超人旋風記 (5) その2

超人旋風記 (5) その2

異世界の物語は嫌いではない。
しかし何一つ鍛錬もしていない主人公が、突然異能の力を持ち、大活躍するなんてあり得ないと思っている。
その力が誰かに与えられたものだとしても、使いこなすために血の滲むような訓練が要る筈だ。僕も大して丈夫でもなかった身体を、徹底的にいじめ抜くことで強くしてきた。
だから僕の描く主人公にも、そうさせたい。そうあらせたい。

結構な長編になります。気長にお付き合い願えれば幸いです。

〈賢者の城〉に突入した剣吾たちは別々の行動に移る。海兵隊とともに進む剣吾と若林を、手負いのヨハンソンが待ち受けていた。
そして超人兵士を自らが討たんと意気込むレンジャー部隊の前に、あの藤堂誠治が立ち塞がる。
そんな中、若林は相馬の見つけた隠し部屋の中にて、この島に戻ってきた理由である、1人の女との再会を果たすのであった。
変わり果てた姿の、自分の妻との…。

決戦も次で佳境に入ります。ちょっと時間が掛かるかも知れません。
https://www.facebook.com/atsushi.yoshimo/about

第5章 賢者の城 その2

第5章 賢者の城 その2

     (7)

 …通廊は広かった。異様な広さだった。4車線幅の高速道路並はあった。
 ここまで広いと、少々の照明では寒々しく感じられるばかりだった。27名の海兵隊員は2組に分かれ、その両幅を中腰になって、背にする壁以外の全方向に注意を払いながら前進を続けていた。
 2列の先頭を歩くのは剣吾と若林だ。通廊の各所に潜むかもしれない敵の、不測の攻撃を受けた場合、最小限の被害で済むのが2人だからだ。代わりに2人が通廊の角や、壁の窪みに差し掛かった時には、後ろの全員がさあっと展開し、銃を構えて援護の態勢を取る。
 左側の壁に張り付く側の、ほぼ中央から指示をだすのはスミスだ。タイガー迷彩の戦闘服の上にSOEのベストを着け、スリングで吊るのは採用が決まったばかりのM16A3だ。銃の機関部の上の邪魔なハンドガードを取り外せるばかりか、ナイトヴィジョンスコープ装着も可能にした代物だ。今はプロ・ドットのアルゴンレーザー照準器エイムポイントを装着している。ランスキーを始めとする数名も、同じものを装備していた。
 ブリスコが前を歩く若林に言った。
「煙幕が欲しいよな」
 陽気な彼も、迷彩を施した顔や首にびっしょり汗をかいていた。
 一応は頷いて見せたものの、若林は思った。煙幕はマズい。行動を隠せた気分になれるかも知れないが、こちらも目を守るために大掛かりなマスクが必要になる。結果、視界が狭まり、襲ってくる敵への反応が遅れるのは間違いない。しかも大半の超人兵士たちは煙幕など気にもしないだろう。
 それに、ここ――レーダー施設の地下――はまだいいが、ブラックペガサス本体の近くには、対侵入者用としては最大級の防衛網があると言う。若林はそれを知る立場にはいなかったが。
 煙幕など張るだけ無駄だ。ここはただ、ひたすら慎重に進むしかないのだ。
 ブリスコの後ろの隊員が言った。「他の部隊は上手く侵入できたかな」
「どうかな…」
 もちろん連絡など取れる筈もない。この基地の内部はブラックペガサスの許す一定周波数での通信しか出来ず、ここを離れて久しい若林たちにその数値がわかる筈もなかった。瓜生や相馬の安否もわからぬままだったのだ。
「何とかみんな、生きててほしいが」
「特にSEALSの連中にだけは、な」
 若林は頷いた。
 SEALSにはカタパルトから潜入後、そのまま地下に向かう役目が割り振ってあった。
 目的は基地の全動力を賄う原子炉の停止だ。
 そこに向かうにはカタパルトからが一番早い。しかもセシウムやらガンマ線やらの影響を受けないようにするために、知識と経験を持つ技術職員が完全防備の防護服を着て担当している区域だ。超人兵士たちも普段はなるべくウロウロしないように指示が出されている。防衛システムは働いているが超人兵士の待ち伏せはないだろう。だから瓜生はそこには若林や相馬たちを回さず、SEALS単独で突入させるという作戦を立案したのだ。彼らには、荷物にはなるが現在合衆国で最も信頼の置ける防護服も持たせてあった。
 もっとも侵入路入り口のカタパルトには、御同類たちが待ち構えていた筈だ。そこをどれだけ犠牲を少なく突破できたのかが、今後の作戦成否の鍵ともなるだろう。
 SEALSが原子炉停止に成功すれば、対人防衛網の大多数は機能を失う筈だからだ。
 失敗した際は相馬と若林が戦列を離れ、地下の原子炉に向かうという二段構えの手も、瓜生は提示した。しかし正直、有効な手立てだとは思えなかった。超人兵士の本隊、それに何よりも藤堂が現れるとすれば、ブラックペガサス本体に向かっているこちらだ。今でこそバラバラではあるが、瓜生、相馬、若林、剣吾のいるこちら側だ。自分たちがこの隊列を置いていける余裕はないだろう…。
 …広大な面積を持つ射撃場が見えてきた。その奥は工房を兼ねる武器庫だ。
「射撃場にも武器庫にも入るなよ」若林が振り返り、確認した。「あんたらは通廊に添って迂回路を取るんだ」
 工房の奥にはエレベーターがある。それを使えば地下の深部に通り抜けられる。
 しかしエレベーターは海兵隊員6、7人を詰め込むのが精一杯という狭さの上、降りた場所はホールになっていて、待ち伏せされるのには絶好の場所なのだ。
 レーダー施設で2人を剣吾が片づけたとは言え、侵入後、誰とも出くわしていないこと自体おかしい。今度こそ必ず待ち伏せがある。若林はそう踏んでいた。だから細部を全然詰めていない瓜生の作戦に、若林が部分修正を加えたのだ。
 しかし海兵隊の面々はなかなか同意しなかった。
「エレベーターを使えば時間の節約が出来るんだろ?」ブリスコが言った。「ここに突入するまでで丸々1時間使ってる」
 若林は手首のGショックを見た。確かにそうだ。午前11時54分。
「迂回した場合には何分余計に食うんだ?」と訊いたのはスミスだ。
「走れば15分」
「俺たちはその15分も惜しい」
 しかし若林も引かなかった。「あんたたちとはホールのそのまた下の階で合流できる。囮をやるなら俺と剣吾の方が犠牲も少なくて済む。派手に陽動も出来る」
 剣吾は黙って頷いた。若林はスミスに階段を使っての道順を教え、ルガー突撃銃を構えた。剣吾とともに武器庫の前に立った。ランスキーがスミスを窺った。その目が言っていた。このまま行かせていいんですかい?
 スミスは苦々しげにランスキーを見た。言うな。俺だって仁義くらいは心得てる。
 自動ドアが開いた瞬間、テンポの遅い重々しい銃声とともに、ライフル弾が通廊にまで浴びせられた。マシンガンの掃射だ。剣吾、若林ともに電光の反射神経でそれを避けた。自動ドアの陰に隠れた若林が小さく唇を歪めた。
 武器庫の中から甲高い声が聞こえてきた。
「帰ってきたな! 裏切り者のイルボンめが!」
「ユンか…」
 剣吾は若林を見た。〈四鬼〉のユン・ジュヨンか…。
「入ってこいイルボン! 蜂の巣にしてやる! 貴様の体重を銃弾で十割増しにしてやるぞ!」
 若林はやれやれと首を振り、剣吾に言った。「お前は海兵隊の連中と迂回路を行け」
「あんたは?」
「あいつと撃ち合う」
「本気か?」
「ああ、ユンの狙いは俺1人だ。あいつ、俺のことを目の敵にしてるからな。理由はまあ、それなりにあるんだけどな」銃弾が扉の壁を削った。若林は首を竦めた。「俺が奴と派手に撃ち合ってれば、下のフロアで待ち伏せてる敵がいたら、そのうち引き寄せられてくるだろ。いい囮になれるってもんだ」
「独りで残って大丈夫なのか?」
「危なくなったら逃げるさ。俺にもやることが残ってるんでな」
 そう言った若林は不安げな剣吾を尻目に、するりと武器庫の中に入っていった。
「来たなイルボン。待ちくたびれたぞ」
 削りに削られ、閉まらなくなった自動ドアの陰から中を覗いてみた。天井からウィンチが下がり、クレーンが数台並び、工作機械や電動工具が無造作に転がる武器庫の中央で、ランニングシャツに迷彩服を羽織り、M240L汎用機関銃を抱えた男の姿が見えた。床の隅に積み上げられた木箱の上に仁王立ちになっている。髪を短く刈り上げた色白の顔は、奇妙に扁平だった。鮫のものにも似た小さな目が、若林を睨んで離さなかった。
「随分嫌われたなユン。俺がお前に何か恨みでも買ったか?」
「とぼけるな! 貴様がイングマルに色目を使ったことはわかってるんだ!」
「俺はそっち方面の趣味はないんだけどな」
「貴様とイングマルが第3カタパルトでいちゃついてるところを、俺は見てるんだ!」
「あれは言い寄られただけだ。丁重にお断りしたよ」
「黙れ! 俺からイングマルを奪う奴は、誰であっても殺す!」
 叫ぶや否や羽織っていた迷彩服をかなぐり捨て、ユンはM240の銃口を上げた。襷掛けに幾重にも体に巻いていたベルト弾倉を一巻き外し、乱射を開始する。作動不良の多いM60に取って代わる銃として1977年から配備が始まって以来、今も米軍始め、各国の軍隊から絶大な信頼を寄せられるM240だ。ベルト弾倉が尽きさえしなければ、銃身を交換し続ける限り延々と使うことが出来る。
 ベルト弾倉のクリップと空薬莢とが宙を舞い、7.62ミリ旧NATO弾がばら撒かれる中、若林はそれを避けて走り出した。ルガーAC556を撃ち返す。ユンも12キロもあるM240を抱えたまま、驚くべき身ごなしで5.56ミリ弾を躱し、木箱の上から飛び降りた。
 広いとは言えない武器庫を駆け回りながらの2人の撃ち合いが始まった。
 そこまで見届けた剣吾は、射撃場前でまだ動かない海兵隊の面々を振り返った。
「行こう」
 半分途方に暮れた顔の海兵隊員たちは、その場を動こうとしなかった。ブリスコを含む何人かが、スミスと頷き合った。
「どうしたんだ? 行こう」
「そいつはマズいと思うんだ」ランスキーが言った。剣吾の目の前で、M16A3の安全装置を外す。怪訝な顔の剣吾に銃を掲げて見せ、「俺たちにだって一応チンポは付いてるんだけどな」
「何の、話だ?」
「なあ、いくらあんたらが並外れた兵士だからってよ、俺たちをただの腰抜け扱いはしないでくれねえか」
「実は、俺とラルフはさっきあいつに助けられてな」ブリスコが武器庫を指した。
 その背後の海兵隊員が手を挙げた。「俺たちもだ」
「それに対して俺たちゃ上陸してからってもの、いいところなしだ。あんたらに助けられっ放しだ」
「それが作戦なんだから、仕方ないだろう」
「ああ、納得はしてる、軍人としてはな。しかしなあ、俺たちゃ軍人である前に、人間なんだよな」
「受けた恩一つ返さねえままのクソ野郎で終わるってのは、どうにも我慢できねえんだよ」
 ブリスコと顔を見合わせたランスキーはニヤリと笑った。武器庫前に走り、M16を撃ちまくりながら中に飛び込む。3人の海兵隊員が続いた。ブリスコが弾痕に変形した自動扉の陰から援護射撃を始め、隊員2人もそれに加わった。
 スミスは苦虫を噛み潰した顔でオオ、シーッと呟き、ブリスコや他の海兵隊員たちに命じた。
「援護射撃を絶やすな! 弾が切れたらすぐに後ろと交替しろ! 他のカスどもは何をグズグズしている! とっとと後ろにつかんか!」
 時と場所をわきまえず、剣吾は思わず微笑んでしまった。
 援護を受け、武器庫内に先陣を切って突入したランスキーは、前転とともにウィンチ操作機の陰に飛び込んだ。そこからM16を撃ちまくる。他の3人も散開し、それぞれ遮蔽物に駆け込む。
 四方からの攻撃にユンが怒声を上げた。「汚いぞイルボン! 助けなしじゃ、俺と撃ち合うことも出来んのか!」
 短躯を生かして敏捷に逃げ回るユンだったが、若林を始めとする5丁の銃に狙われ、撃たれ続けているのだ。脚、尻、背中、脇腹と、次々に被弾する。怒号を上げながら倒れ込んだユンは、まな板の海老のように体を跳ねさせ、M240を辺り構わず撃ち返した。
 4丁と、外からの援護射撃に被弾箇所を増やされながらも、ユンの応射はただの盲撃ちには終わらなかった。木箱の陰にいた海兵隊員はヘルメットを撃ち抜かれ、引っ繰り返った。クレーン台座から顔を出したもう1人は、その顔を吹っ飛ばされた。入り口から援護を続ける2人も撃たれた。
 パンクした腹から鮮血を溢れさせ、のたうち回る海兵隊員をスミスたちが押さえた。やはり自分が入るしかないか…、剣吾は刀の鯉口を切った。
 次の悲鳴はその剣吾の背後で上がった。
 振り向いた剣吾の目の前に、迷彩服毎切断された脚が落ちてきた。床にざあっと音を立て、血が降り注ぐ。
 海兵隊員たちは無意識に道を開けていた。その奥から現れた長身の男が、まっすぐ剣吾に近づいてきた。ヨハンソンだ。上半身裸の右肘から先に、義手が金属の輝きを放っている。
「待っていたぞ日本人!」
 どうやら射撃訓練場で出番を待っていたようだ。海兵隊員2人の首を組紐で引っ掛け、瞬間的に縊り殺し、左手に握った例の暗器、『手の内』に握りをもう1人の眉間に打ち込んだヨハンソンは、剣吾の前に立った。義手を振り下ろす。その掌底から飛び出した20センチ強の刃が、頭を後方に下げた剣吾の黒髪数本を切り払う。
 下がりざま腰を落とした剣吾は、刀を引き抜いた。だが…、
 まだ遅い…!
 弧を描いた刀を寸前で躱したヨハンソンは背後に飛んだ。待ち受ける海兵隊員たちの間に飛び込み、義手の刃で銃を跳ね上げ、うち2人を『手の内』の握りで打ちのめす。鋼鉄製の握りはヘルメット毎1人の頭蓋骨を砕き、もう1人の胸を穿った。M16を跳ね飛ばされ、グロッグ17自動拳銃に手を遣ったブリスコの横を、突風のように駆け抜ける。
