『愛き夜魔へのデディケート』
争いをやめない人間の敵となるべく、魔法使いと呼ばれた男の手により造られた異形の存在・夜魔。人間でありながら人と異なる力を手にし、戦いに用いる者・術師。
むき出しの欲望渦巻く世界・オズワルドで、それぞれの正義と善悪が悲しく、醜くぶつかり合う。
【生と死と揺蕩う者の前奏曲(プレリュード)】
星の、満月の輝きに、夜の静けさに、懐かしさを覚える。
胸にそそり立った、白銀の杭を握る両の手に、熱を憶える。
冷たい夜の闇も、月の静かな光も、朽ちかけたその躯を溶かし落とす程の烈しさを持ったこの熱を、冷ましてはくれない。
熱の根源を……今なお痛みを発する胸を、彼女はその真紅の瞳で凝視する。
遥か昔の、当時としては新鋭の攻城兵器によってバラバラに朽ちて、今は無残な屍を晒す石造りの城郭。陽の光を拒むように造られたその部屋……城の最奥の謁見の間だったと思われるそこには、今や命あるものを受け入れる余地(スペース)などどこにもない。
せいぜい、嘗てこの城が人の立ち入りを拒むような場所だったのをいい事に、勝手に住み着いた人ならざる者……異形の皇女だったものの哀れな残骸が、やたら整った赤絨毯の上に大の字になって斃れているだけだ。
今尚胸の中心部分、銀の杭が深く打たれた場所から少しずつ、生の証が滲み出る。溢れ出た紅は今尚瑞々しさを保ち続ける体表面を伝って絨毯に流れ、悉く染み込まれて消えゆく。滑らかな手触りのこの杭をまっすぐぶっこ抜けば、紅色の生の証はそれこそ間欠泉のごとく垂直に吹き出すだろう。
ほんの数ミリ急所である心臓を外れていたのは幸いというべきか、それとも災いというべきか。
この杭が、自分を、この冷たい地に打ち付け、縛り付けている。目の前の忌々しいそれに唇を噛みながら、皇女はあの時の事を少しずつ、想い出していた。
かれこれ数百年も昔の話だ。その両手に銀の杭と拳銃を携え、背中に巨大な十字架の形をとった剣を背負い、女王などと呼ばれた自分に単身で立ち向かった若者がいた。
割といい男だった。はっきり言って、好みだった。その身体に流れる暖かい血を吸い尽くして眷属として永遠に傍に置いておくのも一興だと思った。
しかし、その体から漂う血の香は、それこそ噎せ返る程濃厚なそれ。自分と同じ人ではない者は勿論の事、同族である人間も数え切れない程その手にかけて来たであろう事は、容易に想像できた。
赤色(レッド)、暗赤色(ガーネット)、臙脂色(クリムゾン)、紅色(カーマイン)、朱色(ヴァーミリオン)、真紅色(カーディナル)、緋色(スカーレット)……一口に赤色と言っても、この世には様々な赤がある。
彼女は赤が好きだった。まともな人間であれば五回くらい代替わりしているであろう永い永い年月を、あらゆる赤を啜る事で、若々しく美しい姿を保ち、生きた。
赤を……血を啜って生きる。彼女は、生まれてこの方その己の営みに疑問を感じた事はない。人がパンと葡萄酒(ワイン)と獣の肉を糧に生を繋ぐように、彼女は人の温かい生の証を糧に、永い永い時を生きながらえてきたのだ。
当然、盲目的に人の命を尊ぶ人の世が彼女のその行いを、もとい、彼女の存在そのものを赦す筈などなく。
幾人もの狩人とか呼ばれる人間が、彼女のもとへとやってきた。あるときは屈強な戦士、ある時は大自然を手にした若い娘、またある時は復讐心に身を焦がす年端もいかぬ少年。
可笑しな話だ。人の世は他の命を犠牲にする事で成り立っていると人は言う。自分達とその営みは何ら変わらない癖に、人の命を啜って生きる自分達の行いを彼等は狂ったように非難し、自分達を血に飢えた悪魔と罵り、己の悪を棚に上げ、薄っぺらい正義の御旗を掲げて殺しにかかる。
だが、そんな者達に待っていた運命はほぼ例外なく、その牙にかかって無残に死ぬるか、生ける屍となってこの世を彷徨うか、はたまたホンの僅かな勇気すら立ち所に萎えて惨めに尻尾を巻いて逃げ帰るか、そのいずれかだ。
それが彼女は面白かった。自分達を秩序を乱すものとして忌み嫌い、無知で傲慢で利己的な人間が、いざ自分の力が及ばない存在と対峙した時の無様な様相といったらない。
だからこそ、彼女はそんな“彼”に惹かれたのだろう。今までの者とは質がまるごと違う存在に、興を抱いたのだろう。
眼に宿るのは狂気。その身を動かしているのは嗜虐心。人でありながら自ら人を捨てた存在。ワインやウイスキーと同じ感覚でガブガブとあらゆる赤に呑んだくれた、限りなく自分と同じようで自分と違う存在……それが彼女の青年に対する第一印象だ。
…………何故、彼は今尚人であり続けるのだろう。あの時の自分はそんな事を考えた。
勿論、そんな彼女の想いを彼の青年が解する術はない。人の理屈が人と異なるものに通用する理由などないし、無論、逆も然りだ。
何より彼は自分を斃す為だけに、わざわざ明るい人里からこんな薄暗い辺境の古城にまでやってきたのだ。理由までは分からないが、それを解しそこにある過ちを……人の愚かさを彼女が糾したところで、その言を解する術などあるはずもないのだ…………人面獣心のこの狩人には。
ならば、力づく。それも悪くないと思ったから、それも面白いと思ったから、彼女は狩人と対峙した。
剣が、銃弾が、絶え間なく襲い来る。その爪でそれを跳ね除け、雷を、炎を、浴びせかける。奴はその全てを躱し、捌き、ほぼ瞬時に眼前の彼女へ肉迫する。
互いの存亡を賭した戦いは数刻ほど続いた。もっとも最後(オチ)は、ついに万策尽きたと思われた狩人の、思わぬ最後の一手(わるあがき)…………。
いつもどおりの圧倒的勝利を確信し、冷笑を浮かべながら狩人の傍に歩み寄った彼女は、すぐ目の前に倒れ臥した彼の若者が漏らす笑の意を解する事が出来ず。
当然、身体の中心に銀の杭がそそり立っている事さえ、理解できる筈もなく。何故狩人の……下賎な人間の陳腐な騙し討ちに自分が引っかかってしまったのか、疑問に思う術もなく。
その激しい胸の痛みと熱に、彼女の体は大地に屈服した。星のない夜空を背景に見上げた狩人の顔には、深い深い笑が刻まれていた。
それはそれは今まで自分が餌食にしてきた人間達に向けてきたそれより、ずっと冥い笑だった。
杭がホンの僅かに心臓を外れたのは狩人にも僅かな逡巡があったのか、一端に慈悲でも掛けたつもりなのか、それとも逆に余計な苦痛を長く味わわせるためにわざとそうしたのか。
とにかくその結果、今日この時までの……まさに悠久のそれに近い永い永い時を、彼女は、ありとあらゆる痛みと共に過ごした。
“恐怖”も、“怒り”も、“悲しみ”も感じなかった。ただ只管、痛みしか感じなかった。
奴の中に何があったのか、奴を駆り立てるのは何だったのか、分からないまま彼女は痛みに耐え続けた。
永劫に限りなく近い苦しみの果てに、痛みの中に見出した何か。それを確かめる為に皇女は白銀の杭を掴む。不浄なる者を退ける力を秘める銀の杭は、一切の容赦なく、握り締めた皇女の両の掌を焼く。
それでも彼女は、杭を握り締めたその手に力を込める。あの日から……いや、あの日よりずっと前からの疑問に、答えを出すために。
少しずつ、少しずつ、そこに墓標のごとくそそり立っていた杭は音もなく彼女の胸を離れていき、ついに完全な別離を余儀なくされる。廃墟と化した居城のホールに金属音が響く。城から這い出し、何百年かぶりに両の足で踏みしめた地の感触は、あの時と寸分の変わりもなく。
少しずつ、穢れた土の感触と共に、自分の存在の実感が戻ってくる。既に澄み切った己が心。それで最初に紡ぐのは確かな決意。
“世界にとってどちらが悪か、今度こそ、ハッキリさせよう”
杭打たれし夜魔の女王(クイーンヴァンパイア)……シビリー=ハーケンベルクの声なき咆哮が、黎く冥い宵闇に響き渡った。
――なぜ人は、争いを止めないのだろう。
今からずっと昔、およそ千年くらい昔、人々から魔法使いなどと呼ばれたとある男が、そんな事を考えた。
その頃の箱庭は……オズワルドとか呼ばれたその世界は、グチャドロの欲望で満ち溢れていた。
ただでさえ狭い国土と領地、資源を巡って争う国家。
富める者貧しき者を問わず、欲望のままに地を駆けて奪えるもの全てを奪う盗賊(ハイエナ)どもの横行。
金、女、あらゆる私心を満たすべく下劣な策を巡らす穢れた人間達。
パンドラの箱の中身をぶちまけたような混沌が、オズワルドという箱庭の中で渦を巻き、それが巨大な嵐となるまではさほど時間は掛からず。
嵐が去ったそのあとに、堆く積もるのは、絶望する事すら許されなかった哀れな屍だけ。
だから魔法使いは考えた。人間の敵を作ろうと。
人間同士が団結し、立ち向かって戦う対象がいれば。人間の敵を狩る者がいれば。力なき人々は敵の敵は味方と考える事が出来れば。
……少なからず、叡智ある人間は、同士討ちして滅んだりなどしないはずだと。
自分が、パンドラの箱に残った人の希望となろうと。
それは邪な術だと、当然魔法使いも知っていた。
既に彼に躊躇いはない。おそらくそれは彼が生涯で最後に犯した、深い深い罪業。
戦場に、野辺に、冷たい床に倒れたものから、新たな生命を作り上げる……屍霊術(ネクロマンシー)とかいう術だ。
魔法使いには当然、その心得はあった。決して使う事はなかろうと手前勝手に考えてはいたが、そんな事は全くなかった。
兎も角、生命そのものを削った禁忌の術を行使して、魔法使いは人類の敵となる存在を、生み出した。
人の血を、精を、夢を糧に命を繋ぐ者達。人に恐れられ、憎まれ、斃される為に生まれる者達。
夜魔と呼ばれた彼等と人間の終わりなき戦いの始まりにより、人間同士の旧来の争いは、終焉を迎える筈、だった。
……もっとも、それは見事な当ての槌。
自分達が人間以上の力を持つ事を知って、それ故の傲慢から、人を家畜のごとく支配しようなどと考える夜魔。
今まで持っていた以上のどす黒い欲望を叶えるべく、敵対者である夜魔と手を結び、謀略の限りを尽くす人間。
永遠の悪役を演ずる事を強いられる自分の存在に疑いを持つ夜魔と、人間社会の秩序を守る為の夜魔の存在に疑いを持つ人間。
夜魔の永遠の生に憧れる、もしくはそれをルール違反として罰しようとする人間。
人間の醜い部分に憤る夜魔と、人を愛する感情を闇の中から見出した夜魔。
そして、世界の均衡を保つべく、人でありながら人ならざる力をその身に宿した人間……術師などと呼ばれる者達。
だが彼等も……時に人から恐れられ、時に欲望に溺れ、時に己を見失い、深き心の闇を露呈して……。
争うのは人と夜魔だけの筈だったのに、今も人は人同士で争い、敵対者である筈の夜魔は夜魔と争い、人の守りである筈の術師も何をか言わんやだ。
全ての始まりたる魔法使いが没した今も、その構図は何一つ、変わってはいない…………。
この世界を……オズワルドを織りなしているのは、人と人ならざる者達の争いにより紡がれた、至上の混沌だけだ。
そして今尚、他ならぬその至上の混沌が、軋み音を上げながら世界(オズワルド)の歯車(とき)を回し続けている。
ここに、オズワルドの住人達の宿命を纏めた物語(オムニバス)がある。
貴方にもしも勇があるのなら、ここでひとつの話を語ろう。
人から夜魔の皇女へデディケートされた、人の最期の物語を。
ヴィオラの物語【絃と翼の敷衍曲(パラフレーズ)】
人と、夜魔と、それを狩る者が存在する世界。
生と死の歪な境界の狭間で漂い揺れる世界、オズワルド。
そのオズワルドの外れに広がる、深く静かなヴェデラの森からユーリエが姿を消してから、今日で既に二ヶ月が経っていた。
今日も主たる術師が消えて久しいあの小さな邸宅に足を運び、改めてかつてのパートナーの不在を認め、そして大きく溜息をつく。
私と少女の間に跨る二ヶ月という空白の時間は、何の予告も前触れもなく突然に私の前から消えた少女と最後に言葉を交わしたのはいつだったかという事さえも忘却の彼女方へ消えてしまうくらい長いそれのようであり、ほんの刹那のようでもある。
少女と過ごした日々。そこにある数多の想い出を指折り数えてみても、一体人間の手があと何対あれば全て数え終えるのかも分からない。中にはどうしても思い出せないものも存在する。
恐らくは多すぎて少しずつ希薄なそれになり、次第に記憶の引出しの中で風化し、自然に消えてしまったのか……。兎に角、正確な想い出の数は今ではとても数えられない。日記の一つくらい付けていればよかったと軽く後悔する。
二ヶ月前のあの日から……不安、苛立ち、焦燥感といった感情を、私が一時でも憶えなかった日は一度たりともない。全ては少女が何の挨拶も無しに消えてくれた所為。
