癒しの実験
N氏は機械の音を聞いている。
大学を卒業する時、なかなか就職が決まらなかったN氏は、22回目の誕生日を1週間後に控えたある晩、知人に紹介されてこの仕事にありついた。あれからもう10年が経とうとしている。
N氏の会社は、大手ロボットメーカーの子会社で、老人の介護補助を目的としたロボットの開発を行っていた。少子高齢化が加速し、介護不足となった現代において、幸か不幸か介護ロボットの需要はここ数年うなぎ登りであった。
そんなN氏はロボットに微塵も興味はなかった。「ガンダム」や「鉄腕アトム」と違い、あのカクカクとした動きが好きになれず、同僚たちのような熱を持った眼差しを向けることができなかった。一度、自分たちの作ったロボットを、どのような経緯をもって選ばれたのかわからない一人の老人に、サンプリングとして使ってもらう現場に立ち会ったことがある。ロボットを息子の名前で呼び続ける老人の姿を見て、N氏は苦い顔を浮かべずにはいられなかった。でも、こんなものが売れるのだから、N氏にしてみればそれに越したことはない。二回目以降はそんな光景も慣れてしまった。
会社は軌道に乗っており、仕事における不満はなかった。仕事は日々忙しさを増していたが、それなりに給与も良かったし、なによりN氏には養う家族がいたため、忙しさも特に気にならなかった。愛する妻、そして、愛する犬のため、N氏は働く。
妻との出会いは、入社してから3年が経った年のことである。当時、営業部にいたN氏はノルマに追われる日々を過ごしていた。年末の長期休暇を目前にして、疲弊しきった体を引きずり都内をあちらこちらと走り回っていた。今年をもって転職をしようと決意していたN氏が出向いた、最後の取引先。ビルに入ってエレベーターに乗ろうとすると、目の前で扉を閉められた。悪態をつきかけた時、隣にもう一人エレベーターに乗りそびれた人がいた。目にした瞬間、N氏は思わず呼吸が止まってしまった。それが、のちの妻である。
迷子になった宇宙飛行士が金星で出会った女神のようにミステリアスな黒髪と、何処か遠い国の小さな部屋で描かれた名も無い印象派の絵画のような誠実な微笑み、海の底から天空に向けて突き抜けるような眩しい光線のような眼差し。
直感的にN氏は、彼女が運命の人であるとわかった。それはまた、彼女にとっても同じことであった。二人は出会ったその日に付き合い始め、二ヶ月後には婚約をした。N氏の日常は彼女との出会いによって、まさに180度の転換を遂げた。仕事は急に意欲的になり、彼女と会えることが全てであり、彼女のためと言われればどんなことだってできた。同僚の一人は、それを宗教的な愛と呼ぶほどであった。
何れにせよ、妻に向けるN氏の愛は彼の人生の全てとなり、彼の肉体、精神、存在の全てとなった。
N氏と妻は、言うまでもなく何度も交わった。しかし、そこに新たな命が宿ることはついになかった。N氏は妻さえいれば子供はいらなかったし、むしろ自分に向けられるべき愛が我が子に奪われることに、恐れさえ抱いていた。しかし年を重ねるに連れ、妻は子供を作れないことに深く思い悩むようになっていった。いくら子供を授かることに抵抗があるとはいえども、妻の浮かべる悲しい表情は、N氏にとっても痛みとなっていった。
N氏は、ある時同僚に犬をもらってくれないかと頼まれた。それまで犬を飼ったことはなく、可愛いと思ったことさえ一度もなかったN氏だったが、ある考えによって二つ返事で犬をもらった。
子供の代わりに犬を飼おう。
犬を連れて帰ると、妻はN氏の想像をはるかに上回って喜んだ。久々に満面の笑みを浮かべる妻を見て、N氏はすぐに犬を好きになり、犬に感謝した。犬の名前は妻が決めた。
プー。小さな体に、綺麗に生えた茶色い毛並み、大きな耳。ダックスフンドのプー。
熊の要素は一つもないが、妻は犬をプーと読んだ。プー。声に出してみると、その響きが気に入った。あぁ、なんて素敵な名前なんだろう。妻がつけたその名前は、天才的とも言える。プー。いい名前だ。感動して涙が出てくる。
そんな風にして、N氏の家族は、美しき妻と「犬のプー」によって構成された。結果的には子供より犬で良かったのだ。犬であれば、妻の愛はそれほど横取りされないし、子育てのようなあらゆる苦難もほとんどなくなる。どうして初めから思いつかなかったのだろう。こんなことを思い付かなかった自分に嫌気が差す。いや、もうこれでいいのだ。犬がやって来た今、未来永劫永久不滅の幸せがここに作られたのだ。生きていて良かった。犬、最高。
