰でもそうなる。先ずは、それを洗い流してやることだった。
「私は」
「答えはよい。雑務にまみれるのだ、司馬師。今まで得てきた学は、全て絵空事だと思え。その絵空事を、本当のものだとは思うな」
 親の権力にすがり、つまらない男に育ってしまう二世は少なくない。前の長安太守であった夏候楙がそうだった。自分の作る新しい世は、息子を立派に育て、継がせたかった。
 司馬懿は、司馬師に辛毗を呼ばせた。
 やってきた辛毗は、どんな質問にも答えられるように、複数の竹簡を両手に携えていた。
「長安の物価はどうなっているか言え」
 司馬師を隣に座らせ、司馬懿は言った。
 辛毗は手の中から一つを選び、一つ大きく息を吸って言った。
「食物の値が上がっております。昨年と比べれば、穀物の値段はもう倍以上です。それでも城内に住む民にはまだ餓死者が出ておりませんが、城外に移ってくる者らは欲しいものが買えず、罪を犯す者が増える傾向にあります」
 良い傾向だった。治安が乱れることは看過できないが、それは周りから人が集まってきている証拠でもある。民の居住区は長安城郭内だけでなく、城外にもあり、それがここのところ広がり続けていた。
「その解決策を言ってみろ」
 また、辛毗が大きく吸い込んだ。
「城外にも、銭が行き渡る仕組みを作るべきだと存じます。人を徴募し家屋を建てて安い市を開かせ、そこで働く全ての者に銭を払います。また軍市も拡張すべきです。税の安い軍市があれば兵になりたがる者は増え、兵が増えればさらに銭の流れが捗ります」
 銭の流通促進と、兵力不足の解消のどちらにも着眼した、良い案だと思えた。
「よろしい。それに加え、兵に治安維持のための巡回をさせろ。その分の銭もしっかりと払ってやるのだ。罪を犯した者を捕らえた時も、幾らか払ってやれ。そしてその役目は、長安に長く住む兵にやらせろ」
「御意」
 言って、辛毗は一礼して出て行った。
「地味なものであろう。お前の知っている絵空事の大将軍に比べれば、つまらんものだとは思わんか」
 隣の司馬師に向かって言った。
「一つ、質問があるのですが」
「何だ」
「犯罪人を捕らえる毎に銭を払うということをやってしまうと、銭の欲しさから冤罪を起こす兵も出るのではないですか」
 書の上だけで学を積んだ優等生らしい質問だ、と司馬懿は思った。都の太学では、こういう考えは喜ばれるのだろう。それは、正しておかなければならない欠点だ。
 司馬懿は、司馬師の頬を唐突に張った。
「だから、どうした」
 司馬師が頬に手を当てながら、意外という顔をしていた。
「兵に罪人を捕らえることを奨励するのは、手段の一つであって、目的ではない。ではこの手段は、何の目的にあるか、言ってみろ」
「城外の治安維持のため、ですか」
 司馬師が自身なさげな声で呟くようにして言った。そこを、また一つ張った。
「それが絵空事だと言っている。治安を守ることが、ただいたずらに良いことであると思っているな。なるほど平穏な許昌ではそれで良いのであろう。しかし環境も戦略的価値も違うこの長安でそれがどんな意味をもたらすか、お前は少しでも考えたか。治安維持という言葉は良い言葉だ、だからやる。冤罪という言葉は駄目な言葉だ、だから防ぐ。お前の頭の中はその程度のものだろう。それ以上の思考はない。考えようともしていない」
 言われた司馬師は、ただ項垂れていた。
「第一の目的は、銭の流通を増やすということ。何故か。人を増やすためだ。何故か。兵力の増強が必要だからだ。何故か。蜀が攻め込んでくるからだ。やること全てには、何故があるものだ。それを考えることもせず、耳触りの良い言葉だけを選び、行う。これは為政者としての罪だ。そういう質問が口から出るということは、お前が正に絵空事に惑わされているという証だ」
 頬を張られた司馬師は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。よほど生温い平穏の中で、今まで温々と育てられてきたのだろう。
「お前は、長安を蜀から守りたいと思うか」
「それは、思います」
 か細い声で、司馬師が答えた。
「声が小さい」
「思います」
「その思いを、この長安にいる誰しもが持っていると思うな。長安に代々住む者ならまだしも、城外に集まる民に、そんなものはない。蜀が攻めてくればまたどこかに流れればいいと思っているような連中だ。忠節だとか、礼だとか義だとか、そのような特別なものが皆無な者には、欲しかないのだ。欲しかない者は、他人から奪うことを厭わず、欲のためには国を売ることもする、虫けらのようなものだ。為政者がそんな虫けらに阿るような感情を持ってはならん。いいか、儂はとても大事なことを言っている。欲しかない者は、人の形をした虫けらだ。その虫けら共に我らが阿ってしまえば、世が崩れてしまうのだ」
「わかりました」
「何が、わかった」
「人には、欲望しかない者がいるということです」
「そうだ。そして世にいる大半が、そういう者なのだ」
 司馬懿は大きく頷いて言った。
「欲ばかりの者らを統制することが、政だ。長く長安にいる者に巡回させるのは、奴らの中に、自分の住む街を守りたいという気概があるからだ。しかし中には、欲しかない者もいる。そういう者は冤罪を起こすだろう。冤罪を起こさせることで、欲しかない者を炙り出し、厳刑によって処罰する。そうやって人の世は、浄化されていくのだ」
「はい」
「儂の下にいる間は、お前が絵空事を見せる度に、頬を張る。覚悟しておけ」
 言われた司馬師の目は、不安に満ちていた。親として情けないことだが、これはなんとしてでも、できるだけ短い間に矯正しておかなければならないことだ。
「儂からの話はここまでだ。持ち場に戻り、役目を済ませてこい」
 司馬師は顔を俯けながら返事をし、逃げるようにしてそこから出て行った。

 非番の兵たちが、調練場の隅を通ってどこかに行くのが見えた。軍市に行って旨いものを食い、女を抱くのだろう。金に困ることはないのだ。
 軍人の俸給がまた上がったのだった。部下らは喜んでいるが、その俸給目当てに軍に入りたがる者が増えているため、夏侯覇はその人選に多忙だった。歩兵ならまだしも、騎兵は誰でもというわけにはいかないのだ。馬を乗りこなすだけでは駄目で、乗ったまま集団行動ができなければいけない。それには、才が要る。軍馬をただの物だと思っているような奴は問題外だ。
 騎兵は集団で素早く動き、集約した力で一撃を狙うので、足手まといを一人入れるだけでその騎馬隊は力を落としてしまうことになる。体付きも重要で、大き過ぎると馬が早く疲れてしまい、これも集団行動に影響が出てしまう。
 騎馬隊の戦は、人選から始まっていると、死んだ張郃は言っていた。
「次、乗れ」
 新兵が返事をして一歩前に出た。
 体格は、悪くない。夏侯覇はその新兵の顔をじっと見た。馬を前にして、その顔が一瞬たじろいでいた。乗る者の気持ちを、馬は理解する。これは駄目だ、と夏侯覇は思った。
 案の定、その新兵はすぐに馬から振り落とされていた。
「だめだ、次」
 体の大きな新兵だった。力はありそうだが、これは使い物になりそうにない。
「お前は歩兵だ、次」
 言われた新兵が、顔を赤黒くさせ始めた。
「待ってくれ、俺はまだ馬に乗ってすらいねえ。それなのに、なんで」
 夏侯覇は舌打ちをした。人選をやっていると、こうして駄々をこねる者は少なくない。
「お前は体がでかすぎる。騎兵には向かん」
「そんな、俺は騎兵になりてえんだ。なのに一目見ただけで駄目だなんて、あんまりじゃねえか」
 夏侯覇は一息で飛びより、その新兵を蹴り倒した。
「なんだその口の利き方は。お前は歩兵にすらなれん。早々にここから立ち去れ」
 夏侯覇は背を向け、手を振った。
「次」
 言ったが、その新兵はまだそこからどこうとしていなかった。鋭い目付きでこちらを睨んでいる。こうなれば、もう斬るしかない。
 夏侯覇は腰の剣に手をやった。新兵が、脅えもない目でこちらを睨み続けている。
 剣を払い、首筋で止めた。刃が触れたところから、血が一筋流れた。それでも新兵は身じろぎ一つしない。なるほど根性だけはあるのだろう。
「貴様、怖くはないのか」
「騎兵になれないのなら、死んだ方がましだ」
 言った新兵に、夏侯覇は一瞬気圧された。
「何故、騎兵になりたい」
「俺の親父は、張郃軍の騎兵だった。いや、でした。しかし前の戦で、帰らぬ人となりました。親父を殺した蜀軍に、俺は復讐してやりてえんです」
 なるほどそうかと思い、夏侯覇は首筋から剣を離した。張郃と会う前、自分の中にも蜀軍に父を殺された恨みがあった。張郃から見た自分も、こんな感じだったのかもしれない。
「お前の父の名は、何という」
「徐唐、です」
 部下の名前は全て頭に入れている。無論、その徐唐という名も知っていた。ただ名を知っているというだけで、顔まではよく思い出せない。今の世なら珍しくもない、名も無く死んでいく兵の一人だ。
「お前の父に免じて、一度だけ見てやろう。乗ってみろ」
 その新兵は立ち上がり、馬を前にした。その様子を夏侯覇は凝視した。
 馬の首に手を当て、何か語りかけている。そして馬に跨った。馬は嫌がることなく、その新兵を受け入れていた。
 ほう、と夏侯覇は思わず口に出した。新兵を試すためのこの馬は、性格の荒々しいものを選んでいたのだ。馬上の新兵は、落ち着けと自分と馬に言い聞かせるように、ゆっくり胸を上下させ呼吸している。体はでかいが、旗持ちくらいはできるかもしれない。
 夏侯覇は小石を拾い、馬の尻にいきなりぶつけた。馬は弾かれたように暴れだし、新兵は声を上げて落馬した。そして落ちた所で、涙を流し始めた。
「俺は、やはり駄目ですか」
「お前の名は」
「徐質」
 赤く濡れた目を、徐質が向けてきた。
「泣いている暇はないぞ、徐質。俺の調練は厳しい。覚悟しておけ」
「え、じゃあ」
「軍営に行け。以後、軍内で泣くことは許さん」
「はい」
 徐質は直立して答え、軍営の方へと走っていった。銭目当てのつまらない男ばかり集まるが、中にはこういう者もいるのだ。
 それからしばらく人選を続け、五十人目が終わったところで切り上げた。この日の採用者は、徐質を入れて七人だった。
 朝が終わり、営舎で昼食の支度をしていると、文官体の者が二人やってきた。姿格好で高官だとわかり、夏侯覇は直立した。顔は若く、自分と同じくらいだろうかと思えた。
「いや、そんな風にしないで楽にしてくれ、夏侯覇」
 左目の下に大きな黒子がある男が言った。高官だが、顔に見覚えはない。中央からやってきた者だろうか。
「私は司馬懿将軍の長子で、司馬師という。後ろは曹真殿の甥である、夏侯玄だ」
「そのお二方が、こんな所に何用でしょうか」
「そう堅苦しくするな」
 馴れ馴れしく肩を叩いてくる司馬師という男を、夏侯覇は不快に思った。いかにも前線の空気を知らぬ、中央から来た文官という感じを全面に出している。
「将軍から、軍営を見て廻ってこいと申し付けられまして」
 後ろの夏侯玄が言った。
 そういうことか、と夏侯覇は思った。まだ見知らぬ最前線の空気を存分に吸ってこいということなのだろう。
「わかりました。これから昼食なのですが、御一緒にいかがですか」
「いいな。軍の飯というものを、俺は食べてみたかったんだ」
 やはり態度が気になったが、気にしないよう努めた。
 軍営での食事は、穀物の玉を茹でただけの、戦時と変わらぬものを出していた。それは隊長級の者から兵卒まで、同じものを食う。
 干し肉や野菜を練りこんだ玉もあったが、夏侯覇はあえて何も混ぜていないものを選んで従者に用意させた。味付けは、一撮みの塩だけである。
 夏侯覇がなんでもないように茹でた玉を口に入れたのを見て、司馬師と夏侯玄もそれに続いた。
「なんだこれは」
 齧ったものを手に吐き出しながら司馬師が言った。夏侯玄は、微妙な顔をしながらも、口をもごもごと動かしている。
「兵はこのようなものを食っているのか」
「兵にとっては大事な食糧です。そのように無駄になされないようお願いします」
 言い草が気に障ったのか、司馬師が眉をぴくりとさせた。夏侯覇は気にせず、二口目を運んだ。
「他に何かないのか。軍には干し肉もあるだろう。持ってこさせろ」
「司馬師殿」
 夏侯玄はそれを諌めたが、司馬師は無視していた。
 夏侯覇はしぶしぶ従者に干し肉を持ってくるよう命じた。
 軽く炙った干し肉が出され、司馬師が齧りついた。
「固いが、こっちの方がいいな。噛めば噛んだ分だけ味が出る」
「あまり勝手なことをされますと、御父上からお叱りを受けますぞ」
「つまらんことを言うな、夏侯玄。俺は俺なりに考えているのだ。兵に出すのはまずい玉より肉の方がいいのではないか。肉の方が旨いし、力も出るだろう」
「穀物の方が、調達が簡単なのです。家畜を育てるには数年を要しますが、穀物なら一年でいいのですから」
 下らない質問だと思いながらも、夏侯覇は答えた。
「ふうん、そんなものか」
「乱世が続いて、働く人間が減っているからということもあるのでしょう」
 夏侯玄が言った。
「そのくらいのことはわかっている。そうだ、お前ら血の繋がりはないが、同じ夏侯氏だ。これを機会に誼を通じておけよ」
「これから司馬懿将軍の下で働くことになりました。以後、お見知りおきを」
「こちらこそ」
 夏侯覇は頷いた。司馬師は気に入らないが、嫌な顔をしながらも兵糧を平らげている夏侯玄には、少し好意が持てた。
「中央の宮廷は、ここでの戦をどう見ているのですかね」
「俺は父上に任せておけばいいと思っている」
「他には」
 司馬師は面倒くさそうな顔で肉に齧りつきながら、お前が答えろという風に夏侯気に仕草をした。
「ここへの兵站を担当している者は仕事に精を出していますが、残念ながら、多くの者はどこか遠くでの出来事だと思っているようです。そういう者にとっては、戦の無い地で平和を貪ることだけが至上なのです」
「そういうものですか」
 長く戦陣の中にあって、安逸の中にいるという感覚がわからなくなっているのかもしれない。平和を貪ることはつまらないことだと思えるし、少し羨ましいという気もする。
「父上が言っていた。平和を貪ることしかない者は、畜生と同じだとな。しかし心配するな、夏侯覇。来年には上方で大規模な徴兵を行い、蜀と呉の国境近くに配されることになっている。楽だけをしていては、魏の民でいられぬということを、奴らに教えておかねばならん」
 そういうお前はどうなのだ。思ったが、それは飲み込んでおいた。
「そいつらを調練するお前には、苦労をかけるかもしれんが」
「苦労などとは思いませんよ。もしよろしければ、午後の調練をご覧になっていかれますか。新兵の調練なので、あまり派手なものはお見せできませんが」
「我々はそれを見に来たのだ。是非案内してくれ」
 言って司馬師が残った肉片を口に放り込んだ。
 夏侯覇は二人を連れ、調練場に向かった。部下が新兵を並び立て、それぞれに馬を割り当てている。いずれも、鞍の無い馬である。
「志願してきた新兵を裸馬に乗せ、一定距離を走らせます。足の締め付けだけで乗るのです。手を使うことは禁じていて、使えば次から手が縛られます」
「かなり厳しいな。それでは死ぬ者も出るのではないか」
「またいつ蜀が攻めてくるかわからないので、悠長な調練はしていられないのです。これができない者は、戦で第一に死にます。その時には、他の者を巻き込むことも珍しくないのです」
「二人死ぬくらいなら、一人を殺すということか。流石に負けを知っている将の調練には重みがあるな」
 夏侯覇は、その言葉にひっかかりを覚えた。しかし調練開始の銅鑼が鳴らされたため、それは頭から払って目を調練に向けた。
 馬が半里の距離を駆け始めた。少しの距離で半数が振り落とされていた。中には反射的に馬にしがみつく者もいる。夏侯覇は二人のことを一時忘れ、兵の見極めのためじっと目を凝らした。
 一人も完走できた者はおらず、落馬した兵らはとぼとぼと戻ってきている。中には怪我をしている者もいる。
「過酷だな、これは。お前は兵の選別も厳しくしているようだが、こんなことで兵の補充は間に合うのか」
 夏侯玄が言った。
「蜀軍には、精強な騎馬隊がいます。数だけ揃えればいいというわけではないのです」
「それは、蜀の王平とやらが率いている騎馬隊のことか」
「よくご存じで」
「戦の報告書には、一通り読んでいる。お前はその王平に、いいようにやられているようではないか」
 夏侯覇は黙った。王平に負け続けていることは確かだが、戦を知らぬ中央の文官にとやかく言われる筋合いは無い。
「あの張郃将軍でも、そいつにやられたのだろう。長安の騎馬隊は北から良い馬を買っていると聞いていたが、ああも惨めなやられ方をしてはな」
 張郃のことを言われ、頭がかっとなった。そして声を上げた。
「あれは、司令官の立てた作戦が」
「おい、それ以上はやめておけ、夏侯覇」
 夏侯玄に止められ、夏侯覇はぐっと堪えた。どんな理由があろうと、軍内で上官の批判をすればただではすまない。まして司馬懿は、この軍内での最高司令官なのだ。
「平野での掛け合いなら、間違いなく張郃将軍は負けませんでした」
「ふん、不意打ちを喰らったのか知らんが、それも含めての戦だろう。軍人は、戦の結果が全てだ。違うか」
「……その通りです」
 夏侯覇は目を閉じ大きく息をし、心を鎮めた。
 二組目の新兵が並び、銅鑼が鳴らされたので、三人はそちらに目を向けた。
 一組目と同じように次々と落馬していく。しかし中に一人だけ、落ちずに駆け抜けた者がいた。
「ははは。あいつは上手く乗るではないか。ああいう者が精兵に育つのではないか」
 司馬師が嬉しそうに指を差しながら言った。
 徐質だった。駆け抜けた徐質は、悠然と下馬して馬の首筋を撫でていた。
「調練の見物も面白いな。指揮官は、ああいった者を選抜し、戦場で動かすのだな」
 司馬師の言葉が煩わしく、無視した。しかし司馬師の言うように、徐質は良い兵に育つはずだ。そのことだけを考えた。
「おい、夏侯覇。俺にもあれをやらせろ。兵のやることを知っておくことは、悪いことではないだろう」
「それは困ります。もし司馬師殿に何かあれば、私の首が飛びます」
「あまり俺を舐めるな。こう見えて、乗馬の心得はあるのだ」
「しかし」
「心配するな。何かあれば俺が親父に口を利いてやる。夏侯玄、お前も行くぞ」
「えっ、私もですか」
 嫌な顔をする夏侯玄を引っ張るようにして、司馬師は馬の方に行った。そして部下が轡を持つ裸馬に司馬師が乗り、兵に尻を押されるようにして夏侯玄も乗った。司馬師はまだしも、夏侯玄は明らかに馬に乗りなれていない。
 轡が離され、二頭が駆け始めた。
 駆けると夏侯玄はすぐに落馬し、司馬師は少し進んだところで危険を感じたのか、馬を乗り捨てるようにして飛び下りた。
 夏侯玄が、地にうずくまっている。
「大丈夫ですか」
 夏侯覇が駆け寄った。夏侯玄の左腕が、おかしな方に曲がっている。
 司馬師も近寄ってきて、腕を組んで困ったような顔をしていた。
「だから言ったのです。こんな無茶をして」
「その無茶を、お前は兵にさせているではないか」
 言った司馬師を無視して、夏侯覇は曲がった夏侯玄の腕を手にした。
「少し、我慢してくだされ」
 夏侯覇は折れた腕を引っ張り、骨をつないだ。夏侯玄が大きな呻き声を上げた。そしてすぐに養生所に連れて行き、折れた所に木の板を巻き付けた。
「これで安静にしておいてください」
「まいったな、これでは仕事ができん」
 夏侯玄が苦痛に顔を歪ませながら言った。
「馬の乗り方も知らんのがいかんのだ。文官とはいえ、馬ぐらい乗れた方がいい」
 ここまで黙って付いてきていた司馬師が言った。夏侯玄は、ただそれに苦笑を返している。
 夏侯覇は、司馬師の顔を見ないようにした。腹が煮えているのだ。司馬師の顔を見て、その怒りを表情に出さないという自信がなかった。
「俺は軍営の方に戻っているぞ。痛みが和らいで歩けるようになったら来い。雑兵に情けないところを見せるなよ」
 居心地が悪かったのか、司馬師はそこから出て行った。出て行くと、夏侯覇は一つ舌打ちをした。
「申し訳ない、夏侯覇殿。私が情けないばかりに」
「私が止めるべきでした。この責は、私にあります」
 横になった夏侯玄の腕に、冷たい井戸水で濡らした布を当てた。かなり腫れていて、痛々しかった。
「悪く思わないでください。あの人も、あの人なりに考えているのです。それが今回は、悪い方に出ただけなのです」
「考え、ですか」
「ここだけの話、あの人は長安に来て不安なのです。戦などしたこともないのに、軍人の上に立たなければならないのですから。本来なら司馬師殿は、都で政務を粛々とこなすだけでよかったのです。それが、御父上が司令官であるため、こうして最前線にまで出てこなければいけなくなった」
「父がそうだからと言うのなら、我々もそうではありませんか」
 そうですね、と言うように、夏侯玄は軽く笑った。
「あの人は、心が敏感なのです。鋭敏過ぎると言ってもいい。それで張らなくていい虚勢を、つい張ってしまう」
 夏侯覇は頷いて答えた。
夏侯玄の表情が落ち着いてきている。冷やすことで、痛みが和らいできているのだろう。
「我々は同じ魏国の臣です。中には気の合わない者もいるでしょうが、上手くやっていかなければいけません。さもなくば、蜀にやられてしまう」
 司馬師のことが気に入らなくても、顔を立ててやれと言っているのだろうか。つまらない者であろうが、組織に属せばそういうことも必要なのだろうということはわかる。もう、張郃の下で働く一人の兵ではなく、一人の指揮官になっているのだ。
「その通りです」
「有難い答えです。しかし私にはわかります。頭にきているのでしょう。言葉に出さずとも、あなたの発する空気がそう言っています。その性格のせいで、今まで数々の損をしてきたのだろうということも、なんとなくわかります」
 それを聞いて夏侯覇が低く笑うと、夏侯玄も低く笑った。司馬師と会ってから、一度も出てこなかった笑みだ。この男となら、屈託なく上手くやっていけるかもしれない。
「魏の臣として、上手くやっていかなければならないと言っていましたな。なら今から、堅苦しい物言いで話すのはやめにしませんか」
 夏侯玄は、何かを考えるようにして黙っていた。
「我らは、同じ夏侯だ。他人のように話すのはよそう」
「俺は馬から落ちて腕を折るような男だ。部下から舐められるかもしれんぞ」
「構わんさ。俺が前で戦い、お前は後ろで戦う。誰もお前のことを笑いはせんよ。俺ができないことを、お前はできるのだからな」
 夏侯玄が鼻で一つ笑った。
「わかった。戦場で困ったことがあれば、俺に相談してくれ。できる限りのことはしよう」
「うむ、遠慮なく言わせてもらおう」
「負けを知っている者は、度量がでかいものだな」
「いきなり皮肉を言うか。次は負けないから、後方からしっかり援助しろよ」
「任せておけ。その代り、もう負けることは許さんぞ」
「負けるものか。もう、負けんよ」
 夏侯覇は自分に言い聞かせるようにして言った。
 そんな話をしていると、夏侯覇の従者が入ってきた。
「大将軍がお呼びです」
「もう来たか。さて、叱られてくるかな」
「心配するな、夏侯覇。何か言われれば、俺が弁護してやる」
 夏侯覇はそれに頷き、養生所を出た。
 軍営内の営舎に近づくと、怒鳴り声が聞こえてきた。司馬懿の声だ。
 物憂い気分になりながら、夏侯覇は中に入った。
 さっきとは違い、神妙な顔つきで俯いている司馬師が、鼠のように小さくなって座っていた。
 夏侯覇を横目でちらりと確認した司馬懿は、司馬師を二つ三つと怒鳴りつけ、歩み寄ってきた。
「困るな、夏侯覇。お前の軍営で、曹爽殿の従弟をあんな目に遭わせるとは」
 曹爽は曹真の子で、中央で力を持ち始めている文官だ。司馬懿との仲は悪くないと聞いていた。その関係にひびが入ることを憂慮しているのかもしれない。
「お前のやったことは、儂の顔に泥を塗ったも同然ぞ」
「申し訳ありません」
 司馬懿の夏侯覇に対する態度は、前回の戦からきついものになっていた。この説教は、しばらく続くのだろう。
 司馬懿の怒鳴り声に俯き、夏侯玄の言葉を思い返しながら、夏侯覇は耐えた。


