Wonder clorS
政府運営学校教育機関「リュケイオン」を舞台に百舌鳥出雲《もずいずも》はある事件に巻き込まれる。
結構長くなりそうなので長期連載予定。
序章
時間の流れというものは無情にもその途方もなく大きな流れに身を置くほんの些細なものなどに構うこと無くただあるがままに流れ続ける。たとえどんなに広大な宇宙がまるで無限であるかのように広がっていたとしてもそのエントロピーは時間による支配から逃れることはできず、またその流れに逆らうことはできない。時間という概念は人間が想像する物質世界において唯一実体を伴わなくとも存在を認識されている非常に稀有な存在だ。時計が指し示しているのはただ一定のスピードで回転する針が指す数字の移り変わりでしかない。それが時間を可視化しているというのは人間の傲慢なる思い込みでしかない。では、そんな人間の傲慢さの象徴に示された数字に何か意味を見出すことができるのだろうか――
「百舌鳥、また遅刻かよ」
百舌鳥と呼ばれた少年は考え事の最中に割り込まれたことへの抗議をするかのように目を細めたまま目の前のクラスメイトを見た。
「遅刻してしまったものは仕方ない」
「良かったなぁ。うちの担任が遅刻に寛大でさ。いや、逆にそのせいかな?」
「俺としてはありがたい」
朝のホームルームを終え、次の授業のための教室移動でざわついている。入学式から2週間ほどしか経っていないため、期待と不安の入り混じった初々しい空気がそこかしこに漂っている。彼らが通う政府運営総合学校教育機関、通称リュケイオンは今年度で創立10年を迎える。10年前、突然の設立を宣言されたその年から、国家を代表する教育機関としての役割にふさわしい実績を上げた。それ以来、リュケイオンに内包される小学校から大学院まで全国から優秀な生徒が集まるようになっていた。
「一限は倫理だから俺もう行くからな! 授業には遅れんなよ」
それだけ笑顔で言い残すと彼は教科書や筆入れなどを一式脇に抱え未だ生徒でごった返す廊下を走り抜けていった。百舌鳥も机に置いたばかりの鞄から筆入れとルーズリーフを取り出すと教室を後にした。彼らのカリキュラムは一応高校課程相当ということになっている。百舌鳥達はこの春入学試験に晴れて合格し入学してきたばかりだ。低血圧故に朝に弱く入学式当日から遅刻をかましたのをきっかけに一つ前の席の男子生徒と親交を深めることになってしまっていた。
春の陽気を存分に受けた開放型の渡り廊下をあくび混じりに歩いていると彼の足は突然止まった。視線はある一点に留まっている。屋上にいる女生徒に。普段は鍵がかかっており簡単に入ることができないはずの屋上に生徒がいること自体がおかしなことであるが、それよりも彼の目を離さなかったのが、その女生徒がフェンスの無い屋上の縁に立ち、春風に髪をなびかせながら下を覗いているというところだった。気づいた時には彼は走りだしていた。まだ不慣れな校舎の階段を駆け上り、屋上へのドアに辿り着くとそのまま体当りするようにドアノブに手をかけた。ドアは意外とあっさり開いた。生ぬるい風が気圧の差で吹き込んでくる。ついさっき女生徒がいた辺りに目を遣るがそもそも屋上にはネズミ一匹存在していない。慌てて下を覗いても、懸念したような惨劇が起こった様子もなく、至って平和だった。
「なんだったんだ……」
安心したのと同時に怒りもふつふつと湧いてきた。そんな彼をあざ笑うかのように一限始業のチャイムが鳴った。
邂逅 ―1
「それってあれじゃねーのか、七不思議とか都市伝説とかそういうやつだろ」
昼休みになって百舌鳥は一限にすら遅刻してしまったことへの弁明を求められていた。正直に話したところで取り合われるどころかどうせ寝ぼけていたんじゃないかと鼻で笑われることを覚悟していた彼にとって級友の返答は意外なものだった。
「信じる?」
「おい、嘘だったのか?」
「嘘は言ってないけど」
「何も、その話をまるごと信じるなんて言ってないんだぞ。それがお前の見間違いだったのか、本当にそうだったのか、確かめる術ぐらいはあるんじゃないの?」
「なんだよ。確かめる術って」
箸に卵焼きを刺したまま友人は目の前で軽く振ると当たり前のように言い放った。
「同じ時間にそんな感じのもの見ませんでしたか―って聞いて回るんだよ」
「そんな面倒なことするぐらいなら俺は真相は闇の中でも良い気がしてきた」
「そうかい。なら好きにしたらいいよ。お前が良いっていうんならもう俺は何も言わねーよ」
屋上の少女の話はそこで終わり、その後は他愛のない話が続いた。百舌鳥自身も時間が経てば経つほど見間違えだったのではないかという気さえしていた。だから、その日の放課後になっても特に何か情報収集をするでもなくいつものように帰ろうとしていた。すでに夕方と言える時刻にもかかわらず外はまだ十分明るい。すっかり人気の無くなった下駄箱から百舌鳥が外履きを取り出そうとした時、すぐ近くで女の子のすすり泣くような声が聞こえた。吹き抜けになっている下駄箱のある玄関に声が何重にも反響して聞こえる。
「誰か……いるんですか?」
裏側に回ってみても誰かいる気配はない。あいかわらず泣き声は頭の中に直接響くようにはっきりと聞こえている。
「大丈夫ですか?」
よく耳を澄ますと、さっきまでは騒がしいとさえ思えた野球部やサッカー部の掛け声が聞こえなくなっていた。自分の足音以外の音が全く聞こえない状況に置かれ、孤独感が堰を切ったように押し寄せてくる。なぜだか自分に違和感を感じた百舌鳥はとりあえず外に出て気分を入れ替えようとした。外に出て普段通りの日常風景を見ればこの違和感から解放されると思い下駄箱から外履きを取り出し足早に校舎を出ると、どんよりとした曇り空が世界から色が失われたかのように広がった。いや、実際――失われていた。駐車場に点在する車にも、植え込みに生えている草木にも、足元に敷き詰められたレンガにも、彩度という彩度が存在しなくなっていた。唯一、制服や肌の色等をそのまま残す自分を除いては。
どうしたらいいのかわからずに百舌鳥は辺りを見渡した。グラウンドにも校舎にも学校の外にも全く人の気配がしない。携帯を取り出してみても圏外となっている。夢を見ているのではないかと思い始めたその時、背後で質量のあるものが高い所から落ちて潰れたような鈍い音がした。同時になにか硬いものが砕ける音もした。百舌鳥は突如ものすごく嫌な予感がした。同時に絶対に後ろを振り向いてはいけないと本能が告げているのがわかった。振り向いてしまえば自分を支えていた何かが壊れてしまう気さえした。
「嫌だ……嫌だ……」
しばらくすると、後ろからカタ、カタ、と硬いものがこすれ合うような音とドアがきしむような頭頂部に響く音が聞こえ始めた。少しすると今度はコン、コン、という筒の中に響くような一定周期の鈍い音に変わった。近づいてきているのだ、というのはすぐに分かったが百舌鳥の足は全く動かなかった。夢であるなら早く覚めてほしい。目を力強くつむるとベッドに横たわり目を覚ます自分の姿を思い浮かべた。音は依然として自分の方へ近づいてくる。百舌鳥は急に寒気をおぼえて目をつむったままその場にしゃがみこんだ。自分のすぐ背後で音が止まったのがわかった。再び蝶番のきしむような音がしたかと思うと、左肩に硬いものが乗せられる感覚がした。それは手のようだった。かなり広さがあり中肉中背とはいえ高校生になった彼の肩をすっぽりと覆ってしまえるような大きさだった。百舌鳥は無我夢中で右手でその肩へ置かれた手のようなものを掴んだ。人間の体のような温かさはなかった。柔らかさもなかった。ただ冷たく硬い木に近い感触だった。
「え……?」
想像していたものと全く違う情報が入ってきたことに驚き、思考が停止してしまう。何も考えられなくなったその瞬間左肩が急に後ろに引っ張られ体制を崩される。そのまま後ろに仰向けに倒れたことで後ろにいたものが目に入った。すぐには何だかわからなかった。長方形の一番大きな真っ白な塊の上に丸いものと、4箇所から棒状のものが出ている。マネキンや人形ほどはっきりとはしていないがそれは人型と呼べる形をしていた。手足と思しき4本の棒は針金のように不自然なほど折れ曲がり、頭の位置にある丸い塊には黒い穴が2つだけ空いている。その吸い込まれそうなほど黒い穴からは墨のような液体が涙のように垂れている。人型はあっけにとられている百舌鳥との距離を少しずつ縮めていく。胴から下に伸びる2本の足は捻じ曲がってもまだ足としての機能を失っていないようで時々バランスを崩しそうになりながらも一歩ずつ近づいてくる。しかし、百舌鳥の足はまだ動かなかった。とうとう人型との距離が無くなった。前に差し出されたままの真っ白な左腕が百舌鳥の胸に触れた時、水面に広がる波紋のように百舌鳥の体の表面が波打った。そして人型の左腕がズブズブと体の中に入っていった。
邂逅 ―2
百舌鳥と人型との物理的境界は無くなりどんどん奥へと腕は入っていくが、そこにあるはずの肋骨や心臓や肺等に触れる様子もなく、百舌鳥にも痛みは感じられなかった。ただ、ものすごく心地悪い、体の内側に溜まる生理的な気持ち悪さが募っていった。一体何をされているのか、これからどうなってしまうのか、わからなかったがもう怖いという感覚はなくなっていた。もう生きて帰ることは諦めていたのかもしれない。そんな折、目の前の人型が一瞬動きを止めた。探していたものが手に触れた時のようなそんな反応だった。しかし人型がその目当ての物を手に入れることはなかった。百舌鳥の目の前で人型が突然20mほど吹き飛んだのだ。目の所から飛び散ったであろう液体が彼の顔にかかる。
「大丈夫?」
視界に入ってきたのは長い黒髪の少女だった。エプロンをしているがリュケイオンの女子の制服を着ているのがわかる。肩を抱かれている百舌鳥の頭に何か硬いものが当たった。いつも通りに動かない首をなんとか回し、そこに目線を動かすとなんとフライパンだった。
「それで殴ったんですか?」
命の恩人への第一声は助けてもらったことへのお礼でもなく、大丈夫だったかどうかへの返答でもなく、そんなどうでもいい質問だった。
「あ、あの……えーっと、これは、ね……なんというかぁ、えへへ」
あたふたとフライパンを後ろに隠す女生徒。安心した途端、百舌鳥は急に眠くなってきた。まばたきをする度に目を開けている時間のほうが短くなっていく。
「あ、待って! まだ寝ないで! 君にはまだやることがあるのよー」
介抱を受けている被害者に対する扱いとは思えないくらい激しく前後に振られると、百舌鳥は嫌でも目が覚めた。
「なんですかやることって」
そんな彼の疑問を片手で遮って女生徒はおもむろに立ち上がると左手にフライパンを持った。そして右手をセーラー服の首元に入れて複雑な形をしたペンダントを取り出し右手に握るとつぶやくような声量で
「|Colorise」
と言った。途端にペンダントが手の中で青白く発光し始めた。握られているとは思えない程の光量を発しており百舌鳥は思わず目をそらした。唯一目の端に捉えられたのは女生徒が頭の上から徐々に青い光に包まれていき、シルエットが変わっていったということだ。光が弱くなるとはっきりと見えるようになった。さっきまで黒いセーラー服を着ていた女生徒は今は青い軍服のような長いコート姿になっていた。さらに左手にはフライパンではなく柄の長い鎌があった。幅の広い刃には紺碧と金の意匠が施され神々しい輝きを放っている。
「頭を下げて!」
少女の姿を呆気にとられて見ていた百舌鳥は急にそう言われて、慌てて頭を下げた。頭上から鎌が風を切る音と、同時に何かに当たった手応えのある音がした。時間差で何かが地面に落ちた音がした。
「もういいですか!?」
「もういいけど、立ち上がって私のそばから離れないでね」
百舌鳥には少女のそばから離れる気などさらさら無かったので言われたとおりに少女のそばに走り寄った。すると、今まで自分たちがいたと思われる場所のすぐそばでさっきの白い人型が上下に真っ二つになっているのが見えた。人型は繋がりを失ってもなお上半身、下半身とも微かに動いている。
「こっちヘ来て」
女生徒は百舌鳥の手を取ると校舎の陰へ連れて行った。
「あなた一体何なんですか……」
そんな百舌鳥を気にも留めず女生徒は自分のスカートのポケットから銀色のアクセサリーを取り出した。
「早く、受け取って。ちゃんと手で握って|Coloriseだからね」
女生徒が差し出したアクセサリーは彼女が持っていた物にそっくりなペンダントだった。幾何学模様のようにも何かの文字のようにも見える不思議な形をしている。百舌鳥がそれを受け取ると女生徒は走って何処かへ行こうとする。
「ちょっと! なんで俺にこれを?」
しまった、という彼女の心境は止まった足とピンと反らした背筋に表れていた。そして慌てて振り返ると百舌鳥の後ろのほうを指さした。つられて百舌鳥が振り返るとそこには校舎の壁にぽっかり空いた虹色の穴があった。穴の向こうはよく見えないが校舎の中へ通じていないことはなんとなくわかった。もっと莫大で広大な空間のように思えた。
「私が帰るまで、もしくは君が元の世界に戻れるまで、そこの穴にネズミ一匹入れちゃダメだよ! どんな手を使ってでも死守してね☆」
最後に百舌鳥にウィンクを投げると今度こそ本当に女生徒は行ってしまった。百舌鳥はとりあえず穴の前に座り込んでみた。しかし、段々なんだか崖の端に背を向けて座っているような居心地の悪さを感じて穴の隣の壁の部分を何度か手で押して安全を確かめてから壁にもたれた。ここに来てから初めて落ち着いて腰を下ろすことができた安心感とこれまでの緊張が解けたことへの反動で白黒映画の中にいるような不思議な感覚をおぼえながらも蘇ってきた眠気に負けて百舌鳥は船を漕ぎ始めた。
Wonder clorS