Economize Life~大切な命~

Economize Life~大切な命~

制作期間は約3週間、学校の課題で書いたものになり、文字数は、およそ42000文字で、今作は中編小説になります。
物語、世界観的には、まだ序章にすぎないところまでしか、書き上げていない事を、始めにお断りさせて頂くとともに、半端な内容を載せた事を、この場を借りて、お詫びします。
それを踏まえた上でも読んで頂ける方は、どうぞ今作に込めたテーマを感じ取って頂けましたら、作成者冥利に尽きます。



「クレイ! そっちへ逃げていったぞ!」
褐色の髪をした青年は魔物が姿を隠した茂みの中に鋭い視線を向けて、魔物討伐に伴った相棒へ大きな声を放ち合図を送った。
「任せろ!!」
その相棒クレイ・ナトゥーアは魔物が逃げた先の灌木を腰に差したサーベルを抜き身にして薙ぎ払うと、金色の髪をなびかせて威勢よくその先の茂みの中に勇ましく飛び込んでいった。
低木が密集する木立の間へ六フィートはある長身を前傾に上体を屈めて分け入って行くと、突然真横の茂みから怒り狂った獣が低いうなり声と共に青年の首元目がけて、鋭い牙をむき出しに襲い掛かってくる。しかし、その刹那に魔物の気配に勘付いたクレイは反射的に体をねじって紙一重の所で魔物の奇襲から難を逃れていた。
そこへ獣の鳴き声を聞きつけた仲間が相棒の身を案じて駆け寄ってくる。
「大丈夫か!? クレイ!!」
ヴァン・グレイブは右手には先端に片刃が付いた槍を構え、先程クレイが切り開いた茂みに長身を生かして容易く飛び越えると、いつでも得物を魔物の急所目がけて、その鋭い刃で貫く事が出来る体勢を取っていた。だがその心配はいらなかったようだ。
クレイは咄嗟に体を横にねじったその瞬間に左手に握りしめた片刃の綺麗な直線に伸びた刃を宙に舞った魔物の腹目がけて真っ直ぐ突き出し、既に魔物はその刺し傷から大量の出血を流して、痛みから苦悶の悲鳴を上げていた。
魔物の弱弱しい姿を確認したヴァンは安堵の表情を浮かべてクレイの下へ駆け寄って行く。
「クレイ!!」
クレイは刃から滴る魔物の血を一度宙に切って払うと、後方の茂みから歩み寄ってきたヴァンの方へ振り返った。
「これで村の家畜達の被害が収まるといいよな……」
「そうだな……」
魔物討伐を主に活動している村の自警団に所属している青年2人は今回の討伐の任を無事成し遂げはしたが、顔から笑みを浮かべる事はできなかった。
クレイは先程自身の剣で貫いた魔物の死体を険しい表情で唇を一の字に閉め暫く睨み付け、既に事切れた獣に視線を落としたままその真一文字に閉ざした口をゆっくりと開いた。
「ヴァン、変だと思わないか?」
「変?」
ヴァンはクレイの問いかけに疑問の表情を浮かべて目線を魔物の死体から、その相手に向けた。
クレイは依然魔物に視線を落としたままで数秒間を空けてから、その質問に答えた。
「ここ二、三年の間に魔物の数が増えたからと言って、今までここまで頻繁に村に被害を与えてくる事はなかった。最近になってだよ、こいつらが村を襲うようになったのは……」
そう言ったクレイの顔は険しさと供に憂いを帯びた悲しげな表情であった。
ヴァンは親友の危難を憂いた言葉に自分達が生きるパルティア大陸における昨今の状況について触れながら、励ましの言葉を選んだ。
「クレイが心配している事は俺達村に住む村人、ひいては国中の国民の危機だろうな。国も最近の魔物の急激な増加によって作物や人に甚大な被害が出ている事は周知の事実で、実際魔物討伐に当たる編成が騎士団の中で行われている。そのおかげでここ数年は随分被害が抑まってきていると聞く。でも、いくら王国に忠誠を誓い、国民を守る責をその身に帯びた勇敢なる騎士様でも、こんな辺鄙な村落までは守れないときてる。だから、村の守護者たる役目を俺達自警団が騎士様に代わって果たしてるんじゃないか。クレイ、弱音は言いっこなしだ。俺達が守るんだよ。俺達の故郷ファルベ村を」
ヴァンは暗い表情を浮かべたままの相棒に右拳を突き出して力強く視線を向けて励ました。しかし、その相棒の表情に明るさが宿ったのは一瞬だけで、すぐに再び不安な顔色を覗かせた。
ヴァンはその曇った表情に対して、いつもの悪い癖が始まったと言わんばかりに、クレイを見て頭を左右に振るとうんざりした口調で訊ねた。
「それとも無駄な殺生はしたくないか?」
ヴァンの言葉に対し、クレイは左右に首を振るとそれを認めながら自身の考えた事を伝えた。
「確かに無駄な殺生はしたくない。だけど、村の皆を守るのに必要な事ならやるしかないとも思う。ただ、俺が不安に思う事は俺が知る限りではこの獣は元々温厚な性格だったって事だ。さっきみたいに人に襲いかかるような凶暴な生き物じゃなかった……」
クレイは今一度変わり果てた姿のその生き物に目を向けると、眉間に力を込めて黙って見つめ続けた。
ヴァンはその険しいクレイの表情を見つめて、しばし思案した後、考えが纏まらないといった具合に頭を左右に振った。
「クレイが言う事は的を射ている。でも、考えても分からない事は、とりあえず今は後回しだ。今すべき事は村に帰って自警団の本部で帰りを待つ隊長に今回の任の結果を報告する事だろ?」
そう言うとヴァンはクレイの左肩をポンっと右手で叩いた。
クレイは魔物の死体に向けていた目を少しの間閉じると、ヴァンの方へ振り返り表情を明るく変えて、白い歯を覗かせながら頷いて答えた。
「そうだな」

二人は村へと伸びる両側に緑葉樹が立ち並ぶ平坦な道を、晴天の空の下暖かい空気に包まれながら、ゆっくりとした歩調で帰って行った。
その間二人は村に帰った後の予定を話し合っていたが、クレイはと言うと頭の片隅で先程危惧していた物事に考えが捕われたままでいた。
不安で陰る頭の曇りを思い過ごしだと払おうとするが、その暗雲が消える事はなく、じっとりとまとわりついてきた。
隊長なら答えを示してくれるかもしれない……。
クレイは考えが纏まらない頭を切り替えるとヴァンと供に梢の間から見えてきた故郷を視界に入れて、なだらかに下っていく傾斜道を力強く踏みしめて歩を進めて行った。

ファルベ村の入り口に着いた二人は、村の中央を流れる小さな川の橋を渡り、そのまま広場を抜けると、自警団の本拠地が置かれている赤い屋根の民家へ足を向けた。
扉を開けると部屋の中央には作戦会議に用いる真円状のテーブルがあり、その上席には隊長らしき一人の男性が座っている。
二人は部屋に入ると直立姿勢で右拳を左胸に当て、上司である隊長に敬礼を行った。そして、クレイはその場で今回の討伐の結果を声高らかに報告していった。
「トラス隊長! クレイ、ヴァン両名は討伐の任よりただいま帰還致しました!」
自警団の創設者、並びにクレイの育ての親でもあるトラス・マクアフティルは二人の隊員の無事な帰還に顔をほころばせて賛辞し、二人の青年の顔に順にその表情を向けた。
「二人供ご苦労だったな。首尾の方はどうだ?」
隊長トラスの問いにヴァンが一歩前へ出て魔物討伐の経緯を報告していった。

「なるほど、マカーナ森の中腹辺りに巣を張っていると予測していたが見当違いだったか。あの魔物が縄張りにしている範囲はもっと広範に及ぶのだろう。しかし、森の奥を調べるとなると獰猛な魔物が多く生息している地帯になる。編成を組みなおして増員する必要がありそうだ。他に報告はあるか?」
トラスが二人の部下にそう促すと横でヴァンの報告を聞いていたクレイは自身が感じた違和感に似た問題点を報告内容に挙げた。
「隊長」
「クレイ、何だ?」
「これは俺自身が感じた事ですが、先ほど森で討った魔物は元々大人しい動物で人間を襲うような獰猛な獣ではありませんでした。しかし、俺達に牙を向いたその獣は正しく魔物と呼ぶにふさわしい姿に変貌を遂げて狂気に満ちていました……。俺は何か不吉な予感がして……」
不安が垣間見えるクレイの表情から、その事象に対し同じ異質さを感じていたトラスは何やら探るようにいぶかしげに部屋の虚空を見つめた。
数秒の間考えを集中させると部屋が沈黙に守られた。そして、トラスはクレイとヴァンに視線を戻して現在たどり着ける考えを告げていった。
「動物の凶暴化、そして、魔物の増大……。生態系を揺るがすこれら二つの事案は近年目を見張る勢いで私達人間の世界を脅かしつつある。いや、現に被害が出でいる今、それは脅威と呼べる程になっている。私がこの自警団を結成した当初、今から十六年前は動物達や魔物の営みは緩やかなものだった。こちらから彼らの縄張りを土足で踏みにじる事でもない限り、危害を及ぼしてくる事はなかった。しかし、ここ二、三年はその緩やかであった筈の彼らの生態は劇的に変化を遂げ、能動的且つ、凶悪さを宿し私達人間にその牙を向けてきた……。まるで私達人間を自分達の敵とみなしたかのように……」
トラスはそこで言葉を区切ると目を瞑り、再び思考の世界に考えを巡らせた。
若者達は隊長の放った言葉の数々に思い思いに考えを働かせた。そこで、二人が共通して引っ掛かりを覚えた言葉がある。

―人間を敵とみなしたかのように―

その言葉から二人の胸に去来したものは、得体の知れない恐怖であった。
何か強大な力が魔物や動物達に働きかけ、自分達人間を根絶やしにしようとしているのではないか……。余りに誇大した結論に行きついた頭は自身達が目にしてきた凶暴化した獣の姿と重なり合って、ひたすらその恐怖心を助長するのに暇(いとま)がなかった。
クレイは横で微かに顔を強張らせて微かに肩を震わせている友の肩に手をやり、首を左右に振って考えすぎだと否定した。
不安と恐怖が支配した部屋はいつにも増して緊張が空気を伝って、ひしひしと感じるかのようだった。
不意にその張り詰めた空気を破る音が鳴り響く。

―ガチャン―

「おじゃまします」
綺麗な黄金色の長髪を後ろにゴムで一つに束ねた少女は左腕に布が被さったバスケットを提げて部屋に入ると、挨拶と一緒に丁寧に頭を下げた。
突然の来訪者にクレイとヴァンは半ば拍子が抜けたように肩をすくませて、その少女の顔を見やっていた。
自分が場違いだと思った少女は申し訳なさそうに、腕から提げたバスケットを両手に持ちかえて後ろに隠した。
「もしかして本当にお邪魔でしたか?」
トラスは心配する彼女に柔和な顔を向けて歓迎した。
「イリス、心配する必要はない。丁度これから昼食にしようかと思っていた所だ」
そう言うとトラスは椅子に座った姿勢のまま体を右に傾け、イリスが後ろ手に持っているバスケットを視界に入れた。
「今日も昼食を作ってきてくれたんだな」
トラスの言葉にイリスは満面の笑顔を見せて後ろ手に持っていたバスケットを三人に見えるように真正面に差し出した。
「はい! 今日はサンドウィッチを作ってきました!」
「いつもありがとう」
トラスはイリスに感謝の笑みを向けた。
それとは対照的にクレイは少し意地悪な笑みを浮かべていた。
「今日はっていうか、今日もの間違いだろ?昨日も一昨日も、その前もサンドウィッチだったぞ」
そんな意地悪な対応にイリスは頬を膨らませて機嫌を損ねた態度を示した。
「クレイ? そんな事言うと食べさせてあげないわよ?」
そんな二人の険悪な雰囲気を取り持つかのようにヴァンが割って入る。
「イリス、機嫌を直してくれよ。いつもバクバク人の分まで平らげるクレイはイリスのサンドウィッチが何より好きなんだ」
クレイはそんなヴァンの言葉に照れ笑いを浮かべて頭を掻いていた。
「まあな、イリスの作ったサンドウィッチはなぜか飽きないんだ。毎日食べたっていいくらいだ」
イリスは褒められたのが嬉しかったのか無邪気な笑顔を見せて、サンドウィッチが入ったバスケットを両手で提げて目の前にかざした。
「じゃあ、明日も明後日も明々後日も、ず~っと作ってくるわ!」
「いや、たまには……」
流石に毎日は飽きるとヴァンは苦笑いを浮かべた。一方、クレイは歓迎の旗色でガッツポーズを左手で作っている。
「ふふ、じゃあ早速いつもの場所に食べに行きましょっ」
 