6-8
 一連なりの山々が、緑を繁らせ横たわっていた。
 北へ向け、そこを三日で抜けろと王平から命じられていた。蔣斌は道なき道を、木の枝を払いながら進んだ。
 漢中から斜谷を抜け、魏領に入った所で句扶と合流することになっていた。そこで何をするのかは、まだ聞かされていない。
 日差しが強かった。頭上では蝉が喧しく、山全体が鳴いているようだった。蔣斌は谷に流れる川の岩場に腰を下ろし、竹筒の水を飲んで干し肉を齧った。この川を辿って行けば、涼州の主要河川である渭水と合流する手前で、武功という集落に到着するのだという。句扶がいるということは、そこで何らかの工作をしているのだろうか。
 三日目の昼、川に沿って歩き続け山を抜けた。かなりの長い距離を歩いてきたが、大きな疲れはなかった。軍内での生活で、体がかなり強くなっていたし、見た目にも大きくなっている。軍人になる前の成都にいた頃なら、五日かかってもまだ到着できなかっただろう。
 王平からの話によると、川から東側の平野が武功であり、西側にある南北に伸びる胴長の丘が五丈原のはずだ。この武功という平野に点在する村のどこかに、句扶がいる。
 蔣斌は川の流れから外れて東へと歩いた。ここはもう、魏領である。十九になった蔣斌にとって、蜀から外に出るのは初めてのことだった。
 涼州の州都である長安からは大分離れているが、田畑広がる武功の人の営みは決して少ないものではない。誰もが鍬を手に地を耕し、農作業に従事している。
 その光景を何となく眺めながら歩いていると、背を丸めた小男が目の前を横切り、片目の潰れたその顔をこちらに向けてきた。句扶だ。
 句扶は何も言わずに歩き始めたので、蔣斌も何も言わず、距離を開けたままその後ろを歩いた。
 やがて農村からはずれ、南の谷から流れてくる武功水まで戻り、川べりの岩と岩の間の隙間に入った。
「よく来た、蔣斌。今からこれに着替えろ」
 岩の隙間には程良い空間があり、そこには様々な物が置かれていた。句扶はその中から農民の着るものを無造作に掴んで渡してきた。
「私は、武功で農民になるのですか」
 渡されたものを着ながら蔣斌は聞いた。
「長安に人が集まり続けている。司馬懿はそれを方々に分けて住まわせ、農耕をさせているのだ。何のための農耕かは、わかるな」
「軍備としての農耕ですか」
 句扶は頷いた。
「武功の集落は大きい。それに長安から離れている。つまり、司馬懿の目が届き難いとうことだ。蚩尤軍の任務は武功の農民に紛れ込み、戦が始まると同時に武功を制圧してここの農作物を奪うことだ」
 それを聞いて、蔣斌は腹の底から熱いものが湧いてくるのを感じた。同じことを繰り返す軍の調練に比べると、こっちの方がずっと面白そうだ。
「勘違いするな。武功の制圧は、蚩尤軍の任務だ。お前は半年をここで過ごし、武功の東端にある馬冢山から川の向こうにある五丈原までの地形を頭に叩き込め。戦になれば、お前が王平将軍の道案内となるのだ」
「わかりました」
「黒蜘蛛にはくれぐれも気を付けろ。少しでも目を付けられたと感じたら、すぐにでも漢中へ帰れ」
 言われて、蔣斌は唾を飲み込んだ。自分はもう、敵国内にいるのだ。
 最低限のことを確認し、句扶がそこから出てしばらく経ってから蔣斌も出た。身なりはどこからどう見ても農民だった。
 武功の農民になることは難しくなかった。役人に願い出ると、何やら暗号のような文字の羅列が書かれた木札を渡され、王其村という武功水から目と鼻の先にある村落に行けと言われた。
 武功水から近場であることに、蔣斌は安堵した。何かあればすぐにでも漢中に逃げ帰れる場所である。
 与えられた仕事は農地の開墾であった。王其村に農地はあったがまだ少なく、これを広げていくのだという。力仕事であったが軍の調練に比べればどうということなく、蔣斌は幾日も地に鍬を振り下ろし続けた。
 働けば役人から銭を貰え、それは五日に一度開かれる市場で使えた。市を開く商人は長安からだけでなく、遠くは魏の都である許昌からも来ていて、長安周辺の村々を回り開墾に従事する者らを相手に商いをしているのだという。
 商人が多いということは、それだけ田畑を広げる仕事に就いている人が多いということなのだろう。魏もこうして増産を重ねることで、いずれ再び来る蜀との戦に備えているに違いない。過去に蜀軍は、兵糧の欠乏を理由に何度も煮え湯を飲まされ続けているのだ。
 蔣斌は、市が開かれれば必ずそこへと足を運び、その行きと帰りに武功内をくまなく歩き回った。東は馬冢山を調べ、役人の目を盗んで武功水を渡り五丈原を登った。今まで学んだ軍学を思い浮かべながら、その地形を頭に入れていった。そして月に一度は、蚩尤軍の拠点で句扶と密かに会い、見たこと気付いたことを全て話した。こうして蔣斌の得た情報は、蚩尤軍を介して漢中へと送られ、やがて成都の諸葛亮のところへと届くのだろう。
 句扶と会ったその日の帰りに、王其村の中で一人の女に声をかけられた。
「お兄さん、こんな時間にどこ行ってたの」
 蔣斌は全身を緊張させた。見た目はただの村娘だが、黒蜘蛛は男だけとは限らないと句扶から言われているのだ。
「どうしたの。そんな恐い顔して」
「魚を釣りに行っていた。俺は魚が好きなんだ」
 いつ役人から聞き咎められてもいいよう、川辺で句扶と落ち合う時は、武功水の魚を釣って魚籠に入れていた。
「ふうん、見せて」
 言って女は近づいてきて、魚籠の中を覗いた。覗くその胸元から日に焼けた肌が見え、思わずそちらに目がいってしまった。
「この魚、ちょうだい」
 女が魚籠の中を指差しながら言った。
「何言ってんだ。これは俺のだ」
「けち臭い。お代は体で払ってあげてもいいのよ。さっき、あたしの胸見てたでしょ」
「あっちへ行け、この売女め」
 蔣斌は手を振って女を追い払った。
 黒蜘蛛に気をつけろ。煩悩を押しのけるよう、句扶から言われたその言葉を思い出した。体が女を求めれば、市で銭を払えばいいだけのことだ。
 次の日、蔣斌は王其村内を歩き回った。昨日の女が黒蜘蛛でないただの村娘であれば、今頃どこかで農作業をしているはずだ。その確認だけはしておくべきだと思った。
 昨日話しかけられた道の近くに、その女はいた。
 女は、女子供がするような軽作業ではなく、男に混じって鍬を手に畑を耕していた。蔣斌は繁みに隠れながらその様子を眺めた。何故、女が男の仕事をしているのだろうか。あの女が黒蜘蛛であるならば、もっと普通に振る舞っているはずではないだろうか。
 蔣斌は繁みから出て、さり気なく女の耕す畑の傍を通ってみた。
 すぐに女はこちらに気付き、声をかけてきた。
「昨日のお兄さん、どこ行くの」
 よく見ると美人でもなんでもない、と思った。しかし汗を拭うその女の姿は、どこか淫靡なものに見えた。
「市に女を買いに行くんだ」
「あっ、市に行くんならさ」
 女は蔣斌の言うことを無視するようにして言い、近寄ってきた。
「銭は渡すから、何かおいしいもの買ってきてよ」
「なんで俺が。自分で行け」
 女が腕を組んだ。
「若い娘が村を出て、そんな遠くまで行けるわけないでしょ」
 市までは王其村から歩いて二刻程かかる。女の歩みならもっとかかるかもしれない。この距離は女にとって遠いのか、となんとなく思った。
「他に誰かいないのか。お前の父上とか、兄弟とか」
「お父とお兄は、戦で死んだ。家にはお母しかいないもん」
 戦で死んだということは、蜀軍に殺されたということなのだろうか。あえて聞き確かめることはしなかったが、蔣斌はそれに後ろめたさを感じた。
「いいだろう。何がいいか言ってみろ」
 それを聞いて、女は白い歯を見せて笑った。
「気色の悪い女だ。家族が死んだ話をして笑う奴があるか」
「もう十分悲しんだもん。こっちはこっちで生きることに大変なんだから」
「わかったから、何が欲しいんだ」
「あたし、肉が食べたい。羊の肉でも、牛でも豚でもいい」
「わかったよ」
「銭は後でいい? 今は作業中だからさ」
「わかった、わかった」
 蔣斌ははしゃぐ女を横目にそこを後にし、市へと向かった。
 女に言われた通り肉を買い込み、妓楼にも行った。句扶に女を教えられてからしばしば妓楼には通っていて、武功に来てからも市に行く度にそうしていた。それが悪いことだとか不埒なことだとは思わない。むしろ煩悩が溜まり仕事に支障が出れば、その方が悪い。ただなんとなく、成都にいる父には知られたくないという気はする。
 市からの帰りは遠回りをして武功を見て廻った。平野に点在する村落の位置関係は、もうほとんど憶えている。武功に広がるのはほとんどが麦畑で、その穂は市が来る度に青々と実りを太らせ続けていた。この年に戦はないが、いずれ戦が始まればここの収穫は全て蚩尤軍によって接収されるのだ。行く道々の農夫らも、あの売女も、気付かぬ内に蜀のために働いているということになるのだろう。
 辺りが暗くなってきた頃、王其村に辿り着いた。昨日と同じ場所に、女はいた。
「よう、売女。肉を買ってきたぞ」
「なによそれ、酷い言い方」
「ここで体を売っているんだろう」
「家にいたらわからないと思って、ここで待ってたんだよ」
「ほう、俺のことを待っていてくれていたのか」
「ううん、肉を待ってた」
「そうかい。少し多めに買ってきたから、好きなのを選べよ」
 そう言い蔣斌は堤を開いて見せた。それを見て、女が目を輝かせていた。
「銭を払うからさ、うちにおいでよ。あたしが肉を焼くから、ついでに食べて行けばいいじゃない」
 女に言われるまま、蔣斌はついて行った。もう、黒蜘蛛のことは頭になかった。
 粗末な茅葺の家に入ると、中から嫌な臭いがした。汚物の臭いだ。土を掘り返しただけの囲炉裏に女が火を入れると、そこで初めて隅に誰かが寝ていることに気付いた。
「お母、肉が手に入ったよ」
 蔣斌は一目見て、女の母が病であるとわかった。それも、かなり重い病だ。だから魚や肉を欲しがっていたのか。
 横たわりながらそのまま糞尿を垂れ流していたようで、女はその始末を始めた。それを横目に、蔣斌は肉を小さく切って木の枝に刺し、囲炉裏の火でそれを焼いた。すぐに油が滲み出て火に落ち、じゅっと音を立てた。
「ほら、焼けたぞ」
「それじゃだめ」
 言って女が小さな鍋を取り出した。それは、悲しい程に小さな鍋だった。
「焼いただけじゃ固くて飲み下せないの。肉は粟と一緒にこれから煮るから、それはあなたが食べて」
「じゃあ、お前が食えよ」
「いちいちうるさいな。黙ってそこに置いとけばいいじゃない」
 言われて蔣斌はむっとしたが、女が真剣な顔つきで鍋に火を入れ始めたので、黙ってそれを見ていた。
 小さな鍋は、すぐにくつくつと音を立て始めた。
「篤いな。母者はいつからこうなんだ」
「前の戦でお父とお兄が死んでからよ」
 女は母に鍋で煮たものを食べさせながら言った。食べ終え母が眠るのを確認すると、女も焼いた肉を口に入れた。
「もう、長くないな」
「言われなくてもわかってる。そしたらあたしは独りだってこともね」
「独りになったらどうするんだ」
「妓楼にでも入るわよ。というか、それくらいしか行く所はないし」
「そうか」
 言って、蔣斌も焼いた肉を口に入れた。
「じゃあ、銭をくれよ」
 女が食べていた手を止め、俯いた。
「銭は、ない」
「ないって、働いてるんだから、役人からもらってるだろ」
「もらってるけど、ここで得たものは銭も作物も、全て村長に差し出さなければいけない。作物はあとから食べる分だけもらえるけど、銭は返してもらえない。その替わりに、あたしらはこの村に居続けることができるのよ。一応、村の男にも守ってもらえる」
「つまらん村だな。俺なら逃げ出してる」
「戦の世だからね。弱い者は、搾り取られる。仕方の無いことなのよ。お父も取られて、お兄も取られて、今度は病がお母を取ろうとしてる。せめてあたしが男ならって思うんだけどね」
「男は男で、大変だけどな」
「女よりはましよ。じゃあ、こっち来てよ」
 言って女は家から出て行ったので、蔣斌もそれに続いた。
 家から少し離れた草むらで、女は衣服を落とし肌を晒した。日に焼けた、さして大きくもない胸が、月の光に照らされていた。
「銭がない分は、体で払う」
「いや、いいよ」
「あたしじゃ無理ってこと?」
「そうじゃなくて、あんな話を聞いた後じゃ、抱く気になれん」
「なによそれ」
 言って女は衣服を着直し、そっぽを向いた。女の勝手さに閉口しながらも、蔣斌は何か自分が悪いことをしているようになってきた。
「肉だけ置いて帰ってよ。ここには、もう用はないでしょ」
 言った女のその背中は、やけに小さく見えた。さっき見た鍋と同じようだ。そう思うと、蔣斌の体の底から何かが込み上げてきた。
 帰ろうとする女の背に、蔣斌は抱き付いていた。そして顎を掴み、唇を吸った。女も、すぐに吸い返してきた。虫の音が響く草むらで、二人はしばらく交ぐわった。
「あたし、体の逞しい男の人好き」
 女が蔣斌の体に指を沿わせながら言った。
「ねえ、あたしの旦那になって。それであたしのこと守ってよ」
「ううん」
 蔣斌は生返事をした。下賤の女だが、それも悪くはないという気がする。しかし、父や王平は何と言うだろうか。
「ううんって、旦那になってくれるの」
 蔣斌は上半身を起こし、女の体をどかせた。
「俺はもうすぐ、ここを離れる」
「あたしも行く。ねえ、連れてってよ」
「お前の母者はどうする」
 言われて、女は黙った。
「でもしばらくしたら、戻ってくる。そしたらまた会いに来るよ」
「本当に? それでもいい。また会いに来て」
 蔣斌は頷いた。
「まだ、名を聞いていなかったな」
「あたしは、琳」
「琳か」
 良い名だ、と出そうになったのを、蔣斌は飲み込んだ。琳ともっと一緒にいたいという気持ちもあるが、これ以上情を移してはいけないという気持ちも強くあるのだ。
「あなたは、何て言うの」
「蔣斌」
「ここを離れても忘れないで。早くあたしのことを迎えに来て、蔣斌」
「そろそろ行くよ」
 悲しそうな、不安そうな顔をする琳を尻目に、蔣斌は立ち上がった。横目でちらりと見るだけで、なるべくその顔を見ないようにした。
「また、会いに来るよ」
 そう言い残し、その場を離れた。
 帰りの道中、後ろ髪を引かれる思いと同時に、激しい自責の念に駆られた。任務中だというのに、自分は何をやっているのだ。女が欲しければ銭で買えるし、成都に帰ればもっといい嫁を得ることもできるはずだ。あの下賤の女は、己の不幸な境遇故に自分のことを求めている。ただそれだけのことなのだ。
 そんなことを考えながら歩いていると、二人の歩哨を連れた役人が目の前に立ちはだかった。
「こんな時間にどこへ行く」
 蔣斌は心の中で舌打ちをした。夜間の一人歩きはこうして呼び止められることがあるということは知っていた。この村は蜀との国境に近く、魏の役人は人の出入りを強く警戒しているのだ。この役人自身が黒蜘蛛であるということもあり得る。
「市に行っていたのです。つい遊び過ぎてしまい、こんなに遅くなってしまった」
「市に行っていたにしては、何も持っていないではないか」
 買ってきた肉は、全て琳の家に置いてきていた。
「女を買っていたのです。それで、荷は何もありません」
「なら、少しは銭を持っているはずだろう。見せてみろ」
 賄賂を寄越せと言われているのだろうか。蔣斌はわずかばかりの銭を役人に見せた。市で肉と女を買ったため、ほとんど手元に残っていなかった。
 すると突然、役人は大声を立て始めた。
「荷も銭も無いとは怪しい奴め。これから役場にまで来てもらおう」
「待ってください。私はここで開墾をしている一人の農民です。怪しくもなにもないのです。家に戻れば、それを証明する鑑札もあります」
「詳しいことは、役場に行けば全て調べはつく」
 連れて行かれるのはまずい。証拠がなくても疑いがあれば、牢に入れられかねないのだ。そうなってしまえば、与えられた任を果たすことができない。場合によっては、首を打たれることもあり得る。
 不意に、腰の曲がった一人の小男が闇の中から現れた。その男はよぼよぼと歩き、そこを通り過ぎようとしていた。
 なんだという顔でその男を見ていた役人が歩哨に命じて止めさせようとすると、小男は跳躍して二人の歩哨を斬り倒した。その小男は、句扶だった。
 蔣斌も隠していた小刀を素早く手にして、役人の首を払った。鮮血が、さっと蔣斌の体を濡らした。
「馬鹿者、早く逃げるぞ」
 句扶に続き、蔣斌は走った。
 闇の中から、一つ二つと気配が湧き始めた。追われている。
 句扶は後ろを伺いながら、さっと飛刀を闇の中に投げつけた。気配が一つ消えた。しかし、まだ追われている。走るこちらの足元にも、飛刀が数本突き立った。
 武功水が見えてきた。川辺に着き岩陰を縫うようにして走り、岩のわずかな隙間に句扶の体が吸い込まれたので、蔣斌もそこに体を滑り込ませた。
 追手の気配が近づき、離れていった。しかしまだ油断はできない。
 一言も発することなくただ息をするだけで、かなりの時をそこで過ごした。もう日はかなり高く昇っている。
 句扶が指で蔣斌の体を軽く叩いてきた。
「お前の偵察は露骨すぎる。市を出た時から、お前は見られていたのだ。それに気が付かなかったか」
 言われて蔣斌は愕然とした。あそこで役人に止められたのは、偶然ではなかったということなのか。
「気付かなかった理由を言ってやろうか。女のことを考えていたな、この青二才め」
 その通りだった。しかもどこにいたのかすらわからなかった句扶に見抜かれていた。その時のことを思い返し、未熟であった自分を愧じた。
「あの女も、黒蜘蛛だったのでしょうか」
「恐らく、違う。黒蜘蛛は、長安から送られてくる者らに混じっているのがほとんどだからな。あの女は、土着の者だろう」
 蔣斌はそれを聞いてさらに驚いた。まだ会って二日の女なのに、蚩尤軍はもうそんなことまで調べ上げているのか。
「申し訳ありません」
「お前を泳がせることで、黒蜘蛛の動きが浮かんできたということもある。そういう意味で、お前の愚かさは無駄ではなかった」
ただ愚かだった。一人の女に心を動かしたため、命を落としかけたのだ。
「武功一帯は頭に入っただろう。もう、漢中に帰れ。それとも、女に未練があるか」
 蔣斌はかぶりを振った。もう黒蜘蛛に顔が割れてしまっているのだ。これ以上武功に留まることは、自殺に等しい。
「漢中に帰ります」
「三日後だ。それまでここにいろ」
「そんなに」
「黒蜘蛛を舐めるな。俺の言うことが聞けないのなら、試しに今からここを出てみるといい」
 それから三日三晩、句扶の持つ干し肉だけで二人はそこで過ごした。そして四日目の夜、句扶が先に出て周囲を確認し、蔣斌もそこから這い出た。
「すみやかにここを離れろ。追手は常にいるものと思いながら走れ」
 言って句扶は姿を消し、蔣斌は南へ走った。ずっと岩の間にいたので体の節々が痛かった。
 黒蜘蛛の気配は無かったが、句扶に言われた通り、まだ追われているのだと思いながら南へと走った。
 一人になると、琳の顔が浮かんできた。蔣斌は必死にそれを頭の中から払いのけた。


6-9
 国中の兵糧が、漢中に集まり続けていた。その量は膨大なもので、漢中の大兵站基地である漢城の倉が見る見る内に満ちていった。
 張郃を討ち取った前の戦から、三年が経ったのだ。その間に蜀国内で生産されたもののほとんどが集まってきているのだ。
「多いな。これではまた民から不満が出るのではないか」
 兵糧庫の視察を共にしていた劉敏に、王平は言った。
「危惧するのではなく、よく耐え力を振り絞ったと、民を褒めるべきでしょう」
「褒めるだけで事が上手くいけば苦労はせんわ」
 前回の戦では、兵糧が十分にあったにも関わらず、長安まであと一歩という所で撤退を余儀なくされたのだった。民からいくら絞ろうとも、その絞ったものを扱う人物が愚かであれば全てが水泡に帰す。それをやったのが、蜀国の高官であった李厳だった。
 何百万の民が戦に力を傾けようと、ほんの一握りの者が愚かであれば、それは意味のあいものになってしまう。涼州を失う危機に面した魏国にとって、李厳の勝手な判断は天佑だっただろう。
「この量でどれほど戦うことができるんだ、劉敏」
「まず一年は楽に戦えます。武功の占領の足掛かりが盤石になれば、二年でも。それ以上の遠征となると蜀国内の情勢を見て決めなければなりません」
「国内の情勢とは、南方のことか」
「はい」
 成都からの搾取が続く南方地域の不満は、既に慢性的なものになりつつある。この三年の間に成都へ帰還していた蜀軍本隊が、南方で不満を口にする主立つ者を幾人か討っていたが、このような方法でいつまでも穏便に済ませることができるはずもない。武功を占領すれば二年留まれると劉敏は言うが、はじめの一年以内に長安を奪取できなければ、いくら兵糧があろうと蜀軍はかなり苦しい所に立たされることになるだろう。
 長安を落とせば、涼州の糧食が手に入る。そうすれば、蜀国は南方も含めて豊かになるのだ。
「こうなれば大義など霞むな。まるで食い物のために戦っているようなものだ」
「涼州でも司馬懿が食い物の調達に苦労しているようです。銭を使い周辺から人を集め、広大な地域を開墾しているという話です」
「飯のために戦うか。人とはとどのつまり、そういうものなのかもしれんな」
 王平と劉敏は漢城の軍営に入った。王平軍は既に漢城の外に集結しており、近くに魏延軍もいる。数日後には、成都を発した蜀軍本隊も到着する手筈だ。
 軍営にいると、北へ放っていた蔣斌が戻ってきたと従者が伝えてきた。
 王平と劉敏が座る中、威勢の良い声と共に蔣斌が入ってきた。
「ただいま戻りました」
「ご苦労だった。武功で見てきたものを言え」
 王平が言った。
「武功は渭水に恵まれた開墾に適した平地であり、村落多く、人が増え続けています。東には馬冢原(ばちょうげん)、西には五丈原があり、戦になればこの二つの地が要所になると思われます」
「おい、蔣斌。そんなことは句扶殿からの報告でわかっているのだ。お前が独自に調べたものを言えと言っている」
 劉敏が咎める口調で言った。
「独自に、ですか」
 叔父である劉敏に睨まれた蔣斌が小さくなっていた。
「どんなつまらん話でもいい。いや、つまらん話をしてみろ」
 王平が言うと、蔣斌は少し考えた顔をし、喋りだした。
「私は武功で農民をしておりました。農民になれば、銭がもらえました。その銭は五日に一度やってくる市で使うのです」
「どの程度の銭が貰えるのだ」
「その五日に一度の市で使い切れる程の銭です」
「なるほど。その銭と市を目当てに人が集まるということか」
「私も市には何度も行き、その道中に武功の地を歩き回りました。用もないのに武功内を歩き回ると、役人に目をつけられるからです」
「馬冢原と五丈原に、兵はいなかったか」
「馬冢原には武功の平地を見渡せる櫓が二つ立っているだけで、警備は厳しいものではありませんでした。地元の住民がそこで野草を採っていたので、私もそれに混じって野草を採るふりをして調査をしていたのです。武功水から西の五丈原周辺はまだ住民少なく、櫓すらありませんでした」
 王平は腕を組み目を瞑り、黙ってそれを聞いていた。武功周辺の要所に櫓が少ないということは、司馬懿はまだ蜀軍がどこを予定戦場としているか掴んでいないということだろう。
「そういうことを言えばいいのだ、馬鹿者」
 劉敏が机の上で何かを書き込みながら言った。
「市には何があった」
「肉屋と妓楼が多かったです。細工物を売る商人もいましたが、少数です。野草と肉を料理する店もありましたが、穀物はほとんどありませんでした」
「妓楼の女はどうであったか」
「えっ」
「魏の女の味はどうであったかと聞いているんだ」
「それは」
「否定せんということは、任務中にも関わらず妓楼に通っていたということか」
 言い難そうにしている蔣斌を見て、王平は大笑した。隣では劉敏が、つまらなそうな顔をして何かを書き続けている。
「大義であった、蔣斌。戦は近いぞ。それまでに英気を養っておけ」
「御意」
 蔣斌は一礼し、退室して行った。
「司馬懿は上手く銭を使って兵糧を増やしているようだな。敵の兵站に弱点を見出すのは難しいか」
「丞相は、東国の呉と同時に魏攻めができないか模索中です。それが成れば魏の中央から長安への糧道を細くことが期待できますが、司馬懿はそのことも計算に入れているのでしょうな」
「誰にも頼らず戦をしようとしている司馬懿と、呉を頼みとする丞相か。丞相も呉などに頼らず、我ら現場の指揮官に頼ればいいというものを」
「それはそうですが、それでも呉との協力は蜀にとって不可欠なことです。なにせ魏にとっては、巨大な戦線を二つも抱えることになるのですから」
「司馬懿はそのことをよくわかっている。敵ながら見事なことよ。己の力のみを信じているのだろうな」
「心配なさらないよう。丞相も、戦になれば呉のことは忘れ、現場にのみ全力を尽くされるはずです」
 今頃、司馬懿は蜀軍がどこから攻めてくるか苦悩しているのだろう。蔣斌が伝えてきた馬冢原と五丈原の様子からそう思えた。
 三年ぶりの戦である。伝令が、成都からの第一陣が到着したことを伝えてきた。

 どこから来るかだった。
 蜀の前線拠点である漢中に兵糧が集まり始めていると、黒蜘蛛が報せてきたのだ。漢中から長安までの道は主に三経路あり、防備のため先ずこれを予測しなければならない。
 司馬懿は議論のため諸将を政庁に召集した。正面に大きな地図がかけられた部屋に、武官筆頭である郭淮をはじめ、歩兵隊長の費耀や騎馬隊長の夏侯覇らが居並んだ。司馬懿は傍らに司馬師と夏侯玄を置き、地図を背にして座った。
「蜀軍が懲りずにまた我らが魏領を侵そうとしている。我らはこれを最大限の力をもって阻止せねばならん。この三年、そのための備えもした。今こそ我らはその蓄えた力を発揮せねばならん」
 司馬懿を見つめる面々が頷いた。
 司馬懿は近くに座っていた辛毗に目で合図をし、現状を説明するよう促した。
「現在の蜀軍は漢中最大の兵站基地である漢城に兵糧を集積しております。これにより、蜀軍の侵攻は間近であることは確実であると言えるでしょう。ならば蜀軍はどの道を侵攻してくるか、ということが今回の議題でございます」
 司馬懿は諸将の顔を見渡しながら辛毗の言葉を聞いていた。
 議論をさせるための軍議であったが、蜀軍はどこからやってくるかは司馬懿にとってどうでもいいことだった。諸葛亮の性格からして、近道だが一番険しい東の子午道は無いだろう。ならば斜谷道を通り陳倉へ出る道を取るか、三年前と同じく西へ大きく祁山方面を回って天水辺りで対峙するかの二つが考えられる。どちらであろうが先ず陳倉に兵を入れ、西から来ることがわかればそれから動けばいい。仮に子午道から来ようとも、黒蜘蛛の情報網による情報伝達速度があれば、陳倉からなら十分に対応できる距離だ。
 進軍路がどうという話より、この軍議で諸将の意気と考えを知っておきたかった。
「私は、西に備えるのがよろしかろうと思います」
 郭淮が立ち上がり、厳かに言った。
 司馬懿は心の中で舌打ちをした。武官筆頭である郭淮が先に何か言ってしまえば、その下の者らは後に口を開き難くなる。郭淮は戦場の指揮官としては堅実さがあり優秀だと言えるが、こうした心配りに欠けるところがあった。
「何故そう思うか、ご意見をお願いします」
「今は冬で降雪深く、雪が無い夏でも進軍が困難な子午道はないでしょう。斜谷道も同様に、山深いため雪が降れば進軍に困難が伴います。今までの諸葛亮の慎重な行動を見ても、天水に備えを置くべきだと思います」
 自分の考えることと大筋同じだ、と司馬懿は思った。しかしそれは誰にでも思いつく凡庸なものであり、秀でたものは無い。
「子午道を取る可能性は低い。斜谷道も同様に、低い。だが低いからといって、考えから除外すべきではない。敵に裏をかかれる時は、常にそうした時だ」
 司馬懿にそう言われた郭淮は、不満そうな顔をしながら座った。ここでもう一歩踏み込まず、簡単に引いてしまうのがこの男の悪いところだ。
「申し上げます」
 費耀が立ち上がり、司馬懿は頷いた。
「子午道の可能性が低いというのは、私も同意見でございます。あの道をとって前回の様に持久戦になりにでもすれば、その悪路から兵站線の維持自体が困難となり、自ら退路を断つも同然となるからです。なら同じく雪深くなる秦領山脈を跨ぐ斜谷道はどうでしょうか。対峙が長期化し雪が溶ければあの道はさほど悪路でなくなり、雪融け水により谷川が増水すれば、船による兵糧輸送も容易になります。我が軍は陳倉に兵を集めて備え、西から来れば陳倉から西の瀧関にて蜀軍を撃退するべきだと思います」
 おや、と司馬懿は思った。普段は目立たず郭淮の影に隠れるようにしている費耀であったが、郭淮の発言とは逆のことを言っている。
「雪が溶けることで戦況が変わると見たか。なるほどそれは考えておかなければならんことだな」
 費耀の言葉に関心を示すような口調で司馬懿は言った。
「恐れながら」
 郭淮がまた立ち上がった。
「瀧関以西を捨てれば羌族が蜀に付くことは必然です。そうなれば蜀軍は膨れ上がり、八万程度であろうと思われる蜀軍は十万を超え、九万の魏軍は数的不利を強いられることとなります」
 費耀がそれに続いた。
「羌族で蜀軍が増強されようと十二万を超えることはありません。今度の戦の目的が敵を打ち破ることになく魏国から追い出すことにあれば、九万の軍勢で十分でありましょう。それに忠でなく利で動く羌は弱兵であります。それを証明したのは初めて蜀軍が侵攻してきた時に兵站を守っていた羌を蹴散らした郭淮殿ではありませんか」
 司馬懿は費耀の真意を見極めようとした。本当に国のことを思って言っているのか、それとも郭淮を出し抜き軍内での発言力を高めようとしているのか。国を思う心があれば、信頼することができる。出世を望むだけであれば、郭淮と競わせ功を立てさせればいい。恐らく後者であろうと司馬懿は読んだ。二人に喋らせるのは、このくらいでいいだろう。
「夏侯覇、お前はどう思う。騎馬隊長としての意見を聞かせてみろ」
「私ですか」
 司馬懿に唐突に名指しされ、夏侯覇が戸惑いつつ起立した。
 張郃が戦死し、彼が率いていた騎馬隊は一度解体し、幾つかの隊に分けて長安軍に組み込んでいた。戦時になれば司馬懿の指一つで動く騎馬隊である。夏侯覇にはその幾つかある騎馬隊の一つを指揮させていた。
「私は、戦場にあれば司令官の命に従うだけです」
「軍議であるぞ。それでは私はわかりませんと言っているのと同じではないか、夏侯覇」
 郭淮がそう言うと、周りから微かに笑い声が湧いた。
「座れ、夏侯覇」
 司馬懿が告げ、顔を赤くした夏侯覇が着席した。
 それから何人かが発言したが、全て取るに足らないものばかりだった。そして意見が出尽くした頃合いを見計らい、司馬懿は立ち上がって言った。
「本陣は陳倉に置く」
 言うと、費耀は満足そうな顔をし、郭淮は口を横一文字にしていた。
「この戦の目的は蜀軍を殲滅することでなく、魏領から追い返すことだ。陳倉であれば我が軍に地の利があり、渭水があるため兵站線の構築も容易になる。仮に蜀が羌を味方につけたとしても、我らは許昌からの後詰に期待ができる。徹底的に守り、自分の持ち場を守り抜け。攻めのことは考えなくて良い。それができれば、この戦は我らの勝ちだ」
 静かな一室に集まった諸将の目が、全て司馬懿に向けられていた。
「異論が無ければ、解散。軍営にて我が命を待て」
 武官らが出て行き、閑散となった部屋に数名の衛兵の他、軍議には口を挟まず見ていただけの司馬師と夏侯玄だけが残った。
 二人を前に座らせ、司馬懿は言った。
「不満である」
 短く言うと、司馬師の顔に緊張の色が浮かんだ。
「何に対してか、わかるか」
 司馬懿は顎で司馬師の方に、何か言ってみろと仕草で促した。司馬師が少し考える顔をし、言った。
「騎馬隊長である夏侯覇が、司令官の質問に対してわからないと言っていました。あのような答えをしたのは、夏侯覇だけでした」
「愚か者。そんなことで儂が怒るか」
 司馬懿が一喝し、司馬師が身を縮めた。
「むしろあの答えは良い答えだ。わからぬでも軍議であれば何かを言うのが良いことであると、お前は思っているのだろう。議論がおかしな方向に行くのは、そういう時だ。夏侯覇のことを笑っていた者の方が愚かなのだ。自分がわからぬことは、他のわかる者に任せてしまえばいい。そうするべきなのだ」
 司馬師と夏侯玄が、厳粛な面持ちで聞いていた。
「儂が不満と言っているのは、そんなことではない。夏侯玄、何か言ってみろ」
「兵站について何も触れられなかったということですか」
「その通り」
 司馬懿の配る銭を目当てに、長安には人が集まり続けていた。それらの者を涼州各地に配して開墾させ、新しく開けた田畑から収穫されたものを司馬懿はほぼ全て私費として使うことができた。私費として使うといっても、私欲を満たすために使うのではない。蜀との戦のために使うのだ。これを国の様々な機構に通してしまえば、最終的にその総量は減ってしまう。減れば減った分だけ、蜀軍に負ける可能性が高まるのだ。
 夏侯玄は、長安に来てから司馬懿の下でよく働き、そのことをよく理解しているのだろう。
「兵力を持つには、兵糧が必要だ。それは火を熾すのに薪が必要なのと同じことだ。薪がなければ、火は燃えん。兵糧がなければ、兵は力を出さん。このことは諸葛亮もよくわかっていることであろう」
 蜀軍は今までに兵糧不足により何度も撤退している。自分が諸葛亮の二の轍を踏むわけにはいかないのだ。そのための涼州開墾と、収穫高の独占だった。
「数万の軍勢を擁するとなれば、その最大の弱点は兵站となる。蜀軍との戦は兵のぶつかり合いによるものでなく、兵站線の切り合いになるであろう。それを理解している武官は、残念ながら軍議の中にはいなかった。これは危惧しておかなければならんことだ」
 司馬師と夏侯玄が頷いた。
「量はある。あとはこれを運用する手段を誤らなければ、我らが負けることはない。そのことを忘れるな」
「父上、それはわかりましたが、やはり実戦になれば兵力と武将の作戦遂行能力が重要になってくるのではないでしょうか」
 司馬懿は首を振った。
「兵に殴り合いをさせて事が決する時代は終わったのだ。極論してしまえば、兵は力としてそこにあるだけでいい。その力は相手を弑するためのものではなく、相手を恫喝するためのものだ。その恫喝する力を相手から取り除くことが、勝つということだ。それは兵站を切るのが一番手っ取り早く、現実的だ」
「それでも兵力による決戦を望む者が我が軍から出れば、いかがなされますか」
 夏侯玄が言った。
「良い質問だ。我らはそうした意見を持つ者と戦わなければならん。敵は何も、蜀軍だけではないのだ。魏国が勝つことを妨げる者は、例えそれが味方であろうと、戦っていかねばならん。戦に勝つとは、それほど厳しいことであるのだ」
 言い過ぎているかもしれない。しかし若い内に教えておかなければならないことであった。
「時代は変わるが、残念ながらそれに順応できなくなる老人はいつの世にもいるものだ。今でいえば、戦の形が変わったというのに、いつまでも昔のやり方に疑いを持たず拘ろうとする者のことがそうだ。お前ら次の世代の者らは、そういった固陋な者共と戦っていかねばならん。もし戦わず、その固陋な者らに盲目的に従ってしまうのなら、お前らはいずれ滅びてしまうだろう。それは歴史が我々に教えてくれていることだ」
「わかりました」
 若い視線を向けながら、二人が同時に言った。
 司馬懿は微かに口元を綻ばせた。
 戦の中でなるべく古い者を振るい落とし、新しい者に学ばせたかった。人の世とは、そうして古い皮を脱ぐようにして続いていくものだ。皮を上手く脱ぐことができず、古いものを固着させてしまえば、その集団は必ず滅びてしまうだろう。自分の属する場所はそうさせないと、司馬懿は改めて強く心に思った。
 そのためにも魏軍司令官として、蜀軍に勝たなければならない。そしてそのためには、蜀軍だけを敵として見るのではなく、自軍内に潜む愚者も敵として見なければならない。前回の蜀軍はそれができなかったため、長安まであと一歩という所で撤退していった。
 己の体内に病ができればそれと戦うように、自軍内に愚者が現れればそれとは戦っていかなければならない。それができず、或は戦って負けてしまうのであれば、その先にあるものは死しかない。
 自分は魏軍の頭として魏国を生かす。それはいずれ巡って自分の利となるのだ。


6-10
 胸が高鳴っていた。これで五度目だというのに、戦の前のこの高鳴りは、何度味わっても慣れるものではなかった。
 魏延と王平の漢中軍を漢城から先発させ、諸葛亮率いる蜀軍本隊も北へ動き始めた。この三年、ひたすら内政に励み穀物の増産に努めた。兵にも厳しい調練を課し、呉と同時に魏を攻める約束も取り付けた。それでも胸にある不安は、拭っても拭いきれずにあった。
 自分は所詮、誰かの下にいてようやく力を出せる類の男だったのだ。誰かに難事を解決するよう命じられる一人の臣ではなく、全ての物事を自分で考え決めなければならない一国の宰相となってしまったのだ。その能力は、書を読み知識を得れば身に付く能力ではないのだと、宰相をやっていく中でわかった。しかしわかったからといって、今更後戻りできるようなことでもない。劉備が生きていてくれればと思ったことは、一度や二度ではなかった。
 それでも過酷な程に時は流れ、その流れの中で人は動き、政情は動いた。過去四度の戦で結果を出せなかったのは、この流れを読みきれず、ただ流れに抗えず流され続けたからだ。そしてこの自分の無能さは、蜀国全体に不幸をもたらしていた。
「魏軍主力は未だ陳倉に留まったままです。こちらの思惑は読まれていないようですな」
 馬車の上で楊儀が言った。諸葛亮が黙っていても、この男は細かなことにまで目を配らせ、時に煩わしい程に自分の耳に入れてきた。
「司馬懿は西を捨てたか。やはりあれは胆力のある男よ」
 自分とは違う、という皮肉を籠めて言ったつもりだったが、楊儀はそれに気付いた様子もなかった。
 司馬懿からしてみれば、蜀軍は前回と同じ涼州西側の道を取る場合の備えをしておくのは当然だと思えたが、瀧関から東の陳倉に兵を集めたということは、瀧関以西の守りを捨てたということだろう。羌族は魏軍にとって脅威にならないと判断したのかもしれない。前の戦で抜いた瀧関以東で戦いたいという自分の心を読まれたのかもしれない。
 そこまで考え、諸葛亮は自嘲して鼻で一つ笑った。司馬懿が陳倉に兵を集めたというだけで心を乱してどうする。
「西へ行かせた姜維が、上手くやってくれると良いのですが」
 羌族の協力を得るため、姜維を使者として向かわせていた。上手くいけば二万の兵力を味方につけることができるが、それが成功するかどうかは微妙なところだった。羌族は蜀と魏を天秤にかけており、羌を味方につけるには先ず蜀軍の優勢を示さなければならなかったが、蜀は負け続けているのだ。姜維は羌族の男として取り込み、羌との交渉役として育てていたが、それだけで羌の心を動かそうと思えば弱い。恐らく魏の方からも使者が行っていることだろう。羌が蜀に加勢しなくても、とりあえず中立を保っていてくれればいいと諸葛亮は思っていた。
 馬車が強く揺れ始めた。行軍が秦嶺山脈の山道に入ったのだ。外を見ると雪の積もった白い山景色が広がり、その中を毛皮に包まれた兵士たちが白い息を吐きながら規律良く進んでいた。
 この山を越えると、かつては漢王朝の領土であった涼州である。今やその土地は、十年前にはなかった新しい王朝に支配された地となっていた。これを打破したいがための戦だった。三百年も続いた国を潰し、そこで培った伝統や知恵を捨て去るなど、愚かしいことでしかない。しかしそれを許容できるのが人であり、またそれに抗おうとするのも人なのだ。培ったものを捨て、欲のみで建てられた国を許容する側の人間にはなりたくなかった。
 蜀とはその抗いの意思が形となった国であり、その国の頭が自分なのだ。この世から消え去ることを拒み生き続けようとする漢王朝は、自分自身なのだと言ってもいい。いくら戦に不安になろうと、己の力量に絶望しようと、もう投げ出すことなどできはしないのだ。
「このまま雪が大人しくしてくれればいいのですが」
 楊儀が馬車から手を出しながら言った。
「心配するな、楊儀。天が漢王朝を必要とすれば、雪は降らん。逆に雪が降れば、それは天が我らに滅びろと言っているのだ」
「天が、ですか」
「そうだ」
 言いながら、楊儀は心の中であざ笑っているのかもしれないと諸葛亮は思った。こういう話には興味を示さない男なのだ。しかし諸葛亮は、この年になって天の意思というものを信じるようになっていた。人にはどう足掻こうが抗いきれないものがあり、それを人は天と呼ぶのだ。
 雪は止んでいた。毎年の天候は記録として取ってある。それに照らし合わせれば、ここしばらくは雪が止むはずだった。陳倉までの道を逸れ武功へ出ようと思えば険路となるが、雪さえ降らなければ難なく抜けることができるはずだ。武功へ出ることができれば、斜谷道の出口を塞ぐ陳倉城を避けて涼州の地を踏むことができる。そして陳倉の魏軍を尻目に、長安まで駆け抜けることもできる。今まで避けてきた、賭けの要素を入れた策だった。この賭けに勝てれば、司馬懿の思惑の裏をかくことができる。姜維の交渉が上手くいけば、陳倉から出てくる魏軍の主力を東西で挟撃することもできる。雪さえ、降らなければだ。