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N氏は帰宅する。
まず、大きな鳴き声と共にプーが走ってくる。プーに顔を舐められていると、奥からエプロン姿の妻がやってくる。家族が三人になってから毎日続くこの光景に、N氏は飽きることなく幸せを感じられる。最初はそこまで可愛いと思わなかったプーも、今となっては妻の次に愛する存在となった。純粋な瞳を覗き込み、その愛らしさに胸を締め付けられ、ぎゅっと抱きしめる。そんなことを繰り返していると、妻が夕食を作ってくれる。リビングがビーフシチューの香りで満たされる。妻は料理もうまいのだ。
食事を始めると、妻が今日あったことを話してくれる。いつもの光景。
ビーフシチューが美味しいのと、妻が楽しそうに話をしているので、N氏の頭は幸福でショートしそうになる。回覧板?地域交流セミナー?何を言っているかは全く頭に入ってこないが、N氏は幸せである。そうか、そうか、と相槌を打つ度に妻の頬を赤い血が灯す。幸福の色はきっとこんな色だろう。いや、絶対そうである。
夕食を終え、風呂から上がる。ソファに腰を降ろしニュースを付けると、プーが近くに寄ってくる。揺れる尻尾のテンポは、「美しく青きドナウ」のワルツのようにN氏の心を躍らせる。妻はアイロンをかけながら何か話している。南アフリカの内戦、政治家の汚職問題、隣国の大気汚染、テレビはいつも世界の暗い面ばかり報道している。ここにこんな幸せがあれば十分じゃないか。N氏はプーを抱きかかえて膝の上に乗せると、プーが顔を舐めてくる。温かい呼吸と、滑らかな毛並みに誘われて、安らかな眠気がN氏を訪れる。
今日も幸せな一日だった。N氏が目を閉じかけた、まさにその瞬間。その「異音」は聞こえた。
思わず目を覚ましたN氏は、異音の出た方向を見る。最初はテレビの音かと思ったが、どうも違うようだ。キャスターは四国の異常気象を相変わらず不幸そうな顔で報道している。気のせいだろうか。
「ギュイーン、ガガガッ」
いや、確かに異音はこの部屋で鳴っている。それはとても近くから聞こえる。妻にも聞こえているだろうかと思い見ると、まだ何かを幸せそうに話し続けている。奇妙な光景に、混乱しかけるN氏だったが、もう一度耳を済まして注意深く音をたどる。
「ギギギギ、ガリッ、ブシュー」
やはり聞き間違えではなさそうだ。しかし妻がうるさい。N氏の膝は揺れ始める。決して怒ってはいない。この幸せを破壊する異音の正体を知りたいだけなのだ。妻に静かにするように言うと、妻は一瞬静かになって固まったあと、申し訳なさそうな顔をして謝り始めた。わかった、わかったから少しだけ静かにしていてくれ。N氏は懇願するが、妻は謝り続ける。目には涙さえ浮かんでいる。あぁ、妻が泣いている。それも俺のせいで。N氏は神経質になり過ぎたことを猛省し、妻に謝る。異音なんかどうでもいいじゃないか、泣かないでくれ。妻のもとに行こうと、膝の上に座るプーを床に降ろそうとしたその時、N氏は目を疑う。
プーから煙が出ている。会社の同僚から譲り受け、家族としてこの家に住み、息子のように愛を注いで育て上げた「犬のプー」から、煙が出ているのだ。完全に思考機能を失ったN氏に追い討ちをかけるように、異音がプーから発せられる。
「ガリガリガリガリガリ、ゴーンガキッ、ガッシャン」
プーの尻尾がまるで機械のような動きをしている。可愛らしさをぎゅっと詰め込まれた水晶のように輝いていた瞳は、もはや灰色に変色し、昔テレビアニメで見た狂った科学者のような眼球と化している。
固まるN氏、まだ泣きながら謝り続けている妻、煙をあげて奇妙に動く「犬のプー」。
一瞬夢を見ているのかと思った。しかし妻は確かにそこにいるし、ここはN氏の家のリビングである。そして紛れもなくN氏は先ほどまでの幸せの時間軸の延長線上に、この場面を認識している。煙は収まることを知らず、部屋をすごい勢いで満たしていく。思わず苦しくなって咳をした瞬間、N氏はハッと我に帰り、部屋の窓を片っ端から全開にしていく。
最後の窓を開けた時、火災報知器が鳴っているのが聞こえた。プーはもはや犬とは思えないような形をして床に倒れている。妻はやっと事態を把握したようで、慌てたように消防に電話をかけていた。