 ブリスコの首の付根から血が噴き出した。子供の落書きに描かれるような形をしたグロッグが、天井に向けて9ミリパラベラム弾を吐き出した。強張った顔のブリスコはその場に崩れ落ち、スミスの悲痛な叫びが通廊に木霊した。
 振り返ったヨハンソンがその叫びに顔を輝かせた。
 剣吾の中で何かに火が点いた。
 剣吾は刀の切っ先を地面すれすれに下げた。腰ももう一段落とす。地擦り正眼の構え。
 その低い構えのまま、剣吾はヨハンソンに進み寄った…。
 …既に400発を撃ったユンのM240は銃身が真っ赤に熱されていた。旋条も焼き鈍されてしまったのだろう、吐き出される7.62ミリ弾の着弾点もバラバラになりつつあった。しかしユンは乱射を止めない。雄叫びとも笑い声ともつかぬ声を上げ続け、若林と海兵隊員に銃弾を浴びせ続ける。
 突入した4人のうち2人が殺られ、ヘルメットを削られたランスキーも昏倒していた。動いているのはユンと、これまた銃弾を体中に食らった若林だけだ。
 2人とも動きを止めない。武器庫の床を円を描きながら走り回り、置かれた木箱を蹴り砕き、ぶら下がるウィンチを払いどけ、隅の作業台を飛び越えながら続く2人の撃ち合いは、既に我慢合戦の様相を示していた。少なくとも20発の弾丸をあちこちに受けた若林のサラトガスーツはボロボロだった。走り回る床に、血が川のような縞模様を残した。出血のし過ぎで身体が重い。
 ユンも同様だった。流石に動きにもキレを失くし、顔や首などの急所に弾を食らわないでいるのが精一杯といった様子だ。
 それでも遂に最後の時がやってきた。
 作業台に飛び上がったユンの足がもつれた。自分もふらふらながら若林はそれを見逃さず、ルガーAC突撃銃がユンの右膝を撃ち抜いた。グキッという音を立てて、膝が不自然な方向に曲がる。倒れた拍子にM240のベルト弾倉が給弾口に引っ掛かった。
 そのユンに、続け様に弾丸を叩き込もうとした若林だったが、ルガー突撃銃の弾倉も空になっていた。ベルトに挿した予備弾倉も尽きていた。腹立たしさに唸った若林は突撃銃を捨て、腰のキングコブラを抜いた。銃弾を浴びた肩や腹の痛みを堪え、左の掌で撃鉄を起こしながらのファニングで4発を撃つ。
 西部開拓時代に使用されていたコルト・ピースメイカー・リボルバーの撃ち方だ。ダブルアクションのリボルバーには必要ない撃ち方だし、相馬などは撃鉄と掌が傷むから止めろと言っている。しかし若林は子供の頃に憧れたジュリアーノ・ジェンマをどうしても真似たかった。この撃ち方に耐えられるから、S&Wよりも堅牢なコルトのリボルバーが好きなのだ。
 詰まったベルト弾倉を引き剥がそうとするユンに、4発の357マグナム弾全てが命中した。しかも今回持参した弾丸は、相馬の特注してくれた炸裂弾だ。命中と同時に先端の雷管が、弾頭に埋め込まれたペトン爆薬を弾けさせる。当たりどころによっては灰色熊をも殺せる拳銃弾。あまりの破壊力に、若林も大規模な戦闘でしか使いたがらない代物だ。
 それを食らったユンの右腕は肘から吹っ飛び、腹、腰、首の付根がパンクした。開いた口から呻き声の代わりに血が溢れ出した。
 シリンダー弾倉に残る2発で止めを刺そうとした若林の視界の隅に、武器庫入り口の光景が飛び込んできた。後退るヨハンソン、追う剣吾。
 マズい…!
 ヨハンソンはどんな戦いの際にも、バックステップ以外、引き下がる真似をしたことがない男だ。ヨハンソンは剣吾の腕を知っている。そして若林は、そんな相手と対峙した時のヨハンソンの習性を知っていた。あのヨハンソンが下がるからには、理由は一つしかない。
 罠だ。
 若林は重くなった身体を引き摺るように走り出した。
 残されたユンが口を開き、何かを叫ぼうとしていた。若林への呪詛か、ヨハンソンを案じてか。頸動脈から大量の血を失い、腹筋を破裂させられた今は、まるで力が入らず、掠れ声も出てこなかったが…。
 …2度、3度、地擦り正眼から繰り出される逆袈裟の一閃を、顔に薄ら笑いを浮かべたヨハンソンは巧みな後退で避け続けた。4撃目は義手の掌から飛び出た刃で受ける。その足は一歩、一歩と下がっていく。一見、剣吾の攻撃に押されれいるかに見える。徐々に後方に、海兵隊が迂回路にする筈だった通廊の一角に向かって。
 しかしヨハンソンの計算し尽くした呼吸と歩幅は、誘い込んでいることを剣吾に悟らせない。無心に刀を振るう剣吾の頭にあるのは、より速く、もっと速くという思いだけだ。
 下がる一方だったヨハンソンが一際表情を輝かせた。僅かに一歩、足を踏み出す。
 その一歩が、基本に忠実に進められていた剣吾の足運びを微かに狂わせた。ヨハンソンの速さを知っている剣吾は身体を半身にし、攻撃に備えた守りに入る。だが、ヨハンソンは飛び掛ってこない。躊躇うフリをして、再度下がる。今度はフットワークを駆使しての速度で。
 剣吾はそれに引き込まれた。刀身を斜めに倒し、半身のままヨハンソンに向かっていく。ヨハンソンの手が『手の内』しか持っていないことを見越しての突進だ。
 そして加速した剣吾の目には、通廊の角に張り巡らしてあったタングステン合金の極細ワイヤーが、今度も見えなかった。
 極細ワイヤーはタイルの出っ張りや飛び出たボルトを利用して、互い違いの蜘蛛の巣状に張られていた。張った当人ヨハンソンはその隙間を悠々と縫って、後方に抜けていた。しかし剣吾はそうは行かない。気配を察した時には既に、身体の一部がワイヤーに触れていた。つき過ぎた勢いは簡単に止められるものではない。作務衣の袖や肩、ゆったりしたズボンの裾、そして生身の手首、腕、そして首に、ミクロン単位のワイヤーが食い込み始める。
 剣吾の視界の隅に、赤い文字が明滅した。本来なら『殺戮せよ』という命令となって、彼を殺人機械に変える筈の文字。
 しかし剣吾は文字の出現を、意志の力で捻じ伏せた。今の僕は殺人機械じゃない。
 二度と殺人機械には戻らない…!
 剣吾の作務衣の襟を背後から掴んだ手があった。武器庫から剣吾以上の速度で猛然と走ってきた若林の右手だった。
 自慢の腕力をフルに使い、剣吾の勢いを食い止め、後ろに引き戻す。しかしその代わり若林は、自分についた勢いを止めることが出来なかった。ただでさえ雨のように浴びた弾丸を未だ全身に溜め込んでいるのだ。無理矢理止めようとした足はもつれ、大きくバランスを崩してしまう。
 若林は剣吾と入れ替わりにワイヤーの蜘蛛の巣に突っ込んだ。
 サラトガスーツが切れた。腿を大きく、そして深く切られた若林は前のめりに倒れ込んだ。顔に向かってくるワイヤーを避けようと上げた左肘に、極細のギロチンがズブズブと食い込んでいく。
 肘を切断し終え、若林の額を輪切りにしようとしたワイヤーに閃光が走った。
 引き戻されながらも振り下ろした剣吾の刀が間に合ったのだ。一閃は四方から伸びたワイヤーを纏めて切り下ろしていた。輪切りにされずに済んだ若林がその場に倒れ伏す。断たれたワイヤーの先端が、その頬や首筋に触れ、浅い傷を作っていく。
 剣吾がヨハンソンの最後の誘いに乗ってから、2秒過ぎていなかった。その瞬間内だからこそ、若林は剣吾に追いつき、そこまでの速さだったからこそ、剣吾の刀は若林を切り刻む寸前のワイヤーに届いたのだ。
 大きく舌打ちしたヨハンソンは、今度は後退りしなかった。切断されたワイヤーの間を抜け、左手の『手の内』の組紐を投げる。空中で見事な輪を作った組紐が、剣吾の首を括ろうと迫る。もちろんそれも誘いだ。剣吾の気が組紐に向いた瞬間、義手の掌から飛び出した刃で剣吾の首筋を掻っ切る積もりだった。
 ヨハンソンの肉薄を待つ剣吾の左半身が後ろに下がった。
 ほとんど無意識だった。身体がヨハンソンに対し、横を向いていた。左八相の構え。腰を固定して振る刀は腰を中心に弧を描くが、半身を引きながら振る太刀筋は直線を描くのだ。
 柳生流の八相の構えは太刀を地面と水平にする。通常の八相が刀をどうしても一度振り上げねばならぬのに対し、柳生流はその位置から真っ直ぐ対手に疾走(はし)る。最速に達した刀は切っ先がかすっただけで組紐を切断し、そのままヨハンソンの右脇の下から胸を斬り上げていた。
 義手の刃を繰り出す暇は与えなかった。剣吾の刀は勢いをそのままに、ヨハンソンの左肩に抜けた。
 先生、今のはどうですか…?
 己の可視領域を凌駕されたことが信じられなかったのだろう。ヨハンソンは目を見開いたまま動かなかった。その胸から上が、ズルリとずれた。立ち尽くす両足の上に、その胸から上が落ちてくる。
 噴き上がった血柱は、5メートルはある通廊の天井にまで達した。天井や壁に模様を作った血飛沫は、剣吾や若林の服や顔にも飛び散った。それを合図に、凍りついていた海兵隊員たちが動きを取り戻した。M16群が吠え、胸から上を失ったまま、まだ立ち尽くすヨハンソンの胴体を穴だらけにしていく。だが、ヨハンソンと若林、剣吾の動きに――正しくは彼ら全員に今、目の前で起こったことは見えていなかった。気がついた時には、ヨハンソンの胸から下だけが立っていたのだ――、半ばパニック状態で引き金を引く彼らに精確さは望むべくもなかった。ヨハンソンに当たるより壁や床を貫く弾の方が多く、剣吾と若林にまで迫る銃弾があった。
 ヨハンソンの頭部を狙った筈の銃弾も、当然ながら逸れた。その手前に転がる若林の左腕をズタズタに引き裂く。
「止めろ!」
 怒鳴った剣吾が弾を避けながら若林の腕に駆け寄った。しかし最早腕の形すら留めていなかった。
 ようやくヨハンソンの胴体が倒れた。
 若林当人は通廊の壁にもたれ、苦しげに息をしていた。右手は左腋下に挟まれていた。腋下を走る大動脈からの出血を止めているのだ。その横にしゃがみ込んだ剣吾が、己の作務衣の左袖を裂き、紐を作ろうとしていた。所々ワイヤーに切られた布はすぐに裂けはするのだが、焦る剣吾はそれを細く出来ない。若林が自分のベルトを顎で指した。差してあったスパイダルコのナイフの波刃を起こした剣吾は、ようやく細く出来た2枚の布を撚り合わせ、丈夫な紐を作った。若林の左肘をきつく縛り上げる。
「済まない!」
 剣吾の叫びは半ば悲痛だった。若林は苦痛を堪えつつ、薄く笑った。「ヨハンソン相手に生き延びたんだ。儲け物さ」
「でも…」剣吾は肉塊と化した若林の左腕を見遣った。あれだけ切り口が鋭利だったのだ。もしかしたらくっつけられたかも知れない。並外れた回復力を持つ超人兵士だ。そのチャンスはあったと思われた。
「済んだことだ。頭とか胴体とか輪切りにされててみろ。くっつけるどころじゃなかったぜ」
 と、突然本当に笑い出す。何事だと言いたげな剣吾に、「済まん、鷹だったらこんな時に、変な替え歌でも作っただろうと思ってな。『輪切りのワタシ』とか…」
「あんたって人は、全く…」
 剣吾の背後で、海兵隊員たちが茫然と、2人を見守っていた。きまり悪げなかおをして2人を窺う数人は、若林の腕をミンチに変えてしまった連中だと思われた。
 気にしなくていいからな…、と若林が声を掛けようとした時、その海兵隊員たちがさあっと左右に分かれた。若林は瞠目し、剣吾も振り返った。
 通廊の床に幾筋もの血の筋を残しながら、ユンが這ってきたのだ。
 炸裂弾に腹筋、腰椎を破壊され、片腕を失ったその体に、這ってくる力が残っていただけでも驚きだった。執念のなせる業でヨハンソンの死体の側に辿り着いたユンは、転がった肩から上を抱き寄せ、出せない声で泣き始めた。唇を貪るように吸う。
「くそおっ! ブリスコ! 返事をしろ!」
 叫んだのは、昏倒から覚め、何とか無事だったもう1人と武器庫から出て来たランスキーだった。動かないブリスコに駆け寄り、揺さぶる。その横に、さほど強くない照明の中でも明らかに蒼白な顔になったスミスが立っていた。無言で剣吾と若林の横を歩き過ぎたスミスは、ヨハンソンの首を抱き締めるユンのこめかみに、M16の銃口を押し付けた。3点射でその頭を吹っ飛ばす。
 灰色の脳漿を撒き散らし、ユンの頭は消失した。
 畜生、ブリスコ…、ランスキーは物言わぬブリスコの丸顔を抱え、涙を流した。起きろブリスコ、お前のカミさんに何て言えばいいんだよ…。
 数人の同僚がランスキーの肩を叩いた。ガッデム…、と呟いたスミスが、他にも転がった死体を見遣った。ミニガンの出迎えで6人、地雷の群れで4人の犠牲で済んだのに、たった2人を相手にしただけで10人を減らされてしまった。沈痛な顔で部下の1人1人に別れを告げるスミスを、剣吾も若林も黙って見守るしかない。
 そのスミスが、血走った目と引きつった顎の線を若林に向けた。
「これで決まりだな。武器庫のエレベーターを使おう」
「ちょっと待て。さっきも言ったが待ち伏せが…」
「だからだ。確かに危険かも知れないが、今のあんたに囮役を任せられるか」スミスは若林の左肘に顎をしゃくった。「怪我してるところ悪いが、案内役を頼むぞ」
 頷いた若林は剣吾に支えられるように立ち上がった。左腋下を押さえたまま歩き出す。未だ泣いているランスキーも仲間に促され、銃を手に立ち上がるしかなかった。残った18名とともに、武器庫の中に消える。
 …剣吾、若林、海兵隊の面々が立ち去った直後だった。
 寒々しさの残った通廊の、数人分の鮮血に模様をつけられた壁の1箇所が開いた。縦横80センチくらいの穴から、3本のロボットアームが伸びてきた。アームはユンの残骸を押しどけ、目をカッと見開いたまま息絶えるヨハンソンの肩から上を掴み…。


     (8)

