お菓子の家とヴァンパイア
これは、君に捧ぐ物語。
迷子の少女
とある北のほうの小さな田舎の、平凡な家で彼女は目を覚ました。ドアの隙間から顔を出した母親の、怒りとも呆れとも聞こえる声が聞こえた。目に痛いほどの日差しに眉を顰めて、ぼんやりと携帯に表示されている時刻に視線を移す。時刻は昼をとうに過ぎて、反省の念を抱えながらも動けずにもぞもぞと布団ごと身体を動かした。
「もう、いつまで寝てんの!仕事行くからね!?」
「はあい……」
未だ布団に篭った儘小さく返事をしたものの聞こえていないのか、勢いよく閉まるドアにびくりと身体を震わせる。相変わらず母親はヒステリックで未だに慣れない。訪れた静寂に嫌に溜息が響いた。
梶田美穂、十七歳。
中学の時に学校に行かなくなってから早4年。今は通信制高校で勉強をしつつ、殆ど家に居るため一応は学生でありながら仕事は家事手伝いといったところだ。気怠い身体をのろのろと起こして、布団を蹴飛ばして大きく伸びをすると、何時もと何ら変わりない散らかった部屋を見回してもう一度溜息をついた。倒れるように寝転がって携帯のロックを外す。たった一つの未読メッセージは昨日の朝方、友人からの"おやすみ"だけだった。何処と無くやるせない気持ちを引きずったまま、ベッドを降りてリビングの冷蔵庫を開けて適当な朝食を済ませる。今日の仕事は買い出しと、夜に家族が帰って来るまでに洗濯を済ませて夕飯を作って、それから…――そこまで思案して、机の端に乗ったままの期日の迫ったレポートに目がいった。
「…もうやだ…」
誰もいない部屋で突っ伏して小さく零す。父親と母親が離婚をしてからというもの、どこかで家族というものが壊れてしまった。家族と笑い合うことも無ければ、何かしらと怒られてばかりの日々に嫌気が差す。無力な自分を差し置いて、周りだけが幸せそうに過ごしている気がして涙が滲む。何処に居ても、邪魔者のような気がして消えたくなる――
暫くそのまま突っ伏した後、壁に吸い込まれた自分の泣き言を無理矢理忘れるかのように洗い物を済ませて、冷蔵庫の中を一通り確認する。慣れたもので、最初は慣れなかった主婦業も今ではすっかり自分の担当になっている。しかしそれも、敢えて仕事を与えられているのか仕方なく任されているのかはたまた頼られているのは当の本人には全くどれが正解か予想もつかない。少しでも気分を変えようとプレーヤーから好きな曲を流してイヤホンを両耳に突っ込み、洗濯機が終わるまでぼんやりと携帯を見詰める。あまり役に立ちそうにもない情報が溢れ返るSNSのホーム画面を一通り眺めて、今朝の愚痴や気に入ったもの等を淡々と書き込んでは更新してゆく。気づけば一時間近く経っており、慌てて洗濯物を干しに小さな庭に出る。秋になってすっかり涼しくなった外は心地がいい。濡れた服から風に乗って香る洗剤の香りを吸い込み、部屋に戻る。嫌々ながら手をつけたレポートを少しだけ片付け、日の暮れる前に、と夕方には買い物の為に着替えて外に出た。
玄関を潜ると、同年代とおぼしき少年少女が制服に身を包み笑いながら歩いていた。帰宅途中なのか、オレンジの強くなった日の光りに照らされながら友人とじゃれ合っている。美穂は思わず下を向いて唇を噛んだ。先ほどまでの充実感から一気に地獄に叩き落とされたような心地になりながら、数年前の悪夢をひとつひとつ思い出していた。両親の離婚と、理不尽ないじめ。優しかったはずの父親も母親も離婚してからというものすっかり人が変わってしまったように思う。美穂はもう長い事母親と二人暮らしをしていた。虐待や暴力こそ無いが、言葉の節々に生えている小さな刺が毎日毎晩胸を抉るのである。そういったストレスからか、幼い頃よりは随分内気な性格になってしまった。大人しいのが災いしたのか、中学に上がってからは学校で罵声と嘲笑に耐える日々だった。それから、彼女の中での人間という存在の価値観は大きく変わってしまった。誰もが温かく優しい世の中だと思い込んでいた幼少時代とは一変して、今では誰のことも信じるのが怖い。そんなことをぼんやり考えながら、すれ違う人と目が合わぬように早足で遠くのスーパーに向かう。本来なら自転車でやっとの距離なのだが、生憎先月盗難にあった所だった。買い物の量はそう無かった為、徒歩での買い出しを自ら請け負ったのである。すれ違う人の目線も車の音も不快だけれど、和らいだ日差しとそよ風が心地よい。ふと、目を細めた視線の先に再び学生服の数人が小さく見えた。思わず道の脇に寄ると、森の脇の小道につながる横道を見つけた。遠回りして行けば、気分転換になるかもしれない…そう考えると迷う事無く方向を変えて歩き進める。この辺は田舎だけあって自然が多い。道ばたに小さな花を見つけ、乾いた心を癒しつつ態とゆっくりと歩いた。随分前から都会に憧れはあったものの、生まれ育ったこの田舎の美味しい空気と広い土地、夜の星空は愛している。もうあと数時間もしないうちに訪れる夜を楽しみに、今日は窓から星を見よう、とおもむろにあたりを見回した。
と、たまたま目線を運んだ森の奥に人が入って行くのが見えて、美穂は目を丸くした。ただでさえ田舎の端っこの森である。立ち入るのは猟師か木の伐採をする人くらいだ。もう十七年住んでいるが、この森に人が入って行くのを見るのは始めてだった。それも人といっても普通の服装ではない。涼しいとは云えまだ長袖一枚で事足りるこの季節に、やけに丈の長いジャケットを着た男。細長い手足が妙に印象的で、古めかしいタイをしていて国籍すら定かではない。まるで昔の映画か漫画――もしくはサーカスの衣装とも言えるようなへんてこな服装の男が、森の奥へ奥へと入っていった。何かの撮影か、はたまた気の違えた変わり者かコスプレか。不審に思いつつもついつい好奇心が背中を押して少し森へと爪先の向きを変えて少し先へ進む。方向感覚には自信が無いにしろ、少し進むくらいなら平気だろう。日の光の遮断された暗い所へ進むのは気が引けたので少し手前から目で追うも、暗闇に紛れてすっかり姿が見えない。少しだけ暗い場所に入ると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。そうこうしているうちに、美穂は木の根に足を取られて派手に転んだ。
お気に入りのスカートについた泥をはたき落として、肩を落として傷む足を見る。少し膝小僧に血が滲んでいて驚くも、このくらいは大丈夫だと自分に言い聞かせて慌てて踵を返した。明るい小道まで戻って暫く歩いたところで、先ほどの事をネタに友達にメッセージでも送ろうとパーカーのポケットに手をやる。しかし彼女の手が掴んだのは小さな葉っぱ一枚だった。慌てて反対側のポケットを探り、前屈みになって鞄の中を荒らすように探すも、重い金属の質感はどこにもない。なんせ財布とハンカチ一枚しか入ってない鞄なのだ、見落とすわけもなくしまいには足下を数度見て大きくため息をついた。
「え…嘘でしょ…」
落としたのなら少し前に転んだあの時以外ありえない。なんせすぐに取り出せるように浅いパーカーのポケットに突っ込んだまま派手に転んだのである。どうしてすぐに気づかなかったのだろう、どこまで自分は間が抜けているのだろうとひたすらに自責しながらどうするべきか悩む。本来ならば電話をかけながら探せば早いのは分かっているが、何せ今は周りに誰も居ない。日の光は次第に赤みを増し、遠くの空ではカラスが鳴いていた。
「最悪…。取りに行くしかないか…」
時計はないにしろ幸いまだ多少は明るいし、時間はある。場所を忘れないうちに、森に戻ったほうが合理的だと言い聞かせながら急ぎ足で来た道を引き返す。再び小道から木々の隙間を潜り抜けて、勘だけを頼りに先ほど居た場所とおぼしき所を入念に探す。が、ただでさえ薄暗い上に木の葉や木の枝、挙句の果てにはゴミまで落ちているこの森で、手のひら程の大きさのものを探すのは困難だ。諦め切れず探しているうちに、彼女は随分奥の方まで来てしまった。日が落ちてきたのか、より一層暗い中辺りを見渡せど木々ばかり。美穂はずっと下を向きながら動いていた為、いつの間にかすっかり帰り道を見失った。思い出したように膝の傷が痛み出して、乾いた筈の涙が視界をぼやけさせる。恐怖で足が竦んだ。
「なんで私ばっかりこんな目にあうの…」
少し汚れた掌が顔に当たらぬよう、服の袖で涙を乱暴に擦る。携帯電話を諦めて、家族への言い訳と叱られる時の文句を想像しながら歩いているうちに、啜り泣きの声はいよいよ泣き声になり、隠せなくなってきた。落ち葉を踏む自分の足音と泣き声。時折風に揺さぶられた木々の枝から、葉擦れの音が響く。不意にもう一つの足音が聞こえた。美穂は思わず肩を震わせ足を止める。その足音がゆっくり近付いてくるのに気付いて涙目を必死に凝らすと暗い森に細長いシルエットが浮かび、美穂は恐怖心でいっぱいになりながら後ずさった。
「…どうしたのお嬢さん、泣いてるの?」
美穂の耳に柔らかい声が飛び込む。随分久しぶりに自分以外の声を聞いた気がした。此方に歩いて来ていたのは先ほどの男だった。服装こそ変だが、男の心配そうな口調に思わず安堵の溜め息を漏らす。よく見ると、彼は眉を下げて首を傾げ此方を見ていた。美穂は泣き顔で目が合ったことがなんとなく恥ずかしくなり、目を逸らして涙声の早口で答える。
「あの、携帯落として、それでえっと帰れなくなっちゃって、…町に戻りたいんです…」
混乱と緊張で言いたいことが上手く文章にならないことを自覚しつつ、美穂は返事をじっと待った。泣いたが故に未だ止まらないしゃっくりを必死に噛み殺す。ふと、男の手が優しく頭の上に置かれた。人に頭を触られたのなんて、もう何年ぶりだろうか。頭の隅でそんなことを考えつつも、反射的に硬直する。
「大丈夫だよ。泣かないで?落し物をしてしまったんだね。それから、きみは迷子になってしまったんだね」
まるで幼子でも相手にするかのような男の口調に戸惑いつつもこくこくと頷いて目線を前方に戻せば、屈んだ姿勢で己の膝を見る男の頭があって一瞬驚く。美穂は上擦った声で目を皿のように丸くしたまま、頭の中いっぱいに疑問符を浮かべて声を出せずに居た。
「きみ、怪我してるじゃないか」
男はどこか悲しそうにますます眉を下げると此方を見上げてくる。暗闇に目が慣れたのか、日本人離れした顔立ちがくっきりと見えて再び目を逸らした。
「だっ…大丈夫です…とりあえず、あの…町までの道を…」
傷を隠すように掌を翳しながら数歩後ろに下がって、美穂は町までの道を案内して貰えるのを待つ。男は立ち上がると何かを考えるように少し眉を寄せて、顎の下に手を当てていた。ふいに美穂のほうを向いて微笑む。
「んん……僕の家、すぐそこなんだ。来ないかい?なんだったら落し物は僕が探しておくから、怪我の手当が済んだらすぐ町まで送るよ、ね?なあに、怪しいものじゃないさ」
「…へ…?」
男は人の良さそうな笑みを浮かべて相変わらず無遠慮に頭を撫でた。美穂はその台詞に思わずその素っ頓狂な声を上げた。
不思議な男
昏い森を歩きながら、美穂は小学生の時の授業を思い出していた。
“絶対に知らない人にはついていってはいけませんよ”
