当たり前に来る明日 3

 カーテンの隙間から入ってくる日差しの眩しさで目を覚ます。
「ん……。」
 葵は、ガバッと勢いよく上半身を起こす。
辺りを見回すと、見たことがあるようで見慣れない部屋。女子寮の一室だった。葵の脳内には、長かった昨日が断片的に再生される。同時に、“実態”、亜空間という耳慣れない単語が不気味に脳内に木霊する。
「――――――ッ、夢、じゃ、無かったんだ―――。」
 隣で寝息を立てている梨奈に聞こえるか聞こえないかぐらいの小さな声が、葵の口から漏れた。そして、自分の手を顔の前にやり、握っては開きを数回繰り返す。
(――――――うん。私、まだ生きてる。大丈夫。)
 自分自身にそう言い聞かせて、床にそっと足を下ろす。火照った体にひんやりとした感触が気持ちいい。時刻はまだ6時過ぎ。起床にはまだもう少し早い。梨奈を起こさないように、出来るだけ物音を立てないようにして洗面台へ移動する。睡眠中にかいてしまった汗を拭こうと、ハンドタオルを絞って、首筋にあてようとしたその時。

「葵!?ちょっ!!!ねぇ、どこ!!?」

 悲鳴のような梨奈の声が聞こえた。葵はビクッとして、持っていたタオルを思いっきり首に押し当ててしまった。
「うひぃ!冷たっ!?りっ、梨奈?」

 梨奈は、葵の声に反応して、ドタドタと洗面台へと走ってきた。梨奈は、はぁはぁと息を切らしながらやってきた。左手で、上着の胸部分をぎゅっとつかんでいる。心なしか、顔色も青かった。梨奈の瞳は、何かに脅えているように揺れていた。
「よかった……、葵………。」
 葵は、状況が意味が読めずに洗面台の前で突っ立っているしか出来なかったが、やがて梨奈は饒舌に喋り出した。
「いや~、突然いなくなるから、びっくりしちゃったよ。あはは~。寮って結構広いからさ、迷子になってないかなぁって、心配になってさ。そんなわけないよね。葵、結構頭良さそうだし。んもう、あたしってば、トチちゃったよ。カッコ悪いなぁ。」
 梨奈は、葵にへらりと笑って見せたが、ただの思い違いには見えなかった。

「あ!そうだ。今日の一・二時間目の体育って、実践訓練だよ!葵!知ってた?」
 梨奈は、思い出したように別の話題を振ってきた。
「時間割は知ってたけど、実践訓練って、何?」
「まぁ、着替えながら説明するね。」
 梨奈の表情は、いつもの明るいそれにすっかり戻っていた。まるで、先ほどの揺れた瞳などは何かの間違いであったかのように。

梨奈は、着ていたTシャツを勢いよく脱ぎ捨てた。昨日大浴場で見たとおり、露出部分以外は綺麗白い肌。女性らしいやわらかなラインに、同性ながら―――――いや、同性だからこそなのか、葵の眼が自然に引き寄せられる。そして、汗で濡れたシャツにこれまた勢いよく手をかけた瞬間。さすがにずっと見ていてはいけないような気がして、視線を逸らす葵。一方の梨奈は全く気にしていないようで、そのままブラジャーを付けているようだ。葵が再び視線を戻すと、上半身はブラジャー一枚の梨奈が目に飛び込んできた。そのままの服装で、クローゼットの近くまで移動し、掛けてある制服に手を伸ばす。

「ごめんよ。」

 クローゼットを背にして立っていた葵が、梨奈に道を譲る形で、慌てて数歩前へ出る。
「あっ?」
 その時葵は、梨奈の二の腕の内側に、直径にして二センチメートルほどの痣があるのを見つけた。色自体は薄いものだが、恐らく間違いない。梨奈の肌が黒めだったことに加え、昨日は葵も疲れていたために気付かなかったが、梨奈の肌には明らかに痣があった。葵はギョッとして目をむく。

