少女牧場の秘密
プロローグ 病室の秘事
和泉京介は病室から窓の外を眺めていた。サッカーの練習試合で半月板を傷めた彼は、自らが通う医学部の病院に入院させられている。検査の結果は悪くなく、半月板縫合という措置で様子を見ることになった。前十字靱帯の損傷も疑われたが、こちらは自然に治癒すると考えられる。
学部の学生だった京介は、教授陣に呼ばれて時折この病院まで来ることがあった。
その時には、この建物を将来の職場としか見ることがなかった。
ところが、こうやって自分が患者としてベッドに寝ているといろいろなことが気にかかる。
外の音が案外うるさいので、安静が必要な患者にとっては落ち着けないはずだ。それに、いまどき地上波のテレビしか見られないなんて考えられない。おかげでずいぶんと退屈な時間をすごすはめになった。
何度も読んで飽き飽きしてしまった新聞をベッドサイドに放り投げ、京介はまた何度も読んだ恋人からの携帯メールを眺めた。この四月から急接近した長谷川珠子が「今日はお見舞いに行くよ!」という短いメールを送ってきていた。
珠子とは脳解剖学の実習から仲良くなったんだな、と漠然と回想する。
その日の解剖学実習室はエアコンの調子が悪くて蒸し暑かった。薬品の香りにむせながら立ちっぱなしの作業に疲れ果てた頃、珠子は「ねえ、お腹すかない?」と話しかけてきた。だいたい解剖学の実習でヘコむのは男子学生で、女子学生はそれほどでもないと相場が決まっている。眼球を切り取る作業に集中していた京介としては空腹どころではなかったが、同期の中でも話題になっていた珠子の誘いを断るのはもったいない。
その夜、ふたりで学生街の居酒屋に行き、日本酒を飲みながら話をした。サラリーマン家庭で育った京介と違って、珠子は江戸時代から続く医者の家系で育った、いわばサラブレッドだった。背が高くて派手な美人タイプの珠子は、勉強もできて気が強くて高嶺の花タイプとして男子学生の人気を集めていた。だが意外にも「ずっと彼氏もいないのよ」と彼女は言った。京介は話に夢中になって、何度も日本酒をおかわりした。
店を出る頃から、ほとんど記憶が定かではない。
ただ、道を歩きながらずっと珠子の話を聞いていた記憶がある。
そして朝、珠子の部屋で目が覚めた。京介は家に帰らず、洋服も着替えずに授業に出席した。それがきっかけで、今ふたりはつきあっている。初めてのお泊まりから三カ月目。一番いい時期といってもいいが、珠子はなかなか見舞いに来てくれなかった。医学生は結構忙しいので、それも仕方ないと思う。
やっと、来てくれるのか。
小説か雑誌か、とにかく時間をつぶせる物を持ってきてくれればいいのだけれど……。
そう考えていた時、カーテンが風で揺れたような気がした。
振り向くと、小さな影がするりとすべり込んできた。
「京介さん、今から少し検査をしますよ」
何度か見かけた小柄なナースだった。
彼女が近づくと石けんかシャンプーの清潔なにおいがした。京介は、小さな白い手が鞄をあけて、中から薄いピンクのパッケージを取り出す様子を眺めた。
「漆原先生直々のご指名で、今日はあたしがお世話させていただきます」
小さく頭を下げ、二重のきれいな目にいたずらっぽい笑顔を浮かべる。
「何の検査ですか」
京介は訪ねた。医学的な知識はある程度備わっているので、取り急ぎ必要な検査はない……と薄々は理解している。そもそもたいした怪我でもない。
それが、診療科長の漆原教授直々のご指名とはどういうことだろう?
「こちらの検査です……」
ナースはパジャマの上から京介の股間にそっと手をやった。
「えっ」
そのまま、ぞくっとするような柔らかな手つきでそっとペニスを撫でる。
「ちょっと、待って……」
思わず大きな声を出した京介の唇に、彼女はそっと人差し指を押し当てて「ほかのお部屋の患者さんに聞こえますよ」と笑顔で言った。
「あの……」
「何ですか?」
「あなたの名前、僕には難しくて読めないんだけど…」
「ああ」
と彼女は胸元の名札に視線を走らせた。伊良皆、とかかれている。
「私、『いらみな』といいます。沖縄の名前なんです。伊良皆はるかです」
そう話す間も、はるかの手は柔らかな手つきで京介の股間に触れ続ける。ペニスだけではなく、太股の内側、足の付け根といった敏感な部分を羽のように軽く愛撫する。さざ波のような快感が、京介を満たしていった。
「腰を上げてくださいね」
京介には事態が飲み込めないが、あらがうことはできなかった。
はるかはパジャマを膝のあたりまでおろし、京介の股間をあらわにする。そして亀頭の裏側に唇をはわせた。
最初は刷毛のように軽く、繊細に、京介の敏感な部分を次々に唇で刺激していく。
勤務中のナースらしく、はるかは髪を後ろできっちりと束ねていた。そのおかげで京介には、はるかが自分のペニスをていねいに舐める様子がよく見えた。白い歯の間から小さく舌を出して、睾丸から亀頭へと、ツーっとすべらせていく。京介の尿管から、早くも粘液質の液体があふれはじめた。
はるかはそのカウパー液を、小さな舌先で亀頭全体にそっと広げる。
京介は痛いくらい勃起していた。
「京介さん、かわいい」
なぜか嬉しそうにほほえんで、白衣を脱ぎ、シャツのボタンをはずし始めた。白い肌が少しずつ露わになっていく。薄い花柄模様の入ったブラをはずすと、もぎたての白桃のようになめらかな乳房が露わになった。ピンク色に透き通った乳首を取り巻く乳輪は少女のように小さかった。小さな白いショーツだけを残して裸になると、はるかは京介のパジャマのズボンを脱がせ、両足を軽く開かせる。
ふたたび、彼女の舌が京介のペニスの上をすべった。ほどなく、唇をすぼめて亀頭に軽くキスして、それからまた舌先で尿道を軽くかき分けるようにチロチロと刺激する。
すべてはナースらしい優しい仕草で、そして的確だった。
すでに、京介は怒張していた。苦しいほどの快感が満ちてくる。
はるかは容赦なく攻め続けた。
ペニスの根元をそっと手で支えて、亀頭を口に含むと同時に、舌とのどを使ってキュッと刺激を与え、次の瞬間にはまた舌先で尿道を優しくかき分ける。
十五分か、あるいはもっとながく、はるかの一方的な奉仕が続いた。彼女はやがてショーツを脱いで全裸になり、京介のパジャマのボタンをすべてはずした。
「脱ぎましょうね」
京介にバンザイの格好をさせ、シャツと一緒に脱がせてしまう。そして、自ら肌を合わせてきた。
京介はその細い背中を思わず抱きしめた。