もしも彼女と再会する事ができたらまず何を言ってやろうか、毎日そんな事ばかり考えていた気がする。
とはいえ、オズワルドという狭い箱庭のような世界からほんの小さな杭打つ者が一人消えた程度では、見ている側が呆れ返るほど平和ボケした住人の心に波風を立てるような事などなく…………。
今夜も山の中にあるバンドォ教会の礼拝堂は人間、術師問わず多くの者達が酒盛りに明け暮れ、ある者は伊達比べと称する派手な手合わせに興じている。
勿論私もそこにいて、硝子の小さなタンブラーの中のワインを揺らめかせ、それを少しずつそれを口へ運びながら……教会に屯する人間達の中に、あの日からずっと探し求めてやまない少女の姿を探している。
やはり、今日の宴席にも彼女の姿はない。こういう賑やかな場が何よりも好きな、誰もがすっかり見慣れた筈の人の姿が……二ヶ月前にその行方を絶ったユーリエの姿は今日も、黄昏時のこの教会の何処にもない。
それだけで、いつもと変わらぬ夜会の筈なのに、大きな違和感を感じてしまう。バンドォ教会で夜会があると聞けばすっ飛んで現れ、時に自ら幹事を買って出るほど彼女等の間では目立つ存在であったユーリエ。
今そのユーリエはここにはおらず、しかし夜会の参加者達がそれを気にする様子は、私にはとても見受けられなかった。
まるでユーリエ=フローマーという少女など初めからこの世界にいなかった、むしろ生まれてすらいなかったかのように…………。
思わず、憤りに似た感情が込み上げる。
こうして夜会の席でめいめいにはしゃいでいる人間達を見ていると、どうしても思い出してしまう事がある。
とある日の昼下がり、新しく手に入れた魔道書を片手に気紛れにつけた年代物のラジオから流れたニュースに聞き入っていた私。丁度その時流れていたのは最近オズワルドで頻発している一つの事件だった。
オズワルドの術師が老若男女問わず、夜な夜なとある一人の少女に襲われ、全身の血を抜き取られて殺されるという事件である。
丁度ユーリエが失踪した一ヶ月後に最初の犠牲者が出て以来、それからほぼ二日か三日おきに術師が殺されているのだ。
このオズワルド始まって以来の術師を標的とした猟奇事件に彼等彼女等は須らく震え上がり……人間を襲わなくなったばかりか、夜間に人間の里に現れる事も全くなくなったのだ。
一部の力の無い術師達にとってはすでに異変レベルと言ってもいいこの事件。しかしこの教会ではそんな事お構いなしに、今日もいつもの様に夜会は開かれ、またいつもの様に勢力を問わず仲間はぞろぞろと集まってくる。
皆、あの事件について一体何を考えているのだろう。明日もこの面々と無事に酒を酌み交わす事が出来るのか、いやその前に次に毒牙に掛かるのは自分なのではないのか……そんな危機感を少しでも抱いている者はこの場に何人いるのであろうか。
すっかり顔も気心も知れたお馴染みの顔触れに、また明日も出会えるとは限らないというのに。
とはいえお気楽、もっと言えば平和ボケをを絵に描いたような術師や一部の人間達には、それを望むべくもないが……。
「何辛気臭い面してんのよ、ヴィオラ。今日は楽しもうよ、ね?」
「あ、ごめん。そうだよね…………」
後ろから響いた誘いの声は私の思考を半ば強引に寸断する。だが少々むっとしながらも私は自然に彼女等の輪の中に入っていた。
自己嫌悪だ…………。結局私も彼女等と同じ穴の狢、お気楽な術師の一人だという事か。
「ファニー…………」
「あら、ヴィオラじゃない。どうしたのよ」
お気楽な人間達の相手をするのに疲れ、彼女等と距離を取りたくなった私は、その足で一人礼拝堂の隅に佇んでいたファニーの元を訪れた。
「ちょっとね…………。隣、座っていいかな」
「はいはい、しょうがないわね…………」
相変わらずここ、バンドォ教会の聖女であるファニーは、特有の不機嫌そうな顔をしながらぼんやりと宴席の人間達を眺めている。
「あ~あ、今日もみんな楽しそうねぇ…………」
「全くね。んで終わったら何もせずに帰るんだし。後片付けする身にもなれって感じだわ。これだから術師ってのは厄介なのよ」
「本当。でも、あのお気楽どもにはそれを望むべくも無い……そうでしょ?」
「悔しいけど、その通り」
気だるげにそうささめいてみたものの、ファニーの口調はそれほど嫌そうではなかった。流石に仕事柄、彼の者達の相手をするのには慣れているのだろう。
一体その余裕が何処から来るのか教えて欲しい。欲を言えばそれを二割くらい分けて欲しい。
「そう言えば……今日も来てないわね、ユーリエ」
ここで私はさり気無く、ユーリエの話題をファニーに振ってみる。オズワルドの管理者の一人、聖女の一人であるファニーであれば何かしら情報を掴んでいるかもしれない。
誰もが須らく日々張り詰めた心に隙が生じる夜会の時ならば、彼女から幾許かでもユーリエについての手がかりを引き出せる……そう考えたのだ。
「あぁ、ユーリエ。そういえば……失踪してから二ヶ月くらいになるわね」
「そうね。今日も確かめにいったけど、まだ帰っていないみたいなのよ…………」
「ふぅん…………。言っとくけど“別にそんなんじゃないわよ”って強がっても無駄だからね? あの娘が心配なんでしょ?」
「まぁ……ね。ファニーには敵わないわ。本当……一体何処にいるのかしら。アイツがいない間に私達は大変な事になっているっていうのに…………」
「さぁ……。ひょっとしたらイワンワシリーの辺りで迷子にでもなっているんじゃないの?」
(…………イワンワシリー?)
思わず、ハッとする。ファニーはユーリエの行方について「オズワルドの何処かで」ではなく、「イワンワシリーの辺りで」と言った。
普段誰に対しても明確な答えを出さない事で知られるファニーが、強く答えに繋がることを匂わせた……はっきりと、イワンワシリーという“場所”を口にしたのだ。
(間違いない……。ファニーは何か知っている…………ならば)
「だけど……決して探しちゃ駄目よ、ヴィオラ」
ここぞとばかりにファニーからユーリエの行方を聞こうとする前に彼女は言った。探してはいけない…………どういう事なのだろう。 私とユーリエの、付かず離れず違いせずの関係を知りながらもそれについて深く干渉する事はただの一度もなかったファニーが何故、今回に限って…………?
