優しい雨の音、僕は耳を澄ました。

新作の前にちょっとした短編を。

 雨が上がった。僕は傘をすぼめて空を見上げる。解散して群れた雲たちの隙間からは空の碧い瞳が覗いていた。アスファルトからはそこはかとなく生ぬるい匂いがして、地面に視線を落とすと水溜りができていた。水溜りの水面には青空をたたえる白い巨大な雲たちが描かれていた。空にかぶさる雲はそこら中にあって、どれも大きく明白な輪郭を携えている。その雲の隙間から僕をみすえている本来の青い空の瞳。それはいささか眩しい。僕は傘にしたたる雨粒たちを掃って、雨上がりの空の下を歩いた。雲は徐々に分散していく。青い空は広がっていく。
 ゆっくりと表情を変貌させていく空を見つめながら僕は濡れた地を踏んだ。傘からしたたる雨粒が水溜りに落ちる。水紋を描く。扁平な水面に模写されていた世界は密かにたゆたう。僕は傘の先で地を突く。雨とたわむれ終えた建物たちを眺める。木製の外壁。扉からは鈴の音がした。なかなか雰囲気のいいカフェだった。その外壁をみて僕は無性にコーヒーを吞みたくなった。だからそのカフェにへと足を運ぼうとした。するとカフェの隣に床屋があることに気づいた。赤と青と白の三色がねじれて螺旋を描くように延々と回転している。それを見ていると僕は自分の髪が気になった。前髪に触れてみるといつの間にか僕の前髪は頬くらいまで伸びていた。僕は生まれつき髪が伸びるのが早いのだ。僕はその床屋へ行こうと思う。足を踏み出す。けれど、またしても僕は別の建物に視野を奪われるのだった。
 一目だけでは、その建物に与えられた役割がなにか判断できなかった。カフェだと言われれば僕はそうだと思ってしまうし、美容室だと言われればなるほど、と肯いてしまうだろう。しかしその建物はどちらとも違った。どうやら雑貨屋のようだ。白い壁で明るい茶色の屋根。その扉を挟むように立派な樹木が二本起立している。風に揺れる木の葉たちの影が白い壁でおどっていた。僕はその雰囲気に興味をそそられて、気がつけば足取りの舵はそちらの方向に変更されていた。
 扉を押すと大きい鈴が鳴った。それはグラスの中で転がり触れ合う氷の音にどこか似ていた。やがて鈴が落ち着きを取り戻す。そのあとに残るのは沈黙だった。誰もいないのだろうか。僕は店内を見渡した。いろいろな木材でできた商品棚や台があちらこちらに置かれていた。その上には数々の商品が並んでいる。雑貨屋というより、お洒落な文房具点のようだった。並ぶそれらの商品は筆記用具が大半をしめていたのだ。さらに店内の奥にすすむ。木でできた大きな机があって、その机の上には鮮明な緑をした観葉植物とレジの機械があった。そのレジの方へと足を運ぶ。丸い木の椅子に腰をおろしている女性の姿が目にはいった。そして必然的なことのように僕はその女性に思わず感嘆の声をあげそうになってしまった。
 彼女のおしとやかな瞳は、まるで冬の終わりから春を迎えるまでの間隔の中で残る雪のような愁いを佩びている。カーテンの隙間から覗く日差しのような視線は自身のひざ元にへと落とされている。小さい茶封筒があった。封はとうに開封されており、テーブルに置かれている。その封筒の上に重なって置かれたレターナイフ。そのレターナイフに僕は魅力を感じた。素敵なレターナイフだった。白く光をまとった刃はどんな刃物よりも優しい。まるで彼女の瞳のようだと僕は思った。僕は彼女の方へと視線をやる。肩に触れるくらいの長さをした茶色い髪は仄かに夕焼けの色のようだ。窓から忍んだ光が彼女の髪を一部こんじき色にする。彼女が泳がす視線の先には手紙があった。けれどその手紙が新しい初見のものとは思えなかった。繰り返し読まれた本のようにその紙は貫禄を備えていたのだ。手垢が滲んで茶色っぽく変色している。どうやら何度も再読しているものらしい。大事な人からの手紙なのだろうか。僕はそう予想してみる。そんな僕に彼女はようやく気づく。「あ、すみません。気づきませんでした」
 一瞬僕はそれが彼女の声だとは気づかなかった。しんとした静けさの中でその透きとおる声は「声」と判断されないほどに美しかった。澄んだ川面に手を及ばせて優しく掬ったような声調だったのだ。僕ははっとして、「いえいえ。生まれつき気配が薄いんです。僕」と言った。
 ふふ、と彼女は微笑んだ。私も一つの作業をしていると他の事に気づかなくなるんですよ。後半の彼女の声は僕の耳にはとどかなかった。というより僕の耳は蓋をしたみたいに音から遮断されていた。つまり、僕は彼女に見蕩れていたのだ。時間は僕のなかで彼女の微笑みの瞬間から停止していた。森の茂みの中で揺れる花を擬人化したかのような美しさを彼女はまとっていた。どういう成長の道なりを歩めば、これほど透明に近い瑞々しさを人間は備えることができるのだろう。彼女はすこし風に吹かれてしまえば散ってしまいそうな桜のようだった。どうかされましたか? と訊ねられて僕は意識を戻す。
「いえ。なんでもないです」と僕は笑いながら言った。笑っているのではなく照れているのだ。「それにしても雰囲気のいいお店ですね」
「ありがとうございます」彼女は礼を言った。手にしていた手紙を二つに折る。それをそっと机に置いた。「静かなところが好きなんです」確かに店内には音楽もなにも流れていなかった。その静けさがさらに彼女を誇張して魅せた。
「ええ。僕もこの感じ好きですよ。落ち着きますね」
「静かで落ち着ける場所を嫌う人なんていませんよ。もしそんな人がいるなら、それは沈黙恐怖症くらいです」僕はそうですね、と言って笑った。彼女はふふ、と嬉しそうに微笑んだ。「どうぞゆっくりしていってください」
 僕はうなずく。そして店内を回るそぶりをした。本の栞や手帳が並べられた棚に隠れて僕は彼女をみつめた。彼女は手紙を読み終えたらしくそれをまた机に添えるようにそっと置いた。次に彼女は机の抽斗をあける。抽斗のなかは見えなかった。そこから彼女は新たな封筒を取り出した。その封筒に先ほどの手紙を入れる。そして碧いガラスペンをどこからか取り出して封筒になにか記した。彼女はその封筒を手に持ちながら椅子から立ち上がり、僕の方へと歩いてきた。僕はとっさに隠れた。彼女は店の外にでていく。しばらくもしないうちに戻ってきた。手に持っていた封筒はなかった。その後彼女は椅子に坐って文庫本を読みはじめた。
 店内を回っていると、彼女が使っていた種類と同じレターナイフがあった。黒いガラス製の持ち手で、刃の部分がながい。値段は案の定結構したけれど、僕はそれを躊躇なく手に持って彼女の元へと向かった。
「これ私も使っていますよ。素敵ですよね」と彼女は言った。僕は微笑むだけだった。妙な緊張をしていた。
 会計を済ませたあとで、「あの」と僕は彼女に訊ねた。何でしょう? と彼女は首をかしげた。「明日もきていいですか?」そう訊ねる。「やめてください、とお客様にいう店員のほうがおかしいと思いますよ。わざわざ確認とらなくても構いませんよ」と彼女は言った。ありがとうございます。と僕は礼を述べる。「ここの雰囲気が気に入っちゃって」それはありがとうございます。彼女はまたふふ、と微笑んだ。葉の隙間からこぼれる光のような優しいその微笑みに、思わず僕は見蕩れてしまった。けれど彼女にたいして謎も残った。

