蒼の海賊~覇王の帰還
主要登場人物
【主要登場人物】
◆◆◆海賊船号◆◆◆
◆アスール・F・ジュニア
…本名アストリア・ファン・カスティーリア。
海賊船号船長。
海賊とカスティーリア王家直系の血を引く元カスティーリア国王。三年で失脚した後、海賊に戻る。別名、七海の覇王。
◆サニン・コート・フーリオ
…海賊船号副長。穏やかで銀髪碧眼の美青年。父は元カスティーリア七将軍の一人。
◆ハルカ
…海賊船号雑用係りで最年少の乗組員。
◆◆◆カスティーリア王国◆◆◆
◆フランコ・カスティーリア九世
…カスティーリア現国王。アスールの異父弟。
◆アーネスト・ギスカール
…カスティーリア七世の異母弟で、現国王の後見。アスールを王座から追った男。欲深く、王座を我が物にするために策謀を巡らす。
◆マリア・ルイーサ
…アスールとフランコ・カスティーリア九世の母
◆アンヌ・シャンパーニュ伯爵夫人
…ギスカールの愛人。
◆◆その他◆◆◆
◆ドミニオン・サンタクルズ侯爵
…カスティーリア七将軍の一人。曲がった事が嫌いな実直な人物。アスールを王座へ導いた人物。
◆トレミー・プレミレール伯爵
…カスティーリア七将軍の一人。
◆キャプテン・ドレーク
…アスールの父。民衆から英雄王と云われた海賊。
◆ルイス・マグナ
…カスティーリア屈指の商人。
◆七海の道化師
…アスールの国王時代、死の淵から救った謎の仮面男
プロローグ
その時、何の冗談だと彼は思った。突然告げられたその内容に、問いただす前に笑いが込み上げてきた。遂に、この国の首脳陣はイかれたかと。
―――貴方は、カスティーリアの国王にございます。
カスティーリア―――、東欧イスパニア半島にある海洋国家、カスティーリア王国だが、彼にとっては言った事もなければ見たこともない国だ。縁もゆかりもない筈の人間が、大国の国王になる―――、どう間違えればそんな発想になるのか。
だが、その男は証拠があるのだと云う。誰が何と言おうと、彼が次期国王だと云う決定的な証拠が。
それは、王家の血筋の次に重要で、次期王位継承者に譲られると云う。これまた、彼には全く身の覚えはなかったが、よくもまあ慣れぬ国王に就いたと、振り返って彼は自嘲的に嗤った。カスティーリアにとっても、前代未聞、青天の霹靂だったに違いない。
「―――御久し振りにございます、少し御やつられになられましたでしょうか?アストリア・ファン・カスティーリア国王陛下。いえ、元陛下とお呼びすれば?」
「フン、もうとっくにくたばったと思ったか?ギスカール」
鉄格子の向こうで、貴族の男が、正直に口元を歪める。『国王陛下』と言いながら、その口調に侮蔑が込められているのは明らかだ。
男の名は、アーネスト・ギスカール。前国王の異母弟である。そもそも、アストリアの国王即位に最も反対したのはこのギスカールである。
「さすがは、海賊出身の陛下でいらっしゃる」
今度は、あからさまに嫌味を言ってきたが、当の国王は眉を寄せただけで激怒する事はなかった。
海賊出身なのは、事実である。故に最初、次期国王と言われて言葉が出るまで時間が掛かった。海賊稼業の男に対して、貴方はカスティーリアの次期国王だと言って、はいそうですかとはならない。
「―――は?」
当然、彼は絶句し、気は確かかと嗤ったのである。
アストリアの父は間違いなく、海賊である。彼にそれを告げた男は、母親ルイーサの名を出した。
二十三年前、嵐の海で難破した王家の船。元々身体の弱く、島で療養していた王女がカスティーリアに帰るまさにその日、船は嵐に遭った。王女の名はマリア・ルイーサ・カスティーリア。カスティーリア王家直系の王女である。
死んだとばかり思っていた彼女が三年後帰国し、その男に言ったのは、ある海賊に助けられ、その海賊と愛し合い、男子を生んだ事。それがアストリアだが、彼はそんな話その時初めて聞かされた。
それは、ギスカールも同じだったのだ。彼は前国王の異母弟であり、次期国王は自分だと信じて疑わなかった。王位は王家直系の男子と決まっている。ルイーサが生きていたとしても、女子に王位継承権はない。その場合、彼女が結婚をして男子を産むかもしくは、国王の異母弟のギスカール公爵かになる。
「海賊に、特別な恨みでもあるのか?」
「いえ、個人的にはございません。ですが、数百年続くカスティーリアの王位が今になって、何故貴方なのか。王宮の作法も暮らしも知らぬ海賊育ちの貴方が、王家直系の血筋と言う事だけで国王とは…」
「初めはそう思ったよ、三年前はな。実際なって更に驚いた。蓋を開けて見れば国の財政は火の車だ。物価は上がり、よく暴動が起きなかったもんだぜ。どおりで、サンタクルズ侯が言うはずだ。カスティーリアの腹の中に国喰い虫がいる、ってな。元気か?彼は」
そのサンタクルズ侯爵が、三年前、彼に貴方は次期国王だと云った本人だが、国王同様彼も、このギスカールに恨まれているだろう。
「他人の心配より、御自分の心配をされたら如何か?例のモノを御渡し下されば、ここから御出ししますものを」
「またか?知らんものは知らん。サンタクルズ侯にも言ったが、身に覚えがない」
「―――陛下、知らない筈がない。《鍵》は、歴代国王に受け継がれ、次期国王へと譲られるもの。故に、貴方は国王となられた。かような所で朽ち果てられるのは貴方の勝手だが、《鍵》だけは御返し頂けませんかな?国王陛下」
国王アストリア・ファン・カスティーリアは現在、囚われの身である。ギスカール率いる反国王派のクーデターにより、即位三年目で王座を追われた彼は、国王とは言い難い地下牢で鎖に繋がれている。
血縁的には、国王とギスカールは甥と叔父の間柄だが、ギスカールにとって目の前にいる男は、王座を奪った海賊でしかない。それだけ、夢半ばにしてその夢を浚ったアストリアの存在が憎かった。
もちろん、国王にそのつもりはなかったが、例え《鍵》を渡した所でギスカールが大人しく野に放つとは思っていない。サンタクルズ侯爵が云う『国喰い虫』とは、間違いなくこの男だなと、彼は確信した。
「知らないな」
「残念です、陛下。ですが―――、私は気が長い方ではないのですよ」
それから、この国王がどうなったのか、ギスカールは知らない。
結局、『鍵』は見つからないままだったが、新国王を立て、混乱を鎮めなければならない。久し振りに訪ねて彼が見たのは、それは彼が知る国王ではなかった。
「―――馬鹿な男だ」
もはや、何も語らぬその姿を一瞥し、ギスカールは踵を返した。
「―――それから、どうなったんだ?」
カスティーリアから南に位置する島で、酒場の客が面白そうに話に耳を傾ける。
「民衆の暮らしは、昔に戻っちまった。貴族どもは贅沢し放題だ。前の王様は、そんな事は許さなかったが、ギスカール公爵に斃されてしまったからなぁ」
「王様を殺したのか?」
「直接じゃなかったようだが、皆知ってる事だ。王殺しのギスカール―――ってな。カスティーリアを狙うなら止しておけ。あまり稼げるとは思えねぇぞ」
カスティーリアでの政変から一年後、さすがに大国となると噂は遠く離れたこの島でも聞こえてくるようだ。
「そのようだな」
男は、飲みかけの葡萄酒を一気に煽って笑った。酒場の店主とは、顔馴染みである。久し振りに定位置に腰を下ろした男に、店主は何も聞かず美味い酒と情報を提供する。
近く、マライヤ海峡を何処の商船が通るらしいなど、いわば海賊たちの情報屋である。
もちろん、男も海賊だった。海賊の中では若い方だろう。少し日に焼けた肌に、伸ばし放題の髪に顔の半分は隠れがちだが、精悍で且つ野生的、漸く見えた右側は以前なかった黒い眼帯があった。
「今度は、長くなるのかい?」
「まぁな。少し七海に出ようと思っている」
「お前さんの、親父のように、かい?七海制覇は、海賊たちの夢だからなぁ」
「じゃあな」と言って男は出て行く。店主の男が、彼の名を聞くのはそれから五年後。七海の覇王―――蒼の海賊として。
第一章 隻眼の海賊
†
その昔、多くの船乗りが大海原を目指した。未知なる大陸の発見、新たな交易航路の開拓、七海と言われる七つの海を渡り、海を制した者はその力と共に長く評される。その中で、一人の若き海賊が嘗て英雄王と云われた海賊キャプテン・ドレークの如き親しみを込めて民衆に絶賛された。七海の覇王―――蒼の海賊と。
七海で最も東にある大海アルクトゥルス。二隻のガレオン式帆船が、その洋上にいた。
「―――今日の収獲は?」
「酒樽二十、穀物百、後ほとんど…、宝石に陶器、どれもサウール国製ですね」
「密輸品だな」
「よくもまあ、これだけ積んでいましまねぇ。噂に聞いていましたが、ここまでとは…」
「た、助けてくれ…、に、荷は全てやる」
振り向いた男に、捕らえられた男たちは震え上がった。どの男も貴族の身なりをしていた。最近は、探検など称して海に出る貴族階級の人間がいる。それだけならまだよかったが、その半数の船は大抵密輸に使用されている。商船ではなく、貴族所有の船だと検閲にかからないと考えての行動である。
しかし、それができる国は限られる。その国の名はカスティーリア王国。東欧イスパニア半島にある海洋国家である。
サウール国とは国交がなく、カスティーリアでは輸入は厳しく制限されている筈だった。
「どうします?キャプテン」
「―――ひぃっ…」
海賊の男は、剣を抜き彼らに突き付けた。伸び放題の髪を白いブラウスの背に散らし、右眼は黒い眼帯に隠されている。年の頃は、二十代後半か三十前半。
「帰ったら、お前たちの親玉に伝えろ。これ以上海を荒らすつもりなら、蒼の海賊が黙っていないとな」
何故、海賊にそのような事が言われるのか理解らなかったが、彼らの船は全速力で自分の国へ向かったのである。
「キャプテン、これであの国が大人しくなったとは思えませんが?」
「同感だ。大元を絶たないとまたやるぞ」
「例のもの、彼らは未だ手に入れていないんでしょうか?」
長年男の側にいる海賊船シー・パラダイス号副長は、男が最終的に何を目指しているのか、理解っていた。海賊に生まれ、海賊として育った男だが、海賊らしからぬ海賊としても今や七海に知れ渡っている。
蒼の海賊―――、その名はアスール・F・ジュニア。
嘗て英雄王と言われた伝説の海賊、キャプテン・ドレークの息子。
海賊らしからぬ海賊は、父親譲りだったが、彼の伝説は始まったばかりである。
彼らはあるモノを、探していた。イスパニア半島の大国カスティーリア王国、特に実権を握っている男が何としても手に入れようとしているモノ。
それのお陰で、アスール二十九年間の半生は波瀾万丈となったが、放っておくことは出来なかった。
「サニン、サントーレ島に向かうぞ。一番詳しい奴の所へな」
「構いませんが、更に大騒ぎになりますよ?」
「あの男は、まだ諦めちゃいない。アレを手に入れないと不安で仕方ないのさ」
彼が云う《あの男》も、アスールが追うのは同じモノだった。使い道は違うが、サニンにもそれが《あの男》に渡れば最悪なのは理解っている。海賊船シー・パラダイス号は、針路をカスティーリア領サントーレ島に向けた。
†
イスパニア半島カスティーリア王国、東欧諸国の中で屈指の海洋国家である。だが、パンを買うのもやっとの財政難に瀕し、国民の中央への不満は高い。
「―――何とか、打開策はないのか?このままでは、暴動よりも再び―――」
「陛下、御安心を。そのような事は起きませぬ。もはや、陛下以外このカスティーリアの王はおりませぬ。反対派が何と言おうと」
「ならばよいのだが」
カスティーリア国王、フランコ・カスティーリア九世は自信を取り戻したのか、嬉しそうに部屋を戻っていく。
「―――ギスカール公爵。またやられました。今度はベルズ伯爵の船です…」
「海賊の仕業か」
「はい。」
「サウール国からの宝石、陶器等全て略奪されました」
「フン。こんな時に、海賊とはの。しかし、何故カスティーリアだけが狙われる?」
「噂では、前国王の呪いなどと…」
「馬鹿馬鹿しい。反対派どもの動きに変わった動きは?」
「ございません…。ですが、我々の動きを読むことが出来るとすれば、やはりこれは―――」
「くだらん…!」
ギスカール公爵は、従者の言葉を再度否定した。五年前、国王支持派と、反国王派による対立が遂に国王の王座陥落まで発展した。クーデターの勃発である。
彼らに言わせれば、王の資格もなく王座を奪った略奪者と国王を避難し、その圧倒的勢力に国王派はなすすべもなく、国王は地下牢に幽閉された。その後、国王は地下牢の中で力付き、反対派は遂にカスティーリアの実権を握った。それが現在の、政権である。
だが、国内には今だに前国王への信頼は厚く、ギスカールは《王殺しのギスカール》と呼ばれている。
アーネスト・ギスカールは、現国王から二代前、カスティーリア七世の異母弟に当たる。疑い深く、強欲と彼に対する評価は若い頃から良くはない。それでいて王座への執着は強く、国王となった異母兄に実子がいなかった事で更にその想いは深まった。それを、である。三年間行方不明だった異母妹マリア・ルイーサ王女が戻った事で、彼の思惑は外れ始める。王位継承は、王家直系が優先されるからである。王女に王位継承権はなかったが、結婚をし、男子が生まれれば別である。
間もなく、マリア・ルイーサは従兄であるフェルメール公爵と結婚し、男子を生んだ。それが現在の国王である。ギスカールは、後見として実権を握ろうと考えたが、その思惑さえ、一人の男に覆された。
―――マリア・ルイーサ様には、もう一人、男子の御子がおられます。
カスティーリア七世の死後、突然の衝撃である。それが、八年前の事だ。更に衝撃的なのは、海賊の血を引いている事だ。
カスティーリア前代未聞の事が、八年前と、五年前に起きた。これ以上の混乱は、ギスカールとしても防がねばならない。幸い、甥である現国王は顔はいいが、判断力に劣り、全てをギスカールに委ねている。甘やかされて育った為、贅沢品には目がない。お陰で財政は益々下降して行く。これまた悩みの種だが、カスティーリアの船を狙う海賊も気になる。
「その海賊、蒼の海賊と言ったか?」
「はい。公爵を御存知の様子でございました」
「顔を見たのか?」
「は、はい。隻眼の男で、年は三十前後かと」
ギスカールには、全く心当たりはなかった。だが、出没した海域を聞いてはたと、足を止めた。
前国王は、海賊上がり。その仲間たちは国王即位後、湾岸警備に就いていたがあの政変が起きると一転、国王解放を迫った。あれから間もなく姿を消したが、五年前の海賊と同じなら次は何処へ行くか。
「サントーレ島か…!?」
だが、何故今頃あの人物なのか。ギスカールは、蒼の海賊の目的が理解らず、嫌な予感を覚えたのである。
†
カスティーリア領サントーレ島は、半日もあれば一周できる小さな島である。今は王国領だが本来はある貴族の領地だ。その貴族の名は、ドミニオン・サンタクルズ。嘗ての王宮重臣の一人である。
「侯爵、マグナ・ファミリアのルイスが来ております」
「ご無沙汰しております」と頭を下げた彼に、サンタクルズ侯爵は笑みを浮かべた。親しき者と顔を合わせるのは何年振りだろうか。
「また、新しい仕事かね?今度は大仕事の用だな、ルイス・マグナ。そなた自身が船に乗るくらいだ」
ファミリアとは、カスティーリア語で商会を意味する。それも、王国屈指の海運商会がファミリアと呼ばれる。ルイス・マグナは、幾つも商船を持つ大商人で、王家にも出入りしていた。
「サンタクルズ侯爵、私は今は一介の商人。あの政変で、私も王宮から追われましたので」
「徹底的に、国王陛下よりの者は排除したからな。わたしも、今や島暮らしだ。二度と船に乗る事はあるまい」
「実は、私の船が二三日前に《シー・パラダイス号》と出会ったとか」
サンタクルズ侯爵の目が、見開かれた。
「懐かしい名前だな。だが、《シー・パラダイス号》はもう動かす者はいない筈だが…。勘違いではないのかね?」
「私もそう言ったのですが、間違いなく《シー・パラダイス号》だったと。しかも船長と名乗る男が貴方をよく御存知の様だったと」
八年前、その船の船長は船を降りている。少なくともその男を船から降ろした事に関わったサンタクルズ侯爵の声は震え出した。
「《シー・パラダイス号》は、あの方の船だぞ?ルイス、あの方以外、私の事は知らない。私もそうだ。なのに、再び動き出した?夢のような話だな」
「はい、全く。では、彼は何者なだったのでございましょう?」
「まさか、その船長の名前アスールと言うのではなかろうな?」
「…はい、そうですが?」
サンタクルズ侯爵の、顔が見事に固まった。聞けば年齢も、ピタリと彼が知る男に一致した。
もちろん、《シー・パラダイス号》がどんな船かサンタクルズ侯爵は知っている。伝説と言われた海賊、キャプテン・ドレークの息子が駆る海賊船だと。その息子がその後波乱の半生を送り、死んだ事も。
―――生きていた?