 …宿舎の地下階段から〈賢者の城〉奥へと侵入したレンジャーの選抜部隊は、瓜生の指示など全く無視して、基地の最深部を目指していた。
 45名いた隊員も、地上での戦闘で12名を失った。そして突入後に5名を。しかし隊長フィルビーは決して、部隊を休ませようとも下がらせようともしなかった。とにかく奥へと突っ走る。及び腰の他の特殊部隊など当てにせず、得体の知れない化物の手助けなど借りず、ガキ殺しのテロリストどもを殲滅する。それが出来るのは自分たちだけだと信じていたからだ。
 遭遇した十数人の作業員、技術者は皆殺しにした。2人の超人兵士も、激しい銃撃戦の末に片づけていた。そのまま島に3つあるレーダー施設のうち、人工の山に設けられた東レーダー管制室の横を抜け、そこからまた地下に降り、体育館にも似た施設に達した。瓜生の話からするに、格闘場だと思われた。この真下がSEALSの突入したカタパルトになっている筈だった。基地内部のおよそ4分の1まで過ぎた計算になる。
 立ち止まったフィルビーがCAR15カービンを左腰に構え、さっと右手を挙げた。部下たちが左右に散開する。陽動を行う5人が各々の武器を構え、格闘場の前に歩み寄り、残り20名が入り口の左右に張り付く。
 自動扉が開くと同時に、待ち伏せていた敵が陽動の5人に銃弾を浴びせてきた。5人もM16やM249SAW分隊支援機関銃で応射する。ベルギーのFN・MINIMI機関銃をアメリカで制式化したSAWはM16と同じ5.56ミリNATO弾及び弾倉を共有できるだけではなく、ベルト弾倉で200発を連射できる。それでいてM60などより3キロも軽い。
 2名を失ったものの、陽動は成功した。待ち伏せの超人兵士3人が格闘場に姿を見せたのだ。入り口に張り付いていた本隊の突入が形成を一気に逆転させる。一斉射撃により1人が蜂の巣にされ、もう1人は背中一杯に銃弾を食らいながらも奥の出口から逃げ出した。ベレッタAR70小銃を取り落とした1人が取り残された。金色の髪と胸毛を汗で光らせた、大柄な超人兵士だった。
「手を出すな!」
 引き金を引こうとした隊員たちを制し、黒人兵士オーエンスが前に出て来た。横目でフィルビーを窺う。フィルビーが頷いたのを確認したオーエンスは、構えていたBARを他の隊員に預け、白い歯を剥き出して笑った。長身を屈め、両膝を内側に曲げ、両腕を顔の前に構えた。他のレンジャー隊員たちが2人を囲むように下がった。
 ここまで来るのに出会った超人兵士2人には手を出し損ねた。今度こそ素手で、噂の不死身超人と手合わせするチャンスがやってきた。
 超人は俺なのだと証明するチャンスが。「サムライの情けだ。名前だけは聞いといてやる」
 オーエンスの意図を量りかねていた超人兵士だったが、「ドノヴァンだ」と名乗りはした。
「言葉が通じて良かったぜ。オーケイ、ドノヴァン。今から俺とお前とで殴り合いをしよう」
「何だと?」
「俺たちが殴り合ってる最中は、もちろん仲間は手を出さない。どうだい、乗るかい?」
 ドノヴァンは呆気に取られてオーエンスを見つめた。「こっちが貴様を殴り殺しちまったら、どうなるんだ?」
「そりゃあ、蜂の巣にされるだけさ」
「割に合わねえな」
「どっちにせよ殺されるんだぜ。どういう風に死ぬかはお前に決めさせてやるよ」
 不審の表情のドノヴァンだったが、それでも無意識の裡に、ボクシングの構えを取っていた。
 だが、最初の一撃はオーエンスによって放たれた。
 腿に強烈な右のローキックを食らったドノヴァンの方が驚いた。超人兵士になって以来、生身の人間に先制を許したのは初めてだった。膝の骨までが軋み、続いて放たれた右フックで、セラミックの硬さを持つ頬骨が凹んだ。
 繰り出したジャブの連打は、流し受けと外受けによって全て流され、遮られた。外受けと同時に2撃目のローキックでドノヴァンのバランスを崩したオーエンスは、流れる摺り足で左に回り込んだ。よろめくドノヴァンの左膝に、狙い澄ました左足刀を打ち込む。メキッ、という音を立て、ドノヴァンの左膝が妙な方向に曲がった。思わず腰を落としたその顔面に、右膝を叩き込む。
 大量の鼻血を噴きながら上体を逸らしたドノヴァンの胸に、オーエンスは全体重を掛けた正拳突きをぶち込んだ。
 並の人間に打てば肋骨を砕き、心臓にまで達する正拳だ。これまで何度も実戦で試してきたのだ。オーエンスは絶対の自信を持っていた。右拳は確かにドノヴァンの肋骨を砕いた感触を得ていた。
 しかしアスファルトの厚さと硬さを持つドノヴァンの胸筋は、オーエンスの拳が心臓にまで達するのを許さなかった。胸の中央に食い込んだ拳をそのままに、オーエンスの右腕を捻り上げようとする。オーエンスは驚愕の表情を浮かべ、腕を捻られながら右の後ろ蹴りでドノヴァンの左膝をもう一撃し、鮮やかに腰を回して左のハイキックを放った。
 スピードに乗った蹴りをこめかみに食らったドノヴァンだったが、数歩下がっただけだった。常人なら頭蓋骨が陥没していたろう一撃も、脳震盪すら起こせなかった。利かない左膝を庇って、またも構えを取る。そのタフネスぶりに、息を呑んだオーエンスの動きが瞬時止まった。ドノヴァンはその隙を見逃さなかった。膝が利かないとは思えぬ速さで接近し、オーエンスの右脇腹をえぐる。
 続くストレートをダッキングで躱したオーエンスが、裂帛の気合を発した。ドノヴァンの眉間、鼻柱の真下、顎の上、鳩尾に次々と拳、肘、膝を叩き込む。巨漢ドノヴァンは鼻血をスプリンクラーのように撒き散らし、きりきり舞いした挙句、とうとうぶっ倒れた。
 しかしまだ意識を保っていた。床を掻き、脚をもがかせ、立ち上がる。
 オーエンスの気合の質が変わった。これには壁際に下がり殴り合いを見守っていたフィルビーが驚いた。オーエンスが、怖がっている…?
 オーエンスの左貫手がドノヴァンの喉に刺さった。大振りのストレートを避け、両手の親指をドノヴァンの耳の下に食い込ませる。ドノヴァンの口と両耳から大量の血が溢れ出た。
 次いでオーエンスの右足が高々と上がった。踵に鉄板を仕込んだマッターホルン社製ブーツが、蹲りかけたドノヴァンの後頭部目がけて振り下ろされる。鈍い音がして頸骨がひしゃげた。
 しかし尚もドノヴァンは死ななかった。
 急所という急所を打たれ、潰され、床に長々と伸び、細かな痙攣を繰り返し、それでも手足はまだ立ち上がろうと床を引っ掻いていた。フィルビーの一声で5丁の銃が吠え、その痙攣を停止させた。
 いつもなら獲物を横取りされると文句だけでは済まないオーエンスが、今ばかりは何も言わなかった。正しくは言えなかったのだ。BARを抱え直すその顔には、生まれて初めて感じた恐怖が刻み込まれていた。ドノヴァンのパンチを弾いた腕のあちこちは腫れ上がり、黒い肌をますます黒ずませていた。ストレートが掠っただけの耳は僅かに変形していた。フックを食らった脇腹はもっと痛むのだろう。横顔は、付き合いの長いフィルビーが見たこともない程に厳しかった。
「何て化物だ…」
 人間相手なら恐らく無敵を誇るオーエンスの空手だ。急所8箇所をやられ、それでも死ななかった超人兵士の生命力に、フィルビーもオーエンスも畏怖を禁じ得なかった。圧倒的な援護が周囲になかったら、戦いを優位に進められたかどうかさえ怪しくなってくる。
 正直、多少甘く見ていた。ふと気になったフィルビーは、部下に向かって怒鳴った。呼応した2人の部下が、最初に撃ち殺した1人に確認の数発を撃ち込んだ。果たして、蜂の巣になっていたそいつは完全には死んでいなかった。フィルビーの背筋に寒気が走った。思わず自分たちがやってきた方向を振り返る。先に射殺したと思っていた2人も、もしかして生きてるんじゃあるまいな…?
 その通りだった。止めの銃撃を終え、一息つこうとした部下2人が殴られたように吹っ飛んだ。
 通廊後方にて蜂の巣にした筈の超人兵士が、ベレッタBM59自動小銃を構えて立っていた。
 顔半分は破壊され、左眼球は飛び出し、撃たれた腹からは腸がはみ出していた。それでもそいつは物凄い笑いを浮かべ、ベレッタ自動小銃をレンジャーに向けて掃射した。
 3人目の兵士がズタズタにされ、壁に叩きつけられた。フィルビーの一声に瞬間的に散開した隊員5人が発砲した。裂けた腹に集中砲火を食らったそいつは、ほぼ胴体を千切られ、今度こそ絶命した。しかし恐怖に駆られたレンジャー隊員たちは、いつまでもそいつに銃弾を撃ち込み続けた。
 少し離れて見守っていたオーエンスに、フィルビーが近づいた。オーエンスが悔しげに言った。「俺の拳をあれだけ食らって、殺れねえとは…」
 フィルビーは頷いた。「こんな奴らがうろうろしてるとはな」
 あの那智と若林とかいう2人の化物が、オーエンスを目の前にして落ち着き払っている筈だ。狂犬とまで呼ばれた俺たち相手に、奴らは渡り合う自信があったのだ。いや、渡り合うどころではない。あの那智はパリで、敵の超人兵士を――つまり今みたいな奴を――何人も片づけたという話だった。認めたくはなかったが、あの時オーエンスとあの2人との間に割って入った海兵隊のスミスの判断は正しかったのだ。
「素手じゃ手に余る相手らしいぜ」
 呟いたフィルビーに、オーエンスが忌々しげに応えた。「いいや、次は殺る!」
「いくらお前でも、冬眠前のグリズリー相手はきついんじゃねえか?」
「いいや、次は必ず仕留めて見せるぜ」
 己の空手への自信に僅かとは言えない程に生じた刃毀れを、何としてでも取り戻そうというオーエンスの意地だったのであろう。
 その挽回のチャンスはすぐにやって来た。
 それも、最悪の相手とともに。
 つい先程までのように、威勢よく走ることが出来なくなった。半ば恐る恐る格闘場を後にしたレンジャー23名は、仔を産んだ猫以上に警戒しながら進み、広い通廊に出た。
 そこで1人の男と遭遇した。
 小柄で、丸太のような体型をしたそいつは、通廊のど真ん中に立っていた。日本人か中国人だと思われた。服装からするに作業員や技師ではないようなのだが、自動小銃どころか拳銃すら携行していなかった。深く冠った黒いキャップの庇の下から、眼鏡の丸顔が、取り囲んだレンジャー部隊を一瞥する。
 兵隊に出食わして慌てた様子もなく、逃げ出そうともせず、かと言って手出ししてくる風にも見えないそいつの様子に、レンジャー兵士の方が毒気を抜かれた。逃げ回る技術者や科学者を平気で射殺した彼らが、この男に対してはなぜか引き金を引けなかった。
「間の抜けた顔をしてやがるぜ」オーエンスが言った。「こいつ、作業員じゃねえのか?」
 頷きながらフィルビーは首を傾げた。どこかで見たような面だな、こいつ…。「ジャクソン、テイラー、何か隠し持っていないか調べろ」
 男が生白い両腕を左右に挙げた。無抵抗の意思を示すポーズかとも思えた。2人のレンジャー隊員がM16銃口でその頭を小突こうとした一瞬、男の目が眼鏡の下で光ったのを、フィルビーは見逃さなかった。頭の、いや胸の、全身の警報が鳴った。それもとびきりな危険を知らせる奴だ。
 伸ばされた男の両腕が、内側に隠された凄まじい太さの筋肉によって膨れ上がった。
 その両腕が、ぶれた。フィルビーの視界の中で、ぶれたように見えたのだ。残像も見えないぶれ方だった。
 近づいていた2人の兵士が吹っ飛んだ。通廊左右の壁に叩きつけられる。壁に鮮血が模様を作った。2人の頭部は消失していた。男の消えた両手に、頭そのものが木っ端微塵にされたのである。頭髪の生えた肉片をへばりつかせた布製のキャップが壁に貼り付いた。任務中ヘルメットを被らないレンジャーだが、被っていても大した差はなかったと思える一撃だった。
 フィルビーが掃射を命じる間もなかった。さっと腰を落とした男はコサックダンスの要領で、自分を取り巻くレンジャー兵士の膝や脛を蹴り砕き始めた。倒れ込んでくる兵士たちの顔に、狙い澄ました拳が突き刺さる。たちまち5人の頭がひしゃげ、血と脳漿が床にぶち撒けられた。
 囲みの外側にいた兵士たちが銃を構えた。床を回転する男に向けようとする。しかし間にはまだ仲間の兵士がいた。躊躇する兵士たちの背中を、格闘場の方からの銃撃が薙ぎ倒していった。ドノヴァンを見捨てて逃げ出した超人兵士――ニジンスキーが、AKM小銃での援護を始めたのだ。
 しかし援護などなくとも、男の動きは止まらなかったと思われた。目の前の兵士を殴殺しながらも、男は周囲のレンジャー隊員たちを充分に牽制できていた。殴り殺した兵士を必ず盾にし、絶対に銃口群に無防備を晒さなかった。
 何という流麗な技だろう。流れるように移動し、拳、貫手、回し蹴り一撃ずつで兵士を屠っていく男に、フィルビーは恐怖を感じるとともに感心させられていた。フィルビーも有段者であるが故に見慣れた動きも多かった。しかしここまで鮮やか且つ無駄のない技を見せられたのは初めてだ。この男の動きには、攻撃に入る前の“起こり”の躊躇が全くないのだ。
 フィルビーだけではない。彼の率いるレンジャー第3大隊の選抜メンバーの3分の2は司令部直属のパラシュート部隊HALOメンバーも兼任しており、全員が空手か柔道の有段者ばかりなのだ。
 その猛者どもが、銃どころか拳ですら1発のお返しもできないまま、次々と血祭りに上げられていく。フィルビーは反撃の指示も出せぬまま、己の部下たちが死んでいく姿に茫然と見とれているだけだった。
 瞬き2回、するかしないかのうちに、16名を殴殺し終えた男は、現れた時同様、のんびりと姿勢を伸ばした。息さえ切らしていなかった。男のリーチの届かぬ場所にいた4人は、ニジンスキーに撃たれ既に全滅している。残るはフィルビーとオーエンス2人だけだ。
 さっきのオーエンスの動揺が理解できた。どうしようもない恐怖がこの世にはあるのだ。そのオーエンスも、フィルビーの横で震えていた。「…とんでもねえ、腕前、だな」
 男は眼鏡をずり上げた。鼻で笑う。その挑発に引っ込んでいられないオーエンスは、恐怖を捩じ伏せ男の前に歩み出た。「名前を、聞いといてやるよ」
「藤堂誠治だ」
「………!」
 フィルビーは殴られたように顔を仰け反らせた。こいつが、トードー! あの時作戦室でもっとちゃんと写真を見ておくんだった…。
「お前はサミュエル・オーエンスだな」
 名を呼ばれたオーエンスが背中をビクッとさせた。「俺を、知ってるのかよ…」
「俺も空手をやってるんでね。88年の世界大会は惜しかったな。膝の故障がなけりゃ、お前が世界一だった」
「光栄だぜ!」
 言うが早いかオーエンスは高々と、右の前蹴りを飛ばしていた。藤堂は軽く頭を反らし、それを避けた。もちろん前蹴りはフェイントだ。踏み込みざま長い左脚が藤堂の左膝を狙い、同時に両拳が顎と鳩尾に繰り出された。
 コンマ数秒の内になされた必殺の攻撃。しかし藤堂は左脚を半歩引くだけで半身となり、オーエンスの攻撃ベクトルを躱してしまった。額に皺を寄せたオーエンスは跳躍し、再び左脚を旋回させた。一撃目を外すと同時に腰を捻る。空中の左足が向きを変え、爪先が藤堂の鎖骨を砕きに行く。
 爪先が空を切った。藤堂がいつバックステップを踏んだのか、横で見ているフィルビーにもわからなかった。怒声を上げたオーエンスはありったけのスピードを駆使して、10発以上の正拳突きを見舞った。
 藤堂は手すら上げず、軽いダッキングだけで全て避け切った。笑顔を見せる。
「流石だ。並のヒトにしちゃ、立派なスピードだぞ」
 オーエンスの顔が屈辱に歪んだ。長身が天井に向かって伸びる。捨て身の空中2段蹴りを見舞う積もりだった。外した時には着地して3発目の蹴りを放てる。1、2発目の蹴りを受けられたら、そのまま藤堂に伸し掛かる。組み敷いてしまえば関節を決め、後はフィルビーに銃で掃射して貰えばいい。
 その瞬間、藤堂の姿がオーエンスの視界から消えた。
 蹴りは外れ、伸し掛かるべき藤堂も目の前からいなくなっていた。その筈である。藤堂は既にオーエンスの背後に立っていた。どのように動いたのか、またしてもフィルビーには見えなかった。
 しかしオーエンスは悟った。その神速のフットワーク自体は見えなかったが、藤堂は弧を描くように自分の脇を擦り抜けたのだ。
 そして、その動きが空手のものではないことも。
 振り返ったオーエンスの顔の前に、既に藤堂の拳があった。拳はそっと、オーエンスの顎に当てられた。
 乾いた音がして、オーエンスの顔が曲がった。顎の骨を粉砕されたのである。
 尻餅をつきそうになったオーエンスを、藤堂は逃さなかった。座り込む寸前の彼の襟首を掴み、無理矢理引っ張り立たせる。
「おいおい、1発食らった程度ですぐに倒れるなよ。せっかくまともに楽しめそうな奴が現れたんだ。もう少し遊ばせてくれ」
 フィルビーはCAR15を構えることも忘れ、2人の戦いに半ば見惚れていた。いかに超人兵士とは言え、オーエンスに1発も決めさせない格闘家がいることが信じられなかった。
「最近、中国拳法を教わってな。ところが試す相手がいなくて困ってた。ちなみにさっきの足捌きは、少林拳の拍脚頂肘(はっきゃくちょうちゅう)の足運びだけを応用してみたものだ。こいつは…」と拳を示し、「太極拳の寸勁だ」
 閉まらなくなった口から止めどなく涎を垂らすオーエンスは、楽しげな藤堂の手を払いのけた。右肘、左拳、左ローキックの3段攻撃を繰り出す。1,2発目が避けられても、3発目のローキックが決まれば…。スピードと威力には絶対の自信を持つローキックだ。世界大会でも幾多の対戦相手の脛をへし折ってきた必殺技だ。
 ところが今度は藤堂は、その連続技を避けなかった。肘を頬で、拳を胸で、ローキックを脛で受け止めたのである。
 ブロックをも砕く肘は弾かれ、鍛え上げた拳の骨には亀裂が走った。ローキックを放った足の骨が痺れた。鉄骨を蹴った後の、中の骨髄まで振動しているかのような痺れだった。
 絶望的な気合を上げ、オーエンスは2発目のローキックを放った。藤堂は軽く右膝を上げていた。突き出された爪先が、ローキックに向けてのカウンターとなった。爪先はオーエンスの左足首に食い込み、骨を砕いた。
 上げたままの右足を踏み込んだ藤堂は、今度は左足での蹴りを放った。足先が順転しながらオーエンスの腹に当たった。これも軽く当たっただけにしか見えなかった。
 しかしオーエンスは、背後の壁に叩きつけられていた。
 右の脇腹を押さえて倒れたオーエンスは、閉じられない口から意味不明の喚き声を上げ、苦悶した。涎、血、胃液、そして緑色の胆汁を吐き出す。当てただけの蹴りが、彼の複数の内臓を破裂させていた。
「思った程の威力はなかったな」藤堂は言った。オーエンスの打撃のことだろう。「まあ、象と比べては悪いか」
 無理だったんだサム…、がちがちと音を立てて鳴る歯の透き間から、フィルビーの呟きが漏れた。超人兵士の頂点、あの藤堂と、素手で渡り合おうなんて目論見自体が、無理だったんだ…。
「さっきのは蹴りの纏絲勁(てんしけい)だ。膝から足首に向けて2重螺旋を描かせて、相手の肉体を抉り込みながら勁力を注ぎ込む。こいつの習得は難しかった。3週間掛かったよ」藤堂は饒舌に言った。左足を掴んで大腿部の筋肉を伸ばす。「さて、どうするね? 終わるか? もう少し楽しませてくれるか?」
 床でのたうち回るオーエンスが、血と涎と涙に汚れた顔でフィルビーを見上げた。意味を為さない呻き声を漏らし続ける。何を言っているかすぐにわかった。
 頼むアーニー、助けてくれ…。
 戦いの最中、オーエンスが誰かに助けを求めること自体、初めてだったろう。少なくとも付き合いの長いフィルビーは初めて見た。それがフィルビーを我に返らせた。CAR15の銃口を上げる。
 藤堂ガ呟いていた。
「何だ、終わりか」
 CAR15が数発、5.56ミリ弾を吐き出した時には、藤堂は短い銃身とフィルビーとの間に入り込んでいた。薄い無精髭に覆われたフィルビーの、秀麗な顔が恐怖に歪んだ。藤堂はその側頭部に右の圏捶――握り込んだ拳の親指第2関節――を打ち込んだ。頭蓋骨の半分を叩き割られたフィルビーの、左眼球が半分飛び出した。同時に胸に押し当てた左掌に、勁力を注ぎ込む。踏ん張った両足からの違う回転が腰で収束し、2重螺旋を描く軌道で掌から迸る。纏絲勁。
 その一撃は、フィルビーの全肋骨と内臓とをことごとく破砕した。
 息を吐き出す積もりが、噴き出したのは大量の鮮血だった。男性ファッション誌のモデルと言っても通用しそうだった顔の左半分を醜く膨満させ、くしゃんと床にへたり込んだフィルビーの、無事な右目に最後に映ったのは、背中を向けた藤堂がオーエンスの頭を蹴り砕く光景であった…。