「ヴィオラ。どうせ貴女は聞かないでしょうが、せめて友人として忠告するわ……。これ以上ユーリエに深入りするのは止めなさい。私が言うのもアレだけど、貴女はどうも好奇心が強すぎる。自重しないといつかその代償……命で払う事になるわよ」
「ファニー…………」
それを最後に、ファニーの口は固く閉ざされた。
「なんなのよ、ファニーったら…………」
悔しい事この上ない。折角ファニーからユーリエの行方を掴めるかと思ったのにその答えは断片的なそれでしかなく、しかも決して探すななどと軽い脅しのような事を言われてしまった。全ては私の事を思っての事かもしれないが、やはり納得がいかない。
酔った振りをして宴の席を離れ裏の墓地で一息ついていた私の眼前に、黒い少女の姿が飛びこんでくる。
「おや。ヴィオラちゃん! もうカレオツでしゅか」
「何よ……誰かと思ったらいつぞやの瓦版屋じゃない。言っとくけどユーリエの行方に関する取材ならすぐに拒否させてもらうわよ? 私が一番知りたいくらいなんだからね」
「分かってましゅよぅ。しょの……宜しぃければ隣! グッドでしゅかね」
「構わないけど」
言うが早いか、すぐさま黒い少女……ノーラ=クレソンは、私の隣にそっと腰を下ろした。
私達が遠巻きにぼんやりと眺めている礼拝堂の方では今もノリのいい人間達の酒盛りが続いている。そしてさらに浮かれ騒いだ一部の者の手合わせもまだ続いていた。
お気楽とか能天気を既に通り越して、軽薄でいい加減な彼女等の痛々しい様を遠巻きに見ていると、やはり溜息を禁じ得ない。
「はぁ~あ…………こんなに騒がしい少女等と一緒だと、酒も全然回らないわね…………」
「まぁ確かに。でもユーが酔えない理由はしょれだけじゃないでしぃょう! ヴィオラちゃん?」
ノーラは仕事柄作りなれていると思しき不敵な笑顔を、そっと私に向ける。この千里眼娘、どうやら全てお見通しらしい。
なるほど、流石は摂理の目(スペクタクルズ)の術師様。心の中でそう彼女を毒づいて私は答える。
「まぁ……ね。ユーリエの事とか、連続失血死事件とか色々と」
「なるほど。でもユーリエちゃんに関るーすーコトなら兎も角! どうしぃてヴィオラちゃんが失血死ヤマの事を知ろうとるーすーんでしゅ」
「私が次の犠牲者にならないとも限らないでしょう?」
「あぁ~! しょりゃ言えてましゅねぇ」
「そう言う貴女は心配なさそうね。で、さっきそれに関してさり気無くファニーに聞こうとしたんだけど、それも叶わなくてさ」
「りーむーもありましぇん。かーしむからファニーちゃんはしょういう説明的な事は苦手みたいでしゅからねぇ。一連のヤマについてファニーちゃんが動かない事についてあーしもちょろっと訪ねたんでしゅけど……結果はヴィオラちゃんと同じでしぃてね」
遠い目でノーラはそう言った。事件について一番有力な手がかりを持っているであろうファニーから答えを聞き出せなかった事が悔しいのだろう。何となく共感に似た感情を憶える。
「まぁ……今までのヤマで共通しぃているのは! ホシは全員体内の血を全て抜き取られて殺しゃれているって事だけでしゅね。こんな芸当が出来るのはやはり! 夜魔の中でも上位の吸血種……ストリゴイらいくーのものでしぃょう」
ストリゴイ? まさか。夜魔と呼ばれる者でも強大なストリゴイと呼ばれる存在ともなると、人間を直接襲う事はこの世界の守護者である術師の賢者達により固く禁じられているはずだ。まして、オズワルドのヒエラルキーにおいて人間よりも遥かに上位にある術師に彼女等が手を出すなど…………。私が反論するよりも早くノーラが口を開く。
「ところで! ヴィオラちゃん……。かつてオズワルドの術師と! ストリゴイとの間に交わしゃれた契約…………ご存知でしゅか」
「えぇ、少しだけなら。つい最近イワンワシリーの主の手で改定された、術師とストリゴイ双方の食料となる人間に関するアレでしょう?」
「しょれなら話がやいはーでしゅね。実を言うと……あの契約には穴があるんでしゅよ。しょれこしょ帆船も通れる大きな穴がね…………」
……どうにも、釈然としなかった。宴を終え、暗い山道を一人家路についている間も、私はずっと先程までのノーラとのやりとりを反芻していた。
遥か昔に……少なくとも私が生まれる前に西国から現れたストリゴイとファニー達オズワルドの権力者の間に交わされ、デメテル湖の辺に建つ夜魔の街……イワンワシリーの主であるシビリーによってつい最近改定された契約。そして、そこにある“穴”。ノーラによればそれは術師の血だという。
あの契約の内容は改定以前も極めて力のない人間寄りなそれであり、人でありながら人のそれから遠くかけ離れた存在たる術師の血に付いては全くノータッチだったのだが、昨今の改定でもそこには殆ど触れられていなかった。言ってしまえば、あの契約の大意は“ストリゴイはオズワルドの人間を直接襲ってはいけない”だけである。
逆に言えば力を持つ術師であれば幾らでも襲っていいという、改めて考えて見ると恐ろしく手前勝手な契約なのだ。
当然といえば当然と言えるかもしれない。ストリゴイを始めとする、一般に夜魔と呼ばれる人外の者が人を襲い、人間とは区別された存在である“力”を持つ人間……術師がそれを狩るという原則がある事で、このオズワルドの秩序は守られているのだ。
まぁあの我侭を絵に描いたようなイワンワシリーの主が考えた内容ならば十分納得がいくが。しかもそれはご丁寧に絶対に破ってはいけないというオマケも付いているのだから、度し難いことこの上ない。
あまつさえ、夜魔を狩る存在である術師すらも、一部の人間からは恐れられ、討伐の対象となっている現実もある。
人間、夜魔、そして術師。それぞれの関係はあまりに複雑で、奇っ怪で、混濁たるそれなのだ。
(なるほど……これは確かに大きな穴だわ。ストリゴイは今日まで術師を襲えないのではなく、自ら彼女等を避けて襲わなかっただけだったのね)
(しょりゃしょうでしぃょう。いつかのストリゴイ異変は術師の中でも最強クラスの者が力づくで解決しぃたって話でしゅから)
(んで、契約が結ばれたのはいいけれど、それはストリゴイと術師が人間を食物とする事を前提にしたものだった。術師はまさか自分達が襲われるとは夢にも思っていなかった…………。ノーラ、それが貴女の言う穴ってわけね)
(えぇ。しょしぃてしょの術師達の過信という穴にいち巻きで気付き! 術師の血のみを糧とるーすーはぐれストリゴイ……恐らくは新参者のストリゴイがいる! あーしはしょう思っているんでしゅ)
(へぇ……でも、それと一連の事件、そしてユーリエに何の関係があるのよ)
(分かりましぇんけど! あの契約が改定しゃれるという大事が起きた時期を考えると関係が全く無いとも言い切れないんでしゅよ。しょれに関しぃては今後も取材を続けて行くつもりでしゅけどね)
「あぁぁぁ…………っ」
頭の中の靄がどんどん濃くなり、仕舞いには痛みすら憶えるようになる。事件について考えれば考えるほど、謎は深まって行くばかりだ。
ユーリエの消息とイワンワシリーの関係を匂わせたファニー。一連の事件とユーリエの失踪に対し二度のストリゴイ異変、そしてかつての契約にある穴を引き合いに出したノーラ。だが結局、ユーリエと事件との関係はそのノーラですら分からないままである。
根拠も何も全くないが、私はユーリエは一連の事件に関わっていないと思っている。ユーリエとストリゴイという二つの点が線で繋がる理由が、私には見当もつかないからだ。
オズワルドにおいて広く知られているストリゴイといえば、やはりシビリーとヴィルギニアのハーケンベルグ姉妹である。以前私はとある人の紹介でイワンワシリーの茶会に招かれ、実際に二人に対面したこともある。
しかし私が抱いた彼女達の第一印象は、このストリゴイは随分小さすぎないか、これでは人を死に至らしめる事が出来るほどの血は飲めないじゃないか、だった。
それについてふと気になった私がさり気無くイワンワシリーの住人の夜魔の一人に聞いた話ではシビリーは超が付くほどの小食で、直接人から血を飲んでも対象を殺す事は出来ず、精々貧血を引き起こす程度が関の山だという。
……そう考えれば、間違いなく彼女は容疑者からは外れるだろう。では妹のヴィルギニアはどうかというと、それも疑わしい。ヴィルギニアがイワンワシリーから出て来ることは滅多にないと聞いているからだ。
(まさか、アンジェルが…………?)
可能性なら充分ある。イワンワシリーのメイド長にして、唯一の人間であるアンジェル=シガン……。聞く所によればアンジェルはシビリーの夜伽役でもあり、毎夜彼女は主たるシビリーに己の血を、絶やす事無く与え続けているという。
ならば将来的にアンジェルも主と同族となるだろう。いや、既になっていても可笑しくはない…………。仮にまだ彼女が人の身体を留めていたとしても、そこらの弱い術師ならば何らかの方法で打ち倒して、主の元へ運んで行く位は出来るかもしれない。
事が済んだら朝が来る前に何処か辺鄙な場所に吸殻を捨ててしまえば一丁上がりである。時空さえ制御出来るアンジェルなら十分可能な事だ。
だが、いずれにしても、ユーリエだけは一連の事件には関与していない…………そう信じたかった。
しかし……私の切なる願望にも似た不確かな推測は、まさに一撃の元に打ち砕かれる事となる。
「うわぁああっ!!」
不意に闇の中から男の悲鳴が……何か恐ろしいものに直面し、誰かに助けを求める為の悲鳴が宵闇に響き渡った。
一体何事だ? 悲鳴に恐れを感じた私は一刻も早くここから逃げ去ろうと思い立ったが、生まれつきの好奇心はこの身体を押さえてはくれなかった。
何よりその耳で救いを求める悲鳴を聞いたのだ。声の主が誰かは知らないがこうして悲鳴を聞いてしまった以上、私が助けなければならないだろう。
舗装もロクにされていないデコボコした山道を何度もつんのめりながら駆けぬけ、辿りついたのはこの辺りでも一際広い場所。簡素なベンチやテーブルが周囲に並び、主に山歩きを楽しむ人達が休憩所として使っている広場である。
その下、燦燦と降り注ぐ朧月の蒼白い光に照らされていた、二つの人影。月明かりのお陰で明るさは充分にあるそこに、じっと目を凝らす。
「嘘…………っ」
そこにいたのはブロンドの髪の少女。純然たる黒に染まったワンピースに紅い腰リボンをあしらった服、純白のベレー帽を被った少女。
天使のそれにしてはあまりに禍々しく、悪魔のそれにしてはあまりに神々しい白銀の大きな翼を背負った少女が、先程の悲鳴の主と思わしき男の術師を見下ろしている。
「あぁ~っ、全くオスの術師の血っていうのは不味くて仕方ない。やっぱり血は年頃の女のものに限るな…………」
(血、ですって? まさかこの娘、ストリゴイ……なの…………!?)
すぐにそんな疑問が浮かんだが、その少女のシルエットはシビリーのそれでも、ヴィルギニアのそれでもなかった。まさか彼女が新たにオズワルドに現れた、ノーラの言っていたはぐれストリゴイなのか?
「久しいな……ヴィオラ。二ヶ月ってのは長いものだ…………」
少女の顔を直視した私は思わず眼を見開いた。血色が抜けて青みがかった白い肌。濃く陰のかかった目元と、血が滲んだような薄い唇から覗く長く鋭い犬歯。そして、今も激しく、そして妖しく光り輝く、この世のどんな赤よりも紅い両の瞳。
人間であればまず持ち得ない顔をした少女の声は、、今日この時まで求めてやまなかった、黒い術師の声。
幾度も、それこそ穴が開くほど少女を凝視して、ようやく私は彼女が……私の知るユーリエ=フローマーであることを悟る。
とはいえ、今の彼女の魔力の質、そして私自身が強く惹かれた魅力のようなものは、既に人のそれを留めてはいなかったが…………。
「ユー……リエ…………」
「どうした、そのボケッとした面は。そんなにストリゴイ(わたし)が珍しいかい…………絲遣いのヴィオラさん」
白と黒の脆弱なりに一生懸命術師のふりをしていた人間から、紅と黒の混濁たる闇を心身に宿す、紛れもないストリゴイのそれと成った少女の姿を認めた私の中に、あらゆる感情が込み上げる。
今まで一体何処で何をしていたのか。何故二月もの間皆の前に姿を現さなかったのか。そして何故、どのようにして今のような姿となり果てたのか…………。
聞きたいことはそれこそ山ほどあった。だが、私が一番最初に少女に問うた事は…………。
「酷い……どうしてこんな事を…………っ!」
よりにもよって私が最初に問うたのは、ユーリエの足元に倒れたままぴくりともしない男……。恐らく彼女がその手に掛けたと思しき術師についてのことだった。
まるで全身の水分を残らず吸い尽くされたかのように完全に干からびて浅黒く変色し、硬化してしまった肌。白目を剥いたまま夜空を仰ぎ続ける眼。
ユーリエの足元に大の字に倒れた彼の術師が息を吹き返す事など、二度と無い事は明らかだった。ユーリエは先程まで術師であった男の脇腹に蹴りを入れ、それを受けて宙を舞った男の亡骸は闇の中に消え去った。
明日になればこの辺りに差し込む日の光によって男の身体は骨も残らずに、灰となって消え去る事だろう。
「こいつはたまたまそこにいただけだ。ここらでちょっと騒ぎを起こせばお前は必ず飛んでくるからな」
たまたまそこにいただけ…………。すぐに分かった。私に会うためなら、私を誘き出すためならば襲う対象は誰でもよかった。
……それが今日はあの男だった、それだけの事。思わず胸が怒りで膨れ上がる。
「だからって……だからって、こんな手段を取らなくてもいいじゃない! いつもみたいにノック無しで家に普通に来ればいいでしょう!? それなのに…………っ」
「分かってないな……それじゃ面白くないだろう? 折角の再会、これくらいのサプライズがあってもいいと思うんだが」
しゃあしゃあと私の方を見ずに語るユーリエは更に続ける。
「ヴィオラ……お前にも話したよな。私はいつかオズワルド一の術式使いになるのが夢だった。その為の研究は一日たりとも欠かした事はなかったし、修行と称する悪魔狩りにも、専門家であるファニー以上に力を入れていたつもりだった。ヴィルに出会うまではな」
「ヴィル……ヴィルギニア=ハーケンベルグね。あの娘がどうしたのよ」
「あぁ……アイツに教えられたのさ。幾ら努力を堆く積み上げても、生まれつき天賦の才に恵まれていても、人間という器には限界がある。意外かもしれないがヴィルのヤツ、生まれつきののストリゴイのくせに人の血を上手に吸えなくて、ずっと苦しんで来たんだ……」
「何なのよ……ユーリエ」
「そんなヴィルに愛されて、私もアイツを愛して、やっと気付いたよ。結局人はちっぽけな存在である事。妖でさえ滅びの運命からは逃れられない事。矮小な自分にも誰かの為に何かが出来るという事……だから私は、ヴィルに血を与えた…………」
そう語るユーリエの首にははっきりと、ヴィルギニアのものと思しき紅い二つの牙の痕が残っていた。
「成る程……要するに貴女は二ヶ月もの間ずっと、出血多量で死んでいたって事ね」
「あぁ……そしてその結果がこれだ。まさか本当にストリゴイになってしまうとは予想外だったが、慣れてしまうとこの身体も便利なモンだよ。オズワルド最速と云われる竜騎士(ドラゴンナイト)の速度にも十分追い付けるし、今までどれだけ努力しても持てなかった系統の術式も使えるようになった……」
まるで何処かの趣味の悪いB級映画のような話だ。ふと見るとユーリエの体からは、ぼんやりと紅い煙が絶えず放たれている。恐らくは彼女が持つ魔力が形を為したもの…………ストリゴイ化という現象の賜物であろう。
その紅い魔力の波長……それは以前、とある因果でシビリーと相対した時に感じたそれに似ていた。
「ユーリエ……貴女…………っ」
「どのみち私はもう人間には戻れないし、真なる術師にもなれない。だけど、今の私には悠久に近い時間がある。人間ならそれを知る前に寿命が来てしまう複雑な研究にも十分堪え得るんだ…………それに」
そう言うと彼女は懐から黒い短剣を取り出す。あれは……主に魔術の儀式に使われる“アサメィ”と呼ばれる剣だ。当然殺傷力は皆無だが、それは一般的なペーパーナイフ程度の切れ味なら十分備えている代物。
「こんな面白い能力も身につけてしまったからな」
腕にアサメイの切先を押し当て、それを一気に縦に走らせたユーリエの腕から鮮血が迸った。そこから吹き出したそれらは重力を無視して宙に浮き、彼女の周囲にふわふわと漂っている。
大きく腕を切り裂いた際の痛みを感じていないのか、澄ました顔のユーリエがそれらに右手を翳すと……滴ったユーリエの生の証は無数の刃に姿を変え、一斉に襲いかかって来た。これは…………。
間違いない。かつてイワンワシリーの茶会の際、気紛れにシビリーが見せてくれた術式の一つ……確か名前は緋の劔(スカーレットエッジ)だったか。それを、ユーリエが今、使って見せたのだ。
「人や妖の血を介し完全ではないにしろ相手の魔力を得て、それを己のものとする……これが私の新たな力。さしずめ簒奪(スティール・マジック)とでも言えばいいかな。術式の幅を広げるのにこんな便利な能力はなかなか無いぞ?」
「……ユーリエ、その術式はシビリーのものね。まさか、貴女…………!!」
「あぁ、シビリー様の血も吸った。普通ならストリゴイ同士で血を吸い合ったりすると拒絶反応が起きて身体がボロボロに壊れちまうらしいんだが、どうやら私は特別製みたいでね…………何故かそれは起きなかった。ひょっとしたら奇跡みたいなもんかな。そうそう、ついでにこんな事も……」
…………紅い魔力がユーリエの手元に集まり、一振りの大きな剣の形を為す。甘く見積もって六尺はあろう歪な形の黒い剣……ダインスレイフ。ヴィルギニアが振るうそれにあまりにも酷似していた。
いや、実際はオリジナルと多少の相違点はあるものの、かなり特徴は捉えている。ユーリエが全身の力を込めてそれを振り上げると無数の火の粉が辺りに散らばり、そして消えた。それが意味するものは最早ここで語るまでもなかろう。
「シビリー様やヴィルの血は大術式使いという私の夢の為に大いに役立ってくれた。ヴィオラ……お前の血に宿る魔力も、私の術式の幅を大いに広げてくれそうだ…………」
(術式の幅を広げる…………その為に!?)