考えられる事は、それしかなかった。もし、本物ならの話だが、こんな所で燻っている場合ではなかった。会わなければならない、もう一度。カスティーリアの為に。
問題は、彼らを追い出したギスカール公が気づいたかだ。
この島は、あれから厳重にサンタクルズ侯爵を監視している。国王派先鋒だった彼は、今も危険人物扱いであった。動けば、間違いなく今度は謀反の疑い有りと監獄行きである。
少し考えこんでいた彼の耳に、「海賊だ!」と言う騒ぎが届いた。
急いでカーテンを開き、沖を見たサンタクルズ侯爵は、はっきりと確認した。
―――《シー・パラダイス号》…!
実に八年ぶりに見る姿であった。
サントーレ島湾岸警備の人間は、真っ青になっていた。
「何をしている!?撃て!!」
「警備隊長、無理です!我々の大砲では威嚇程度しか…」
「馬鹿者!これ以上海賊に舐められているわけにはいかん」
「はい、直ちに…」
「申し上げます」
「何だ!?」
「海賊船より、日没までにサンタクルズ侯爵を引き渡せと」
「ど、どういう事だ…?何故、サンタクルズ侯爵なのだ?」
「さ、さぁ」
彼らには、海賊とサンタクルズ侯爵の繋がりは理解らなった。出来るだけ、戦いたくないと言う彼らの思惑は、ここはサンタクルズを差し出して引き取って貰おうと傾き始めた。
これが、今のカスティーリアである。人の命より我が身が可愛いと思っている。それが、アスールの策にまんまと嵌ったと気づかず、警備隊長は「言う通りにしろ」と告げていたのである。
†
―――相変わらず、大胆な事をする。
久し振りの海の上で、彼は笑った。正面から堂々と乗り込んで来るのは、今も昔も彼が知る男一人。撃たれるのを理解っていても、決して逃げない。その船を久し振りに見て、彼はそう再認識したのだ。その船の上に彼は今いる。説教の一つでもしてやろうかと口を開きかけ、振り向いた途端言うのを辞めた。
「私は幽霊を見るほど、耄碌した覚えたはないのですが」
「サンタクルズ侯。言っておくが、そう簡単に枯れてもらったら困る。俺を巻き込んだ責任、最後まで果たして貰おうか」
それは、サンタクルズ侯爵の知っている以前の《彼》ではなかった。
髪は広い背に流れ、右眼には眼帯、以前にも況して鋭さを増した眼光が父親ほど年の差のサンタクルズ侯爵を射抜いている。
「巻き込むとはとんでもない。私は現在でも、私の決断は正しかったと思っております。しかし―――、まさかこうして再会できるとは」
「放っておこうかと、最初は思った。やっと昔に戻れたんだからな。だが、あの男も放ってはおけなくてな。あんたの云うように、とんだ《国喰い野郎》だぞ、アレは」
《国喰い野郎》とまで云った覚えはなかったが、サンタクルズ侯爵は口許を緩めた。
「やはり、私の判断は正しかったようですな?」
「その、敬語よせ。海賊相手にカスティーリアの貴族が変だろう。この《シー・パラダイス号》には、何も知らない奴だっているんだぞ」
「生憎、私は貴方のように器用ではありません」
アスールが、これから何をしようとしているのかサンタクルズ侯爵には理解った。確かに、巻き込んだのかも知れないが、挑まれた戦いを途中で放棄する男でないのは、既に知っている。
そんな二人から離れた所で、成り行きを見ていた者がいる。
《シー・パラダイス号》副長サニン・コート・フーリオと、雑用係の少年ハルカで、ハルカの方はとても不思議そうな顔だった。
「サニン副長、御二人は御知り合いなんですか?」
「ええ。正確にはキャプテンの母上繋がりですが」
「キャプテンのお母さん?」
上目遣いになるハルカに、サニンは笑みを零す。どんな想像をしているのか、理解るからだ。
アスールの性格、思った事は誰構わず言うので、よく睨まれる。決してコミニュケーション力に欠ける訳ではないが、腹に一物ある人間には特に、苦手とされる。寝起きも悪く、起こしに言った乗組員が朝から扱かれて、しまいにはアスールを起こすのは副長サニンだけとなった。
だが、それでも《シー・パラダイス号》の面々は彼を慕い、今も航海を共にしている。
「キャプテンを産み、三年後帰ってしまわれたのでキャプテンは、母上の顔は御存知ないんです」
「帰ったって―――…」
「決して、キャプテンを捨てた訳じゃありません。キャプテン・ドレークが帰るよう説得したんです」
「一体どうして―――」
「カスティーリア王女だったからです」
「え…」
ハルカの思考は、停止した。
「カスティーリアでは、王位継承は王家直系が最優先でしたから、マリア・ルイーサ様は、王位を継がなくてはなりません」
「でも、あの国に女王様が誕生したなんて聞いてませんが?」
「その通りです。おや、意外に詳しいですね。ハルカ」
カスティーリア王位継承―――、全てはここから始まる。
当時、国王カスティーリア七世と王妃の間に子はなく、次期国王は国王と同腹の妹マリア・ルイーサか、国王の異母弟アーネスト・ギスカール公爵かで紛糾した。直系の血を引くマリア・ルイーサだが、女子は国王にはなれない。アーネスト・ギスカールは国王の異母弟だが、王妃の出ではない事と、性格に問題があるとこの当時から言われていた。