 2
 翌日も梅雨の季節を確信させる雨は降りしきっていた。雨は夜のカエルの鳴き声のように止むことはなかった。けれどその雨は彼女の微笑みのように優しい印象を抱かせた。優しい梅雨の雨だった。この雨季の季節が僕は嫌いではなかった。僕を取り囲む世界はしめりを佩びていた。
 僕は傘をさして外を歩いていた。傘を叩く執拗な雨はどこか若輩なおどけなさを感じさせる。柔らかい雨粒はなにかに接触すると泡沫みたいに割れた。優しくて青臭い雨だった。傘の針金をつたう雨は三百六十度どこからも垂れ、僕の身を囲むようだ。足を踏むとぴちゃりと不思議な音がする。そして気づけば僕の視界を占領するのはあの白い壁だった。そして二本の樹木。若い雨を受けいれて快く濡れている。そして僕は傘をすぼめて扉を押した。氷のような鈴の音。そしてその余白にたたずむ沈黙。彼女がいる。彼女はすぐに僕に気づいた。
「あ、こんにちは。待っていましたよ」彼女は言った。僕は驚いた。その顔をみて彼女は「とか言って」と付け足して笑った。僕は頬を赤らめた。多分。いや絶対。
「梅雨ですねえ。また雨です」
「いいじゃないですか。私は好きですけどね。雨。なんていうのかな? 街を洗っているみたいで」
 僕はこくこくと肯いた。僕も雨は好きです。「でも僕には空が溜め込んだ不満を吐き出しているようにも思えます」と言った。
「そう考えたことはなかったです。雨ってだけでも人間それぞれの考え方があるんですね。うーん深い」彼女は肯いた。そうですね、と僕は微笑んだ。彼女は微笑みをかえした。
 相変わらず店内は静かだった。彼女はゆっくりしていってください、と僕に言ってレジが置いてある机にへと戻っていった。僕はまた店内を回るそぶりをした。そして彼女の行動を見つめていた。なんだかストーカーと同じことをしているみたいだ。いや、あまり変わらないのか。そう思うとストーキングをする人間の心理がすこしばかり理解できたような気がした。
 机には一枚の封筒があった。茶色くて細長い。彼女はそれを手に取る。それからレターナイフをどこからか取り出した。レターナイフの刃は封筒の開け口の隙間に侵入し、そこから滑らかにその隙間を広げていった。レターナイフを引き抜く。一通の手紙がでてきた。それは昨日みたあの手垢が滲んだ古い手紙とおなじものだということに僕はすぐ気づいた。
 僕は近くにあった手帳を手に取り、それを彼女のもとへと持っていった。べつに手帳なんて必要ではないけれど、彼女との接近のためだ。ありがとうございます。と彼女は言って手紙を机に置き、レジをなれた手つきで打っていった。そのレジはこの空間には場違いなものに思えた。電卓もレジのとなりにあった。その電卓のほうがまだ空間と馴染んでいた。僕は財布を取り出しながら「大事な人からの手紙ですか? それ」と訊ねた。彼女はそうです、と肯いた。「旦那からです。べつにメールでもいいんですけれど、こだわりです。私の。ペンで文字をかくのが好きなんですよね。しかも最近は手紙というものが離れていっている気がするし」
「素敵です」それは素敵なこだわりに思えた。たしかに彼女が紙になにか文字を書いている場面を想像してみるとその情景はありありと描かれた。とても鮮明に。想像のなかの彼女はあの碧いガラスペンでなにか文字を連ならせている。さらさらとペンを走らせている。茶色い髪がその仕草とともに揺れる。光に触れて一部がこんじき色となる。その髪を耳にかける。じっと脳の隅に残っていた雨の音がやがて消えて、僕は完全に妄想の世界に浸透していた。けれどありがとうございます、という彼女の声に僕ははっとして目を醒ました。いけない。いけない。
「旦那さんとは離れたところに住んでいるんですか?」
「ええ。旦那の事情で、離れたところに住んでいました」
 住んでいました。彼女の言葉のその部分だけが再度、脳に流れる。僕は彼女の心情を悟った。悪いことを訊いたなと申し訳ない気持ちになった。それと同時に彼女の話に矛盾も覚えた。じゃああの手紙はいったいどういう――。
 ですが、と彼女は続ける。「三年くらい前ですかね。亡くなりました。事故らしいです。突然いなくなっちゃいました」彼女は顔色もかえずに、訥々となることもなく、そう話した。過去の記憶にひたることもなく。そのときの彼女には感情がなかったように思えた。説明するような口調だったのだ。他人事のように言うので、僕もあまり同情を覚えていないことに気づいた。彼女は僕に同情されないように、そんな口調で話したのかもしれない。彼女の髪が揺れる。針の穴に定まらない不安定な糸みたいに。空間の空気はかわることはなかった。重くなることもなければ、息苦しくなることもなかった。冷徹な空気のままだった。
「すみません」と僕は謝罪した。「嫌な記憶を思い出させてしまって」
「三年もたてばどうってことないですよ」慣れました。彼女はそう言って色褪せた手紙を手に持った。「それに彼はまだいますから」
 そうですね、と僕の口元から声が洩れた。大事な人は亡くなっても心の中で生きつづけるのだ。僕はそう思った。しかし彼女が言った発言の意味はそういうことではなかったことに僕は気がつく。彼女は言った。彼はいまでも毎日、手紙をくれるんです。朝にポストを開けると封筒が入っていて、それは彼からの手紙なんです。それが楽しみで楽しみで。彼女は嬉しそうに微笑んだ。僕はその微笑みをみて、昨日のあの彼女の行動を思いだした。
「じゃあその手紙は――」
「そうですよ。彼からの手紙です」
「でももう亡くなったんじゃ」
「ええ。彼は亡くなりましたよ? でも手紙がくるから私はそれでいいんです」
 どういうことだ。と疑問を浮かぶと同時に「なるほどな」と肯く僕もいた。違う。彼女は無意識に同じ手紙のやりとりを繰り返しているのだ。そうじゃなければ矛盾している。とてもわかりやすく。僕は彼女のうれしそうな表情を見る。彼女は手紙をひろげる。その手紙は昨日のものと同じだ。どんな文面で、どんな内容が書かれているかはしらない。けれど昨日と同じ手紙だということが僕にはわかる。
 僕は気づく。彼女はやはりどこかが欠如してしまっている。彼女の視線は手紙を占領する活字の並びにながれていく。指と指の隙間から掬った水がすり抜けていくような眼差しだ。そしてそれは比喩ではないような気がした。彼女は水だ。実態がなく、澄みきってひんやりとした透明の水なのだ。彼女はどこかを致命的に欠如している。彼女のなかの大儀的な役割を任せられていた何かが。すでに欠けてしまっているのだ。
 彼女は大事な人が亡くなったときから静かに狂っていったのだろうと僕は思う。僕はその変貌していく彼女を見据えていたであろう静寂をしらない。その静寂を隠すやさしく若い雨をしらない。何度も彼女は彼からとどいた手紙を読み、それを新たな封筒にいれて、何事もないようにまた郵便受けに戻す。それを翌朝になると取り出す。そしてその手紙に再び目をとおす。それを繰り返す。彼女は幾度も手紙に広がる文章を反芻するのだ。次にどんな文章がきて、どんな内容かも把握しているのに。
 彼女は手紙を読んでいる。僕は拳を握る。「あの」と僕は彼女に言った。「まだ買うものがありました。追加してもいいですか?」構いませんよ。と彼女は微笑む。僕は手紙の封筒と彼女が使用しているのと同じ碧いガラスペンを購入した。ガラスペンは結構な値段がしたが構わなかった。僕が彼女を救う。はたしてできるだろうか? そう自身に問う。そんなことをして、彼女が喜ぶとは思えない。僕はずっと彼女に嘘をついていられるだろうか。あらゆる問いが僕の脳裏を埋めていったが、やがて放り投げた。そんなこと、僕が知ったことか。雨は静かに街を濡らす。空が溜め込んだ不満を吐き出して、街を洗っている。