なめらかで傷ひとつない肌の上で手を滑らせていく。くびれたウエストから一転して、腰には思わぬボリュームがあり、その先の太股の内側へと手を滑らせていくとはるかは小さな声を漏らした。さらりと乾いた肌の感触は、ヴァギナへ近づくにつれて湿り気を帯びていく。
京介の中指が股間の奥深くへとたどり着いた。はるかの膣口はすでに濡れて、暖かいバターのように、なめらかに指を吸い込んでいく。
「うっ」
今度はもう少し大きな声が漏れた。
「しっ!」
京介ははるかの唇に人差し指をあてる。「他の患者さんに聞かれるよ」
「キスしてください」
と、はるかは押し殺した声で答えた。
口紅を落としてもなおあざやかな薄桃色の唇の間に、京介の舌が割って入る。唇の裏側、歯の裏側を舐めてそのまま舌を絡める。舌と舌が生き物のように絡み合う。その間も、京介ははるかのヴァギナを刺激し続けた。
京介の右手中指は正確にはるかの小隠唇をなぞっていく。時間をかけて愛液をあふれさせ、円を描くようにクリトリスを刺激し始めると、はるかは時折我慢できずに声を上げた。「うっ」「はぁ……」といううめき声を、京介は自らの唇でふさぐ。
その度にはるかは背中を弓のように曲げ、強く唇をとじて快感を受け止める。
愛液が指の関節を伝って滴るほどにあふれ出すと、おもむろにはるかの両足を開かせ、少女のように薄い茂みが作る影に顔を近づけた。
そしてていねいに小隠唇の内側に舌をはわせ、それからクリトリスを舌先で押すように刺激する。
ピンクの包皮に覆われた小さなクリトリスを指で剥き出しにして、そこに舌を這わせる。はるかの反応を探りながら、彼女がもっとも感じる責め方をさがしていく。
はるかは、クリトリスを尿道側から舐めあげるような刺激に、ビクンと大きな反応を示した。腰を細かくふるわせ、押し殺しながらも声を漏らし、京介の左腕をぎゅっと握りしめている。
たっぷりと時間をかけてはるかを責めた後、京介はいつの間にか自分のペニスにコンドームがかぶせられているのに気づいた。
「入れていいんですよ」
はるかはいたずらっぽい目で笑った。
京介ははるかの体を大きく開かせ、怒張したペニスでそれを貫いていく。身長百五十センチを切る小柄な身体は、するりと京介を迎え入れた後、奥の方からぎゅっと締め付けてきた。膣全体が京介のペニスに絡みつくように、収縮と弛緩を繰り返す。まるで生き物のように京介を締め付け、ぴったりと貼りつき、より奥深くへと吸い込もうとする。
京介は、ピストン運動をする前から射精してしまいそうな快感を感じていた。
名器だ。
腕枕をするようにはるかの頭を抱きかかえ、もう一方の手で乳房を揉みしだきながら京介は思った。
はるかは目を閉じ、わずかに口を開いて身体の奥深くに京介を迎え入れている。頬がピンクに染まり、快感が彼女を襲っていることを示していた。
京介がゆっくりとペニスを引き抜き、ふたたび外陰唇をかき分けながらぬるりと奥深くまではるかの身体を貫く。彼女は耐えきれないように腰を押し付けてきた。また、吸いつくように京介のペニスが刺激される。はるかの膣はひくひくと京介を締め付け、すーっと弛緩する動きを繰り返した。
やがてコリコリと固くなった乳首を口に含みながら、京介はゆっくりとしたピストン運動を開始した。
「うっ」と思わず声をあげて、はるかは恥骨を押し付けるように腰を突き出した。京介はその腰を抱きかかえ、より強くクリトリスを刺激する角度を計算して自らの腰を押し付けていく。はるかは、早くも絶頂に近づきつつあった。
イクかイカないか。
ぎりぎりのところで、京介は意地悪く腰の動きを止める。
乳頭、脇の下、腰と、あらゆる敏感な部分を唇と舌で刺激しながら、京介ははるかの絶頂をコントロールする。おかげで、はるかはずっと、しびれるような快感の中にいた。
「もう、イカせて」
消え入るような声ではるかが懇願すると、京介はふたたび彼女の身体を奥深くまで貫き、リズミカルに腰を使い始めた。はるかはどこか遠いところへ落ちていきそうな激しい快楽の中で、思わずベッドの鉄パイプを握りしめた。ギシ、ギシ、ギシとベッドがきしむ。
桜色に染まった頬。きれいに整った眉。透き通るような白い肌。
首筋をしめらせた汗のせいで、数本の後れ毛が貼りついている。
成熟した身体は二十代半ばのように思えるが、その顔は幼さを残し、京介にはまだ十代のようにも見える。
美しいふたえの目を閉じ、濡れた唇から白い歯をほんの少しだけのぞかせて、はるかは快楽にあえいでいた。
「お願い、もうイカせてください」
懇願は哀願に変わった。
京介は腰の動きをどんどん速めていく。
時に子宮を貫くように深く、時に亀頭でGスポットをこすり上げるように浅く速く。
はるかにはもう、周囲がまったく見えていない。
ただ快楽だけが身体に満ちていた。
まるで麻薬を打たれたような恍惚感がすべてを支配している。
「あっ。あ…」
もう自分をコントロールできなくなり、あえぎ声を抑えることができなくなる。
京介はリズミカルに腰を動かしながら、はるかの腰を抱えて膣内の敏感なポイントを次々と刺激していく。角度を変え、より大きな絶頂へと導くスポットを探しだした。はるかのあらゆる性感帯は男の責めを敏感に受け止め、貪欲に快楽をむさぼっていく。
彼女なら、「幻」とまでいわれるポルチオ性感帯でも、京介の肉体を受け止めることができるかも知れない。医学的にみて膣そのものは決して敏感な器官ではなく、その奥に露出する子宮口も鈍感な器官だといわれている。だが、ペニスによるダイレクトな子宮口への刺激は、その感覚に目覚めた時に圧倒的な快楽を生み出すともいわれる。難易度は高いが、今のはるかなら受け止めるだろう。
京介は自らのペニスを、はるかの体からずっぽりと抜き出した。
そして、はるかの両足を大きく開かせて自らの肩の上に乗せ、枕を腰の下にあてがった。
はるかの身体はいっそう大きく開かれ、京介に向って腰を突き出す姿勢で、たっぷりと濡れた性器を露出させている。京介は張り裂けそうに怒張するペニスでその性器をふたたび貫く。
はるかの小柄な身体を刺し通したペニスの先が、コリコリとした子宮口を刺激した。
子宮を通してあらゆる性感帯へと電撃が走る。乳首は赤みを増して痛いくらいに膨張していた。背中と腰の性感帯には同時に火花のような快感が走り、タイミングよく京介の恥骨が圧迫を加えたクリトリスからは波のような快感が全身へと走り続けた。
彼女は、今まさに新たな性感帯を開発されていた。
京介のペニスは、子宮をダイレクトに刺激し続ける。
その時、はるかの中でスイッチが入った。
彼女は一匹の動物のように求めていた。
京介の精液を受け入れる!