「あの時は、仕方なかったのです。カスティーリアを護る為には、ギスカール公爵には任せられませんでした。ルイーサ様は、キャプテン・ドレーク殿を愛しておられました。このまま海の上で御暮らしの方が幸せになるのではと、思うほど」
「八年前にも聞いたぞ」
「これで理解った筈です。あの方が王座を握ればどうなるか。このままでは、カスティーリアは自滅しましょう、国王陛下」
サンタクルズ侯爵は、遂にその名を口にした。五年前、王座を追われ幽閉された国王カスティーリア八世。白い骸と成り果てたと言われたその国王の本名は―――、アストリア・ファン・カスティーリア。アスールの本名である。
「俺はもう国王じゃないぞ。それに、その国王はもうこの世に存在していていない筈だぜ?」
「いいえ、貴方は現今でもカスティーリア国王陛下です」
死んだ筈の国王を目の前にして、サンタクルズ侯爵は「どうして生きているのか?」とは問わず、柔軟に反応した。
「サンタクルズ侯、俺は《鍵》を持っていない。ギスカールに散々聞かれたが、俺には誰かから譲られたとか受け取ったと云う身に覚えは全くない」
カスティーリア国王絶対の証であると云う《鍵》。歴代国王に譲られるそれは、この八年間所在不明であった。
「あの時は、確証はございませんでした」
驚かされる事には八年前に体験したが、この告白は驚くより呆れた。
「あんたなぁ…」
「理解っております。私はあの時、貴方には国王たる証拠があると云いました。ですがそうも云わなければ、本当にカスティーリアは喰われるでしょう。正しい判断力と統率力、更に人望ある国王―――、残念ながらギスカール公爵にも、現国王陛下にもございません。それに、困った人を見捨てられないキャプテン・ドレーク譲りの性格は理解っておりましたので」
「それ―――詐欺って云わないか?」
お陰で国王となり散々、ギスカールの憎しみを一人買う嵌めになったアスールだが。
「陛下、本当に身に覚えが?」
「あんたに嘘言ってどうなる。ないな。第一、親父さえ俺の母親については何も云わなかったかだぞ」
「キャプテン・ドレークから何か受け取ったとか」
「サンタクルズ侯、それこそないぞ。まぁ、この船を貰った以外ないな。王家の事なら、あんたの方が詳しいだろう?」
「残念ながら私も知らないのです、陛下。《鍵》は、国王以外見ることは出来なかったのです。どんな色でどんな形なのか。故に最も王家に近いギスカール公爵でさえ知らないのです」
《鍵》の手がかりは、消えた。だが、探し出さねばならない。
カスティーリアをこのままにしておけない。
「今度は、更に厳しくなりましょう。あのギスカール公爵と対決する事になります」
「海賊が、戦う事を怖れていたら何もならないだろ」
アスールは今度は自らの意思で、国王としてカスティーリア王国へ戻ろうとしていた。
第二章 故郷アルコバサ
†
カスティーリア王国の王宮では、ちょっとした騒ぎになっていた。サンタクルズ侯爵が海賊に浚われ、数日後にカスティーリア領プシュケー島に帰されたまでは良かった。問題は、俄かに反対派貴族が動き始めた事だ。
「―――だから言ったのだ…!サンタクルズを自由の身にするなと」
「申し訳ございません。公爵様」
「しかし、解せぬ。海賊どもの目的は何だったのだ?サンタクルズを浚らい金を要求するでもなく、無傷で解放したとは」
―――嫌な予感がする。
公爵アーネスト・ギスカールは、未だ五年前に死んだ国王が生きていることを知らない。
「そんなに心配?」
カーテンの陰で、一人の貴婦人が扇を開いた。
「もうここにお越しになるのは、危険かと、シャンパーニュ伯爵夫人」
「アーネスト。まさか、今度はこの妾を排除するおつもり?」
「それこそ、まさかです。我々のアレが今や―――」
伯爵夫人と呼ばれた女性は、ほほほと扇で口許を覆う。
その顔はヴェールに隠れていたが、纏うドレスも身につけている宝飾品もかなり高価なものだ。
「―――本当に悪い男」
二人の関係は、伯爵夫人が公爵をファーストネームで呼ぶほど親密だが、それを知るのはいない。況してや、ある計画が進行していた事も。
「申し上げます。ベルーナ伯爵がお目通りをとお越しでございます」
「―――伯爵、何用かね?」
「殿下、アレは何処にあるのですか?」
「アレ?」
「《鍵》に決まっております。国王陛下に譲られる筈の《鍵》、今何処にございますか」
「…そなた、この私に無礼だぞ!王家の事に口を出すとは…」
「殿下、アレがなければ王宮内をこれから纏めるのは難しゅうございます。反対派が今も、我々と対立しているのはそれが原因。いえ、それよりも―――」
「伯爵、それよりも、何だ?」
「あ…、いえ…」
視線を泳がせた伯爵に、ギスカールは軽く舌打ちをした。
五年前、前国王を正式に王座を譲られていないと反国王派が起こしたクーデター。例えそうであっても、海賊出身の国王だったとても、王家直系最後の一人を幽閉にし、死に至らしめた事にその心は揺れているのだ。
