ビューティフル・ダイアリー(8)

三十六 欠番 から 四十 子を抱く女

三十六 欠番

三十七 汗をかく女
 優子はランニングをしている。額から、脇の下から、顎の下から、腰背筋から、股間から、膝裏から、汗がにじみ出る。それだけでは、とどまらない。体中の穴から汗を出す。口からも、日陰にいるにも関わらず、体中が毛で覆われた犬のように、口から舌を出してもなおかつ、汗を出す。ついでに、目からも涙汗を出す。もう、発汗できるところない。
 優子は次の手を考えた。次の一手であり、最初の一歩だ。ひょっとしたら千日手になるかもしれない。
自宅に帰って来た優子は、ランニングシャツ、ランニングパンツ、ショーツ、ランニング用のブラジャーを外す。そして、風呂場に掛け込む。真っ裸のまま、風呂桶を取り出す。誰も見ていない。何が恥ずかしいんだ。だからこそ、恥ずかしいのかもしれない。
 桶の上で、汗みどろの、汗で重みを増した、汗で別の形に変形した、汗で自分の匂いを全て吸い取った、ランニングシャツ、ランニングパンツ、ショーツ、ランニング用のブラジャーをひとつずつ、絞っていく。汗がしたたり落ちた。一粒、二粒、三粒、四粒。
 ランニングシャツたちは、自らの血を絞り出すように汗を出した。何のためなのか。自らが軽くなるためなのか。自らの匂いを帳消しにするためなのか。そう。その目的さえもしらずに、優子は、ランニングシャツたちを絞っていく。一滴、二滴とプラスチックの桶に汗がたまっていく、
「面白いわ」
 優子は呟いた。汗を絞ることにだけに集中する優子。今の優子の目的は、ランニングシャツたちの汗を絞ることであった。
 終わった。優子の手はパンパンだ。物を持つ力さえない。二の腕、一の腕からも、汗が再び、ほとばしり、優子はその汗さえも桶に集めた。
 本当に終わった。優子は、裸のまま、風呂場の床に座りこんだ。窓から心地よい風が優子の裸の体にまとわりついた。汗はもう出ない。代わりに、塩の結晶が毛穴から噴き出た。優子は、手のひらを舐めた。塩辛い。でも、甘い。これが、私なんだ。
 プラスチックの桶の中を見た。溶液だ。正確には、優子の汗だ。今さっきまで、優子の体の中にいた仲間だ。同僚だ。双子だ。もうひとつの私。
 優子は自分の汗を眺めていた。突然、桶の中がぐるぐると渦巻き始めた。まさか。洗濯機でもないのに。優子は疲れから来る妄想だと思った。一旦、目を瞑る。そして、ゆっくりと目を開く。
 桶の中には、水の精が立っていた。わずか五センチ足らずの汗の精。姿は優子にうりふたつだった。頭の形も、なで肩も、こぶりの乳房も、最近、ややまるみを帯び突き出たお腹も、うりふたつだった。リトル優子。優子が、汗に向かって、リトルというのは、少し憚られた。でも、リトル優子には間違いない。
「リトル優子」
 優子は汗の精に声を掛けた。水人形のリトル優子。体は水分だが、その水分は全て本体の優子の所有物だ。いや、正確には所有物だった。
 リトル優子が全身を揺する。しゃべられないため、ボディランゲージで返事をしてくれた。
 可愛い。汗臭くなんかない。優子は、手を伸ばし、リトル優子の頭を撫でた。リトル優子は、優子の汗からできているけれど、優子のエキスなのだ。そのエキスを、優子は否定できない。
 優子は、リトル優子を手のひらに乗せ、風呂場からリビングに戻ると、リトル優子をテーブルの上に置き、しばらくの間、頬杖をついて眺めていた。眺めれば眺めるほど、愛おしくなってきた。それに応えるかのように、リトル優子も、優子の前で、新体操なのか、サ―カスなのかわからないけれど、演技を披露してくれた。
 日が差してきた。西日だ。優子の住んでいる部屋には、西日が強く差し込んでくるのだった。優子とリトル優子を照らす。リトル優子が身悶えしだした。
「いけない」
 優子は、急いでカーテンを閉じようとした。だが、遅かった。リトル優子は、一滴のエキスも残さず、テーブルの上から消えていた。
「大丈夫。助けてあげる」
 優子は、リトル優子が消えたテーブルの上に立ち上がり、空気を鼻で、口で吸いこんだ。
「お陰で、助かったわ。また、会えるわね」
 優子には、音はしなかったけれど、リトル優子の声が聞えたような気がした。
「また、明日から、トレーニングを積まなくっちゃ」
 優子は、大きく背伸びをした。

三十八 ウォークマンレディ
 女が部屋の中で蹲り、じっとしている。目をつぶっている。部屋の中は真っ暗だ。耳を押さえている。耳が痛いのか。そうじゃない。女の両耳には線のついた耳栓が押し込められている。いや、耳栓じゃない。イヤホンだ。手には名刺大の機械を持っている。
 じっとした女にウォークマン。言葉の意味からは、似合いそうで似合わない。だが、これはジョークじゃない。事実だ。女は音楽に聴き入っている。
 どんな音楽なのか。音楽のジャンルは何か。民謡、童謡、演歌、フォークソング、ロック、レゲエ、ジャズ、クラッシックのうち、どの音楽なのか。それとも全く異なる、世界でただひとつの音楽なのか。
耳を澄ませてみるものの、女の耳にイヤホンがきちんと入っているため、音漏れがない。女が頭を上下に振っている。何かを口ずさんでいる。そうだ。音楽に合わせて、リズムをとっているのだ。喜んでいるのか、哀しんでいるのか、女の表情だけではわからない。
 もう、かれこれ一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、三時間が過ぎようとしている。だが、女は相変わらず、イヤホンをつけたままのシッテイングレディだ。
 指が動いた。女が人差し指で、膝を叩いている。ドラムを叩いているつもりなのか。左手を差し出し、右手をお腹のあたりに持ってくると、上下しだした。ギターをひいているのだ。口が動き出した。声は出ていない。口パクだ。 唇の動きを観察する。
 あたし・は・あたし・・・・・
 女の口から読みとれるのはそれだけだ。後は小さくなり、口を閉ざした。
 突然、女が目を見開き、イヤホンを外した。そして立ち上がると、部屋から出ていった。本当の、ウォークレディになるために。
 後に残されたウォークマン。電源はオフの状態のままだった。音楽は流れていなかった。

三十九 爪を染める女
 あたしはじっと指を見つめていた。両手の指を開いた。細長い指があたしは自慢だった。友だちからも、あなたは手の指が白くて、きゃしゃで、きれいね、と誉められた。誉められれば誉められるほど、あたしは自分の指を好きになった。
 今度は、両足の指も見つめた。手の指と違って、足の指はずんぐりむっくりだった。それでも、友だちからは、あなたは足の指もきれいねと誉められた。友だちだけじゃない。エステの人からも、全身マッサージの際、手も足も指がきれいですねと誉められた。
 エステの場合、お金を払っているのだから、おせいじに決まっているだろうけど、でも、おせいじにしても、誉められるのは嬉しかった。だが、それだけではもの足りなかった。もう少し、この指に何かをしたかった。しなやかで、きゃしゃな指だ。もうこれ以上、何も付け加えることはない。そうだ。あった。爪だ。爪にアクセントを付けよう。
 それから、あたしは、爪に絵を描き始めた。ちょっとしたアクセサリーも引っつけた。両手、両足の指全てだ。二十本の指の爪全てを彩ろうとした。
 まず、左手の親指。日本の国旗を描いた。今年は、オリンピックの年だ。自国の選手を、自国を応援するつもりで描いた。次に、人差し指。ここにビッグ ベン(今は、呼び方が変更になっているらしい)を描いた。有名なイギリスの時計台だ。オリンピックの開催地はイギリス。ロンドンだ。開催に当たって、開催地に敬意を表しするため描いた。
 次は、中指。タワーの絵だ。今年完成した東京スカイツリーを描いた。今も行列ができるほど、多くの人が訪れている。薬指に絵を描くことでタワーに登った気分になれた。
 薬指。そこには、赤十字を描いた。地震や台風、土砂崩れ、火事、交通事故など、不幸に苦しむ人に向け、追悼・鎮魂の意味を込めたメッセージだ。
 最後に、小指。小指には何を描こうか。あたしは考える。四本の指の絵は、すぐに思いついたのに、あとひとつがなかなか思い浮かばない。そうだ、自分の似顔絵だ。
 あたしは手鏡を取り出し、小指の爪に自分の顔を描いた。顔といっても、目、鼻、口に似せて、ポツン・ポツンと印を置くだけだ。似顔絵なんてものじゃない。それでも、似顔絵だと思うと似顔絵らしく見える。
 できた。あたしは、左手を顔の上に上げて、よく観察した。残りの指はどうしよう。簡単なのはどれだろう。自己主張できるのはどれだろう。やはり、似顔絵だ。点点だけで、いいからだ。それでも、何とか顔らしく見える。できた。 十六個の爪全てに、自分の似顔絵を描いた。両手、両足を突き出す。十六個が似顔絵で、残り四個が違うのは、少し変だ。バランスが悪い。あたしは、最初の四個も似顔絵に塗り替えた・
 あたしは、椅子に座り、両手・両足を突き出した。全ての爪があたしの顔だった。それが全て、こちらを向いている。一対二十の御対面。思わず笑った。これが、にらめっこだったら、あたしの負けだ。それに、相手はあたしが描いた絵だ。笑うことはない。いや、笑っているようにも見える。
 このまま街に出掛けよう。あたしには、あたしの応援団がついているのだから怖いものはない。だけど、なかなか踏ん切りがつかなかった。恥ずかしいのだ。何、あれ変よと、指を差されたり、噂されるのがいやだった。
 でも、誰も、あたしのことなんか気にしていないし、もし、両手、両足の指の爪に、似顔絵を描いているのに気がついても、どうせ、すぐに忘れるのに決まっている。しかし、もう一歩が踏み出せないあたし。
 そうだ。あたしはTシャツを胸の上までめくった。お腹がでてきた。讃岐の山の、ぽっこりお山だ。その中心部がおへそだ。あたしは、へそを中心に絵を描いた。もちろん、自分の似顔絵だ。爪に描くよりは大きい。ぽっこり部分全体に描いた。似ている。爪ではわからなかったが、今度は、描いた面積も広いので、眉から始まり、顔の輪郭、耳までも描けた。お腹を突き出し、鏡台の前に座っているあたし。
 ははははは。笑った。大いに笑った。もう、大丈夫。あたしには、もう一人、いや二十一人のあたしがついているのだから。
 さあ、行こう。あたしはTシャツを下ろし、靴を掃き、玄関のドアを開けた。