やたら声の響く女性教師が、誘拐犯と少年のイラストの映し出されたスクリーンを教鞭で無意味に叩く情景は今でも鮮明に思い出せる。当時は真面目に頷きながら聞いていたものだ。あの頃は何もかも教えられる事だけが全てで、大人は皆完璧で素晴らしく自分たちはただただ守られるべき存在なのだと自覚しながら能天気に生きていた。
「本当に歩いて平気かい?」
ハッと顔を上げれば心配そうな顔が此方を振り返っていて、慌てて首を縦に振る。あの後、男の申し出を断ってすぐさま走って逃げても良かった。もっと言うなら断固拒否して町までの道案内だけして貰っても良かった。が、なんとなく断れず言葉に乗せられて着いていってしまった。どちらの選択肢もこの男を不審に思ったが故の行動には変わりない為、どれも憚られたのである。序でに言うとそれを考えている間が、さらに美穂自身の言葉を詰まらせた。先ほど思い出した言葉がぐるぐると頭の中を観賞用の魚のように泳ぐ。絵に描いたような不審者でないにしろ、小柄な美穂からすれば巨人並みに大きい男の身長はおそらく一メートルと八十は下らない。いくら細いからとはいえ、何かあっては勝ち目も無い。しかし頭の片隅で、何かあったら母親は、遠くに住んでいる父親は心配してくれるのだろうかという疑念もあった。何かあったらあった時でいいや、と少し自棄になりつつも足元に気をつけながら薄暗い中を歩く。鬱蒼とした森はさらにその昏さを増してゆき、暗闇に目が慣れないうちにふと男が立ち止まり美穂の方に手を出した。
「もう少しなんだけど、この辺りから本当に暗いから」
人に触れるのが久しぶりすぎて、思わず手を出したもののどうしていいか分からずおろおろと狼狽する美穂の手を、そっと一回り大きな男の手が掴む。思ったよりもひんやりと乾いた感触に驚く間もなく手を引かれ、仕方なく後を着いていった。見慣れた町からそう遠くはない筈だが、足下の障害物をやっと判別できる程度の明るさの森は異世界にでも攫われたかのような錯覚を覚える。
「こんなに広い森だったんだ…」
「きみはこの辺の町に住んでいるんだよね」
思わず小さくそう零すと、機嫌のいい声が返ってきた。返事をしながら当たりを見回した。
「はい…でも、家の近所くらいしか行かないから、こんなところ知りませんでした」
美穂がそう言うと、男は小さく笑って“そりゃそうだ”と呟いた。美穂はその返答の意味がよく分からず小首を傾げたものの、前を歩く彼に見える筈もなかった。普通の人はもう少し家からの行動範囲が広いものではないのだろうか、自分の住んでいる町とはいえ、流石に森の中のことまでは知りうるなんてことはそうそう無いのが当たり前、という意味なのだろうか。男の返答の意味を頭の中でああだろうかこうだろうかとこねくり回しながら歩き進めると、家のような建物が視界に映る。この暗さでは色などの細かい所はまるで見えず、紺青色の風景にシルエットだけを浮かばせている。数歩近づくと、玄関口と思われるところに小さなランプが灯りを灯していた。お伽話に出てきそうなほど洋風で古いデザインのその家は、鬱蒼とした森に不思議と似合っていた。前を歩いていた彼がドアに手をかけるその様は、服装も相俟って何処かのテーマパークにでも来たような心地になる。そんな風にぼんやりと棒立ちして眺めていた美穂は、中に入るよう促されておずおずとドアを潜る。電灯のスイッチでも入れたのか、ぱっと部屋の中がオレンジ色の灯りで照らされた。
「お…お邪魔します」
「あはは、どうぞ。あまり片付いてないけれど気にしないでね。なんせ来客だなんてもう随分久しぶりなものだから」
楽しげにそう言いながら、男も部屋に入る。洋風の外観通り、どうやらこの家には玄関らしい玄関というものは存在しないらしい。小さめのマットの上に両足を乗せたまま、美穂は何処で靴を脱いでいいやらわからず立ち尽くしていた。なんせこんな家の造りの家に上がるのは始めてである。男を真似てそのまま先へ進んだ方がいいのだろうと片足を浮かせようととた瞬間、男がドア脇の棚からスリッパを二足だして片方を足の前に置いた。
「これをお使いよ、少し大きいだろうけど、女性ものの靴は特に疲れるから」
「すみません」
美穂が身体をすくませて頭を下げている間に、男はさっさと自分の履物を変えて部屋の奥へ進んだ。暗い森の中よりも随分と鮮明にその服装がよくわかる。男は首に包帯のようなものを巻き、やたらと丈の長いジャケットを脱いでコートスタンドにひっかけると、美穂が始めて男を見た時から気にしていたタイも解いて一緒に掛けた。その一連の動作を見ているうちに、男は上の棚から何やら箱を取り出して椅子を引く。
「座って座って」
角の丸い四角いテーブルはおよそ四人掛け程度といったところだ。美穂はその足には随分大きなスリッパに慌てて足を入れると、パタパタと音を立てて椅子の方へ歩き、おそるおそる腰掛けた。一方の彼はテーブルの上で箱を開けて中身をがさごそと遣っている。腰掛けたまま落ち着かない心持ちで、美穂は部屋の中を見回した。二十代半ばか後半といったところの男が一人で住むには広すぎるから、おそらく誰かと共に住んでいるのだろう。それにしたってこの風変わりな服装は、もしかしたら日本人じゃないからかもしれない。いやしかし、外国人だからといって今時こんな格好をした人がいるだろうか、そもそも首の包帯は何か怪我でも――
「あったあった、少し滲みるかもしれないけれど、大丈夫かな」
数えきれぬほどの予想と疑念を一気に遮断され、美穂ははっと男の方をみた。こちらに視線を向ける眼は、緑と鳶色の混ざったような淡い色である。そこまで顔が濃くないとはいえ、やけにフレンドリーだし馴れ馴れしいし、もしかするとこれは本当に海外の人なのではなかろうか、いやきっとそうだと先ほどの思考がまた勝手に進み出す。再び沈黙を作るのを恐れて何か話題はないか、そもそも聞きたい事は山ほどあるのだけれど、とぐるぐる考えるうちに、返答と言うつもりの無かった台詞が美穂の口から飛び出した。
「だっ…大丈夫です!あの…に、日本語お上手ですね…」
男は美穂のその台詞に目を丸くした。数秒間の妙な間と男の驚いた顔に、美穂はかっと耳まで熱くなるのを自覚していた。男は次の瞬間声を上げて笑いながら、テーブルの上に鋏やら包帯を並べている。どうやら先ほどの箱は救急箱代わりのものらしい。
「あっはっは!ああ、なるほどなあ。あー…えっとね、僕は…んんとその、ハーフで日本育ちなんだよ」
「え、あ…えっと、ごめんなさい、私てっきり…」
慌てて謝罪を述べつつ座ったまま俯く美穂に、いやいや気にしないでおくれ、と男が答える。彼は椅子には腰掛けず美穂の前に片膝をつけて座り込むと、小瓶のコルクを抜いてピンセットで挟んだガーゼに滴る程液体を含ませた。
「そっちの足、スリッパ脱いでくれるかい」
「あ、はい…」
どうやらこの男は本当に怪我の手当をやってくれるらしい。不審者や変質者の類いだと疑った事を若干後悔しつつ、スリッパから片足を抜いて膝小僧の怪我に布がかからぬようほんの数センチだけスカートを上げる。少しピリピリとするものの、ガーゼで土と血を拭われる度に熱を持っていた傷口がひんやりと心地よい。昔怪我をして保健室なんかで治療をしてもらった時は消毒液が泡を立ててもっと痛かったのだけれども、と小首を傾げた美穂がぽつりと零す。
「…あんまり痛くない…」
「ああこれは、水みたいなものだから」
口元に小さく笑みを浮かべて下を向いたまま、男が答える。なるほど、と納得しながら傷を綺麗にしてゆく男の指先を眺めているうちに、気づくと膝には軟膏を塗られ包帯まで綺麗に巻かれていた。美穂からすれば普段なら大きめの絆創膏一枚で住ませてしまうような怪我に丁寧に包帯まで巻かれ、何やら大袈裟でものものしいような感じである。
「はい、おしまい。頑張ったね」
「すみません、何から何まで…ありがとうございます」
相変わらずの彼の物言いに、一体この男は私の事を何歳だと思っているのだろうと内心気になりつつも礼を述べる。男は立ち上がるとキッチンとおぼしき方へ向かった。時間を気にした美穂がいつもの癖で携帯で確認しようとポケットに手を突っ込んだ瞬間、そもそも此処に来た理由を思い出しがっくりと項垂れる。と、不意に紅茶のような香りがして顔を上げた。
「紅茶は平気?先に聞いたら良かったね」
男はトレイにティーポットとカップを二つ、それから菓子を乗せた皿、ミルクの入った容器を乗せており、それを次々とテーブルに置いた。
「大丈夫です、というか…あ、あの…おかまいなく」
怪我の手当をしてもらって且つお茶まで出されては申し訳ない、と胸元で手をぱたぱた振りながら、美穂は言った。男はただ小さく笑うばかりで、ティーカップに紅茶を注いで美穂の前に置いた。ソーサーの脇に小さなスプーンを置くと、元々テーブルの上にあった陶器で出来た容器の蓋を開けて差し出す。美穂は仕方なく座ったまま、目の前に並ぶ紅茶と菓子を眺めるしかなかった。
「こっちが砂糖。ミルクはこっち。きみが休めたら、早いうちに家まで送るよ」
「すみません、何から何まで…。ミルクと砂糖、もらっていいですか?」
「うん、もちろん。」
美穂はストレートの紅茶は飲めはするものの、あまり得意ではなかった。おまけにかなりの猫舌である。無理してこの湯気の立つ淹れたての紅茶に口をつけたが最後、舌をやけどするのは確実だ。白い容器に入っている角の丸い角砂糖を、シュガートングで一つ摘んで紅茶の中に落とすと、少し多めにミルクを入れてスプーンで音を立てぬようにそっと混ぜた。
「これも好きに食べてね」
「わ…ありがとうございます」
男の差し出した小さめの皿には、いくつかの種類のクッキーが無造作に入れてあった。きっと来客用に置いてあったのだろう、と勝手に推測しつつ再び礼を述べて、ティーカップを持ち上げて口につけながら男の方を見た。彼は相変わらずにこにこしながら紅茶を飲みながら此方を見ている。目が合ってしまい慌てて視線をクッキーへ移すと同時に、男が口を開いた。
「そういえば、何か落とし物をしたと言っていたね」
「あ、はい…携帯を」
「けいたい…携帯電話!そりゃ大変だ」
森の中での美穂の台詞は半分も伝わってなかったらしい。何せ泣いた後で尚且つ動揺しきっていて、美穂自身もどう伝えたのかすら記憶が怪しかった。男は大袈裟に驚くと、困った困ったと小さく零し頬杖をついてクッキーを一つ指先でつまんで訊ねる。
「何色?」
「黄色です、bPhoneのファイブシリーズで…」
「えっと…ごめんね、あまり詳しくなくって。とにかく黄色なんだね」
「はい」
どうやら彼は電子機器に疎いらしい、と美穂は思った。少なくとも見た目二十代の男が最新の有名な携帯すら知らないものだろうか、と疑問を抱きつつぼんやり今後の事を考える。明日店に行って新しい機体を購入したとしても、確実に今夜は携帯電話無しの夜を過ごさねばならない。腕時計もないので外に出れば時間は分からないし、何よりインターネットを介して誰かと会話すること以外に他人との接触がほぼ無い彼女にとって、携帯電話が無いというのは非常に大きなトラブルだった。男は手に持っていたクッキーを口に入れて顎を小さく上下させながら、美穂の様子を伺っている。間が持たずに時間でも確認しようかと美穂が部屋を見回すも、どうやら時計らしきものが見当たらない。
