叫び声が止まるとき
12年後の朝
「希美、はい、これお弁当。じゃあ、今日も頑張ってね」
「うん。ママありがと。じゃあ、行ってきまーす…っと、パパも、行ってきまーす」
ママとパパに元気よく挨拶をして、私は靴を履き鞄を持って玄関のドアを開ける。
朝から自分で言うのもなんだけど、元気いっぱいだ。
朝は一日の始まりって感じがして好き。一日一日悔いのないように全力で生きるためには、やっぱり朝から元気いっぱいじゃないと。
新鮮な朝の空気を感じられることはとても幸せな事なんだ。
「希美。今日はパパの誕生日だから、早く帰って来るのよ。それじゃあ、行ってらっしゃい」
ドアを閉めるために振り返ると、ママは笑顔で私を見送ってくれていた。
「うん。行ってきまーす!」
私はママに笑顔で答えて、家を後にした。
今日の天気は快晴、空には雲一つない。清々しいほどの水色。時々吹いてくる秋風もとても気持ち良かった。
「早起きしてよかった、今日。こうして、ゆっくり歩いて行くのも悪くないなぁ」
今日は確実に十月に入って一番の快晴だ。天気が晴れだとやっぱり気持ちがいい。心が澄み渡る気がする。
そして、それに加えてもうひとつ。
今日はパパの誕生日だ。
「それにしても、今日はほんっとに、いい天気だなー」
だからなのか、私は今日、私の親友にある事実を打ち明けようかと思っていた。別に私の心に秘めたままにしておいてもいいことだとは思ったけれど。
「うーん。今日もいい日だ」
でも、私にはそれを言わなければいけない、伝えなければいけない。そういう使命が私にはあるんじゃないかって、ずっと思っていたから。
あの事件のことを思い出すのは少し辛いけど、私にはそれを伝える使命があると思うから。
私にとって、あの事件を思い出すことは、やっぱり辛いことなのだけど、でも不思議と救われた気持ちにもなる。
それは、私だけじゃなくて、きっとママもパパも。あんな酷い事件を経験したにもかかわらず、きっとみんなあの時、救われた。
「青空、太陽、そしてその下をゆっくりと歩く私。ふふっ、何か私、詩人みたい」
私がどうしてそう思うのか、今どうして救われたような、そんな気持ちになれているのか。
それは、その理由は私にはあまりうまく説明できないけど、きっとそれは、あんな悲惨な状況だったのに、そこには確かに笑顔があったから。あんな状況の中で私は、笑顔を見ることが出来たから。
だから私は、今こうして前を向いて生きていけるのだと思う。
そしてきっと、ママもパパも、私がこうして生きることを望んでいるのだと思う。
「うーんっ。なんか今日も、いい日になりそうな気がする」
ぽかぽか陽気が気持ちいい。
私は背伸びをして、太陽の匂いがする空気を思いっきり吸い込んだ。
「あら、希美ちゃん。おはよう」
「あっ! おばさん、おはようございます」
「希美ちゃん、今日はいつもより早いじゃなーい? 何か用事でもあるの?」
「ううん。ちょっといい天気だから、こうして、秋の空気を味わいながら、学校に行こうかなって、思っただけ」
「あら、そうだったの。でも、そうよね。今日とってもいい天気だものね。それじゃあ希美ちゃん。今日も勉強、頑張ってね。行ってらっしゃい」
「うん。行ってきまーす」
朝いつも話しかけてくれる近所のおばさんにも行ってきますを言って、晴れ晴れとした天気の中を、スキップまでして浮かれながら、私は学校へ歩いて行った。
もちろん、通学途中の横断歩道は白いラインだけを踏んでね。
幸せな家庭 大切な家族
「じゃあ、仕事。行ってくるよ」
「財布も持たないで? どこに行くって?」
「あっ…。ごめんごめん。忘れてた」
「いいえ。だって、あなたがそそっかしいってことくらい、もう分かってるから。はい、どうぞ」
妻の千夏から財布を渡される。
「ありがとう、千夏」
「それで、今日帰りは何時ごろになりそう?」
今日でもう何回行ったのかも分からないやり取り。結婚生活五年目、休日を除いて毎日繰り返されている日課。
でもそんな毎日を送れていることが、最高に幸せだった。
妻の千夏とは大学生時代に出会って、二年の付き合いを経て結婚。子供も一人いる。平凡ではあるが幸せな生活を送れている。
「えっと。八時には帰ってくるよ。残業はなさそうだし」
そう言いながらネクタイを締め直す。外出する前の癖みたいなものだ。
「あなたのその動作。ネクタイに触るやつ。私、それ好きなのよ」
千夏が急にそんなことを言ってきた。毎日見ているはずなのに。五年間で一度もこの癖に触れたことがなかったのに。
「なんだよ。急にそんなこと言うなよ。恥ずかしいだろ…」
自分でも無意識にやってしまうどうしようもない癖のことを、人から指摘されるとやっぱり恥ずかしい。特に身内から言われると。
「すぐ顔が赤くなるのも、かわいくて私好きなのよねー」
今度はからかう気満々で、千夏はそう言いながらくすくす笑っていた。
「もう、からかうの辞めろって。何も出てこないぞ」
「パパ。いっへらっはーい」
その時、娘の希美が眠たそうな眼をこすりながら玄関にやってきた。
まだ四歳。寝癖もたっていた。ピンク色のパジャマのズボンの裾を引きずらせながら歩いているので、引っかかってこけるのではないかと心配にもなる。
でも、そんな娘の姿がやっぱりとてもかわいくて、将来は凄い美人になるだろうな、なんて親ばか全開なことを思いながら、とても幸せな気分になって、癒されていた。結婚して、希美が産まれてきてくれて、それだけで幸せだった。
「うん。パパ、行ってくるよ。希美もちゃんといい子にしてるんだぞ」
希美の頭をポンポンしながら、顔はもちろん緩みきっている。
「うん、わかったー」
そう言いながら、眠たい目をこすりつつあくびをするなんともかわいいしぐさを見せてくれる希美。
いつもはこれでお終いなのだが、今日に限っては続きがあった。
「のぞみ、いいこにしてりゅかりゃ、ひゃからー、パパも、はやくかえってきてねー」
「……希美」
希美のその言葉がいきなりすぎて少し驚いたが、娘にそんなことを言われて、かわいいなこいつ、以外の気持ちが湧くわけもなかった。
「うん。早く帰ってくる。希美の言う通りに、パパ早く帰って来るよ」
今度は希美の頭を撫でる。娘ってなんでこんなにもかわいいのだろう。
「それじゃあ、希美、千夏。行ってくる」
ただ、いつまでも頭をなでたままでは大切な家族を養うことはできないので、俺は名残惜しみながらも、希美と千夏に行ってきますの抱擁をして、玄関の扉を開け外に出た。
「いってらっしゃーい」
「ひってらっはーい」
俺がその声に反応して振り返ると、千夏と希美が二人で手を振ってくれていた。
「行ってきます」
そう言って軽く手を挙げてそれに応え、俺は扉を閉めた。
何だか元気が湧いてきた。
「よし! 今日も仕事、頑張るか!」
朝からいつも以上に幸せな気分になっている。
意気揚々とは、このことを言うんだろうなぁ。
叫び声が止まるとき