水族館と計算ノート
「 」
黄色い手帳の時であったから、そろそろ一年が経つ。
確か、初春にしては暖かい日だった。引っ越す前の、あの狭いアパートのベッドの上で、二人は昼食の余韻に浸っていた。手を差し伸べたような光が何本も差し込み、あの部屋はサンゴ礁に沈んだ小さな水槽の中にあった。
コーヒーの匂いが満ちた水槽の中で、体の大きい彼は私の隣で背を丸め、とてつもなく甘く、黒い飲み物の入ったマグカップを愛おしげに、せわしなく撫でていた。私はというと、しれっとした顔でとてつもなく苦く、黒い飲み物を啜りながら、山田詠美と共にドライでアダルトな恋愛を共有していた。
私は何も知らなかったのだ。だから、彼の唇がそう動いたことにも気が付かなかった。はた、と考え、首を捻じると赤い耳があった。
なんと。
私は案外冷静だった。思春期の入り口を黒い制服を着てくぐったあの日から、互いに別の世界に住むようになった今の今まで、なんとなく肩を並べ、こんなふうにベッドに腰を下ろし続けて生きていたのだ。そういう、温くて緩い海流の中に私たちがいることは後頭部の僅かな部位で感じていた。彼がアリンコみたいにこそこそ蓄えをしていたことと、わざわざ安い中古の車を買ったことが、ようやくここで初めてひとつの等式となった。ようするに、その来るべき状況が、やってきただけに過ぎない。遅すぎたようにも思うのは、ヨーイドンした位置が大分手前であったためだ。
しかし、私は貧欲であった。
温い水槽の中に、コーヒーと山田詠美と大きな生き物がいる。それ以上の環境がこの世に存在するとは思えなかった。ましてや、朱印の押された薄い紙一枚による契約が、それを保証してくれるという確証はオキアミ一匹ほどもない。
どうしても等式は完成しなかった。そんな等式の答えすら、必要ないような気がしてならなかったのだ。
私は算数が苦手だった。
だから、私は赤い耳を齧った。
とてつもない甘さであった。
ずっと上の方にいたはずの、白くてぼんやりした太陽は、知らぬ間に、塩水に溶かされてしまったようで、いつの間にか月が代わって水槽を照らしていた。
海面では、今日彼が飲んでいたドロ甘コーヒーのミルクように月のあかりが浮いている。それを私はベッドに埋まりながらにして天窓から透かして見ていた。干したばかりの羽毛布団が、隣で眠る大きな犬の寝息に合わせてゆっくり浮き沈みを始めてから、そろそろ一時間が経とうとしている。
行為の途中でよく吐き気を催してしまう私に、彼はどんなに息苦しい思いをしたのだろうかと今になって考える。そういえば、いつも僅かな酸素で細く長く、静かに呼吸をしていた。彼はもう陸の生き物であったはずなのに。何故私のそばにいたのだろうか。
恐らく私は、一生この大陸棚に沈む水槽から出ないだろう。彼は私の野望に気が付いているのだろうか。そうとすれば、いつまで息が続くのだろうか。気が気でない、とまではいかないが、彼が私の隣で窒息死してしまっては、私がこの水槽の中で生きている証明をしてくれる存在がいなくなる。それは困るのだ。
そう、困るのだ。
私はようやくノートを開いた。五冊セットの黄色いやつ。
ペンダコのできた指で黄緑色のシャーペンをつまみ、あげた。
昔に覚えたはずの公式をひっぱりだして、数字を並べた。
消しゴムを使わないと決めていた。
間違えないようにゆっくり数字を整列させ、イコールで仲良くさせた。
計算と見直しを繰り返した。
「 」
私は再び、彼の口を見ることなく同じ言葉を聴いたのだった。
気が付けば、頭の後ろのカレンダーが、いつの間にか12回逆上がりをしていた。
右手の裏側が、煤けてまっくろになっていた。
何度見直したか分からない。
それでも私は、答えを出せてはいなかった。
私がノートを抱えて黙っていると、彼はそれを見つけて手を差し出した。
私が渡すと、彼はページを開いてシャーペンをノックする。
「一緒に」
彼の口が動いたのを、久方ぶりに見た気がする。
そうか、答えは出ないのか、と気が付いたのは、彼が大きく呼吸をしたのを見た時だった。
水族館と計算ノート