観覧車
観覧車
閑散とした商店街や住宅地に隣接する、ろくな手入れも無く放置されたままのとある森の向こう。木々に囲まれたその拓けた場所で、周りの枯れ木と同じような細くて頼りない鉄骨がゆっくりと廻っている。直径は五十メートル以上といった辺りか、なかなか立派な大きさである。宙ぶらりんのゴンドラは、強い風が吹けば簡単に揺れ動いてしまう。かつては鮮やかに色彩を持っていたのだろう。所々に、微かにこびりつくように桃色や黄色のペンキが残っていた。
白く枯れた草の上に立って、私はこの錆び付いた鉄の輪を呆然と見上げていた。それを通して見える初冬の高い空は、雲の輪郭すら無く灰色をしている。時が止まったかのような静寂の中で、目の前の観覧車の時計回りだけがその経過を淡々と表していた。
深呼吸をする。冷たい空気とともに、どこか懐かしいような匂いが全身に満ちた。同時に、こめかみの辺りでわずかに頭痛がした。
「これ乗りましょうよ。せっかくだから、ね?」
妻の声がした。横を見ると、若い娘がするような冬服に身を包んだ彼女が、目をるんるんとさせて観覧車を見つめていた。
こんな骨組みのどこに乗り込みたくなるような魅力があるのだろう。確かに、寂れた遊園地などと言うものは懐旧的な情緒のあるものだが、眺めるのはともかく、自分が乗りたいとは到底思わない。殺風景の中、彼女の瞳だけが屈託もなく輝いている。
妻はいつも通りだ。何にでも興味を湧かせ、目を輝かしてすぐに手を伸ばそうとする。いつまでも好奇心が衰えないのは良いことだが、時にはやはり、危険を招くこともある。
お互いに幼かった頃のことだ。夏休みを迎える直前の日だった。放課後の教室には、私と彼女以外の子どもは誰も残っていなかった。普通ならとっくに帰って外で遊び回っている位の時間まで学校にいたのは、彼女の提案だった。
皆が帰った後、学校の中を探索しようと言い出したのだ。小学生は好奇心が強いものだが、彼女はその頃から並外れて興味津々な性格だったのだろう。私はどちらかと言えば模範的な児童だった筈だが、夏の暑さに思考もやられたのか、彼女と一緒になっていたずらまがいの校内探索をしていたのだった。
それは理科室の奥の部屋にある、倉庫のような部屋で起きた事だった。理科準備室等と呼ぶのだろう。見慣れない器具や薬品、昆虫、甲虫の標本を見て、彼女は浮かれていた。私も恐らく例外では無かったろう。
忘れもしない。私はスポイトのような器具を弄って遊んでいた。ピペット等と呼んだかも知れない。その時不意に、背後から彼女の泣き叫ぶ声が聞こえた。周りのビーカーも割れてしまうかのような甲高い声だった。慌てて駆け寄って見ると、彼女のか弱い白い手が、みるみる内に赤く焼けただれていく。それはピンクに近い色だった。傍らには茶色い小瓶が転がっていた。
幼心に、その赤のマーブルは恐ろしく焼き付いた。止まらない彼女の泣き声と、狂ったように鳴き散らす蝉の声とが入り混じり、景色も歪むような日光に私は眩暈を起こした。
その後のことはよく覚えていないが、教師に怒られたことは確実だろう。翌日になって、彼女は私の家を訪ねて来た。心配して駆け寄った私の心中とは裏腹に、彼女は早くもいつもの能天気に戻っていた。驚くべき気丈さだった。
「もう痛くないから大丈夫。プール行こう」
唖然とする私を見て、彼女は確かに笑っていた気がする。
そんな一件があって以来、私は子どもながらに慎重な性格になってしまったものだが、当の妻本人はといえばいつまでもあっけらかんとしている。しかし毛糸の手袋を取ってしまえば、火傷の跡は今も消えずに生々しく妻の手に残っている。それでも傷痕を人前に晒すのは、彼女自身特に気に掛けていない様子だ。
私は彼女の底抜けの明るさ、また宙を舞うような危うさに、いつしか、単なる幼馴染との友情を超えた温かい感情を抱くようになっていた。何度かその心を伝えようと試みようとしたこともあったのだが、幼少からの付き合いであるからしてやはり気恥ずかしく、私から打ち明ける機会はついに訪れなかった。
中学校を卒業しようという頃、平凡な帰り道での出来事だった。しばしば道草する公園のベンチで、私のそんな思いを知ってか知らずか、彼女の方から私を好きだと言ってくれた。より忠実に言えば、「大好きだよ」といつもの無邪気な調子を保ったままで。
不意打ちだった。まともに返事をするのも忘れたまま「俺のどこが良い?」などと舌足らずに訊くと、「よく分かんないところかな」という答えがぽっと返ってきた。
よく分かんない。それが好奇心旺盛な彼女にとっては魅力的な点なのだろう。尤も私としては、彼女以外の人によく分からないなどと言われたことは無かったし、自分でもそんな風には思っていないのだが。返事をした後に彼女は、やはり笑っていた。何も言い返せないでいた私の様子が面白かったのだろう。そんな二人を祝福するかのように、或いは初々しさを笑うように、頭上からは桜が舞い散っていた。
昔のことを思い出していると、妻はもう観覧車の元へ駆けるように近づいていた。かと思えば、透明な壁にぶつかったかのように突然足を止めて、跳ねるようにこちらを振り返る。
「おーい、先に乗っちゃうよ」
子どものように呼びかけてくる妻の姿が、一瞬、実際よりもいやに遠くにあるかのように感じられた。自由奔放で地に足がつかない妻からは、どこか現実味を失ってしまう時がよくある。その掴みどころの無い空想的な部分が私にとっての癒しとなっているのは、繰り返し言うまでもないだろう。年を重ねる、という秩序からも解放されたかのように、妻はいつまでも若い。
しかし、それはいつもとは違った感覚で、違和感が強かった。その感覚は単なる錯覚と言うよりも、ある種の幻惑に近かった。神秘的とも言える。些細なことだが、気になることは何でも告げてしまうのが私の癖だ。
遠く感じたことを述べると、妻はこう答えた。
「そう。それはきっと、ここが魔法の場所だからよ」
魔法ね。
呆れたように返事をしたが、案外説得力があった。この場所は他のどことも異なる空間にあり、何にも干渉されず、だからこそ独特の何かを持っているように感じる。
私が呆れた声を出す時、妻はいつも楽しそうに笑っている。私も、妻の前でならいつもよりも優しい顔を浮かべることが出来た。ささやかな幸せが胸から伝わり、身に沁みていくようだった。
観覧車に着く。最近作り直したというような新しめの窓口の中で、管理者が椅子にもたれて新聞を読んでいた。呼び掛けても顔を上げようとすらしない。
「一人、二百五十円ね」
無愛想な声が新聞紙越しに返ってきた。五百円玉を受け皿に置いて、私と妻は廻り続けるゴンドラに危なっかしく乗り込んだ。
観覧車は思ったよりも快適な乗り心地だった。ゴンドラの揺れは見た目ほどではないし、軋むような音も特に無い。妻は縁に手を置いて身体ごと外を覗き込んでいた。危ないからあまり身を乗り出すなよ、と注意しても、大丈夫よ、とますます声が元気になるだけだった。
外から見るよりもずっとゆっくりと廻っている感覚だ。丁度、ゴンドラが九時の辺りに差し掛かったところで、妻はやっとこちらに向き直った。両膝に手を置いて、わざとらしく背筋を伸ばして私の目を見ている。妙に真剣な面持ちをしているのが、少し滑稽だった。
「ねえ」
妻が私に呼び掛ける。
「私のこと、そんなに心配しなくてもいいのよ」
相変わらず、脈略の無い発言をする妻だが、今は変に改まっている。ゴンドラで二人きりという状況が余計に奇妙な感覚を呼び起こすのかも知れないが、どこか非日常的な空気がそこに満ちていた。
「私はもう大丈夫だから。そんなに気に掛けなくていいの」
小さな子どもを諭すような口調だった。一体何に気を遣っているのだろう。やっぱり、よく分からないのは君の方じゃないか。俺は、ただ、少し口数が少ないだけ…
「うん。確かにあなた無口だよね。そういうとこも私、気に入ってる」
こうして向かい合うと、どうも落ち着かない。灰色の空を背にして微笑む妻はいつにも増して現実味が薄い。まるで夢を見ているようだ。風が吹き、ゴンドラがわずかに揺れる。
「あなた、まだ引きずってる?」
言いたいことがよく分からなかった。私は首を傾げて訊き返した。
「覚えてないならそれで良いのよ。事故のことなんて」
事故?一瞬何の事を言っているか分からなかったが、恐らく理科室の劇薬の一件だろう。いきなり昔話を始めるのも、妻にはよくあることだ。
「違う違う。手のことじゃなくて」
理科室のことでも無ければ、何だろう。何か大きな引っ掛かりはあった。しかし、それは考えようとするほど何故か頭が痛くなる。思考を拒絶するかのように。
事故。交通事故だろうか?一度、トンネルの中で巻き添えになる形で乗用車と衝突したが、二人とも軽傷で済んだ。その時妻が気を失っていたので、私はパニックに陥る寸前で彼女に声を掛け続けたものだ。
元来無口な私が必死になって叫んでいると、妻は居眠りから醒めるように目を開けた。
「私、寝ちゃった?」などと眠そうに言う彼女が可笑しくて、安堵と同時に笑ってしまった。それからしばらく笑いが止まらなかった。妻も状況がよく飲み込めていないくせに、腹の底から笑っていた。
「車じゃないわよ。本当に覚えてないのね。なら、それでいい」
妻の言っていることが、いつにも増して謎めいていた。曇り空を背にした彼女は、依然微笑みを崩さない。冷風が背筋を撫でた。二の腕に鳥肌が立つ。彼女の笑顔をにわかに気味悪く感じたのは、これが初めてかも知れない。
ゴンドラは徐々に頂点へと近付いていく。
その間に様々な記憶を探った。二人で登山へ行った日、美術館へ行った日、高校の文化祭、中学の陸上部、小学校の運動会、幼稚園のお遊戯会…そこまで遡れば、もはや断片的なイメージしか浮かんでない。
それでも、様々な思い出が一挙に蘇った。思えば、私の人生の一つ一つに、妻の存在が欠かさず寄り添っていた。
──ごめん、何も思い出せない。正直に言うと、妻は愉快そうにまた笑い出した。
「本当、忘れっぽいのね」
私は少し憮然としたが、直後には吹き出してしまった。気が付けば、ゴンドラは頂点にまで達していた。森の木々の高さも乗り越え、海岸が見えてきた。
「見て!ほら、海!綺麗よ」
海!海!と連呼する彼女はまさに無邪気な子どもそのものだ。私は先ほどまでの妙な気分から転換して、丘の下からいっぱいに広がる海を眺めた。
綺麗だが、灰色の空を映した海はやはりどこか物悲しい。遠くの方は嵐だろうか。黒々とした雲の中で雷が光っていた。落雷に苦痛を受けているかのように波が激しく荒れ狂っている。まるで不満や怒りをぶち撒けるように。全てを、この世のどんな幸せをも、一息に呑み込んでしまうように。大切なものを奪って、渦巻きながら去っていくように。
突然、強い頭痛が走った。私は思わず頭を抱えて塞ぎ込み、唸りを上げた。妻が心配そうに私を介抱する。
「あなた!大丈夫?しっかり!…」
何か思い出せそうな気がしたが、それは頭痛が治まると同時に何処かへ消えてしまった。ただ、前から知っていたはずのことに、今、ようやく気が付いただけだった。
「ふう。ああびっくりした。本当に」
あまり笑えるような事とは思えないが、妻は構わず笑っていた。それが私にとっては救いだった。私も釣られて笑っていた。
ゴンドラは頂点を越えて下がっていく。こちらの空は少し晴れ間がのぞいてきたようだ。丁度、妻の身体に優しい冬の陽が当たっている。
晴れてきたね。妻が嬉しそうに言う。そうだね、と私が応えた。素朴で幸せなやり取りだった。
きっとこんな風に、何もかも二人で乗り越えて来たんだな。妻の笑顔を見ながら、私は思った。
耐え難いほどの辛い出来事や、絶望的とも言える不幸な出来事は、時に容赦無く私達に向けて降り掛かってきた。それでも、この二人だから笑いあってここまで来れた。妻の気丈さは、私にとっての強さでもあった。
胸に熱いものが込み上げるのを感じた。それは妻への愛情であり、心からの感謝だった。妻を見つめる視界が、緩く歪んでいく。目を細めると、温かい雫が頬を伝って落ちた。それはしばらくの間止まらなかった。
ゴンドラが三時の辺りにまで廻って来た。空はもう、ほとんど晴れている。もう少し長く乗っていたい気もしたが、観覧車の早さはいつでも一定だ。
「…そろそろ着くね。ああ、本当に楽しかった」
心の底から満喫したように妻が言った。私は無言で幸せを噛み締める。ゴンドラはいよいよ乗降口の方へと向かう。壁や床に乱反射する柔らかな光が、二人の乗ったゴンドラを、二人の観覧車を、優しく包み込んでいた。
妻が、私の右手を両手で包むように握った。
「どうも、ありがとう」
まるで観客に挨拶をする大道芸人のような、軽快な言い方だった。それも彼女らしいと思った。私は手を握り返し、微笑みを送った。
ゴンドラを降りる。今度は上手く床を跨ぐことが出来た。
草木に結露した水滴が、陽の光に照らされて美しく光り輝いていた。
深呼吸をする。澄んだ空気が心地良く身体中に満ちていく。
観覧車を離れようとすると、新聞を読んでいた管理者が窓口の中から私を呼び止めてきた。
「ほら。二百五十円ね。お釣りだよ」
私はお金を受け取らずに、小さく伸びをしてその場を立ち去った。後ろを振り返ることは無かった。
観覧車は今もまだ、同じ場所で、変わらないゆっくりとした早さで廻り続けている。
観覧車