煙は外へと流れ、徐々にプーから立ち昇る煙の量も収まってきたが、呆然と立ち尽くすN氏は、この状況を全く理解できなかった。とりあえず、消防が来るのを待とう。そう思った時にはN氏は卒倒していた。
N氏が目を覚ますと、目の前にいたのは消防士ではなく、スーツを着た2人組の男が立っていた。慌てて部屋を見回すと、プーの「残骸」がそこに横たわっていた。自分の意識が途絶えるまでの経緯をゆっくりと追おうとする。N氏は妻の膝に頭を乗せ、ソファの上に倒れていた。
もう一度、スーツを着た男たちに目を向けると、一人はどこかで顔を見たことがあるような気がした。切れ長な目に、すっと通った鼻筋、綺麗にジェルで整えられた髪の毛、どんな女性も楽々と射止められそうな感じのいい微笑みを、切って貼ったように口元に浮かべている。きっとこの男は、どこかの国でマフィアに襲われてもこんな風に微笑みを浮かべ続けるのだろう。そこでN氏はこの男が誰だか思い出す。そうだ、社長だ。介護用ロボットを世界で初めて一般家庭で実用化に成功させた、本社の社長がそこにいるのである。
どうして社長がここに?そんな疑問を当人にぶつける暇も与えず、もう一人が特徴のある鼻声で話し始める。
「ようやくお目覚めになられましたか。まさか倒れるとは思っておりませんでして、私たちも驚きましたよ。いやいや、一番驚かれたのは言うまでもなくあなた様でしたね」
冗談を言っているつもりなのだろうか。自分で言ったことに自分で笑っている。その鼻声の男は、見たことがない。その生涯を通じて何度人に注意されただろうかと思わせるような猫背に、シンプルで無機質な縁のない眼鏡が特徴的だ。社長の横に並ぶと、同じようなスーツを着ているというのに、まるで印象が違う。
眼鏡の方が一人で笑い終えると、訪れた静寂に溶け込むような完璧な低い声で、社長の男は話し始める。
「申し遅れてすみません。私たちはあなたの会社の親会社であるXカンパニーの者です。申し遅れてすみません。私たちは決してあなたを驚かせにやってきたわけではありません。だから、今から話すことを落ち着いて聞いてください。いいですね」
動物のドキュメンタリー映画のナレーションのようなその声に、N氏はうまく内容を理解することができない。返事を待たずして社長は話を続ける。
「我が社は現在、ご存知の通り介護用ロボットの実用化によって大きな成功を得ています。私たちのロボットは数万台の売り上げに昇り、この業界においてほぼ独占状態になっていると言えるでしょう。それもこれも、もちろんあなた達のような優秀な社員に恵まれたからです。お礼を言わなくてはなりません、ありがとうございます」
この男は何故、こんなことを話しているのだろうか。そんなことより、ついさっき愛犬のプーが急に異音を発し、煙をあげて「壊れた」んだ。そこに横たわるその残骸、それはプーなのだ。犬のプーなのだ。
そう言おうとしたが、乾ききった口はうまく話ができず、プー、プー、と辛うじて声を出すのが精一杯だった。
それを聞いて、眼鏡が不快な声で笑う。
「そうですね、これはあなたの愛犬、プーです。犬のプー」社長に続いて、眼鏡がニヤニヤしながら言う。「プー」
「この件であなたのことを非常に驚かせてしまい申し訳無いのですが、もうお分かりの通り、あなたの愛犬、つまりプーさんはロボットです。我が社が新たに開発を進める、家庭用ペットロボットです。今回は社員の中から、委員会の厳正な選考に基づいてあなたがサンプリングの被験者となりました。この家庭用ペットロボットは、主に独身家庭の癒し的存在を目指し開発されているものです。現在この国の自殺者は年々増加傾向にあり、その多くがあなたと同じ年代の若いサラリーマンです。不景気とはいえ、未来を担う優秀な若い人がこのように自らの命を断ってしまうというのは、私たちとしても大変遺憾に思うところであります。それはそうとして、そんな年代の多くの人々に今必要なのは、ずばり『癒し』ではないでしょうか。疲れきった体で家に帰って来た時、そういった癒しによって救われ、幸せを感じられるのは、あなたも良くご存知になったと思います。しかし癒しと一概に言ったところで、多くの癒しにはリスクがついてきます。そして大抵のリスクはあなたを傷つけます。恋人には浮気をされ深く傷つきます。最近は使う人も多くなりましたが、ドラッグはあなたを肉体的に破壊します。私はやったことがありませんがね。煙草もそうでしょうが、なかなかやめられませんね。経済的には痛手となります。そういった多くのリスクを持たない最高の癒し、それこそが我が社が開発するペットロボットです。ロボットですから食事は本来要りませんが、本物のペットのように食べることもできます。排泄の機能は我が社も開発には苦労しました。優秀な科学者のおかげです」
