中庭の二人

 彼女の姿を見つけたのは、ある平日の授業中。
 その日たまたま具合が悪くなった僕は、一人教室を抜け出し――もちろん教師の許可は取っている――保健室を目指して一階の廊下をとぼとぼと歩いていた。
 ふと、東側に広がるガラス張りの向こうに目を通す。よく晴れた空の下、太陽に照らされてきらきらと輝く中庭は、現実味のない遠い世界の楽園のようだ。
 煉瓦模様のアスファルトの向こうには、草原と呼ぶにふさわしい緑一色の広場。中心部にぽっかりと大きな穴が開いており、そこに丸い形をしたプールのような水槽が埋め込まれている。常に透明な水が満ちているその中では、色とりどりの鯉が無数に泳いでいた。
 学校という環境に縛られ、常に敷地内に監禁された僕らのように、彼らはその丸い水槽の中でしか生きられない。それでも、薄いひれを水に靡かせながら優雅に泳ぐ姿は『自由』というものを象徴しているように見えて、なんだか羨ましかった。
 アスファルトと草原の境目のところには、朱色のベンチが一つ、横にして置かれている。常に吹き曝しの環境にあるせいか、設置してまだ幾何(いくばく)も経っていないはずなのに既に壊れかけのように見える。
 普段は誰もいないその場所に、彼女は横たわっていた。癖のあるセミロングの黒髪と、この学校の生徒にしては比較的長めの――おそらく膝丈くらいはあるのではないだろうか――紺色のスカートが、朱色の上にふわりと広がっている。
 すやすやと寝息を立てていた彼女は、前を通ろうとしていた僕の存在に気付いたのか、ふと伏せられていた長い睫毛を上げ、むくりと起き上がる。ガラス越しに目が合った瞬間、薄い唇が意地悪くにぃっと吊り上がった。
 ちょいちょい、と手招きされるままに、僕は中庭に通じる大きな窓の鍵に手を掛ける。カラカラ、と音を立ててスライドさせると、ふわりと吹いた風とともに初夏の匂いが漂ってきた。
「やけに顔色が悪いね。貧血かな?」
 ベンチの背凭れに両腕を投げ出した彼女が、僕を見たとたんに発した第一声はそれだった。
「そうなのかな。……そうなのかも」
 中庭に通じるアスファルトと校内の廊下には段差があるので、そこにとりあえず腰かけながら僕は答える。
 先ほどの授業中、突然僕はくらりと眩暈がした。そして直後にやってきたのは、顔から血の気がスッと引いていくような冷たさと、込み上げてくる気持ち悪さと、額にじわりと感じた汗の滲み出る感覚。
 同じように授業を受けていたクラスメイトのみんなや、授業担当の先生に心配されつつも、僕は何とか一人でここまでやって来ることができた。
 ようやく腰を落ち着けることができた安心感からなのか、自然と力が抜けてしまう。ふらり、と傾いた身体を、開いた窓のサッシが無骨に支えてくれた。ひんやりとした心地よい冷たさと、独特の硬い感触が僕の肩に伝わってくる。体重がかかり凹凸が皮膚に食い込んで、ちょっと痛い。
 そんな僕を見て、ふ、と彼女がほんの少し唇を歪めた。僅かではあるが、笑んだのだ。
 脇息に凭れた平安貴族のような佇まいで朱色のベンチに全身を投げ出していた彼女は、不意に姿勢を崩した。足元に投げ出されていた靴に足を通し、立ち上がって伸びをする。見た目や仕草から何から、いちいち黒猫を連想させるような人だ、と僕は思った。
 そこで、僕はあることに気付く。
 注目したのは、彼女が足を通した靴――サイドに青色のラインが入った、白を基調としたスニーカーだ。
 彼女の方も同じ点に気が付いたようで、僕の履いていた靴――同じ造りだが、こちらには赤色のラインが入っている――に視線を落とした。あぁ、と思い出したように呟き、目を細める。
「君、一年生かい」
 この学校では、パッと見ただけで何年生の生徒かが分かるよう、学年ごとに色が決められている。僕たち一年生は赤色、二年生は緑、そして三年生は青、というように。
 先述の通り、彼女は青色のラインが入ったスニーカーを履いていた。つまり、この学校で最高学年にあたる、三年生ということだ。
 相手が二学年も年上であることに今更気づいてしまった僕は、脱力した身体に無理やり力を入れた。小さく溜息を吐き、声を震わせる。
「……すみません。さっきは先輩だなんて気が付かなくて、つい」
「構わないさ。ぼくは気にしてないから」
 本当に気に留めていないかのように、ヒラリと彼女は軽やかに手を振る。その口から出た『ぼく』という一人称にほんの少し引っ掛かりを覚えはしたけれど、何故か違和感を覚えることはなかった。それこそが彼女なのだと、アイデンティティなのだと、その存在が強く主張しているからなのだろうか。
 そんなことを考えていると、彼女はそのまま歩を進め、僕の方へ近づいてきた。条件反射で身を竦ませる僕を見下ろしながら、今度は柔らかに微笑みを浮かべる。
「歩けるかな? そこのベンチに座って」
 言われるがまま立ち上がる。少しふらつきながらベンチへと向かうのを、彼女はさりげなく支えてくれた。
 僕がベンチに腰を落ち着けたのを確認すると、彼女はさっきまで僕がいた場所――ほんの少し開いた大窓から、風のように身をひるがえし、校内へ足を踏み入れた。
「少しだけ待っておいで」
 また、ヒラリと手を振られる。そうしてどこかへ歩いて行ってしまった彼女の後姿を、僕は窓越しにぼんやりと見送った。