「体育の実践訓練って言うのは、それぞれの武器系統に分かれて実践に向けて訓練する授業のことね。クラスとか学年とか関係なく、同じ系統の、例えばあたしなら飛び道具系の生徒たちのグループで授業を受ける、ってワケ。先輩とかと一緒だから最初は緊張もするけど、教えてもらえたりもするから、助かるよ。」
 梨奈は、葵の様子には気付かずに喋り続ける。

「ん……?」
 一方の葵は、梨奈の説明をよそに、ぐっと目を凝らす。梨奈の痣は一つではない。よく見ると、普段は服で隠れている部分にも、幾らか痣があるのが見えた。葵が分かる範囲だけでも、脇腹にも二つ、背中にも三か所ほどの痣があるのが見えた。幸い、一つ一つの痣は小さい。また、治りかけなのか薄黒い痣だが、痛そうなことに変わりはない。葵は、思わず下を向いて息をのんだ。

「どしたの、葵。っていうか聞いてた?さっきから手が動いてないよ~?」
 梨奈は、葵の顔の前で手をひらひらとさせる。葵が視線をあげると、梨奈と視線がぶつかった。背中に妙な汗が一筋伝ったのが感じられた。軽く息を吐いてから尋ねる。

「ねぇ、梨奈。その体に何箇所かある怪我って、どうしたの?」
 葵は、恐る恐る尋ねる。
「ん?あー、これね。うん。まだ戦うのも慣れなくてさ。ヘマしちゃってさ~。みっともないよね~。」
 あはは、と乾いた笑いを浮かべる梨奈だが、葵の気持ちは何も軽くならない。むしろ、その理由を聞いてゾッとしていた。朝起きて、昨日のことが夢かなどと思った自分を愚かしく思った。夢なわけが無い。


『え?はっ!!いや違う!天音、誤解だ!僕はただ、武器も持たないで亜空間に入るのがだな!』
――――そうだ。亜空間なんて理屈は分からなくても、武器も持たないでは入ってはいけない場所だ。
『はいはい、もういいから。遊びに行くんじゃないから。』
――――遊びじゃない。あの圧倒的な拒否を向けられた中で、私は真剣に足掻いていたんだ。私だって、“実態”に奇襲されたとき翔先輩にに助けられなければ、どうなっていたか分からない。その時は恥ずかしくて混乱したけど、あの時一歩間違えれば―――――

 ここまで考えたところで、葵は思考を中断する。思考を続けることができなかった。その思考領域に踏み込んだら最後、自力では抜けられないような気さえしていた。葵は、自分の頭から既に血の気が引いているのを感じた。

「葵?」
 梨奈はとうとう葵の顔を覗き込んでいる。葵はハッとし、大丈夫だよ、と無理矢理に笑顔を作って返す。

「ねぇ。百聞は一見に如かずって言うじゃん?やる気のある人は朝練やってるから、見に行かない?あたしも、ヘマばっかりやってられないしさ。頑張ろうよ!」
 梨奈は、屈託の無い笑顔を向けた。

 急いで身支度をし、食堂で朝食をかき込み、グラウンドへと繰り出した。



 既に何人かの生徒が、グラウンドで練習をしているようだった。こういった風景は、葵にとっても別段珍しいものではない。ただ一点、彼ら彼女らが練習しているものが、普通の部活動ではなく、武器の扱いという点を除いては。

「そういえば、葵はなに使ってんの?」
「へ?」
「ホラ、武器だよ。まだ聞いて無かったよね。あ、待って!当ててあげる!」
 梨奈が、明るく話しかけてくる。顎に手を当てているあたり、わりと真剣に考えているようだ。
「んー。定番にナイフとか?女の子なら杖とかもあり得るかな。」
 会話の内容だけを見れば、まるでRPGゲームについて会話をしているようだ。いや、葵はほんの数日前まで、こんな会話をしていたのだ。ただし、自分はあくまでもRPGのキャラクターを操作するプレーヤーの立場だった。これではまるで―――――
「んー!杖でファイナルアンサー!あ、このネタ古い?で、葵、正解は?」
「一応……は、剣……に、なるの……かな?う、うん。」
 何とも歯切れの悪い返事である。武器は剣です!と胸を張っては言えない。何せ、この半年ほどは高校受験に向けて受験勉強をしていただけの葵である。武器の扱い以前に、運動部でもない部活動すら引退していた。しかも、武器だって、昨日他人様のを使い始めたばかりなのだ。さらに致命的なことに、剣を振るうことによって相手にダメージを与える、という基本中の基本とも言えるであろう使い方すらしていない。これで自信満々に答えられるはずが無い。