「あの…時間わかりますか?」
「時間かい?ええとね、ちょっとまってて…。ん、六時五分前だよ」
男は席を立って先ほどのコートスタンドに引っ掛けた上着のポケットに手を突っ込んだ。それこそ携帯電話でも出てくるのかと思いきや、銀色の懐中時計を開いて時刻を言うものだから、美穂は驚いて返事をしそこねた。男は時計を持ったまま席に戻り、もう一度紅茶を静かに飲んで問いかける。
「大丈夫かい?」
「あ、はい…でも、そろそろ帰らないと怒られちゃう。買い物もしないと…」
「おやおや、買い物の途中だったのか。それはすまない。町まで送るよ」
急ぎめにすっかり温くなったミルクティーを飲むと、小さいカップの中身はすっかり空になった。
同時に男が立ち上がる。
「すみません、お茶まで用意させちゃって…」
「いいのさ、僕が飲みたかっただけだから気にしないで。それより、町に出れば道は分かるのかい?」
「はい、大丈夫です」
美穂が脇に置いた鞄を肩に掛けて靴を履いている間に、男はまた出会った時と同じ服装に戻っていた。着た時と同じようにドアを潜って、再び明るいところに出るまで手を引かれて歩く。包帯を巻かれた膝の感覚がなんだか新鮮で、美穂はおそるおそる歩いた。真っ暗で時間が全く分からない。少しだけ明るいところに出ると、美穂は斜め後ろではなく男の隣を歩いた。
「本当に助かりました、あのまま私帰れないのかと…」
「この森は意外と広いからね。それにしても、どうして町に住んでるのに、こんなところに?」
「それはえっと、その…」
思わぬ質問をされて美穂は思わず俯いたまま押し黙った。元はと言えば、彼さえこの森で見かけなければこんなことにはならなかったのだ。もっと言うと、後を追おうとした自分の好奇心こそが全ての元凶だった。その次に携帯電話を落とした後、さっさと諦めずに再び戻った事がこうなってしまったもう一つの理由である。しかし、まさか全ての原因が彼自身と己の好奇心だとは言えず、彼女は都合のいい嘘を一生懸命考えた。
「ねっ…猫が、かわいい猫が森の中に入っていって、気になっちゃって」
勿論咄嗟の思いつきである。男は小さく吹き出してくすくすと笑うと、へえ、と一言笑って答えた。歩くにつれて、少しずつ足下が明るくなってゆく。木々の隙間も徐々に広がり、雲が見えるくらい空が見えた。木が密集しているだけでこんなに違うものかと足下の落ち葉を眺めていると、男の足音がぴたりと止まった。美穂が見上げると、目を細めて笑う男の顔があった。
「もう迷子にならないようにね」
男はそう言うと、美穂と繋いでいた手をそっと離した。優しく頭の上に軽く手をおくと、ふっと横を眺める。
不思議に思った美穂がその目線を追うと、木々の隙間から夕方歩いていた小道が覗いた。
「あ…。ありがとうございます!本当に、助かりました」
「いえいえ。早く帰っておあげよ。家の人、きっと心配してるだろうから」
「はい…あの、お名前」
此処に来て漸く、彼女は彼の名前すら聞いていなかった事を思い出した。
「…僕の名前は恢。君は?」
「梶田美穂です。恢、さん。いつかお礼させて下さい」
「あはは、いいよいいよ。もうじき夜になるから、気をつけてね」
男は片手をひらひらと振った。ひとしきり礼を述べると、美穂は数歩歩いて小道に出た。
最後に会釈の一つでもしようと振り返ると、男の姿はもう無かった。
初めての家出
「アンタ携帯も持たずにドコ行ってたの?!」
帰ってくるなり母親の怒鳴り声が耳に飛び込んで来て、美穂は思わず固く目を瞑った。
慌てて買い物を済ませ今度は大通りを通って小走りで帰宅したものの、ガレージに母親の車が停まっていて怒られる事は重々承知して家のドアをあけた所であったが、美穂はその台詞に目を丸くした。携帯を無くした事を母親が知る筈がないからである。
「えっ…。いや、途中で携帯無くしちゃって…スーパーに行ってただけだよ」
「無くしたも何もここにあるじゃない」
母親は間髪入れずに苛ついた様子でテーブルの上を指先で叩く。そこには、黄色い美穂の携帯電話があった。スーパーのビニール袋を空いた椅子の上に置いてテーブルの上の携帯を手に取ってロックを外そうとボタンを押す。しかし、充電は切れているようだ。美穂は母親の怒声も聞こえぬ様子で首を捻った。家を出る前に自室で充電をいっぱいにして、パーカーのポケットに入れた筈だ。そもそもその段階から勘違いしていたのだろうか、と押し黙ったまま立ち尽くす。
「洗濯物取り込んどいたから、畳んどいて。お母さんちょっと電話しなきゃいけないから」
「あ、うん…」
母親はそんな美穂を余所目に自室に引っ込んでしまった。混乱しながらも部屋に行き充電器を差す。隣の部屋から母親の作り声と愛想笑いが聞こえ、その声色の温度差に溜め息を零してキッチンへと戻った。何時ものように癖っ毛を適当に束ねビニール袋の中身を調理台に並べる。手際良く玉葱を輪切りにして鍋に入れて、炒めながら鶏肉を切ると玉葱の入った鍋に投下した。今日は母親の好きなシチューにしよう、とスーパーで考えたのだった。好物が並ぶ食卓なら、携帯電話を紛失しいつもより家事が終わるのが遅かったとしてもそこまで不機嫌はなることにないかもしれないという算段だった。炒め終わった鍋に水を入れて火にかけると、ソファに乱雑に積んである洗濯物を畳む。他のメニューを考えながら畳み終えた洗濯物を仕舞う頃には、部屋中が良い香りで満ちていた。シチューのルーを割り入れてフライパンで炒め物を作っていると、電話を終え着替えを済ませた母親が椅子に腰掛け美穂の方を振り返る。
「アンタその足どうしたの」
「あ、ううん…ちょっと転んじゃって。大した怪我じゃないんだけど」
「それでそんな大袈裟に包帯巻いたわけ?絆創膏あったでしょ」
母親から返ってきた台詞に美穂は口をへの字に曲げながらフライパンに塩胡椒を振った。叩き起こされて家事に追われ買い出しに行った娘が怪我をして帰って来たのだからねぎらいと心配の台詞を嘘でもいいから掛けて欲しかった。予定が遅れたとはいえ、きちんと頼まれごとを全て済ませ今も食事の支度をしているのである。あの森の中で自分の膝を見て悲しげに見上げてきた男の顔が脳裏に浮かんで消えていった。美穂は苛立ちながら乱暴にフライパンを振って火を止める。
「自分でやったんじゃないよ、手当てしてもらったらこうなったの!」
ふうん、と興味なさげに相槌を打って席を立った母親がしゃもじ片手に白飯をよそっている間に、少し焦げ付いたピーマンを隠すように皿に盛りつけてシチューを二皿分食卓に並べる。今日は散々歩いて、挙げ句の果てに泣きまでしたものだから美穂の腹からは小さくクウ、と音が鳴った。食器を並べ終えると席について親子二人で手を合わせる。いただきます、と小さく言ってスプーンをシチューの皿に入れた。息を吹きかけ冷ましながら口に運ぶ。
「そういや、何処で手当して貰ったのよ」
茶碗片手に母親が訪ねる。美穂は、なんとなく本当の事を言ってはいけないような気がして右上に視線を運びながらええっと、と詰まった。何やら今日は無難そうな嘘を沢山つかねばならない日だなあ、と考えながら適当な事を言う。
「転んじゃったところに、偶然中学の時の友達が居て…その子の家でやってもらったの」
そう口に出してから悲しくなる。中学のときに今でも付き合いがあるような友人が居ればどれほど良かっただろう。
「へえ、アンタに友達居たんだ」
不躾な母親の台詞に、美穂の手はピタリと止まってしまった。どうしてこの人は、私の傷つくことばかり言うのだろう。怪我だって、心配のひとつくらいしてくれたらいいのに――思わず泣きそうになるのを堪えながら、少なめによそった食事に手を伸ばすも、喉がつっかえて手が動かない。
「なんでそんな事ばっかりいうの…」
消え入りそうな声で呟くも、美穂の声は母親が付けたのであろうテレビの音に掻き消されてしまった。肝心の母親はテレビの方をぼんやりと見て時折笑っている。脇に置いた茶で押し流すように自分の分だけなんとか平らげ“ごちそうさま”と吐き捨てるように言い自分の分の食器だけ流しに下げると早々に自室に入りドアを閉めた。しゃがみ込んで充電器に繋がれたままの携帯の電源を入れると、右上の電池のパーセンテージは100を示していた。気を紛らわせようといつものようにSNSの画面を開き液晶を指でなぞるも、一向に頭に入ってこない。大きな溜め息を一つついて、床に凭れて手を下ろす。美穂のスカートの裾から、膝に巻かれた包帯が覗いていた。
“探し物は僕が見つけておくから――”
森の中で彼女を家に誘った男の台詞が唐突に脳内でリピートされる。もし彼が本当にあのだだ広い森の中自分の携帯電話を探すつもりなのだとしたらどうしよう、と胸の中が一気にざわつく。しかし、もう時刻は九時近い。これから一人で外出するなどと言ったら確実に怒られるだろう。そもそも普通の人ならば、探し物をするにしたって明日太陽が昇ってからやる筈だ。明日の買い出し序でに彼を捜してみようと、とりあえず今晩は諦めることにした。携帯を持ったままベッドに腰掛け横になると、和らぎだした苛立ちと疲労感で身体が重くまるでベッドにどこまでも沈んでいくかのような錯覚を覚える。こんなに早い時間に眠くなるだなんて何時ぶりだろうかと大きく欠伸をして髪を解きまどろんでいると、部屋のドアがノックも無しに開いた。
「ちょっと、寝るならお風呂入って寝なさいよ。ていうかレポート済んだの?」
寝ぼけ眼を擦ると、苛立った様子の母親がドアの向こうに立っている。せっかく気分が落ち着いてきたというのに、台無しだ。身体を起こしてぶっきらぼうに言い返す。
「今日はあれこれ家事やって忙しかったもん、買い物行ってたしそんな時間なかったよ」
「一日中家にいてゴロゴロしてんだから忙しいわけないでしょ、他の子は学校いって部活や塾行ってんだから」
「ゴロゴロなんて…私だって勉強してるもん!それにお母さんがあれこれさせてるんでしょ!」
美穂は思わずカッとなって声を荒げた。泣きたい時にいつも感じる喉元の痞えが胸を苦しくさせる。小さな手はベッドの隅で丸まった布団を無意識に掴んでいた。畳み掛けるような母親の台詞が美穂の耳にぶつかる。
「大したことさせてないじゃない、アタシが仕事してんだからいくつかの家事くらいやって当たり前でしょ」
「……っ…もう知らない!!」
美穂は部屋のドアの前から少し離れた母親の横をすり抜け乱暴に靴を履くと、玄関を開けた。
暫く夢中で走っていたが、数分経たないうちに息が上がったので歩き出した。家のドアを開けた瞬間、母親が自分の名前を呼ぶのが聞こえた気がする。しかしあんな事を言われてしまってはもうあの家には居たくない、と美穂はトボトボ歩き続けた。勢いと怒りに任せて家を飛び出したとはいえ行く宛などどこにもない。父親の家は電車で小一時間程度だが生憎財布は鞄ごと置いて来てしまった。片手に握りしめたままの携帯電話を見ても、母親からも友人からも特にメッセージもメールも来ていない。立ち止まって何度目か分からない溜め息をついた瞬間、つんと鼻の奥が痛いような感覚のあとボロボロと涙が出て来た。いっそこのまま自殺でもしてしまえば、母親と父親は自分のことを想って泣いてくれるのだろうかと立ちすくむ。気づけば夕方の小道に来ていた。遠くで切れかけの電灯がチカチカと点滅している。虫の声と風の音に混じって、彼女の嗚咽が響く。暗闇に包まれた森の入り口は夕方の出来事を思い出させた。泣きじゃくりながら彼女は、なんとなく今日会ったばかりの彼の名前を呼んでみた。
「恢さん…」
美穂の声は、吸い込まれるように夜空に消えてしまった。木枯らしが足下を掬うように吹き上がる。そこには地面に落ちた枯葉の擦れる音だけだった。
その肌寒さと暗闇は、より寂しさと空しさを増長させてゆく。遂には立ちすくんだ足下は前にも後ろにも進めずになってしまって、まるで石のように美穂は静かに絶望していた。
――
「呼んだかな」
不意に風の音に混じって耳に届いたその声に、美穂は目を見開いた。すっかり冷えきった頬を伝って零れていた涙が、地面に向かって丸くなりながら落ちる。自分でも驚く程に心臓が跳ねるのを自覚しながら、慌てて当たりを見回すも電灯の真下以外は真っ暗で何も見えない。詰まるような喉から声を絞り出す。
「恢さん?ね、何処にいるの?恢さん!」
縋り付くように名を呼び、暗闇に目を凝らせどその姿は見当たらない。遂に幻聴の類まで聞こえ出したのかと己を疑うも、確かにあれは彼の声で今近くで聞こえたものだった。混乱して手が震える。
「はやく家にお帰りよ、お母さんが心配しているよ」
「…っ、なんで隠れてるの、なんで!わたし、家になんて帰りたくない、私なんて要らない子だもん、お母さんなんて知らない!…も、やだ、もうやだこんなの…なんでもしていいから誰か愛してよ…」
確かに此処に彼はいる。足音も息遣いも聞こえない。気配すら何処にあるのかわからない。でも、声は聞こえるのだ。彼の声だけが、あまりに静かな森の入り口で立ちすくむ美穂の耳に飛び込んだ。諭すように至極当然のことを言われて思わず息をのむ。その言葉は、美穂の心をより意固地に、不安にさせた。美穂はどこかで、彼がどんな自分であっても無条件に受け入れてくれるような気がしていたのだ。夕方優しかった彼の姿が見えないのは暗闇の所為だけではない気がして思わず美穂は声を張った。八つ当たりのようなものだと分かっていながら辛さを誰かにぶつけ甘えたかった。美穂はそのまましゃくり上げながら屈みこんで下を向く。抑え込んでいた自暴自棄な本音があまりに小さい声で零れた。と同時に、押さえ込んでいた涙は大粒になりしゃくり上げて咽せながら暗闇にしゃがみ込む。――このままこの夜の闇に溶けてしまえたら良い、誰にも愛されないならば。そう心の中で己を呪いながら、その小さな両手で遠くで点滅する電灯の微かな光すらもを隠すかのように両目を覆った。
「……おやおや」
含み笑い混じりの困ったような声が聞こえると同時に、頭にぽふりと手が乗るのを感じる。夕方、何度か撫で手くれた優しくて大きな手。睫毛が張り付くほど涙でぐしゃぐしゃに濡れた目を開けて上を見上げると、困ったように眉を八の字にして微笑を浮かべる彼の姿があった。微かな光に照らされて、己を見下ろす彼の髪が少しだけ茶色く透ける。
「困った子だなあ、本当にもう」
「……!ご、ごめんなさい、迷惑を…」
彼が目の前に現れて暫く眺めたあと、はっと自分の口にしたことや行動を思い返し美穂は慌てふためいた。今日会ったばかりで、しかもたった数時間前お世話になって別れた人相手に何を言っているのだろう。そもそも、彼は何故ここいるのだろう、ぐるぐると思考を散らかしながら乱暴に袖で目元を拭っていると、丸めた指を解くようにそっと彼のひんやりとした手が己の指に触れた。
「擦ってはいけないよ。……美穂、ほら、こっち向いて」
「…!…えっ、恢、さん…?」
低く耳に心地良い声で名だけを呼ばれ、思わず顔を熱くしながら見上げると、夕方とは少しだけ雰囲気の違う彼の顔があった。細長い身体を折り曲げて屈んでいるようで、此方を見下ろしている。彼のその眼の色が血のように紅く、美穂は一瞬息を止めた。何故目の色が違うのかを聞く前に、視界が眩んで彼女は其の儘意識を失った。
時計の針
薄らと瞼をもたげた美穂の視界に先ず映ったのは、見知らぬ天井だった。薄暗い部屋に、どこからかオレンジ色の光りが部屋を優しく照らしている。首だけ徐ろに動かして光の方に目線をやると、寝転がっているベッドのサイドボードに置いてあるスタンドランプが柔らかい光を放っていることに気づく。美穂は未だ夢の中にいるようにぼんやりとした視線をサイドボードに送る。数冊の本が適当に積まれてあり、本のうち一冊には栞なのか端に何やら飾りのついた紐が付いている。
それらを眺めながら、意識を失う前のことを思い出していた。直情的に家を飛び出し、縋るように助けを求めて泣きじゃくったことを思い返せば、彼の困った顔が脳裏をよぎる。美穂は自己嫌悪と羞恥の念に駆られて思わず自分にかけられていた布団の中に鼻先まで潜ると、ふわりと林檎と石鹸のような甘い良い香りがして目を閉じる。そうして思い出の続きを瞼の裏で繰り返す。最後に見た彼の顔は、優しく微笑んでいた。しかし、そうだ。その眼の色が赤くて驚いた途端、気を失って、気づけば此処で眠っていたのだ、と思い出した瞬間、美穂は、はっと短く息を吸い込みながら目を開けた。
心臓が突然うるさくなる。きっと此処は彼の家なのだろう、だとしたら一体彼はどこに居るのだろう。この部屋にはどうやら一人らしい。ぐるぐると落ち着かないまま慌てて起き上がり部屋を見渡すと、ドアが猫くらいなら通れそうな幅だけ開いていた。そろりとベッドから降りてドアに向かい、まるで悪さでも働いた子供のように顔だけ出して覗く。どうやら此処は二階らしい。薄暗い廊下にも白熱灯のような明かりが灯っており、階下にいるのか下はもう少し明るくなっていた。きょろきょろと転ばぬように周りを見渡しながら、手摺り伝いに階段を降りている途中で彼の姿を見つける。
しかし、美穂はすぐに声を掛けられなかった。リビングのテーブルに腰掛けてマグカップを見つめる彼の表情は、気だるげでどこか不機嫌にも見えた。おまけに考え事をしているのか、口元に手をやっていて表情がよく見えないのである。美穂は少し不安と申し訳なさで泣きそうになりながら、とりあえず謝らねば、とその名を呼んだ。
「あのっ……恢さん」
彼は驚いたように顔を上げて美穂の方を向く。ふわりと微笑し静かな声で、おはよう、と言った。
美穂はゆっくりと階段を降りる。恢の前に行くと、その表情に安堵しながらも目にいっぱい涙を溜めたまま謝罪しながら下を向く。
「その、ごめんなさい!わがまま言って、迷惑かけて……」
「迷惑?何を言っているの。僕の方こそ、勝手に連れて来てしまってごめんね」
恢が目を細めて笑いながらそんなこと言うものだから、美穂の涙はすっかりと引っ込んでしまった。代わりに口が小さく開いたままになる。
数秒の間の後、美穂はきゅっと唇を結んで勢いよく首を横に振った。
「謝らないでください、私……まさか本当に会えると思わなくて、またお邪魔しちゃって、ごめんなさい……」
きちんと自分の気持ちを説明したいという願望とは裏腹に、消え入りそうな声でまとまらない言葉だけが零れた。どうしてタイミングよくあの場所に居たのか、何故事情も聞かずに連れて来てくれたのか。眼の色が違ったのは、なんだったのか。
美穂の中で聞きたいことと言いたいことが散らかったように混ざって押し黙ったまま顔を上げると、彼は眉を少しばかり下げて笑っている。照明が暗くてよく見えないが、その眼は紅ではなく、初めて会った時と同じ緑と鳶色のグラデーションに見え己の勘違いだったのかと思考していると彼が口を開く。
「いいのさ、きみもそんなに謝らないの。とりあえず座りなよ、ホットミルクでも淹れよう」
「え、あ、ごめ……えっと、ありがとうございます」
美穂が小さく返事をしながら鼻をすすって腰掛けようとした拍子に、服のポケットの中から携帯電話が床に落ちる。ああそうだ、これだけ持ってきたんだったと慌てて拾った。不意に、自分が泣いていた時彼が近くに居たのはこれを探していたからなのではと思い至って、キッチンに向かおうと席を立ち上がりかけた恢の服の裾を思わず掴む。
「おっと。どうしたの?」
「ケータイ、あったんです、家に帰ったらテーブルの上に……、もしかして、あの場所にたまたま居たのってコレを探してくれてたから、ですか」
美穂は手に持った携帯電話をおずおずと見せながら申し訳なさそうにその笑顔を見上げる。恢は軽く目を丸くして、小さくふふっと笑った。
「探しもの、見つかってよかったね。でも違うよ、大丈夫。ああ、探しておくって言ったからか。気を遣わせてしまったかな」
そう言いながら恢の手が美穂の頭を撫でる。美穂はううん、と言いながら思わず一瞬目を閉じて、こんなに人に頭を撫でられたことがあっただろうかと照れ笑いを浮かべた。キッチンに向かった恢の背中を眺める。初めて会った時から、まるで幼い子供にするように優しく、壊れ物に触れるように、でもすぐにその手を伸ばしてくれる人。現実味の無さにこっそりと頬をつまんでみるものの、痛かったのですぐに手を離した。頬をさすりながら、静寂に耐えられずもう一度質問を重ねる。
「じゃあ、どうしてあの場所に居たんですか?偶然…?」
「それはね、きみが呼んでくれたからだよ」
恢は後ろ姿のまま答える。的を得ない回答に、美穂は頭の上にたくさんのクエスチョンマークを浮かべて小首を傾げる。機嫌良さげにミルクパンに牛乳を注ぎいれて火にかけているらしい恢の後ろ姿とは正反対に、美穂は落ち着かず部屋をもう一度見渡してこっそりと携帯を見る。しかし、また電源が切れているようで思わず美穂は「あれ?」と小さく呟いた。
「どうかした?……あ、そうだ、甘いので良かったかな」
くるりと恢が美穂の方を向く。正確には美穂の手にある携帯を数秒見つめて、その視線を美穂に移した。その視線に疑問を抱いた彼女は、彼がどうやらホットミルクの味について聞いているらしいと気づいて慌てて「はい」と返事をする。
「それ、故障でもしたのかな」
彼はマグカップを美穂の目の前に置いて隣に腰掛ける。恢のマグカップには珈琲が注がれており、ミルクの甘い香りと珈琲の香ばしい香りが混ざりながら鼻先をくすぐって思わず美穂は鼻から息を大きく吸い込んで小さく幸せそうに笑ってから答えた。
「いいにおいする。たぶんそうかな……家に帰った時も調子悪かったんです。またそのうち直ると思うし、大丈夫です」
恢は「そっかあ」と小さく返事をして珈琲を口に運ぶ。美穂もそれにならって、そっとマグカップを持ち上げると数回息を吹き掛けてから口に入れた。
バニラのような香りと蜂蜜のような甘さが心を溶かすようにじんわりと温かく、幸せに包まれたような心地になって、ほうっと息を吐いた。その瞬間安心したのか美穂の目から大粒の涙が零れ落ちる。美穂自身が驚くほど、ぽろぽろと零れ落ちる涙は止まる気配もなく慌てて袖で拭おうと顔に手をやる。珈琲の入ったマグカップを置き、彼女の方を見た恢は何も言わずにそっと美穂の頬に手を伸ばした。
「ねえ、好きなだけここに居ていいよ」
「…え」
思わぬ彼の台詞に、美穂は目に涙をいっぱい溜めたまま驚いた顔で恢のほうを向く。視界がすっかり涙で滲んでしまった美穂の頬を親指で拭う彼の掌は、熱い目許を冷やすようにひんやりと心地よい。
「あの時、帰りたくないって言っていたから。帰りたくなるまで此処に居ればいい」
美穂の頬を伝って、涙が再びぽろぽろと零れる。手がすっかり濡れてしまっているのも気にせず目を細めてにっこりと微笑む彼の顔は部屋の橙色の明かりのせいか、美穂には少し作り物のようにも見えた。どうしてこの人はこんなに無条件にやさしくしてくれるのだろう、一体どういうつもりで居てもいいなどと言ったのだろう、と言葉を発せずに彼女は固まったままでいた。そんな美穂の事を暫く見詰めて恢は小さく、ふっと笑って言葉を続けながら、優しくしっとりと濡れてしまった熱い頬を撫でた。
「嫌になってしまったから、飛び出してきたんだろう?大丈夫、きみの怖がるようなことはしないから」
「で、でも。私、恢さんと、今日知り合ったばっかりだし、何も持ってきてなくて。お母さんに何も言わないまま出てきちゃったし……心配…はしてないかもだけど、きっと怒ってる……帰らないと、もっと怒られるだろうし。学校も……」
美穂がしゃくりあげながら一生懸命息を吸って途切れ途切れに答えた。恢に向いていた目線は悲しそうに下へと降りてゆく。戸惑いながら返した言葉たちは帰るという選択肢を滲ませるものだったが、そのまま甘えて暫く此処に居たいというのが本音だった。しかしながら一体どのくらい眠っていたのか分からないけれど、家を飛び出してから結構な時間が経っていることは間違いなかった。テーブルのマグカップの横から手を膝の上に移してスカートを握ったまま下を向くと目から零れ落ちた雫は布地に吸い込まれてゆく。涙の雫のひとつを再び彼の指が救いとって彼はその手を自分の口許にやると「ねえ」と声をかけた。
「美穂、いいことを教えてあげる。……ここは、時間が止まってるんだよ」
「…えっ」
涙で睫毛を貼り付けたまま、不思議そうな表情を浮かべ顔を上げた美穂の視界に写る彼の眼は、再薄ら赤に変わっているように見えた。かと思えばゆっくりと瞬きをする間に元の色に戻っていた。光の加減や見間違いではないことを確信した美穂はそのことを言おうか悩んでいる途中で、次に聞こえてきた彼の台詞によって思考が止まってしまった。聞き間違いか何かではないだろうかと頭の中で繰り返す。美穂は訳が分からないままに、それについて詳しく聞こうと小さな声で問い掛ける。
「……それ、ってどういう……」
「夕方、だったかな。この森から道に出たとき変な感じしなかったかい」
再び席を立つ恢にそう言われて、美穂は小さく「あっ」と声を発した。言われてみれば、長居してしまったと思った割にまだ外は明るかった。思い返せば買い物をするために家を出たのは夕方おそらく五時前後だった筈である。そこから遠回りになる道を歩き彼を追いかけ、携帯を無くして二度も森に入り、迷子になって歩き回り家まで連れられて手当てを受け、のんびりと紅茶と菓子を口にしてから再び歩いて戻った。そのわりに“時間が経ってない”――
どくん、どくん、と不可解な事実に気付いて心臓が跳ねるように脈を打つ。美穂は泣き腫らした目を彼に向けた。その視線は悲しみではなく、得体の知れない不安と疑問の入り混じったものに変わっていた。美穂は煩い心臓を宥めるようにちいさな丸めた手を胸元に押し付けて彼の顔を見上げる。
「ここは、一体どこなんですか…?」
「不思議なところだよ。ああ、死んじゃったわけじゃないから安心してね」
呑気な声で冗談めかして答える恢はといえば、上着のポケットに手を突っ込んで何かを取り出すとテーブルの方へと戻る。右手に持っているのは、どうやら美穂が時間を尋ねた時に出していた懐中時計だった。ほら、と彼がそれを差し出す。美穂は時計と恢を交互に見遣ってからこわごわと手を伸ばし、受け取って手の中で光る銀色を見つめた。冷たく、思っていたよりも随分重い。落としてしまわぬようにと包み込むように両手で持ったまま、しばらく眺める。アンティークなのか鈍い銀色に装飾が施されていて、そっと開けてみれば文字盤の上の秒針はぴくりとも動かない。
「時計……止まってる」
そのうち動くのではないかとしばらく目線をやったまま、美穂はそう言うと恢の方を見た。彼は席を立ったままうなじの辺りに手をやって、少し困ったような顔で口元だけに笑みを作り美穂の方を向いた。
「本当は内緒にしておこうと思ったのになあ」
そう言ってくすくすと笑いながら美穂の方に手を差し出す。どこか残念そうにも、楽しそうにも見える声色と表情は何を考えているのか全く分からない。美穂はただその掌の上にそっと閉じた懐中時計を乗せて、未だに信じられずにテーブルの上の携帯電話の電源を入れようと手に取り下方にあるボタンを押した。すると唐突に端末が短く震えて先ほどは真っ暗だった画面が光った。薄暗い部屋で切り替わり携帯の放つ光に、美穂が眉を寄せて目を細める。隣に立ったまま腰掛けようとしていた恢は、意外そうな顔で光る手元に視線をやった。美穂は画面が付いて時計が表示されるのを待っていた。すると起動してロック画面に切り替わる。時刻は白い文字で午後九時二十五分だった。
「最後に時計見た時…九時前だった、日付も変わってない。眠ってたのに、私。時間が、進んでない…恢さんこれって一体」
信じられないと言わんばかりの面持ちで恢の方を一度見上げると、彼は「へえ」と言って珍しいものでも見つけたように楽しそうな顔で画面を見ている。美穂が携帯に視線を戻すと、画面の数字だけがひと文字ひと文字文字化けのように次々と変化して不思議な模様になってしまった。美穂は思わず「ひゃっ」と悲鳴のような情けない声を上げて携帯を取り落としかけた。なんとか落とす前に両手で掴みなおしてほっと胸を撫で下ろす。すぐ再び画面を見るとどうやらまた電源が落ちているようだった。楽しげな彼の声が聞こえる。
「信じられないだろうけど、少しは信じる気になったかな」
カタンと隣に腰掛け珈琲の残りに口をつける恢の方を見ながら、美穂は一度だけゆっくりと頷いて端末を置きマグカップを手に取った。優しいバニラの香りにどこまでが夢でどこまで現実なのかあやふやなままでいた。まだ温かいミルクを一口飲み下して何を話していいのか分からずに残っている中身を見つめる。すると先に彼がマグカップを置いて口を開いた。
「完璧に止まってるわけじゃないけどね、殆ど止まっているのさ。しかし、すごいなあそれ。小さくて明るいだけじゃなくて、まさか“こっち”でも時間がわかるなんて。驚いた」
「そうなんだ、……これ、ええと、スマホ…本当に知らないんですか…?もう、電源切れちゃったけど」
携帯を落としたと伝えた時も彼は不思議そうな顔で話を聞いて「あまり詳しくない」と言っていた。もし此処が彼の言う通り時間が止まっている“不思議な場所”なのだとしたら、タイムスリップしたかのような調度品、懐古趣味と思える程古い小物たち、不思議な服装、スマートフォンを知らないこと…出会った時から少しずつ重なっていた違和感と疑問の一部が重なり、辻褄が合うことに気が付きながら、美穂は携帯を握りしめる。
「うーん…さっきは一瞬ついたんだけどな…、もしかしたら、たまに使えるのかもしれないです」
真っ暗に戻ってしまった画面の携帯電話の電源ボタンをもう一度押して、無反応なことを確認するとポケットに仕舞った。美穂の頭の疑問は一応表面上無理矢理に解決されたものの、いろんな不思議に対する感情はまるで、オーブンで焼かれるカップケーキのようにもこもこと勢いよく膨らむばかりだった。
どうやら此処は、この世でもあの世でもない“不思議な場所”らしい。
赤い眼
「ん……」
美穂の睫毛が揺れて、彼女はうっすらと目を開ける。ここはいつ起きても部屋が暗くて夜みたいだ、と不思議な気持ちになった。家に居るときはいつも気付けば外は明るくなっていて、夜という時間はとても短いものだと思っていたのだった。外は暗い森になっていて太陽の光が殆ど入らない。特に此処は寝室らしく、小さなランプだけが静かに灯っている。
美穂はホットミルクを最後まで飲んだ後、数分もしないうちに船を漕ぐほどの眠気を覚えもう一度ベットに戻るよう彼に促されたのだった。彼と一緒に寝室に行き、すぐ眠ってしまったらしい。寝入るまでの記憶は酷くぼんやりとしたもので、ひとりで寝るのが怖い、と口にした事だけ思い出して一人こっそりと頬を染めた。
横を向くと枕元には携帯電話があった。手にとってボタンを押すものの無反応だ。いくら不可解な事を目の前にしても、あれは夢のような気がして、美穂は小さく溜め息をついた。もしかしたら、ただよく知らない男の家に泊まっていて、時間は普通に流れているのではないか。そんな考えばかりが頭の中を巡る。母親はどうしているだろうかと考えるだけで、残っていた眠気が醒めてゆくのを感じていた。
落ち着かず反対側を見ると、美穂は目を見開いて肩を跳ねさせた。恢が布団も被らずにベットの隅で横になって寝息を立てていた。ベッドの横幅が広い為そこそこの距離が開いていた為に気づかなかったらしい。かろうじて声は発さなかったため、起こしてはいないようだ。
美穂はそっと身体の向きを変えて寝顔を眺める。スタンドランプの正面に居るからか、顔がよく見えた。頭の下に腕を敷いて息をしているのか怪しくなるほど静かに眠っている。少し透明感のある茶色い髪はところどころ癖があり、薄暗い部屋で見ても彼は男のわりに肌が白いように見えた。美穂は起こさぬようにゆっくりと起き上がると、自分の布団の半分とすこしを彼の肩までかけて、どうしていいのか分からずにそのままもう一度恢の隣で体をベットに預けた。おそらくは寝付かせる為に暫く一緒に居て、そのまま眠ってしまったのだろう。そう思いながら、起きている時よりどこか幼く見える寝顔に視線をやる。少しの申し訳なさと、一体この世界と彼は、なんなのだろうという気持ちで鼓動が少し早くなる。
「……う…」
思考を巡らせていると不意に寝言のような掠れた声が聞こえて、美穂はもう一度驚いた。もぞ、と小さく布団の中で身体を動かした彼の長めの前髪から覗く整った眉毛は微かにぴくりと寄っている。美穂には、それがなんだか酷く魘されているように見えた。
自分が起きたことで起こしてしまったのか、はたまたそれが原因で悪夢でも見ているのだろうかとはらはらしながら静かに息を殺していると、恢は目を閉じたまま何かを探すように美穂の方に手を伸ばした。やはり悪い夢でも見ているのだろうと、思わず美穂は身体を起こしてその手をとってしまった。手をとったというよりは、手をとられた。彼の手は相変わらずひんやりとしているが、前に触れたときよりもずっと冷たい気がした。
そわそわと目線を泳がせていると、唐突にその手をぐい、と引っぱられて、美穂は息が止まりそうになった。小さな手は彼の鼻先にあり、今にも唇が触れそうである。美穂はそれだけで耳を真っ赤にして狼狽していた。すん、と恢が匂いを嗅ぐように息を短く吸って、薄く柔らかな唇がふわりと触れて口が開いたものだから、美穂の頭の中はいよいよ真っ白になる。
その瞬間、彼は驚いたように突然目を開けた。鳶色と緑だったはずの眼の色は、深い赤になっていた。
「えっ」と美穂が小さく声を出したのも束の間、恢が美穂の手を振り解いて勢いよく起き上がり微かに後ずさる。美穂は驚いた顔のままそれを眺めていた。どうしていいのか分からなかったのである。彼は悪夢から目覚めたように息を荒げたまま、赤い虹彩の目を見開いて此方を見詰めたのちに、なにも付いてない口元を指で拭うと確かめるように指を眺めて、ちいさな溜め息と共に眺めていた片手を俯いた顔に押し付けた。
「大丈夫…?怖い夢でも」
「…ごめん。怪我とかしてない?」
心配そうに問い掛けた美穂の言葉を遮るように、彼の小さい声が静かな部屋に響く。美穂はその質問の意図が分からず、ううん、と首を横に振った。柔らかく少し冷たい唇の感触だけが、やけに手の甲に残っているようで頬に熱が集まる。
「……そっか、良かった。ごめんね、僕まで寝てしまうと思わなかった」
「ううん、本当に気にしないで」
恢は跳ねた短めの髪を手櫛で雑に直しながら少し安心した様子で、謝罪を繰り返した。美穂が慌てて返事をしていると、ふと深い赤の眼と美穂の焦げ茶の眼が合う。視線が静かに交わって、気まずい静寂が少しの間寝室に満たされた。眼の色が今度はまた少し元に戻っているように見えて、美穂は今度こそ、どうして眼の色が変わるのか聞こう、と息を飲んだ。
「あの、恢さん…大丈夫ですか」
「うん、もう平気だよ。ごめんよ、驚かせてしまったね。今度からちゃんと別々に寝るから…」
恢が申し訳なさげにへらりと笑う。美穂は緊張した面持ちで、横座りのまま少しだけ彼との距離を詰めた。それに気付いた彼が、ん?と顔を美穂のほうに向ける。
「あの、こんなこと聞いていいのかわからないけど……。眼の色、たまに変わってるみたいで、気になってしまって……あ、無理に聞きたいわけじゃなくて、その…」
聞こう、と決めたものの、いざ言葉にするとなると上手く言えずに最後は口ごもってしまった。俯いて布団をきゅっと掴む。そんな美穂に恢は、ああその事か、と言わんばかりに困ったような笑顔を浮かべて答える。
「体質みたいなものだよ」
「あ、言いたくないことだったらごめんなさい」
恢の表情に申し訳なくなって美穂は慌てて謝った。いいよ、と優しい声が聞こえる。
「時計と同じ。きみが此処にずっと居れば眼の色が変わることなんていずれバレてしまうことだし」
「痛かったり、するのかな…」
「ううん。全然」
「…どういう時に、赤くなる…とか、聞いても…?」
最後の問いに再び部屋の静けさが戻る。恢は申し訳なさげな笑みを浮かべたまま、ゆるゆると目線を美穂からはずした。
「あー…、ええっと……どうしようかな…」
そのまま彼は頭に手をやって眉を下げる。美穂は珍しく歯切れの悪い台詞と、戸惑うような態度に驚きつつ、やはり聞いてはならない事だったのではないかと慌てた。
「あの、本当に無理に言わなくっても…」
暫く視線を上側にやって態とらしいほど悩んでいると言わんばかりの仕草の後、彼は答える。
「僕、人間じゃないんだよ」
あまりに軽い調子でそんな事を言われたものだから、美穂の口は半開きになった。そんな気はしていたものの本人にさらりと言われるとは思ってなかった。不思議と恐怖心や不安は無いものの、だったら何なのだという気持ちを抑えきれずに再び問いかける。
「えっと、やっぱり、もしかして…おばけとかですか…?」
「んー、吸血鬼かな」
怖々と質問した次の答えもあまりにのんびりとした調子で、深刻さの欠片もない。衝撃の告白というには余りにもライトである。美穂はそのギャップに半開きの口のまま数回ぱちぱちと瞬きをした。吸血鬼。ヴァンパイア。漫画やゲーム、ドラマなんかではよく出てくる存在ではあるが、目の前に動いて喋る明らかに人型の誰かにそんな告白をされるのは初めてである。黒髪のオールバックで酷く青白い顔、死にそうな雰囲気を醸し出していて裏地の赤い黒マントみたいな服装の、口からはみ出すほど長い牙のむすっとした男を想像しながら恢を見詰めた。
「そっ…そうだったんですね」
それが美穂の口から出た、最大限に気を使った相づちだった。
「眼、血が足りなくなったり、血の匂い嗅いだりすると赤くなるらしいんだ。ああ、大丈夫だよ。きみに噛みついたりしないからね。んー、今度フランのとこ行かなきゃ…ふあ」
恢は愛想良く説明に加えて何やら最後は独り言まで言いかけると、口元を手で適当に隠しながら欠伸をした。美穂は白くて長い指の隙間から覗いたあまりに鋭利な牙らしきものを見逃さなかった。随分イメージと違うけれど本当に牙はあるんだな、と思ったものの、口の中を覗いてしまったことを言うのはなんだか気が引けたので黙っていた。
「やっぱり怖いかなあ。……ごめんね、驚かせて。家に帰りたくなったら言ってね。送るから」
恢は美穂の無言で怖がっていると思ったのか、伏し目がちにそう加える。口元は愛想のいいままだが、諦めたような雰囲気で肩を落としているのは美穂の目からみても明らかだった。
「あっ、いえ、違うんです!牙あるんだなって思って…つい」
「え、そうなの?…うん?ああ見えたのか、ごめんね。あるよ」
つい言ってしまった、と小さくなる美穂に恢は笑いながら答えて、ベッドを降りるとドアに向かいながらくるりと振り向いた。
「そういやきみは眠れた?僕はなんだか久しぶりにぐっすり寝たよ、お腹すいたりしてないかい」
「よかった……ううん、少し…?」
「そっか、なら何か作るよ」
美穂が恢の顔を見上げると、目覚たの時の苦しげな顔が嘘のように、すっかり見慣れてきた笑顔になっている。もう大丈夫なのかな、と安堵して返事をしたものの、美穂は恢の事を怖がるどころか心配していた。人の腹具合は心配する割に“血が足りないと眼が赤くなる”らしい彼の赤い眼をもう何度か見ている。そういえば手に触れたときの冷たさも増していた気がする。おまけに笑ってはいるが心なしか顔が青白い気がして、思わず同じ質問を恢に投げかけた。
「恢さんはお腹すいてないんですか…?」
さあ、朝食を
美穂はリビングの椅子に腰掛けて、なんで自分でもあんなことを言ってしまったのだろうと後悔の念に追われていた。まさか吸血鬼であることを暴露した相手に対して、直後に腹が減っていないのかなどと突拍子もない質問をするなんて、と恢の背中と先に出されたミルクティーを交互に見つめてこっそりと溜息をつく。彼はあの後しばらく驚いたといわんばかりに目を丸くして固まったのち、大丈夫だよ、と言って笑っていた。
「はい、どうぞ。ごめんね、簡単なもので」
はっと顔を上げると彼は皿を両手に持ってにっこりと微笑んだ。コトと静かに置かれた皿の上にはスコーンとココットに乗ったジャム、スクランブルエッグと果物が少し。美穂にとっては可愛らしく、とびきりに美味しそうな食事に見えた。
「きみが此処で暮らすなら、じきに買い物に行かないとね。ふふ」
そう言って向かいに座り恢が楽しげに笑っている。飲んでいるのはおそらく珈琲なのだろう、香ばしい良い香りがふわりと漂っている。彼は良く珈琲を飲んでいたが、ブラックの珈琲が飲めない美穂は"大人っていうのはよく珈琲を飲むものなのかな"と思っていた。珈琲は飲めないが珈琲の香りは食欲が刺激されるような気がして好きだった。いつも朝一緒に珈琲を飲んでいた母親が少し眠たげで不機嫌ではあるが、それでも声を荒げたり物を投げたりしないというのも大きな理由の一つだった。美穂はふと、何故この世界は時間が止まっているにも関わらず腹が減るのかが気になった。眠気も来れば、自然と目覚め、食欲もある。けれども、何度見たところで窓の外は濃く深い夜の紺色が綺麗に埋め尽くしているのだ。
「何か考え事をしているの?」
「え、ううん。ただ、時間は止まってるのにお腹は空くんだなって…」
疑問を其の儘口にすると彼はまたふふ、と笑う。
「ここは、きみの世界では時間が止まっている。でもこの世界の時間は動いているのさ。とてもとても遅いけれどね。一日の長さは同じじゃないんだ」
美穂は、彼はやたらと分かるような分からないような物言いをする性格であることに薄々気付き始めた。不思議を不思議のまま言っているみたいだった。わかるように言っているのかわからないように言っているのかすらわからない、そう思って言葉の意味を首を傾げながら暫く考えたあと困ったように笑った。
「うーん、難しい…。ね、恢さん、私にもっとここのこと教えてほしいです」
「そうだね、何が知りたい?」
ううん、と苺ジャムを羽根のような装飾のついたスプーンでスコーンに乗せながら考える。
「この森は恢さん以外に住んでる人が居るのかとか、気になる…」
「うん、いるよ。きみの街みたいに、あんな、ぎゅうぎゅう詰めに沢山居るわけじゃないけど」
美穂はその返答に目を輝かせた。彼女の中にはまるで知らない町に越してきたような身軽さと期待があった。
「へえ!そうなんですね、どんな人たちだろう…会ってみたいな」
「……みんな、僕と同じで人間ではないんだ。あんまり僕は人付き合いというものをしないから友人と呼べるのも少ないのだけれど、会わせることはできるよ。それにしたって…僕のこともそうだけれど、きみ、人間じゃないものは怖くないのかい?」
少し申し訳無さそうにマグカップを置きながら恢が答える。整った眉が不思議そうにも、寂しそうにも見える形に下がった。
「平気です!恢さんみたいな優しい人が吸血鬼なんだもん。その友達が何だって、大丈夫です」
美穂が口の端にスコーンの粒を付けて目を輝かせ胸を張る。その姿に恢は思わず、ふふっと笑みを零した。
「それなら、そうだな、今日出掛けよう。ずっと家の中にいるのも楽しいけど、きみが退屈してしまってはいけない」
彼はそういうと、まるで名案だと言わんばかりに楽しげに美穂を見た。最後のスコーンにココットに残っているジャムをたっぷりと乗せて、口に放り込んでいた美穂は慌ててこくこくと勢いよく首を縦に動かした。
ーー
二人で暗い森を歩くのは、三度目だ。以前より随分この目が慣れたような美穂は足元に意識を集中させながらもひんやりとした彼の手を握っている左手が気になっていた。
「ちょうど僕も外に用事があったんだ、よかった」
機嫌よく隣を歩く彼を見上げる。美穂から見れば随分と背が高い。暗闇に慣れた目は薄明かりの中に、恢の細長い身体のシルエットと整った輪郭を照らした。美穂は、こうやって月明かりに照らされている姿は確かに何処かヴァンパイアっぽいな、と思いながら隣を歩いた。
「あの白いとこ。近いだろ」
歩き出してまだほんの少ししか経ってないような気がして美穂は驚いた。視線を前方に移すと、月明かりに照らされ浮かぶように白い外壁が見える。相変わらず、美穂の住む普通の街にある家とはかけ離れた見た目だが、恢の家とは随分風貌が違った。屋根がなく四角く、かといって無機質なわけでもない。恢の家と大きさはそこまで変わらないが、どこか既視感のある空気だった。その変な建物は、そこら中に蔦が這って、鬱蒼とした森に溶け込んでいる。
「なんだか、変わった建物…」
「ここはこの森で一番“変”な場所かもしれないな」
その言葉の意味に首を傾げる間も無く、恢がドアのベルから下がる細いチェーンを揺らしてカランカランと鳴らす。そのまま返事を確認することもせずにドアノブに手をかけると、ギィ、と短くドアが鳴いて灯りが漏れた。
森の医者
ドアを開けて恢が陽気に、やあ、と言い中に入ってゆく。美穂は恢の後ろで入っていいものか悩みつつも手を引かれるままにドアを潜らざるを得なくなってしまい小さな声でお邪魔します、と言った。奥の方から早足で歩いてきた男の風貌を見て美穂は驚いた。深緑でくすんだ色の癖毛が鼻頭にかかるほどに前髪の長い男は、白衣を纏っていた。
「…誰かと思えば。やはりお前だったか」
低く無愛想な声色でその男はぽつりと零す。恢の背中に隠れるようにして顔を覗かせてみると、まるでそこは病院の診察室と理科準備室を足したような雰囲気だった。机に、椅子が三つ。机の上には分厚い本が何冊もきっちり揃えて積んである。壁際に取り付けてある棚には数えきれないほどの本と、おびただしい数の引き出しがあった。男は小さな美穂に視線をゆっくりと落とす。が、すぐに恢のほうに視線を戻した。
「見間違いだろうか。私にはお前が小さな人間の女の子供を連れているように見える。それはおかしいぞ、なんでこんなところに人間が居るんだ」
白衣の男が詰め寄る。こわごわと見上げると太い分厚いメガネの黒縁が髪の隙間から覘いた。
「まあまあ♪細かいとこはいいじゃないか。お邪魔するよ。彼が僕の友人。フランって言うんだ」
「あのな、おい、お前」
白衣の彼の狼狽した様子も構い無しに、恢は美穂にとても簡潔な紹介をしながらすり抜けるように椅子のうちのひとつに腰掛けて分厚い本の一冊を手に取り机の上でページを捲る。美穂はこの人はどこか子供のような人だなと、本のページを無邪気に捲って閉じる恢を見て思った。双方をきょろきょろと見て立ち尽くしていると白衣の男がガリガリと頭を掻いて、そこは私の席だ!と言った。
--
「……ああ、君は迷い子なのか」
白衣の男-フランは恢から奪い返した椅子に腰掛けてほとんど髪の中にある眼鏡を片手でぐっと上げた。
「私はてっきりお前がついに頭がどうにかなって、この森に誘拐しどうにかするつもりなのかと思って頭が痛くなりそうなほど、なんというか、そうだな。驚いたぞ」
「攫ってきたっていうのは、そうだな、あはは。完全に否定できないのだけれど、迷子だったのは本当さ」
恢がおどけて答える。“迷い子”とは迷子のことを指しているのだろうかと疑問に思いつつも何を言ったらいいのか分からず、二人のやり取りを眺めた。フランは全くと言っていいほど声をあげて笑ったり声色を変えたりすることがなく、冷静で静かなタイプなのか低く静かに喋る男だった。いつもにこにこと歌うように喋る恢とまるで真逆である。背は恢よりもほんの少し高いが、小柄な美穂にはほとんど一緒に見えた。
「そうか。お前というやつはいつもいつもあまりにも突然すぎるんだ、慣れないことにはもう少し心の準備というやつが必要だろう。まあいい仕方がない。……さてお嬢さんお待たせしたね、んんと、どこが悪いのかね」
改まったように咳払いしてフランが二人の向いたままやや前のめりになる。隣で恢がけらけら笑っている。美穂は目を丸くしたまま肩を竦めて答えた。
「いえ、あの、私はどこも悪くないんです」
「なに?…何処も悪くない。何処も悪くないのに二人で来たというのか。…そうか」
フランは先程慌てて首にかけていた聴診器をそっと机の上に置いた。その姿はなぜか少し残念そうに見えた。
「恢さんの友達って、お医者さんだったんですね。びっくりしたぁ…」
「医者と云っても、患者などこの森では来ないがね。ここは診療所の体をなしてはいるが、ただの私の家だ」
そう言いながらフランが小さく溜息を吐く。患者が居ないと言うのは喜ばしいことではある。しかし、この薄暗い森にひっそりと一人で暮らす医者としては、喜ばしいだけではなかったのだろう。彼は視線を下に落とした。と同時に美穂の膝に巻いてある包帯に気がついた。
「その包帯は?」
「あ、これは…昨日…?転んじゃって。恢さんが手当てしてくれたんです」
美穂がそういえば、と膝を見る。巻かれた包帯は未だ汚れひとつなく綺麗なままだった。痛みもほとんど無かったために美穂は擦り傷のことをすっかり忘れていたのだった。
「ああ、病気は無いけど怪我はあったんだったね、折角だから見てもらおう。それからフラン、僕の……その、錠剤も無くなっちゃったからくれないか。まだあるかい?」
恢が隣でそう言った。美穂は自分の怪我を診せる事になったことよりも恢が薬を飲んでいることに驚いて思わず半開きの口で恢の方を見た。しかしその事について尋ねる前にフランが口を開いた。
「嗚呼あるとも、帰りに渡そう。お嬢さん、怪我を見せて貰っても良いかね」
「あ、はい…お願いします」
フランはその長い躯体を折りまげるように屈ませて、ちいさな踏み台のようなものを机の下から美穂の足の隣に引っ張り出した。靴を脱いでそっとその台の上に足を乗せる。フランは丁寧に包帯を解いた。傷は何故か殆ど治りかかって、ゴマのようにちいさな瘡蓋だけがいくつか残っているだけだった。フランはふむ、と膝の周りを指で少し押して手を離した。
「骨や筋には異常は見られないな。腫れも引いているようだ。一応薬を塗っておけば、直ぐに治るだろう。もう包帯は取ってもいいかもしれないな」
そう言いながら軟膏を塗る。少しくすぐったくて足を動かしそうになったが、あっという間に済んだので美穂はほっとした。血が滲むほどの擦り傷がたった一日足らずで治っていることが不思議でならなかった。
「すごい、…結構派手に転んだのにもう治ってる」
「早く治るまじないの掛かっている薬を塗ったからね」
驚いて傷の周りを指でそっと撫でながら目をぱちぱちさせている美穂に恢が笑いかける。
「お前の家にそんな気の利いたものがあったとはな」
「あはは、僕には怪我も病気も無いからだろ、置いてるよ」
みほは思わず、え、と声を出した。先程恢がフランに錠剤をくれと言っていたからだった。
「あれ、恢さん…なんか病気じゃないんですか、さっき薬って…」
「ああ、錠剤のこと?薬じゃないよ、なんていったかな、あれだ、ええと…」
恢が困ったように上を見上げて考えている。薬ではないが常用する錠剤、と聞いてみほも一緒に考え、すぐにピンと思いつく。
「えっと…もしかして、サプリメント?」
「多分そう、それだ」
いずれにせよ恢が何がしかの病気ではないと知って、美穂は心底安心した。彼は不老不死で名高いヴァンパイアだが、もしかしたらヴァンパイアでも病気になるかもしれないと考えていたが杞憂だったようだ。風邪すら引きもしないのだろうかと気になって、美穂はそのうち聞こうと思いながらもう一度壁際に並ぶ本と引き出しを眺めて言った。
「たくさん、本やいろんなものが置いてあるんですね」
「ああ。本は良い。これらは私に知識を与えてくれたものだ。きみがもし気になったのがあれば貸そう」
並ぶ本たちがあまりに難しそうで分厚いものばかりだったので、美穂は慌てて断った。そもそも表紙が読めないものが多かったからだった。
「ありがとうございます、でも、ここにあるのは私にはちょっと難しい、かな…」
「そうか。きみに合う本を見繕うのは……私よりも…隣のそいつのほうが得意そうだな。それがいい。合理的だ」
納得したように美穂から恢に視線をやって、フランが頷く。恢と視線が合って思わず美穂ははにかんだ。
「さて、私は奥に行ってお前に渡すものを取ってくる。少し待っていてくれ」
フランはそう言い残すと診察室のような部屋の奥の扉を開けて半分ほど閉めたまま何処かへ行った。
「今日はね、もう一箇所行きたいんだ、受け取ったら出よう。…ところで、美穂はどんな本が好きなんだい」
「はい、え…えっと。何でも読むけれど、物語が好きです。あっ、あんまり怖くないやつがいい…かな」
突然の質問に戸惑いながら答える。
「物語!いいね。物語というのは本の中でいちばん素晴らしいものだよ」
「恢さんは何か好きなお話があるんですか?」
「ううん、えっと。急に聞かれると中々好きな物語というは分からないものだね」
恢がそう言いながら困ったように肩を竦めて笑うと、フランが小さな袋を持って戻ってきた。
「待たせたな」
「ううん」
恢はそれを受け取ると、さてと、と言って静かに席を立った。
「フラン、ありがとう。僕らそろそろ行くよ」
「ああ。なんのもてなしも出来なくてすまなかったな。もっと長居するかと思ったが」
「ごめんよ、また今度三人でお茶でもしよう。きみの好きなビスコッティでも焼いておくよ」
フランがドアを開ける。外は少しだけ風が吹いていた。美穂は外に出てくるりとフランのほうを向いて頭を下げた。
「あの、ありがとうございました!えっと…会えて嬉しかったです」
「…そうか。いつでも来てくれて構わない。…その、…お嬢さん」
「あっ、私、美穂っていいます、また…遊びに来ますね!」
少し歩いたところで、美穂が手を振る。フランが手を振り返したので美穂は思わず嬉しくなって腕を伸ばしきりぶんぶんと振った。彼の無愛想に思えていた口元は少しだけ、笑って見えた。
まじない
「恢さん、もう一ヶ所行きたいって言ってたのって一体どんな場所ですか?」
さくさくと草むらの上を歩く。森の中の小道は明るい月に照らされ、美穂の目もこの薄闇にすっかり慣れた為にその足取りは軽かった。
「そうだな、とあるお店だよ。ねえ美穂、さっき…フランのところでまじないがかかった薬の話をしたけれど、きみは魔法を信じてくれるのかい?」
「はい!…というか、私あれで本当に魔法があるんだって思ってとても嬉しかったんです。昔からそういうものに憧れていたけど……魔法を信じるなんて子供っぽいって馬鹿にされちゃうから、誰にも言わずに信じてた。なのに、本当にあるなんて」
魔法。おとぎ話には必ずといっていいほど出てくるのに、それを信じていいのは小さな子どもだけだと思っていた。しかし不意に飛び込んでしまったこの世界では、至って普通のことのように“まじない”という言葉が使われている。そのことが美穂にとって何より嬉しかったのであった。やや前方を歩いていた恢が大きな木の根をひょいと跨いでくるりと振り返り、手を差し出す。転ばぬようにという気遣いだろう。美穂は未だ慣れぬ様子で大きい手にそっと自分の手を乗せて木の根を踏まぬよう跨ぐ。道は少しずつ広くなり、話しながら進むうちに随分歩きやすくなっていた。
「確かに、きみの住む世界では魔法はもう…ほとんど無いものね。数字に支配されているんだ」
少し悲しそうに恢はそう言った。その声色は憤りを感じているようにも落胆しているようにも聞こえて美穂はどきりとしたが、恢の言葉の意味がよく分からずに聞き返した。
「数字に…?」
「いずれわかるよ」
美穂は、彼の話は楽しいが時々とても難しいな、とこっそり唇を尖らせた。
「ああそうだ美穂。あのね、もう一つ訊きたいんだけれど。きみはこの森を、何がしかの理由で出なきゃいけなくなったとして、また此処に戻ってきたいと思うだろうか。どう思う?」
急な質問に、美穂は慌てて恢を見上げた。彼も優しい顔のまま美穂のほうを見ていた。彼女にとってそれは悲しい質問だった。どうしてそんなことを聞くのだろうと思うにつれて胸が苦しくなった。なぜならこの森を出るということは、元の世界に、家に帰る事を意味しているが、美穂はまだ全くそれを望んでいなかった。そのことについて考えること自体が、彼女にとっては悲しいことだったのである。ましてやこの森には来たばかりだ。美穂はその寂しさのままに、もしかしたらその質問は帰らねばならないということを意味するものではないだろうかと思考を散らかした。そうして少しばかり潤む目を恢のほうに向けて言った。
「え、私、…その、…帰りたくないです。やっぱり、迷惑ですか?」
「ああごめんよ、違うんだ。もしもの話。居たいだけ居ればいいと僕が言ったのは、本心からだよ」
慌てて恢が否定する。美穂はようやく恢の質問がただの言葉通りの質問であることに気付いて顔を赤くしながら目尻を指で拭った。
「あ、その…ごめんなさい。てっきり。……私、どんな理由があったって、あっちに行っても此処に戻りたいって思うと思います」
「そっか、よかった。あのね、実は今からそれが叶う為の場所に行こうと思っているんだ」
「叶う、ための……」
仮に美穂に何かあったとき、“この森に戻る”という願いが叶う為に、とある場所へ行く、ということは“その場所に行かなければこの森へ戻って来れない”可能性がある事を示唆していた。戻れるようにするために何かをしなければならないのだろうというのは、彼女にも察しがつく簡単なことだった。美穂はなぜだか同時に胸が痛いような気がした。ああ、本当に此処は異世界なんだと息を飲む。この森の住人からすれば己が異界の住人である事は既に明白だ。美穂はたくさんの疑問の中から一番の不安だけ抜き出すように恢に訊ねる。
「あの、私、本当に此処に居てもいいんですか…?」
「勿論構わないよ。僕はきみと居ると楽しいんだ」
「よかった」
美穂の不安をまるで吹き消すように、彼はさらりと彼自身の気持ちを答える。美穂はほっと胸を撫で下ろした。そうして静かに歩みを進めながら、どちらともなく繋いでいた手を強く握った。
「私、此処に居るととても落ち着くんです。なんだか、自分が自分じゃないみたい。夢みたいに、幸せ」
少しだけ、歩きながら恢の側に身体を寄せた。帰らなければならないときの事を、もしもの話を考えるだけで胸が苦しくなるくらい彼女はこの森を気に入っていた。月明かりが綺麗な森は、そこら中が青みがかった綺麗な風景だった。青い草は嫋やかに風に凪ぎ、白い花は夜に浮き上がっていた。
「不思議なことを言うね、どれだけ幸せでも、きみはきみなんじゃないのかい。ああついた。ほら、此処さ」
恢が向いた方を見ると小さな建物があり、古い佇まいは遠い遠い昔からその建物がそこにあったのだと思わせるには十分なものだった。星型の照明が、大きいものと小さいものがひとつずつ、二つドアの上に吊るされている。優しい光に照らされたドアを恢がノックして中へ入った。
「あら。いらっしゃい」
奥の方から女の声が聞こえて、美穂はきょろきょろと店内を見渡した。そこら中に飾られたアクセサリーや並ぶ無数の小瓶、何かわからないきらきらとしたものたちが照明の橙を受けて瞬いている。美穂は目を輝かせてそれらを眺め、わあ、と感嘆の溜息をついた。
「や、ステラ。久しぶり」
恢の短い挨拶が聞こえ、思わず美穂は「初めまして」と小さく続けるも、肝心の声の主の姿が見えない。と、店内の奥の暗闇で人影が動いて美穂の心臓が跳ね上ったが、すぐにその姿は見えた。コツン、コツンとヒールの音が響いてステラは美穂の前でテーブル越しに立ち止まった。おそらく胸の下あたりまであるのだろうウェーブのかかった真っ黒な髪を下ろした女は、胸元の開いた漆黒のドレスに身を包んでいた。そしてこの世のものとは思えないような美しい微笑みを浮かべて美穂に「こんばんは」と子守唄のような優しい声で挨拶をした。髪で片方隠れている目は瑠璃の色をしていて睫毛の影はくっきりと白い頰にかかっている。月のように弧を描く真紅の唇は光を受けて並ぶ小瓶たちと同じように煌めいていた。美穂は数秒見惚れていた。
「こっ…こんばんは。初めまして、美穂といいます、恢さんのところでお世話になってます」
美穂は緊張で顔を赤くしながらそう言った。
「あらあら。丁寧な子ね、そういうタイプ好きよ。いらっしゃい、好きに見ていって。品揃えには自信があるわ。……ところで、どうしたの?この子」
ステラは気さくな口調で恢に話しかけた。二人が並ぶとまるで絵本のようだと美穂は思った。雰囲気から察するにどうやら旧知の仲なのだな、とそのまま二人の様子を眺める。
「森で迷っていたんだ。訳あって僕と暮らしてる」
ステラは大きな目をぱちりと開けて、そう、と短く相槌を打つ。
「実はステラにお願いがあってね。この子をこの子の世界とこちらの世界、自由に行き来できるようにしてほしい」
美穂は先程道を歩きながら話したことを思い出して、慌てて頭を下げる。
「お願いします」
うふふ、とステラが笑う。その微笑みの意味が分からず美穂は首を傾げた。なんだかすべての事柄において話の細かい部分が分からないままに進んでいるような不安を覚えるも、美穂はこの森に居たいという一心でいっぱいになっていた。ステラはそんな不安げな眼差しにもう一度柔らかな微笑を向けて恢の方に視線を移す。
「いいわよ。一応ってことね。この子になら構わないわ。けれどそれは、そんなに簡単な話じゃないわよ」
疑問に疑問が重なり、そのうちのひとつが美穂の口を突いて出た。聞きたいことは山ほどあったが、全てをすっきり明快に理解することは難しいことだと考えた彼女は、この森にとっての自分という存在について気になって仕方がなかった。
「あの……恢さん」
美穂が小さな手で恢のジャケットの裾をくいと引っ張って見上げる。
「どうしたの?」
「ここに人が、人間が来るってそんなに珍しいことなんですか?」
「そりゃそうさ。きみはなぜだか入り込めてしまえたけれど、…普通は入れないんだよ」
「アンタどんだけ適当な説明したのよ」
何故だか彼は楽しげに、子供のような笑顔で答えた。間髪入れずにステラが整った顔を顰めさせて横から口を挟む。美人もこんな顔をするのだと美穂はくすくす笑った。少しずつステラの性格が分かってきたような気がして、不安と緊張から少しずつ楽しい気分になってきたのであった。
「ううーん、…何から話せばいいかわからなくってさ」
「全く、もう」
恢は眉を下げて困ったようにあははと笑って肩を竦める。美穂はこの森についてまだ何も知らないことに、ずっともどかしい気持ちを抱えていたが、恢と同じようにこの森について一体何から聞いたらいいのか分からなかった。分かっていることは、この森は美穂の世界にとって時間が止まっていて、この森は独特の時間が流れていることと、森の住人は自分以外人間ではないということだけだった。美穂はフランが人間以外の何なのかフラン本人にも恢にも聞きそびれたことに今更気付き、気になった。そういえばステラは一体何者なのだろう、と彼女の方を見る。黒いドレスの裾は床にさらさらと布を引き摺らせて、彼女が動くたびに漆黒の布地はきらきらと輝き、白く細い指先の先端にはエナメルのような黒く長い爪が光っていた。どこか怪しげで美しいその立ち姿を見て美穂はすぐに思い付いた。
「あの、ステラさんは……もしかして、魔女…?」
ステラが美穂を見遣り肩を揺らして笑い、恢に訪ねた。
「ふっふふ、アタシそんなに魔女っぽい?」
恢はすぐに「わりと」と答えた。ステラが店のあちらこちらから取り出しながら楽しげに続ける。
「大正解よ。この店は魔法道具を売っているの、この森はね、魔法で出来ているのよ。もう他の場所には行った?」
鋏を取り出したり瓶のコルクを抜いたりと手元を動かしながら少しずついろんなものをテーブルに並べてゆく。時折店の端や奥から古びた本やら羽やらが蝶のように美穂の横をひらひらと飛んでステラの手に乗るのを見て美穂は目をまんまるにしながら一生懸命質問に答える。
「わっ、わ……ええと、さっきフランさんって方の診療所に行ってきたところです」
「あら、そうなの。美穂、と言ったわね。さあ、こっちへいらっしゃい」
美穂は唐突な手招きに戸惑いながら恢を見上げる。彼は微笑んだまま「いっておいで」と頭を撫でた。そろりそろりとステラの近くに行くと、薬草と甘い香水のような不思議な香りがして美穂は緊張で手をきゅっと握ってステラを見た。
「今から簡単に説明するけれど、リラックスして聞いてちょうだい。一つめ。今からアナタに一つアタシから贈り物をするわ。常に身につけておいてほしいの。でも、それはアナタの世界の人には見せびらかしたり自慢しちゃだめ。それからくれぐれも盗まれないようにしなきゃいけないわ。この約束を守れる?」
「は、はい」
美穂はいきなりとんでもないものを貰ってしまうのではないかとさらに鼓動を速くした。緊張で耳が熱く、その頰も桃色に染まっていた。ステラの話の邪魔をしないようにと短く返事をして、唇を結んで続きを待つ。
「二つめ。今から渡すものがもし壊れたり、アタシのまじないが切れてしまったら効き目がなくなる事を覚えておいて。これで全部よ、わかったかしら」
「はい」
美穂は必死に心の中で言われたことを繰り返す。とても緊張して心臓がどくどくと鳴っているのに薄暗くきらきらとした風景の所為で夢の中に居るような不思議な気分だった。
「美穂、アナタなら大丈夫よ。安心して。それじゃ始めるわね」
ステラが鋏を持って小さな枝を小さく切る。ぱちんと乾いた音が静寂に響いて、彼女は静かにそれを首飾りになっている筒状のガラス細工の中に入れ蓋をし両手で持つと、すうと息を吸い込む。歌うように囁くように、目を伏せたまま彼女は続けた。
「月は空に、星は海に。鴉よ夜を運べ、風よ幸運を運べ、今この宿り木と汝を結ばん。魔女の契約を」
ステラが目を開ける。手のひらを広げて鴉の羽根を一つ乗せ、そこ向かって息をふっと吐くと羽がふわりと煙になった。その煙を受けながら美穂は思わず声をあげそうになって必死で我慢した。それからステラは硬直したままの美穂の額に軽く口付けして首飾りを掛けた。
「さあ、そのガラスを握ったら目を閉じて頭の中で願って。美穂、アナタの願いを」
怖々と両手でガラス細工を持ち上げる美穂の手は震えていた。言われた通りに優しく握りしめて、美穂はこの森に居られるようにときつく目を閉じて強く願った。そうしている数秒の間、美穂は息をするのも忘れていた。ふいに風が吹いたような気がして手の中が温かくなり、美穂は慌てて息を吸った。と同時にステラの声が聞こえる。
「よし。完璧ね、お疲れさま。目を開けて大丈夫。首飾りも離して平気よ」
美穂が瓶を握ったまま目を開ける。掌の中は未だに温かい感じがして、そっと汗ばんだ手を緩め瓶の中を見ると小さな花が咲いていた。
お菓子の家とヴァンパイア