     (9)

「…ちょっと別行動を取らせて貰うぜ」
 そう言って相馬は、瓜生たちと離れた。
「クルーガーの爺を探しに行くんだな?」
「一応、約束なもんでな」
「おーやまあ、意外に律儀なんだな」瓜生は笑った。「1時間しか待たねえからな」
 …ガリルARMライフルを腰だめに構えた相馬は、たった1人、通廊を急いだ。一気に地下3階にまで駆け下りる。壁と天井との間に隠された監視カメラの位置は把握している。その視界を避けるように進んだ相馬だったが、四方を溶接された換気口を見上げた時には舌打ちを漏らしたものだった。脱走の際には天井の狭い換気ダクトの中を通ったのだ。カタパルトに出るのに4時間近く掛かったが。
 流石に同じ手は使えないということか。
 まあ、仕方ない。どうせダクトを抜ける時間はない。極力、カメラを避けながら行こう。しかし1時間貰ったはいいが、どこに行けばクルーガーと出くわすやら。自分のラボを持たされているにも関わらず、そこに静かに居座っていた試しがない爺だ。相馬も彼のラボがどこにあったか、記憶が定かではなかった。行ったことがないのだから当然か。
 もしかしたら他の科学者と一緒かもな。とすれば医療室か、開発実験室のどちらかだろう。その2つはチャールス・ヤング博士の管轄だった。
 医療室と開発実験室は背中合わせになった部屋だ。入り口は完全に逆方向を向いており、それぞれに入るには、長い通廊を回り込まなくてはならない。それぞれの奥には2つを繋ぐ隠し通路もあるという噂だが、相馬は見たことがない。と言うよりこの2つには、呼ばれもしない限り他の超人兵士も近づかなかった筈だ。藤堂だけはヤングに呼ばれ、出入りもしていたようだが、彼とて好き好んで訪れていたわけではなかろう。相馬も医療室には薬を取りに、開発実験室にはクルーガーがいる時に2度ばかり入ったことがあるだけで、細かな観察などしたこともなかった。
 しかしその2つの部屋に、得体の知れない何かがあるとは思っていた。第六感など信じない相馬が、それを感じたのである。
 主であるヤングも“死神博士”の異名を奉られ、その得体の知れなさの一因となっていた。
 開発実験室の自動扉は開いたままだった。外からの攻撃に、電気系統が一部イカれたのかも知れない。相馬は実に久しぶりに、開発実験室に足を踏み入れた。
 超人兵士各人の体型、体質に合わせ、使う兵器や特殊装備をシミュレーションしたり設計したりする施設。相馬は知らなかったが、藤堂の肉体のあらゆるデータを取り、ヨハンソンの義手を繋いだ生物化学素子を開発した場所でもある。
 中に人の気配はなかった。相馬はとっとと踵を返そうとした。そしてふと、立ち止まった。
 物凄い量の情報を処理できるコンピューターのディスプレイ群や表示灯の光が、暗い部屋の壁一面を覆い尽くしていた。その光の群れに、不自然な隙間があった。
 以前入った時には気づかなかった。今は暗い上に、中に誰もいなかったために隙間が目立ったのだ。その前に立ってみる。果たして、そこはディスプレイのないただの壁ではなかった。
 壁を模した扉になっていたのだ。
 これが医療室に通じているとか言う、秘密の抜け道か。ちょうどいい。ここから医療室も探してみよう。いちいち遠回りするのも面倒だし、カメラに身を晒す危険もないだろうし。
 ディスプレイに隠れるように、小さなタッチパネルが壁に貼りついていた。教わっていたクルーガーの認識番号はそのまま使えた。赤い表示に触れると壁が開いた。同時に照明も灯る。
 人の気配を探ろうとした相馬は、目の前に現れた光景に息を呑んだ。
 そこは通路などではなかった!
 医療室や開発実験室などより遥かに広いスペースがあった。白いタイルの壁に囲まれた中に延々と並んでいるのは、筒型の水槽群だった。直径は60センチ弱、全高は2メートル強あるだろうか。しかし相馬に息を呑ませたのは、水槽群の中身であった。
 中を満たす淡黄色の液体は恐らく人工培養液か、特殊リンゲル液だろう。問題は細かな泡を立てるその中で、浮かんだり沈んだりして、漂っているものだ。人体の一部、それも胴体か頭部ばかりだ。しかも…、目を凝らした相馬は思わず呻いていた。
 何だ、これは…!
 輪切りにされた胴体の1つには、びっしりと赤黒い根が生えていた。よく見ると、根毛かと思われたその1本1本は、何かの尻尾らしいとわかった。虫だ。胴体の脊椎から延髄に掛けてを、見たこともない寄生虫が隙間なく覆い尽くしているのだ。
 隣の水槽に浮かぶのは、頭だけだった。それにも寄生虫は取り付いていた。首の切断面、鼻孔、口からも、何十本もの触手が伸び、リンゲル液の中を漂っていた。
 次の水槽、次の水槽…、寄生虫にたかられた死体の列は続いた。これまで何百人の死体を量産してきた相馬にして、胸の悪くなる眺めだった。剥き出しになった骨のあちこちにびっしり産み付けられた赤や紫の卵を見た時には、喉の奥から悲鳴が漏れかけた。全身に鳥肌が立った。
 以前クルーガーと交わした会話を思い出す。
 ――ヤングの奴、妙な実験に凝っているとかいう話だ。
 ――ブラックペガサスに命じられてか?
 ――いや、奴が率先してだと思う。あのカラクリ機械相手に、変質RNAの注入なしに、超人兵士は作り出せると力説しておったからな。
 恐らくこの寄生虫が、変質RNAだかDNAだかを自動的に供給するというわけなのだろう。しかしヤングは、寄生虫自体の増殖の本能を見誤った。被験者が超人兵士になる前に、食い荒らされてしまった結果がこれなのだ。
 20個を越えた辺りからの水槽は、遂に相馬に吐き気を催させた。
 一回り大きくなった水槽には、切り刻まれていない死体が収まっていた。問題はその形状だ。
 まともな人体の形を保っている死体が、1つもなかったのだ。
 ある者には4本の腕が生えていた。ある者は8本の腕だか脚だかを生やし、蜘蛛にも似た姿に変えられてしまっていた。別のある者は同様の身体に、2本の首を長く伸ばしていた。双頭の蜘蛛だ。それは最早人間ではなかった。人間とは呼べないものに変えられてしまっていた。
 遺伝子を弄りやがった…。水槽の中から白目を剥き、こちらを睨む双頭の蜘蛛から目を背け、相馬は針金のようなヤングの姿を思い出していた。
 あのイカレ爺…。
 人道主義とは程遠いところにいることを自覚する相馬の、想像を遥かに超える悪趣味だった。ナチスやら731部隊やらの研究者が現代に生きていたら、まさにこんな実験に熱中したんだろう。殺人狂ヨハンソンも、あのイカレ爺の前では霞むと思われた。
 と、相馬の耳は、開けっ放しの外から聞こえてくる靴音と会話を捉えていた。開発実験室の前に誰かが近づいてきたのだ。吐き気を堪えながら戻っていく。水槽の中の代物に少なからぬ衝撃を受けていた相馬は、クルーガーの居場所を探すことも忘れていた。そして背後の医療室の中で、袖口を噛んで息を殺していた気配にも気づかないままだった…。
 壁を模した扉が音もなく閉まり、水槽群を照らしていた灯りも遮断された。相馬は壁際の机の陰に隠れ、壁にガリル自動小銃を立て掛けた。身を屈めながらホルスターのS&W-M29カスタムのグリップを確かめる。
「扉が開けっ放しです」「灯りは消えてるな。誰かいそうか?」「わかりません。援護願います」
 英語の会話とともに、暗い室内に、色こそわからなかったものの、見慣れた戦闘服姿の兵士が入ってきた。銃を構え、慎重に室内を窺っている。「誰もいないようです」
 続いて4人が入ってきた。2人目は、あの黒人大尉のホプキンスのようだった。最後尾の1人が入口前にて、外からの接近者に備えた。間違いない。デルタのスコットだ…。
「博士はどこだ?」
「まだ来ていないようです」
「ここで待ち合わせの筈なんだがな。仕方ない。始めろ」
 スコットが外を見張りながら命じた。隊員1人が、卓上のコンピューターの一台を操作し、データを呼び出した。流石ブラックペガサス直結のコンピューター、あっという間に立ち上がり、ほんの数秒でデータの呼び出しを完了した。隊員は磁気ディスクを差込口に挿入した。
「何分掛かる?」
「量が膨大すぎます。10分は要ります」
 静まり返った開発実験室に、データをディスクに落とす唸り声にも似た音だけが響く。
 相馬はゆっくりと身を起こした。
「何してやがる、こんな場所で」
 デルタ隊員全員が振り向いた。相馬と目が合ったホプキンスは、異様な程の狼狽をその顔に浮かべた。スコットに目を遣る。同じく大いにうろたえたスコットだったが、M29カスタムを脇に吊ったままの相馬が手ぶらなのを見て、小さく頷き返す。
 反応は速かった。ホプキンスは理知的だった面差しをかなぐり捨て、コンピューターを弄る1人とスコットを除く2人に鋭く命じる。3人は銃を構えながら、机や壁に嵌められたディスプレイの陰に身を隠そうとした。
 しかし直立したままの相馬は、既にマグナムの銃口を3人に向け終えていた。
 あまりの速射に、3発の銃声は間延びした1発に聞こえた。セーフティ・スラッグ弾は壁に隠れる寸前の2人の体を防弾ベスト毎引き裂いた。ホプキンスに至っては、机の角を削ったセーフティ・スラッグ弾に顔の真ん中をぶち抜かれた。ヘルメット毎、頭を消失させる。そこで初めて相馬は片膝をついた。手早く3発の空薬莢を排莢し、予備の弾丸をシリンダーに装填し終え、すぐさまM29カスタムを構え直す。その間、僅か1秒に満たない。
 コルトM15カービンの銃口を相馬に向けようとしたスコットだったが、すぐにその愚を悟った。床に片膝をついた相馬のM29が、彼の顔を真正面から狙っていたからだ。コンピューター前にいた1人も動けない。銃口をスコットに向けながら、相馬の目はそいつも牽制できていたからだ。
 床に緩やかに、3人分の血溜まりが広がっていく。
「もう一度訊くぞ。こんな場所で何やってやがる」相馬は静かに言った。「瓜生の馬鹿が決めたお前らの配置は、ここじゃなかった筈だよな」
 コンピューター前の隊員が助けを求めるようにスコットを見た。スコットはスコットで、顔中を汗塗れにさせていた。「あの那智と言い、貴様と言い、とんでもない化物どもだな、全く…」
「質問に答えてないぜ」
「答えると思うか? 貴様たちと違ってな、俺たちには忠誠心ってもんがあるんだよ」
「飼い犬の仁義か」相馬は仕方ないなと言いたげに首を振った。「まあ、方法はいくらでもある」
 そう、口を割りそうにないスコットは射殺し、残った1人を拷問でもしてやれば良い。拷問は好みではなかったが、方法ならいくらでも知っているし、必要とあらばやってみせる。若林が好まない非情を、相馬は発揮できた。こいつは俺には平気で引き金を引くだろう…、それを感じ取ったが故のスコットの怯えだった。
 その時、自動拳銃の安全装置の外される微かな音が、相馬の耳に届いた。
 それも、背にした例の広間の、壁を模した扉から。
 どうして扉が開きかけてるんだ…! ありったけの素早さで振り返った相馬だったが、ほんの僅か、甲高い銃声の方が早かった。左側頭部に鉄槌を叩きこまれたような衝撃を食らって、吹っ飛ばされる…。


