ホラーです。

 目を覚ましたのは病室だった。
薄暗い蛍光灯の明かりがチカチカと不規則に灯っている。
白い壁と消毒液の匂いでここが病院だと分かった。
そこには僕の顔を覗き込む顔、顔、顔。
暫く動かさなかった体は「動け」と命令を阻止するかのように、動くのを躊躇っていた。そして左手だけが従順になり、ようやく顔に手を当て、「眩しい」と言うジェスチャーをした。
荏原(えばら)さん。気づきましたか」
看護士が僕の行動を見て、顔を近づけ、名前を呼ぶと、奥の方で待機していたスーツ姿の男が2人やってきて、何やら先生と話をし始めた。おそらく刑事であろう。そんな出で立ちと雰囲気。
「すこしなら」と医者の合意を得て刑事たちがやってきた。
「荏原さんですね」
二人の男がおもむろにスーツの内ポケットを探り警察手帳を取り出した。一人は初老の刑事。一人は若い刑事。若いと言ってももう30は過ぎているだろう。
「船橋東警察の(さかき)です。こっちは三方(みかた)です」と老刑事が三方を指さす。三方と言われた刑事も軽く会釈をする。
「で・・・一つお聞きしたことがあるんですがねぇ」と老刑事が続けるその目はどこか死んだ魚の目をしていた。
「なんでしょうか。その前になんで僕・・・ここに居るのかすら、わかりませんけど」
僕はなぜここに居るのすら思い出せないでいるので、刑事の質問そう答えた。医者は頭を傾げ、腕を組む。
「荏原さん。いいですか。あなたはマンションから転落してここに居るんです」三方が見かねてそう言うと
「そうなんですか」と少し驚き答える。僕は頭の中で「記憶」と言う箱からガサゴソと手を入れ記憶の断片を拾い上げる作業をしていた。だけどその欠片はどこにもない。僕が少し戸惑っていると、
「あなた。田喜野井マンションに住んでいますよね。そこから落ちたのです。時間は午後8時過ぎに近所の方から通報がありました。」
三方が淡々と事件?事故の真相を語る。
「あ!はい・・・。あの日私、ベランダでタバコを吸っていたんです。そしたら急に目の前が暗くなり、気づいたらここに・・・」
三方の話を聞いて、記憶の断片をようやく拾い上げ、叫ぶように言った
「ほう。たばこですか」
「そうです。タバコ吸っていました」
初老の刑事が若い刑事に何やら合図をして病室から出ていった、
「では。もう少し質問しますけどいいですか」
「はい」
「では。あなたは韮澤(にらさわ)恵子さんをご存知ですか」
初めて聞く名前だ。まったく僕の記憶には引っかからない。
僕は首を傾げていると、
「韮澤さんはあなたと同じマンションの1208号室に住んでましてねぇ。ああ・・・ちょうどあなたの住む708号室とは真上に当たりますね」
と言われても、僕には皆目見当がつかない。第一、隣近所にだれが住んでいるのかすら、知らないのに、突然上に住む住人を聞かれてもわかるはずもない。
「まったくご存じないと?」
疑惑の念が老刑事の目から伝わる。
「ええ。わかりません」
この刑事は何を聞いているのか。そして僕に何を言わせたいのか。そればかり気にとられる。そして僕は何をしたんだ。落ちた事で僕の知らない、いや、思い出せない事をやってしまったのかと思った。だけど、そんな見ず知らずの女性になにをするのだ。だから僕は少し嫌な顔をして
「なにかおかしなことでもあるんですか」と老刑事に負けないよう虚勢を張った。
「あのですね。荏原さん。あなただけが転落してここに居るのなら、私たちだってこんなに苦労はしません。私たちはなぜ、韮澤さんとあなた、荏原さんが同じ場所で同時にそこで倒れていたのかって事なんです。おかしいですよね。同時刻に同じマンションで同じ所で転落事故なんて」
と僕の虚勢など全く意味をなさないその冷静な口調で僕は少し馬鹿らしくなった。目を閉じてその馬鹿らしさを反省していると、急にまた記憶の断片が記憶の箱から飛び出してきた
 あの日、僕はベランダでタバコを吸っていた。
賃貸マンションのため、ヤニで部屋が汚れるのが嫌だった。
だからタバコはいつもベランダで吸っていた。
その日もいつものように、タバコをふかして、悦に入っていると。上方から急に悲鳴が聞こえたと思ったら黒い何かに落ちてきた。その黒い物体は僕にぶつかり、そのまま黒い物体もろとも落ちたのだ。
「その黒い何かねぇ」と僕は刑事にそのことを告げると腕を組んで考え始める。しばしの沈黙が気まずい雰囲気を作るのはごくごく当たり前のことだ。僕はその気まずさから脱するため、ひとつ咳払いをした。
「その黒い何かって言うのが韮澤さんでしてねぇ」
老刑事はそれを待っていたかのように、畳みかけるように顔を近づける。
「じゃあ。僕はその韮澤さんでしたっけ?その人の転落事故に巻き込まれたってわけですね」
「それだけだったら私たちだって苦労はしないんです。単なる自殺した韮澤さんに巻き込まれた運の悪い人って言うだけでカタが付きますからね」と訝しい顔をして僕を見る
「カタがつくって・・・」
そう言われ、少し呆れ声で言うと
「失敬。言葉が過ぎましたね。お気を悪くしたら謝ります。ただね・・・少々、おかしな事があるんですよ」
「おかしなことですか。僕は嘘なんてついてませんよ」
「ほう」
榊はそういうとまた黙りこんで病室の窓を眺めはじめた。僕から何かを言わそうとして沈黙を続ける。僕も見覚えのない言われもないのだからその沈黙の勝負を続けた。
「じゃあ。この腕の手形はなんですかね」
榊は窓の外から僕の方へ向き、おもむろに僕の腕を掴みあげた。
そこには5本の指の形をした青あざがくっきりと浮かび上がっていた。そして、そのあげられた腕が思いのほか、痛みが走り「ウッ」と声を上げた。今の僕は体を思うように動かせない。言葉に出すだけで精いっぱいだ。それを見た医者が、
「今日はこれくらいにしてください」と僕と刑事に割って入った。老刑事はこれからなのにと言わんばかりに不敵な笑みを僕に浮かべ、
「じゃあ。また明日来ますんで。先生、ちゃんと治療よろしくお願いがしますよ」と高笑いをし、不気味な笑顔で病室を出て行った。
刑事がいなくなると、病室は先ほどと打って変わり清潔感が漂。医者とナースが僕の襟元と布団を直すと、
「お大事に」とやさしい声をかけられ、出て行った。
ここから静寂の時間が始まる。
ベッドに横たわる僕は天井のシミを見ながら、ここに至るまで事を思い出そうとしていた。
思い出そうとすると、中々で出てこない記憶の断片。もがけばもがくほど記憶と言うおもちゃ箱の中に隠れていく。それに、体は思うように動かず、かろうじて左手だけが何とか動かせるこの状態。このまま半身不随のままだったらどうしようと余計な事を考え始めると、泣きたくなり、その涙で記憶がかすんでいくように思えた。
ひとまず頭を整理した。
僕はタバコを吸い。黒い物が落ちてくる記憶が間違いなのかそれだけを頭の中で何度も再生してみた。タバコそして黒い物。ただそれだけを繰り返した。何度か目の再生をしていた時、脳の一部が開いたかのように明るい記憶が蘇ってきた。
あの時、髪の長い女性が僕の目の前を通り過ぎた。そして僕と確かに目が合ったことを。
「うわあああ」思わず僕は声をあげた。
嫌なものを思い出してしまった気がした。そういえば彼女は今どうしているか気になった。僕が巻き込まれることによってそれがクッションになって助かってくれるといいなと思ったが、次の日その淡い希望はあの榊と言う老刑事の一言で露となって消えた。彼女は即死だったみたいだ。
目が覚めてから初めての就寝。不安と恐怖が僕を襲う。
目を閉じると上階から落ちてくる女性がフラッシュバックとなって何度も再生される。そのたびに目を開け、僕は冷や汗をかく。ようやく眠りに就いたのはもうすでに朝日が空ける少し手前の灰色の空だった。
 それなのに、朝から人の事を気にしない人種がやってきた。
「おはようございます。どうですか。眠れましたか」
今寝たところですと言いたいところだったが、あまり反抗的態度を取っても特はしない。
「まあ。グッスリではなかったですが、眠れました」
「そうですか」と僕の目の上のクマを見て、寝てないんだろと言いたげだった。そして僕を朝から追い込むようにさらに、
「昨日質問ですが・・・・このあざは何でしょうね」
僕の腕を昨日とは違い、今日は優しく取り上る。
確かに手で捕まれたような青あざは不気味だ。まったく覚えのないあざ。痛みだけがそれの存在を知らしめる。
「僕にもわかりません」
「そうですか。手の大きさから韮澤さんの手と大きさが一緒なのがわかっているんですけどねぇ。それでもわからないとおっしゃいますか?」
とまるでその韮澤さんに何かをしたとでも言う疑いの目で僕を見る
「僕が何をしたって言うんですか」
声を荒げ、わずかな抵抗をする。
「じゃあ。ずばり言いましょう。このあざは彼女を殺そうとして抵抗されてできた物なんじゃないんですか」とにじり寄る
「しりませんよ。そんな事」と声をさらに荒げるとその途端、僕の頭から刺々しい痛みが襲いかかる。目前が真っ暗になる。
「おい。どうした」と遠くの方で榊の声が聞こえる。
「大丈夫ですか」と医者の微かに聞こえる声が僕の意識をかろうじて現に残している。だが、それもやがて暗闇の中へと消えていった。
 暗闇になった頭の中はやがて映画館のスクリーンのようなものが映し出された。これが夢なのか何なのか、わからない。だけどそこに映し出された色あせた映像は5年前の飛び込み自殺に出くわした時の記憶だった。
その日、早出残業をしなくてはいけなく、早めの時間に駅のホームで立っていた。
さすがに朝は、人がまばらで、混んでいる電車しか乗ったことがない僕には少し新鮮だった。そんなの時、ホームに電車が近づくアナウンスが流れ始め、ホームより少し前にでた。別にでなくてもいいのだが、なんとなく癖でそうしてしまった。
しばらくすると電車がホームに入ってくる。すると、横から一人の女性がスーっと現れ今にも電車に飛び込もうとしている。
「危ない」と思わず、彼女の手を取り、引き寄せようとしたが、彼女の体はホームへと吸い込まれる。僕も一緒に体を持って行かれたが、ホーム下に落ちる寸前に電車のボディに叩きつけられ、僕だけはホームに残った。
それは一瞬の事だった。
電車のブレーキ音が鳴り止むとあちこちから悲鳴が鳴り響く。僕は起き上がり、手に温かい何かが流れるのを見て、慌てて手からある物を放した。先ほどまで生きていた彼女の手だ。手はまるでそれだけで生命の営みをしているかのように手の甲を上にしていた。それは今にも指だけで歩き出すようであった。
 そして、映像はここで終わり、僕はまた暗闇の中へと戻される
「大丈夫ですか。荏原さん・・・」
僕はこのナースの優しい声で真っ暗な心の中から生還した。
体中からは汗が吹き出し、グッタリとする。
「今日はもうお休みになってください」
左腕から脈を取り、そしてと腕を布団にしまった。
「あの・・・警察の人は?」まだ疲れた声で言うと
「ああ・・・帰ったみたいですね」
大した時間が経っていないと思っていたが、外はすでに薄暗かった。
ナースは僕を蘇生するために使ったであろう器具を片付けながら僕に微笑み、病室を出た。
その日の夜、僕はやはり眠れずにいた。不自由な体。右の腕は全く動かない。おそらくこのままであろうと覚悟は決めていたが、僕は悔しくてならなかった。瞳の奥から熱い物を感じる。
そしてそれに触れる事すらできない自分が嫌でならなかった。
どうしてこうなったのかを何度も考えた。そして頭を整理した。
彼女は僕と目が合った。その時彼女は僕の腕を掴んだと榊は言う。
それが本当だったら彼女は死にたくなかったのかもしれない。
そして僕と目が合い、藁をもつかむ想いで僕の腕にしがみついたのなら、その想いに報いることができなかった僕は何だかやるせない気持ちになった。

誰だって生きていたいのだ。だたどこかで死に急ぎたくなる衝動が誰しもある。それをどこかで制御しブレーキを掛けながら生きているのだ。そして、ふと、そのブレーキを緩め、そのまま死へダイブするのを2度も目のあたりにしたのだ。そして僕はまた明け方眠ることになった。
 次の日も榊は現れ、僕を何度も問い詰めた。
何を言っても信じてくれないこう言った人種には。ひたすら貝になるしかなかった。
目を瞑り、その瞼の裏から映し出されるフラッシュバックを何度も繰り返す。何度目かの再生であることに気付く。
ベランダからの悲鳴が何かのうめき声に聞こえるのだ。
何度も何度も頭の中で再生をする。頭の中のイヤホンを研ぎ澄ます。
そしてようやく聞こえた。それはやがてはっきりと聞こえる。
「テオカエセ」
その言葉の意味が理解できるまでに時間がかかった。
「手を返せ」
僕はパッと目を開けるとそこには榊が僕を見ていた。
「お目覚めですか」と嫌味っぽく言う榊にうんざりしていた。
今、僕が思い出したことを言ったところで何も信じてはくれないだろうから言わなかった。
「厭な夢でも見ましたかねぇ」としつこく僕に何かを引き出そうとする。
そんな時、病室の戸を叩く音が聞こえ、僕は少しほっとした。少しでもこの嫌な間を壊してくれるノックの音が神様の計らいに見えた。そしてそれが本当の意味での神様の計らいになるとは・・・。戸を叩いて、開けて現れたのは刑事で、榊に、なにやら、耳打ちをする。
「ホントか」と聞こえた気がした。
「はい」その刑事はと僕に一礼をして、外に出ると、榊はなんだか気まずそうな顔をして
「すみませんでした。あの・・・・」と頭を搔いていた。
「どうしたんですか。もしかして僕の疑い晴れたんですね」
「まあ・・・そんなところです。まあ。また何かありましたらまた訊きに来ますけど、お気を悪くしないでください。申し訳ありませんでした」と頭を深々と下げ病室から姿を消した。
「よかったですね」と刑事がいなくってすぐに声を上げたのがナースだった。
「はい」僕も素直に答える。
ようやく容疑が晴れた。だけど僕の心は曇ったままだ。「手を返せ」とはどういう事なんだ。皆目見当がつかない。
 そこへ医者がやってきて僕の目を見る。
「これでリハビリに専念できますね。」と僕の胸に聴診器をあてる。
「そうですね。ホントよかったです」
「もう少し回復したらリハビリをやっていきましょう。左手だけで生活できるようにこちらもリハビリのメニュー考えておきますから」と笑顔で言う。
「左手だけですか」僕は怪訝(けげん)な声を出す。どうして左だけなのだ。
医者の表情がみるみる戸惑いの表情を見せる。
「まだいってなかったのか」とナースに小声で言う。
「すみません。言いだせなくて」とこちらも小声。
すべてがまる聞こえでそれが気になり、
「どういうことですか」
医者は僕の目を見て何を言おうか目を左右に動かしていた。
「荏原さん。マンションから落ちた時あなたの手はすでになかったのです。だからどうしようもなくて・・・」と医者が僕の右腕を持ち上げそこにあるはずの手がない腕を僕に見せた。了

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-03

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著作権法内での利用のみを許可します。

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