「へぇー!なんかすごい意外!葵って、見かけによらずたくましい一面もあるんだ!なんだかカッコイイな~。」
 梨奈は葵に、無垢な羨望の眼差しを送る。
「違う違う!私、何の備えも無しで亜空間に入ろうとしたから、同じ班の翔先輩が手持ちの予備を譲ってくれただけ!だから、全く使えないの!」
 必死になって弁明する葵。梨奈は驚いて目を見開く。
「ん?翔先輩って、まさか……」
「あれ、梨奈、知ってるの?」
 翔、という名前を聞いて、梨奈の瞳は少女漫画の乙女のように輝いた。
「知ってるも何も、この学園じゃ超が付く有名人!あ、多分今も朝練してるんじゃないかな!行こう!」
 言うやいなや、梨奈は葵の手を引っ張って走り出した。

「高木先輩って背も高いしカッコイイし強いし、おまけに生徒会副会長だし、でも偉そうにしなくて誰にでも優しいし、声も甘くて素敵だし、女子からの人気も絶大で……!あぁもう!翔先輩と同じ班だなんて、超絶羨ましい!あんなカッコイイ姿を間近で見られるなんて、目が幸せ、いや、そのお声を聞けるなんて耳が幸せでとろけそう、でもいっそのこととろけてみたいような、いや、とろけさせられたいような……」
梨奈の顔は見えないが、テンションが急上昇しているのは声で分かった。走っているにもかかわらず、息一つ乱さずに乙女トークを続ける。ついでに、内容も何だか怪しい方向に走っていっている気がする。葵は、突然の梨奈のテンションにも、会話内容にもついていけていない。梨奈は、そんな葵を気に掛けるでもなく、喋る勢いそのままにグラウンドを突っ切っていく。何人かの生徒たちがグループを作って、それぞれに練習をしているのが見えた。どうやら、梨奈の言った通り、同じような武器を持つ生徒同士が自主的に集まって練習しているようだ。また、練習しているグループによっては、周りに見学をしているのであろう生徒たちの姿もあった。その中で、グラウンドの奥にはひときわ生徒たちが集まっているのが見えた。梨奈の足もそちらへと向かっている。やがて梨奈の足が止まる。既に見学者がいたため、誰が練習しているのかが見えない。葵が見学者と見学者の間から様子を見ようとしたその時。

「ッ!貰った!」

 パァン、と何かがぶつかったような景気の良い音がして、見学者がざわめく―――――というよりは黄色い声をあげる。よく見れば、見学者はほとんど女子だった。そういう葵も女子だが。
 梨奈はちゃっかりと見学者の間から練習の様子を見ている。葵もやっとのことで女子の間から顔を出すと、竹刀を持って最低限の防具を身に付けた翔の姿があった。相手をしていたのであろう見知らぬ男子生徒の近くには竹刀が転がっており、彼は尻もちをついていた。
「あいててて~。少しは手加減とかしろよな~。ったくよ~。」
 尻もちをついていた男子生徒は、お尻をさすりながら立ち上がった。だが、男子生徒も満更でもなさそうな表情を浮かべている。
「はは。それだとお互い練習にならないだろ。」
 翔はそう言いながら転がった竹刀を拾い上げ、男子生徒に渡そうとした。そこで、葵と目があった。

「おはよう、葵。二日目から見学だなんて、熱心だな。感心感心。」
 翔は、爽やかな笑顔で葵に近づく。そして、女子生徒の隙間から手を伸ばし、葵の頭に手をぽんと乗せる。流石に、周りの女子もギョッとしている。葵は、昨日のお姫様抱っこを思い出し、カァッと赤面する。
「う、お、おはようございます……」
 葵は、小さな声でそう呟くのが精一杯だった。刹那、女子たちはざわつき、十人ほどの女子たちの視線が一気に葵に注がれる。ねぇ、高木先輩の知り合いかな?いいなぁ、羨ましい、といった女子たちのヒソヒソ声が葵の耳に突き刺さる。梨奈も、人差し指を下唇に当てて、羨ましそうな顔をしている。葵は恥ずかしさのあまり、すぐにでも消えたいような気分に襲われた。
「あ、折角だから、葵も一緒に朝練する?」
 綺麗な笑顔で、葵に竹刀を手渡そうとする翔。葵はぶんぶんと勢いよく首を振り、梨奈の腕をつかんだ。
「あ、その、えと、見学、ありがとうございましたっ!」
 たどたどしくお礼を言い、そのまま走り出した。葵の心臓は恥ずかしさでドクドクと脈打っている。おまけに、あんなに人が見ている中で練習できるほど、葵の肝は据わっていない。梨奈は、もう少し見ていこうよ~、と惜しそうにしていたが、お構いなしだ。

「じゃあまた後で、体育で~!」
 走り去る葵の背中に、翔の声。葵は、もつれる足を何とか動かし、グラウンドから離れた。


その様子を、グラウンドの見えるベンチで見ていた女子が一人。由希だった。彼女の表情に色は無く、いつも瞳に湛えている柔らかな光も無かった。


「え~?一緒に練習しないの~?超もったいないよぉ。あたしなら喜んで一緒に練習するのにぃ~。あー、でも今日も高木先輩カッコ良かったな~。」
 ふわふわとした口調で喋り続ける梨奈をよそに、後者の方へとダッシュする葵。
「でも、まだSHRまで時間あるよ?やっぱりもう一回見学に行こうよ~?強い人のを見ないことには、強くなれないよ~?」
 梨奈のそれは正論である。しかし。
「そういえば、私、まだ昨日の宿題やって無かったことに気づいたの。梨奈は?終わってるの?」
 葵は、つとめて冷静に答える。
「うぎ!痛いところを……。」
 どうやら、梨奈も宿題に手をつけていなかったようだ。
「じゃあ、これから教室に行って、授業開始までにぱぱっと終わらせよう、ね?」


 宿題が終わったところで、丁度SHR開始のチャイムが鳴った。チャイムから少し遅れて、結城先生が乱暴に扉を開けて教室へ入ってきた。葵はその音にビクッとしてしまう。今日の予定について話をしてはいるが、昨日と比べて話し方がキツイ。表情も、明らかにイライラとしている。平たく言えば、結城先生はかなり機嫌が悪いようだ。やはり昨日は婚活をしていたのだろうか。もしやそこで、思うような成果が上がらなかったのだろうか。
(もしそうだとするなら、ちょっと良い気味かも。)
 葵も、ついついそんなことを考えてしまう。周りの生徒は、こんなことぐらい慣れているのか、別段誰も気に留めていない雰囲気だった。触らぬ神に祟りなしといったところだろうか。葵を除く全員が、結城先生の不機嫌を受け流す空気を作っていた。


 一時間目は、梨奈と別行動だ。葵は、転校二日目にして、唯一の友だちと分かれて授業を受けることに不安を感じていた。葵の班は、主に刀剣類をメイン武器とするグループだ。葵とて薄々予感はしていたが、明らかに男子生徒の方が多かった。男子が八割、女子が二割といったところだ。当然、転校二日目の葵に、まともに知り合いと呼べる人間などいるはずもない。たった一名を除いては。