 …次々と撃ち込まれるミサイルが、時折地下3階の通廊まで震動させた。
 まだ身の危険を感じる程ではない。しかし鉄筋と分厚いコンクリートで覆われた東の山も、絶え間ないトマホークの直撃に、相当に形を変えてしまっていることだろう。内側のこの鋼鉄の砦も、次第に形を歪ませつつあるに違いない。
 地下3階に震動が伝わるようでは、この基地も主が豪語する程長くは保つまいな…、そんなことを考えながら、ハワード・クルーガーは誰1人通らなくなった通廊を独り歩いていた。その横を、樽にも似た監視ロボットが追い抜いていく。あいつらもうろつくだけなら害はないが、震動が激しくなり過ぎて、内蔵された防衛機能が目覚めたら大事になるわい…。
 いずれこんなことも起きるかも知れないから、基地を海底に移せと前々から言っていたのに、あの自信過剰の間抜け機械は聞きもしなかった。
 まあ、いいか。死ぬ時はみんな死ぬんだ。死ぬことは実は大して怖くなかった。クルーガーの執着のなさは、名声や金品に対してだけではなかった。それを知っている相馬が笑いながら言ったものだった。
 ――あんたの脳だか知識だかだけを、どうにかコンピューターかライブラリーに移せないものかな。俺たちだけが使えるように。あんたが死ぬのは構わんが、あんたのそのアタマだけは惜しい。
 ――アタマだけは、とは何だ。お前が儂を利用し尽くして捨てる気なのはわかっておるわい。お前が捨ててきた女たちみたいにな。
 ――人聞きの悪い事を吐かすな爺。
 笑いながら毒づいたクルーガーだったが、それも面白いかもな、などと思ってはいた。まだその研究が途中なのが心残りといえば心残りか…。
 居住区のモニターで覗いた地下1階と2階は、死体で溢れていた。超人兵士よりも、見慣れない軍服の死体の方が多い。馴染みの作業員や科学者たちの死体を見た時には驚いた。突入は相馬たちによるものだと思っていたが、どうやらあやつ、見境なしに殺しを楽しむ連中まで引き連れてきたようだ。
 だが、まあ、相馬の奴、儂との約束は覚えておったようだわい。そう思ったからこそ、クルーガーは地下3階にまで降り、珍しく自分のラボに戻っていたのだ。
 ところが相馬はいつまで経っても迎えにこない。クルーガーはラボのモニターで、宿舎の様子を盗み見た。焼け落ちた宿舎を進む軍服の中に、瞬時ではあるが、見覚えのある赤いベレー帽を見つけた。
 あの禿坊主が来たということは、相馬も一緒の筈だ。そこでクルーガーは宿舎の丘から逃げ帰ってきたマクレガーを呼び止めた。案の定、丘から攻撃を加えていた5人を一気に片付けた狙撃兵がいるらしい。やっぱり来ておるのではないか。何をして…。
 そこでクルーガーは初めて思い当たった。相馬の奴、もしかして儂のラボを知らんのか?
 あり得た。あやつ、儂のラボに来たことなどなかったからな…、クルーガーは己の徘徊癖を棚に上げて呟いた。そこで思い出す。相馬と顔を合わせていたのは工房兼武器庫か開発実験室だった。モニターで覗いた武器庫には数人の死体のみ、武器庫の前の通廊でユンが死んでいた。
 だとすれば開発実験室か。あそこには中を覗くカメラがない。仕方なしにクルーガーは開発実験室に向かっていたのだ。
 そのクルーガーの耳に、開発実験室方向からの銃声が聞こえた。最初に数発、遅れて1発。最初の方の銃声は間違いなく相馬のマグナムだ。クルーガーは走り出した。相馬が去った後、彼のために造ったトレーニング器具を普段から使ったりしている彼の身体は、50半ばを過ぎた今も充分に動けた。
 開発実験室手前で急停止したクルーガーは、通廊壁の窪みに身を潜めた。
 2人の男が飛び出してきたところだった。これまた見慣れぬ、濃紺の戦闘服を着た兵士だった。1人が手にした磁気ディスクを腰のポーチに差し込むのが見えた。ヘルメットを被っていない、いかつい顔のもう1人が、開いたままの自動ドアに向かって、早くしろ、と囁いた。
「先に行っておれ。こいつに止めを刺してから追いつくわい」
 窪みに張り付いたクルーガーは、白髪の眉を吊り上げた。今の声は…?
 いかつい顔の兵士は短い頭髪を掻きながら舌打ちした。急げよ、西7番ゲートで待つ、と言い残し、走り出す。それがますますクルーガーの眉の角度を上げさせる。どうしてこいつは瓜生や相馬でさえ知らない筈の西7番ゲートを知っている? あれはクルーガーたち非超人兵士の脱出専用出口なのだ。
 ゲートがクルーガーの隠れた窪みとは逆方向だったため、2人には気づかれずに済んだ。クルーガーは窪みから抜け出し、開発実験室の中を覗いた。
 最初に目に飛び込んできたのは、床一面に広がる血溜まりの上に俯せに倒れた黒い戦闘スーツだった。
 体型から相馬だとはわかった。左の頭に銃弾を受けたようだ。その相馬の手からS&W-M29を蹴りどけ、今度は延髄に、H&KモデルUSP自動拳銃の銃口を押しつけようとしていたのは…。
「ヤング!」
 チャールス・ヤングは異様に痩せこけた頬の上にギョロギョロと動く目を、踏み込んできたクルーガーに向けた。自動拳銃の銃口もだ。何とかヒデシとか言う怪奇漫画家の描く登場人物だと瓜生に評されたその顔は、薄暗い室内で、いつも以上にクルーガーをぞっとさせた。
「何だ、貴様か」
「一体お前はこんな時にこんな場所で何をしておるのだ? さっきの連中は何だ?」
 ああ…、ヤングは薄い唇を曲げた。笑ったらしい。「儂の商売相手だ」
「商売、相手だ?」
「正しくは商売相手の送り込んできたエージェントだな。おっと、動くなよクルーガー。貴様のその良質な脳味噌を床にぶち撒けることになるぞ」
 ヤングは楽しげに言った。しかし老齢の上、運動らしい運動などしていないヤングの手には、45口径のH&Kの重量すらきついようだった。撃鉄の上がったままの状態で自動拳銃が震えているのを見たクルーガーは、抵抗の意思を捨てた。
「よしよし、それでいい。ずいぶん聞き分けがいいじゃないか」
 さっきの連中はな、米国特殊部隊デルタフォースの隊員どもだ。そこに転がってる3人もそうさ。奴らは儂が前々から売りたいと言っていたものを引き取りに来たのだ。何かって? 貴様もよく知っているものだ。
 それより、どうやって奴らが儂と連絡を取り合えたか? 儂が売りたいとかねがね考えていたものを奴らが知っており、買いたいと言ってきた以上、その疑問はもっともだな。そうだな、いささか長くなるぞ。
 ブラックペガサスはな、人間を完全に侮っておるのだ。正しくは人と人との繋がりを馬鹿にしているというべきかな。奴に繋がる相手がいないのだから、想像も出来ないという点で当然ではあるがな。人間など、有り余るカネを与えておけば必ず手懐けられると思っておるのだ。
 ロラン・バルデスを知っておるな? ああ、なかなか優秀なコンピューター管制要員の1人だ。儂よりむしろ貴様との付き合いのほうが長いだろう。だがなクルーガー、貴様は奴の抱えていた悩みまで知るまい。
 奴はな、その優秀さ故に軍団に拉致された技師だ。しかしコンピューター開発の世界でいつかは名を成すことを夢見ていた奴は、ブラックペガサスに飼い殺しにされたまま人生を終えることを何よりも恐れていた。故郷のスペインに、息子がIBM級の大企業に雇われたと信じ切っていた年老いた母親も残してきていたしな。それに元々が貧民だった奴は、巨額の報酬を貰うことにも慣れていなかった。こんな夢はいつかは覚めると思っていた。
 しかし藤堂たちの追跡を恐れ脱走する度胸もない奴は、手に入れたカネを、酒とギャンブルと女につぎ込む以外に不安を紛らわせる方法を知らなかった。月に数回与えられる休暇で訪れるバハマでな。
 大枚をはたいて遊ぶバルデスが、目を惹かないわけがなかった。そんな奴に接近してきた連中がいた。
 そうとも、バハマはイギリス領だ。奴の金遣いの粗さに目をつけたイギリス諜報機関MI6が、バルデスに接触を試みたんだ。バハマ出身の女諜報部員を高級娼婦に仕立てあげてな。
 バルデスの悩みを巧妙に聞き出したMI6は、女を通じてこう持ちかけたんだそうだ。
 君は拉致された立場とは言え、数年間ブラックペガサス軍団に在籍し、様々な破壊活動を謂わば幇助してきた。しかしその罪は不問に付そう。但し君は我々の求める種々の情報を提供せねばならない。もちろん君の罪を不問に付すだけではない。情報の質によっては報酬を支払う準備もある、とな。
 バルデスは休暇の度にバハマを訪れ、MI6の女諜報部員に様々な情報を渡した。超人兵士のリストやその経歴、科学者や技師、作業員など末端にいる人間の情報、直接関わってはこなかったものの、軍団の破壊活動の概要や近々の予定などだ。基地の内部に至っては、MI6の一部の担当官などは、超人兵士たちより詳しくなっていたと言うぞ。
 当然、連中は〈賢者の城〉の位置も掴んでいた。しかしイギリス政府はSASやSBSの出動を許可しなかった。同盟国にもその情報を知らせなかった。犠牲が大きくなりすぎるという理由でな。
 そんな中、連中はこの儂も逃げ出そうと企んでいることを知ったのだ…。
「奴らはバルデスを通じて、すぐに儂にも連絡を取ってきた。バルデスの知り得ない情報も欲しい、とな。特に、改良された超人兵士のデータを欲しがった。合衆国などにしてみれば、歯噛みして悔しがったことだろうよ。元来、超人兵士は合衆国のある組織が極秘に製造を試みていたものだ。製造過程で種々生じた問題点を、ブラックペガサスはことごとくクリアし、量産にまでこぎつけたわけだからな」
「………」
「その技術とマニュアルとを、イギリスのある財閥が欲した。世界の軍需産業のあれこれを牛耳り、政府までを黙らせるあの財閥だ。と言っても、俗世離れした貴様にはピンとくる話ではあるまいがな」
「イギリスの財閥と言えば、〈R〉か…」
「フン、少しは世情にも通じておったか。しかし〈R〉と先進主要国との関係がどんなものか知ったら、貴様とてその髭面の中で顔色を変えるだろうて」
 奴らの抱く野望と、そのために張り巡らした人脈を知ったら、な…、ヤングは含み笑った。「その実現の第一歩として、奴らは超人兵士製造マニュアルを手に入れ、己の傘下にある軍需産業に量産させようとしているわけだ。合衆国がどうしても乗り越えられなかった、量産化の関門を突破したものをな」
「それがどうして、合衆国の特殊部隊に繋がる?」
「言ったろう。奴らの人脈は主要国の政府にならどこにでも張り巡らされているんだ。儂も詳しいカラクリは知らん。しかしもしかしたらこの作戦も、〈R〉が合衆国政府をせっついて、早めたものなのだろうな」
 軍需産業が超人兵士の量産に乗り出す、か…、クルーガーは考え込んだ。たしかに大売れするだろう。世界のあちこちで猛威を振るった軍団の爪痕は、主要国首脳の脳裏に未だ鮮明に残っている筈だ。それを自国の軍隊に編入でいるとなれば、各国は金を出し惜しまないだろう。
 そこまで考えたクルーガーはあることに思い至り、白い眉に隠れた目を見開いた。
「お前、まさか、藤堂の…」
「気づいたか。そうとも。儂があの藤堂のあらゆるデータを集めていたのは、奴の体調管理のためなどではない。奴のデータを次の超人兵士生産に転用するためだ」ヤングは掠れ声で笑った。「奴の潜在能力の示す数値をコンスタントに叩き出せる超人兵士を量産できるんだ。競売額はそれこそ天井知らずになるだろうて」
「さっきの兵士が持ち出したディスクか」
「ああ、数値は全部収まっている。しかしその解析には儂の…」ヤングは己の頭を指さした。「ここが必要になる。儂がいなければ、数字の分析だけで5年は無駄にするだろう」
「連中も随分な投資をするものだ」
「当然だ。カネになるものなら奴らは何でも利用する。儂はその奴らを利用するのだ。もっとも、儂が要求したのはカネではない。好きな実験をしても誰にも邪魔されないという保証さ」
「お前がこの奥でやっているとか言う、とんでもないと噂の実験か」
「とんでもないとは何だ。人類の未来を変える創造と呼べ」ヤングはかっと大口を開けた。嗅いだこともない腐臭が室内に漂い始めた。ヤングの暗くて黒い口の中から得体の知れないものが飛び出してくるかと思われた。さしものクルーガーも冷たいものが背筋に走るのを止められなかった。「儂はな、下らぬモラルだの倫理だのに邪魔されぬ時間と場所を奴らから与えられ、創造主としての余生を送るのだ」
 ここまで知ったら満足だろう、儂も随分時間の無駄をした…、ヤングは震える手からH&Kを一旦離し、左手に握り替えた。45口径の銃口が震えながらクルーガーの顔に向けられた。「貴様を殺すのは惜しいが、さっきのディスクも貴様なら解読できるだろう。この世に超人兵士製造のマニュアルとデータを知る科学者は2人も要らん。貴様もこのガンナッツの後を追え」
 銃声がした。ディスプレイ群を震わせた甲高い銃声は、床から聞こえてきた。
 目を見開いたヤングの鼻孔から、血が流れ出した。信じ難いと言いたげな表情を貼りつかせ、くしゃんとその場にへたり込む。
 銃声がもう1発響き、その額の真中に、ぽつんと穴が空いた。
「逝きたきゃ自分独りで逝け」
 そう言って、掌サイズの上下2連銃ハイスタンダード・デリンジャーを左手に握った相馬が、のろのろと立ち上がった。デリンジャーを握ったままの手で左側頭部を押さえ、クルーガーの差し伸べた手を振り払い、手洗い場に駆け込む。蛇口から噴き出す水で血塗れの頭を洗うと、洗面台に灰色がかったピンクの肉片がこぼれた。脳漿の一部だろうと思われた。
「このキ◯◯イ妖怪め。貴様1人でも地獄は迷惑がるだろうぜ…」
「大丈夫か?」
「何とかな。記憶のあちこちを持って行かれた感じがするが」相馬はクルーガーの差し出したタオルで髪を拭いながら、撃たれた痕を触った。「あの爺、ダムダム弾を使いやがった」
 小柄なクルーガーは相馬を見上げる形になった。ポケットからホルベックのパイプを抜き、キャプテンブラックの葉を詰め始める。「お前、どこから聞いておった?」
「財閥がどうとか言ってた時からだ」机の下に落ちていたM29カスタムを拾い上げた相馬は、ヤングの死体を遠慮なしに蹴りどけた。1発目はヤングの鼻孔から頭部に、2発目は額から後頭部に抜けていた。口径は小さいが貫通力に秀でる上に、弾頭にテフロン加工まで施した22マグナム弾は、鋼鉄のフライパンすら貫通するのだ。「馬鹿な爺だ。俺たちの数字を調べてたくせに、俺たちの回復力をまるで侮ってやがった」
 ヤングの死体を素早く検めたクルーガーは、ロンソンのパイプ用ライターで火を点けた。甘い煙の匂いがほのかに立ち上る。「こいつの言っていた話は事実だと思うか」
「何とかって財閥が、イギリスやらアメリカやらの特殊部隊にまで根を張ってるって話か? あり得るかもな」M29カスタムのシリンダー弾倉を振り下ろし、3発を装填しようとした相馬は、既に装填できていることに気づき、少々愕然とする。痺れのあった右手はもう自由に動かせるし、撃たれた頭の表の傷は回復しかけていたが、頭蓋骨はまるで塞がっていなかった。新しい骨が固まるまでしばらくは掛かるだろう。
 他にも色々忘れてそうで嫌だな…、M29はホルスターに収め、デリンジャーには2発の22マグナム弾を装填し直し左手首のベルトに留めた相馬は、壁に立て掛けたガリル自動小銃を取り上げた。内ポケットから抜いたペルメルを咥える。クルーガーがロンソンの火を近づけた。「だが、まあ、そんなことを考えるのは後だ。随分時間を食っちまった。あんたのせいだぞ」
「真っ直ぐ儂のラボに来ないお前が悪い」
「ふざけるな徘徊爺」
 まあ、その分、大事な発見も出来たがな…、煙を吐きながら壁の扉をチラと見遣り、呟いた相馬はもう一度、ヤングの死体を蹴り上げた。背骨の折れた死体が不自然な角度に曲がった。こいつをここで殺したのは正解だ。
 後は、逃げたスコットたちを…。
「お前、この奥を見たのか」クルーガーが壁を模した扉をしげしげと見た。「何を見たんだ?」
「何だ、あんたも見たことがないのか。歩きながら話す。それより行かなくちゃ」左手のGショックを見た相馬は言った。正直、あの部屋にもう一度入るのは嫌だった。「瓜生の馬鹿に1時間しか待たないとか言われたからな。早いとこ追いつかねえと、あいつ何をしでかすやら…」


     (10)

 …自分がどこを歩いているのかすら、わからなくなった。
 ドロシー・ヘンダーソンは周りを歩く連中に遅れないようにするのに精一杯であった。読む筈だった実況原稿などとっくにどこかに落としていた。額から流れ落ちる汗が髪を乱し、目に入って鬱陶しい。宿舎の階段を下る時に大量のトランキライザーとジフェンフェドラミン系鎮静剤を咽んだと言うのに、まるで効果が出ない。すぐ前を、グリーンベレー隊員2名が中腰になって、油断なく左右を窺いながら進んでいた。背後からも5人がついてくる。ビデオカメラを肩に担ぎ、隣を歩くマッコイは全身が汗塗れだ。その異様に酸っぱい体臭が吐き気を催した。その背後で一眼レフを構えるエマーソンの肩が震え、歯をカチカチ鳴らしていた。何かを呟いている。
「ピー・カ・ブー、ピー・カ・ブー…」
「あんたね、こんな時に何を…」
 轟音がドロシーの声を掻き消した。耳栓をしていなかったら間違いなく鼓膜が破れていた。同時に爆風が通廊を吹き抜ける。ドロシーは吹き飛ばされた。マッコイ、エマーソンも宙に舞っていた。自分の頭からヘルメットがすっ飛んでいくのがわかった。一瞬、意識が遠ざかる。
 我に返った時には、周囲を固めてくれていた特殊部隊の面々が応射を始めていた。流石、プロ…、ドロシーは思った。とは言え、自分のすぐ頭上を銃弾が飛び交っているのを知って恐慌に襲われそうになる。しかし彼女以前に、マッコイの方が先にパニックに陥っていた。カメラを探すのを忘れ、立ち上がり、豚のような悲鳴を上げる。
 その髭面に、数発の小銃弾が穴を空けた。頭が破裂する。
 3度目の爆発が、頭を失ったまま立ち尽くすマッコイの四肢を四散させた。絶叫を上げたドロシーも再度吹っ飛ばされ、エマーソンとともに、床をピンポン球のように転がされる。顔を上げた時には、自分たちの盾だった特殊部隊の面々が1人もいなくなっていた。壁に巨大な血の染みができていた。目の前に、裂けて血に染まり、頭皮を付着させた緑色のベレー帽が落ちていた。
 ドロシーが絶叫を迸らせる前に、エマーソンの方が喚き声を上げた。眼鏡を失くしたまま、レンズのヒビ割れたニコンを持って立ち上がる。
「戦場だ。本物の戦場だ…」
 半開きの口から涎が垂れた。エマーソンはシャッターを切り始めた。半ば嬉々としてさえ見えるその表情に、ドロシーは悲鳴を上げかけた口のまま呆気に取られた。いつも偉そうな持論を得意気に喋り、他人に冷笑しか向けないこのニヒリスト気取りが、実は徴兵忌避を繰り返してきた腰抜けだとは人づてに聞いていた。この仕事を瓜生から持ち掛けられた時も、マッコイはともかくエマーソンは絶対尻込みすると思っていた。エマーソンはそれ程までの臆病者だった。
 そのエマーソンが、数こそ減ったとは言え、未だ銃弾飛び交う通廊の真ん中でカメラを構え、銃を撃ち合う特殊部隊と超人兵士とを撮り始めたのだ。報道の使命に目覚めでもしたのだろうか。しかしその目は何かに憑かれたかのように尋常ではなかった。どうしちゃったのよエマーソン…。
 そんなことやってる暇があったら、あたしを助けなさいよ…!
 オートワインダーに高速で巻かれるニコンのフィルムが切れた。エマーソンは途方に暮れた顔で、迷子の子供のように立ち尽くす。
「どうしよう、ドロシー。あのね、フィルムがなくなっちゃったの」
 ドロシーはやっと気づいた。目覚めたんじゃない。
 あまりの恐怖に、こいつ、イカれただけだ…!
 エマーソンはヘルメットを脱ぎ捨てた。広い額を汗で光らせ、垂れる涎を拭いもしないで、カメラ両手にぶつぶつと何かを呟き続けていた。意外な程近くで、乾いた銃声が響いた。エマーソンの頭が殴られたように前に傾いだ。半瞬遅れて、右の眼球が飛び出した。鼻から水道のように血が噴き出し、そのまま前のめりに倒れる。
 もちろん即死だ。ドロシーは今度こそ、割れんばかりの大音声で悲鳴を上げた。
 いつの間にか、ドロシーの横に立っている男がいた。悲鳴を上げる口に、キンバー・クラッシック45口径の銃口が、スライド毎押し込まれた。コルト・ガバメントをベースにした、45口径ACP弾を発射するカスタム拳銃だ。
 既にセーフティが外されており、男の指が引き金に掛かっていることを知ったドロシーは、必死に悲鳴を抑えた。瘧のように身体が震え、既に黒い染みを作っているスボンの股間に、薬臭い新たな染みが広がっていく。目は通廊の左右に走り、瓜生の赤いベレー帽を探し求める。助けて、速く助けに来て…。
 灰色のジャンプスーツに身を包み、褐色の髪を短く刈った男は、ラテン系の顔に酷薄な笑みを浮かべた。超人兵士の1人のようだ。
「珍しいな、こんな場所で女か。しかも兵士じゃなさそうだ」
「あ、あたしは、プレスよ」ようやく銃口が口から離れたものの、震えが止まらなかった。腰から下にはまるで力が入らず、膀胱は完全に空になってしまったようだ。ドロシーは襟からピンマイクを外し、マッコイが改造したソニーのハンディカムと、ポケットのテープレコーダーを示しながら必死に訴えた。「プレスに手出しする積もり? 報道の自由の侵害だわ! あたしたちは厳正な報道を…」
 ブーツを浸し始めたドロシーの小便に顔を顰めた超人兵士は、キンバーの銃口を彼女の額に向け直した。
「馬鹿かお前は。ここが報道の自由を認める場所だと思ってるのか。プレスだろうが赤十字だろうが、ここじゃ同じなんだよ。死ぬべき人間という点でな。そもそもお前は…」と、血に濡れた壁を顎で指し、「こいつらにくっついてここまで来たんだろう」
「だからあたしはプレスよ! 中立よ! 関係ないのよ!」
 キンバーが火を噴いた。轟音が耳を弄し、灼熱の弾丸が耳朶の先をかすめていったのがわかった。ヒイッ、と叫んだドロシーは、目を固く閉じて両耳を押さえた。肛門の括約筋までもが緩んだ。放屁の音が鈍く響く。
 男は唇に笑みを浮かべ、爬虫類のような冷たい目でドロシーを見下ろした。「黙る気になったか」
「た、助けて、殺さないで。あたしの体を好きにしていいわ!」
「シャワーを浴びたら考えてやってもいい。但しその前に、お前の知ってることを話すんだ」
 ドロシーは訊かれてもいないことまで話し出した。自分がどこで瓜生に出会い、どのように誘われたかの経緯。作戦の全容は知らないながらも、瓜生の漏らした台詞の断片を自分なりに繋ぎ合わせた情報も。
「ケーブルを、切る、だと?」
「ウリューは、そう、言ってた。原子炉を、止める、前に、どこかのケーブルを、切るって。何だかわからないけど、逃げ道を、奪う、って」
 マズいな…、呟いた男――超人兵士エジムンドは中空を見上げた。キンバーの銃口がドロシーから逸れる。ケーブルとは、海中ケーブルのことだろう。あれを切断されたら、それこそゴッドは逃げ道を奪われる。周囲を半ば上の空で見回しながら、ポケットから小型通信機を抜く。まずは藤堂に報告せねば…。
 その首筋に、腹に響く重低音の銃声とともに、44マグナム・セーフティ・スラッグ弾が命中した。
 首の大半を千切り取られたエジムンドは、きりきり舞いしながらキンバーを数発乱射し、破裂した水道管さながらの量の血を噴き出し、倒れた。その場で2、3度痙攣する。その顔面に1発、心臓に2発、セーフティ・スラッグ弾が撃ち込まれる。
 通廊の彼方に、相馬が悄然と立っていた。小柄な老人が一緒だった。
 相馬の顔を見たドロシーは安堵のあまり気を失いそうになった。それでも相馬ごときの前で醜態は晒せないとばかりに、必死に虚勢を張る。「ちょっと! 遅いじゃないのよ! あたしがこんな目に遭ってるってのに…」
 ところがドロシーの前に立った相馬は、エジムンドに代わって彼女に額に愛銃の銃口を突きつけたのである。「この、口に蓋1つ閉められない雌犬めが」
「な、何のこと…?」
「作戦の内容までペラペラ喋りやがって。中立だとか言っておきながら、結局自分が可愛いだけか」
「あ、あたしは…」
「俺はな」相馬はM29カスタムの撃鉄を起こした。シリンダー弾倉が正確に6分の1回転し、カチリと冷たい音を立てた。「偉そうに囀るくせに、口はヘリウムより軽い、節操のないジャーナリスト気取りの女が大嫌いなんだ」
 撃たれる…、相馬の目を見たドロシーは思った。彼の目の放つものは、さっきの超人兵士――エジムンドの放つ殺気とは違っていた。殺意でもない、憎しみでもない。この男はあたしを、邪魔なゴミとしてしか見ていないのだと。ゴミを片づけるよりも簡単に、この男は引き金を引くだろう。
 彼の斜め後ろに立つ老人は、それを止めようともしなかった。遂にドロシーの括約筋が緩み切った。脱糞の悪臭が漂う中、ドロシーは思っていた。鼻水が止まらない。今の自分は、さぞひどい顔をしていることだろう。とてもカメラの前に出せるような顔じゃない筈だ。化粧をし直さなくっちゃ。ああ、その前に薬も飲み直さなくっちゃ。
 瞬間、相馬が軽くダッキングした。その顔先を、銀色の線が通過した。壁のタイルのちょうど継ぎ目に突き刺さる。灰色のプラスチック柄に、ペリカンの嘴にも似た刃がついたナイフだった。顔を上げる前に、相馬の44マグナム銃口は、ナイフの飛んできた方向に向いていた。
 11人のグリーンベレー隊員を従えるように、瓜生が立っていた。
 唇をふてぶてしく歪め、「俺のドロシーちゃんに勝手な真似してんじゃねえよ」
「そんなに大事な女なら…」相馬は日本語で応じた。「こんな場所に連れてなんぞ来ないで、隠れ家に仕舞っておけ」
「お前なあ、相手は女の子だぜ。撃てるのかよ」
「女だろうが子供だろうが、邪魔になるなら片づける。それだけの話だ」
 床に転がるエマーソンの死体を足でどけ、相馬とドロシーの前に近づいた瓜生も、日本語に切り替えた。「ドロシーは役に立つんだよ」
「そうは思えないがな。この馬鹿女を生かしておくと、今後の作戦もあちこちで吹聴して回るに決まってる」
「ドロシーはその、“今後の作戦”って奴に必要なんだよ」
「何だと…?」
「この子を殺すってんなら、俺から先に撃てよな」
「望みとあらば、そうしてもいいぜ」
 相馬は撃鉄を起こしたままのM29カスタムの銃口を揺らがせもせず、目の前の瓜生の赤いベレー帽の下を狙っていた。2人の日本語での会話を牽制する余裕は、今のドロシーにはなかった。この男、あたしだけじゃない、ウリューまで撃つ気だ。
 その瓜生は不敵な笑みを浮かべたまま、身じろぎもせず、相馬を睨み返していた。脇のモーゼル、背中のAUGに手を掛けてもいないが、相馬に瞬間的にでも隙が生じようものなら、即座に反撃に移れる態勢だと思わせた。悪臭とともに漂う張り詰めた空気に、グリーンベレー隊員たちは動けなくなった。相馬の後ろに立つ老人――クルーガーが、今度ばかりは何か言おうと身を乗り出した。
 接近してきた複数の靴音が、2人の睨み合いの緊張を破った。
 通廊の、相馬のやってきた方角の反対から、十数人の海兵隊員たちが支え合うように走ってきた。
 先頭に立つのはスミスだ。強くない照明の下でも、その顔が異様に蒼白になっているのがわかる。口の周囲を汚しているのは嘔吐の跡だ。その肩を支えて走るのはランスキーだ。
 スミスだけではない。16名の海兵隊員のうち、5名が自力では走れなくなっていた。軍服に隠れていない手足は赤黒い水疱に覆われ、中には口から血の混じった泡を吹き、意識不明のまま運ばれる者もいた。
 ガスか…、呟いた瓜生は相馬から視線と意識を外した。座り込んだドロシーに身を屈めて素早くキスし、壁に刺さったエマーソンナイフ〈コマンダー〉を抜いて腰に挿し、海兵隊員たちに向かって歩き出した。相馬は引き金を引くタイミングを逸した。M29カスタムを構えたまま、その場に取り残される。またやられた…、と小さく舌打ちする。
 その横に立ったクルーガーが言った。「相変わらず逃げるのが上手いな、あの禿坊主は」
 ああ…、相馬はM29をホルスターに収めた。「人の呼吸を絶妙のタイミングで外しやがる。どういう魔法なんだか」
「儂も見たのは2度目だな。ニンジュツか、ある種の武道か…」
「武道なら、サムライ君に訊いてみたらわかるかもな」
「サムライ君?」
「あんたは知らないか。あそこにいる」
 2人はそんなことを喋りながら、ドロシーの前を離れていった。それを見送りながら、ドロシーはピルケースに残っていた精神安定剤をことごとく飲み干した…。
 …若林と剣吾が、これまたお互いを支え合い、よろめきよろめき歩いてきた。足のもつれた状態では、互いの体重を支えあうのも難しかった。2人の海兵隊員がその左右に駆け寄り、どうにか両名を瓜生、相馬たちの前に引っ張ってきた。
 若林の左腕が失くなっているのを見た瓜生は、流石に眉を顰めた。
「お前ら、射撃場の隣のエレベーター使ったな?」