 漢中から秦嶺山脈を北上し、陳倉から百里手前で王平軍は東へと進路を変えた。空がからりと晴れ一面が照らされた白い山道を、蔣斌は先頭を行く杜棋の部隊と共に雪を掻き分けながら進んでいた。
 雪はそこまで深くなく、行軍は順調に進んでいた。ついこの間までいた武功が順調に近づいているということだ。
「焦るな、蔣斌。焦っても、早くはならん。こういう時にこそ一歩一歩堅実に行くのだ」
「それはわかるのですが」
 王平軍諸部隊長の筆頭格である杜棋は、さすがに落ち着いた様子で雪を踏み固めながら進んでいた。
 焦りは、確かにあった。しかしそれは戦のためではなく、武功王其村の琳という女が気になってのことだった。琳のことは、武功を脱出してから、誰にも語ってはいない。
 戦のことに集中しようと思っても、あの女のことが頭にこびりついて離れず、それが時に行動として表に現れてしまうのだった。
「前の張郃戦は焦ったな。しかしあの魏軍最強だった張郃軍はもういない。それを考えればもっと気楽になろうぞ」
「そうですね。あれは、恐ろしい軍でした」
「長安を落としたら妓楼に行こう。この戦で手柄を立てて出世したら、俺が奢ってやる」
「はい、それは楽しみです」
 杜棋が気を紛らわそうとして話しかけてきてくれるが、良い返事が浮かんでこず会話が途切れた。やがて諦めたのか杜棋は話しかけるのを止め、黙々として先頭を進み続けた。
 丸一日進んで日が落ちると休息を取り、八刻眠った。もう一両日の行軍で武功に出られるはずだ。
 まだ暗い刻限、仮眠をするための雪の穴から這い出、他の兵らもわらわらと出てくる最中、王平からの伝令がやってきて武功への斥候を命じられた。
 蔣斌は早速乗馬し、五人の供回りを連れて先行した。既に二回通った道で、迷うことはなかった。後続の王平軍も、自分の足跡を見て迷うことなく続いてくることだろう。
 進むほど積もった雪は薄くなり、馬で行くのに困難はなく、ちょろちょろと流れる武功水に沿って進んで武功の平野に出た。目の前は、武功の西端に位置する王其村である。ほんの少し前に離れたばかりなのに、半年過ごしたこの村を、蔣斌は無性に懐かしく感じた。
「ここからは別れて行くぞ。集合地は、六刻後にこの武功水の畔だ」
 まだ周りに魏軍の気配は無いと見た蔣斌は供回りにそう命じ、五騎はそれぞれの方向へと散って行った。
 五騎が見えなくなると、蔣斌はゆっくりと馬を歩ませた。周囲に広がる畑では、地を覆う雪の膜を麦の頭が破って顔を出し、正にこれから背を伸ばそうとしているところだった。まだ長閑なこの武功平野全体が、これから戦場となるのだ。それを思うと、心から湧くのは男としての猛々しいものではなく、悲しみの様な嫌なものしかなかった。
 馬が、蔣斌の心を察したかのように駆け始めた。琳に話しかけられた畦道を通り過ぎ、琳を抱いたその家の外まで来ていた。
「琳、いるか」
 呼ぶと、中からみすぼらしい女がおどおどと顔を出した。
「俺だ、琳」
 白くなった兜を取り、蔣斌は馬上から笑顔を見せた。
「蔣斌」
 何事かと怯えていた琳が、中から駆けだしてきた。
「あんた、なんでそんな恰好してるの」
「俺が蜀の軍人だからだ。約束の通り、またここに来た」
「あたしのことを迎えに来てくれたの」
 言われて、蔣斌は自分が何も考えていなかったことに気付いた。戦を前にして、勝手に女を軍に連れて帰っていいはずがない。叔父にも何を言われるかわかったものではない。蔣斌は迷った。
「母君はどうした」
 言われて琳は首を振り、蔣斌は軽く頷いた。もともと、長くはなかったのだ。
「でもこれであたしはどこにでも行ける。あたしも連れてって」
 琳が叫ぶようにして言った。蔣斌はごまかすように、兜を被り直した。
「今はまだできん。でもいずれ迎えに来る。それまで待っていてくれ」
「嫌。今いく」
「俺も連れていきたい。でもそういうわけにはいかないんだ。今からここは戦場になる。それが終わるまで、どこかに身を隠しておいてくれ」
 言って蔣斌は馬首を返した。冬の冷たい風が、音を立てて蔣斌の顔を横切った。
「連れて行ってくれないのなら、何で会いに来たのよ」
 お前に会いたかったからだ。それの何が悪い。蔣斌はその言葉を飲み込み、琳の顔を一瞥して馬を走らせた。背中の向こうで、琳の姿が小さくなっていく。

 窮屈な谷が開き始め、武功水の流れが緩やかになってきたところで武功の平地に出た。夜は凍っていたであろうその足元は高くなった陽で湿りを取り戻し、これなら馬を駆けさせても問題ないだろうと思えた。
 王平軍二万の内の五千騎が先ず武功に入り、後続一万五千の歩兵が集結するまでの間、王平は野原の草を馬に食ませた。
「蔣斌からの報告です」
 劉敏が来て言った。
「魏軍が早速動き始めたようです。渭水の北岸に魏の騎馬隊が集まっています。数は、一万。歩兵はまだ見えず、他の斥候に探らせています」
 陳倉から急行してきたのだろう。今は一万だが、これから増えるはずだ。
「出鼻を挫こう。敵を渡渉させてしまえば厄介なことになる」
 諸葛亮からは、敵と交戦することになっても武功の麦畑は荒らすなと言われていた。ここの麦を奪って兵糧に充てるのということだったが、王平はその命令を苦々しく受け止めていた。命を懸けて戦うというのに、麦のことを気にしながら戦をしろなどと、何とも馬鹿げた話ではないか。
「騎馬だけで渭水まで先行する。歩兵は千をここに残して後続させろ。俺が行っている間、お前はここで工作を済ませておけ」
「御意」
 工作とは、武功の住民への根回しと、武功水に簡易な船着き場を造っておくことだ。
 農民に危害を与えれば打ち首だと、諸葛亮から軍全体に厳命されてある。三か月後の麦の収穫まで、ここの農民には蜀のために働いてもらわねばならないのだ。その根回しの下準備は、この地に潜む句扶率いる蚩尤軍がしてくれているはずだ。
 そして秦嶺山脈の雪が溶ければ、漢中から流馬による兵糧輸送が始まる。そのための船着き場だった。蜀軍が武功に陣取れば秦嶺山脈を背にして戦うことになり、この秦嶺山脈の険しい山々が敵の回り込みを阻んで兵站線を守ってくれることになるだろう。今回の兵站に対する備えは万全だと思えた。
 しかし兵站の備えだけでは、戦には勝てない。軍を勝たせるのは、兵を率いる自分ら軍人の仕事だ。
 十分に草を食ませた馬を整列させ、北へと向かった。
 何事かという目を向けてくる農民らを刺激しないよう粛々と進み、二刻程で渭水の南岸に辿り着いた。蔣斌が報告してきた通り、対岸には魏の旗が立ち並び、既に二万となった魏軍が陣を築いていた。渡渉してくる気配は、今のところない。渭水の川幅は広く、こちらに渡ってこようと思えば騎馬だけでは容易でないだろう。
 杜棋の指揮する歩兵も到着し、王平軍は渭水南岸に布陣した。武功の麦を守るためにも、先ずはここを魏軍に渡渉させないことが第一だ。
 王平は渭水が一望できる小高い場所に床几を置いて腰を下ろし、そろそろ武功に入っただろう魏延軍に伝令を出した。自分のいる場所だけ伝え、どうこうして欲しいという要求は控えた。昔と違い、自分が何か要求すれば、あの男はすぐに機嫌を損ねるのだった。歳がそうさせているのだろうか。場所さえ教えておけば、あとは自分で判断し、機嫌を損ねさせることもない。
 四方に放っていた斥候で、西から戻った者が報告に来た。
「渭水の西から、かなりの数の船が近づいております」
「何、船だと」
「はい。一隻はかなり大きく、五百人は入ろうかという大船です。それが確認できただけで三十隻」
「大義。続けて西を見ておけ」
 斥候が走り去った。
 船上の兵力だけで一万五千であると、王平は頭の中で計算した。さすがに司馬懿の用兵は早い。
 王平は、近付きつつある魏軍は兵力そのものよりも、船が難物であると見た。これを繋げて渭水に並べれば、兵の渡渉を容易とさせる橋が短時間で出来上がってしまう。手持ちの二万弱の兵力でこれを止めるのは難しい。
 西に目を凝らすと、霧の湧き立つ水上に、一つ二つと船が姿を見せ始めた。空気の乾いた冬である。火矢を射かければ燃やせるかもしれない。しかし、あの数だ。数隻を燃やせたところで焼け石に水であろう。
 王平が思い悩んでいると、魏延からの伝令がやってきた。
「武功東の馬冢原を取れとのことです」
「魏軍が押し寄せてきているのに、東へ行けだと。それは魏延殿から出たものか、それとも丞相から出たものか」
 そこまで聞かされてない伝令は答えに窮し、王平はもういいと手を振って伝令を帰した。
 船が流れ続けている。川岸で備え渡渉を阻むのがこの場合の定石であろうが、ここで魏延の意に逆らい軍の統率を乱すのはよろしくない。
 王平は杜棋に歩兵を東へ移せと命じ、自身は騎馬を率いて魏軍船団の様子を眺めた。
 船は河水の中洲を利用して橋の体を成し、北岸と中洲が繋がろうかというところまで確認して歩兵の後を追った。
 寒風が馬上の王平の顔を打った。陽が隠れ、見ると雲が増えていた。雪が降るかもしれない。
 馬冢原は蔣斌からの報告通り守兵はほとんどおらず、王平軍が馬冢原の麓に展開すると数少ない守兵は一目散に逃げ出した。
「調練通りだ、杜棋。この丘を固めろ」
 杜棋は歩兵に命じて木を伐り柵を作り始めた。
 王平は渭水が気になった。今頃、船の橋が完成し、それを渡って魏軍兵士が渭水の南岸に押し寄せて来ていることだろう。
 不意に鼻の頭がひやりとした。雪だ。馬冢原から眺めると、秦嶺山脈を厚々とした雲が覆っていた。あの雲が山に雪を落とせば、蜀軍本隊の到着が遅れるかもしれない。
 魏延軍二万も馬冢原に到着し、魏延が王平に会いに来た。
「馬冢原は死守しろと丞相からの達しだ。あそこを魏軍に取られれば、我らは東進の道を失うことになる」
「魏軍が渭水を渡り、武功に集結しつつあります。これを先ず叩かねば」
「わかっている。これから手勢の二万で魏軍を攻める。お前は歩兵を馬冢原に残し、騎馬を率いて俺を援護しろ」
 言って王平の答えも待たず、魏延は自軍の指揮に戻って行った。
 王平は不満だった。魏軍を迎え撃つなら、はじめから全軍で河岸を固めておけばよかったのだ。それをせず、馬冢原に兵力を割いてから迎え撃つなど下策ではないのか。思ったが、思うだけだ。
 魏延軍が進みだしたので、王平も五千騎を率いてそれに続いた。渭水南岸には既に魏軍二万が渡渉を終え、馬抗柵を築いていた。地平の奥から地を割って流れる渭水からは兵を満載した大船が何艘も続き、魏軍の兵力がこちらの二万五千を越えるのは時間の問題だと思えた。
「魏延殿、馬冢原の歩兵を呼んだ方がよろしくありませんか」
 王平は陣形を下知する魏延に馬を寄せて言った。
「だめだ。丞相からの命令だ」
「しかし、これでは兵力差があり過ぎます。本隊が到着する前にやられてしまいますぞ」
「本隊が来るまでの辛抱だ。それまでここをもたせればいい」
「あの空をご覧あれ」
 王平はやってきた南の方角、秦嶺山脈を指差した。
「あれでは雪で本隊の到着が遅れます。ここで我らだけが戦っていては全滅しますぞ」
「そんなこと、お前に言われずともわかっておるわ」
 魏延に一喝され、王平は口を噤んだ。
「お前は右だ、王平。俺の騎兵は馬岱に任せて左に置く」
「しかし」
「二度言わせるな、行け」
 王平はやむなく自陣に戻った。
 魏軍は着々と馬抗柵を増やし続けていて、これではもう容易に崩すことはできない。敵は背水だが、その河からは兵が増え続けている。
 敵陣から鬨の声が上がった。兵力差が逆転したのを機と見たのか、馬抗柵の間から騎馬がぞろぞろと出てきた。
 夏侯の旗。明らかに自分を狙っていた。王平もそれに呼応し王の旗を大きく寒風にはためかせた。来るなら来い。
 しかし出てきただけで、それ以上は動かない。敵の歩兵が夏侯覇の後ろに備えているため、こちらから攻めかけるわけにもいかない。その場で両軍が睨み合った。河を流れてくる船は、魏軍の兵力を増やし続けている。


6-11
 雪の落ちる暗雲の下、体中の血が漲っていた。渭水の運ぶ風が、傍らの軍旗と毛皮をあしらった外套を打ちつけていたが、夏侯覇はそれを意に介することもなく正面の敵を見据えていた。
 ふと横に目をやると、冬の戦場にも関わらず、額に汗の玉を浮かばせた徐質が意気鷹揚に夏侯の旗を掲げ風のままにさせている。この男の血も沸いているのだろう。
「気負うなよ、徐質。調練のままでいい。今は旗を掲げることだけに気を集中させろ」
 言った夏侯覇に、徐質がちらりと顔を向けた。汗の玉が浮かぶその表情は落ち着いていて、なるほど死ぬ覚悟はできているのだろうと思えた。むしろ、気負っているのは自分の方かもしれない。
「隊長、一つよろしいですか」
「なんだ」
「敵は何故、こうも易々と渡河を許したのでしょうか。何か罠があってのことではないかと思うのですが」
「敵陣を睨みながらそんなことを考えていたのか」
「はい」
 言われて、夏侯覇は街亭での初陣を思い出した。城に籠っておけば良いものを、敵将馬謖は城外に陣取り張郃軍を待ち構えていた。それを罠ではないかと思案したものだった。しかしそれは単なる馬謖の悪手であった。
「不可解な動きを見せたからといって、それが罠だと決めつけるな。敵がおかしなことをしていただけだったということもあるのだ。始めから罠だと思い定めてしまえば、攻め時を見誤ることにもなりかねん」
「はい」
「わからぬことは、考え過ぎぬことだ。自分でわからぬことは、他の誰かに任せてしまえばいい」
「私は、夏侯覇隊長の指示に従います」
「当たり前のことを言うな」
 言って夏侯覇が肩を小突くと、徐質が微かな笑みを見せた。この男も、この男なりに考えて戦をしようとしているのだろう。それ自体は悪いことではない。
 背後から、船から降りる兵の声と、馬抗柵を組み立てる音が間断なく続いている。正面の敵は、中央の歩兵が魚鱗を五段に組み、両翼に騎馬を置き、その総勢は二万五千だ。中央が魏延で右翼が王平であることは、そこから見える旗でわかった。陳倉から渭水を下る魏軍はもう四万にまで膨らもうとしていたが、攻撃命令はまだない。
 諸葛亮率いる蜀軍本隊の姿がまだ見えないため、現場監督の郭淮が攻めるのをためらっているのかもしれない。
 蜀軍に動く気配がないと見た夏侯覇は自陣を離れ、意見具申のため郭淮のいる幕舎へと向かった。
 幕舎の前で誰何を受けて中に入ると、郭淮は部隊に見立てた木の駒を地図の上に並べているところだった。
「失礼いたします」
 郭淮が、鋭い目を夏侯覇に向けてきた。
「こんな時に指揮の放棄とは、何を考えているのだ」
 郭淮が不快そうな顔を向けてきた。この男とは、前から反りが合わないのだ。自分のような者よりも、黙って言うことを聞く従順な部下の方が好みなのだろう。だからといって、黙ったままでいられる性分ではない。自分に命を預けてくれる部下がいるのだ。
「蜀軍に動く気配はありません。その報告に参りました」
「そんなこと、伝令を一つ寄越せばいいだけのことだろう。お前、首を落とされたいか」
 郭淮がぐいと近寄ってきた。
「今なら我が軍は兵数で勝ります。それなのに、何故打って出られぬのでしょうか」
「司令官がここに来るまで、絶対に出るなと言われている。それまでは、陣の構築だ」
「蜀軍本隊の姿がない今が好機ではありませんか。八万の軍勢が揃う前にあの二万五千の力を削いでおけば、後にこちらの有利となりますぞ」
 郭淮が腕を組み、呆れたように大きなため息をついた。
「では聞こう。兵力を頼んで攻めるとなれば、全軍であろう。そうなればその間、ここの陣はどうなる。まだ後方からは兵が集まり続けているのだぞ」
「敵を蹴散らせば、そんなものは」
「無責任なことを言うな」
 怒声と共に腹を蹴られ、夏侯覇は後ろに倒れた。かっとなるものが込み上げてきて、夏侯覇は郭淮を睨み付けた。
「なんだその眼は。これから戦だというのに、上官に逆らおうというのか」
「逆らうなどと。私はただ意見具申に」
 郭淮が腰の剣を抜き、切っ先を夏侯覇の顔に向けた。
「魏国の元勲の息子だからといって、出過ぎは許さん」
 時が止まった様に、幕舎内がしんと静まり返った。周りの者は手を止めて二人の様子を見守っている。外からの兵の声だけが、この場の時が止まっていないことを証明し続けていた。
「お待ちください」
 どこにいたのか、夏侯玄が二人の間に飛んで入ってきた。
「余計なことをするな。お前は兵糧の差配をしていればいい」
 郭淮が夏侯覇の鼻先に剣を向けながら怒鳴った。
「なりません、郭淮殿。戦の前の仲違いは禁物ではありませんか。ここは私が話して聞かせますので、どうか穏便に」
 どうせ斬る度胸など無いのだ。夏侯玄にそう言ってやりたかった。止められて、心の中ではほっとしているのだろう。
「ならばその死に損ないを連れて、さっさとここから出て行け」
 夏侯玄の細い腕に抱え起こされ、幕舎から出て行った。
「戦を前にして郭淮殿は気が立っているんだ。ああいうことは言わない方がいい」
「あれは気の小さい男よ。今が攻め時であることは、経験を積んだ軍人ならわかるはずだ」
「おい、よせ」
 夏侯玄は辺りを見回し、誰かに聞かれていないか確認した。その仕草も、気に入らないものだった。
「お前も気の小さいことよ。そんなことで戦ができるか」
「とにかく上官の批判だけはやめてくれ。それで気が小さいと思うのなら、勝手に思ってくれればいい」
 怒りの矛先を逸らされ、夏侯覇は苛ついた。
「司令官はいつ来るのだ」
「もうじきに来る。頼むから、それまで大人しくしておいてくれ。来れば、好きなだけ暴れられる」
「俺は暴れたくて言っているわけではない」
「わかった。まあ聞け」
 夏侯玄が両手を肩に乗せてきた。煩わしく、夏侯覇はそれを振り払った。
「司令官は武功に蜀軍を釘づけにし、これ以上魏領には一歩も進ませないつもりだ。それには兵数がいる。無駄な戦をして兵を失いたくないんだ」
「俺が無駄な戦をしろと言っていると思っているのか」
「そんなこと、俺にはわからん。ただ戦をやれば、兵が減るのだということはわかる」
「わからんことに口を出すな。所詮はお前も、ただの文官だ。戦をすれば兵が減るだと。それは武人に対する侮辱ぞ」
「聞き分けのないことを言うな」
 夏侯覇の顔を、夏侯玄の拳が打ちつけた。思いもよらなかったことで、夏侯覇はそれをまともに受けた。
「文官だからなんだ。お前と同じで、俺も戦っているんだ。それなのに」
 言った夏侯玄の言葉は震えていた。恐らく、人を殴ったことなどほとんどないのだろう。殴られることでふっと頭から血が下がり、張郃のことが頭によぎった。あの頃はよく怒られ、よく殴られていたものだった。
 夏侯覇は殴り返すふりをし、目を瞑る夏侯玄のわなわなと震える手を取って言った。
「悪かったよ。別にお前のことを侮っていたわけではない。俺も郭淮殿と同じで、少し気が立っていたようだ」
「お、俺はな」
「戦っている。それはよくわかった。これからも、共に戦おう。俺はあの王平の旗を見ると、どうしても頭に血が昇ってしまうのだ。許してくれ」
「もう、攻めるとは言わんか」
「言わん。俺は自陣に帰るよ。長く空けておくわけにもいかんしな。お前ももう戻れ」
 肩を一つ叩き、行き場のない興奮に身を震わせる夏侯玄をその場に残し、夏侯覇は自陣へと戻った。
 三年前、張郃が死んでから、誰かに何かを強く言われることがなくなった。殴られることも、なくなった。たまにはこうして誰かに殴られることも、悪くはないという気がする。
 夏侯覇は気を静めようと、渭水の風を大きく吸い込んだ。冷たい空気が、熱くなった体に染み込み、心地良かった。吸い込んだ口の中に血の味がして、夏侯覇はそれを吐き出した。薄く積もる雪の肌が、赤く点々と染まった。

 対峙が続き、どちらから攻めるともなく、夜が来た。
 川縁の魏軍は煌々と篝を焚き、兵と荷の降ろしを続けている。魏延は二万五千の中にありながら、その様子を苦々しく見つめていた。せめてあと一万あれば、背水の魏軍を渭水に追い落としてやれる自信があった。しかし王平軍の歩兵一万五千を馬冢原に残し、陣を築けと諸葛亮から厳命されていた。王平がその一万五千を呼び寄せるべきだと言ってきて、それが正論だとわかりながらも却下した。魏延軍の騎馬隊を率いながら、その実質は魏延軍の軍監となっている馬岱が、諸葛亮とその側近にどう告げ口するかわかったものではないからだ。
 昔の自分なら、命令違反を犯そうと馬冢原から王平軍歩兵を呼び寄せ、総勢四万でまだ体勢の整わない魏軍に一撃を与えていただろうという気がする。それが今の自分にできないのは、衰えのせいなのだろうか。もう齢は五十が近づいているのだ。そんな聞き分けの良くなってしまった自分を本気で嫌だと思いきれなくなっているのも、衰えのせいなのか。
 斥候が報告を入れてきた。魏軍の馬抗柵はほぼ形を整え、兵がその中から出てくる気配はなさそうだった。一時は攻めの構えを見せていた夏侯の騎馬隊も、今は守りの体勢を見せている。
「日没と共に馬冢原へ退く。殿は俺だ」
 魏延の命を受け取った部下が、それぞれの隊に走って行った。
 雲を覆う空が闇となり、撤収が始まった。
 殿から敵陣を眺め続けたが、追撃はなさそうだった。月の無いこの闇なら騎馬は駆けさせ難いし、歩兵は陣の構築で手一杯だろう。魏延は二万五千を徐々に退かせながら、二里移動したところで馬冢原までの駆け足を命じた。
 既に柵が立ち並んだ馬冢原に入ると、王平が部下に用意させていたのか、すぐに熱い兵糧が運ばれてきた。そして歩兵隊長の杜棋を連れた王平がやってきた。
 それぞれが湯気の立つ兵糧の椀を手に、焚火を囲んだ。
「馬冢原の確保は成功した。後は本隊が来るまで、我らはここを死守だ」
「本隊の到着は、いつ頃になりそうでしょうか」
 予定では、本隊四万の武功到着は明日の朝になっていた。
「雪のせいで一日遅れると伝令を寄越してきた。それまで、兵力を損じるなとのことだ」
 魏延は兵糧を煮た汁を啜った。一撮み入れた塩の微かな味が口の中に広がり、美味かった。
「流石に司馬懿の用兵は早い。恐らく陳倉の八万は全てここに向かっているのだろう。そのための準備は、周到にされていた」
「敵に渡河を許してしまったのは、まずかったのではないでしょうか」
 王平に言われ、魏延は露骨に嫌な顔をして見せた。もうそれは過ぎてしまったことで、どうしようもないことなのだ。しかし指揮官である自分が、それを表立って諸葛亮のせいにするわけにもいかない。
「我らが勝手に戦い、本隊が到着するまでに兵を失えば、丞相は兵力劣性の状態から戦を始めねばならんことになる」
「なるほど」
 王平は納得したように兵糧を口に運んでいたが、心の中では納得していないのだろう。全てを口に出さないのはこの王平という男の美徳であったが、それは時として癪に障ることもあった。
「初動で負けたと思っているのだろう。正直、そういうところはあるかもしれない。しかし本格的な戦を始めるのは、全軍を揃えてからでも遅くはないのだ」
 心とは裏腹のことを言っていた。こういうことを平然と言えるようになったのは、やはり歳のせいかもしれない。
「その本格的な戦を有利にするための、馬冢原確保ですね」
「そうだ」
 そう言いながらも、やはり納得はしていないのだろうということはわかった。自分もそうなのだ。だからといってここで蜀軍の首脳部と諍いを起こせば、勝てる戦も勝てなくなってしまう。
 調練の成果は軍の隅々にまで行き届いており、万を超える人数でも移動に遺漏なく、馬冢原に退く時も繰り返しやってきたことがそのままできた。陣の構築にも大きな間違いはない。あとは、指揮官の裁量でどうとでもなる戦だ。
「麦も、守らなければいけませんな」
 王平が言った。これも諸葛亮からの命令だった。
「麦よりも、兵の方が優先だ。明日の朝には武功の魏軍は六万を超えているだろう。こちらは四万だ。麦を守って兵を殺すようなまねを、俺はせん」
「それを聞いて安心しました」
「問題は、この四万の腹に入れるものだな。持ってきたものを細く食えば五日はもつが、それでは兵は力を出さん。なるべく早く兵站を整えておく必要がある」
 ここから六里離れた武功水の畔では、劉敏が漢中から兵糧を運び込む手筈を整えている。この二つの点を分断されてしまえば、馬冢原の四万は干上がってしまうことになる。この二点を巡り、明日は一戦交えることになるだろう。自分が司馬懿なら、間違いなくそうする。
「明日は戦になるだろうな」
 同じことを考えていたのか、王平はそれに頷いた。
 それからしばらく戦の想定をし、地に図を描きながら細かな動きまで確認した。斥候からの報告によると、夜襲の心配はなさそうだった。
「おい、杜棋」
 話が終わり、場を離れようとする二人の背中に声をかけた。
「ここは、良い陣だ」
 魏軍と対峙している間、馬冢原に陣張りをしていたのは、王平軍歩兵隊長の杜棋だった。その杜棋が、厳格な面持ちで一つ頭を下げた。そして、自陣へと戻って行った。
 幕舎に入り、地に穴を穿って藁を敷き詰めただけの寝床に身を沈めた。
 さっきの杜棋の態度に、魏延は不快なものを感じていた。昔なら良い面構えだと嬉しくなるところだったが、今は可愛げの無い顔だと思ってしまう。歳を重ねて体が老いることで、小さなことにまで不安を覚えるようになってしまったのだろう。その自覚はあったが、この不安な思いは、山の泉が滾々と湧き出るのと同じようなもので、自分ではどうしようもないものだった。
 杜棋のあの顔は、自分の指揮を非難するものでなく、戦を前にした男の顔なのだ。頭ではわかっているが、体は逆の反応をしてしまう。つまらないことを気にするようになってしまったものだ。恐らく文官の持つ武官への嫌悪感は、これと同種のものなのだろう。
 自分はいつから文官のようになってしまったのだ。魏延は一つ自嘲して笑い、明日に備えて目を閉じた。

 朝の渭水が、銀色の光を照り返していた。雲が晴れたのは、司馬懿にとって僥倖だった。できるだけ早く予定戦場に兵を集め、場を整えておきたかったからだ。
 陳倉にいる時、秦嶺山脈に忍ばせておいた黒蜘蛛が、いち早く蜀軍の動きを伝えてきた。蜀軍は陳倉へ向かうと見せ、その手前で進路を東へ向けたのだった。その情報を得たと同時に、司馬懿は全軍に移動の命令を下した。
 東へ進路を変えたのは陽動で、後軍の本隊は陳倉に来ると主張する者もいたが、その意見は退けた。諸葛亮の性格からして、軍を二つに分けるとは考えにくい。何でも自分でやりたがる男なのだ。
 諸葛亮の選んだ地は、武功。そう読んだ司馬懿は、いつでも長安に戻れるよう用意していた船団を使い、兵を武功へと運ばせた。そして最後の船に自身も乗り込み、武功へ向かった。
「見てみろ、司馬師」
 司馬懿は窓から外を覗いて言った。陸では七万以上の兵が陣の構築に精を出し、林立した諸部隊の旗が色彩々にはためいている。
「まるで祭りのようだ。そうは思わんか」
「はい」
 司馬師は緊張した面持ちで答えた。この戦では蜀軍を追い返すということの他に、この愚息に戦の何たるかを教え込まなければならない。それを考える余裕はあった。国力のほとんどを懸けて出向いて来ている蜀軍とは違い、魏は後方から支援を受けられる余力があるのだ。同数の対峙であれば、下手に攻め込んで大きく兵力を減らさない限り、負けることはない。
 三年前の戦で負けたのは、張郃軍を動かしたのが原因だった。張郃軍を動かすことで薄くなった魏平の陣を崩され、そこから全軍の崩壊に繋がったのだ。張郃軍を動かすことで穴ができるのはわかっていたが、どこかで蜀軍を侮り、問題ないだろうと高を括っていたところがあった。そこを、敵将魏延に見事なまでに突かれてしまったのだった。あの様な過ちは、もう二度としない。
 船が揺れ、武功に着いたのがわかった。外から、兵と荷を降ろす掛け声が聞こえ始めた。
「何をしている。お前も早く行ってこい」
 突っ立っているだけの司馬師に、司馬懿は不快気に言った。
「私が積み下ろしの指揮ですか」
「思い違いをするな。お前も兵の一人として働いてくるのだ」
 司馬懿に一喝され、司馬師は駆け出して行った。
 司馬懿は炭で温めておいた軍衣を身に着け、馬に乗って船を降り、郭淮に出迎えられて本陣の幕舎に入った。
「経緯を話せ」
 軍議ができる広さを持つ幕舎内に腰を落ち着け、司馬懿は郭淮に短く言った。
「蜀軍の先鋒である漢中軍四万が、昨日武功に入りました。その内の二万五千が攻めの構えを見せてきましたが交戦はなく、馬冢原まで退きました」
「交戦はなく、だと」
 地図を指差しながら説明する郭淮にじろりと眼を向けて言った。
「それは、攻めるなと仰せでしたので」
「攻めるなとは、無駄に兵を減らすなという意味で言ったのだ。蜀軍の本隊はまだ姿を見せず、漢中軍は二手に分かれていたのであろう」
「そうですが、荷の積み下ろしと陣の構築をさせていたのもので」
「まあ、良い」
 司馬懿は話に興味を失くし、手を振って話を終わらせた。命令に忠実なのはいいが、忠実過ぎて融通が利かない男なのだ。これが張郃なら、目前にいた二万五千を蹴散らしたうえで馬冢原に追い返していたことだろう。
 四万で馬冢原に籠られたのは、些か厄介だった。ここより東に位置する所に陣取られたことで、いつ長安からの船による兵站線が襲われるかわからない。渭水北岸から陸を伝う兵站線を構築する方法もあるが、馬冢原を蜀軍に占拠され続けてしまえば、魏軍が南岸に布陣する有意性が失われてしまう。
 馬冢原の奪取が最初の正念場だ。初手でここを取った諸葛亮は、流石に慧眼であると思わざるを得ない。
「馬冢原の蜀軍を、先ず追い散らす。蜀軍は武功水を使って兵站線を維持するはずだ。その拠点は、もう探ってあるか」
「いえ。まだ」
「馬鹿者」
 司馬懿が卓を力強く叩いた。
「儂は確かに交戦を控えろと言った。しかし戦場で斥候も出さんとはどういう了見か」
「斥候は出しております。ただ、武功水の奥深くまでは調べていなかったというだけで」
「言い訳はいい。すぐに蜀軍の兵站を探ってこい」
 郭淮が慌てるようにして幕舎を出て行った。こういう消極的な男には、これくらい怒鳴ってやるのが丁度良い。 
 郭淮と入れ替わりに、夏侯玄が入ってきた。
「兵糧の集積に遺漏はないか」
「ありません」
 詳しく話そうとする夏侯玄を、司馬懿は手で制した。
「細かなことは後で辛毗に言え。それより聞きたいことがある」
「なんでしょうか」
「蜀軍が布陣していた時に、打って出ようとしていた者はないか」
「それは」
 言って、夏侯玄は言い難そうにした。
「その者を罰しようというのではない。正直に言え」
 言い難そうにしていることで、それが誰であるかの見当はついた。
「夏侯覇が攻撃を主張し、郭淮殿に蹴倒されていました」
「やはりあの遺児か。よろしい、夏侯覇と費耀をここに呼べ」
 夏侯玄はすぐに二人を呼びに言った。
 待っている間、司馬懿は従者が出してきた湯に口をつけて体を温めた。寒さが身に堪える歳になっていた。老いは感じるが、大きな戦を前にして気は満ちている。諸葛亮もこんな気分なのだろうかと、湯を飲みながら司馬懿はふと考えた。
 夏侯覇と費耀が入ってきた。司馬懿は地図を前に、作戦の説明を始めた。
「馬冢原に蜀軍の四万が陣取っている。これを攻め、逆に我らがこの高地を取る」
 調練の時と同じような口調で、司馬懿は言った。
「できるか」
「敵が四万であれば、兵站を切るのがよろしいかと」
 年上の費耀が言った。若い武将であれば、この地をどう力押ししてやろうかと考えるところだろうが、この男は流石に戦をよくわかっている。
「その通りだ、費耀。蜀軍本隊が到着する前に、この四万を孤立させる。そうすれば、この四万は自ら馬冢原を捨てるだろう。お前に四万の歩兵を預ける。できるか」
 その兵数を聞き、費耀は顔をはっとさせた。四万といえば、かなりの功を重ねた将軍でなければ指揮を許されない兵力だ。本来なら、郭淮がやるべき仕事だろう。
「必ずやり遂げます」
 司馬懿の思惑通り、四万という兵力は費耀の出世欲を十分に刺激したようで、気合に満ちた面構えを司馬懿に向けてきた。
「夏侯覇、お前はなかなかに血が盛っているようだな」
「それは、戦でありますから」
 郭淮の一件を突っ込まれたと思ったのか、夏侯覇は言い難そうに答えた。
「お前は、騎馬五千の指揮だ。それで費耀を援護しろ。敵の騎馬隊は誰が率いているか、お前なら知っていような」
「王平です」
 言った夏侯覇の目が光った。王平のことになると、この男は異様な情熱を見せるのだった。
「張郃将軍の名に劣らぬ働きをしてこい。そして、将軍の仇を討つのだ。漢中軍の王平を討てば、諸葛亮から片腕をもいだも同然よ」
「魏軍騎馬隊の名に懸け、全力を尽くします」
 司馬懿は大きく頷いた。
 出世を望む費耀と、王平に恨みを持つ夏侯覇。人選として間違いはないはずだ。
「郭淮に敵の兵站を探らせている。そこと馬冢原を分断し、蟻一匹通すな。行け」
 二人が返事をし、幕舎を出て行った。
 蜀軍本隊の到着までが、始めの勝負だ。
 この戦を勝ち抜けば、魏国内における自分の地位は大きく上がる。逆に負ければ、全てを失ってしまう。これからの世を自分の手で作り上げるためにも、ここで負けるわけにはいかないのだ。
 司馬懿は冷めた湯に口をつけながら、これからの戦のことを考え続けた。


