月食

月食

 フォークとナイフの音だけが、響く。静かな食卓。気が重い。大好きなハンバーグなのに、だ。無理もない。きょうはやっと「重い業務」のヤマ場を越えた。でも、何も話す気にならない。
「ママー、ハンバーグおいしいよー」
 6歳になる娘が無邪気に話すが、どこか遠くで声が聞こえている。そんな気がする。
「健ちゃん、大丈夫?」
 妻の気づかいにも、うなずくことでしか、答えられなかった。

 調査委員会が立ち上がったのは2か月前。わが愛知福祉大学柔道部の、女子部員からの相談がきっかけだった。大学の規定により、准教授以上の中から、5人の調査委員がランダムに召集された。ついていない。紙切れ1枚を、理事会の幹部から手渡された。「国際関係学部 准教授 岡田健介 45歳 調査委員に命ずる」
 西アフリカ地域と、日本とのフェアトレードに関する研究論文を執筆している真っ最中だ。締め切りが迫っている。被害者、加害者との関係があれば拒否もできるが、双方との接点はない。
 ただし、加害者とされる男の名前は知っている。日本中のだれもが知っているといっていい。7年前のオリンピック。柔道で金メダルを獲得し、インタビューで「俺は世界一幸せ者だー!」と絶叫した。その年の流行語大賞にもなり、一躍「時の人」となった。
 柴田哲三。33歳。その柴田を、わが大学は昨年、柔道部のコーチとして招いた。知名度は抜群。ルックスもいい。少子化の時代、採算がとれず倒産する大学もあるぐらいだ。スポーツで名を上げようとする大学の思惑は、わからなくもない。ネックはあった。「女ぐせが悪い」という情報だ。ただ、人間を噂だけでは評価できない、との判断でオファーしたらしい。その判断は妥当だ。しかし……。

 今回の相談は、大学1年の柔道部の女子部員。こともあろうに、遠征先の東京で性的な暴行を受けたというのだ。コーチである、柴田からだ。にわかに信じられなかった。
 あぁ、貧乏くじだ。女子部員からの聞き取り担当を、命じられた。日程は12月10日。その日の夜は、十数年ぶりの皆既月食の日だった。しばらく前に、妻から「どうしても見たい」とリクエストがあり、家族3人で観察する約束をした日だった。「詳しくはいえないけど、重い業務なんだ」と妻に伝えると、「仕方ないね」と残念そうだった。
 相談者に威圧感を与えないために、1人で聞くことになった。ノックが聞こえた。学部の相談室に、A子が入ってきた。整った顔立ちと、柔道選手とは思えないスラッとした外見。しかし、表情はどんよりと暗く、伏し目がちで、その美貌は台無しだった。
「お酒、全然飲んだこともないのに、柴田コーチから『大学生は大丈夫』とか『警察も目をつぶってくれる』と勧められて、初めてビールを口にしました」
「何杯ぐらい飲んだの?」
「一口だけです。すごく苦くて。でも、そのあと、カシスオレンジを注文されて、これはましだなと思って、飲んでいたらいつの間にか、記憶がなくなって・・・。それで、気づいたら、ホテルの自分の部屋でした」
「柴田は?」
「もういませんでした」
「じゃあ、なぜ柴田とそんなことになったといえるんかな?」
 まずい。相手は被害者なのに、少しきつい口調になってしまった。それでも彼女は、冷静に答える。
「私、居酒屋からホテルまで、コーチにかつがれていたそうなんです。あとから、チームメイトが教えてくれました。で、心配になって、コーチに聞いたら・・・」
「聞いたら?」
「したって・・・」
「・・・」
 彼女の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「『お前がお願いします、って言ったからだ。覚えていないのか』ってきつく言われました」
 言葉に詰まった。柴田は妻子を持ち、しかもオリンピックの金メダリスト。どんな男女の関係があるとしても、未成年の女性と肉体関係を持った上に、そんな言い訳を吐くとは。被害を受けたA子を前に、何ともいえない嫌悪感がわき上がってきた。
 その日の晩は遅くなった。ほかの4人の調査委員と今後の対応を協議し、終わったのは午後11時。大学を出ると、空には見たこともない、赤銅色の月がぼんやりと浮かんでいた。この日は、妻のためにデジタルカメラを持って、出かけた。レンズを空に向け、何枚か撮った。
 妻にメールした。「今から帰る。ごめん」。返信はなかった。いつもなら絵文字だけでも返してくれる。珍しく、機嫌を損ねていることが伝わってきた。
 翌朝、デジカメの写真を妻に見せると、目を輝かせて喜んでくれた。少し、ホッとした。
「へぇ。こんな不思議な色をしてるんだぁ」

 妻と知り合ったのは12年前。彼女は、ぼくの所属する学部の事務局に配属された。初めて話したのは、学部の歓送迎会。たまたま隣の席になった。ほんわかした外見とは逆に、いうべきことはいう。理知的な女性というのが第一印象だった。そのギャップにひきこまれた。
 その年の夏休み。思い切って、静岡である野外コンサートに誘った。チケットは友達からもらった、とウソをついた。本当はネットオークションで定価の3倍もの金をつぎ込んで落札したのだ。彼女が好きな、ミスターチルドレンが出演するからだ。
「えー!本当ですかぁ?いいんですか、わたしで!」
喜んでくれて、うれしかった。その日の夜、名古屋に車で戻って、初めて2人で食事をした。名物の手羽先を、おいしそうにほおばる彼女の姿を見て、ますます好きになった。
 デートのペースは早まり、週2回は2人で出かけた。告白・交際・プロポーズ・結婚・・・。何の障害もなく、トントン拍子で2人、歩んできた。6年前には、娘を授かって、出産にも立ち会った。2人を結ぶ大切な命。そして、日々成長。言葉にならないほどの、感謝の気持ちでいっぱいだ。
 柴田の件で、家族にはたくさんの迷惑をかけてしまっている。でも、妻はいやな顔1つ見せず、気づかってくれる。その姿に、頭が上がらない。

 女子部員から聞き取りをしてから、1週間後。柴田への聴取の日がやってきた。今回はほかの調査委員2人が、自分の両隣に並ぶ。柴田は、時間通りやってきた。評判どおりのイケメン。しかし、表情はこわばっていた。
 柴田は、あっさりと事実を認めた。
「彼女には、もともと好意を持っていました。あの日、彼女はかなり酔っていました。彼女から『1人で部屋に戻れない』とぼくの肩にあごを乗せてきました。ぼくも酔っていたので『じゃあ、連れて帰ってやるぞ』と冗談のつもりで言いました。すると彼女は『お願いします』と言ったので・・・」
「言ったので、何だ?」
 となりにいる最年長の教授が、きつい口調で口を挟む。調査に関しては何もしていないのに。いいとこ取りか。癇にさわるやつだ。
「部屋に連れて行きました」
「それで、ことに及んだと・・・」
「・・・」
 柴田は黙りこくっていた。朝方、目が覚めて、急にこわくなって、部屋を飛び出したという。罪の意識を感じていたのは、その行動から、明らかだった。
 今後のことを話すのは、自分の担当だった。事務的な話だ。
「今回の件は、指導者が学生と肉体関係を持つという、重大な信用失墜行為にあたります。重い処分になるということを覚悟しておいてください。調査委員会から大学に報告し、大学から改めて連絡があります。よろしいですか?」
「・・・クビということですか?」
「それも含めて、検討しますので」
 どんよりとした空気の中、聴取は終わった。その後、開かれた調査委員会での結論は、全会一致で「懲戒解雇」だった。
 火のないところに煙は立たない。そういうことだろう。柴田の「女ぐせが悪い」という噂は、噂ではなかった。柴田には妻もいる。子どももいる。家族の気持ちを考えると、いたたまれなかった。

 食事のあと、「重い業務」の余韻にひたりながらテレビを見ていると、食器を洗っている妻の声が聞こえてきた。
「あぁ、月食、見たかったなぁ」
「ごめん」
「あ、ううん」
 とりとめもない会話。なぜか、この前見た赤銅色の月と、柴田の顔が重なって見えた気がした。

 夫の表情が、いつになくさえない。「重い業務」とは聞いていたけど、詳しくはわからない。好物のハンバーグ。いつもは「おいしいなぁ。早苗、店出せるよ」と決まり切ったセリフでほめてくれるけど、今日はそれもない。
「ママー、ハンバーグおいしいよー」
娘が屈託のない笑顔を見せる。「ありがとね」。そのやりとりも、視界に入っているはずなのに、反応がない。
「健ちゃん、大丈夫?」
 顔をのぞきこんで声をかけてみたが、相当疲れているのだろう。目を合わせず、うなずくだけだった。
 だいたいの予想はついている。「てっちゃん」、いや「柴田哲三」の件に関わっているのだろう。2か月ほど前に、夫の携帯電話が鳴り、内容を少し聞いた。「調査委員」「柴田」・・・。てっちゃんの身に何かがあったことは、推測できた。