 海兵隊員たちは三々五々、だだっ広い通廊に座り込み、各々が腰のポーチから自動注射器コンボペンを抜いた。二の腕や腿に射つ。中身はアトロピンとオキシム剤の調合薬だ。対ガス兵器の薬品だが、あくまで応急処置用に過ぎず、自力で歩けない5人のうち2名は明らかに手遅れだった。
「待ち伏せが、あると、思ってたんだ」血走った目を上げたランスキーが、自分のコンボペンを若林に投げ、回らなくなった舌で億劫そうに言った。VXガスは気化したコンマ数ピコグラムでさえ、舌を麻痺させてしまうのだ。「だが、ガスが、仕掛けられて…」
「あそこはそういう通廊なんだよ。侵入者をおびき寄せる専用のな」
「わ、若林が…」気管をやられ、声が完全に嗄れたスミスが言った。「それに、気づいて、俺たちを先に行かせようと…」
「で、自分はモロに食らったってわけか、この馬鹿は。それにしちゃ、あんたらの被害も少なくないようだな」
 剣吾が大きく咳き込み、倒れ込んだ。支える2人の海兵隊員が、その背中を力一杯叩いた。若林も続けて壁にもたれ、座り込んだ。「戻ってきやがったんだ、この連中」
 …武器庫からのエレベーターで階下に降りた剣吾たちは、当然のように待ち伏せを食らった。大人数を収容できないエレベーターが海兵隊員を運んで往復する間、若林と剣吾が中心となって、その場を守っていた。ところが、予想していた大規模な待ち伏せはなく、彼らを迎え撃ったのは超人兵士たった4人。しかも遠巻きに射撃を繰り返すばかりで、一向にこちらに向かってこない。しかもその4人はガスマスクと、サラトガスーツではなく密封性の高い英国レンプロイ社製NBC防護服を着ていた。
 最後の3人をエレベーターが降ろした瞬間、ホールの四方からガスが噴き出した。同時に
 若林が海兵隊員たちをホールから追い出している間、4人の超人兵士に剣吾が向かっていった。息を止めて戦いはしたものの、VXガスは皮膚からも易々と体内に侵入する。それでも2人を倒し、3人目の胸を刺し貫いたところで、剣吾は力尽きかけた。
 刺された1人と、残ったもう1人が剣吾に銃を向けた時、ガスの渦巻く中に若林が飛び込んできた。
 通常の軍服と比べ、ガスや細菌にも卓越した防御力を持つサラトガスーツだが、ユンとの戦いで既に穴だらけにされており、ヨハンソンに腕まで切り落とされている今、ガスへの防御など無に帰したに等しかった。それでも若林は2人にキングコブラを撃ちまくりながら、自前の装備品、MCUガスマスクを剣吾に使わせたのであった。もっとも作務衣しか着ていない剣吾には、マスクだけでは大した防御にならなかったが。
 ガスに満たされていくホールで、2人相手に苦戦する剣吾と若林を見た海兵隊員たちは、戻るなという若林の言い置きも無視して、その場から援護射撃を開始したのであった。挙句、3人の隊員を失い…。
 …皮膚のあちこちに火傷にも似た水疱を作った剣吾が大きく咳き込んだ。気管から血の塊を吐き出す。何度も吐き出すのだが、咳き込みと嘔吐(えず)きは止まらなかった。2人の海兵隊員は必死に剣吾の背中を叩く。1人がその剣吾にコンボペンを使った。それを不安げに見守る若林に、瓜生が言った。「ガスマスクをあいつに貸して、自分はそのザマかよ。しかも何だ、その腕は。相変わらず甘いことやってやがんなあ」
 身体を動かす度にあちこちに走る激痛に顔を顰めつつ、若林は瓜生を見上げた。頬を撫でると、回復の始まっていた皮膚から、水疱がケロイドとなって剥げた。「俺は仲間を見捨てて逃げ出す趣味はないんでね」
 軽い揶揄の積もりが、若林に本気で言い返された瓜生は唇をへの字に曲げた。仲間、だと…? 
 その背後から相馬が声を掛けた。「歩けそうか?」
「俺は後少ししたら何とか。でも、剣吾はまだ駄目だ。どこかで休ませないと…」
 その時、海兵隊のやって来た方角から、耳障りな電子音が上がった。グリーンベレー、海兵隊員たちが銃を構えて振り返った。
“侵入者発見。侵入者発見。”
 ドラム缶のような図体をのろのろ動かしながら、監視ロボットが近づいてくるところだった。
「デス・スターかここは?」M16を構えたままのランスキーがボヤいた。「相棒の金色はどうした?」
 相馬が小さく吹き出した。「レイア姫もいないけどな」
「1人、あそこに美女がいるじゃねえか」
「あれは姫とは程遠い」
 監視ロボットは一同を遠くに眺める位置に停止し、“侵入者発見”とがなり立て続けた。距離の割にその電子音声はうるさかった。それがグリーンベレーの面々を刺激した。彼らの顔が一様に殺気立ってきた。1952年の発足以来、地獄のベトナムを筆頭に、常に合衆国特殊部隊の先頭を走ってきた彼らが、ここに突入してからというもの、ろくな働きが出来ていなかった。その不甲斐ない自分たちへの苛立ちも、怒りに拍車を掛けたのだろう。 軍曹の襟章を付けた白人の大男が、罵声とともにM16A2の銃口を上げた。気づいたクルーガーが警告の声を上げた。グリーンベレー隊長ホフマンが怒鳴った。
「止めろ!」「カニンガム!」
 遅かった。カニンガム軍曹の掃射はロボットのずん胴にことごとく命中した。周りの3人の隊員もそれに傚った。安定のいい監視ロボットだが、20数発の5.56ミリ弾を正面から食らい、引っ繰り返る。弾倉を替えたカニンガムは、部下たちが掃射を止めてもM16を撃ち続けた。「この糞ったれめが!」
「馬鹿が…」瓜生が監視ロボットから視線を外さず、未だ腰を抜かして座り込むドロシーに近づいた。「ホントに撃ちやがった」
 痛みを堪え、若林も立ち上がった。その表情に、海兵隊員たちも異変に気づいた。ランスキーが隊員2人とともに、まだ気管を鳴らす剣吾を両脇から抱え上げた。
「糞っ! 糞っ! 糞っ!」
 カニンガムの罵声と銃声が、広いとは言え密閉された通廊に響き渡る。グリーンベレー数人は同様に殺気立った顔をしていたが、残りの大半は半ば唖然と、それを見つめるだけだった。
 M16とは違う銃声が響いた。
 2、3歩後退ったカニンガムが、僅かによろめいた。信じられんと言いたげに、仲間を振り返る。PASGTボディアーマーの下の迷彩服、腹の辺りに、黒い染みが広がり始めた。腹を押さえた指の間から血が溢れ始める。
 穴だらけにされたロボットの胴の1箇所が開き、発射された7.62ミリ旧NATO弾が、ボディアーマーの防弾繊維毎カニンガムを貫いたのだ。
「来たあっ!」
 言うが早いか、瓜生はドロシーの腰を掻っ攫って走り出した。細い瓜生だが、ドロシーの体重程度ではその足は鈍りもしない。すぐ後ろにクルーガーを抱えた相馬、若林、そして歩けない剣吾や同僚を抱えた海兵隊員たちが続いた。同時に、倒れていたロボットが、驚くべき素早さで跳ね起きた。穴だらけになり、煙を上げるボディから、辺り構わず銃弾を撒き散らし始める。
 グリーンベレー兵士3人が呆気に取られた顔のまま、小銃弾を浴びてぶっ倒れた。他の7人はそれを見てやっと我に返った。バラバラと逃走に移る。監視ロボットはつんざくようなモーター音を響かせ、動き始めた。2名の兵士を背中から撃ち倒し、死体を踏みつけて追ってくる。グリーンベレー兵士たちを撃つ弾丸は、海兵隊員をも巻き込んだ。動けない隊員を背負って逃げる2名がその場に倒れた。背中の2人もろとも、たちまち乱射の餌食となる。
「糞爺!」茫然とするドロシーを左手で抱え、右手でベレー帽を押さえ、頭を低くして走る瓜生が怒鳴った。「あのイカレロボットを避ける場所はねえのか!」
「もっと揺らさずに走れんのか!」相馬の脇に抱えられるクルーガーが怒鳴り返した。「酔いそうだわい!」
 見向きもせずに相馬が言った。「文句を言うな、捨ててくぞ!」
「質問に答えろ爺!」
「第4倉庫の手前を左に折れろ! 3番目の自動扉が医療室だ! そこならロボットは入れない! 攻撃も受けない!」
 医療室、だと…? 相馬は顔を顰めた。細部のあちこち飛んだ記憶の中に、あのおぞましい光景だけははっきり残っていた。またあれを見なくちゃならんのか…?
 しかし躊躇している暇はなかった。のろのろ動き回るだけだった監視ロボットは、一旦箍が外れてしまった今、ゴーカートも真っ青という速度で追ってきた。しかもどれだけ内蔵しているのやら、銃弾にも限りがないと思われた。グリーンベレー、海兵隊併せて既に10名が撃たれている。
 取り敢えず今はクルーガーに従って走るしかなかった。
 瓜生がタッチパネルのキーボードに、クルーガーの言った認識コードを打ち込んだ。自動扉はすぐに開き、瓜生、相馬、若林、特殊部隊混成軍は団子状になって医療室に転がり込んだ。
 追いついてきた監視ロボットは、クルーガーの言った通り、医療室の中に入ることも攻撃を加えることも出来ないようだった。開きっ放しの自動扉前で右往左往を続けるだけだ。もっともグリーンベレー兵士たちに、今度はそれを撃つ度胸のある者はいなかった。
 ランスキーたちに抱えられていた剣吾が一際大きく咳き込んだ。呼吸が止まりそうになる。動けるようになったスミスが急いで駆け寄り、その背に組んだ拳を思い切り叩きつけ、膝で尾骶骨を蹴り上げた。ぐうっ、と呻いた剣吾が、黒い大きな血の塊を吐き出した。塊はビシャっという音を立てて床に飛び散り、血とは違う悪臭を放った。
 それを吐き終えた剣吾の呼吸が、ようやく楽そうなものに変わった。若林が安堵の表情を浮かべる。
「…一体、何人減らされた?」
 クルーガーが室内灯を点灯させた。医療室に転がり込めた面々を、灯りの中で一瞥した瓜生が、ドロシーを引き起こしながら言った。
「11…、いや、12人か」
 相馬が呟いた。
「余計な真似してくれたもんだぜ」瓜生がグリーンベレー隊長ホフマンに厭味たっぷりの目を向けた。「足を引っ張るしか出来ねえのかよ」
 グリーンベレーの生き残りたちは黙り込んだまま、互いの顔を確認することも出来ずにいた。しかし海兵隊員たちも大差なかった。こちらは疲れ果てていたのである。
 そんな中、ようやく鎮静剤が効いてきたドロシーが、居心地悪げに身じろぎした。糞臭を放つズボンを摘まみ、「着替え、ない?」
「糞爺、何か着るものないか?」
「ロッカーに白衣が入っとる。下着の類もあるだろう。その前に体を洗ったらどうだ? 奥に傷を洗うシャワーがある」
「バカ爺、こんなむさ苦しい牡ばかりの中で、ドロシーをシャワールームに押し込められっか」
「馬鹿はお前だ禿坊主。この連中の面を見ろ。今、目の前を素っ裸の女が通っても、チンポコどころか小指1本おっ立てられやせんて」
 ドロシーは奥の開いた扉に向かった。そっちじゃない、と言ったクルーガーが、怪訝な顔をした。「それはドアじゃない…」
 それを聞いた相馬が顔色を変えて振り向いた。瓜生、若林、海兵隊、グリーンベレーの面々も、そこがドアではなく、壁の一部が隠し扉になったものであり、僅かに開いていたことに初めて気づいた。相馬の顔を見たクルーガーは、納得した顔を浮かべた。「そうか、ここにヤングの奴が隠れていたわけだ」
「ああ、俺が反対側から入ったことに気がついて、こっちに駆け込んで息を潜めてやがったんだろう」
「何の話だよ」ドロシーの尻を叩いてその横のシャワールームに押し込んだ瓜生が、興味津々と言いたげに、開いた壁に向かって歩き出した。「一体何だよ、ありゃあ」
 その瓜生の行く手を、相馬が遮る素振りを見せた。
「どうしたよ、この中にどんなお宝が仕舞ってあるってんだい?」
「多分、心和ますものは何もないぜ」
 相馬のいつにない声の調子に、ランスキーとともに剣吾を看ていた若林が顔を上げた。どうにかまともな呼吸が戻ってきた剣吾も、蒼白な顔ながら目を開けた。上体を起こそうとする彼を、ランスキーとスミスが支える。
 衆目を集めた相馬は肩を竦めた。「どうしても、ってんなら止めないがな。後悔するなよ」
「何だよ、お前ともあろうものが。オバケでも見たってか?」瓜生は笑い出す。「面白そうじゃねえの。楽しいアトラクションならカネ出すぜ」
 そう言い捨て、とっとと開いた壁の奥に入っていってしまう。同時に暗かった奥に照明が灯った。あの時と同じだ。瓜生の高笑いが医療室にも木霊する。残された面々は言葉もなく、灯りを漏らす壁の扉を見つめるだけだ。若林が相馬の顔を窺っていた。その瞬間、
 瓜生の笑い声がピタリと止んだ。
 若林が跳ね起きた。左腕を失っているせいでバランスを崩し、一度机にぶつかってしまうものの、脇からキングコブラを抜いて走り出す。海兵隊員たちも一斉に銃を構え、若林に続く。剣吾もランスキーの肩を借り、立ち上がった。
 ほとんど腑抜けてしまったグリーンベレー兵士5人と、相馬、クルーガーだけが残った。見送った相馬は小さく首を振った。若林のもの程ではないが、破れの目立つサラトガスーツのポケットから、ひしゃげたペルメルのソフトパックを抜いた。ここは禁煙だぞ、と言いかけたクルーガーだったが、すぐに気づく。
 文句をいう奴も、死んだ、か…。
 咥えた両切りのペルメルに、柱で点けたマッチの火を移し、クルーガーとともに奥に踏み込んだ相馬の耳に、ぐえっという嘔吐の音が聞こえた。白い壁の角に蹲った海兵隊員の1人が、空っぽの胃から逆流した胃液を吐いていた。他の海兵隊員たちは銃を構えた格好のまま、動きを凍りつかせていた。若林も、ランスキーと剣吾もだ。
 筒型の水槽の並ぶ奥部屋の中央近くに立つ瓜生が、彼にしては真顔で、クルーガーを見遣った。
「これは、何だ、糞爺…」声も僅かに震えていた。
 さしものクルーガーも、背筋を駆け上る震えを抑えるのがやっとだった。さっきお前が言っていたのは、これか、と相馬に呟く。
「あんたも見るのは初めてか」
「ここに入るのも初めてだ」
 噂が流れてはおったからな、何もないわけはないとは思っておったが…、クルーガーの白い眉と髭に覆われた顔が、嫌悪と嘔吐感に歪んでいた。「ヤングの外道め。売ったのは情報だけじゃなかったわけだ」
「ああ、多分もっと質の悪い相手にな」
「今頃、地獄で後悔しておるかな」
「いいや、多分してねえよ。、地獄の火に焼かれながら、悪魔の解剖法でも目論んでやがるだろうぜ」
 相馬とクルーガーが痩せ我慢の軽口を遣り取りする横で、遂に我慢できなくなった海兵隊の4人が医療室に逃げ戻っていった。ランスキーもだ。部下の前で醜態を晒せないとばかりに頑張っていたスミスだったが、限界も近かった。
「向こうの側は、体に寄生虫を入り込ませた奴だ」嘔吐感は伝染する。相馬は吐き気を抑えるために、煙草の煙を立て続けに吐き出した。耐え切れなくなったクルーガーもパイプを咥えた。異様に渇いた喉や舌に、ペルメルの煙はいがらっぽいだけだった。おまけにクルーガーのパイプの、キャプテンブラックの煙さえ鼻に染みた。偉そうに解説などしているが、相馬は水槽群を直視できずにいた。目の前の眺めには、明らかに人の禁忌に触れているおぞましさがあった。情けない話だが、ここで兵器な顔をしていられないところが、俺の兵士としての限界なのだろう…。
 クルーガーが言葉を継いだ。「超人兵士1人を造り出すのに、手間暇を食う割には失敗率も高かったらしいからな。ヤングはあのイカレ機械に命じられて、その辺りを改善する研究をしていると言っておった。変異RNAを注入し、尚且つそれらを被験者の体内で変異DNAに変えなければ成功しなかった超人兵士製造の手間を省く、と豪語していたが…」
「あの、背中に食い込んでるビロビロが、何たらDNAを供給し続けるってわけかよ」
「ああ、その時にデータバンクに収まっているヤングの研究資料に、サナダムシの細胞だとか遺伝子だとかを弄っているものがあったんだが、全く別個の研究だとしか思わなかったよ」
 その結実が、こんな形だったとはな…、クルーガーは首を振った。
「こっちの変形した連中は何だ?」
「遺伝子を弄りまくったものだろうて。ヤングは前々から、人間の身体の脆弱さは他に類を見ないと文句を言っておったからな。その弱点を克服させようとでもしておったのではないか?」
「いくら弱点を克服、ったって、見た目から化物じゃ、外も歩けねえよ。これなんてまるで蜘蛛だぜ」
「以前、奴に蜘蛛の機能性の素晴らしさを力説されたことがあったわい」
 人間を玩具扱いしてやがんなあ…、瓜生は呟いた。「しかしこの標本、一体どれくらいあるんだ? 奥までずっとか?」
 相馬が言った。「200くらいはあるだろう。この奥は開発実験室に繋がってる」
「ろくでもねえことをやらかしてくれるぜ、あの死神爺。見つけたら1発…」
「ああ、それは俺がやっといた。開発実験室に転がって…」
 相馬の台詞を遮って、物凄い叫びが上がった。
 壁際の水槽群を見ていた若林の上げた絶叫だった。
 瓜生、相馬、クルーガーが一斉に振り向いた。壁際で吐いていた海兵隊員たちまでもが顔を上げ、ひどい顔のまま各自の銃を構え直した。血相を変えた剣吾が刀の柄に掌を掛け、回復し切っていない状態ながら、叫びの上がった方に走った。
 若林の上げた叫びは尋常のものではなかった。壁に響き、水槽の特殊ガラスまでも震わせかねなかった。普段穏やかな彼が上げたものとは思えなかったが故に、上がった瞬間は若林の声だと誰も気づかなかった。何かが彼の身に起こったとしか思えなかった。
 僅かに遅れて剣吾に追いついた瓜生が、再び喉の奥で唸った。相馬もだ。
 その標本群は壁際の、医療室と開発実験室とを結ぶ小径からは見えない位置に並んでいた。若林は水槽の1つの前に立ち、喉も裂けそうな声を上げ続けていた。血を吐くばかりの悲痛があった。声も掛けられず、立ち尽くす剣吾の横に来て、水槽群を一通り眺めたクルーガーが呻いた。
「女、か…」
「見りゃあわかる」煙草を投げ捨てた相馬が吐き捨てた。「ヤングの野郎、女の超人兵士を造ろうとしてやがったんだ…」
「しかし確か、女の超人兵士は、体内の酵素が邪魔をするとかで、変異RNAを受け付けないんじゃなかったか?」
「あんたが俺に訊くなよ。現にこうやって…」
 馬鹿野郎…、地の底から響くような声で唸ったのは瓜生だった。「何が見りゃあわかる、だ。てめえらの目は節穴か。これは実験じゃねえ」
「…………」
「あの爺がこの女どもを切り刻んだのは、腐れコンピューターに命じられたからじゃねえ。あいつの趣味だ」
 水槽の中を上下する死体は、原型こそ留めていたが、どれも身体のあちこちを切り刻まれていた。頭皮を剥がれ、乳房を輪切りにされ、両手両足はほとんどの死体に残っていなかった。そのどれもが、白濁した目で瓜生や相馬たちを恨めしげに睨んでいた。
 それらはある意味、遺伝子を弄ばれて変形した死体群よりも、背筋を凍らせる眺めであった。
「夢に出そうだな」
「当分、顔を見ながらじゃ、オンナは抱けねえな。こりゃあ、作戦の部分変更が必要になってきたぞ」
「何の作戦だよ」
 小声で会話しながら瓜生、相馬はクルーガーとともに、剣吾が側で見守る中、若林の前にある水槽に近づいた。
 中にはやはり、1人の女が入っていた。若林同様、小柄な女だった。ホルマリンに脱色されてはいたものの、髪は未だ赤い色を保っていた。生きていた頃にはさぞ鮮やかな色だったことだろう。白濁した半開きの目が、若林の頭上を見上げていた。そしてその下半身は…。
 若林は叫び声を上げ続けたせいで、声がかすれ切っていた。しかし若林にはそれ以上、そしてそれ以外、何も出来ないでいた。ホルマリンの中でも腐敗は進むことくらいは、超人兵士に成りたての時分に仕込まれた薬学の知識、それに多くの経験でわかっている。水槽を割ろうものなら、中の死体は投げ出され、酸素に触れた途端グズグズに崩れてしまうだろう。だから若林は、水槽に己の拳も、右手に掴むキングコブラ銃把も叩きつけることが出来ない。
 ようやく叫びを止めた若林は、歯を食いしばり、赤毛の女を見上げていた。
「突拍子もない声、上げやがって」瓜生が軽い調子で若林の右肩を叩いた。「何事だ若林、その女は知り合いか?」
「女房だ…」
「何…?」
「ここに一緒に運ばれてきた、俺の女房だ!」
「何、だと…?」
 瓜生が瞠目した。剣吾も。
 潰れてしまった喉から、最後の叫びを絞り出した若林の目から、涙が噴きこぼれた。そのまま力なく、床に膝をつく。
 出なくなってしまった声で、慟哭が始まった。
 それはまさに慟哭であった。
 相馬は若林に背を向けた。ポケットから抜いたペルメルに火を点ける。クルーガーも火の消えたパイプにライターの火を近づけた。スミスは痛ましげに目を背け、ランスキーは貰い泣きしそうな顔で若林の背中を見つめるのが精一杯であった。他人の深刻そうな話には必ずチャチャを入れ、揶揄を飛ばす瓜生すら、今ばかりは何も言わなかった。
「ウリュー、どこ?」ドロシーの声が医療室から呼んだ。「ここ、何? 何か怖い。そっちにいるの?」
「来るな! 今行く!」
 怒鳴り返した瓜生は踵を返し、その場から歩き去った。相馬が僅かに驚いた顔で、その背を見送った。
 その相馬の横に立つ剣吾が、言った。
「あの人だったんだ…」
「あの人?」
「フォート・ブラッグにいる時、ぽつんと漏らしたんだ。やっと戻れる、って」
「………」
「ここに上陸する前にも…」剣吾の目も潤んでいた。「奥さんの名前を…」
 モニカ…、
 生きていてくれてるのかい、と。
「こいつがこの基地に戻ることを一番望んでいたのはわかってたんだ」深々と吸い込んだペルメルの煙を、ゆるゆると吐き出しながら、相馬は言った。「こういう理由だとは思いもしなかった。自分のことを一切話さない奴だからな」
「信じていたんだ」剣吾は言った。「ここに戻れば、奥さんの生死が確認できる。本当は…、本当は見つけたくなかったんだ。見つからないことを望んでいたんだ。ここじゃないどこかで、奥さんが生きていてくれるって、信じていたかったんだ」
 それは布由美がまだどこかで生きているという望みを、心の奥底で捨て切れていない自分と、丸っきり同じではないか…。
 自分とは全く関係のない場所でありながら、目の前の水槽群に、剣吾は無意識の裡に布由美の姿を探していた。彼も探さずにはおられなかったのである。そして彼女の姿がなかったことに、正直安堵さえ覚えていた。
 そんな自分が、若林に申し訳なくて仕方なかった。
 若林は尚も泣き続けていた。
 …医療室に戻った瓜生に、ドロシーがしがみついてきた。
「どうしたのウリュー、この部屋は何? 入ってみようと思ったけど、あたし怖くて。誰の叫び声?」
 鈍感なドロシーにも、奥部屋の放つ禍々しい気配だけは感じ取れたのだろう。
「何もないよ」瓜生は首を振った。医療室は奥部屋に比べ、随分暗く感じられた。だが、ようやく悪魔の住処から抜け出せたと思わせてもくれた。グリーンベレーの生き残りはまだ座り込んだままだった。「怪我したヤツが痛くて喚いてるだけさ」
 ほとんど裸の上に医療スタッフ用の白衣だけを纏ったドロシーの肩を抱く。「しかしなかなかイヤラシイ格好じゃないか。後でそのコスチュームのまま可愛がってやるよ」
「止めてよこんな場所で。何考えてるの?」
 大量に呑んだ精神安定剤のお陰で、ようやく調子を取り戻すことの出来たドロシーは、瓜生をぶつ真似をした。瓜生は笑い出した。だが、その猛禽類の目の奥に宿った暗い光は、ドロシーには読み取れない。「それよりドロシー、いい画は撮れたのか?」
「駄目だわ。マッコイもエマーソンも殺られちゃったし」その瞬間を思い出したのか、ドロシーの背に震えが走る。「あたし1人じゃとても…」
「あのデブが自慢してたビデオカメラはどこだ?」
「ああ、これ?」ドロシーは白衣のポケットから、改造ハンディカムを取り出した。「少しは回したけど、撮影はマッコイに任してたから」
「どれくらいだ?」
「20分あるかしら。あたしの実況はなしよ」
「そいつはアフレコで済ませりゃいい。そいつと、ここにある監視カメラの映像を組み合わせりゃ、それらしいスクープ映像になるだろうぜ」
「手に入るの、ここの映像?」
「ああ、後でダウンロード出来るようにしといてやる」クルーガーの爺にやらせるけどな…、「とにかく、でかしたぞドロシー。ホントに後で可愛がってやるからな」
「本当? 約束よ。また天国に連れてってね」
 瓜生とドロシーの乳繰り合いを横目で眺めるふりをしながら、グリーンベレー隊長ホフマンは時計ばかり気にしていた。
 ようやく奥の部屋からの絶叫が止み、辺りも静かになった今、医療室の壁や柱が僅かに揺れる瞬間があった。海上からの攻撃はまだ続いているらしい。艦隊は未だ健在だ。ホフマンはそれを皆に伝えなかった。腕時計を食い入るように見つめるだけであった。
 ハミルトン社製腕時計は、午後2時15分を指そうとしていた…。


                                         ――――第5章 その3に続く

超人旋風記 (5) その2

超人旋風記 (5) その2

合衆国の秘密組織《エスメラルダ機関》の研究が、不死の超人をアメコミの世界から現実に引きずりだした。 那智剣吾――彼はアメリカにその肉体を不死身の超人兵士に、その運命を戦う者に変えられてしまった。 最初はテロ事件の解決者として、次は主要国に牙を剥く、『自我を持ったコンピューター』の破壊の使命を負う者として、彼は世界中を飛び回る。 不幸な少女マリアと出会い、彼女の庇護者とならんと決意した時、彼はエスメラルダ機関と訣別する。そして自我を持つコンピューターに作られた超人兵士若林がかけがえの無い友として、彼とともに立つ。 この物型は、生きる運命を誰かに弄ばれることに抗う剣吾の、愛と、血と、暴力と冒険の黙示録である。

  • 小説
  • 中編
  • 冒険
  • アクション
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-06-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted