宗教上の理由・さんねんめ 第二話
まえがきにかえた作品紹介
この作品は儀間ユミヒロ『宗教上の理由』シリーズの一つです。
この物語の舞台である木花村は、個性的な歴史を持つ。避暑地を求めていた外国人によって見出されたこの村にはやがて多くの西洋人が居を求めるようになる。西洋の習慣は日本の習慣とやがて交じり合い、村に独特の文化をもたらした。
そしてもうひとつ、この村は奇妙な信仰を持つ。村を守るとされる神は動物であり、その信仰の中心である天狼神社の神である真神はその「娘」を地上に遣わすとされ、それは「神使」として天狼神社を守る嬬恋家の血を引く者のなかに現れる。そして村ぐるみでその「神使」となった子どもを大事に育てる。普通神道において神使といえば神に遣わされた動物を指すので、人間がそれを務めるのは極めて異例といえる。しかも現在天狼神社において神使を務める嬬恋真耶は、どこからどう見ても可憐な少女なのだが、実は…。
(この物語はフィクションです。また作中での行為には危険なものもあるので真似しないで下さい)
主な登場人物
嬬恋真耶…天狼神社に住まう、神様のお遣い=神使。清楚で可憐、おしゃれと料理が大好きな女の子に見えるが、実は彼女は「少女」ではない。フランス人の血が入っているので金髪碧眼。勉強は得意だが運動は大の苦手。家庭科部所属。現在中三。
嬬恋花耶…真耶の妹で小五。頭脳明晰スポーツ万能の美少女というすべてのものを天から与えられた存在。真耶のことを「お姉ちゃん」と呼んで慕っている。
御代田苗…真耶の親友で同級生。スポーツが得意で活発な少女だが部活は真耶と同じ家庭科部で、クラスも真耶たちと同じ。猫にちなんだあだ名を付けられることが多く、「ミィちゃん」と呼ばれることもある。
霧積優香…同じく真耶と苗の親友で同級生。ニックネームは「ゆゆちゃん」。ふんわりヘアーのメガネっ娘。農園の娘。部活も真耶や苗と同じ家庭科部。
プファイフェンベルガー・ハンナ…真耶と苗と優香の親友で同級生。教会の娘でドイツ系イギリス人の子孫だが、日本の習慣に合わせて苗字を先に名乗っている。真耶たちの昔からの友人だが布教のため世界を旅しており、大道芸が得意で道化師の格好で宣教していた。部活はフェンシング部。
渡辺史菜…家庭科部の顧問で社会科の教師。今でこそ真耶とは師弟関係だが、以前天狼神社に居候したことがあり、真耶とはそれ以来の仲(勿論今は公私のけじめをつけている)。サバサバした性格に見えて熱血な面もあり、自分の教え子が傷つけられることは絶対に許さない。無類の酒好きで何かというと飲みたがるが酒癖は良い。
高原聖…ふりふりファッションを好み、喋りも行動もゆっくりふわふわなのだが、そんな様子に似合わず担当科目は体育。渡辺とともに木花中の自由な校風を守りたいと思っている。
嬬恋いね…真耶と花耶の母。かつて丸岡ソフィアという芸名で女優をしていたが今は完全引退。真耶たちとは離れて東京で暮らす。代官山で雑貨店を経営している。
嬬恋真人…真耶の父。優しく穏やかな性格。職業は国家公務員。
1
朝。春とはいえまだまだ寒い木花村の朝。布団の中から、碧い瞳の黒猫が這い出てきた。
いや違う。黒猫の着ぐるみを着た真耶だ。耳の付いたフードからこぼれた金髪がキラキラ輝く。
真耶の住まう天狼神社をはじめとする木花村のお社には数々の動物が祀られている。そして天狼神社の神使である真耶は、神事の際には着ぐるみに入ってそれら動物たちの姿に成り代わる。神事用の着ぐるみは物々しさを演出するため暑くて重くて動きにくく、傍目にも相当な重労働に見える。そんな格好をお祭りの度させられていては着ぐるみなんて見るのも嫌だと言い出しそうだが、真耶はプライベートでも自ら着ぐるみパジャマを選ぶ。普段着ぐらい着ぐるみから離れても良いのに。
もっともそんな格好のままずっとはいられない。今日は学校。着替えなければならない。
身体は男だが、すべての生活を女子と同じにしている真耶の制服はもちろんセーラー。しかし中三とあってはそれ相応の体型を用意したいし、神使という役目をいったん仰せつかった以上、それを全うすべきだと真耶は思っている。
神使は女子であること、それが天狼神社のきまり。だからかりに神使となる条件のもとに男子が生まれたとしても女子として育てられる。しかし成長は必然的に生物学的な男子の特徴を目立たせる。それでも神社のしきたりに従うため、男子としての成長に縛りをかける必要が出る。真耶は心根はすっかり女の子になっているが、それはそれ。思春期を迎えればこそ、女子らしい外見を人工的に作り出す必要がある。
華奢な身体にはちょっと不釣り合いな重厚な衣装が、真耶の身体を包み込む。胸から腰までをカバーするコルセットだ。紐を引っ張りボディを締め上げると、もともと痩せぎすな真耶の身体は余計に細くなり、わずかな肉が胸に集められる。
「おはよう、お姉ちゃん。今日もギュウギュウに締めてるね」
二段ベッドの上から声がした。妹の花耶だ。小五と中三という姉妹だが今でも二人は同じ部屋で寝起きしており、それは花耶が「守り人」という神使のサポート役を仰せつかっているから。神使の肉親から選ばれた守り人はなるべくいつも神使のそばにいるべきとされており、それを忠実に守る二人はその使命を意識するまでもない仲良し姉妹。
真耶の使うコルセットは強度が半端なく、否応無しに真耶の身体にくびれを作り出す。苦しいだろうと思うが、それでも真耶はめげない。それどころか、
「うん、なんかこれ着ないとダメなの。スースーするし、身体がぐにゃってなっちゃう感じで」
という花耶への返事でも分かる通り、真耶はコルセットが無いと身体が物足りない、というところまで行き着いていた。
「でも、人の身体ってすごいねえ。だんだんお肉が胸のほうに集まってきてる」
花耶の言うとおりで、思春期を迎えてから毎日コルセットをし続けてきた真耶は、それを脱いでも女の子に骨格が近づいているのか、女子の服装をしても違和感のない体型に見える。それでも真耶はコルセットをやめないし、するのが当然のように受け入れている。嬉々としてコルセットの上に制服を着るとこうつぶやく。
「もうちょっときついコルセットも、欲しいかな」
そこまで頑張らなくてもいいのに…。
2
修学旅行が近付いていた。行き先は京都・奈良周辺。班行動という呼び方は管理主義めいているが、要は部屋割りと自由行動のグループ分けということ。男女別々の組み分けがされるわけだが、真耶は当然のように、苗・優香・ハンナと一緒の班になった。学校でも真耶は女子として扱われるし、周囲もそれを当然のことと思っている。
だがこのことが、後に大変な事態を巻き起こすとはまだそこにいる誰も想像しなかった。日々は穏やかに過ぎ、だが三年生たちの心は次第に浮足立っていった。
そしていよいよ修学旅行当日、団体列車の新幹線。一生に一度の晴れの旅立ちにありながら、木花の子どもたちは他の乗客に迷惑かけることもなく行動する。それでいて何かに縛られたような悲壮感もなく、自分たちの意志で礼儀正しい振る舞いができるところを見せている。初日は京都で新幹線を降りると一旦奈良に向かい大仏や平城宮跡、奈良公園などを見物。
「うわぁ、鹿さん可愛いー」
とはしゃぐ真耶だったが、この鹿が春日大社の神使であることを思い出すやいなや態度を改め、
「挨拶が遅れて申し訳ございません、天狼神社神使、嬬恋真耶と申します」
と、鹿のもとに片膝ついてうやうやしく言った。日本全国の神社に住まう動物の多くが神使と定義されており、したがって天狼神社の神使である真耶はそれらの動物と等しい立場にあると言える。真耶が動物にさん付けをするのは自分が動物たちと対等だと考えているからで、神使とされている動物に会った時にはこの儀式を欠かさず行い、そののちに色々と話しかけたりする。型通りの挨拶をしたあと、真耶と動物とは対等な関係であることを互いに了承した形になるからだ。
もっともそれは事情を知らない人からすれば、
「動物に話しかける痛い子」
に見えてしまうのだが。遠目にクスクス笑ってみている観光客もいるが真耶は気にしない。
京都に戻って宿を取る。一行は荷を降ろし風呂に入って、食膳を前にしながら翌日を楽しみにした話が弾む、はずだった。
留守にしていた木花中のほうで、大変な事態が進行していたのだった。その知らせは教師たちの間に届き、それぞれの宿泊する部屋で落ち着いたのもつかの間、真耶たちの班だけが渡辺に手招きされた。
「そ、そんな…」
そして渡辺から何が起きたかを聞かされた真耶たちは絶句した。彼女たちにとって、あまりに酷な宣告がなされたのだった。
3
「ダブルベッドとは豪勢だなあ。あ、アメニティとかも自由に使っていいからな。冷蔵庫の中身は…いろいろあるな。飲んじまえ、私の奢りだ。遠慮は禁止、ノルマ二本。あ、酒は飲むなよ?」
渡辺と真耶は、シティホテルの一室にいた。上階の最高ランクであるその部屋は中学生の修学旅行にはあまりに不釣り合いだが、それもそのはず。ここにいるのは二人だけで、他の生徒と教師は近くの昔ながらの和風旅館に泊まっている。
渡辺は無理にテンションを上げていた。そのことが真耶にも分かっていた。
「わあ、すごい。こんなお部屋泊まれるなんて、夢みたい!」
だから、真耶もいつもの真耶からは想像もつかないほどはしゃいでいた。いや、はしゃぐようにしていた。
三年生が修学旅行に行っている間に、中学校は大いに揉めていた。
「男子を女子と一緒の部屋に寝かせるなんて、どうかしているんじゃないですか?」
木花村は人口数千の山村ではあるが、近隣の市町村に通勤出来る位置にあるので新住民もいる。だがなかにはこの村の数々の習慣が物珍しい半面、面食らったうえ否定にかかる者もいる。特に男子を女子として育てるという天狼神社のしきたりや、それを村ぐるみで支えているありかたは特に信じがたく、受け入れにくいこともあるようだ。
もちろんそれは当事者も住民も総意をもって了承していることなのだから、異文化を尊重するという相対主義と郷に入れば郷に従えという日本の伝統的価値観、そのどっちの面から見てもこの慣習に外部から来たばかりの人間が干渉や妨害をすべきではないし、多くの新住民はそれを承知のうえでこの村に住まうのだが、今回はたまたま声の大きい人間が言う無理は道理を引っ込めてしまった。
当初、修学旅行中の学校の留守は教頭が預かり校長が引率に参加するはずだったが、急な仕事が入ったという理由で出発を一日遅れにしていた。そして運悪くもそのタイミングで、男子である真耶を女子と一緒に泊まらせるのはけしからんという苦情が寄せられた。校長・教頭ともに対応に苦慮したうえ、決定がなされた。そう伝えられた。
保護者からの訴えの内容は、生物学的には男子であるところの真耶に女子と一緒の行動をさせることへの懸念だった。もちろん大半の新住民はそんな慣習を面白がって受け入れるし、そもそも村の特異性についてある程度知識や免疫があってこそこの村に移り住むケースが大半だ。だからそんな少数意見は退けても良い案件だった。現に今までそれでなんの不都合もトラブルも起きてこなかったのだから。
だが校長は「真摯に」このクレームに対応した。
「わかりました。ご心配な気持ちを十分に汲みました。対応いたします」
この校長はとかく保護者からのクレームに弱い。一方で自由を謳歌する木花中の生徒たちが気に入らないらしく、そちらへはやたらと高圧的な態度を取る。もっともそれらは渡辺などの教師や、他ならぬ生徒自身によってその都度撥ね付けられるのだが。
ともかく対応がちぐはぐというか強気に出られると弱いのか、例えば家の手伝いに手間取ったためチャイムぎりぎりに駆け込む生徒にはガミガミ言うのに遊園地に行きたいという理由で休む生徒はスルーする、といった具合。そして今回も例によって校長はすべての要望を鵜呑みにした。
その結果、真耶一人だけが、他の生徒達が泊まる旅館とは別のホテルに泊まることとなった。女子と同室も良くないが、いきなり男子と同じ部屋というのも差し障りがある。結果真耶ひとりを隔離すれば解決という結論に相成った。
「嬬恋真耶を他の生徒と別室にしないならば、明日の自由行動は見合わせとする」
それが校長からの通達だった。男女同室によって乱れた秩序が教師の目の届かない自由行動でさらに加速する、というのがその理由だが、いかにもこじつけだし、どっちに転んでも生徒たちが嫌な思いをするという半ば嫌がらせのような条件づけだった。
そして保護者からのクレームとやらが、あまりにタイミングの良いことも生徒たちに疑念を抱かせるには十分だった。真耶が他の女子たちと行動を共にすることはわかっていたのに、なぜ出発の前にその苦情は持ち込まれなかったのか?
「わざとだろ」
そのことを知った誰もがそう思った。おそらく事前に受け取られていたクレームをいったん校長が預かった。事前にそれを明るみにしたならばそれに対する反論が押し寄せ、通らない。木花中の慣習が気に入らない校長としてはなんとしてもこの意見を活用したいから、保護者と示し合わせ、改めて修学旅行出発後にこれを出すよう言う。そうすれば学校内に抵抗勢力はいなくなる。校長が出発を遅らせたのもそういうこと。理由なんていくらでもつく。あとは旅先に対し遠隔操作で指示を出せば済むことだ。
まして校長にとっては好都合なことに、今回hあ彼にとっての強敵、高原がこれまた出張で不在。まぁこれも彼女を出張の多い校務担当につけた校長の策略ではあるのだが…。職員会議などを通すと高原はそれを察知し、用を済ませたら文字通りダッシュして出張先から帰って採決に参加してしまうので、保護者からの苦情を受けた校長は、同じ派閥の教師だけを集めて臨時で会議を開きスピード決定した。いわばクーデターのようなものだった。
「校長の言うこと聞く必要ない! 真耶ちゃん、一緒に寝ようね」
「自由行動なんか要らない! 真耶と別々に泊まる修学旅行なんてイミ無い! もしそれで文句言う子がいたら説得する!」
真耶以外の班のメンバーは異口同音にそう言う。しかし、
「あたし、別にいいよ」
真耶は校長からの無理難題を受け入れるつもりでおり、こんなことを言う。
「ホテルでしょ? ここでみんなでギュウギュウになって泊まるより、一人でゆったりゆっくり泊まれるほうがいいに決まってるよ。あー楽しみだなぁ」
それがみんなを心配させないために、自ら悪役になろうとしているのは見え見えだった。
「うわっ、おふとんふかふか! ガウンがある!」
渡辺が去り、一人になった真耶は、普段の真耶からはかけ離れたほどのはしゃぎ振りだった。結構なランクの高級ホテルを独り占めしているのだから、落ち着いていては勿体無いとばかりに。木花中の生徒が宿泊している旅館に個室は無い。宿代は修学旅行の運営予算から割かれた。
冷蔵庫から飲み物を取り出す。ミネラルウォーターひとつとっても高級品。テーブルの上にはルームサービスのメニュー。見るからに高そうなもので、夕食を食べていなかった真耶はそれを美味しく頂いた。修学旅行の食事の定番はすき焼きだが、それをしのぐ小洒落た夕食だった。浴室の高価なアメニティを使っていい香りになった身体にガウンを着て、京都の夜景をながめながらジュースを飲む。
窓の外には京都の夜景。
「きれい…」
見とれる真耶。そして。
「ね、ね、苗ちゃん優香ちゃんハンナちゃん、こっちきてよ、すごく綺麗…」
真耶はそこまで言って気づいた。
「あ…」
その言葉を聞く人は誰も居ないことに。
静寂が部屋を包む。
真耶はカーテンを引くと、その場にうずくまった。中学生一人には広すぎるほどの部屋が、より広大に見えた。
「うっ、うっ…」
生徒たちに冷静な対応を求める渡辺だったが、皆それは心得ている。わだかまりはあるがそれはそれとして、いつもの明るい木花中の子どもたちに戻ったのを見届けて、渡辺は真耶をホテルに連れて行った。そしてその折り返し、薄暗い京の裏通りを歩きながら、変な気を起こす様子のない生徒たちに安心しつつも心のなかにぞわざわするものは感じていた。
