STAY WITH ME

STAY WITH ME

初めての投稿です。
長い作品になりますが、読んで頂けたら・・・
嬉しく思います。

プロローグ

目が覚めると頭の中が割れそうに痛かった。
余りの痛さに寝返りをうつ事も出来ず、真理は寝室の窓の外
が白々としているのをそのままの姿勢で眺めた。手を伸ばし
て、雄一郎がベッドに寝た形跡がないのを確かめた時、夕べ
の出来事が蘇ってきた。

第一章


(2010年 早春)
 三月初旬の週半ばのその日、休日出勤をした川村真理はまだ日が暮れない時間帯に
退社した。38歳の春を迎えた真理は横浜にあるロイヤルガーデンホテルのゲストサ
ービス部の支配人を勤めている。ゲストサービス部は、ドア・パーソン、ベル・パー
ソン、コンセルジュデスク、横浜ロイヤルガーデンホテルが誇るプレミアムクラブフ
ロアサービスなど、フロントとは違うホテルの顔として重要な役目を背負っている。
 
 今日は10日ぶりに単身赴任で、ロイヤルガーデンホテル系列の山梨県八ヶ岳ガー
デンリゾートホテルで、総支配人職に就いている夫の雄一郎が帰って来る日でもあり、
明日は午後からの出勤だったので「今日は思いっきり飲もう」と思い、自宅近くの横
浜の本牧商店街に向かった。
行きつけのリカーショップで日本酒を買い、小学校時代の同級生の魚屋に寄った。真
理の姿を見つけて、魚正の店主の細川正人が「今日はいい金目があるよ」と「魚正」
と書かれた前掛けで手を拭きながら発泡スチロールに氷詰めにされている金目鯛を指
差した。
「旦那さんが帰ってくるんだろう?顔に書いてあるよ」
正人の言葉に思わず顔がほころんだ。
「半身だっていいよ」と言う正人の言葉を聞きながら、少しの間思案していた真理は
「半身をお刺身にして、後の半身は切り身にして。まぐろの中トロも入れてお刺身二
人分作ってね」と注文をした。
「生牡蠣はサービスだからね」という正人に礼を言って、真理は自宅に急いだ。

 自宅に帰り、寝室で「今日はどれを着ようかな?」と考え、雄一郎好みの白いVネ
ックセーターとジップ付きのジーンズを取り出し、通勤用のスーツを脱いで着替え
「こういう風に好みの服を着ようと、ときめく事が別居生活の醍醐味」
鏡に向ってひとり言を言った。もう別居生活を始めて10年近くが経つので、毎回そ
んなときめきを感じる事はないが、ちょっとした何かのきっかけでそう感じる事があ
った。今日はそんな気分だった。
 リビングに戻りダイニングテーブルに座ってまずメンソール煙草を一本吸った。仕
事が終わった後の煙草の味は格別である。接客業はストレスが溜まる事が多いので
「身体に悪い」と知りつつも真理は煙草をやめる事が出来なかった。
4月1日からは「受動喫煙防止条例」が神奈川県で施行されるため、横浜ロイヤルガ
ーデンホテルも客室以外の全店舗、宴会場は指定の喫煙場所以外は全て禁煙となる。
当然、従業員にも自主的な禁煙指令が出されていた。
「辛いなあ……」
真理は煙草を吸いながらため息をついた。
「そうだ! 彼が好きな韓国風肉じゃがを作ろう」と急に思いたち、二本目の煙草は
諦めて、冷蔵庫を開けて材料があるかどうかを確認した。
「大丈夫」
材料は揃っていた。真理はお気に入りのエプロンをつけ料理にとりかかった。
鍋を熱して、豚ばら肉を炒め、更に玉ねぎとにんじん、ジャガイモとしらたきを入れた。
豚肉と玉ねぎを炒める香ばしいにおいがキッチンに充満してきて、何故か幸せな気分に
なった。鍋にお湯とめんつゆを入れ、最後にキムチの素を足して味見をした。
「なかなかいい具合」満足してお鍋に蓋をして火加減を調整した。
「思い切って飲むのなら先にお風呂にも入っちゃおうっと」とガスコンロの火をとろ
火にして風呂に入った。風呂から上がり「韓国風肉じゃが」の様子を見ながら、薄化
粧を施した。アジアン風なランチョンマットをテーブルにセットして、アロマポット
にマンダリンオレンジのアロマオイルを垂らして火を灯した。
「これで準備万端」後は雄一郎の帰りを待つばかりだった。

 7時過ぎに雄一郎は帰って来た。
「お帰りなさい」と真理は雄一郎を迎えたが、今日の雄一郎の表情は冴えなかった。
「仕事の事で何かあったのか?」
真理は感じたが何も言わないでいた。
「別居生活の夫婦」にはそれなりのルールがあった。リアルタイムでのお互いの状況
が把握出来ないため「何かあると感じたとしても、相手が話せる状況になるまで待つ」
それは仕事が第一であり別居生活の長い、真理と雄一郎との不文律であった。相手の
状態を上手く掴み取らないと、話が噛み合わない事があり、結果お互いにイライラし
て話が中途半端で終わり、ストレスとして残ってしまう事があった。

真理の不安を打ち消すように雄一郎はテーブルに並べられた料理を見て「美味そうだ
な」と笑みを浮かべ「日本酒も冷えているのよ」と言う真理に満足そうに頷いた。し
かし、風呂に入る様子もないし、服を着替えようとはしない。いつもは帰るとすぐに
風呂に入り、パジャマ代わりにしているTシャツとスウェットパンツに着替える。今
日の雄一郎は背広を脱ぎ、手だけを洗い、ネクタイを緩めてテーブルにつき、取り出
した煙草に火を点けて煙を吐き出した。真理は煙草の煙は気にならないが、何故かそ
の時は、雄一郎の吐き出した煙草の煙が気になり、さりげなく顔を背けた。
冷蔵庫からお刺身と冷えた日本酒を取り出しながら「何かあったの?」とルールを犯
す質問をしてしまった。
「そう言わないと場が持たない」今日の二人にはそんな空気が漂っていた。真理の問
いかけには答えず、雄一郎は待ちきれないように肉じゃがを一つ指でつまんで口に入
れた。
「今日は飲む気なんだから、着替えるか、お風呂に入ったら?」と真理は言おうとし
たが、雄一郎にただならぬ気配を感じて、黙って席につきグラスに冷酒を注いで「乾
杯」とグラスを持ち上げた。雄一郎も「お疲れ」と言いながらグラスを上げた。
「やっぱり何かある」と感じた真理は不吉な予感をもみ消すように、一気に冷酒を飲
み干し「美味しい!」とわざとおおげさに言って雄一郎の顔を覗き込んだ。

「別れて欲しいんだ」
雄一郎が煙草の火をもみ消しながら、苦しげな表情で口を開いた。
「エッ? 何? それって、別れるって……離婚という事?」
真理はグラスを片手に、首をかしげながら上目遣いに雄一郎を見た。そのポーズは雄
一郎から「可愛い」と言われているポーズである。咄嗟にそんな仕草をした自分に真
理は戸惑いながらグラスを置いて「どういう事?」と今度はキツイ言い方をした。
「突然に悪い。本当に申し訳ない。ハッキリ言う。真理の他に好きな人がいる。真理
にどう言われても非は俺にある。弁解はしない」
頭を下げながら雄一郎は更に苦しげな表情をした。
「ちょっと、ちょっと待ってよ! そんな事急に言われて、ハイ了解しました。なん
て言えない。何が不満? その人とはいつから? 相手は誰? どうして? どうし
て?」
詰問口調で一方的に雄一郎に尋ねたが、余りにも突然な話に頭の中には現実味が全く
沸いてこなかった。
「それって、私をからかっているんでしょう? エイプリルフールはまだまだ先よ」
「……」
雄一郎は答えず冷酒が入ったグラスを手の中で回しながら、そのグラスを見つめてい
た。
言った後「なんて間抜けな事を言ったのだろう」真理はそんな自分に腹がたって、ま
た日本酒を飲み干した。日本酒のせいではないが、頭がクラクラしてきた。
「相手は誰かというのは勘弁して欲しい。時期は一年半程前から。真理には不満はな
い。俺が一方的に悪い」
「そんな……」
真理のショックは大きかったが、雄一郎の口から出てくる言葉の「真の意味」がまだ
理解出来なかった。現実味も沸かないから、相手の女性に対しての嫉妬も感じなかった。

 どの位時間が経ったのか……
「真理は一人で生きていかれる」
雄一郎が静寂を破った。
……真理が一人で生きていかれる……ことはない……それは夫である自分が一番分かっ
ている。
しかし、今の雄一郎にはその事を言って自分を納得させるしかなかった。
「何それ?」
勝手な事を言う雄一郎に腸が煮えくり返る程の怒りが沸いた。
「私がこうして生きていられるのは、川村雄一郎というパートナーが居るからで、一
人で生きて行かれる。なんて、そんな勝手な判断しないでよ!」言い返したかったが、
言葉が出てこなかった。
雄一郎は黙って真理の顔を見つめていた。
雄一郎の目を意識しながら「何だか、何が起きたか判断出来ない。分からない……そ
んな哀れみの目で見ないで!」と顔を覆った。

 また静寂が流れた。その静寂を破ったのは今度も雄一郎だった。
「今日は桜木町のホテルにでも泊まる事にする。真理の気持ちが落ち着いたら、その
時もう一度この話をしたい」
「随分簡単に言うのね。浮気している素振りなんてこれっぽちも見せずにいて……信
じていた私に……」
真理は長い髪をかきあげる仕草をした。「この仕草も彼は好きだった」またそんな事
を考えた。
「真理を騙していて申し訳ない。それに簡単に解決出来るなんて思ったりもしていな
い。俺だって苦しんだ……だけど……本当に申し訳ない」
雄一郎は覚悟をして帰って来たのだろう。そして始めからホテルに泊まる事を考えて
いたのだろう。しばらく真理の動向を伺っていたが「申し訳ない」と真理に頭を下げ
て着替えを取りに寝室に入って行った。

 雄一郎の背中にグラスを投げつけたい衝動をグッとこらえて、「消えて……」とだ
けつぶやき真理は立ちすくんでいた。

 少しして荷物をまとめた雄一郎が出てきたが、真理はそのままの姿勢でいた。雄一
郎も辛いのだろう、出来るだけ真理を見ないように「本当に申し訳ない。じゃあ行く
から。連絡を待っている」と言い残して出て行った。遠くでエレベーターが作動する
音が聞こえたような気がした。真理はまだしばらくの間動けないでいたが、観念した
ようにドサッと椅子に座り込んで頭を抱えた。 

 涙は出なかった。本心は雄一郎を失いたくなかった。
「行かないで」と泣いてすがれば良かったのか?
しかし「しっかり者で時には男性を守る側になることも。相手の気持ちに配慮もでき
て精神的にタフで、相手に弱味を見せないところがある」そんな真理の性格ではそれ
は出来なかった。そういう真理を雄一郎は「一人で生きていける」と判断したのだ。
と真理は思った。
「勝手よ、勝手過ぎる」

 雄一郎が帰って来てから一時間も経っていないだろう。二人の14年程の結婚生活
はたった一時間足らずでピリオドを打とうとしていた。しかも、感情的な単語を並べ
ただけの会話で……それで、雄一郎は出て行ってしまった。

 真理はテーブルに目をやった。お刺身は手をつけられずに綺麗に盛り付けられてい
る。雄一郎が口にしなかった冷酒のグラスを見てカッとなった真理は、切子のグラス
をカウンター越しにキッチンのシンクに放り投げた。グラスはシンクの中で鈍い音を
立てて回転していた。グラスが割れなかった事が悔しかった。
無性にタバコが吸いたくなり、メンソールタバコに火をつけながら、雄一郎が大好き
な日本酒をグラスに注ぎ、また一気に飲み干した。テーブルの隅にある雄一郎が忘れ
て行ったマルボロの煙草が目に付いた。真理はベランダに出てマルボロの箱を夜空に
向って放り投げた。箱から飛び出した白い煙草が舞いながら「さようなら」と真理に
向って別れを告げているようだった。

 ホテルマンであり仕事が好きだった二人の結婚生活は仕事中心であった。仕事で行
き詰った時、真理はどれだけ雄一郎のアドバイスに助けられただろう。真理には何の
不満もなかった。
「雄一郎は最高のパートナー」そう信じていた。
しかし、「私が仕事優先でも彼は満足している。」と勝手に思い込んでいただけなの
かもしれない。本当は家庭に入って欲しかったのかもしれない。
 でも、別居生活はそれなりに楽しかった」別居を始めた頃の二人の生活の一番の大
きな出費は「電話代」であった。別居当初「淋しいから切らないで」と真理は泣いて
困らせて、電話を一晩中繋ぎっぱなしにした事もあった。単休でも二人は夜行日帰り
で横浜と山梨を行き来した。その内に「通信手段の発達」で大きな出費も減り、不便
さも感じなくなった。仕事が忙しい二人は会う回数も減っていったが、携帯電話や携
帯メール、パソコンメールで飽く事なくいろいろ話を交わした。しかし、会う回数が
減った二人の会話は繋げても、二人の心は繋げなくなってしまったのだろうか?

「子宮外妊娠で一度は生を受けた子供を失い、子供が産めなくなった事が原因?」
酔った頭の中で分析を始めて、其処に行き着いた。それは真理にとって「一番辛い原
因」だった。
「どれだけ辛い思いをしたか?」雄一郎も一生懸命真理の精神的なフォローをした。
「彼も辛かっただろう。それは認める」でも「体外受精という方法もありますが、自
然妊娠は諦めてください」と医師に宣告された真理の「真の辛さを彼も分かっていて
くれて、分かち合ってもいてくれた」と思っていた。結局はそうではなかったのだ。
「『苦しみ』を私だけに預けて、彼は逃げ出した。あの後、うつ状態になって、仕事
に復帰して『ホテルの仕事が天職』と再認識した……『子供を失った悲しみを癒すの
は仕事。そして、自分に出来る精一杯の努力をして会社に認められて……良い仕事を
して人間として成長し、輝く事が彼への償い』と考えていたのは、独りよがりの
考えで、やっぱり間違いだった」

 突然、あの時……病院で雄一郎が言った言葉が蘇ってきた……
「『仕事より大切なものがあるだろう』そう言った。『仕事』ではなく、彼のそばに
いて『妻』としてだけで生きて、それで輝く事も出来た。その事に目を瞑ったのは私。
彼だけが逃げたのではない。私も逃げた」



 真理の携帯のバイブが着信を告げた。真理はふらつきながら携帯を取るために立ち
上がった。
「相手は雄一郎だろう」と一瞬胸が疼き「無視しようか」そんな事を考えながら携
帯に手をかけた。どうしようもない位に雄一郎に腹を立てながらも、真理はまだ雄一
郎を求めていた。
 着信名を見て、真理は落胆と安堵を同時に感じた。相手は渡辺雄次だった。
雄次はロイヤルガーデンホテルを辞めて名古屋で車関係の仕事をしていると聞いてい
た。転職した当時は何度か電話で近況を報告し合っていたが、雄次も仕事が忙しいの
だろう、最近はご無沙汰だった。
「真理さん、ご無沙汰してます。どうしてる、元気?」
「うん。元気よ。仕事は相変わらずだけどね。それにしても久しぶりじゃない。今何
処にいるの?」
真理は動揺を隠して雄次の端正な顔を思い浮かべながら返事をした。
「どうした? 何かあった?」
雄次は鋭い。久しぶりに聞く真理の声の変化を見逃さない。
「今ね、横浜に帰って来ているんだよね。久しぶりで飲めるかな? って思って電話
したのだけど……」
「グッドタイミング!」
受話器を持つ手を変えながら「良かったら家に来ない。実はさ、私一人で結構いい気
分」
真理は迷わず雄次を誘った。
「いつもずるいよな」と笑いながら「本当にいいの? 俺乗っちゃうよ」来る気でい
るようだ。
「こっちの雄ちゃんは、今日山梨から帰って来るとばかり思っていたのだけれど、急
遽帰れなくなったの。それを知らなくて宴会の準備していて……一人で持て余し気味
だったから、大歓迎よ」
それで話はまとまった。真理は雄次を迎えるために「韓国風肉じゃが」を温め直し、
テーブルセッティングをし直し、化粧をし直した。その間、真理は雄一郎の事は忘れ
ていた。

「これでOK」と確認した時にドアホンが鳴った。
「いらっしゃい!」と笑顔で迎えた真理に、二人の好きなチリワインボトルを差し出
して「お邪魔しちゃいます。」そう言いながら雄次は入って来た。
 久しぶりに会う雄次は相変わらずカッコ良かった。
「三月なのにまだ寒いよね」
雄次の頬は寒い所から暖かいリビングに入ってか赤くなっている。コートを脱ぎ「勝
手知ったる他人の家……」と雄次は食器棚からワイングラスを取り出し、ワインを注
ぎ、久しぶりの再会を祝って乾杯をして、しばらくは雄次の話に真理は耳を傾けた。

 雄次はロイヤルガーデンホテルの「ミロ・カッサーノ」というイタリアンレストラ
ンのホールサービスを勤めていた。ホテルを退職後、名古屋の外車販売会社に転職し
たが、今はその会社も退職し、同じ名古屋で雄次の叔父の高杉健太郎が経営するイベ
ント会社に世話になっている。
「今の時代結構厳しいけど、叔父さんは俺の好きなようにやらせてくれてさ。感謝し
てるんだ」
お刺身に「美味しい、美味しい」と舌鼓を打ちながら、今の仕事に満足している様子
で、雄次は仕事でのエピソードも交えた現状報告をしてくれた。
 
 持って来たワインが残り少なくなった頃「ごめん、俺の話ばかりで。そっちはどう
よ?」と話の矛先を真理に向けた。さっきの事がなかったら真理はロイヤルガーデン
での話をしたかった。だが、今はそういう気分ではない。雄次に話そうかどうか迷い
ながらの真理に「様子変だよ。何かあったんじゃないの?」真理のグラスに今度は日
本酒を注ぎながら「話しちゃいなよ」と促した。
 そこで真理は決心をしてさっきの信じられない出来事の話を始めた。黙って聞いて
いた雄次は話を終えた真理に「川村さんが……?」まさか信じられないという様に首
を振った。
 雄次も離婚経験者である。ロイヤルガーデンの「ミロ・カッサーノ」のホールスタ
ッフとして入社して来た時にはすでにバツイチだった。学生結婚をした雄次の結婚生
活は二年と持たなかったらしい。相手がどんな人だったかとか、離婚理由の詳しいい
きさつを真理は知らない。「お喋りな雄次」だがその事について話をしなかった。ま
た二人の関係にその事は全く影響していなかった事もあって、敢えて真理も聞かなか
った。
「俺もさ、離婚に関しては真理さんより先輩だけどさ、だけど俺のとはケースが違う
よな」雄次は腕組みをして天井を見上げ、どう真理に話をしたらいいか考えあぐねて
いた。

 三歳年下の雄次がロイヤルガーデンホテル「ミロ・カッサーノ」のホールとして入
社した時、真理はセールスマーケティング部に所属していた。
雄次がレストランに立つとその場がピリッとした空気に変わった。真理は「ミロ・カ
ッサーノにいる雄次」が結構好きだった。
入社早々「キザ男」というあだなをつけられた雄次の、ホールサービスぶりには目を
みはるものがあったが「俺が」という部分がある自信過剰の雄次は、レストラン仲間
からは敬遠されているようなところもあった。真理は雄次に対するレストランスタッ
フの悪口を聞いてはいたが、見事な程の接客態度で顧客を掴んでいる雄次とは気が合
い、真理は姉のような態度で接していた。雄次もそんな真理を慕い、真理に対しては
特別な感情を抱いていた。
姉弟・仕事仲間・友達以上恋人以下、様々な感情が入り混じっていた。
意見が合わなかった上司と喧嘩をし、そのために雄次がロイヤルガーデンホテルを退
職してからは、年賀状のやりとり位でほとんど音信がなかった二人だが、何年かぶり
に再会した二人に時間の隔たりはなかった。
 
 今、目の前で苦悩している真理を見て、敵が多いロイヤルガーデンホテルで「数少
ない理解者としていつも支えになってくれていた真理」に対して雄次は「真理が納得
する気の利いたアドバイスをしてあげたい」と必死で考えていた。だが出て来た言葉
は「別れた方が良い」だった。
「別れる理由は川村さんの女性問題で、すでに川村さんはその女性と歩む事を考えて
いるんだろう? 万が一だよ、二人で話し合った結果やり直そうとなった時、すんな
り過去は忘れて出直すって気持ちになれる? そういうケースは多々あるだろうけど、
浮気だったら有り得ても、少なくとも本気だった川村さんを許せる? 真理さんには
酷だけど、今までそんな素振りを見せなかったのは、よっぽどの『本気の気持ち』だ
ったんだと思うよね。分からないけどさ……それでさ、これからの事は川村さんにな
って考えたんだけど……本気でも隠して行く事は出来たんだよね。川村さんもそれを
望んでいてさ。真理さんとも別れる気がなかったんだろうな。だから真理さんは何も
気がつかなかった。だけど、ここに来て隠せない事情になったんじゃないかのなあ? 
ハッキリそうとは言えないよ。言いにくいけど、一番酷な事態。」
「いいの、いいの、もうハッキリ言ってよ。子供が出来たんじゃないか? でしょう
?私もそれを考えたの。相手は誰だか知らない。きっと若い子、会社の子かもしれな
い」
「待ってよ。そうだとは断定してないぜ。可能性もあるって事だよ。川村さんだった
ら自分の責任をきっちり取るだろうし、誠意を見せるよ」
「誠意?それは相手への誠意でしょう? 私への誠意はどうなの?」
雄次が雄一郎の味方になったような気分がして、真理は無性に腹が立った。
「川村さんの肩を持っているんじゃないよ。自分のした事に対して責任を取ると言っ
ただけだよ。真理さんへの誠意はこれからの対応で見せるつもりなんだよ」
自分の言葉で真理が怒ったのを感じて、雄次は慌てて言葉を繋いだ。
「川村さんが家を出てホテルに行ったのは、きっと真理さんを一人にした方がいいと
思ったんじゃないかなあ。つきつけられた現実は辛くて簡単には乗り越えられないだ
ろうけど、一人で考える時間を用意してくれたんだよ」
と、突然真理が嗚咽を漏らし始めた。今日初めて泣いた。「一人」という言葉に敏感
に反応したからだ。雄次も「真理が一人で生きて行ける。と思っているのだ。そうな
んだ」
何故か世の中の全てが真理を一人ぼっちにしているような気がした。
「泣いた方がいいよ。思いっきり泣きなよ」
泣きじゃくっている真理に弟のように優しく声をかけた。
しばらく泣いていた真理は急に顔を上げて「そうかもね、彼が居たら修羅場になって
冷静に考えられなかったよね。だけど……修羅場も良かったかもしれない……そした
ら『一人で生きて行かれる』なんて言われなかっただろうし……」
自分自身に言い聞かせるように言った。
「好きなんだな川村さんが。短時間の間で冷静に考えるなんて無理だよな。川村さん
に電話しろよ。多分心配しているよ」
「それはしない。気持ちが離れた人に……泣きながら考えたの。もうジ・エンド……
だけど……離婚はしない。籍はこのままにして別居でOK。今度話をするのはその事
だけ……」
髪をかきあげながらの毅然とした様子の真理の目から涙は失せていた。
「別れた方がいい、と俺も思うけど、そんなに早く結論出す必要ないよ。話し合いは
出来なくても少し時間を置いた方が良いと思うけど」
「14年の結婚生活にピリオドを打つには時間が短すぎるかもしれないけど、ずるず
る引きずりたくはないから。でも……籍を抜かないから引きずる事にはなるかもしれ
ないから矛盾しているけどね。未練たらしく思われてもいいけど、私にも一つだけ抵
抗をさせてもらいたい。真理を甘く見るなよ! って。私も苦しむけど彼も苦しむ。
その相手も苦しむ。もし私が籍を抜く決心をした時は全て吹っ切れた時。今はそうい
う時が来るとは思えないけど、時間が解決してくれるって、ねっ?」
……いつかそういう時が来るよ……と雄次は言いたかったが、真理の真摯な表情に圧
倒されて何も言えなかった。涙ですっかり化粧も落ちた真理の素顔は美しかったが、
その中に少し意地悪な一面が浮かんでいるのが見えた。
「でも、10年近くも『生活』をしていなかったから。その元を作ったのは全部私。
彼はそんな私の我がままをずっと許していてくれて、私は彼に甘えていたのよね。仕
事は面白いし、充実して幸せだとずっと思っていたけれど、どこかで実体のない不安
な気持ちも感じた事もあったの。でも、その不安にきちんと向き合う事もせず、逃げ
ていたのは私だったのだと思う。自業自得」
淋しそうに言う真理の顔から意地悪な表情が消えた。
「嬉しかった、来てくれて。それとこんな時にごめんね。でも、居てくれたから少し
道が開けたみたい。今日はありがとう」
雄次も辛かった。
「まだ時間は大丈夫?」
「日付が変わったら帰るよ」
「じゃあもう少し飲めるね」
「今、こんな事を聞いても返事は出来ないだろうけれど、このままここにいるつもり
?」
「……分からない……親もいないし、妙蓮寺の叔父さんの所には行けないしね」
真理の返事に雄次は「真理さんは早くに両親を亡くした、と言っていた。だからこれ
で本当に一人ぼっちになってしまったのか」と改めて真理の辛い状況を思い、胸が痛
んだ。
「何かの時には『俺がいる』って思ってよ。余り頼りにはならないけどさ……」
気の利いた言葉ではなかったかもしれないが、雄次にとっては真理に伝えられる精一
杯の気持ちであった。
「うん、ありがとう。偶然だけど、こうしてそばにいてくれてどんなに私が嬉しかっ
たか言葉では言えない」
「真理さん、絶対に自分らしさだけは失っちゃダメだよ。明日は仕事?」
「明日は遅番。仕事には行くよ。自分らしさは失いたくないから」
「そうか」そう言って、雄次は真理の傍に行って真理をきつく抱きしめた。「恋人同
士の抱擁」ではなく「愛する人との抱擁」だった。真理も雄次の背中に手を回して、
雄次の「心の温かさ」を確かめた。

 このまま帰って「真理は大丈夫か?」と心配だったが、明日は仕事で埼玉に行かな
くてはならない。かなり酔っているであろう真理は、雄次の為に深夜営業のタクシー
会社に電話をかけタクシーの手配をしてくれた。タクシーの到着を待つ間に雄次は「
何かあったらいつでも電話してね」と何度も念を押し名刺を手渡した。真理も、雄次
に「携帯は常にONにしておいてね」とやはり何度も念を押した。タクシーの手配を
してくれた気使いに「いつもの真理さん」と安心したが、後ろ髪を引かれる思いで雄
次は真理の家を後にした。
 
 雄次が居なくなったリビングはタバコとお酒の臭いが充満していた。その中に身を
置いて真理は冷蔵庫からビールを取り出してまた飲み始めた。こんな最悪の時に、偶
然にも何年かぶりかで姿を現した雄次に感謝し、一生懸命真理を励まそうとしてくれ
た雄次の気持ちを感じながら、真理はまた泣き出した。不思議だった。雄一郎の話を
聞いても涙は出なかったのに……
「彼の前で泣けなかったのは、結局自分は殻を被っていたのかもしれなかった。私は
気がつかなかったが彼は気づいていて、淋しかったのかもしれない」
そう思ったらまた胸が大きく痛んだ。
 


 桜木町駅近くにあるビジネスホテルに部屋を取った雄一郎は眠れずにベッドの上で
何度も寝返りをうっていた。
「真理はどうしているだろう?」
覚悟して背を向けたはずだったが、今すぐ真理の元に帰りたくて心が乱れた。
「だがそれはもう出来ない」
途中のコンビニで買い求めたウィスキーをまたストレートで飲み始めた。
「俺は最低な男だ」
ウィスキーは半分まで減っていたが、雄一郎は全く酔えず、眠れなかった。
 
 真理に告げた理由の他にある事実……それだけは問われても決して言わない。と
決めていた。夏が終わったら、勤務しているホテルに退職願を出し、真理に自分の噂
が届かない別の場所で新たな生活を始める予定にもしていた。
 
 しばらくした頃、携帯が鳴った。慌てて携帯を取り「真理」と表示された画面をじ
っと見つめた。受話ボタンを押そうとした時「電話に出ないで!」という菅原梓の声
が頭の中で響いたが、その声を振り切って電話に出た。
「もしもし……」
「……」電話は繋がっているが何の応答もない。
「真理、どうした?」再び声をかけたが、やはり応答はなかった。少しの間、気配を
伺っていたが、一向に応える様子がない事に諦めた雄一郎は電話を切った。

「酒の力」は強かった。酔っている時は「今までの事を悔いるよりこれからの事を考
えよう」ポジティブに考える事が出来たが、夜が明けて、完全ではないが酔いが覚め
た真理は二日酔いに苦しみながらも頭の中に、昨夜雄一郎が言った言葉の一つ一つが
蘇り、ただその言葉への怒りや悲しみだけが沸いて来て「もうこのまま石のように固
まってしまいたい」そして挙句の果てには「生きていたってこれから何も楽しい事は
ない」そんなネガティブな事まで考えるようになっていた。

 ベッドの中で「水が飲みたい」と思ったが身体が動かなかった。壁に掛かっている
時計は7時を指していた。
「今日は12時過ぎに家を出れば大丈夫」
将来に夢も希望もない、と思っていたが、無意識に「仕事」の事は考えていた。
無性に煙草が吸いたくなり、「煙草の誘惑」に負けて真理は重たい身体を起こした。
寝室を出ると同時に吐き気を催し洗面所に駆け込んで吐いた。出たのは水分だけで涙
が出るほど苦しかった。鏡に映し出された涙でグショグショの自分の顔を見て「真理、
醜いよ」とつぶやき、そのまま洗面所に座り込んだ。
「もう綺麗になったって何にもならない」
また絶望感が襲ってきた。
「自分らしさを失っちゃダメだよ」
雄次の声が聞こえて、真理はヨロヨロと立ち上がって、もう一度鏡に映る自分を見つ
めた。でもやっぱり「醜かった」そして、目の前にいっぱい残っている「雄一郎」を
見つめた。歯ブラシ、ヘアートニック、コロン。手を伸ばして「雄一郎」を排除しよ
うとしたが出来なくて、真理は自分の醜い顔を見ながら声を上げて泣き出した。
 
 突然、真理は泣きやんでリビングに行き携帯を手に取った。夜中に雄一郎の携帯に
電話をかけた履歴があったが全く記憶はなかった。履歴を見て「バカみたい」と覚め
た気持ちになり携帯をテーブルに置きながら「何のために電話をしたのだろう?」と
自分の行動が分からなくなった。
「頭がおかしくなった」と思い「いつもの真理に戻ろう」とシャワーを浴びに風呂場
に行った。風呂場も雄一郎で溢れていた。男性用のシャンプー、洗顔フォーム、髭剃
り。
 シャワーを浴びてリビングに戻り、携帯を確認すると雄一郎からの着信があり、留
守電に「真理、大丈夫か?」というメッセージが入っていた。
「雄一郎の声」は長い間聞きなれた愛情いっぱいの優しい声だった。気持ちが折れそ
うになったが、昨夜の雄一郎の言葉を思い起こし「こんな未練たらしい事をしないで
よ! 自分で勝手に決めて私を捨てて出て行ったのだから、電話なんかしないで!」
真理は自分から電話した事は棚に上げて雄一郎を責めた。

 その日から真理は雄一郎のベッドで寝た。それは雄一郎を身体で感じる事、未練だ
ったのかもしれないが、正面から雄一郎に対する自分の気持ちと向き合って、自分の
考えを決めたかった。決して簡単ではないけれど「逃げずに現実に向う事で自分が強
くなれるかもしれない」とも思っていた。それでも「許すから帰って来て」と雄一郎
が恋しくなったり「絶対に許さない」と気持ちはいつも揺れ動いていた。真理はきち
んと会社にも出勤した。仕事をしている間は辛い事を忘れる事が出来た。あの悪夢の
日の翌日の夜、雄次から「真理さん、大丈夫?」と電話があった。雄一郎と留守電メ
ッセージと同じような言葉だったが、雄次の電話には実在する「優しさ」があった。
「取り敢えずは大丈夫。仕事があるから」それは真理の本当の気持ちだった。

「万博の仕事が入って、急に上海に長期出張になった」
「本牧の桜を見に横浜に遊びに行く」と約束していた雄次から連絡が入ったのは三
月の彼岸の時期だった。
「その後、川村さんと連絡を取っている?」
雄次は心配していた。
「まだよ。でも、別れる事に同意するつもり。手紙を書こうと思っているの」
「納得したの?」
思っていたより元気な真理に、雄次は少し安心をして尋ねた。
「納得は出来ないけれど、彼がそう望んでいるのなら、叶えさせてあげよう、って。
そう思うようになったの。彼はずっと淋しい思いをしていたと思うのよ」
「真理らしい……」と雄次は思った。あの時「離婚はしない。彼も苦しむ……」と言
ったが、一度も悪口は言わなかった。
「自分を裏切った人は憎いだろうが、恨み事を言わないのが真理だし、良い所でもあ
る。でも、それでいいのか?」
雄次にはそんな心配が沸いた。
「真理さんが川村さんを思う気持ちは分かるけれど、時には、川村さんの前では自分
を見失う位に気持ちをぶつける、っていう事が必要な場合もあると、俺は思うよ」
「そうかもしれない……でも、出来ないって事もあるしね。心配してくれてありが
とう。それにしても、万博の仕事なんて凄いじゃない! チャンスだから、良い仕事
して来てね」
真理を心配してくれて、電話で元気つけてくれていた雄次の長期海外出張は心細かっ
たが、雄次が心配すると思って泣きたい気持ちをグッと堪えた。
「急な受注でしかも下請けで、実は余り美味しくない仕事なんだけどさ……それに、中
国語だって満足に話せないし」
いつもは自信タップリな雄次が少し自信なさそうに答えた。
「私の事を考えて、そんな言い方をしているのだろう」そう感じた真理は「仕事に対す
る情熱があるから問題ないじゃない。帰って来たらお土産話をいっぱい聞かせてね。そ
れまでに私だって負けない位に輝くようになっているから。乞うご期待ね」
明るく答えた。
真理の言葉に安心したが「多分、これ以上言っても真理は考えを変えないだろう。そう
いう人なんだよ。だから心配なんだよ」そう思った雄次は「行って来ます」と元気に電
話を切った。
しかし……もう自分は真理の力になる事は出来なかった。
「上海万博で長期出張」はウソだった。叔父の会社が不渡りを出してしまい、雄次はそ
れどころではなくなっていたのだ……

第二章


(1995年)
 1983年に着工が始まった「みなとみらい21」に1993年には横浜ランドマ
ークタワーがオープンし、横浜都市部の再生を目指したウォーターフロントは輝く未
来に向って着々と進み出した。
 1994年パシフィコ横浜に世界国際会議場が完成した翌年1995年に、真理は
同じみなとみらい地区にある横浜ロイヤルガーデンホテルに就職した。当時みなとみ
らい地区は数年おきに高級ホテルが開業を始めた時期で、都市部に高級ホテルを展開
する、日本でトップクラスのホテルチェーンのロイヤルガーデンホテルも、横浜ホテ
ル戦争に巻き込まれ厳しい戦いを強いられる時期に突入していた。

 配属されたフロントには真理の他に男女各一名の社員が一緒に入社した。
真理が入社した時、5歳年上の川村雄一郎はフロントチーフの職に就いていた。
雄一郎の笑顔を絶やさず、客の気持ちを読み取る事が出来る洗練された接客態度は、
社内でも高い評価を得ていた。仕事だけではなく、長身の雄一郎は、きりっとした日
本的な風貌に関わらず、身のこなしや雰囲気が日本人離れしていて、真理の好みその
ものだった。そんなチーフに真理は一目ぼれをしてしまった。
 初めて真理を見た雄一郎は、真理の美しさに目を奪われたが「生意気そうな子だな」
と感じた。

 社内新人研修が済んだ後のフロント研修で雄一郎が講師になり、自己紹介をした後
「このホテルの稼働率は何%ですか?」と真理に問われて、自身が勤めるホテルの稼
働率を真っ先に質問する事に対して「なかなかやるな」と思ったが新入社員としての
初々しさを雄一郎は感じなかった。すでに社内研修で稼働率の事は聞いているであろ
うが、改めてフロントの上司に、同じ質問をする真理のしたたかさの方が気になった。
「平均82%」と答えた雄一郎に他の二人は驚いた。当時の大型シティホテル稼働率
の全国平均は75%程だったので、平均を上回っているロイヤルガーデンの稼働率実
績は自慢に値するが、真理は「山下にある老舗ホテルは常に90%近くの稼働率を誇
っていたと聞いています」と言ってきた。
「何を言いたいのか?」と言いたかったが「矢沢さんの他ホテルの稼働率を問題にし
ている、その姿勢は見習うものがある」とまず真理を持ち上げた。
「確かにホテルにとっての客室稼働率は大事だ。ホテルの客室はその日に販売しない
と何の価値もなくなる。物販販売のように明日売れればいい、というものではない。
しかし、稼働率だけでホテルの経営状態の良し悪しの判断をする事は出来ない」と雄
一郎は言い切った。真理は講師である雄一郎の話しに顔色一つ変えずメモを取ってい
た。
「数あるホスピタリティの中で最高のクオリティを求められるのがホテルサービスで
ある。極上のサービスを提供するホテルのフロントマンとして、客の立場に立ち、そ
して自分だったらどのようなサービスをされたら嬉しいか? という事を考える。実
体のない空間をプロデュースし、数字だけではないプラスアルファーをいかに増やし
て行くか、そのサービス精神と思いやりの心が数字になって表れる。そして自分自身
の生活の質の向上を図らないと真のホスピタリティは生まれない。自分が幸せでない
と良いサービスは出来ない」と雄一郎は研修の最後を締めくくった。



 真理が入社してから、5ヶ月経った9月。
雄一郎は、まもなく海外に赴任をする事になった大学時代の友人の国谷敦夫婦と、伊
勢佐木町の日枝神社のお祭りに出かけた。帰りは「伊勢佐木長者町駅で降りて、石川
町のマンションまで歩いて帰ろう」という事になった。国谷敦の住むマンションは、
首都高狩場線の下を流れる中村川の対岸にあるが、マンションに行く途中には寿町や
松影町などいわゆるドヤ街の近くを通って行かなくてはならない。妻の美枝は「大通
りを通って」と頼んだが、縁日で飲んだビールでほろ酔い気分の国谷と雄一郎は、美
枝の言う事を聞かずに寿地区を通る事にした。
 ドヤ街には、酔っ払って道路に寝込んだり、座って酒を飲んだりしている労務者風
の男が多勢いて美枝は早足になった。
「映画の天国と地獄を地で行っているようだよな」
国谷がそう言った時、何人かの男に絡まれている若い女を見つけた。若い女は労務者
に手を引っ張られていて、懸命にそれを振りほどこうとしていた。酔って強気になっ
ている二人が「助けに行くか」と顔を見合わせた時、若い女は労務者の手を振りほど
いて駆け出した。
雄一郎は「あれっ?」と声を上げた。駆け出した時、自動販売機の灯りに映し出され
た横顔に見覚えがあった。
「なんだよ。知っている子か?」
国谷が尋ねた。
美枝が「早く帰ろうよ!」と国谷の手を引っ張って走り出した。
「待てよ!」と言って美枝に手を引っ張られている国谷に「先に帰っていてくれ、後
から行くから」と雄一郎は声をかけて女の後を追った。
 
 女は次の角の手前で、また労務者風の男達と話をしていた。
「やっぱり矢沢真理だ」
雄一郎は足を止め、10メートル程向こうにいる真理の様子を立ち止まって見ていた。
次に真理は道端に座り込んでいる別の男に何かを見せていた。
「何をしているの?」と声をかけようと思ったが、真理の一生懸命な様子に、何故か
「見てはいけないものを見てしまった」というような気持ちになり動く事が出来なか
った。
 真理に何かを見せられた男は、横に座っている男にも見せたが、眠っているのかそ
の男は俯いたまま顔を上げようとはしなかった。がっかりした様子で真理はその男達
から離れ、角を左に曲がった。真理の姿が見えなくなったのを確認して、雄一郎は見
つからないように後を追い、角のところで陰に隠れて様子を伺った。真理は自販機の
傍で酒を飲んでいる何人かの男と話をしていた。
その時「ねえちゃん、彼氏が待ってるよー」と反対側にいた男がろれつの回らない口
調で冷やかしの声をかけた。その声にハッとした真理は、チラッと雄一郎の方を見て、
慌てて駆け出しそのまま駅の方向に走り去って行った。
「気付かれたか?」
配になったが、陰に隠れていた自分の姿は見ていない筈だ。
「それにしても、夜遅くこんな所で何をしていたのか?」
気になった雄一郎は、真理が何かを見せていた男に「さっきの人は何を見せていたの
ですか?」と勇気を出して訊いた。
「おにいさん、あのおねえちゃんのコレ?」
前歯が一本抜けている男が親指を立てて、酒臭い息を吐きかけた。
「違います! 友達です」
「教えてやってもいいけどさ、ちょっと待っててよ」
男はもったいぶった様子でワンカップの酒を美味そうに飲んだ。
「あのおねえちゃんは、パパさんを探してるんだってよ。写真も見せてくれたけど、
俺に聞いたってダメだよね。だって、俺は人の顔はみんな同じに見えるからさ」
男はまたワンカップの日本酒を美味そうにすすった。
「パパさん?」
「そうだよ。ちちだよちち」
男は両手で胸を押さえて笑った。よく見ると男は人の良さそうな笑顔をしていた。
「ちち? アーッ!お父さんですか!」
雄一郎は男のおどけた仕草に思わず噴出した。
「分かってくれた? 何とかって名前も言ってたよ。何だっけかなあ? 忘れちゃっ
たよ」
「そうですか。彼女は一人でお父さんを探していたのですか。大丈夫なのかなあ……」
「心配ならお兄さんも一緒に探してあげなよ」雄一郎のつぶやきを聞いてか、男が声
をかけた。
「分かりました。ありがとうございます」
雄一郎は男に丁寧に頭を下げ、縁日で買ってきたたこ焼きが入っている袋を差し出し
た。
「何だよ! 俺は酔っ払いだけど、人の施しは受けないよ」
「さっき伊勢佐木町のお祭りで買ってきたたこ焼きです。食べてください。ご親切に
教えてくれたお礼です」
そう言って雄一郎は男の手に袋を持たせた。
「お礼なら、有り難くもらっておくよ。あのおねえちゃんと仲良くしなよ。おいっ!
ベーブルース。今日はお祭りだってよ」
男は、横で雄一郎に背を向けて座って寝ている風の男に声をかけた。
「ベーブルース」と呼ばれた男はゆっくり振り向き、雄一郎をしっかりと見上げた。
その男の身なりは汚かったが、綺麗な目をしていた。そして、その目は潤んでいた。
雄一郎も少しの間、その男の目をしっかりと見つめた。
「本当にありがとうございます」
雄一郎は二人に頭を下げその場を去ったが、国谷のマンションに向おうとしてズボン
のポケットを探り「しまった!」と声をあげた。万が一のために、国谷からマンショ
ンの番地とマンション名を書いたメモをもらったが、そのメモをポケットにしまわず
に、たこ焼きが入っていたビニール袋に入れた事を思い出した。
「まっ、いいか。近くに行けば分かるだろう」
雄一郎は国谷のマンションに急いだが「お父さんを捜している」という真理のあの一
生懸命な様子が頭から離れなかった。

 翌日、職場で真理と会った時はドキドキしたが、真理は、雄一郎に見られたという
事には気がついていない様子だった。その日を境に雄一郎の中に変化が起きた。真理
は懸命に自身の仕事と向かい合っていた。ロイヤルガーデンホテルのフロント職はか
なりキツイが、真理は滅多な事では根を上げなかった。「何かあってもじっと内に秘
めて耐えている」というけなげさが真理にはあった。「生意気な子」という印象を持
っていた雄一郎は、真理に特別な感情を抱くようになった。



「今晩、飲みに行きませんか? ベストメンバーが揃っていますよ」
雄一郎はフロントの部下の杉山直樹から誘いを受けた。クリスマスや年末年始を控え
て忙しい時期で、しかも少し風邪気味だったが、有り難く杉山の誘いを受ける事にし
た。
 雄一郎が少し遅れて野毛小路にある居酒屋に着いた時には「ベストメンバー」が揃
っていて、かなり盛り上がっていた。参加者を見回して、真理がいるのを見た時に雄
一郎は胸がときめいた。職場では髪を後ろで一つにまとめて地味な印象になるが、肩
までかかるゆるやかなウェーブヘアーをたらし、白のカットソーに淡いパープルのカ
ーディガン姿の真理はハッとする程美しく、職場とは全くの別人になっていた。雄一
郎は自分の気持ちを悟られないように、さりげなく真理から目をそらした。
「チーフ待ってました。ここへどうぞ」
杉山から手招きされた雄一郎は「なるほど、ベストメンバーだな」と言って真理と杉
山の間に腰を下ろした。
 雄一郎を待っていたのは、フロントの杉山と真理の他には、ドア・パーソンの上田
慎一、ベル・パーソンの川中美知子、広報の林健人、レストランホールサービスの本
郷真弓で、全て杉山と真理の同期入社組であったが、新人ながらも彼らは会社で期待
されていた。雄一郎の参加で飲み会は更に盛り上がった。仕事の話が中心だったが、
よく飲み、よく笑った。隣にいる真理を意識しながら、雄一郎もかなりのハイペース
で好きな日本酒を飲んだ事で「一次会」がお開きになった頃には、酒に強い雄一郎も
すっかり出来上がってしまい足元がおぼつかなくなっていた。

「今日はヤバイな」と感じた雄一郎は「次はカラオケ!」と盛り上がっている杉山に
「俺はこれで帰るけれど、みんなで楽しんでこいよ」と一万円札を渡した。職場の先
輩として、後輩にみっともない姿を見せる事は出来ず「じゃあ!」と手を上げたが、
足元がふらつき、思わず杉山に抱えられる始末になってしまった。そんな雄一郎を心
配して「エスコート役を付けますよ」と杉山が真理を促した。
「了解!バトラーの私に何でもお申し付けください」
酔いがまわってご機嫌の真理が雄一郎を支えてタクシーをつかまえた。タクシーに乗
り込む時「俺は大丈夫だよ。カラオケに行っていいよ」と雄一郎は断ったが「私、カ
ラオケ苦手なんです」と真理もタクシーに乗り込んで来た。

「杉山君は、私はカラオケが苦手なのを知っていて、でも私が『帰る』と言うと場が
シラケルと思って、エスコート役をやらせたのだと思います。杉山君って空気が読め
るし、みんなの事も考えているんですよね」
真理が杉山を褒める言葉を聞いて「ふーん……」と関心がなさそうに答えたが、雄
一郎はかなり酔っていたにも関わらず杉山にやきもちを焼いていた。

……自分の上司であるチーフの雄一郎と真理の二人の思いに気がついていた杉山が、
雄一郎を飲み会に誘い、真理をエスコート役につかせた。二人がそれを知ったのは横
浜ロイヤルガーデンでの二人の結婚披露宴の時だった……

「根岸旭台のドルフィンの近くまでお願いします」
運転手に行き先を告げて雄一郎はそのまま寝込んでしまった。
「チーフのマンションは何処ですか?」
目が覚めた時、自分が何処で何をしているのかが分からなかった。少しして雄一郎は
真理に支えられて、赤いドルフィンの看板の前に立っている事に気がついた。
「タクシーは?」
「帰しました。だって、いくら起こしてもチーフは起きないから、降ろすのに大変だ
ったんですよ」
真理が口を尖らせた。
「悪かった。じゃあ、お詫びに飲みなおしだ」
「飲みなおしは一人でゆっくりやってください。私はマンションまで送りとどけたら
帰ります」
真理は笑っていた。しかし、15分後には、雄一郎に強引に誘われた真理はマンショ
ンで缶ビールを飲んでいた。
 
 1LDKなのだろうか、さりげなく見回した広めのリビングルームは雑然としてい
て、新聞や車の雑誌が散らばり、テーブルの上には缶ビールの空き缶や汚れた灰皿が
そのままになっていたが「女の気配はない」と真理は確信した。
「随分広いリビングですね」
ホッとして尋ねた。
「うん、このマンションはたった一つ親父が残してくれた物で、外国人が多く住んで
いるんだよ」
そう言って雄一郎は散らかっている物を片付け始めた。
CDラックに目が行った時に、クィーンのアルバムが沢山あるのに真理は驚いた。真
理もずっとクィーンが好きで、そのために大学を休学してイギリスに一年間留学をし
た。フレディ・マーキュリーがこの世を去った時にはショックでしばらくの間、クィ
ーンの曲が聴けなくなってしまう程のファンだった。
「クィーンが好きなんですか?」
「小学生の時からずっとファンだった。可愛くないよな、クィーンが好きな小学生な
んて。クィーンを教えてくれたのはお袋で、小学校三年生の時だったかなあ。誕生日
のプレゼントがクィーンの『オペラ座の夜』で、ロックママの血を引いた俺は、クィ
ーンが好きになった。だから、イギリスに留学したくていろいろ勉強していたのだけ
れど、ちょうどその頃、親父の会社がダメになって、それで諦めた。君もイギリスに
留学していたって言っていたよね」
「はい。私もチーフと同じ動機です。名目は語学留学だったのですけれど、フレディ
・マーキュリーの足跡巡りの一年間でした。彼が亡くなった時はショックで曲が聴け
なくなったのですよ。英語を一生懸命勉強したのもクィーンのため。フレディ・マー
キュリーと同じ言葉を喋りたかったから!」
真理は目を輝かせて嬉しそうに話をした。
「エーッ! 以外!」
雄一郎は驚いた様子で声をあげた。
「チーフだって以外! ですよ」
真理は心外という風に雄一郎を睨みつけた。
「小学生の時に、母のお店の人がクィーンのライブビデオを観せてくれて……母は本
牧でパブをやっていたんですけどね」
「クィーンで一番好きな曲は?」
「チーフは?」
「じゃあ、同時に言おう!」
「ボヘミアン・ラプソディ!」
声が揃っていたので二人は顔を見合わせて笑った。
 雄一郎は立ち上がってラックから「オペラ座の夜」を取り出し、CDプレイヤーに
セットした。フレディ・マーキュリーの甘く切ない声が響いた時には、感動で二人は
同時に身震いをした。それからしばらくの間はクィーンの話で盛り上がった。

「もう11時、帰らなくちゃ」時計を見て真理が呟いた。
「帰りたくない……」と真理は思った。真理は、会った瞬間から雄一郎に憧れていた。
その「憧れ」は日々職場で雄一郎と接していく間に「恋心」に変化していった。
しかし、その気持ちは誰にも告げず自分の胸にだけ秘めていた。フロント研修では講
師になったチーフに「自分の気持ちを気付かれたくない」という……ちょうど、腕白
坊主が好きな女の子にわざと意地悪をする……そんな子供っぽい気持ちから、突っ張
った態度を取ってしまった。
「生意気な新入社員だ」
きっとそう思われただろう。後でちょっぴり後悔した。
「帰らせたくない……」そう思っていた雄一郎は「ニュースの時間だ」と言ってテレ
ビをつけた。



「多摩川の河川敷でホームレスが殺されました」
アナウンサーの声に二人は同時にテレビに顔を向けた。アナウンサーがホームレスの
死体が発見された状況を説明した後、画面は発見者らしき男性のインタビューに変わ
った。
「俺がテントに戻る時、いつもは隣からいい匂いがしてくるけど、今日は真っ暗だっ
たから気になって覗いてみたんですよ。そしたらここに倒れていて、それで驚いちゃ
って、通報したってわけ。名前も年も知らないよ。だけど、あいつは自分の事をベー
ブルースって言ってましたよ。一ヶ月半位前かなあ。横浜から川崎にトレードになっ
たって言っててさ。野球が好きだったみたいで。いい奴でしたよ……早く犯人を捕ま
えてくださいよ」男性の声は涙声になっていた。
 
 真理の顔つきが変わった。そして「ベーブルース? ……お父さん……」その声は
絞り出すような低い声だった。
「何? お父さんって……ベーブルース?」
雄一郎は寿町のドヤ街での出来事を思い出した。
「……そんな事……何があったの!」
真理は突然叫び声をあげた。
「どうしたの?」
その声に驚いた雄一郎が声をかけたが、真理は茫然自失でテレビ画面を見つめていた。
テレビはコマーシャルに変わっていた。
「もしかしたら……私が探しているのを知って多摩川に移り住んだの? 私が探さ
なければそのまま横浜にいて、だからこんな事にはならなかったかもしれない……」
ひとり言のように言う真理の顔は青ざめていた。
「大丈夫?」
心配する雄一郎の問いかけにも、しばらくの間答える事が出来ない程、真理は動揺し
ていた。下を向いて固まったままの真理の様子を見ながら、雄一郎はお湯を沸かして
ホットウィスキーを作り「これを飲むと落ち着くよ」と言ってカップを手に持たせた。
真理は少しウィスキーを飲んでため息をついた。
「良かったら話をしてくれないかな。黙っていて悪かったけれど、伊勢佐木町のお祭
りの日、寿町のドヤ街で君を見かけていたんだよ」
「……!」
真理は驚いた様子で雄一郎を見上げたが、淋しそうな表情をしてまたうつむいた。
雄一郎の酔いはだいぶ覚めてきていた。
しばらくして「お話してもいいですか?」うつむいて何か考え事をしていた真理が、
覚悟を決めたように顔を上げた。雄一郎を見上げる真理の目には涙が溢れていたが、
その視線に雄一郎はドギマギした。
 
 真理は本牧でパブを経営していた母の矢沢由理子の女手一つで育てられた。
真理が物心ついた時に、母から「真理のお父さんは船員さんだったのよ。でもね、遠
い南の島で船が遭難して亡くなったの」と聞かされた。真理は父の写真も見た事がな
かったし、名前も知らなかった。それにお墓参りもした事がなかった。
「それはね、大きなお魚がみんな持って行っちゃったの。だから何もないのよ。でも、
お母さんの心の中にはいつもお父さんがいるし、お父さんはずっと真理の事を見守っ
ているのよ」
長い間真理はその事を信じていたが、山手にあるミッション系女学院の中等部に入学
した頃から「私の生い立ちには何か秘密があるのかもしれない」と考えるようになっ
た。でも、その事を話すとお母さんが悲しむから、と疑問は自分の胸の中にしまい込
んでいた。
 祖父がアメリカ人である母の由理子は、目をみはる程の美人で、真理はずっとそれ
が自慢だった。母の店は、本牧交差点を山手トンネルに向う、本牧でも下町の雰囲気
がある場所にあり、昔のグループサウンズの人気ヴォーカリストや野球の選手、サラ
リーマンなどが毎日たくさん出入りし店は繁盛していた。夜、母が出かける時は、母
娘が住む公団の団地の階下に住む、年配の柴崎靖男夫婦が真理の面倒をみてくれた。
子供のいない柴崎夫婦は真理を可愛がり、真理もそんな二人が大好きでなついていた。
父の顔を知らない真理は、母の愛情と頑張り、柴崎夫婦の愛情に包まれ、経済的にも
精神的にも恵まれた少女時代を過ごす事が出来た。しかし「自分の生い立ちに関する
秘密」の事が頭から離れる事はなかった。
 真理が「自分の生い立ちに関する秘密」を知る事が出来たのは、女学院の大学の英
文学科に入学した年、母の由理子がクモ膜下出血で亡くなった時であった。売却が決
まった母の店の整理をしていた時、店のカウンターの隅にひっそりと置かれてある赤
茶色の箱を見つけた。ずっしりと重いその箱は鎌倉彫のオルゴールであった。オルゴ
ールの蓋を開けると、乙女の祈りのメロディーが流れた。かなり古そうなオルゴール
が綺麗な音色を奏でている、という事は母が時々は蓋を開けていたのだろう。
オルゴールの内部は三段になっていて、一段目のビロード生地の箱を外すと二段目に
ピンクの花柄の和紙に包まれたものが置かれていた。真理はそれを手に取り恐る恐る
開くと、中には白い封筒と古い手紙が一通入っていた。真理の心臓がドキドキしだし
た。震える手で封筒を開けると、中に関西のプロ野球チームのユニフォームを着た、
精悍でいかにもスポーツマンタイプの男の写真と、男に肩を抱かれて幸せそうに微笑
んでいる母の写真、その男と母、そして男の腕に抱かれた赤ん坊時代の真理の写真が
入っていた。
 次に真理は手紙を開いた。
「由理子へ 僕に出来る事は同封の通帳を渡す事ぐらいしかない。真理を頼む。今ま
で僕は幸せだった。僕は家族の元に帰るが由理子への愛は永遠に消えはしない。許し
てくれてありがとう」と手紙には書かれていた。日付も名前も書かれていないその手
紙を真理は何度も読み返し、父であろう男の写真を見つめた。
「45」という番号をつけたユニフォーム姿の男に見覚えはないが、父はプロ野球の
選手だった。多分・・・・・・母は妻子のある男を愛して真理を産んだ。母は、淋しい時や
辛い時に、このオルゴールを開け、写真や手紙を見て自分を励ましていたのだろう。
辛かったであろう母の事を思い、真理はその場に泣き崩れた。
「私が経済的には何不自由なく育つ事が出来たのはこの人のお陰だった……」
プロ野球選手だった父の事を「恋しい」という気持ちは沸かなかったが、自分をバッ
クアップしてくれた父に感謝の気持ちが沸いた。
 真理は父の名前だけは知りたくて、いろいろ調べてみたが探し出す事が出来なかっ
た。そこで、以前に母の店に出入りしていた、横浜ベイスターズのバッティングピッ
チャーだった山崎慎介を思い出し、つてを頼って聞いた関内にある山崎が経営してい
る天ぷら屋を訪ねた。
 突然の真理の訪問に、山崎は懐かしがって喜び、そして母の死を悼んでくれた。写
真を見せた真理には何も事情は聞かず「俺は記憶が無いが、誰かに聞いてみるよ」と
気持ちよく素性探しを引き受けてくれた。その山崎から連絡があったのは、僅か一週
間後であった。
「真理ちゃん、分かったよ。あの男は佐々木真司だ。俺より5年先輩でドラフト三位
で関西の球団に入団した有望な外野手だったんだけれど、入団7年目に肩を壊して、
その後福岡の球団にトレードに出されて再起を計ったが、結局ダメで移籍後6年目に
は自由契約になったらしい。自由契約後はどうなったかは分からない。そこまでしか
分からなかったけれど、役に立ったかなあ?」
最後まで山崎は理由も聞かなかった。
「佐々木真司……私の名前は、父と母の名前を一字ずつとった。真理……という名前
は二人の愛が詰まった名前」
そう思うと、自分の名前が無性に愛おしくなった。
「山崎さん、ありがとうございます。そこまで調べて頂いて十分です」
真理は丁寧にお礼を言った。
「素性が分かればそれで充分」と真理は父の事を封じ込めた。
「役にたてて良かったよ。真理ちゃんもお母さんを亡くして淋しいだろうけれど、頑
張れよ。今度、彼氏でも連れて遊びにおいでよね。待ってるからさ」
それから、真理は山崎の店を贔屓にするようになった。そして、何年も経った今年の
夏前に山崎の店で思いがけない話を聞いた。
「真理ちゃんが店に来るきっかけになった、佐々木真司の事だけど覚えているだろう
?」
真理は、忘れようと思っても忘れられなかった父の名前を久しぶりに聞いて驚いた。
「この間、ベイスターズ時代の先輩が来てさ、先輩も俺と同じでパッとしなくて、早
々と退団した口なんだけど……」
山崎は照れ笑いを浮かべて頭をかいた。
「先輩は佐々木と一時期同じ球団にいた事があった奴でさ。その佐々木を見た。って
言ってきたんだよ。だけど、見た場所が問題で、寿町のドヤ街だったって言うんだけ
ど。でもあれは絶対に佐々木に間違いない、佐々木は先輩の顔を見て名前を口に出し、
驚いて慌てて逃げ出したって言うんだよ。」
真理は母の店で真実を知った時より、今の話にショックを受けた。最後は福岡の球団
で野球生活を終えた父が横浜の寿町に現れた……「それは、あの手紙に書いてあった
ように、母の事が忘れられなかったのではないだろうか? どうして父がドヤ街で生
活するようになったのかは分からないが、母が住む横浜に来て、私達の事を見守って
くれていたのかもしれない」
そう思った真理は急に父が恋しくなった。妻子持ちの父は母を愛してしまい、きっと
苦しんだのだろう。でも、妻子の元に戻らなくてはならなくなり、身を裂かれるよう
な思いで母と別れた。
「由理子への愛は永遠に消えはしない」というのは父の真実だった。
「父と母の悲しい恋」を思うと、自分の事以上に胸が張り裂けそうになった。
 真理は「父を探そう」と決心して古い写真を持って寿町で行動を開始した。写真が
古かった事もあり、父親探しは困難で、酔っ払いに付きまとわれたりして嫌な事もあ
ったが、9月の終わりに山崎からまた連絡があった。

「佐々木の事だけど、ドヤ街で佐々木を見かけたっていう例の先輩から聞いたんだけ
どさ。佐々木はドヤ街の仲間から『ベーブルース』って呼ばれたらしいよ。先輩は忘
れていたけど、最近思い出したって連絡があったよ」
山崎は真理がどうして佐々木を探しているのか?という事情に薄々気づいていたのだ
ろう。その真理のために「少しでも多くの情報を提供したい」と心がけてくれている
のだろう。真理は山崎の気遣いが嬉しかった。
「思い切って話をしようか?」と迷ったが、やはり、父と母の事は自分の胸だけに納
めておきたかった。

「ベーブルース」という手懸りのお陰ですぐに手応えがあった。
「ベーブルースなら知っているよ」という人と出会った。「ベーブルースは野球が大
好きで、横浜球場で試合のある日は、いつも球場付近をうろうろしているって言って
たなあ。歓声を聞くと元気になるって言って、俺も連いて行った事あったけどさ、俺
は元気にならなかったよ。だから、試合のある日に行ったらベーブルースに会えるか
もしれないから、あんた行ってみてごらんよ。俺もベーブルースに会ったらあんたが
探している事を伝えておくよ」
その人は親切にそう言った。シーズン終了を控え、残り少なくなった試合の日に横浜
球場付近を探したが父には会えなかった。
 
 そして、ついに父が真理の前に姿を現した。
しかし、探していた父は悲惨な最期を迎えてしまっていた。父は真理が探しているの
をその人から聞いたのだろう。真理は成長した自分の姿を父に見せたかったし、感謝
の気持ちも伝えたいと思っていたが「娘が探している」という事は父にとって辛い事
だったのかもしれない。そのために、真理から逃げるように川崎に移ったのだろう。
「私は父がどんな境遇になっていても、父が母と私を思う気持ちにウソはないと思う
から、だから父に会いたかったの。母の事も伝えて『ありがとう』という私の気持ち
を伝えたかったの。だから探したの。でも、その事で私は大きな罪を作ってしまった
のかもしれない」
全てを話し終えて、真理は泣きじゃくった。
 
 真理の話を聞いた雄一郎は、泣きじゃくる真理の肩をそっと抱いた。
「娘が探していた事を知ってそれが辛くて川崎に移った。と言うのは違っていると思
う。娘が自分を探していると知った時、お父さんは安心したんじゃないかなあ。自分
を探す事が出来るようになった位に娘が成長した。って、きっと嬉しかったんだと思
うよ。自分の役目は終わった。お父さんは安心して川崎に移り住んだ、と俺は思うけ
ど」
その話をした後、雄一郎は「あの事を伝えようか? どうしようか?」と迷っていた。

 真理は、父親と会っていたのだ。しかし、顔は見ていないだろう。ずっと下を向い
ていたから。雄一郎に親切に真理の事を教えてくれた男の横にいたのは真理の父親だ
った。「ベーブルース」確かにそう呼ばれていた。自分をしっかりと見据えた「目の
綺麗な男」を雄一郎はハッキリと思い出した。あの時、その男の目は潤んでいたが、
それは自分を探している娘を目の当たりにして泣いていたのだ。あの潤んだ目線は自
分に何かを訴えたかったのか?
「真理を頼む」
自分の思い込みかもしれないが、きっとそうだったのだろう。
「言わない方がいいだろう」
散々迷ったが、結局その事を真理には伝えなかった。

「本当にそうだと思うよ。トレードになった、って言うのがその証拠だよ。役目は終
わたって。お父さんは君の気持ちを良く分かってくれていたんだよ。お父さんを信じ
てあげようよ。それがお父さんへの一番の供養だと思うけれど」
「……」
真理は黙ってうなづいて雄一郎に寄りかかった。
「温かい……こんな風に人に甘えられるのって、お母さんを亡くしてから、それから
はずっとなかった」
真理は穏やかで落ち着いた気持ちになった。
「この子と結婚したら幸せになる」
真理の心のぬくもりを感じた雄一郎の中に、突然その思いが沸き起こった。

 本牧に帰る真理をタクシーに乗せるため、雄一郎は真理と一緒にマンションを出た。
師走にさしかかる深夜の街は静かだった。肩を並べて不動坂を下りてバス通りまで歩
いたが「ずっとこのまま一緒に歩いていたい」と二人は思っていた。
「タクシーが来なければいい」
二人は心の中で同じ事を思っていたが、タクシーはすぐに見つかった。真理がタクシ
ーを止めるために手を上げた時「結婚しよう!」
雄一郎はハッキリと真理に伝えた。余りにも突然の言葉に驚いた真理は、タクシーの
ドアが開いても動く事が出来なかったが、少しして「はい」と笑顔で答え、タクシー
に乗り込んだ。

 翌日の朝刊に「ホームレス撲殺される。犯人は近所に住む大学生」という記事が載
った。恋人にふられムシャクシャして「誰でもいいから殴りたい」と思った犯人の大
学生は自宅から持ち出した金属バットで、たまたま最初に出会ったそのホームレスを
目茶苦茶にした。慌てて自宅に戻ったが、深夜のニュースで「ホームレスが死んだ」
という事を知り怖くなり自首をしてきた。との事であった。
 その日の午後、山崎からも連絡があった。
「なんか、大変な事になっちゃったね。身元不明ってなっているから、先輩は警察に
行くって言ってたよ。真理ちゃんが何の目的で佐々木の事を調べていたのか、って俺
は聞かないけれど、真理ちゃんが悲しむような事になっているんだったら、可哀相だ
って心配しているけれど、大丈夫か?」
山崎の優しさが身にしみた。
「山崎さんありがとう。私は大丈夫よ。でも、身元が分かれば、その人は家族の元に
帰れるのよね」
父は再び家族の元に帰るであろう。
「でも、お父さんとお母さんは天国で結ばれるかもしれない」
真理は会った事もない「父の家族」に詫びながらも、二人が天国で幸せになる事を願
った。



(1996年)
 翌年の春、根岸森林公園に満開の桜を見に行った帰りに、二人は結ばれた。
「初めて」という事を知った雄一郎は感激に胸をふるわせた。
「一番大事な人と思える人とめぐり会うまで、大事なものはしまっておきなさい」
母は真理にいつもそう言い聞かせた。
母の教えをずっと守っていた真理にとって、雄一郎は「めぐり会う事が出来た一番大
事な人」であった。
「幸せになるのよ」
真理は母の声を聞いた。
クィーンの「キラークィーン」が小さく流れていた。
二人が公園で付けてきた桜の花びらがリビングルームの床にたくさん落ちていた光景
を真理は忘れる事はなかった。

 昨年11月末のプロポーズから、早い結婚を望んでいた雄一郎であったが「夫婦同
部署は認めない」という社則を考えると「会社には内緒で当分同棲生活も有りかな?」
とも考えていた。二人のうちのどちらが異動対象になるのかは分からないが、自分で
はなく真理が異動させられる可能性の方が多い。そうなった場合、チーフとして真理
のフロントでの仕事ぶりを認めていたし、ここで真理がシフトから外れるのは厳しか
った。しかし……ときめきの時間が過ぎた後、リビングに落ちた桜の花びらを一つず
つ拾いながら「早く、川村真理になりたいな……」とつぶやく真理を抱きしめ「決め
たよ! ジューンブライドだ!」と約束した。

 その翌日、雄一郎は上司に結婚の報告を行なったが「慎重派」と言われている雄一
郎の突然の結婚報告で、社内は大騒ぎになった。
 フロント支配人の大沢克己は頭を抱えた。チーフの雄一郎をフロントから外す事は
出来ない。そうなると真理を異動させる事になるが、入社後1年経って、これからフ
ロントマンとして優秀な戦力と期待されている真理の異動は痛かった。
「やってくれたな」
幸せな報告をする二人を前にして、思わず本音を言ってしまったが、結婚というお目
出度い事であればいた仕方なかった。
「迷惑かけてすみません」
二人は頭を下げるしかなかった。そして、真理はセールスマーケティング部に異動に
なった。

 二ヶ月後、二人の結婚披露宴は横浜のロイヤルガーデンホテルでささやかに執り行
われた。ウェディングドレスをまとった「ジューンブライドの真理」の余りの美しさ
に、列席者は息を呑んだ。

 根岸旭台にある雄一郎のマンションが新居となった。それまで無機質で生活感のな
かった部屋はリフォームを施し、真理の好みでアジアンチックなインテリアのお洒落
で居心地の良い部屋に変貌した。



(2000年)
 二人は4度目の結婚記念日を迎えたが、その記念日に雄一郎は系列の八ヶ岳ガーデ
ンリゾートホテルのフロント支配人の職に転勤の内示を受けた。

「今年の記念日は、ホテルのバーで大人の時間を過ごしたい」
真理からのリクエストで、シフトを終えた雄一郎は、日本大通りにある待ち合わせ場
所のレストランに急いだ。通りが見渡せる窓側の席に座っている真理が、雄一郎の姿
を見つけてガラス越しに手を振った。
 今日の真理は、サーモンピンクのフレンチスリーブのシンプルなワンピースを着て
いた。
今朝、今晩のデートを考え、憂鬱な梅雨空を吹き飛ばすように、雄一郎はクローゼッ
トから明るいベージュのスーツを取り出した。
「今日はこのセットでね」
真理はチャコールグレイのチョークストライプのスーツと、紫がかった赤みのある渋
いネクタイのセットを用意していた。
「少し、暗くない?」
雄一郎は自分が取り出したベージュのスーツと見比べながら、不満げに言ったが「い
いの。今日はシックに決めてね」真理は譲らなかった。
 レストランの席につき、ガラス窓に写る自分達の姿を見て雄一郎は納得した。チャ
コールグレイとサーモンピンクのカラーコントラストは、フェミニンで大人の雰囲気
が漂っていた。
 軽く食事を済ませた後、予約済みの山下公園の近くにある老舗ホテルのバーに席を
移した。

 重厚な雰囲気が漂うバーは、二人を静かに包んでくれた。
世界的に有名なカクテルで乾杯をして結婚記念日を祝った。アニス独特の味が口に広
がり「ちょっとキツイかな?」と真理は思ったが、雄一郎は満足そうにカクテルを味
わっていた。
 アルコールが程よく回り、幸せ気分になった頃「転勤の内示があったよ」静かな口
調で雄一郎が告げた。
「……」
真理は雄一郎の表情が一瞬曇ったのを見て、すぐに返事が出来なかったが、ロイヤル
ガーデンホテルがあるいくつかの都市が頭に浮かんだ。
「何処に?」
真理も静かに尋ねた。
「山梨」
「山梨? ってロイヤルガーデンではないの?」
解せなくて首を傾げた。
「うん、八ヶ岳ガーデンリゾートホテル。だけど、フロント支配人」
今はアシスタントマネージャーだから2階級特進だが、横浜ロイヤルガーデンから離
れたくはないのだろう。真理はそう感じて次の言葉が出なかった。それに伴って様々
な事も頭に浮かんだが「おめでとう。横浜で積み重ねた実績が認められたのね」笑顔
で祝福した。
「ありがとう。ちょっと考えちゃったけどね。ロイヤルガーデンから離れる気持ちは
なかったからさ」
真理も系列ホテルだから名前は知ってはいるが、馴染みがない八ヶ岳ガーデンリゾー
トホテルのイメージが沸かなかった。現実的になり、幸せ気分が少し遠のいて行くよ
うな気がした。
「単身赴任になるかもしれないけれど、大丈夫?」
本心とは違う事を雄一郎は口にした。
「単身赴任?」
真理はそう言ってうつむいた。淋しげな真理を見て、雄一郎は少し期待をした。
「別居生活っていう事になるの? どれ位の期間?」しばらくして真理が尋ねた。
「分からない。短いかもしれないし、半永久的かもしれない。俺の仕事次第だろうけ
れど・・・・・・」
また沈黙の時間が流れた。
「時々は横浜に帰って来てくれるでしょう?」
「時々じゃないよ。休みの度に帰るよ」
雄一郎は答えたが、真理が単身赴任を前提として言っている事が少しショックだった。
「淋しくなる……」そうつぶやき「山梨に一緒に行って欲しい?」雄一郎の手を取
って訊いた。
「分かっているだろう? 俺の気持ちは。一緒に山梨に行って欲しい。だけど、真理
からロイヤルガーデンの仕事を奪う事は出来ない」
そう言って雄一郎はカクテルを飲み干した。

「川村様、お代わりはいかがですか?」
二人の間に少し重い空気が流れた時、年配のウェイターがカクテルのお代わりを勧め
に来た。絶妙なタイミングの見事なキラーパス。
「同じカクテルをもう一杯」
「私はドライマティーニを」
二人は笑顔でオーダーした。
「かしこまりました」
ウェイターがかもしだす柔らかな雰囲気が、重かった空気を吹き消した。

「ねえ? 少し時間をもらってもいい?」
真理の口調も優しくなった。
「俺の気持ちは伝えたから、真理は自分に正直になって真理の気持ちを伝えてくれれ
ばいいよ。別居って言ったって、八ヶ岳と横浜なんだからさ。いつでも会えるし、そ
れも新鮮でいいかもしれないしさ」
やっと雄一郎に笑顔が戻って来た。
「ちょうど良かったかな? 昇格おめでとう!」
真理はバッグからリボンがかかった小さな箱を取り出し雄一郎に渡した。
「何?」
「私からの感謝の気持ちよ」
「開けていい?」
そういう前にすでに雄一郎はリボンを解いていた。
お洒落なケースに納められた全身ブラックメッキの腕時計を手に取って「これ欲しか
ったんだよ!」雄一郎は嬉しそうに声をあげた。真理からのプレゼントに無邪気に喜
ぶ雄一郎を見て「幸せ感覚」に真理は包まれた。

「付き合う」という実態がないままの突然のプロポーズから結婚まで約半年。二人で
過ごす時間より、職場で上司と部下として接している時間の方が多かったが、雄一郎
と結婚して本当に幸せだった。

「これからもずっと一緒に時を刻んでいってね」
利き腕の右腕に時計をはめる雄一郎を見つめて言った。恋人が腕時計をプレゼントす
る時に交わされるであろう、ありきたりの言葉だったが「一緒に時を刻む事」の大切
さを真理は心の底から感じていた。
「ありがとう」
誰もいなかったら、雄一郎は真理を抱きしめていた。
「お待たせいたしました」
ウェイターターが二杯目のカクテルをスマートな手つきでテーブルに置き、何か雄一
郎に耳打ちをした。真理は怪訝な表情で二人を見ていた。
「ごゆっくりお楽しみください」
笑顔のウェイターが去ってから「ちょっと目をつむっていて」雄一郎が笑って言った。
「何?」
そう言いながら真理は目を閉じた。
「いつもありがとう! 俺の気持ちだよ」
目を開けた真理に、少し緊張した面持ちになった雄一郎が真っ赤なバラの花束を手渡
した。
「……」感激で真理は声が出なかった。
バーカウンターの所で、バーテンダーと先程のウェイターが二人を見て遠慮がちに拍
手をしていた。それに気がついた年配の客がウェイターに何か話しかけ、そして頷き、
「おめでとう」と二人を祝福してくれた。。雄一郎と真理は恥ずかしそうに「ありが
とうございます」とスタッフと客に向って軽く会釈を返した。
「ちょっとキザだったかなあ?」
雄一郎が照れた。
「ちょっとどころじゃない。とってもキザだったけれど、感激! ありがとう……」
真理は涙ぐんでいた。
「バカだな。こんな所で泣くなよ……」
 真理は複雑だった。
「時間をもらってもいい?」と言ったけれど「ロイヤルガーデンでの仕事は辞めたく
ない。だから単身赴任で」気持ちは決まっていた。涙には「ありがとう」という感謝
の気持ちと「ごめんなさい」という謝罪の気持ちが込められていた。

 社内通達で正式に雄一郎の辞令発令が回った時に、真理は雄一郎に自分の気持ちを
伝えた。諦めていて覚悟をしていたが、雄一郎は真理から改めて「単身赴任」を言い
出されて新たなショックを受けた。
「八ヶ岳近辺にもホテルはある。真理の力を持ってしたらそのホテルでの勤務も叶う
だろうし、一緒に生活が出来る」
雄一郎は期待を込めて訴えたが、真理はどうしても納得しなかった。結局、雄一郎は
会社の「命令」と真理の「提案」に従い単身赴任で「八ヶ岳ガーデンリゾートホテル」
のフロント支配人職に就いた。

第三章


(2006年)
 こんなに長くはなると思っていなかったが、お互いの中で別居生活も「当たり前」
となっていた時、真理に嬉しい出来事が起きた。雄一郎がその報告を聞いたのは11
月末、一週間ぶりに横浜に戻って来た時であった。

 二週間前に、長い間住みなれた根岸のマンションから、二人は横浜のベイサイドエ
リアの分譲マンションに引越しを済ませたばかりであった。その団地は建て替え団地
であったが、真理は建て替えられる前の団地で高校時代までを過ごした。新居は真理
の生まれ育った場所で、真理は2LDKのマンションの抽選に当たった時には飛び上
がって喜んでいた。

 結婚してから10年、別居生活を始めてから6年が経っていた。

「彼が帰って来るまでには引越しの荷物は片付けてしまいたい」という真理の頑張り
で部屋はすっかり綺麗になっていた。残っているのは寝室のクローゼットだけで真理
は「最後の一頑張り」とクローゼットの整理を行なっていた。
「いい気持ち!」
風呂から出た雄一郎がバスタオルで頭を拭きながら、缶ビールを持って寝室に現れた。
「しかし、最高のロケーションだよな……」
最上階の部屋の北側の窓からは横浜港とみなとみらいが見渡せる。その夜景は今夜の
二人を祝福しているかのように煌いていた。

「どうしようかな?」
真理はしばらく片付けの手を休めて考え込んだ。Tシャツにスウェットパンツ姿の雄
一郎はビールを飲みながら夜景に見とれている。
「出来たって」
雄一郎の横に立ち、背伸びをして恥ずかしそうに耳打ちした。
「出来たって何が?」
「もう鈍いんだから……出来たって言ったら……他に何がある?」
真理は嬉しそうに言った。
「ウソ……だろう?」
余りにも突然の事で雄一郎は缶ビールを落としそうになった。
慌ててサッシのさんに缶ビールを置いて「まさか……本当にまさか……って事?」
信じられない!という顔つきで真理を見つめた。
「うん……」真理はそれだけ言って我慢しきれない様に雄一郎に身体を預けた。
雄一郎は真理の身体をしっかりと受けとめて、自分の喜びを表すように更に真理をき
つく抱きしめ「いつ?」と尋ねた。
「こうの鳥が配達予約を入れてきたの」
笑いながら真理は雄一郎の首に手を回した。
「期待させて、それが間違っていたら? って思っていたので内緒にしていたの。そ
れでね、一昨日、みなとみらい病院に行ったの。二ヶ月だって。予定日はね、7月2
4日」
そう言って真理は雄一郎の胸に顔をうずめた。
「ウソだろう?」
まだ雄一郎は信じられなかった。
二人ともそんなに若くはない。それにもう子供は諦めていた。
「男の子だったら雄真で、女の子だったら理子だからね」
真理は潤んだ目で雄一郎を見上げた。
「雄真はいいけど、理子は却下だ。俺の字が入ってない」
雄一郎は笑いながらまた真理を抱きしめた。

 40年近く生きて来ていろんな幸せを味わった。
でも今までの「幸せ感」は今の「幸せ感」と比べたらちっぽけだった。
「子供が出来た」という幸せは何事にもかえがたく、雄一郎は真理を強く抱きしめる
事でその感動を表現した。
「理子ちゃんが苦しいって」
真理が笑いながら言ったが、それでも雄一郎は真理を離さず、そのまま二人はベッド
に倒れ込んだ。
「ごめん。大丈夫?」
少し激しかった動作に真理の身体を案じたが、じわじわと雄一郎の中に喜びが広がっ
て行った。

「具合は悪くないのか?」
真理の髪の毛を優しくかきあげながら雄一郎が尋ねた。
「うん、大丈夫みたい」
「絶対に煙草はやめろよな。」
「はい。でも、私達ってどんなパパとママになるのかなあ?」
「こんな風だよ」
雄一郎はそっとキスをした。喜びが身体中を駆け巡った。優しかったキスが激しくな
った。
「先生が無理しないように、って。だから、やさしくね」真理は目を閉じた。
 
 興奮の嵐が過ぎ去り、リビングに戻った二人の会話は現実の話になった。
「仕事はどうする?」
ビールを飲みながら雄一郎が口を開いた。
「私の希望ではこのまま仕事は続けたい。でも、これはあくまでも私の希望よ」
「子供が生まれてもこのまま別居生活を続ける。と言うのか?」
「それが叶うならそれも有りかな? って思うけど……でも子供の事を考えたら可哀
相でしょう? それでね、幸いつわりもないし、だから……この仕事が済んだら……
それをきちんと考える。だけど、それまでは保留にして欲しいの」
「この仕事?」
「本当はね、今日の議題はその事だったの。だけど、突発的な幸せな出来事で次の議
題になっちゃった。来月の半ばに世界規模の『児童の性的搾取からの保護を訴える国
際会議』が横浜で開催されるのは知っているでしょう? 子供救済に手を差し伸べて
いる国連機関や、世界中のその事に携わっているNPOやNGO団体、それに外務大
臣クラスも参加する。会議はみなとみらいの国際会議場で行なうけれど、それに伴う
主だった関係者の宿泊はロイヤルガーデンが請け負っている、ってその事も前に話を
したでしょ。その仕事の細かい手配の責任者は村上マネージャーよ。私は別の仕事の
担当だったのだけれど、急遽さんのサポート役を任せられたの。サポート役と言った
って細かい手配だけよ。それでも私はそういう社会的に大きな意義を持つ仕事に携わ
っていたいの。その事は分かってくれるでしょう? だから、その仕事が済むまで……
私に猶予を与えてくれる?」真理は懇願するように必死の気持ちで雄一郎を見つめた。

「社会的に大きな意義を持つ仕事」……それは分かりすぎるぐらいに分かっている
……俺だって……雄一郎は昔を思い出した。

「転勤命令」はサラリーマンには絶対の「命令」であり、それを断るという事は「業
務命令違反」となり懲戒解雇を受ける事にもなりかねなかったが、八ヶ岳ガーデンリ
ゾートホテルに転勤の内示があった時に雄一郎は躊躇するものがあった。
「ガーデンリゾートホテル」は日本のトップクラスの「ロイヤルガーデンホテル」の
系列会社である。雄一郎は「フロント支配人」の命を受けていたが、年齢的にも異例
の抜擢であった。そして、その後には「宿泊部支配人」そして「総支配人」の地位を
約束されていた。立場的にはどうであれ、雄一郎の中には「都落ち」という感覚があ
った。大都会の「ロイヤルガーデンホテル」でリアルタイムで「現在の日本」を味わ
いたかった。それなりの人物と接する事で「自分自身を高めたい。そして本部の幹部
になってロイヤルガーデンホテルチェーンを動かしたい」という野心もあった。
 八ヶ岳に赴任する前の送別会の席で「八ヶ岳ガーデンリゾートのフロント支配人に
ついては、フロントの川村君とセールスの村上君のどちらかにするかで会社は揉めた
のだよ」と本部の重役から雄一郎は聞かされた。
「村上君も優秀な人材で今後の事を考えて、営業畑の村上君にフロントを任せる事も
必要かと考えていたが、それには少し無理があるという事で会社は君を選んだ。君の
フロントでの仕事ぶりを会社は高く評価しているし、君の人間性も高く買っている。
横浜も八ヶ岳もこれからは厳しい時代に突入する。我が社としてはリゾートホテルに
も更に力を注いで行く必要がある。徐々に中高年層がその方面に金を使い始めている
からな。それに添える力を持っているのは川村君、君だよ」
酔った勢いでぽろっと内情を話してしまった重役は、苦笑いをしている雄一郎を見て
「余計な事を喋ってしまったかな」と困惑したが「君には大いに期待を寄せている。
八ヶ岳ガーデンリゾートのクオリティを高め、甲信越地域のトップホテルに押し上げ
る。君なら出来る」
そう雄一郎を褒め称えた。
上高地にある老舗高級ホテルが頭に浮かんだ。
しかし……「競争が激しくなる都会のホテルに必要なのは村上で、俺は八ヶ岳か」と
雄一郎は自分が負け犬になったような気分になった。

 村上健司と雄一郎は同期であった。村上は営業畑、雄一郎はフロント畑と別の道を
歩いていたが、何故かお互いに引き合うものがあり親友でもあり、良い意味でのライ
バルでもあった。それが少し変化したのは真理がセールスマーケティング部に異動で
村上の部下となった時からだった。雄一郎の目から見ても、セールスマーケティング
部に異動になった真理は輝き始めた。それは「天職」という事を真理が悟ったためで
あったが、雄一郎は「真理の輝き」を村上と結び付けていた。雄一郎はそういう自分
を「ちっぽけな男」と思ってもいたが、その思いはなかなか拭い去る事が出来なかっ
た。村上に対して「親友」より「ライバル」という気持ちが膨らんでいった。そして
「真理もライバル」になっていった。

 真理の妊娠は雄一郎にとって心の底から嬉しい事であったが、やはり二人の前に壁
が立ちはだかった。真理にとって「貴重な経験である大きな仕事」は「身体の一番大
事な時期」と同時期であった。雄一郎はその話を聞いた時すぐにでも「辞めてくれ」
と言いたかったが「真理の仕事に対する熱意」を感じていた雄一郎は言えなかった。
もし、「真理の仕事」がなかったならそんな事には悩まず「子供が生まれる」幸せに
浸っている事が出来ただろう。しかし、ここでも結局雄一郎は真理に押し切られた。
数年前に宿泊部支配人のポストに昇格していたが、転勤の時に感じた「都落ち」とい
う劣等感が心の片隅に残っていた。
 
 八ヶ岳に戻ってから、雄一郎は仕事をしながらも、子供の事を考えると自然に笑み
がこぼれ、部下であるフロント支配人の吉野浩之にはすぐに気づかれた。しかし、身
体が心配で、真理を子供が産まれるまでガラスのケースにしまっておきたかったが、
ケースに収まっていない真理はいつもと同じ様に仕事をしていた。一日に何回も雄一
郎は真理に電話をかけた。
「理子ちゃんのパパは心配性」と生まれてくる子供は女の子、と決め付けている真理
は、雄一郎の電話に毎回同じ事を言って笑っていた。休みの日は必ず横浜に帰った。
真理が仕事に行く時はホテルまで車で送り迎えをし、主夫役も進んで引受けた。

 そして真理の仕事は無事に終了した。国際会議の様子はテレビのニュースで流され
たが、勿論「その裏で働いた真理と雄一郎の苦労」は誰も知らなかった。
 その日の夜、真理は雄一郎に電話で「ありがとう」と伝えた。
「大丈夫か?」
真っ先に雄一郎は真理の身体を心配した。
「私は大丈夫。もう、これで心残りはない。退職願いを出すつもりよ」
「ホテルを辞める決心がついたのか?」
「なんかね、私にとっての大事な仕事をし終えて気がついたの……」
真理が急に口をつぐんだ。
「何?」
雄一郎の問いかけに返事がなかった。
「……」
かすかに聞こえたのは嗚咽だった。大きな仕事を終えた興奮がまだ残っていて、少し
ナーバスになっていた真理は泣いていた。
「泣いているのか?」
「ううん、泣いていない」
優しい雄一郎を感じながら真理は意地を張った。
「真理はバカだな」
その言葉の中には愛がいっぱい詰まっていた。真理はその幸せを心の底から感じた。
「バカな真理と一緒で幸せ?」
「分かっているだろう?」
「でも言って。幸せだって。真理を愛しているって、言って」
「電話じゃ言えないよ」
「だったら……今から横浜に来て」
「バカ、行けるわけないだろう。水曜日に横浜に帰るよ。具合が悪いのか? 真理、
大丈夫か?」
雄一郎は急に心配になり電話に呼びかけた。
「大丈夫よ。後三日して会ったらね、そうしたら私も気がついた事を言うから。ね、
でも言って。幸せだって」
「俺も水曜日に会ったら言うから。真理は待てるよな?」
面と向って言えなくても電話だったら伝えられる事があるが、今の雄一郎は真理の目
を見て、自分の気持ちを伝えたかった。
「うん、分かった。水曜日ね。もう電話切るね。なんだが眠くなった。このまま幸せ
気分で眠りたい」
「そうか。本当に大丈夫か?何かあったらすぐに電話しろよ」
「本当に大丈夫。眠いだけ、おやすみなさい。理子ちゃんもね、パパにおやすみって」
「ハッハッハ、分かったよ。おやすみ」
電話は真理の方から切られた。
 


 翌日、雄一郎は昨夜の「幸せな余韻」を感じながら出社した。車の中でこれから対
処しなくてはならない様々な事の段取りを考えていた。今は会社が用意してくれたマ
ンションで生活をしているが、真理が来るならもっと広いマンションを探さなくては
ならない、横浜のマンションはどうするか?年末年始で仕事が忙しい時期と重なるが、
それは嬉しい事でもあった。
 
 雄一郎がいつもの仕事である館内巡回をしていた時に携帯が鳴った。
「真理かな?」と思ったが「フロント」という表示に「何か問題でも起きたか?」と
一瞬不安な気分になった。
「お疲れ様です。吉野です」
電話の相手はフロント支配人の吉野裕之だったが、その声はいつもの軽快な吉野では
なく固かった。
「何かあったのか?」
「今、横浜のみなとみらい病院から支配人あてに電話がありました。折り返し電話が
欲しいとの事ですが、メモ出来ますか?」
みなとみらい病院?そうだ真理だ。嫌な予感がして動揺した雄一郎はすぐにペンを取
り出せなかった。
「もしもし支配人、大丈夫ですか?」
吉野の声は更に硬くなった。
「大丈夫だよ。電話番号を教えてくれ」
「いいですか? 045 628・・・・・・ 産婦人科の吉岡先生宛にお願いします。と
の事です」
産婦人科という事で吉野もただならぬ事態が起きた、と感じていたのだろう。何度も
雄一郎に「大丈夫ですか?」と心配そうな声で尋ねた。雄一郎はペンは取り出せたも
のの手帳が取り出せず、仕方なく掌に電話番号をメモし、吉野からの電話を切ってす
ぐにみなとみらい病院の吉岡という医師に電話を入れた。
「川村真理さんのご主人ですね? 奥さんの真理さんが先程救急車で搬送されました。
電話では申し上げられませんが良くない状態になっていますので、これからすぐにこ
ちらに来て頂けますか?」
産婦人科の吉岡という医師は穏やかだったが、強い意志をもったような声だった。
「家内に何が起きたのですか?」
「申し訳ないのですが、電話では詳しい事はお伝えする事は出来ません。今は山梨に
いらっしゃるのですか? お仕事中だとは思いますが、早急にこちらに来てください」
「分かりました。これからすぐに車で伺います。今からですと渋滞がなければ午後の
早い時間には到着出来るかと思います。真理は、家内の様子はどうなのですか? そ
れだけでも教えてください」
雄一郎は懇願した。
「奥さんは今は落ち着かれていますし、命に別状はありません。お車でいらっしゃる
という事ですが、くれぐれも運転には注意して来てください。お待ちしています」
 
 雄一郎はオフィスに取って返し、フロント支配人の吉野に「家内が具合が悪くなっ
て病院に運ばれたので、これから横浜まで行くが後の事は頼む。携帯はONにしてお
くので、何かあったら携帯に連絡してくれ」と頼んだ。おそらく吉野も事情を察して
いるのであろう「こっちの事は僕に任せてください。だけど車で大丈夫ですか?」と
雄一郎を気遣ったが、その事には応えず「迷惑かけて申し訳ないが、頼む」とだけ言
って雄一郎は社員用駐車場に急いだ。
 
 途中、八王子付近で渋滞に巻き込まれたが、それでも予定より30分程遅れただけ
で、みなとみらい病院に到着する事が出来た雄一郎が、逸る気持ちを抑えて産婦人科
のナースステーションに立ち寄り、案内を請うて病室に向うと、真理の病室の前には
うな垂れている村上がいた。
「川村!」と言ってきた村上を雄一郎は思わず殴りつけた。
「どうして村上がここにいるのか?」
看護士がその様子に慌てて駆けつけて来た時、村上は唇を押さえて立ちすくんでいた。
廊下でのただならぬ気配に真理の病室から医師と看護師が飛び出してきた。吉岡医師
はその様子を見て、看護師に雄一郎を自分の部屋に案内するように目配せをした。
「家内に会わせてください」
雄一郎は吉岡医師にすがった。
「その前に私と話をしませんか?」
小太りで誠実そうな吉岡医師は雄一郎に穏やかな口調で話しかけた。先程の電話と同
じように吉岡は穏やかだったが「従いなさい」という強いものがあった。
「分かりました」
雄一郎は唇から血を出している村上を横目で睨み、吉岡医師の後を連いて行った。

「川村さん、今朝、奥さんは会社で強い腹痛を訴えられて救急車で搬送されました。
子宮外妊娠です。卵巣に癒着を起こしていますので卵管が破裂する前に緊急に卵管摘
出手術を行なう必要があります」
「そんな……この病院で家内は妊娠を告げられて……そう出産予定日は7月だって、
そう言われていたのですよ。それに、家内は今までその事で具合が悪くなるなんて事
はなかった……仕事をしていたので、その事で無理があったのですか?」
「卵管破裂などが起きない限り妊娠初期では発見が難しいのです。また、今回の事と
お仕事をされていた事との因果関係はないと思います」
吉岡は雄一郎が少し落ち着くまでじっと黙っていた。
「もう一つですが……赤ちゃんは二卵性双生児です。二卵性であるがために肥大して
いる両方の卵管を摘出せざるを得ません」
吉岡は雄一郎にエコー画像を見せながら説明をした。
「大変申し上げにくいのですが……体外受精などの方法はありますが、将来的に自然
妊娠は望めなくなります」
吉岡は辛そうな表情でその事実を雄一郎に告げた。
「おそらくもう子供は無理だろう」
雄一郎は悟り、エコー画像を見た。
「雄真と理子だ……」真理の嬉しそうな顔が浮かび、涙が出そうになったがグッと堪えた。
「摘出以外に方法はないのですか?」
「抗がん剤を使って妊娠組織を消滅させる方法がありますが、これは副作用がひどい
のと抗がん剤ですので細心の注意が必要で一般的にこの方法は用いられておりません。
今お話した手術が奥さんには有効手段となります」
「その事は本人は知っていますか?」
雄一郎は吉岡をしっかり見据えた。
「私からはお伝えしていません。ご主人に話をしてご了承を頂いて、まずご主人から
奥さんに伝えて頂いた方が宜しいかと考えています。詳しい事はその後、私がお二人
にご説明いたします」
「分かりました。ご配慮頂きありがとうございます。手術はいつになりますか?」
「緊急を要しますので、明日の午後からを予定しています。局部麻酔での手術になり
ますが、時間は一時間位になります。術後の経過を見ながらになりますが特に問題が
なければ二週間程で退院出来るでしょう。ただ、その後のケアにはご主人の力が必要
になると思います」
吉岡がボールペンを手で回しながら、ゆっくりとそしてはっきりとした口調で告げた。
「入院の手続きや病室の選択など細かい事は看護師が後程ご案内いたします」
「分かりました。よろしくお願いいたします」
雄一郎は丁寧に頭を下げ、真理の部屋に向った。廊下に村上は居なかった。右手に村
上を殴った感触が蘇りその右手をきつく握り締めた。病室のドアを開けようとした時、
どこかの部屋からか新生児の泣き声が聞こえてきたので、その泣き声から逃れるよう
に慌てて病室に入った。
 
 眠っている真理の目の端には涙が溜まっていた。起こさないようにそっと椅子に腰
をかけ、しばらくの間寝顔を見つめた。
「昨夜『今から横浜に来て』と言われた時に横浜にすぐに帰れば良かった……もしか
したら真理は具合が悪かったのかもしれない、何かを予感していたのかもしれない……」

 しばらくして気配を感じたのか真理が目を覚ました。
「来てくれたの?」
傍に雄一郎がいる事が嬉しかったのか、真理は笑顔を浮かべて、手を差し出した。
「仕事は大丈夫なの? 年末の忙しい時なのにごめんね。吉野さんとか八ヶ岳の人は
みんな困っているでしょう? もう、私は大丈夫だから仕事に戻ってもいいのよ」
雄一郎が着ている制服のブレザーのエンブレムを真理はじっと見つめた。
「とるものもとりあえず駆けつけて来てくれたのだろう」
真理はそう思って嬉しかった。
「バカだな。仕事より大切なものがあるだろう?」
真理の手をしっかりと握って雄一郎も笑顔で話しかけた。
「救急車なんて呼んじゃって、ホテルに迷惑かけちゃった」
「具合いが悪いところはないのか?」
「さっきまではとってもお腹が痛かったけれど、少し治まってきた……村上さんが一
緒に連いてきてくれたのよ。村上さんはホテルに戻ったの?」
「うん、俺が来たからさっきホテルに戻ったよ。あいつも心配していたよ」
雄一郎はウソをついた。
「でも、本当に良かった。大事な仕事が終わった後で」
「真理が良い仕事をしたから……だからだよ」
「でも、まだクリスマスの準備とかいろいろあるんだけど……だってね、仕事だって
途中で出来なくなっちゃったの。マネージャーに報告しなくてはならない事あるのに
……あのね、来週のトラスト・コーポレーションのパーティの手配書はパソコンの手
配書フォルダーに入っているって伝えてくれる?」雄一郎の指を弄びながら、でも雄
一郎の顔は見ずに、真理はさっきからずっとブレザーのエンブレムだけを見つめてい
た。
「村上には俺が伝えておくよ。仕事の事は忘れてゆっくり休めよ」
「交通費の精算も終わっていないの。経理に怒られちゃう。それにね、今日帰って来
るって思わなかったから、部屋の中グチャグチャなの。お風呂も掃除していないし、
洗濯物だってたたんでいないの。冷蔵庫なんて空っぽ状態だと思う。ごめんね、何に
もしていなくて」
「何言っているんだよ。そんな事を俺は気にしないよ」
おそらく「最悪の事態になった。」と真理は感じているのだろう。だから、今言わな
くてもいい事の話をしている。
「ねえ、言って」
しばらくしてから、今度は雄一郎の顔をしっかりと見て真理は言った。
「何を? 昨夜の事?」
「昨夜の事は水曜日って約束したでしょう? 今、私に伝えなくてはならない事があ
るでしょう?」
その時、雄一郎の胸ポケットの携帯のバイブが震えた。慌てて携帯を探って着信を確
認したが、見知らぬ電話番号が表示されていた。
「村上からだ」
雄一郎はまた真理にウソをついて廊下に出た。かかってきた電話は間違い電話であっ
たが雄一郎はその相手に感謝をした。吉岡医師から聞いた辛い事を話さなくてはなら
ない時が来たが、どう対処してよいか分からなかった。間違い電話はその雄一郎に覚
悟を決める時間を作ってくれた。
「村上が具合はどうかって」
雄一郎は椅子を引いて腰を下ろし、そして、意を決して真理に事実を告げ始めた。
「さっき、吉岡先生から話をされたよ。真理は子宮外妊娠だった。卵巣に癒着が見ら
れて、卵管破裂の恐れがあるから、明日の午後に卵管摘出手術をする事になった。で
も、手術をすればまた元気になるから心配する事はない」
雄一郎は自分自身にも言い聞かせるように、一つ一つ言葉を繋げた。
「元気になるって、もしかしたら、子供が産めるという事なの?」
雄一郎は真理から視線を外したかったが、真理の必死の視線がその事を許さなかった。
「雄真と理子だった」
雄一郎にはその言葉しか浮かばなかった。
「何?」というように真理は眉根に皺を寄せた。
「『雄真か理子』ではなくて『雄真と理子』だったんだ」
……子供はだめになる。二卵性双生児だから、両方の卵管を摘出しなくてはならない
……という具体的な言い方は出来なかった。
「雄真と理子……」
真理はそうつぶやいて窓の方を向いた。
「そうだよ、双子だったんだよ。四人家族だよ。それが俺と真理の川村家の家族だっ
たんだよ」
わざと過去形を使った。その言葉で真理は理解したのだろうか、横を向いている真理
の肩が震えた。真理は声をあげずに泣いていた。一緒に泣きたかったが「泣くな」と
自分を戒めた。
「我慢なんてするなよ。真理と一緒に泣けよ」
村上の声が聞こえたが、雄一郎は涙を堪えた。
「雄真と理子は遠慮したんだよ。ずっと離れ離れだったお父さんとお母さんにさ。や
っぱり二人にしておいてあげたい、って」
言った後「どうしてドラマの台詞のような気休めの言葉しか出て来ないのだろう」
雄一郎は自分を悔いた。だが、「自分がそんな風に考えないと、ダメなものはダメと
早く気持ちを切り替えてしっかりしないと真理を守れない」そう思っていた。雄一郎
は、肩を震わせ、声をあげずに泣いている真理を布団の上からそっと抱きしめ「何が
あっても俺は真理を守るよ」声に出して伝え、抱く手に力を込めた。真理は雄一郎の
手を取り、その手を自分の顔に添えて「ごめんなさい」そう言って雄一郎の手の中で
泣いていた。
 
 しばらくして、落ち着いた時、遠慮がちにドアをノックする音が聞こえた。雄一郎
は真理から離れてドアに駆け寄った。ドアの外で温かそうな雰囲気の看護師が立って
いた。
「こういう場面を沢山経験していた看護師は、自分が出向くタイミングを考えてくれ
ていたのであろう。『ホスピタリティ』という言葉は病院の『ホスピス』という事か
ら来る言葉だが、今、自分の目の前にいる看護師はその『心』を分かっているのだ」
廊下のソファーに座って看護師から明日の手術の説明を受け、入院や手術に際しての
諸々の手続きを済ませた。
最後に看護師が「お部屋の件ですが、このままの個室で宜しいですか? それとも大
部屋に移られますか?」と聞いてきた。
「個室と大部屋とでは差額ベッド代に大きな違いがあるのだろう」と単純にその事だ
けを考えていた雄一郎は「それはお任せします」と簡単に答えた。
「産婦人科は無事に出産を終えた方や婦人科の病気で入院されている方もいらっしゃ
います。奥様のような場合、経産婦の方やこれから出産を控えている方との同室は避
けられた方が宜しいかと思います。ただ、個室は差額ベッド代がかかってしまいます。
ご家庭のご事情がありますので強制はいたしませんが、私の個人的な考えでは今の個
室をお奨めします。今のお部屋は廊下の外れで、赤ちゃんの泣き声とかが比較的届か
ない場所にありますから」
「精神的なケアという部分ですか?」
「そうですね。奥様にはそれが一番大事だと思いますよ。」
「分かりました。今のままで結構です。しかし、吉岡先生もそうでしたが、こちらの
病院では細かいご配慮を頂いてとても感謝していますし、安心して家内を預けられま
す」
「ありがとうございます。でも川村さんが仰るような事ではなく、病院としての当然
の対応ですよ。吉岡先生が5時に病室にご説明のために伺います」
「久保美代子」というネームプレートを付けた温かで信頼出来そうな看護師は笑顔で
そう答えた。
「藁にもすがりたい」と思って病院の配慮に感謝している患者の家族に「当然の事」
と言い切り、絶対的な安心感を与える久保美代子という看護師に「真のホスピタリテ
ィの姿」を見た気がした。
 
 病室に戻ると真理は泣きやんでいた。そして「本郷町のさかえフルーツのマンゴジ
ュースが飲みたい。」と甘えるような言い方でおねだりをした。少し元気になった真
理に安心したが、そんな真理の様子に戸惑いもあった。もっと辛い場面を覚悟してい
た。「両卵管摘出の話をしたら、気が狂ったように泣きわめきてがつけられない状態
になるかもしれない」そんな事も想定していた。だが真理は辛い事実を受け止めて、
それは耐え難いものであっただろうが、取り乱す事もなく比較的冷静だった。昔から
余り喜怒哀楽を表に出さず、辛い事があってもじっと何かに耐え「強さと優しさを内
に秘めている」そんな真理が雄一郎は好きだった。でも「この辛い時にも取り乱さな
い」というのはその「芯の強さ」だけなのだろうか?「俺は泣けなかった。泣けなか
ったのは真理に弱い自分を見せたくなかった。弱い自分を見せたら真理も崩れてしま
う。それは真理も同じだったかもしれない。お互いにそんな部分でガードを築いてい
た。そうではなく、二人で一緒に泣いて泣き崩れて、そしてそこから強くなる。そう
なった方が良かったのではないか?



 雄一郎は面会時間ギリギリまで病室にいて、8時を過ぎたのを機に後ろ髪を引かれ
る思いで病室を後にした。真理は雄一郎が帰る時に涙を流した。普段と違う弱気な真
理を見て、雄一郎はこのまま病室で看ていたい、と訴えたが、病院側からは許可が下
りなかった。
 
 みなとみらい病院とマンションまでは歩いて5分程の距離にある。エレベーターで
最上階に上がると部屋の前で村上が寒そうに立っていた。
「なんだよ」と不機嫌そうな雄一郎に「素晴らしい眺めだよな。こういう景色を見て
いると横浜って本当に凄い所だって俺は思うよ。それに、さすがベイエリアだよな。
そこのコンビニでこんな極上の酒を売っているんだから」口に絆創膏を貼った村上が
笑いながら、持っていた日本酒の一升瓶を雄一郎に差し出した。
「全く懲りない男だよな。入れよ。だけど散らかってるぞ」
苦笑いをして雄一郎は村上を家に招き入れた。
「家の中はグチャグチャよ」と言った真理の言葉はウソだった。部屋はきちんと片付
けられていた。「出かける時に真理は、もしかしたら何かを感じ取っていたのかもし
れない」胸に熱いものがこみあげた。
「冷えたから、暖かいシャワーを浴びさせてくれよ」
村上はコートを脱ぎながらそんな事を言い出した。
「シャワーなんて家に帰ってから浴びろよ。子供やかみさんが待っているだろう?」
「悪いけど今日は泊めさせてもらうよ。だから極上酒を奮発した。これは宿泊代。ま
あ、原価だけどね。時と場合によっては家族よりも大事に感じる人間がいるって事さ」
「全く勝手な男だ。好きなようにしろよ」
そう言う雄一郎から自然に笑みがこぼれた。
雄一郎は村上のために給湯器のスィッチを入れ、タオルを用意し、風呂上りの着替え
に自分のパジャマを用意した。そして村上がシャワーを浴びて出て来た時には、ダイ
ニングテーブルに「飲み会」の準備が整っていた。
「真理は、村上と俺が飲む事を予感してセッティングをしていたのか?」と思われる
ほど冷蔵庫にはいろいろな物が揃っていた。

「真理はどうだった?」
日本酒を飲み干して、煙草に火を点けた村上が口を開いた。口の絆創膏は剥がしてい
たが、唇がはれ上がった村上には凄みがあった。
「しかし、今のお前の顔はなかなかいけるぞ。傷があって凄みがある」
自分の不始末を誤魔化すように村上をからかった。こうして二人で酒を飲むのは何ヶ
月ぶりだろう。差しで向い合っている村上は「心休まる親友」だった。
「悪かった。そして今日は本当にありがとう」
雄一郎は素直に村上に頭を下げた。
「山梨からの道中辛かったんだろうな。冷静なお前が俺を殴るなんて10年早いって
言いたいけれど、俺に素直な感情を表してくれて嬉しかったよ。痛かったけれど」
唇をさすって「痛いッ!」と村上が声をあげた。
「バカな事いうなよ」
突然雄一郎の目から涙が溢れた。
「お前も年を取ったよなあ。いつから泣き上戸になったんだよ? だけど、まだそん
なに飲んでないだろう。飲めよ」
村上の声は温かかった。差し出されたグラスの日本酒を一息に飲んで、雄一郎は吉岡
医師から告げられた事を話した。

 ずっと黙って聞いていた村上の顔から「凄み」が消え「友を心配する優しい親友」
の顔に変わった。雄一郎も長身だが、村上も180cm近くある。「イケメンの雄一
郎」と「アウトロー的な村上」の無粋な男がいる部屋の空気も温かい雰囲気に変わっ
た。
「俺みたいに、結婚して当たり前のように子供が生まれた人間が『元気だせよ』なん
て言ったって気休めにしか聞こえないだろうから、俺はそんな事は言わない。だから
何も言えないよ」
「いいんだよ。お前がこうしてここにいる、それだけで充分だよ。お前の気持ちは有
り難い」
雄一郎は溢れ出る涙をタオルで拭った。
「忘れないうちに真理からの業務引継ぎを伝えておくよ。トラスト・コーポレーショ
ンの手配書は真理のパソコンの手配書フォルダーに入っている事と、交通費の精算も
していない事。迷惑かけるけれど、よろしく頼む」
「病院で真理はそんな事を心配していたのか? バカだよなあ。ちゃんとメールで報
告が届いていたのに。交通費の精算書も添付されていたし……恐らく、具合いが悪か
ったんだろう、メッセージは誤字だらけだったから。全くバカだよ。真理は」
苦しかったのであろう真理の事を思って、村上は胸が熱くなった。雄一郎の目からま
た涙が溢れた。
「本当に真理は大丈夫か?」
「かなり参っているけど……だけど俺が守るしかない」
「ちゃんと守ってやれよ。いい加減に真理を山梨に連れて行っちゃえよ」
「そのつもりでいる。真理は退職願を出すつもりだった」
「いろんな事情があるだろうから一概には言えないけれど、夫婦は一緒に住むべき。
と言うのが俺の考えだからさ」
「俺だってそう考えているさ。だけど、真理が別居を言い出した」
「真理は仕事が好きだからな。俺も真理が居なくなると困る、って言うのが正直な気
持ちだけど……真理は意地っ張りだからな……」
「俺だって結構苦労しているんだよ」
二人は同時に真理の事を思って笑った。
「お前が単身赴任で八ヶ岳に行くって聞いた時、俺は真理に言ったんだよ。『ロイヤ
ルガーデンホテルでは真理の代わりはいるが、川村にとって真理の代わりはいない。
だから一緒に八ヶ岳に行け』そう言ったらさ、真理は何て言ったと思う? 『両方に
とって私の代わりはいない。という存在になります』ってさ。俺は『バカヤロー』っ
て怒鳴ったよ。だけど真理はひるまなかった。『強い子だな』って思って『仕事と家
庭とどっちが大事なんだ?』ってありきたりの質問をした。『私は生きるために仕事
をしている。』確かそんな事言ったよな」
村上は昔を懐かしく思うような表情になった。
「男は本能と言うかそういう部分で、仕事と家庭の両方を大事に考えられる部分があ
る。真理もそうだ、その部分では、真理も男だ。って俺はいつも感じていたよ」
「今回の仕事では真理に部屋割りを担当させた。真理だったらホテルの部屋を知り尽
くしているし。部屋割りと言ったって重要な仕事で、単純じゃなかったんだけどさ。
大臣クラスも宿泊したし、それぞれの団体の思惑や我がまま満載で結構難しかったよ。
それに変更だらけでさ。真理は変更の度に部屋割り表を作り直しているから『表作成
は最後にしろ』って言ったら『変更の過程を把握したいから』そう言うんだよな。た
だ無作為に部屋割りをしているのではなくて、部屋割りに意図を持たせて、間際の変
更にも即対応出来るように、その場合の部屋割りや予備部屋まで考えていてくれてさ、
案の定当日の人数変更もあったりしたけど、真理のお陰で、ああいったイベントにつ
きもののトラブルやクレームもなく、気持ち良く客は宿泊が出来て、ロイヤルガーデ
ンは面目躍如だった。『ホテルにとって自分の代わりはいない』その言葉通りの仕事
をしたよ、真理は。俺にとっても、仕事の部分だけだったけど……真理の代わりはい
ないよ。それは認める」
「無理するなよ。お前も真理に惚れてたんだろう?」
笑いながら雄一郎が言った。
「しかし、お前もキツイよな。純な俺のかさぶたを剥がすような事を平気で言えるよ
な……」
村上は声を出して笑い、照れを隠くすようにグラスの酒を飲み干した。
今まで何となく感じてはいたが、雄一郎の推理は図星だったようだ。雄一郎も笑いな
がら村上のグラスに酒を注いだ。二人の中で、真理は「女神」だった。

 夫婦にとっての最大の不幸に見舞われ失意のどん底にいる雄一郎は、今こうして村
上と話をする事で癒されているが「真理はどうしているだろう?」と雄一郎の中に
「女神の真理」が舞い降りてきて急に心配になった。

 真理は……少し前までは興奮気味で看護師を手こずらせたが、今は病室で眠りに
ついていた。

「そう言えば、酔った時に真理は言ってたよな。俺と会わなかったらお前と結婚して
たかもしれないって。強調して言うよ。真理がかなり酔った時だったけど」
「いい加減にしろよ。かさぶたを剥がしてその上にまた傷をつけるのかよ」
村上はまた声をあげて笑ったが、少年のように胸がキュンと疼いた。
 
 雄一郎から「生意気な女の子がフロントに入社してきた」という話を聞いて、さり
げなくフロントに見に行き、フロントカウンター内で、先輩フロントマンの後ろで不
安そうに立っていた透明感の美しさのある真理に、村上は一目惚れをした。
 女性社員の憧れの的であり、それなりに女性経験があった雄一郎とは違い、子供の
時からサッカー少年の体育会系で、女性と付き合う経験の少なかった村上は、好きな
女性にどういう風に接してよいか分からず、恋心を打ち明ける事も出来ず遠くから真
理を見つめていた。そんな事をしている間に真理は雄一郎にさらわれてしまった。社
内の噂でその事を聞いた時、村上は休みを利用して京都に一人で失恋旅行に出かけた。
そんなロマンチストの自分に酔ったが現実は辛く、失恋を癒す事は出来なかった。村
上の気持ちを知らない雄一郎は、村上を誘って真理と三人で飲みに行ったり、遊びに
も行った。村上の前で、雄一郎と真理は「恋人」という雰囲気は見せなかった。村上
にとってそれは「救い」であったが、それと同じ位「辛い」部分もあった。雄一郎と
真理の結婚式の前日、村上は六角橋にある小さな居酒屋で喧嘩騒ぎを起こした。店の
主人と喧嘩相手の計らいで無難に事を納める事は出来たが、自分をどん底に落とし虐
める事で辛い気持ちに決着をつけたかった……が、決着はなかなかつかなかった。
真理は結婚と同時に自分の部下になった。村上は「惚れていたのは矢沢真理で、川村
真理ではない。」と自分に言い聞かせて感情を抑えた。
 村上は雄一郎と真理が結婚した一年後に、友人の紹介で弓恵と結婚をした。三歳年
上の弓恵は真理とは全く正反対で家庭にどっぷり浸るタイプの女性で、真理ほど美し
くはなかったが魅力的だった。弓恵との間に長男が生まれた時に、雄一郎の単身赴任
を知らされた。失恋の果てでの弓恵との結婚であったが、姉御肌で大らかな性格の中
にも細やかさを持っている弓恵との結婚は幸せで、その幸せな家庭生活がベースにな
っているから、村上は仕事に励む事が出来た。だから、真理には「一緒に八ヶ岳に行
け」とアドバイスをした。雄一郎や村上の言う事も聞かず「雄一郎と別居していても
しっかりとした夫婦の絆を築いていたのであろう真理」は生き生きと仕事をしていく
中で人間としても成長していった。そういう真理を複雑な思いで見ていた村上は、時
々自宅に真理を招いて家族で食事を楽しんだ。酒が好きな妻の弓恵は酒に強い真理と
会って「飲み仲間が出来た。」と喜び、何かの度に真理を家に呼んだ。賢い弓恵は夫
の村上が真理に対して「部下」以上の気持ちを抱いている、という事を感じていたの
だ。村上はそう思う。最初は品定めではないが、そんな部分で真理を見ていた。そし
て、弓恵は真理が気に入った。真理も弓恵を姉のように慕っていった。

……仕事に追われていて余裕がなくなった時などに、大事な何かを思い起こさせてく
れる……
真理にはそんな魅力があった。しかし、その事に気が付く事が出来るのは「真理」の
存在だけではないだろう。「川村雄一郎」「妻の村上弓恵」「自分である村上健司」
そして「仕事」それらの全ての魅力が揃う事で、何とも言葉では言い表せない「人間
として生きている充実感や幸せを味あう事が出来る」村上はそんな事を思っていた。
しかし、悲しい出来事が目の前に迫っている雄一郎と真理に対しては何も言ってあげ
られないし、何もしてあげられない。無力な自分が空しかった。弓恵に、真理が救急
車で搬送されて「もしかしたら子供がダメになるかもしれない」と伝えた時「余計な
おせっかいかもしれないけれど、今日は川村さんと一緒にいてあげたら? パパには
人をホッとさせる魅力があるから。帰って来なくていいからね」そんな事を言われた。


「八ヶ岳はどうだ?」
村上は話題を変えた。
「うーん……今年は県全体の観光収益は上向きになっていると言われているが、結
構厳しい。営業粗利益も下がってきているし。経費を抑えてサービスを低下させない
ようにする、というのが一番の課題だろうな。コストパフォーマンスという言葉を聞
くと胃がシクシクしてくるよ。価格の差別化を図って付加価値をつけ高く売れるもの
は高く売り、安くしか売れないものは安く売る。だが、一歩間違えると安売り戦争に
巻き込まれる事にもなりかねない。『格安』の需要が高まって、それに応えるのも大
事だが、俺は頑固と言うか意固地なのか『八ヶ岳ガーデンリゾートホテル』の姿勢は
崩したくない。安売りより、しっかりと固定客を掴む事の方が大事だと考えている。
外国人観光客に目を向けてもまだまだ難しい。観光立国と声高に叫ばれているが、日
本を訪れる外国人観光客数は、諸外国から比べれば圧倒的に少ない。国は2020年
には外国人観光客を2倍にする方針を打ち立てているが、それに伴う地方の活性化も
遅れていて、やっぱり偏る傾向にあると思うし。敢えて外国人と言うなら、当面はバ
ブル国に期待するか、だよな」
「ロシアや中国の富裕層狙いか?」
「そんなところだな。ロシアは難しいが、中国だろう。だけど、都会とは違って、地
方でそういう富裕層を満足させる受け入れ態勢がどこまで出来ているか。都会と地方
のその事に関するギャップは大きいと感じている。俺の偏見かもしれないけれどね。
中途半端な受け入れ態勢を敷いたら、客に対して失礼になるだろう? それに、同じ
山梨には富士山があるからさ。外国人には富士山は絶対だよな。でもどっちにしろ日
帰り圏内になっている事は間違いない。しかし、富士山という目玉がない八ヶ岳地域
の観光振興に向けての努力は自慢出来る。いろいろなシンポジウムが開催されたりし
ているし、いつかは追い抜く事が出来るって考えて、日々戦っているよ。富士五湖の
ような賑々しさがないのが一番の魅力だろうな。横浜はどう?」
「同じだよ。イノベーションと質の高いサービスを提供していく高級ホテルの姿勢は
崩したくはない。ロイヤルガーデンだって収益率の高い企業ミーティング、企業報償
旅行、国際会議、イベント、大規模展示会などを誘致して行かないと、生き残れない。
プレミアムフロアのリニューアルも始まって、ワンランク上の極上サービスの提供を
開始する事になるが、アメリカ経済が減速傾向にあるから、それがどう影響するか?
 というのも気になるし。もう一度、サッカーワールドカップか2016年のオリン
ピック開催を望むよ」
「南アフリカは治安の悪化や工事の遅れで開催を危ぶまれていて、万が一開催出来な
くなった場合、受け入れる事が出来るのは日本だけ、というまことしやかな話が出て
いるが、まずそれは無いだろうし、まあ、サービスの質を上げてお互いにコツコツと
集客に励むしかないよな」
仕事の話になって雄一郎は元気になってきた。
「やっぱりワールドカップは欲しいよなあ。磯子に日本選手の宿泊を取られたり、外
国選手の誘致も出来なくて悔しい思いをしたけれど、日韓共催のワールドカップの時
は最高だった」
サッカー好きの村上の目が輝いた。
「こっちだってカメルーンは河口湖だったし。会社は他人事のように見ていたけど、
俺は欲しいと思っていたよね。でも、物理的に八ヶ岳は無理だったろうけれど。後日
談で、カメルーンが宿泊したホテルは民再になったと聞いたから、その事で悔しさを
忘れさせたけどさ。日韓共催のワールドカップか……」
雄一郎も昔を懐かしむように頭の後ろで腕を組んだ。
「チュニジア戦の時だったか、勝利に酔ったサポーターが桜木町の駅前に多勢集まっ
ているからこの歓声を聞いて、って俺は真理から携帯電話越しにその歓声を聞かされ
て、改めて『都落ち』を痛切に感じたよ」
雄一郎は「あーあーニッポン、ニッポン、ニッポン、ニッポン」とあの時、電話越し
に聞いたサポーターの声を再現した。
「2002年は最高の年だったなあ」
村上は、今でも雄一郎には秘密にしているが、ドイツ対ブラジルの決勝戦の日、チケ
ットは持っていなかったが真理と二人で新横浜の横浜国際競技場に「感動を味わいた
い」と出かけた。ブラジルの優勝が決まった後のセレモニーでロゴが入った何百万羽
の折鶴が舞い降りたが、その折鶴を村上は幸運にも一つだけ手に入れる事が出来た。
欲しがる真理とじゃんけんをして勝った村上は、その折鶴をケースに入れて大事にし
ている。
 
 いつの間にか村上の宿泊代の一升瓶は空になっていた。
「お前の気持ちに感謝して、とっておきを奮発するか。村上様お待ちください」
雄一郎はおどけた様子で村上にうやうやしく頭を下げ、寝室のクローゼットにしまっ
てある「雄一郎」と書かれたダンボールから一本のバーボンウィスキーを取り出し、
ナプキンをかけて村上に差し出した。
「凄いな! ジャックダニエルのゴールドメダルか。こんな酒を何処で手に入れた?」
「1914年ものだよ。闇ルートだ。って言いたいけれどネットで見つけたんだ。真
理には言うなよ。真理に見つかったらお喋りをしながら、ハイボールにして一晩で半
分以上は飲まれちゃうから」
雄一郎はバーボンの瓶を大事そうに撫でながら笑って言った。
「子供が無事に生まれ、それでお前達が遊びに来てくれて、お前と俺はこのバーボン
を飲んでホロ酔い気分になっている。弓恵さんと子供を抱いた真理が、俺たちを見な
がら幸せそうに笑っている。そんなシーンを想像していてさ。その時のために買った
んだけど……」崩れ落ちそうになる雄一郎を「こだわり屋のお前らしいよな。でも、
両方のシーンに俺は登場しているんだよな? 遠慮なく飲ませてもらうよ」と村上が
救った。
 雄一郎はウィスキーグラスにバーボンを注いでストレートで村上に薦めた。村上は
ゆっくりと口に含んで味を楽しんだ。バーボン特有の木の香りが広がり、思わず「美
味い!」と唸った。雄一郎はグラスに氷を入れウィスキーを注ぎ、指で氷を突いて慈
しむようにバーボンを口に含んだ。
「お前と飲むバーボンは最高だな」
村上が満足そうに言い、二人はグラスを合わせた。
「ところで、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルはまた評価が上がったな」
「お前や真理みたいなホテルバカはいないが、スタッフが粒揃いだからな」
「ホテルバカの真理は退職か……」
グラスを弄びながら村上が呟いた。
「真理はお前に育てられたようなものだよな」
「俺は父親ってところだな。だけど、これからはお前が育てるんだぞ」
「任せろよ!」二人はまたグラスを合わせた。
 
 その時、雄一郎はふと思った。ホームレスになり、悲惨な最期を迎えた真理の父親
は、村上のような男気のある人だったのだろう。

「お前も自分を大事にしろよ。だけどお前が今一番大事にしなくてはならないのは真
理だ」
だいぶ酔いが回ってきたのか、村上はろれつが回らなくなっていた。
「しっかりしろよ」酔いつぶれた村上を見て、何故かまた雄一郎の目から涙が溢れた。
「よく泣く男だな」
村上にそう言われたが、涙を止める事は出来なかった。
村上はソファーで鼾をかき始めた。

 雄一郎はおもむろに携帯電話を取り出し電話をかけた。
「こんばんわ」
着信表示を確認した村上の妻の弓恵がハスキーな声で答えた。
「ご無沙汰しています。川村です。ご主人は今、家にいて酔いつぶれています。今日
はこのまま泊まるつもりらしいので、取り合えずご報告します」
「あー、やっぱりね」
弓恵は可笑しそうに笑った。
「和也や私より大事な人の所に行く、って電話があって。なんかね、本人は私達に心
配させたかったらしいけれど、あの人が行く所と言ったらホテルか川村さんの所しか
ないでしょう。もうね、困るの。本人はリチャード・ギアのつもりでいるの。プリテ
ィウーマンの家に行かなくてはならない、とか言って。しつこいとバレるのにね。ご
めんなさいね。迷惑かけてない? あの人の鼾は凄いから寝る時は隔離してね」
「リチャード・ギアはソファーで鼾をかき始めていますよ。僕はジュリア・ロバーツ
にはなれないから放っておくけど、心配しないでください」
「心配したいけれど『なんちゃってリチャード・ギアはお断り』そう言ってね」
「分かりました。しっかり伝えます」
弓恵の軽口に雄一郎は軽快に笑った。
「川村さん、飲んでる?」
弓恵の声の調子が変わった。
「村上が美味い酒を持って来てくれたから、しっかり飲んで酔ってますよ」
「あー良かった……でもね……」
電話口の弓恵の声が途切れた。

……川村さんが電話をかけて来た……という事は、パパは川村さんの気持ちを救う事
が出来たのね……男の友情が羨ましかった。

「ごめんなさい……私も飲んじゃって……私はあなた達二人が遊びに来てくれるの
が楽しみだから、また遊びに来てね。待ってるから……二人が大好きよ……酔っ払い
でごめんなさい。主人をよろしくね」
弓恵は酔ったふりをしているらしかった。
村上から聞いて事情を察していたのだろう。雄一郎は弓恵の気持ちが嬉しかった。
 
 雄一郎は村上のために和室に布団を敷き、プリティウーマンのジュリア・ロバーツ
になって、ソファーで寝込んでいるリチャード・ギアの村上に「エドワード起きて」
と囁いた。
「分かったよ、ビビアン」
村上はそう答えてふらついた足どりで布団に潜り込んだ。

 村上が寝ついたのを確認してから、雄一郎は真理のために入院の準備を整えた。寝
室から見えるみなとみらいの夜景を見て、真理から妊娠を告げられた時の事を思い出
した。あの時はまだ、観覧車に灯りがついていた時間帯で、みなとみらいは明るく輝
いていたが、今は観覧車の灯りも消えてもの淋しかった。
「今日はエドワードと一緒に寝るか」
雄一郎は和室で村上と一緒に寝る事に決めた。
部屋の電気を消して布団に入った時「ビビアン頑張れよ」まだリチャード・ギアのつ
もりでいるらしい村上がそう呟いた。
「全く変な奴だな、お前は。」本当に寝込んでいるのだろうか? 村上の背中を見て
雄一郎は苦笑いをした。
「雄真と理子は失う事になるだろうし、これから自分達に家族が増える事はないだろ
うが、家族ではなくても、本当に自分達を心配してくれている友達がいる」
また、雄一郎の目から涙が溢れたがそのまま布団を被った。


