夜と生きる
現実に生き、幻想と共に歩む。
恋人は幻だったのか、それとも確かにそこにいたのか。
これは俺の10年間の、ある女の子との思い出だ。
-第一章-
その女の子と出会ったのは、真夏を目前に控えた、ある夜のことだった。
その日は、妙に生緩い空気が漂う夜だった。
梅雨の名残なのか、ビッシリと其処彼処に湿気が塗りたくられていた。
全身にじんわり汗をかき、Tシャツが肌にペタリと張りつく。
ー気持ちが悪い。
その日も俺は、深夜のバイトを終えたあと、仲の良い後輩と家で飲むことになっていた。
時刻は深夜3時前だった。
コンビニでお酒とつまみを買い込み、もう人の気配も住宅の灯りも消えてしまった、暗くて寂しい路地を、二人で喋りながら歩いていた。
二人の談笑が、閑散とした夜の住宅街に響き渡る。
やけに静かな夜で、普段あまり聴きとれない繊細な音も、その日は妙な気配と共に、耳の中へヌルヌルと侵入してきた。
草木の呼吸。
ジリジリと外灯がその身を光らせる音。
身体を撫でるようにゆっくりと浮遊している風。
静かな夜を一層引き立たせる、
夜の静かな音。
しかし、その音とは異なる、違和感のあるものが混じっていることに、ふと気づく。
キィキィ…キィキィ…キィキィ…
ーなんだろう。耳障りだな。
その音が聴こえてくるのは、どうやら前方からのようだ。
後輩と俺は、何気なく、その方向に目を凝らしてみた。
じっと見つめてみる。
すると、遠くから、誰かが自転車を漕いでこちらに向かってくるのが確認できた。
キィキィキィキィ…
俺と後輩は、どちらともなく話すのをやめ、暗闇からこちらに向かって走ってくる自転車に、見入っていた。
このとき俺は、既に、「それ」に魅入られていたのかもしれない。
キイキイキイキイ…
次第に音が大きくなる。
すぐそこまで、それが近づいてきて分かったのだが、どうやら、おばあさんが自転車を漕いでいるようだ。
別段おかしな事ではないかもしれない。しかしこんな時間に…?
もうすぐ深夜3時をまわろうとしている。
得体の知れない緊張感を感じつつ、じっとそのおばあさんとすれ違うまで、俺たちは何故か黙っていた。
もうすぐすれ違う…
キイキイキイキイ…
それはすれ違う寸前だった。
ーん??
おばあさんの自転車の後ろの荷台に、女の子が乗っているのが見えたのだ。
その時はボンヤリしていたのか、大して不気味とも思わず、違和感も感じなかった。
しかし今思えば、それはとても奇妙な光景だった。
自転車の荷台は籠のようになっていたのだが、女の子はその中に所狭しと正座をして座っている。
しかし全身が収まりきらず、足が少し籠から飛び出ている。そのため、身体が斜め前方に傾いていて、おばあさんの背中に覆いかぶさるようなかたちになっていた。
女の子の腕は、おばあさんの肩から胸のあたりにかけて、しがみつくように交差し、顔は、おばあさんの左肩から覗いてはいるが、長い前髪のせいで良く見えない。
おばあさんは、まさに「無」という仮面を被ったかのような表情で、淡々と自転車を漕いでいる。
すれ違いざまにその光景を目の当たりにした俺は、なぜかその時は、この不気味な状況を、面白おかしく感じてしまった。
単純に、
そんなに無理して後ろに乗らなくてもいいじゃないか、
と思ったのだ。
すれ違ったあと、すぐ後輩に、
今のちょっとおもろかったな、変な乗り方だったよな笑
と話しかけた。
しかし後輩は、キョトンとした表情で、
え?あのおばあさん、なんか変な乗り方してました?
…
いやいや、後ろに女の子乗ってたじゃん?
……え?
いや、あの後ろに正座して乗ってた女の子のことだってば。
………いや、後ろには誰も乗ってなかったっすよ。
…え?
……………………………
マジで…?びびらせようとしてないよね?
先輩こそ、びびらせようとしてんじゃないんすか?
………………………
しばしの沈黙が、お互い冗談を言っているのではないということを物語っていた。
遠くからは、まだ、
キイキイ……という自転車の音が微かに鳴り響いている。
さっきよりも静寂が濃くなるのを肌で感じ、背筋が凍りつくような感覚に陥った。
一瞬の間を置いて、足元からゾワッと鳥肌が駆け上ってくる。
俺と後輩は、いま起こった幻想を処理できず、薄ら笑いを互いに交わし、無言のまま先を急いだ。
足早に家へと歩みを早め、あまり気分も上がることがないまま、味が分からない酒を、夜が明けるまで黙々と飲んだ。
あの女の子はなんだったのだろうか。ついに霊を見てしまったのか、見間違えだったのか。
しかし、確かにその女の子はいたのだ。
これが、俺と、その女の子の最初の出会いだった。
夜と生きる