「どいつもこいつも怯えおって…!誰のお陰で、王宮重臣になったと思っている?王殺しなのは、そなたたちも同じであろう?」
「そ、それは…」
「探すのだ、《鍵》を。《鍵》さえてに入ればどうにでもなる」
くっくっくっと嗤うギスカール公爵に、伯爵は背筋がゾッとなった。果たして彼についたのは良かったのか。そう思ったが、もう遅い。反対派が嘗ての勢力を取り戻せば、今度は自分達が前国王の如くなる。牢に囚われ、白骨となった前国王のように。
「アーネスト、反対派がもし先に《鍵》を手に入れたらどうなるのかしら?」
「ありえませんな。例え手に入れたとしても、我々に渡す以外使い道はありませんからな。頼みの綱である前国王はもうこの世にはいません」
「では、《鍵》は何処にいったのかしら。前国王は、本当に何も知らなかったとしたら、カスティーリア七世陛下が何処かに隠されたと言う事ではなくて?」
考えられない事ではなかった。ギスカールの異母兄であるカスティーリア七世は、慎重な人物であった。誰が信用できるか見抜く能力もある。《鍵》の事など忘れ、このまま王権を支配すればいい。彼の中で、何度そんな思いが駆け巡っては消えたか。だが、カスティーリア建国数百年、歴代国王に受け継がれて来たそれは、そう簡単に人々の記憶から消えないものだ。いわば、カスティーリア国王としての絶対の証とされる《鍵》は、受け継がれてこそ国王として全国民から認められる。
五年前、前国王が王座を負われたのも《鍵》が正確に受け継がれなかったのが一因であり、反対派が今だギスカールたちに意を唱えているのも、現国王が《鍵》を受け継いでいない事による。
だが果たして、あの慎重な兄が後に混乱すると理解って《鍵》を隠すだろうかと、ギスカールは思う。
やはり、異母妹マリア・ルイーサが、先に産んだ前国王に渡したとしか思えないのである。
まさか―――?
ギスカール公爵の、顔が不意に強張った。前国王は知らないと言っていたが、もし間違いなく受け取っていたら、あの政変の時、誰に託すか。
―――蒼の海賊…。
海賊出身の前国王。その仲間が当時、カスティーリア領海にいた事を考えれば―――。
だが、この考えは正しくはない。何故ならアスールは本当に身に覚えがなかった上に、その仲間と共に今、《鍵》を探していたのだから。
†
海賊船シー・パラダイス号は、七海第三番目ルートサーバーにいた。サントーレ島でサンタクルズ侯爵を解放し、カスティーリア軍が出て来る前にカスティーリア領海を全速で一日で抜けるという、《シー・パラダイス号》にとっては、初めての無茶な全速である。
「キャプテン、幾ら何でも今回はキツすぎます。マストが一本折れましたよ」
「あそこで、カスティーリアとぶつかってみろ。マスト一本じゃすまなかったと思うぜ」
「カスティーリアはそんなに強かったでしょうか?」
「王国七将軍がいた時は、な」
《シー・パラダイス号》副長サニンは、更にこめかみを揉んだ。
「それは、貴方が国王だった時では?」
正確には、五年前までである。王国七将軍は、その名の通り七人の貴族で構成され、国王を支える重臣たちである。その中に当然、あのサンタクルズ侯爵もいたが、その七人全て国王支持派だった為、政変以後王宮重臣を解かれ、サンタクルズのように島送りになった者もいる。
「サニン、確かこの辺じゃなかったか?」
「アルコバサ―――ですか?もう直ぐ見えて来る筈ですよ」
「八年振りだな」
アスールは、感慨深げに笑んだ。
アルコバサは、ルートサーバーに浮かぶ島の中で最も大きい島だ。元は無人島で、どの国の領土ともなっていなかった島をアスールの父、キャプテン・ドレークが拠点とし、それと共に、アスールの生まれた島である。
港に着くと、一人の人間が出迎えた。
その人間は、《シー・パラダイス号》から降りてきたアスールを見て暫く固まった後、深々と頭を下げた。
「御無事の御帰還、何よりにございます。国王陛下」
アスールは顔を顰めたが、嘗て王宮で何度も顔を合わせて、信頼を寄せていた者にとっては、今でもアスールは国王なのであった。
「隠居したって聞いたが?」
「そうしようかと思いましたが、やはりカスティーリアが気になりましてなぁ。そんな時、蒼の海賊と名乗る海賊がカスティーリアの船を襲ったと聞きまして、蒼の名に反応する者は嘗ての七将軍なら多いですぞ。国王陛下」
元王国七将軍トレミー・プレミレール伯爵は、口髭を蓄えた口元をにいっと綻ばせた。
蒼は、カスティーリア語でアストリア。俗称ではアスールと言う。アスールの母、マリア・ルイーサが海の蒼と言う意味でつけたのだが、その名前の由来を知っているのは王国七将軍とサニンだけである。それを知ってか知らずか、アスールはカスティーリア脱出の時、本名でも俗称でもなく蒼の海賊と名乗った。
「あの男は?」
「ギスカール公爵なら気づいておられないでしょう。アストリアと言う名の国王は死んだ―――と思っているのですからな。《陛下》」