校長や教頭はもちろんのこと、男子として生まれた子どもを女子として育てることに快い感情を持ってはいないと思う。生物学的な性別と社会的な性別は一致させるべきだという、「保守的な」考えを心の底では持っていると思う。
トランスジェンダーという言葉が日本でもようやく市民権を得てきたともされるが、実際は古来日本の民俗には性別にこだわらず、それを乗り越えることを厭わない伝統が根付いていた。例えば異性装は神道の世界でしばしば見られる神事の一形態である。
だがそれらを否定し、「男は男らしく、女は女らしく」こそが日本文化の本質、と信じこむ大人はまだあまりに多いし、校長達がそちらに属することは間違いないだろうと思う。だからこそ、この計画を今この時期に実践したのだろう。前々から出ていた保護者からの苦情をここまで引き伸ばし、確実に実行できるようにする。不意打ちが一番効果的と踏んだのだろうし、それは良い悪いを別にして戦略としては当たっている。
しかも保護者をグルにし、自分が企んでいたことまでねじこんできた。
「もし、嬬恋真耶を別室で寝起きさせないなら、自由行動は一切禁止」
修学旅行中に自由な時間を増やすと、それだけ生徒の心が開放的になり、そんな中で男女が同部屋に寝起きすれば何か間違いも起こりかねない。そういう理由はいかにも後付けにしか見えない。生徒たちが一番嫌がることを罰として準備し、理由をあとからくっつけたようにしか見えない。校長が望む修学旅行の形は「みんな揃って団体行動」であり、教師が押し付けたものに唯々諾々と従うだけのカビの生えたやり方。自分たちで行動を決めるスタイルは悪だと思っているだろうし、これをきっかけに、一気に反動的政策を仕掛けてくることも予想できる。
渡辺は校長のしたたかさに舌打ちをし、同時に不安を抱いていた。真耶が心配なのは言うまでもないが、同時にこうも思っていた。
「学校に残った一、二年生は、大丈夫だろうか?」
4
翌日。旅館のロビーは騒然としていた。
「真耶ちゃんがいないってどういうこと?」
真耶が事実上の隔離状態になったことは、翌日には全員の知るところとなった。どこから見ても目立つ、神使として華を持つ彼女が欠けている風景に違和感を持った生徒たちが口々に憶測を話せば、秘密を知る側もそれを隠し通せないと悟るだろう。
「真耶ちゃんを取り返そう!」
いつしかそのこれは高まり、そのためなら自由行動返上も辞さない、そんな機運が一気に高まった。
だが、その時。
「ダメ。そんなの、絶対ダメ」
風になびく金髪、光る碧眼。入り口から現れた真耶がみんなの騒ぎを断ち切った。キッとした目つきはすぐ穏やかなものに変わる。
「あたし、楽しかったよ。すごい高級ホテルなの。みんなには悪いけど、あたしあっちにずっと泊まりたいな、うふふ」
だが、全員の反応が冷ややかだった。それは自分たちを差し置いていい思いをしやがってこいつ、とかいうものでは断じて無い。彼ら彼女らの思いは、優香が代弁した。
「真耶ちゃん、泣いたでしょ」
「…泣いてないよ? どうして泣くの? ベッド超ふかふかだし、夕ごはん超美味しかったし、夜景超きれいだし」
無理をしているのは見え見えだった。真耶は普段「超」なんて言葉を使わない。それでもウキウキ気分を装い、自分だけいい思いした優越感を演出するのに必死な真耶だったが、
「腫れてるよ」
優香に目の下を指さされたことで、真耶の演技は破綻した。だがそれでもうろたえつつ自説を曲げない真耶。
「気のせい! あのね、嬉しくて眠れなかったの、そう、眠れなかったの」
言い訳が虚しい。その時…。
「…真耶!」
仁王立ちした渡辺がいた。早足で真耶に近づくと、
「ぎゅっ」
思い切り抱きしめ、
「ごめん…ごめんよ…守ってあげられなかった…」
みるみるうちに、渡辺の目から大粒の涙がこぼれ出た。一瞬ビックリした真耶だったが、しっかりとした口調で、
「せ、先生は…悪くない……悪くないよ…」
といったが、それが限界だった。
「…寂しかったよぉ! うわあああん」
渡辺のことを抱き返すと、人目もはばからず泣き始める。まわりの生徒ももらい泣きする。
渡辺が生徒の前で涙を見せたのは、この時が初めてだった。
5
真耶と渡辺は別の教師に促され、保健室代わりに取られていた客室に戻った。落ち着くまでということで真耶は布団に寝かされたが、ほとんど睡眠を取っていなかったと見え、すぐに寝息を立て始めた。精神的に疲れもあったろう。少し熱があった。生徒たちは混乱を避けるためもあって予定通り自由行動に出かけた。真耶はそちらへの参加は取りやめとなった形だが、それを受け入れる真耶の聞き分けの良さが、渡辺には恨めしかった。
正午頃には熱もすっかり下がっていた。真耶が目覚めると、そばに渡辺が付き添っていた。
「おはよう」
渡辺はかけるべき言葉に悩んだが、あえてこう言った。今朝までのことは今朝としてリセットしたい気持ちがあった。つらい思いをしたゆうべを忘れて欲しかった。今日という日はこれから始まるのだと。
「毎年体調を崩す生徒は出るんだが、今年は真耶だけだ。身代わりになってくれたんだな」