「あ、葵だ。」
 声の主は翔である。
 先に集合していた翔が、葵の元へ近づいてくる。翔の声は決して大きなものではなかったが、翔は有名人だ。周囲の生徒たちの視線は自然と翔と葵に注がれる。
「おっ、おはようございます、た、高木先輩。」
 朝のこともあるのだ。目立つことは何とか避けたいと思い、さりげなく呼び方を「高木先輩」に戻す葵。
「え~?翔でいいって言ったじゃん。せっかく同じ班で同じ武器なんだ!気にしなくていいって!」
 ははは、と白い歯を輝かせて、葵の頭にぽんっと手を置く翔。
翔の周りにいた男子達は葵を見て、この子が昨日来たっていう転校生か、剣なんて使うイメージなんて無いな、翔と同じ班なのか、等と口々に喋り始めた。女子たちも、あれ今朝の子じゃないの、翔先輩に気ィ遣ってもらってるよねぇ、と内輪でヒソヒソと話し始めた。
「あ、あ、え、その……。」
葵はもう、跡形もなくこの世から消え去りたい、とすら思った。
別に葵は、翔のせいで消えたいと思っているわけではない。葵は、こういう自分の性格が嫌いなのだ。昔から引っ込み思案の内弁慶。本当は目立つことが嫌なのではなく、他人から嫌われたくないため、当たり障りが無いようにするために、目立たないようにしているだけの、臆病ないい子ぶりっこ。葵は、自己嫌悪とどうしていいか分からないのとで、その場で下を向くしかなかった。しかし。

「さァァァァァ!みんなァァァァァァァ!!集合してるかァァァァァァ!!!?」

 野太い声が、突如校庭に響き渡った。沈んだ葵も、何事かと思い顔をあげる。葵は、雷鳴に撃たれたような感覚に陥り、その場から一歩も動けなかった。周りの生徒は、蜘蛛の子を散らすようにしてその場を離れ、整列を始めた。葵は、ぽかんと口を開けたまま、首から上だけを動かし、慌てて声の主を探す。とにかくごつい体躯の男性教師がこちらに、ガニ股で歩いてくる。全身あずき色のジャージで、肩には年季の入った竹刀を担いでいる。いかにも、昔の漫画に出てきそうな熱血教師を絵にかいたような容姿だ。そして、地面に竹刀を突き立て、生徒たちの前に堂々と立った。男性教師は、ゆっくりと生徒たちを見渡す。そして、突如教師の目が見開かれ――――――

「そこだァ!佐藤ォォォ!」
 教師は、ものすごい剣幕で怒鳴った。
「はいィ!すんませぇん!」
 佐藤と呼ばれた男子生徒の声は情けなく裏返っている。
「整列したら動くなっていっつも言ってんだろォ!そうだろう!みんなァ!」
「「「「「はい!」」」」」

 何だかショートコントのようである。葵の自己嫌悪など、この嵐のような男性教師の前に、どこかへ吹き飛んでいた。ちなみに、まだ始業五分前である。しかし、そのことを突っ込む猛者はいない。葵は、いまだに開いた口が塞がらない。しかも、周りが整列しているにも関わらず、葵ひとりが外れた場所で、全く動けずにいる。

「ん!?」
 男性教師が、右手に竹刀を手にしたまま、葵の方へとガニ股で歩みを進める。葵は、迫ってくる教師の気迫に怖気づき、どうして良いか分からずにいる。全身から妙な汗が噴き出す。教師は葵の前で立ち止まる。
「あ……、ああ……」
 違うんです先生、私は整列の場所が分からなくて、どうしたらいいか分からなくて、ここにいるしかなくて――――――葵は、ひたすら頭の中で言い訳を作っていた。しかし、口から出てくるのは意味の無い音ばかり。
 男性教師は、自分の左手をそのまま後ろへとやった。殴られる――――!葵は恐怖に震えた。教師が、勢いよく何か取りだしたのを確認した瞬間、葵はいよいよ覚悟して目をぎゅっと瞑った。
「えー。えっと、君はー、木戸葵さん?昨日中等部三年D組に来たばかり?」
 どうやら男性教師は、ジャージのズボンに挟んであったノートを取り出していたようだ。
 葵は、呆気にとられてぽかんとしている。
「班は七十二班、うちのクラスの高木と同じ班、同じ武器、っと。あってるか?」
 「えっと、はい。」
 葵は、これだけの返事で精一杯である。
「俺が、このグループ担当の伊達(だて)猛(たけし)だァ!頑張れよ!!」
 伊達先生は、再びノートを元の位置に戻し、竹刀を左手に持ち替え、そのごつい手を葵の前に差し出してきた。もはや葵にはどう反応してよいか分からなかったが、流れで握手をする。

「先生!それぐらいならノートに頼らず覚えといたらどうですか~?」
 声の主は翔である。
「うるさいぞ高木ィ!俺ぐらいになるとなァ、物忘れが激しいんだよォ!お前も俺ぐらいになると分かるさ!!そうだろう!みんなァ!」
「「「「「……」」」」」
 先ほどのような、威勢の良い返事はない。
「みんなはまだ十代ですって。」
 ここで生徒たちもどっと笑った。どうやら伊達先生は、ただ恐ろしいだけの教師というだけではないようである。葵は笑うタイミングを逃してしまったが、それが分かってホッとした。

 同じ刀剣類の武器を扱う者同士がグループになっているが、練習はさらに三人から四人グループで行われる、と伊達先生から説明があった。葵は翔とほぼ同じ形状の武器を使うこと、そして同じ班だからという理由で、翔と同じグループに割り振られ、そのグループに移動して整列することが命じられた。

 伊達先生の授業は、とにかく伊達先生の叫び声とともに進行した。準備体操、筋トレ、ランニングと、葵にはややハードなトレーニングが続いた。さらに訓練用の竹刀を使って素振りをしろと言われたときにはあわてた葵だったが、伊達先生が葵の傍について的確にアドバイスを贈ったことで、初心者の葵でも何とかそれなりの形になった。しかし、一時間目が終わる頃には、葵はすっかり疲れていた。
 葵は二時間目開始のチャイムが鳴るまで、腕を目の上に当ててベンチでぐったりと寝そべって休憩することにした。普段ならそんなことは絶対にしない葵だが、とにかく休まないでは二時間目の終わりまで持たないと思ったからだ。
(暑い……。)
 どんどん気温が上がってきていることが、肌でありありと感じられる。

「うきゃあっ!」
 突然、首に冷たい感触が走る。葵はわけも分からず跳び起きる。首には、見覚えの無いハンドタオルがべちゃべちゃに濡らされた状態で乗っかっていた。あわててタオルを引き離す。
「大丈夫?顔、赤いよ?」
 もちろん翔である。さらに翔は、同じベンチに腰掛けてきた。そして、葵の手からハンドタオルをひょい、と取り上げる。
「あ、しょ、うせん、ぱい。」
 今の衝撃で、疲れはどこかへ飛んでいってしまった。今日は、葵の感情がよくどこかへ飛んでいく日である。
「授業、きつくない?」
 葵は、慌てて身なりを整え、翔の方へ向き直る。
「だいじょうぶです。ちょっと疲れた、だけですから。」
 今のでそんなものは吹き飛びましたから、とは流石に言えなかった。
「はは、そっか。伊達先生、怖くない?」
「最初は、怖かったですけど、きっと優しいところもありますね。」
 翔は、葵の言葉に優しく微笑む。
「次は、実戦に近い形の授業……というか訓練かな、になるんだ。とは言っても、実際に殴り合うわけにもいかないから、あくまでも模擬練習だけど。」
「え?」
 実戦、殴り合う、といった不穏な単語に、急に不安になる葵。葵の表情が曇る。
「うん。さっきの一時間目の授業はさ、あくまでも武術としての基本練習っていうだけだからね。」
 翔は、穏やかな口調のまま話しているが、その目は真剣だ。
「僕たちは、亜空間の中で戦うことになる。だから、競技としての剣術だとかの練習をするだけじゃ、あまり意味が無い。『一対一』が原則のスポーツと、亜空間内での戦いは違う。多くの場合、『一対多』だし、どこからどんなふうに攻撃が飛んでくるかも分からない。それに対応できなきゃいけない。それが出来なきゃ、僕らは―――――」
 ざぁっと、生ぬるい風が吹き抜ける。翔のタオルで濡らされた首元だけが、妙に冷たく感じた。

 二時間目開始を知らせるチャイムが、スピーカーから聞こえてくる。

「でもさ、せっかくなら、楽しく練習しような。さぁ、行こうか。」
 翔は、変わらず爽やかな笑顔を向ける。葵は、翔の言葉をただ反芻していた。まるで彼の言葉の続きを拒むように、その先を考えないようにするために。



「よォォォォォォォォォし!みんな水分は補給したか!?二時間目は実戦訓練だ!各グループに分かれて、始めェェェェェ!!」
 伊達先生が、竹刀を振り上げて雄叫びをあげる。伊達先生のキャラクター性は、なかなかに良いのかもしれない。少なくとも、余計な思考を吹き飛ばすという、その意味においては。

「さて、まずは自己紹介からしようか。」
 同じグループで練習するにあたって、まずは挨拶だ。翔がその場を進める。翔の隣には、今朝、翔と朝練をしていたあの男子生徒が立っていた。
「葵、覚えてる?」
「はじめまして、長瀬(ながせ)です。翔と同じクラスで、七十班です。よろしく。」
 真面目そうな印象を受ける男子生徒だった。
「木戸葵です。えっと、中等部三年D組に転校してきました。その、翔先輩と同じ班で、えと、お世話になってます。これから、よろしくお願いします。」
 葵は、ぺこりと頭を下げた。
「そんな緊張しなくていいって。」
 長瀬は、へらりと笑って見せた。長瀬も、翔と同じでフランクな付き合いを好むようだ。
「あの、このグループ、人数少なくないですか?誰か、欠席ですか?」
 葵はキョロキョロしながら、遠慮がちに質問する。他の班は、四人一組である。葵が確認しうる範囲では、少ない班でも三人一組のようであった。
「……。いや、欠席者はいないよ。葵が入ってきたから、三人になっただろ?」
 翔はさらりと答える。しかし、それは少しおかしいのでは、と葵は考えてしまう。
(欠席者がいないとするなら、自分が入って三人ということは、元々翔先輩と長瀬先輩の二人班だった、っていうことになるよね。でも、原則は三人一組か四人一組のはず。いや、ただの考え過ぎ?)

「まぁ、細かいことは気にしないでさ。時間も勿体なし、俺達も早いとこ始めよう!」
 長瀬は、葵の目の前にプラスチック製のカゴ二つと、訓練用の竹刀三本をどん、と置いた。中には、硬めのスポンジ素材でできたフリスビーがたくさん入っていた。
「うん。これぐらいでいこうか。これなら当たっても痛くないし。」
 翔も、穏やかに笑っている。
「えっと、これで何をするんですか。」
 きょとんとする葵。
「翔、見本!木戸さんは少し離れてて。」
 翔が、長瀬と距離を取る。そして、適当に距離を取ったところで、竹刀を構える。先ほどの笑顔とは打って変わって、真剣そのものだ。すると、長瀬は、あろうことかフリスビーを両手に持って、次々と翔に向かって勢いよく投げつけた。葵は、その不思議な光景をただ見つめている。
 翔は、次々と跳んでくるフリスビーを、竹刀で次々と打ち払っていく。それだけではない。打ち払いながら、長瀬に向かって進んでいるではないか。そして、いよいよ長瀬の近くまで来たところで、長瀬が終了の合図をした。
「まぁ、翔ならこんなもんだろ。」
 長瀬は特に驚きもせず、さも当然、という反応を示した。翔自身も、息一つ乱していない。もちろん、葵が見ている限り、翔の体にはフリスビーは一つも当たっていない。
「さて、木戸さんの番だよ。」
 長瀬がニッコリと微笑む。葵は既に気後れしている。
「そんな、あんなの私にできるわけ……」
 ありません、と続けようとしたが、葵の頭に翔の言葉がよぎる。