 3
 翌朝。雨は止まった。覆っていた雲は碧い空白にへと溶解されていき、隙間からのぞく朝の瞳が僕をみる。こわばりが解けた空は水のようにも思えた。分離した雲の隙間を碧い空の川が流れる。そこから朝の光がこぼれていく。それを大地は掬ってゆっくりと蓄える。雲が散れていく。群れていく。雨の匂いが仄かにまだ漂っている街のなかで僕は懐から封筒を取りだす。封筒の中には「僕が書いた」手紙がある。彼女の「大事な人」を演じた僕の手紙がある。
 ポストを開くと予想通りすでに封筒があった。その封筒を取り出す。封筒のなかはやはり昨日と同じあの古い手紙だ。彼女が踵をかえして戻した手紙だ。それを手にとる。そして僕は躊躇なくそれを破くのだった。紙切れは濡れた地にへと舞い落ちていく。その様子をみつめる。その紙切れたちはまるで僕のようだった。
 封筒があった箇所に僕は新しい手紙をそっと置く。子供が目を覚まさないようにプレゼントを置くクリスマスの夜の母親みたいに。そしてゆっくりポストをしめた。それから僕はそのポストから離れていった。彼女がポストを開くことを僕は祈った。いや、開くだろう。これでよかったんだよな? 僕は自身に問う。わからないさ。それが間違った行為なのかなんて。そんなこと、僕が知ったことか。
 雲が輪郭を変貌させていく。静かに狂っていく。僕はその変貌していく雲を見据える虹をしっている。  END

優しい雨の音、僕は耳を澄ました。

前作の「パラレルワールドの静寂」で書き足りなかった部分をぶつけた作品です。前作とどうしても表現が似てしまう。苦戦中です。ちなみに次回作も恋愛です。

優しい雨の音、僕は耳を澄ました。

【短編】「梅雨ですねえ。また雨です」と僕は言った。 「いいじゃないですか。私は好きですけどね。雨。なんていうのかな? 街を洗っているみたいで」 僕はこくこくと肯いた。僕も雨は好きです。「でも僕には空が溜め込んだ不満を吐き出しているようにも思えます」と言った。 「そう考えたことはなかったです。雨ってだけでも人間それぞれの考え方があるんですね。うーん深い」彼女は肯いた。そうですね、と僕は微笑んだ。彼女は微笑みをかえした。(本文の一部を引用)

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更新日
登録日
2014-06-29

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