そしてそう続けた。身代わり。穏やかではない表現だが今の真耶にとっては褒め言葉だろう。実際にゆうべの真耶は、自分ひとりが我慢することで他のみんなの自由行動を守った。他人の不幸を自分が引き受けられるのならそれは良いこと、と本気で思っている子だ。真耶の表情はちょっと誇らしげに見え、渡辺はその姿に崇高さすら覚えた、ように思えた。
だが、
「ぐう」
真耶の腹部から重低音が聞こえた。
「…お腹すいたんだな?」
うつむき加減の恥ずかしそうな表情で真耶がうなずく。顔色はすっかり良くなっており、歩けるかの問いには力強く首を縦に振る。
「よし、とりあえずメシだ、そのあとでどっか行こう。二人だけの修学旅行だ」
小洒落たカフェでちょっと遅めで軽めの昼食のあと、路面電車にゴトゴト揺られる二人。京都といえば寺社詣でだが、渡辺にそのつもりはない。
「神社の娘が神社に行くのもな。飽きてるだろ?」
渡辺の軽口の本音が、真耶にはわかっている。真耶は天狼神社の神使であり、生ける人間の神使というのは日本でただ一人。神社に参るときはそれ相応の覚悟で行き、しっかりと礼を尽くす。もし神社の関係者に出会ったら、丁重に挨拶をする。それは真耶にとって当たり前のことだが、身体のコンディションの悪い時には些細な作業がかえって疲れるもの。それに向こうとて神使様が来たとあってはただではいられない。色々と歓待はされるし普段の真耶ならそれをありがたく思うだろうが、それとて弱った身体にはありがた迷惑なこともある。
それを察した渡辺は寺社に参らなくてもよい場所を選んだ。町家の居並ぶ路地で舞妓さんとすれ違ってみたり、小洒落たお店の並ぶ商店街で小物を探したり。
やがて街中を外れ、嵐山へ。渡月橋を眺められる川辺のベンチで二人ちょこんと座る。
「ねえ、先生…」
「史菜でいいよ」
渡辺が居候していた頃、真耶は渡辺のことを史菜さんと呼んでいた。いまは師弟関係である二人が同じ屋根の下過ごした時期もあることは他の生徒も知っているし、かりにそこで特別扱いが生まれたとて誰も怒らない。だが日頃の二人は自らけじめを付け、真耶は渡辺を先生と呼び、渡辺は真耶を苗字で呼んでいた。でも今日だけはいいだろう。また明日から呼び方を戻せばいい、この子ならそれができる、渡辺はそう思っていた。
「…今日のこと、あたし気にしてないよ。泣いたらスッキリしちゃった」
史菜という呼び方はしなかったが、言葉からですます調は消えていた。つとめて明るく話すように見える真耶だが、渡辺には無理していることがわかっていた。だからあえてこう言った。
「みんなの幸せのために自分が我慢すれば、って思ってるのか? そういうの、やめようぜ?」
そう言われてやめる真耶ではないことは承知している。自分が正しいと思ったことはテコでもやめない芯のある子だと知っている。「身代わり」を喜んでする子だ。さっきは褒めてはみたが、生身の子どもにはそんなことを思ってほしくないとも感じている。でも、
「知ってて言うのずるい。あたし絶対やめないって知ってるでしょ?」
真耶の返答は予想通り。渡辺はそれでいいと思っている。
「真耶には勝てないなぁ。私は今度のことでは何も出来なかった」
「泣いてくれたじゃない」
生徒の前で堂々とするのが教師の仕事。渡辺はそう思ってきたし真耶もそういう教師としての渡辺を尊敬してきた。それが生徒の前で躊躇なく涙を流してくれた。それが嬉しいと真耶は思っていた。
「そんなんで満足するなよ。生徒は教師にもっと求めていいんだ。助けて、救って、守って、って」
渡辺は自分の無力さを思い知らされていたし、真耶はそのことで渡辺が気に病んでいることに気づいていた。だから、渡辺の言葉に対し、真耶は静かに首を振った。
「先生こそ、無理するのやめようよ」
「…言い返されちゃったよ」
渡辺は苦笑した。
「史菜さん、なんか眠くなっちゃった…」
しばしの間のあとに、真耶が口を開いた。自然と真耶の口からさん付けが出た。真耶はそっと渡辺の膝に自分の頭をもたげた。
「こうやって、子どものときよくお昼寝したね」
バイクで牧場に行っては、小高い丘の上の木陰で昼寝するのが二人の夏の日課だった。渡辺の膝枕は小さな真耶の頭にはちょっと高かったので、実際は上半身をすべてもたれかけていた。
「重くなったな」
「女の子に重いとか言っちゃダメだよ」
「知ってるよ。成長したって言いたかったんだ」
真耶の成長は、自然と渡辺との間の関係性を変えていく。それは彼女が教師になった時からわかっていたこと。だがそこから生まれる師弟の関係以上に、大人へと近づく真耶の身体が「女同士」の関係を崩すことにも二人は気づいている。それでなくても甘えん坊は卒業しなければいけない年頃だし、こんな穏やかな時もそろそろピリオドだろうと感づいていた。
だから渡辺は、今は思い切り甘えさせておこうと思った。
「あーっ、真耶にフミちゃん先生! 元気になったじゃん。」
しばし続いた静寂が破られた。苗たちに見つかったのだ。みんなはこの近くにある映画会社の運営するアミューズメント施設に行っていた。元々は時代劇の撮影施設だったが、系列会社が人気アニメのシリーズを制作していることもあり、アニメ大好きの苗の提案でやってきていたのだった。
「なんだよー、治ったなら言ってくれればいいのにー」
「だってー、苗ちゃんぜったいあちこち走り回るでしょ? 疲れちゃうよぉ」