太古の営みのように激しく、はるかは京介の精液を受け入れようとしていた。
「あっ、いっ……いく!」
自らも京介の動きに呼応して腰を振りながら、はるかはついに絶頂を迎えた。
同時に、京介も限界に達していた。
永遠に続きそうな長い快感とともに、これまで経験したことのないような大量のザーメンが、京介のペニスから放たれた。
ふたりはしばらく動くこともできなかった。
ただ、荒い呼吸をつづけながら、京介はぐったりと力を失ったはるかの身体を抱いていた。
三分か五分が経過した頃だろうか。
「あっ」
何かを思い出したように、はるかが上半身を起こす。
彼女の膣の中にあった京介のペニスが、にゅるりと膣口から出てきた。
「忘れてた!」
はるかはベッドサイドの手提げカバンから、白いプラスチックの容器を取り出した。
京介のペニスからコンドームを器用に引きはがし、根元をきゅっと縛ってプラスチック容器の中におさめる。
そして京介をあおむけに寝かせて、ザーメンに濡れたペニスを愛おしそうに舌で舐めた。
「お掃除しますね」
射精の後、敏感になったペニスをはるかの舌はいとおしそうになぞっていく。京介はまた力強く勃起していく。しかし……
「あたし、もう行かなきゃ。この検体を漆原教授に渡さないといけないんです」
はるかはそそくさとブラをつけ、シャツを着て白衣をまとった。
「検体? 漆原教授がそれを分析するの?」
「そう。あたしはこの検体を採取しに来たんですよ」
ヘンタイ教授と呼ばれる漆原の姿を、京介は思い浮かべた。
もっとも、漆原がヘンタイと呼ばれるのは、ひとえに産婦人科に命をかける一途な生き様のせいだ。
漆原教授は帝国学院大学でも産婦人科の第一人者と目され、研究に命をささげる男といわれている。ぼさぼさの髪や不精ひげに覆われた頬が、どことなくマッドサイエンティストを思わせることから、『ヘンタイ』の称号を与えられることになった訳だ。
学部長の柳原教授に加えて漆原教授までが絡んでいるとすると、この件は全学部規模で行われる何かの実験かも知れない。
「漆原先生は、何の分析を?」
「それはわたしも聞いていません。ただ、あなたの精子を採取して、あなたのセックステクニックを確認してくるように言われたんです」
「セックステクニック?」
「合格です」
「合格?」
「そう、すごいテクニック。あたしもう、メロメロです」
伊良皆はるかは、恥ずかしそうに言った。
そして、大切な検体をていねいな手つきでバッグにしまい、
「あたし、京介さんの大ファンになりました」
そういって頭を下げ、来た時と同じくカーテンの隙間をするりと通り抜けて消えて行った。
あとには、静寂が残される。
京介は広い病室にぽつんと取り残され、「俺は何に巻き込まれてるんだ?」と自問した。
*
その日の夕方。
「よう」
と病室のカーテンを開け放つ男がいた。
京介と同じくサッカー部に所属する柳原悠斗だった。相変わらずグレーのパンツにブレザーまで着こんでいる。育ちの良さそうなトラッドファッションは、この男によく似合っていた。
悠斗は京介の胸に茶封筒をポンと載せ、
「合格だったぜ」
と笑顔で言った。
「合格?」
「そう。テクニックも合格。そしてお前の精子は健康そのものだ」
「それ、どういうことだよ?」
「後でゆっくり話すよ。それより、その封筒の中の航空券で沖縄へ来いよ。夏休みのバイトが待ってるぜ」
「聞いてないぜ、そんな話。それにサッカー部の練習があるから無理だろ」
「大丈夫。サッカー部にはお前が半月板損傷で夏の間練習できないって診断書を送っといた」
「ちょっと待て。病理学総論の演習も始まるんだ」
「知ってる。だが担当は漆原教授だ」
「で?」
「お前だけ9月に受講できる」
「マジかよ」
「マジだ」
「で、何のバイトなんだ?」
「法学部きっての秀才といわれる俺の口からは、それは言えないな」
悠斗は意地悪く笑った。
「自分の口から秀才って、よくいえるよな」
だが、悠斗に限っては、そういうことを言い放っても嫌味には聞こえない。
「天才って言わないところがミソだろ。努力してるからな、これでも」
「確かにそこは認めるよ。けど、沖縄行きってどういう……」
「だから、あとでゆっくり話すよ。那覇空港に着いたら迎えの車が待ってる。運転手は『和泉様』と書いたカードを持ってるから、そいつについていけばいい。現地で詳しい話が聞けるさ」
言いたいことを言うと、悠斗はさっさと病室を後にした。
取り残された京介の姿を、夕日がオレンジ色に照らしだす。結局のところ珠子は来なかったが、今日はおかげで助かった。はるかと鉢合わせなんてしたら、おそらく珠子は血が出るまで殴り続けるだろう。「しかも、俺じゃなくはるかを……」と京介は嫌な光景を脳裏に浮かべた。
「だが、その時俺はどっちの味方をすればいい?」
簡単に結論を出す自信はない。
「いや、ちょっと待てよ」
京介は携帯のメール着信ランプが点滅していることに気がついた。今も時代にあらがってガラケーを愛用している。
二つ折りの電話機を開くと、「件名:見たわよ」というメールが届いていた。
『病院でセックスするなんて信じられないわよ最低。誰よあの女? 今度私の前に現れたら、あの女の顔の形が変わるまで殴るわよ。以上。』
送信者の欄に珠子の名前を確認し、パタリと携帯を閉じる。
見なかったことにできないか? ま、それは無理だろうが、どうやって事態を収拾すればいいんだろうか? 薄暗くなっていく部屋の中で呆然とたたずむ。さっきまで暑苦しかった室内が、やけに寒々と感じられた。
和泉京介の多難な夏は、こんな風に幕を開けたのだった。
第1章 少女牧場へようこそ
羽田から那覇への航空便は、十三時三十分発予定だった。
まだ余裕がある。
和泉京介は十二時の時報を聞きながらコーヒーを沸かしていた。ひと月ほどのアルバイト期間に必要な着替えや雑貨は、スーツケースに詰め込んである。パンパンに膨らんだそのスーツケースは、1LDKの玄関脇で彼を待っていた。いつでも出発オーケーだ。
殺風景なアパートのリビングには大きな本棚がどんと居座り、本棚とキッチンの間の狭いスペースで京介はつつましく暮らしている。
小さな丸いテーブルと二脚の椅子。
ほとんどこの周辺が京介の生活エリアで、寝るときは奥の四畳半の部屋に引っこむ。
本棚には医学書を中心に、ジャンルを問わない雑多な書物が並んでいた。
キッチンの調理器具や食器はきっちりと並べられ、シンク内はいつも清潔に保たれていた。
あまり几帳面ではない京介が部屋を整頓しておけるのは、ひとり暮らしが好きでそれを楽しんでいるからだろう。時々自炊して新しいレシピに挑戦したり、ホーローのやかんで時間をかけてコーヒーをドリップするのが、ささやかな楽しみだった。
京介は沸騰したお湯をドリッパーに注ぎながら、ちらりと窓の外に目をやった。
今、京介がなんとなく落ち着かないのは、昨夜遅く届いた珠子のメールのせいだった。
「明日は空港まで送って行くから、必ず待ってなさい」
就寝前に携帯を見るとそんなメールが届いていた。はるかを抱いて以来、珠子とは顔を合わせて話をしていない。
電話では何度も責められたが、ここ数日は連絡も途絶え、なんとなく不気味な沈黙が続いていた。
それが、なぜ?
どういう話になるにせよ、なぜこの忙しいタイミングで珠子に責められなければならないのかと思うと気が重かった。
だが、身から出た錆でもある。
れっきとした彼女がありながら、病室のベッドではるかを抱いてしまった責任は放棄できないだろう。
ドリッパーの中でふっくらと蒸されたコーヒー豆に、器用な手つきでコポコポとお湯を注ぐ。
コーヒーの香りがふんわりと室内に漂い、雰囲気が少し明るくなった。
京介は冷蔵庫から泉屋のクッキーをふたつ取り出してオーブントースターで温めた。
ドリップが終わり、マグカップに注ぐ。
小さな丸テーブルの前に腰かけてコーヒーをひとくち味見して、クッキーに手を伸ばしたその時、
「お嬢様、お待ちください!」
という声が遠くで聞こえ、ガツガツと安普請の階段を上ってくる足音が聞こえ、ガチャガチャと鍵をあける音が聞こえた。クッキーから目を離して顔をあげると、仁王立ちの珠子がそこにいた。
「君のコーヒーも入ってるよ」
と言ってみたが、珠子はそれに答えず京介の向かいの椅子をガバッと音を立てて引き、そこに腰かけた。
「和泉君、沖縄くんだりまで何のアルバイトに行くの?」
「言ったじゃないか、悠斗に頼まれたんだ」
「答になってないわよ。何のアルバイトに行くの?」
「詳しくは聞いていないんだ」
「嘘よ」
珠子はハンドバッグから数枚の書類を取り出した。
「沖縄にはうちの大学の研究施設があるわ。漆原教授が夏になると必ず行ってる。研究内容は秘密。そして夏休みにはうちの大学の男子大学生が何名か呼ばれて行く。女子学生は絶対に呼ばれない。そして、帰ってきた学生が現地での話を漏らしたことはないわ。すべて秘密。何もかも秘密。どういうことなの?」
「な、何の話だよ?」
「しらばっくれないで。これ、本当にアルバイトなの?」
「そうだよ。悠斗はそう言ったぜ」
「嘘よ。悠斗君は私が電話をかけても取らない。メールも返さない。完全に避けてるわ。何か裏があるはずよ」
その時、誰かがおずおずとドアをノックした。
「お嬢様、時間がありませんが……」
「うるさいわね、もう少し下で待ってなさい!」
ドアの隙間から顔をのぞかせた男は、登場した時と同じくおっかなびっくりで退いていった。だが、その身なりは立派なものだ。京介の部屋の安っぽいドアには似合わないイメージの、パリッとした白いシャツに蝶ネクタイをしていた。
「今の誰?」
「私の運転手よ。そんなことより、百歩譲ってこれが『アルバイト』だとして、何か相当複雑な仕掛けがあって、相当特殊だと思うんだけど?」
「考えすぎじゃないかな?」
珠子は疑わしげな視線で京介の目を覗き込んだ。まるで携帯に届いたスパムメールをチェックしているような目つきだった。
重苦しい沈黙が数十秒間続く。
いいかげん呼吸困難で倒れそうなタイミングで、
「いいわ」
と珠子は口を開いた。
「その代り、私も行くわ。今週はパパが自家用機を使ってるからダメだけど、来週か再来週には必ず行くから覚悟しといて」
そう言い捨てると珠子は立ち上がり、
「じゃぁ出かけるわよ。空港まで送るから、荷物持って降りてきて」
と、振り返りもせずに言った。予想の範囲内だが、かなり怒っている。
京介は火の元の点検をして、窓の鍵をチェックして、それからスーツケースを持って階段を下りた。
先ほどの、立派な身なりの運転手がトランクに荷物を放り込んでくれた。
京急沿線のごちゃごちゃとした街には似合わないクジラのようにでかいメルセデスだった。京介が珠子の隣に座ると、運転手が見事な手つきでドアを閉めてくれた。
エンジンがかかっているのかいないのか、よくわからないくらい静かな車内でも珠子の一方的な攻撃が続いていた。
「それからあの泥棒猫。まさか、まだ付き合ってないでしょうね?」
「泥棒猫?」
「看護婦よ。和泉君が病室でヤってた」
「あ、あれは」
「あれは何なのよ?」
京介は窓の外に視線を泳がせる。あれは検査だ。だけど、そんな話が通用する訳がない。言うべきか、それとも言わない方がまだマシなのか?
国道十五号を滑るように進んでいくメルセデスの中で、京介は苦しい二者択一を迫られていた。
「……あれは検査だって」
「なわけないでしょ! 和泉君、私とあの泥棒猫と、どっちを取るわけ? 私を取ったら将来安泰なのはわかってるでしょ? どんだけの医者が開業できなくて苦しんでるか、知らないわけないよね? 私の旦那になったら、そんなの一発解決じゃない。こんな条件のいい女の子が浮気をされたにもかかわらずチャンスを与えてるわけよ。あなたに。それ、わかってるの? わかっててそんなフザケたこといってるの?」
珠子は腕を組んだまま、鼻から強い圧力で息を吐き出した。
溜息というより、もっと怒りを含んだねちっこい空気を長々と吐き出す。
「これ以上わたしをバカにしたら、ただじゃおかないから」
そういうと、珠子は顔をそむけた。メルセデスの窓から見える風景は、国道沿いの汚い建物とあまり繁盛していなさそうな商店と、歩道橋。自由の女神を模した像が屋上に乗っかっているラブホテルも視界に飛び込んだ。
「杉村!」
珠子が運転席に向って怒鳴った。
「これじゃ飛行機に間に合わないじゃない」
「大丈夫でございますお嬢様。ここからは意外と空港まで近いので」
「そう。わかったけど、遅れたらあんたクビよ」
「心得ております」
杉村と呼ばれた運転手は、川崎市役所付近を右折し、首都高速の下を走る産業道路方面へとメルセデスを走らせた。図体のデカい車なのに軽々と車線を変更して、ほかの自動車をひらりと追い越して行く。
そして車窓には、相変わらず景気のよさそうではない町並みがあらわれては消えていく。
「そうだ」
と、珠子は京介を振り返った。
「あの看護婦についても調べさせてもらったわ。ちょうど一年ほど前、ほかの学生ともヤってるわよ。興信所に証拠も出させてるから間違いない。あんな股のゆるい女のどこがいいわけ?」
京介は黙って珠子の怒りが静まるのを待つ作戦に出た。
「今回だけは犬にかまれたと思って見逃してあげるから、これ以上わたしをがっかりさせないでよね」
重苦しい雰囲気の中、ふと前方に目をやった京介はルームミラーに映る杉村運転手に気付いた。鏡の中で目と目が合うと、杉村は「ご苦労様です」と言いたげな風情で片目をつぶった。
*
帝国エアライン3945便が那覇空港に到着したのは、予定時刻の午後三時五十五分きっかりだった。
針の筵のメルセデス車内ですっかり疲れてしまった京介は、フライトの間よく眠っていた。
一度目を覚ますと『お休み中でしたのでお声をおかけしていません。お客様のお飲み物がご用意できておりますので、お気軽にお申し付けください』という紙が目の前に貼り付けてあった。
それを読んだ次の瞬間、京介はまた眠りにおち、次に目覚めたのは内耳に気圧の違和感を感じた時だった。
飛行機はすぐに着陸し、滑走路から駐機位置へとタキシングする。
機体がスムーズに停止し、乗客は立ち上がり、空港の長い廊下を歩いてバゲージクレームへと向かって歩いた。
ところどころにハイビスカスをあしらった南国らしい空港を、京介は人々の流れに乗っててくてくと歩く。
その時、京介はひとりの少女に呼び止められた。
「お兄ちゃん?」
目立たない白系のチュニックを着て、革のサンダルをはき、小さなカバンを手に持った女の子が京介を見つめていた。
年齢は十代半ばだろうか。
「お兄ちゃん、生きてたの?」
淡い茶色系の瞳がじっと京介を見つめ続けている。
ややあって間違いに気づいたらしく、両手を口にあてて小さな悲鳴をあげた。
「ごめんなさい!」
と頭を下げて駆け去る後ろ姿を京介は呆然と見送る。そそっかしい性格なのだろう。どことなく慌てた後ろ姿は廊下の突き当たりを左折して、すぐに遠くへ消えていった。