「あんたもか?俺はもう国王じゃないぞ」
陛下と強調する伯爵に、アスールは眉を寄せた。
「ではこのまま、カスティーリアを永遠に離れると?」
プレミレール伯爵もまた、アスールの性格を知っていた。目の前で困っている者を放っておけないと云う、海賊としてはどうかと言う厄介な正確にアスールは我ながらため息をついた。
「いや。《鍵》を探し出す。ギスカールに渡すと更にあの国はとんでもない事になる。七海は無法の海と化するぜ」
「同感でございます。アストリア・ファン・カスティーリア陛下」
「だからそれはやめろと言っただろう…」
恭しく膝を折る伯爵に、アスールの何度目かのため息は漏れた。
†
アルコバサに来て三日目、潮騒を聞きながら久し振りにゆっくりと床で微睡んでいたアスールは、誰かに起こされて飛び起きた。
「…親父?」
「全く、もうお天道様上に上がっちまったぞ」
ドレーク・フェルナンデスは、少し呆れ顔で息子を見ていた。
「…変な夢を見た」
「へえー、宝島でも見つけたか?」
「いや、女の夢だ」
英雄王と知られる海賊キャプテン・ドレークこと、ドレーク・フェルナンデスが数秒絶句した。
「遂に女に目覚めたか?いやぁ、いい事だ」
「あのなぁ…クソ親父。その能天気頭、皆に晒してないだろうな?」
「父親を捕まえてクソはないだろう。で、誰なんだ?その女」
「知らん。後ろ姿だったからな。」
「―――そうか…」
そこで、現実に引き戻された。
未だ少年の頃の記憶だった。いつも陽気なドレークが、息子の見た夢に少し寂しそうな口調だった。
あの時―――、母親の事を聞いておけばよかったかと、アスールは今にして思う。顔も名前も知らなかった母。この歳で、今更母親が恋しくなったと云う訳ではないが、彼女もまた波乱の人生を歩んだのだ。
このアルコバサで、ドレーク・フェルナンデスとマリア・ルイーサは過ごし、アスールが生まれた。
もし嵐に遭い、船がこのアルコバサで難破しなければ、二人は出会う事はなかっただろう。身分も捨てる覚悟だったと云うマリア・ルイーサを、ドレークは帰るように諭した。
理由は、アスールにも理解った。海賊らしからぬお人好しの海賊ドレーク。ルイーサの生存を聞いて探し出した人間から王国が滅ぶと聞いて、彼はルイーサと別れた。慣れぬ生活と、いつ縛り首に晒される男の側よりも生まれ育った地で暮らすのがいい。彼女の帰りを多くの国民が待っている。どれほどの葛藤があったのかアスールには理解らないが、ドレークは決してルイーサを嫌いになった訳ではない。あの寂しい口調の意味が漸く理解る。
息子の夢に現れたのは、ルイーサだとドレークは言わなかったが、愛していたのは間違いない。
そのカスティーリアへ、二人の息子は再び行こうとしている。カスティーリアの行く末を大事とした海賊ドレークは、あれからいつも王国がある方角の海を見ていた。
―――アスール。俺は一度だけ後悔をしている。
あの時、ドレークは腐敗し始めたカスティーリアから、母を奪い返したいと思ったのだろうか。既に亡くなっているとも知らず、十年経っても忘れる事の出来なかった男の最初で最後の後悔。
愛するものの幸せを願って別れたと言うのに、結果は逆に傾いた。
―――お前は後悔するような人生送るなよ。
故に―――アスールは決めたのだ。腐った者の手に奪われた王座奪還。王国の行く末を案じた海賊らしからぬ海賊の息子は、その父の想いを引き継いで再び国王を目指す。
カスティーリアへ戻れば、こうして自由に故郷へ帰る事はもうないだろう。
「―――キャプテン。《シー・パラダイス号》修理、食料補充、完了しています」
「行くか」
蒼天下、《シー・パラダイス号》の旗、獅子の髑髏旗が翻る。
五年前、蒼の海賊として再出発した時、カスティーリアの旗、黄金の獅子を皮肉ったものだ。
かくて、アスールは《鍵》を探して再び七海へと漕ぎ出した。
第三章 七海の道化師
†
その日は、珍客がやたらと来る日であった。普段の行いを決してよかったとは言わないが、遂には人でないモノまで現れた。
最初は、死者の亡霊のオンパレードである。直接ではなかったが死者としたのは間違いなかったから恨まれても仕方ないとしてもだ、そのモノは余りに大胆な事を言ってきた。
「悪い話ではないだろう?」
「最近の死神は、変なものを要求するんだな」
今にして思えば、アレは本当は何者だったのか。そのモノは一言、七海の―――道化師と言った。派手な羽飾りの帽子に、まさに道化師の仮面を付け、鍵の掛かったその場をスルリと抜けて来たのだから、人でないのは疑いない。
《シー・パラダイス号》は現在、七海の難所と云われるマライヤ海峡に到達しようとしていた。
「さて、何が出て来るやら」
「キャプテンが言うと、冗談に聞こえません」
「俺は冗談は言わん。幽霊船の一つでも出ても、俺は驚かないが」
隣にいたハルカが、思わず飲みかけの珈琲を吹き出した。
「で、出るんですか?副長」
「幽霊船ではありませんが…」
さすがのサニンも、どういえば良いのか笑顔が引きつっている。
何かあるのは、間違いないようだ。それも、、ハルカにとっては初めての経験となるであろう事が。
マライヤ海峡は、船乗りの間では別名、《パンドラの海》と呼ばれている。一見穏やかで美しい海峡だが、何度か船が呑まれ難破している。船乗りの腕と度胸を試され、攻略したものだけが、その先の七海第四に進める。
「親父がよく言ってたよ。七海には魔物が棲む。親しくなれば良き仲間となる、ってな」
「引き返しません?」
「無理ですよ、ハルカ。キャプテンは一旦決めたら決して変えませんから」
海賊船に乗ったのが運の尽き―――、サニンはいつもの笑顔でそう言った。
だが、《シー・パラダイス号》は海賊船でも、他の海賊船とは違う事をハルカは知っている。
襲うのはどれも、悪徳と言われている商人の船や、贅沢な暮らしで民を顧みない一部貴族の船ばかりだ。奪った荷は金に変え、食糧を買う。パンを買うのもやっとの民衆の事情を国王時代に知ったアスールは、その食糧を特別ルートで各国に提供している。彼が、カスティーリアだけではなく七海に点在する国々の民衆に七海の覇王と慕われる所以である。
だが、マライヤ海峡に標的となる船は今回はなかった。イグアス王国領とサウール国領に挟まれた海峡は、至って普通に見えた。
だが―――。
「キャプテン、舵が…っ」
誰も触っていない舵輪がゆっくりと回り始める。
「―――お前の仕業だろう?七海の道化師」
「ふふ、よく理解ったねぇ」
アスールの背後で、いつの間にか船縁に座っていた人物が笑っている。いや、正確には笑っていたのかその表情は理解らない。何故から、その顔はその名の通り、道化師の仮面を付けていたのだから。
†
その頃カスティーリアでは、ある噂が流れた。国王フランコ・カスティーリア九世の出自についてである。母は王家直系の王女マリア・ルイーサ、父は従兄フェルメール公となっているが、問題はその母親の方だという。
「また下らん噂が流れているようだな?フェルヴェール」
「はい。国王陛下が王家直系の血を引いていない、とか」
「フェルヴェール、正直なのは時に身を滅ぼすぞ」
「前国王のように―――、ですか?叔父上」
「あの男が、正直かどうかは知らん。」
「恐ろしい方ですね。叔父上にとっては前国王も甥。しかも王家直系ですよ。」
「王家直系が何だと言うのだ?力のある者が近くにいながら、兄も、重臣どももルイーサの子を次期国王と考えた。フン、今にして見れば力など国王になくとも、王座にはつけるがな」
アーネスト・ギスカールには三人の甥がいる。
一人は前国王、二人目は現国王フランコ・カスティーリア九世、そしてもう一人は目の前にいるフェルヴェールで、実姉の息子だ。
ギスカールは、王家を憎んでいる―――、フェルヴェールの個人的感想だが強ち間違ってはいないだろう。
彼も王家の血縁だ。カスティーリア国王の息子として生まれだ。だが、母が王妃ではなく、公爵夫人だと言うのが兄と弟を隔てた。何故なら母は既に夫がいたからだ。名をサヴォワ・ギスカール。そう、ギスカール公爵家の前当主である。
彼は父に愛された記憶がない。当然だ。前ギスカール公にとっては実子ではない上に、国王の子。国王にとっては、実子でも不義の末に生まれた子だ。
ギスカールは、その頃から力をつけ、見返してやろうと思った。力こそ全て―――、その魔力に魅せられた彼は身内の情を捨てた。いまの国王も彼にとっては操り人形。王座はもはや、彼の手中にある。
「私は、貴方を敵にするほど愚かではありませんよ。ウェーラ伯爵家を私の代で潰せませませんからね」
前ギスカール公爵の妹が嫁いだウェーラ伯爵家は、元は目立つような家ではなかったがフェルヴェールの娘ルシーが王妃として選ばれると、忽ち重臣へと出世した。
彼が何を望んでいるのか、明らかだ。時期国王の誕生だ。そうなれば、国王の外戚として更に力をもつ。
現国王が、王家直系の血をひいていようといまいといいのだ。フェルヴェールは既にある事に気づいている。しかしそれを口にする事はしない。彼もまた叔父ギスカールの如く、権力に魅せられた一人だ。
そんなフェルヴェールと入れ違いに、青い顔をした一人の貴族が入ってくる。
「―――公爵、例の海賊の正体ですが…」
「理解ったのかね?ベルナール伯爵」
「船長の名は、アスールと云うとか…」
「アスール…?」
「公爵、前国王陛下のお名前は確かアストリアでしたな?アストリアは、カスティーリア語で蒼。アスールは陛下となられる以前の名」
ギスカールの顔が、一気に凍りついた。
「―――馬鹿な!?生きていたと云うのか!?あり得ん。私は、この目で死体を見ているのだ。白骨となった死体をな!あの厳重な地下牢から出られぬ。伯爵、確かめるのだ。その男を」
「直ちに」
それまでの自身が、揺らぎだした。
生きている筈がないのだ。常識では。
では、自分が最後に前国王を見たアレは誰だったのか?
…続く。
蒼の海賊~覇王の帰還