軽口を叩き合う二人。すっかり仲良しの女子同士に戻っていた。
さて。宿に帰ると、おもわぬ朗報が待っていた。
「真耶ちゃん、今日こっちに泊まっていいんだって! 今日学校から連絡が来たって!」
先に宿に着いていた女子達が玄関から駆け出てきて、口ぐちに喜びを叫んだ。その知らせを聞いた真耶は、一瞬事実が飲み込めなかった。今宵も一人寝の覚悟でいたのだが、それが思わぬ展開になったわけで。
「ほんと?」
「ほんとほんと! 高原先生が電話してきたんだから間違いないよ! ファックスもある! 証拠はバッチリ!」
裁判に勝訴した原告のごとく、そのファックス用紙を掲げる彼女。そこには紛れも無く、
「嬬恋真耶さんは本日、皆さんと同じ旅館に宿泊すること 校長」
との文字。まぁ明らかに字体が校長とは違う上に、それの書かれた紙が乙女ちっくなイラストの便箋であるあたり、書いた主は明らかなのだが。だが校長から追って訂正が出ていない以上、高原が校長の代理でこれを書いたという抗弁も成り立つ。
「…え、えっと…じゃああたし、みんなと一緒に泊まっていいって、こと?」
おそるおそる言う真耶。みんなの答えは決まっている。声を揃えて、
「もちろん!」
「…やった! やったやったやった!」
真耶たち四人は抱き合い、歓喜の声を上げる。他の生徒達もまわりからもみくちゃにする。これは真耶一人の問題ではなく、学校の決定に大して生徒たちの意志が勝ったということ。その喜びはみんなの喜びだった。
その夜の枕投げは木花中の修学旅行史上稀に見る激戦となった。
6
「でも、旅館の人に許してもらって良かったね」
修学旅行最終日。今日は中集団での行動日。いくつかあるプランから生徒が希望するところを選択するというもので、真耶たちは滋賀にある小学校の旧校舎を見学に来ていた。戦前に建てられた学校建築が残るのは珍しく、質実剛健な印象の外観でありながら内部にはウサギや亀のブロンズ像が鎮座している可愛らしさも見せる。もっとも木花中のほうがもっと古い校舎だったりするし京都から行くにはだいぶ遠いのだが、それでもわざわざ見学に来たのはここもまた人気アニメの舞台だから。プランは生徒主導で考えるので、当然苗たちアニメ好きの意向が反映している。
昨晩は、あまりにはしゃぐ真耶たちを注意しに行ったはずの渡辺までもがミイラ取りよろしく枕投げに参戦した結果、年配教師たちの大目玉を喰らった。全員正座などという非人道的な罰こそ無かったが強制的に電気は消され勝負はお預け。だが一夜明けてみれば、寛大な宿の人々のおかげというか、昭和な騒ぎ方が懐かしかったと好評で、良い子が揃う木花中の面目躍如だった。
ちなみに、天狼神社の「奇妙な」しきたりについては旅館の人も心得ていた。それもそのはず、修学旅行の旅館と学校というのは長年のお得意様関係があるわけで、木花村の事情ももちろん旅館には通じていること。
「旅館が男子を女子部屋に泊めることに難色を示した」
という理由も校長たちは考えたのだろうが、それはそんなわけで使えなかった。思わぬ旅館の人達のファインプレーだった。
それにしても。
「なんであたし、みんなと同じ部屋で泊まれるようになったんだろ? いくら高原先生でも、嘘は言えないんじゃ…」
「つかさー」
それについては他の女子も引っかかっていたようだが、苗がどうやら気づいた。
「これって自由行動じゃ無いじゃん。だから真耶を一緒に泊まらせたところで、校長に文句言われる筋合い無くね?」
たしかにその通りだ。自由行動は無しにするということだったが、「自由行動」が終わっている以上、何の制約も無いわけだ。あまりに身も蓋もない幕切れに、皆、脱力するやら安堵するやら。
「あ、あとね?」
優香も何か気がついたらしい。
「そもそも、中学生をホテルに一人で泊まらせることって、良いことなの?」
学校という組織として、中学生の一人旅は奨励できるものでもないし、もしそれをさせたと世間に知れたらそれこそ批判の対象となる。
「そのへん、高原先生あたりが突っ込んだんじゃない?」
という優香の見方は、半分だけ当たっていた。高原が出張から戻りそのことを指摘したのは修学旅行二日目の夕方のこと。真相はその日の朝に遡る。
7
「良かったぁ。どっかドライブしたいと思ってたら、真人クン、ナイスタイミングだよ」
真耶の母であるいねと、父である真人。二人はドライブに来ていた。いねは最近車を買い替えた。可愛らしいフォルムと桜をイメージしたボディカラー。荷物を載せるスペースも充実しているので、いねの経営している雑貨屋の商品を運ぶのにも便利。そしてガソリン車ながらリッター二十七キロを超える低燃費。
「ガソリン全然減らないね。これ試したくて遠出したかったんだよね。ここから山道になるけど、給油は平気そうだね」
二人の行き先は他ならぬ、木花村。いねはせっかく少しのガソリンでいっぱい走る車を買ったのだから、どこか遠くてアップダウンの続く所で買い替え効果を試したいと思っていた。そんなときに真人が、
「実家と木花村に用がある。急な話だが、休みを取って行ってくる」
と切り出した。渡りに船。
「じゃあ、私が連れてってあげるよ」
いねは真人を木花村まで車で送ってあげることにした。
同じ頃、校長は他の教師を丸め込み、ある発表をすべく準備していた。