四人は村の中央を流れる小川のほとりまで来ると、東に拡がる畑へと伸びていく川と並列して傾斜がついた土手にそれぞれ腰を下ろした。
イリスは全員が座ったのを確認すると、バスケットに被さった布を取り、お手製のサンドウィッチを三人に振る舞った。
「さあ、召し上がれ!」
その言葉を待っていましたと言わんばかりにクレイは我先にとイリスが差し出したバスケットの中から一つサンドウィッチを取って、すぐにそれを口へと運んで頬張った。
その一部始終を隣で見ていたヴァンは口をあんぐり開けて呆れて注意した。
「おいおい、意地汚いぞ」
「ふぁらふぇってんはよ」
クレイは口をもごもごと動かし手は既にバスケットへ伸ばしていた。
そんな食い意地が張ったクレイの様子を見て、イリスは子供に取って聞かせる母親のように宥めた。
「もうクレイったら、沢山あるから急がなくてもサンドウィッチは逃げないわよ」
そして、ヴァンがイリスの言葉に便乗する形でむしゃむしゃと横で口を動かす友を追い立てた。
「全く子供みたいだよな。隊長からも言ってやって下さいよ。ガキみたいだって」
トラスは育ての親として長年近くでその行いを目にしてきている為か、改めて咎めるような態度を示していなかった。
寧ろ微笑みを浮かべて楽しそうにクレイを見ていた。丁度父親が年端のいかぬ世話の掛かる子供の相手をする時のように。そして、トラスは自嘲気味にこう付け足した。
「俺が言って治るならとっくに治っている」
トラスのその発言にクレイ以外は違いないと言って声を揃えて笑った。
流石に子供扱いされたのが癪に触りクレイはむきになって反論しようとしたが……。
「ふぁはにひへんなへ!」
口いっぱいに入れたサンドウィッチのせいで何を言っているか分からない始末で、その様をじっと見ていた三人は再びくすくす、げらげらと笑いあった。
そんな明るい雰囲気に包まれた昼食を供に過ごした四人は、イリスが作ってきたサンドウィッチを全て食べ終わると、各々午後の用事へと戻って行くのだった。
イリスは母親に頼まれた家の手伝いを、クレイとヴァンは毎日欠かさず行っている稽古を今日はトラス指導の下励みに行こうとしていた。
「イリス、サンドウィッチありがとな。おいしかったよ」
クレイは大好きな食べ物で腹を満たし、その多幸感を顔いっぱいに表現してみせた。
そんな風に気持ち沢山に喜んでもらうのは、やはり作った者として、とても嬉しいイリスは顔を笑顔で満たして答えた。
「どういたしまして」
「じゃあ、夕暮れ時にクレイの家で」
クレイの隣でヴァンが笑顔で言った。
「ええ、お母さんと一緒に腕によりをかけて作るわ」
「それは楽しみだな」
トラスは口角を上げて静かに笑った。
それを見たイリスはトラスの方を見て意味深にくすっと笑ってみせた。
その反応に対しトラスは眉をひそめてイリスを見つめた。
「ごめんなさい。何でもありません」
「気になるな……」
笑って誤魔化す相手の返事に未だ頭の疑問が解消されないでいたトラスであったが、別段悪い気がした訳ではなく、寧ろ内心ではイリスの母親の手料理が食べられる事を純粋に喜んでいた。しかし、寡黙な戦士の顔からはそれを読み取る事は出来なかった。
歴戦の勇者を彷彿とさせる鋭い刀剣のように研ぎ澄ました存在感を放つこの戦士は元々この村の住民ではなかった。
ある日大怪我で倒れている所を助けて貰った事を縁に村に定住する事を決めたという経緯がある。
村で生きる道を選択した当初はあまり積極的に人と関わろうとせず、村人達からの願いでもあった、村を守るという責務をその身に帯びて、魔物から村を守る事だけに意識を傾けていた。
そんな訳か周囲からは寡黙で人嫌いな印象を抱かれていた。しかし、イリスの母親アマリスだけは違った。
勿論元来の性格が物静かで人付き合いが苦手な面も多分にあったのだろうが、アマリスは一人であろうとする彼を事ある事に気に掛けては彼の心を開こうと関わって行った。
それは彼が何か事情を抱えているから人と接しないのではないだろうかという、アマリスがトラスに対して初見で感じた勝手な印象ではあったが、遠からずそれは的を射た認識であった。
無論、アマリスが直接彼の過去を詮索した事は一切なかった。それは現在でも同じだ。
「いつか話せる時がきたら……」
彼女はいつの日かそんな言葉をトラスに言った事がある。
その時も彼はいつもみたいに何も答える事はなかったが、その日を境に彼の心に変化が生じたのは確かだった。
多くを語らない、語ろうとしない、よそ者の自分に暖かい心使いで自身が抱える闇を明るく照らそうと、或いは理解に努めようとしてくれた彼女に対し、深い感謝の念と尊敬の念を抱いていた。
そこでトラスには村を守る理由に村人達への恩義とは別にもう一つ、彼女を守りたいという意識が芽生えた時でもあった。
そういった感情が湧き起こると同時に彼女に対して申し訳なさも感じたトラスは、なるべく積極的に周囲と意思疎通を図ろうと始めた。
そんな彼に対し村に住む人々は何の気兼ねもなく受け入れ接してくれた。
その時初めてトラスは村の一員となり、現在では村の大事を決める際には欠かす事ができない中心人物にまでなっている。
自警団を結成したのは丁度その頃で今から十六年前の話だ。そして、その後彼は教会の前で捨てられていた生後間もないクレイを拾って引き取り供に生きる事を決意する……。

イリスの何か含みがある笑いが少し気にはなるものの、トラスは気を取り直して二人の教え子達に照れ笑いにも似た笑顔をみせた。
「全くイリスには敵わないよ」
トラスのそんな冗談めいた言葉に対し、二人は全くだと賛同して笑い飛ばした。
事の発端であるイリスも三人につられて笑みを浮かべた。
イリスは笑顔のまま踵を返し小川の短い傾斜を上り切ると振り返って、三人を少し見下ろした体勢で満面の笑みを顔いっぱいに広げて声を上げた。
「それじゃあ私そろそろ行くね! 今日の会食楽しみにしてるわ!」
彼女は嬉しそうにそう言うと軽やかな足取りで村の広場へと歩いて行った。
クレイとヴァンは手を振って彼女を見送ると、三人も稽古の為、村の訓練場まで足を進めて行くのだった。

太陽が地平の彼方に沈み、空が夕焼け色から徐々に夜の帳が降り始めた頃、クレイ達は稽古を終えて、トラスとクレイが暮らす家へと会食の為足を運んでいた。
既にアマリスとイリスが調理に取りかかっており、部屋は何とも香ばしい匂いが鼻を刺激し、稽古で体力を消費した男達の胃袋も刺激した。特にクレイの胃袋を。
「いや~アマリスおばさんの手料理久しぶりだな~」
クレイは豪華なディナーを前にした子供のように目を輝かせて調理中の二人の背中を楕円状の食卓の周りに並んだ椅子から見つめた。           
クレイのはす向かいの席に座ったヴァンも抑えてはいるが、やはり久しぶりの会食が楽しいのか顔からは自然に笑顔が溢れていた。  
トラスはと言うと丁度台所を正面に捉える事ができるテーブルを挟んだ席に腰を落ち着かせて、目を瞑って思案気に腕組みをしている。
「こうやって揃って食事するのはいつぶりだっけ?」
ヴァンの言葉に調理中のイリスの母アマリスが手を休める事なく、視線はまな板の上のファルベ村特産の地鶏チャコのもも肉に塩コショウで味付けを施しながら答えた。
「確か、二月前のイリスの誕生日以来だわ」
アマリスは口元をゆるめて少し懐かしむようにそう答えた。
横でりんごの皮を包丁で丁寧に切っているイリスもつられて笑顔だ。
「もうそんな経つのか……。最近は自警団の仕事が忙しくて中々時間が取れなかったもんな」
ヴァンがため息交じりに愚痴をこぼした。クレイは相変わらず目をキラキラと輝かせながら料理が完成するのを今か今かと待っていた。
「何だっていいさ。今日この日にアマリスおばさんやイリスと一緒に過ごせるなら日頃の辛い事は全部今日の為だったんだって思える」
クレイがはす向かいに座るヴァンの方を見て嬉しそうに言った。
そんな友の何とも前向きな姿勢にヴァンは感心するように笑みを交えた。
「クレイのそういう前向きな所は見習いたいもんだ」
少し皮肉とも取れる言い方に対し、クレイは屈託のない笑顔で「それが俺の長所だろ」と返した。
「本当にな。俺もそんな風に前向きになれたらもっと勇敢に戦えるようになれるんだろうな……」
ヴァンが正面の窓から見える夜の帳でうす暗くなった家の側に立つ部屋の明かりに仄かに照らされた一本の緑葉樹へ目をやりながら呟いた。
「そんな事ないだろ?! ヴァンは十分勇敢だって!」
クレイがそんな風に明るく励ました。
そんな友の言葉にヴァンが何かを言おうと口を開いた瞬間、丁度調理を済ませたイリスとアマリスが木製のプレートの上に綺麗に盛り付けられた料理の数々を乗せて運んできた。
「おまたせ~!」
イリスが元気よく両手にお盆を持って料理を持ってきたが、食卓の雰囲気は反対に暗かった。
ヴァンの元気がない表情から察したイリスは、いつもの悪い癖かと瞬時に理解した。
「またヴァンの「もっと勇敢になれたら」病なの?」
イリスは皿を食卓に並べながら、うんざりした様子で言った。
「ヴァン君は十分勇敢よ。今日の討伐だってヴァン君がいち早く魔物を見つけたから上手くいったってクレイ君から聞いたわよ」
アマリスがそれぞれの席の前にスプーンやフォークを並べながら伏し目がちなヴァンの方に目を配りながら励ました。
「いや、でも、とどめはクレイが……」
ヴァンが言い終わる前にアマリスが言葉を挟んだ。
「男が、でもとか、だってとか、簡単に使っちゃダメよ。そうよね?」
上席で依然目を瞑って寡黙に座るトラスに訊ねた。
トラスは腕組みをしたまま目をゆっくり開いてヴァンの方へ視線だけを動かした。
「ヴァンは自分で思っている程、臆病ではない。本当に臆病なら自分が臆病である事からも逃げ出すだろう」
ヴァンはトラスのその言葉を聞くと急に恥ずかしくなった。
自分は折角の楽しい会席の場所で何て暗い話題を皆にさせてしまっているのだろう。
恥ずかしさと申し訳なさが同時に湧き起った。
「みんな、ごめん……。折角の楽しい雰囲気を壊しちゃって……」
素直に自分の非を認めたヴァンに対して誰も咎める真似はしなかった。それは誰しもが心に弱い所があり、少なくともここに居合わせている四人はヴァンが真剣に悩んでいる事を昔から供にしてきて知っているので、尚更その事を馬鹿にはしなかった。
「いいのよ。ヴァン君」
アマリスがぱっと明るい表情をヴァンに見せて答えた。
それに対してヴァンは軽く頭をうなだれて肩をすくめている。
イリスは折角の料理が冷めるといけないと気を利かして、仕切り直しと言わんばかりのとびっきりの笑顔で晩餐の始まりを告げた。
「さあ、料理が冷めるといけないわ!それにクレイが今にも喰いついちゃいそうだし、早い所始めちゃいましょっ!」
クレイはそんな事をしないと言いつつ、左手には既にフォークがしっかりと握られている。
アマリスはそんなクレイを見てから、横目でトラスの方へ視線を移して目を細めた。
「全く親の顔が見たいわね」
そんな皮肉とアマリスの痛い視線を感じ取ったトラスはバツが悪そうに咳き込んで誤魔化そうとした。
アマリスとイリスが席に着くと、この地方に伝わる精霊への祈りの言葉を全員で口に揃えて言葉に出し、精霊や神に感謝の念を捧げてから久方ぶりの会食を始めていった。
「いただきま~す!」
クレイは目の前のサラダには目もくれず、テーブルの中央に山のように盛られているファルベ村の地鶏チャコのもも肉の表面にアマリス特製のタレで味付けされた直火焼きを手に取って、それをすぐに口へと運んでかじりついた。
「アマリスおばさんのこれ大好きなんだ!これなら何個でもいける!」
「ふふ、ありがとう。そうだと思ってたくさん作ってあるから焦らなくても大丈夫よ」
クレイの食べっぷりを見て嬉しそうにアマリスが笑みをこぼした。
それとは対照的にトラスは黙々と目の前に出されたスープをスプーンですくい口に運んでいる。
「トラスも遠慮せずに頂いていいのよ」
寡黙な男にアマリスは目を細めて笑顔を作った。
「ああ、頂く」
そっけない態度にもアマリスは、フフと笑うだけだった。
「クレイ、ニンジン食べる?」
ヴァンが皿に輪切りで数個盛られているニンジンをフォークで皿の隅の方へ押しやりながら訊ねた。
「ヴァンは相変わらずね! ニンジンが嫌いなんてまるで子供みたい!」
イリスが好き嫌いするヴァンを戒めるように声を上げた。
「食べられない物は仕方ないだろ。イリスの昆虫嫌いと一緒さ」
ヴァンの屁理屈にイリスは益々むきになって返した。
「何よそれ、ヴァンはただの子供舌なだけじゃない。それに食事の場で虫の話するのやめてよね!」
見かねたアマリスが二人の若者にどちらもむきになって子供だと言葉の終着地点をよそへと持って行った。
アマリスの苦言に二人はしゅんとなって一緒に俯き両肩を寄せた。
「とりあえず、ニンジンは俺が食べるよ」
クレイが右手に皿を持って、はす向かいのヴァンの方へ差し出した。
それを見ていたイリスは尚も呆れた様子であったが、ヴァンはそんなイリスの視線に意を返す事なくフォークで嫌いなニンジンを突き刺して、クレイが差し出した皿にのせて行った。
そんなやり取りの中、一瞬トラスとアマリスの視線が交わると、どちらも微笑ましい笑顔で若者達に視線を戻した。
「それにしても二人が自警団になって、もう何年になるのかしら?」
クレイが口にニンジンを運んでいると、感慨深げにアマリスがそう訪ねた。
「もう二年になります」
ヴァンが姿勢よくそれに答えた。
「早いものね。子供の頃と比べたら二人は随分逞しく成長したわ」
アマリスがまるで我が子の成長を喜ぶ母親のように目を細めて昔の記憶に浸った。
「まあ、クレイは昔から食い意地が張ってて変わらないし、ヴァンは昔からニンジン嫌い治ってないけどね」
イリスは棘がある言い回しで否定して見せた。
それに対して二人の反応は分かりやすく対照的であった。
クレイは意図も介さず「ははは」と笑って見せ、片やヴァンは「ニンジンが嫌いで悪かったな」と突っぱねた。
アマリスは娘の言葉に苦笑いを浮かべるだけで否定はしなかった。そして、論点が違うと言わんばかりに話題を元に戻して率直な意見を口に出した。
「ふふ、確かにそういう所は子供の頃と変わってないわ。だけど、少なくとも私の目には二人はもう立派な戦士の気概を感じる。トラスから見てどう?」
静かに戦況を見図る軍師のように、やり取りを注視していた寡黙な戦士はアマリスの問いに静かに頷いた。
「俺の目から見ても二人は勇猛な男に成長したと言える。それと同時に可能性を多く秘めた時代の担い手としてクレイ、ヴァン、イリスのこれから先が楽しみだ。俺達はそんな申し子達の背中を押してやる役目でありたいものだな」
そんなトラスの言葉にアマリスはおどけた様子でも半ば真剣にその言葉を認めた。
「そうね、私達も年を取った証拠かしら」
アマリスがクスッと笑うと、トラスも同じくフッと微かに笑ってお互いの意志を共感し合った。
トラスの率直な評価にクレイとヴァンは満足げな表情を浮かべ、イリスは謙虚にそれを否定した。
「そんな時代の申し子なんて言い過ぎですよ! それに……」
イリスはそこで言葉を区切るとイタズラな笑顔を浮かべて二人を茶化した。
「隊長と比べたら二人なんてまだまだ子供です!」
イリスの評価の低さをクレイは素直に認めた。
「勿論俺達なんてトラスと比べたら、まだまだ子供だな。でも、俺はいつかトラスを超える位の立派な戦士になるんだ」
クレイは自身が抱く目的を堂々と胸を張って告げた。
それに対し、その目標であるトラスは目を瞑り腕組みをしたまま無反応であったが、その口元には微かに笑みが浮かんでいた。
そんなクレイの抱負を他の三人は各々違った反応を見せた。ヴァンはクレイならきっとやれるさと背中を押し、イリスはそんな日が来たら世界が滅んでしまうわとからかい、アマリスもヴァンと同様にクレイならきっと超える事ができると言った後、それには大変な苦悩をこれから乗り越えて行かないといけないと付け足した。そして、久方ぶりの会食は前途多難な若者の背中を押す形で終わりを告げた。
 
クレイは綺麗に食べ終わった皿を皆と一緒になって片付けると、ひんやりと夜の冷気が漂う家の外で家路に着く三人を見送っている所だった。
外はすっかり暗闇が支配した世界のように視界が悪かったが、村の至る所に焚かれた灯楼が辺りをほのかに照らして村人達を暗闇から守っていた。
「イリス、アマリスおばさん、今日はありがとう」
クレイは美味しい料理で腹を満たして幸せな表情でいる。それに対し、アマリスは上品に頭を下げて謙遜した。
「お粗末さまでした。クレイ君みたいに素直に喜んでくれる相手がいると、作り甲斐があるってものだわ」
横でそれに賛成する形でイリスが頷いてみせた。
「うんうん、クレイみたいにバカバカ綺麗に平らげてくれたら、皿を洗う手間も少なくなるもんね」
少しひねくれた言い方ではあるものの、クレイがいつも作って持っていくサンドウィッチも「うまいうまい」と綺麗に完食してくれるのが何より嬉しかった。
普段口から出る言葉はそんな本心を隠す為の強がりみたいなもので、気持ちの中では嬉しくて仕方がなかった。
それはヴァンに対しても言える事だった。普段はヴァンの事をからかうような発言を繰り返すイリスだが、そんな口から出る言葉とは裏腹に本心ではヴァンの事を認めていた。
元々、ヴァンがクレイを自警団に誘ったという経緯があり、幼少の頃から自身が生まれ育った村を守りたいという意識が強くて、それは彼が村長の子供という環境もあっての事なのだろうが、少なくともイリスの目からはそんな彼の誰にも譲れない信念にも似た郷土愛は心から尊敬するに値するものであった。
尤も彼がニンジン嫌いな所を除いての話だ。
そんなイリスから一定の高い評価を貰っている若者は上体を綺麗に折って、トラスに別れの挨拶をしている所だった。
「トラス隊長、今日はご指南ありがとうございました! また今度お手隙な時に、よろしくお願いします!」
そんな熱心な教え子の言葉にトラスは「ああ」と一言だけ発して静かに頷いた。
トラスの反応をヴァンは笑顔で確認すると最後に友に視線を移して、力強く右拳を相手へ突き出して大きな声を張り上げた。
「クレイ! 今度は負けないからな!」
そんな気迫ある友の言葉にクレイは、それに答えるように左拳を真っ直ぐと相手に突き出して答えた。
そんな二人の教え子達のやり取りを背後で見ていたトラスは二人が切磋琢磨して成長していく様子を嬉しそうに顔を和らげて眺めていた。
二人の青年は数秒の間、互いの意志を確認するかのように拳を突き出し、相手の目から感じる事が出来る力強い信念を読み取りあった。そして、互いに意志の確認を一通りし終わると、真っ直ぐ伸ばした拳を下ろし、ヴァンはイリス達と供に家路へと着いて行った。  
二人はその三人の背中を夜の帳が下りてうす暗く視界の奥でかろうじて確認できる広場の方までその姿が消えるまで見送った。
見送った後、トラスとクレイは静かに我が家へと入って行った。

家に入った二人は先程まで供に食事を摂り、談話を楽しんだ食卓の方へ目をやり、クレイは心の底から嬉しそうに笑みを浮かべて今日一日の出来事を振り返っていった。
「久しぶりに皆と食事ができて本当楽しかった。トラスも久しぶりにアマリスの手料理を食べれて嬉しかったろ?」
クレイがトラスの方へ、その笑顔を向けて無邪気に言った。
寡黙な男は視線をテーブルの方から、その屈託のない顔に向けると口角を上げて静かに笑って答えた。
「ああ、やはりアマリスの手料理は格別だ」
トラスの言葉にクレイは明るく笑い声を上げて同意すると表情を暗くさせて呟いた。
「こんな毎日が続くといいのに……」
語尾を落としたそのクレイの言葉と不安と悲しさが入り交じった表情から、トラスは昨今の魔物の増加、獣の魔物化による、クレイも今日の討伐で感じた一連の危惧を思い出していた。
人々の平穏を脅かし、不安と恐怖の感情を日常に根付かせた陰り……。
自警団を結成する発端となった事象は改善の兆しを見せる事はなく、日々その暗雲は人々の気持ちの中を覆っていくばかりであった。
そんな村人達の尊い日常を守る為に、トラス等自警団の一員は日々の訓練や哨戒を欠かす事なく、神経を張り詰めて従事している。しかし、大多数の自警団の一員はそれを頼まれたからとか、受動的な原理で捉える事はせず、あくまでも自身が生まれ育った愛する故郷を守るべく身を削るのだった。そして、トラスはそんな団員の確固たる信念と尊厳ある命を何よりも重んじている。
そんなトラスの考えは団員の間にも共通の意識として広まっており、そんな隊長の人となりをこの上ない尊敬の眼差しで向けていた。 
クレイ自身も幼少期から誰からも信頼を寄せられるそんな男の背中を見て育った為か、自ずと自然に憧れの対象として見ていた。
それはトラス自身にも良い傾向として反映されている。
自身が憧れの存在である為、日頃から自身の言動を律し、良き隊長として、または一人の男として自身を高める事を忘れなかった。
トラスはクレイの陰った顔を見やりながら精一杯の鼓舞する言葉を選んだ。
「守りたい者の為に俺達自警団がいて、それぞれ胸に大切に秘めたものは違えど、その守りたいという気持ちは一緒だ。クレイ……改めて聞く……」
そこで言葉を区切ったトラスはクレイの意識がこちらに集中するのを数秒の間待ち、ゆっくりと口を開いた。
「お前が守りたいものは何だ?」
尊敬する男の問い掛けに青年は、その質問を頭の中で何度も反芻させ改めてその問いに答えを見出すべく、過去から現在までに想起した考えや感情を手繰り寄せていった。
身寄りのない自分を拾い、今日に至るまで育ててくれた恩人で、クレイにとってたった一人の父親でもあるトラス、今まで教会に捨てられていた自分を拾い育てる決意をどういう心境を持って行動に移したのか聞いた事はなかったが、クレイにとってそれは特別意味を成す事ではなかった。
今まで育ててくれた事が何より大切な意味を成し、クレイにとってはそれだけで十分だった。
例えトラスが生後間もなくして天蓋孤独の身になった孤児に憐れみを抱き、自身を拾ったとしても感謝の気持ちに変わりはなかった。
それはトラスだけでなく、この村の人々に対しても同じだ。
どこの生まれとも知れない部外者を寛容でおおらかな精神で受け入れ、この村の一員として暖かく迎え入れてくれた。
クレイには感謝してもしきれない恩が、村の人達と、目の前で自分の目を真っ直ぐ捉えて答えを待っている男にある。
そんな男の問いかけに中途半端な姿勢で答える事ができないクレイは、そのように過去の自分の生い立ちから現在までを走馬灯のように振り返って揺るぎない想いを告げた。
「俺はこの村が大好きで、ここで生きる人達の笑顔が絶える事のない日常を守りたい。俺の剣はその為にある」
真っ直ぐな言葉、真っ直ぐな眼差しから目の前で頑なな信念を目に帯びた青年から、確かな信念を読み取ったトラスは目を瞑り小さく「そうか」と呟いた。
その口元には笑みが浮かんでいた。
尊い精神を培って育った我が子の成長を心の底から素直に喜んだのだ。

暫く二人の間に安らかな沈黙が流れた後、トラスが何かを思い出したかのように窓際の前に備え付けた引き出しの中から、丁度手に収まる大きさの浮き彫り細工を取り出した。
トラスはその浮き彫り細工をしっかりと右手で包み込むと、何かを思い出すかのように目を瞑り、数秒の後、静かに目を開けてクレイの下へそれを持って歩いてきた。
「クレイ、受け取れ」
右手に持ったその浮き彫り細工をクレイの方へ差し出して言った。
「俺の誕生日はまだまだ先だけど……」
突然の贈り物に疑問が生じたクレイはとんちんかんな返しをしてしまったが、それに対してトラスは笑う事はせず、尚も真剣な眼差しでクレイを見つめ、今まで語る事のなかった自身の過去について少し打ち明けた。
「これは俺が王国の騎士であった頃に付けていた物だ。もう随分昔の代物でくたびれてはいるが、俺にとってはそこらのパワーストーンなんかより、神秘的で意味がある物だ。まあ謂わばお守りみたいなもんだな。だが、今の俺には無用の長物になっている。もう昔みたいに死地へと赴く事もないだろうし、何より……」
そこで口を閉ざした男の目からは昔を懐かしむような感傷的な色が窺い知れた。そして少し一息置いてから再び言葉を紡いでいった。
「これはクレイの助けになる物だ」
そう断言した男の目をクレイは真正面から捉えると、再び視線をそのお守りへ戻した。何かの紋様が施されたそれは長年の月日の経過がその風化具合から計り知れたが、何とも形容しがたい存在感を感じる事ができた。
 歴戦の勇者がその身に携え、幾多の死線と戦地を潜り抜けてきた物は、それだけで価値があった。
クレイはそんな大切なものを自分が本当に受け取っていいのか、送り主のトラスに目で確認を取ると、相手は黙って頷いて了承して見せた。
クレイは少し迷った後、ゆっくりとトラスの手から、そのお守りを受け取ると、左の手の平で改めて眺めた。
トラスはクレイが受け取ったのを見届けると、「大切にしろよ」と言葉を放ち満足げな表情を現した。そして、二人はそのまま簡単に就寝の挨拶をしてから、各々の寝床がある部屋へと入って行った。

クレイは窓際に置かれたベッドに体を投げて、先程トラスから貰い受けたお守りを左手で天井にかざすように上げて、ぼんやりと見つめていた。
窓から見える上空の満月が、その自身が放つ淡い光を地上へと送り続けている中、クレイは横になりながら、その光に照らされ怪しく光るお守りに刻まれた紋様に目をやっていた。
見た事もない文字でクレイには何の意味を現しているのか見当もつかなかったが、何か特別な力があるような引き寄せられる引力をそれから感じていた。
次第に瞼が重たくなると、クレイは左手にそのお守りを握りしめたまま深い眠りへと落ちて行くのだった……。