「――お待たせ」
 ベンチの背凭れに身体を預け、ぐったりと目を閉じていた僕の耳に、春風のような声が届く。ほぼ同時に、額にヒヤリと冷たいものが触れた。
 思わず小さく声を上げ、肩を揺らす。まるで女のような高めの声に自分でも恥ずかしくなっていると、クスクス、と彼女が笑う声が聞こえた。
「びっくりしすぎだよ」
 口元を手で押さえながら、可笑しそうに言う彼女。手渡されたのは、ペットボトルに入ったスポーツドリンクだった。どうやら、自販機まで行って来てくれたらしい。
「あ……その、すみません。あとでお金返しますから」
「いいよ、これはぼくの奢り」
「でも」
「先輩の厚意は、素直に受け取ること。いいね?」
「……はぁ」
 間抜けな溜息とも返事ともつかぬ声を出しながら、差し出されたペットボトルを受け取り、蓋を開ける。喉に流し込めば、心地よい清涼感が食道を通り抜ける感覚がありありと伝わってきた。
 思っていた以上に喉が渇いていたらしく、一気に半分ほどの量が減る。僕のピッチの速さを見て、彼女がまた笑った。
「うん。さっきより、ずいぶんと顔色がよくなった」
 言いながら、ベンチの空いたスペース――つまり、僕の隣へと彼女が腰かける。ふわりと、甘い匂いが漂った。今まで嗅いだことがないような、けれどどこか懐かしいような気持ちが胸をくすぐる、そんな芳香。
 自分の中に込み上げてきそうになる感情から気を逸らすべく、僕は彼女に話しかけてみることにした。
「……あの」
「ん?」
 彼女がこちらを見る。再び目が合った。
 その拍子にふわり、と舞った黒髪から、またあの匂いがした。心を奪われそうになるのをどうにか押しとどめ、話を続けようと口を開く。
「あなたは、」
笠音(かさね)、だよ」
 咎めるように、いきなりそんなことを言われた。予想外のことに、え、と思わず掠れた声が漏れる。
 彼女はにぃ、と笑った。先ほど初めて目が合った時に浮かべた、あの意地の悪い笑みだ。
 そしてもう一度、言った。
「ぼくは、笠音というんだ。三年C組、折原(おりはら)笠音。はい、言ってごらん」
 英語教師が授業中によく口にする『リピートアフタミー』よろしく、彼女は教え諭すような口調で顔を覗きこんでくる。距離の近さに戸惑いながら、僕は喘ぐようにその名を紡いだ。
「折原先輩」
「違う」
「折原……さん」
「笠音。さっきから言ってるだろう?」
「……笠音、先輩」
「うん、まぁいいや。それで」
 数度の応酬の後、ようやく納得したように彼女――笠音先輩はうなずいた。それでもどこか、百歩譲ったかのような雰囲気はあったのだけれど……本当は、何と呼んでほしかったのだろう。
「で、さっきぼくに何を言おうとしたんだい?」
 いきなり話を戻され、僕はあっ、と思わず声を漏らした。小さな声が耳に届いたらしく、忘れていたのかい、と笠音先輩が笑う。
「そうだ。えっと……その、笠音先輩は、どうして今ここにいるんですか?」
 今まで忘れていたけれど、今は授業中だ。笠音先輩だって、三年生のどこかのクラスで授業を受けているべき時間のはずなのに。
 どうして、ここでのんびり眠ってなんていたのだろう。
 改めて不思議に思っていると、ふ、と彼女が笑った。晴天の空を仰ぎ、独り言のようなトーンで答える。
「今日は、いい天気だから」
 こんな日に教室内で鬱屈としながら授業を受けるなんて、勿体ないと思ってね。
 屈託なく、彼女は笑う。晴天の空のような、鮮やかに色づいた笑み。
 目の前のこの情景はきっと、これから一生僕の心に焼き付いて離れないんだろうな、と僕は漠然と思った。
「君――……」
 今度は彼女が何かを言いかけたところで、校内でチャイムが鳴ったらしく、内にこもっているような音が聞こえてきた。「タイムアップだね」と彼女が肩をすくめる。
「次は昼休みだから、戻らないと」
 言いながら立ち上がる。そのまま校内へ入っていくのかと思いきや、彼女はいつまで経っても僕の目の前から去る気配はなかった。
 不思議に思い顔を上げれば、三度(みたび)目が合う。穏やかな笑みを浮かべながら、彼女は僕に何かを差し出した。
「はい、これ」
 手渡されたものを受け取る。一枚の、紙のようだった。
「保健室の利用カードだよ。適当に書いて、出席簿に挟んでおいで」
 そうすれば、サボったこともバレやしないからね。
 手慣れているような口調だった。おそらく、先ほど飲み物を買いに行った時についでに保健室から取ってきたのだろう。たびたび彼女は同じ手口を使い、こうやって授業をサボっているとみえる。
「……僕は、一応体調不良だったんですが」
「でも、結局ここで過ごしたじゃないか」
 それはあんたのせいだろう、と言おうとしたが、やめておくことにした。この時間が、楽しかったことは事実だから。
「じゃあ、この辺で失礼するよ」
 ヒラヒラと、先ほどと同じように手を振りながら彼女が去ろうとする。気づけばその背中に向けて、僕は呼びかけていた。
「笠音先輩」
「ん?」
 ゆっくりと振り向く。猫のような光を放つ、感情の読みづらい瞳を一心に見つめながら、僕は言った。
「僕は……凌空(りく)です。浅川(あさかわ)、凌空。クラスは、一年B組」
 にぃ、と彼女が唇を吊り上げる。満足そうに目を細めると、こくりと一つうなずいた。
「分かった。またいつか会おう」
 またね――『リク』。
 これまで聞いていたものよりもいくらか色めいた、甘くねっとりとした声で紡がれた、僕の名前。
 みるみる熱くなっていく顔を手で押さえていると、彼女がクスクスと笑いながら窓を開け、校内へ滑るように入っていく。
 彼女の姿が見えなくなってからも、僕はしばらく呆然と朱色のベンチに座ったまま動けずにいた。

中庭の二人

一応オムニバスとして書いてはいますが…続くかどうかは疑問、です。はい。

中庭の二人

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-07-02

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