6-12
 夜が明けた。王平は外套の内に繍する毛皮の中から身を起こし、従者に出された熱い湯を臓腑に落としながら馬冢原の高所に立った。そこには既に魏延がいて、目を細めて武功の西方を眺めていた。
「さっきから、魏軍斥候隊がこの辺りを駆けまわっていやがる。そろそろ来るかもしれんな」
 王平も目を凝らすと、平原の向こうで小さな黒い点がちろちろと動いていた。三騎一組の斥候が、こちらの様子を伺っている。
「出動の準備をしておきます」
「魏軍は馬冢原を包囲してくるだろう。お前の騎馬隊は包囲される前にここを脱し、外側から攻撃を試みてくれ」
 王平は頷いた。
高所を駆け下り、王平軍の騎馬五千を指揮して馬冢原の麓から離脱した。地平の向こうから魏軍がやってくるのがわかった。かなりの兵数で、三万は越えているように見えた。後詰がいることも考えれば、四万はいるだろか。魏軍が本気で馬冢原を狙っているのだろうと思えた。
 手勢でまともにぶつかるには、些か数が多すぎる。馬冢原の兵力と合わせれば四万の兵力があるが、この兵力で馬冢原の確保をすることがこの軍の任務なのだ。
 王平は昨夜の魏延との会話を思い出した。馬冢原には、まだ兵站線が繋がっていない。高所に拠って戦えば漢中軍の有利となるだろうが、このまま包囲され馬冢原に押し込められてしまえば、兵糧が尽きてこの四万は自壊してしまうことになる。蜀軍本隊が到着していれば馬冢原の包囲を防ぐこともできるだろうが、それにはまだ一両日あるのだ。
 最悪の状況は、馬冢原が包囲され、まだ見えていない残りの魏軍で明日に到着する蜀軍本隊を牽制されてしまうことだ。そうなれば、十日もしない内に蜀軍の半数が消滅してしまうことになる。
 魏軍が五千の方陣を四つ横に並べて迫ってきた。やはりここを包囲するつもりなのだろう。王平は最左翼の方陣を視野に入れ、五千騎を駆けさせた。
 王平の騎馬隊を警戒したのか、魏軍が一斉に足を止めた。王平は並足に落とし、矢の届かぬ距離で魏軍の前を横切った。その全容は騎馬を含めて四万五千程で、費の旗が翻っていた。郭淮が来たのかと思ったが、これは恐らく費耀という武将が率いているのだろう。それを報せる伝令を魏延に放ち、王平は西へと馬を駆けさせた。これで馬冢原を包囲しても、魏軍は常に背後にいる自分の五千騎を気にかけておかなければならなくなる。
 魏軍から距離を置こうとした時、王平の意図を察したのか方陣の間からこちらとほぼ同数の騎馬隊が飛び出してきた。夏侯覇だ。五千の中で一際大きな馬に乗る大柄な男の持つ旗でわかった。
 好機だ。夏侯覇は後方に歩兵四万がいることで自分が有利だと思っているのだろう。同数で、相手が張郃に劣るあの若造なら、勝てる自信はある。張郃の率いたあの精強無比な騎馬隊は、もう魏軍にはいないのだ。
 五千の馬蹄が、五千の馬蹄に追い迫ってくる。王平は夏侯覇を誘うように馬足を落とし、五千を二つに分けて追ってきた夏侯覇の五千を挟みこむように並走した。片方を狙ってくれば、片方が背後を襲うという恰好だ。
 並走しながら連弩を構え、十分に近づいたところで矢を放った。何騎かが落馬したが、ほとんどは剣と馬甲により弾かれた。
 自分のことを見つけたのか、夏侯覇が五千をこちらに向けてきた。もう一矢放ち、相手が怯んだところで二千五百をまた二つに分け、夏侯覇の突撃をかわした。
 三隊を一つにまとめ、互いに離れた。今ので百ほどを落としたろうか。こちらは一兵も損じてはいない。
離れたが、離れすぎるわけにもいかない。あくまで狙いは夏侯覇の五千でなく、費耀の歩兵四万なのだ。夏侯覇もそれを察したのか、無理に追ってこようとはせず、魏軍の歩兵と王平の騎馬隊の間を遮るように動いていた。こうなると厄介である。馬冢原の包囲を進める魏軍の歩兵に突っ込む余地はいくらでもあったが、夏侯覇が牽制してきてそれができそうもない。
厄介だったが、王平は馬上でそれを楽しいと感じていた。あの騎馬隊が邪魔なら、討ち果たせばいいだけのことだ。
「全騎、前へ」
 王平は手を上げ、振り下ろした。五千騎が先頭の王平に合わせて馬足を上げ始める。
「弩、構え」
 前衛が横に広がり、手綱を離して弩を構えた。夏侯覇の騎馬隊がぐんぐん近づいてくる。敵が弩を警戒し、守りの体勢に入ったのがわかった。
「弩、下ろせ。剣」
 前列が弩から手を離し、一斉に剣を抜き払った。王平の手の動きで横に広がっていた前衛が収縮し、五千の騎馬隊が一本の鋭い槍となった。
「突撃」
 馬を疾駆させ、全軍が雄叫びを上げた。狙うは、指揮官の首。王平は旗を目がけて先頭で突っ込んだ。
 足を止めて守りを固める敵の五千に、勢いのついた王平の五千がぶつかった。意表を突いた攻撃に敵の前列が破れ、その内側の柔らかい部分に王平は容赦なく食い込んだ。一人、二人、馬から突き落としていく。そしてその後ろに五千騎が続く。夏侯の旗が近づいてくる。首を奪れる。そう確信した王平は剣を掲げて夏侯覇の顔を探した。
「そこか」
 見つけた。その瞬間、左手に旗を、右手に剣を持った大柄な男が前を遮った。
「どけ」
 剣と剣が交錯し、火花が散った。見ると、剣が根元から折れていた。王平は舌打ちをし、柄だけになった剣をその場に投げ捨て敵の騎馬隊を突き抜け、乱戦になる前にその場から脱した。今の一撃で首を奪れなかったのは痛い。意表を突いた攻撃に、二度目はないのだ。
 王平は部下から替えの剣を受け取り、自軍の確認をした。数十の犠牲は出ていたが、敵は六百ほどを失ったはずだ。首は奪れなかったが、これで数の優位に立つことはできた。
 王平は夏侯覇が追ってこないことを確かめ、少し離れた所で馬の足を止めた。久しぶりの実戦で身を固くしていた兵馬だったが、これでかなり解れたはずだ。今の攻撃で気が高揚したのか、笑い声を上げている者もいる。悪い空気ではない。兵站の危険が去ったわけではないが、これなら初戦であるこの局面を制することはできるかもしれない。
 周りに放っていた斥候が戻ってきた。
「西方に、郭の旗を持った八百騎が移動中です」
 王平はまた舌打ちをした。あの四万の兵力を郭淮が指揮していないのなら、別のところで動いていると考えておくべきだった。恐らく郭淮は、少数を率いて蜀軍の兵站を探っているのだろう。馬冢原に兵站線が繋がっていないのに、劉敏の構築する兵站基地が襲撃されてしまえば増々厄介なことになってしまう。
 続けて別の斥候が報告してきた。
「西から味方五百の輸送部隊が移動中です。馬冢原へ兵糧を運んでいるとのことです」
「なんだと」
思いもよらぬことであった。兵糧の少ない漢中軍に気を利かせて劉敏が指示したのかもしれない。しかしここに来られてしまえば、魏軍騎馬隊のいい的にしかならない。
「すぐに引き返せと言え」
 伝令が、王平の怒鳴りを受け取り駆けて行った。
 そしてすぐに五千を輸送隊の方へと走らせた。
 二里ほどで輸送隊が見えてきた。既に郭淮の八百騎がこれを補足して攻撃をかけ始めていて、輸送隊が戟で応戦していた。
 郭淮が王平の五千に気付いて輸送隊から離れ、王平はこれを追った。こうなれば、ここで郭淮の首を奪っておきべきだ。王平は騎馬を三つにわけ、自身は二千を率い、二つの千五百に郭淮の逃げ場を塞ぐよう指示を出した。
輸送隊が撤収を始めた。それを目の端で確認して安堵したのも束の間、東から夏侯覇の騎馬隊が急追してきた。
王平は巧みに逃げる郭淮の八百を諦め、千五百の一隊を郭淮の抑えに残し、三千五百を合流させて反転した。夏侯覇の騎馬隊が疾駆し、一直線に輸送隊の方へと向かっていく。郭淮を追っていたことで輸送隊から離れすぎていた。まずいことに、夏侯覇の方が一歩早い。
 蜀軍は、ここで兵糧を失うわけにはいかないのだ。その一心で王平は馬を疾駆させた。
 輸送隊がやられる。そう思った時、夏侯覇の騎馬隊が反転した。そして、こちらに向かってきた。
「しまった」
 はじめからこちらを狙っていたのだ。完全に意表を突かれてしまった。夏侯覇の四千三百と、王平の三千五百が正面からぶつかった。
 敵が力任せに押して来る。ぶつかって、夏侯覇が自分の首だけを狙ってきているのだということがはっきりとわかった。
 剣を叩き折った旗持ちの男が迫ってきた。左手で旗を持ち、股だけで巧みに馬を動かしながら右手の剣で兵を払い落としている。その男と目が合った。王平は咄嗟に連弩を構え、放った。矢は肩に突き立ち、旗と共にその男が地に落ちた。その後ろから、夏侯覇。もう一矢放ったが、叩き落された。剣。間に合わない。王平は身を捩って夏侯覇の剣をかわしたが、馬から落ちた。温かいものが右肩に広がった。
 馳せ違った夏侯覇の騎馬隊は距離を取り、勢いをつけてまた突っ込んできた。王平はなんとか馬に乗ったが、味方をまとめる時がない。
 やられる。そう思った時、敵が迫る目の前の草むらから爆音と共に火柱が上がった。辺りに煙と硫黄のにおいが充満し、冬の空に枯れた草むらが燃え始めた。蚩尤軍だ。
 敵が混乱する隙に体勢を立て直し、郭淮を追っていた千五百とも合流した。
 そこで諦めたのか、魏軍騎馬隊はそこから去って行った。
 王平はすぐに犠牲を調べた。手塩にかけて育てた五千の騎馬隊が、四千三百に減っていた。戦闘に耐えるが傷を負った兵も少なくない。輸送隊がいなければ減らさずに済んだ数だったと思い、王平は歯噛みした。
「兄者、危ないところでした」
 右肩の傷を処置しようとしていると、句扶が姿を現して言った。
「助かったぞ、句扶。お前がここにいるとは思わなかった」
「ここの農民が騒がないよう流言を撒いていたのですが、そうしているところに、輸送隊の護衛をしてくれと劉敏が言ってきたのですよ」
「蚩尤軍に護衛だと。あの馬鹿。あいつは忍びの遣い方を何もわかっていない。輸送隊を出すなど勝手なことまでしおって」
「輸送隊を出したのは、魏延殿の命令だと聞きましたが」
「なに、そんなことは聞いていないぞ」
「昨夜の内に出せとのことでした。言われてそんなに早く出せるかと劉敏がぼやいていましたが」
「俺の耳に一言でも入れてくれればいいものを」
 今思えば、魏延があんな早い時間に馬冢原から西を眺めていたのは、輸送部隊を待っていたからなのかもしれない。思っていたよりも到着が遅れたので、自分に言い出せなかったのだろうか。
 今回の戦での魏延の指揮は、どこか精彩を欠いていた。上からの指示に従うあまり、自分のやりたいようにできないのかもしれない。
 輸送隊と一緒に負傷した兵を後方に送った。王平自身が負った傷は幸い深くなく、毒を消す薬草を塗って巻いた布にはまだ血が滲みだしているが、腕が動かせないということはない。
「俺はあの騎馬隊を排除せねばならん。そこで提案がある」
 言って王平は地に図を描き、策を提示した。
「できるか」
「御安いご用です」
 句扶がにやりと笑った。
「よし、では頼む」
 句扶が姿を消すと王平は兵に乗馬を命じ、馬冢原へと向かった。騎馬戦をしている内に魏軍四万による馬冢原の包囲は完了し、その前面には夏侯覇の騎馬隊が番犬のように王平の騎馬隊に備えている。輸送部隊が通れる余地はどこにもなく、この状態が続いてしまえば馬冢原の三万五千は兵糧切れにより壊滅してしまう。
 どうにかならぬものかと、王平は馬を歩ませながら思案した。
 すると北からの斥候が、さらなる悲報を入れてきた。
「敵本陣から三万が南下しています。目標は、武功水の兵糧集積地だと思われます」
 敵の動きが予想以上に早い。このままでは蜀軍本隊が到着する明朝までに、武功全体が制圧されてしまいかねない。
二日前まで陳倉にいた八万をこれだけ早く武功に展開させる司馬懿の手腕は、やはり並大抵のものではない。また雪に阻まれて遅れを出してしまう諸葛亮の不運を思わざると得ない。
三万の様子を見ようと王平が騎馬隊を北へと動かすと、その後ろからゆっくりと夏侯覇の四千騎が追ってきた。武功水の兵站を狙う三万の姿と、そこに掲げられた郭の旗がすぐに見えてきた。四千三百の騎馬で三万の歩兵に立ち向かえるはずもなく、王平はそれを尻目に南西へと下がった。この大兵力でまだ兵の揃わない劉敏の陣が襲われてしまえば一溜りもない。なら本隊が到着するまでの時間を自分が稼ぐべきか。時間を稼ぐとして、この兵力でどれだけ稼げるものなのか。
夏侯覇の騎馬隊が馬足を上げてきた。ここが勝負所と見たのだろう。圧倒的に不利な王平は、追いつかれないよう同じく馬足を上げた。
三万の歩兵から引き離せば戦えないことはないが、夏侯覇もそれがわかっているのか、王平の誘いには乗らず一定の距離を越えて追ってはこない。
郭淮の歩兵と夏侯覇の騎馬隊が、じわじわと南に迫ってくる。七倍以上の敵を前にして、どのようにして時を稼げばいいのか。
武功水が見えてきた。その河岸には、たくさんの篝が並んでいた。王平はそれを見てすぐに察した。劉敏が知恵を働かせ、篝を増やして本隊が到着したように見せかけているのだろう。いつ露見してしまうかわからない程度の策だ。
王平はその篝を背に、魏軍の前に布陣した。いくらか効き目があったのか、郭淮が進軍を止めた。しかしこんな虚仮威しがいつまで通用するのか。
郭淮が、歩兵をじりじりと前に出してきた。王平は一歩も退かず、その場に仁王立ちした。少しでも退けば、あの三万はどっと押し寄せてくるに違いない。退けないのだ。
滲みよる魏軍。これ以上は保たない。不意に、後方の武功水から銅鑼の音が鳴り響いた。河に沿って蜀の旗が一斉に上がり、鬨の声が上がった。虚仮でなく、本当に本隊が到着したのだ。
前に押し出ていた魏軍が、退き始めた。

武功に着き、兵を展開させた。
強行軍だったため兵は顔に疲労を滲ませていたが、すぐに休息を取らせるわけにはいかない。目前には、既に魏の大軍がやってきているのだ。
諸葛亮は武功水の畔に陣地構築をするよう楊儀に下知し、自身は輿に乗ってそれを見廻った。起伏の少ない、野戦に適した地形だ。これだけ見通しが効けば、魏領での戦といえど、敵に地の利があるとは言い難い。そこにある畑からは、麦が緑色の頭を出し正にこれから伸びようとしていた。
見廻っていると、数期を供に連れた王平がやってきた。既に一戦を交えたようで、肩に巻いた白い布が赤々と濡れていた。
「お早い到着でございました、丞相」
 王平が馬から下りて言った。
「戦況を言え」
 諸葛亮は移動を止めることなく言った。王平が馬を曳きながら、その後ろをついてきた。
「昨晩に魏延殿が馬冢原を取り、今は馬冢原が四万に包囲されております。私は囲まれる前に、五千騎を率いてそこから脱しました」
「その肩の傷は、その時に負ったものか」
 王平が返事をした。
 自ら前に出て戦いたがる武将だった。人材の少ない蜀の現状でそのような戦い方はしてもらいたくなかったが、騎馬戦となればそうも言っていられないのだろう。
「よかろう、指揮に戻れ」
 王平は一礼して馬に飛び乗り、騎馬隊の方へと戻って行った。
 幕舎に入り、炭の入った鉢を近くに置いて地図を広げた。馬冢原の確保は成った。これで蜀軍が武功から東に進出できる足場を得たことになる。魏軍司令官の司馬懿にとって、これは嫌なものだろう。そしてそれに対する司馬懿の対応は早かった。馬冢原の漢中軍と武功水の蜀軍本隊の間に四万を割り入らせ、蜀軍は武功の東西に分断させられる形となった。陳倉を攻めると見せ武功に出るという奇手は、昨日まで陳倉にいた魏軍八万を迅速に武功へと持ってきた司馬懿の手腕により、半ば無効化されてしまった。雪に進軍を邪魔されてしまったこともその一因としてあった。天は、我ら蜀軍に滅びろと言っているのだろうか。
 一通りの指示を終えた楊儀が幕舎に入ってきた。この男も大戦を前にして、神経を尖らせているようだった。
「問題は、馬冢原の兵站線ですな」
 魏延軍の持つ兵糧が数日分しかないことは、劉敏から上がってきていた。先ずはこれをどうにかしないと、戦わずして蜀軍は半数の兵力を減らしてしまうことになる。
「それを司馬懿が察知しているかどうか。察知していれば、無理に攻めず包囲を固め続けるだけだろう。兵糧のことは、絶対に漏らしてはならんぞ」
「心得ております」
 相手が馬冢原を包囲する費耀の四万だけなら、魏延軍と本隊との挟撃で追い返すことはできる。しかしそうすれば、魏軍本陣の残りの四万は当然こちらに向かってくるはずだ。そうして逆に蜀軍本隊が挟撃を受け敗走してしまえば、馬冢原の兵力も消滅してしまうことになる。それは武功の局地戦に敗れるというだけでなく、蜀国の滅亡にもなってしまいかねない。迂闊に攻めることはできなかった。
「魏延に伝手はつながらんか」
「馬冢原の包囲は厳しく、蟻一匹通れないと王平が言っていました。難しいかと」
 せめて魏延と意思の疎通を取っておきたかった。命令が届かなくなった魏延が、兵糧の不足に焦燥し暴走してしまわないとは言い切れない。そうなれば、司馬懿の思う壺だ。
「数日、動くな。魏延の兵糧が数日もつなら、数日待って敵の動きを見定める。お前は魏延に連絡を繋げれるよう、知恵を絞れ」
「なんとかしてみせます。蚩尤軍にそれができないか、句扶に打診してみましょう」
「よかろう、行ってこい」
 楊儀が退出していった。
 外では兵が休まず陣の構築を進めている。今夜は夜襲がくるかもしれないので、強行軍の後だがまだ休ませるわけにはいかない。
 日が落ち、辺りが静寂に包まれ、夜襲をかけられることなく夜が明けた。その間、諸葛亮は一睡もすることなく卓を前に座っていた。
 明るくなり兵に兵糧を摂らせるよう指示し、諸葛亮自身は従者が運んできた水で顔を洗った。冬の冷たい水が、疲れた眼頭に心地よかった。
 魏軍に動きはない。案外、司馬懿も自分と同じく夜襲を警戒していたのかもしれないと思い、諸葛亮は乾いた布で顔を拭いながら低く笑った。
「申し上げます」
 幕舎内に伝令の声が入ってきた。
「魏軍から使者がやって参りました」
「使者だと。すぐに通せ」
 諸葛亮は身を整えて使者に会う準備をした。目に見えない所では、天禄隊を率いる趙広がこの周囲を固く警護しているはずだ。
 やってきたのは、まだ年若い、左目に大きな黒子のある男だった。
「お目通りが叶い、恐悦至極に」
「つまらん口上はいい。早く用を申せ」
 諸葛亮は強い口調で使者の言葉を遮った。肝が小さいのか、それで使者が心を揺らしたのが見ていてよくわかった。
「私は、魏軍司令官の長子、司馬師と申します」
「ほう、その長子殿が儂に何の用だ」
 言いながら諸葛亮は、不安を露わにし父の名前を盾にしようとするこの若い男を、心の中で嘲笑った。しかし司馬懿が自らの息子を寄越してくるとはどういうことであろう。
「今の蜀軍は馬冢原と武功水に二分されております。我が軍総司令官は、蜀国丞相諸葛亮殿がわざわざ大兵を率いて出向いてくれているというのに、これを各個撃破してしまっては申し訳が立たぬと申しております。蜀軍はこれを一つにし、我が魏軍と正々堂々と向き合い、雌雄を決されてはいかがでしょうか。これが魏軍総司令官の言葉で御座います」
 それを聞いて諸葛亮は不敵に笑って見せた。笑ったのは、司馬懿の真意が咄嗟にわからなかったからだ。馬冢原を取られているのを嫌がっているというのは確かなのだろう。しかしそれだけなのか。それだけのために、こんなに分かり易い使者を寄越すものだろうか。諸葛亮は笑みを浮かべながら、この使者を差し向けてきた司馬懿の心を読み解こうとした。
「つまらんことを言う。儂が馬冢原を取ったのは意味があってのことだ。そのことを司馬師殿はどう考えるのか」
 寒いというのに額に汗を浮かべた司馬師が、少し間を置いて答えた。
「恐れながら、この蜀軍がこの戦によって勝ち得ようという地は、長安で御座いましょう。少しでも東の地に兵を置きたいと思うのは当然のことであります。あの位置に三万五千の兵力があれば、我ら魏軍の後方を脅かすこともできます。しかし」
 強張った司馬師の口元が、にやりと笑った。
「馬冢原にあの大兵力を置き、いつまで保ちますでしょうか」
 見抜かれている。諸葛亮は笑みを絶やさぬように努めた。いや、これは見抜かれているのではなく、測られているのか。
「馬冢原に十分な兵糧はないと思っているのか。そう思いたくば勝手に思っておれ。帰って父君にそう伝えよ」
「そうでは御座いません」
「では、なんだと言うのだ」
「度重なる戦により、我ら両国の財は疲弊しきっております。馬冢原の兵力が本体と分断されたままとあれば十分な働きができるはずもなく、このまま膠着し、ただ動けぬまま時は過ぎ、過ぎた分だけ蜀の財は痩せ細っていくことでしょう。それは我が魏国も同じことです。ならばこの分断されたものを一つにし、一大決戦をし早々に決着をつければ両国の財は守られることになります。魏軍総司令官である司馬懿は、戦が長引き国が疲弊し、民が貧困にあえぐことを望んではおりません」
「その言い草だと、まるで儂がいたずらに戦を好み、民を虐げ続けているようではないか」
「それは」
「国の帝を廃し、国を乗っ取ったのは誰か。またそのことについて司馬師殿はどう考えているのか、聞かせてみろ」
 司馬師が少し考える顔をした。
「私にとっての帝は、今の許昌におられる帝お一人で御座います。その血が変わったのは天命に依るものであり、その天の意思に私のような者が何か言うことなどどうしてできますでしょうか」
 それを聞きながら、諸葛亮はただ暗澹として気持ちになった。言葉と表情から察するに、要は何の考えも感慨もないということだ。恐らく司馬師は今の言葉を、魏軍の利害の計算と関係なくして、本気で言っているのだろう。国と今までの先人が紡いできた歴史を捨て、時が流れて人が替われば、人の持つ意識は全く違う新しいものになってしまうのだ。その新しいものとは、それまでのものを知っていれば決して迎合されるようなものではなく、むしろその殆どは人の退行を示すものなのだ。この司馬師という男が正にそうではないか。諸葛亮は自分が古くなってきているのだということを感じ、痛烈な歯がゆさを覚えた。
「この歯がゆさのために、儂は戦っている。お前にこれがわかるかな」
「歯がゆさ、ですか」
 司馬師が、意図がわからないという表情で答えた。
「いや、こっちの話だ。少し考える時間が欲しい故、隣室で待たれよ」
 司馬師の顔が微かに綻んだ。その顔も、諸葛亮にとって気分の良いものではなかった。
 司馬師が下がり、隣席していた楊儀と費禕を前にして諸葛亮は言った。
「わからんものだな。これから大きな戦だというのに、司馬懿は自分の息子をここに寄越してきおった。司馬懿は余裕を見せてきているのか、それとも何か特別な意図のあることなのか」
「何はともあれ、馬冢原の包囲が解かれるのなら、飲むべきでしょう。東への足がかりを失うのは惜しいですが、手勢の半分を失うよりはましです」
 楊儀が言った。
 この話を持ち掛けてきたということは、司馬懿は馬冢原の蜀軍が持つ兵糧を把握できていないということなのだろう。そして自分の長子を使者にしなければならないほど、あの高地を抑えられているということを嫌がっている。しかし本当にそうなのか。他に何か狙っている意図はないのか。
「費禕、お前も何か言ってみろ」
 諸葛亮に促され、いつも楊儀に遠慮がちな費禕が顔を上げた。
「私は、魏延殿を戻すべきではないと思います」
「ほう」
 視界の端で、楊儀の顔が不快気に動くのが見えた。
「馬冢原が包囲されていると言いますが、我ら蜀軍本体が到着したことで費耀の四万を逆に包囲したと言えませんでしょうか。これを魏延殿と挟撃し敗走させれば、この戦は勝ったも同然です」
 楊儀が身を乗り出した。
「そんなことをすれば、司馬懿の本体がこちらの横腹を突いてくるぞ。それに魏延殿と挟撃と言っても、連絡のつかないこの状況でどうやって作戦を合わせるのだ」
「こちらの本体四万も精鋭なのです。それに、王平殿の騎馬隊もいます。司馬懿に横腹を突かれたからといってすぐに崩れるものでもないでしょう。魏延殿に伝令が届かなくとも、こちらが費耀の四万を攻め始めれば、それに呼応してくれることでしょう」
「その本体が潰走すればどうなる。魏延殿が呼応してくれなければどうなる。我々首脳部はそこまで考えておかなければならんのだ。少しでも計算が狂えば大敗北もあり得るぞ。そうなれば、蜀国の滅亡にまで繋がりかねん。お前はそこまで考えてものを言っているのか」
 楊儀が幾らか昂ぶった口調で言った。
「恐れながら、楊儀殿は些か魏延殿のことを疑い過ぎているように見えます。味方を信じずして、戦などできませんぞ」
「知ったような口をきくな、費禕。そもそも今のような状況に陥ったのは何故か、よく考えてみろ。先行した魏延軍が渭水の畔で魏軍の渡河を防いでくれれば、我ら蜀軍は馬冢原だけでなく、武功の平野全体の制圧もできていた。しかし魏延殿は我らからの指示を愚直なまでに遂行し、戦場の変化に応じず、自ら敵に包囲されてしまったのだ。我らが費耀の四万への挟撃を狙ったとしても、馬冢原の確保が任務だといって魏延殿が動かなければ、逆に我ら本体が魏軍に包囲殲滅させられてしまうのだ」
 楊儀の考えは行き過ぎている。楊儀の話を聞いていて諸葛亮はそう思った。仮に魏延が戦況の変化に応じて渡河する魏軍を攻撃していれば、それはそれで楊儀は魏延のことを詰っていたのだろう。戦中の命令違反であるため、その結果によっては打ち首すら主張していたかもしれない。馬冢原の確保だけをやった魏延の気持ちは、わからなくもない。諸葛亮はそう思ったが、楊儀の話を黙って聞いていた。余計なことを言って不和を生んでしまえば、この先の作戦に支障が出てしまうかもしれない。
「ならば魏延軍を戻したとしてどうなります。まさか本当に司馬懿が決戦に応じてくれると思っておられますまいな。費耀は魏延軍が去った後の馬冢原に登って守りを固め、司馬懿は渭水を抑え、蜀軍は武功から先に進めなくなりますぞ」
「蜀軍が敗退するよりはましではないか。兵糧不足により魏延軍が壊滅してしまえば、武功に留まることすらままならなくなるのだぞ」
「多少の犠牲を出しても費耀の四万を討てば、何の問題もありません」
「もうよい」
 黙って聞いていた諸葛亮が口を挟んだ。
「呉が、直に動く。それまで時を稼ぐ」
 蜀と同盟関係にある東国の呉とは、時を合わせて共に魏を攻める約束を取り付けてあった。戦のなかった三年の間でやっていたことは、内政だけではないのだ。
 蜀が出兵した。それを確認した呉は、同じく出兵するはずだ。同盟国の呉が動き、魏国の東で大きな戦が始まれば、この西の地である涼州にも何らかの影響があるはずだ。ここは二分された蜀軍を一つにし、その時を待つべきだ。
「司馬師を呼んで来い、費禕」
 不満気な顔をする費禕が出ていった。今まで楊儀が言うままに働いてきた費禕だったが、初めて楊儀の意思に反することを口にした。そして、その意見は退けられた。不満を感じるのは当然のことなのだろう。
 すぐに司馬師はやってきた。
「残酷な報せだ、司馬師殿」
「えっ」
 費禕に何か言われたのだろう、余裕のある顔をしていた司馬師が顔を曇らせた。
「そなたの首を落とすことにした。覚悟召されよ」
 司馬師が顔を青ざめさせ、その場に腰を落とした。そしてその地面が、見る見る内に湿っていった。
「ははは。司馬師殿よ、思い違いをするな。そなたはまだ若くはあるが、良い弁舌をしておる。よって儂はそなたを魏の一人の武将と認め、そなたを戦場で見かけたら首を落とすことに決めたと言ったのだ」
 それを聞いた司馬師の顔が、青ざめたものから憤怒のものに変わっていくのが見て取れた。
「しかし並みの使者ならこの程度のことで腰を抜かすなどということはないはずなのだが、そなたはその覚悟に欠けていたものと見えるな」
 隣に侍る楊儀も、司馬師を嘲るように低く笑った。
「儂の腹は決まった。そなたの面目のため、馬冢原を手放すことにしてやろう。諸葛亮から大事なことを一つ学んだと、帰って父君に伝えるがよい」
 司馬師は怖れと屈辱に身を震わせ、短い口上だけを述べ、逃げるようにしてそこから退出して行った。
 諸葛亮はそんな司馬師の姿を目にし、小便を漏らしたことへの侮蔑よりも、その気概の無さ憐れむ気持ちを強く持った。一国を背負って出向いているはずの使者が、その気概の片鱗すら持たず、あのような醜態を晒してしまう。国の重みを投げ出し、偽りの平穏に身を窶してしまった者の姿がこれなのだろう。戦が始まる前の長安太守だった夏侯楙もこの種の男であったと聞いている。やはり蜀はこの戦に勝ち抜き、この図体だけ大きくその中身は赤子のような魏を滅ぼしてしまわなければならない。
 こういった者たちがのさばる世など、滅ぼしてしまわねばならないのだ。
 諸葛亮は改めてその気持ちを強く胸に刻み、魏延に馬冢原放棄の伝令を出した。