 夜のしじまが到来し静寂に守られている山間の村に、突如金属がはじけたような轟音が鳴り響く。
いつの間にか夢の世界へと意識が飛んでいたクレイは、そのけたたましい音と、窓から差してくる暖かな光によって、睡眠を妨げられ、そのまま上体を起こして寝ぼけ眼のままベッドから這い出ると、そこへトラスが部屋の扉を勢いよく開け放ち入って来た。
クレイは何事かと思い、うす暗闇の中、外から差す仄かな緋色の光に照らされ陰影かかったトラスの顔に目をやると、直ぐにただ事ではない雰囲気をその鬼気迫る表情から読み取る事ができた。
「村がエラムに襲われた。ここにも直に火が放たれるだろう」
トラスの言葉を理解するまでに時間がかかった。
エラムという単語を聞いたのも初めてだったし、それに加えて村が襲われたとは、何とも受け入れ難い現実で、未だ自分が夢の中にいるのではないかと、自然とクレイの頭は逃避思考になっていた。
言葉を見失いかけたクレイは何とかこの状況を理解する為に頭を働かせたが、出でくるのはひたすら疑問ばかりであった。
「なんで……?」
そう小さく呟くやいなや、クレイは左手に持ったお守りを懐に入れて駆け出し、制止するトラスを横切ると玄関の扉を乱暴に開け放って外へと飛び出て行った。

外気に触れた瞬間クレイの全身を熱波が包んだ。
村のあちらこちらで火の手が上がり、空気は乾き、家屋を炎が侵食していき、周囲からは木が軋む音がまるで悲鳴のように上がっていた。
正に地獄絵図のような風景がクレイの眼前には広がっていた。
どこかから誰かの悲鳴が聞こえてきた。
クレイは一瞬イリスやアマリス、ヴァンの声かと思ったが、その声は誰かの助けを呼ぶ悲鳴ではなく、村人を蹂躙し、嬉々として、その残虐行為を楽しむ兵士のものだと分かった。
クレイが瞬発的に駆けて行こうとした瞬間、自分の右腕を誰かが力強く抑えた。
クレイが自分の行く手を阻む邪魔者の顔の相手を確認すると、そこには鋭い眼光をこちらに向けたトラスの姿があった。
クレイが自身の腕を抑える腕を振り払おうとしたその時、耳をつんざくようなトラスの怒声が入って来た。
「冷静に状況を見ろ!」
トラスのすさまじい気迫がこもった声にも、判断力が欠如したクレイの耳には聞こえていなかった。

クレイは一刻も早くこの腕を振り切って大切な人の安否と、この惨状の原因をこの手でこの剣で殺してやりたい気持ちでいっぱいだった。
「離せ!」
クレイが判断力を失ったとは対照的にトラスは冷静に若者の様子を窺い、声を荒げたその若者に対して、再び大きな声で説得を計った。
「クレイ! 冷静になれ! 今は村人の避難が優先なのを分かってるのか?!」
「邪魔するな! 俺はあいつらを殺したくて仕方ないんだ! 邪魔するなら……」
クレイがその先の言葉を発する前に、トラスが右拳を真っ直ぐと、クレイの左頬目がけて突き出した。
クレイはその衝撃で家の扉に激痛を伴って激突し、その痛みから顔を歪ませて、自分を思いっきり殴った対象に素早く血走った眼を走らせた。
トラスはこちらに殺気立った視線を送る青年の姿をじっと見つめ声を張り上げた。
「怒り狂ったままのお前では何も守る事はできない! 精々敵兵の格好の餌食になるだけだ!」
トラスはそう言い放つとクレイがいる扉の前まで歩み寄って行き、しりもちをついている青年の両方の肩を力強く掴んで憤怒の声を上げた。
「今、俺が止めていなかったら、お前は死んでいた! 分かるか?! 大切な人を一人も守れず、お前は敵兵の手にかかり死んでいたんだ!」
トラスの怒りに満ちた声に押しやられるかのように、クレイは少し後ずさりして背後の扉に背中を持たれかけ、その怒れる男の顔を真っ直ぐと見返した。
トラスはじっとクレイの目から逸らす事なく、その刀剣の切っ先のように鋭い眼光を向けた。
クレイはその目を両の目でしっかりと捉えると、自分が何をしでかそうとしていたか意識をはっきりとさせる事ができた。
先程まで判断力を失っていた思考を、トラスの声で覚ますことができたクレイはか細い声を上げた。
「ごめん……」
クレイのその言葉を聞いたトラスは彼に向けている目を遠くで火を上げている家屋へと移し静かに口を開いた。
「まだ逃げ遅れた村人がいる。今すべきことはその村人の安全を確保する事だ」
そう言うとトラスはクレイの方に視線を戻して、青年の返答を真っ直ぐと目を見つめ静かに待った。
クレイは冷静になった頭でそのトラスの言葉を理解し、自分達自警団が成すべき責任を瞬時に思い出して隊長の言葉を復唱した。
「俺達自警団の役割は村人の安全を確保する事」
そのクレイの返答にトラスは黙って頷き、クレイの両肩に込めていた力を緩めて立ち上がり少し距離を取ると、クレイが立ち上がるのを待って、こちらに意識が向かうのを数秒待った後、自警団の隊長として、その隊員に的確な指示を与えた。
「クレイ、俺と一緒に村の東側から回るぞ! いいな? 決して敵兵に挑むような真似はするなよ。村人を逃がす事だけに専念するんだ!」
隊長のその断然たる言葉に有無を介す道理はなく、クレイはその命令に従いの声を上げた。
「はい!」
威勢よく声を上げたクレイにトラスはゆっくり頷いて確認すると、二人は逃げ遅れた村人を助ける為、供に駆けだして行った。
既に半数近くの家家が火の手を上げ、辺りからは火の侵食によって倒れていく家の悲痛なる悲鳴が聞こえ、時折何か金属がはじけた音が聞こえたかと思うと村人の泣き叫ぶ声が耳に入ってきた。
クレイは奥歯を噛み締めながら、その光景を横目に、ただひたすら走る足に力を込めた。

丁度イリスの家を視界に入れると、そこにヴァンと、その父親で村長でもある
ブルード・グレイブに、イリス、アマリスの姿が目に入ってきた。
その四人の無事な姿を確認したクレイとトラスは安堵の息を漏らし駆け寄って行った。こちらに気づいた四人も手を振りながら走り寄ってきた。
「ヴァン達も無事だったんだな!」
近くまで寄って親友達の顔をしっかりと確認したクレイは自然と顔をほころばせた。
それは向こうも同じ気持ちで二人は別れて数時間しか経っていなかったが、幼き日に生き別れた親と子の再会のように喜びを分けち合った。
「それはこっちの台詞だ! クレイの方こそ無事で何よりだ!」
ヴァンも親友が無事であった事に喜びの表情を浮かべた。
「トラスさんが一緒だもの。下手なことにはならないわ」
イリスも内心では二人が無事であった事を、素直に喜んでいたが、口から出た言葉は普段通りの少し皮肉が混じった言葉で、この危急の事態に日常の空気を通わせて皆の平静を保とうと気を配った。
そんなイリスの心意に気づく事のないクレイはその言葉通りに受け止めて、顔から火が出るかのような心境だった。
さっきまで冷静さを失い乱心状態に陥り、トラスが止めなければ自分はここにはいなかっただろうとは、口が裂けても言えなかった。
バツが悪そうに顔を背ける様子に気づいたイリスは、クレイの顔を不思議な顔で覗き込んで心配の声色を上げた。
「クレイ、どうかしたの?」
イリスの心配に対し、クレイは何と答えたらいいのか分からず、ぶっきらぼうに
「いや、なんでもない」とだけ答えた。
そんなクレイの様子にイリスは納得する様子を見せなかった。
そんなふうに二人が互いの心理を読み取っている正にその時、突如イリスの背後の茂みから敵兵が銃の先に片刃の刀剣を取り付けた武器を頭上に振りかざし、イリスの首目がけてその鋭い刃を勢いよく下ろしてきた。
それにいち早く気付いた歴戦の戦士トラスは糸を針に通すかの如く繊細にクレイとイリスの間をすり抜けて行くと、背中に差している大剣を右手で素早く引き抜いて、その勢いを殺さず加速させ袈裟切りの一太刀を持って敵兵を切り捨て、イリスの窮地を救った。
その早業は瞬きをして目を開いたその時には既に終わっていた。
そこに居合わせた誰もが、その一瞬の出来事に息を呑み、驚いた様子で静かに佇む歴戦の戦士の背中を見つめた。
そこへトラスが振り返り声を荒げて警告した。
「戦場では一瞬の迷いが死に繋がる! 今は逃げる事だけに専念するんだ!」
怒気溢れんばかりのその言葉に、そこに居合わせた六人は誰もが頷き、その指示を理解した。そして、トラスを先頭にクレイが殿を務め六人は列を成し固まって、燃え盛る村の中を悲痛な顔で奥歯を噛み締めながら突き走って行った。
途中、三度敵兵に見つかり危うい場面にも遭遇したが、トラスを筆頭に若き戦士クレイ、ヴァンの力も加わって、その危機を辛くも回避して行った。しかし、丁度村の中央付近を流れる小川に架かる橋まで辿り着くと、六人は敵兵にその橋の両側を囲まれて絶体絶命の窮地に再び立たされた。
じりじりと敵兵が恰好の獲物を見つけた狩人のような笑みを浮かべて、橋の両側から迫り寄って来る。
七人は橋の中央に身を寄せ合い自身達の不運を嘆き、狂気に満ちた兵士に憎しみの表情を向けた。
兵士たちは怯えきった女子供達の顔を、薄ら笑いを浮かべて、まるで遊びに興じているかのようにせせら笑った。
丁度兵士全員が橋に両足がかかった瞬間、トラスが大声で叫んだ。
「全員川に飛び込め!」
トラス以外の五名は咄嗟にその言葉の意味が理解できなかったが、その頼れる歴戦の戦士の言葉を信じて無我夢中で川へと飛び込んで行った。
そんな不意を突かれた行動に少しの時間、兵士達の間で戸惑いが生じている最中、トラスが背中から大ぶりの剣を引き抜くと頭上高く両手で掲げて渾身の力を込めて、そのまま振りかぶった。
迷いなく振り下ろされた剣は橋を激しい音と供に真っ二つに遮断し、辺りには大破した衝撃で橋の破片が飛び散った。
袋小路に追い詰めた窮地のネズミが見せた反撃に面を食らった兵士達は下を流れる川へと、そのまま橋の残骸と共に落ちて行き、激しい音と供に周囲には水しぶきが立ち昇った。  
トラスは落ちていく兵士達と連れ立って浅瀬の川に上手く着地すると、その光景にあっけに取られている五人に再び大声を出した。
「後ろを振り返らず走れ!」
トラスの周囲には尻餅を着いた憐れな兵士達が、その屈辱を晴らすべく傍で仲間達に声を張り上げた男に殺意の目を向けていた。
一同がトラスの身を案じて迷いが生じている中、クレイだけは迷う事なく彼の言葉に従った。
それはトラスという男を誰よりも信じているからこそであり、何よりもここにいる掛け替えのない人達を守る為に取るべき行動は迷わず逃げる事だと咄嗟に判断したからだ。
クレイは戸惑っている四人にその思いを言葉に乗せた。
「走ろう! トラスを信じるんだ!」
クレイの言葉に半ば後ろ髪引かれる気持ちで五人はクレイを先頭に走り出した。

すっかりこけにされて怒りを剥き出しにした兵士達はトラスを取り囲むと背中に差している銃と刀剣が一体になった銃剣を一斉に抜き始め、忌々しい相手にその切っ先を向けて狂人と化した声を張り上げた。
「殺す!」
男は自身に向けられた言葉と剣に臆する素振りを見せず、水面に下ろした大剣を静かに右手から両手に持ちかえると、正眼の構えを取り静かに息を吐いた。
「まだ死ねないな」
その言葉と供に男に刃が襲いかかった。
「死ね!」

クレイ達は息を絶え絶えに無心で村の中を駆けていた。
先頭のクレイはこの四名の指針となり走っていた。
「マカーナ森を目指そう! 生い茂る木々に身を隠して逃げれる!」
後ろを併走する四人にクレイが声を張り上げると、四人は肩を揺らしながら首を縦に振り同意した。
村の南西に拡がる実り豊かなその森は近年では魔物が出没する危険な地帯ではあったが、東に拡がる見通しが良い草原地帯へと逃げるよりかは、敵に見つかる危険性が少ないように思えた。
少なくともクレイはそう判断して、その森へ逃げ伸びる事を選択した。しかし、この選択が仇となるのを知る。

クレイ達一行が村から森へ唯一通ずる道の入り口へ差し掛かると、一行は足を止めざる負えなくなった。

村から森へと伸びる道の入り口には既に敵兵が待ち構えており、退路を封じられていたのだ。
クレイ達は村の道から外れた場所に生えている茂みに身を寄せ合い隠れて、どうしたものか手をこまねいていた。
「くそっ!」
村と森の出入り口を塞いでいる憎悪の対象を睨みつけながら、ヴァンが声を上げた。
「ヴァン、落ち着きなさい」
ヴァンの父親こと、村の長が取り乱した我が子を宥めた。ヴァンは苦虫をかみ殺すかのように顔を歪ませると、そのまま何か策がないか眉間に皺を寄せて口を閉ざした。
「どうしたものかしら……」
アマリスが不安の声を上げた。
隣で座りこんでいるイリスは俯きながら、残してきた勇敢な男の事を思い出していた。
「トラスさん大丈夫かな……」
娘の心配する言葉にアマリスは大丈夫よと一言だけ投げかけたが、その言葉とは裏腹に表情は暗く、心なしか言葉にも元気がなかった。
一様に不安を覗かせた一行にクレイは何か励みになる言葉はないものか頭を働かせたが、気の利いた言葉は何も出てこなかった。
クレイ自身も不安だったのだ。
先程から何やら策を練っているかのように押し黙ったヴァンの方に顔を向けたクレイは、頼れる相棒の聡明な頭に期待の言葉を掛けた。
「ヴァン、ここを切り抜ける方法ってないかな?」
クレイの顔を一瞥すると再び思案気に顔を険しくしたヴァンは数秒考えを整理してから、出入り口を固めている兵士達に鋭い視線を向けながら話し出した。
「敵の数は三人、俺とクレイだけじゃ突破するのはまず不可能だな」
クレイは一瞬トラスの顔が浮かんだが頭を切り替えて、その言葉にこくりと頷いた。そして、ヴァンは溜息交じりに続けた。
「俺の中で浮かんだのは名案と呼べる代物じゃないさ」
もったいぶるヴァンにクレイはその先をせかした。
「何だよ?」
ヴァンは馬鹿げた考えだと言わんばかりに首を左右に振ると、その策を皆に聞かせた。
「誰かがあいつらを引き付けて残りの皆はその間に柵を乗り越えて森へと逃げるんだ」
ヴァンのその案に一同は一瞬言葉を失ったが、直ぐにそれに対しての異論が挙がって行った。
「こんな時に何を言ってるの?! 誰かを囮にするなんてできる訳ないじゃない!」
イリスが声を荒げて反論すると、アマリスが小声で注意を促しはするものの、その意見には同意した。
「そうよ、確かにこんな事態で焦るのは分かるけど、他に逃げ道はきっとある筈よ」
ヴァンの父親とクレイは黙って二人の意見に静かに目を瞑って耳を傾けるヴァンの顔に目をやっていた。そして、ヴァンは静かに目を開くとクレイと父親の顔に順に顔を移して口を開いた。
「父さん、クレイはどう思う?」
その質問に先に答えたのはヴァンの父親ブルード・グレイブであった。
ブルードは息子の突拍子もない考えに呆れた様子で息子の真意を問うた。
「ヴァン、お前が言いたい事は分かる。このまま逃げ惑い違う経路を探すよりも、手薄な守りのここを抜けた方が危険性は少ないだろう。しかし、誰かの犠牲の上に成される術を歓迎はできないぞ」
父親の戒めある言葉に息子のヴァンは説教をくらった子供のようにうんざりして返した。
「じゃあ、父さんには他に何かいい考えがあるのかよ?! 何の代案もないのに真っ向から否定するのはやめてくれ! それに言いだしっぺの俺がなるなら誰も文句はないだろ?!」
現状の危機におののき余りに無謀で感情的な我が子の言葉にブルードの癇癪の火種に油を注いだ。
ブルードが立ち上がって声を荒げようとした瞬間、アマリスが何とかその場をとりなす事が出来た。

暫く五人の間に張り詰めた沈黙が流れた。そんな中、口火を切ったのはクレイだった。
「皆、俺が囮になるよ」
ヴァンに続いてクレイまでも同じ意見を言い出し、その発案者であったヴァンもそれには首を縦には振らなかった。
いや振れなかった。自分を犠牲には出来ても友を犠牲には出来ないからだ。
「そもそも言いだしたのは俺だ。俺がその役目を……」
話がまた平行線を辿るかのように、もくあみに戻り、暫く二人の無益な押し問答が続いた。  
それに耐えかねたイリスが怒りを露わにして割って入った。
「二人ともいい加減にして!」
勢いよく立った拍子にイリスの腕が側に積まれていた木箱に当たり、激しい音を立てて地面へと落ちた。
―ガシャン―
その物音は十数メートル離れた兵士達の所まで響き、三人の兵士達は一斉に物音がしたこちらへと視線を向けた。
「誰かいるのか?!」
一人の兵士がそう大声を張ると、残りの二人も後に続いてクレイ達の方まで駆け寄ってきた。
自身の不注意で落とした木箱の音によって敵に気づかれ、危険にさらされてしまった事に酷く動揺したイリスは顔を強張らせて今にも泣きだしそうな震えた声を上げて、力が抜けたように地面に膝を着いた。
「どうしよう?!」
五人に迷っている時間はなく兵士達は徐々に距離を詰めてきている。
ヴァンは一か八か正面を突破するしかないと判断し、全員へ声を張り上げた。
「森へ走れ!!」
ヴァンは背中の槍を右手で素早く引き抜くと先頭を切って走り、丁度建物の物陰から顔を出してきた兵士達の足をその槍で絡め取って転倒させる事に成功した。そして、その後にブルードが続き、アマリスは我が娘の体を立ち上がらせると、肩を抱きながら一緒に駆け出し、不意の攻撃に無残に転げた兵士達の体を飛び越えて行った。
クレイは最後尾から皆の背後を守る気構えで後に続いて行った。
後ろの方から兵士達が罵りの言葉を浴びせかけていたが、五人はそんな言葉には耳を貸す事なく一目散に森へと通じるアーチを潜り抜けると、そのまま夜の森へと足を踏み入れて行った。

暗い森の中を伸びる平坦な道をヴァンは先頭を走って、後続に続く四人の姿へ足を休めることなく後ろを振り返り視界に入れると、逃走経路を大雑把に大声で説明した。
「このままこの道を進んで港町に続く街道に出よう! その間に渓谷の上を渡る一本のつり橋がある! それを落としてしまえばあいつらは来られない!」
走る足に力を絶えず込めながら、ヴァンの支持を理解した四人は一層その足に力を込めて走り続けた。
後ろの梢の間から逃走者を追う為に灯された明かりが煌々と光り、残虐なその追跡者達は躍起になって森へと足を踏み入れ、狂気を隠す事無く剥き出しにして声を上げた。

五人は頭上高くから照らされた木々の間から差し込む月光を頼りに追っ手の恐怖から無我夢中で逃げていくと、次第に森の間を蛇のように縫って流れる渓谷のせせらぎが耳に入ってきた。そして、森と森とを遮断する崖地帯へと到着した五人は、そのぽっかりと空いた裂け目の上を渡る吊り橋を両手で橋の縄をしっかりと握りしめて、慎重に歩を進めていった。
随分老朽化したその橋は一歩足を踏みしめて行く毎に、ぎしぎしと音を立てて橋を渡る者の恐怖心を駆り立てた。
まずはヴァンが身軽な体こなしで難なく橋を渡り切り、その後をブルード、アマリスが続き、何とか渡り切る事に成功した。そして、イリスも慎重に一歩ずつ橋板の隙間に足を引っ掛けないように歩を進めて行くと突然渓谷を一陣の突風が吹いた。
渓流の数十メートル上を渡る橋は左右にゆらゆらと揺れて、イリスは振り落とされまいと橋の綱に必死にしがみ付いて揺れが収まるのを待った。
両側の崖で控える四人は今にも風で振り落とされそうなイリスを食い入るように口を開けて心配な表情で見つめた。
「イリス!!」
クレイとヴァンは強風が吹いた瞬間、橋の中央でその風に押し倒されるかのように、橋のロープへ体を押しやられたイリスに声を張り上げた。
ヴァンの隣にいるアマリスは今にも数十メートル下の川まで真っ逆さまに落ちて行ってしまいそうな娘の姿を見て気が気ではない様子で、その恐怖から自然と悲鳴を上げて両手で視界を覆い隠した。
次第に風が止み一同は安堵したが、橋の中央のイリスは体を屈めたまま立ち上がろうとしなかった。
その様子を見たクレイが心配の声を上げた。
「イリス! どうした?!」
イリスはクレイの問い掛けに声を振るわせながらも大声で懸命に答えた。
「腰が抜けて動けない!」
恐怖の余り腰の力が抜けたイリスにクレイは「今からそっちに行く!」と声を掛けて励まし、一歩一歩慎重に橋板に重心をしっかりと乗せて、必要以上に橋が揺れないよう中央付近で怯えてしゃがみ込んでいるイリスの元まで進んで行った。
ようやくクレイがイリスの元まで着くと、身を硬直させた彼女の体を背中から脇に両手を入れてゆっくりと持ち上げ、歩幅を合わせて一緒に一歩ずつ橋を渡って行こうとしたその時、後方から数人の駆ける足音が聞こえてきた。
前方の対岸で待つ三人がその足音の正体を二人よりいち早く確認すると、大声で危険を報せた。
「敵だ!!」
クレイが後ろを振り返った瞬間、顔を激しい光で照らされ一瞬目が眩んだ次の瞬間、追跡者の怒号が耳をつんざいた。
「簡単には逃がさん!!」
一人、また一人と次々に兵士達が頼りない吊り橋へ足を踏み入れ、目は血走りながら、クレイとイリスまでの距離をじわじわと詰めてきている。
ヴァン達が待つ対岸まで後三メートルはありそうな距離で、クレイはイリスの体を力強く両腕で上体と下半身を支える形で持ち上げると、そのまま渾身の力で対岸まで投げてヴァンに受け渡した。
「ヴァン!!」
クレイはヴァンがイリスを両腕でしっかりと受け取ったのを確認すると、腰に差したサーベルを左手で抜き身にして、迫りくる敵兵に体を向けて立ち向かう姿勢を取るかの如く、切っ先を敵へちらつかせた。そして、両手に持ちかえると渾身の力の元、半円を描くように振り下ろした。
振り下ろされた剣は橋を繋ぐロープを断ち切り、支える綱が無くなった橋は大きくそそり立った一枚岩の壁に激音を伴って激突した。 
橋の上の兵士達は成す術なく、そのまま数十メートル下の川へ落ちて行った。
「クレイ!!」
ヴァンが真っ逆さまに落ちていくクレイの姿を目で追いながら、崖から身を投げ出して下に拡がる川へと目を配らせて、その姿を必死に探した。
クレイは橋が落ちる最中、橋のロープを掴んで岩壁に激しく身を打ち付けていたが、何とか堪えてロープを掴んだ右手の力だけで何とか全身を支えていた。
ヴァンは崖下でぶら下がっているクレイの姿を確認すると父親のブルードも加わって、クレイが掴むロープを引き上げようとした。
「今引き上げる!!」
ヴァンが親友に向かって励ましの声を上げた。しかし、クレイには自身の体を支えるだけの力はもう残っていなかった。
壁に激突した衝撃で利き腕の方の左半身を、剥き出しになった岩壁から隆起した岩に激しくぶつけて酷く損傷していた。
その傷跡からはぽたぽたと血が滴り落ちている。
その出血と痛みから徐々に視界がぼやけて、とうとうクレイの意識はなくなった。
右手で握りしめていたロープを離した体は宙に投げ出され、そのまま重力に従って足元を流れる川へと落ちて行った。
「クレエエエエエイ!!!」
渓谷に親友を呼ぶ叫び声がこだまし、次第に渓流の音にかき消されると、夜のしじまと供に虚しさを後に残していった……。

 クレイは森の中の渓谷を流れる河川に身を委ねて、西へ西へと流れていった。
川の流れが緩やかになった下流まで流されたクレイは川岸にあった倒木に引っかかっていた。
空が白み始め徐々に太陽が顔を見せ始めた頃、陽光が青年の顔をまぶしく照らした。
意識を取り戻したクレイはその陽の光のまぶしさに目が慣れず左手でその光を遮ると、重たい体をゆっくりと立ち上がらせた。しかし、血を流した為か貧血を起こし、すぐに尻を地面に下ろして座りこんでしまった。
座りこんだ姿勢のままクレイは朦朧とする頭で、今自身が置かれている状況に考えを追いつかせようとした。
橋から落ちた自分は西へ伸びる川に流されて、恐らく村の西南に位置するノール平原の近くにいるのではないかと現在位置を大まかに推測した。
おおよその自分がいる場所の見当がついた所で、ヴァンやイリス達は無事に逃げ延びる事が出来たのか、トラスは生きているのかどうか、あの夜襲撃してきた集団は何が目的だったのだろうかなど、知るべき事は山積であったが、結局のところ答えは見つかる訳もなく、ひたすら疑問だけが通う堂々巡りした思考を切り替えようと、クレイは頭を左右に振った。
クレイはふらつく体で左半身を庇いながら、よたよたと川岸まで行くと右手でその清らかな水をすくって顔を洗い、喉を潤し、傷ついた体に水分を補給した。
喉を潤した彼は当てもなく、ふらふらと川岸を下って行くと、橋を切り離してロープに手を伸ばした際に手から滑り落としてしまった自身の愛剣が、自身と同じように倒木に引っかかっているのを発見した。
彼は冷たい川に浸った柄を持ち、そのまま右に差した鞘に戻して、その脇にあった手頃な岩に腰を下ろした。
自分がこれからどこへ向かえばいいのか分からずに、ぼんやりと上空に拡がる青空を眺めながら思案していると、不意に腹の虫が鳴った。
腹を空かしている事を思い出した彼は、周辺に何か食べられる物はないか、散策を始めた。 
川の左右に拡がる森に少し分け入って行くと、何かの果実を実らせた木を発見できた。
余り背が高くない果樹であったので、クレイの長身でその枝に実らせた果実を一つもぎ取る事が出来た。
赤く熟した食欲駆り立てる実をしゃりっという快音と供に豪快に一口かじってみると、その見た目通り甘く熟した果実であった。
クレイは空腹の腹を満たす為、その一個を食べ終わると、今度はまとめて数個もぎ取り無心になって口の中へと入れて行った。
先程までは空腹と出血からくる目眩によって、考えが定まらないでいたが、腹を満たした今は先程と比べて考えが明瞭になっていた。
側の切り株に座った彼は左肩の傷口をもしもの時の為に持参している包帯できつく締めて止血すると、懐から昨夜トラスから貰い受けた不思議な紋様が刻まれたお守りを取り出して眺めた。
眺めながら、こうやって生きているのはトラスのお陰だと、クレイは過去を振り返って再認識していた。
村の教会の前で捨てられていた自分を拾い育て、昨夜は自身を囮にして自分達を生かしてくれた……。
クレイは左手で持っているお守りを手の平の中で強く握りしめ、そんな恩人の無事を切に願った。
もしかしたら川に落ちて今生き延びているのも、このお守りが守ってくれたのかもしれない。
今までトラスが自分を守ってくれたように……。
ふとそんな考えが過ぎると、何としても生き延びなければいけない、そんな使命感がクレイの中で自然と湧き起こってきた。
このお守りはトラスから貰った物ではあるけど、このお守りがなくても、トラスの助けがなくても、強く生きていけるトラスみたいな男になりたいと改めて思った。そして、トラスと再会を果たしたその時、このお守りはトラスに返そうと密かにクレイは心の中で決めた。
懐にそれを大切にしまうと左半身の調子を左肩をぐるりと数回ゆっくりと回して確認した。そして、まともに動ける体になったと判断すると腰かけた切り株から勢いよく跳ね飛び、西の丘陵地帯ノール平原へ伸びる川に沿って歩き始めて行った。

 川岸に沿って下り平原に入ったクレイは、なだらかに隆起して続く斜面を歩いていた。
空はいつの間にかどんよりと灰色の雲が垂れて、いつもより空が低い気がした。
そろそろ雨が降るかもしれないなと思いながら、クレイはその垂れこめた雲が広がる空に目を向けながら歩を進めていた。
ヴァン達と供に目指す筈だった当初の避難先である大勢の人が行き交う旅の中継地点、貿易で栄えた港街アラビスへ進路を取ったクレイは不安で心細くなる気持ちを必死に押し留めた。
きっと再会できる……。
故郷を焼かれて大切な人達と生き別れた今の彼にとって、唯一の希望が生きて再会する事だった。その希望があるからこそ、今こうやって孤独に耐えながらも歩み続ける事が出来ている。
叶う事ならこの場で空に向かって、いや太陽でも何でもいいから、何かに大声で叫んでやりたい心境だった。
言葉も何だってよかった。ただひたすら大声を出したかった……。
そうする事で何か心のもやもやが解消される訳でもなかったが、幾分気持ちを楽にはしてくれる。
例えそれが気休めでも、その気休めが必要な時だってある。しかし、クレイはその衝動を必死に抑えた。
なぜならその心のもやもやは大切な人との再会でしか解消できないものだと分かっていたからだ。
クレイは大切な人との再会を信じながら、なだらかに続く丘を登って行くと、草原の中に小さく膨らんだ丘のてっぺんで、来た道を振り返り立ち止まった。そして、遠くで煙を立ち昇らせている自分の故郷を視界に入れて、その光景を目に焼き付けるように息を忘れて意識を傾けた。
昨日までの穏やかな日常は突如押し寄せた兵団の手によって奪われて、沢山の命がその中で失い、そこで生きた人の大切ないろんなものが一夜にしてなくなった。
家族、恋人、友人、家、畑、動物……。
大切なものは人によって違うが、それは何ものにも替え難い存在であったのは同じであった。
人は長い人生の中でそういう別れを繰り返して、大切な事を学んでいくと、いつかトラスが言っていたのをクレイは思い出した。
一方的に搾取された命、その命に縁のある縁者、残された人は、そこから何を学べばいいのか今のクレイには今一つ分からなかった。
未だ視界の奥では火種を燻りさせて煙を上げている村が見え青年の心に宿るのは、そこに生きる人から掛け替えのない日常を奪った略奪者へ対する怒りと憎しみであった。
クレイはその感情を押し殺すかのように、奥歯を強く噛み締めると踵を返し、愛する故郷に背を向けて、港町へ続く山間の街道に進路を取った。

 パルティア大陸の辺境に位置する村落ファルベ村から南の海に面した港町アラビスまで伸びる街道は二つあり、まず一つが東西南北へ数十キロに拡がる巨大な森マカーナの森を抜ける旧街道、次に標高二千メートルに及ぶ自然豊かな森を有したメイル山の峠を越える本街道のどちらかであった。
前者の街道はそのメイル山を迂回する道に対して、後者の街道はファルベ村とアラビスをほぼ一直線で結んだ最短の距離の為、山間の道で多少勾配はあるが、その本街道が整備されると旅人達は好んで、こちらの街道を利用していった。
何のアクシデントもなければ、ヴァン達と供に旧街道の道を供に行く筈ではあったが、川に落ちて流され、その下流に位置する牧草地帯が雄大に広がる見通しの良い草原にいる現在位置では同じ道筋を辿るのは、かなり遠回りになる為、必然的にその旅人隊が好む街道に進路を取るのが最善であった。
クレイは雲の切れ間から微かに東の空で輝く太陽を確認すると、それを左手に歩を進めて行った。

緩やかに起伏する丘をいくつも越えて行くと、前方の視界に鬱蒼と生い茂る森の合間からメイル山のふもとの街道が見えてきた。
森を切り開いて作られたその道の両側には広大な土地を占めるマカーナの森に生える針葉樹が所狭しに広がり、メイル山をまるまるとその木々達が覆いつくしていた。
標高二千メートルある山だが麓から頂上に至るまで緩やかな勾配続きで、東西南北に大きく広がったその斜面は直径二十キロメートルにまで及んだ。
クレイは山の入り口まで着くと、街道の脇に設置された旅人達の指針となる立札に目をやり、この山を越えた先が目的地のアラビスだと確認すると、左右に生えた針葉樹達が街道へ広げている枝葉のアーチをくぐって、南へ伸びる緩やかな山の傾斜を踏みしめて行った。
さっきまでは空から、うっすら太陽が顔を覗かせて、その自身が放つ暖かな光を地上へと、時折できる雲の隙間から断続的に降り注いでくれていたが、クレイが山に足を踏み入れてから雲行きが怪しくなってきていた。
真上の梢の間から空を見上げると、嫌にどんよりとした入道雲が空を遮り、クレイの気持ちまでその雲のように灰色に染めあげた。
クレイはなるべく気持ちを前向きにさせるべく、口笛でも吹こうかと考えたが、子供の頃に村のおじさんから山で口笛を吹くと山に住む妖怪を呼び寄せると言っていたのを思い出し、兵士の次に妖怪まで現れるのは冗談じゃないと思って、黙々と穏やかに続く山の勾配を歩き続けた。

山の中腹へ差し掛かった頃、上空に拡がる灰色の雲達から稲光が一閃、山の高い場所へ走り、辺りにその轟音を轟かせた。
耳の奥まで響き空気を振動させたかと思うと、ポツリポツリと空から小さい雨粒が降りだし、クレイの頬を伝った。
クレイは立ち止まり、まるでその雨粒をすくうように左手を天へと向けると、一粒の雫がその手の平に落ちて、次第にその雫は激しさを増して体を強く打ちつける豪雨へと姿を変えていった。
クレイは一先ずこの豪雨から体を凌げる場所を探そうと、濡れた斜面を身を屈めながら駆け出した。
早い速度で両側の木々達に目を配らせていると、右手前方に拡がる木々の中から頭一つ飛び抜けた一際高い木が梢の間から視界に入ってきた。
あそこの下なら熾烈な雨を凌げるかもしれないと判断したクレイは、右手の木と木の間に生えた灌木を飛び越えて、そののっぽな木を目指し森の中のぬかるんだ地面を走って行った。
目測でゆうに二十メートルはありそうな高木の下まで辿り着くと、さっきまでの激しい雨とは打って変わって、その下だけはまるで屋内にでもいるかのように、空から降る雨を遮ってくれていた。
幾重に重なった枝葉は木の頂上から侵入してくる激しい雨を、地面に届くまでに緩衝材として働き和らげ、その勢いを抑えてくれていた。
クレイはその高木の根元に右腰に差した剣をベルトに付いたホルスターから抜き取り、ひんやりと水分を含んだ地面に腰を下ろすと、尚も激しさを増す前方に絶え間なく振り続ける雨をぼんやりと眺めた。
ふとヴァン達の事が頭を過ぎった。
今頃ヴァンやイリス達もこの降り注ぐ雨をどこかで凌ぎながら恨めしそうに見ているんだろうか?
それとももう港町に着いて暖かい屋内から激しく降る雨を窓から眺めて自分の身を案じてくれているんだろうか?
無事でいて欲しい。そう切に願う。そして、自分も無事である事を早く伝えたい。
取り留めもなく溢れた不安や期待が交差する感情は、いつの間にか頬を伝って一筋の涙となって流れた。
クレイはその顔を誰にも見られないように膝の間に隠して、そのまま安らかな眠りへと落ちて行った。
いつの間にか眠りの世界に落ちていたクレイは耳元で低く唸りを上げている獣の声に気が付くと、反射的に上体を反らせて、ばねのように体を起こし、その獣と対峙する構えを取った。しかし、クレイが辺りに目を配らせると、既に周囲には大勢の魔物が茂みの中で息を潜めて獲物にその鋭い視線を向けていた。
クレイは木の幹に立て掛けている剣を素早く手に取ると、ゆっくりとその刀身を鞘から引き抜いて両手で構えた。
獣は今にも襲い掛かってきそうな荒い息を漏らしながら獲物の目をじっと見つめて、相手の隙を窺っている。
クレイはその魔物の視線から逸らす事無く、向こうと同様に神経を研ぎ澄まして相手の動きに意識を傾けていた。
周囲の物陰にどれだけの魔物が潜んでいるかは分からないが、恐らく自分一人では到底太刀打ちできない数が隠れているのは、おおよそではあるが足音の数から予測はできた。
そうなればクレイがこの状況から生き延びる術は一つしかない。
クレイは冷静に辺りを見渡して、その活路を見出そうとした。
その間も目の前にいる獣は息を乱し、クレイの命目がけて、その殺意を剥き出しにしている。
クレイは一か八か正面の魔物をいなし自身の足に賭けてみる事にした。
クレイはぬかるんだ地面の土を腹に力を込めて思い切り踏みしめると、左手の抜き身の剣の柄を強く握りしめ、正面の獣目がけて一気に駆けだした。
正面の獣も時を同じくして獲物の首元に大きく口を広げて、その鋭い牙を剥き出しにして飛びかかった。それを合図に周りの灌木に身を潜んでいる仲間の獣達も、その物陰から飛び出して兎のように逃げる獲物へ一斉に跳躍し、その命を鋭きかぎ爪で引き裂かんとした。
クレイは正面から飛び掛かる獣をくるりと時計回りに体を右に九十度横へ回転させてかわすと、地面を踏みしめている左足に体重を載せて、ばねのように大きく右足を前へ跳躍させ、そのまま一気にオオカミの背後へと駆けだした。
後ろからは獣達の低く荒立った鳴き声が森に絶え間なく降り続ける雨音に紛れて聞こえてきた。
クレイはぬかるんだ地面に少し足を取られながらも、道なき道に生える茂みを左手の剣で払いながら道を切り開いて走って行った。
森に降る雨は尚も激しさを増して青年の体を打ち付けて冷たくし、疲弊した体力と精神を奪い取ろうとした。
クレイは鞭のようにしなる幹で擦り切れた生傷の痛みに耐えながら、ひたすら足を動かす事だけに意識を集中させた。
灰色の雲が空を覆い森の中は昼なのに、まるで夜が到来したかのように暗がりが支配しクレイは目を凝らしながら足を動かした。
背中にうなり声を上げて追いかけてくる獣の殺気を感じながら、クレイは冷静に後ろの追跡者達の手から逃れる術を前方に拡がる森の景観から探った。
不意に左手に見えてきた行く手を阻むように横へ伸びた太い木の枝を剣で切り落として、背後に迫る追跡者の進路を一時的に塞ごうと試みた。
剣で切り落としたその幹に顔をぶつけた先頭を走っていた獣は、その痛みから一瞬甲高い悲鳴を上げ、足を止めてもがき苦しんだ。
その後続達はその仲間を飛び越え、荒い息を絶えず立てて迫ってきていた。

狩る者と狩られる者の命のせめぎ合いが暫く続き、次第にクレイの体力は低下していくと、走る足から力が抜けて獣との距離が縮まっていった。
絶体絶命の窮地に陥り、こうなれば命がけで獣に剣を振るおうと、果敢にもクレイが身を翻そうとした瞬間、自身を呼ぶ声が不意に聞こえた気がした。
その声は激しい雨音の中でもやけにはっきりと耳に入り、クレイの意識へと直接語りかけてくるようだった。
クレイは辺りに目を配って人影を探してみたが、目に映るのは厚い雲に陽の光を奪われてひっそりと佇む木々だけだった。
クレイは背後に迫った獣へ注意を払いながら、その不思議な声に静かに耳を傾けてみる事にした。
当然クレイには聞き覚えのない声ではあったが、なぜかその声には親しみが込められていた。
まるで我が子に語りかける優しさが溢れ、この緊迫した状況の中にあっても、クレイの気持ちはその暖かさに触れて穏やかに保たれた。
クレイはその声に導かれるように自然と足を動かした。
その声には磁石のような引き寄せる力がクレイに対して働き、その力に体を委ねる形で足を進めて行った。
低い倒木を飛び越え、前方を邪魔する枝葉を切り払い、いくつもの茂みを分け入って行った。すると、クレイは森の中に不自然にぽっかりと空いた空間へ、気が付いたら辿り着いていた。
その空間の中央には何かの文字が刻まれた六フィート位の石碑が雨の降りしきる中、一つぽつりと静かに立っていた。
クレイは後ろの獣達を一泡吹かせようと、両手で剣を握りしめ、その石碑の背後へ素早く回り込むと、身を屈めて中腰で姿勢を低く保ち、その石碑に寄りかかると獣が顔を出すのを待ち構えた。
獣が飛び込んできた瞬間を狙って、この切っ先で宙に舞った無防備な体を突き刺してやろうと神経を左右へ集中させた。しかし、肩で息を整えて現れるのを暫く待ったが、一向に獣はその姿を見せなかった。
もしかしたら向こうも同じ腹積もりで反対側にてこちらの動きを推し量っているのかもしれないと、一瞬脳裏を過ぎったが、ただの獣にそこまでの知恵はないだろうと、直ぐにその考えを否定した。
クレイは雨に濡れた冷たい石碑に背中を摺り寄せながら、ゆっくりと左へ移動すると視線を反対側の空間へと走らせた。
そこに獣達の姿はなかった。
クレイは狡猾な獣が獲物を油断させる罠かもしれないと思いつつ、石碑に寄せた体を離して、慎重に足を一歩、もう一歩と前進して行き反対側の空間へと、その姿をさらしてみた。
剣の柄を握る左手に力を込めて、切っ先を周りの茂みへゆっくりと向けていき、少しの変化でも察知できるように全身を刀身のように鋭く集中させて、その構えた剣の向こうの景色へと意識を向けた。
淀んだ色のした天から雨が真っ直ぐと何の遮る物もなく、その森の中にできた空間へ降り注ぐ中、十秒程静かに時間が流れた。しかし、時折自然のイタズラで茂みが風に揺れてざわめくくらいで獣達はとうとう姿を現さなかった。
先程まで群れを成して獲物を追っていた獣達は、その鋭き牙をその獲物の命を刈り取る
寸前の所まで伸ばしていたというのに、なぜか忽然と逃走を図っていた。

クレイはこの状況に不信感を覚えずにはいられなかったが、とりあえずの所危機は回避できたのだろうと、抜き身にした剣をベルトに固定したホルスターに取りつけた鞘へゆっくりと戻した。
息を整え今一度周囲に獣達の気配がないか、全身を耳のようにそばだてたが、聞こえるのは森全体に降り注ぐ雨の音だけだった。
クレイは再び周りの茂みへ視線を配らせてから、石碑と向かい合わせになると、そこに刻まれた文字列へと目を走らせた。
楔型(せっけい)文字で書かれた文章であったが、当然クレイにはそれを解読する程の考古学に関した知識を持ち合わせている訳もなく、過去に生きた人が後裔に向けて何かのメッセージを半永久的な方法で遺したのだろう。その位しか分からなかった。
クレイがその文章に沿って指をなぞらせていると、突然目が眩むほどの白い光が石碑から放たれて、クレイは瞬発的に後ろへ飛びのいたが、光は石碑を中心に真円状に瞬く間に拡がっていき、一瞬の内にクレイの体を包み込んで行った。
拡がった光はそこのぽっかりと空いた空間全体まで及んだかと思うと、ゆっくりと収縮し始め、光が消えた後にはクレイの姿はそこにはなかった。そして、静寂な森に降り注ぐ雨が織りなす木々や枝葉達の旋律が、静かに響くだけだった……。

白い光が全身を包んだ次の瞬間、クレイはどこか見知らぬ石造りの神殿の回廊を歩いていた。突然身に起こった事象に思考が追い付かないクレイであったが、ひとまずの所ここがどこなのか冷静に判断する為に歩を休めて、辺りを見渡してみた。
自身がいつの間にか歩いていた真っ直ぐと伸びている回廊は左右に地域で信奉されている精霊(プロヴァシ)が掘られた支柱が等間隔に並んで、その支柱の間からは神殿を囲むように根を下ろしたファルベ村の近くでも確認できる緑葉樹チャコの木々が見えた。しかし、風のそよぐ音、風に揺れる梢達のざわめき、そこに息づく筈の小鳥などの動物達の生命の声は全く耳に入ってこなかった。
静寂だけが支配した世界にクレイは異質さを覚え、息が苦しくなる感覚を覚えた。
知っている世界の筈なのに知らない世界にきた純朴な迷い人は時を忘れて佇み、神殿を通る回廊の中央で静かに呼吸を繰り返した。
天井を見上げると無機質な石の白い壁が視界を覆い一層息苦しさを覚えた。
クレイが陽の下に出て開放的に広がる空を確認しようと支柱の間を抜けようとした瞬間、前方の回廊を年端のいかぬ子供が神殿の奥に走り去って行くのが視界に入った。
先程まで人の気配などなかったのに、幽霊のようにいきなり現れて走り去る子供に寒気がする思いではあったが、ここがどこなのか聞ける機会だと期待して、その後ろ姿を追いかけた。
「おーい! 待ってくれ!」
こちらの声に耳を傾ける素振りを見せず、その子供は前へ前へと走って行く。ちらっとその子供の右手に一輪の花が見えた。
その花を見て花が好きなイリスの顔が浮かんだ。
よく訓練がない日はヴァンと一緒に村の裏手に拡がる森の中まで、イリスの花摘みの為の道中の護衛を頼まれた。
村で過ごした平穏な日常を懐かしみながら、子供の背中を追いかけて行くと、回廊の先に神殿の中庭が視界に入ってきた。

石造りの無機質な廊下を出ると、神殿の中庭はそれとは反して自然溢れた環境だった。
そこへ足を踏み入れると、空高くから太陽の暖かな光がクレイの体を包み、柔らかな風が一陣吹くと庭いっぱいに敷かれた花達や雑草の絨毯がそよぎ、ざわざわと自然の音色を奏でた。
クレイはその風景に一瞬息を呑み見とれていると、先程の子供が庭の中央に佇む黒衣を身に纏った人物に黄色い小さな花を手渡しているのが視界に入った。
クレイがその二人の様子を注視していると、黒衣の人物がこちらへ気づき、子供に向けていた顔をクレイの方へ向けた。
全身黒ずくめのその人物は頭から黒のフードで顔を隠していた為、こちらから顔を確認はできなかった。
周りの風景に溶け込む事のないその容姿は不気味に見え、それは陽の下であっても消える事なくその身に帯びていた。
クレイがその黒衣の人物の存在感におののいていると、その人物はこちらをその深淵のように暗いフードの中から覗き込むかのように見据えながら静かに歩きだした。
歩を進めるその姿は悠然としていて堂々とした様で、どこか気品があるように感じた。
クレイは近づいてくるその人物から視線を逸らすことができずにいた。
心の中ではその人物に恐怖を覚えていたものの何故か逃げられずにその場に立ち尽くし、目の前の怪しげな雰囲気漂わせる人物の一挙種一動作に目を奪われていた。
まるで得体の知れない幻術にかかった人のように。

一歩一歩と着実に歩み寄ってきた人物との距離が目と鼻の先数メートル先まで近づくと、その黒衣の人物はぱったりと歩みを止めた。
近づいても尚フードの中にある筈の顔は暗闇の中に紛れて窺う事は出来なかった。
ふとその人物が立っていた中庭の中央に目をやると子供の姿は影も形もなく、正に幽霊のようにいつの間にか消えていた。
あの少年は幻だったのか……?
自分はきっと夢を見ているに違いないと、それを深く考えないように思考を切り替えて目の前に佇む物言わぬ黒衣の人物に視線をゆっくりと戻していった。

数秒の間、時が流れ、風のそよぐ音だけがその場にいる二人を包んだ。
風が止み数秒が永遠に続くかと思った瞬間、不意にその人物が若い女性の声で静かに言葉を紡いだ。その声は清らかな水のように柔らかく透き通っていて明瞭であった。
「あなたには大切なものがありますか?」
急に言葉を発した相手に意表を突かれたクレイは相手の顔に目をやって、相手の表情を確認しようとしたが、やはりその顔はフードの中の闇に隠されていて目にする事は叶わなかった。
その質問の答えを探している合間、目の前に佇む質問者はじっとこちらを漆黒の闇から見据えて返答を待っている。
まるでこちらの感情を盗み見られている錯覚に陥りそうになった。
クレイは恐る恐るではあるが、その問いに大切な人の顔、生まれ育った村で過ごした思い出を思い返しながら短く答えた。
「はい」
クレイの迷いのない言葉に黒衣の人物は何の反応も見せなかった。少なくともクレイの目にはそう映った。
また数秒の間、沈黙が流れ、二人の間に再び一陣の風が吹くと、再び線の細い麗しい声で静かに言葉を発した。
「あなたはそれらを守る力を欲しますか?」
その声には認識を妨げるような余計なものは一切なかった。
清流に流れる水が水面から川底まで澄み渡っているかの如く、その言葉には何の邪推もなく、その言葉に対する心意だけをこちらへ訊ねている。
クレイにはなぜかそんな相手の意図する事が伝わってきていた。
まだ会って間もない顔も素性も分からぬ相手と心を通わせるのはおかしな感覚ではあるが、それは必要な事であると本能的に感じられた。
クレイは両の目を瞑り、質問の答えを自身の中に通った確かな思いの中から模索した。

―大切なものを守れる力―

今まで生きてきて貪欲にそれを欲した、或いは焦がれた事などなかった。
大切な人達を守る為に習い始めた剣術や体術は、あくまでも守る為に必要な手段でしかなく、それらを向上する気概はあっても、力そのものを求めた事はなかった。しかし、自分にそんな力があれば守れた命があったのかもしれない……。
燃え盛る村で耳に響いた敵兵の怒り狂った怒号と供に聞こえた無慈悲にその命を奪われた村人達の叫び声……。
クレイは悔しくて堪らなかった。
守れるだけの力がなく逃げる事しかできなかった自身の非力さが……。
怒りに任せ一矢報いようと無謀にも挑もうとした自身の愚かさが……。
もしあの時トラスに止められていなかったら、自分は死んでいただろう。
大切なものを守れずに……。
トラスの言葉が思い出されたと同時に、青年は自身の命を軽んじる者に他者を守る資格なんてない事を知り、死という永遠の別れの中にあっても確実に紡がれる想いがある事に気づく。

俺は強くありたい。
トラスが自信を盾に繋げてくれた命を俺も誰かへと繋いでいけるように……。
そうやって想いは人の心へと伝播し、たくさんの犠牲の上でも人はその中から強さを学び絶望の淵にあっても希望を見出すことができるんだ。
俺が求める力は誰かを傷つける力じゃない。
他者と自身を守る力……。

―生きる力を―

クレイが自身の中から答えを見出すと、黒衣の人物は言の葉を意識に乗せて直接頭に伝えた。
「クレイ、あなたの尊くて力強い心根をしかと感じました。他者の痛みと自身の痛みを知ったあなたが力を欲するなら与えましょう。世界をも守れる力を秘めたルーンの力を」
クレイはその言葉を聞いて目をゆっくりと開くと、自分の体全身が白く発光しているのに気づく。
体全身はくまなく輝き放ち、暫くその暖かい光を不思議な物でも見るかのように見やっていた。
この光の正体を聞こうと目線を前方に移したが、そこには黒衣の人物の姿はなく、先程の子供のように何の拍子も気配もなく消えていなくなっていた。
クレイが茫然とその人物がいた場所の虚空を見つめていると、どこからともなく黒衣の人物の澄み渡った声が聞こえてくる。
「あなたに宿ったのはルーンの力。遥か昔に生きた預言者ザラスシュトラが自身の命を費やして後世に産まれる清き意志をその身に秘めた選ばれし者へ遺した大いなる力を秘めた魔術。その力は世界に多大な変化を及ぼす程の力を秘めています。その力を持った事であなたはこの世界の動乱という荒波にさらされてしまうかもしれません。その荒波の中でルーンの力をどう使うかはあなた次第です。クレイ、あなたが正しき選択を進んで行ける事を、私は信じていますよ……」
女性の声はか細くなり徐々に消えて行った。
一方的に発した言葉に疑問が生じたクレイは咄嗟に声を上げて聞こうとしたが……。
「ちょっと待ってくれ! ルーンの力って何だよ?! それに世界って?!」
神殿の中庭にクレイの声だけが響き、それに対する返事はとうとう帰ってこなかった。
途方に暮れて立ち尽くしていると、また一陣の風が体を撫で、中庭に咲く花々がその風で舞い上がった。
クレイがその花達に目を奪われていると、いつの間にか先程の子供が正面に向かい合わせの状態でこちらの顔を無表情で見つめ、じっと立っていた。
クレイはその子供の顔を見ると声を失った。
自身の幼き頃の姿がそこにあったからだ。
その子供の姿に唖然とした調子で戸惑いながらも話しかけてみた。
「君は……俺なのか?」
子供はその質問には答えず、にっこりと笑うと、その純真無垢な顔のまま幼き日の自身のあどけない声で言葉を発した。
「おにいちゃん、がんばろうね」
子供が微笑みを浮かべながらそう言うと、クレイの体が再び白く輝きだして意識をどこか遠くへ飛ばされるような感覚を覚えると、そのまま意識は闇へと落ちて行った。

次に意識が目覚めた時には、メイル山の森の中にできたぽっかりと空いた空間の石碑の前に戻されていた。
向かい合わせのまま立って、先程の出来事は何だったのか暫く考えを巡らせた。
もしかしたら自分は夢を見ていたのかもしれない……。
夢か現かの区別がつかない頭で天を見上げると青い空がどこまでも青く広がっている。
さっきまでの重苦しく垂れこめた入道雲は晴れて、陽光が地上へさんさんと降り注ぎ、木々の葉に残った雨雫がきらきらと輝いては生命の活動を始め、小動物が幹の上をせわしなく走って行くと雫が辺りに飛び散った。
クレイは踵を返して不思議な石碑に背を向けると、自分が辿るべき道へ歩き始めた。そして、青年が立ち去った後、その森の中にぽっかりと空いた空間には再び無機質な石碑だけが、ひっそりと静かに佇み、悠久の時を再び刻み続けるのだった……。

目的地の港町アラビスまで続く本街道へ歩を戻したクレイは雨が降った森の中に通うひんやりとした冷気をその身に感じながら、雲一つない快晴の空から射す太陽の光に照らされた道をひた歩んでいた。
道の少し窪んだ所には先程の豪雨の後が湖のように出来上がり、クレイはその水溜りに足を踏み入れないように足元を確認しながら考えに耽っていた。
あの石碑の前で光に包まれて不思議な神殿で自身に起こったあの体験はいったい何だったのだろうか?
不気味なくらいに静かな森に囲まれたあの神殿での出来事を夢の中の産物だと断じるにはあまりにも記憶が鮮明で、うたた募る想いが確かに心に残っていた。
自分の幼少期に酷似した子供に導かれるように辿り着いた神殿の中庭で、黒衣に身を包んだ人物と出会い、大切なものについて問われた時、クレイはその事について思いを巡らせ、その中で想起した思いの中から選び取り、確かに決断をしていた。そして、黒衣の人物に認められ何かの力を得ていた。

―世界を守れるほどの力―

あの明瞭な声の持ち主は確かにそう言った。加えて、その力を得た事で世界の動乱に巻き込まれる事を示唆しながら……。
確かに力は欲したが余りにも話が飛躍しすぎた展開に、あれが夢か現実か以前に、そんな話を間に受けるのは今のクレイには難しかった。
そんな事を思案しながら両側に拡がった針葉樹を横目に湿った山間の道を確かな足取りで踏み鳴らしながら登って行くと、吹き抜けた青空と供に山の頂が目に入ってきた。
クレイは山頂に降り立つと、しばし足を止めて、そこから広がる空と森と視界の奥で横たわる大海原が織りなす大自然の眺望に溜息を漏らした。
太陽からの光を反射して森と海がキラキラと光り輝き目は奪われ、山頂に吹く風が森の中を通り過ぎると梢がざわざわと揺れ森の音色が耳に届き、天から降り注ぐ暖かい陽光は旅人の全身を優しく包みこんだ。
クレイは自然が作りだす芸術を前に暫くその風景に身を溶け込ませるかのように時を忘れて佇み体全身で感じた。
海原と大陸の境目がまるで馬の背中のように帯状に連なって見え、その海岸沿いを西に行くと目的地である港町アラビスに到着する。
クレイはそれを遠目で確認すると、ヴァンやイリス達との再会に思い馳せながら、山頂から山麓へ伸びる緩やかな街道を下って行くのだった。

 メイル山を下り、海を左手に西へ歩を進めて行ったクレイは無事に港町アラビスに到着していた。
海に面した貿易が盛んな街は一年中人が行き交い活気に溢れている。しかし、クレイが港町の入り口の石壁で囲まれた門に到着すると普段と少し様子が違っていた。
門の前では街に駐在する兵士によって厳重な検閲が実施されている最中で、順番を待っている多くの行商人などでごった返していた。
クレイがその光景を列の最後尾から少し離れた脇道から困り果てた様子で眺めていると、街から出てきた背中に大きな荷物を抱えた行商人らしき二人組の会話が耳に入ってきた。
「どうやら辺鄙な所にある村が襲われたそうだ」
大きな荷袋を背負った小太りの中年男がそう言うと、隣を歩いている線の細い長身の男が背中に背負った荷袋を揺らして興味なさげに相槌を交えて答えた。
「へ~どおりでいつもより厳重な荷物検査があったわけだ」
「ああ、海を挟んだはるか西の大陸にある軍事国家が攻め入ったって話だそうだ」
「ああ、エラムって国だろ?それにしても海を越えてとはねえ」
「何でも見た事もない空飛ぶ乗り物に乗るって話さ」
「そいつはすげえや! 是非一つ欲しいもんだ!」
そう言うと線の細い男は立ち止まって大袈裟に両手を広げて冗談ぎみに笑った。
「ははは! 違いない! それさえあれば海でもひとっ飛びだからな!」
小太りの男もつられて大声で笑って見せると二人の行商人は再び歩き出し、クレイの横を通り過ぎると、後ろに伸びる街道へ談笑しながら歩を進めて行った。

海を隔てた西の大陸にある軍事国家エラム。
トラスがあの襲撃された夜に発した単語の意味が行商人達の会話で明らかになって多少頭のつかえは解消されはしたが、現状の難関には然したる変化は生じなかった。
一先ずの所、自分も列の最後尾に並ぼうと歩き始めたその時、門の方から見覚えのある二人が列の脇道を走ってこちらへ駆けて来るのが見えた。
それは紛れもなくヴァン、イリスだった。
その姿を人混みの中から見つけ出すと、クレイは反射的に二人の名前を叫んで人混みを掻き分けて駆けだした。
「ヴァン! イリス!」
ヴァンもイリスも走りながら声いっぱいに呼んだ。
「クレイ!」
山間の絶壁がそそり立った渓谷の上を渡る橋の上で生き別れた幼馴染三人は遂に再会を果たした。
イリスは走ってきた勢いのままクレイの体に抱きついて、再会した喜びと無事であった事への安堵から涙をぼろぼろと流して、待ち人の胸の中でしきりに泣きじゃくった。
イリスの熱烈な抱擁にクレイは頭を掻きながら、ヴァンの方へはにかんだ笑顔を見せて二人が無事であった事を心から喜んだ。
「二人供無事だったんだな」
親友の笑顔と言葉にヴァンは笑顔で力強く返した。
「ああ! クレイも無事でよかった! それにしても……」
ヴァンは長い旅路の中でついた親友の体にできた傷跡や擦り切れてぼろぼろになった服に目をやって、ここに至るまでの道中に身に降りかかった試練の数々を、その痛痛しい姿から想像して表情を険しくした。
「ぼろぼろじゃないか……」
そんなヴァンの心配する声にクレイは遠い過去の辛い体験でも思い出すかのように笑って見せた。
「色々あったからな。それよりアマリスおばさん達も無事なのか?」
クレイはそう言うと未だ胸の中で小さく嗚咽を漏らしながら再会を喜んでくれているイリスへ視線を移したが、答えが返ってくる様子ではなかった。
その質問にはヴァンが優しく微笑んで答えてくれた。
「ああ、アマリスおばさんも、俺の両親も無事に着いて、今は避難民の為に国が無償で開放してくれた街の宿屋にいるよ」
「よかった……」
「でも……」
クレイの笑顔に反して、ヴァンの表情は暗くなり言葉には力がなかった。
その先に続く言葉は容易に想像できた。だから、あえてヴァンもその先は口には出さずに、ひたすら思い人の安否を祈るのだった。
クレイ自身、もしかしたらこの場所で再会できるかもしれないと……そんな淡い期待を胸に抱いてはいたものの、現実はそう簡単にいかない事を知る。しかし、希望だけは持ち続けたかった。
トラスはきっと生きている。
あの勇猛な戦士は自分達と同じく敵の手から逃れて生きていると信じた。
少なくともクレイには掛け値なしで信用を寄せる事ができた
クレイは左手で懐に入ったお守りを上着の上から強く握りしめて、ヴァンに「きっと生きてる」と力強くその気持ちを伝えた。
ヴァンも力強く頷いてそれに答えると三人は街の門番の検閲を済ませて広場の宿屋へと足を運んでいくのだった。

 宿屋で無事アマリスやヴァンの両親等、トラスの助けで逃げ延びた村の生き残りと再会したクレイは暫く港町で傷ついた体を休めた後、ヴァンとイリスと供にトラスを求めてパルティア王国の首都ヘカトンピュロスを目指した。
その道中の街道で野盗に襲われて不意を突かれた一行はクレイとヴァンが重傷を負い、イリスは抵抗虚しく捕われてしまう。
そこに首都へ帰城途中であった王国騎士達の手によって救われて難を逃れる。

「私の名前はイキシア・ユスティーツ。パルティア王国直下一騎士団を束ねる者だ」

イキシア達の手によって辛くも助け出されたクレイとヴァンは野盗に斬り付けられた際に負った傷口から、刀身に塗られていた毒が侵入し高熱を出して死の淵に立たされる。
絶体絶命かと一行の脳裏を過ぎるが、イキシアの手から発せられた青く淡い不思議な光に包まれた二人から毒による死の脅威は去る。
この時イキシアが放った光と共鳴し合うかのようにクレイの体からも淡く白い光が放たれる。
その光について疑問符が浮かぶ一行ではあったが、それについての談議はさて置いて、未だ熱を帯びた二人の体を案じた一行は首都の国医に診せる為に、イキシア達騎士の馬に二人を乗せて首都へ伸びる街道を走って行く。

首都の国医に治療してもらい徐々に本調子を取り戻しつつあったクレイ達は城の医務室で王と謁見する目的で訪れていたトラスと再会を果たし、二人はその喜びを分かち合った。
「クレイ、無事で何よりだ」
寡黙な男は再会した喜びを静かに言葉にした。
「生きてると信じてた」
 片やクレイは今にも泣きだしそうな表情を浮かべながら声を押し殺して言葉を絞ると、二人は厚い抱擁を交わして互いの無事を喜び合った。そして、クレイはトラスに山間で体験した出来事を伝えると、その場に居合わせたイリスがイキシアから放たれた光に呼応するかのように、クレイの体からも同じような光が放たれた事を思い出して話す。
二人の話を聞いたトラスはその力はルーンの力で、その力は強大で正しく使う者にしか宿せない物だと教える。
不思議な神殿で黒衣の人物から聞いた内容をトラスの口からも二度聞いたクレイは自身に宿った力の使い道について深く考え、決断する。
エラムという脅威がこの国を戦禍にさらし、自身が体験したような悲劇がこの先繰り返さぬよう、自身に宿った偉大な力はその為に使いたいと願ったクレイにトラスは、ならば供に王国騎士としてこの戦を終わらせようと提案し国王との謁見に同行させる。

「クレイと申したな? お主は騎士になって何を守りたいと願う?」
 国を統治する者の威厳ある言葉に、クレイはあの不思議な神殿で出会った黒衣の人物の言葉を思い出し、片膝を着いてその時立てた誓いを質問の答えとして伝えた。
「私は自分の村を襲われたあの日、火の手が上がる中誰一人守れなかった自身の無力さを思い知りました。そして、大切な人達と生き別れてから、その道中私は不思議な神殿で王と同じような質問をしてきた人物と出会いました。その人物の『守る力を欲しますか?』という問いに対し自問自答を繰り返し、自分だけの答えを見つけました。それは生きる強さを知るという事です。紡がれる命の中で人は人を守る強さに尊厳を覚えて、それは周りにも伝わり、その誰かを守るという思いは人に希望という光となって陰る心へ射し、生きる活力をそこで見出す事ができるのだと私は大切な人から学んだのです。私に授けられた力はその光を絶やす事無く繋いでいく為に授かった力です」
「その為に騎士になりたいと願うのだな?」
「はい」
「お前の貴い決意しかと受けとった」
国王はクレイの揺るぎない信念を知り、貴族出ではなく村落出身者にして異例の措置ではあったが叙任の儀式を認め、クレイは晴れて正式にパルティア王国直下の騎士となる。その後、騎士クレイ・ナトゥーアは、騎士団隊長イキシア・ユスティーツ、元王国騎士団隊長トラス・マクアフティル、若き戦士ヴァン・グレイブ、弓の使い手イリス・ヴェリトゥウム等と供に大国エラムとの間に勃発した戦火へと身を投じる。そして、やがて世界を覆い尽くさんばかりに拡がっていくうねる時代の荒波にのみ込まれて、神が定めし終焉へと続く世界の運命に抗っていくのだった……。

―全ては大切なものを守る為にー

Economize Life~大切な命~

拙い文章を最後まで拝読して頂き、誠にありがとうございます。
男主人公クレイ視点だけを今回は描きました。
今後時間ができたら、もう1人の主人公イキシア視点の物語と、この続編も書ければと考えています。

Economize Life~大切な命~

この世界テラ・メエリタに戦の火が巻き起こり始めた時代「闘争の時代」は、時期に世界の終焉「分離の世界」を迎え始めている。 これは神が決めし世界の転換時期の分類だと太古の昔からの教えである。そして、その時代に生きた預言者ザラスシュトラはこう遺していた。 「世界が分離を迎える時、ルーンの資質を秘めた救世主が現る」と……。 その言葉を遺した預言者ザラスシュトラは自身の命を費やし、特殊な文字で形成された魔術である「ルーン魔術」の力がこもった12種の石を生成した。その石は「ルーンストーン」と呼ばれる物で世界各地に点在し、現在では謎の碑石という認識で主の到来を預言者の意思と共に、ひっそりと待ち続けている。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-25

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