 出会いは高校だった。わたしが高校3年生で、彼は1年生。「イケメンの柔道選手が入ってくる」と、入学前から噂が流れてくるほどだった。初めて見たのは、1学期が始まってすぐ。すでに女子に囲まれ、私は遠巻きから眺めることしかできなかった。

 理由なんてない。一目惚れだった。

 私の高校では、ちょうどルーズソックスが流行り始めたころ。けど、私は地味なタイプだったし、そもそも興味がなかったので、はかなかった。てっちゃんを囲む女子たちは、ルーズソックスをはき、スカートも膝上まで上げるようなタイプの子ばかり。私の入るすきは、なかった。
 けど、あきらめきれなかった。親友に相談した。「アタックしてみたら?」。その言葉に背中を押され、放課後、その親友に「柴田くん」を呼んでもらった。
「あの、ずっと見てて、好きになってしまいました。友達からでもいいから、お願いします」
 自分でもびっくりするぐらい、ありきたりなフレーズだった。返答はあっさりだった。
「いいよ」
 その日は、2人で帰った。ラッキーなことに、途中まで同じ方向の電車だった。一緒に乗り、先に私が降りた。改札を出た瞬間、飛び上がって喜んだ。人だかりができるほど人気のある人を、手中に収めた。その優越感は、何ともいえなかった。その人だかりも「彼女ができた」という噂によって、徐々に少なくなっていった。
 週3回は、一緒に帰った。「なんて呼んだらいい?」と聞いたら、「中学時代から『てっちゃん』と呼ばれてた」と教えてくれた。それまでの「柴田くん」をやめて、「てっちゃん」と呼ぶことにした。会話は弾んだ。柔道のこと、好きな音楽のこと、テレビのこと、話は尽きなかった。駅のホームのベンチで話し込み、電車を何本も見送ることもあった。手をつなぐことはなかった。でも、時々、顔をくしゃくしゃにして笑うてっちゃんと一緒にいれるだけで、幸せだった。
 しかし。3か月が過ぎたころ、聞き流せない噂が、耳に届いた。
「太田川で、柴田と彼女が、手をつないでデートしてるのを見た」
 理解できなかった。太田川なんて行ったことがない。しかも、てっちゃんと手をつないだこともない。胸騒ぎがした。押さえきれず、聞いた。
 いつものように、駅のホームのベンチだった。
「てっちゃん。女の子と太田川で遊んだことある?」
「は?」
 表情が急に曇った。
「いや、あるかどうか聞いただけ」
「あるけど、だから」
 見たこともない顔つきに変わった。冷たい目。そして、吐き捨てるように言われた。
「おれ、好きな人いるから、ごめん」
 真っ赤な電車が到着した。てっちゃんは、スッと立ち上がり、何も言わずに車内へ消えていった。
 私は動けなかった。初めての失恋だった。初めての恋愛だった。涙は、流れなかった。
 てっちゃんを恨めば良かった。憎めば良かったと思う。でも、できなかった。接する機会はなくなったけど、学校の中で、ふと目にすることがある。どうしても、目で追ってしまう。そんな自分が、嫌だった。
 仲を取り持ってくれた親友が、なぐさめてくれた。
「柴田はいろんな女の子と遊びに行ってるみたい。あんな男、最低ね。はやく別れて良かったよ、さなえ」
 わたしの心は癒されなかった。その親友が、てっちゃんと手をつないで歩いていたと、あとから聞いた。まぁ、よくある話だな、と思っただけだ。

 2度目の恋愛が、今の夫だ。職場で知り合った。結婚して、私は専業主婦となった。10歳も離れているけど、その差はあまり感じなかった。居心地がいい。自分のありのままの姿でいられる。この人しかない、と心底思えた。トントン拍子で、結婚・出産・育児・・・ライフステージを駆け上がった。もちろん、てっちゃんのことなんて、すっかり忘れていた。
 しかし、ひょんなことで、彼との思い出がよみがえる。7年前のオリンピック。てっちゃんが、金メダリストになった。自分のことのようにうれしかった。懐かしい顔は、テレビの中だった。インタビューで「俺は世界一幸せ者だー!」と答えるのを見て、思った。「高校の時と変わってないなぁ」って。
その少しあとに、私たちの結婚式があったように記憶している。てっちゃんのことを「知り合い」だと、夫に自慢したかった。でも、できなった。しとけば良かった。できなかったのは、何かやましい気持ちが、自分の中にあったからかも知れない。
 そのてっちゃんが、夫の職場に来るなんて。信じられなかった。当然だが、何も聞けなかった。
 さらに、追い討ちをかけるような出来事が続く。今年の「皆既月食」だ。てっちゃんとつき合って、3週間ぐらいだったか。その日の晩は、皆既月食が見られる日だった。私たちの地域でも観測できると聞いた。学校の帰り、てっちゃんと2人、高校の近くの神社で、その瞬間を待った。境内の石段に座る。体は、ギリギリ接していない。その距離感に心拍数が高まる。それを振り切るように言った。
「ねえ、てっちゃん」
「ん?」
「月が見えたら、約束してくれる?」
「いいけど。どんな?」
「結婚して」
 顔を見合わせる。一瞬、間があったあと、2人で大笑いした。
「いいよ」
「まじでー!」
もちろん冗談だ。分かってはいたけど、うれしかった。その日、月は現れなかった。どんよりとした雲に包まれて。
 私は別の「瞬間」も期待していたかも知れない。でも、何もなかった。てっちゃんは「あぁ、見たかったなぁ、月食。どんな感じなんかなぁ」と、つぶやいていた。
 今年の月食は、あの時以来。年の初めから知っていた。夫と娘と、3人で見る約束をした。大切な家族と月食を見る。そうすれば、てっちゃんとの思い出に「上書き」できるかもしれない、と思ったから。でも、夫は約束を守ってくれなかった。「重い業務だ」とだけ、言い訳をして。
携帯を見ると、夫からのメールだった。「今から帰る。ごめん」。返信できなかった。謝るのは、私のほうだ。こんなに思い出に引きずられて生きている私。だめな妻。だめな女だと思う。
 夫は翌朝、カメラに収めた月食の写真を見せてくれた。「これで勘弁して。ごめん」。夫のやさしさに触れ、罪悪感は増すだけだった。

 食事が終わり、食器を洗う。この食卓に、てっちゃんがいる可能性は何%あったんだろうか。もしあの時、月食を2人で見ていたら・・・。そんな思いにふけりながら、思わず口にしてしまった。
「あぁ、月食、見たかったなぁ」
「ごめん」
「あ、ううん」

 「懲戒解雇」が公表された数日後、柴田は警察に逮捕された。

「大きくのってるだろ。大変だったんだよ」
 リビングの片すみ。食い入るように、新聞に目を通す妻。背中しか見えない。呼びかけても、反応がない。
「教え子に性的暴行容疑で逮捕 柴田容疑者 五輪金メダリスト」
 社会面に、大きな見出しが躍っている。有名コーチによるセクハラ行為。スキャンダルが、大きく報道されている。ぼく自身の名前も「広報担当」の肩書きで載っている。妻としても、決して気分のいいものではないだろう。
「月食、月食見たかったね・・・」

 月食?

 ぼくの聞き間違いか。そんな話題の記事はどこにもないはずだ。確かに、この前、月食を見ることはできなかった。そのことを思い出しているのだろうか。最後の言葉はよく聞き取れなかったが・・・。

「大きくのってるだろ。大変だったんだよ」
 てっちゃんが逮捕されたのは、昨日のテレビニュースで知っていた。新聞を広げた。大きな見出しだった。夫の名前も載っていた。やっぱり。「重い業務」とは、このことだったのか。てっちゃんと夫は、接触していたにちがいない。
 あのころのてっちゃんの姿が、ぼんやりと浮かんできた。駅のホームのベンチで、柔道のことを楽しそうに話すてっちゃん。神社の境内で月食を待ちながら、大笑いするてっちゃん。「好きな人いるから」と、背中を向けて電車に乗るてっちゃん。新聞には、あのころと変わらないてっちゃんの顔があった。
あぁ、これで終わった。2人をつないでいた1本の糸が、プツリと切れた。そんな気がした。

「月食。月食見たかったね、てっちゃん」

 ある日の新聞記事より
 五輪の柔道男子金メダリストで、愛知福祉大(名古屋市)の女子柔道部コーチを務めていた柴田哲三容疑者(33歳)が、部員の学生に性的暴行をした疑いが強まったとして、警視庁は、準強姦容疑で逮捕した。柴田容疑者は「合意だった」と容疑を否認しているという。
(この物語はフィクションです)

月食

月食

忘れたい恋、忘れたくない恋、忘れていた恋・・・あなたにはいくつの恋がありますか。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-12-20

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