不快な星空


 月明かりと外灯の微かな光だけが照らす学校のグラウンドは、ひどく冷えきっていた。
 乾いた風が音を立てて通り過ぎる。巻き上げられた砂利が入らないように、荒川修一は目を細めた。
 修一は一人、誰もいない校庭で準備運動をする。全身の筋肉をときほぐし、呼吸を整えながら軽く走る。そうして身体の調子を確認してから、彼はスタート位置についた。
 あたりは暗く、視界はひどく悪い。
 しかし集中した彼には、そんなことは些細な問題に過ぎない。静かに息を吸い、走るために精神を研ぎ澄ませている今の彼にとって、視界の悪さは何の障害にもならない。
 そして、彼はスタートを切った。
 踏み出してすぐ、身体の軸が大きく傾いた。右足と左足のバランスがうまく取れていない。慌てて修正しようとするが、それは簡単なことではなかった。
 遅い右足に左足を合わせようとすると、今度は逆に右足が早くなってしまう。そして左足に揃えようとすると、またバランスが崩れる。
 精密な天秤に小さなおもりを少しずつ移動させているみたいだ。かたんかたんと左右に揺れる。次第に揺れは小さくなっていく。しかし、それを完全にとめることはとんでもなく難しい。
 そして結局走り切るまで、その左右のバランスが整うことはなかった。
「はあ、はあ、はあ……!」
 修一の呼吸は荒れている。酸素を欲し、喘ぐように息を吸う。
 相変わらず、ひどい走りだった。
 この走りは、人に見せられるようなものではない。夜のこの時間を選んだのは正解だった。
 ストップウォッチを使ったわけではないが、自分の今のタイムが信じられないくらい酷いということは、わざわざ確認するまでもなかった。
 ひどい結果になるだろうということは、最初から分かっていた。それは覚悟の上だった。しかし、こうもはっきりとその現実を目の前につきつけられると、胸の奥が握りしめられたように痛んだ。
 修一は歯をくいしばった。
 頭上には満点の星空が広がっている。しかし今の彼には、その輝きを楽しむ余裕はまったく無かった。

 □

 終業のチャイムがなった。
 担任の先生がやって来てそのままホームルームも終わると、教室は放課後の喧騒に包まれた。
 これから遊びに行く者、部活に行く者、あるいは勉強をする者。色々な生徒達が友人と語らい、一日の授業が終わった開放感を楽しんでいる。
 修一はそんな彼らに加わらず、そのまま昨日までと同じようにさっさと家に帰ろうと思ったが、ふと、少し陸上部の様子を見に行きたくなった。
 もう自分とは何も関係がない部活だ。
 しかし、一度見に行きたいと思ったら仕方がない。ただ様子を見るだけでもいい。走っている人間を見るのは、それだけで修一にとっては楽しいことなのだ。
 見に行こう。
 修一はそう決めると、鞄を片づけて教室を出た。
 下駄箱で靴を履き替え、そのまま校庭に向かう。
 慣れ親しんだ部室棟が見えてきた辺りで足を止めた。
 既に陸上部の何人かが準備を始めていた。修一はそんな彼らの様子をただ眺める。
 時間は流れ、やがて彼らは練習に入った。
 彼らの走りはみな遅い。修一からすれば、もっとがんばれよと言いたくなる。――しかし、今の自分のそれに比べれば、それでもまだずっとマシなのだ。
 走っている人を見る。苦しそうに汗を流しながら走っている人がほとんどだ。楽しそうに走っている人は僅かしかいない。
 しかし、修一はその両方共が好きだった。走っている時、半ば空っぽになりかけている心にあるのは、その苦しみと、それと同じくらいの楽しさだ。彼にとって、走る苦しみと喜びはまったく同じものだった。
 修一は胸を押さえた。
 やっぱり、見るのはやめておけばよかった。
 少し前まで、自分はあの集団の中に混じっていた。だけど今、こうして眺める陸上部の彼らは、あまりにも遠くにいるような気がする。
「荒川」
 気づけば近くに陸上部の顧問がやって来ていた。そして困ったような顔で修一の名を呼んだ。
 彼のどこか咎めるような声を聞いて修一は察した。自分がこうして見ていることで、部員である彼らを緊張させているのだ、と。
「ごめんなさい」
 修一は頭を下げると、そのまま踵を返した。顧問は何か言おうとしたようだったが、結局その言葉が実際に発せられることはなかった。
 無言の視線をただ背中に感じていた。
 なんてみじめなんだろうと、吐きそうな心地で修一は思った。

 部活をやっていた頃に比べると、随分と早い帰宅だった。
 やることがなく、時間を持て余してしまう。仕方なしに学校の宿題に手をつけたのだが、修一の通っている高校は特別凄い進学校というわけでもないため、そんなに時間をかけることなく全ての課題を終えてしまった。
 かといって特にすべきこともない彼は、そのまま勉強を続けた。
 そしてただ黙々と参考書を読んだり問題集を問いたりしていると、夕飯の時間になった。
 父は仕事で遅くなるらしく、母と揃って食事をとる。それから数十分ほど部屋で休んでから、運動服に着替えて家を出た。
 ひんやりと冷えた外気が心地よい。
 いつもと同じ時間帯。太陽が沈んだこの時から、修一の練習は始まる。
 彼は夜の河原へと向かった。

 荒川修一は小さい頃から走ることが好きだった。
 そしてさらに、彼には走る才能があった。小学校、中学校、そして高校と、彼は年齢が上がるにつれ、その才能をどんどん開花させていった。
 色々な大会で賞をとった。そういった勝利を収めることは、すごく簡単だった。特に意識して努力をした記憶はない。
 修一は当たり前のように、誰よりも速く走ることができていたのだ。
 もちろん、特に意識していないとはいっても、努力の量自体は普通よりも随分多い。ただ彼にとってそれは娯楽と同義であり、苦痛でもなんでもなかった。――より正確に言うならば、彼の場合、その苦痛すらも楽しみに変えているといえた。彼は苦しんで走ることを楽しんでいたのだ。
 修一は勝ち続け、そのタイムを更新し続けた。
 彼が走るのは短距離だ。誰よりも速く走りだし、誰よりも前を走り、そして、誰よりも先にゴールすればいい。ペース配分がどうとか、余計なことを考える余地はない。ただ速いものだけが勝てる、そのシンプルさが修一は好きだった。
 修一はそうして勝利を積み重ねていく中、きっとこのまま頂点まで行くことができるだろうと、何の根拠もなく思い込んでいた。
 何事にも流れというのがある。そして修一は、完全にその流れに乗っているといえた。
 速いということにたどり着くための道が、彼には見えていたのだ。このまま辿っていけば、すぐに頂点までたどり着くことができると、感覚的に分かっていた。
 ――が、修一は、その流れからはじき飛ばされた。
 それは一瞬の出来事だった。
 朝、いつも通りの時間に家を出て、学校に向かって自転車を漕いでいるところに、車が突っ込んできた。そして交通事故。
 幸い命にはなんの別状もなかった。怪我も軽く、せいぜい足の骨に小さなひびが入った程度だ。
 それ自体は大したことがない。しかし、問題はその後だった。
 その怪我の後遺症が、残ってしまったのだ。
 軽い怪我だった。しかし、その場所が少し悪かった。神経に問題が生じ、以前と同じように足を動かすことができなくなった。
 しかしそれは、日常生活を送る上で支障があるようなものではない。歩く。走る。自転車を漕ぐ。普通に生活する上で必要なそういった動作は何の問題もなくできる。――だが、陸上競技となるとそれは別だ。
 タイムは絶望的に落ちた。
 右足のその後遺症をかばおうとすると、今度は左足が遅くなる。そしてそれをかばおうとすると、次は右足が遅れてしまう。
 あとは延々とその繰り返し。右と左を行ったり来たり。
 当然、以前と同じようなタイムを出すことなどできるはずがない。
 荒川修一は絶望した。
 その情けない走りを人に見せたくないため、陸上の部活には行かなくなった。
 が、そんな後遺症ごときに負けてられるか、という気持ちもあった。今ではもう見えなくなってしまったけれど、確かに、一度は頂点に続く道を見ることができたのだ。だから頑張ればまだ希望はあるかもしれない、と。
 そして彼は、一人、夜に練習を始めた。
 絶対に元通りにはならないと医者は言う。しかし、そんな言葉で諦められるほど彼は物分かりがいい方ではなかった。
 ただ真っ直ぐに、速さを求めることに決めた。

 □

「はあ――、はあ――っ!!」
 呼吸が乱れ、足下がふらつく。
 苦しい。今までだったらそこに楽しさも感じることが出来たはずなのに、今では純粋な苦痛があるだけだ。
「はあ、はあ……っ」
 ふらふらと歩いてから、やがて座り、そのまま寝そべった。
 星空を眺める。キラキラと輝く光が視界一杯に広がってくる。それがどういうわけか不快に感じて、修一は目を閉じてそれを遮った。
 ――歴史に名を残す偉人たちの中には、絶望的な状況を打ち破ってきた人も多い。
 まわりの人間に不可能だと言われ、無駄だからやめろと言われ、それでも諦めずに頑張り、そして成功を掴んだ人は沢山いる。彼らはきっと、まわりからすれば狂っているように見えただろう。
 普通の人間なら絶対に途中で投げ出してしまう。そんな状況に置かれながら、それでも努力を続けた彼らは、きっと正気ではない。
 俺も狂うんだ。
 修一は歯を食いしばる。
 もっともっと狂えばいい。狂気の中でただ速さだけを追い求め続ければ、やがて、以前自分がいた場所に戻ることができるかもしれない。……いや、できるかできないかは、この際考えなくてもいい。成功の有無に限らず、ただ、狂ったようにその可能性を信じるべきなのだ。
 どろどろと何かが溶けていくような気がしていた。
 自分の中にある感情。現実に対する憤りだとか、かつての自分の喜びだとか、そういった熱をもった感情が、全部ぐちゃぐちゃに混ぜられている。
 修一は深呼吸をした。
 冷たい空気が肺に入り、内側から彼を刺激した。

 気づけば新学期が始まってから結構な時間が過ぎていた。
 いつの間にかゴールデンウィークに入り、東京に下宿している修一の姉――荒川沙耶香が、その休暇を利用して実家に帰って来た。
 大学生の中には、面倒くさがって実家にあまり帰らない人もいると聞く。
 しかし彼女はどういうわけか、僅かな休みを見つけては家に戻って来る。入学したばかりの頃などは特に、週末になると必ずこちらに帰ってくるということを毎週繰り返していた。修一は下宿をした経験がないから分からないが、意外と大変なのかもしれない。
 沙耶香はそのまま特に何をすることもなく休日を家で過ごす。修一としても走るのは夜だけだと決めているため、昼間はやることがなくて家でゴロゴロしている。そうすると当然、二人きりで会話をする機会は多くなる。
「この前、私と同じ学科の子がね――」
「数学の竹中先生っているだろ? たしか、姉ちゃんが通っていた時にも居たらしいけど。その先生がさ――」
「由美子っていう、すごく馬鹿な子が居てね――――」
「アイスでも食うか――――」
 そんな他愛のない雑談に花を咲かせて、二人はだらだらとリビングで過ごしていた。
 そうした和やかな時間を過ごす中、唐突に沙耶香は言った。
「そういえば修一は、まだ走ってるの?」
 一瞬だけ返答に困ってから、
「走ってるよ」
 と正直に言った。
「でも、医者が言うにはもう無理なんでしょう?」
 そういえば姉は、昔からこういう性格だった。
 普通の人なら聞きづらいと思ってしまうそれに、特になんの躊躇いもなく踏み込んでくる。その大雑把な性格が修一は嫌いではなかった。しかし、実際に自分がやられると少し気圧されてしまう。
「無理って言われたけど、もうちょっと続けるつもり」
「そっか」
 沙耶香は笑った。
「修一は小さい頃から、走ることが大好きだったからね」
「……うん」
「まあ、あんまり無理しないようにね」
「分かってるよ」
 修一が頷くと、そこでその話は終わり、先ほどまでのただの雑談に戻った。
 胸の奥に何かひっかかるものがあったが、彼はそれを無視した。

「あれ? 荒川じゃん」
 ゴールデンウィークの中のとある休日。暇に任せ、目的もないまま地元の繁華街をうろうろしていた修一は、ふと声をかけられた。
「ん?」
「よう!」
「ああ、高橋か」
 そこに居たのは、中学生の頃に仲が良かった同級生だった。
「久しぶりだな」
「ああ。卒業してからずっと会ってなかったからな」
 高橋は笑いながらそう言った。
 この休日、特になんの予定もなく歩いていたのは修一だけではなかった。彼のかつての同級生である高橋もまた、時間を持て余していたのだ。
 そして偶然顔をあわせた二人は、一緒に話しながら繁華街を歩くことになった。
「お前の高校って、白崎だっけ?」
「ああ」
「ってことは、国枝がいるところだよな?」
「いるよ。まあ、俺とはまったく接点が無いんだけど」
 修一はぼんやりと国枝という名の女子を思い出す。髪が綺麗な美人で、男子から人気があった。
 そして高橋もまた、そんな彼女を気に入っていた一人だった。
「いいなあお前。俺、白崎に入学してたら毎日でも見に行くぞ」
「何言ってんだよ」
「お前も知ってるだろ? 俺んとこ、男子校なんだって」
「ああ、そういえば……」
「共学ってだけでもお前がうらやましいのにな。くそっ」
 高橋は悔しがる素振りを見せてから、それから修一を顔を見合わせ、二人で笑った。
「そういやお前、中学の頃めちゃくちゃ足が速かったよな」
「――ああ」
 応えながら修一は思う。
 姉である沙耶香もそうだった。どうやら他者の中にある俺に対するイメージは、走るという行為と切り離すことができないようだ。会話をしていると必ず陸上の話が上がってくる。
 そのことが誇らしく思う。しかしそれと同時に、胸の奥で何かが痛んでいるような気がする。何が痛んでいるのか、俺にはまだ分からない。
「お前の足が速かったおかげで、うちの陸上部はとんでもなく活躍ができたって聞いたぞ」
「まあ、な」
「俺はテニス部だけどさ、コートで練習とかしてる時、よくお前が走っているのが見えたよ」
 高橋は言う。
「お前、すげえ楽しそうに走るんだな。こう、喜びを抑えられないっていう感じで。……俺なんて走るのが嫌で嫌で仕方なくてさ、基礎練習のそれもほとんどサボってた。お陰で、試合中に体力が切れたりなんていう情けないこともしょっちゅうなんだけどな」
 彼はそう言って笑った。修一は同じように笑みを返した。
 そしてそこで部活の話は終わり、話題は次にうつった。しばらくそのまま雑談をして、ある程度時間が経ったところで、二人は別れた。
 修一は最後まで、彼に足の怪我のことを伝えることができなかった。

 ゴールデンウィークの連休の間、修一は毎日、夜になると河原に行って走っていた。
 何度も練習を積み重ねる。必死にやり続ければ、元通りに走ることができるようになると修一は信じている。
 もちろん、そう簡単にはできない。技術が足りないとか、そういうのとは違うのだ。身体に欠陥があるのだから、安々と克服できるなんてことはありえない。医者が不可能といったそれを、無理矢理にねじ伏せようとしているのだから。
 走って走って、さらに走って。
 しかし、何時まで経ってもうまく走れるようにはならない。――もちろん、多少は練習の成果がでてはいる。後遺症を抱えたままでも、それなりにうまく走れるようにはなっている。
 が、それはせいぜい、『かなり遅い』が『遅い』に変わったという程度。
 最初から分かっていた。そう簡単にはいかないと、分かっていた。
 しかし、毎日毎日練習を続けていくと、その不毛さに目眩を覚えずにはいられない。
 焦燥感が募っていく。
 吐きそうなくらいの不快感を覚えながらも、彼はまだ走り続ける。
 そしてさしたる成果もないまま、ただ時間だけが過ぎていく。

 連休の最終日の昼過ぎ。修一の部屋の扉が小さくノックされた。
「私だけど」
 聞こえてきたのは姉である沙耶香の声。
「何?」
「今から東京に戻ろうと思うんだけど、駅まで荷物を運ぶの、手伝ってくれない?」
 そういうわけで、修一は荷物を持ち、彼女と共に駅まで歩くことになった。
 車の多い大通り。その歩道を彼女と並んで歩く。
 空は曇っていて、どんよりと重たかった。今にも雨が降り出しそうな灰色をしていた。道行く人の中には傘を持っている人もちらほらと見かける。
 修一と沙耶香の間には、いつも通りの他愛のない会話がある。学校のこと、テレビのこと、その他色々。しかし駅が近づいてきたところで、彼女は急に話題を変えた。
「昔の修一って、すごく楽しそうに走っていたよね」
 やっぱりか、と修一は思った。
「でね。このまえの夜、修一が練習しに行くところを、こっそり跡をつけたの」
「……」
 いやだな、と思う。
 あんなみっともない走りをしている自分を――溺れながら必死にあがいているだけの自分を、誰かに見られたくはなかった。
「その時、全然楽しそうじゃなかったよ」
「当たり前だろ」
 自分でも驚くほど、その口調は強かった。
「必死なんだ。俺だって楽しく走りたい。だけど今はできない。そんなの当たり前じゃないか」
 人の気持ちも分からず、何を言うんだ、と。
 強い怒りがこみ上げてくる。
 修一はそれを必死に堪えた。一度感情を爆発させ、勢いのまま言葉を口にしてしまったら、とんでもないことを言ってしまいそうな気がしていた。
 怒りを堪える修一を沙耶香はじっと眺めた。そしてやがて、再び口を開く。
「私には、修一が、」
 一瞬、そこには微かな逡巡があった。
 言うべきか言うべきでないか、迷っているのが分かった。しかし彼女はその迷いを振り払った。
「修一が、オモチャが欲しくて、駄々をこねている子供のように見える」
「――――――――」
 修一は言葉を失った。
「荷物運んでくれてありがとう。ここまででいいよ」
 呆然とする彼の手から荷物を取り、沙耶香は言う。
「それじゃあ、バイバイ」
 去っていく彼女を、修一は為す術もなく見送った。
 脳の奥が熱くなっている。巨大な感情が溢れ出そうとしている。それは怒りであり、憤りであり、そして悔しさでもある。沢山の感情が一緒くたになり、溶け、そしてドロドロとマグマのように修一を内側から焼いていく。
 彼は、自分の中で何かが壊れようとしているのを感じた。

 □

 今晩は雨が振る。
 天気予報を見ずとも、昼過ぎの空模様を思い起こせばそれは明らかだった。
 しかし、修一はそれでも今日もまた走ることに決めた。
 姉に言われた言葉が、いつまで経っても静まらない。
 じっとしているとそのままバラバラになってしまいそうだった。今はとにかく何も考えずに走り、くたくたになって倒れ、頭の中を一度リセットしたい。
「……はっ、はっ」
 何もかもが狂った走り方になっている。昨日と較べてもフォームががたがたになっているのが分かる。
 ――修一は、
 考えないようにと思えば思うほど、彼女の言葉がより鮮明に脳裏に浮かび上がる。
 ――オモチャが欲しくて、駄々をこねている子供のように見える。
「はっ! はっ!」
 呼吸が乱れる。それにあわせて思考も乱れる。
 壊れていく。
 姉のその言葉は、修一にとって致命傷だった。彼にとって一番触れられたくない部分だった。そこを突き崩された今、もう彼は、ただ崩壊するしかない。
 だが、彼にはその崩壊を認めることができない。
 駄々をこねている子供だと? 何を言うんだ。何も知らないくせに。俺の苦しみについて、まったく想像もできないくせに。いったい何を言っているんだ!
 ぽつぽつと雨が降って来る。あっというまにその雨は強くなり、土砂降りのざあざあという音に変わる。
 熱された頭と体が冷やされていく。
 いつの間にか立ち止まっていた修一は、再び走り始める。
 今はとにかく走っていたかった。雨が降っていようがなんだろうが、止まりたくはなかった。もう止まらないと決めたのだから。狂ったように走り続けると、そう決めたのだから。
 そうして走り続け、気づいた時にはもう、修一は地面に倒れていた。
 強い雨が顔面を叩いている。
 冷たい水が、表面に張り付いた熱い感情を洗い流していく。
 ――無理だ。
 修一は声に出さずに呟いた。
 もう、無理だ。
 きっと俺はもう、絶対に、前と同じように走ることはできない。俺の足はもう、俺の期待に応えてくれることはない。どれだけ練習を積んでも、できない。
「そんなこと、最初から分かっていたのに……」
 医者は不可能だと言った。はっきりと、そう断言した。どれだけ必死にそれに食らいついても、それが真実である以上、それを動かすことはできない。
 どれだけ諦めたくないと願っても、そして、ひたすらに努力を積み上げても、無理なのだ。
「もう、俺は、」
 かつての自分は、走ることが大好きだった。修一のことを少しでも知る人間なら、誰もがそれを知っていた。それが、
「もう俺は、何も、楽しくない……」
 今はただ、苦しいだけだ。
 砕け散りそうなくらいの圧迫感を感じながら、あれからずっと、走り続けてきた。しかしそれはもう修一の走りではなかった。
 姉の言葉が致命傷になったと、先ほどは思った。
 だけど実際には違った。もうとっくに、自分の走りは壊れていたのだ。足に後遺症が残った時に、全部まとめて壊れてしまっている。
 修一は両手で顔を覆った。
 溢れる涙は、強い雨が洗い流してくれる。微かに漏れる嗚咽は、土砂降りの音の中に消えていく。
 雨の中、荒川修一はただ子供のように泣いていた。

 修一は風邪をひいた。
 長時間雨にうたれたままじっと横になっていたことを考えると、それは当たり前だった。
 風邪のせいで熱を出し、彼は三日ほど学校を休むことになった。
 三日のうち二日は、あまりの高熱でまともに動くこともできなかった。また、何かを考えることもできなかった。
 修一はベッドの上で朦朧としながら、いくつかの夢を見ていた。
 それはかつて自分が、陸上の大会で活躍していた時の光景だった。その過去は高熱に溶かされ、ドロドロになってどこか奥の方に流れていった。
 そして熱が引いた時には、何だか妙にすっきりした気分になっていた。
 病み上がりだというのに、前よりも体が軽くなったような気がする。ずっと背負っていた荷物を降ろしたような開放感がある。
 修一は理解した。
 もう俺はきっと、大丈夫になってしまったのだ。
 前のように走ることができないという現状。足の後遺症。そして過去の栄光。今まで内側から圧迫していたそれらが、今では落ちついてしまっている。
 現在の修一には、毎晩狂ったように必死に努力を続けるなんてことは、もうできない。
 それは現実を受け入れてしまうということだ。それは修一にとって、ひどく悲しいものだった。
 三日目の夜、修一はその喪失感に耐えられず、一人涙を流した。胸に溜まっていた何かを吐き出そうと、次から次へと涙が溢れてくる。
 そしてその涙が止まった時、修一の中で、その悲しみは薄れていた。
 四日目の朝。
 高熱の影響で節々が痛い身体で、修一は家を出た。教科書を詰めた鞄を自転車のカゴに入れ、颯爽とペダルを漕ぎだす。
 太陽が眩しい。白い光が強く照りつけている。
 修一は自転車を漕ぎながら、ゆっくりと、夏の気配が近づいてきているのを感じていた。

  <了>

不快な星空

不快な星空

挑戦という狂気。 不可能を宣告された主人公は、それでも挑戦を続ける。 しかし――

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-28

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著作権法内での利用のみを許可します。

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