その為だけに貴女は今日まで、オズワルドでも力のある術師達を次々とその手に掛けてきたというのか。しかもあろう事か同族であるシビリーやヴィルギニアまでも。そして今、今度は私の力を得るためにこうして…………!!
「ふふ……うふふふふ…………」
「どうした? 怖くてとうとうイカれたか……?」
「ふ、ふふ……あはははは! こりゃ傑作ね。どうやら私が知ってるユーリエはヴィルに殺されてた。そしてそんな事も知らずに私はずっと貴女を思い続けた…………! 我ながらとんだ道化だわ、あはっ、あははははは…………!!」
自嘲から来る狂気の笑いを漏らしながらも、私は心に高揚感を憶えていた。今となってはヴィルギニアに感謝してやりたい。
こうしてユーリエを人以外のものにしてくれたおかげで……彼女に対する一切の容赦も手心も、その必要性が失われた。
「いいわ……相手になってあげる。ここ最近モヤモヤしてた気持ちも、この場で貴女を木端微塵にすれば少しは晴れるかもね!!」
「ハッ。嬉しいよ……お前がその気になるとはな。だったら精々楽しもうか…………“絲師(アトレイシア)”、ヴィオラ!!」
上空から……朧月を背負ったユーリエから放たれた火の玉が、大地に叩きつけられる。術式使いとストリゴイの少女、それぞれの命をチップとした手合わせが始まった瞬間だった。
先程の先制打の衝撃をかわして真正面から対峙し、じっと様子を窺う私。人より少しはよい頭脳をフル回転させて、ユーリエがどう攻めるかを予測してその戦術に会わせた攻撃体勢を整える。
勿論私の戦い方は……そう、いつもの絃術タイプのパターンから派生する攻撃だ。一人の相手には此方も一人で立ち向かう、そんな愚を犯すような真似など私は決してしない。
左舷、右舷、背後、そして前方……。あらゆる方向に絃を張り詰め、相手が攻めこむ隙も安全地帯も絶対に与えないポジションを作る。
弾丸の密度を増やし、避ける隙を封じれば神聖な決闘たる手合わせは成り立たなくなるやもしれないが、そんな綺麗事など私に言わせれば無様にバタバタと倒れていった者達が語る“敗者の論理”に他ならない。どんな狡からい手を使おうが、どれほどの勢力で立ち向かって圧倒しようが、正しいのは勝利した方だ。
そう……私は証明しなければならない。人の理屈がもう通用しない、かつて人であったストリゴイの少女に。彼女への睥睨の視線に揺ぎ無い意志を込める。
「なるほど、典型的な絃術タイプ……お前らしいといえばお前らしいな。だけど……その手の術式は決して無敵じゃない」
そう言うなり指をぱちん、と鳴らすユーリエ。あたりにその音が響くと彼女の背後から無数の紅い靄が生まれ、そこからゆっくり、しかし次々と何かが靄から這い出て来る…………。
私はそれに見覚えがあった。バレーボール大のサイズを持った巨大な瞳だけの体に、蝙蝠の足と翼が付いた魔物…………。アーリマンと呼ばれる下級悪魔の一種。
私と人形達はあっという間に彼女の者達に全方位を取り囲まれてしまった。懸命に闇に視界を巡らして、奴等がどれほどの勢力を持っているのかを確かめる。
その数…………測定不能。一瞬にして逆転した形勢に、冷や汗が頬を伝う。それでもショットをアーリマン達に向けて斉射し殲滅を試みるが、やはり数が多すぎてその全てを撃ち落す事は出来なかった。
ユーリエがその手を私に向けると、アーリマン達はその巨大な目から紅い光を撃ち放つ。それを受けた絃の結界は悉く紅蓮の炎を上げて燃え落ちる。
「あぁ…………っ!!」
「どうした。私を木端微塵にするんじゃなかったのか?」
悠然と背中の白銀の翼をはためかせながら、ストリゴイの少女は勝ち誇った様な笑みを浮かべていた。全身を冷や汗が伝う。やはり、勝負にならないのか……?
少女が人間だった頃ならば完全勝利とまではいかなくとも、決して後れを取る事だけはなかった筈だ。それが今はこれである。
(いや、まだだ)
……諦めるな。まだ手はある。そう自分に言い聞かせ、隠し持っていた一束の糸をそっと大地に埋め込む。
その後すぐに弧を描くようなダッシュでユーリエの周囲を右へ、左へ、また右へと飛び回り、威力は弱いものの魔力は然程消費しない、自らの魔力によるショットを絶えず浴びせかける。
「擽ってるのか……そんなやわっちょろいショットじゃゴブリン一匹倒せやしないぞ?」
余裕綽々のユーリエは軽やかに私のショットをかわしながら、掌から真紅のレーザーを撃ち出す。私もそれをコンパクトモーションでかわしながらも、なおショットを放つ手は緩めない。ほんの一瞬でもそれを止めればすぐに私のターンは終わってしまう。
ユーリエがその速さをもって反撃に転じる隙を与えないように自身のメインショットと、僅かに残った絃の波動が撃つサブショットで攻めたて、じりじりと相手を“一箇所”に追い詰めていく。
(ビンゴ!!)
ユーリエが“それ”に気付いた表情を見た時、思わず私の口元に笑みが零れた。
“それ”に…………。一連の攻撃をしかける前に用意しておいた絲の結界に念を込めると、耳を劈く派手な轟音と鮮やかな橙色の爆炎がユーリエの足元を襲う。
流石に死に至らしめるまではいかないが、この一撃で手足の一本や二本は軽く吹き飛んだだろう。私に攻めかかるための、そして己を守るための四肢。
そのいずれかさえ潰してしまえば、圧倒的だった戦力差も一息で覆る…………筈だった。
「爆発トラップとはやるじゃないか……暫らく見ない間に随分腕を上げたものだ」
……濛々と立ち込める黒煙と炎の中から、ユーリエが姿を現した。その涼しげな表情をほんの少しも崩さずに。
「う……くうぅッ…………!!」
思わず歯を噛み鳴らす。あれほどの爆発をその身に受けたというのに、彼女に殆どダメージはないらしい。
精々纏っている漆黒のローブが所々破れているだけだ。手足を吹き飛ばすどころか、かえって相手を逆撫でしてしまった事に気付く。
「なら、こっちも本気で行かせてもらう…………」
彼女らしくない、極めて冷淡なその言葉とともに突き出された右腕。そしてその手に握られているのは勿論…………。
(久遠の灯火…………あれね)
それだけですぐにピンと来た。この世界でも強力な部類に入る魔道具、久遠の灯火に魔力を込め超高温の熱線として具現化し、ありとあらゆるものを薙ぎ倒すユーリエ=フローマーの十八番……断絶(シャイニィ・ラプチャー)。
だがその威力はその眼で何度も見て、数度くらいならその身で受けて十分に分かっている。そして当然その避け方、勿論その弱点までも。
……甘く見るな。貴女の自慢のその術式…………。そこらの雑多な人間ならまだしも、貴女の強さを嫌と言うほど知っている私には決して通用しない。
さぁ――撃ってみるがいい。何処に何発撃とうが全てかわしてやるという決意を込めた視線で彼女を見据える。
ユーリエの右手の久遠の灯火に魔力が集約されていく。充分にそれに力が満ちたのを見て取ったか、少女はそっと唇を動かした。
「純なる我欲(ノーブル・ディザイア)」
魔力の集約音が止み、術式名の宣言が辺りに響くと同時に、ユーリエの手元から血のように赤い極太のレーザーが放たれる。
どういうことだ? それは私が見慣れたシャイニィ・ラプチャーによる白い破壊の光ではない。光にあったのは綺羅とした輝きではなく、やはり何の生も命も宿らぬ真の禍々しさ。
悪夢、恐怖、絶望といった、人型のものが持ち得る負の感情をこれでもかと押し固めたような光。当然それが放つ光には、彼女が人間だった頃のそれを遥かに凌駕する威力がある事だけは間違いない。まともに食らってしまえば私程度のものなど魂の一欠けらも残らずに消し飛んでしまうだろう。
幸い咄嗟に右の方向へ大きく飛び退いた事で直撃だけは免れた。私のすぐ側を横切った真紅のレーザーは湿った大地さえ容易く抉り取り、ほんの僅かな生命さえも悉く呑みこんで虚空へ消え去る。ノーブル・ディザイア……一体あの術式は何だ。
久遠の灯火の火とユーリエ自身の魔力であそこまでの火力を出す事が出来るのか。そしてあの紅い光。彼女の身体から絶えず放たれていた紅い魔力は何だ…………。
多くの疑問が渦巻く中に私はこの戦いについて一つの“答え”を見出す。
(小細工はもう通じない、か…………)
これが答えだ。小賢しい策が通用しないならば、あとは相手のそれを上回る純然たる“力”で押し切るしかない。
とはいえ、この場の私に残された手段も…………力に力で立ち向かうための切り札も一つ。出来る事ならこれだけは使いたくはなかった。腹を決めて愛用している黎き絃と紅き絃を束ね、左右に展開する。
続いて残された絃を大地に張り、二つの人形が放つレーザーが交わるポイントを押さえてそこに鳴子(トラップ)を仕掛ける。後は紅と黎の絃に十分に魔力を注ぎこみ、ユーリエがそのポイントに差し掛かったら撃ち放つだけだ。
そう……螺旋状に束ねた絃の束の一撃を相手の身体の一点へ同時に叩きこみ、それが生み出す撃力で敵を打ち倒す純粋な力技の術式である。かつて術式を本格的に学んだ時に一度教わったが、私はこの手の術式を強く忌避していた。
決して相手を傷つけないという信念に反する術式だから、今までずっとこれを実戦で用いる事を自ら禁じていたのだ。
だが今の相手はあのユーリエである。飾り立てたプライドや信念、マニュアル化した技術に縛られていては、その策ごと潰される。
まして今の彼女は人だった頃のそれとは比較にすらならない力を持つストリゴイ。中途半端な攻撃はかえってその身を危険に晒すだけだ。
ならば全ての攻撃を全力で、尚且つ正確に決めなければ…………。すぐさま私は行動に出る。
私以外の者には絶対に見えない糸。その方向に歩み寄るユーリエを見据えて彼女がそこに足を踏み入れるのを待つ。
二つのレーザーが交わる場所。地面に張った術式の糸が触れる音……私にしか聞こえないその音をキャッチし、“そこ”にユーリエが差し掛かったのを確かめる。
(今だ!!)
右に紅い絃、左に黎い絃。それらに私の念を一気に注ぎこむと、二つの絃に指向性が与えられ、螺旋を描きながらまっしぐらに一つの方向へ向かい飛びかかる。無論その方向は標的であるユーリエ……その身体のほぼ中心。
「二重螺旋(デュアルスピニングスピア)……。消し飛べ、ストリゴイ!!」
二色の絲の奔流を掌から撃ち出し、ユーリエの胸に撃力を抉り込ませる。
威力自体は彼女の用いるシャイニィ・ラプチャーにこそ劣るものの、この術式は狙いさえ的確ならばただの人間だろうが術師だろうが、ほぼ一撃で死命を制すことが出来るのだ。
が、当然それだけの術式を発生させれば、此方が受ける反動も大きい。これで相手を倒せなければ……少しでも的を外してしまえば、逆に自ら断崖を背負ってしまう。
要するに、これは殆ど分が悪い博打に近い技なのだ。これが私がこの術式を今日まで封じていた理由。
とはいえ……死を賭した一撃に対する褒美なのか、奇跡的にも今回はそんなイレギュラーは起こらなかったようだ。
「…………勝っ、た………………っ」
流石に似合わない荒事を冒した甲斐があった。先程までその鋭い狂牙を私に向けていた、かつてユーリエであったストリゴイの少女の姿は、私の目の前から永遠に消え去った。
……無理もない。ユーリエの身体の中心……心の臓に、二つの絲の螺旋を一箇所へ同時に、まさにピンポイントで撃ち込んだのだ。
心臓を白木の杭やら何やらで打ち抜かれれば、さしものストリゴイでも確実に死ぬ。というより、本来不死の存在である彼等彼女等を完全に屠る方法はこれか、あとはその肉体を浄火で焼き払うしかない。そのうちの一つをここで選び、そして私は成功させたというわけだ。
しかし、やはり慣れない事はするものではなかったか……身体の彼女方此方が今も激しい痛みを上げている。流石に付焼刃の超火力術式は肉体的には脆弱そのものの私が耐えられるものではなかったようだ。
安全が約束された我が家に辿りつくまでの力が、この体に残っているかどうかも不安になる。
まぁなんにせよ勝ったのは……生き残ったのは私だ。一度は本気で愛したユーリエを斃したという事実も、互いの存亡を賭けた戦いに勝利したという事実の前には、全て瑣末な事だった。
明日になれば後悔の嵐は轟音と突風を伴って襲い来るだろうが、今の私にあるのはこの死闘を生き延びた事への安堵だけだ。
強力な絲の奔流の反動をモロに受け、限界ギリギリまで傷ついた身体を、私はどうにか動かそうと試みる…………。
「…………っ!?」
と、突然に襲った、首筋に何かが触れる感覚。何事かと思って後ろを振りかえった私は思わず眼を見開く。
「あれしきで勝った気でいたのか。流石にまだ甘さを捨て切れなかったみたいだな、ヴィオラ」
「そ……んな、どう、して…………!」
…………そこにあったのは先程、心臓を絲で撃ち抜いて完全に葬った筈のユーリエの姿。そして私の延髄は彼女の右の掌にすっぽりと包まれ、さらに鋭い爪が深々と食い込み、そこから少しずつ血が流れ出でている。
「幻影防儀(アデプト・イリュージョン)……。ヴィルのそれには及ばないにしろ、お前の焦点のない眼を欺くぐらい造作もない事だ」
バキバキという頚部の悲鳴が絶え間なく私の耳に飛びこんでくる。どうやら全精力を注ぎ込んだ絃で私が撃ち抜いたのは、よりにもよってユーリエから分離した幻影だったらしい。
一体何時の間に彼女は分身などという、大それた術式など会得したのだろうか。何時あの戦いの最中に己の幻影と摩り替わったのか。そして何より、何故あの時、私はその幻影に攻撃されたのか…………。
そんな事を考えている間もユーリエの爪は私の首に走る痛感神経を絶え間なく刺激する。どうにかして彼女の手から逃れようと私はその身体を前に、後ろに、そして左右に動かそうとするも、それらは全く虚しい努力だった。
ストリゴイは術式抜きの純粋な力も異常なまでに強いのだ。身体能力は人以下のそれな上、ファニーの様に体術の心得があるわけでもない私が逃れられる道理などどこにも無い。
いずれにせよ、一転してこの場の敗者となったのは私のようだ。ユーリエはそんな私の無様な姿を見て妖しい笑みを浮かべている。
「ふ……ふっ。どうやらここまでみたいね…………。ユーリエ。……さっさと私を殺しなさいよ」
「おいおい…………らしくないな。一体全体どういう風の吹き回しだ?」
「相変わらず鈍いのね……私の負けだって言っているのよ。さっさと私の血を全部吸って殺すがいいわ。この場で貴女の手にかかって死ねるなら、それはそれで本望よ。むしろ……その死に様が、私にはお似合いってものだわ…………!」
勿論、嘘だ。私の知るユーリエは心が幾ら複雑に捻じ曲がっていても、力無き者を殺めるほど歪んではいない。
既に身体は人のそれでないとはいえ、今こうして“形”を保っているなら、まだ心まで悪魔に堕ちてはいないだろう。付け込む隙は幾らでもある。
幾らその心身を黒く染めても、真正の悪には決して為りきれない……それがユーリエ=フローマーの最大にして致命的な欠点。確信とも、一縷の望みとも言える根拠の無い答えから、私は死中に活を見出すための言葉(かぎ)を作った。
後はそれを差し込んで回してしまえば、取敢えずこの場だけは脱出できる……。そこから先の事はその時考えればいい。
「どう、したのよ。まさか怖気づいたの? ほら、やれるものならやってみっ…………!」
全て言い終わるその前に一際強烈な痛みが私の首を、そして全身を襲う。先程までの戦いの所為で完全に体力を消耗した私の口からは、悲鳴の一つも上がらなかったが。精々か細い呻き声を漏らすのがやっとだった。
「嘘は良くないぞ、ヴィオラ…………。初めから命が要らないなら、下手にあんな小賢しい手を使って抵抗なんかしない……まして、決闘なんていう手段には訴えないよ。お前はまだ死にたくない、出来ることならどうにか逃げ延びたい…………そう考えてるだろう?」
駄目だ……バレている。恥も外聞も捨てて惨めに虚勢を張って、いや偽りの慈悲を乞うて少しでも逃げるだけの隙を作るという、最後に残った選択肢も意味を為さなかった。
あぁ……そうだ。一番最初に気付くべきだったのだ。もはや相手は私の知るユーリエ=フローマーではなく、身も心も深淵に堕ちて、純粋な闇に染まり果てた黒い悪魔だという事に。
“これ以上ユーリエに深入りするのは止めなさい……”今日聴いたばかりのファニーの警告が激しくリフレインする。相手の言うことにいちいち反発したがる自分の性分がつくづく憎たらしい。
心の臓が早鐘のように脈打ち、口から漏れる呼吸がからからに乾いていく感覚を憶える。
「そんなに怖がるな……私がお前を殺すわけないじゃないか。それに…………」
と、その刹那……首にかけられていた力と同時に私を襲っていた痛みがフッと消える。
「私はね……ずっと、何でも言う事を聞く奴隷が欲しかったんだ。お前の使う絃みたいな奴隷がな…………」
(………………っ!!)
奴隷。ユーリエのその言葉の意味を、激戦により疲れ切った頭で理解した頃には遅過ぎた。
いつの間にか私の身体はユーリエの両腕にすっぽりと包み込まれてしまっていた。頼みの綱である術式も自身の魔力も尽きた今、この場で抵抗する術は何一つ残されてはいない。
悔しい気持ちを噛み締めているその間にも、ユーリエの唇と私の頚動脈との距離は少しずつ縮んでいく。
「寂しかっただろう……お前。誰にも素直になれなくて、本当の自分を理解してもらえなくて、みんなに誤解されてばかりいて…………」
そっと首筋を撫ぜていくユーリエの吐息。鋭利な二つの何かが“そこ”へ突き刺ささる音と痛み。
体温、心拍、そして思考が、急速に深い闇へと落ちていくような感覚…………。それらは至上の快楽を伴って私を支配しはじめる。真新しい噛み傷を舌が撫ぜる度に、全身を強い電気のそれに似た刺激が高速でひた走る。きっと今私は無様に顔を紅潮させ、だらしなく開かれた口から荒い吐息を絶えず漏らしているに違いない。一度は本気で愛したユーリエにあられもない姿を晒しているに違いない。悔しさ、絶望、死への恐怖…………押し寄せるありとあらゆる感情に下唇を噛み締める。
「あ、くぅ……っ。ユー……リエ…………っ」
「心配ないよ……ヴィオラ。もう二度と寂しい思いはしなくていい。お前には永遠の安らぎと居場所、そしてずっと私の傍にいる権利をやるからな…………」
ストリゴイの少女の囁きは甘い香を放って脳を駆け巡り、残された僅かな理性を蕩けさせる。その間も熱と鼓動の低下は止まらず、四肢を初めとする身体機能のコントロールさえも、己の意思ではままならなくなる。
明るさを失って遠のいてゆく意識。重く冷たくなる身体。だが、生の終わりを意味するそれらの現実も、その中で絶えず身体と心を駆けていく快楽の前に、虚しく霞んでいく。
「……い…………や………………」
やがて……私の元に、何より重く何より暗き眠りが訪れた。
次に私が目を覚ます時、その目にはどのような景色が映るだろうか。
一度は深く愛した少女を主と呼び、真紅の生者の生を啜りながら、永遠にその足元に侍る存在となり果てるのだろうか……。
それも、悪くない。
そんな事を考えながら、私は紅く黎い闇の中で、ただその時を待つ事にした。
『愛き夜魔へのデディケート』