そこまで一気に話し終えると、横でニヤニヤ笑っていた眼鏡が急に誇らしげな表情で胸を張る。どうやらこっちは科学者の一人らしい。
思考の片隅でなんとか理解を試みるN氏は、一つ一つの単語としてしか理解できない。
自殺、開発、排泄、プーさん。
「そうですね、我が社は社員に恵まれています。本当に。そういった訳で、我が社は秘密裏にあなたに協力をしていただきました。もちろん、この件で少なからずあなたにはご迷惑や不快感をかけてしまったので、報酬はお渡しいたします。ここに報酬を用意していますので、どうぞお受け取りください。おっと、そうでした、あとは数問の簡単なアンケートに答えていただかなければなりません。とりあえず今はペットロボットに関する質問の欄だけでよろしいので、数分で終わらせられると思います。それを書きおわったところで、サンプリングは終了です」
サンプリングは終了です。N氏は頭の中で繰り返す。
「実はですね、このような形で実験を終わらせてしまうのは想定外だったのです。当初計画していた予定ですと、あと二年サンプリングを行うつもりだったのですが、計算外、とでも言いましょうか。あなたの普段の行動データから算出されたロボットの連続稼働時間をかなり低く見積もってしまったようで、内部システムが磨耗してショートを起こしてしまいました。あなたにこのような形で、こんなに早くお伝えしなければならなくなってしまい、私は非常に残念に思っています。もう少し開発の余地がありそうですね」
眼鏡の科学者は猫背に戻り、ぶつぶつと一人で愚痴を言い始めた。妻が不意に立ち上がって、キッチンの方へ向かう。水を持ってきてくれるようだ。N氏はここでようやくちゃんとソファに座り二人の男と向き合う。
「まぁ、ご心配はいりません。あなたの協力は必ず無駄にしません。我が社は10年以内に必ずこのペットロボットの実用化を成功させます。ちなみに、計画は予定より早く終わりましたが、報酬は予定通りの額でご用意しておりますので、どうぞ、お受け取りください」
床に置いてあった重そうな鞄を眼鏡が持ち上げ、N氏の方へ持ってくる。
話を理解しているのかいないのか、N氏は自分でもわからなかった。しかし、喉の奥から今にも何かが出てきそうな感覚と、両手が震えているのは確かなことだった。悲しみ、あるいは怒りとも言えない何かが、N氏の中に徐々に広がっていく。
なかなか鞄を受け取らないN氏に、社長がシルクのような綺麗な低音で話しかける。
「Nさん、お分かりいただけましたか?」
眼鏡がそれに継いで何か言いかけた時、N氏は反射的に眼鏡の科学者を殴り飛ばしていた。一瞬の出来事に部屋の空気が凍りつく。それから眼鏡がのろのろと体勢を立て直そうとするので、N氏はもう一度彼に殴りかかろうとする。
しかし、その手は社長の手によって制圧される。後ろから意図も容易くN氏の両腕を締め上げている。反抗する気力もなくなったN氏はその場に崩れ落ちる。殴られ慣れたように、相も変わらずニヤニヤした科学者が立ち上がる。無力感という名の刻印を押し付けられたようなN氏の表情は、次第に血色が引いていき、そして真っ白になった。
社長の男が手を離し、科学者に何か小声で告げると、「では」と言って玄関の方へ歩いていく。
リビングに転がるプーの、少なくとも数時間前まで愛犬として可愛がっていたプーの残骸を見た後、N氏は最後の力を振り絞って声をかける。
「絶対に許さないからな」
科学者の方は聞こえなかったように、不快な笑い声を残して出て行ったが、社長の背中は玄関のところで止まり、振り向いた。例の感じのいい微笑みは、未だそこに貼り付けられていた。
気が付くとN氏は、ひどく泣いていた。驚きと悲しみと、憤怒の涙。無力の涙。妻がやってきてN氏を抱きしめてくれる。N氏は妻の胸に顔を埋め、子供のように泣いた。抑えきれない感情が言葉にできず、全て涙となって出てきた。妻が背中をさすってくれる。愛する我が妻。
N氏は初めてこんな風に妻に抱かれた。きっと社長はもう出て行っただろう。妻の慰めによって、N氏は癒される。愛しき妻の胸に抱かれ、どこかで未だに聞こえる機械の音を聞きながら。
妻の名前を呼ぼうとした時、N氏は自分がそれを知らないことに気付いた。
癒しの実験