それ以外にはトラブルらしいトラブルもなく、無事にスーツケースを受け取り、出口の自動ドアを通り抜けると、「和泉様」のプラカードはすぐに見つかった。Tシャツにジーンズ姿の伊良皆はるかが笑顔でカードを掲げていた。
「君だったの!?」
驚きを隠せずにそう呼びかけた京介だったが、思わず後ろを振り返る。
はるかにとっては天敵の、珠子がいないか確かめずにはいられなかった。
そして、はるかとの再会を喜んでいる自分を発見した。
亜熱帯の濃密な空気に包まれ、京介は自然と笑顔になっていた。
*
荷物を詰め込んだスーツケースを赤い軽自動車のトランクに積み込み、京介は助手席に座った。車は那覇空港の駐車場を出た後、モノレールの軌道下をしばらく走り、それから国道を南へ向けて走った。
窓の外は神奈川県のすすけた感じの街並みからかけ離れていた。鮮やかなブルーの空と椰子の並木と頭上を飛ぶ航空自衛隊のF15戦闘機。日本というより海外に近い独特の風景だった。
そしてここが伊良皆はるかのふるさとでもあった。京介は初めてみる沖縄に、すでに軽いカルチャーショックを受けていた。
街路樹の椰子並木、海の彼方まで続く白いリーフ、強烈に降り注ぐ太陽。植物も本土では見かけない色鮮やかな物が多く、ハイビスカスが当たり前のように咲き乱れている。一般家庭の庭先にバナナ、パパイヤ、ドラゴンフルーツが大きな実をつけている。道路脇ではアイスクリームを売る少女たちがパラソルの日陰に座っていた。
「あたし、京介さんの担当を志願したんです」
前を見つめて運転をしながら、はるかはそう言った。
「どっちにしても夏はこちらの施設に詰めることになっていたんですが、どうしても京介さんのお世話をしたかったので、漆原教授に無理やりお願いして……」
そういえば、と京介は疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「悠斗から具体的な話を全然聞いていないんだけど、どんな仕事をするんだろう?」
「えっ」
はるかは驚いたように京介を見つめた。
その時自動車は海沿いにできたばかりのバイパスをまっすぐに進んでいた。
「いや危ないから前を見て」
「はい。でも京介さん、何も聞かずに来たんですか」
「うん。全然」
「じゃ、やっぱりあたしが担当になってよかったです。京介さんの身になにかあったら、あたしが守りますから」
「ま、守る!?」
はるかの瞳には強い光が宿っていた。
思わず、珠子の言葉を思い出す。「よほど特殊な仕事ではないのか?」という彼女の推測は当たっているのかもしれない。
海の上を走るバイパスの勾配がきつくなり、まるで空へ飛び立つような角度でクルマは走り続けていた。
はるかの小さな自動車はうなるようなエンジン音を上げながら、懸命に坂道を上っていく。
「京介さん、ファームに着いたら施設の案内をかねて、お仕事の内容を詳しく説明しますね」
「ファーム?」
「そうです。あたしたちがこの夏を過ごす施設を、みんなはそう呼んでいます」
「牧場、ということ?」
「そうです。別名『少女牧場』とも……。詳しいことは現地を見ながら、スケジュールを含めてお話ししないとわかりにくいと思うので、到着したらご説明します。それまでは……京介さんとのドライブを、ちょっとだけ楽しんでもいいですか?」
「もちろん」
と答えながらも、京介の胸には不安が渦巻いていた。
……少女牧場、だって?
一方、京介が見つめるはるかの横顔には笑顔が戻っていた。
小さくて、献身的で、かわいくて、床上手。それ以外に望むべきことがあるだろうか?
京介の心は、このナースへと傾きつつある。
それに、珠子は今のところ遠い彼方にいる。
「京介さん」
はるかが呼びかけた。
「この先に小さなビーチがあって、いちど京介さんと行ってみたかったの」
「いいね。僕も行ってみたい」
「そこで少し、お話ししていいですか?」
「喜んで」
京介の心からの言葉だった。だが、はるかは答えた。
「京介さん、今の彼女を大事にしてあげてくださいね。あたしは、京介さんの彼女になろうなんて思ってないし、ほんとはとっても汚れた女なの。だから、ずっと京介さんを見守っているだけ」
虚を突かれた。
「知ってたの、珠子のこと…」
「もちろん。知らない人はいませんよ」
「そうか…」
「大事にしてあげてください」
「でも、どうして?」
「それは……」
はるかは少し言いよどみ、そして続けた。
「あたしは、セックスの調教開発訓練や、特殊な技能の訓練を受けて、汚れた世界のお仕事をしてきたの。あたしの体は汚れている。京介さんにはふさわしくないし、京介さんの将来を邪魔したくないの。ビーチの木陰で、そのことをお話しします」
京介が知らなかった、はるかのなかの強さや暗さ、宿命のようなものが、その言葉の響きに感じられた。
その後聞こえるのはただ、急勾配の一本道を走る自動車の排気音。
クーラーの効いた室内から見える、真っ青な空と真っ白な雲は、目に痛いほど鮮やかだった。
高く飛ぶ大きな鳥は、バリ島で見たものと同じだろうか。
そして、咲き乱れる赤い花と濃い緑の木々。
非現実的な世界で、京介は知らない時代にきてしまったような気がした。未来でもない、過去でもない。だけど、二一世紀の現在にはあり得ない現実感。
この小さな、か細い女の子は、いったい何をされてきたんだ? 何を経験してきたんだ?
その答は、青い海を眺めながらはるかが語った話にすべて詰め込まれていた。
はるかの運転するクルマは、青い海の上を走るバイパスをはずれ、小さな農道にさしかかった。
道路の両脇にはサトウキビの葉が染みるように鮮やかな緑に輝いている。風が渡ると、その葉が波のように揺れた。
「この先に、あたしの大好きなビーチがあります。地元の人しか知らない小さな浜辺で、お店も何もないの。子供たちが遊んでるだけ。そこでぼーっとしていると、何時間でも何時間でも海を眺めていられて、いやなことも忘れられるんです。そこで、あたしの話を聞いてください」
京介ははるかの横顔を見つめ、そしてうなずいた。
第2章 はるかの告白
田舎の看護学校を卒業して帝国学院大学医学部付属病院に採用された頃、目に映るすべての物に圧倒されていました。
東京の人ごみや満員電車。
どんなお店でもそろっている、渋谷や新宿や銀座の街並み。
食べたこともないような、おいしい料理を出すレストランの数々。
あたしは田舎からぽっと出てきて、友達もなく、不安のまっただ中にいたの。
そして、どんなに理不尽なことも「東京ではこれが普通なんだ」って受け入れていったの。
大学病院の建物も、見たこともないくらい巨大な建築物で、その中に毎日吸い込まれていく職員が数えきれないくらいたくさんいて、その中の一人であることが不思議な感覚でした。就職以来、覚えることが多すぎて、毎日があっという間に過ぎ去りました。
街の桜が散った頃、同期採用のナース十二名は漆原教授の研究室に集められました。新人ナースを被検体とした実験が毎年行われていて、それは国の予算も付いた、ちゃんとした研究なんです。
あたしたちはまず、処女と被処女に組み分けされました。数少ない処女組にはあたしと、北海道から来た綾ちゃんと、秋田県から来たまりちゃんがいました。三人はみんなと離れた独身寮で暮らしながら、一カ月間の訓練を受けることになりました。
それは漆原教授がライフワークとしている研究のデータをとるための実験でした。
女性の性感の開発がテーマで、国からは少子化対策の一環として、かなりの税金が投入されていました。
だから、あたしたちの部屋はちょっと広くて立派でした。
病院の敷地のはずれにたっている小さな三階建てのアパートで、各フロアは一部屋ずつなの。一階がまりちゃんで、二階があたしで、三階が綾ちゃんでした。お部屋は一人暮らしには広すぎるくらい。2LDKで、立派なキッチンもついていて、新婚さんが暮らせるくらいのお部屋でした。壁やドアの作りもしっかりしていて、上の階の音が伝わってきたり、外の音がうるさくて眠れないということもありませんでした。