「これで、何もかも、潰せる…」
校長がここまでして、木花中の長年のやり方を敵視するのには訳がある。大げさに言えば、木花中の教育方式がこの国の目指す教育のあり方に反しているからだ。反しているものは潰す。そういう簡単な図式で、校長は送り込まれた、と言って良い。
誰に送り込まれたのか。それは教育に影響力を持つ地元選出の代議士や財界人の意向だった。自ら進んで勉強やお手伝いをする木花村の子どもは理想的に見えるが、実はそれこそが一部の大人にとっては目障りなものとなる。彼らにとっては、自己の意見を持たず、上から言われた通りのことだけこなす人間が増えたほうが都合が良い。ブラック企業を増やし、富めるものをますます富ませる。創造性のある文化は潰し、戦争の出来る国にする。一見あまりに荒唐無稽な話だが、それを縮小したようなことはは地域単位でもこの国のあちこちでしばしば行われており、木花村を取り巻く環境にもその動きはあった。おそらく多くの大人は善良で、この地域とこの地域の人々を幸せにしたいと思っている。だが一部の悪事に通じたものがいつの間にかそこに潜り込み、権力を握るということはよくある。
そして校長は、そういう者どもの意志を貫こうとしていた。木花中に咲く自由・自主・自立の花を摘み取り、管理と統制のもとに置く。服装も髪型も画一的にし、受験のみを目標とした学習環境を創りだす。決して勉強が嫌いではないが、実のあることを学ぼう、学ばせようという親や子どもの意志は押しつぶす。部活動は大会で賞をとることを目的とし、生徒主体で行われたかずかずのユニークな学校行事はすべて教師の押し付けたものへと変える。大人の決めたこと以外をさせない、その精神を徹底させるための新たな校則を発表し、即施行しようとしていた。
「牧場なんて久しぶり。真耶クンや花耶クンとも、よく遊びに来たなあここ」
いねは、牧場にやってきていた。幼い真耶と渡辺もよくやってきていたあの牧場だ。いねは自然の中に来ると子どものようにはしゃぐのが常で、丘を駆け上って景色の良いところに出ると、眼下に広がる村を眺められるベンチに座る。
真人は、あとから必死になって追いかけて、は来ない。真人はすでに用事のある場所に送り届けられ、いねだけが別行動でこの牧場で時間をつぶし、あとから合流して帰宅の途につく。天狼神社には寄らないつもりだ。二人とも翌日は仕事。下手に寄り道をすると引き止められたり帰るのに後ろ髪引かれたりしてしまう。
その頃、真人はというと。
「つ、嬬恋さん、ど、どうなさったのですか」
校長室への突然の来客に、校長は戸惑っていた。前日、修学旅行中の三年生に対して真耶を他の女子と同室にしてはいけないという通達を出した校長は、今日これから新たな校則を一、二年生に対して発表しようとしていた。そのため臨時で学校集会を開く旨通知し、全生徒と教員を体育館に集めていた。
「今の時間、ご来訪の方にはご遠慮頂きたいのですが…」
校長の言うことも一理ある。これから学校に残る全生徒を相手に、彼一世一代の大舞台を演じようとしているところで、出鼻をくじかれた。だが、真人は平然として言った。
「事務員さんは通してくれましたよ」
事務員さん、といっても実は真人の同級生である。小さな村のこと、どこに行ってもかつての学友と出くわすなんてことはザラにある。当然真人ともツーカーであり、あっさり中学校の玄関を通過できた。というか、むしろ。
「彼女ですとか、その友達などから、いろいろ聞きましてね」
真人の同級生やその先輩後輩も、当然真耶と同じくらいの子どもを持って当たり前の年齢になっている。彼ら彼女らとて自分の娘や息子が、自分たちが受けたのとは異質の、それも誰もが望んでいない教育を押し付けられかねないことを察知して黙ってはいられない。真耶が一人寂しく夜を明かしていることも聞き及ぶにあたって、それは一大事とばかり真人にも知らせが入った。
「生徒さんたちを待たせるのが申し訳ない、その生徒思いの気持ちはよくわかります。でも大丈夫、木花の子どもたちは辛抱強いので、いつまでも待ってくれますよ」
真人はそう言うと、ソファに座る。校長にも着席をうながすあたり、立場が逆転しているようにも思える。そして同時にそのゆったりした態度が、早く自分のやりたいことをやってしまいたい校長の神経を逆なでするには十分だった。
「嬬恋くん、変わらないなぁ。おっとりしてるように見えて、実はとんでもない策士なんだから」
隣の事務室で、真人を校長室に通した彼女がつぶやいていた。
牧場の売店で、いねはジョッキになみなみと注がれた牛乳を飲んでいた。大体真人の魂胆は分かっている。おおかた真耶がらみで何かあったのだろう。でもそれを詮索せずに真人に一任するだけの信頼関係が、二人の間にはある。
「真人クン、ちゃんとやってるかなあ」
「…ま、まさか、あなたが…」
「本当は先生方の教育方針に親が過剰な意見をするのは良くないだろうと思います。しかし村の伝統の危機とあっては、鎮守の息子として黙っていられません。いやそれ以前に、愛娘につらい思いをこれ以上させるわけには行きません」
「む、娘?…あ…」
息子の間違いだろうと言いかけた瞬間、校長はそれが失言であると気づき、狼狽した。
出世欲が強く中央の役人と接触していた校長は、以前にある噂を聞いたことがある。文部科学省に凄腕のキャリア官僚がいると。若くして数々の施策を打ち出していたが、それが一部の守旧派には不評のため閑職に追いやられた。彼のアイデアは子どもの権利を守り、自主自立を促すもので教育に関わる多くの人から好評だった。しかしそれゆえに守旧派からは疎んじられ、閑職につかされたと聞いた。しかし彼の影響力は密かに強く、こっそり支持をする者も多い。だから公的な役職に関係なく、彼の一声で公立学校の管理職の首くらい簡単に吹っ飛ぶと。
「校長先生、気を楽にしてください。いち保護者がお願いに参ったというだけの話です」
そう穏やかに話す真人だったが、校長は明らかにそれまでの自信有りげな様子を失っていた。それを見て真人は心配そうな顔をする。
「困りましたねえ。いつも学校関係の方と会うと皆さんあまりにかしこまりすぎて話にならないのです。不思議なことにこの名刺を出すと、皆さん蛇ににらまれた蛙のようになってしまう。何か私について悪いうわさでも流れているのかと心配しているのですよ。現場の先生方はそんなこと無いのですが…」
真人は国家公務員をしている。名刺に刻まれた「嬬恋」という苗字とその所属官庁は、教育関係者を震えさせるには十分で、ことに子どもをダシにして立身出世だの一儲けだの企んでいる連中には効果がてきめんと言われている。真人にしてみれば名刺を出すのはただの挨拶、大人のマナーのつもりなのだが。いや、彼はそう言うのだが。実際、彼がその地位をかさにきて自分や自分の身の回りの人間のために何かをしたことなど無いのだが。
「わ、わかりました。今回の件は無かったことと致します。つきましては、ど、どうか、お引取りを…」
「そうですか、それは話が早い。決して学校の教育方針に文句をつけるというわけではないのです。ただ、こうしたほうが良いのではないかという世間話をしにきただけなのですが…。いえね、私は娘と離れて暮らしていますから、父親参観もなかなか行けず、先生とお話する機会が無かったのをたまたまこうして暇ができたものですから、家庭訪問の逆をやってみようと思いましてね。家族との時間が欲しくて休みやすい部署に移ったのですがなかなかうまく行きませんね。ともかくお会いできて良かった」
相変わらず真人はにこやかな表情をしている。いやこの人はいつもそうで、どんな時でも真耶たちの前で見せるのと同じ、優しい表情を崩さない。
だが、最後にこう付け加えるのを忘れなかった。
「そうそう、ふと耳にしたのですが、この近所で教材の採用にあたって不正があったとかいうことを聞いています。なんでも特定の業者に便宜を図ったとか。そこは最近問題になっているブラック企業の一部門であると。具体的にどこで起きているかは存じないのですが…。ただせっかく来た以上、それについても調べが必要ですね、一応公僕ですので税金分は働かなければ。忙しくなりそうです」
「真人クン、うまく行ったの?」
帰りの車中。ハンドルを握るいねは自然を満喫したせいもあって、晴れ晴れとしているが、その表情は真人も同じ。
「ああ。校長先生とお会いすることが出来たよ。真耶をお願いしますと言ってきた。いち保護者の言葉に耳を傾けてくれる話の分かる方のようだ。あれならきっとフミちゃんも張り切って働けるよ」
フミちゃんとは渡辺のこと。かつて天狼神社に居候していたから真人もいねも渡辺と知り合っている。
「今頃京都で楽しくやってるかなあ、史菜クンと真耶クン。私達は想像するしかないけど」
「楽しくやってるよ」
「どうして分かるの?」
「さあ」
カマをかけ合うような会話。勘の良いいねは、真人が気まぐれで木花中に赴いたのではないことぐらい気づいている。
「でも残念だなあ」
「何が?」
真人は遠い目をしながら言うが、その目尻が明らかにしてやったりの感を出していた。
「せっかく校長先生と仲良くなったけど、もう会えないかもしれないね。異動になるかもしれない」
高速道路を使わず、あえて国道のバイパスで山を下る桜色のコンパクトカー。あたりは次第に暗くなってきた。
「晩御飯どうする?」
いねは問う。しかしハンドルを握る彼女がこのルートを選んだということは、峠を降りきったところのドライブインに寄るつもろだろうと踏んだ真人の答えは決まっていた。
「釜めしが食べたいな」
宗教上の理由・さんねんめ 第二話
このエピソード、漫画でやりたかったんです。もともと宗教上の理由という作品は漫画のネームとして頭のなかでずっと組み立ててきたものだったのですが、そもそも作者は絵を描けませんので小説に代えたわけです。ただ、漫画でないと自分の中で思い描いたイメージと違ってくるってのはいつも思っていて、特にこのエピソードはその気持が強いです。ただ無い袖は振れないので文字で最善を尽くすしかないのですが。
今回真耶の父、真人の意外な一面が見えました。ゆるふわお気楽な話の中にこういうのは賛否両論分かれると思います。作者も嬬恋家の人々を権力的なものからは離しておきたかったですから。でも作中で語っているとおり、真人は自分の地位を利用したことは無いので、娘可愛さの行動だと思います。まぁ校長たちの悪事をもっとしっかり書ききったとは思ってないので、真人が悪人に見えちゃう感はありますが…。そのへんは改めて書ければ良いと思ってます。