『どこからどんなふうに攻撃が飛んでくるかも分からない。それに対応できなきゃいけない。それが出来なきゃ、僕らは―――――』

「で、できるだけやってみます。」
 葵は、長瀬から竹刀を受け取り、柄をぎゅっと握りしめる。
「あ、そんなに柄を強く握ったら良くないよ。伊達先生も言ってたでしょ?マメができるし、動きが鈍るよ~。まずは力を抜いて……」
「……はい。」
 練習用竹刀の持ち方から始めなければならない葵だった。

 持ち方を直したところで、翔と同じ位置に立つ。
「最初はちょっとずつ行くから~~!」
 長瀬がぶんぶんと手を振っている。長瀬の喋り方はのんびりとしたものだが、葵は気が気ではない。力を込めて握り過ぎないようにするのと、剣先が触れないように気をつけるのとで手一杯だ。翔は、葵の近くで見守っている。もはや葵には、見られて恥ずかしいと思う余裕も無かった。
「はじめ~」
 緊張感の無い合図だが、フリスビーがかなりの勢いで葵めがけて飛んでくる。慣れていない葵は、フリスビーを目で追うことで精一杯だ。咄嗟のことだったが、何とか竹刀をフリスビーに当てる。葵がやった、と思った瞬間。次のフリスビーが既に迫っており、結局それに対応できずに、フリスビーは葵の手を掠めて行った。失敗した、と思った瞬間、葵はどうしていいか分からなくなって、焦点が定まらなくなり、剣先も大きく振れてしまう。
「葵、気にしないで次!」
 翔の声で我にかえり、何とか前を向く。またフリスビーが二枚、葵に向かっている。一枚目を何とか竹刀に当てたところで、前に出なければと焦り、今度は竹刀をスカ振りした結果、フリスビーは脇腹に直撃した。スポンジ製なので痛みはないが、葵には焦りが募る。それでも長瀬はフリスビーを投げ続ける。
「まずはしっかり前を見て。」
 翔がゆっくりと話す。

(見る……?)

 葵ははっとし、目を凝らす。翔の口調で、葵は次第に冷静さを取り戻す。目も、少しずつではあるが順応してきた。
(そうか。今は一つの方向からしか飛んでこないんだ。しかも、ほぼ同時に飛んでくるのは二つだけ。)
 葵は、竹刀の柄を右手で握り、左手を竹刀の先にあてて、盾のようにして一つ目のフリスビーを弾く。
(翔先輩は全部竹刀で払ってたけど……)
 二つ目のフリスビーは、すんでのところで何とか避けた。
(私には、全部のフリスビーを払うなんて無理だ。)
 二つ目のフリスビーを流したところで、葵は数歩前進する。そして、次のフリスビーを目で捕捉する。

「それだ!」
 翔も、嬉しそうだ。

 あとはそれを繰り返す。もちろん、葵には払いきれないフリスビーもあれば、避けきれないフリスビーもあった。しかし、何度か繰り返すうちに、その数は次第に減少していく。葵も、パターンが読めたことで、前進するために踏み込むタイミングが掴めてきた。少しずつだが確実に前進していく葵。感覚が何となく掴めたところで、長瀬の手元からフリスビーが無くなった。気が付けば、翔が進んだ距離の三分の一ほどは進むことが出来ていた。

「最初は危なっかしかったが、よく持ち直したな。前の学校で何か部活やってたの?」
 長瀬が感心したように葵に問いかける。翔も、すかさず葵に声を掛ける。

「い、いえ、そんな。それに、特に部活なんて……。」
 あまり褒められ慣れていない葵は、下を向くだけである。それでも、少しでも感覚が掴めたことが、葵は嬉しかった。
 掴みかけたものを忘れないよう、繰り返し練習をする。

 二時間目の体育は、あっという間に過ぎていった。

当たり前に来る明日 3

当たり前に来る明日 3

亜空間内での初戦から一夜明けた葵。回り出した学園生活の歯車が、少しずつ加速していく。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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