昔からあんまりお部屋に物を置くのが好きじゃなかったし、キャラクター物とかは苦手だったので、古道具屋さんで見つけてきたアンティークのテーブルと椅子と、小さなタンスだけを置いたお部屋で、あたしは「性感帯の開発と調教訓練」というのを受けることになっていました。最初に何日間か「性感帯の開発訓練」というのを受けて、その後何日間か「調教訓練」というのを受けます。その繰り返しで、ひと月にわたって、あたしは何人もの男の人に犯され、調教されていきました。
あたしたちには詳しい日程は知らされていなくて、ただスタートする日時だけは伝えられていました。
もちろんお仕事も続けながら訓練を受けたのですが、あたしたちは夜勤を免除されて、ずっと昼勤だけだったし、あんまり大変な仕事も回ってこないの。その点は優遇されているなと感じました。
いよいよその日の朝。あたしたち三人はいつもどおり出勤しました。
もうだいぶおなじみになった、アルコールの清潔な香りが迎えてくれました。
いつもと同じ一日の始まりでした。
いつも通り朝一番のカンファレンスが始まる前に白衣に着替えて、先輩ナースといっしょに担当予定の患者さんのカルテに目を通しました。もちろん、まだ患者さんを任されているわけではなくて、先輩の後ろにくっついていくだけです。三人はそれぞれの病棟で、いつも通りの仕事を淡々とこなしました。ただ、これまでは任されていた経管栄養の準備や点滴の準備といった作業は、「きょうはやらなくていいわよ」とナースマネージャーがいいました。マネージャーはあたしたちがうわの空で仕事をしていることを知っているみたいでした。また、今夜何が行われるのかも知っているみたいでした。
その日は、従業員食堂でお昼御飯を食べたことを覚えています。
なんだか、これが最期の食事みたいな気がしたの。
午後の仕事もうわの空でした。
研修生たちから「鬼のチェックナース」と呼ばれている先輩ナースが、何度もやさしい言葉をかけてくれました。おかげで少し気分が楽になりました。
仕事を終えて軽めの夕食をすませ、新しい下着を身につけてお気に入りの椅子に座ってじっと何かを待っていました。動きやすい服装にしなさい、といわれていたので、少しサイズが大きなパジャマを着ていました。緊張で自分の心臓がドキドキと音をたてているのがわかりました。
あたし、男の子とキスしたこともなかったの。
だから、これから何が起こるのかはまったく見当もつかなくて、ただ時計の針が午後九時に近づいて行くのを見守っていました。
その男の人は、午後九時の時報が鳴る瞬間に、完璧なタイミングでうちのチャイムを鳴らしました。ドアは開けておくようにといわれていたので、最初から鍵は開いていました。あたしはその人が入ってくるのをじっと待っていました。
中肉中背で、あんまり特徴のない人だったけど、嫌悪感を抱かせることもなく印象の薄い人でした。
彼は病院でお薬を出す紙袋を持っていて、その中から取り出したカプセルを差し出しました。
薄いブルーと白のカプセル。後で知ったけれど、それは漆原教授が帝国薬品株式会社と共同で開発した強力な催淫剤だったの。そんなことも知らずにあたしはグラスの水でその薬を飲み込み、それからしばらくの間、また黙って座っていました。そのお薬はノルアドレナリンやセロトニンといったホルモンの働きを強制的に変化させて、女の子をセックスマシンに変えてしまうものでした。効き目はすぐに現れて、あたしは我慢できなくなっていきました。
でも処女だから、自分が何をしたいかわからないの。
だんだんと落ち着かない気持ちになっていって、椅子から立ち上がりたい衝動が起こりました。
お部屋の中を見渡して、あたしは助けを求めようとしました。でも、何から助かりたいかもわからなくて、ただただ不安がこみ上げてきました。室内はいつもと変わりなく、でもその時見上げた天井の隅に黒く光る物を見つけました。カメラのレンズみたいに見えました。
本能が警告を発しました。私は撮影されている!
でも何もできないの。膝の力が抜けて、好きでもない目の前の男の人に抱きしめられたい気持ちがこみ上げてきました。
あたしはずっと椅子の上で体を硬くして息を潜めていました。どうすればいいのか全然わかりませんでした。
気がつくと、ヴァギナから漏れ出した液体が、じっとりと下着を濡らしていました。ぞうきんだったら絞れるくらい濡れていて、とっても苦しかった。男はあたしのパジャマを脱がせて、ブラジャーとショーツをはぎ取りました。
そしてあたしは、お気に入りの真鍮のベッドの上に押し倒されました。
男は強引にあたしの両脚を開かせて、いきり立ったペニスをいきなり挿入してきました。最低な、動物以下のセックスだったけど、あたしのヴァギナからはぽたぽたと愛液がしたたるようにこぼれていて、男のペニスはするりと入ってきました。すごく硬くて熱い何かが、あたしの膣の奥の奥まで押し入ってきました。男のペニスは重たいバットで殴るように重々しく何度も何度も体の中を貫きました。最初からドン、ドンと男のペニスが身体の奥深くを突き上げてきて、自分がばらばらになりそうでした。
頭では悲しくって、涙が出てきました。
でも体は男の奴隷みたいに動いて、両脚を大きく開いて男を受け入れ続けました。
一度男のペニスが引き抜かれた時、あたしの膣全体がひくひくと痙攣しながら「もっと」と男を求めました。
男はあたしをベッドの上でうつぶせに寝かせて、ぴったりと両脚を閉じさせました。
それから男はあたしの上に乗り、自分の両膝であたしの両方の太ももを挟み込みました。おしりの割れ目にペニスをあてがい、そのペニスの先でぬるぬるとあたしのヴァギナを探っていきました。一度男はそれを見失い、ペニスは誤ってアナルに押し付けられ、それからまた外陰唇へと下っていき、再び濡れて開いた小陰唇を探り当てました。亀頭はそこで一刹那、動きを止めました。まるで獲物を狙う肉食動物が狙いを定めたようでした。
そのまま、あたしは背後から犯されました。
衝撃が走りました。
両脚を閉じた姿勢では膣も膣口も閉まっていて、そこに大きくて硬い男の人のペニスが押し込まれるの。強引に、あたしの体を引き裂くように刺し貫いていくその熱い塊は、完全に理性を消し去ってしまいました。
自分が何かを叫んだことは覚えています。でも、何を叫んだかはわかりません。
両手でシーツをつかんでひたすら耐え続けました。
お気に入りの枕を、自分の唾液がべとべとに濡らしていました。
いつかテレビで見た海驢のように、あたしは何度も頭をそらせて悶えていました。
唇からあふれる唾液と、膣口からしたたる愛液にまみれて、息ができなくなりました。
何度も何度も何度もイカされて、でも果てしなく続くの。
最後に、男は後背位であたしを刺し貫きながら、股の間に手を回してクリトリスを刺激し始めました。もう膝ががくがくして、腰には全く力が入りませんでした。それなのにあたしはまた絶頂へと上り詰めようとしていました。
あたしが喉の奥から声をあげてのぼり詰めるのと同時に、男も短く声をあげて射精しました。
男の精液が身体のなかにどくどくと流れ込み、それが子宮に当たる感覚を感じながらベッドに崩れ落ちました。熱いペニスよりももっと熱い液体の塊が、膣の奥でびゅんと動いて子宮口に突き当り広がりました。やがてその強烈な感覚はうっすらと引いていき、肩で息をしながらあえいでいると、膣口と小陰唇のあたりにおもらしのような、どろりとした何かがあふれ出してきました。それは体外へと逆流した男の精液でした。あたしのヴァギナからとろとろと吐き出された精液は、恥丘を伝って陰毛を濡らし、お気に入りのシーツに黒い染みを作りました。
長い間、動くこともできませんでした。
男はいつの間にか、来た時と同じく無言で帰っていました。
あたしはずっと泣いていました。
体中に力が入らなくて、お風呂まで歩いて行くのも大変な作業でした。
誰も服を着せてくれませんでした。
虚無感の中で、なんとか両手をついてベッドから起き上がり、壁を伝って歩きました。お風呂までのたった五メートルを進むのに、長い時間がかかりました。
浴槽の栓をしてお湯の蛇口をひねり、シャワーヘッドにつかまって立ち上がりました。鏡の中のあたしは、昨日までの自分と変わらないように見えました。でも、何かが変わっていました。眼の中の光が、昔のように明るくはなくて、人間の性の悲しさを知りました。
お湯がたまるまで、寒い浴室で茫然と立ち尽くしました。
そして温かいお湯につかり、あたしはもう一度泣きました。
これが、あたしの初体験です。
もちろん、これが国家的なプロジェクトの一端であり、重要な実験であることは理解していました。だから翌日もその次の日も、いつも通り出勤し、帰宅した後は訓練を続けました。
後から知ったことですが、性感開発訓練のプログラムは最低最悪な状況からスタートして、徐々にセックスへのイメージを回復していき、最後に女性としての本当の歓びを知るというプロセスを踏んでいくらしいの。だからこの後は少しずつ人間らしい扱いを受けるようになりました。交互に行われた「調教訓練」については、もう少し意外な展開になりました。
訓練の2週間目が調教訓練の開始日にあたっていました。
その日もまた、新しい下着とゆったり目のパジャマを着て部屋で息を潜めていました。
午後九時ちょうど。ドアのチャイムを鳴らさずに、誰かがしんと静まりかえった部屋に入ってきました。
あたしは顔を上げ、玄関に立つその人を見て不思議に思いました。きれいなお姉さんだったの。
すらっと背が高くて痩せていて、髪は長くて、うらやましいくらいスマートな感じでした。しかも「この人、見たことがある」とあたしは感じていました。どこかで、何度か見たことがある。でも思い出せない。
その女性は、じっとあたしを見つめていました。
何か心の奥底を読み取られているようで、目をそらしたい衝動に駆られました。
でも目をそらすことができないの。
その人は美しく、ふんわりと上品なパフュームの香りが漂ってきました。
それはムスクやシベット、アンバーグリスのような性的な何かを思い起こさせる香りでした。でも、そのどれとも違うの。その香りは私を不安にさせると同時に、病的に惹きつける力を持っていました。私はこの人にコントロールされたいって、ふと思ったの。
まだ赤ちゃんだったころにお母さんにむしゃぶりついていった時のように保護されたい……それだけじゃなくて、牝としてこの人に命令されたいという服従欲がとっても強くわいてきて、奴隷のように額づきたいと思いました。
そしてすでに、あたしのヴァギナは暖かく濡れはじめていました。
一週間の訓練で、あたしの中の性的な抑制力は完全にオフになっていたんだと思います。
すぐに息苦しくなってきて、胸のあたりがきゅっと締め付けられるような感覚を覚えました。
この美しい女性があたしの体に何をするのか。本当だったら怖くて当然なのに、その時は怖さよりもうっとりとした気持ちになって、あたしの視線はずっと彼女に吸いつけられていました。
それは時間が止まったような、不思議な感覚でした。
彼女は静かに、あたしを見つめていました。
その目はあたしの外側にある、いつも身につけている鎧や仮面を取り払い、あたしの肌を刺すように鋭く、そしてしんと静かな力をもっていました。体じゃなく心を裸にされ、支配されてしまいそうな、抗いがたい強さを備えていました。その場に跪き、理由もなく許しを乞いたくなるような、絶対的な正義を備えているようにも思えました。
彼女はやがて静かに立ち上がりました。
その時わかったの。あの人だって。
テレビや雑誌に時々出ている、美人ニューハーフの絵里香さん。本物は画面で見るよりももっと美しく、自分が醜くてちっぽけな存在に思えて、その場で溶けて消えてしまいたくなりました。
絵里香さんはじっとあたしを見下ろし、それからあたしのあごを持ち上げて、ぐっと上を向かせました。
瞳には青白い炎のような力強さが宿っていて、その目を見ていると体中の力が抜けていきました。ものすごい呪力のような何かが体中を支配し、自由がきかなくなり、ただ聴覚や視覚だけが研ぎ澄まされていきました。
彼女はあたしのパジャマを脱がせて、下着だけの姿でその場に立たせました。さらさらとした木綿の肌触り。きていたパジャマを脱ぎ、部屋の空気に肌を晒すと、胸の奥に不安感が沸いてきました。
「目を閉じて、ゆっくりと呼吸をして」
絵里香さんの静かな声には不思議な力があって、あたしは自然に目を閉じてゆっくりと大きく呼吸をしていました。彼女は音もなく近づいてきて、背中のブラのホックを外しました。あたしは目を閉じたまま、彼女の指先が背中から首筋へと移動していくのを感じていました。指先の感触はかすかなものでしたが、やがて鎖骨へとさしかかった時にはどんなに堪えようと思ってもあえぎ声を止められませんでした。
「私はあなたの体を知っているわ」
絵里香さんか確信に満ちた声で言いました。
「あなたの本当の心も知ってる」
絵里香さんの一言一言があたしに突き刺さりました。それは真実であり彼女はあたしのすべてを知っていると思いました。今はそうでもないけど、それから長い間、絵里香さんに支配されたいって言う気持ちが心の奥底にあったの。すべてを否定されたい。本当にやるべきことを命令されたい。何もかもいうがままに従って、楽になりたいって思ったの。そしたら、救われるような気がしたの。
「ショーツを脱いで。足を開いて立ちなさい」
絵里香さんは静かに命令しました。
あたしの心臓はどくどくと音を立てて、これから行われる何かを待ち構えました。
少し腰をかがめて、この日のために買っておいた真新しいショーツを脱いで足元にはらりと落として全裸になりました。すると絵里香さんはあたしの後ろに回り、お尻の割れ目からツツッと指をすべらせていきました。
絵里香さんの親指にはよくすべるなめらかなローションが塗られていて、足を開いて立つあたしの肛門にゆっくりと、ゆっくりと滑り込んできました。あたしは声を押し殺して息をひそめました。なぜか、涙があふれました。
「あなたがうらやましいわ」
と、絵里香さんはつぶやくように言いました。
「女の子の肛門は、うすい膣壁だけをへだてて、膣と連動しているのよ。括約筋がこのふたつをつなぎ、ふたつの性感帯を同時に興奮状態にさせる。膣とアナルと。そして、あなたは今日、アナルの快感を知るわ」
そういうと、今度はあたしのヴァギナに、ぬるりと人差し指を滑り込ませました。そして、肛門に挿入した親指とヴァギナに挿入した人差し指で、膣壁をつまむようにゆっくりと力を加えていきました。
肛門と膣を同時に刺激されたことで、あたしの中のふたつの性感帯が共鳴しあいました。
絵里香さんの美しい指があたしの体の中をきゅっと締め付け、そして緩み……波のように繰り返し、彼女はふたつの性感帯への刺激を続けました。絵里香さんの指に締め付けられている瞬間、あたしは大きな手に体全体を締め付けられたようにくるおしく悶えました。
小さいころ、うんちを我慢したことはありますよね? その時の懐かしい感じに少しだけ似ています。でも、ぜんぜん違うの。もっと深い快感が下半身全体を包んでいくの。熱く、強く、あたしを狂わせるように。
最初、絵里香さんはアナルに挿入した親指のほうを主に動かして、あたしの膣壁や肛門の括約筋をじわじわと刺激していきました。あたしは立っていたけれど、膝に力が入らなくて、なぜか「ごめんなさい」と何度も謝っていました。
