溺れて依存して
哲学に憧れて、溺れた結果。
私が風船ガムを膨らませたとき、世界のどこかで誰かが風船ガムを割っている。
世界のどこかというのは、遠く遠く離れた地かもしれないし、
私の影が伸びる、そこかもしれない。
不意に小さな破裂音が聞こえる。突然のことに少し驚くが、
自分の膨らませていたガムが割れたのだということに気付き、
一つ、大きな溜息をつく。
頭の中では先程の破裂音が反響し、何度も繰り返されている。
また溜息をつく。溜息をつくと、幸せが逃げるというが、
それが本当なら、たまったもんじゃない。
口の中のガムを吐き出し、息を止める。
目をつぶって、目を開いて、息を吸う。息を吐く。
それを数回繰り返すと、私の中には何もなくなった気がした。
空っぽになった私は、甘ったるい唾液を飲み込み、汚い世界へ飛び降りた。
私とあなたの哲学。
「私はね、死ぬという行為は哲学だと思ってる。」
姉はガムをクチャクチャいわせながら呟いた。
「死ぬといっても、殺されるとか、事故死とかじゃないのよ。
私が哲学だと思うのは、自殺。それだけなの。」
私は頬杖をついてその話を聞いていた。
肩程まである黒い髪、眠そうな目、
そしていつもガムを噛んでいるその口。
彼女の顔は、見ていて飽きない。
「ねえ、聞いてる?」
姉が私の顔をのぞき込む。
「聞いてるよ。自殺は哲学。自殺こそが哲学。ね?」
「そう。とても魅力的で、摩訶不思議。自分を殺すという行為は
どういう心理状況下で行われるのかしら。」
壁にかかった時計を見て、姉は立ち上がった。
あまり広くはない部屋。姉と私の荷物が散乱している。
「掃除しなくちゃね。また散らかった。」
「そうね。私、そろそろ出なきゃだから。」
そう言うと、小さなバックを肩にかけ、長い前髪を手でかき分けて
私に言った。
「自分を殺す時って、きっと自分の中が空っぽになった気になるのよ。
何にもないの。そう思わない?」
「私には分からないな。自分を殺そうと思ったことがないから。」
姉はガムを膨らませ、パンッと音を立てて割ると、
「哲学はね、考えるのは楽しいけれど、追い込まれるとダメになるのよ。
鬼ごっこしてるの。哲学と。捕まったらそこで終わり。
哲学の虜になってしまったら、もう逃げられないの。」
そう話しながら靴を履き、扉を開けた。
「それじゃあ、行ってくるわ。」
「うん。いってらっしゃい。」
一度外に出て行った姉がすぐに戻ってきてこう言った。
「自分の中が空っぽになった時、それが哲学よ。」
にっこりと私に笑いかけて、出て行った。
彼女はその数時間後、ビルの屋上から飛び降りた。
哲学に、捕まって、飛び降りた。
幻聴と、消えた図鑑。依存。
姉の葬儀が終わった。姉の荷物を片付けた。
様々な、面倒な手続きをやっと済ませた。
沢山のことが一度に押し寄せて、曜日感覚が無くなっていた。
私は泣かなかった。姉を尊敬していたし、姉のいない生活は、
乾いて、錆びて、崩れそうだった。
それでも不思議と涙は出なかった。
姉が死んでしまうということを、幾日か前から勘づいていた気がする。
だから、それなりの覚悟が私の知らない間に、私の中で、生まれていたのかもしれない。
昔から私は姉のことが大好きだった。
姉が放つ言葉は、私にとってカラフルな図鑑だった。
何も知らない私に、いくつもの知識と、知っておくべき常識と、
色とりどりの言葉を与えてくれた。哲学も、姉から教わった。
姉を追い込んだものはそれであり、夢中にさせたのもそれである。
私には分からなかった。哲学が、味方なのか。敵なのか。
「おかしいな。考えてるのにわからないんだよ。」
私の口から零れ落ちたその言葉は、空気に薄れて消えた。
教えてもらわないと、わからない。姉に聞かないと、わからない。
酷く、頭が痛んだ。姉がいないことが、恐ろしかった。
こんな時、姉はなんて言うだろう。
「あなたには、考えるということが向いてないのよ。
頭がダメなら、身体を使って。体験すれば、わかるのよ。」
「哲学は…味方?それとも、敵?」
私は姉の声が聞こえた気がして誰もいない部屋で、小さく問いかけた。
「味方かしら。いや、敵かもしれないわ。残念ながら、私にもわからない。」
「どうすればいい?どうすれば理解できるの?」
「さっきから言ってるじゃない。動くのよ。頭がダメなら、身体で。ね?」
動く。身体を使え。そして、体験しろ。頭の痛みが薄れた。
「私にも、わかるかもしれない。」
「ええ。大丈夫。きっと理解できるわ。だってあなたは私の妹だもの。」
姉の声が響く。姉はここにはいないのに、まるでいるかのように
その豊富な言葉で、私を癒す。
「あなたは、もう、哲学に捕まっている。」
姉が最後にこう呟くと、もう声は聞こえなくなった。
私は、哲学に捕まっている。反復する。口を動かして。
捕まったらそこで終わり。そう言っていたのは姉だ。
逃げなければならない。哲学から、逃げなければ。
大きく息を吸って私は立ち上がった。
捕まったから逃げ出す。それだけの話。
風が強かった。耳にかけた髪がバサバサと乱れて、
私の視界を遮った。哲学から逃げる方法は、難しくはない。
哲学に捕まって、哲学から逃げる。姉も同じだったのだろうか。
もしそうなら、私は今、姉に一歩近づけたのかもしれない。
ポケットの小さな包み紙から、ガムを取り出す。
口に含み、ゆっくりと噛み締めると、唾液と共に
胃の辺りを襲う甘ったるさがやってきた。
作られた甘さに、思わず顔をしかめ、ガムを吐き出した。
姉にはなれないなあ。溜息をつく。
ずっとずっとなりたかったもの。憧れていたもの。
それは姉だった。何をするにも姉の真似をしたが、全てうまくいかなかった。
姉のようになりたい。私は深呼吸をして、短い髪を引っ張った。
この髪も、姉の真似だ。結局、不格好になってしまったが。
私は少しくすぐったい気持ちになり、クスリと笑った。
もう少しで姉に近づけるかもしれない。そして、姉のいない生活から、
哲学から逃げ出せる。目をギュッと瞑り、鼻をこすった。
目を開くと眩しかった。自分の中が空っぽになった。
「自分の中が空っぽになった時、それが哲学よ。」
頭の中で最後に姉が言った言葉が響いた。
私の中が空っぽになった時、それが哲学。
伸びをして、先程吐き出したガムを蹴飛ばして、
にっこりと笑ってみた。もう、何もない。
身を踊らせるように、私は、哲学から逃げ出し、姉に一歩近づいた。
溺れて依存して