6-13
 魏延率いる三万五千が馬冢原を放棄したという報が入った。司馬懿はすかさず四万を率いる費耀に馬冢原を固めるよう命じた。
 息子の司馬師を使者にしたのは、特に戦略的な意味があったわけではない。都の安穏とした空気にどっぷりと浸かっていた司馬師を戦の最前線に立たせてやろうと思ったのだ。敵陣に乗り込みそこで殺されたのなら、それはそれで仕方の無いことだと思い定めていた。こんなことで死ぬのならば、この先も大して長くはないだろう。過保護にし、無能さを克服できないまま歳を取り、世に害を為す者に育つくらいなら、ここで諸葛亮に殺させておいた方がいい。
 だが司馬師は役目を果たして戻ってきた。同行させていた黒蜘蛛が、諸葛亮に脅され小便を漏らしていたと報告してきて呆れたが、それでも父としてほっとしているところはある。
「我らは兵を失わずして馬冢原を取れた。これが何故かわかるか」
 司馬懿は炭で温められた幕舎内で、司馬師に尋ねた。質問の意図を考えあぐねているのか、左目の下にある黒子をひくつかせながら司馬師は答えた。
「やはり蜀軍は、あの地に兵糧を運び込めていなかったのでしょうか」
 馬冢原の包囲を進めている時、西から兵糧輸送の部隊が馬冢原に向かっていたと、偵察に出していた郭淮が報告してきた。それでもしやと思うところはあったのだ。
「諸葛亮がこうも簡単に兵を退いたということは、或はそういうことなのかもしれない。しかしそれは不確定要素だ。儂の言いたいことはそういうことではない」
 意に則する答えができなかったと思ったのか、司馬師は顔を強張らせ、さらに考え込む表情を見せた。もっと考えろ、と司馬懿は心の中で念じながらその顔を見ていた。
 司馬懿は地図上に置かれた一つの駒を手に取り、こつこつと卓を鳴らした。費耀の四万を意味する駒だ。
「諸葛亮がこちらの提案を入れたのは、ここにこの兵力があったからだ。干戈を交えさせることだけが兵力の使い道ではない。兵と兵の肉体をぶつけ合わせ勝敗を決する戦の時代はもう終わったのだ。この強大な武力を背景に相手にこちらの言い分を飲ませる。これが軍の使い方というものだ」
「はあ」
 気の無い返事をする司馬師の顔を、司馬懿は横目でちらりと見た。どこかに不満を漂わせているその顔は、諸葛亮に直接会って交渉を成立させたのは自分の手柄であると、遠回しに訴えてきているように見えた。
「おい、お前」
 不機嫌さを籠めたその声に、司馬師ははっと顔を上げた。
「馬冢原を取れたのは自分のお蔭だと思っているな」
 司馬懿は顎に手を置き、司馬師の目をじっと見ながら言った。
「いえ、そのようなことは」
「儂の目をごまかせると思うな。その傲慢さがお前の悪いところであるとまだわからんか。お前は儂の子としてではなく、魏に仕える一人の臣としてやるべきことをやったに過ぎない。それは武官が剣を取り敵と戦うのが当然なのと同じことだ。この一件に鼻を高くし陣内で偉そうな態度をとってみろ。いかにお前といえども首を落とすぞ」
「司令官、誤解でございます。私はそのようなことは」
「言い訳をするな。儂の目はごまかせんと言ったはずだ。わかったらいつまでもここにいるのではなく、いますぐ兵卒の規律を見て廻ってこい。日が落ちるまで温かい所にいることは許さん」
 司馬師は返事をし、慌ててそこから出て行こうとした。その後ろ姿に、司馬懿はもう一度声をかけた。
「傲慢さはいかんぞ。傲慢さは、やがて我が身に撥ね返り、滅ぼされることになる。それを忘れるな」
 司馬師はまた一つ返事をし、そこから出て行った。
 高い地位にあり自分が特別な存在であると勘違いをし、傲慢になる者は世に五万といる。高い地位にあるということは、重い責を身に負うということであり、それ以上でも以下でもないのだ。これを思い違いしてしまった者は、この乱世で皆すべからく一掃され滅んでいる。
人の世に来る乱世とは、世に満ち過ぎてしまったそういう愚か者が一掃されるためにあるのだと司馬懿は思っていた。欲に塗れた愚か者の数が減れば、世は安らかに治まるのだ。自分の息子には、まだ続く乱世の中で滅ぼされる側の人間にはなってもらいたくなかった。
 入れ替わりに、呼び出していた辛毗が入ってきた。辛毗の副官のようなことをしている夏侯玄も同行している。
「馬冢原の様子を言え」
短い質問に辛毗が一つ拱手をした。
「馬冢原を占拠した費耀軍は、魏延が残した陣を利用し防御の強化をしております。十日もあれば馬冢原全体が大きな砦になる予定です」
「よろしい。蜀軍はどうか」
「武功の平野に迫り出し、前衛の兵どもが出て来て戦えと喚いているようです。それは捨て置けばよいと思うのですが」
「麦か」
 辛毗は頷いた。
「このままですと、二月後の武功での収穫は全て蜀軍に接収されてしまいます。諸葛亮はそれを狙っているのか、蜀軍の兵は武功の農民に危害を与えることなく、共に農作業に励んでいるようです」
 諸葛亮に馬冢原を放棄させるということは、武功の平地を明け渡すということでもあった。そうなれば当然、そこで実るものは全て蜀軍のものになる。司馬懿が命じて開墾させた武功の収穫量は決して少ないものではない。渭水と武功水の水量に恵まれた土地の大規模な田畑から得られるものは、本来なら魏軍の軍費を賄うためのものだったが、それが丸々蜀軍の軍費になってしまうのは司馬懿にとって痛いことだった。蜀軍を兵糧切れにより撤退に追い込むという選択肢が極めて小さなものになってしまうからだ。諸葛亮が武功を選んだ意図が始めからこの麦にあったのだとすると、やはり諸葛亮は侮れる相手ではない。
 黒蜘蛛からの報告によると、蜀軍は馬の頭をした船を使って武功水から着々と兵糧を運び込んでいるのだという。前回のような勝ち方は望めそうもなかった。
 しかしこの武功の麦を捨ててでも、馬冢原は確保すべきだった。馬冢原から渭水南岸にかけて弧を描くように防衛線を引けば、蜀軍は容易に攻めてくることはできないし、渭水を利用した兵站の確保もできる。逆に馬冢原を蜀に抑えられていれば、いつ魏軍の後方を脅かされるかわかったものではない。麦畑を放棄してでもそれは避けておくべきことだった。
「良かれ悪しかれ、形は整った。これからが戦の本番だ。我らはこれから全力を持って敵を排除していかねばならん」
 言って司馬懿は辛毗の隣に立つ夏侯玄に目をやった。気概を示すまだ若い夏侯玄の眼差しがこちらを見つめている。
「儂の言うことの意味がわかるか、夏侯玄」
 唐突に質問された夏侯玄の目が狼狽した。
「わかりません」
「ほう、わからんか。排除する敵は蜀軍であり、それに全力を尽くすのだとは思わなんだか」
「そう思いましたが、違うという気もします。だからわからないと答えました」
 それを聞いて司馬懿は微笑んだ。わからないのにわかったような顔をする者ほど無能な者はいない。
「やはりお前は司馬師より物分かりが良いと見えるな。わからぬのなら説明してやろう」
 若い者の賢明さは嬉しくもあるが、自分の息子より賢明だということにどこか嫉妬めいたものを感じもする。それを隠すためにも司馬懿は微笑み続けた。
「この戦の第一目的は、これ以上蜀軍を魏領に入れないということだ。それは蜀軍と一戦交えて撃破し追い返すということと同意ではない。それはわかるな」
「はい」
 答える夏侯玄の隣で辛毗は、全てわかっているという顔をしている。
 司馬懿は地図を指でなぞりながらさらに続けた。
「この防衛線を堅持しておけば蜀軍は動くことができない。堅持し続けることができればだ。ならそれを邪魔する者は、全て敵だということになる。その敵はどこから出てくると思う」
 夏侯玄が少し間を置き、遠慮がちに答えた。
「我が軍内から、ですか」。
「そうだ。本当の敵は内にもあるものだ。しかも厄介なことに、この種の敵は自身が敵になっているという自覚がない。儂はこれを排除し続けなければならん。これに負けた時が、つまり蜀軍が勝つということだ」
 夏侯玄はそれ以上何も言わず黙って聞いていた。味方を敵と思うなどとんでもないと思ているのかもしれない。それならそれでいい。もしそうなら、この若者もその程度の男だったというまでだ。
「辛毗。許都へ行き、陛下に拝謁し、ここの戦況を直接報告してこい。こちらから攻めなければ負けることはなく、よって蜀軍が勝つことはないということをよくよく説明するのだ。そして攻めることは許されんという勅許を拝領してこい」
 辛毗の顔に緊張が走った。平時であれば、いかに重臣といえども帝に勅許を乞うなど許されることではない。しかし司馬懿はそんなことはどうでもいいことだと思っていた。欲のまま帝位を簒奪した曹家こそ、この乱世の象徴なのだ。その仮初めの帝に心から心服するつもりはない。この思いは恐らく、諸葛亮と同じなのだろうという気がする。ただ、その行く道が違うだけなのだ。
「御意。可能であれば、許都の予備兵力も引き出してきます」
 辛毗が力強く言い、司馬懿は頷いた。
「お前も共に行け、夏侯玄。戦は最前線だけでやるものではないということを、よく学んで来い」
 二人が拱手し、退出して行った。
 この戦は、いかに味方を御するかにあると司馬懿は考えていた。長安の軍人は心から自分のことを信頼しているとは言い難い。何故ならば、前回の戦は名目上では魏軍が勝ったことになっているが、それは蜀軍が兵糧切れのため勝手に撤退したということで、戦場での司馬懿は諸葛亮に負けていたのだ。許都の戦を知らない重臣は騙せても、長安の軍人はそのことをよく知っている。だからこそ、対峙中に何か余計なことを言ってくる者が出てくるだろうと予測できた。諸葛亮が謀略によってそういう者につけこみ、内部分裂を狙ってくる可能性もある。いや、当然それはされてくるだろう。蜀軍の動向よりも、味方の声に注意すべきだった。
 その抑えのためには、帝すら利用してやる。そして、勝つ。自分はこんな一地方の司令官で終わるわけにはいかないのだ。

 晴天の寒空の下、体中から土の匂いが漂っていた。一時は占拠していた馬冢原を放棄し、それからすぐに大きなぶつかり合いがあるのだろうと思っていたがそれは始まらず、また前回のように睨み合いが始まった。戦闘の無い代わりに蔣斌は、武功の農民と共に麦畑の手入れをしていた。これをやらねば麦が吸うはずのものを雑草が吸ってしまい、実りが減るのだという。
 剣を振り続け皮の固くなった手が、雑草と土の色に塗れた。魏軍の兵を殺してその血でこの手が染まるのだと覚悟していた蔣斌は、この雑草取りに拍子抜けしていた。戦にも色々あるのだと、軍団長の王平は言っていた。
 草抜きを終え自陣へ帰ろうとしていると、同じく野良仕事をしていた杜棋が話しかけてきた。地位は王平軍の歩兵隊を率いる大隊長だが、大事な仕事だからと、他の兵卒や蔣斌と一緒に雑草抜きをしていた。
「戦ができないからといって腐ってはいないか、蔣斌」
「草抜きも調練の一環だと思ってやっています。腐ってなんかいませんよ」
 杜棋が微笑みながら頷き返してきた。そう言ってみるが、本当は戦をやりたい。調練で培ったものを、試してみたい。
 兵卒の一団が二人の横を駆け足で通り過ぎて行った。前線に配備されている兵以外は何もしていないというわけでなく、こうして調練を課せられているか蔣斌らのように畑の手入れをしている。何の変哲もない寒村集まる武功の狭い平野に八万もの兵が入り、賑やかな様相を呈していた。
「三年も準備した戦なのだから、もっと血生臭いことになるのかと思っていました。でも意外とそうでもないものですね」
「始めたくても始められないのだ。馬冢原の要所を固められ、川岸の魏軍本陣にも全く動きがない。攻め側の辛いところよ。俺らが攻めきれなければ、それは魏軍が勝つということになるからな。敵の司令官はそこのところをよくわかっているのだ」
「戦はもっと、兵がぶつかり合うものだと思っていました。前の戦で張郃に攻められた私達はよほど運がなかったのですね」
 言って二人は苦笑した。心底恐ろしかった思い出であったが、今ではこうして冗談交じりに言うことができる。恐れずとも、張郃は王平に首をあげられ、もうこの世にはいないのだ。
 畑から自陣に戻ると、兵の一人が喚く声が聞こえてきた。喚いている兵が複数の兵に体を抑えられ、どこかに連れていかれている。
「また何か悪さでもしたんだろう。これだけ人がいると、ああいうのは絶えないものだな」
 杜棋がつまらなさそうに言った。ここの農民に悪事を働けば厳罰であると諸葛亮から達しが出ているのだ。あの喚いている兵も、ここの農民に何か悪さをしたのだろう。
 喚き声を聞きながら前線との交代準備をしていると叔父の劉敏から呼び出され、蔣斌は駆け足で幕舎へと向かった。行くのが遅れてしまうとまたどのように怒鳴られてしまうかわかったものではない。
「蔣斌です。入ります」
 中に入ると、卓の上に湯気の立つ兵糧が置かれていて、それを食うように劉敏があごで促してきた。
「これを食べばいいのですか」
「いいから黙ってさっさと食え」
 不機嫌そうな声で言われ、蔣斌は兵糧を口に入れた。いつも食べているのと変わらない、普通の兵糧だ。劉敏はその間何を言わず、何かを書簡に認めている。
「食べ終わりました」
「よろしい、では本題に入ろう。お前にこれから、罪人の首を落としてもらう。できるか」
 そう言う劉敏の目には、できないとは言わせないと言わんばかりの厳しさが込められていた。蔣斌は反射的に、できます、と答えた。
「先程、声を上げながら連れていかれている兵を見ました。その者のことでしょうか」
「そうだ。あの兵はここの農民に危害を与えた。よって我らはその者の首を落とし、ここの農民に謝意を示さなければならん。何故そこまでせねばならんか、わかるか」
「ここの麦を蜀軍が確保しなければならないからですか」
「その通りだ」
 これは杜棋からも聞かされていることだった。農民の心を得ておかねば、麦の確保に支障が出るかもしれない。この八万の軍にとって、兵糧のことは死活問題になりかねないのだ。前回の戦でも、蜀軍は兵糧不足により撤退に追い込まれた。
「人を殺すのは初めてか」
「はい」
 張郃に襲われた時に、凄惨な死に方をした仲間を目にしたことはある。しかし自らの手で誰かを殺したことはない。今までその必要もなかった。
「戦になれば、お前は人を殺すことになる。頭ではわかっていても、いざとなれば体が動かなくなる新兵は少なくないのだ。魏軍との戦の前準備だと思え」
 蔣斌の手が微かに震え始めた。覚悟がなかったわけではない。体が勝手にそうなってしまうのだ。
「恐れるか、蔣斌。しかし恐れることを恥だとは思うな。恐れを知らぬ者よりも、知る者の方が良いということもあるのだ。兵の命を預かり指揮する者であれば、尚更だ。ただ、その恐れに飲まれるな」
 その言葉にいつにない優しさを感じた蔣斌は、ふと劉敏の顔を見た。目を合わせるのを嫌がるように劉敏は立ち上がり、幕舎から出て行こうとした。
「あの、叔父上」
「なんだ」
「その兵は、どのようなことをしたのでしょうか」
「強姦だ」
 言われて、蔣斌の胸が一つ高鳴った。高鳴ると共に、琳の顔が頭に浮かんだ。
 そんなはずはないと蔣斌は自分に思い聞かせた。琳のいる王其村は、劉敏が陣張りした兵糧庫の方角へ一里離れた所にあり、王平軍の管轄外の村である。それに武功には琳の他に何人もの女が暮らしているのだ。
「どうした、行くぞ」
 劉敏に言われ、蔣斌はその後を追った。
 陣内の広場に罪を犯した兵が縛られ座らされていた。そしてそこから少し離れた所に被害にあった女がいた。琳とは似ても似つかない三十前後と思える女だった。その女を見て、蔣斌は自分の胸から大きな不安が消えるのを感じた。そして、琳のことを過剰なまでに考えていた自分がおかしく思えてきた。
 劉敏が女に詫びの言葉を述べ、小さな袋を握らせた。入っているのは多分、銀だろう。それを見て女は嬉しそうな笑みを浮かべていた。
 一通りのやり取りを終え、劉敏と蔣斌は縛られた兵の方へと行った。轡をされた兵が、恐怖の眼差しをこちらに向けている。
 劉敏が乱暴に兵の口のものをはずした。
「劉敏殿。確かに俺は悪いことをしたけど、殺すなんてあんまりじゃないか。今まで厳しい調練に耐えてきたっていうのに味方に殺されるなんて。どうせ殺すんなら戦場で死なせてくれ。な、劉敏殿」
 兵が叫ぶようにして言った。
「その戦まで、お前はどうやって食いつなぐのだ。ここにはもう、お前が食えるものは何一つとしてないのだ。それに、ここの農民に危害を与えれば打ち首だということは知っていたはずだ」
 劉敏が抑揚の無い声で言った。
「それでも、男ならわかるだろう。女を見ればああなっちまうんだ。あんたも男なら大分溜まって」
 言った兵の顔に劉敏の持つ小さな鉄鞭が叩きつけられた。頬の皮が破れ、鮮血が飛び散った。そしてまだ何か言おうとするその口にまた轡がなされた。
「どんな組織にも、多かれ少なかれ腐った者はいる。八万もの人間が集まれば、そういった者は必ず出てくるものだ。自らの属す組織を称賛し、称賛したいがために汚いものに目を瞑るようになれば、その組織からは自浄力が失われてしまう。駄目なものを駄目と言えず、その組織が自浄力を失った時、その組織は全体が腐っていくのだ」
 静まり返った陣内に劉敏の声が響いた。ここにいる全ての兵に言っているようであったが、自分に言われているのだと蔣斌は感じた。
「この男は、我ら王平軍の名を汚す行いをした。よって、ここに誅する」
 轡をされた兵は観念したのか、或は情に訴えかけようとしているのか、その場に突っ伏して泣き始めた。蔣斌は複雑な気持ちでそれを見ていた。
「よし、やれ」
 言われて蔣斌は剣を抜き、構えた。こちらから見えない少し離れた所から、さっきの女の視線を感じた。
 劉敏の言う通り、この兵は王平軍の名を汚すことをしたのだ。程度の大小はどうであれ、それは王平軍を内から破壊する行為と同義だと言っていい。しかも本人には、その自覚があるようには見えない。こういう者は、殺さなければいけないのだ。そう思い定めると、蔣斌の心から嫌なものが消え、剣を持つ手に力が入った。
 兵の首に剣を下した。剣が何か固いものに当たって首は落ちず、兵はおかしな声を上げながら反射的に体を仰け反らせた。裂けた首の内にある血の管から、大量の血が脈打って出て蔣斌の体を濡らした。蔣斌の脳裏に、張郃戦でのことが鮮明に甦ってきた。
「馬鹿者、一回でやらんか!」
 劉敏が怒鳴り、蔣斌ははっとした。剣が首の骨を絶てなかったのだ。
 蔣斌はもう一度剣を振り上げ、下した。ちぎれかけた首がごろんと地に落ち、さっきまで生きていた兵の体がただの物になった。物にしたのは、他でもない自分の手だ。両断された兵の体は、地面に血の染みを広げている。
 息が荒くなった蔣斌に、劉敏が近づいてきた。
「本番では一撃でやれ。いいな」
 耳元で囁くように言い、何事もなかったかのように幕舎の方へと戻っていった。さっきまで遠巻きに見ていた兵らが、首の落ちた死体を片付け始めた。少し経ってから、劉敏の言った本番が、戦のことを指しているのだと気付いた。
 どこで見ていたのか、杜棋が声をかけてきた。何がおかしいのか、自分を見ながら苦笑している。杜棋の大きな手が蔣斌の背中を叩いた。
「血のついた服を替えてこい。早く前線と交代しに行かねばな」
 蔣斌は頷いた。手にはまだ、肉と骨を斬った感触が残っている。それは良いものでも嫌なものでもない、今まで味わったことのない妙な感触だった。
 さっきまであった不安はもうない。人を殺す、ということに対する不安だ。不安がないというより、不安を感じる部分がなくなったという気がする。自分の体の中で何かが変わったとはっきり感じた。その証に、体の中の一部分が妙に熱くて清々しい。


6-14
西からの風を運ぶ渭水の流れを遡り、幾艘もの平船が長安の物資を魏軍本陣に届けていた。渭水の運ぶ砂が溜まって形成された小高い丘には倉が立てられ、兵らは積荷を曳いて津と倉の間を行き来している。
 夏侯覇はその様子を横目に、自らの率いる騎馬隊を駆けさせていた。武功に布陣してから二月、出合い頭に王平の騎馬隊とぶつかってから戦らしい戦はしていないが、馬は毎日駆けさせている。馬は駆けさせておかないと、すぐに駆けなくなるのだ。
 馬を疾駆させて並足に落とし、また疾駆させての繰り返しで馬を攻め、一通りの調練が終わると馬に水を飲ませて体を洗った。夏侯覇も他の兵と同じく自らそれをやった。馬の手入れは自分でやれと、死んだ張郃は口を酸っぱくして言っていた。
「肩の調子はどうだ」
 夏侯覇は馬に水を飲ませている徐質に、馬から下りながら言った。
「問題ありません」
 徐質は不愛想に答えた。
 徐質が右肩に受けた王平の矢は貫通せずに骨で止まり、陣営に戻って肉の巻いた鏃を取り除いた。その時の徐質は一言も発することなく、痛みの苦痛なのか、落馬させられた悔しさなのか、ただ額に汗を浮かべたまま鬼のような形相をしていた。縫合した右肩の傷がようやく塞がったので夏侯覇は気にかけてみたが、このことに触れると徐質は嫌な顔をするのだった。
 逆に夏侯覇は、これは良い薬だ、と思っていた。戦場で受けた恥は、男を強くする。それは夏侯覇が身を以て知っていた。
「おい、徐質。お前はそんな顔をするがな、強がって傷の手当てを怠るなよ。これから暑くなれば、傷は膿みやすくなる。傷が膿めば熱を発して戦場に出ることすら叶わなくなる」
「しかし隊長、こうも戦がなければそんな心配も必要ないでしょう。俺は早くもう一度あの王平とやらと戦いたいというのに」
 魏軍は亀のように陣地に籠るばかりで、蜀軍も攻めてこない。この状況に焦れているのは徐質だけではなかった。将兵は戦功によって得られる褒美を目当てに戦場に出ているが、その戦がないのだ。三年前はあった軍市も、指揮官から不評だったせいか、今回は開かれていない。それを期待していた兵卒は肩透かしを喰らったと聞いているから、あの軍市にもそれなりの効果があったのだということは今になってわかる。守りに徹して戦が始まらないことで溜まる不満を、軍市で発散させていたのだ。
 八万の軍勢がここに布陣するだけで蜀軍は攻めてこられず、これで既に魏軍の力は発揮されているのだと司馬懿は言っていた。夏侯覇もそれは理解できるが、将兵の全員がそれを理解できるわけではないのだ。それどころか、蜀軍を攻撃しない司馬懿を臆病者だと陰で囁いている者すらいる。初陣を終えたばかりの徐質もそれを理解できるまで成長しきっておらず、時にこうしてぼやくのだった。兵は倦み始め、その倦みがやがて声になって表に出てくるのに長くはないだろう。その時に司馬懿はどういう手で対処するのか、この退屈な陣内でその手並みを見てやろうと夏侯覇は思っていた。
「逸るな、徐質。努めて逸るな。我らは行けと言われれば命を懸けて戦い、行くなと言われればただ戦いの時を待つ。戦の開始がどうこうなど、分を越えたことを言うものではない。今はじっくりと力を貯めておくのだ」
「その力を遣う時が来ればいいんですがね」
 徐質は初陣を終えてから、憎まれ口を叩くことが多くなった。蜀軍の精鋭である王平軍とぶつかってから、どこかがふっきれたのだろう。一人の男として自身がついたと言ってもいいかもしれない。たまに癪に障ることもあるが、悪いことではない。
 馬を繋いで軍営に戻ると、いつも軍を見回っている司馬師がやってきた。かなり不機嫌そうな顔をしている。
「本日も大儀でございます。浮かない顔をして、どうしましたか」
「どうしたもこうしたもないさ。どいつもいつ戦が始まるのかと口を揃えて言ってきやがる。俺が決めることではないというのに」
 蜀軍と対峙するようになってから、この男もどこか変わっていた。前は嫌な奴だとしか思えなかったが、開戦時に蜀軍本陣に乗り込み、馬冢原から蜀軍を退かせたという話を聞いて、見方が変わった。一つ間違えていれば諸葛亮に首を飛ばされていたことだろう。死地を乗り越えて変わったという点で、徐質と同じだと言えるのかもしれない。
「お前は早く戦いたいと思わないのか、夏侯覇。蜀軍の王平とやらを目の敵にしていると聞いたが」
「戦えと言われれば、戦います。こちらからは何も言いません。余計なことを言ってしまえば、あの世に逝った時に張郃殿に怒鳴られてしまいますよ」
「結構なことだな。文句を言ってこないのはお前くらいだ」
 父である司馬懿に命じられ、不満が溜まりつつある魏軍全体を、司馬師は毎日見回っている。指揮官の息子が愚痴を聞いて回るというのは、不満を解消させる手段として効果があることなのかもしれない。
「中央からの援軍は望めないのでしょうか」
 司馬懿の右腕である辛毗が、夏侯玄と共に許都へと上って援軍を乞いに行ったとは聞いていた。この武功では両軍が八万と八万で拮抗しているが、援軍が来て数の上で優位に立てばこちらから攻めかけることもできるだろう。蜀軍は、動員できる全ての兵力を武功に持ってきているのだ。
「それが、なかなか難しいようだ。東で呉軍が蜀軍に呼応した」
「なんと」
「軍を動かさなかった諸葛亮は、恐らくこれを待っていたのだろう。中央からの援軍があるとすれば、東の戦線が片付いてからだ。司令官が守りに徹しているのも、呉軍に動く気配があったからなのだ。魏領の西端である武功の戦線が蜀軍に破られれば、東の呉軍は間違いなく勢い付く。戦はここまで見てやらねばならぬというのに、全く口だけ達者な馬鹿が多くて困る」
「攻めろと言っている者に、呉軍が攻めてきているのだと言ってやればいいのではないですか」
「そんなことできるか。それが通じる相手なら、もう言っている。言えば奴らは不安と妄想を重ねて、下手をすれば脱走する者も大量に出かねん。奴らは気分で勇ましいことを言い、その癖に一皮剥けばただの臆病者だからな」
「そういうものですか」
「呉軍のことは口外するなよ。お前は理解できる者だと思ったから、俺は言った。しかし他の者の耳に入れば、人の口を伝わって根も葉もない噂が立つ。戦の本当の敵は内にいるものだ。これは親父の受け売りだがね」
「口外はしません。それで、東の戦線が収まれば、援軍は」
「二万だ。呉軍が退けばという条件でこれだけを引き出せたと辛毗殿が伝えてきた。呉軍が東を突破してくれば、我らは実力で蜀軍を追い返す、このことは頭に入れておいてくれ」
 夏侯覇は頷いた。変わらぬ戦線の風景に飽いていたが、魏は危ない所に立たされているのかもしれない。
「じゃあ、俺はそろそろ行くぞ」
 立ち上がった司馬師の後ろ姿を夏侯覇は見送った。
 本当の敵は内にいるものだ。軍営に飯の鐘が響いた時、司馬師から言われたことを口の中で呟いた。

 音の無い戦の中に身を置いていた。
 麦の刈り入れが始まった武功内に、郭循は農民姿で紛れ込んでいた。蜀軍の防諜は凄まじく、野良仕事中も休憩中も常にどこからかの視線が感じられた。武功の農村中にかなりの数の蚩尤軍が撒かれているらしく、蜀軍の様子を調べようにも思うように動けない。それでも無理をして諜報をしようとした他の黒蜘蛛は、文字通り音も無く消されていった。
 消されること自体は怖くなかった。危険を冒し、何の成果も上げられず消されてしまえば、明日には郭奕の頭からも自分の存在は消えてしまうのだ。それが、怖かった。
 郭循は武功の農民になりきり、ほどほどに働き、ほどほどに怠けた。どこに潜んでいるかわからない蚩尤軍に、目は付けられていないはずだ。何かの拍子で見つかった時のため、逃げ道のことも常に考えていた。また自分の心の内がわずかにでも行動に出ないよう努めた。もしかしたら、いつも顔を合わせている隣の畑の平凡そうな青年が、蚩尤軍かもしれないのだ。
 潜み始めて三月、特に有力な情報は得られず、これからも得られそうになかったが、郭奕の許しを無しにここを離れることはできない。帰還命令の合図は色々と決めてあるので、そろそろその合図がくる頃合いかもしれないとは思っていたが、それは郭奕の腹次第なのでわからない。
 周囲から常に視線を感じるといっても、それは普通の農民にはわからない、忍びだからこそわかる質の視線だ。蚩尤軍はこうして武功に潜む黒蜘蛛に無言の圧力をかけ、ぼろが出るのを待っているのだ。現に何人かの黒蜘蛛がこの圧力に耐えかね、殺されていた。
 畑を遠巻きにして、武功の北と西に兵が多めに配置されているのが、郭循のいる所からもわかった。麦を収穫するまで守り通そうということなのだろう。しかしそれは構えだけで、戦が始まりそうな気配は伝わってこなかった。
 蜀軍から配られた、一つの車輪がついた手押し車で麦を軍営に運び、その対価に銭をもらった。魏で使われている銭とは違うものだが、この国の西方で長らく使われている太平百銭と呼ばれるもので、これを扱っている商人は魏でも少なくない。長安のような大都市に行けば、魏の銭と交換することもできるのだ。
 銭をもらって家に帰ろうとしていると、馬に乗った蜀軍の高官が近くを通り過ぎて行った。その男の顔が目に入ると、郭循の胸は一つ鼓動し、全身の毛という毛が逆立った。諸葛亮の側近の一人、費禕だ。
 三年前、魏軍が蜀軍と天水辺りで対峙していた際、蜀軍陣内に潜伏していた時に見かけた高官だった。その時、郭循は咄嗟に飛び出しこの男を殺害しようとしたが、それは蚩尤軍の罠で、逆に黒蜘蛛が散々たる打撃を与えられたのだった。そのことで郭循は郭奕から暴行を受け、それ以来、郭奕の自分に対する態度がよそよそしくなった。
 郭循は通り過ぎて行く費禕の後ろ姿を見つめながら、憎悪の炎を燃やした。あの時に、こいつが目の前を通らなければ、郭奕から疎まれることはなかったのだ。
 費禕のことを考えながら家に帰ると、家の前に馬の糞が一つ落ちていた。馬が通ることんどほとんどない場所である。郭奕からの、帰還しろという合図の一つだった。
 郭循は一つ大きく息をつき安堵した。ようやくこの緊張の日々から抜け出せる。そしてそれ以上に、郭奕が自分のことを忘れていなかったことが嬉しい。郭奕から本気で疎まれ必要のない者だと思われていれば、この帰還命令はこなかったはずだ。郭循は馬糞を見つめながら、費禕のことも忘れてにやついた。
「おや、何やら嬉しそうですね」
 後ろから隣に住む農夫に声をかけられた。
 郭循は後ろを振り向いた。その瞬間、背中が粟立った。小動物を狙う大鳥のような目がこちらを見ていた。そう思ったのはほんの一瞬で、よく見ると麦を乗せた手押し車を押すその農夫は、いつも通りの微笑を浮かべているだけだった。しかし、この男は確かにこちらのことを観察していた。
「麦がいい銭になってくれましてね。それで」
 言いながら郭循は太平百銭の入った袋を見せた。いつもならするはずのない動揺だったが、気を抜いていた。これから魏軍陣地に帰れば、また郭奕の声が聞けるのだ。ここで蚩尤軍に捕らえられてしまうようなことがあれば、その機会が失われてしまうではないか。
「そんなにもらえるのですか。それはいいですな。ところでその」
 農夫は郭循の足元を指さした。郭循は目をそちらに向けず、農夫の方を見続けた。目を離せば、何が飛んでくるかわからない。
「おかしな所に馬糞が落ちていることですな」
 そう言い残し、農夫は笑いながら麦を押して行った。
 鳥の鳴き声一つない静寂が訪れた。その中で、郭循は全身から吹き出させていた。
 何でもない会話だった。しかし忍びの勘が、ばれたと言っていた。
 郭循は家に入らずそのまま南へ向かって歩き出した。少し早足だが、不自然ではない程度の早足だ。南の茂みに行けば、馬冢原へと二里続く地下通路の入り口がある。そこまで蚩尤軍に捕縛されずに辿りつけるかどうか。
 後ろから二つ、早足にぴったりと続いてくる気配が感じられた。少し速度を上げた。やはり、気配は追ってくる。蚩尤軍だ。
 郭循は民家の一つを選んで入った。麦を交換しに行っているのか、幸い中には誰もいない。その家の裏口を抜け外に出ると、全速力で走った。気配はそこで途切れた。が、すぐに追ってくるだろう。
 村を抜け、開けた場所に出た。これだけ見通しが良ければすぐに見つかってしまうだろう。後ろからは、嫌な視線がひしひしと感じられた。
 南の茂みが見えてきた。郭循はそこに飛び込み姿を隠し、地下通路の入り口を探した。上手く隠されているようで、草を掻き分けどもなかなか見つからなかった。茂みに誰か入ってきた。早く見つけなければ蚩尤軍に捕まってしまう。捕まってしまえば、もう二度と郭奕に会えない。
 何かに躓いた。足元を見ると、岩があった。これだと思い郭循は岩を持ち上げた。入り口。中に素早く身を滑り込ませ、岩で蓋をした。そしてすぐ、頭上で何かが通り過ぎていった。
 これで安心ではない。蚩尤軍は自分が姿を消したこの辺りを徹底的に調べるだろう。地下通路を露見させるわけにはいかない。
 郭循は入り口の土を支える木の柱を蹴り折った。入り口が塞がれ、岩の隙間から漏れていた光も断たれ、完全な闇となった。
 目を開けても閉じても変わらない土の下を、郭循は這って進んだ。何度か足のたくさん生えた蟲に手が触れたが気にもならない。自分も、暗黒の中に棲む、一匹の蜘蛛なのだ。
 二里を這い、馬冢原に辿りついた。暗闇から出ると光が眩しく、郭循は目を細めた。その光の中に、郭奕。背に光を受けたその姿は黒い影にしか見えなかったが、それは確かに郭奕だった。
 その影が顔を近付けきた。頬と頬をつけ、耳元で囁いた。
「戦を煽っている者がいる。全て殺せ」
 郭循は影に頷いた。頷いた時には、もうその影は消えていた。
 涙が流れていた。一時は見捨てられたかと疑った郭奕が、耳元で命令してくれた。自分のことを、頼ってくれた。
 涙を拭いふと見ると、消えた影の跡に麻の雌株が落ちていた。それを優しく両手で包み、口に入れ、ゆっくりと味わいながら臓腑に落とした。麻を与えられるのは、たまに郭奕が見せる、労いの一つであった。
 馬冢原の魏軍陣内を音も無く駆けた。兵は誰もが気の抜けたような顔をしており、戦がないことで士気が落ちているのが目に見えてわかった。
 走ることで血が巡り、麻が腹の底から効いてきた。欲望。郭奕に愛されたいという欲望。誰かを殺すことでのみ満たされるものだった。
 馬冢原を指揮する費耀の幕舎が見えてきた。周りには兵が集まり、早く戦をしろ、手柄を上げさせろと叫んでいる。郭奕が殺せと言ったのは、これを密かに煽っている蚩尤軍のことだろう。
 郭循はさりげなく兵の集団に紛れ込んだ。兵卒ごときがこんな勝手な真似をすれば普通なら打ち首ものだが、あまりの数でそれができないのだろう。それに手柄を立てたがる兵を殺してしまえば、脱走兵が出る恐れがある。これを黙らせるには、煽っている一握りの者を、人知れず殺せばいいのだ。
 声を上げる兵の中で、郭循は首を左右にして見渡した。不自然な者がいるはずだ。
 いた。声を上げながら、周りの様子を冷静な顔で伺っている。その男と目が合った。勘付かれたのか、男はその場を脱して馬冢原の林の中へと駆けて行った。
 郭循はそれを追った。馬冢原の地形は頭に叩き込んでいる。蜀陣内では追い回されたが、今度はこちらが追う番だ。
 男の背が近づいてきた。余計なことは頭から消え、ただ走ることにだけ専念できた。腹に入れた麻が、そうさせていた。左右を駆け抜けて行く木々。獲物を追うことが楽しくなり、郭循は奇声を上げた。
 二本の短剣を放った。一本が男の腿に突き立ち、転倒した。男は観念したのか胸元から刃を取り出し、自分の喉に向けた。郭循は素早く走り寄り、手首と共に刃を刎ね飛ばした。
血が噴き出す手首を抑えながら、男が怯えた目でこちらを見ていた。これで郭奕に喜んでもらえる。また何か命じてもらえる。郭循は蛇の様に男を睨みながら笑った。これに拷問をかければ、他に煽っている者が誰かわかるかもしれない。郭奕にもっと喜んでもらえるかもしれない。
低く笑い続ける郭循のいちもつが、強かに怒張していた。


6-15
 大地に線が引かれていた。その線は長大なもので、三里以上に渡っての塹壕が掘られ、向こう側に逆茂木が重なり、出ては来ないがここから先へは一歩も通さないという司馬懿の強い意志がありありと伝わってくるものだった。
 王平は五百騎の小勢で、魏軍の前線を舐めるようにして駆けた。何度も繰り返している、挑発行動である。王平が来ているとわかれば、夏侯覇あたりが釣られて出てくるかとも思ったが、魏軍は一兵たりとも出てくる気配がない。あの線の向こうでは、忍び込んだ蚩尤軍が工作をしているはずだが、上手くいっていないということか。
 出てこないからといって、こちらから攻めることは難しい。平地に構えた陣とはいえ、前は塹壕、後ろは渭水に守られている、城のようなものだ。蜀軍の東への進路を防ぐように横たわる馬冢原も、費耀の軍によって固められていて、片方を攻めれば片方から援護が出てくるといった構えになっている。兵力で勝っていれば力押しをすべきところなのかもしれないが、八万と八万の同数であり、これでは三倍の兵力が必要と言われている城攻めはできそうもない。
 大軍を相手にする時は兵糧攻めが有効だが、魏軍は背後に流れる渭水から船による補給を受けているため、騎馬隊で急襲して兵站線を切ることもできない。巧妙だと思える背水の陣だった。
 初手で馬冢原を奪ったが、兵站線に問題があったため、すぐに放棄した。あれが間違いだったのではないか。兵に無理を強いてでも、馬冢原は確保すべきであった。あの高地を確保するため、蜀軍は多くの血を流してでも戦うべきであった。
 思っても仕方のない、一軍を率いる自分の考えることではなかった。しかし、口には出さずとも、この堅く構えた魏の陣を見る度に、王平はそう思わずにはいられなかった。
 王平はぎりぎりまで魏の陣に近付き、矢が飛んできたところで馬首を返して陣に戻った。
 蜀の兵がたむろする武功は、これが戦場かと思えるほど長閑なものである。金色に実った麦は刈られ、農夫がそれを木牛と呼ばれる手押し車を使って軍営に運んでいく。自陣へと戻る道から見える麦畑のほとんどは刈り入れを終え、地肌の見える畑で農民の子供たちが遊んでいた。長閑だが、ここにも魏軍の黒蜘蛛が紛れていて、句扶が率いる蚩尤軍との暗闘が行われていた。普通にしていれば気付くことのない、もう一つの戦だった。
 軍営に着くと、蔣斌が諸葛亮からの命令書を持ってやってきた。王平は文字が読めないため、蔣斌がそれを口上した。
「武功水にある兵糧庫を強化するために、王平軍の歩兵から五千を出せとのことです」
 武功水の兵糧庫は、王平軍の副官である劉敏が陣張りし、差配をしていた。本来なら他の文官に任せ、劉敏は王平の陣に常駐しておくべきだったが、蜀には人が少ない。ましてや軍の生命線である兵糧を任せるとなると、何人もいないのだ。前回の戦では、位ばかりが高い李厳に兵糧を任せたため、蜀軍は優勢であったにも関わらず、兵糧は輸送されず撤退するはめになってしまった。
「杜棋に五千を率いて行けと伝えておけ」
 武功で取れた麦はかなりの量になったはずだ。それを貯蔵する倉を造るための人数なのだろう。五千の動員はかなり大きく、戦力の減退になるが、戦自体がないのだ。
「あの、私はどちらになりますか」
 行けと言った王平に、蔣斌が言い難そうに聞いてきた。
「お前は俺の従者だ。お前がいなければ、誰が命令書を読むというのだ」
「わかりました」
「待て。何故、わざわざそんなことを聞く」
 言われた蔣斌が目を逸らした。
「ここにいても、なかなか戦が始まらないもので」
 王平は訝しんで蔣斌の顔を見た。何かを隠している。
「まあいい。早く杜棋に命令を伝えてこい」
「御意」
 蔣斌が駆けだして行った。
 どこかで女でもつくったのか、と王平は思った。蔣斌はこの戦が始まる直前まで、農民の姿に扮して武功に忍び込んでいたのだ。その時に忍んでいた王其村は、劉敏の兵糧庫の近くにあった。
 王平はふと、妻だった王歓のことを思い出した。洛陽に王歓を残し、定軍山へと向かったのは、もう十六年も前のことになっていた。あの頃は、戦場であれ、どこであれ、常に王歓のことが頭にあった。それが王平の心の糧となっていた。蔣斌が女のことで何か思い悩んでいるとしても、自分がそれに対してとやかく言える筋合いはない。むしろ、思い悩んでいた昔の自分を思い返し、妙に懐かしくなったりする。そして、昔のことに対して鈍感になってしまった今の自分を寂しく思うこともある。女に悩む若者に対し、何かを言う気にはなれない。
 杜棋から出動の報告を受け、それを見送り、やがて日が暮れた。兵糧をとり寝台に身を入れると、幕舎内に風が一つ入ってきた。風が止まり、王平はゆっくりと体を起こした。
「句扶か」
 暗闇の幕舎内に、句扶の小柄な姿が浮かんできた。
 王平は寝台の上で石を打って火を熾し、燭台を灯した。
 油が燃える仄かな光を受け、句扶の左目で蚩尤の姿がてろてろと揺れていた。句扶がこうして来たということは、何か隠匿しておくべき情報があるということだ。
「呉軍が動いたことは、兄者も耳にしていることと思います」
 蜀と呉による魏の挟撃は、戦が始まるまでの三年に計画され、実行されていた。馬冢原からあっさりと兵を退いたのも、これがあったからだ。
「聞いている。それがどうした」
「一月を経ずして、呉軍が撤退を開始しました」
 聞いて、笑いが込み上げてきた。喜んでいるわけではない。何から何まで上手くいかない蜀軍が、そして諸葛亮が、なんとも滑稽に思えてきたのだ。三年もかけた大計であり、諸葛亮にも自信があったのだろうが、呉は約束を履行したという事実を作りたかっただけなのだろう。仄暗い幕舎内が、王平の低い笑いで満たされていった。
 額の傷に左手を当てながら一頻り笑うと、身を正して言った。いかに蜀軍が可笑しかろうと、自分のその中の一員であり、逃げるわけにはいかないのだ。
「援軍が来るな」
 句扶は頷いた。
「二万です。予め準備がされていたようで、呉軍が退くとすぐに許都を発しました」
「八万と、十万か。いつまでも武功の平地にいては兵力差で押されてしまうな。劉敏の兵糧庫に五千を割いたのも、その備えのためか」
「麦の刈り入れが終わり次第、蜀軍は武功水を西へ渡り、五丈原に陣を張ります」
「背を見せれば、さすがに魏軍は出てくるであろうな。それを俺に防げと丞相は言っておられたか?」
「殿軍は、兄者と魏延殿です。兄者には、特に兵糧庫に敵を近付けるなとのことです。武功水の東側に集積された兵糧を、西岸に運び終えるまで守りきれと」
「ところで句扶、前に頼んでおいたあれは、まだそのままか」
「そのままです。丞相もそれを知っているため、兄者が兵糧庫の防衛なのだと思います」
「了解したと丞相に伝えておいてくれ」
「御意」
 燭台の火が静かに消え、照らされていた句扶の眼帯が暗闇に溶けていった。
 朝がきた。王平は五百騎をつれ、前線の視察に行った。相変わらず内に籠っている魏軍だったが、逆茂木の向こう側からいつもと違うものが発せられているのを、王平は肌で感じた。東に見える馬冢原も、どこか蠢いているように見える。
 蜀軍は刈り入れを終え、魏軍は援軍を得ようとしている。時が満ちてきているのだ。戦が、始まる。

 許都からの援軍が到着し、丸一日が経った。
 今まで眠ったようであった魏軍はにわかに目を覚まし、装備を整えた兵が顔に緊張を滲ませながら右へ左へと動いていた。
 東で蜀軍に呼応した呉軍は、あっけないほど容易く撤退し、魏は西へと兵力を送る余裕ができたのだ。蜀軍は八万で、魏軍は十万となり、これで兵数での優位を得ることになる。
 本陣から夏侯覇の陣に使者が走ってきた。夏侯覇は、いよいよ出撃の命令かと思ったが、本営の幕舎で軍議をやるから来いとのことだった。
 名を告げ、幕舎に入った。中には司馬懿と秦朗が向かい合うようにしていて、その周りに郭淮や司馬師、馬冢原から来ている費耀もいた。少し離れた所に夏侯玄の姿もある。
「これ以上待つ理由がどこにあるのですか、司令官」
 口髭を豊かに蓄えた秦朗が、背の低い司馬懿を見下ろすようにして言っていた。黒々とした口髭は綺麗に整えられ、戦場に似つかわしくなく、妙に不自然に見えた。
「まだ、早い。こちらが出るのは早くとも、蜀軍全体が後退を始めてからだ」
「司令官がそう言うのなら、従います。しかしそれでは明らかに遅いでしょう。こちらが陣から出て蜀軍の殿軍と接触する頃には、蜀兵のほとんどが渡河を終えていますぞ。兵力で圧倒して大きな戦果を得るには、今すぐにでも出るべきではないのですか」
 夏侯覇が入ってきたことに気付いた夏侯玄が、末席に座れと目配せで伝えてきた。夏侯覇は音を立てないよう腰を下ろし、従うと言いつつ文句を言っている秦朗のことを眺めた。
「麦の刈り入れは終わり、蜀軍が武功に布陣する理由はなくなった。我が軍は増強され、数的優位を得た。誰もが攻め時だと思うだろう。だから、慎重にやるのだ。蜀軍の諸葛亮は、秦朗殿が思っているほどに甘くはない」
「それで今まで攻めなかったということですか。それは」
 秦朗は出かかった次の言葉をすんでのところで止めた。それを見た司馬師が、勢いよく立ち上がった。
「それは、何ですか。怯懦であると、司令官に向かってそう言おうとしませんでしたか、秦朗殿」
「そこまでは言っておらん」
 秦朗がばつの悪そうな顔をして言った。
「兵に殺し合いをさせることだけが、戦ではないのです。あなたが不満に思っている通り、魏軍は干戈を交わしてはおりませんが、魏領に入ってきた蜀軍はあそこから一歩も動けずにいます。この事実は全く意味の無いものだと思っておられるのですか」
 司馬師がまくし立てて言った。それで、秦朗は完全に黙った。
「儂は、ずっとここを見ている」
 司馬懿が言い、皆の眼がそちらに注がれた。司馬懿が、地図の一点を指している。
「武功水のここに、蜀軍の兵站基地がある。蜀軍が武功に布陣する限り、この兵站基地は蜀軍の後方に位置することになり、攻め手がなかった。しかし蜀軍が西へ動き武功水を渡るというなら、ここは後方ではなくなる。そこで、必ず隙は出る」
 司馬懿は、蜀軍の八万を追い返すには、あくまで兵糧攻めだと言っているのだろう。そう読み取った夏侯覇は、音を立てて立ち上がって言った。
「そこは、私に行かせてください」
 司馬懿がじっと見つめてきた。三年前の戦で、張郃に兵糧庫を攻めるよう命じたのは、司馬懿だった。そして張郃は死んだのだ。司馬懿が実力者である張郃を消したかったのではないかという噂がその後に立った。反射的に志願したのは、そんな噂は信じていないと、ここにいる全員に示したかったからだ。
「よかろう、夏侯覇。お前は手勢の五千騎を率い、兵站基地を急襲しろ。しかし油断はするな。この辺りは黒蜘蛛の調査が届かず、どのような罠があるかもわからん。重要拠点なだけにかなりの備えがあると考えた方がいい」
「御意」
 夏侯覇は返事をしながら、司馬懿の言葉に違和感を覚えた。言わなくてもいいことを言っている。蜀軍の生命線なのだから、備えがあるのは当然のことではないか。やはり司馬懿は三年前の戦で張郃を死なせたことに、後ろめたさを感じているのかもしれない。
「夏侯覇の騎馬隊を援護する歩兵だが」
「それは是非、私に」
言った秦朗の方に向けた司馬懿の顔をふと見て、夏侯覇は背中に鳥肌を立たせた。冷たい顔。前にどこかで一度見たという気がする。
「では、秦朗殿にお願いしよう」
 秦朗が満足そうに頷いた。
「夏侯覇は、蜀軍の左翼を突破して兵站基地へ。秦朗殿は、それを邪魔しようとする蜀軍歩兵の牽制。郭淮と費耀は歩兵を率いてその後詰だ」
「恐れながら、司令官」
 郭淮が初めて口を開いた。
「武功以外のことなのですが、気になることがあります。蜀軍が五丈原に陣取るということは、涼州の西へと出る道を確保できるということです」
 郭淮が五丈原の北を指した。司馬懿は目を見開き、五丈原の北に位置する北原と記された高地を凝視した。
「ここから羌族の軍が侵入し蜀軍と合流すれば、我々は数での優位を失うことになります」
この北原を押さえれば、蜀軍と西方との道は遮断できるだろう。諸葛亮が相手なら、当然それを狙ってくるだろう。蜀と羌の交流は、まだ続いているのだ。
「これから敵陣に攻め込み、場合によっては決戦になる可能性もあるというのに、兵数をそちらに割くのはいかがなものですか」
 費耀が幾らか早口で言った。その言葉には多少の焦りが滲んでいるように、夏侯覇には感じられた。郭淮が手柄を立てるのを、費耀は面白く思わないのだろう。
「私も、後詰は一兵でも多い方が心強いのですが」
 言った秦朗の言葉を、司馬懿は黙殺した。
「お前は羌族の主だった者に顔が利いたな、郭淮」
「はい」
「良いところに気付いてくれた。三万で北原を固めてこい。場合によっては、お前の一存で羌族と交渉してくるのだ」
 郭淮は頷いた。
「三万もですか」
 秦朗がまた眉をしかめた。
「それは多過ぎでは」
「秦朗殿、少しうるさいですぞ」
 司馬師が鋭い眼で睨みながら言った。秦朗は何も言い返さなかったが、明らかに不快な顔をして見せていた。
「だから司令官は、蜀が渡河を始めてから、出撃すると言っているのです。渡河が始まれば、戦闘に参加する兵は当然少なくなる。相手にする敵の八万が、六万になるかもしれないし、半分の四万になるかもしれない。そうすれば、こちらの兵にも余裕ができる。余裕ができれば、違う手を打つことができる。ここまで噛み砕いて説明すればわかって頂けますかな、秦朗殿?」
 司馬師の挑発めいた言葉に、秦朗の顔が色めき立った。
「司馬師殿、そのような言い草は無礼ではないか」
「司令官に対して無礼なのはあなたの方ではないですか。あなたも一軍の将なら、この程度のことは自分でお考えなさいませ。一々全て説明している暇などありませんぞ」
「もうよい、司馬師。下がっておれ」
 司馬懿に言われ、司馬師は口を噤んで居住まいを正した。
「前衛は、夏侯覇と秦朗殿。費耀はその後詰だ。いつでも出られるように準備をしておけ。郭淮は三万を率い、速やかに北原へ向かえ」
 各々が返事をした。郭淮が先に出て行き、他の武官もそれに続いた。
 帰りに夏侯覇は、文官のいる幕舎に行き、ここに戻って来ているはずの夏侯玄を探した。これから敵の急所を攻めるのだ。強い抵抗があるだろうから、補給物資についてはきちんと話しておく必要がある。
 何かを記そうとしていた夏侯玄が、夏侯覇の姿を認めて近寄ってきた。
「おう、冥土の土産を貰いにきたぞ。遺漏は何もないだろうな」
「遺漏などはない。しかし問題は、敵陣内での物資の受け取り方法だ。それはお前がやり易いように決めればいい。物量に関しては心配するな。長安から船に乗って、山ほど届いてきているのだからな」
「武具や兵糧は、そうだろう。しかし馬はそういうわけにはいかん。それを教えておいてくれ」
「前に回してやった馬は、気に入らなかったということか。できるだけ良いのを選んでおいたのだがな」
 初戦で王平の騎馬隊とぶつかり、その時に出た損害を補充したのは、夏侯玄だった。
「いや、良い馬だった。あれくらいの馬は、あとどれくらい回せる」
「五千騎の内の半分程度だ。それ以上損害を出せば、次の戦から力が落ちると思ってくれ」
「半数か。多くはないな」
 軍馬は、馬であればいいというわけではない。調教に時間をかけて、騎馬隊の動きを覚えさせなければ、それはただ馬に乗っているということに過ぎない。騎馬隊は集団行動ができてこそ力を出せるのだ。
「馬は、まあいい。しかし人の方はどうなのだ。黙って軍議を見ていたが、大丈夫なのか」
 はっきりとは言わないが、夏侯玄は武官が不仲ではないかと言っているのだろう。それは、夏侯覇も見ていて感じたことだった。
「俺は命令に従うだけだ。それ以外の余計なことは、考えないことにしている」
「お前はそればかりだな。それがお前の良い所なのかもしれんが」
「不仲であろうと、魏という国はある。魏軍の全員が属す、魏国という括りだ。自分の属する所がおかしくなって、喜ぶ者などいない」
「それはそうだが」
 不意に、陣内に銅鑼の音が響いた。
「意外と早かったな。俺は行くぞ」
 夏侯覇は駆けだした。これだけ早いということは、蜀軍の後退が予想より早く行われているということだろう。戦を前にして、夏侯覇の血は滾ってきた。
 自陣に戻ると部下らは既に馬に乗り、徐質が夏侯の旗をはためかせていた。既に号令一つで出動できるように整列している。夏侯覇が手塩にかけて育てた、精鋭の騎馬隊である。
「行くぞ、徐質。俺たちが先鋒だ。恥を灌ぐ時がきたぞ」
 夏侯覇は馬に飛び乗りながら言った。徐質は顔を強張らせたまま、はい、と力強く答えた。徐質も血を滾らせているのか、或は不安に胸を詰まらせているのか、見ただけではわからなかった。
 剣を抜き放ち、馬上で雄叫びを上げた。その声は五千の口に伝播し、魏軍の陣全体に戦の開始を告げた。


6-16
 蜀軍の半数である四万が渡渉を終えようとしていた時、魏軍二万が魏延軍二万の前方に現れた。殿軍は魏延と王平の漢中軍で、魏延が武功水の北側を、王平が南側を受け持っていた。
 武功水はそれほど深くなく、渡河点は幾つかあり、渡渉に大きな難はなかったが、渡さなければならないのは兵だけではない。王平がいる南側には、流馬によって漢中から送られてきた兵糧が山の様に積まれているのだ。この兵糧を魏軍に焼かれてしまえば、蜀軍は撤退しなければならなくなる。兵糧を西岸に渡すための時間稼ぎが目的の殿軍だった。
 眼前に迫る秦の旗を掲げた二万が横一列になり、大きな盾を出した。定石通りの矢合わせである。魏延も全軍に盾を出させ、これに応射した。
「大軍が後詰にいるというのに、臆病なやり方だ。あの秦の旗の将は、都から援軍を率いてきた奴ではないか」
 魏延は隣にいた馬岱に言った。
「許都から来た将の名は秦朗であると、丞相から報らされています。旗からして、あれは秦朗に間違いないでしょう」
 馬岱は魏延軍の副官だったが、その実は諸葛亮の眼となる軍艦だった。あまり気持ちの良いものではないが、蜀軍の将である限り、こういうことも受け入れなければならないのだ。疚しいことがなければどうということはないが、見られているという意識が、微妙に魏延の判断を鈍らせているという自覚はあった。
「ここに来たばかりの青瓢箪か。少し俺がからかってきてやろう」
「何をされるのですか」
 一々聞いてくる馬岱が癪に障り、それは黙殺した。馬岱もしつこく聞いてこようとはしなかった。
「三千の歩兵を率いて武功水を北へ行き、さらに渭水の岸を東へ向かって敵の側面を取れ。俺が合図をしたら、敵に突っ込むと見せかけてここに一直線に戻って来い」
「わかりました」
 馬岱が駆け去った。
 魏延は馬に乗り、盾を並べる歩兵の前列まで行った。ここで魏軍をいなし続けることは難しいことではない。いなし続けて時を稼ぎ、兵力差に圧され始めたら、さして深くもない武功水を西岸に渡って逃げればいいのだ。しかしそれをやれば、この秦朗軍は南の王平軍へと矛先を変え、最悪の場合は兵糧を失ってしまうことも有り得る。ここで兵力差が出る前に、魏軍を一度叩いておきたい。それにはただ守るだけでなく、こちらから攻めるしかない。
 魏延が声を上げると、歩兵の前衛が道を開けた。まだ矢が降るその道を、魏延は堂々と進んで行った。近くに飛んでくる矢もあったが、それは剣で叩き落とした。
「秦朗殿、遠路はるばる御苦労であった。俺は、魏延と言う」
 魏延の大音声が戦場に響き渡った。何か合図された気配があり、魏軍からの矢が止まった。
「折角こんな西の田舎にまで来たのだから、矢を射るだけでは面白くなかろう。矢を射るだけなら、許都の調練場でやっていればいい」
 敵の歩兵が割れ、秦の旗とともに、二十騎程に周りを囲まれた男が姿を見せた。口髭が綺麗に整えられた、都の武官らしい男だった。
「不遇な将よ。こんな田舎臭い軍など捨てて、魏軍に投降せよ。さすれば都で一生遊んで暮らせる銀が手に入るぞ」
「お前のような戦を知らぬ下っ端に、そんなことを言える権限があるのか。そのような大言は、この田舎臭い軍に勝ってからにしたらどうだ」
 魏延軍の兵がどっと笑った。秦朗は言い返せないまま、馬上で悔しそうな顔をしている。・
「俺から土産をくれてやろう」
 言って、魏延は強弓を引き絞り、放った。秦朗の隣にいた者の体が後ろに飛び、驚いた馬に何頭かが秦朗の周りで暴れ始め、また魏延の兵が笑った。
「お前の首はこの手で直接奪ってやる。とっととかかってこい」
 秦朗が下がり、また魏軍から矢が放たれてきた。それで、魏延も後方に下がった。
 部下に銅鑼を用意させ、秦朗の二万を見つめた。今のやりとりをしている最中に、馬岱が敵の側面に廻ったはずだ。秦朗軍が押してくれば銅鑼を鳴らし、馬岱に側面を突かせる準備は整った。しかし意外なことに、秦朗はあれだけ挑発されたにも関わらず、前に出てこない。これは秦朗が慎重なのか、ただ臆病なだけなのか、或いは司馬懿の統命令が届いてのことなのか。とにかく、出てきてくれなければ困る。魏延は馬上で腕を組み、しばらく考えた。
 一刻待っても出てこず、魏延は部下に武功水で水飛沫を上げるよう指示した。秦朗軍から見れば、魏延軍が川を渡って逃げているように見えるはずだ。
 目論見通り、秦朗軍が動き始めた。魏延は口の中で、よしと呟いた。
 すかさず魏延は銅鑼を鳴らした。渭水の河岸から馬岱の三千がわっと湧いて出て、こちらに突っ込んで来る秦朗軍が浮き足立つのがはっきりとわかった。
 魏延は馬上から敵を凝視した。側面から崩されるのを警戒した秦朗が、馬岱の三千に兵を割いている。魏延の指示通り、馬岱はそれにぶつからず、避けるようにしてこちらに向かってきている。その動きに釣られ、秦朗軍の前衛が横に大きく伸びた。
「今だ、行くぞ」
 魏延は二百騎の精鋭を引き連れ、歩兵の中から飛び出した。矢を弾き、第二矢が来る前に敵の前衛を突き破った。伸びきった敵陣。秦の旗。辿りつくまでの道が見えた。魏延は二百の先頭で、雄叫びを上げて秦朗軍の中へと突き進んだ。
 ここまで来ないと気を抜いていたのだろう、強い抵抗がないまま兵を斬りつつ、柔らかい中身を抉るようにして進んだ。すぐに秦朗の顔が見えてきた。明らかに狼狽し、大声で何かを指示している。だが、もう遅い。馬甲に、具足に、敵兵の戟が触れる。しかし、触れるだけだ。
 魏延が剣を横に振った。逃げようとする秦朗の頭が宙に飛び、その勢いのまま敵陣を駆け抜けた。指揮官を失った二万を魏延軍の歩兵が押し始め、すぐに潰走が始まった。
 魏延は深追いせず、兵をまとめて武功水沿いに布陣し直した。追ってもその後方には、まだ何倍もの魏軍がいるのだ。止めを刺すには至ってないが、魏軍を一度後退させたことで、かなりの時間が稼げたはずだ。
「見事な働きでした、魏延殿」
 馬岱が駆け寄ってきて言った。
「そうだろう。丞相にはきちんと報告しておいてくれよ」
 魏延は皮肉を効かせたつもりだったが、馬岱はくすりとも笑わず頷くだけだった。

 兵の笑い声が、北からの風に乗ってやってきた。蔣斌は、兵糧庫から周囲を見渡せる櫓の上で、東の魏軍が陣取る方を眺めながらそれを聞いていた。
「向こうの戦線で魏延殿が何かやっているな」
 怪訝にしていると、隣で同じく遠くを眺める王平が言った。王平はそれ以上は何も言わず、どんな変化も見逃すまいと、ただ黙々と東に視線を集中させていた。
 眼下には壕が掘られて逆茂木が張り巡らされ、弩を備えた兵が配されていて、敵は容易にこれを破ることはできないだろうと思えた。
 背後では、兵糧を扱う兵の怒鳴り声が響き続いていた。東岸に貯えられた大量の兵糧を、一刻でも早く西岸に移さなければならないため、劉敏が兵の尻を蹴って督促しているのだ。言うまでもなく、戦には兵糧が必要で、これが魏軍の脅威に晒されているため王平軍はここに布陣しているのである。逆を言えば、ここに兵糧がなければこれだけの迎撃態勢を布く必要はなく、今頃は全軍が西の五丈原に陣を移していたことだろう。蔣斌は漢中から運ばれてくる穀物のため、これだけの多くの兵が命を懸けているということに、目眩にも似た違和感を覚えていた。
「来た」
 王平が言い、蔣斌は反射的にそちらに目を凝らした。なだらかな丘の稜線から、黒い粒が現れると同時に、土煙が舞い上がり始めた。
「数はわかるか、蔣斌」
 不意に言われて焦り、蔣斌はその全容を見ようとさらに目を凝らした。
「五千騎です」
「よろしい。しかし遅い。次は見た瞬間に測れ」
 早口に言い残し、王平は櫓から身を滑らせた。そして馬に飛び乗り、騎馬隊を率いて出撃して行った。
 やがて魏軍の歩兵も見え始めた。数は、二万五千といったところか。その魏軍歩兵の手前で、二つの騎馬隊が瀬踏みをするようなぶつかり合いを始めた。
 蔣斌も櫓から下り、王平軍の歩兵を指揮する杜棋の所へ走った。
「騎馬五千、その後ろから歩兵が二万五千」
「わかった。お前もすぐに配置につけ」
 蔣斌は頷き、予め決められていた場所へ走った。杜棋の下で、百人の部隊を指揮するのだ。こういった防衛戦は、漢中での調練で嫌になるくらいやっている。兵を指揮しての実戦は初めてだが、大きな不安はなかった。
「隊長、こんなぎりぎりまでどこに行っていたのですか」
 指揮する百人の中の、かなり古参の兵が蔣斌に近付いてきて言った。
「お前の知ったことではない。黙って配置についていろ」
 髪に白いものを混じらせた古参の兵が、呆れたような顔をして見せた。明らかに、まだ若い自分のことを侮っている。
「こういう時は、兵は不安なのです。なるべくここにいてもらわないと」
 まるで自分の方が戦に詳しいと言わんばかりの口調で、蔣斌は苛立った。
「うるさい。そんなことは、お前からとやかく言われることではない」
 頭がかっとなり、早口でまくしたてた。それでもその古参兵は、それに動じる素振りも見せず、平然と歩み寄ってきた。
「初めての指揮で気が昂ぶっているのはわかります。でも実際に命を懸けるのは我々なわけですし、経験ある者の言うことも少しは聞いてもらわないと」
 体を纏う具足の銅札をがらがら言わせながら、古参兵は蔣斌の隣に腰を下ろした。
「何をしている。配置につけと言うのがわからないのか。何故、ここに座るのだ」
 あまりに予想外のことで蔣斌は怒鳴ることすら忘れた。兵は、将の言うことを聞くものではないのか。
「ここで助言をさせて下さい。決して損にはなりません。今は気が立っているから私のことに腹を立てるかもしれませんが、後になればきっと間違っていなかったと思えるはずです」
 あくまで表情を変えず、まだ若い蔣斌を宥めようとするその言い草に、蔣斌はさらに苛立った。ふてぶてしい古参兵のこの態度が、酷く不気味なものにも見えた。
「くどい。早く戻らねば、首を飛ばす」
 言ったが、剣は抜かなかった。古参兵は一瞬だけ怯みを見せたが、一瞬だけだった。剣を抜けばよかったと、蔣斌は兵を睨みつけながら、心の中で後悔した。
「私は今まで、戦場で何度も死ぬ思いをしました。しかし、生きています。こういう兵は近くに置いといた方がいいですよ。それに」
 喋り続けるその首を、蔣斌は抜き打ちで飛ばした。座っていた体が仰向けに倒れ、血溜まりが広がっていった。
 兵の中から一人が飛び出してきた。その兵は、古参兵のことを兄貴と呼び、転がった首を抱きかかえていた。
「その死体を片付けておけ」
 蔣斌はそちらに一瞥もせず言い捨て、近づく魏軍を見ようと逆茂木の向こうへと目をやった。王平の騎馬隊が魏軍歩兵にちょっかいを出そうとし、夏侯の騎馬隊がそれを阻んでいる。魏軍歩兵は王平に止められることなく前進し続け、その手前を駆ける二つの騎馬隊は絡み合うようにして戦場を移して行った。
「敵が来るぞ。弩を構えろ」
 騎馬隊が去った目の前に、盾を並べた魏軍歩兵が迫ってきた。蔣斌は弓の間合いを見定めようと目を凝らした。矢が届く。そう思えた時、蔣斌は叫んだ。
「放て」
 弦を弾く音が一斉に鳴った。しかし矢は届くが距離のため勢いが死に、ほとんどの矢が敵の盾により防がれていた。
「はえーよ」
 自陣のどこかから声が上がり、周囲から幾つかの含み笑いが聞こえてきた。
「誰だ、言ったのは」
 蔣斌は言ったが、答える者は当然のようにいなかった。そうしている間にも、敵は近づいてきている。
「矢の装填。でき次第、構え」
 言いながら、蔣斌は周囲を見渡してぞっとした。誰もがやる気なさそうに弩をいじっている。こんなことは、調練ではなかったことだ。こんな時は、どうすればいいのだ。蔣斌の頭が混乱し始めた。
「放て」
 混乱しながらも、声は出せた。今度は効果のある距離だ。そう思っていると、足元に何かが突き立った。矢。それは後ろの味方から射られたものだった。
「誰だ、これを射った者は」
 蔣斌は足元の矢を引き抜いて叫んだ。
「お前か」
 矢が来た方向にいた者の一人に言った。
「違います」
「では、誰だ」
「それは」
 にやけるばかりで答えようとしないその兵に歩み寄り、剣を向けた。
「隊長、矢が」
 兵が指さしたので振り向くと、大量の火矢が空から襲いかかってきていた。盾か。いや、間に合わない。
「矢に背を向けるな。しっかり見れば、よけるか叩き落とすかできるはずだ」
 そう言ったが、それでも矢を恐れてその場に蹲り、背を貫かれる者が何人かいた。火矢は兵だけでなく逆茂木にも注がれ、所々で火が点き始めていた。なるほど先ず逆茂木を燃やして取り除こうという作戦なのだろう。
 ふと蔣斌は殺気を感じ振り返った。弩をこちらに向ける兵。放たれた矢を叩き落とし、その兵の懐に飛び込んで剣を振った。弩を持つ両腕が吹き飛び、血が舞った。
「何故、俺に矢を射った」
 両腕を失った兵はその場にへたりこみ、何がおかしいのか、顔を俯かせて低く笑い始めた。
「面白いからさ。それ以外に何がある」
「面白いだと」
「面白いさ。お前が焦って慌てる顔がな。それだけだよ」
 未知のものに触れた気がし、蔣斌は全身を粟立たせた。戦だというのに、こいつは何を言っているのだ。
「俺が慌てるのが、そんなに面白いか」
「面白いとも。お前のような育ちの良いぼんぼんが、俺らみたいな雑兵に遊ばれているんだからな」
「今は、戦だぞ」
「そんなもの、俺の知ったことか。戦だろうが、なんだろうが、俺は面白けりゃいいんだ。俺らはお前のような真面目君とは違うんだよ。お前なんかじゃ、俺らが何を考えてるかなんてわからないだろう?」
「上官に矢を向ける者のことなどわかるか」
「つまらんね。お前のような恵まれた奴を見てると、本当につまらん。お前の頭を掴んで俺らの視線にまで下げさせて、俺らが何を見ているか、無理矢理にでも見せてやりたいね。でもこの腕じゃだめだな。これじゃあ自慰もできねえ。もうさっさと殺してくれよ」
「死ね」
 兵の首が飛んだ。
 嫌なものを斬ったという気がして、蔣斌は顔を歪めた。将の下にいる兵とは、こういうものなのか。思いつつ、蔣斌は頭を切り替えた。敵からの火矢はまだ飛んできているのだ。
 敵からの火矢を対処するばかりで時は過ぎ、日が暮れ始めたところで魏軍は退いていった。兵の被害は少なかったが、逆茂木が散々に燃やされていて、各隊は川の水を汲んで消化の作業に当たった。これではもう、逆茂木は無いに等しい。明日、魏軍の大兵に圧されれば、ここを支えることはできないかもしれない。
 陣に篝が焚かれ、兵糧が配られ始めた。蔣斌は自分が指揮する百人隊を離れ、杜棋のいる焚火の方へと足を向けた。とてもじゃないが、自分の隊内で飯を食う気にはなれなかった。
 行くと杜棋が王平と立ち話をしていて、蔣斌は遠慮して少し離れた所で待った。
「おう、蔣斌。初めての指揮はどうだった」
 こちらに気付いた王平が話しかけてきた。蔣斌は答えに困り、顔を俯かせた。
「何かあったと見えるな。とりあえず二人とも、飯を食おう」
 三人で焚火を囲み、兵糧の入った器を手にした。
「俺は、軍の指揮に向いていないかもしれません」
 王平が促すように目を向けてきたので、蔣斌は言った。
「戦に負けたわけでも、大きな失敗があったわけでもないのに、どうしてそんなことを言う」
 杜棋が眉をしかめた。
「兵が私の言うことを聞かないのです。敵が来れば戦いはしますが、それぞれが勝手にやっているのです。私はそこで浮いているだけなのですよ」
「はじめからそう上手くはいかんものだ、蔣斌」
「兵を斬りはしたか」
 王平が兵糧を煮た汁を啜りながら言った。
「二人、斬りました」
 敵兵はまだ斬っていないと、ふと思った。斬っているのは、味方の兵ばかりではないか。
「俺も昔、自分が率いる兵に舐められたことがあった。その時の俺はまだ魏軍に属していて、洛陽で少数の山岳部隊を調練していた。まだ若造だった俺の言うことなど聞きたくはないということだった」
 自分と同じだ、と蔣斌は思った。
「それで、どうされたのですか」
「文句を言う奴の中で、一番強そうなのを殴った。殴られもした。それで次の日から、そいつは言うことを聞くようになった。文句を言う奴もいなくなった。その殴り合った相手は、王双というんだがな」
「王訓の叔父上殿ですか」
「そうだ。面倒な奴だったが、頼りにもなった。はじめは殺してやろうかと思ってたんだがな」
「王双という人は、陳倉で蜀軍相手に、寡兵にも関わらず一歩も退かなかったと聞いています」
「剛胆な男だった。この額の傷は、王双につけられたものだ。長く王訓のことを放っておいたから、それに対してあいつは怒ったんだ」
 初めて王平に会った時、額の傷は既にあった。大きな傷だと一目見て思った。軍人だから、こういう傷があるものなのだと何となく思っていた。
「話が逸れてしまったな。兵は、斬るな。殴られるつもりで、殴るのだ。こちらが指揮官だから無条件で言うことを聞いてもらえるなどと思うのは、甘えに過ぎん。兵はその甘えをよく見ているぞ」
「わかりました」
 口ではそう言ったが、蔣斌は納得していなかった。自分は指揮の技を調練で磨いて、兵もそれは知っているはずなのだ。いざ戦となり、自分の命が懸かっているというのに、兵がより技と知識を持っている者の言うことを無視するなど、不合理なだけではないか。軍とは、そういう不合理なものを排除した組織であるべきではないのか。
「おい、小僧」
 はっとして前を見ると、いつからそこにいたのか、眼帯をした句扶の顔があった。
「何かつまらんことを考えていたな。早く席をはずせと言っているんだ」
 何度か同じことを言われたのだと気付き、蔣斌は直立した。
「失礼いたしました」
「すぐに呼ぶ。近くで待っていろ」
 王平に言われ、蔣斌は焚火から離れた。
 後方からは、劉敏が指揮する兵糧部隊の声が聞こえ続けている。恐らく今夜は不眠不休なのだろう。それだけ、蜀軍がここに用意した兵糧の量は、膨大なものなのだ。
 しばらく時が経ち、杜棋が呼びに来た。焚火の所には、もう句扶の姿はない。
「これから六刻後に、夜襲をやる。蚩尤軍の調べによると、魏軍はこの周辺の村に兵を駐屯させ、夜明けとともに攻撃を始めるつもりのようだ。その最前線を叩き、攻撃を遅らせ時間を稼ぐ」
 言われて、蔣斌の頭に一つのことが過った。王其村はどうなっているのか。そこにいる、琳はどうしているのか。
「おい、聞いているのか」
 言われてまたはっとし、杜棋が呆れたように大きなため息をついた。
「こいつは初陣で、少しあがっているのだと思います。夜襲には参加させない方がよろしいかと思います」
「そんな、私は」
 意外なことを杜棋から言われ、蔣斌は狼狽した。
「だめだ。そんな心構えで出れば、すぐに死ぬぞ」
「その方がよさそうだな。お前はここに残って陣の守備だ。夜襲が終われば斥候をやらせるかもしれん。準備しておけ」
 蔣斌は何か言おうとしたが言葉が出てこず、また王平と杜棋も構わず夜襲の段取りを話し始めたので、蔣斌は仕方なく自陣に戻った。
 百人隊の中心にある大きな篝が周囲を照らし、兵は思い思いにしていた。半数を歩哨に、半数を休息に交替で回すよう指示し、蔣斌は櫓に上った。
 暗闇の向こう側に、魏軍の篝が星のように点々として見えた。この陣地から、王其村は近い。そこにも魏軍は入っているのだろうか。琳に対する心配と、考えても仕方がないことだという思いが繰り返し交錯し、時は過ぎていった。
 夜が更け、枚を噛んだ王平軍歩兵が、静かに陣を出て行った。蜀軍陣地が照らす歩兵の後ろ姿はやがて闇に溶け、完全に見えなくなった頃に、魏軍の陣地から大きな光が何個もあがるのが見えた。恐らく、蚩尤軍が火計を遣っているのだ。兵の声が、闇の中から湧くようにして聞こえてきた。
 蔣斌は櫓を下り、馬の支度をした。蜀軍兵士が敗走してこないのを見ると、夜襲は成功したのだろう。前線の様子を見て来いという伝令がすぐにでも来るかもしれない。
 準備をする蔣斌に、兵の一人が近づいてきた。
「隊長、あれは夜襲ですよね」
「そうだ。見ればわかるだろう」
「俺らの隊は、留守番ですか。いいなあ、あいつら。俺も手柄を立てたいなあ」
 蔣斌はそれを無視した。今は構っている暇ではないのだ。そう思いながらも、兵の言葉に気を取られ、蔣斌は担いだ鞍を馬の尻にぶつけてしまい、驚いた馬が一つ鳴き声を上げた。
「俺らは軍団長から戦力として見なされていないんですかねえ」
 お前は将として戦力に数えられていないのではないか、と言われた気がした。
 殴られるつもりで、殴れ。王平から言われた言葉が浮かんだ。しかし、無視した。すぐにでも馬に乗れる用意を整えておかなければならないのだ。兵の相手をしている暇などないし、こんな雑兵の言うことにいちいち付き合うなど、馬鹿馬鹿しいという気しかしない。
 無視していると諦めたのか、兵は離れて行った。離れた所で、別の兵と話しながら大きな笑い声を立て始め、蔣斌を更に苛つかせた。
 空が白み、伝令がやってきて、斥候を命じられた。蔣斌はそこから逃げるようにして馬を走らせた。
 他の斥候と行先を確認し合い、敵陣へ向かった。その行く先には、王其村がある。村が近づくにつれ蔣斌の胸が高鳴り、早く琳の顔を見て安心したくて、馬の腹を蹴った。
 蜀軍陣地に戻る王平軍歩兵の集団と行き交い、王其村についた。
 そこは蔣斌が心配していた通り、戦場となっていた。村の道には兵の死体が転がり、犬や鳥がそれを啄んでいて、まだ燃えている茅葺の家もある。
 魏軍兵士の姿が見えないことから、王平軍の夜襲はここにいた魏軍兵士を追い払ったのだろう。
しかし今の蔣斌にとって、そんなことは二の次で良かった。
琳の家についた。かつて琳の体を抱いた草むらが、朝の光を受けて青々と繁っていた。
家の中に、琳はいた。いや、かつて琳だった体がそこにあった。鼻と口から血の筋を垂らし、半分見開かれた目はもう瞬くことを忘れていた。体は乱れ、股には木の枝が刺されてそこからも血が流れていた。
蔣斌はゆっくりと歩み寄り、その無惨な姿となった体を抱いた。前に抱いた時は暖かかったその体は、驚くほどに冷たくなっていた。
不思議と涙は流れてこなかった。代わりに、おかしな笑いが込み上げてきた。琳が魏の兵に犯され、苦しみ、殺されている時、自分は何をしていたのか。櫓の上からそれを眺めていたのだ。闇の向こう側から、琳が犯されているのを、指を咥えて眺めていたのだ。
蔣斌は笑いながら頭を抱えた。無理をしてでも、この女を攫ってしまうべきではなかったのか。軍紀がどうだと言って、琳を連れて帰る知恵を出す努力すらしなかった。自分がやったことは、会いたいからといって、戦が始まる前に会いに来ただけだ。琳が望んでいたのは、そんなことではなかったはずだ。
悔いとも憤怒とも言えないどす黒いものが、腹の底から湧水のように溢れ、それが口から笑い声として漏れ続けた。
兵の指揮も上手くできないくせに、軍のために女を後回しにし、結果として妻にしたかった女を死なせてしまった。それも無惨な方法で、汚されながら、死んでいった。
俺は、一体なんだというのだ。
蔣斌は琳の体を地に投げ出した。既に固くなり始めているその体が、おかしな格好で粗末な床に横たわった。
蔣斌は剣を抜き、切っ先を自分の喉に当てた。このまま貫いてしまえばいい。それが琳に対する償いになるのではないか。しばらくそうしていたが、できなかった。切っ先を当てた喉仏から、血が一筋流れただけだ。
血が流れるのと同時に、涙も流れてきた。そしてそのまま、琳の体の横で子供のように泣いた。隣で、瞬かない琳の両眼が、どこか一点を見続けていた。


6-17
 前線から兵が退いてきていた。隊列を組んでの後退ではなく、夜襲を受けての敗退だった。幕舎でまどろんでいた夏侯覇は、敗残兵の喧騒さの中で目を覚ました。
 騎馬隊を率いて参加した昨日の戦は、魏軍にとって決して悪いものではなかった。兵糧庫を防衛する王平軍を突破することはできなかったが、歩兵が火矢を効果的に遣い、王平軍の盾となっている逆茂木を燃やし尽くしていた。火矢を遣っている間、その歩兵に介入しようとした王平の騎馬隊は、完全に抑えることができた。
 次の攻勢で壕を越えれば、兵力差で押し切れる。そして王平軍が守る兵糧を燃やし尽くせば、蜀軍を撤退に追い込める。
 日が落ち、王平軍への夜襲が決められ、武功の各村に陣取った隊に伝令が走った。夏侯覇はそこまで確認し、夜間は騎馬隊の運用が不可能なため、幕舎に入って身を休めたのだった。
 それなのに何故、前線の兵が撤退してきているのか、夏侯覇は使いを走らせその詳細を調べさせた。
 各隊に夜襲の伝令は飛んだが、兵はそれぞれの村で略奪に走り、計画が速やかに遂行されなかったのだという。武功の農民は、魏国の麦を蜀軍に売ったのだ。歩兵を束ねる隊長が、略奪を止める気にならなかったのだろうということは、想像に難しくなかった。また、北の戦線で秦朗があっさりと討たれ、率いていた二万の再編成のため、命令系統に遅れが生じていた。
 そうしてもたついている内に、最前線の陣から一斉に火が上がり、逆に王平からの夜襲を受けたのだという。
「また王平の騎馬隊とやり合うことになるかもしれん。嬉しいか」
 既に出動の準備を整え、旗を片手に掲げていた徐質に、馬を寄せて言った。
「あの騎馬隊を抑えても、歩兵がこの調子なら話になりませんな」
 嬉しいかどうかには答えず、徐質は歩兵に対する不満を露わにした。戦場においては、敵に対する憎悪よりも、無能な味方に対してのそれが勝ることが少なくない。
 昨日のぶつかり合いで、徐質はまた変わったという気がした。王平に一矢報いたいと血ばかりが盛っていたが、今の徐質にはそれがない。変幻自在に騎馬隊を動かす王平を見て、頭を熱くするだけでは駄目だと感じたのかもしれない。
「この騎馬隊も同じようなものよ。あの王平に、好きに動き回られているのだからな」
「こちらの歩兵に介入してくる動きは抑えることができました」
「お前、抑えるだけで満足しているというのか。それで俺は歩兵より頑張りましたなどと、胸を張って言えるのか。もしそうなら、今すぐ俺の隊を抜けろ」
 夏侯覇が強い口調で睨み、徐質は黙った。
 歩兵の不甲斐なさは、徐質の思っている通りだ。しかし幾ら不満を口にしようが、兵の質は一朝一夕で変えられるようなものではない。戦場で、王平との掛け合いの中で、歩兵への不満に気を取られている内に、王平に隙を突かれることは十分に考えられる。この騎馬隊を率いる隊長として、それは防がなければならないことの一つだ。
「討つぞ、王平を。あの騎馬隊が幾つまで分かれたか、言ってみろ」
「五つです」
「そうだ。五千騎を二つに分け、三つに分け、五つにまで分けた。王平は、千騎単位で騎馬隊の調練をしてきたに違いない。そこを、突く」
 夏侯覇は手を上げ、各小隊長を集めた。
「敵が五つに分かれた時に勝負をかける。他の四千には目もくれるな。王平の千騎だけを狙うのだ。王平さえ討つことができれば、幾ら犠牲が出てもいい」
 その犠牲はこの中から出る。だからこそ、戦いが始まる前に言っておきたかった。夏侯覇の心中を察したのか、各小隊長は力強く頷いた。略奪を働いて夜襲で蹴散らされた歩兵とは違う、精鋭と自負できる騎馬隊だ。調練を耐え抜いてきたこいつらのためにも、王平に勝ちたい。
「焦るな。構えて焦るな。その時が来るまでじっくりと待つのだ。中途半端な動きを見せて、こちらの意図を読み取られてしまえばそれまでだ。耐えに耐えて、俺が合図をしたら、脇目もふらずに王平の首を奪りに行け」
 言い終わると夏侯覇は強かに馬の腹を蹴った。五千の馬蹄が後ろに続く。戦が始まるこの瞬間が、夏侯覇はたまらなく好きだった。
 すぐに王平の陣は見えてきた。待ち構えていたように王平の騎馬隊が飛び出してくる。王平が横に動き、夏侯覇はそれに並走した。歩兵とは関係の無い場所でやりあおう。馬群の中で靡く王の旗が、そう言っていた。
 離れていく王平の陣から、歩兵がわらわらと湧いて出ている。さして深くもない壕一枚では守りきれないと踏んだのだろう。それはまだ兵糧の移しが終わっていない証でもある。
 王平の騎馬隊が距離を詰め、弩を放った。前衛が身を屈め、馬甲でそれを防いだ。二矢目を撃たせておきたくてさらに近づいたが、それを察したのか王平は馬首を巡らせ距離を取った。王平の連弩に対抗する馬甲を備えている分、こちらの馬の方が鈍い。しかしそれは五千騎の外側だけで、内側には軽装の騎馬を潜ませていた。王平が孤立すればこの軽騎兵を出して疾駆させる。これは王平の意表を突くはずだ。
 王平が距離を取るので、夏侯覇は馬首を歩兵の方へ向けた。歩兵に突っ込む構えを見せる。王平が追ってくる。馬首を返し、追って来る王平を迎え撃った。意表は突いていない。ここまでは、互いに読み合える範囲だ。
 三つ。ぶつかる直前で花が開くようにして分かれた。どこに王平がいるか、夏侯覇は目で追った。軽騎兵を出すのはまだ早い。
 夏侯覇は三つの内の一つを、五千で追った。分かれた別の二隊が、後ろから追ってくる。追っている一隊が、反転してきた。挟撃を受ける形になるが、馬足を落とさなければ大きな被害はないはずだ。
 夏侯覇は先頭で疾駆し、前の一隊だけを見据えた。王平。一隊の先頭にいた。夏侯覇は腹の底から声を出し、剣を掲げた。剣が交差し火花が散り、そのまま駆け抜けた。王平の一隊はぶつかる直前に微妙に進路を逸らせて表面からの衝突を避け、五千の表面の皮を削ぐようにして駆けて行った。後ろから来ていた二隊は夏侯覇の後衛に矢を放ち、王平の一隊と合流した。
 夏侯覇は舌打ちをした。今の矢で百騎は落とされたか。いくら馬甲を備えていようと、背後からの矢は防ぎきれない。
 両騎馬隊は一度離れ、夏侯覇は横目で歩兵の陣を見た。矢合わせも早々に、歩兵がぶつかろうとしている。
 夏侯覇はそちらに向かって馬を走らせた。さっきは歩兵にぶつかる振りをしただけだが、今度は本気でぶつかりに行く。
 王平の陣がぐんぐん近づき、歩兵の顔が見える程になった時、こちらに向かって矢が放たれ始めた。しかし、激しいものではない。
 矢を馬甲で防ぎつつ、歩兵の前衛にぶつかった。意外なくらい堅く、歩兵の練度も高いのだと分かった。無理はせず、すぐに反転した。戟が突き出されてくるが、勢いが死ぬ前に抜け出せれば大した被害はない。
 王平軍歩兵に動揺を与えて夏侯覇はそこから離脱した。これで歩兵のぶつかり合いは、こちらの有利になるはずだ。
 歩兵の交戦地から離れ、隊列を整えようとしているところに、強烈な攻撃がきた。王平の騎馬隊による波状攻撃。夏侯覇は咄嗟に鐙に立ち、王平が何隊に分けたかと目を凝らした。
 一撃目が過ぎ、二撃目がきた。五隊による連続攻撃だ。被害は出ているが、それには目を瞑り、王平のいる隊を探した。被害を覚悟で歩兵に突っ込むことで誘った。王平はその誘いに乗った。ここが勝負所だ。
 三撃目。その千の中に王平の姿を見つけた。夏侯覇は手を上げ、王平の方へ振り下ろした。小ぶりの銅鑼が鳴らされ、徐質の持つ旗が激しく振られた。全軍が離れていこうとする三撃目の隊に殺到した。
 皮を脱ぐようにして、軽騎兵の二千が前に出た。四撃目と五撃目がきたが、それは重騎兵に防がせた。疾駆する軽騎兵が王平の千に追いすがる。隠し玉は王平の意表を突いた。王平はこれに対応できていない。王平の首を奪れる。
 夏侯覇は二千の中にあり、馬腹を蹴りに蹴った。重騎兵の動きに合わせていたので、馬の体力は十分にあるはずだ。分かれた四千と合流させる余裕を与えず、逃げる王平の千を追いに追った。距離が詰まる。もう手を伸ばせば届く。
 王平の千騎が、一列の縦隊となった。とかげの尻尾を切るようにしてこの場を切り抜けようというつもりか。それを見て、夏侯覇は勝ちを確信した。二千の先頭が、縦隊の退行日を突き落とし始めた。
 王平が縦隊のまま草むらの中へ入っていった。何か嫌な予感がした。この草むらは、どこかで見たことがある。しかし王平を追う二千の熱気がそれを打ち消した。もう二千の先頭は、追っている千騎の最後尾に届いているのだ。
隊を止めるべきだと心のどこかが言っていた。草むら。嫌な予感の正体は何か、夢中で、考える余裕などなかった。
不意に張郃の顔が浮かんだ。愚か者め、俺の死で何を学んだというのだ。仏頂面でそう言っていた。この草むらは、あの時のものと同じではないか。思った時はもう遅かった。
軽騎兵二千が草むらの中で、荒れた大河の波のように倒れ始めた。夏侯覇の馬も、前足を折って倒れた。そこに撒かれてあったのは、張郃の騎馬隊を殲滅した馬用の鉄菱だった。
「なんだ、これは」
近くで倒れた徐質が鉄菱を手にして叫んだ。縦隊で走り抜けていった王平は、鉄菱の無い道がわかっていたのだろう。草むらの中で喘ぐ夏侯覇の騎馬隊は、もう隊の体を成していない。
王の旗を持つ騎馬隊が近づいてきた。このまま、張郃がやられた時のように、矢を射こまれてやられてしまうのか。負けの屈辱に耐えるくらいなら、その方がいいのかもしれない。
夏侯覇は死を覚悟した。しかし王平は散々な体となった夏侯覇の騎馬隊を少し眺めただけで、その場から去っていった。また、お前は俺を生かすのか。
「止めを刺さずに去るのか。俺たちに、生き恥をかかせようというのか」
 徐質が自分の気持ちを代弁するように叫んだ。
「歩兵のぶつかり合いで何かあったのかもしれん」
 徐質は鉄菱の一つを蹴飛ばした。転がった鉄菱は、棘を天に向けて止まった。
「全軍、まとまれ。走れなくなった馬は、この場に捨て置け。帰還するぞ」
 部下たちが力無く立ち上がった。王平の首を奪れると思ったところで、思いもしなかった罠にかかってしまった。それぞれが、理不尽だとか、卑怯だとかいう思いを胸に、はらわたを煮えさせていることだろう。
 かなりの馬を失ってしまったことで、夏侯玄に何と言おうかと、夏侯覇はふと考えた。考えて、兵のように負けに熱くなっていない自分に気づき、少し戸惑った。
 徐質の持つ旗が、空しく風に揺れている。

 魏軍が出てきたのは、日がかなり昇ってからだった。夜襲が効いているのだ。
 杜棋は一万五千の歩兵を陣の全面に展開させた。迫りくる魏軍の歩兵は、二万五千。その報告を聞いた王平は、陣から出て戦うよう杜棋に命じた。いたずらに狭い所に籠って抗戦するより、出て戦う方が被害を少なく抑えられるのだ。陣の盾となっていた逆茂木は火矢で燃やされた。さして深くない壕に油を入れたが、火を点けても大きな時間稼ぎにはならないだろう。長い時でなければ持ちこたえられるが、時が経てば経つほど兵力差が出て押されてしまうだろう。
「調練通りだ」
 杜棋は展開する歩兵を櫓の上から眺めながら呟いた。自分に対してではない。今まで調練を積みに積んだ、歩兵の将兵に対してだ。指揮系統に狂いがなければ、一万五千で三万を半日止めることはできる。しかし何かが狂い、こちらのどこかが一点でも破られてしまえば、その一点から全てが崩れてしまうだろう。恐れるべきはそうした事態に陥ることであり、全力を持ってしてそれを防ぎつつ、劉敏からの兵糧搬送終了の合図を待つ。
 敵の騎馬隊が姿を見せ、王平の五千騎がそれに反応して飛び出していった。いつもの騎馬隊で、夏侯の旗を翻している。張郃を討った時、自分の隊に襲いかかってきた、あの騎馬隊だ。
 二つの騎馬隊はしばらく並走し、夏侯の騎馬隊がこちらに突っ込んでくる構えを見せたかと思うと、すぐに反転して王平の騎馬隊とぶつかった。そして互いに歩兵への介入は許すまいとして、昨日と同じように戦場を移していった。
 騎馬隊が去った戦場に、三段に組んだ歩兵が前に出た。壕には即席で作られた足場がかけられている。兵糧輸送が終われば、この足場を頼って歩兵は後退せねばならない。被害が一番大きくなるのは恐らくその時だろう。
 前列が盾を出し、矢交わしを始めた。
 杜棋は蔣斌の指揮する百人隊にちらりと目をやった。斥候から戻った蔣斌の顔が昨日のものと違っていた。夜襲からはずしたのが、思いの外効いているのかもしれない。
 蔣斌は蜀の高官の長子であり、教養と見識を兼ね備えているが、どこか情に甘いところがあった。それは他人に対してでもあり、自身に対してでもだ。その心の甘さは軍人にとって不要なもので、場数を踏ませることで消させるしかない。だが場数を踏ませる中で、成長する前に命を落とさせてもいけない。これは王平からの厳命でもあった。
 昨夜、部下が言うことを聞かないと、蔣斌は言っていた。兵卒はその本能によって上官の弱みを見抜く。蔣斌の人に対する甘さは、兵卒の目からは与し易いものだと映ったに違いない。しかしそれがわかったからと言って、自分がどうこうしてやれることではなく、これは蔣斌自身がどうにかしなければならない問題だ。
 今のところ、蔣斌の隊に異常はない。どの隊もしっかりと盾で矢を受け続けている。
 このままでいい。矢交わしをしている間にも、兵糧の運搬作業は続けられているのだ。このまま時を稼いでいれば、いずれ劉敏が撤収の鐘を鳴らすはずだ。魏軍もそれはわかっている。どこかで仕掛けてくる。それはいつか、どんな手か。杜棋は敵陣に目を凝らしてそれを見極めようとした。
 矢交わしの効果は薄く、そろそろ歩兵が前に出てくると思った時、騎馬隊が去っていった方から砂塵が近づいてきた。夏侯の旗が突っ込んで来る。
 杜棋は声を上げて騎馬隊への防御態勢をとらせた。歩兵に射こまれていた矢が騎馬隊に向けられたが、馬甲に阻まれ突進の勢いは殺せない。ぶつかったのは蔣斌の隊がいる辺りだったが、気にしている余裕はない。
 杜棋は歩兵の厚みを抉ろうとする騎馬隊を見ながら拳を握りしめた。耐えろ。騎馬隊に対する調練は積んできたはずだ。
 夏侯の騎馬隊は一段目を割り、二段目に届いたところで反転していった。
 目を覆うほどの被害ではないが、立て直す間もなく魏軍の歩兵が詰めてきた。前線がぶつかる。騎馬隊に乱された箇所が一段深く攻め込まれている。この一点が破られてしまえば、戦線の全てが崩壊しかねない。杜棋は乱れた一点に三段目の兵を集中させることで補填した。夏侯の騎馬隊は歩兵のぶつかりあいの向こうに消えていった。そちらに気をかける必要はもうなさそうだった。
 乱れた一点がかなり強く押されている。このままでは突破されてしまうと判断した杜棋は一段目の線を下げ、二段で敵を受けるよう合図を飛ばした。前線が退き、三段あった歩兵の構えが二段になった。押し込まれる形となったが、前線の乱れは消えた。歩兵の構えは薄くなったが、時を稼ぐ目途は立った。劉敏からの合図はまだか。
 前線が再構築されたのも束の間、味方の歩兵の一部が突出し始めた。
「なにをやってるんだ」
 よく見ると、蔣斌の隊だった。
「伝令、あれに前に出るなと言え」
 杜棋は櫓から身を乗り出して叫んだ。伝令が駆けだして行く。
 蔣斌が前に出る。それに釣られて周りの隊も突出しだし、前線に乱れが生じた。伝令が飛んで前に出かけた隊は後退したが、蔣斌の隊だけは前に出続け、四方八方を囲まれ始めた。
 杜棋は櫓に拳を打ちつけた。何故、あいつはあんなことをやっているのか。面目躍如のため、押された前線を一人で押し返そうとしたのか。それとも何か別の理由でもあったのか。なんにせよ、あれを助ける術はない。蔣斌に拘り、前線を崩してしまえば、ここの全てが魏軍の大軍に飲み込まれてしまう。蔣斌の命は諦めるしかなかった。
 蔣斌の隊の半分以上が討たれた時、魏軍歩兵の後方に大きな衝撃が走った。その衝撃は歩兵の隊列を割り、息を幾度もしない間に蔣斌の隊にまで届いた。王平の騎馬隊だ。
 王平が蔣斌を掬い上げるのが見え、杜棋は安堵の息を吐いた。そのまま王平の騎馬隊は、壕を越えて陣に帰還した。
 杜棋は敵の動揺に乗じて前線を押し返すよう指示して、櫓の梯子を滑るようにして下りた。目を血走らせた王平が、蔣斌の首根っこを掴んだまま近づいてきた。
「この馬鹿を、今すぐ成都に送り返せ」
 吠えるようにして王平は蔣斌を投げ捨て、騎馬隊へと戻っていった。地に伏せたままの蔣斌は、俯いたままでどんな顔をしているかわからなかった。
 後方で鐘が鳴った。劉敏からの作業終了の合図だ。杜棋は蔣斌を捨て置いて、急いで櫓の上へ戻った。王平が崩した敵の歩兵を、味方の歩兵が押している。撤収の合図を出すには絶好の時だ。杜棋が合図を出し、後方の鐘と連動するように、撤収の鐘が鳴らされ始めた。後列が壕の足場を渡り始め、前列も後退してくる。やはり下がり際に被害が出ているが、それは目を瞑るしかなかった。
 歩兵が陣に戻ると、壕に撒かれた油に火が投げ込まれた。足場も落とされ、魏軍の歩兵の動きが止まった。
 杜棋は撤収の指示を出して回った。魏軍は人海戦術で壕に土を落として鎮火させようとしている。壕の火は長くはもたないだろう。早く王平軍を武功水の西岸に上げ、一兵でも損害少なく撤収を完了させねばならない。戦はこれで終わりではないのだ。
 何人もの兵が慌ただしく目の前を駆け、武功水の浮橋を渡っていく。そんな中で、蔣斌に声をかけてやる余裕などなかった。


6-18
 蜀軍が武功水の西へと渡り、五丈原の高地に陣取った。麦が綺麗に刈り取られた武功の平原には魏軍が入り、武功水を挟んで両軍が対峙することとなった。
 司馬懿は対岸に横たわる五丈原の、蜀の旗がよく見える所に本陣を置いた。戦は、魏軍が押している。兵力数に大きな動きはないが、蜀軍が西へと移り、魏軍本陣が前進したのを見て、中央の官吏は魏軍が勝っていると思うだろう。二万の増援は意味のあるものだったのだと示したことにもなる。
 二万を連れてきた秦朗が蜀将魏延に討たれた。秦朗が歴戦の雄である魏延に勝てるとは思っていなかった。負けて帰ってきたところで、司令官として軍権を剥奪し、二万を自由に使えるようになればいいと思っていたが、こうも簡単に死んでくれたのは好都合だった。口だけ達者で実力の無い者は、この戦乱の中で死んでいけばいい。
 夏侯覇と費耀を組ませて兵糧庫を攻撃させたが、さすがに強い抵抗に遭い、全ての兵糧を無傷で西岸に上げさせてしまった。それを詫びに来た夏侯覇を、主戦派の諸将の前で激しく罵倒した。早く戦に出せと言っていたくせに、この様はなんだ。敵将の首一つ持ってくることができなくて、何のための武官だ。反論してくる者は一人もいなかった。これからしばらくは、こちらから攻めろと言い出す者はいないだろう。
怒声を上げて見せたが、司馬懿の心に憤怒はなかった。中央に戦勝を報告することができ、秦朗が討たれたことで二万を自由に遣えるようになった。そして、蜀軍を五丈原に封じ込めた。戦の流れは決して悪くないのだ。
 五丈原の蜀軍から見れば、正面は武功水に阻まれ対岸に魏軍が群がり、右手は秦嶺山脈が道を閉ざし、左手は渭水の流れが大地を割って対岸に郭淮の三万が備えている。八方塞がりなのだ。
「この状況から諸葛亮はどんな手を打ってくるか、言ってみろ」
 地図を広げた幕舎内で、司馬懿は司馬師に向かって言った。卓上では、魏軍の駒が五丈原を包囲している。司馬師は顎に手を当て、眉間に皺を寄せた。
「これは、籠城戦に見えます。籠城戦であれば、援軍を期待するはずです。そうだ、羌軍」
 司馬懿は地図の一点を指でこつこつと叩いた。
「何のために郭淮がいる」
 強い口調で咎めるように言ったが、目の付け所は悪くない。司馬師は顎に当てた手に力を籠めて考えている。
「羌軍は郭淮殿に阻まれ、蜀軍に加勢することはできない。それどころか、これだとやってきた羌軍は魏軍に付く可能性すらある」
 司馬師が独り言のように呟いた。わかりきったことを言っていたが、司馬懿はそれを黙って聞いた。
「こちらの兵站を乱すのも難しい。ならば、正面からの決戦を狙うとすれば、何かそのための下準備を始めるはずです」
「違う」
 司馬懿は遮った。並みの将なら、一か八かの正面決戦を挑んで来るかもしれない。しかし相手は諸葛亮なのだ。兵力差で劣り、地理的優位もないまま、そんな下策を取るはずもない。司馬懿は自分の首を二度叩いて見せた。それを見た司馬師は、よくわからないという顔をしている。
「狙いは、私の暗殺だ」
 司馬師が顔をはっとさせた。
「これからの戦に大きな動きはない。互いに頭を潰し合う、儂と諸葛亮の一騎打ちが始まる。その中でお前はどうすべきか」
 司馬師は動揺を露わにさせていた。その顔を見て、逆に司馬懿は肺腑を突かれた。父が子を本気で心配する眼差し。何か見慣れないものを不意に目にした気がした。司馬懿は息子から目を離し、動揺を腹の底に押し込んで、卓を大きく叩いた。その音で、司馬師は驚いた猫のように背筋を張った。
「今日からお前は五百を率い、儂の周囲を固めろ。ただ固めるだけではいかん。蚩尤軍の目を欺け。そのために、知恵を振り絞れ」
 不安な色を見せていた司馬師の目に、生気が戻った。
「必ず、守り通してみせます」
 言って司馬師は立ち上がった。その様子は、些か意気込み過ぎでいる。
「いきりたつな。お前はまさか、儂が諸葛亮に負けるとでも思っているのか」
 司馬懿はにやりと笑って見せた。それで幾らか司馬師の気持ちが解れたように見えた。
 背を向け手を振ると、司馬師は退出していった。
 武功の平野に十万の兵を従えているが、司馬懿はこれに何の期待もしていなかった。先日の戦でも、兵糧庫への夜襲を計画していながら、兵が略奪に走って逆に夜襲を仕掛けられた。欲望と、一時の感情のみが原動力の兵卒は、味方であっても信用するべきではない。信用できるのは、自らの手で育てた黒蜘蛛と、血を分け合った者だけだ。
 特にここ数年で、兵の質は下がりに下がっていた。いくら厳しい調練を課しても、それは兵の体を強くするというだけで、心までは強くしない。兵の体だけを強くしても、強い軍ができるわけではないのだ。
 十四年前、生まれ育った国がこの世から亡くなった。曹操が辛うじて保たせていた漢王朝だったが、次の代の曹丕が帝位を簒奪した。漢と呼ばれていた天下は、魏と名を変えた。長く続いていた国が、別のものになってしまった。一見、大きな変化はないようだが、それは人の心を蝕んだ。連綿としていたものを投げ出し、そのくせ新しいものが始まったという自覚も持たず、空疎な上辺と建前だけで立っている国。それが今の魏国だ。帝を頂とした確固たる秩序の中で民は平穏を得て、産み育て、その中で大小の知恵や技術は継承されていく。その流れを持つ漢という国を捨てた。捨てたのは、大事なものを何も理解できない、欲にまみれた者たちだ。継承されていたものを民から奪い、そうした民が兵として構成される軍が、強くなるはずがない。ここに兵として集められた若者は、漢の流れから引き剥がされ、魏という枠に訳も分からず放り込まれた者たちなのだ。誰が魏のために命を懸けようと思うだろう。そんな強くもない軍を、信用できるはずもない。
 司馬懿は改めて諸葛亮の心を想った。漢王朝を復興させようという諸葛亮の志は、まったく理解できないものではない。むしろ近しい想いすらある。
 長く続いていたものを壊してできた新しいものに、それは一時の夢であったのだと突きつけてやりたい。しかしそれは蜀の帝である劉禅によってではない。それをやってしまえば、曹丕の簒奪と何も変わりはない。漢王朝の復興は、帝から公の位に落とされた劉協によって、或はその血筋によってなされるべきだ。その時まで、自分は仮の姿をした魏国を守り通さなければならない。魏国のためでも魏の帝のためでもない。漢王朝と、それがもたらす未来の世のためだ。漢の下で育ったあらゆるものは、良いものも悪いものも含め、漢の下で熟れていくべきなのだ。
 この想いは誰にも言ったことがない。もしそれが誰かの口から洩れれば、官位を剥奪されるだけでなく、首を落とされてしまう。漢のためにも、自分は死ぬわけにはいかない。時が来るまで、魏の中で力を養い、志を遂げるためにも、諸葛亮に負けるわけにはいかない。
「皮肉なものだな」
 司馬師のいなくなった幕舎内で、司馬懿はため息混じりに呟いた。衛兵が何か言ったかという顔を向けてきたが、それは黙殺した。
 敵対してはいるが、二人の胸中には、共に漢がある。立場が違えば手を結ぶこともできたかもしれない。こうして互いに大軍を率いて対峙していることに理不尽さすら感じることもある。欲ばかりの者が力を手にし、その手のひらの上で大事な者を守ろうとする二人が躍り、潰し合う。こうして人の世は乱れていくものではないのか。思っても、それを覆すだけの力は、今の司馬懿にない。
 司馬師が出て行った後の幕舎に、辛毗が入ってきた。そしてすぐ、郭奕も姿を見せた。
 増援を乞いに都に上った辛毗が、重大な報を持ち帰っていた。この報一つで蜀軍を撤退させることができるかもしれない、それ程のものだ。これを知る者は、この西方戦線では、ここにいる三人しかいない。
 辛毗が竹簡を手渡してきた。司馬懿はそれに目を通し、良しと頷いた。
「つまらん小細工はしようとするな、辛毗。この計画通りにすればいい。余計なことに気を取られ、心を乱せば大事を見誤る。人が失敗するのは、概してそういう時だ」
 辛毗はこれから五丈原に乗り込み、魏軍からの使者として諸葛亮と面会する。都から持ち帰った報を、策として使う。そして、諸葛亮を殺す。
「郭奕、辛毗は必ず守り通せ。かかる火の粉があれば全力で払いのけるのだ」
「御意」
 司馬懿はちらりと辛毗の顔を見た。難しい顔をしている。それは使者としての責任を感じているからか、漢に生まれた者としてこの策を不敬であると思っているからか、わからなかった。
 二人が退出し、司馬懿はもう一度、辛毗から渡された竹簡を読んだ。遺漏はない。諸葛亮の漢王朝に対する想いを逆手に取る。諸葛亮の命を奪うまではいかなくとも、大きな動揺を与えることはできるはずだ。
 諸葛亮を死ぬとなれば、後ろめたさはある。漢のために命を懸けているのだ。今が治世であったなら、間違いなく後世に残る名臣となっていただろう。だが、乱世なのだ。
 司馬懿は外の空気を吸いに幕舎を出た。すぐに護衛が周りを固めてくる。その輪の外側に、魏軍十万が武功平野にひしめいている。そこにいるほとんどが、魏のためでなく、漢のためでもなく、自分自身のために働いている。この軍の属す国が愛着のない新居であれば、それも仕方のないことなのだろう。彼らは自ら選んでその新居に入ったわけではないのだ。これに気付いている為政者が、はたしてどれほどいることか。
 この戦に勝ったとしても、外に敵を抱え続け、内に人心を得ないこの国が、どれほど長く続くものか。
 兵を見渡し、何か嫌なものに当てられた気がして、司馬懿は幕舎へと戻った。護衛の囲みの向こうでは、司馬師が何か指示を飛ばしている。

 広い五丈原の台地の上を、幾つもの篝が照らしていた。夜が更けても動いている兵は多く、眠らぬ陣が戦の重さを物語っていた。
 句扶は影から影へと飛び移り、一つの幕舎を目指していた。衛兵が二人、幕舎の入り口に立っていた。一人は目を閉じ、一人は気の抜けきった顔をしている。句扶はむささびのように幕舎を駆け上がり、跳躍した。幕舎が揺れ、衛兵の一人がそれに気付いて落下してくる句扶と目が合った。着地した時にはその兵は倒れ、居眠りをしていた兵には拳を叩き込んだ。気絶した二人をそこに残し、句扶は幕舎に入った。
 灯の下で、費禕が書簡を作っているその背中に忍びよった。その気配に費禕が手を止め、全身を粟立たせたのがわかった。
「句扶です」
 費禕が振り向き句扶の姿を認め、大きく息を吐いた。
「驚かせないでくれ。こんな時間に、どうしたというのだ」
「少しお待ち下さい。もうすぐ来るはずです」
 何が、と費禕が言う前に、幕舎に何かが入って来る気配がした。
 句扶は飛刀を放った。趙広が入ってくるのと同時に、飛刀がその足元に突き立った。
「お前の仕事は何だ、趙広」
 句扶は怒気を含んだ低い声で言った。
「文官の護衛です」
「費禕殿は、一度死んだ。お前の責任で、死んだ。俺が黒蜘蛛でなくてよかったな」
「人が、足りません」
 句扶は歩み寄り、俯く趙広の横面を張った。
「足りないから何だ。お前の言い訳を先に言ってやろう。丞相の幕舎に不穏なものを見つけた。お前は俺の仕掛けたそれに乗り、ここに来るのが遅れた。もっと人がいれば防げていた。そんな言い訳が、戦陣の中で通用するとでも思っているのか」
「申し訳ありません」
「防諜体制を一から見直せ。これからの忍びの戦は、今までのように甘くはないぞ。わかったら、行け」
 趙広は姿を消した。句扶は刺さった飛刀を抜き、それを収めた。
「趙広の天禄隊はよくやってくれている。これまで我が陣内に忍び込んでいた黒蜘蛛を、何人も炙り出してくれた」
 費禕がその場を取り繕うように言った。
「それは忍びとして最低限の仕事です。しかしこれからは、それ以上のことをしなければなりません」
「私を使って忍びの調練をするということは、私に何か言うことがあってのことであろう。言ってみろ」
 句扶は頷いて見せた。高官だけあり、話は早い。
「護衛をお増やしください。丞相の護衛は十分にいますが、費禕殿も含め、他の高官を守る者が少な過ぎます」
「魏軍が、私なんかの命を狙ってくるものかな」
「間違いなく、きます」
 費禕は嫌そうな顔をして見せ、顔を背けた。文官のこうした反応にはうんざりするが、何故こうした反応になるのか、句扶にはわかっていた。
「戦は、暗殺も含めて、戦です。趙雲将軍の二の舞を出してはなりません」
 第一次北伐の際、遊軍として長安に迫った趙雲は、魏軍との膠着の末に忍びによって暗殺された。下手人は王訓の叔父である王双だった。
「外にいた二人はどうした」
「この幕舎に立っていた二人は使い物になりません。人を選び、最低でも二十人は配していただきたい」
「今のままでいい。忍びが入り込み、殺されてしまえばそれまでだ。お前も死を覚悟して仕事をしているのだろう。それを同じだ」
「文官は戦陣の前線に立たないが、死を恐れてはいないと周囲に示したいわけですか」
「なんだと」
「恐れながら文官の方々は、前線で戦っている武官に過剰に引け目を感じていると、私の目からは見えます。男だから、わからぬわけではありません。しかしその意地で蜀軍が窮地に立たされることがあれば、元も子もないでしょう」
 言われて費禕は黙った。図星であるのだろう。頭の固い文官ならここで反発してくるが、費禕はそうではないと句扶は見ていた。
「幕舎に立たせていた二人は、抵抗してこなかったのか」
「立っているだけの衛兵なら、気付かれる前に殺せます。そして、あなたの命も」
「何故、今なのだ」
 遮るように言ったが、咎める響きはない。忍びに対する警戒を厚くしなければならない理由はなんだと、ただそう聞いている。
「司馬懿を、暗殺します」
 費禕の顔に、深い影が差した。左の膝が、所在無さげに揺れている。
「それは丞相からの命令か」
 句扶は頷いた。
「蚩尤軍は、蜀の本陣から出ます。司馬懿の首を奪るまで帰ってくる気はありません。御自分の命は、御自身で守ってもらわなければなりません」
「こちらが暗殺を狙うということは、向こうからも狙われるということか」
「左様。頭ではわかるはずです。しかし忍びのやることは目に見えないため、実感を持つことができず、行動に移せないという無能者がいます。費禕殿は、そういった無能者ではないと見受けております」
「言ってくれるではないか」
 口を釣り上げて費禕は笑った。
「よろしい。護衛はよく選び、増やすことにする。他の文官にもそうさせるよう、丞相に強く進言しておこう。費禕は一度殺された、とも言っておこう」
 今度は句扶が笑ってみせた。
「兵の小競り合いがあっても、それ自体が黒蜘蛛の行動を後押しする揺動であるかもしれません。心に留めておいて頂きたい」
「わかった」
 句扶は幕舎を後にした。費禕の目からは、闇に溶け込んでいったようにしか見えなかっただろう。
 五丈原から南へ行き、蜀と魏を隔てる秦嶺山脈に大きく入り、東へ進んだ。既に夜は明けている。さらに日が暮れかけた頃に馬冢原の東へ出た。魏の本陣がある武功からはかなり東に離れている。
 北へ進み、渭水の南岸に身を潜めた。しばらくすると、下流から魏の旗を掲げた船が五隻やってきた。魏軍は本陣の近くに大きな兵糧庫を作らず、こうして少しずつ長安から兵糧を運び続けている。人の体で言えば、長安が心の臓であり、渭水が大きな血の管のようなものだ。この血の管を断つ。
 句扶はさらに東へ進んだ。既に商人や乞食の姿に身を変えた五十の部下が、長安に潜り込んでいる。
 長安の城塞が見えてきた。兵糧を積んだ車を押す人夫の列が、城壁から蟻のように続いている。
 句扶は城外に並ぶ家々から少し離れた林に身を潜めた。作戦決行まで、あと一日ある。
 費禕は上手くやってくれているだろうか。黒蜘蛛が句扶の不在に気付き、何か仕掛けてくる可能性は十分にあるため、本陣を離れるのに抵抗がなかったわけではないのだ。だからこそ、文官を説得するという、慣れないことをした。
 こちらが諸葛亮の暗殺を警戒するように、魏でも司馬懿の暗殺を警戒していることだろう。黒蜘蛛は当然、司馬懿の周囲に力を入れてくる。他の所には手が回らなくなる。長安の兵糧を急襲すると決めたのは、句扶がそう読んだからだ。蜀軍本陣の忍びに対する防備は薄くなるが、ここに来る前に趙広の尻を蹴飛ばしておいた。向こうのことは、趙広の働きに期待するしかない。
 時が経ち、周りに幾つかの気配が集まってきた。長安に潜ませておいた、蚩尤軍の手の者だ。五十が集まり、夜が更けてきた頃に句扶は動いた。背後から、五十の影が続いてくる。
 夜は兵糧を運ぶ人夫の姿はなく、船着き場に数人の歩哨がいるだけで静まり返っている。
 句扶は闇の中を走った。五十の影が、それぞれの場所に散っていく。数人の歩哨の中で邪魔な者だけを眠らせ、蚩尤軍は十人ずつ、五隻の輸送船に乗り込んだ。船内には誰もいない。手筈通り、船底に身を隠した。外に騒ぎはない。五隊に分かれた蚩尤軍は、それぞれの船内で息を殺して時を待った。船底は蒸し暑く、顎から汗が滴れ落ち、船の木目に染み込んでいった。
 朝が来た。船底は暗闇だが、外からの声でわかった。船が揺れ始め、兵糧が積み込まれ始めたのもわかった。
 しばらく揺れ続け、さらに大きな揺れがきた。船が渭水の上を走り出したのだ。
 句扶はさらに待った。人目につく所で船を沈めるわけにはいかない。
 船が出てから半日待ち、あごから滴る汗が枯渇してきた頃、句扶は九人の部下に目で合図をした。船底から這い出る。空だった船が、腹の中にびっしりと兵糧を抱え込んでいた。
「船の者は、全て殺せ」
 その言葉で九人は散った。河の流れが見える船外に出た。心地良い風の中で、突然の襲撃に驚いている男の首に短剣を払った。あちこちから船員の悲鳴が上がった。その悲鳴を合図に、他の四隻でも蚩尤軍が躍り出た。輸送船に正規兵はおらず、全ての船員を殺すのに時はかからなかった。それぞれの船から血の筋が流れ、渭水の流れに消えている。
 兵糧を貯めこんだ五隻に火をかけ、蚩尤軍は泳いで渭水の岸に辿りついた。一人も欠けてはいない。行き先を失った船は水上で炎を立て、かなりの時をかけて沈んでいった。
 句扶は五十を散会させた。作戦は、これで終わりではない。あらゆる方法で長安の兵糧を襲い、魏軍の後方を脅かす。その時、黒蜘蛛はどう動くか。兵糧を守るため長安に人を割くか、長安での襲撃を揺動と読んで司馬懿の周りを固めてくるか、句扶のいない蜀軍本陣を全力で攻めてくるか。
 司馬懿の周りを固めて様子を見てくるだろうと句扶は読んでいた。あと三度、長安の兵糧を襲う。それで黒蜘蛛は違う動きを見せてくるはずだ。その隙を突き、司馬懿の首を奪る。句扶の狙いはそこにあった。
 全身の毛が逆立っている。知恵を比べ争う殺し合いが始まったのだ。渭水の西日に、句扶の肌はひりついていた。


6-19
 兵糧が木牛と呼ばれる手押し車で五丈原の上に運ばれていた。両軍合わせて二十万近くいる兵は、蜀軍が武功から引き上げる際に一度ぶつかったが、それからまた穀物の袋を食い潰すだけの対峙が始まった。まるでどちらが先に兵糧を食い尽くすかの勝負をしているようだと趙広は思った。
 魏領に入ってからの仕事は、魏軍の忍びである黒蜘蛛を蜀陣内から見つけ出すことだった。敵からの諜報を防ぎ、また蜀の高官が忍びの脅威に晒されないようにする守りの忍び働きだ。忍びによる攻撃は、句扶の蚩尤軍がやっていた。句扶が何をしているかは同じ忍びである自分にもほとんど知らされていない。敵の忍びに捕らえられ、拷問にかけられた時のため、必要最低限のこと以外は知らされていないのだ。
 蜀軍に紛れ込む黒蜘蛛の狩り出しに些か倦んでいた。蜀軍首脳部は防諜に厳しく、黒蜘蛛の狩り出しはほとんど終わったと思える今でもまだ警戒を緩める気配はない。怪しいと思える者は全て消してきたので、その中には無実の味方もいたことだろう。戦なのである程度は仕方のないことではあるが、黒蜘蛛に残酷な拷問をかけることはあっても、それは快楽のためにやっているわけではない。味方を殺すことに何も感じていないわけではないのだ。そこに倦みの原因があり、その倦みは部下にまで伝わっているという気がする。
 句扶はそれに気付いたのか、費禕の幕舎内に呼び出され、張り倒された。本営の諸葛亮がいる幕舎の周りで唐突に不穏な気配が生じ駆けつけたが、それは句扶の部下がしたことだった。句扶に試されていることに気付き、費禕の幕舎に走った。楊儀の幕舎でなかったのは、句扶は楊儀を嫌っているという節があるからだ。
 やはり句扶はそこにいて、こっぴどく叱責されたのだった。
 言いたいことを言い終えた句扶は五丈原から姿を消し、蜀軍本陣の忍びに対する守りは全て趙広が差配することになった。防諜体制を見直せと言われたが、すぐに何かが起こるとは思えなかった。武功にいた時から、かなりの数の黒蜘蛛を炙り出しており、この状況で黒蜘蛛が大きな攻勢をかけてこられるとは思えない。それでも費禕に護衛を増強させるということは、何か大きな動きがあるということなのだろう。句扶は司馬懿の暗殺すら狙っているのかもしれない。
 句扶から叱責された夜から三日経ち、長安で魏軍の兵糧が被害を受けているという報が入った。間違いなく、やっているのは句扶だ。
 魏軍の兵糧は長安から船で輸送されていて、蚩尤軍はそれを襲ったのだが、それで魏軍の兵站が切れるとは思わなかった。船が駄目なら渭水沿いの陸路を使い、兵站線を複数にすればいい。その全てに対応できるほど蚩尤軍の規模は大きくなく、そのことは司馬懿もわかっているはずだ。これは黒蜘蛛の目を長安に向かわせようということなのか。
 蚩尤軍が長安周辺にいる限り、主戦場における忍び同士の闘争は黒蜘蛛が優勢となる。句扶が防諜体制を見直せと言っていた意味がわかった。兵站を乱された司馬懿は、黒蜘蛛を後方に派遣しそれを阻止するか、或いは蚩尤軍がいなくなった五丈原で何かを仕掛けてくるかのどちらかだろう。司馬懿が後方を乱す蚩尤軍をあえて捨て置き、蜀軍要人の暗殺を狙ってくる可能性は十分にある。父である趙雲は、こうした膠着した戦陣で、暗殺によって命を落としたのだ。
 趙広は部下に警護を厳にするよう下知し、自身も五丈原の陣内を隈なく回った。怪しいところはやはりない。それもそうで、この戦が始まってから天禄隊は蜀軍内に潜んでいた黒蜘蛛はかなり駆除している。怪しいところがないところが、怪しいと思うべきなのか。何もなくても考えることは止めるなと、句扶は言いたかったのか。
陣を見回っていると楊儀に呼び出され、趙広は本営の幕舎へ向かった。費禕がそうしたのか、本営の警備は既にかなりのものになっていた。
一兵卒の具足で擬態した趙広は幕舎の中に通され、楊儀の陰気な顔の前に立った。忍びに陰気な者は多いが、この男のそれはどこか異種のもので、近寄り難いものがあった。趙広への指令は諸葛亮の意向を受けた楊儀からこうして出されるのだった。
「明後日、司馬懿からの使者がやってくる。場所は、この幕舎だ。お前には、その使者団を監視してもらう」
 趙広は頷いて答えた。五丈原に入って来るということは、蜀の本陣を敵に見られるということだ。使者には当然、黒蜘蛛が護衛として付けられるだろう。その黒蜘蛛の目を眩ますことも仕事だということだ。
「丞相の護衛には三百をつける。その穴を埋めるようにお前の部下を配置しろ」
 三百ならまずまずだと思えた。おかしな者を選ばなければ、天禄隊の負担はかなり減るだろう。
「他の文官への護衛はどうお考えでしょうか」
 聞くと楊儀は大きく息をつき、余計なことは言うなというように顔を横に向けた。恐らく、他の文官への護衛については考えていない。楊儀に限らず文官は、前線で戦っていないという気後れが大なり小なりあるのだ。
「その件は費禕に任せてある。詳細は、費禕に聞け」
 句扶が費禕に言い聞かせたことが効いているのだ。話ぶりからして、費禕が文官の護衛を主張し、楊儀がそれをしぶしぶ認めたのではないかと思えた。楊儀と費禕の仲はあまり良いものではないのかもしれない。
「私は丞相の傍にあり、使者に立ち会うことになる。護衛は部下に任せ、お前自身は手練れの者を近くに置き、私の姿が見える所にいろ」
 楊儀が額を寄せ、声を潜めた。
「私が右手を上げたら、速やかに皆殺しにするのだ」
 陰鬱な楊儀の目の奥が光った。
「お任せください」
 使者団を殺すことに抵抗はない。そこに入っているだろう黒蜘蛛の手練れを始末できるなら、それは望むところだ。
 楊儀は既に使者とその供回りを全て殺すつもりだ。この種の陰鬱さを持つ者は、妙なところで激しい攻撃性を見せることがある。それが、今だ。これは蜀のためなのか、それとも自分の恐ろしさを内外に示したい欲求の現れなのだろうか。
 細かい話を終え、楊儀が興味を失ったように手を振ったので趙広は幕舎を出た。
 この局面で何故、司馬懿は使者を寄越すのか。趙広は兵卒の具足を脱ぎ装束に着替えながら考えた。句扶は長安で魏軍の兵站を乱していて、司馬懿はその対処のために黒蜘蛛の主力を向けると思っていた。しかし戦陣の中で使者を出すということは、その主力を使者につけるということだ。現に司馬師が乗り込んできた時には、黒蜘蛛の手練れと思える面々がその護衛をしていた。
 趙広はこの使者団に嫌なものを感じた。司馬懿は諸葛亮に何を伝えてくるというのか。句扶に攪乱されている後方を無視し、黒蜘蛛の力を削がれる危険を冒してまでやならければならないことなのか。楊儀が考えているように使者を幕舎で殺すのではなく、武功水の西岸から幕舎に辿りつくまでに殲滅させておくべきではないのか。
 趙広は頭を振った。これは警護が仕事である自分の考えることではない。
 なんにせよここで黒蜘蛛の主力を討てば、忍びによる戦は蜀にぐっと有利になる。楊儀もそれをよくわかっているのだろう。黒蜘蛛が堂々と姿を晒して乗り込んでくるのを討つとなれば、それをやるのは天禄隊に限る必要はなく、本陣にいる数万の兵をつかうこともできる。どんな優秀な忍びであろうと、これを抜けるのは不可能だ。そして黒蜘蛛の頭を潰せば、後は統制を失った蜘蛛の脚を一本ずつ片付けていけばいい。正規兵の勝負で勝てなくても、忍びの戦で蜀軍を勝ちに導くことができる。諸葛亮の描くものは恐らくそういうものだろう。
 費禕が護衛を増やしてくれたことで、天禄隊の動きに余裕ができたことも良かった。黒蜘蛛が死を覚悟して蜀軍の高官を狙ってくることもあり得るのだ。人材の少ない蜀にとって、それは必ず防がねばならぬことだ。
 諸葛亮と楊儀は句扶の行動を把握している。ここで使者を出してくる司馬懿を不可解だとも感じているはずだ。その上で殺せというのなら、やはりこれは魏軍に大きな打撃を与える絶好の機会なのだろう。使者を殺すことは、本来ならよほどのことがない限りすべきことではないのだ。
 ここで使者を寄越す司馬懿の真意はなんなのか。使者は殺されないと高を括っているのか。それとも使者がもたらすものは蜀にとって有益なものなのか。
 日が落ち始め、五丈原の兵たちが竈に火を入れている。兵はまた膠着が長引くと踏んでいるのか、戦陣だというのにどこかのんびりしたところがあった。戦の勝敗を決めるのはこの兵たちではなく、闇で戦う自分たちなのだ。

 辛毗につく五十の供回りに入り、郭奕は五丈原に向けて本陣を出た。身の安全が約束されているのは武功水の東岸までで、武功水を渡ればいつ殺されてもおかしくない。
 岸辺につくと、対岸に蜀の軍旗を持った一隊が使者団の来着を待っていた。小舟で武功水を渡り、辛毗が出迎えの一隊に恭しく頭を下げたので、郭奕もそれに倣った。
 百人程の隊の中に幾らか忍びが紛れている。郭奕は頭を下げながらそれを感じた。また目に見えない所から痛いほどの視線を感じる。顔に変装を施しているが、これなら露見してしまうのは時間の問題だろう。蜀陣内で襲われれば黒蜘蛛が壊滅してしまう危険すらあるが、それでも司馬懿は郭奕に直接護衛をするよう命じてきた。
 この使者団に半端な者をつかえばこの策は成功しない。そう言う司馬懿から策の内容を明かされ、郭奕は納得した。それはやりようによっては、魏国の朝廷から嫌疑をかけられる可能性すらある大胆な策だった。
 迎えの一隊に連れられ蜀軍の本陣へ向かった。行く道の両側には蜀の兵卒が居並び、脇に立てた戟で今にも襲ってきそうな圧迫感があった。
 郭奕は横目でちらりと辛毗の顔を覗き見た。流石に司馬懿の右腕だけあり、いつもと変わらぬ面持ちで歩を進めている。こちらに不安はないようだ。
 五丈原の坂を登るにつれ、辺りに忍びの気配が濃くなってきた。句扶は長安にいると聞いているので、この気配は天禄隊のものだろう。句扶ほどではないが、天禄隊を率いる趙広もなかなかに手強く、蜀陣内に忍ばせていた黒蜘蛛のほとんどはこの男によって殺されていた。句扶と趙広が組めば針の穴も見落とさないほどの仕事をするが、この二人が別行動をしている今は好機だ。
 蜀軍本営の幕舎が見えてきた。郭奕はさりげなく陣内を見渡してみたが、大事な所には人の壁が配され視界が通らなかった。
幕舎の前に蜀の高官らしき人物が立っていて、こちらに拱手し辛毗と何か話し始めた。この顔の名は費禕であるはずだ。供回りに加えていた郭循が、費禕を見てあるかなきかの反応を示しているのを郭奕は目の端で捉えた。三年前の戦で句扶と闘争を繰り広げている際、句扶の罠にかかり郭循は捕らえられかけた。その罠の餌になったのが、費禕だった。郭循はその時の失敗を深く悔み、その悔みは費禕への強い恨みとなっていた。
身体能力の高い郭循には期待を持っていたが、いかんせん心が弱い。自分に忠実になるように育てた方法が、結果的にそうさせてしまったのかもしれない。
その心の弱さを見極め扱い方を変えると、郭循はそれに機敏な反応を見せた。自分に嫌われるのを酷く恐れているのだ。自分に忠実な部下を作ろうとしたが、自分に依存しすぎる男ができたのだった。時が経ち歳を重ねても、それは変わる兆しも見せない。しかしこれはこれで使い道はある。
費禕との話で幕舎内に入れるのは辛毗と荷を持つ者の二人とされた。その荷持ちは郭奕がやることになった。
幕舎からは嫌な気配が強い香の如く放たれていて、足を踏み入れるのをためらうほどだった。中に入れば、生きて出られる保障はない。いや、武功水を渡ったところから生きて帰れる保障はないのだ。顔を変えてはいるが既に見抜かれているだろう。趙広をはじめとする蜀の忍びが欲しかった首が、自ら袋の中に入ってきたのだ。その趙広の気持ちが禍々しい殺気の中から伝わってきた。
幕舎内に通されたがそこに諸葛亮の姿はなく、楊儀という諸葛亮の側近が兵を従えて立っていた。郭奕は口の中で舌打ちをした。諸葛亮は始めから会う気などなかったのだ。殺気が充満する幕舎内で、郭奕はここから脱出することに頭を巡らせた。
「漢の陛下からの密勅をお持ちしました」
 辛毗の大音声が殺気に満ちたその場の空気を切り裂き、楊儀が上げかけた右手を止めた。
「今、なんと」
 余裕に溢れた楊儀の顔が歪んだ。蜀の臣なら、今の辛毗の言葉を無視することはできない。
「漢の献帝陛下からの密勅を」
「嘘を申すでない」
 今度は楊儀の金切り声が、辛毗の言葉をかき消した。
「そなたにとっての陛下は、魏国の明帝ただ一人のはずではないか」
「では楊儀殿、あなたにとっての陛下は劉禅様お一人でしょうか」
 楊儀は何か言い返そうとしたが、何も口から出てこなかった。死の淵に立たされたが、辛毗が言葉で押し返した。これで始めの難関は越えた。
「魏軍に二万の増援があったのは記憶に新しいかと存じます。その増援を許都へ乞いに行ったのはこの私です。献帝陛下の命を拝領したのは、その時です」
 辛毗が目で合図をしてきた。郭奕は疑いの目を向ける楊儀の前に書簡が納まった箱を差し出した。楊儀はそれを開き、手を震えさせ始めた。
「確かにこれは、献帝陛下の印だ」
 蜀は漢王朝の復興を大義名分に掲げているのだ。この使者団が魏からのものでなく、漢王朝の主からのものであれば、手出しできるはずもない。
「諸葛亮殿への目通りをお願いします」
 楊儀は何も言えず、書簡に目を落としたまま沈黙した。その額には大粒の汗を浮かばせている。
 幕舎の奥で、何か大きなものが動いた。居並ぶ兵が道を開け、その老人は静かに姿を見せた。諸葛亮だ。頬はこけ、落ち窪んだ目は鋭い光を放っていた。諸葛亮は前に遠目から見たことがあるが、郭奕は一見これが同じ人物かと目を疑った。日に焼けた肌には幾重もの皺が刻み込まれ、歳は五十を幾つか越えていると聞いていたが、七十を過ぎた老人にしか見えなかった。
 辛毗と郭奕は拝礼した。
「献帝陛下から儂に勅が下ったのだな」
 諸葛亮は口元を少し上げ、ゆっくりと玉座の風体をした椅子に腰を下ろした。そして楊儀から書簡を渡されるなり大笑した。
「この様な偽書に頼るとは、司馬懿殿もなかなか窮されていると見えるな。流石に今回は自分の息子を使者に出すことはできなかったか」
 焦ることはない。諸葛亮は揺さぶりをかけているだけだ。口には出せないが、郭奕は心の中で辛毗に向けてそう念じた。
「何故、偽書だと思われますか」
「本物だと断定できるところがない。この印が証だと言うのだろうが、こんなものはいくらでもつくれる」
「献帝陛下は、魏国に幽閉されておいででした。できることは誠に限られていたのです」
「そなたはその魏国の臣ではないか。それが献帝陛下の勅令を持ってきたなどと、信用できるはずがなかろう」
 諸葛亮はもういいと言う風に腰を上げた。周囲から鳥肌が立つほどの殺気が一気に湧きあがった。
「献帝陛下は、半年ほど前にこの世からお隠れになりました」
 辛毗が叫ぶようにして言った。諸葛亮の足が止まった。
「献帝陛下は蜀国のことを、諸葛亮殿のことを存じ上げておられた。漢のために戦う諸葛亮殿のことを、真の忠臣であると思っておられた。献帝陛下から諸葛亮殿へ遺言があって何の不思議がありますでしょうか。遺言に目をお通しください。私を弑するのは、それからになさい」
 腹の底から出された辛毗のその声は、幕舎の外にいる者にまで聞こえただろう。その気迫が心を揺らしたのか、外に聞かれたのを無視できないと思ったのか、諸葛亮は楊儀に書簡の封を開けるよう命じた。そして中のものに目を通し始めた。全てに目を通すと、鋭い視線を辛毗に向けて言った。
「ここには漢の臣に対する言葉があるだけだ。儂への遺言はない」
「諸葛亮殿は私の言葉をお疑いです。私は敵方であるので、それは当然のことでしょう。先ずは私の言葉の裏をおとり下さい。疑いを持つ者に、この大事な言葉を渡すことはできません」
 郭奕は諸葛亮をじっと見た。動揺の色はない。或いは心の中を上手く隠している。
「しかし解せん。魏の臣であるそなたがどうして漢の使者になることができるのか。司馬懿殿はどうしてそれを許せるのか」
「漢は、私の生まれ故郷でもあるのです。司馬懿殿にとっても同様です。国が変わろうとも、そこはどうしても変わらないものです。この気持ちは諸葛亮殿になら理解してもらえることだと思います」
「ならば何故、魏の臣に甘んじているのか」
「魏にも民の暮らしがあり、民の幸せがあります。その魏の民は我らと同じく、かつては漢の民であったのです。その民を守る者は漢を知る者でなければなりません。魏の臣が皆、漢の遺産を食い潰しているというわけではないのです」
「しかし食い潰そうとする者もいる」
「残念ながら、います。しかしそういう者は、どこにでもいるものです。大事なことは、そうした良からぬ者と戦う人物がきちんといるかということです。司馬懿殿は間違いなく、良からぬ者と戦う側の人間です」
 諸葛亮は書簡に目を落としてしばらく考え、羽扇で口許を隠して楊儀に何か耳打ちをした。そして楊儀が姿を消すと、周囲から忍びの気配が消えていった。
「行け、辛毗。そなたの言の裏が取れればまた呼ぶことにしよう。司馬懿殿に、戦はこれで終わるわけではないと伝えておけ」
 辛毗はそれに深々と頭を下げた。
 ここで死ぬことはなさそうだった。諸葛亮の言葉で天禄隊が矛を収めたのだ。
 出口で待っていた費禕に促され幕舎を出ようとした時、郭奕は振り返って諸葛亮の顔を見た。やはり顔色に変化はない。あの皺だらけの顔の下で諸葛亮は何を考えているのか、郭奕には全く読めなかった。
武功水へと戻る間、忍びの気配はあったが、それに害意は感じられなかった。
 策に帝を用いることに、郭奕は疑念を持っていた。倫理的な疑念ではない。帝を使うことで本当に効果を上げることができるのかという疑念だ。いくら口で漢王朝の復興を叫んでも、いざとなれば戦に勝つため、容易に無視することもできるはずだ。
 しかし諸葛亮はそれを無視しなかった。もっと言えば、司馬懿は諸葛亮がそれを無視しないと読んでいた。
 郭奕は小舟で武功水を渡りながら、何か不思議なものに触れたという気になっていた。

王平伝⑥

最終更新日2015.8.7

王平伝⑥

時は西暦231年。蜀軍と魏軍は天水で対峙していた。大軍同士で互いに動けぬ中、王平が蜀軍兵糧庫に奇襲をかけてきた張郃を討ち取った。これを機に魏延が総攻撃を唱え、総帥諸葛亮はついにそれを許す。漢王朝の復興をかけた戦いがいよいよ大詰めに入る。

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted