近代以降の「純粋な道具」としての言語観は、日本語の奥底にある「心」を解体せざるを得ない
花田太平 作
『日本語の哲学へ(長谷川三千子)』書評
初出『新日本学』19号、2011年、136–37頁;一部修正
「日本語の哲学へ」という一見明瞭な主題は、考えれば考えるほど、大変奇妙な姿を現す。
それは単に「日本語で哲学」することではない。カントについて日本語を用いて論ずれば「日本語の哲学」といえるのか。あるいは、道元の仏教哲学について彼方の学術用語をちりばめて論文を書けば、「日本語の哲学」をしたといってよいのか。そうではないらしい。著者によれば、「日本語の哲学」とは日本語という「道具」が内包している物事の「とらえ方」、あるいは「わかり」の形を虚心になって手探りし、その道具の生理にしたがって――すなわち、言葉が命ずるように――言葉を使わなければならない、とする(22頁、151頁)。言葉の使い方をあやまれば、人は心の姿を崩すのである。言葉の「生理」とは、一口に言うならば、「判例」から成るのだろう。すなわち過去の日本人がいかなるコンテクストにおいて、いかに言葉を用いたか、それらの「遺言」に訊くこと。そういう意味において、文学は「判例」の宝庫である。
他方で、「日本語の哲学へ」という問題意識は、そのような来歴をもつ「日本語」という考えるための道具が、「哲学」がつかさどる「普遍性」からはぐれているということを前提としている(たとえば、「日本語の算数へ」という問題設定には少々無理があるように)。西周から京都学派の西田幾多郎、三木清、和辻哲郎、田中美知太郎へと至る日本哲学の系譜は、明治以降の日本近代化史とほぼその軌跡を同じくする。日本語の歴史において、西洋発の「哲学」はつねに他者の言葉であり、その「普遍性」は日本的なるものの峻厳なる否定の上に成り立っている。「学問的ではない」「理性的ではない」とされる日本精神の諸相が、不思議にも「西洋的ではない」側面と一致するのも偶然ではないのだろう。乱暴な言い方になってしまうが、近代日本最大の哲学者和辻哲郎が、近代西洋最大の哲学者ハイデガーの「解説者」であることを越えられなかったという悲劇もこのことによるのかもしれない。すなわち、近代以降の「純粋な道具」としての言語観は畢竟、日本語の奥底にある「心」を解体せざるを得ないのだろう。根元的な意味において言語のはたらきをわれわれは強制することはできない。言語を完全に所有し得ると思い上った瞬間、われわれは心の住処を失い、精神の躍動感を失うのである。
そこで著者は言葉を「所有」するのではなく「引継ぐ」ことから始める。それは和辻哲郎の「遺言」を受け、「日本語」という言語を「哲学的」に問うことであった。思考の道具であるはずの「日本語」そのものを考えることの対象とすることは、道具それ自体を眺める行為であり、得てして無為に陥る。が、道具にこだわらない職人はいないように、著者は一度立ち止まり、日本語を正視するという狂気をひとまず引受けるところから始める。和辻、デカルト、ハイデガー等の言語に関する、雄豪なる文章を、著者独特の繊細だが勁い絹のような文章が手繰り寄せ、次第に一つの織物を成してゆく。パルミメデス、ヘーゲル、ハイデガーの存在論を、言語観につなげて論ずる件は圧巻である。
本著にかぎらず、長谷川氏の「西洋哲学批判」において必見すべきは、西洋(普遍)対日本(固有)という近代の対立軸が、実は西洋自身の初近代史が内に抱える問題であるということをつねに視野に入れているところだ。この指摘は、日本における近代の超克が単純な西洋打倒に陥らないこと、あるいは日本の近代批判が西洋における内的な自己回復を助けることにつながるという点において重要であろう。
が、この本には不思議と前作の『バベルの謎――ヤハウィストの冒険』(中央公論新社)にあった喜び――日本精神が西洋精神をつかみ、それによって、西洋精神を他者として生き生きと蘇らせる喜びが見られない。むしろ苦しみがある。この苦しみは著者の日本語への問いが、日本の近代化によって強制されたものであるということと無関係ではないだろう。しかし、この苦しみはあくまで意味のある、避けて通ることのできない陣痛のようなものである。この苦しみを共に感じることのできる者は幸せである。
近代以降の「純粋な道具」としての言語観は、日本語の奥底にある「心」を解体せざるを得ない