長風呂
じっとりとした暑い日が続いていたが、今夜は心持ち爽やかな風が吹いている。
風呂でゆっくりしたい気分になって、狭いが深さのある風呂桶の、その中いっぱいにぬるい湯を張った。
体を折りたたんで顎まで沈めると、頭もシモもふやけて行くみたいで心地が良い。まだまだ宵の口で、外では鳥が鳴いているようだった。
そうして湯船の中で目を閉じ、じっと耳を澄ましていると、誰だか声を掛けてくる者があった。
「疲れてんの?」
タイル貼りの風呂場であるのにも拘らず、その声は全く反響せずに私の耳に届いた。
喉をそらせ、風呂桶のフチに頭を乗せて答えようとすると思わず大きなため息が出た。せめて残りの息を昇華させてやろうと少し声を張る。
「疲れてないよ。」
「ねぇ、どうして?」
その質問はため息の理由についてか、それとも、それを誤魔化そうとした私についてだったのか。
「別に何て事ない。ときどきあることだよ。」
適当に言ってから、これこそ先の問いの全ての意味に答え得る台詞だと、無言で己に賛辞を贈る。
幼いころは、人となんとなく会話するにも苦労したものだが、最近はこうして優しい言葉を選びながら、その答えをほんのり含んで受け流すことができる。私も成長したものだ。
「……何かあったの?」
折角良い気分で居たのに、さっきより潜めた声で質問を重ねられる。
私は少し苛ついた。私の言葉から答えを受け取らなかったのか、と、己は適当に言っておきながら勝手な事を考える。
それでも律義な私は、しかし言葉が出たがらないので、喉を絞めて答える。
「あったって程のコトじゃない。過ぎたコトだし。奴のことは全く肯定できないが、私だってもっと違う方法をとるべきだったという事は分かっているんだ。」
「そんなことない。きみは悪くない。」
「いや、立場的にも、私はあのわからんちんの言葉をもっと寛容に聞いて、それから言葉をかけるべきだったのだ。わかっている。」
これ以上まじめに答えていると、また身にならない毒を吐いてしまいそうで私は口を噤んだ。
灰汁を流し出そうと思って湯船に浸かっていたのに、頭は痛くなってくるし、口の中は言葉を重ねる度に渋くなって舌をしびれさせる。
元はと言えば奴が悪いのだ。いちいち話しを大前提から掘り返し、それを相手のためだと思っている。年長者だから自分は常に“教える”立場で居なければならない、すべてを説明してあげなければ、と、思い込んでいるのだ。相手を卑下している事を自覚せずに不快な言葉を並べ、その上、こちらが批判の意見を述べれば、年頃だからと言って簡単に片づける。この何とも歯がゆい、行き場のない怒りを私はまだ持て余しているのだ。
忘れたい。忘れさせてくれ。
「あまり大変に思っちゃあだめだよ。」
私を再び鬱々とした、煩いごと渦巻くドツボへと押し戻した張本人がそう言った。
夏場に張ったぬるま湯は、そうそう温度を下げず、少し体が暑く感じたので桶の中で身じろぐ。
「疲れたらいつでも言って。話しを聞いたげるよ。」
ああ、頭痛がする。
こいつは私に何度も暗闇を振り返れと言うのか。二度も三度も、この汁を舐めろと言うのだろうか。
いや、そんな事はない。きっと。
親切心からだろう。たぶん。
私は一度湯の中に頭のてっぺんまで浸してから顔を上げ、滴る水を手で乱暴にぬぐった。
「ありがとう。折角だけど少し眩暈がしてきたから、もう上がるよ。」
桶の栓を抜いてから、湯船を出ると本当にふらりとして壁に手をついた。
ほてった体には夏の夜風も冷たく感じる。
乾いた硬いタオルで体を拭いた。
あの声はもう問いかけては来なかった。
長風呂
他のとこで投稿してたやつです