一週間の訓練であたしの性感は完全に開発されていたから、あっというまにヴァギナから暖かい液体がしたたり落ちました。まるでよだれを流すみたいに、あたしの膣はぬるぬるとした液体を流し続けていました。自分自身のはしたない姿に、あたしはまたむせるように熱い快感を感じていました。もしかしたら古代の人々は、こんな風にむき出しの自分自身の性欲に従って生きていたんじゃないかと思います。あたしの体全体がひとつの大きな器官になったような、すべてが性感帯になったような感覚でした。
そして、普段はナース服やすました笑顔の下に隠されている、動物としての自分が目覚めていきました。あたしはまた一匹の牝として部屋の真ん中に立ちつくし、絵里香さんの愛撫を受け、膣口から白濁した液体をしたたらせながら、強烈な快感に支配されていました。わずかに残った理性も、遠くかすむように麻痺していきました。
絵里香さんはころあいを見て、中指を使ってあたしのクリトリスを軽く刺激しはじめました。人差し指はあたしのスキーン腺、俗に言うGスポットを探っていました。知っていると思うけど、女の子がここを刺激されるとオスの精液を受け入れるために体が強く反応するの。あたしはこの時、通常よりもずっと野生に近い性欲を開放されていたから、その反応が急激に起こりました。
はっきりとわかるくらい子宮が収縮し、固く勃起したペニスを膣にぎゅうぎゅうに挿入されるイメージが心を支配しました。「入れてください!」と、あたしは心の底で叫んでいました。絵里香さんのおちんちんを、あたしの膣に入れてほしいとずっと思っていた。だけど、絵里香さんは意地悪く、ただあたしのアナルを刺激し続けるの。狂いそうな快感であたしの体を満たし続けるの。
この時ほど濃密に、犯されたい! と思ったことはないけれど、結局この日絵里香さんがあたしを犯すことはありませんでした。
彼女はがくがくと震えるあたしの頭をなで、
「四つんばいになりなさい」
と、静かに命じました。
あたしはまず冷たい床に膝をつき、それから両手を突いて犬のような姿で彼女の次の言葉を待ちました。
「足を開きなさい」
命じられることがうれしくて、あたしは従順に両足を広げ、肛門と膣口を突き出すような姿勢でさらに待ちました。
絵里香さんはあたしの背後にしゃがみ、お尻や太ももを濡らしつくした愛液をタオルでふき取ってくれました。
それから、何か大きくて固いものが、あたしのアナルにゆっくりと押し込まれました。
冷たくて固くて大きな何か。
あたしは、思わず声を漏らしました。肛門から直腸へ達した、その固いものの圧力を感じました。
「あなたは今日から、このアナルプラグをしたまま生活しなさい」と、絵里香さんは静かに言いました。
アナルプラグはあたしの膣壁に刺激を与え、あたしはまた快感に満たされていました。
「はい」と、搾り出すように答えるあたしに、「これはまだ小さいほうなのよ」と、絵里香さんは言いました。
「毎日、少しずつ大きなアナルプラグに取り替えていくわ。最終目標をクリアしたら、ご褒美をあげる」
絵里香さんのご褒美が何を意味するのか、あたしにははっきりとわかりました。
絵里香さんの怒張したペニスがあたしのアナルを刺し貫き、何度も何度もイカされているイメージが脳裏にはっきりと浮かびました。もし本当の犬だったら、ちぎれるくらい尻尾を振って絵里香さんの顔を舐め回していたと思うわ。だけど、あたしには尻尾のかわりにアナルプラグの取っ手がお尻からはえているの。ペットか家畜みたいな惨めな姿で絵里香さんの言葉に従っている自分が、なぜかうれしかったのを覚えています。
だからあたしは小さな声で「はい」と言って、絵里香さんのすべての言葉を受け入れることにしました。
*
「もうやめよう!」
京介は思わずはるかの肩を抱き叫んでいた。
ビニール製のビーチボールで草サッカーをしていた子供たちがきょとんとした目でこっちを見ている。京介はそんなことにはおかまいなく、はるかの唇にそっとキスをした。この小さな体に、人にはいえないいくつもの責め苦を与えられて、それでも純粋な気持ちを失っていない。
それだけで十分だ。
京介はそう思い、はるかをもう一度抱きしめた。
ビーチの木陰にはずっと風が吹いていた。
南国の風景にはあざやかな原色が点在し、京介は小学校の時に買ってもらった二十四色の水彩絵の具を思い出した。セルリアンブルーという絵の具を何に使うのか悩んだ覚えがあるが、目の前の海の色はそれに近い。真っ白な入道雲が柱のように何本も立ち上がり、巨神兵の群のように見えた。
はるかは黙って全身の力を抜き、ただ京介に身を任せていた。
「でも、自分が不幸だと思ってるわけじゃないんですよ」
はるかは言った。
「日本の周辺国家でも、人間のもつセックス能力を活用して軍事や産業、人口問題のコントロールに取り組むところが増えています。中国では小愛のように房中術を身につけた女性産業スパイを育成していますし、ベトナム軍の女性特殊部隊も有名です。彼女達は全裸で中国人民解放軍を惑わせて、油断したところを攻撃する任務を遂行したんですよ。あたしたちのような実験も、誰かがやらないといけないわけですから」
「でも、何も君がやらなくても…」
「そう思うことはあります。でも考えてももうしかたのないことですから」
そうなのか……。はるかの明るさに少しだけ救われた気がした。
二人が座っている東屋のベンチにハマヒヨドリがとまった。手を伸ばせば触れられるところまで近づいてきて、首を傾げる仕草で食べ物をねだっている。のどかな南の島の動物は人間に対する警戒心を忘れているようだ。
はるかにも、そんな所がある。
漆原教授たちも彼女の純粋さを利用して計画に巻き込んだのだろう。
だが彼女が言うように、今さら過去について考えても仕方がない。そのかわり、これからは自分が彼女を守ってあげることができたら……。
もちろん、口に出して言う資格はまだないということは、京介にもはっきりとわかっている。目の前のしがらみをすべて片づけないと何の資格もない。珠子との事をどうするかという問題も、そのひとつだ。
「京介さん、とっても大切なものを預かってください」
その時はるかが言った。
ポケットから小さな首飾りを取り出し、手のひらに載せて見せる。インターロッキングペンダントによく似ているが、ブランド名は刻印されておらず、その代わりに超小型の有機ELディスプレーが埋め込まれていた。
26.133643, 127.650456
そこには意味不明の数字が羅列されている。
数字はかすかに読み取れるくらいの細かいフォントで、うっすらと光を放っている。
「このペンダントを受け取ってくれた男性に、あたしはずっとついていくことになっているの」
弱い西風がやみ、南風(ハエ)と呼ばれる一陣の強風が吹き抜ける。はるかは乱れた髪にかまわず、京介の手にペンダントをそっと包ませた。そして、ひとつ大きな仕事を片づけた晴れやかな笑顔で、
「晩ご飯の時間までに、のんびりドライブで帰りましょう!」
くるりと背を向けて歩きだした。
京介はふと思う。
俺は彼女が背負うものの本当の重みをまだ知らない。彼女が語ったことが全てではなく、もっと大きな何かがあると感じる。遠ざかるこの小さな背中を俺はどこまで追いかけ、どこまで守ってやるべきなのか? あるいは俺にそんな能力があるのだろうか?
はるかは立ち止まり、振り返って言った。
「とにかく、歩き出しましょう」
そうだな、と京介は思う。
この先へ歩き出さないとわからない。
そして答は自分で探すしかない。
東屋の日陰を出て、京介は午後五時をまわってもまばゆい南国の太陽の下へ一歩踏み出した。
第3章 約束
はるかの赤い軽自動車は、椰子の木が並ぶ国道をさらに南へと走り続けた。
背の高いビルは姿を消し、森とサトウキビ畑とまばらに点在する住宅、時々垣間見える青い海が視界を流れては消えていく。
少女牧場の秘密