 翌朝、雄一郎は洗面所の水音で目を覚ました。時計を見るとまだ6時になったばか
りだったが、村上の布団はきちんとたたまれていた。
「あいつは俺を起こさないようにそっと帰るのだろう」そう思って雄一郎は寝たふり
をしていた。水音が止んで、少しして玄関のドアが閉まる音が聞こえた。
 しばらくの間布団の中でぼんやりしていたが、時計の針が7時を指したのを確認し
ておもむろに起き上がり、シャワーを浴び支度をして病院に出かけた。

「おはよう」
真理は笑顔で雄一郎を迎えた。落ち着いた真理をみて雄一郎は安心をした。
「昨夜はね、少し看護師さんを困らせたの。だから、後で謝っておいてね」

 午後になり、手術の準備が整のった。半身麻酔での手術は不安だろうが、観念しな
がらも何かに必死に耐えている様子の真理は手術室に運ばれて行った。一時間程と言
った手術は実際には二時間近くかかった。待合室で不安な気持ちで待っていた雄一郎
は、赤ん坊の泣き声と真理の叫び声を聞いたような気がした。
「無事に終了しましたよ」
看護師の案内で雄一郎は病室に飛んで行った。真理は眠っていたが、昨日と同じよう
に目の端に涙が溜まっていた。
「よく頑張ったな」
眠っている真理にそっと声をかけた。
「終わったね」
しばらくして、目を覚ました真理が小さな声で話しかけた。
「具合いはどうだ?」
「下半身が変。自分の身体じゃないみたい」
雄一郎は布団の中に手を入れて真理の足をさすった。
「先生が、子宮は大丈夫だから体外受精で赤ちゃんを産む事も出来ますよ。って、言
って励ましてくれたけれど、どうする?」
真理は笑みを浮かべて問いかけた。
「真理はどうしたい?」
「分からない……」
「その事は退院してからゆっくり考えよう。今はゆっくり休めよ」
「でも、本当にごめんね。雄真も理子も可哀相……」真理は声を詰まらせた。
「昨日も言ったよな。二人は俺達に気を使ってくれたんだよ。親孝行の子供達さ。だ
から、真理は早く元気になれよ」
本格的に真理は泣き出した。泣いている真理を見つめる雄一郎の目からも涙が溢れた。


「真理ちゃんの事は任せて、お仕事に戻りなさい」という真理の叔母の矢沢友美に真
理の事を頼んで、雄一郎は翌日に山梨に一旦戻った。

 真理の身体の回復は順調で、様々な検査でも特に異常はなく、術後13日目には無
事退院の運びとなった。退院の日はクリスマスだった。親切で優しい久保美代子看護
師達に見送られて二人は病院を後にした。
 
 病院では気丈に振舞っていた真理が急変したのは、マンションに戻った直後だった。
玄関に入るや否や持っていたバッグを放り投げ靴を脱ぎ捨てた。北側の寝室のドアを
開け「居ない!」そう叫び、ベッドカバーを思いっきり引き剥がした。そして次にト
イレのドアを開け「居ない!」と言って、洗面所のドアと風呂場のサッシを開けた。
「どうしたんだよ?」雄一郎の問いかけにも答えず真理はリビングに突進し、キッチ
ンを覗き、和室の襖を開けた。「やっぱり居ない!」そう言って和室の真ん中で立ち
すくんでいた。
「真理! しっかりしろよ! 誰が居ないんだ?」
雄一郎は叫んだ。
真理は、リビングで唖然としている雄一郎を押しのけ、キッチンにあるサービスバル
コニーに面したドアを開けバルコニーから下を覗いた。
「居ないよ! どうして?」
ヒステリック状態で、何かを探し求めている真理の形相は凄まじかった。バルコニー
のドアを乱暴に閉めて、真理は雄一郎の脇をすり抜け、リビングの掃き出し窓にかか
っているウッドブラインドを引き上げようとした。
「真理がベランダから飛び降りる」という不安に駆られた雄一郎は、真理を取り押さ
えようとして身体の向きを変えた時に、ダイニングの椅子のアイアンに、右足の薬指
を思いっきりぶつけた。足の薬指を骨折したような強烈な痛みに襲われ思わず呻いた
が、そんな事に構ってはいられなかった。ブラインドを引き上げ、掃き出し窓を開け
ようとしている真理を、必死の思いで後ろから羽交い絞めにして、二人はそのままフ
ローリングの床に倒れこんだ。少しだけ開いた窓から「ビューッ」という風が舞う激
しい音が聞こえ、冷たい空気が部屋に流れ込んだ。窓を閉めたいが、真理を離すとま
た何をするか分からない、そんな思いで雄一郎はしっかりと真理を押さえつけた。
 真理が嗚咽をもらした。
真理は自分がしている事の全てが分かっていた。無茶苦茶な行動をとっている、と頭
で分かっていても感情がそれに連いていけず、どうにも自分の行動が抑えられなかっ
た。
「いいんだよ。暴れたい時は思いっきり暴れろよ。だけど、俺を悲しませる事だけは
するなよな」
しばらくの間二人はそのままの姿勢でいた。
「雄真と理子がいない……」
そう言って真理はその間ずっと泣いていた。
雄一郎は椅子にぶつけた足の指が激しく痛んだがじっと耐えた。風が舞う音がうるさ
く、冷たい空気が顔にあたり苦しかった。このまま凍えて固まってしまう。と思った
時「暴れてごめんね」と真理が小さな声を出した。それでもしばらくの間、二人はそ
のままの状態でいた。

「もう、大丈夫」
真理が動いた。
「本当に大丈夫か?」
雄一郎は真理をソファーに座らせて、ワインを飲ませた。ワインを飲んだ真理は少し
ずつ落ち着きを取り戻していった。
「お願いがあるの?」
「何?」
「スプリングが聞きたくなったからかけてくれる?」
「いいよ」
雄一郎はラックから「ベートーベン ヴァイオリンソナタ第5番 スプリング」のC
Dを取り出しオーディオのCDプレイヤーにセットした。部屋中にヴァイオリンの綺
麗で優しい音色が響いた。真理は目をつむってスプリングを聞き入っている。雄一郎
も真理の隣に座って目をつむった。 繊細なオイストラフのヴァイオリンは素晴らし
く、心が洗われるようだった。10分程の演奏が終わって、雄一郎はもう一度再生ボ
タンを押した。真理はじっと動かなかった。
「素敵だったね」
二度目の演奏が終わって、真理はため息をついて少し笑顔になった。
「腹が減ったなー。味奈登庵の蕎麦でも取るか?」
真理の笑顔にホッとした雄一郎は空腹に気付いた。
「食べたい」
そう言って、真理はフラフラと立ち上がり、ラックの前に立って何かを探していた。
雄一郎が蕎麦を注文する電話が終わったと同時に、金属音が部屋中に響き渡った。
ボン・ジョヴィの「バッド メディシン」だった。
「急にボン・ジョヴィが聞きたくなったの」
「ベートーベンのスプリングを聞いて、ボン・ジョヴィが聞きたくなる。というのは、
真理の心がかなり揺れているのだろう……」
雄一郎は真理の心理状態を思い計った。
「古いけど、激しいアメリカンロックを聴きたくない?」
「バッド メディシン」が終わって雄一郎は真理に聞いた。
「聴きたい!」
真理の答えに「待ってろよ、期待に応えるから」と言って、雄一郎は和室の押入れか
ら、金色のレコードジャケットを取り出した。
「何? 何?」と言う真理に「だけど、使えるかなあ?」と言って、普段はほとんど
使われず、ディスプレイ用に置いてあるレコードプレイヤーにレコードをセットした。
「大丈夫だ!」
レコードプレイヤーは正常に作動した。針を下ろす時に久しぶりの動作に手が震えて
針が滑り焦ったが、また針を持ち直して慎重に針をレコード盤に下ろ
した。レコード盤特有のかすかなノイズ音に「これがたまらないよなあ。」と雄一郎
は腕を組んだ。イントロを聴いて鳥肌が立った真理は思わず「カッコイイ!」と声を
あげた。曲が終わって真理がレコードジャケットを見ながら「もう一回!」とリクエ
ストした。
「ブリティッシュハードロックに負けてないだろう? アメリカのグランド・ファン
ク・レイルロードの『アメリカンバンド』。亡くなったぶっ飛んでいたお袋が好きだ
ったグループだよ。マーク・ファーナーが好きでさ」雄一郎はジャケットの写真を指
差した。
「お袋はこの曲を聴きながら夕食の支度をするのが楽しみで、ボリュームいっぱいに
かけるから近所から苦情が来て困る、って親父は嘆いていたよな」
そう言いながらも雄一郎は嬉しそうだった。
「カッコいい! お義母さんのその気持ち分かる。だって、元気が出てくるもの」
「後楽園球場の『嵐の中のコンサート』って伝説になっているコンサートにお袋は一
人で行ったんだよ。そのために俺は近所の家に預けられてさ。次の日、俺に興奮気味
で話をしてくれたお袋の嬉しそうな顔を覚えているよ」
「お義母さん、素敵だったね」
「でも、淋しかったんだよ。親父はエコノミックアニマルで仕事一筋でさ、おまけに
外に女を作っちゃって。お袋は死ぬ時に親父に傍についていて欲しかったんだろうけ
どさ、親父は女の所にいて間に合わなかった。今みたいに携帯電話なんて無かったか
ら、連絡が取れなくて」
母を思う雄一郎の目は潤んでいた。
「でも、今は喜んでいるかもね。『クィーン』が私達を結び付けてくれて『グランド
・ファンク・レイルロード』が元気を失くした嫁を元気づけた、って。会っていなく
ても『家族』ってどこかでそういう事を感じさせてくれる。それが『家族の愛』なの
かも。きっと今頃、お義母さんは孫の雄真や理子と会っているかもしれない。『可愛
い!』って喜んで幸せになっているかもね。それで、そうして『家族の絆』が強まる
のかなあ?」
「うん。お袋も喜んでいると思うよ。それで、二人に子守唄ってロックを聞かせてい
るんだろうな。困っちゃうよな」
雄一郎の話を聞いて真理の顔が泣き笑いになった。
 味奈登庵の蕎麦が届いた。
「お食事タイム」
リビングが急に静かになった。
「ビールを飲むか?」という雄一郎に「飲みたい」と答えた真理だが、届いた蕎麦を
半分程食べたところで箸を置き、ビールは一口飲んだだけだった。
「食欲がないのか?」
雄一郎がそう言った時に携帯が鳴った。着信音は何故か遠慮がちだった。
「今、大丈夫ですか?」
電話の相手はフロント支配人の吉野だった。
「うん、大丈夫だよ」
「お忙しいところ申し訳ありません。奥様は無事退院されましたか? こっちは特に
問題もありません。明後日ご出社と伺っていますが、余計な事ですが少しの間は奥様
のお傍についていてあげられたらと思ったので、その事の連絡です。総支配人からも
無理はするな。という伝言を預かっています」
会社の配慮は有り難かったが、何故か取り残されたような気もした。年末年始を間近
に控えてホテルは忙しい筈だ。
「迷惑かけて済まない。29日は打ち合わせがあるから休めないが、吉野君や総支配
人の言葉に甘えて28日に出社する事にして、もう一日休みをもらうよ。家内はさっ
き無事に退院出来たから総支配人にもその事を伝えて欲しい。いろいろ気をつかわせ
て悪かったな。何かあったらいつでも携帯に電話してくれて構わないから」
「了解しました。こんな事自分の口から言って何ですが……支配人も元気を出してく
ださい。支配人はずっと元気がなかったから自分は……自分だけではなくスタッフみ
んなも心配していました」
「ありがとう。君達の気持ちは有り難いよ」
そう言って電話を切った。
「もう、大丈夫よ。仕事があるから私達は大丈夫」
真理は雄一郎の手を握った。
「取り残された」と感じた事を真理に見透かされたのかもしれなかった。
「取り合えず明後日山梨に行こう。これからの事は山梨に帰ってから考えよう」
「今度のお正月は一緒に過ごせることになりそうね」
 社会人になってから真理は一度も年末年始をゆっくり過ごした事がなかった。今ま
ではその事に何の疑問も持たず、忙しい中にもワクワク感のある年末年始の仕事を楽
しんでいた。「悲しい出来事」が原因であったが、自分に自信を失くして弱気になっ
ている真理にとって、まもなく訪れるお正月が楽しみになってきていた。

……雄真と理子からのクリスマスプレゼント……雄一郎が本牧のケーキ屋で買ってき
たクリスマスケーキを、真理はテディベアのぬいぐるみと一緒にカウンターに飾った。

 その夜、村上に退院の報告連絡をしたが携帯も繋がらず、自宅も留守電になってい
た。
「きっと、村上さん達も気をつかって遠慮しているのね。村上さんからのクリスマス
プレゼントね」
落ち着いた真理はそう言って、雄一郎の腕の中で安心して眠りにつこうとしていた。
だが、その夜は二人ともなかなか寝付かれなかった。それでも「眠れない」という事
をお互いに悟られないように二人は気をつかった。



(2007年)
 翌々日の午後、二人は山梨に向った。当面の住まいは、雄一郎の住む2Kのマンシ
ョンになった。山梨に戻った翌日から雄一郎は出社した。真理はロイヤルガーデンホ
テルにはまだ「退職届け」は出さず「早期流産休暇届け」を出し、その後は有給休暇
を消化する事に
なっていた。

 真理はお正月の準備に勤しんだ。大晦日、雄一郎が帰宅したのは年が明けていたが
「明けましておめでとう」と雄一郎を迎え、元旦は朝早く起きて、雄一郎のためにお
雑煮を用意した。
 しかし、雄一郎が傍にいるのに、自分が社会から取り残されたような焦りと淋しさ
を覚えた真理は松の内を過ぎた頃から急にうつ状態になった。
「私は何の役にも立たない、誰からも必要とされていない」
コンプレックスの塊になった真理は、住人の視線が山梨と横浜とでは違っているよう
に感じるようになった。
山梨のマンションも近所付き合いがなく、横浜のマンションと一緒であったが、山梨
の「無関心な視線」は半分だけで、あとの半分は「無関心さを装う好奇な視線」と思
うようになり、その事はマンション内だけではなく、スーパーに買い物に行っても、
山梨で生活している全ての空間で感じるようになった。何処に行っても「無関心さを
装う好奇な視線」から逃れられない。外出が出来なくなり、真理の顔から笑顔が消え
た。何もする気になれず一日中ボーっとして過ごす事が多くなった。雄一郎が帰宅し
ても電気も点けず夕食の支度も出来ていない。しかし、雄一郎はそんな真理を一生懸
命にフォローした。休みの日にはドライブに真理を連れだしたが、真理は「外に出る
のが怖い」と言って車から降りようとはしなかった。食事はほとんど雄一郎が帰社の
途中で買ってくるコンビニの弁当で済ませた。「こんな事ではいけない」そう気づい
ていても真理は何もする気が起きなかった。「山梨に帰ったらこれからの事をゆっく
り話し合おう」と二人は考えていたが、今の真理の精神状態ではその事さえ不可能な
状態になってしまっていた。

 そんな生活が二週間程続いたある日、仕事を終え帰宅した雄一郎は、電気も点けな
い部屋でノートブックパソコンの前にうつ伏せている真理を見つけドキッとした。
「まさか!」と不吉な考えがよぎり、慌てて真理の肩を揺すった。
「うん?」と真理が動いて雄一郎はホッと一安心した。
「こんな所で寝ていると風邪をひくよ」
そう言い、パジャマ姿の真理を抱きかかえてベッドに連れて行った。
「痩せた……」細くなった真理の肩を抱いた手に、真理の心の痛みが伝わって来るよ
うだった。
「ごめんね。このまま寝かせてね」と言う真理に布団を掛けて、雄一郎はパソコンの
前に座り、真理が見ていたのであろうパソコンのマウスをクリックした。スリープ状
態のパソコンが作動し現れたデスクトップ画面を見つめて、クラッと眩暈を起こしそ
うになった雄一郎は「何だこれは?」と声をあげた。パソコンの壁紙にはホテルの全
景写真が十数カット分貼り付けられていて、デスクトップには全タイプの部屋、全レ
ストラン、会議室、フロントロビー、宿泊プラン、イベント案内、アクセス方法など
の多数のアイコンがズラッと並んでいた。
「真理は日がな一日中、パソコンの前に座って、横浜ロイヤルガーデンホテルのホー
ムページを眺めているのだ」
正直のところ、雄一郎も疲れていた。
「真理を病院に連れて行った方が良いだろう」と考えていても、なかなか踏ん切りも
つかなかった。
「真理を連れて行かなくてはならない先は横浜で、ホテルの仕事に戻す事が真理にと
っては一番良い事なのかもしれない」
しばらくの間雄一郎は思案していたが、寝ている真理に「横浜に帰るか? ロイヤル
ガーデンの仕事に戻るか?」とそっと話しかけた。
「何?」
真理は重そうに瞼を開いて雄一郎を見上げた。
「横浜に帰るか? ロイヤルガーデンの仕事に戻るか?」
もう一度真理に話しかけた。
それを聞いた真理は急に起き上がった。
「ロイヤルガーデンに戻りたい。私を横浜に帰してくれる?」
そう懇願する真理の目に涙が溢れた。そんな真理を見て雄一郎は自分が望んでいた事
の全てを諦めた。

「横浜に戻る。ロイヤルガーデンに復帰する」
その事を決めて、真理が横浜に戻るまで僅か一週間しかなかったが、真理は笑顔を取
り戻し、元の真理に戻りつつあった。

 山梨での最後の日、二人は約束していた「これからの事」、「みなとみらい病院の
吉岡医師から告げられた事」を話し合った。
「もうこんな辛い思いはしたくない」真理はそう言い「今までのように、そしてこれ
からもずっと二人で生きていきたい」そう望んだ。それは雄一郎も真理と同じだった。
「また別居生活で、いろいろ迷惑かける事になってごめんなさい。我がままばかりの
私に優しくしてくれありがとう」
真理は心の底から雄一郎に感謝をし、横浜に帰って行った。しかし、昨年、大事な仕
事を終えた後に真理が気づいた事「仕事より大事に思うものがある」という事を雄一
郎に伝える事はなかった。

「仕事に復帰したい」という真理の気持ちをしっかりと受け止めたが、結局「真理を
守る事が出来なかった」雄一郎はそれが悔しかった。真理にとって「自分だけでは物
足りないものがあるのか? プラス仕事がないとダメなのだろうか?」そして、心の
中に少しだけ「真理との生活では埋められないものがある」と感じるようになってい
た。真理との結婚生活は刺激もあり、それはそれで幸せだが、何か足りないものがあ
る。例えば……村上と弓恵のような夫婦のように……
「何なのだろう? 言葉では表現出来ないが何か不足しているものがある」と雄一郎
は漠然と感じていた。



 ロイヤルガーデンホテルの仕事に復帰して「真理は今まで以上に輝いてきた」と村
上は感じた。何かつき物が落ちたように真理は仕事に打ち込み、仕事に対して鋭い冴
えが増した。村上でさえ気づかない事を突いてきて、真理の発想の転換からのアドバ
イスでセールスマーケティング部は数件の大きな団体とイベントの受注を受ける事が
出来た。オリンピック開催でバブル経済に突入する中国を見て「これからは中国から
の客がもっと増える」と中国語の勉強も始めた。
 そして、その年の春、真理はセールスマーケティング部を異動となり、ゲストサー
ビス部マネージャーに大抜擢された。一時は真理の体調の事もあり、会社は異動・昇
進を一旦は白紙に戻したが、不死鳥の如く蘇った真理に再度白羽の矢をたてた。正式
辞令の前に異動を知った村上が会社にセールスマーケティング部内での昇進を訴えた
が会社はその訴えを退けた。
 
 真理が任された業務は「ロイヤルガーデン・プレミアムクラブ」というロイヤルガ
ーデンホテルが誇る「エグゼクティブ・フロア」のコンセルジュデスク担当であった。
外資系ホテルの進出で、更に競争が激しくなったホテル業界は生き残りを賭けて「ワ
ンランク上のサービス」を提供すべく、エグゼクティブ・フロアなどを設けるホテル
が徐々に増えだした。ロイヤルガーデンホテルでも、最上階を「プレミアムクラブ」
専用フロアにリニューアルを施し、専用のコンセルジュデスクでのチェックイン・
チェックアウト、昼間はティータイム、夜はカクテルやオードブルが無料で楽しめる
専用ラウンジ、フロア専用キー、ルームサービスでの朝食サービスなどを提供した。
クラブ専用フロアには社内から選りすぐりのスタッフを配置して万全の体制を敷いた。
そして口数限定で「ロイヤルガーデン・プレミアム会員」の販売を行なった。前評判
の高かった会員権は、各国の大使館、政治家、医者、ベンチャー企業や芸能界などで
人気となり短期間で完売となった。会員以外が「プレミアムクラブ」専用フロアを利
用するには別途料金が加算されるが「ラグジャリーさと和のおもてなし心のあるグレ
ードの高いホテルサービス」を提供する事で、海外からのVIPにも人気を得る事に
成功した。
 村上同様、雄一郎の目から見ても真理は輝きを増した。辛い経験を経て毅然と仕事
に打ち込み、自身の努力で会社に認められる必要不可欠な人材になり、輝きを増した
真理は見事だった。その事は夫として誇らしくもあったし、それは「川村雄一郎」と
いう自分の存在があるからだろう、という密かな自負もあったが、真理がいつの間に
か自分を飛び越えて手の届かないところに行ってしまった。というような淋しい気持
ちが沸いた事も事実であった。雄一郎の八ヶ岳ガーデンリゾートもかなりの高い評価
を得ていたが、それは真理がいる横浜ロイヤルガーデンホテルとは格が違う。その事
でも「真理に負けた。」と考えてしまう、その気持ちは誰も救う事が出来ず、雄一郎
は自分の心の隙間が広がっていくような不安感を抱いた。

第四章


(2007年)
 二人にとっての悲しい出来事があり、真理がロイヤルガーデンの仕事に復帰してか
ら一年が経っていた。
 ゲストサービス部マネージャーとしてプレミアムクラブ、コンセルジュデスク担当
し、横浜ロイヤルガーデンホテルで真理の存在が大きくなり始めた頃、雄一郎は菅原
梓と出会った。

 梓の夫の菅原幸一は、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルで送迎バスの運転手をしてい
たが、幸一が運転するガーデンリゾートのマイクロバスは大型トレーラーに追突され
た。
 マイクロバスは信号に矢印が出たのを確認して右折しようとしたが、そこに猛スピ
ードのトレーラーが突っ込んで来た。大型トレーラーの運転手は眠気を催したため煙
草を吸おうと思い、コンソールボックスに入っている煙草を探す事に気を取られてい
た。更に悪い事にその時トレーラーの運転手はブレーキペダルから足を離していて、
マイクロバスに気が付きあわてた運転手は、ブレーキとアクセルを踏み間違えてしま
った。
 交差点は坂の途中にあった。大型トレーラーは下り勾配であったため、アクセルを
踏み間違えた事でトレーラーは大きな凶器と化していた。追突された衝撃でマイクロ
バスは横転し大破した。
 ハンドルと座席に挟まれた状態の幸一は胸を強く打ち、病院に運ばれた一時間後に
死亡が確認された。
 幸いな事にバスは駅に客を迎えに行く途中で、幸一以外誰も乗っておらず被害は幸
一だけであった。幸一に全く非はなく、全てトレーラー運転手側の過失責任と言う事
で決着はついたが、幸一の保険などの諸手続きは雄一郎が担当する事になった。
 
 葬儀が済み菅原家が一段落したのを確認して、雄一郎は諸々の手続きのために幸一
の家を訪ねた。住宅が密集している地域の外れにある幸一の自宅は、県営団地の一階
にあった。
 雄一郎は団地の入り口にある案内図で確認し、菅原家の部屋の前で表札を確認し呼
び鈴を押した。しかし誰も出てくる気配はなかった。雄一郎は腕時計を確認したが総
務から伝えられた時間に間違いはなく、雄一郎は何度か呼び鈴を鳴らした後、それで
も誰も出て来ないので思い切ってドアノブに手をかけた。
 ドアは鍵が掛かっていなかった。遠慮がちにドアを開け「こんにちは。ガーデンリ
ゾートの川村です」と声をかけた。ドアの向こうにはダイニングキッチンが続いてお
り、部屋越しのベランダで菅原の妻の梓が洗濯物を干している後ろ姿が見えた。
「ごめんください」
雄一郎は更に声を大きくしたが、それでも梓は気がつかず一向に振り向く気配はなか
った。
「余程洗濯物を干す事に夢中になっているのか……まさか部屋に上がりこむ事は出来
ない……それにしても物騒な家だ。どうして気がつかないのか?」と思っていた時、
洗濯物を干し終えた梓がゆっくりと後ろを振り向き、部屋の向こうにいる雄一郎の姿
を見て驚き、そして慌てて玄関に走って来た。
「驚かせて申し訳ございません。チャイムを鳴らしたのですが応答がなかったもので
すから。ガーデンリゾートの川村と申します。ご主人の労災の手続きの件でお伺いい
たしました」
雄一郎は丁寧に頭を下げ、名刺を渡しながら梓にそう伝えた。
「こちらこそ気がつかなくて申し訳ございません」という仕草で梓は頭を下げた。
言葉を発しない梓に違和感を持ち「声が出ない位に驚かせてしまったのか」と雄一郎
は梓に何度も頭を下げた。梓は雄一郎の訪問に慌ててリビングにかけ戻り、玄関に戻
ってお絵かき帳を差し出した。そこには「すみません。声が出なくなってしまいまし
たのでお話は筆談でお願いします」と書かれていた。雄一郎は愕然とした。幸一の妻
が声を失った、というのを雄一郎は全く知らなかった。葬儀でもそれは分からなかっ
たし、総務でも何も言っていなかった。自分の無知に反対に恥ずかしくなった雄一郎
は「知らなくてすみません」と頭を下げた。梓は「いいんですよ」と手を振り、雄一
郎をリビングに通した。

 通された幸一の家のリビングは陽あたりも良く「温厚な幸一」そのもののように居
心地が良かった。雄一郎は仏壇の前で幸一に手を合わせ、梓は雄一郎のためにアップ
ルティーを手際よく用意し、そしてお絵かき帳をめくった。
「会社から手続きのために人が来る」というのを知っていて、スムーズに手続きが終
わるようにと、予めいろいろな言葉を用意していたのであろう。次のページには「こ
の度は主人のためにいろいろご尽力を頂きありがとうございました。会社の皆様のご
好意には感謝しています。主人も八ヶ岳ガーデンリゾートでの仕事が好きでしたので
きっと喜んでいます」と綺麗な文字で書かれていた。
「この度はご愁傷様です。自分もそうですが、ガーデンリゾートのスタッフは皆ご主
人の事故を悲しく思っています」
雄一郎は梓の顔を見ながらゆっくりと伝えた。
確か幸一は50歳を過ぎていたから、梓とは年が随分と離れているようだ。梓は自分
と同じ位か少し若いぐらいだろうが、顎にかかるボブスタイルが落ち着いた雰囲気を
漂わせていた。
「会社の人間である自分の前で気丈な態度を示しているが、悲しみは大きいのだろう」
と梓を見ながら雄一郎はそんな事を心配していた。
 
 その後も雄一郎は何度か梓の元に通う事になった。様々な手続きも済み、訪問もこ
れが最後となった。前日に雨が降り、団地の敷地内は所々に水溜りが出来ていた。
「菅原家を訪問するのもこれで終わりか」と考えながら、来客用スペースに車を納め
梓の部屋に向った。考え事をしていた雄一郎は、梓の住む棟の前で水溜りを避けよう
とした時に、足を滑らせ尻餅をついてしまった。腰をしたたか打ち、余りの痛さに唸
り声をあげたが、真っ先に、梓にカッコ悪いところを見られていないか?と心配にな
り辺りを見回した。梓にも誰にも見られていない、と安心して急いで立ち上がり、打
った腰を庇いながら階段を登りかけた時、梓が笑いながらドアから顔を覗かせた。ど
うやら見られてしまったようだ。梓とは何度も会い、筆談でいろいろな話をしていた
が、こんなに笑っている顔を見た事はなかった。笑うと出来るエクボが可愛かった。
雄一郎の転ぶ姿を見た梓の笑顔につられるように雄一郎も笑顔になり、照れ隠しのた
めに頭を掻いた。恥ずかし気にしている雄一郎を家に招きいれ「大丈夫? 怪我はな
いか?」と手振りで尋ね、暖かいココアを用意して、泥で汚れた雄一郎のコートを手
に取り、軽く水洗いして「乾くまで少し時間がかかりますよ。」と筆談で雄一郎に伝
えた。
 ココアを飲みながら、手続きを済ませた後、梓はお絵かき帳をめくった。お絵かき
帳にはいつもの綺麗な文字で「今日で手続きは終わりですね。川村様には本当にお世
話になり、ありがとうございました。最後なので、今日は私が作った昼食を召し上っ
て行ってください」と書かれていた。雄一郎の訪問はいつも午前中で昼食前には辞去
していたので、その時間を考えての梓の申し出だった。一瞬、躊躇ったが「梓とこれ
が最後だ」と思うと淋しい気持ちになり、雄一郎は「コートが乾くまで待っていた」
と食事をご馳走になった理由を正当化する事にして、梓の誘いを受ける事にした。
 
 喜んだ梓はいそいそとした様子で、キッチンで雄一郎のために料理の用意を始めた。
しばらくして出て来た料理はラザニアだった。
「私の自慢の料理で亡くなった主人の大好物だったのですよ」という前置きで熱々の
ラザニアとサラダをテーブルに並べた。自慢の料理と言うだけあって、確かにラザニ
アは美味しかった。
 夢中で食べ終わって「ご馳走様」と梓を見た瞬間、雄一郎は梓に引き込まれそうに
なった。真理の溌剌とした美しさとは違う、落ち着きのある美しさの中にあどけなさ
がある、そんな不思議な魅力があった。何度か会う度に梓に情を感じ、訪問するのを
心待ちにしているような所もあったが、雄一郎は出来るだけそういう気持ちから目を
背けていた。訪問が最後の今日、梓を見ながら、雄一郎は特別な感情を抱いてしまっ
た自分にハッキリと気づいた。だからと言ってこのまま突き進もうという気持ちはな
かったが、雄一郎は梓に「これからどうするのですか? ガーデンリゾートで仕事を
したいという気持ちはないですか?」と言ってしまった。そう言わせる魅力が梓には
あった。突然の申し出に梓は躊躇し、お絵かき帳に「声が出ない私に出来る事がある
のですか? もし私でも役に立つ事があったら嬉しいのですが」と記した。
「前から考えていたのですが、バックヤードでスタッフの細かい身の回りの事をして
くれる人を探しています。用務係のような事ですが、引き受けてくれますか?」
「川村さんからそういうお話を頂いてとても嬉しいです。出来るのであればやらせて
頂きたいと思います」
「ありがとうございます。仕事についてはまた後日ご連絡します。但し、待遇につい
てはご期待に添えないかもしれません」
「その事については特に要望はありません。これから先不安に思っていたので、こん
な私でも仕事が出来ればそれで満足です」
意外な展開になった。これから会社に戻って総務にこの話をしなくてはならない。今
まで一時の感情などで、仕事の話を進める事など有り得なかったのに、何も考えず仕
事斡旋の話をした自分に戸惑ったが、何とか実現させたい。雄一郎の頭の中には、目
の前の「梓の仕事」の事しかなかった。

 食事の礼を言い、「また」と恋人に別れを告げるような少し淋しい気分を味わいな
がら、梓の自宅を辞去し会社への帰路を急いだ。
「菅原さんのために提案を受け入れてもらいたい」という一心で帰る車の中で策を練
っていた雄一郎は、会社に着くとすぐに総務部長の渥美繁の所に飛んでいった。
「確かに用務係的な仕事をしてくれる人がいれば、現場は余計な事に関わらずに仕事
に専念する事が出来る。それでも、人件費が発生する事で、すでに新年度の人件費を
含む予算組みは終わっているから、菅原さんを何処に所属させるかという事、人件費
を何処が持つかなどが問題」
渥美はすぐには返事が出来ない。と伝えた。雄一郎は渥美に「あの菅原さんの奥さん
に何とか仕事をさせてやってください」と何度も頭を下
げた。
 雄一郎の本心を知らない渥美も、菅原幸一の事は残念に思っていた事もあり、梓の
就職を世話する事で菅原に報いる事が出来ればとは思っていた。また、本来なら梓と
は総務部長の自分が対応しなくてはならなかったのだが、自身の異動も控えていたし、
仕事が忙しい事から雄一郎に押し付けた事、雄一郎がその対応を問題なく片付けてく
れた事、梓も特に異議を唱える事なく会社側の申し出をすんなり受け入れてくれた事、
また、現在は、客室清掃を請け負っているコスモサービス担当の従業員スペースの清
掃をパート待遇の梓に任せれば、その分の経費削減も計れる。雄一郎への後ろめたさ
などもあって上司には採用する方向で話を持って行った。
 しかし、渥美にも解せない事があった。
「川村は菅原さんの奥さんは声が出ない。と言っていたが、自分は電話で話をした筈
だよな。まあ、いいか。後で川村に確認してみよう」
腑に落ちなかったが、渥美はその後引継ぎ仕事に追われ、本部に異動になった事もあ
り、雄一郎に確認する事はすっかり忘れてしまっていた。
「許可が下りたよ」と雄一郎に報告が届いたのは一週間後の事だった。朗報を受けた
雄一郎はすぐさま梓の元に出かけた。梓の家の前に立った時に妙に浮き浮きしている
自分を感じて戸惑った。
 
 昨夜、ホテルの業界雑誌で「横浜ロイヤルガーデンホテルが誇る『ロイヤルガーデ
ン・プレミアムクラブ』」の記事を読んだばかりであった。「ロイヤルガーデン・プ
レミアムクラブ」は高い評価を得ていた。真理の名前は掲載されていなかったが、ホ
テル業界でも注目をされている記事の内容に、同じホテルマンとしての嫉妬であろう
か?妻である真理の仕事を素直に喜べない自分を苦々しく思っている事に気がつき、
その事に苦悩していた時でもあった。雄一郎は真理の事を頭から追い払った。

 条件も良くなかったが仕事が決まって梓は嬉しそうだった。雄一郎は喜ぶ梓を見て、
ほのぼのとした思いを感じた。主な仕事はバックヤード清掃、賄いの手伝い、現場ス
タッフのフォローなど、実際に仕事に入ればまたいろいろ出てくるだろう。勤務時間
は10:00から16:30となっていた。梓は一生懸命働いた。トイレや洗面所、
社員食堂に団地の庭に咲く花を飾ったり、細かい気使いにスタッフも心が和み、梓を
頼りにしていった。仕事をしていくうちに梓は夫の幸一が優秀なドライバーだったと
いう事を知った。そして、何よりいつのまにか雄一郎を心の支えにもするようにもな
っていった。雄一郎も「声が出ない梓」をフォローした。



 ゴールデンウィークが近づいていた。また、当分横浜に帰れなくなるので、雄一郎
は一週間ぶりに横浜に帰る事にした。
「タイ料理でもどう?」と言う真理の提案で、二人は久しぶりにタイ料理を楽しんだ。
「歩いて帰ろう」とタイ料理を満喫した二人に春の宵の風は心地良く、万国橋から見
る「みなとみらいの夜景」はきらきら輝いていた。
「相性ってあるのね。タイ料理には苦味が強いシンハービールがベストマッチ。ねえ、
私達はどう? ベストマッチしてる?」
雄一郎の腕に自分の腕をからませて、真理は少し甘え声になった。
「だいぶ古くなったけれど……充分ベストマッチ……だろうな。」
真理は立ち止まり、腕を雄一郎の首に回して軽くキスをした。二人とすれ違った高校
生風の女の子二人が「やるじゃん」そう言って走っていった。
「やるじゃん……だって」
真理は笑って、また雄一郎の腕にしがみついた。

「今年の夏は、ちょっと違った夏にしよう。と思って総支配人に提案するつもりなん
だ」
雄一郎が嬉しそうに仕事の話を始めた。
「今の時代、交通費をかけてわざわざ田舎に行かなくても、都会でも様々なイベント
が開催されているだろう。リゾートに客を呼び込むためには、インパクトのあるイベ
ントを考える必要があると思うんだ。営業企画部のお仕着せのイベントではなく、現
場を知り尽くし、客の動向を熟知している各セクションスタッフに呼びかけ、様々な
アイディアを出させようか、ってそんな事を考えているんだけどさ。都会のイベント
とは一味違う、八ヶ岳ガーデンリゾートだから出来るっていうイベント。テーマも決
めて、夏中通してテーマに沿った営業展開を行なう。コンクール形式にしてアイディ
アが取り上げられたセクションにポイントを付ける。社員の『遊び心』を引き出す事
になるし、士気も高める効果が得られると思う。自分達が楽しめなくては顧客を満足
させる事は出来ないし。会社レベルのイベントって言ったって、今までは直接携わる
スタッフとそうでないスタッフとの間に温度差もあったりして、連携が上手く行かな
い部分もあったから。今年はドカンとぶつけてみようかな。って。『イベントが会社
を変える』そう考えているんだ。生き残りをかけて厳しいしさ」
「イベントイノベーションか、一つ言っていい?」
「遠慮するなよ」
「都会の場合、『都会色』を打ち出したり、反対に都会にいながら味わえるように『
自然色』を打ち出したり、の企画が多いでしょう。田舎って『自然色』や『ローカル
色』だけを出す事が多いと思うの。周りが自然だらけだから。でも、そうではなくて、
自然を最大限に利用した上で『都会色』を作り出すのも、面白いかな? って。」
「田舎の中で都会色か……面白そうだな!」
「例えば、同じ山梨県で言うと富士山。結構、富士山というランドマークだけ打ち出
す事が多いように思うけれど、ランドマークは二番手に考えるの。都会色をいっぱい
出して、気がつくと、富士山が美味く調和している。みたいな……分かる?」
「ちょっと、分からないな」
雄一郎は笑って真理を見た。
「私の個人的な考えだから、そのつもりでね。都会を離れてリゾートに出かけて、ま
た都会に帰って来る。そのギャップって大きくて、それがストレスになる事があると
思うの。だったら、リゾート側でそのストレスを取り除いてあげるの。自然を味わせ
てあげながら、都会の良さをも再認識する環境作りをするの。」
「なる程……アイディアが浮かんで来そうな予感がする。」
「本当? 上手く言葉に出来ない……自分で言って、分からなくなっちゃった」
真理は肩をすくめた。
「田舎が生活のベースになっていると、考える事が画一的になってくる事もあるよね。
都会の人は自然を味わいたいんだ、富士山を見たいんだ、みたいに。それだけを求め
ているって、単純に考えてはダメだ、とそれはいつも思っている」
「ところで、テーマって、発案者の考えるテーマは何?」
「うーん? アジアンな夏はどう? レストランはカタカナの『アジアンな夏』に漢
字で『味あんな夏』と添える……」
「却下!」
「何だよ! 簡単に却下するなよ。」
雄一郎は不満そうに真理の頭を小突いた。
「口の中にタイ料理が残っているでしょう?」
真理はゲラゲラ笑って雄一郎の口元を指差した。
「バレた?」
つられて雄一郎も声をあげて笑った。
「でも、素敵! その案大賛成! 楽しそうでいいなあ……」
「間違いなく楽しくなりそうだよ。真理の話を聞いて、やる気も出て来たし」
「打ち上げ花火はどう?」
「それ、いただき!」
「絶対にその夏の提案通してね。でも……これからまた忙しくなるね……」
真理は回した腕に力を入れた。
「亭主は元気で留守がいい、って。典型が俺だろう?」
「うん……」
さっきと違って覇気がない真理が気になった。
「何だよ。不満そうじゃない?」
「不満じゃないけど……少し淋しいし……一緒に仕事が出来ないやきもちかな?」
「だったら八ヶ岳に来いよ」
のど元まで出掛かった言葉を雄一郎は飲み込んだ。菅原梓の顔が浮かんだ。
「真理だって今の仕事は充実しているんだし、淋しいなんて言うなよ。」
「私らしくないって事? ……でも、忙しくなったら無理よね。ちょっと相談に乗っ
てもらいたい事が出てくるから」
「忙しくたって真理の相談事にはいつだって乗るよ」
「じゃあ、今、話してもいい?」
「いいよ。聞くよ」
「あのね、プレミアム・クラブにバトラーサービス(注:あらゆる用件をきいてくれ
るお客様専属の客室係)を付けたらどうか? って考えているの。フロアオープンか
ら1年近く経って売上も順調に伸びているけれど、もっと付加価値を付ける必要に迫
られていると思うの。まだバトラーサービスを実施しているホテルは少ないから今が
チャンス。どう?」
「バトラーか……確かにプレミアムクラブにはふさわしいサービスだ」
「ターンダウンサービス(注:客室係が夕方客室を訪れて、就寝の準備を整えるサー
ビス。)も考えているの。このサービスを行っているホテルも少ないと思う。ナイト
キャップ用のお酒やチョコレートはホテルのロゴ入りの物を用意したいけれど、それ
は難しいかもね。新婚旅行の時にターンダウンサービスを受けたの覚えている?」
雄一郎は新婚旅行で行った、スペインのアンダルシア地方にある貴族の宮殿を改装し
た五つ星ホテルを思い浮かべた。あの時、日本から真理が持参し、ベッドサイドテー
ブルに置いてあったナイトドレスが、ベッドの上にお洒落れにディスプレイしてある
のを見た真理は「素敵!」と感激していた。
「あの時から、ロイヤルガーデンでもターンダウンサービスが出来たらいいのに、っ
て考えていたの。プレミアムクラブフロアスタッフにも話をして、スタッフの意見も
必要で統一されているの。でも、バトラーのコストはかなり高くなるから、数字を出
すのが難しい」
「必要に迫られている、っていう割りには自信なさ気だよな」
「骨子は出来上がっているのよ。でも、強く会社に訴えるには内容がまだ弱くて。提
案の前にリサーチのためにアンケート用紙を部屋に置いてみてはどうか? って考え
たけれど、アンケート用紙が部屋に置かれているのって『ホテル』っていう事が見え
見えでしょう? プレミアムクラブの部屋は優雅な気分で自分の家にいるような感覚
で使ってもらいたいから、それはしたくないの」
アンケート用紙の存在にも気をつかっている真理に「さすがだな」と雄一郎は思った。
「細かい数字に気を取られていたら、バトラーサービスやターンダウンサービスなん
て考えられないだろう? 稟議だったら当然数字は必要だけど、真理が考えているバ
トラーサービスとターンダウンサービスの必要性を理論的に強く訴えるしかないだろ
うな。ある程度の試算を出せば、会社だって将来を見据えて、おそらく提案を受け入
れると思うよ。俺は」
「そうよね。実はね、私もそう考えていたの。でも、誰かさんの最後の一押しが欲し
かったの。やっぱり話して良かった。ありがとう……」
元気がなかった真理の目が輝き出した。
「レベルが違う」
真理の仕事の内容と自分の仕事を比べた雄一郎がつぶやいた。
「レベルが違う? って何を基準にしてそんな事を言うの? 『レベル』ではなくて
『客種』と『環境』が違うって言う事でしょう? そんな事を言うのって……あなた
らしくない」
真理は腕をほどき、立ち止まった。二人の間に気まずい空気が流れた。

「レベルじゃなくてラベルの違いよ。どう? 凄いでしょう!」とおどけた仕草でジ
ョークで返せば、気まずい事にならなかったが、何となくそういう気持ちに真理はな
れなかった。
 
 雄一郎は何故か急に八ヶ岳に帰りたくなった。

「ごめん。バトラーサービスなんて羨ましくて。つい……」
振り返って雄一郎は真理の手を取った。真理も手を伸ばして二人はまた並んで歩き始
めた。氷川丸もライトアップされていつもと同じように山下公園はロマンチックな雰
囲気だったが、公園の向こうに続く灯りが映っている海を見た時、真理の中に悪寒が
走った。
「もうこれ以上悪い事が起こりませんように」
真理は雄一郎の腕にしがみついたが「心ここに在らず」の雄一郎を感じ不安になった。



 八ヶ岳ガーデンリゾートはゴールデンウィークに突入していた。
雄一郎は現場を見ながらも、真理に話した夏のイベントの提案を総支配人に行なった。
日頃から遊び心のある総支配人の宮野要は雄一郎の提案に賛成し、ゴールデンウィー
クが開けてから、その提案をマネージャー会議にかけるように指示を行なった。
 
 開催されたマネージャー会議で、全員一致で提案は取り入られる事になった。出て
来た提案をまとめるのは営業企画部で、その上の統括責任者は雄一郎となった。最初
は戸惑っていた社員も次第に乗ってきた。営業企画部には様々な提案が寄せられ、営
業企画部で選りすぐった案件が雄一郎の元に届いた。それらの提案を見て雄一郎は驚
いた、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルには様々な「名人」が存在していた。その選別
作業をしている時「レベルが違う」とまた真理の仕事の内容と自分の仕事を比べた。
「泥臭い」仕事をする自分に納得がいっていても、真理の仕事を考えると割り切れな
かった。
 そんな雄一郎だったが、その提案の中に「お盆時期の納涼祭に打ち上げ花火をあげ
る」という提案に真っ先に興味を持った。真理も同じ事を言っていた。その提案は宿
泊部客室課から出ていた。客室課は館内施設管理、ホテル清掃を手掛けるアウトソー
シング会社のコスモサービスの手配、梓の夫の幸一が所属していた送迎バス部門など
を束ねるセクションで、パートの梓もそこに所属していた。「打ち上げ花火」には営
業企画部も興味を示し「手配出来るなら絶対これはイケますよ。宿泊客だけではなく、
地元客も誘致出来る」と乗り気になっていた。雄一郎は客室課マネージャーの相馬俊
介を呼び「打ち上げ花火」提案の詳細を確認した。

「これを提案したのは、菅原さんの奥さんですよ。市川大門の有名な花火師を知って
いるとか言っていました」
そこにまた梓が現れた
雄一郎は梓に花火師の確認をして、その情報を営業企画部に伝えた。営業企画部から
「花火師とコンタクトを取れました。市川大門の花火大会とは日程が被らないのでこ
っちは大丈夫だし、菅原さんのお陰で費用も抑えられそうです」と嬉しい報告が届い
た。
「昭和の夏」というテーマも決まり、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルは夏の一大イベ
ントに向けて、着々と準備を進めていった。
「昭和の高度成長期の日本」を演出すべく、レストランもその時代に合わせたメニュ
ー展開を考案した。早くから告知を行なった事で、エージェントや予約仲介業者、ネ
ットからの予約も伸びてきた。雄一郎の思惑通り、スタッフの士気も高まった。
 
 7月に入った時「会社が提案を受け入れてくれた」と真理から連絡があった。
「バトラーサービスとターンダウンサービスの両方よ。今、私のデスクは見本のゴディ
バのチョコレートの山よ。食べたいけれど我慢しているの」
真理は嬉しそうだった。
 
 そして、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルは、本番の夏に突入した。
お盆のメインイベントである打ち上げ花火が最後の日、雄一郎は「盛り上がっている
夏」に満足し、メインイベント会場の外れで花火を見ていた。ふと気がつくと隣に浴
衣姿の梓がいた。浴衣姿の梓は妙に艶めいていて雄一郎の心がグラリと揺れた。
「花火は大成功でした。菅原さんのお陰です。本当にありがとうございました」
そういう雄一郎を見上げる梓の潤んだ目線をしっかりと受け止めた。
 
 しかし、翌日から梓は会社を休んだ。
休みの一日目は「公休」となっていたが、翌日からそれが「病欠」に変わった。一週
間を過ぎても梓の「病欠」は変わっていなかった。心配になった雄一郎は電話をする
事を考えたが「声が出ない」事に気がついた。会社とのやりとりは携帯メールで行な
っているが、客室課にメールアドレスを聞くのは躊躇われた。そこで、思い切って仕
事の帰りに梓の家を訪問する事にした。
 ドアを開けて雄一郎を迎えた梓は、心なしかやつれていて辛そうだった。
「風邪をこじらせたみたいで、でも、明日は出社出来そうです」と手振りを交えて伝
えたが、玄関口で梓はその場に座り込んでしまった。驚いた雄一郎は梓を抱きかかえ
てキッチンのダイニングテーブルに座らせ水を飲ませた。
「すみません。でも、もう大丈夫です。」
梓は笑顔と手振りでその事を伝えた。
「本当に大丈夫ですか?」
雄一郎は心配したが、梓がまた手振りで「大丈夫です。ありがとうございました」と
告げたので、心配しつつも雄一郎は梓の家を辞去した。
 だが、梓は翌日も出社して来なかった。昨夜の具合いの悪そうな梓の事がまた心配
になり、雄一郎は再度家を訪れた。梓は二日連続で訪れた雄一郎に驚いた様子であっ
たが、「もう大丈夫です。気にかけて頂いてありがとうございます」雄一郎が読み取
れるように、一言ずつ大きく口を開いて気持ちを伝えた。
「無理しないでくださいね。元気になって出社してくれるのを待っています。今日は
これで失礼します」
そう伝えて雄一郎が、ドアノブに手をかけた時、梓が雄一郎の右腕を掴んだ。
腕をしっかり掴んでいる梓の細い指から熱い思いが伝わった時、雄一郎の中で何かが
弾けた。
雄一郎はゆっくりと梓に向き直った。
 
 男と女に「身体の相性」があるのだとしたら、まさしくそれなのだろう。雄一郎は
梓に夢中になった。
「声が出ない」梓との連絡手段は携帯メールだけであったので、雄一郎は梓専用の携
帯電話を購入した。
「男は一度に二人の女を愛する事が出来る」
そんな自分に雄一郎は酔いしれた。そして今となっては「単身赴任の幸運」にも感謝
した。
「生活」と言えるほどの事ではなかったが、梓と過ごす時間は居心地が良く幸せだっ
た。真理との生活では味わえない安らぎがあった。
仕事が終わって、梓の家でたわいない会話を筆談で交わし、食事をしながらテレビを
観る。
そんな当たり前の安らぎ……自分はこれを求めていた……
梓との密会は雄一郎の「心の隙間」を見事に埋めてくれ、仕事にも張りがでた。
 


 菅原梓は、もうすぐ一周忌を迎える幸一の仏壇の前で手を合わせていた。雄一郎と
関係を持ってから、幸一の仏壇は居間と続いていた和室から、玄関脇にある三畳の和
室に移されていた。
 梓は福島県にある小さな町で生まれ育った。
中学校の教師であり、一回りも年の違う菅原幸一は一年生の時の梓の担任教師であり、
梓の初恋の男性でもあった。教師という職業に情熱を抱いていた幸一は、決してハン
サムではないが、学校内で幸一を慕う女子生徒は少なくなかった。
 四人姉妹の長女として育ち、小さい時から「兄」への憧れが強い梓は、担任である
幸一に「理想の兄像」を見出していた。積極的に幸一にアプローチをかける女子生徒
がいる中で、地味で、目立たない梓は、そんな同級生を羨ましい思いで眺めながらも、
心の何処かに「私も、いつか……」という気持ちを隠し持つようになっていた。
 しかし、梓が中学三年生になった年の夏休みに、幸一は大学時代から交際していた
女性と結婚をしてしまい梓は辛い失恋を味わった。強い思いを内に秘めていた分、梓
は幸一への想いを断ち切る事が出来ず、中学校を卒業した。
 
 県立高校の二年生になっていた梓は、その年の冬にファミリーレストランでアルバ
イトを始めたが、アルバイト先のファミリーレストランで、客として食事を楽しみに
来た幸一夫婦と遭遇するはめになった。

 教え子であった梓に気づいた幸一が手招きして、梓に妻の佳美を紹介した。
「大人の女性」の雰囲気を持っている佳美を見て梓は大きなショックを受けた。幸一
への想いを断ち切れない梓は、高校生になってから数人の男子高校生と付き合ったが、
付き合いは全て短期間で終わってしまっていた。自自分は辛い思いをしているのに
「先生は幸せそう」目の前の幸せな幸一夫婦を見て梓の中に「奪いたい」という心が
芽を出し始めた。

 冬休みに梓は行動を開始した。
「高校でいじめにあっていて悩んでいる」と母校である中学を訪れ、恩師である幸一
に相談をした。何度も話を聞いて梓の事を心から心配するようになった幸一ある日、
「私の事で母が先生に会いたいと言っているので、家に来てください」と梓に言われ
何の疑いも抱かず梓の家を訪問した。

「お母さんはどうしたの?」
家には梓しかいない事に幸一はいぶかった。
「母は用事が長引いてしまって。すみません。30分程したら戻りますから待ってい
てください」
梓は幸一のためにお茶とお菓子を用意しながらそう言った。
「学校はどう?」
「余り変わりません。両親も心配してくれています。毎日学校に行くのが怖くて……
転校するか、退学するかで悩んでいます」梓はそう言って泣き出した。泣き出し
た梓に幸一は驚き「可哀相に」と梓の肩に手をかけた。梓は、悲しげな様子で「先生助
けてください」
梓は泣きじゃくった。
最初は演技で泣いていたが、幸一の胸に飛び込みたい気持ち、切ない自分の気持ちに酔
って来て、本気で泣き出した。それでも、じっと耐えて、幸一が行動に移す事を待って
いた。しかし、幸一は何も梓の肩に手をかけたまま、梓の期待する行動を起こす事はな
かった。我慢の限界に達した梓は急に泣き止み、チャームポイントであるエクボが出来
る笑顔を幸一に見せた。
「少し落ち着いた?」
優しく話しかける幸一に、梓は黙ってうなづき、そして「先生……」囁くような小さな
声で言って、幸一にむしゃぶりついた。
「自暴自棄になっちゃダメだよ」
幸一は優しく声をかけ、更に梓から逃れようとした。
「違います。先生は私の心の支えなんです。先生が好きなんです」
梓は幸一にしがみついた。梓から甘酸っぱい香りがして、幸一はその香りに眩暈を起こ
しそうになった。
 その時、幸一のたがが外れた。気がついた時には夢中で梓を抱いていた。母親は帰っ
てくる気配がなかった。

 梓は「女」になった。その日から二人は「師弟関係」ではなく「男女の関係」にな
った。まだ結婚して三年程しか経っていない幸一は、教え子との不倫関係に悩みなが
らも梓との甘酸っぱく魅惑的な関係に溺れていった。付き合いだしてしばらくした頃
「もう大丈夫です。いじめは収まりました」
幸一は梓から嬉しい報告を聞いた。勿論「いじめ」の事は梓の作り話であったが、幸
一は全く疑いを持たなかった。

 高校三年生になった夏、梓は妊娠をした。
「子供は産んで欲しい。佳美と別れて梓と結婚をする」幸一は思いもかけない事を梓
に告げた。
 一筋に幸一を愛して生きて来たが、まだそこまでの覚悟が出来ていなかった梓は、
結婚話しを受け入れなかった。
「自分はきっちりと梓への誠意を見せる」
真剣に梓を愛するようになっていた幸一は、梓の返事には大きなショックを受けた。
結婚が出来ないのであれば、二人の選ぶ道はただ一つで「中絶」しか方法はない。真
面目な幸一は苦悩したが、梓に押し切られ、二人で東京まで出かけて行き小さな病院
で人工中絶の手術を受けた。梓は罪悪感を感じていなかったが、幸一は我が子を自分
の手で葬った事への罪の意識に苛まれた。
 
 その時梓はある学習をした。

しかし、その後も二人の関係は密かに続けられた。そして、梓が高校を卒業して地元
の信用金庫に就職し、幸一が福島市の中学校に異動になった時、今度は幸一の妻の佳
美が妊娠をした。
「生まれてくる子供に不誠実な親であってはいけない」とついに幸一は梓とは別れる
決心をし、梓に別れを告げた。自分と妻の間を言ったり来たりしている幸一の態度に、
不信感を持った事もあるが「幸一を許そう」そう思った梓は「分かった。別れた方が
いいと思う。私は大丈夫だから先生も幸せになってね」けなげにもそう答えた。
心のどこかに悲劇のヒロインになった様な自分に酔っているような部分もあった。
そして「いつか……」また、その気持ちが湧き起こった。

幸一は「大事な梓」を心の中にある小さな箱にしまう事にした。

 5年後、梓は同じ信用金庫の職員であった椎名達郎と職場結婚をし、梓の夫の達郎が
福島市の支店に異動になったと同時に梓は信用金庫を退職し、市内の紳士服専門店に転
職をした。幸一がまだ心の中にいる梓は、達郎を本気で愛したわけではない。酔った勢
いで関係を持ち、酔いが覚めた後「責任を取るよ」そう達郎に言われ、成り行きで結婚
をした。幸一と「いつか……」という気持ちを抱いていた梓には、達郎の様な相手が
都合が良かった。いざとなったらあっさりと捨てる事が出来る……

 そして……一度解かれた赤い糸が再び結ばれる時がやってきた。

 急に通夜に列席しなくてはならなくなった幸一が黒い喪のネクタイを求めに、梓の勤
める紳士服専門店を訪れた。幸一は思いがけない再会で、美しく成熟した梓を見て驚い
た。梓も、貫禄を増しりっぱな先生然とした幸一に心が揺れた。

 幸一は、心の箱にしまっておいた梓を取り出した。
二人が元の関係に戻るまで時間はかからなかった。菅原幸一は40歳、梓は28歳に
なっていた。

 二人の密かな関係が2年続いた時、梓は二度目の妊娠をした。あの時とは二人の取り
巻く環境は変わっていた。
「産もうと思えば産める」
幸一はある恐ろしい考えを梓に伝えた。
「なかなか子供が出来ないから、私達は不妊治療を受けた事があるの。結果、主人に原
因があるって分かって、彼は一時とても落ち込んでEDになりかけたけれど、カウンセ
リングを受けて今は立ち直っているのよ」
幸一は、梓からの話にまた自分の希望がまた叶わない事を知った。結局、今回も中絶手
術を受ける事を決意した梓は、夫の達郎には「高校時代の友人と旅行に行く」とウソを
ついて、茨城県水戸市の病院で手術を受けた。
 しかし、達郎を裏切っている梓にツケが回ってきた。術後感染症を起こし、梓は二度
と子供が産めない身体になってしまった。
「二度も生を受けた子供を自らの手で葬り去った事で子供が産めない身体になった。そ
れが自分に課せられた罪」
梓はその十字架を背負って生きていく覚悟を決めた。幸一はそんな梓を今まで以上に大
切にするようになった。

 しかし、それから2年後……二人の「密かな関係」は遂に夫の達郎に知れる事になっ
てしまった。
 誰にも知られていない「密かな関係」と思っていたのは二人だけであった。二人の知
らない所で、噂は広まっていた。

 日曜日に久しぶりに休みをもらった梓は、昼過ぎまで寝ている達郎を起こさないよう
に買い物に出かけた。夕方近くになって「ただいま」と帰って玄関に、見慣れない女性
用の靴が揃えられていたのを見た時に嫌な予感がした。
「泥棒猫のお帰りね」
廊下の奥で女の甲高い声がした。慌ててリビングに行くと、達郎が険しい顔で梓を睨ん
だ。そして、梓は達郎と向かい合っている女性をみて声をあげた。中年の域に入った女
性は、あの時の「大人の魅力ある女性」の面影はすっかりなくなっていたが「幸一の妻
の佳美」という事はすぐに分かった。
 梓は驚いて、持っていた買い物袋を床に落とした。ガシャッと中に入っていた調味油
の瓶と卵が割れる鈍い音がして袋から中味が床に染み出した。
「お前は何をしていたんだ! ずっと俺を騙していたのか!」
物凄い剣幕で達郎が怒鳴った。佳美は目を吊り上げて梓を睨みつけていた。
「……」
梓は何も言えずその場に立ちすくんでいた。
「あら? この泥棒猫は声が出なくなったようね!」
佳美が梓を指差しながら憎々しげに言い放った。
梓はバッグを横目で探した。
「バッグの中には、財布も携帯電話も入っている」
咄嗟に考えてバッグを取って部屋を飛び出した。
「梓! どこに行くんだ!」
後ろで達郎の喚き声が聞こえたが無視して家を出た。

 優しい幸一の顔が浮かんだ。しばらくの間、あてもなく町をうろついていた梓は、駅
前のビジネスホテルに部屋を取った。幸一とはその晩に電話で話をしたが、母親である
佳美から話を聞いていたのだろうが、一人娘の由佳里から「汚らわしいあんたが出てい
かないのだったら、私が家を出る!」という言葉を投げかけられて「家を出る」決心を
していた。
「今まで信じていた父親の不倫を知った由佳里のショックは大きいのだろう」
その事を考えると幸一は辛かったが、その娘に「汚らわしいあんた」と言われた事がも
っと辛かった。
 三日後、梓は達郎の居ない留守を狙って自宅に帰ったが、家の中はひどい有様になっ
ていた。身の回りの物をトランクに詰め、テーブルの上に離婚届用紙を置いた。出る時
に、もう一度家の中を見渡したが「家を出る」という淋しさは沸いてこなかったし、達
郎にも愛着は無かった。
 
 学校を退職した幸一と梓は逃げるように福島を出て、幸一が大学時代に住んでいた千
葉県の幕張に移り住んだ。そして、幸一は大型自動車免許を取り運送会社に就職をし、
梓は近くのスーパーに職を求め、二人の生活がスタートした。
福島の中学校で先生と生徒として知り合ってから20年が経っていた。
 揉めに揉めたお互いの離婚も成立し、やっと結婚も出来、寄り添うように生活を送っ
ていた二人は幸せであったが、災難が降りかかった。48歳になった年に幸一が肺結核
を患ってしまった。比較的軽度であったが、半年間の療養生活を送った幸一は退院後、
自分の身体に自信が持てなくなり、運送会社を退職し、知人の紹介で「八ヶ岳ガーデン
リゾートホテル」の送迎バスの運転手の職に就く事になり、二人は山梨県北杜市に移り
住んだ。
 山梨での生活も穏やかではあったが刺激がなかった。幕張で生活をしていた時はまだ
「略奪愛」の余韻が残っていた。
そんな梓の中にあるものが芽生えた。芽生えたものは成長し、熟す時を迎えていた。
……そして、すっかり熟した時に川村雄一郎と出会った……



 雄一郎にとっての刺激的な夏が過ぎ秋を迎えた。
「昭和の夏」のイベントでスタッフの自主性を重んじた事で、モチベーションも上がり
成長していくスタッフを見て「土台固めが出来た」と満足していた。
 定期的に横浜には帰った。横浜にいる時は真理と一緒に過ごす時間を大事にして、最
大限有効に使った。雄一郎にとって真理は「妻」であったが、時には真理は「妻以上の
効力」を発揮した。真理もプレミアムクラブが予想以上の収益を上げている事で、自身
の仕事に益々自信をつけてきていた。
「仕事が自分達夫婦を繋げ、お互いを高める事が出来る刺激薬。仕事から離れれば梓と
の安らぎの時間が待っている」
雄一郎は本心からそう思っていた。

 ゲストサービス部マネージャーに就任し、プレミアムクラブ・コンセルジュデスクを
任せられるようになった真理も「客の立場に立ち、そして自分だったらどのようなサー
ビスをされたら嬉しいか? という事を考える。自分自身の生活の質の向上を図らない
と真のホスピタリティは生まれない。自分が幸せでないと良いサービスは出来ない」フ
ロント新人研修でチーフであった雄一郎からの教えを基本に、様々な改革を提案した。
真理に絶対の信頼をおいている、ゲストサービス部支配人の近藤暁生は現場サイドは全
て真理に任せ、自分は舵取り役に徹した。
 真理は、顧客の嗜好や過去のリクエストなどが記憶された、詳細な顧客情報リストを
作成し、利用頻度が増す度に顧客満足度が上昇出来るサービスを心がけた。それはプレ
ミアムクラブに留まらず、全ホテル共有のデータベースに保存され「Kファイル」と名
づけられた。既存の顧客データと併せた綿密なデータをホテル全てのセクションで共有
し、より以上に反映させる体制を整えた。毎朝開催されるプレミアムクラブスタッフミ
ーティングでは、当然ながら、スタッフにその日に宿泊している顧客の情報を把握する
事を徹底させる事で、より質の高いサービスを提供する事にも繋がった。真理の部下に
対する要求は厳しいものであったが、常に部下を信頼し、部下の意見に耳を傾け、出来
るだけその意見を取り上げ、個々の能力を最大限生かせるようにマネージャーとしてサ
ポートし、スタッフが「遊び心」を持ち、楽しく仕事が出来る環境を整える事で部下か
らの信頼を得られ、横浜ロイヤルガーデンホテルでの存在を不動のものとしつつあった。
「単身赴任の別居生活で良かった」
真理も改めてその事を感じた。もし、雄一郎と同じ職場にいたら、部署が違っていたと
しても、気持ちの何処かで「夫である雄一郎の足を引っ張ってはいけない」そういう事
に気を使い、思い切った仕事は出来なかったかもしれない。同じ職場で、お互いの力を
思う存分発揮出来ている夫婦もあるだろうが「自分はそれは出来ない」そう思っていた。
その事と「仕事が趣味」という事が自分の人生の中で、どんな意義を持つかは分からな
いし、それがこれからずっと続くであろう夫婦生活にどんな影響を及ぼすか?答えはま
だ出てはいないが、とにかくホテルの仕事が好きだった。勿論、真理の努力は並大抵の
ものではなかった。しかし、仕事に一生懸命になっていると、その合間に出来るプライ
ベートな時間がとても貴重な事に思えて、たわいない日常が楽しくて幸せだった。自分
が仕事を通して感じる「幸せ」をスタッフは元より顧客にもサービスを通してその「幸
せ」を味わって欲しいと思っていた。
 時に、真理も暴走気味になる事があったが、上司である支配人の近藤暁生や雄一郎が
それを抑えてくれ、元上司であり、雄一郎の親友でもある村上も真理のアドバイーとし
てバックアップしてくれた。
 母を早くに亡くし、父との悲しい事もあり、何より子供を失うという辛い事もあった
が、それを乗り越えたからこそ、今の自分がある。それには夫である雄一郎の支えが一
番大きかった。その事を心の底から感じた。
 しかし、最近は雄一郎も仕事が忙しいのだろうか、電話をしても以前のように即繋が
らない事が多かった。でも、話が出来なくても「私のそばには雄一郎がいる」それで満
足だった。真理も自分を取り巻く環境に感謝をしていた。

 そして……クリスマスを迎えた。真理はいつもの如く「無宗教の私達にはクリスマス
は関係ないのよね」と雄一郎にメールでメッセージを送った。
「クリスマス当日は忙しいから連絡が取れないと思う。少し早いけれどメリークリスマ
ス」
雄一郎からクリスマスカードが届いたが真理は何の疑いも持たなかった。
「雄真と理子に」そのクリスマスカードをテディベアと小さなクリスマスツリーと一緒
に、真理はリビングルームに飾った。雄一郎のそのメッセージは去年までとは違って「
自分を守る」メッセージになっていたのだが……真理は気がつかなかった。
 それにクリスマスは忙しかった。プレミアムクラブの会員であり、元外資系証券会社
営業マン出身で現在シンガポールでファンド会社を運営している戸川正一郎が、コンベ
ンションルームで、芸能人やスポーツ選手を招待してのクリスマスパーティを盛大に開
催する事になっていたし、プレミアムフロアはVIP客などで満室状態になっていた。
雄一郎とのささやかなクリスマスは諦めるしかなかったが、真理は充実していた。

 イブの夜、「クリスマスイブを楽しみたいだろう」と部下の事を考えて、夜勤業務を
引き受けた雄一郎は満室のホテルのバッチ作業(一日の集積データをメインサーバーに
送り、日付を更新する作業)を終え、日付けが変わってから梓の家を訪れた。
 雄一郎を待っていた梓はドアの鍵を閉めたと同時に雄一郎に「メリークリスマス」と
言って抱きついた。
「何?」
雄一郎は身体を離し驚いた表情で梓を見つめた。
「声が出るようになったの。あなたのお陰」
そう言って梓は雄一郎の胸に顔をうずめた。
「一週間位前から、徐々に声が出始めたの。でも、ずっと黙っていたの。クリスマスに
伝えたかったから……」
梓は泣きながら雄一郎の胸の中で囁いた。
初めて聞く梓の声は思ったより低く、控えめな梓そのもので魅力的だった。
一週間に一度、甲府の病院でカウンセリングを受けていると言っていた梓の「あなたの
お陰」という言葉は真実だろう。
「長い間声が出なくて辛かっただろうに、よく耐えたね」
雄一郎は心の底から喜んだ。
「ずっと聞きたかった言葉がある。分かっているよね? 言ってくれるだろう?」

「愛してる……」梓は何度も繰り返した。
 
 その頃真理は、疲れた身体を自宅のバスタブでほぐしていた。

 元旦の夜、雄一郎は梓を抱きながら、母を失くした後、最後は友人の借金の肩代わり
をさせられ会社を手放し、愛人の元で非業の死を遂げた父を思い出した。
「親父の気持ちは分かっても、俺は親父のようにはならない」
雄一郎はそんな自分に益々自信を持った。

 真理も充実した正月を過ごしていた。横浜ロイヤルガーデンホテルのプレミアムフロ
アもクリスマスから正月三が日過ぎまでは、90%以上の稼働率を誇っていた。100
%にならなかったのは、万が一の対応の場合に備えて数室の隠し部屋用意したためであ
った。フロアは様々な国から訪れたVIP客で溢れた。ラグジャリーなサービス重視の
経営戦略を展開し、プレミアムクラブを擁し「バトラーサービス」と「ターンダウンサ
ービス」を取り入れた横浜ロイヤルガーデンホテルは五つ星以上の評価を得、並みいる
競合ホテルを押しのけ「日本を代表する極上ホテル」として世界に認められていった。

第五章


(2009年)
 正月が過ぎ「八ヶ岳ガーデンリゾートホテル」は「ホワイトスノーリゾート」に変身
した。オンシーズンの賑わいは陰を潜め、落ち着いたリゾートが戻って来た。澄み切っ
た冬の夜空には眩い程の星が瞬き、イルミネーションを施したホテルは幻想的な雰囲気
に包まれた。昨年のリーマンショック後から引きずっている不況の中でも八ヶ岳ガーデ
ンリゾートホテルは、地域の他ホテルを凌いで躍進していた。昨夏の雄一郎発案のイベ
ントイノベーションがきっかけで、スタッフの個々の意識も大きく変化し、質の高い人
的資源を元に「ガーデンリゾートホテル」のブランドを崩さず、質の良いサービスを心
がけた。地域と密着したホテル運営を取り入れる事で、地方の活性化にも一役買い、長
い間「よそ者」的に扱われていたホテルも地元での地位を不動のものとした。

 2月に入って、雄一郎は、八ヶ岳ガーデンリゾートホテルの総支配人職に昇進の内示
を受けた。内示を聞いた後、デスクには戻らずゆっくりと館内を回った。見慣れたホテ
ルが違う顔に見え「やっと頂点に立った」と思わず顔がほころんだ。
 42歳という年齢での総支配人就任は異例の抜擢であった。
「都落ち」と感じた山梨に赴任してから9年、妻の真理に対してコンプレックスを抱い
た事もあったが、自信を失いそうになった時、迷った時、同じホテルマンとしての真理
にどれだけ助けられただろう。その真理に早く伝えたいと思い携帯に電話をかけたが、
シフトに入っているのだろうか、留守電になっていた。
「本部からは更に厳しい要求を突きつけられるだろ」
館内を歩きながら、これからのホテル運営構想を練った。
「以前から考えていたレベニュー・マネージメント方式を再度練り直すか……一室当たり
の収益を最大にするには、より細かいデータ分析が必要になるから、そのためのソフトの
導入も考えなくてはならない。臨機応変な販売価格が設定出来る、社会的な広い視野を持ち、判断力が必要な客室販売の管理責任者を誰に据えるか……」
考える事も実行する事もたくさん有った。今までは宿泊部支配人という、テリトリーに縛
られていたが、総支配人になれば枠を超えた発言力が持てる。今まで書き留めておいた事を改めて見直そう。
アドレナリンが身体中を駆け巡り少し興奮状態になった。
もう一度真理の携帯に電話をかけたが、まだ留守電のままだった。
諦めて携帯を胸ポケットに納めた時、リネン室の前で梓と偶然に会った。
「お疲れ様です」
梓は意識的にさりげなく頭を下げた。
「総支配人になるよ」
思わず雄一郎は梓に報告した。
「おめでとうございます」
言葉は他人行儀だったが、雄一郎を見つめる目は他人の目ではなかった。
梓の「他人の目ではない視線」を社内で感じた時、興奮状態のまま、思わず梓に真っ先に
報告してしまったが、その事に何故か雄一郎は少し後悔した。「身辺整理」その事が雄一
郎の頭に浮かび「誰かに見られていなかっただろうか」と周りを気にした。

「昼間電話に出れなくてごめんなさい。今日はアジアの旧正月でずっと忙しかったの」
真理から電話があったのは夜の10時を過ぎていた。30分程前に、梓から「総支配人
就任おめでとう」と改めて電話で祝福を受け、その余韻がまだ少し残っていた雄一郎は
「忙しいのか? 大丈夫か?」
自分の気持ちを悟られないように真理を心配した。
「大丈夫よ。何かあったの?」
少し疲れ気味に聞こえる元気のない真理の声に、雄一郎は気勢をそがれた。
「総支配人昇格の内示がおりた」
喜びを抑えながら伝えた。
「……」
真理からの返事はなかった。
「もしもし……どうした?」
雄一郎はもう一度呼びかけた。
「……」
それでも真理からの応えはなかった。
「総支配人なんだよ! トップに立ったんだよ! 真理だって、その事の重みは分かっ
ている筈だ」
真理の遅い反応が自分の意に沿わず、声に出さず心の中で叫んだ。
「凄いね! おめでとう! 今までの苦労が認められたのね……でも、これで本当に
山梨の人になっちゃうのね」
真理がやっと答えた。
「……」
今度は雄一郎が応えられなかった。手放しでの「おめでとう!」の言葉を期待していた。
「総支配人就任は私も嬉しいけれど、でも、ずっと……私達ってこうなのね」真理の声
は悲しそうだった。

「実は、私達離婚する事になったの」
昨夜、真理は大学時代の友人である山下史絵からそんな報告を受けていた。アメリカに
本社があるPR会社の東京支社に勤めている史絵は、大学時代から付き合いがあった山
下剛とは出来ちゃった婚であったが、子供が生まれてからも、同居している史絵の母に
子供の世話を頼んで、ずっと仕事は続けていた。
「彼は疲れちゃったみたいなの」史絵は泣きながら真理に離婚理由を告げた。その理由
は真理の胸をグサッと刺した。

「何言っているんだよ。真理らしくないよ。だったら真理も山梨に来いよ」
雄一郎は電話口でそう言った。無理に決まっている、そう思っていたが、思わずそんな
言葉が飛び出た。
「そうなの? 今の言葉は本心?」
真理の声は悲しそうだった。
「悪かった、無理な事を言って。分かっているよ。真理の中で仕事がどの位のウェイト
を占めているか」
真理の問いには答えなかった。「ズルイ男だ」心の中で雄一郎は自分
を責めた。
「総支配人就任はとても嬉しいと思っているのよ。でも、何もしてあげられないけれど、
頑張ってね……ごめんね」
「何かあったのか?」
梓と違う真理の反応が気になった。
「真理に何か気付かれたか?」その事を考えて不安になった。
「真理さんお疲れ気味かな?」
真理は史絵の事を話そうかと、一瞬迷ったが、今、その話をする気持ちにはなれなかっ
た。
「八ヶ岳のトップに立って忙しくなっても、私の事を助けてくれる?」
「総支配人になったからって、俺は俺だよ。変わらないよ」
「嬉しい事があったのに、心配かけてごめんね」
多分……雄一郎も真理の反応に淋しい思いを感じているだろう。
「史絵から離婚の話を聞いた事で、少し落ち込んでいるの」
そう言えば、雄一郎も理解してくれるだろう。仕事の事に関しては何でも話せるのに、
プライベートな事に関しては、どうして躊躇いがあって素直に話が出来ないのだろうか?
そんな自分が分からなかった。
「本当におめでとう! 本部や横浜に負けないでね」
雄一郎の出世は嬉しかったが真理は不安だった。電話の向こうに雄一郎が居るのに、ず
っと昔、母が亡くなって一人ぼっちになって淋しかった、そんな感覚が襲った。
「今度いつ帰って来る?」別居生活を送ってから久しく口にした事がない言葉が口につ
いた。
「週明けに帰るよ」雄一郎の言葉は優しかったが、真理は突然、誰かに甘えたくなった。
それは誰?と考えたけれど分からなかった……多分……電話の向こうにいる「今の雄一
郎」ではなく「昔の雄一郎」……何故、そんな事を思ったのか? それも真理には分か
らなかった。

 真理が感じた「不安」は何かの前兆だったのか?
日本の経済情勢は雄一郎の思惑通りに事を運ばせてはくれなかった。リーマンショック
後の不況は簡単には解決出来ず、その波が徐々に押し寄せて来た。雄一郎が総支配人に
就任してから、その年の上期のホテル売上は前年比を下回り業績は厳しくなった・・・・・・
レベニューマネージメント方式を取り入れつつあったが、デフレ経済の中で雄一郎の考
える運営方針は大きく揺さぶられていた。本部からの要求も更に厳しさを増した。それ
でも、雄一郎は供給過多のホテル業界にありながらも、近い内に訪れるであろう需給バ
ランスの回復を考えてじっと耐え、スタッフには総支配人である自分の考えを伝える機
会を増やし、スタッフの意思統一を図り、ホテルのサービス低下を防いでいた。
「自分がこのホテルのオーナーだったら、どんなに良かったか?」と思う事が多くなっ
た。しかし、雄一郎は「ロイヤルガーデンホテル」傘下の「ガーデンリゾートホテル」
の組織の中の一従業員でしか過ぎなかった。自分の考えが正しかったとしても、本部で
の会議で提案が却下される事が増え、苦境に立たされる事が多くなった。



 9月に入り、横浜はまだ残暑が続いていたが、八ヶ岳は秋の気配が漂っていた。
梓の家に行く途中、信号待ちをしていた時に雄一郎の携帯が鳴った。電話の相手は真理
だった。その時は電話には出ず、梓の家の近くに到着しいつもの場所に車を納め、エン
ジンを切った雄一郎は真理に電話をかけた。
「Pronto(プロント……もしもし)」
声のトーンを落として真理は応えた。「もしもし」とか「Hello(ハロー)」とい
う言葉より、今の真理の複雑な心境には、イタリア語のその言葉がピッタリあっていた。
「どうした?」という雄一郎に「待って」と、真理は携帯を持つ手を変えた。雄一郎が
総支配人に就任の内示を受け、その連絡をもらった時、少し落ち込み気味だった自分の
様子を思い出し、高揚した感情を抑えた。
「サプライズよ。だから電話したの」
真理はなかなかハッキリ言わないが、抑えていても電話越しにウキウキ感は伝わった。
「サプライズって何だよ」
雄一郎が急かした。
「川村真理さんね、ゲストサービス部の支配人だって……今日ね、内示を受けたの」
「Manma mia!(マンマミーア……何てことだ!)Congratulaz
ioni!(コングラチュラツィオーネ!……おめでとう!)」と驚いた様子で雄一
郎がイタリア語で答えた。
「Grazie(グラーツェ……ありがとう)」
「凄いな! やったな、おめでとう!」改めて雄一郎が日本語で応えた。
「おめでとう? なのかな。何か怖いの。いいのかなって……」
真理の声の調子が変わった。
「不安なのか?」
「私は不安だらけよ。でも、嬉しいけれど」
真理の声は上ずっていた。
「俺の記憶じゃ、ロイヤルガーデン初の女性支配人……だよな。」
「そう……それに最年少だって。」
「村上には伝えたのか?」
「ううん、まだよ。だって、一番先に八ヶ岳ガーデンリゾートの総支配人さんに伝えた
かったの」
雄一郎は胸が痛んだ。自分は総支配人の内示を受けた時に、真っ先に梓に報告した。
「ねえ? 川村真理を助けてくれる? 新人研修の時のあなたの教えを頭に入れて仕事
をして来たの。そして部下を信頼し、大切にしているあなたを手本に仕事をして来たの
。」
「今、何処にいる?」
真理の言葉は嬉しかったが、梓の家に向う途中でこの電話をしている、という事で後ろ
めたくなった。その気持ちを隠すように雄一郎は話を変えた。
「第二合同庁舎のバス停。桜木町駅から一停留所歩いちゃった」
「これからマンションに帰るのか?」
「うん、帰りにワインを買って帰ろうかな、って。一人でじっくり喜びを噛みしめてみ
る」
「真理だったら大丈夫だよ、俺が保障する。真理には俺がいるっていう事を忘れるなよ。
それから、飲みすぎるなよ」
「飲みすぎるなよ、は約束出来ないかもしれない。あっ、バスが来たから切るね。じゃ
あね」
あの辛い出来事から約1年9ヶ月、立ち直って支配人に大抜擢された真理は立派だった。
真理が言うように、自分の教えをいつも頭に入れているのだろう。そして部下達にも信
頼され、慕われているのだろう。
……それなのに、自分は……真理を裏切っている……これから自分がするであろう事を
考えると雄一郎は恥ずかしくなった。雄一郎は梓の家には行かず、エンジンをかけて自
分のマンションに戻った。マンションの自室に入ると同時に、梓専用の携帯が鳴った。
「今日は来れるの?」
「悪い。まだ仕事が終わらなくて、だから今日は行けそうも無い」
梓にウソをついた。
「無理しないでね」
ガッカリした様子の梓は電話を切った。
「今だったら、まだ引き返せる」
雄一郎の頭をそんな考えが過ぎった。しかし、雄一郎は梓と別れる事が出来なかった。

 ……そして、運命の日が近づいてきた……

 11月末発売の「東洋ビジネス」という経済誌主催の「ベストウーマン」という、そ
の年に「輝いた働く女性ベスト10」に真理は選ばれた。雄一郎は真理から送られた雑
誌の記事に載せられている、自分への真理のコメントを読んだ時に「いい加減に、引き
返せ」と今度は真剣にその事を考えた。しかし、梓からメールが届いたり、電話が来る
と感情に流されてしまい、自然に足は梓の家に向っていた。



(2010年 冬)
 年が明け、2月に入って八ヶ岳地方は連日雪が降り寒い日が続いていた。梓は年末で
ホテルを退職していた。
「仕事に関してはあなたから卒業して、自分で歩む事を考えるの」
退職理由を梓はそう告げた。
 いつものように周りを気にしながら、誰も居ないのを確かめて雄一郎は合鍵を使って
梓の部屋に入った。すき焼きの良い匂いが漂っていて、雄一郎は思わず顔をほころばせ
た。
「お帰りなさい」とキッチンから出て来た梓は絣の着物を着ていた。そんな梓に新鮮な
魅力を感じて、雄一郎は思わず梓を抱きしめた。梓は雄一郎の手を引き、暖かい居間で
コートと背広を脱がせた。新年度の予算組みで忙しく、連日連夜の残業で疲れていた雄
一郎は「豪華だな」とネクタイを緩めながら、炬燵の上に用意されている、すき焼き用
の霜降り肉を見てご機嫌になった。梓も炬燵に入って「どうぞ」と熱燗を雄一郎に勧め
た。梓にも熱燗を勧めたが「私はいいの」と断わり、鍋から肉を雄一郎の器に取り分け
た。極上のすき焼き肉を口に入れ、雄一郎は益々ご機嫌になった。熱燗をグッと飲んで、
煙草に火を点けようとした時「煙草はダメよ」梓が雄一郎から煙草を取り上げた。
「何だよ。熱燗と煙草はセットなんだから」
不満そうに雄一郎は言ったが、「ダメ」とライターも取り上げ、座りなおして正座をした。
改まった梓の様子に「何だろう?」と思ったが、すき焼きを夢中で食べ、胃に沁みわたる
熱燗を味わった。暖かで静かな部屋は居心地が良かった
「あのね、お目出度ですって……」
梓が思わぬ事を告げた。
「何? お目出度……って……」
雄一郎の顔色が変わった。
「お目出度」という言葉が妙に生々しく、頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じた。時が
止まったような気がして、頭が真っ白になった。
梓は複雑な表情でじっと雄一郎を見つめていた。
「ごめんなさい……」
そう言って梓は涙を浮かべ「私の不注意。でも、いいのよ。始末しても」と俯いた。
「ちょっ、ちょっと、待てよ。突然の話で……」真理から妊娠を告げられた時の事を思い
出した。真理の時は心から喜べたが、今は事情が違う。雄一郎は頭を抱えた。
 
無言の二人の間で時間だけが空しく過ぎて行った。すきやき鍋がグツグツと音をたてて
いて中の肉や野菜はすっかり煮詰まってしまっていた。それに気がついた梓がカセット
コンロの火を消した。鍋の煮える音が消えて、テレビもついていない部屋には、時計の
針が時を刻む音だけが響いた。
「いつだ?」
雄一郎が口を開いた。
「そろそろ三ヶ月目に入る頃」
梓が恐る恐る小さな声で答えた。
「だから、いつ生まれるんだ?」
イライラした様子で雄一郎がもう一度尋ねた。
「10月半ば」
更に声を小さくした。
「本当にごめんなさい……迷惑かけて……だから、いいの。始めから無理って分かって
いるのだから。私は覚悟出来ているのよ。ハッキリと言ってくれても大丈夫」
悲しげな表情の梓が雄一郎を見つめた。
「子供をダメにすると言うのか?」
雄一郎は辛かった。
「だって、それしかないでしょう? 可哀相だけど、それが一番良い方法だとしたら」
「俺の子供だ。そうだろう?」
しぼり出すように雄一郎は言った。
「だけど……」梓はまた下を向いた。
さっき感じた居心地の良さは何処かに吹き飛び、身体の芯に薄ら寒さを感じた。
「ちょっと時間をくれないか? 一人で考えたいから今日はこれで帰る」
「……」
梓は黙って俯いていた。
おもむろに立ち上がり、背広を着てコートを手に取って、雄一郎は梓の部屋を後にした。
部屋を出る時、悲しげな梓の様子を見て心配になったが、頭からその姿を追い払い、意
を決して梓の家を後にした。外は雪がしんしんと降り、顔に雪が降りかかったが寒さは
感じなかった。
「遂にこんな結果になってしまったか……だが、引き返そう、と考えた時に決断をしな
かった俺が悪い。決着をつける時が来たんだ」
理性を失くして本能の赴くまま梓と関係を持ったが、想定外の事態になった時に理性が
働いた。
 


 2月の終わりに横浜に帰った。真理と会うのは辛かったが、雄一郎には最終決断をす
る前に真理と会う必要があった。真理と会って自分の気持ちを確かめ、それを封じ込め
る。
 雄一郎は単休で、横浜に帰る日の翌日は午後から仕事だった真理とは、顔を合わせる
時間が少ない事を考えてホッとした。
 仕事が終わって八ヶ岳を出発した雄一郎は運転には気を配っていたが、いつの間にか
八王子ICを通り過ぎ、気がついた時はサントリー武蔵野ビール工場付近にさしかかっ
ていた。
 横浜―山梨間では、雄一郎は保土ヶ谷バイパス経由?中央自動車道八王子IC?小淵
沢ICルートを利用するが、真理はユーミンの「中央フリーウェイ」の歌詞通りの中央
道が好きで、新山下IC?首都高湾岸線?新宿経由中央自動車道ルートを利用していた。
「真理が引き寄せたのか?」
突然、新人研修の時の生意気な真理が頭の中に現れた。そして、寿町のドヤ街で必死に
何かを探していた真理の姿、突然のプロポーズの時の驚いた顔、真理との新婚生活、別
居を始めた頃「切らないで」と一晩中電話を繋ぎっぱなしにして真理が自分に甘えた事、
子供が出来て少女のようにはしゃいでいた事、子供を失って、悲しみに打ちひしがれな
がらも立ち直った事、様々な「真理」が雄一郎の頭に蘇ってきた。

「自分の気持ちを封じ込めて、長い間連れ添った真理を棄てて、梓と一緒になり子供を
育てて行く。という自分の考えは正しいのだろうか?」
「梓だって『子供は諦める』と言っているのだから、その方法だってある。子供には可
哀相な思いをさせるが、それが一番良い方法ではないのか?」
「別れた真理に対して一生十字架を背負う、そんな親に育てられて子供は幸せだろうか?」
「誠実面しても自分の決断には無理があり、いつかもっと悲しい事になるのではないか?」
「自分の不始末に真理を巻き込むのはよせ! 相手の女だって承知して納得しているのだ
から、その方法を取れ。そして、女と手を切れよ。目を覚ませ!」
村上だったらそう言うだろう。

「雄真と理子は病気だから仕方なかった。だが、梓との間に生まれる自分の子供を自分
の手で葬り去る事は出来ない。俺が取る道は唯一つ。梓と一緒にその子供をりっぱに育
て上げる。」
この事が悩みに悩んで出した結論だった。
 
 10時過ぎに横浜に着いた。何も知らない真理はいつもと変わらず嬉しそうに雄一郎
を迎えた。
「たまには、DVDを観ない?」真理に言われて「助かった」と雄一郎は思った。真理
の選んだDVDは、結婚式を間近に控えた娘が母親の日記を見て、父親探しを始めると
いうミュージカルの「マンマ・ミーア」だった。挿入歌の歌詞の内容がきつかったが、
真理と普通に会話をするのはもっときつかった。DVDを雄一郎は全く観ていなかった。
隣の真理を感じながら、自分が決断した事を考えていた。

 ピアース・ブロスナンが「S.O.S」を唄っていた。
「何かビミョー。一生懸命に歌っているけれど、ピアース・ブロスナンの歌を聞くのは
少し恥ずかしい気分。吹き替えをすればよかったのに」
DVDを見ながら真理は足で音頭をとって笑って言った。

「幸せな日々はどこに行ってしまったの
SOS
あなたがくれた愛、私を救えるのはそれ以外にないの
SOS
あなたがいないと
頑張って どうやって生き続ければいいの」

真理が歌っているような気がした雄一郎は辛くなり、トイレに行くふりをして洗面所の
鏡に自分を写した。
「俺は自分が決断する事を肯定させるため、自己満足のために真理に会いに来たのか? 
その事がどんなに真理にとっては残酷な事なのか、分かっているのか? 俺はいつの間
に、こんな残酷な男になったのだろうか?」
鏡に写る自分に問いかけた。

 翌日の昼、ホテルまで真理を送り「行って来ます」と元気に車から降りる真理に「悪
い」と小さく声をかけた。その言葉が聞こえたのか聞こえなかったのかは分からない。
真理は小首を傾げて「何?」というような表情をしたが、笑顔で手を振りホテルの従業
員通用口に消えて行った。雄一郎は真理が消えた従業員用の通用口をじっと見つめてい
た。車の中には真理がつけた香水の香りがわずかに残っていた。そして、横浜のマンシ
ョンには寄らず、そのまま山梨に向った。
 
 二日後に梓に「真理とは別れて、梓と生まれて来る子供と生活をする事に決めた」と
伝えた。その時に梓は涙を流したが、自分を見つめる梓の潤んだ瞳の中に怪しい光を見
つけて、雄一郎は一瞬何とも言えない不安感を覚えた。
 
 そして、三月初めに真理に別れ話を告げた。
マンションを出て、桜木町のホテルで真理からの無言の電話を受けた時「真理を愛して
いる」とハッキリと再認識していた。
「もう決意した事だ。生まれて来る子供には父親は必要だ。だが、真理は……時間が経
てば……こんな酷い俺を必要とせずに生きて行く事が出来る日が来るだろう」
真理への気持ちは封じ込めるしかなかった。
梓から「奥さんと話をしたら電話してね」と言われていたが、電話をする気にはなれな
かった。
「梓の事は愛しているが……真理をもっと愛している……ダメだ! もういい加
減にしろ! 子供だ。子供の事を一番に考えろ!」
そう自分に言い聞かせた。

 村上には電話で報告を済ませた。最後に「真理の相談相手になってやってくれ」と言
った後「地獄に堕ちろ!」と一方的に電話を切られた。
「お前にそう言われて当然だが、俺はまだ地獄に堕ちるわけには行かないんだよ。生ま
れて来る子供をりっぱに育て上げるという仕事が残っている。俺が地獄に堕ちるのは、
子供が一人前になった後だ」
電話に向って雄一郎は呟いた。

第六章


 桜の花もすっかり散り、四月半ばも過ぎた日だった。
真理がゲストリレーション部支配人の職に就いて半年が経っていた。部署の責任者とし
て真理は多忙な日々を送っていたが「現場も経験する必要がある」という考えで、可能
な範囲で、フロントロビーのコンセルジュデスクやプレミアムクラブフロアのコンセル
ジュデスクのシフトに自分を組み込ませていた。

「あの、すみません」
少しおどおどした様子で、一人の女性がフロントロビーの一角にあるコンセルジュデス
クを訪れた。その女性は、ゆったりとしたシルエットの、黒地に白い花の模様のシフォ
ン地のワンピースを着て、黒のカーディガンを羽織っているが、何となく垢抜けなくて、
横浜ロイヤルガーデンホテルには似つかわしくはなかった。
「いらっしゃいませ」
笑顔で迎えた真理に、ほんの僅かだったが一瞬「嫌な感覚」が身体を駆け巡った。

 真理は前日に「翌日の到着者リスト」に目を通し、当日の朝「本日の到着者リスト」
でマークが必要な客をピックアップして、ミーティングでスタッフに指示を与える。
そして現場のシフトに入る前には必ず「到着済顧客リスト」を確認するが、その中に
「C/I 14:30 LP(レディースプラン)菅原梓 1名、1泊 山梨県北杜市
……」のリストを見て少し胸がチクッと痛んだ事を思い出し、目の前の女性がその客で
はないのか? そんな事を考えた。
「菅原様ですね。ようこそいらっしゃいました。どうぞ、おかけになってください」
間違っていたら失礼になるので、勘で名前を呼ぶ事は出来ない。その事の怖さは重々承
知していたが、勘だけで名前を出してしまった自分に少し驚いた。
 真理に促されて、女性はお腹をかばうような仕草をして椅子に腰をおろした。
「そうです。今日、こちらのホテルにお世話になります菅原と申します。教えて頂きた
い事があって……」
名前を呼ばれた事が嬉しかったのか、真理の笑顔に菅原梓も笑顔を返した。
真理もまた笑顔を向けたが、手はパソコンのキーボードをたたき、今度は宿泊ゲスト照
会画面を開いて、再度菅原梓という女性の詳細を確認した。
「この辺に可愛いベビー服を売っているお店があったら教えて頂きたいのです」
菅原梓はじっと真理を見つめた。
 真理は梓の強い視線と「ベビー服」という言葉に戸惑った。真理より年上に見える梓
は、垢抜けなくて地味な雰囲気だが、笑うと出来るエクボがチャーミングだった。
「子供服のお店ですか? そうですね、横浜駅前にある二つのデパートは、子供服が充
実しているという評判ですよ。その他には元町やランドマークタワーの中にも子供服を
扱っているお店があるようです」
真理は敢えて「子供服」という表現をした。一時は平気になっていたが、雄一郎と別れ
てから「ベビー」という言葉には敏感になっていたせいかもしれない。
「このホテルからですと、何処が便利ですか?」
質問をしながら梓はじっと真理を見つめた。真理は自分が目の前の女性に観察されてい
るようで窮屈な気分になった。
「ランドマークタワーだと歩いて行く事が出来ます。ゆっくり歩いても10分はかから
ないと思います。デパートは横浜駅前なのでホテルからシャトルが出ています。西口と
東口に分かれていますが、デパートに行かれるのが宜しいかと思います。こちらがシャ
トルバスの時刻表になりますのでご覧ください」
「そうですか、シャトルバスがあるのでしたらお奨め頂いたデパートに行ってみようか
しら。私が住んでいる所は田舎なのでお店がなくて、今日はベビーの買い物を楽しみに
横浜まで来ました」
買い物目的にしては下調べをしていない事に疑問を感じたが「田舎の人は呑気なのかも」
と思いながら「いつ頃ご出産ですか?」と尋ねた。
「秋の予定です」
梓は誇らしげに言い、お腹に手をあてた。また真理の身体に嫌な感覚が駆け巡った。
それは「子供が産めなくなった自分」を悲しむという感覚ではなく、身体の芯を襲う嫌
な感覚だった。
「今日はお一人で山梨からいらっしゃったのですか?」
画面で確認済みだったが、会話を繋げるために敢えて尋ねた。
「ええ、一人です。主人はホテルの仕事をしているので会社が休めなくて。でもたまに
は一人も気楽です」
梓は嬉しそうに答えた。
「川村真理さんとおっしゃるのですか?」
梓は真理のネームプレートをじっと見つめていた。
「綺麗なお名前ですね。ご結婚はされていらっしゃるの?」
真理を見つめる梓の視線は真理の内面を射抜くように鋭かった。何故、個人的な事の質
問をするのか?と真理は不躾な梓に対してどう答えようかと躊躇した。
「ごめんなさい。失礼でしたよね。余りにも素敵な方だったので、ご主人がいらっしゃ
ったらどんな方かな? って考えてしまったものですから」
褒められて悪い気はしないが、目の前の梓に言われるのは何となく嫌な気分だった。
「ありがとうございます。今日のご夕食のご予定はお決まりですか?」
真理は感情を隠しながら軽く頭を下げ、そして話題を変えた。
「まだ、何も決めていないのですよ。せっかく横浜に来たから中華街にでも行ってみよ
うとも思うし、ホテルのレストランもいいかな? なんて。何処かお奨めはありますか
?」
「2階にあるイタリアンレストランのパスタメニューはお奨めです。でも、中華街は楽
しいので私の個人的な好みでは、中華街を散策しながらのご夕食をお奨めいたします。
ホテルからは送迎バスが出ていないので、市営バスか地下鉄をご利用して頂くようにな
ります。でも、赤レンガ倉庫まで行くと、ベロタクシーと言う三輪自転車のタクシーを
つかまえる事も出来ますよ。夜は少し冷えますけれどお身体は大丈夫ですか?」
「そろそろ安定期にさしかかる時期ですから大丈夫ですよ。せっかくだから川村さんの
お奨めなので、そのベロタクシーに乗って中華街に行ってみようかしら」
笑いながら真理を見る梓の視線は、やはり何かを試しながら観察しているかのようで、
見つめられると苦しくなってくるようだった。
「そうだわ」
そう言って梓はバッグの中からガイドブックを取り出した。梓はガイドブックと一緒に
携帯も取り出しデスクの上に置いた。携帯には「YK」というイニシャルが入った、キ
ラキラ輝く小さなプレートタイプのストラップが付いていた。チラッとそのプレートを
見た真理は動揺した。
「もしかしたら……」それは「女の勘」以外の何物でもなかった。しかし、その「女の
勘」は辛かった。
「このガイドブックの中のお店では何処が美味しいですか?」
真理の心の動揺を知ってか知らずか、梓は真理の前にガイドブックを広げた。だが梓は
携帯電話も真理の方に押し出した。それは「『YK』のイニシャルがあるストラップを
見て!」とでも言いたいようで梓のその動作はわざとらしかった。
 その時、外国人のカップルがコンセルジュを訪れた。カップルは先客の梓に遠慮して
帰りかけたが、梓が「どうぞ」と言って外国人カップルに席を譲るように立ち上がった。
「良かった」
梓ともうこれ以上話をしたくはないと感じた真理はホッとした。しかし、梓は席は立っ
たが帰る気配はなく、横にあるクラシックなソファーに腰をかけガイドブックを見なが
ら、カップルと真理の会話を聞きながらカップルの用が済むのを待っていた。
「英語がお上手ですね」
カップルが帰るのと同時にまた梓がコンセルジュの椅子に腰を下ろし、携帯電話もデス
クの上に置いた。
「仕事柄必要な事なのですが、私の英語力はまだまだ不十分です。時々お客様にご理解
を頂けない事もあって、ご迷惑をおかけしたりしてしまいます」
イライラしていたが、真理は謙遜気味に丁寧に答えた。
「早く帰ってくれればいいのに」
心の中でそう願った。
「このお店はどうですか?」
梓がガイドブックを見せながら、有名な中華料理店を指差した。その店は「高いだけで
美味しくない」と評判の高級中華料理店であったが、真理はもうどうでもよくなってい
た。後でホテルに「コンセルジュで奨められたお店は不味かった」とクレームをつけら
れても構わなかった。
 いつもの真理は嫌な客に対しては、自分の感情を抑えて丁寧に対応する事を心がけて
いた。特に丁寧な対応を心がける事で、嫌だと感じていた客がそうではなくなり、相手
も態度を変える。そういう事があったが、「どうでもいい」そう思わせるものが目の前
の梓の内面から滲み出ていた。
「こちらのお店は雰囲気も良いですし、小皿料理もあったりしますから、お一人でも充
分にお食事をお楽しみ頂けますよ」
心とは裏腹に満面の笑みで丁寧に真理は案内をした。
「ここに決めようかしら。お忙しいのにいろいろありがとうございました」
ガイドブッ
クをバッグにしまいながら「明日はいらっしゃいますか?」梓はまた尋ねてきた。
「明日も勤務ですので、菅原様がお帰りの時にご挨拶をさせて頂きます。今日は横浜を
ご堪能されてくださいね」
その言葉に満足した様子の梓はやっと帰って行った。
 真理は笑顔で梓を見送ったが、小一時間程して、またロビーに梓が降りてきた。真理
はデスクから離れ、フロントロビーのメインエントランスでドア・パーソンの三浦雅也
と見送った。
 梓が去って「支配人のお知り合いの方ですか?」三浦雅也が尋ねた。
「コンセルジュで初めてお会いしたのよ。でも、どうして?」
「チェックインに見えた時、川村真理さんは何処にいますか? と僕は聞かれましたよ。
だから、15時からコンセルジュデスクに入ります。と答えたんですけど」
真理は「分かりません」という風にギブアップの仕草で両手を上げてデスクに戻った。
「やっぱりそうだ。菅原梓が雄一郎の相手に間違いない」
真理は「雄一郎の相手」は若い女性だと思っていたが、自分と近い年齢だという事に驚
き、その事でショックを受けた。そして、梓がホテルに何の目的で来たのかも理解出来
た。
「幸せな現実を見せつけるために現れた……嫌な女だ」
真理は、自分の聖域のような大事な職場で「雄一郎と梓との現実」を見せられた事にも
ショックを受けていた。しかし、それより何より「妊娠」という事実を見せつけられた
事が辛かった。
「子供を諦めた私を、彼は否定した。彼女だけが嫌な女ではない。彼だって嫌な男だ」
そう思うと悔しくて悲しかった。ストレスレベルが最高値に達していて無性に煙草が
吸いたくなった。しかし、煙草を吸う場所もなかったし、デスクを外す事は出来なかっ
た。真理は見たくなかった現実を見てしまった事で、イライラが高じて涙が溢れそうに
なった。涙を堪えていた時「支配人、具合でも悪いのですか?」客を案内し終えたベル
・パーソンの内藤浩明に声をかけられた。部下の内藤に優しく声をかけられ、急に緊張
感が抜け落ちて崩れそうになったが、グッと我慢をして「そうじゃないの。煙草の禁断
症状が出てみたい。困っちゃう」と作り笑いをして答えた。「判りますけれど、じっと
我慢ですよ。」笑って答え、配置場所に内藤は戻って行った。天井を仰ぎ「負けちゃダ
メよ!」真理は自分自身にそう言いきかせた。

「彼女は一体何なのだろう?」
コンセルジュデスクでその事を考えた。「愛する人との間に子供が出来て、充分に幸せ
な筈ではないの? 夫に棄てられた不幸な私を見て、比較して自分の方が幸せ、と思っ
たって、満足する事にはならないのに……どうして?」
真理には理解が出来なかった。
「彼女は満足していないのかもしれない。それは私という存在があるから。そうだとし
たら、彼は不幸になる」
真理はそんな事も思った。
不幸になろうが、選んだのは雄一郎であって、真理はそんな事を案ずる必要はないが、
この期に及んでも、まだ雄一郎を思う自分の気持ちも分からなかった。そして、自分の
心の何処かに「彼は嫌な男ではない」と思いたい気持ちがある事にも気がついた。
「あの人は『他に好きな人が出来た』その事しか言わなかった。それは充分過ぎる位辛
い事だったが、その陰に隠れているもっと辛い事は言わなかった。いつか分かる事だと
しても、それはあの人の私に対する精一杯の思いやりだったのかもしれない」
何故か「雄一郎を悪く思いたくない」そういう気持ちになっていた。
「あの女のために自分が捨てられた」と思う事より「嫌な女を愛した雄一郎」が情けな
くちっぽけに思えてきて、その事で空しくなりまた泣きたくなった。

 コンセルジュデスクのシフトが終わって、事務所の自分のデスクに戻った時に、サー
ビスマーケティング部のブースに村上がいるのを見て、急に村上の声が聞きたくなり内
線電話をかけた。番号表示で真理と分かった村上は「俺だ」奥のブースで真理に手を振
りながら応えた。
「私よ私」
真理も笑ってそれに答えた。
「なんだ? 何かあったか?」
二人の会話はゲストサービス支配人とセールスマーケティング支配人の内線電話でのや
りとりではなかった。
「今日は何時に帰れそう?」
「仕事が一段落したから今日は定時で帰るつもりだが、定時の帰宅より楽しい事がある
のだったら俺は乗るよ」
「じゃあ、決まり。7時に湖林に来て」
真理は行きつけの中華料理店の名前を挙げた。
「湖林? 余り美味しい話じゃなさそうだな」
村上は不服そうだった。
「だったら平沼のブラジル亭にする?」
真理は村上の贔屓の店の名前を挙げた。
「どっちにしても俺の相手は真理だろう? 六角橋の漁火にしよう」
その店は村上が雄一郎と真理の結婚式の前日に喧嘩を起こした店で、その後村上の「隠
れ家」となった
居酒屋であった。
「六角橋? 遠いじゃない」
真理も不服そうに答えた。真理のマンションは本牧で村上の自宅は戸部にある。
「最後まで俺は真理の面倒を見るよ。」
「じゃあ、漁火で決まりね!」
真理は村上と約束を取り付けた事で、気分を仕事モードに切り替えた。



 真理が村上に教えられた六角橋にある「漁火」に到着した時には、すでに村上は生ビ
ールのジョッキを一杯飲み終えていた。二杯目のビールのジョッキを手に持ち「お疲れ」
と村上は上機嫌になった。「お疲れ様」真理も生ビールのジョッキを持ちあげた。
「何かあったのか?」
村上の表情は優しかった。
「その質問のご期待にそえる事があったのよ」
真理はビールをグッと飲んで答えた。
「今日ね、雄一郎さんの彼女に会ったの。その人ね、ロイヤルガーデンホテルに泊まっ
ているのよ。今日の午後コンセルジュに来て『横浜で可愛いベビー服を扱っているお店
があったら教えてください』そう言ってきたの。宿泊ゲスト照会を見たら、山梨の北杜
市の人だったの。一泊で一人でレディースプランで宿泊しているんだけど。806号室。
それでね、ご主人はホテル関係の仕事をしているから今日は一緒に来れなかったんだっ
て。そうよね、来れる筈ないもの。だってご主人って川村雄一郎なんだから」
真理は一気に喋った。
「何言ってるんだ?」
村上の質問には答えず真理は自分の話を続けた。
「不思議なの。ドア・パーソンの三浦君に『川村真理さんは何処にいますか?』って聞
いているの。その人ね、菅原梓という綺麗な人だったの。秋に赤ちゃんが生まれる。そ
う言っていた。その人が何をしにロイヤルガーデンに来たかって分かるでしょう?そう
いう事をしたくなるのが女の本能なのかもしれないけれど、私には理解出来ないし、私
だったらそんな事はしない。だけど……それは立場が変われば分からないけれどね。で
も、彼女の方が強い立場にいるのに。だって彼女の相手は十年以上連れ添った女房を捨
てたんだから……勝っているわけでしょう?……」
さっきとは違って今度は少しゆっくりとした話し方になった。
村上は立ち上がって「親父さんこれもらうよ」とカウンター内に入り、冷蔵庫から日本
酒を取り出した。
「まあ、落ち着いて飲めよ。だけどそんな一昔前のメロドラマみたいな事が実際に起き
るか?」
村上は半信半疑の様子で首を傾げた。
「だって起きたのよ。結婚していますか? だって。私が余りにも素敵だからご主人は
どんな人か? と思ったって。気味が悪くなったの」
その時の感覚を思い出し、真理は自分の肩を抱いた。
「一つの思い込みで、間違った判断をする事だってあるぞ」
「その人の携帯のストラップに『YK』というイニシャルのプレートが付いていたの。
『YK』って誰だと思う? 分かるでしょう?村上さんの親友よ」
「川村雄一郎か。俺の親友だけじゃないだろう。お前の亭主だ!」
村上は真理を見据えたが、真理はその視線に目を背けた。
「その人はね、多分私に見せたかったみたい。わざと私に見えるように携帯の位置をず
らしたりたの。私は動揺したの。見事にはまった……」
そこまで言って真理は声を詰らせた。
「だから何なんだよ。」
村上は強い口調で真理に尋ねた。
「何にはまったんだよ?」
更に強い口調で目の前にいる真理の腕を掴んだ。
「痛い!」
真理が悲鳴をあげて村上を睨んだ。
「いいぞ、その調子だ。鼻っ柱の強い真理に戻れ!」
村上が心の中で叫んだ。
「あんたの大事な川村雄一郎を奪ったのは私よ! ってその人は言いたかったみたい」
「何だそれは? そんな女の企みにお前ははまったのか?」
「はまるわけないじゃない! ……真理さんはそんなに弱くない……」
コンセルジュデスクでの緊張が激しかったせいか、それから解放され、村上を前にして
急に真理の目に涙が溢れた。そして「弱かった……」そう言って泣きながらも日本酒を
一気に飲み干した。
「バカだなあ……」
村上は何を話してよいのか分からなかった。本当はもっとスマートな事をしたかったが、
真理におしぼりを渡す事しか出来なかった。真理はそのおしぼりで涙を拭いた。
居酒屋のマスターが遠慮がちに料理を運んで来た。少しの間は真理も泣きながら黙って
日本酒を飲んでいたが、思いつめたような表情で話し始めた。
「嫉妬心は沸かなかった。『嫌な女』そう思ったの……それで、雄一郎さんが可哀相に
なったの。私に子供が出来た事を言わないのは、思いやりだと思うの。あの人は別れる
事になった本当の理由を隠そうとしているのに、自分が選んだ女がその気持ちを踏みに
じった」
「雄一郎が可哀相」というその部分の「真理の気持ち」を村上は理解出来なかった。
「川村がそういう女を選んだ」
自業自得だろう。愛情が深ければ深い分、自分を裏切った男に憎しみが沸き、恨み言も
言いたくなるのが常だが、真理は村上の前で一度も雄一郎の悪口を言った事はなかった。
「自分にも非がある」そんな事を考えてじっと耐えているのだろう。そんな真理が村上
は好きだったが、時にはイライラする事もあった。
「思いやり? どうして川村は、子供が出来た事を真理に隠す必要があるんだ? 紛れ
もない事実だったら、その事を伝えないと話は始まらないだろう。中途半端な理由でお
前は納得しているのか? 納得してないだろう? だったら、それを告げない事がどう
して思いやりなんだよ! 卑怯で小心者なだけだろう? 違うか?」
「それは違う……子供を無くした私の辛さが分かっているから。同じ痛みを味わってい
るから、だから……私への思いやりなのだと、そう思うの。」
「本当に思いやりのある男だったら、こういう結果になっていないだろう。いい加減目
を覚ませよ!」
「……いいの。私だけが思いやり、だと思っていれば……」
「俺には理解出来ない。川村も、その女の事も川村が可哀相というお前の気持ちも……」
「それは村上さんが幸せだからよ。こんな辛い気持ちを味わった事がないから……多分そ
うだと思う」
真理のその言葉に「俺が辛い思いをした事がない? ふざけるなよ!」と村上は真理の横
っ面を張り倒したい気持ちにかられた。
「真理、お前辛いんだろう? だったらその気持ちを川村にぶつけてみろよ。『あんたの
愛人が今日、大きなお腹を抱えて、ホテルに私の品定めに来ました』って言ってやれよ。
いいじゃないか、人間らしくて。それを言えないんだったら『俺が辛い思いをした事がな
い』なんて言うなよ。お前はいつもそうだ。お前だけではなくあいつも同じだ。『自分は
傷つきたくない』だからいつもいい子でいる。だから……だから……お前達は別れる事に
なったんだ!」
激情に駆られて言ってしまったが、最後の言葉に村上は後悔した。
「そうよね……私はいつもいい子でいたい……でも、それは傷つきたくないんじゃない。
一人ぼっちが怖いから……それは誰にも分からない……私みたいに早くに家族を亡くして
一人ぼっちになった人間にしか分からない。だから村上さんも嫌い! 誰もかれも嫌い!」
真理の目からまた大粒の涙がこぼれた。
「真理は川村も嫌いか?」
村上が優しく声をかけたが真理はただ泣いていた。
 村上が携帯電話を取り出して電話を掛け始めた。その相手は雄一郎だ、と真理は思った
が村上の成すがままにしておいた。
 
 雄一郎から離婚を切り出されてから約一ヵ月半。あの日以来雄一郎とは会ってはいな
いが、先月の終わりに真理は「あなたから突きつけられた事を、受け入れる事はまだ出
来ませんが、私達の結婚生活を元に戻す事は不可能だと考えています。『別れる』とい
う事には同意しますが『離婚』については、私の中で踏ん切りがつくまで時間をくださ
い」という短い手紙を雄一郎に送っていた。雄一郎からは「辛い思いをさせて本当に申
し訳ない。今後については真理の気が済むようにして欲しい」と返事が届いていた。少
しずつだが、自分の中にあの辛い現実を受け入れる事も出来るようになり、その事に関
して柔軟な気持ちにもなって来つつある時だった。

「川村か。俺だ。ちょっと待てよ」
村上はぶっきらぼうに言い、携帯電話を真理に手渡した。真理は携帯電話を受け取った
が、膝の上に置いてじっとその携帯電話を見つめていた……が、決心したように携帯電
話を取った。
「もしもし真理です。私は元気よ。村上さんったら飲むと電話魔になって……ごめんな
さい。まだ仕事?」
「うん、まだホテルだよ……」
二人の会話は続かなかった。
重い雰囲気に嫌気がさした真理は「まだ仕事中だって」と携帯電話を村上に渡した。
「仕事中に悪かったな。こっちは楽しくやってるから。お前も元気で仕事をしろよな。
じゃあ、また」
電話を切って村上はため息をついた。
「分かったでしょう? もうこんな事二度としないでね」
「悪かった。余計な事をして」
悪さをして叱られた子供のように村上は身体を縮めた。
「いいのよ。村上さんが心配してくれる気持ちはよく分かるから……弓恵さんは幸せだね
……せっかくだからもっと飲もうよ」
今度は真理が立ち上がり冷酒の瓶を二本抱えて戻って来た。
「本当は村上さんが大好きよ」
村上のグラスに日本酒を注ぎながら、真理は笑顔で言った。その言葉に村上は嬉しそうに
笑った。
「今日はどうするのか? 一人で大丈夫なのか?」
村上の言葉に真理の中にじわっと熱いものがこみ上げた。自分が一番愛し信頼していた
雄一郎は「真理は一人で生きていかれる」そう言って真理の元から去っていった。だが、
目の前の村上が、そしてあの時の渡辺雄次も、真理を一人にさせないように気づかって
くれている。
「一人になれない。って言ったら一晩中飲んで付き合ってくれる?」
妹が兄を慕うような気持ちで真理は尋ねた。
「真理がそうして欲しいのだったら俺は付き合うよ」
「じゃあ、そうして。って言いたいけれどダメ。明日、あの人がチェックアウトする
時に挨拶をするって約束しているの。二日酔いのみっともない姿は見せたくないから。
明日はバリッとカッコイイ真理さんを見せてあげるの」
本心は一緒にいて欲しかった。
「気持ちだけは頂いておくからね。ところで……いよいよ本部に引き抜きっていう噂が
あるけれど、本当?」
真理の顔が急に仕事モードに変わった。
事業本部長から内々でその事を打診された事は事実だった。
「そんな噂何処から聞いたんだよ? 確かに話はあるが、まだ本部はいいよ。俺は現場
にいたいからさ。お前も心配だし。それより俺はお前をセールスマーケティング部に戻
してくれって頼んでいるんだけどさ。会社は俺の言う事を聞いてくれない。会社はお前
を総支配人にでもするつもりなんだろう」
「エーッ!女総支配人なんて素敵! 夢見て頑張っちゃおうかなあ」
真理の顔が輝いた。
「二度目の東洋ビジネスに登場の時は『ロイヤルガーデンホテル初の女性総支配人』っ
てか?」
「私が総支配人で、村上さんは代表取締役社長というのはどう?」
「極上のラグジャリーホテルが出来そうだな」
それからの二人は仕事の話で盛り上がった。

「11時か。未来の総支配人さんは明日の事を考えて、お肌の手入れをする時間じゃな
いのか?」
その言葉を合図にお開きにする事になった。
「漁火」の肴は美味しかった。支払いを心配する真理に村上は「気にするなよ。俺はこ
の店に会計部屋を持っていてさ、売掛が出来る唯一人の上客」とホラを吹き、店のマス
ターには「出世払いで頼む」と頭を下げ、店で手配をしてくれたタクシーに二人は乗り
込んだ。
「辛い事がいっぱいあるけれど私は村上さんがいるからこうして気丈にしていられる。
ロイヤルガーデンホテルから離れられないのは村上さんがいるからかも」
真理はそんな事を考えた。村上の真理に対する気持ちは結婚する前から気がついていた。
「恋愛対象には考えられなかった。でもそれで正解。だからこうして良い関係でいられ
る」
タクシーの中で真理は村上の肩にもたれかかった。その時、また左胸にチクチクするよ
うな痛みが走った。最近、胸に「チクチク感」が襲ってくる事があり、階段の昇り降り
にも息が切れるようになっていた。
「ハードに飛ばしすぎたからかな? 若くないんだから気をつけなくちゃ」深刻には考
えていなかった真理は村上に気がつかれないように、右手でそっと胸をさすった。 



 翌日、十時前にチェックアウトを済ませた菅原梓が、ロビーで待機していた真理の元
を訪れた。
「おはようございます。中華街はいかがでしたか?」
真理は万全な体制と満面の笑みで梓を迎え、ロビーのソファーに案内した。
「川村さんのお陰で楽しく充実した夜を過ごせました。お食事も美味しかったし、満足
です」
モスグリーンのエスニック柄のギャザースカートに、ベージュのコットンセーター姿の
梓はソファーに腰を下ろす時、お腹をかばうような昨日と変わらない仕草をしたが、そ
の動作がやはりわざとらしく思われた。
「これからお買い物にいらっしゃるのですか? 横浜駅までのシャトルバスは十時半に
ホテルの玄関を出発します」
「はい、それに乗るつもりです。今日は夕方に新宿から電車に乗るつもりなのでそれま
では、横浜でのベビー服のショッピングを楽しませて頂きます。地下街に行列が出来る
ラーメン店があるから行ってみなさい。と昨日、主人からの電話で言われていたのでお
昼はそのお店に行こうかな、って思っています」
「第一弾が来たか……」と真理は思った。梓が話をしたラーメン店は博多ラーメン店
だろう。雄一郎も真理も横浜駅に行くと必ず寄る程のお気に入りのラーメン店であった。
「主人……が」と言うのは多分ウソだ。梓は雄一郎には横浜に行くという事は伝えてない。
昨日の雄一郎の様子からもそう感じた。
「やっぱり嫌な女だ」真理は改めて感じた。
「そのお店は私も大好きです。麺の茹で方も希望通りに聞いてくれますから。東口の地
下街に『ジュノン』という小さなカフェがありますが、そこのクリームブリュレはとて
も美味しいですよ。お時間があったら寄ってみてくださいね」
真理の笑顔は絶好調になった。
「横浜ってとても楽しくて素敵! 気に入りました。でも、主人は仕事が忙しくて……
今、リゾートホテルの総支配人の仕事をしていますが、満足したこのホテルでの事は主
人にしっかり伝えます。川村さんのご親切は忘れません。それだけではなく、いろいろ
ありがとうございました」
梓の表情は勝ち誇っていたが、その中にねたみが混じっていた。
「底意地が悪そうだけど魅力がある女性」と言うのが真理の偽わざる印象だった。
「お身体を大事にしてくださいね。機会がございましたらご主人とご一緒にお越しくだ
さい。お待ちしています。今回はご利用頂きありがとうございました」
真理は必要以上に丁寧に頭を下げ、笑顔だが心を込めずに挨拶した。
「主人?雄一郎と来れるものなら来てみろ!」その言葉を梓に投げつけたかった。
「自分を見失なっちゃだめだよ」雄次の声が聞こえた。
席を立つ時、またお腹をかばう仕草をして、キャリーバッグを押しながら梓はコンセル
ジュデスクから去っていった。でもその梓の姿はやはり何か不自然だった。何だか分か
らないが「わざとらしい嫌な女」真理は後姿の梓に向って心の中でつぶやいていたが、
顔だけは笑顔だった。



 雄一郎はいつもの目立たない場所に車を納めた。辺りに人がいないのを確かめてドア
を開けると、四月半ば過ぎというのに、冷たい夜気が車の中に流れ込んだ。車からコー
トを取り出し肩に羽織って雄一郎は梓の家に向った。真理と別れてから、こんなにもコ
ソコソと梓の家を訪ねる必要はなくなっていたが、長い間の習慣と、やはりまだ後ろめ
たさが残っていた。
 合鍵でドアを開けると、カレーの良い香りが漂ってきた。気配に梓がキッチンから飛
んで来ていきなり雄一郎に抱きついた。
「お帰りなさい」
梓は潤んだ眼で雄一郎を見上げ唇を求めてきた。雄一郎もそれに応えたが、その時チラッ
と真理の顔が頭に浮かんだ。
「一昨日、久しぶりに真理の声を聞いたからか……」慌てて真理の顔を頭から追い払った。
梓は雄一郎の手を引いて「ねえ、いいでしょう?」と甘え声を出した。会ってすぐに身体
の飢えを満たす。そういう事は今まで何回もあったが、今の雄一郎はそういう気分になれ
なかった。
「急がせるなよ。今日は仕事が忙しくて昼もろくに食べてないんだよ。まずは腹の飢え
を満たさせて欲しいな」
優しい言い方で梓を拒否したが「だって一週間も会ってないんだから……」梓は雄一郎に
抱きついて離さなかった。
「我慢をした後のご馳走の味はまた格別だよ」
意味ありげに雄一郎は言ったが、梓はそれでもしつこく迫った。今晩の梓は何か違ってい
た。少し鬱陶しくなった雄一郎はやっとの思いで梓から離れ、自分で冷蔵庫からビールを
取り出して炬燵に潜り込んだ。この辺はまだまだ寒い。梅雨が明ける頃まで炬燵を片付け
られない家もある。梓は少し不機嫌になり、横目で雄一郎を睨んだが諦めてカレーの仕上
げにかかった。
 ビールを一口飲んだ時、雄一郎は、サイドボードの上に置かれた梓のバッグから「見慣
れたマーク」がはみ出ているのを発見した。梓は雄一郎に背を向けてキッチンでサラダの
準備をしている。炬燵を出て、雄一郎はその「見慣れたマーク」がついている用紙を手に
取った。そして驚いた。それは横浜ロイヤルガーデンホテルのロゴが入った「BILL」
(会計書)であった。宿泊日は一昨日の日付になっていた。

「一昨日の村上からの電話はこれが原因だったのか」と気づき愕然とした。
「梓は真理の前に現れたのだろう。そして気づいた。梓の素性と妊娠している事を。そ
のショックを癒すために村上と飲んだ」
そういう事だったのか……なんて事を……
短い時間の間に一昨日に起きたであろう事が頭に浮かんできた。

「俺は梓に真理に関する詳しい事は話していない。梓は何処で真理の事を知ったのだろ
うか?」
雄一郎はBILLをコタツの上に置き、またビールを飲んだ。
「お待ちどうさま」
支度を終えた梓が炬燵の上にカレーとサラダを並べて、自分も炬燵に入った。
「何だこれは?」
BILLを梓に差し出しながら険しい表情で雄一郎は尋ねた。
「アッ、見つかっちゃった。言わなくてごめんなさい。急にベビーの買い物に行きたく
なって。甲府まで行くより思い切って遠くに行ってみたくなったの。インターネットで
検索したら横浜ロイヤルガーデンホテルのレディースプランを見つけたの。あなたの系
列のホテルでしょう? だから一人で出かけたの。本当に一人で、よ。アッ違う、一人
じゃなかった。でも、心配しなくても大丈夫、無理しなかったのよ」
梓は肩をすくめて
「怒ってる? 言わなくてごめんね。」とまた謝った。
……梓の身体を心配して怒っているのではない。真理の事を心配している……梓の言い
訳を聞いて、雄一郎はハッとした。だから「そうだよ、梓の身体を心配しているんだよ」
その事を言う気持ちにはなれなかった。
「それだけじゃないだろう?」
「それだけじゃないって、どういう事?買い物だけじゃなくて、中華街にも行ったけれ
ど」
「何かをしたよな? ホテルで誰かと会ったよな?」
雄一郎の表情が更に険しくなった。
「そんなに怖い顔をしないで……」
梓は下を向きながらも、甘えるように上目使いに雄一郎を見た。叱られた子供のように
しゅんとしている梓の様子に腹が立った。
「言えよ!」
「この間、あなたのマンションを掃除に行った時に、ビジネス雑誌を見つけたの。ビジ
ネスウーマンベストテンである人を見つけて……川村真理ってあなたの奥さんでしょ
う? 素敵な人なのね。だから……会ってみたくなったの……それだけ……」
梓は最後は消えるような小さな声になった。
「会っただけじゃないだろう? 何かをしただろう?」
雄一郎は梓の腕を掴んだ。
「私は客としてコンセルジュデスクにいた奥さんと会っただけよ。彼女はりっぱなホテ
ルウーマンでその役目をきちんと果たした」
梓は笑顔で答えた。平静さを装っている梓に無性に腹が立った雄一郎は、立ち上がって
冷蔵庫からまたビールを取り出しグラスに注いで一気に飲み干し「灰皿!」と梓に命令
をした。
「煙草は赤ちゃんに良くないからダメって」
梓の言葉を無視して雄一郎は煙草を吸い始めた。
「困った人」梓は笑いながら「よいしょ」と大儀そうに立ち上がり灰皿を取りに行った。
 
 雄一郎は真理からの手紙を思い出した。辛い現実を受け止め、少しずつ冷静に考えら
れるようになっている様子に「申し訳ない」と思いながらも、早く元気になって欲しい
と願っていた。

「何て事をしたんだ……なんでそんな事をしたんだ?」
苦悩の表情の雄一郎を見て、雄一郎と真理が電話で話をした事を知らない梓は急に不安
な気持ちになった。
「なんで、って。ちょっとした興味本位よ。女ってそんな所があるの」
不安な気持ちを打ち消すように梓はまた甘え口調で答え、灰皿を炬燵の上に置いて、雄
一郎の背中に寄りかかった。雄一郎は背中に梓の重みを感じながら、黙ってビールを飲
み煙草を吸った。
「カレーが冷めちゃう……」
梓は雄一郎から離れカレーを食べ始めた。
「今日のカレーは自信作なのよ。チキンをヨーグルトに漬けこんだりして。冷めちゃう
から食べて。お腹が空いているんでしょう?」
梓はスプーンでカレーをすくい、雄一郎の口元に運んだ。雄一郎はそれを嫌って、避け
るようにビールを飲んだ。
「仕方ないわね」と首をすくめて梓はすくったカレーを自分の口に運んだ。
「もう怒るのはやめてね。ホテルに行った事は謝るから、それで許してね」
「俺は真理に梓の素性は話していない。何故だか分かるか? 梓と生まれてくる子供が
大事で、これから二人を守っていこうと思っているからだよ。だからこんな軽率な事を
して欲しくはなかった」
雄一郎のその言葉を聞いて梓の顔つきが変わった。
「それだけではないでしょう?」
梓はさっきの雄一郎と同じ言葉を投げかけた。
「どういう事だ?」
正体は分からないが「梓の中に潜んでいるもの」に対して猛烈に腹が立った。
「あなたは奥さんの事だって大事なんでしょう?」
「そうだよ。真理だって大事だ。だけど、俺は梓を選んだ。それで充分だろう? 幸せ
だろう?」
最後の二言はひどい言い方だと思ったが、梓に対して優しくなれない自分がいた。

 その時、梓の中でプツンと糸が切れた。

「その言い方って何? 充分だろう? 幸せだろう? って、あなたの本心は違うのに
無理して言っているみたい。そんなのイヤ! 奥さんを大事になんて思わないで!  
私はずっと奥さんの影に怯えていたのよ。あなたが私を選んでくれて嬉しいけれど、で
もあなたが奥さんを大事に思っているって、私はこれからもずっと奥さんの影に怯えて
生きていかなくてはならないのよ。そんなの絶対にイヤ!」
梓は喚いた。
「しっかりしろよ。梓らしくないよ」
取り乱した梓を見るのは初めての雄一郎は戸惑った。
「梓が辛いのは分かる。だけどよく考えろよ。俺たちが幸せになるために、不幸になっ
ている人間がいる。それは真理だから、その真理を大事に思わなくてはいけないと俺は
思っている。その気持ちは真理への償いなんだよ。分かるだろう?」
「真理、真理、真理って……もう、いい加減にして! そんなのイヤよ! あなたが私
と付き合う事になったのだって、奥さんにも原因があるのでしょう? 違うの? 私達
だけが罪を背負うなんて不公平!」
「逃げるわけには行かないんだよ」
「奥さんに、子供が出来る事だって言っていないんでしょう?」
「そうだよ。言っていないよ」
「どうして言わないの? 言わないのではなくて、言えないの?」
「そこまで言う必要がないからだ!」
「違うのよね。本心は、子供は可愛くても私と一緒に生活して行く事には納得していな
いのよね。そうでしょう?」
「いい加減にしろよ! これ以上言うと、俺は本気で怒るぞ!」
「怒ればいいじゃない!」
憎々しげな顔をして梓は雄一郎を睨みつけた。
「何を言っても、俺の気持ちは梓には理解してもらえないだろう」
そう思った雄一郎が、梓から顔を背けてビールグラスを取って飲もうとした時「弱虫!
偽善者!」そう言って梓は雄一郎の横っ面を思いっきりひっぱたいた。
雄一郎が手に持っていたビールグラスが弾き飛ばされ、カーペットの上にビールのシミ
が広がった。
「落ち着けよ!」
雄一郎は梓の両腕を掴んで興奮を静めようとした。梓は全身の力を振り絞って雄一郎か
ら逃れたが、ぶつかるようにまた雄一郎に身体を預けてきた。その勢いで雄一郎はビー
ルのシミの上に押し倒された。ツーンとビールの臭いが鼻をつき、髪の毛がビールまみ
れになった。興奮気味の梓が雄一郎を求めてきた。

 その時、雄一郎の中で何かが弾けた。
ずいぶん前、梓を前にして雄一郎の中で何かが弾けた事があった。あの時の「弾け」は
甘く切なかったが、今の「弾け」には底なし沼に引きずられていく様な「怖さ」があっ
た。

 二人にそれぞれの事を一切話さなかったのは、二人の事が大事だと思っていたからだ
った。その事は二人に対する誠意だと雄一郎は考えていた。それに「子供が生まれる」
という事は真理には言うつもりはなかった。同じ痛みを味わったが、自分だけは「子供
が生まれる」という新たな喜びを得る事が出来た。だから、言わない事が真理への思い
やり、だと思っていた。「梓と一緒に子供を育てて行く」と言っている自分を信じて欲
しかったし、その梓には真理の前には現れて欲しくはなかった。真理は梓が仕事場に現
れた時、どんな思いをしたのだろう……恐らく辛かったのだろう。
「バカな事をしてくれた」起きた事を消す事はもう出来ないが、これがきっかけとなっ
て、何か恐ろしい事が起きるような気がして、雄一郎は怖くなった。

「今日は帰る」
思わぬ言葉が口をついた。梓は何も答えず激しく雄一郎にしがみついて来た。少しの間
雄一郎は梓のされるがままになっていたが、梓の執拗な求めをどうしても受け入れる事
が出来ず、無理やり梓を引き離した。帰り支度をしている雄一郎を見つめる梓の目は、
何かに憑かれたようにギラギラしていた。そんな梓を一人にしておくのが不安でもあっ
たし、ビールをかなり飲んでいたので、飲酒運転が気になったが とにかく今はこの場
から逃げ出して一人になりたかった。
「ホテルのBILLを見なければこんな事にはならなかった。見てください、と言わん
ばかりにバッグからホテルのロゴをはみ出させていたのは一体何のためなのだろう?」
梓の気持ちが理解出来なかった。
 車を出す時、大きな石か何かにバンパーを擦ったような衝撃を感じたが、確認もせず
そのまま車を急発進させた。
「底なし沼に引きずりこまれても、その責任はきちんと負わなくてはならない」
真理の顔がまた浮かんだ。

 梓は雄一郎の余韻が残っている場所に横たわった。
「彼女に『YK』のプレートを見せつけて、あなたを私にプレゼントしてくれた彼女に、
ちゃんとお礼を言ったのよ」梓は呟き、そして慈しむようにお腹をそっと押さえた。
急に涙が溢れた。何故か「後悔」の気持ちが沸き大きく胸が痛んだ。
「二人とも同じ匂い……私とは違う。だったら二人とも苦しめばいい……」
そう呟いた。

第七章


 雄一郎が勤務する「八ヶ岳ガーデンリゾートホテル」はゴールデンウィークを間近
に控えて忙しくなった。
「仕事が忙しい」事を口実にあれから梓とは会っていないが、携帯メールや電話で連
絡を取り合っていた。あの夜の事には一切触れず、雄一郎は梓の身体を気づかい、梓
も雄一郎の優しさを感じ取っているようで、二人のメールや会話の内容は以前と全く
変わらなかったが、雄一郎は梓の家に行くのが躊躇らわれた。
足が遠のいていると、辛い現実を忘れる事が出来、ホッとしている自分がいる事に
気がついた。しかし、それは現実から逃げているだけであって、何の解決にもなって
いない事にも気がついていた。
 忙しかったゴールデンウィークが過ぎて、雄一郎の仕事も落ち着いた頃「実は福島
の実家に里帰りしているの。久しぶりの里帰りで、両親や妹達に引き止められていて、
帰るのは六月半ばになるから、着帯はこっちでしようと思うの。私は元気だから安心
して。帰るまで私の事は忘れないでね」と梓から電話があった。
「着帯か……その事以外にもまだ片付けなくてはならない事がいろいろある。今まで
は、梓と二人の事だけを考えていれば良かったのだが、これからはそういう訳にはい
かない。梓の両親や妹達に挨拶もしなくてはならない。梓は、離婚が成立していない
自分との事を、家族にどう話しているのだろうか? 家族は自分を温かく迎えてくれ
るのだろうか?」
子供が生まれる前のお目出度い儀式の事を、全く考えていなかった自分の迂闊さを反
省すると同時に、現実的な問題が目の前に迫り、少し憂鬱な気分になった。

「着帯は無事に済んだのよ。6月半ば頃に帰るけれど、順調だから心配しないでね」
梓から連絡があったのは5月末であった。
「福島に迎えに行き、その時に両親にきちんと挨拶をしたい」という雄一郎の申し入
れを「それはもう少し待って。でも、子供が生まれる事を両親も妹も喜んでいるから」
梓はそう言って断った。気が重い事が先延ばしになった事に少しホッとしたが「何か
変だ」と雄一郎は感じた。
「ただいま。帰って来たのよ。都合の良い時に来てね、待っているから」という連絡
が入り、自分の仕事と休みのスケジュールを考え、梓の家を久しぶりに訪問したのは、
サッカーワールドカップ南アフリカ大会で、日本がカメルーンに勝利し「ワールドカ
ップ初戦初勝利!」と日本中が沸き立った翌日だった。
 約束の日、雄一郎は定時でホテルを出た。
「今頃、村上は大喜びをしているだろうな。ワールドカップ開催中は日本の試合に合
わせてシフトを組んでいる、と自慢していたよな。今年もそういうシフトを組んでい
るのか?」
雄一郎は四年前を思い出した。

「オーストラリア戦のパブリックビューイングをやるから観に来いよ」と村上に誘わ
れ、真理と二人で戸部にある村上の自宅を訪れた。
「今日は勝つぞ!」
出迎えた村上は何故か、日韓ワールドカップ時の「BECKHAM 7」のイングラ
ンドナショナルチームのユニフォームを着ていた。
「似合わない!」
その姿を見て、笑いの壷に入った真理は涙を流して笑った。
「俺に惚れるなよ」と村上は照れ笑いを浮かべリビングに二人を招き入れた。村上家
のリビングでは45インチ大画面のプラズマテレビが、村上以上に大きな態度で二人
を迎えた。
「これを買っちゃったから、ユニフォームは買えなかった」
村上は言い訳をしていた。
「村上家ビューイング」は盛り上がった。試合開始と同時に、雄一郎が持参したシャ
ンパンを開けて日本の勝利を願って乾杯をした。
「柳沢! なんで打たないんだよ! もっと責めろ!」
村上は吠え、代表GKの座を川口に奪われた楢崎ファンの村上家の一人息子の和也は
「川口、出過ぎだよー! バカ!  バカ! バカ!」と怒っていた……楽しくて平
和だった。日本がブラジルに敗れた時、早朝に真理からの電話で起こされた。「ヒデ
がピッチで泣いている……」電話口の真理も泣いていた。
……そうだ、あの頃流した涙は「笑いや感動の涙」だった……あれから、あの頃を境
にして、真理や自分が流す涙は「悲しみの涙」に変わった。別れ話を切り出して、真
理はたくさん泣いているのだろう……でも、そうさせたのは……自分だ。



 気がつくといつもの車を止める場所に到着していた。
「以前は梓の家に行く時には、梓以外の事は考えられなかった。だが、今の自分はそ
うではない」
その事に気付き、今まで考えていた事を振り切り、気持ちを切り替えて雄一郎は車か
ら降り、いつものように周りを気にして梓の家に向った。
 梓と会うのは久しぶりである。お腹もだいぶ目立って来ただろう。子供の事を考え
ると少しウキウキした気分になった雄一郎は、梓が住む1号棟の階段を登ったが、何
か今までと違う気配が身体を包んだのを感じた。ズボンのポケットから合鍵を取り出
してドアを開けようとした時、階段に人の気配がして慌てて鍵をポケットにしまい、
身ずまいを正してチャイムを鳴らした。

「菅原さんは引っ越しましたよ」
階段を上がって来たのは隣の主婦だった。
「引っ越した?」
隣の主婦は何を言っているのだろう?
「先月末に引っ越されましたよ」
怪訝そうな雄一郎に隣の年配の主婦はまた言った。
「引っ越した……?」
そんな筈はない。昨日も「明日は大丈夫? 夕食は何がいい?」と梓から確認の電話
があった。雄一郎は動揺を隠すように「どちらに、ですか?」と尋ねた。
「それが知らないんですよ。転居先を教えてくれるって約束していたんですけれど。
何も教えてくれないまま引っ越しちゃったみたいで……」
持っていた買い物袋をドアの前に置いて、少し不服そうに主婦が答えた。
「お宅のように誰か訪ねてきて、それが大事な用件だったら困るでしょうに。お宅は
どんなご用なの」
「以前亡くなられた菅原さんのご主人と奥さんが勤務されていたホテルの者です」
雄一郎は名刺入れから名刺を取り出し主婦に手渡した。
「それでどんなご用件なの?」
愛想のない言い方だったが、好奇心が見え見えの隣の片岡ふみ子という主婦に、何か
探る事が出来るかもしれないと思い、後先の事も考えず、雄一郎は咄嗟に思いついた
事を話した。
「去年の末に菅原さんの奥さんはホテルを退職されているのですが、再婚されるとか
で秋にはお目出度という事でした。ご主人の事もありましたので、こちらでお祝い金
を出す事になっていましたので、その手続きのために伺ったのですが」
「お目出度? 結婚? そんな話聞いてませんよ。そんな嬉しい事があるのなら私に
真っ先に話をしてくれる筈ですよ。何かの間違いじゃないですか?」
「確かにそう仰ってましたよ。少し前に無事に着帯も済んだと、ホテルに連絡を頂い
ておりましたが」
雄一郎は丁寧にふみ子に説明した。
「エーッ、人違いじゃないですか? 引越しの時だって元気に動き回っていましたよ。
秋に生まれるのなら、もうお腹だって目立っている筈なのに……細いズボンを穿いて
いましたよ」
ふみ子は大げさに驚いた。
「だってね……あらっ、こんな所でなんだから、良かったら中に入りませんか?」
ふみ子は雄一郎の話しに興味を持ったようで、ドアを開けて雄一郎に、家に入るよう
に勧めた。雄一郎はふみ子の言葉の一つ一つにかなり動揺しつつも冷静を装った。
「ご迷惑じゃないですか?」
「私は一人住まいだから構いませんよ」
「失礼します」と雄一郎は片岡ふみ子の家に上がりこんだ。ふみ子は親切にも冷蔵庫
から冷たい麦茶を出してくれた。思いがけない出来事で口の中がカラカラになってい
た雄一郎は麦茶を一気に飲み干した。
「さっきの事ですけれどね……菅原さんの奥さんのお目出度の事は本当ですか? 有
り得ない話ですよ。だってね……こんな事言っちゃっていいのかしら……」一瞬ふみ
子は考え込む様子を見せた。
「私を信じてお話してください。伺ったお話は私の胸の中だけで納めておきますよ。
だから安心してください」
何としてもふみ子から話を聞き出したい雄一郎は、ふみ子に警戒心を抱かせないよう
に優しく話しかけた。
「そうですか? でもね……」
ふみ子はまだ躊躇っていたが、黙って引っ越した梓に少し腹を立てていた事もあって、
話をする事にした。
「じゃあ、お宅を信用してお話しますけれど……実はね、ご主人が亡くなって私がお
焼香に行った時に菅原さんは『子供がいたら良かった。淋しくなかったの。』って泣
き崩れたんですよ。余計なおせっかいって思ったけれど『どうして子供を作らなかっ
たの?』って聞いたら『病気で子供が産めない身体になった』って。私は悪い事を聞
いちゃって『ごめんなさい』って何度も謝ったのをハッキリ覚えてますよ。でも奥さ
んはこんなおせっかいな私にもそれからも良くしてくれて……」
ふみ子は少し涙目になった。
雄一郎はショックに打ちのめされた。
「それは菅原さんの作り話という事はないですか? ホテルを辞めた理由はお目出度
だったんですよ」
梓から母子手帳を見せられた事もあった。手に取って確認してはいないが、表紙に可
愛いイラストが描かれていて「母子手帳」とハッキリ書かれていた。
「それからもう一つ、ご主人のお焼香の時に奥さんから聞いたってお話されましたが、
当時菅原さんはご主人を無くしたショックで声を失っていた筈ですが」
「あらっ、やだ! そんな事はありませんよ。洗濯物を干す時にベランダでいつも挨
拶を交わしましたよ。何度も言いますがお宅が言っている菅原さんは別の方じゃない
ですか?」
主婦は唖然としている雄一郎を怪訝そうに見つめた。
「ご主人の労災の手続きも私が担当したのですが、私は隣の菅原さんのお部屋に何度
もお邪魔をして、奥さんとはしばらくの間筆談をさせて頂いていました。だから間違
いはありませんよ」
「じゃあ、いつから声が出るようになったのですか?」
主婦の問いに一瞬雄一郎は戸惑った。
「菅原さんはホテルで働いていた時もお話が出来なくて、悩んでいられましたよ。声
が出るようになったのは、ご主人を亡くされた年のクリスマスの頃だったと思います。
声が出た事を大変喜ばれていました」

 梓は「あなたのお陰で声が出るようになった」そう言って涙を流していた。

「エーッ? お宅は変な事ばかり言って……声が出ないなんて信じられないですよ。
だってベランダに出ると隣から奥さんの歌声がよく聞こえて来ましたよ。私はその声
を聞いて、元気になって良かった。そう思って安心していたんですから。確かご主人
が亡くなられた年の秋になる頃でしたよ。そうそう、庭にコスモスが沢山咲いていた
から」

 秋になる頃……それは二人が深い関係になった頃だ……

ふみ子は今度は疑うような顔つきで、考え込んでいる雄一郎をじっと見ていた。
「菅原さんの携帯電話番号はご存知ないの?」
「伺っていません。片岡さんはご存知ですか?」
梓は携帯も変えている可能性もある。
「いいえ、知りませんよ。引越し先も役所に届けを出していれば調べられるでしょう
けれど、素人じゃそんな事出来ないですものね……会社で調べられないの?」
「……そうですか……分かりました。ホテルに帰ってもう一度確認してみます。
いろいろご親切にありがとうございました。片岡さん、お願いがあります。今、私と
話をした内容は内密にしておいてください。私も片岡さんから伺った細かい事は決し
て口外しません。いろいろありますので……」
「分かってますよ。菅原さんの事もありますものね。私はいいんですけれどね、お宅
は大丈夫? でも、なんだか変な話よね」
ふみ子は今度は同情し、心配している様子で雄一郎を玄関で見送ってくれた。
「本当にありがとうございました。失礼します」
丁寧に礼を言ったが、雄一郎はパニック状態になっていた。
北側の駐車場に梓のレモンイエローの軽自動車が無かった。
「いつもと違う」とさっき感じたのはそれが原因だったのか?雄一郎は隣のふみ子に
気づかれないように、南側に回って梓の部屋を眺めた。ベランダに面した窓は真っ黒
な口を開けていた。
「引っ越したのは本当だ」
しかし、信じられなかった……梓は演技をしていたのか? 
……妊娠もウソだったのか? ……何のために……



 ショックが大き過ぎて、雄一郎はどうやってマンションに辿りついたのか記憶がな
かった。我に返った時には目の前のウィスキーのボトルが空になり、灰皿には煙草の
吸殻が山になっていた。携帯を取り出し梓に電話をかけた。さっきから何度も電話を
かけていた。
「お客様がおかけになった電話番号は現在使われておりません……」
アナウンスは変わっていなかった。
「バカヤロー!」と叫んで携帯電話を放り投げた。キッチンから新しいウィスキーの
ボトルを持って来てグラスに注ぎ、ストレートで一気に飲み干した。煙草の吸いすぎ
で口の中が気持ち悪かった。熱いシャワーが浴びたくなり風呂場に向ったが、途中で
急に気分が悪くなってトイレで思いっきり吐いた。這って風呂場に行き熱いシャワー
を浴びて、バスタオルを巻いただけの姿でベッドに倒れこんだ。頭の中がグルグル回
ってまだ気分が悪かった。何が起きたのか?さっきの事は現実なのか?

 村上と真理が笑って手招きしていた。
「待てよ」と二人を追いかけているがなかな
か追いつけない。
「早く」と二人がまた手招きしている。早く二人の所に行きたいが足が動かない。
這うように二人の所に行った時、足を誰かが引っ張り、真っ黒な穴の中に落ちてしま
った。

 自分の叫び声で雄一郎は目を覚ました。時計を見るとまだ日付けは変わっていなか
った。ゆっくりと起き上がり、またウィスキーを飲みながら煙草を吸った。黙って姿
を消した梓が急に愛おしくなり涙が流れた。
「声が出なくなったという事と妊娠がウソだったとしても、何故、突然に姿を消した
のか? 梓は本当に俺を愛していたのか?」分からなくなった。
「俺は本当に梓を愛していたのか? 愛していたのは確かだ。梓を愛していた。だか
ら、梓と子供と三人で歩む事を決めた」
真理への思いがあったとしても、自分の梓への思いは確かだった。
しかし……「梓の事が少し鬱陶しくなった事があった。ロイヤルガーデンのBILL
を発見した時だ。取り乱した梓を見て怖さを感じた事があった。あれは何だったのか?
あの後、梓と長い間会わない期間があった。仕事が忙しいと口実をつけたが、何処か
でホッとしている部分もあった。その時にどうしてそういう気持ちと真剣に向き合わ
なかったのか? だが、俺は逃げた……梓だけじゃない。俺は真理からも逃げた……
真理……『子供』そうだ『子供』だ……梓はそれで俺をがんじがらめにした……それ
は真理から俺を奪うために……?」
いろいろな事が頭をよぎり、考えつく限りの事を考えて、その考えが「子供……妊娠
……真理」に辿りついた時、雄一郎の心の中にあった「菅原梓への愛おしさ」が急に
「菅原梓への恐怖」に変化していった。
「俺が梓に溺れたのは真理というベースがあった上での『背徳の妙味』だったからで
はないか? 『背徳の妙味』の結果がこの様か。バカにも程がある」
雄一郎は自分を責めた。放り投げた携帯電話を取ったが「誰に電話をかけるんだ」
ハッとしてまた携帯を思いっ切り放り投げた。携帯電話がオーディオラックに当たり、
嫌な音を立てて足元に跳ね返って来た。
「壊れたか……愛も壊れたのか……」携帯電話を見つめる目から涙がこぼれた。恐怖
感を抱いても、梓への思いは簡単には消えなかった。梓の気持ちが悲しかった。梓は、
子供が出来た、とウソをつく必要なんてなかったんだ。梓と別れるつもりはなかった
のに。ずっとこのままでいたかった……
梓に触れたくて携帯電話に手を伸ばしたが、掴み損ねた携帯電話はベッドの下に滑り
こんだ。

 少しして、今度は脱ぎ捨てたズボンのポケットに入っている携帯電話を探った。そ
の時冷たい物が手に触れた。梓の部屋の合鍵だった。雄一郎は携帯電話と合鍵を取り
出して、その二つをじっと見つめた。携帯電話の向こうには真理がいて、合鍵の向こ
うには梓がいた。手が無意識に真理を検索し発信ボタンを押していた。コール音が響
いたが携帯は留守電に切り替わった。
「勝手よ、勝手すぎる」怒った真理の声が聞こえた気がした。
「いいさ、真理に罵倒
されようがどう思われようが構わない」
そう思ってもう一度電話をかけた。

「もしもし……」
眠そうな真理の声が答えて、雄一郎は一瞬うろたえた。電話に出
てくれる事を待っていたが、いざ、声を聞いてどうしていいか分からなくなった。
「もしもし……」
また、真理が呼びかけた。
「真理か。今何してる?」
「何してる? って……人間やってる息してる……もう、せっかくいい夢みていたの
に」
真理は笑っていた。
「そうか……邪魔して悪かったな」
「どうかしたの? 何か変よ」
「……」
雄一郎は応えられなかった。
「具合いでも悪いの? 大丈夫?」
真理が心配そうに呼びかけた。
「大丈夫だよ」
声を詰まらせながら、やっとの思いで答えた。
「泣いてるの? 何があったの?」
これ以上真理の声を聞くのが辛くなった雄一郎は「悪かった。おやすみ」と言って自
分から電話を切った。
「真理に頼るなんて……本当に最低な男だ」ひとり言を言って、またウィスキーを煽
った。
 しばらくして、雄一郎の携帯が鳴った。
「真理だろうか? 梓だろうか?」と一瞬考えたが、自分から真理に電話をかけて真
理を求めておきながらも、まだ梓からの電話を期待している自分が猛烈に情けなくな
った。目をつむって着信名を確認せず、受話ボタンを押した。

「ついに地獄に堕ちたか?」相手は村上だった。
「真理から電話で、お前の様子が変だから電話をしてくれって。真理が心配してたぞ。
何があったんだ?」
「悪かったな。ちょっと仕事でミスちゃって……もう大丈夫だよ」
「ウソ言うなよ。仕事でミスったからって今のお前が真理に泣きつくかよ。いい加減
な事を言うなよ。原因は女だろう? 女に逃げられでもしたんだろう。それで辛くな
って真理に泣きついたのか。最低な男だよな」
村上が吐き捨てるように言った。
「何とでも言えよ。お前に非難されるに値する男なんだから」
「だけど、女に逃げられたのが辛いんじゃないよな。本当に大事なのは真理だって気
がついて、自分の事がどうにも分からなくなったんだろう。それが当たりだろうな。
お前の事はよく分かるよ。人間にはお守り役とお守られ役があるんだよ。俺はお前の
お守り役、そんなところだろうから」
「簡単には口に出来ない。それに話すと長くなる」
「覚悟してるよ。今、俺のお守り役が酒と煙草を用意してくれた。お前の話を聞いて
やれよ。っていう命令だろう。俺は明日は休みだから時間は気にするなよ」村上はウ
ソをついた。明日は朝から仕事だし弓恵はすっかり寝入っていた。
雄一郎は真理が子宮外妊娠をした時の事を思い出した。あの時も村上がこうして自分
を救ってくれた。
「お前の気持ちと奥さんの気持ちは分かっていて有り難いが、俺の気持ちが整理出来
ない。申し訳ないが今はまだ話せない」
「分かった。それならそれでいいよ。だけど俺は……」
そこまで言って村上は口をつぐんだ。……今、自分の勝手な思いを伝えるべきではな
い……
「心配してくれるお前の気持ちは重々承知してる。バカな俺に少し時間をくれよ」
「お前はバカか? 俺の友達にバカはいない筈だけどな」
「本当に悪かった。また、連絡する」
雄一郎は電話を切った。
「切断中 川村」の画面をじっと眺めていた村上は、真理に電話をかけた。直ぐに真
理は「どうだった?」と応えた。ずっと心配していたのであろう。真理が雄一郎を案
ずる気持ちを考えたら村上は胸が痛んだ。
「あいつは全くバカな男だ。最上客を怒らせたらしいよ。地元の政治家も一緒だった
から面倒な事になったそうだ。怒らせた客はロイヤルガーデン・プレミアムクラブの
顧客だったからお前に確認をしたかったらしい。会社が一丸となって戦っている時に
迷惑な話だよな。機会があったら『しっかりとプライドを持て!』って言ってやれよ」
そんな事は有り得ない、真理は分かっていた。村上もウソをついている。
「らしくない事して……大丈夫なのかなあ?」
真理は騙されているフリをした。
「事態が収拾したら俺に何か言ってくるだろう。あいつのクレーム処理には定評があ
るから責任を持って対処するさ。お前も余り心配するなよ。明日は仕事か?」
「私は公休。村上さんは?」
「俺は仕事だ。全く、あいつのせいで目が冴えちゃったよ。酒でも飲んで寝るとする
か」その時、弓恵がリビングに現れた。弓恵は携帯電話をかけている村上に「真理ち
ゃん? 私に変わって」と手振りで示した。
「なんかさ、弓恵がお前に話をしたいらしい。変わるからな」
村上は携帯電話を弓恵に渡した。
「こんばんは。お久しぶり」
弓恵のハスキーな声は魅力的だった。
「夜遅く起こしちゃったみたいでごめんなさい」
真理は謝った。
「心配しなくても大丈夫よ。真理ちゃんに伝えるわ。『愛すること、忘れること、そ
して許すことは人生の三つの試練』ヨーロッパのことわざよ。じゃあおやすみなさい」
弓恵はそう言って寝室に戻って行った。
「もしもし、分かったか?」
弓恵の存在感の大きさに圧倒された村上が電話口で真理に話しかけたが、真理はすぐ
には返事が出来なかった。久しぶりに聞く弓恵の言葉は重く、真理はその言葉を自分
の中で噛み砕いていた。

 ベッドの中で真理からの電話を受けた村上は、寝ている弓恵を起こさないようにリ
ビングルームで二人と話をした。弓恵は村上と二人との電話でのやりとりを聞いてい
て、三人が本音を言わない事にやきもきしていたのだろう。村上も弓恵に感謝をした。

「いつも迷惑をかけてごめんなさい。本当にありがとう。じゃあ、おやすみなさい」
電話を切って真理はベッドに戻った。



「愛すること、忘れること、許すこと、それが人生の三つの試練……」何度もその言
葉を頭の中で繰り返していた真理は、村上と同じように眠気がすっかりどこかに吹っ
飛んでしまっていた。時計は午前1時を指そうとしていた。
「山梨に行ってみよう」
突然そんな気持ちが湧き上がった。しかし「行ってどうするの? 見なくてもいい事
を見て、聞かなくてもいい事を聞いて、傷口がもっと広がるかもしれない。余計な行
動を起こさなければ、踏ん切りもつき早く穏やかな日々を送る事が出来るかもしれな
い」
何度も寝返りを打ちながら心の迷いと戦っていたが、どうしても電話での雄一郎の様
子が頭から離れなかった。
「菅原梓との間で何かあったのだろうか? 私に電話をかけてきた、という事は救い
を求めているのかもしれない……でも、山梨に行って嫌な現実を見る事になったら
……」
それは辛い事だが「人生の三つの試練」に自分が立ち向かう事が出来るか、雄一郎と
会ってその事にきちんと向き合ってみたい。そして自分の目で現実を確かめてみたい
……と気が済まなくなってきた真理は覚悟を決め、起き上がってシャワーを浴びて支
度を始めた。
 
 真理が、愛車のシェナレッドのBMWツーリングワゴンに乗り込んだのは午前2時
を回っていた。エンジンをかけるとミディアムスローなクレイグ・ディビッドの「フ
ィール ミー イン」が流れた。クレイグ・ディビッドは雄一郎が好きなアーティス
トの一人だった。
「二人でこの車に乗ったのはいつだったのだろう?」
過去を探ったが、思い出す事が出来なかった。真理は自分の世界に入りたくて、選曲
ボタンを押してジャネット・ケイを選んだ。そして、顧客リストから写し取った菅原
梓の住所をナビに入力した。雄一郎が住んでいるマンションは会社の借上げ社宅なの
で、そこで一緒に暮らしているとは思えなかった。現地到着予定時刻は6時と表示さ
れていた。
 真理が運転するBMWは新山下から高速に入った。トラックが多く少し不安だった
が気を引き締めた。BMWは首都高から中央自動車道に乗り順調に走行した。ジャネ
ット・ケイの包容力のある優しい歌声は真理を落ち着かせ、深夜のドライブを楽しん
でいるような感覚になり、自分がこれから起こすであろう行動を忘れさせてくれた。
途中ナビが「この辺で休憩しませんか」と案内をしたが、PAにも寄らずほぼ予定通
りに真理は目的地に到着した。

 梓が住む団地はもう活動を始めていた。真理は「1?102」という住所から、マ
ンションだと思っていたが梓の住居は県営団地で「ここが二人の愛の巣?」と意外で
あった。団地の外れにある来客駐車場に車を納め、車から降りようとした時「私はこ
こで何をするつもりなのだろう」と考えて行動を移す事に躊躇った。ホテルに梓が現
れた時「私だったらそんな事をしない」と梓を非難したが、自分は梓と同じ事、それ
よりもっと恥ずかしい事をしている。「嫌な女」は自分。しかし、落ち込みそうな気
持ちに目を背けて、手帳で棟と部屋番号を確認して梓の部屋に向った。
 ドアの前に立った時には心臓が飛びだしそうになっていた。表札が出ていないのが
変だと思ったが、少しの間ドアの前で室内の気配を伺った。上階のどこかの部屋のド
アが開く音がしたので、真理は慌ててその場を立ち去り「どうしようか?」と考えて
南側の2号棟に向った。2号棟の北側通路からは梓の部屋が望める。「泥棒猫みたい」
と思ったが、真理は目で梓の部屋を探した。
 梓の部屋を見た時違和感を覚えた。部屋に色が無かった。
「何故だろう?」と棟全体を見渡して気がついた。ベランダに面した窓にはカーテン
がかかっていなかった。空室なのだ。
「引越しをして雄一郎と一緒に住み始めた。」
ショックだった。しばらくの間、そのまま梓の部屋を眺めていたが諦めて車に戻った。
車に戻った真理は猛烈に煙草が吸いたくなった。臭いがつくのが嫌で車の中では煙草
は吸わない。愛車のBMWは禁煙車だったが、規則を破って煙草に火を点けた。煙草
は不味かったが勇気を与えてくれた。立て続けに二本吸って車を発進させた。次に向
う先は雄一郎のマンションだった。もう梓と一緒に住むために何処かに引越しをした
かもしれない。
「それだったらそれでいい。自分に突きつけられた現実をしっかりと受け止めよう」
 
 雄一郎のマンションもすでに活動を始めていた。マンションの北側にある駐車場に
車が到着した時、出勤なのだろうか何台かの車が出て行った。雄一郎の愛車の黒のチ
ェロキーリミテッドはいつもの場所に止められていた。
「チェロキーがあるという事は引越しはしていない。このマンションで梓と一緒に生
活をしているのだろうか?」
しかし、止まっているチェロキーを見て真理はまた違和感を覚えた。車好きの雄一郎
は駐車する時はきちんとスペースに納めるが、目の前のチェロキーは前輪が斜め横を
向いていた。エンジンを切る時にハンドルを真っ直ぐに戻さなかったのだろう。車の
止め方に昨夜の電話での雄一郎の様子が重なった。
「どうしよう?」と真理は一瞬躊躇した。真理のBMWはルーフキャリアが付いてい
るしボディカラーも目立つ。もし、雄一郎が出て来たらすぐに見つかってしまう。
「そうなったら修羅場を繰り広げるのもいいかも」真理は車を降り南側に回って、マ
ンションとの敷地の境にある細い道の木の隙間から二階にある雄一郎の部屋を伺った。
カーテンも閉まっていない雄一郎の部屋には電気が点いていた。

 正直惨めだった。別れた、と言ってもまだ夫である雄一郎の部屋をこんな風に探っ
ている自分が嫌だった。正々堂々と雄一郎の部屋を訪ねたって何の問題もない。そう
なのかもしれないが……その時、雄一郎の部屋の窓が開いた。真理は咄嗟に身を屈めた。
「見つかった」
そう思って覚悟をして思わず目をつぶった。少しの間そのままじっとしていたが、何
も起きていない気配を感じて、また恐る恐る雄一郎の部屋を見上げた。
エアコンの室外機が置かれているだけの殺風景なベランダは男所帯のうら淋しさが漂
っていた。
 真理は車に戻った。
「私は何をしに山梨まで来たのだろう?」
またその事が頭をよぎり、やっと見失っていた自分を取り戻した。車の中にいる真理
を怪訝そうに眺めながら数台の車がマンションを出て行った。他人に稀有な目で見ら
れる事が恥ずかしかったが、次の行動に移る事が出来なかった。



 ハンドルにもたれかかってしばらくの間試行錯誤を繰り返していた。と、その時……
気配を感じて顔を上げた時……フロントガラスの向こうに雄一郎が現れた。真理の中で
周りの景色が消え、唖然と立ちすくんだ雄一郎の姿だけがクローズアップされた。
無意識にドアロックを解除して雄一郎を車の中に招き入れていた。我に返り、改めて見
た雄一郎は今まで真理が見た事がない程憔悴しきっていた。
「グッドモーニング!」
真理は明るく雄一郎に挨拶をした。
昔……まだ幸せだった頃……しばらくぶりに会う休みの日、そう言って二人の貴重な一
日をスタートさせていた。
「いつからいたのか?」
雄一郎はいつものように目じりに優しそうな皺を寄せて真理に尋ねた。
「ずっと昔から……」真理はそう答えた。不思議だった。雄一郎と会うのはあの「悪夢
の日」以来である。雄一郎は「真理の他に好きな人が出来た」そう言って去って行った。
自分は棄てられた、のだが、何なのだろう?しばらくぶりに会った雄一郎に優しく、穏
やかな気持ちになれる自分がいる。
「そうか……ずっと昔からいたのなら、ここにいるのも飽きたよな。コンビニに煙草を
買いに行きたいけれど、車を出してもらっていいか?」
「了解!」真理はBMWを発進させた。コンビニに着くまで二人は一言も言葉を交わさ
なかった。
「スターバックスのコーヒーと、あらびきウィンナが入ったパンを買って来てね」降り
た雄一郎に真理は声をかけた。コンビニから出て来た雄一郎は両手に買い物袋を下げて
いた。マンションに着く間もやはり二人は一言も口をきかなかった。
「入るか?」駐車場に車を納めた時、雄一郎が口を開いた。
「……」真理は答えなかった。
「遠慮する事はないよ。俺一人だから」言った後、その言葉の意味を真理がどう受け止
めたかが気になった。真理は雄一郎に従った。  

 雄一郎の部屋はアルコールと煙草の臭いが染み付いて、雑然としていて汚かったが真
理は周りを見ないようにして座り、ガラステーブルの前でじっと動かなかった。雄一郎
はテーブルの上を手早く片付けて、袋からスターバックスのコーヒーとあらびきウィン
ナーのパンと、自分用のペットボトルのお茶と握り飯を取り出した。真理は雄一郎の動
作をじっと見つめていた。雄一郎は「むさくるしい」その言葉がピッタリと当てはまっ
た。それに二日酔いなのだろうか、とてもお酒臭い。真理は黙ってコーヒーを飲んでパ
ンを食べた。重苦しい雰囲気だったが、居心地は悪くはなかった。
「昨夜は起こしちゃって悪かったな」
握り飯を食べ終えてお茶を飲んだ雄一郎が口を開いた。
「イケメンが台無し。鏡を見た?」
真理はバッグから鏡を取り出して雄一郎に手渡した。
鏡で自分の顔を確認した雄一郎は苦笑いをした。
「仕事でミスった。なんてウソでしょ? 車の止め方もらしくなかった」
空き家になっていた梓の部屋が真理の頭に浮かんだ。
「少し時間をくれるか? 真理には話をしなくてはならない事がたくさんある」
雄一郎は、裏切り行為をした自分の事を心配して、深夜に車を飛ばして山梨まで駆けつ
けた真理には申し訳ない。という気持ちでいっぱいだったが、まだ気持ちの整理がつい
ていなかった。
「分かった……」二人の視線が絡み合った。真理は胸が苦しくなり下を向いた。
「寝てないんだろう? ベッドを使えよ」そう言って雄一郎は、シーツとピロケースを
外し洗濯機に汚れた物を放り込み、クローゼットから新しいシーツとピロケースを取り
出して真理のためにベッドを整えた。昨夜は雄一郎の電話に起こされる前に少し眠った
だけだったが、真理は神経が冴えて眠気は感じなかった。
「私は眠くない。それより本当に大丈夫? 大丈夫だったら帰るけれど」真理は、山の
ように吸殻が溜まっている灰皿をキッチンで綺麗に洗ってテーブルに戻した。
「そうだ」真理はテーブルの上に置かれていたバティック柄の手鏡を手に取った。
「この鏡ね、米沢さんの奥様にバリ島のお土産で頂いたの。知っているでしょう? 議
員の米沢さん。今月末にお父様の米寿のパーティの予約が入っているの。凄いの、10
0人以上の規模よ。この間打ち合わせに見えた時『川村君は元気?』って。『パーティ
が終わったら八ヶ岳のガーデンリゾートに避暑に行く予定』そんな事を言っていたの。
米沢さんが来た時には元気でシャキッとしてなくてはダメよ。『いつ見ても川村君はカ
ッコイイね』っていう言葉を私は聞きたいから」
真理の話に雄一郎は思わず笑顔を見せた。
「真理が帰る前にシャワーを浴びさせてもらっていいかなあ? ビシッとして見送りた
いからさ」
「待ってる」真理は笑顔で答えた。

 雄一郎がシャワーを浴びに行って、部屋に一人残された真理は落ち着かなくなり、急
に居心地の悪さを感じた。
「何故だろう……それは……『傍に雄一郎がいる事で安心感を得られる』そういう事?」
真理は部屋の中を見回した。菅原梓の気配は感じられなかった。空になったウィスキー
のボトルや汚れたグラス、脱ぎっぱなしのスーツやワイシャツが散らばっていた。
余計な事と思ったが、真理は部屋の中を片付け始めた。雄一郎が脱いだソックスが片一
方しかなくベッドの下を探した時に、ゴールドメタリックの携帯電話を見つけた。風呂
場の気配を確かめ、恐る恐る携帯電話を手に取った。雄一郎は今、iphonを使って
いる。この携帯電話が何を意味しているか……初めて見つけた「証拠」「秘密」どうし
ようもない程悲しく、辛い気持ちが沸きあがったが、液晶画面に傷がついている携帯電
話の電源を入れようとした。しかし、壊れているのか、電源が入らなかった。
「やはり何かあった。多分放り投げたのだろう、何かにぶつかって壊れた……何があっ
たか分からないけれど、これが現実。彼はもう私の傍にはいない。バカだな、私は」
自分が置かれた現実に改めて気が付き「この部屋に私は居てはいけない、ここに居るべ
き人はあの人。一人になって感じた居心地の悪さはこの事。やっぱりこのまま帰ろう」
と携帯電話を元の場所に戻し、ヨロヨロと立ち上がった。気が動転していたためか、よ
ろめいて本棚に手をついてしまった。真理の目の前に雑誌の「東洋ビジネス」があった。
今度は無意識のうちに「東洋ビジネス」を手に取ってページをめくっていた。自分が掲
載されているページに折り目がついていた。ちょうど顔の中心で、自分を否定するかの
ような折り目の付け方に不愉快な気分になり、ロイヤルガーデンのコンセルジュでの梓
との事が蘇った。
「あの人はこれを見て、ロイヤルガーデンに現れたのだろう……」
その時、洗面所からドライヤーの音が聞こえた。真理は本棚の前で動く事が出来なかっ
たが、ドライヤーの音が止んだ事で慌てて本棚から離れた。雄一郎が洗面所のドアを開
けた時、コロンの懐かしい香りが漂ってきた。
「片付けてくれたのか……悪かったな」
雄一郎はすっかり綺麗になった部屋を見回した。
白いTシャツの上に薄いブルーのストライプのボタンダウンのシャツを羽織ったコット
ンパンツ姿の雄一郎は、さっきとは全く違っていた。それは長い間真理が愛した「川村
雄一郎」だった。
「余計な事をしてごめんね」
「本当に帰るのか?」
淋しげな雄一郎に真理の心が揺れた。
「いつもの姿を見て安心したし今日はこれで帰る。私が来た事は村上さんには内緒ね」
「仲間はずれにされたって、あいつはやきもち焼きだからな」
「そうじゃなくて、私達の事でいつも振り回されていて、申し訳ないかな。って思うの」
「分かった約束する。近いうちに連絡するよ。だからそれまで待っていて欲しい」
「そうね、もうそろそろきちんと話をした方がいいものね」
真理はバッグを手に取った。
「車の運転に気をつけろよ。眠くなったらパーキングに寄れよ」
気をつけろよ……と、雄一郎は真理の肩を軽く叩いた。雄一郎に触れられた肩から温か
いものが身体中に流れ
た。
「ありがとう、大丈夫よ」
また二人の視線が絡まった……このまま胸に飛び込んで、「棄てないで!」と泣いてす
がって、抱かれれば……楽になるかもしれない……
一瞬そう思ったが、その思いを断ち切るようにして真理は雄一郎に背を向けた。雄一郎
は淋しげな真理の背中を見た時、真理の心の叫びを聞いたような気がした。
「ここでいいのよ」と真理は言ったが、雄一郎は駐車場で真理を見送った。



 マンションの敷地を出て、バックミラーから雄一郎の姿が消えた時「愛すること、忘
れること、許すこと、それが人生の三つの試練」の言葉を思い出し「帰っちゃっていい
の?」と真理は、県道に出る手前の雑木林の道でウィンカーを出して車を止めた。
「そう思うなら、自分の気持ちを伝えるのは今よ」
別の真理が問いかけた。
「でも……」
躊躇った。

 別れ話を告げられてから、いっぱい泣いたが雄一郎の前では決して泣かなかった。
それは「泣かなかった」のではなく「泣けなかった」のだ。自分から離れて行く人、自
分を受け入れてくれない人には、素直に本心をさらけ出す事が出来なかった。手術をし
て退院した日の夜、真理はなかなか眠れなかった。でも、その事を雄一郎には悟られた
くはなかったから、眠っているふりをしていた。あの時の雄一郎は優しかったが「子供
をダメにしてしまった」という事で「雄一郎には申し訳ない」という気持ちと「劣等感」
を感じ「自分から離れて行ってしまう」という不安感が沸いて、だから気を遣って寝て
いるふりをした。
「でも、それは真理の勝手な思いこみよ。真理はいつもそうして思い込んでいる。間違
いよ。彼は真理を求めているのよ。昨夜の事を思い起こしてみたら? 考え直してごら
ん?」
また別の真理が囁いた。
「別居生活の不文律」などと勝手に考えていたけれど、そんな綺麗事を言っていないで、
真正面からぶつかった方が良かったのかもしれない。仕事の事では自分をさらけ出す事
が出来たのに、大切な生活の中でそれが出来なかった自分が、こういう結果を招いてし
まった。別の真理が「そうよ。だから、今、素直に自分をさらけ出したら?」と後押し
をした。
「浮気だったら有り得ても、少なくとも本気だった川村さんを許せる?」
雄次から言われた言葉が頭に浮かんだ。
「本気でも隠して行く事は出来たんだよね。川村さんもそれを望んでいてさ。真理さん
とも別れる気がなかったんだろうな。だから真理さんは何も気がつかなかった。だけど、
ここに来て隠せない事情になったんじゃないかなあ?」
そう推理を働かせた雄次の言葉も思い出した。
「でも……許そうと思っているの……」
真理は雄次からの言葉に反論した。
突然、お腹を庇う仕草の菅原梓と、壊れた携帯電話と東洋ビジネスの自分の顔に付けら
れた折り目が目に浮かんだ。
「もう、どうにも出来ない状態になっている」
でも、それでも「戻って、自分の気持ちを彼に伝えよう」と思ったが、やっぱり怖かった。
「傷つきたくないからお前はいつもいい子でいる」
村上にはそう言われた。
「やっぱり今日は帰ろう」
真理は決めた。
「本当にいいの?」
最後の最後にまた別の真理が囁いたが、真理はゆっくりと車を発進させた。
カーステレオからマライア・キャリーの「ウィズアウト・ユー」が流れてきた。
「私はあなたなしでは生きていけないの……」ボリュームを上げた真理は声を出して泣いた。

 雄一郎は真理の車が消えても長い間その場所から離れなかった。部屋に戻る時チラッ
とチェロキーを眺めて「車の止め方がらしくなかったよ」と真理の言った言葉を思い出
し、チェロキーの前に立って、横を向いている車輪を眺め「横浜300……」というナ
ンバープレートを見つめた。横浜……やっぱり今だ! 真理に話をしよう!と思い、ズ
ボンのポケットを探ったが携帯は持っていなかった。部屋に戻って携帯に電話しようか?
「間に合わない!」と思ったが咄嗟に雄一郎は走り出していた。
 敷地を出て雑木林の道にさしかかった時、ウィンカーを出して左折する真理の車が見
えた。
「真理! 待てよ!」
雄一郎は雑木林の道を走り、必死に真理の車の後を追いかけたが、途中で気分が悪くな
りそのまましゃがみこんでしまった。地面に手をついて大きく深呼吸して吐き気を押さ
えた。
「遅かったか」吐き気が治まったところで、ヨロヨロと立ち上がりマンションに引き返
したが、途中でまた吐き気を催して、木の陰で胃の中の物を全て吐き出した。猛烈に苦
しくて涙が出て来た。フラフラした足取りでマンションに戻り駐車場でまたチェロキー
を見て、何かを振り切るように階段を駆け上がり部屋に戻った。玄関のドアを開けた途
端、今度は真理の残り香をかいだ。
「そうだ……エタニティ……だ」
「永遠に続く愛、この香水はそういう意味をもっているのよ」
真理はそう言っていた。
携帯を探して真理に電話をかけたが、電話はドライブモードになっていた。諦めた雄一
郎はベッドに横たわってしばらくの間ボーッとしていたが、いつの間にか眠ってしまっ
ていた。どの位の時間が経ったのだろう。目が覚めると西側の小窓から西陽が差し込ん
でいた。「真理は横浜に無事に到着したのだろうか」と携帯を手に取った。携帯には「
無事横浜に到着したので安心してね。」というメールが届いていた。空腹に気付き、弁
当を食べよう。と部屋を探したがコンビニの買い物袋は見当たらなかった。
「真理が片付けたのか」
冷蔵庫を開けると中に弁当がきちんと納められていた。弁当をレンジで温めながら、缶
ビールを取り出して立ったままで缶ビールを飲んだ。その時、本棚に倒れている「東洋
ビジネス」が目についた。折り目がついていたのですぐに真理が載っているページが開
いた。雄一郎は「なんだ?」と首を傾げた。目的のページが開けるように、そこに付箋
を貼っておいた記憶があるが、折り目をつけた記憶はなかった。雄一郎も真理の顔の中
心が折られているのを見て不快な気分になった。
「梓の仕業だ」
この部屋を掃除に来て雑誌で真理を見て「ロイヤルガーデンホテルに泊まりに行く事を
思いついた」そう言っていたが、それだけだったのだろうか?
「チン」とレンジが温め終了の合図をしたが、空腹も弁当の事も忘れてしまった雄一郎
は、座り込んで真理の記事を読んだ。

「横浜ロイヤルガーデンホテル初女性ゲストサービス部支配人 川村真理」という見出
しで、真理の大きな顔写真、プロフィール、仕事の内容、仕事への姿勢、生き方などが
紹介されていた。最後にインタビュー形式で雄一郎との結婚生活が真理自身の言葉で語
られていた。
「結婚して14年になりますが、10年近く別居生活の私は主婦としては失格です。頑
固で我がままで、仕事の事しか頭にない私を支えてくれている主人に点数を付けるとし
たら、それは天文学的な数字になります。(笑)私にとってはかけがえのない大事な主
人との結婚がベースにあるから、良い仕事が出来る。月並みな言い方ですね。『自分自
身が幸せでないと、本当のおもてなしの心は生まれない』これは新人研修で講師になっ
た主人が教えてくれた言葉ですが、その事をずっと頭に置いて仕事をしてきました。ま
た、主人から『和顔愛語(わげんあいご)』という言葉を教えてもらった事があります。
この言葉は大乗仏教の経典の一つの『無量寿経』の中にある言葉だそうですが『和やか
な表情と愛のある言葉で人に接する』という事です。この言葉は仕事だけでなく、日々
の生活の中でも基本的で大切な事だと思います。いろいろな事を教えてくれる主人とは
これからもお互いに刺激し合って、自分自身を高めていきたい。そして、年を取って仕
事から離れて、夫婦二人の生活を始める事が出来た時に『良い夫婦になったね』と心の
底から感じられるような、そんなほのぼのとした夫婦になりたいと思っています」と雄
一郎への思いを語っていた。

「不特定多数の人間が読むであろう雑誌で、真理はここまで俺への思いを言い切った。
それなのに俺は……意気地も男の度量もないくせにいい気になって、真理を……そして
梓を弄んだ。梓にも辛い思いをさせて悪かった」
梓を思って雄一郎の目から涙が溢れたが「まさか……」ある事が頭に浮かんだ。
「この雑誌が出たのは去年の11月の末だった。会社でもその事が話題になり、フロン
トの誰かが雑誌を買ってホテルに持って来ていた。その時、梓は何処かでこの雑誌を読
んだのだ。そう言えば……あれは12月だ。俺は梓も子供が出来ない身体だとは知らな
かった。関係を持つ時はいつも避妊具を使用しているのに、あの時に限って梓は大丈夫、
と言って避妊具を付けさせなかった。そして妊娠を知らされたのは2月の半ば。あの時
に梓は『自分の不注意でごめんなさい。』そう泣いて謝った……そうだったのか……そ
ういう事だったのか……この記事が梓にとっては大きなショックだった。それで考え、
そして既成事実まで作ったのか……
声が出ないと言った事もあれもウソだ。俺は声が出ない梓を心配していた、そうするよ
うに演技をしたのだ。声が出たのはクリスマスだったが、そのシーンも予め決めておい
たのだ。夫の幸一を事故で失ったショックで声が出なくなるような貞淑な女が、半年も
立たない内に会社の人間と不倫関係を持てる筈がない。梓に夢中だったから一年半もの
間、俺は梓の本当の姿を見る事が出来なかったのか」全容が徐々に見えてきて雄一郎は
愕然として、自分の犯した罪の重さに気がついた。

 あの時の真理と同じように無茶苦茶に何かをしたかったが、何をどうすれば自分が納
得する事が出来るのかは分からなかった。暴れても、激しいロックを聴いても、誰かに
話をしても、本を読んでも、カウンセリングを受けても、インターネットで「こういう
場合はどうしたらいいか?」と相談しても、そんな事で自分のこの問題を解決する事は
出来ない。自分の中で考えて、自分で決着をつけるしかない。それでも急にボン・ジョ
ヴィが聞きたくなった。アンプにヘッドフォンを差し込みボリュームを上げボン・ジョ
ヴィの「クロス・ロード」をかけた。何も考えず目をつむって、ヘッドフォンから激し
く流れるボン・ジョヴィを聞いていたが、頭の中にロックが流れる分と同じだけ、自分
の罪の重さが増した。ジョン・ボンジョヴィのパワフルだがかすれた声が耳をつんざき、
胸が苦しくなった。「禁断の愛」だった。

「胸がズキズキ痛んだ お前のせいだよ
お前は愛を汚すんだ

お前は俺に天国を約束し、その後すぐに地獄へ突き落とす
愛の鎖が俺を束縛する
愛の監獄からは俺は逃げることはできない」

 梓との今の自分の心境をそのまま描いたような歌詞が胸を突いた。
「だから何だと言うのだ。所詮、歌の世界じゃないか」
空しさが広がった。

「俺は本当にバカだ」とまた激しく胸が痛みだした。あの時、真理がうつ状態になった
時、真理を一人で横浜に帰した事を猛烈に悔いた。
「本当に真理の事を思って、俺は真理を横浜に帰したのか? そうじゃないだろう。真
理は、そんな俺に『優しくしてくれてありがとう』と言ったが、それは『人間としての
優しさ』ではなかった。俺も苦しくて真理から逃げたかったから、だから真理を横浜に
帰した。二人とも同じ位に仕事に比重をおいていた。だが、俺はいつも自分中心に物事
を考えていた。真理の願いを受け入れ、仕事への復帰を叶えさせたが、心の隙間を俺自
身が感じていたのなら、俺が八ヶ岳から横浜に帰る方法だってあった。異動願いを出し
ても良かった。それが受け入れられなかったとしても、選択肢は他にもあった。真理は
俺が出世する事だけを望んでいたのではない。ただ、傍にいて欲しかったのだ。俺だっ
て……真理に傍にいて欲しかった……真理なしでは生きていけないだろう……それなの
に……真理にも村上にも俺は『真理を守る』と約束をしたが、結局守ろうと
していたのは自分自身だった……だが、自分も守れなくて挙句の果てはこの様か……」
雄一郎はヘッドフォンを外して自嘲気味に笑った。



 雄一郎がボン・ジョヴィを聞きなが自分を責めていた頃、梓は千葉県幕張にあるオー
プンカフェでコーヒーを飲んでいた。梓は幸一と生活した幕張に戻って来ていた。「引
っ越す」と決めたが、生まれ故郷である福島には戻る気持ちがなかったし、戻れなかっ
た。今まで生きてきた中で「幕張が一番落ち着く場所」そうだったのだろう。引越しを
して半月が経っていた。「そろそろ職を探さなくては」と考え、ハローワークから紹介
された会社に面接を受けてきたばかりだった。小さな雑貨屋で条件は余り良くなかった
が、不況の今、仕事があるだけでも有り難い。

「雄一郎を恋しい」という気持ちはあったが、自分の気持ちより「雄一郎が自分をどう
思っているのか?」という事の方が何故か気になっていた。
「今頃、あの人は私が黙って姿を消して悲しんでくれているかしら? 子供の事を心配
しているのでしょうね。また子供を失う、というこの悲しみにこれからどうやって向き
合っていくのかしら? 一度壊れた奥さんとは元に戻る事はないでしょうから、私がい
なくて大丈夫なの?」
ひとり言を言い、シナモンロールを口に入れた。
 雄一郎とは、ロイヤルガーデンホテルのBILLを見られたあの日以来会ってはいな
かった。あの時「彼が本当に愛しているのは妻だ」という事を身体の芯から感じ取った。
その事は悲しい、というより悔しかった。
「雄一郎を本当に愛している」と思っていたが、そうではなく「雄一郎との恋愛ドラマ
を楽しんでいた」本当に愛していたのなら、あんな仕掛けはしなかった。雄一郎が誠実
だったから、それに甘えてドラマのヒロインになった気分でいたが、自分の役は「主人
公の二人を引き立てる脇役」だったのだろう。
「私はヒロインではない」と悟った時に「何も言わず突然に姿を消す」事を思いついた。
「彼は必死で私を探すだろう。そうすれば、いつか、私は真のヒロインになれる」そう
信じていた。
……でも、そうではない。「本当に愛していた」だから、どんな方法を使ってでも独
り占めして、ずっと傍にいて欲しかった……いろいろな愛し方がある。私は私の愛し
方で、彼を愛した。今、その事を思うと辛くて胸が張り裂けそうになるから「恋愛ドラ
マを楽しんでいた」そう思う事にした。その方がずっと楽だった。

 夫の幸一の通夜で、初めて雄一郎を見た時、梓は雄一郎の中に「若き日の幸一」の姿
を見て胸がときめいた。夫の通夜の席で不謹慎だと、自分が恥ずかしくなったが、翌日
の葬儀でまた雄一郎を見た時には、昨夜以上のときめきを感じた。そして、会社から「
労災の手続きのために、ご主人が所属されていた宿泊部支配人の川村が伺います。」と
聞かされ「運命かもしれない。」と梓はシナリオを描く事を思いついた。
「声を失った」という設定で一幕目が上がった。実際に会った雄一郎は、幸一より数倍
も魅力的であり、夫の死を悲しむ貞淑な妻というヒロインに成りきった梓は、演技をす
るまでもなく自然体で一幕目の幕を無事に下ろす事が出来た。ただ、「声が出ない」役
を演じるのは少し辛かった。
 二幕目のシナリオは「ホテルで働きませんか?」という書き出しで、まず雄一郎が描
いてくれた。梓は二幕目でも見事にヒロインを演じ、そしてヒーローはヒロインの虜に
なった。
「雄一郎との密かな関係」は「幸一との密かな関係」とは比べ物にならない位に素晴ら
しく、梓も雄一郎に夢中になった。雄一郎は梓のために専用の携帯電話を持ってくれて
いた。その事は嬉しかったが「携帯の電源が切られ、ホテルの事務所にある雄一郎のス
ケジュール表に『公休』と書かれている」というシナリオに描かれていないシーンでア
ドリブの演技をする時は辛かった。だから「ホテルを辞めよう」と思った事もあったが
「ホテルの誰も知らない密かな関係」が魅力だった。
 梓は徐々に雄一郎を独占したくなっていた。
「ヒロインは独占したい。という気持ちを抑え、ヒーローを一生陰で支え続けるけなげ
な女性」という「叶う事がない独占願望」は想定内の設定になっていたが、ヒロイン役
の梓にシナリオを変更しなくてはならない事態が起こった。
 去年の11月末、梓がリネン室の清掃をしている時「ねえ、ねえ、見た? 総支配人
の奥さんの写真?」興奮気味でハウスキーパー・リーダーの保坂真澄と同じハウスキー
パーの中込和子がアメニティグッズを補充しにリネン室に入って来た。
「総支配人の奥さん」という言葉に敏感に反応した梓は慌てて業務用掃除機の電源を切
った。
「菅原さん、お疲れ様。」
二人は梓に挨拶をしたが「エーッ? 見てないけど。何で見たの?」とまた「総支配人
の奥さん」の話題に戻った。
「さっき、フロントバックで見せてもらったのよ。何とかビジネスっていう雑誌の今年
のベスト何とかとかいう中に選ばれたらしい。何だったかな? そうそう、ロイヤルガ
ーデンで女性初の支配人。女優さんみたいに綺麗で、私はビックリした」
保坂真澄がオーバーアクションで話をしていた。梓は棚を整理しながら、二人の会話に
耳をすませた。
「でもさ、総支配人の奥さんって、病気で子供が産めなくなって……あの頃の総支配人
かなり落ち込んでいた様子だったよね」
保坂真澄が声を潜めた。
「そうそう。可哀相な位に元気がなくて、フロントの吉野さんとかみんなが心配してい
たものね。凄い愛妻家ってみんな言ってるけれど、なんか羨ましい」
「私はあんなカッコイイ旦那を単身赴任させて奥さんは心配じゃないかな? って思っ
ていたけど、奥さんの写真見て、あんな素敵な奥さんを一人横浜に残して総支配人は心
配じゃないのかなあ? って考えが変わったよ」
「へエーッ、そんなに素敵な人なんだ。早く雑誌が見たい」
「ちょっとー、見るのは後にしてよ。もうすぐチェックインの時間なのに、未清掃の部
屋がまだ残っているんだから、サボっちゃダメ。ほらほら、仕事、仕事!」
「はーい」
ハウスキーパーの二人はそう言いながらリネン室から出て行った。二人の話を聞いて仕
事が手につかなくなった梓は、フロントバックに行ってその雑誌を見たい衝動に駆られ
た。しかし、雑誌を見ているところを雄一郎に見つかってしまう可能性がある。我慢を
していたが仕事が終わるまで時間が長く感じられた。
終わると同時にホテルを出て、ブックセンターに直行して東洋ビジネスを手に取った。
焦っていたので、なかなか目的のページを開く事が出来なかった。やっとの思いでペー
ジを開いた梓は、真理の写真を見て、その昔、幸一に妻の佳美を紹介された時以上の大
きなショックを受けた。
 見事に輝いている真理には美しいだけではない、梓も圧倒される程の魅力があった。
そして、真理が夫の雄一郎の事を語っている記事も読んだ。梓は真理に激しく嫉妬した。
 美しい妻を持っている男がその妻を棄てて、他の女に走る事は多々あるが「あの人は
この女を棄てる事はないだろう。私はこの女からあの人を奪う事は出来ない……でも、
子供が産めない? 可哀相な位に元気がなかった?」
リネン室での保坂真澄の言葉を思い出した。
「彼女は私と同じ……きっと辛かったのだろう……」同じ痛みを経験した者同士が持つ
連帯感を梓は感じた。
「でも……私は自らの手で葬ったが、彼女は違うのだろう。私は『悪魔』だけれど、彼
女は『天使』。人間の心の邪悪な部分が『悪魔』だとしたらその『悪魔の私』を打ち
破るための『心』……それが『天使の彼女』なのかもしれない。でも、時には悪魔が勝
つ事もある。気持ちが激しければ……」真理との連帯感を一瞬でも感じた事で、真理に
嫉妬する思いが更に増した。
 梓は二幕目のシナリオを書き直さず、第三幕目として新たなシナリオを描く事にした。
雄一郎の誠意に賭ける事にした。最初に既成事実を作った。有り得ない事だが、雄一郎
にウソの報告をした時につわりのような症状が起きた。
「そのまま演じ続けろ」と心の中の舞台監督が応援もしてくれた。
「生まれて来る子供と梓と三人で歩む事にする」という言葉を聞いた時は心の底から嬉
しかった。雄一郎を騙した事で心の片隅に痛むものがあったが「気持ちが激しい悪魔が
天使に勝った。絶対に幸せになれる!」そう信じていた。
 しかし、雄一郎は台本どおりに演じてくれなかった。真理と別れ話をした後、雄一郎
はすぐに電話をくれると約束をしていたが、一晩中待っても電話はかかって来なかった。
梓はどうしようもない程の不安な気持ちで一週間も待った。待たされている間、真理に
対する憎しみが増し、雄一郎にさえも、愛している分だけ憎しみの気持ちが沸き起こっ
た。連絡を待っている間に不安になった梓にまたアイディアが沸いた。
「妻と別れた雄一郎を自分の手に入れた後『ごめんなさい。子供を失う事になってしま
って・・・・・・』と悲しみにくれるが、お互いに励まし合いながら立ち直り、そして二人で
寄り添って生きていく」という三幕目のオリジナルのシナリオに、梓はストーリーを追
加した。
 舞台は山梨から横浜に移った。真理は梓の正体に気がつかないフリをして毅然とホテ
ルマンを演じていたが、真理の心の動揺は梓には手に取るように分かっていた。それは
そうなるように仕向けた。加えられた部分でも自分自身の芝居には成功した。
 幕が下りた後にはタキシードを着た雄一郎と、ドレスを身にまとった梓が腕を組んで
歩くレッドカーペットが待っている……筈だった。だが、レッドカーペットは用意され
ていなかった。その原因を作ったのは梓自身だった。小道具に細工を凝らしすぎた。
ホテルの領収書をわざと雄一郎に見せるようにしたのは、ちょっとした悪戯心だったの
だが、雄一郎が本気で怒るとは思わなかった。雄一郎は「梓と子供が大事で、二人を守
るためには、真理も大事にしなくてはならない」と言ったが「本心は真理が一番大事で、
一番愛していたのは真理。永遠にその気持ちが変わる事はない」自分が作った追加スト
ーリーが元で、梓は雄一郎の真実に気がつく事になってしまった。
 
 貧しかった子供時代から、欲しいものがあっても、行きたい私立女子高校があっても
「梓はお姉さんだから、長女だから、我慢してね」
両親にそう言われてずっと我慢をして育ってきた。不満もいっぱいあったが両親に口答
えする事なく「長女」を演じてきた。
 恋愛でも同じだった。自分が望まない男性には求められる。自分が望み、素直に甘え
られる男性を求めると、それは人のものになっていて辛かった。だから、幸一や雄一郎
と会った時に「我慢をする」事に疲れた梓にとってはどんな手段を使ってでも、欲しい
ものを手に入れたかった。
「我慢する長女の梓」はどこかに葬り去りたかった。
「そんな環境が私をつくった」しかし、何でも他人のせいにして、自分を正当化する事
は虚しかった。『容姿端麗、才色兼備』と言うのは、川村真理のような人を指して言う
のだろう。でも、あの女だって、自分を過大評価して、勝手な都合で10年近くも夫を
放りっぱなしにして、その報いは受けるべき」真理に責任を擦り付ける事で、虚しさを
消した。オープンテラスは気持ちが良かったが、隣にベビーカーに小さな子供を乗せた
ヤンママのグループが座ったので、それを機に梓は家に戻った。



 雄一郎が今、どういう状態になっているか無性に気になった。非通知であっても携帯
に電話をかける事は出来ない。
「梓は消えた」と狂おしい程の辛さを味わって欲しいから「梓だろうか?」と期待を抱
かせる事はしたくはない。しばらく考えた末、非通知設定にして声の調子を変え、八ヶ
岳ガーデンリゾートホテルに電話をかけたが「総支配人はお休みを頂戴しております」
という答えが返ってきた。益々、雄一郎の事が気になってきた。そして、梓は一度も電
話をかけた事はないが、しっかり覚えている電話番号をプッシュした。「045 62
1 613」最後の番号をプッシュする時、指が止まった。横浜ロイヤルガーデンから
の帰りに寄った、白い高層マンションの郵便受けの「川村雄一郎・真理」というネーム
プレートを見た時に抱いた激しい嫉妬心が蘇って、携帯を閉じた。
「そうだ、不義理をした団地の隣の片岡ふみ子に電話をしてみよう」
誰かと話をしないと、自分の気持ちが収まらなくなっていた梓は、急に思い立って片岡
ふみ子に電話をかけた。
「もしもし片岡です」
ぶっきらぼうなふみ子の声を久しぶりに聞いて、団地の光景が目に浮かび、雄一郎との
日々が蘇って身体の芯が熱くなった。
「片岡さん、ご無沙汰しています。菅原です。お元気ですか?」
「まあ、菅原さん! どうしちゃったの? 心配していたのよ。菅原さんこそ元気にし
ているの?」
「ごめんなさいね。あの時バタバタしていたから転居先も教えないで。でも、もう落ち
着いたから。私は元気ですよ。これから転居先の住所を教えるけれどメモ出来ますか?」
「ハイハイ、大丈夫よ」
片岡ふみ子は以前と変わらない、気のいいおばさんだった。
「千葉県千葉市美浜区……」
梓はゆっくりと住所を告げた。
「まあ! 何だって千葉県なんかに? そっちは蒸し暑いでしょう? 引っ越さなくて
も良かったのに。菅原さんが居なくなって、私も話し相手をなくしちゃって本当に淋し
いのよ」
ふみ子は心の底から淋しそうだった。
「幕張は、亡くなった主人と住んでいた町なので馴染みがあるんです。でも、山梨では
片岡さんに親切にして頂いて本当に嬉しかったのですよ。だから、離れて私も淋しく思
っています」
「だったら引っ越さなくても良かったのに」
「ところで、ご迷惑かけてないですか? 誰か訪ねて来た人はいませんでしたか?」
「あったのよ。ちょうど良かった! 昨日、会社の人が訪ねて来たわよ」
「そうですか。でも、偶然ですね。本当にちょうど良かったのかしら」
やっぱり電話をして良かった、雄一郎の気配を知る事が出来る。と思って胸が躍ったが、
他人事のようなふりを装った。
「ところで、訪ねて来た会社の人って誰ですか?」
言われなくても雄一郎だと判っていた。
「ここに名刺があるのよ。八ヶ岳ガーデンリゾートホテル 総支配人川村雄一郎。背が
高い男の人だったわよ。怪しくはないと思うけれど、菅原さんからもその人に連絡して
あげてね」
名刺をもらった……ふみ子の答えに少し不安になった。
「怪しくはないって……何かあったのですか?」
「それがね……私が買い物から帰って来たら、その人が菅原さんの部屋の前にいて、引
っ越しましたよ。って伝えたらビックリしていてねえ。それで変な事いうのよね。菅原
さんは結婚して子供が生まれるから、そのお祝いの手続きに来た、って」
「……」
彼は何を話したのだろう?
「もう一つ変な事を言っていたわよ。菅原さんは声が出なかった、って。誰かの間違い
じゃないですか? って私は言ったけど」
「それで、その人はどうしましたか?」
「菅原さんとは筆談で話をしたって。変な事言うでしょう? だから、言ったのよ。ご
主人が亡くなった後もベランダでいつも挨拶を交わしていたし、菅原さんは病気で子供
が産めなくなった。って。」
「……」
梓は絶句した。
「もしもし、菅原さん、聞こえてるの?」
ふみ子が問いかけた。
「聞こえてますよ。でも……そんな事まで言ったのですか」
梓はふみ子を責める様な口調になった。
「私が余計な事を言ったって言うの? だって、その人が言った事って変じゃない?
それに、ちゃんと言わないとその人納得しないみたいだったから。だいたいね、菅原さ
ん、あんたが悪いのよ。私や会社にきちんと引越し先を伝えておかないから。立つ鳥後
を濁さずって言うでしょう? いい加減な事をしちゃダメなのよ!」
ふみ子は梓に腹を立てていた。
「別にいいんですよ。そうですね、ちゃんとしなかった私が悪かったのですから」
「昨日の人といい、今のあんたも何か変よ。一体どうなっているの? 何かあったんで
しょう? だけど、私を余計な事に巻き込まないでね!」
ふみ子は、梓が自分を責めるような口調になった時に薄々事情を察した。そして、昨夜
雄一郎に口外をしない、と約束したにも関わらず本人に話をしてしまった事に後ろめた
さを感じたが、その弱みを梓には見せたくなかった。それに、男と女のトラブルに巻き
込まれるのは勘弁して欲しかった。
「何もないですよ。だから、大丈夫ですよ。ご迷惑かけてすみませんでした。片岡さん
も元気でいてくださいね」
梓は早々に電話を切った。もう、片岡ふみ子と話をする事はないだろう。この瞬間、夫
の幸一と営んだ山梨での生活も、雄一郎と過ごした山梨での時間の全てが消えうせた……
梓はそう感じた。
「まさか、彼と隣に住む片岡ふみ子が話をしていたとは……しかも、彼は私の事情をふ
み子に話をしていた。……全部、あの人に知られてしまった……」梓は余りのショック
で、その場に崩れ落ちた。
「子供の事を心配して、私がいなくなった事を悲しんでいる。そうではない、あの人は
全てを知って……今頃は私を……憎んでいる……私は彼を本当に愛していた。でも……
私が愛している人は私を憎んでいる……」そう思うと胸が張り裂けそうで、死ぬほど辛
かった。崩れ落ちたまま梓は動けなくなった。

「片岡ふみ子に電話をしなければ良かったのか? そうすれば『彼は私を求めている』
と思いながらこれからも生きていけたのかもしれない。あの時のように……聞かなくて
もいい事を聞いてしまったのか? リネン室で話を聞いてしまい、ホテルに行って川
村真理と会った。全て私から仕掛けた事だが、聞かなくていい事、知らなくていい事だ
ってあったのに……彼と一緒に過ごした1年半、私はずっとそうしていた。私には友達
もいなかったし家族とも疎遠で、ずっと一人だったけれど、誰より大事な彼がいる事で、
それが幸せって思っていたのに。彼だけを信じていれば幸せな生活が送れたかもしれな
い。そうすれば、川村真理と会う必要もなかった。彼の元から去る必要もなかった。で
も、人間はそんな風にしていられるのだろうか? 私はそんなに強くない……やっぱり
弱い? ……そうではなくて、愚かなだけ」
 
 携帯電話が鳴ったが出る気も起きなかった。
「もしかしたら……」さっきの電話は雄一郎かもしれない、と一瞬梓は考えた。
「そんな事は有り得ない」呼び出し音が鳴った携帯電話は引っ越した後に新しく購入し
ていた電話だ。それでも「もしかしたら……」と何かにすがるような思いで、電話をバ
ッグから取り出し、留守電に入っているメッセージを確認した。メッセージは面接を受
けた雑貨屋からで「採用が決まったので連絡をください」という内容であった。「もう
仕事なんてどうでもいい!」絶望感が襲った。

 今日は、菅原幸一の月命日であった。雄一郎と付き合っていた時も、梓は心の中で幸
一に詫びていて供養はかかさなかった。好きな缶ビールを仏壇に供え、ろうそくに火を
灯した。
その時「ガシャン」と外で何かが倒れる音がした。
「何だろう?」と窓を開けた時、強い風が吹き込んできて顔を背け、急いで窓を閉めた。
風の勢いだろうが、仏壇の缶ビールが倒れ、ろうそくの火が消えていた。ライターでろ
うそくに火を付けようとした時「いい加減にしなさい」幸一の声を聞いたような気がし
た。梓は仏壇の上に掛けてある幸一の写真を見上げ「エッ!」と声をあげ尻餅をついた。
額縁に納められている写真の中の幸一の目から一筋の涙がこぼれた……ように見えた。
そして、立ち上がり、ドレッサーの椅子を用意し、椅子に上がって幸一の写真を外し、
裏返しで写真を仏壇の上に置いた。
「ごめんなさい。あなたからの罰よね。それはしっかり受けるつもりよ。でもね、私は
エピローグを書かなくてはならないの」梓は幸一の仏壇に向って話しかけた。バッグの
中から手帳を取り出し、まだ付き合っていた時に雄一郎の年間スケジュール表から写し
取った「7月の本部会議」のスケジュールを確認した。「もうすぐ幕が下りる……今度
こそ終演」梓は呟いた。

エピローグ

― エピローグ ―
 今日は「話せるようになるまで時間をくれ」と言った雄一郎が横浜のマンションに
帰って来る日だった。待ち遠しくもあったが「そこでどんな話を彼がするのか」と不
安でもあった。でも、もし「やり直したい」と言われたら……迷わず「はい」と答え
ようと決めていた。そう言われなかったら……自分の気持ちを素直に伝えよう。
「あなたなしでは生きていけない。立場が変わったっていいの。あなたが子供の事を
考えて離婚をして欲しかったらそれに応じる。でも、心の何処かに私の事を思う気持
ちを残してくれているのなら……それだけでいいの。だから……いつもいてくれなく
ても……時々そばにいてくれるだけでいいの……あなたの事は許す。真理が愛する人
はあなだだけだから」と。
 
 午後1時にチェックアウトする、プレミアムクラブ会員の孫暁飛(スン・シャオフ
ェィ)に挨拶をする約束があった真理は、12時少し前に早目の昼食を取りに従業員
食堂に向った。
「ようっ!」と奥の端の席で定食を食べていた村上が真理を見つけ手をあげた。真理
は麺コーナーで山菜そばを注文して、トレイを持ち村上の前の席に座った。
「川村が帰って来るのは今日だったよな」
村上は周りに聞こえないように小さな声で話しかけた。
「……」
真理は言葉には出さずにうなづいた。
「お前は素直に自分の気持ちを伝えろよ」

 村上は二日前の公休日に八ヶ岳を訪れて、雄一郎から話を聞いていた。久しぶりに
会った雄一郎は少し痩せてやつれているように見えたが、どん底から這い上がったよ
うな凄みがあった。そして、身近の人間に起こったフィクションのような信じられな
い話にショックを受けたが、そのショックはまだ残っていた。
「起こった事の全てを話して真理に許しを請う。自分にとって真理はかけがえのない
大切な人間だ。社会的に認められていても、家族を、本当に大事な人間を守る事すら
出来ない俺は最低な屑だ。俺なりの地獄には堕ちて這い上がった。どの位時間がかか
るのかは分からないが、真理が許してくれるまで俺は待つ事にする。許してもらえる
日が来なかったら、それはそれで、それが俺の人生だって覚悟はしている。横浜に帰
る。退職も視野に入れて、会社には異動願いを出すよ」
「分かった。俺はお前を信じている。真理を幸せにしてやってくれ。そしてお前も幸
せになれ」
いつもは多弁な村上も雄一郎の前ではその事しか言えなかった。

 山菜そばを半分程食べた時、真理の携帯が鳴った。
「プレミアムデスク」の表示を確認して真理は受話ボタンを押した。
「お疲れさま。川村です」
「お疲れさまです。早瀬です。支配人、休憩中申し訳ありません。お帰りのご予定が
早まられたとかで、孫暁飛(スン・シャオフェィ)様がご挨拶をされたいとデスクに
お見えですので戻って来て頂けますか?」
「分かりました。すぐに戻るのでラウンジでお待ち頂くように伝えてね」
「呼び出しか?」
「孫(スン)さんと1時に約束をしていたんだけど、帰る時間が早まったのですって。
お先にね」
「そうか……おい、しつこく言うけれど素直になれよ。あのことわざを忘れるなよ」
「大丈夫よ」
真理は村上に笑顔で答え、席を立った。
「真理!」
村上が再び声をかけた。
「何?」
真理は振り向いた。
「あいつは……川村は……お前なしでは生きていかれないぞ」
村上の言葉を聞いて、それまでの「ゲストサービス部支配人の川村真理」の顔が
「川村雄一郎の妻の川村真理」の顔に変わった。

 真理がトレイ返却口にトレイを戻した時に、それまで芸能人のゴシップを伝えてい
たテレビのワイドショーの司会者が口調を変え「只今、速報が入りました。大きな交通
事故が起きたというニュースが入ってきました」と早口で告げた。
「現場に当テレビ局の撮影クルーがたまたま居合わせていたようで、そちらの画像に切
り替えます……現場の小野寺さん、伝えてください」真理はチラッとテレビを観たが、
ラウンジで待っている孫暁飛(スン・シャオフェィ)に挨拶をするため、足早に従業員
食堂を後にした。

「はい、伝えます。山梨県の中央自動車道笹子トンネル手前で大事故が発生しました。
追い越し車線から急に走行車線に割り込んできた車を避けようと、急ブレーキをかけた
車がスピンし中央分離帯に激突し、その後、後続の車が次々と玉突き事故を起こした模
様です。先程まで降っていた雨は止んでいますが、道路は滑りやすくなっていた事で被
害が大きくなっています。今、警察車両や救急車が到着しました。この状態ではかなり
の怪我人が出ていると思われます」
小野寺というテレビ局のスタッフの声は興奮で震えていた。画面には、事故が発生した
ばかりで混乱した生々しい現場が映し出された。
「かなり激しい事故の様子ですが、何台ぐらいの車が巻き込まれたか、という情報は分
かっていますか?」
ワイドショーの男性司会者が問いかけたが、小野寺の返事はない。
「現場の小野寺さん、小野寺さん、音声が途切れていますが、現在のそちらの様子はど
うですか?」
司会者が呼びかけた。画面も乱れていた。
「小野寺です。詳しい状況の確認はまだ出来ていませんが、現場はかなり混乱していま
す・・・・・・」
小野寺はイヤホンを手で押さえながら話をした。
「また、詳しい状況が分かりましたら報告してください」
「分かり・・・・・・した。現場から・・・・・・以上です・・・・・・」
また音声が途切れた。画面はス
タジオに切り替わった。
「音声と画像が乱れて申し訳ございません。だいぶひどい状態になっているようで、心
配ですね。事故の続報は情報が入り次第お伝えしたいと思います」
司会者が深刻そうな
表情でカメラに向って言った。
「さて、先程の……」と司会者は表情を変え、ワイドショーはまた芸能ニュースに戻
っていた。
 村上は「中央自動車道の事故」に敏感に反応したが、雄一郎が本部の会議に出る、と
いう事を忘れていた村上は「まだこの時間だったら川村は出発していないだろう」と考
えた。
「あの規模の事故だったらおそらく通行止めになるだろうから、電車で来るようにと教
えてやるか」
雄一郎の携帯に電話をかけた。
携帯から「運転中」という英語のアナウンスが流れた。
急に不安に駆られた村上は八ヶ岳ガーデンリゾートホテルに電話をかけた。
「総支配人は、午後から本部での会議のために、10時過ぎにホテルを出発しました」
「何だって!」
村上の声に食堂にいたスタッフ全員が驚いた表情で村上を見た。また村上は雄一郎の携
帯に電話をかけた。「運転中」の英語のアナウンスが流れる携帯に向っ
て「川村、出ろよ! 出てくれよ!」
村上は叫び続けた。
 その頃真理は、プレミアムクラブのラウンジで、孫暁飛(スン・シャオフェィ)と中
国語で談笑していた。「中国語が上手になりましたね」と言われて「謝謝」と笑顔で答
えた。

 中央自動車道の事故現場は悲惨な状態になっていた。スピンして中央分離帯に激突し
た乗用車の損傷が一番激しかった。小山雅文という山梨県警高速道路交通機動隊の隊員
は、潰れた乗用車が香水の匂いに包まれているのに気付き、曲がったフレームから車内
に首を突っ込んで匂いの元を探した。助手席の足元に粉々になったフロントガラスに混
じって、綺麗な紙袋から、リボンがかけられた壊れた香水の箱が覗いているのを見つけ
た。白い箱には「ETERNITY」のロゴがあった。
「辛い事になりそうだな」小山はため息をついた。

 村上は不安な気持ちでイライラしていた。着信履歴があるのだから連絡して来てもよ
さそうなのに、雄一郎からは何の連絡もない。電話で警察に確認をしようと思ったが、
何故か怖くて行動を起こせなかった。
 
 我慢が出来なくなった村上がネットで警察の電話番号を調べている時、事務所の自分
のデスクで仕事をしていた真理の携帯が鳴った。
「0553……」という見慣れない番号に首を傾げ「もしもし、川村です」少し不安な
気持ちで応えた。
「川村雄一郎さんの奥様ですね? 山梨県警高速道路交通機動隊の平賀と申します……」


真理の手から携帯電話が落ちた。


その音に驚いた村上が真理を見た。


追い越し車線から走行車線に無理な車線変更をして事故の原因を作り、そのまま走り去
った車は、目撃者の証言と高速道路入退場記録により判明した。

菅原梓は「救護義務違反」容疑で逮捕された。

……次に演じる役は「心神喪失」菅原梓のシナリオは出来上がっていた……



(参照)
・子宮外妊娠については、インターネットサイト「レディースホーム」参照
・Bon Jovi「You Give Love a Bad Name」訳詞
http://irukachan.blog68.fc2.com/blog-category-9.html 参照
・ABBA 「S.O.S」訳詞
 http://www.geocities.jp/buyer02jp/abba/SOS.html sos 参照
 http://www.geocities.jp/shcc_j/merumaga29.html 参照

STAY WITH ME

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
宜しかったら、ご批評などお寄せください。
また、続編も描き終えていますが、後日投稿させて
頂きます。

STAY WITH ME

「そばにいて欲しい・・・・・・」 主人公の川村真理は、結婚生活14年、単身赴任10年の生活を送っている 夫の川村雄一郎から、突然離婚話を切り出される。同じホテルマンであり、 夫をベストパートナーと信じていた真理のショックは大きかった。 本当の理由を言わない夫・・・ 事態はとんでもない方向に向っていた。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2010-11-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 第一章
  3. 第二章
  4. 第三章
  5. 第四章
  6. 第五章
  7. 第六章
  8. 第七章
  9. エピローグ