四十 子を抱く女
 由美子は抱いていた。まあ、可愛い子。由美子が胸に抱いていたのは赤い野菜。人参だった。
 あたしの可愛い赤ちゃん。にんじん子。よしよしよし、泣くのはおよし。
 由美子は胸に人参を抱いている。
 どう、お乳はいらないの。にんじん子は答えない。
 じゃあ、いいわ。そのままでいなさい。
 由美子は人参をまな板の上に置くと、冷蔵庫から、今度は、ごぼうを取り出した。
 さあ、おなかはすいていない。由美子はごぼうを持ち上げると胸に抱いた。
 ねんねこ、ねんねこ、ねんねこよ。お腹いっぱいなの?じゃあ、遊んであげる。高い、高い、ばあ。高い、高い、ばあ。
 由美子はごぼうを両手で持ち、自分の頭の上に持ち上げる。
 高い、高い、ばあ。高い、高い、ばあ。
 ごぼうは返事をしない。代わりに、急に運動したものだから、由美子の方が、はあ、はあ、はあと荒い息使いをする。由美子は、愛おしさのあまり、はあの次にごぼ子、はあの次にごぼ子、とごぼうを抱きながら、叫び続ける。
 こんなにも大事にしながら、ごぼうからは何の愛想もないものだから、由美子はふてくされてしまった。
 もういい。由美子はごぼうをまな板の上に置き、再び冷蔵庫を開いた。今度、取り出したのは、豚肉のパック。由美子は、トレイごと豚肉を持つと頭の上に抱く。
 高い、高い、ばあ、ぶた子。高い、高い、ばあ、ぶた子。
 豚肉のパックは、切り身のままぶた子と呼ばれ、ぺらぺらとするものの、返事はない。
由美子は、豚肉のパックもまな板の上に置いた。次に取り出したのは、ネギ。由美子はネギ子と名付け、豆腐もとうふ子と呼んだ。
 まな板の上には、人参を始め、ごぼう、豚肉、ネギ、豆腐が並んだ。由美子は、自分の言うことを聞かない、にんじん子、ごぼ子、ぶた子、ねぎ子、次々と切り刻み、炒め、水を入れ、とうふ子にもおしおきを加え、みそ子で味を調えた。
 できた。由美子はとん汁を食べた、由美子の、まな子も、はな子も、くち子も、みみ子も、かんじんかなめのした子も鼓を打ちながら、満足した。
 食べ終わった後、由美子は、膨れ上がって、讃岐のお山のようなお腹を撫でながら、
あたしの、おなかこ。早く出て来い。と願った。

ビューティフル・ダイアリー(8)

ビューティフル・ダイアリー(8)

三十六 欠番 から 四十 子を抱く女

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted