ぼくの家の犬は喋る

ぼくの家の犬は喋る

犬は犬にしか恋をしない。

僕は、ありえない失恋を経験した。
結婚式で花嫁が見知らぬ男にいとも簡単に掻っ攫われていく、そんな失恋だった。
取り残された男は頭のネジが何本か抜け落ちて泡を吹いて卒倒することだろう。
だが僕の頭のネジは飛ばなかったし、泡を吹いて倒れることもなかった。むしろ最初は、笑ってやり過ごすごしていた。
なぜなら僕が失恋したのは、アニメーションの中の登場人物だったからだ。
勿論、憤りを感じてないわけではない。裏切られるはずの無い人に裏切られた絶望と、珍しい体験をしたものだな、という関心がせめぎ合い、絶妙な均衡状態の中で笑うことしか出来なかったのだ。
この状況を理解していただけるだろうか、もしわからないのならば図面に書き上げて説明したって良い。
 話を続けよう。
普通は、アニメーションのキャラクターに失恋なんてしない。
彼女らは何も言わず微笑み、僕が何をしていようとも表情一つ変えない。崩れることの無い一方通行。
可能性を上げるとすれば作品の中だろうか、作品の中でヒロインが運悪く男と恋に落ちると程なく失恋を経験してしまう。
ただ、僕が失恋を経験したのは、現実の話でそれもキャラクターとのことだった。
そのせいで僕の中で事態が余計にややこしくなってしまった。

 僕が十七歳の頃、数名のナリミクと関わりあっていた。
ナリミクとは、いわばオンライン上のコスプレイヤーのようなものだ。
既存のキャラクターになりきってツイートし、コミュニケーションを行なう。ごっこ遊びの派生系の物と捉えてもらって構わない。
僕には、ナリミクの知り合いが四人いて、うち一人が僕がもっとも愛しているキャラクターのナリミクだった。
彼女を見つけたときは、子供のように喜んで(実際に子供だ)散々迷ったあげく、申請を送った。まるで初恋の相手にポエムでも渡す中学生みたいだった。
 関わってみると本当の意味で彼女は女性だった。
コメントの返信も丁寧で好感を持てたし、この人となら仲良くなれそうだと思っていた。だけど実は同じSNS内に相手役の男がいて、それも実際に交際している彼氏だと言うのだ。
ツイート上では彼氏との生活を存分につぶやいていて、酷いときには彼の家に泊まっているなど、知りたくもない情報まで投げ込まれる始末。
僕から見た構図では、僕の愛しているキャラクターが実質的に見える位置で寝取られた。
そのせいで僕は、いささか本格的な失恋の味を噛み締めさせられることになった。
今、思い返すとだんだん胸糞悪くなる。ネジが飛ぶほどショックは無かったにしろショッキングなことに変わりはない。理不尽な失恋に怒りさえも湧いた。喉には唾を飲み込んでも取れない、小骨が刺さったような違和感が鈍く残っていた。
 ここからは一般論の話をしよう。
こういう類の事は吐き出すのが一番なのだ。それで少なからず、すっきり出来るし、他人からすればある程度の笑い話になりえる。
いわば娯楽として提供できるのだ。だけど僕は、そういう事はしない。
こんな話、聞かされても面白くもなんともないことを知っているからだ。だから僕は、犬に話をする。
僕の家には話を聞いてくれる犬がいた。

                        *

 長い話が終わった。
犬は、やれやれとその場で伸びをした。体をパタパタと震わせケージを飛び出し僕の周りをぐるりと旋回した。犬のケージ意外何も無いフローリングの部屋だから爪の音がテンポ良くカツカツと響く。
犬は何かに満足するとケージに戻った。さっき犬が座っていたベッドに突っ伏し、大きく口を開け長いあくびをした。
「犬は犬にしか恋をしない」と犬は言った。
「犬も恋をするんだな」と僕は感心して言った。「むしろお前がどんな犬を愛するのか興味がある」
犬は、はっはっは、と笑い、再び鼻で小さく笑った。犬と話をするのは十九回目になるがその度に僕は、悪い夢でも見ているのではないかと、不安になった。
「私は犬嫌いだよ」と犬ははっきり言った。そして少しだけ間を置いて付け加えた。「でも、ドッグランで会うハウンドのトモゾウは2丁目のハスキーが気になるって聞いた事がある」
なんだかアメリカンジョークの一説を聞いているみたいだった。僕は、軽く咳払いをして話を戻した。
「犬が恋をするかは知らない、けど僕は少なからずアニメキャラに恋をしていたと思うな」
「私には、理解できないな。」と犬は言った。「君は平面に描かれた女性に恋をしていて、しかもその絵は肖像がですらない。なんと言うかコミカルチックな絵な訳だろう」
「まあそうだな」
「やれやれ」と犬は言った。
犬に呆れられるのも理解できた。キャラクターに恋をするなんて馬鹿だったと思う。ぺらっぺらのクリアファイルに絵が付くだけで千円近くする世界だ。我々はそれに躊躇いも無く金をはたく。正気の沙汰じゃない。
「でも恋とはそう言うものだよね」と犬が言った。でも僕はオタクがキャラクターに抱く気持ちは恋なんかではないような気がする。ましてや愛でもない。そんなわけなかった。
だって彼らは簡単に切り捨てて乗り換える。携帯の機種変更でもしているような感覚だ。見ていてそれはあんまりだと思う。
 一昔前、僕にもある程度の友人が居た。彼らは挙ってキャラクターに対し揺らぐことの無い無償の愛情を注いでいた。僕は、彼らに対しちょっとした敬意を払っていた。無償の愛など簡単に注ぐ事はできないことを僕は知っていた。馬鹿にされようとも、世間に敬遠されようとも彼らは、まっすぐ決めた道を行っているように見えたのだ。
だが、四年の月日が流れ、ふと僕が振り返ると彼らはみんな、別のキャラクターを愛していた。例外も、もちろん存在するんだろうけど、大多数は電車でも乗り換えるみたいに他のキャラクターのTシャツに袖を通していた。

                    *

****さんよりメッセージ
件名:なし

内容:挨拶も無しにいきなりで悪いけど、彼女と僕は付き合っているんだ。
だから僕は、彼女を守る義務があるからこうしてあんたにメッセージを打っている。あと、いつもあんたがあいつに話しかけてくるのを見て滑稽だと笑っていたよ。
でもね、最近はとても嫌な気分になってしまうんだ。
ストーカーを見ている気分みたいだ。彼女もうっとおしいと言ってた。常識的に考えて人の彼女にしつこく絡むのは、マナー違反だと思わないのか?
まあ、別に話しかけるのをやめろとは言わないけどさ、常識の範疇で話しかけろ。

                                   2008/6/12

                    *

 犬は溜息をついて身を起こし不味そうな水に口を付けた。
犬は二口だけ口を付けて「変えてくれ」と言った。僕はdog waterと書かれた白い器を持って洗面台に行き、器を漱いでから水を入れた。
帰ってくると犬は待ちどおしそうに尻尾を振り部屋の中心に座っていた。僕は犬の目と鼻の先に水を置くと勢い良く犬は、水を飲んだ。
水を飲み終わると犬は満足そうにぺろりと舌で口を拭い、座った。溜息をついてぼうっと空を眺めていていた。そこには誰もいない、白い壁があるだけなのに犬は、何かを眺めているみたいに一心不乱に壁を眺めていた。沈黙。僕は、犬が何を見ているのかを必死に考えていた。壁のシミかもしれないし空気中を漂う塵かもしれない。または、人には見えない何かが存在していて人間には聞こえない言葉で彼らは会話して人間をあざ笑っているのだ。しばらくして犬は何かを諦めたようにケージに戻った。
「つまりだ」と犬は言った。「アニメキャラもこの水も同じようなものなのさ。消耗品なんだよ。よくアニメキャラは歳をとらないだとか言われるけど、実際はすごい勢いで老いている」
「犬よりも早く」と僕は言った。
「そうなると犬は偉大だ。そう言った意味なら人間とほぼ同じぐらいから存在している。ゴールデンレトリーバーなんて一九世紀後期から今尚存在しているんだ。犬とは素晴らしいコンテンツだろ」
僕は不本意ながら仕方なく頷いた。犬はそれを確認すると満足そうに頷いた。
犬は言った。「アニメも犬もなくて困る人は居ない。アニメが無いと地球が無くなってしまったり、人を殺してしまう人間を想像できるかい」
僕は言った。「まだ世界からアニメは無くなっていないから分からないね」
「君はどうなんだい」と犬は首をかしげた。
僕は、少しだけ考えて言った。「泡は、吹くかもしれないけど人は殺さないかな」
「覚えておこう」と犬は笑った。

 アニメが無いと困る人はたくさんいることは確かだった。
偏ったデータだが、オタク文化は日本経済の一部を支えていたし、明日から急に無くなればたくさんの失業者が生まれる。もしかしたら人殺しやレイプが発生するかもしれない。犬と同様、オタク文化も人間の一部として根を下ろし始めていた。娯楽とは、無くても生きていけるようでそうでもない。
なくても困らないものは最初からこの世には存在しないのだ。
地球が無くなってしまったとしても人間とアニメと犬は生き続ける。

 犬は、再びケージからフローリングの部屋に飛び出した。フローリングに座り込んで器用な後ろ足を使い耳の後ろをボリボリとかいていた。
「ところで何の話だったか」と犬は、気持ち良さそうに言った。
「恋の話だな」
「ああ、そうだったね」と犬が言った。「私が思うにね。素晴らしいか醜いかそういう話はおいといてオタクはキャラクターに恋をしているんだ」
「へえ」と僕は、無関心な返事をした。
「だけど、それじゃ駄目なんだ。そんなのは何の意味も無い。我々犬の爪の垢にさえもなれないね」
犬は、フローリングの床をコツコツと二回突いた。
「垢になりたいとは思わないけど、念のために聞こうか。君にとって意味のある恋とはなんなんだい」と僕は聞いてみた。
「愛を知ることだね」
犬は、満足そうに言い放った。僕は鼻で笑った。

 あとになっての話だ。
犬の言っていた事は半分当たっていた。なぜなら我々は、何も分からずに恋だの愛だのとほざいていたからだ。結論にたどり着いたとき、本当にこの世に愛は存在しているのかと、心底疑問に思った。
僕が愛だと騒いでいたものが、実は全く違うものだったのだ。当然絶望する。なにせ長い間、自分は間違った見解を自慢げにぶら下げていたからだ。裸の王様も同然だ。
 多くのオタク達は、キャラクターに恋をしていると思い込んでいるのだ。真実は違う。自分の痛々しくて見っとも無い姿に酔いしれているだけだ。彼女のことなんて実際にどうでも良い。用は彼女のことを愛しているのではなく、そうやって痛々しい姿を周囲に見せ付けて他人とは違い特別なのだ、と主張しているに過ぎない。まだ、心のどこかで自分は、特別だと思っていて他人との差別化を図っているのだ。
可愛いものを可愛い、と言う自分が可愛いと思いこんでいる女と同じだった。
 そんな人間に愛があるかどうかなんて分かるわけがなかった。自分を可愛いと思っている人間は、人を愛することなんて出来ない。
「それは違うよ」と犬は急に言った。
犬はゆっくりと僕に歩み寄ると僕の太ももの上に座った。顎を僕の太ももに乗せると眠そうに話し始めた。
「愛はね、後から気付くものなんだよ。あと十年もしないうちに私は死ぬだろうけど、君は酷く泣いてしまう。そうだろ?」
僕は少しだけ迷って頷いた。
「愛とはそういうことだ」
そう言って犬は目を瞑った。

ぼくの家の犬は喋る

初投稿です。

良ければ感想、アドバイスなどを頂けたらと思います。

ぼくの家の犬は喋る

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted