カレに代わってピッチャー元カノ

天使フィリップ

――死んでやる――
 それは乙女のプライドだった。
 ――今ここで死んでやる――
 空も。
麗華に共鳴している。
 暗雲が立ちこめ、一瞬で真っ暗になり、雷鳴が轟く。
 ――私は乙女のプライドを貫き通すのよ、ざまあみろミルクめ――
 雷が。
 近くに落ちたようだ。
 ――えいっ!――
 つかの間彼女は白鳥になった。
 いやいや、そんなに綺麗じゃないから、アヒルかな。
 空も校庭も、見慣れた町並みも、大きなブランコのように、ゆら~りと上になり下になる。
 死ぬ気まんまんの飛べないアヒルは、重力のまま落下する。
 校舎裏の駐車場の、アスファルトが目の前に迫ると、視界はブラックアウトした。
 暗闇の中で、ゴキン、グシャンと骨の砕ける音だけが響いた。
 いくつかの本で読んだ臨死体験のとおり、暗くて狭いトンネルをすごいスピードで昇っていく感覚。
 ――死んでやる――
 「……てくれ……」
 ――このまま死んでやる――
 「……たす……くれ……」
 ――え?――
 「助けて……くれ」
 ――なに?――
 「助けてくれ」
 ――誰よ?――
 目を開けてみると。
 いつの間にか空は、綺麗な夕焼けに戻っていた。
 麗華は屋上とアスファルトの中間くらいで浮いている。
 足下に自分の死体がある。
 夕陽に照らされ、黄金色に輝く絨毯のように広がった血の池に、浮かぶように。
 躯はまだケイレン中で、ダンサーがフィニッシュのポーズをとるみたいに手足を伸ばして、そこで動かなくなった。
 頭から顔にかけては、粘土のボールを床におとしたように潰れている。
 ――あたしは死んだ――
 乙女のプライドを貫き死んだ。
 蝉時雨が、静寂を一層引き立てていた。
 「たのむ、助けてくれ」
 「きゃあっ!」
 「感慨に浸っているところを悪いんだが」
 「誰よあんた」
 それは初老のおじさんだった。
 ついさっきまで高校生だった麗華には、年齢まではわからなかったが、髪の毛の半分以上が白い。
 ウイーン少年合唱団みたいな白装束を着て、古ぼけたショルダーバッグを肩から下げ、麗華と同じ高さで浮いていた。
 ――そういえば、昔のテレビでドリフターズがコントでこんなかっこうしてたっけ――
 「天使だよ」
 男はいった。
 「あんたが?」
 「フィリップでいいよ」
 「じゃあ、あんたがあたしを天国に連れてってくれるんでしょう?」
 「いや、それが……」
 フィリップは困った顔になり、
 「ちと事情があってな、少しばかり手を貸してもらいたいんだが」
 と言いにくそうに言った。
 「じゃあ、さっきから『助けてくれ』って言ってたの、あんただったの?」
 「まあね」
 「『まあね』って、あたしはたった今死んだばかりなのよ、ふつうあなたがあたしを助けるんじゃない」
 「だからそこをなんとか……」
 麗華は「いやよ」という言葉を喉元で呑み込んだ。
 このフィリップとかいう、インチキ臭いジイサンが本当に天使だとしたら、下手に機嫌を損ねたら、天国どころか地獄に落とされるかもしれない、と考えたのである。
 麗華は一度大きな溜息をついてから、
 「なによ事情って」
 とフィリップをにらんだ。
 「ある人に憑依してもらいたいんだが」
 「憑依して、どうすんのよ?」
 「その人に成りすまして、何日か過ごして欲しい」
 ――め、めんどくさい――
 「あたしはね、生きるのが嫌になったから自殺したのよ。それをまた生き返れだなんて……」
 フィリップは「そこをなんとか」と言いながら、ショルダーバッグからなにやら分厚い百科事典のような本を取り出し、パラパラとめくって「ああ、あった」と一つのページに目を留めた。
 「姫野麗華くんね。自殺の理由は……家庭内の揉め事と、学校で特定の女子から日々繰り返される、嫌がらせ。いわゆるイジメというやつか……うーん、男性問題もあるようだね」
 と、まるで市役所の市民課の職員のように、事務的に独り呟いた。
 「自殺にしてはやや安易な動機だが、最近の若いコはずいぶん簡単に死ぬんだね、私も忙しくてかなわん」
 最後は皮肉っぽく毒づいて嗤った。
 「あんたには関係ないでしょう?その特定の女子ってやつから、あたしがどんな仕打ちをされ続けてきたか、あんたになにがわかるっていうのよ」
 麗華がたまらず声を荒げると、
 「確かに」
 とフィリップは本から目線を上げて、上目遣いに麗華を見た。
 「確かに私には関係ない話だが、君たち若い人は自殺をするということがどういう意味なのか、わかってないようだね」
 フィリップの視線の鋭さに麗華は一瞬気を呑まれた。
 「な、なによ意味って」
 「霊界では自殺は大罪なのだよ」
 「え……えええっ!」
 「まさか君、死後に天国に行ける、なんて思っていたんじゃないかね」
 「そこまで高望みはしてないけど……じゃあ、地獄に行くの?」
 フィリップは目を閉じて、ゆっくりと首を振った。
 「地獄以下、つまり論外、ということだよ」
 「う、うそ……」
 「考えてもみたまえ、霊界から人間界に転生するということは、修行のために送り出されたということなんだよ、自殺をするとは、その修行を自ら放棄したという意味になるわけなんだね、これが」
 「じゃあ、どうなるの、あたし?」
 「霊界の刑法三十一条にのっとり、霊界の森へ追放されるのだよ」
 フィリップは、哀れむような視線を麗華に向け、今度は裁判官のように重々しく低い声で言い放った。
 「えええっ……って、それだけじゃ意味わかんないんだけど、それってどういうことなのよ」
 「つまり、広い霊界の中には、これまたとてつもなく広い森があるんだが、その森の奥深く、深くふかーいところで、木になって何万年、何十万年も動けずに、誰とも会話できずに過ごすという刑なんだね、これが」
 話を聞きながら麗華の顔がひきつっていく。
 それは、気が遠くなるほどの永きにわたる、孤独と拘束という絶望を意味していた。
 「あの……じゃあ、その、あんたを手伝えば、そうならないようにしてくれるっていうの?」
 「約束するよ」
 「その、憑依する相手の人って誰よ?」
 「藤村仁」
 「えええっ?」
 その名前は麗華を愕然とさせた。
 「君もよく知っている人、だね」
 「ちょ、ちょっと……ジンが……なんで、また?」
 藤村仁。
 名前はヒトシと読むが、麗華は「ジン」と呼んでいた。
 彼は麗華の中学時代の同級生であると同時に、県内でも有名な高校野球のピッチャーだった。
 本人もそれを鼻にかけて、ちょっと天狗になっているところもあったが。
 将来を嘱望され、このあたりではちょっとした有名人だった。
 そして、直接ではないが麗華の自殺の原因の一つでもあったのだ。
 「彼はね」
 フィリップはこれまでで一番厳しい顔つきで、遠くをながめて言った。
 厳しい顔になると、目が猛禽類のように鋭くなり、最初の印象よりずっと怖い顔になった。
 「彼は、やってはいけないことをやってしまったんだよ」
 「やってはいけないこと?」
 「悪魔を召喚して、魂を売ってしまった」

ジンの家

藤村仁の家は麗華の学校から、数キロほど南にあった。
 二階建ての、同じようなかっこうをした建売住宅が幾つか並んでいる、一番東の端で、二階の東側が仁の部屋だとフィリップは案内してくれた。
 初めて入る仁の部屋だ。
 付き合っていたはずなのに、初めてだ。
 麗華に今心臓があるなら、さぞドキドキしていたことだろう。
 同い年の男の子の部屋自体初めてだった。
 だが、そんな気分もほんの一瞬だった。
 フィリップの後に従って、屋根から直接仁の部屋に入る。
 実体のない麗華とフィリップは、屋根も天井の板もまったく関係なく素通りできた。
 六畳ほどのフローリングの部屋の中央に、仁がうつ伏せに倒れている姿は、麗華を一瞬フリーズさせた。
「ジン、ねえ、ジンってば……」
 「むだだよ、もう死んでる」
 「そんな……こんなに綺麗なのに、なんだか眠ってるみたいなのに」
 「そういう君だって、もう死んでるんだがね」
 「そう……そう、だった」
 フィリップににべもなくそう言われて、麗華も初めて自分の死を自覚すると、なんだか涙があふれてきた。
 倒れている仁の下には、大きな紙に描かれた魔方陣のようなものが敷かれている。
 仁はそれを覆い隠すように倒れたらしかった。
 「いったい、いつ死んだの?」
 麗華はしゃくり上げながら聞いた。
 「ついさっき、君が飛び降りたのと同時くらいかな、空が一度真っ暗になっただろ?」
 「よく憶えてないけど……」
 「あの時に、悪魔が蘇ったわけだ、正確には死んだのではなくて、魂を抜き取られたわけだが……」
 「どうしてそんなことになったのよ?」
 麗華が聞くとフィリップは麗華に掌を向け、
「急ごう、少しでも早い方がいい」
とさえぎった。 
 体育会系特有のド派手な半パンのジャージとTシャツから出ている腕や首は、本来なら野球部にありがちな部分焼けで真っ黒のはずなのに、すでに蒼白になっていて、死後硬直が始まっていることを示していた。
 フィリップは無造作に仁の下の魔方陣を引っ張り出すと、手品師のようにそれを一振りして燃やしてしまった。
 「こんなのがあると、間違ってまた変なのを召(よ)んでしまいかねないからね」
 麗華を仁の隣に座らせ、なにやら口の中でもごもごとアラビア語だかヘブライ語だかの呪文をひとしきり呟き、最後に気合とともに「カーマハ・キマグレッ!」と叫んだところで、麗華は気を失ってしまうのだった。
 再び目を覚ました時には、麗華は仁の体に入っていて、相変わらず床の上にうつ伏せに倒れている状態だった。
 ――あれ?なにが起こったの?――
 「あ……う……」
 ――なに?動けない――
 「動かない方がいいよ、少し体が冷えていたようだから、血が流れて温まるまで時間がかかりそうだ」
 「え……?」
 「説明するからそのままの状態で聞きなさい」
 「あ……い……」
 「今の時代の人間たちは、スポーツという体を動かす娯楽を楽しんでいるようだが、これは紀元前九世紀あたりのオリンピュアの大祭に起源をみることができようかな、ともかく君のボーイフレンドはその中の野球というボールを使った種目をやっていたようだね」
 「え?」
 ――そ、そのレベルから説明するの?――
 「ん?ああ失礼、もっと噛み砕いて説明しようか」
 フィリップはそう言って笑ったようだったが、うつ伏せの麗華に彼の顔は見えなかった。
 ここで余談だが、仁に憑依した麗華をどちらの名前で呼ぶか、作者も正直さんざん悩んだのだが、以降は一応「麗華」で統一することにしよう。
 「その野球というスポーツの高校生の大会が明後日、つまり七月十日から始まるらしいのだが、仁君は大会の直前にきてプレッシャーのあまり、悪魔に魂を売る契約を結んでしまったのだよ」
 「えええっ?」
 「すなわち『魂を売るから試合を全て勝たせてくれ』とでも契約したんじゃないかな」
 ――いくら緊張してたからって、そんなマニアックなことしなくても……――
 「いやいや、彼はもともとカルト趣味があったようだ……」
 「うそでしょ?ジンにそんな趣味があるなんて!」
 麗華は血相を変えて飛び起き、部屋の中を物色した。
 「こらこら、いかんな他人の部屋をそんなにひっかき回しては」
 「いいの!あたしにはその権利くらいあるでしょ?これでも一応元カノなんだし、何日かジンに代わってあげるんだし、どっち道ここで何日か暮らすんだし……」
 ――そうはいっても。ごめんねジン――
 一度は彼氏と呼んだ間柄である。
 さわやかな笑顔と、抜群のルックスで、誰にでも優しかった仁のタンスや机の引き出しを、疑いの目でいじくり回すのは、麗華にとっても良心の呵責に堪えなかったのであった。
 だが結果。
 呪いの藁人形セット。
 呪いの白魔術セット。
 呪いのジプシー魔術セット。
 「な、なんでこんなに『呪う』のが好きなのよ」
 さすがに麗華が悲鳴をあげると、
 「ずいぶんとディープな趣味を持っていたようだね」
 と、フィリップがまるで殺人事件の現場検証をしているベテランの刑事のように、無感動にこたえた。
 おまけに。
ロリータ・SM趣味のエロ本多数、ロリータ・SM趣味のDVD多数、ロリータ・SM趣味のブルーレイ多数。
 ――なにもブルーレイで見なくたって――
 「パソコンと携帯もみてみるかね?」
 「も……もう、いい……」
 パソコンと携帯ともなると、もっと「黒い」趣味が見つかりそうだった。
 ――き、きめえ。こいつきめえ――
 麗華は下半身の力が抜け、とうとう座り込んでしまうのだった。
 「ま、まあ、『呪いのセット』はともかく、それ以外のオモチャだったら、今時の男はだいたいこんなもんだがね」
 「そんなはずないわ、あんなさわやかだったジンが、まさか……」
 麗華の心の中で、「ドヨーン」という音が響いた。
 「人というのはわからないものだね」
 フィリップがまるで他人事のように、DVDのケースをつまみ上げ、亀甲縛りに縛られた少女の写真をあれこれ見ながら、「ところで」と続けた。
 「話は本題に戻るが……大抵、人間の行う召喚などというのは大部分がお遊びで、なにも出てこないのが普通であるし、相当の修行を積んだ専門家がやったとしても、使い魔ていどの小者を呼び出すのが精一杯なんだが。仁君の場合、どんな方法で呼び出したかは知らんが、とんでもない大物の悪魔を呼び出してしまったようだ」
 「どうしてそんなことわかるの?」
 「小者の悪魔というやつは知能もそれなりで、召喚された後も、人間のいうなりになったり逆にエサにつられて騙されたりするものなんだ。だが強力なやつほど知能は高く、プライドも高いから、人間のいうことなどバカにして聞かないものだ。だから『魂を売る』などの契約など無視して、いきなり仁君の魂をさらって行ったんだよ」
 「それで、さらってどうするの?」
 「食べるわけだね、これが」
 フィリップは真顔で麗華をじっと見て言った。
 「そ、そんな」
 麗華はさすがに体が震えた。
 フィリップはさらに追い討ちをかけるように言った。
 「食べる……つまり魂がなくなる、というわけだから、もう人間に転生することもできないということだ」
 「あたしはどうしたらいいの?」
 「君はそのまま仁君として、普通に生活していてくれればいい。仁君の魂は私が取り返してくるよ」
 フィリップの話を聞いて麗華は「そんな」と、頼りなげにつぶやいた。
 「『普通に生活する』っていわれても、ジンって本気で甲子園とかプロ野球目指してるピッチャーなのよ。しかも、もうすぐ夏の大会が始まるのよ、あたしはどうすればいいの、とてもジンみたいに投げられるはずないし、ちっとも『普通の生活』じゃないわ」
 フィリップは麗華の肩に手を乗せて、じっと目を覗き込みながら言った。
 「かわいそうだが君の方は自分でなんとかしてもらうしかない、私の方だって、上級の悪魔と交渉するのは大仕事なんだよ……それに本来、これは君たちにとって大サービスなんだがね」
 「大サービスって?」
 「本当ならば、我々天使は自殺者や悪魔に魂を売った者に対しては干渉しないのが普通なんだよ、いちいち手を貸していたらきりがないからね。だが、今回のように大物の悪魔が人間の魂を喰って完全に目覚めてしまうのは霊界にとっても看過できない大事件なんだよ。だから君の大罪も帳消しにして、仁君の魂も救ってあげようというのだ」
 「でも、それで相手の悪魔って、そんな簡単にジンの魂を返してくれるの?」
 「いや、おそらく無理だろうね。対決する準備もしておかないと」
 「対決って、戦うの?大丈夫なのそんな歳で?」
 フィリップは本気で気分を害したらしく「失敬な」と鋭く言い、
 「天使というのは神に仕える戦士でもあるんだよ、まだまだ私だって悪魔の一匹や二匹……」
 とムキになった。
 麗華は形だけうなずきながら、別のことを考えていた。
 ――私はいったい何日ジンと代わってればいいのよ――
 その時。
 階下から仁を呼ぶ、母親の声が聞こえてくるのだった。
 「仁、ごはんよ、早く降りていらっしゃい」
 麗華は驚きのあまり心臓が再び止まりそうになったが、かろうじて「はーい」と返事をして、
 「ジンのご両親は今回のことなにも知らないのかしら」
 と小声でフィリップに聞いた。
 「お父さんは仕事だし、お母さんは夕飯の買い物に出かけてたほんのわずかの間のできごとだったからね」
 「でも、今日、練習はどうしたの?」
 「仁君はよく練習をサボってたらしい」
 「え?それ本当」
 麗華にとってはそれも初耳だったが、そんなことを気にしているヒマはなかった。
 「あたしだってバレないかしら?」
 と、麗華は自分の体をながめ回しながら聞いた。
 「バレるわけないじゃん」
 フィリップは少しイライラした感じで、取り合わなかった。
 麗華はちょっとムッとして階段を降りて行った。
 母親は不思議そうな顔で、麗華の顔をしげしげと見てから、階段の上を見上げ、
 「誰か来てるの?」
 と、聞いてきた。
 「だ、誰も来てないわ……ないよ……」
 「なにか話し声が聞こえたようだけど」
 「え、英会話の勉強してたのよ」
 母親は「えええっ」と目を丸くした。
 「あんたが勉強だなんて、ちょっと熱でもあるんじゃない?」
 そう言って、麗華の額を触ってきた。
 「だ、大丈夫よ……だよ」
 「それに、あんたが私の呼ぶ声に返事をするなんて、小学生の時以来じゃない、ホントに大丈夫なの?どっか悪いんじゃないの」
 「えっ?そうだったの?」
 ――しまった、早くもピンチ――
 「だ、だからさ、最後の大会ももうすぐでしょ?なんだか、今までの緊張がほぐれて、すっきりしちゃってさ」
 すると母親は、「そ、そうなの」と言葉を選ぶように、
 「そ、そうね、あんた今まで頑張ってきたもんね、やるべきことは全てやったんだから、そうよ、全てやったのよ」
 と、なぜかぎこちなく『やった』という言葉を強調した。
 ――だって、この時間にジンが家にいるってことは、練習に出てないのバレバレじゃん、返事のことなんかより、なんでそっちの方を聞いてこないんだろう?――
 麗華は首を捻ったが、キッチンに入った瞬間、それどころではなくなった。
 ――うわっ!肉の焼ける臭い――
 麗華は肉が大嫌いだったのだ。
 肉の焼ける臭いを嗅いだだけで胃のあたりがむかむかしたが、今度は仁の父親が視界に入ったので、とりあえず平静を装った。
 お世辞にも広いとは言えないキッチンに置かれたテーブルの向こうで、父親は新聞で顔を隠すように椅子に座っていた。
 挨拶をしようと覗き込んだが、なかなかこっちを向いてくれない。
麗華は仕方なく椅子に腰掛け、さりげなく観察していると、時々チラチラと麗華の方を覗き見ているようだったので、「おかえりなさい」と挨拶してみた。
 すると父親は芸人がコントでコケるみたいに、椅子からガタンと落ちそうになり、怯えたような目を麗華に向けるのだった。
掛けていたメガネが、斜めにズレて落ちている。
「え?ああ……た、ただいま……あは、あはははは……」
 とってつけたような大きな笑い声がせまいキッチンに響き渡り、それが返ってその後の沈黙を余計に気まずくさせるのだった。
 時間にして一分くらいだったのだろうが、かなり長い沈黙に感じられた。
 その間父親は終始落ち着かない様子で、そわそわし、自分に弾みをつけるように、コップのビールを一口グイッと呑み、「調子はどうだ?」と、上目づかいに身を乗り出してきた。
 「え?うん、まあまあ、かな」
 すると父親は、また一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐに、いかにも嬉しそうに、
 「そうか、まあまあか、はははは……そうかそうか」
 と、ただの『まあまあ』をまるで思いがけない吉報を聞いたみたいに大喜びした。
 ――なんなのよ、この腫れ物に触るような雰囲気は――
 『まあまあ』がそんなに嬉しいはずはない。
 この父親は仁が会話に乗ってきたことが嬉しくて仕方がないんだろうと麗華は理解した。
 それは、麗華にも心当たりがあった。
 仁とまだ付き合い始めたばかりのころだ。
 初めて彼氏ができたことが嬉しくて仕方ないのに、なにを話したらいいのかわからない。
 仁のことを大事に思えば思うほど、彼をどう扱ったらいいのかわからない。
「こんなことを言ったら怒らせてしまうんじゃないか」などと余計な心配をしてしまい。
 結局、どうでもいいようなことに食いついて、笑うところじゃないのにわざとらしく
はしゃいでみせたりするあの感じだ。
 「あらあら、お話が弾んでるのね、はい、今日は奮発してステーキよ」
 ――弾んでるか?このぎくしゃくした会話が――
 母親の、取ってつけたような言い方と、不自然にトーンの高すぎる明るい声に、麗華は思わず失笑しそうになった。
 だが。
 ――この家って、いったいいつもはどんな雰囲気で夕飯食べてるのかしら?――
 何日も散歩をさせていなかった犬を久しぶりに連れ出したら、こんな感じで些細なことに大はしゃぎするのではないか。
 そんな風に考えると、この不器用で優しい夫婦がひどく憐れに思え、なんだか涙が出そうになってくるのだった。
 ――でも、無理、ステーキは、無理――
 麗華はとりわけ牛肉が大嫌いだったのだ。
 特にレアの、半生の、あの乳臭い臭いが苦手だった。
 「明後日から大会だからな、母さん、今日と明日は奮発するって。今日がステーキで、明日がカツレツ……『テキにカツ』、なんちゃってな、あはははは」
 父親が、顔をくしゃくしゃにして笑った。
 ――なんか、いい人たちじゃん……あたしん家なんか……――
 大手銀行員の父親と、経営コンサルタントの母親。
 父親は大阪の支店に単身赴任中だし。
 母親は主に地方の旅館の、経営アドバイザーとしてあちこち飛び回っているため、今は二人ともほとんど家にいない。
 プライドが高く、エリート意識むきだしの二人。
 夫婦というより、お互いライバルみたいな二人。
 おかげでお金に困ることはなかったが、麗華は高校に入ってから、ほとんど一人暮らしだった。
 キッチンはこの家よりずっと広かったが、食事はその無駄に広いキッチンで、四人掛けのテーブルで一人、コンビニの弁当を無言でつつく毎日だった。
 父親は大阪に愛人がいるらしいのだが、母親は全く気にしていないようだ。
 たまに家族三人がそろった時には、高給レストランで食事をするのだが、両親の携帯に代わりばんこに電話がかかってきて、退席する時に「失礼」と言う以外は、ほとんど誰も喋らない。
 今日の麗華の自殺でも、すぐに帰って来るかどうかさえわからない二人である。
 形はともかく、こんな賑やかな食事は、何年ぶりだろう。
 だが。
 ――ステーキだけは、ちょっと……――
 幸いなことに、汁物は洋風のスープではなくワカメの味噌汁で、ワカメはごはんのおかずになった。
キュウリとナスの浅漬けもちょうど旬で美味しかったので、そっちばかり食べていると、
「どうしたの?大好きなお肉食べないで」
と、案の定というか、母親が心配そうに聞いてきた。
「いや、あの、別に、ちょっとダイエットしようと思って……」
「そんなんで大丈夫か?試合はあさってなんだから、力つけなきゃ。あさってに向けて肉を漁って、なんてな」
父親は完全に上機嫌で、ビールで真っ赤な顔になっている。
「うん、は、はい……」
――『テキにカツ』もお父さんのアイディアだったのね、どうでもいいけど――
麗華は赤身の所を選び、ナイフで一切れ、できるだけ小さく切って、息を止めて(ついでに鼻もつまみたかったが)極力噛まずにそれを呑み下した。
「ふう……うっぷ」
――やった、食べれた――
母親は本当に奮発したようで、肉が高級品だったのが幸いし、ほとんど噛まずに飲み込めたのだった。
ふと我に返って回りを見ると、父と母の視線とぶつかった。
二人ともなぜかひどく不安げな顔をしていたが、目が合うと、嬉しそうに微笑むのだった。
「美味いだろ?」
と父親は言った。
「う、うん」
この勢いを駆ってもう一切れ。
こんなに喜ばれるなら、食べないわけにもいかない。
こんどは少し大きめに――と言っても普通サイズくらいに――切ってみた。
大嫌いではあるが、決して肉アレルギーというわけではないのだ。
だが。
「ぐへえ、うげえ……」
ちょっと調子に乗りすぎた。
噛まずに呑み込むには肉が大きすぎて、むせたのである。
血相を変えて、シンクに駆け寄り咳き込む。
おかげで返って、口、喉、鼻の粘膜が全て肉の臭いで満たされ、しかもヒリヒリする。
「大丈夫?」
母親が悲鳴のような声をあげて背中をさすってくれる。
「だ、大丈夫……」
「あんたやっぱり、病院で診てもらった方がいいわ、あんなに大好きなお肉でもどすなんて」
「ほんとに大丈夫……」
――ちょっとしつこい、でも……――
この感覚。
嫌じゃない。
これは、遠く離れた所に住んでいる祖父や祖母の家に久しぶりに行った時の感覚に似ていた。
このぎこちなさ。
このいささか見当違いな深情け。
そしてこの、あふれるばかりの愛情。
それにしても。
――ジンのドアホウ、普段いったいどんだけ親に気を遣わせてんだよ――

県立沢谷香高校

――おなかすいた――
お昼休みのチャイムが鳴り、麗華は弁当箱を開けて溜息をついた。
おかずの所には巨大なハンバーグが鎮座している。
麗華にとってそれはまさに、愛情と言う名の魔物が凝結したような肉塊であった。
――ま、またお肉……――
朝食は卵焼きだったので、昨夜の分までお腹いっぱい食べることができた。
――それにしても、男の子の体って、どうしてこう、お腹がすくのよ――
休み時間は、念のためにコンビニで買ってきたサンドイッチやおにぎりでしのぐことができた。
だが、そもそもそれらは母親が朝、ハンバーグを焼いているのを見て、お昼に弁当代わりに食べるつもりで買ったのだが、仁の体の食欲は、麗華の想像をはるかに超えていた。
休み時間の度に押し寄せる底なしの空腹にそれらは一つ減り二つなくなり、ついに全て食べつくしてしまったにも関わらず。
お昼休みの仁の体のエネルギーは、ほとんどゼロに近かった。
――ど、どうしよう――
麗華が途方に暮れていたその時。
教室の戸が開いて、胡桃美琉久が入ってくるのだった。
「こんにちは、ジン」
――ミ、ミルク……このアマ、なんでここにくるのよ――
胡桃美琉久。
麗華の恋のライバルにして、自殺に追い込んだ最大の張本人。
中学時代から同学年の意地悪グループと徒党を組み、陰ながら麗華に嫌がらせをし続けた、少女の皮を被ったケダモノ。
いつも裏から手を回すような卑劣なやり方をするため、証拠はなかったが、麗華のカバンにヘビを入れたり、日記帳を盗んで学校の掲示板に貼り付けたりなど、その卑劣で手の込んだやり口は、こいつ以外に考えられなかった。
それでも、中学時代まではまだ悪戯ていどだったが。
最近では、出会い系サイトに麗華のパンチラ写真と携帯番号を載せるなど、その嫌がらせはシャレにならないものになっていたのだ。
「はい、今日のお弁当」
「今日の、って……」
――ジンのドアホウ、毎日このメスブタにお弁当もらってたってえの?しかも、こいつまでジンって呼んでるし……――
「あんた、学校抜け出してきたの?」
麗華は怒りを押し殺しながら聞いた。
「いやだんもお、いつものことじゃない」
美琉久は女子と喋る時よりもずーっと高いトーンの声で話しながら、麗華の背中をさわさわと触ってきた。
麗華は鳥肌が立つ思いだった。
麗華と美琉久は、仁とは別の学校に通っていたのだ。
仁の学校から二キロほど東にある、聖ポール・モーリア学園というお嬢様学校である。
美琉久は突如、なにかの発作のようにしゃくり上げ、ハンカチで目を押さえながら、
「それがねえ、ジンも聞いたでしょお、昨日麗華ちゃんが屋上から飛び降りちゃって、学校中大騒ぎなのよ……あそこにいると麗華ちゃんとの楽しい思い出をいっぱいいっぱい、思い出しちゃうし、なんかいられなくって……エーン」
と泣いたが、涙は出ていなかった。
――ま、まあ大騒ぎにはなってるでしょうね。っつうか、なにが麗華ちゃんよ……――
確かにこちらの学校でも朝から緊急朝礼とホームルームが開かれ、ちょっとした騒ぎにはなっていた。
麗華にとっては不思議な気分だったが、本人としてはなんだかもう遠い昔の話のようで、すでになんとなく、他人事のようにも思えているのだった。
「ジンも、早く元気出して……そうよ、いつまでもクヨクヨしてたってはじまらないわ、せめて生きている私たちだけでも仲良くやっていきましょう」
美琉久は唐突に窓の外の雲を見上げ、力強くまくしたてた。
――この、偽善者め――
だが。
「ほうら、今日は特製フォアグラ弁当よ、美味しいわよ」
――フォア……グラ?……ゴクリ――
フォアグラだけではなかった。
弁当の中身はまるで食の宝石箱のように、あらゆる贅が敷き詰められている。
――背に腹は代えられない、か……でも、なんという屈辱、っつうか、美味しい、でも、くやしい――
「相変わらずいい気なもんだな、おい」
麗華が『特製フォアグラ弁当』をほおばりながら、見上げると。
一人の男子生徒が麗華の机の横に立って、怖い顔でこちらを見下ろしていた。
上背はそれほどないが、制服のワイシャツの上からでも、筋肉隆々なのがわかる。
――鎮西八郎……――
仁と同じ、沢谷香高校野球部員の一人で、仁と同じクラス。
夕べ食事が終わって部屋に戻ってみると、フィリップはすでにいなくなっていて、机の上に野球部のスターティングメンバー全員の顔写真と、大まかな性格が書かれた名簿が置いてあったのだ。
『鎮西八郎、通称ハチロー。チームの中でも最も野球を愛している、ハードトレーニング信者で、やる気のない人間が大嫌い。ゆえにチームメイトの中では、仁のことを最も嫌っている』
と、書いてあった。
「てめえ、きのうも休みやがって……こんな土壇場にきていったいどういうつもりなんだよ」
角ばった頬が横に張り出し、太い眉毛と共に、いかにも強情そうな顔を形作っている。
「ご、ごめんなさい、ちょっと熱があったから」
――こ、こわ……っつうか、なんであたしが怒られなきゃなんないのよ――
「俺は三十九度の熱が出た日も練習はやったぞ」
――そんなのあんたの勝手じゃん――
元々鬼のような顔が、恐ろしく強い眼光で麗華を見下ろし、それは普通の女の子ではとても我慢できない恐さだった。
つまり普通の女の子である麗華は「だ、だからごめんって……」とつぶやきながら涙が出てきてしまうのだった。
「て、てめえ、なんで泣いてやがんだ、男のくせに」
「だ、だって……」
これは八郎にとって、かなり想定外だったようで、でかい毛虫のような眉尻が八郎の名前の八の字のように下がるのだった。
「ちょっと、いい加減にしなさいよ」
そこへ美琉久がものすごい剣幕で、八郎に咬みついた。
こんな時の美琉久の性格の悪さは、頼もしかった。
「あんたみたいなその他大勢の雑魚とわたしのジンとは、もともと持ってる才能が違うのよ、雑魚は一人で壁でも相手にボール投げてりゃいいの」
――わ、わたしのジン?――
「こ、このアマ」
八郎は美琉久をにらんだが、美琉久はまったくひるまない。
「そんな狛犬みたいな顔で、つきっきりでグズグズ言われたんじゃ、せっかくのフォアグラが不味くなるわ、もう、気がすんだでしょ?あっち行け、シッシッ」
八郎は大きく舌打ちしたが、日頃からよほど美琉久にやり込められているらしく、それ以上逆らおうとはせず麗華をにらんで、
「とにかく、これで明日の本番で無様なことやりやがったら承知しねえからな」
と捨て台詞を吐いて、去って行くのだった。
「ああいやだ、練習なんて凡人が集まってやってりゃいいのよ」
美琉久は容赦せず、その背中にぶつけるように叫ぶのだった。
その八郎の背中とすれ違いざまに八郎の肩を叩いて、彼より頭一つ分も背の高い、真っ黒な顔の男子がにこにこ笑いながら近づいてきた。
――高橋エンリケ・マコト――
『ブラジル系のクォーターで、バカ力がある。性格はラテン系で陽気すぎるくらい明るく、わが道を行くから仁のことも全然気にしていないらしい、短所は女好きなところ』
フィリップの名簿にはそう書いてあった。
つまり、良くも悪くも、頭の中からっぽ、ということか。
「ウイース、またきてるね別嬪さん」
エンリケはくるなり美琉久の肩を抱いてにこにこ笑った。
わざわざ近づいてきた目的は、これなんだろうと麗華は思った。
「こんにちはマコちゃん」
美琉久は満面の笑顔とは裏腹に、その腕を振りほどく。
「心配してたんだよミルクちゃん、きのう君の学校で変な事件があっただろ?」
――変な事件って……人ごとだと思って――
たしかに、この学校の連中からしてみれば、人ごとと言えば人ごとである。
「だから今日はミルクちゃん、こないんじゃないかと思って」
――そっちの心配かよ――
「確かに悲しい事件だったけど、でも……」
美琉久は、一瞬で泣きそうな顔をしたかと思うと、
「ジンの試合はもう明日なんだし、なんだかじっとしていられなくて」
と次の瞬間にはきりりと表情を引き締めた。
まるで美琉久の方が悲劇のヒロインのようである。
その三文芝居を見ていて、麗華はひどくやるせない怒りがこみ上げてきた。
自分の死に対してこれ以上の侮辱はなかった。
まだ面白可笑しく茶化してくれた方がマシである。
「じゃあ、試合が終わったらもうきてくれないのかい?」
エンリケの指先が、美琉久の前髪を優しくかき上げる。
「まさか、くるに決まってるでしょう」
美琉久の憂いを帯びた眼差しが、長身のエンリケを見上げた。
美男美女同士、確かに絵になるのだが。
――こいつら、なにやってんのよ、人の食事中に、っつうかミルクはジンに用事があったんじゃねえのかよ――

――はあ……――
二、三歩歩く毎にため息が出た。
麗華はそれでも、亀のように遅い足を部室に向けて歩くのだった。
――冗談じゃないわ――
八郎は『最も仁を嫌っている』と、フィリップの名簿には書いてあった。
つまり、あの怒りようはやや極端な例外と考えていいのだろうか。
だが、あれがチームメイトたちの正直な気持ちの代弁なのだろう。
もしも野球部の三年生全員が、あんな風に自分を責め立ててきたらどうしようか。
――逃げよう、その場で――
麗華はあっさりと、そう割り切った。
もともと仁とはただ単に「元カレ・元カノ」というだけの間柄なのである。
しかも「つき合っている」などというのは形の上だけで、野球で忙しかった仁とはなに一つ彼氏・彼女らしいことなどしてきてはいないのだ。
中二の時の修学旅行の際、告白されたというだけで、ほとんどデートらしいこともしなかった。
わざわざ麗華が仁の野球の練習が終わるまで待っていて、ただ家まで一緒に帰る、というていどの「彼女」だったのだ。
いや、そもそも「野球で忙しい」などというのも、あの美琉久の調子づきようを見ていると怪しいものだ。
どうせ自分も、大勢の中の一人にすぎなかったのだろう。
考えているうちに、だんだん腹が立ってきた。
下手に形式だけ「告白」などされたものだから、返って他の女子たちの嫉妬を買い、イジメの標的にされた分、とんでもない貧乏くじを引いただけではないか。
高校に入ったらもっとつき合いは遠のいた。
チームメイトのキャッチャーのヤツが、麗華が仁に近づくことを公然と邪魔をし始めたのである。
「三年の夏の大会が終わるまで、野球部員は女人禁制だ」
というのがヤツの言い分だった。
一応もっともと言えばもっともな理屈だが、ただでさえモテモテで、近づく女の子たちがウジ、ボウフラのごとく後から後から湧いて出てくる「彼氏」と口をきくことすら禁じられたら、それは最早「彼女」とは言えなかった。
こうして麗華は、彼女としての実権を剥奪された挙句、そのくせ名目だけの思われ人として、仁のファンどもから嫉妬の的にだけはされるという、人身御供になりさがったのだった。
悩みぬいた挙句、思い切って別れ話を持ちかけた時。
仁は「えっ?」と目を丸くした。
「俺、他に彼女つくる気ないし、気が変わったらまた付き合ってくれないかな」
そう言ってくれた。
ちょっと救われた感じがした。
だが。
今思えば、妙にあっさりしすぎてもいた。
実のところ、あの時の仁がどんな顔でそう言ったのかは思い出せない。
というより、涙で霞んで見えなかったのである。
――でも、それにしても――
この男(仁)がここまで腐っていたとは。
麗華は歩きながら、悔しさのあまり奥歯をギリギリと鳴らした。
女の子にはあんなに優しかった仁に、こんなとんでもない裏の顔があったとは。
あの、異様な「呪いのセット」といい、高校生とは思えない歪んだフェティシズムのはけ口といい。
男社会での嫌われっぷりといい。
――人間のクズじゃない――
こんな男のために自分は死んだのか。
そう思うと、情けなくなってくるのだった。
麗華の自殺の原因は一つではなかった。
一つには、子供に無関心な自分の両親への無言の抗議。
もう一つは、美琉久一味の執拗な嫌がらせに対する、間接的な復習。
そして、麗華が仁に近づくことを禁じた、仁のキャッチャー大江戸大鉄への当てつけ。
だが、最大の動機は。
自分が死んで身を引くことで、輝かしい未来が待っているであろう仁を自由にしてあげよう、という、美しい大儀ためだったのだ。
――ほんとうの愛というのは、貰うものでも奪うものでもない。「与える」ものなのよ――
それは『愛のために死を選ぶ』という究極の美学だった。
それは麗華の、美琉久や大鉄や、そして仁本人に対する最後の矜持だった。
そしてそれは、愛に殉じる女神のような、広く深い母性だった――というか、麗華も確かに自分で自分に酔い痴れる悪い癖があるのだろうが――。
ともあれ、今となっては、それらは全て無意味だった。
完全に犬死だ。
結果、あの美琉久を余計に調子に乗せ、仁という天才投手の仮面を被った変態を、今まで以上に放埓に野に放っただけではないか。
その上自分がなぜ、この期に及んでこのバカ男に成り代わって汚れ役をやらなければならないのか。
――やっぱり逃げよう、まだ霊界で木になった方がましよ――
「自殺にしては、やや安易な動機だが……」
フィリップの皮肉を込めた嘲笑が、頭をよぎる。
確かに他人から見れば安易だったのかも知れない。
だが、今でも死んだこと自体は後悔していない。

ここまで変人やゴミクズみたいな人間に囲まれたら、誰だって一度や二度は本気で死ぬことを考えるだろう。
――はあ……――
麗華はまた、ため息をついた。
最大の問題は、自分が「霊界の法に触れる」などと、思いも寄らない地雷を踏んでしまったことだ。
――さっさとジンの魂を連れてきてよ――
麗華は頭の中のフィリップをにらみつけて抗議した。
――だいたいあたしは仁としてただ「生きて」いればいいんだし、野球なんてする必要ないじゃん、仁だってギリギリになって悪魔にすがりつくくらいだったら、普段からもっと練習しろってのよ。そうよあたしには関係ないじゃん――
やっぱりヤバくなったら逃げよう。
そう考えると、少しは気持ちが軽くなった。
ふと、校舎脇の角の所で一度足を止め、建物の陰から部室を窺う。
 先ほどから、ゆっくり歩いていたのには理由があった。
 昨日まで女の子だった麗華にとって、洞窟のように薄暗い部室で、他の部員と一緒に着替えるのが恥ずかしく、できるだけ時間をずらそうとわざと遅れてきたのだ。
 二十メートルほど先にある部室からは、蜂の巣箱から飛び立つ働き蜂ように後から後から、思春期の男たちが吐き出されて行った。
 ――そろそろいいかな――
 恐る恐る入って行くと、まだ中に二人いた。
 「こ……こんにちは……」
 麗華が挨拶をすると、二人とも弾かれたように「気をつけ」の姿勢になり「こっ、こんちわーっす」と声を裏返して最敬礼をした。
 二人ともフィリップの名簿にも載っていなかったし、様子からして、恐らく下級生なのだろう。
 鬼気迫る勢いで、素早く着替えを済ませ、
 「お先に失礼します」
 と、大慌てで飛び出して行った。
 ――なるほど、下級生からはずいぶんと恐れられているみたいね――
 今さら驚くことではなかった。
 だが、次の瞬間、ドアが勢い良く開き、こんどは麗華が弾かれたようになってしまった。
 「こんにちは」
 麗華が挨拶をすると、相手はいかにも怪訝そうに麗華の顔を覗き込んできた。
 ――しまった、この人誰だっけ、名前忘れちゃった――
 「なんだよお前、女の子みたいな挨拶して」
 彼はそう言うと声をあげて笑ったのだが、その空々しい空笑いはいかにも不自然で、目も笑っていなかった。
 その上彼は、湿気を帯びたような目で息を弾ませ近寄ってきたのである。
 「おいおい、男どうしでなに恥ずかしがってんだよ」
 と、麗華の肩に手を置き、顔を近づけてくる。
 ――思い出した、遠藤盛遠って子だ――
 遠藤盛遠。
『人知れずゲイであることを悩んでいるが、卒業を前にして、そろそろ本人はそのことをカミングアウトするきっかけを狙っている。本人は真剣なだけに、ある意味最も要注意』
「……」
――どうしてあたしってこう、運が悪いんだろう――
麗華は、思わず身をよじって、肩に触れる生温かい手から逃れた。
すると。
「な、なんだよお前、ナヨナヨして、ははは、変なヤツだな、ははは」
と、逆に遠藤の方が妙に緊張している感じだった。
――やばい、このシチュエーションは、やばい――
だが。
――しまった、ユニフォームの着かたがわからない――
 そもそも野球のユニフォームというのは、他の競技のジャージとは全く違い、門外漢にとってはひどく面倒なものなのだ。
 仕方なく遠藤が着替えるのを、そっと盗み見ると。
 「な、なに見てるんだよ、お前」
 遠藤もそっと、こちらを見ていた。
グラウンドではすでに、ほとんどの部員が各々練習前のストレッチやキャッチボールをして体をほぐしていた。
「いよっ、お休みの翌日は社長出勤かい?」
八郎とキャッチボールをしている小柄な男が、口の端で笑いながら声をかけてくる。
皮肉屋の牛若小次郎という男だ。
小次郎の声につられて八郎が振り返るが、目の端で一にらみしただけでなにも言わず、すぐに前を向いてしまった。
他の三年生は、こちらを見向きもしなかった。
エンリケは一人、でかい体で上機嫌にサンバのステップを踊っている。
下級生は大声で挨拶して、最敬礼をしてくるが皆一様に麗華と目を合わそうとせず、こちらが声をかける前にできるだけ遠くに逃げようとばかりに離れて行くのだった。
「熱が出たんだって?」
急に後ろから声をかけられ、驚いて振り向くと、そこにはあの、大江戸大鉄が立っていた。
「え……?」
大江戸大鉄。
沢谷香高校野球部のキャッチャーにして主将、そして仁と麗華を引き裂いた、直接の張本人だ。
「大丈夫なのか?」
切れ長に釣りあがった目が、心配そうに麗華を覗き込んでそう聞いてきた。
――この目、大嫌い――
「え?ああ、うん」
――お願いだから、あんただけは話しかけてこないで――
麗華としてはこれ以上チームメイトから嫌われたくなかったが、この大鉄だけは別だった。
あまりにも大嫌いだったので、フィリップの名簿のプロフィールも読む気になれなかったくらいだ。
「ランニング、できるか?」
「ええっ?」
――だから、熱があるって言ってるでしょう――
どうせ仮病で休んだことくらいはバレているのだろうが、どちらにせよこの男と行動を共にする気にはなれなかった。
すると大鉄は麗華の耳に顔を寄せてきて、「きのう彼女、自殺したんだってな」
と耳打ちをした。
麗華は少し驚いて「えっ?」と大鉄の顔を見た。
「それで練習休んだんだろ?きのうは」
大鉄は神妙な顔で、真っ直ぐ麗華の目を見て言った。
――ふうん……この男でもこんな顔するんだ――
麗華は、何度か大鉄と直接話したことがあった。
高校一年の秋のころだったと思うが、「もう仁には近づかないでくれ」と言った時の大鉄の顔は無機的で、まるで石でできているのかと思うほど人間性が感じられなかったものだ。
そんな野球ロボットのような男に、こんな悲しげな顔をする感情があることに麗華は少し驚いたが。
「あんたには関係ないでしょ」
と、突き放した。
大鉄は首の後ろを手で揉みながら、
「ちょっと走りながら話そうか」
と虚ろな目で誘ってきた。
――嫌よ、あんたと話すことなんかないわ――
そう喉もとまで出かかったが、麗華は渋々後をついて走った。
このチームメイトの雰囲気の中に、一人でいるのも嫌だったのだ。
しばらく二人で無言のまま、ゆっくりとグラウンドを回った。
「俺もやりすぎたと思ってる、反省してるよ」
大鉄が空を見上げながら、独り言のように言った。
――反省するくらいなら、最初からするなよ、女人禁制なんて時代錯誤もいいとこだわ――
「お前の生活の荒れ方が、あまりにもひどかったから……」
――そ、それは解る、大いに解る――
「でも、かわいそうだったな、あの姫野って子」
「かわいそう?」
――ほんとにそう思ってんの?――
「あの子だけは、他の子たちと違ってほんとに真剣だったみたいだからな、だから余計に俺もきつい言い方をしちまった」
大鉄の絞り出すような声には、確かにこの男なりの誠意がこもっていることは麗華にもわかった。
だが中途半端な同情は逆に麗華の神経を尖らせるのだった。
「そう、確かにかわいそうだった」
麗華の心から無数に突き出ていた棘が、一斉にゆっくりと蠢きだした。
今までそれらは両親や美琉久にも向けられていたものだったが、大鉄に向いている棘に一本、また一本、と吸収され、どんどん大きくなって、巨大な一本の槍のようになっていく。
麗華はそれで大鉄を一突きしてやりたい衝動に駆られるのだった。
「あんたが殺したようなもんだよ」
無意識のうちにそんな言葉が口をついて出ているのだった。
さすがに大鉄も堪えたのか、一度立ち止まってしまった。
だが麗華がそのまま走り続けたので、後を追ってくるのだった。
「恨むなら恨んでくれていいさ……いくらでも恨んでくれ」
「恨むよ」
今さらなんだというのだ。
「でもな、誰かが鬼にならなくちゃ、野球部なんて集団はまとまらねえんだよ、すぐにバラバラになっちまうんだ」
言いながら大鉄の目は力を取り戻し、輝いてくる。
「だからなんだってのよ?」
「俺は主将として無理やりでもそれをまとめなくちゃならなかったんだ……そうやってこの三年間、俺もみんなも死に物狂いでやってきた、お前にとっては遊び半分だったかもしれないけど、みんなお前がいれば甲子園に出られると、本気で思っていたんだよ、みんなお前のワンマンチームと言われたくなかったから……」
「そんなこと、俺には関係ないわ、みんな自分のことばっか考えて……」
――パパもママもミルクもあんたも、みんなしてあたしをこの世から追い出しだんじゃない……みんなみんなって、野球部だってみんなあたしのこと嫌ってんじゃない――
麗華は言っていて涙があふれてくるのだった。
「だからお前も自分のこと考えろよ、もっと本気で将来のこととか」
「将来ってなに?」
「お前ならプロにだってなれるんだぞ」
「バッカじゃないの?所詮ボール遊びじゃないの、それが人の死よりも重いっての?」
――死んだあたしには将来なんてないのよ――
「おい、お前らなにやってんだ?」
突然後ろから怒鳴られて、二人は飛び上がって振り向いた。
そこには麗華たちと同じユニフォームを着て、薄い茶色のサングラスをかけた体格のよい中年の男が立っていた。
「監督」
と大鉄が言った。
二人ともいつの間にか立ち止まって言い合いをしていたのだった。
「藤村、もう体は大丈夫なのか?」
監督はあきらかに、視線に侮蔑を込めてそう聞いてきた。
「は、はい」
麗華は雰囲気的にそう応えるしかなかった。
「今日は軽い練習でいい、三十球でいいからフォームを確認しながら投げろ」
と、大鉄にも目配せしながら言った。

――結局こいつと組まされてんじゃん――
バッテリーなのだから当たり前なのだが、麗華は渋々、ブルペンのマウンドに立ち、大鉄と向かい合った。
――……たしか、こんな風にして投げてたのよねジンは――
ふりかぶって。
足を上げて……。
――あれ?どうしたんだろう、投げられない――
「お前、なにやってんだ?」
大鉄が疲れ果てたような足取りで、駆け寄ってきて麗華をにらんだ。
「ふざけるのもいい加減にしろよ」
「ご、ごめん、まだ、体がだるくて」
――なんであたしが謝ってんのよ――
大鉄は大きくため息をついて、
「お前が腹を立てているのはよく解った、でもな、それと練習は別だろ?」
と、今度は哀願するような目で麗華を見てくる。
「え?だ、だから体の調子が……」
「そんなに練習したくねえなら今日はもういいから、たのむから明日は真剣に投げてくれよ、な?」
大鉄はそう言うと麗華の返事を待たず「おおい、遠藤」と盛遠を呼んだ。
「お前も軽く投げとけよ」
遠藤は普段ライトを守っているが、リリーフピッチャーでもあるのだった。
遠藤は何故か麗華に微笑みかけウインクしてきた。
――な、なに?――
そして、ふりかぶって、投げた。
「ああ!」
わかった。
ウインクの意味ではない。
――上げる足が反対だったんだ――
ピッチングフォームになっていなかったのだ。
ウインクの意味も薄々解ったが、そっちは無視した。

ボーイ・ミーツ・ボーイ

――きゃあっ……――
麗華が思わず悲鳴を上げそうになるその口を、フィリップは慌てて手でおさえた。
「どうしたのよ、その顔」
麗華は我に返り、部屋のドアを閉めてから声をひそめてそう聞いた。
夕食が終わり――父親の予告どおりトンカツだった――二階に上がってきたところに彼が待っていたのだが、その顔。
たった今、大型トラックにでも轢かれたのかと思うほど、グシャグシャだった。
左の耳は削げ、その上の側頭部の頭皮も剥がれて、その頭皮は髪の毛が生えたまま、耳と一緒にぶら下がっている。
頭皮があったはずの部分は骨が見えていて、しかも髪の毛は全体に火事場の中から這い出てきたかのように煤け、所々焼けて上に向かって突き立っていた。
右の頬は裂けていてそこから、口の中の奥歯が覗いて見えており。なぜか皮膚の裂けた肉の所はどこも出血しておらず、代わりに高熱で炙られたようにただれて痛々しげに外気にさらされていた。
「いやいや、交渉決裂だよ、これが」
フィリップは傷のことなどまるで気にしていないかのように、他人事のようにそう言った。
「大丈夫なの、そんな大怪我して?」
「少したてば治るよ」
麗華は救急箱を取りに戻ろうとしたが、フィリップは「大丈夫」と手を振った。
「やっぱりだめだったの?相手の悪魔」
「まあ、大方の予想どおり、ということさ、人間の方から魂を差し出すなんて、近代ではめったにないことだからね、ヤツが簡単に手放すなど考えられない、予想どおり激しい抵抗を受けてね」
「そんなに強いヤツだったの?そいつ」
「人間である君に名前は教えられないが、恐ろしく強力な一級の悪魔だった」
全ては今のフィリップの顔が物語っていた。
「じゃあ、あたしはまだこれからもジンでいなきゃなんないわけ?」
「すまんが、あと何日か引き受けてもらうことになるね」
麗華はさすがにフィリップが気の毒になる一方、仁の代役をした今日一日のことも思い出すと我慢できなくなり「もういいじゃん」と吐き捨てた。
「こんなドアホウ、もう放っときゃいいじゃん、どうせ自分から魂を売ったのはこいつなんだし、勝手にそいつに食べられちゃえばいいのよ」
「いやいや、そういうわけにもいかんよ」
フィリップはゆっくりと首を横に振った。
「悪魔が完全に復活してしまうのも確かに困るが。実は彼……仁君は、微力ではあるがこの町の運命を握っていてね」
「それってどういうことよ」
「君には協力してもらっているから特別に教えるのだが。この夏、仁君の高校は野球の全国大会で、ちょっとした旋風を巻き起こすことになっていたんだ」
「でも、それって、フィリップさんにとってはどっちでもいい話なんじゃないの?」
「私はこの町が好きでね。四十年も前まで、このあたりは本当にいい所だったんだよ。川の水は人が泳げるほど綺麗で、みんなその川で洗濯をしたりしてね。人々はみんな元気で、一生懸命畑で働いて、秋には祭のお囃子が鳴り渡っていたものだった」
「そんな所だったの?」
それは麗華の記憶には全くない風景だった。
麗華が生まれたころにはすでに、この町はほとんどアスファルトとコンクリートで固められていたのだ。
しかもこの数年、その上辺だけが近代的な田舎町は、中心部ですらシャッター街となっていたのである。
「今年の夏の野球大会をきっかけに、この町が少しでも元気になってくれれば、と思ったんだがね」
 「それじゃあ余計にあたしなんかじゃ無理よ、野球なんて素人なんだし」
麗華がそう訴えるとフィリップは麗華のカバンを指差して、
「そう言いながら君も、結構やる気じゃないかね?」
と、本人は笑ったつもりなのか、傷だらけの顔を歪めて見せた。
カバンの中には、学校の帰りに途中の書店で買った、野球入門の本が入っているのだった。
「今日の練習も逃げずに出たようだが」
「だって、ジンのお父さんとお母さんを悲しませたくないから……」
麗華は口を尖らせて呟いた。
麗華にとっては返って頭の痛いところだった。
最早この世に未練など微塵もないはずの麗華だったが、あの優しい両親にだけは特別に後ろ髪を引かれる思いを抱きはじめていたのである。
「でも、止められるなら今すぐにでも止めたいわよ、いったいいつになったらジンの魂を取り返せるのよ?」
「霊界では専門の交渉人を立てることにした、もう少しの辛抱だよ」
「そんな悠長なこと言ってて大丈夫なの?今こうしている間にも食べられちゃうんじゃないの、ジンの魂」
「それは問題ないね、ヤツらにはヤツらなりの儀式めいた決まり事があってね」
フィリップはそこまで言ってから、「おや?」と床を見下ろした。
「お友達がきたようだ」
「お友達?」
「私もそろそろ戻るとするか」
――ちょっと待って、まだ聞きたいことが……――
麗華がフィリップの背中に向かって叫ぼうとした瞬間、母親が階段の下から呼ぶ声が聞こえた。
――お友達って、誰よ?――
麗華が少しいらいらしながら降りて行くと、そこには遠藤が立っていた。
「こ……こんばんは」
――なにしにきたんだろう――
麗華は戸惑った。
意外といえば意外だし、明日の試合に備えてチームメイトが訪ねてくるのは、当たり前といえば当たり前とも言える。
だが、最大の問題はそんなことではない。
彼はゲイなのだ。
それも、カミングアウトするキッカケを狙っている、最も危険な男なのだ。
――二人きりになったら、急に襲ってきたりして――
昼間のあの、意味深なウインクもなにかの伏線がありそうだ。
そもそも仁と遠藤って、どんな関係だったんだろう。そんなに仲が良かったのだろうか。
ほんの一瞬の間にあれこれ考えてみたが、結局相手の出方を伺うしかなさそうだった。
「あのさ、お前が調子いい時のDVD持ってきたんだけど」
一瞬の沈黙が気まずかったのか、遠藤の方から先にそう切り出してきた。
「お前、今日なんだか調子悪そうだったからさ」
「ああ、ありがとう」
それは麗華にとっては本当にありがたい話だった。
――それだけならとってもありがたいんだけど本当にそれだけ?――
だが、そこまでしてくれている相手を帰してしまうわけにもいかない。
「まあ、上がったら?」
麗華は恐る恐る誘ってみるのだった。

「……ほら、ここで一度軸足にタメを作ってるだろ?そこから、体を開かないようにしながら一気に腕を振って……」
「なるほど、そうするわけね」
麗華の警戒心を完全に裏切るように、遠藤の解説は的確で親切だった。
だが、ここで新たな疑問も湧いてきた。
――でも、どうしてこんなに親切に教えてくれるのかしら?――
同じチームメイトとはいえ、エースの座を狙うピッチャー同士として、二人はライバルでもあるはずだ。
エースである麗華(仁)の不調は、第二投手の遠藤にとってむしろチャンスのはずなのだ。
「あのさ、話は変わるんだけど……」
遠藤は一通りレクチャーが終わると、言い難そうに話題を変えてくるのだった。
「お前さ、今日、妙に、その、なんというか、女の子っぽいというか、その、可愛かったじゃん?」
――やばい、やっぱりそうきたか――
「そ、そお?」
「うん、昨日までと全然違ったよ」
「そんなに変わんないと思うけどなあ」
麗華はごまかしながら、頭の中をフル回転させて考えていた。
会話に緊迫感こそ全くないが、これは絶体絶命なのだ。
「お前、なにか隠してないか?みんなに」
「そ、そんなこと、ない、よ」
「昨日までの嫌われキャラも、本当は演技だったのかな、なんて」
本当の仁ではないことを見破られたか。あるいは自分もゲイであることを隠している、などと誤解されたか。
遠藤は真っ青な顔になり、頬を震わせてためらっていたが、意を決したように、
「俺は演技してたよ」
と話はじめるのだった。
「俺、実は今まで、みんなに内緒にしていたことがあって……」
――それは知ってる、知ってるから言わなくていいから、お願いだから襲ってきたりしないで……っつうか、待てよ――
「ちょっと待って。やっぱりあるわ、隠してたのよ」
麗華の頭に一瞬閃いたものがあった。
――もしかして、この子だったら、というかこの子だからこそ解ってくれるかも――
「や、やっぱり?」
遠藤は気の毒になるくらい顔を輝かせ、笑った。
――信じてくれようがくれまいが、もう、知ったこっちゃないわ――
麗華は「誰にも言わないでね」と念を押した後、自分が本当は麗華という女子高生であること、自殺してからの今までのこと、そして生前の仁との関係も含め、全て打ち明けてみるのだった。
考えてみれば、これは麗華にとって、いくつものメリットが期待できる半面、マイナスになることは一つもないのだ。
例えば遠藤が信じてくれなかったとしても、それは、仁という変態が世迷言のような妄想を語っただけで終わるだろうし、結果、この人の良さそうなゲイの青年をちょっと不愉快にさせるていどだろう。
一方で仮に信じてくれたとすれば……。
遠藤は不安げな視線をあちこち泳がせてから目を伏せ、必死で頭の中を整理しているようすだった。
――やっぱり信じられないか、仕方ないよね――
当の麗華は落胆するどころか、返ってとてもすっきりした気分になっていた。
ところが。
「すごい、すごいわ、そんな話があるんだあ」
遠藤は、両目にうっすらと涙さえ浮かべて、「素敵」とオネエ丸出しの口調で大いに感動して見せるのだった。
「うらやましいわ、そんな風に好きな男の子の体になれるなんて」
最早、先に自分がゲイであることを告白することも忘れ、仁の心配もそっちのけで、すっかり上機嫌で身も心も乙女になりきっていた。
「そうじゃないんだってば、もう好きでもなんでもないの」
「あたしも憑依したいなあ」
「だ、誰か好きな人がいるの?」
――っつうか、その考えもきめえっつうか――
遠藤は真っ赤になって「うん」とうなずくのだった。
――な、なんか痛いな、そういうのも――
「誰にも言わないでよ」
――まあ、聞いて欲しいんだろうけど――
そう思いながら麗華は胸が痛むのだった。
「あのね、その子はね……」
――えええっ?――
大江戸大鉄君なんだけど。
――同じ野球部かよ――
しかも、あの堅物の。
「そ、そうなんだ……」
麗華は当たり障りのないていどに、驚いてみせるのだった。
どこがいいんだろう、一体。
そう思っていると遠藤の方から堰を切ったように語りだすのだった。
「彼って、ずぼらに見えるけど意外と細かいところまで気を使うのよ、例えば、部員全員の誕生日を憶えてるし、一年生までよ」
「ふーん……」
「試合であたしがピンチになった時なんか、いつもマウンドまできて、変な顔したりして笑わせてくれるし……」
「ふ、ふーん」
遠藤はまるで決壊したダムのように、止め処なく喋り続けるのだった。
ついでに言うなら、今まで抑えていた女言葉も思う存分満喫しているようだ。
麗華には遠藤の、その幸せそうな「本来の姿」が痛々しく、見ていて涙が出そうになるのだった。
大鉄のあの性格からして、恐らく女の子との普通の恋愛すらまだ、ほとんど未経験なはずだ。
そう考えると、遠藤の大鉄への想いが成就する可能性は限りなくゼロに近いだろう。
だが一方で。
好きだった男にとことん裏切られ愛想をつかした自分と、報われる可能性のきわめて薄い片想いの遠藤と、いったいどちらが不幸だというのか。
麗華は、遠藤に対し今まで誰にも感じたことのない親近感が湧いてくるのを感じていた。
――もしかしたら、こういうのを親友っていうのかも――
こうして麗華は、生涯最高の親友(とも)を得、それ以来他に誰もいない所では「レイカ」「メアリー」と呼び合うようになったのだが、このメアリーというのは遠藤の希望で、彼は盛遠という自分の名前が気に入っていないのだそうだ。

 バックスクリーンの向こうには、入道雲がじっと動かずに球場を見下ろしている。
 ブラスバンドの演奏と蝉時雨に混じって、どこからかヘリコプターの飛んでいる音が聞こえてきて、麗華は思わず空を見上げた。
 真っ青な空だ。
 はじめて歩く野球場のグラウンド。
 まるで大きなすり鉢の底を這っている、蟻になったような気分だ。
 グラウンドから見上げる空は、いつも見ているそれより丸く、青くて高いドーム型の天井のように見えた。
 地球ってやっぱり丸いんだ、と麗華は歩きながらどうでもいいことを考えていた。
 ――痛っ……――
 後ろから踵を蹴られて振り返ると、八郎が引きつった顔で「振り向くんじゃねえよ」とささやく。
 麗華をにらんでいるようだが、その視線は麗華の顔よりずっと後ろの、遠い所を見ているようだった。
 よほど緊張しているのか、手と足が一緒に出ている。
 ――あんたこそ、このくらいでアガってんじゃねえよ――
 とうとうはじまってしまった。
 ゆうべあれから遠藤と外へ出てキャッチボールをした。
 仁の家の近くにあるホームセンターの駐車場が、夜十時まで明かりをつけているのだ。
 それが消えてからも家に戻り、深夜まで話をした。
 野球のレクチャー、チームメイトの話、女の子同士?のとめどないお喋り。
 特に女の子同士のお喋りはうれしかった。
 一体何年ぶりだったか。
 麗華は何年も溜めていた心の澱みを、洗いざらい吐き出し聞いてもらった気分だった。
 実に心強い味方ができた。
 自分が麗華であることを打ち明けて良かったと思う。
 相手がお人よしで夢見がちな性格の遠藤であることも幸いした。
 麗華本人も戸惑うほど、すんなり受け入れてくれたのだ。
 もし相手が大鉄だったら、どうだっただろうか。
 麗華は前を歩いている大鉄の、大きな背中を見た。
 恐らくこれっぽっちも信じないだろうが、野球部にプラスになると解れば、話に付き合って協力くらいはしてくれるのではないか。
 頑固で強情だが、決して因業な性格というわけではなさそうだ。
 遠藤の話では、思いやりもユーモアもあるらしいし、顔立ちだって、決して悪い方ではない。
 仁のような優男とは正反対のタイプだが、時々見せる笑顔は確かに魅力的だった。
 なによりひた向きさと優しさがよく表に出た、好い人相……好相と言っていいだろう。
 ――その気になれば、結構モテそうだけど――
 麗華はそんな風に考えてから、ハッと我に返った。
 ほんの一瞬とはいえ、大鉄を好意的に見ていた自分に腹が立ってくると、目の前の筋肉質の背中が無性に憎らしくなって、蹴飛ばしたい衝動に駆られてくるのだった。
 ブラスバンドの行進曲に合わせて一歩一歩リズミカルに足を動かしているうちに、ついその一歩を大きく前に踏み出し、気がついた時には膝で蹴っていた。
 大鉄は反動で首を仰け反らせ「痛てっ」と短く呻くと、すぐに首を後ろに捻って、
 「場所柄をわきまえろ、バカヤロウ」
 と、麗華をにらみつけた。
 その、あまりにも当たり前すぎる反応に麗華は思わず噴き出し、そしてアカンベーを返すのだった。
 仁と比べれば、絵に描いたような平凡な常識人なのだろう。
 役員の挨拶が長々と続き、選手宣誓が終わり、球児たちは整然と野球場から退出する。
 野球場の外では、ついさっきまで牛のように黙りこくって歩いていた高校生たちが緊張から解かれ、同じ色のユニフォーム同士で固まって雑談に花を咲かせていた。
 相変わらず緊張に青ざめている者。
 力が余っているのか、チームメイトに格闘技の関節技をかけてふざけている者。
 麗華と同じチームのエンリケも、ノリノリでサンバのステップを踏んでいる。
 その中から不意に一つの顔が麗華の行く手を遮って立ちはだかった。
 「おい」
 と、そいつは不躾(ぶしつけ)に声をかけてきた。
 痩せているが、ひょろりと背だけが高い。
 身長百八十センチの仁の体でも見上げるほどの高さにある顔は、真っ黒に焼けている上頬がこけていて、ひどく小さく見えた。
 「今年は去年みてえなわけにはいかねえからな」
 と、神経質そうな眉間に深いシワを寄せてそいつは言った。
 「え?」
 麗華が、わけが分からずまごまごしていると、
 「いつまでも調子に乗ってんじゃねえぞ、こら」
 相手はしびれを切らしたように凄んできた。
 「三日月山高校のピッチャーの鳥羽だよ、去年準々決勝でうちに負けたんだ」
 いつの間にか遠藤が隣に来ていて、そう耳打ちをした。
 「え?ああ、よろしく」
 麗華が右手を差し出すと、今度は鳥羽の方が「え?」と一瞬戸惑ったようだったが、すぐに「ふざけるな」とその右手を払いのけてしまった。
 「去年は試合の後まで散々バカにしやがって、急に優等生ヅラすんじゃねえよ」
 ――な、なるほど――
 「バカにしたんだ、ごめんね」
 麗華が素直に謝ると、鳥羽は一度気持ちの悪いものでも見るような目になったが、すぐにまた麗華をにらみつけて、
 「とにかくだ、今年は準決勝まではお前えと試合ができねえ、もっとも、お前えの方が負けずに勝ち上がってくればの話だがな」
 と、口の端を歪めて笑った。
 「うん、その時にはよろしくね」
 麗華は満面の笑顔で返した。
 仁になって三日目ともなると、麗華も次第に慣れて余裕が出てきたのだ。
 要するに、どんなに相手から怒られようと、罵(ののし)られようと挑発されようと、それは仁が言われているだけなのである。
 鳥羽はいまいましげに「けっ」と顔を歪めて、
 「せいぜい頑張るんだな」
 と背中を向けて行ってしまった。
 麗華はそれを見送りながら、短く溜息を吐いた。
 ――まったく、どこまで敵だらけなんだか、このバカ――
 恐らく試合で負かされた後になってまで、仁に余計な戯言(ざれごと)でも言われたのだろう。
 「あ、今度は向学大付属高校の足利が来た」
 遠藤がまたささやいてきた。
 「去年うちが準決勝で負けた学校の四番だよ」
 「やあ」
 足利は鳥羽とは対照的に、にこやかに握手を求めてきた。
 ――か、かっこいい――
 身長は仁より若干低いが、その風貌と体つきはまるでドーベルマンのように精悍である。
 「今年も君とこうして再会できて嬉しいよ」
 「う、うん、そうだね」
 「幸運と言うべきか、不運と言うべきか、君のチームとは決勝まで当たらないが、君たちならきっと勝ち上がってくると信じてるよ」
 ――かっこいいけど、なんかやっぱり違う――
 足利の態度は慇懃無礼というか、どこか堅苦しすぎるところがある。
 「去年はたまたまうちが勝たせてもらったが、勝負は時の運だ。今年もいい試合をしよう」
 「彼の先祖は、昔このあたりを治めていた殿さまなんだって」
 遠藤がまた耳打ちをしてきた。
 ――な、なるほど――
 「僕にとって君は永遠のライバルだ、健闘を祈るよ」
 「うん、君もね」
 ――どうして野球やる人って、みんなこうキャラが濃いんだろう――
 「去年は彼の学校が甲子園に出て、ベスト4まで勝ち進んだのよ」
 足利の背中を見送りながら遠藤は女言葉でささやいた。
 「そんなに強いの?」
 麗華は知らなかった。
 去年は仁と別れて、野球は全く見る気になれなかったのだ。
 遠藤はため息をつきながらうなずいた。
 「去年の感じでは全く勝てる気がしなかったけど、それは上級生にすごいピッチャーがいたからなの、今年はその人が卒業したからまだなんとかなりそうだけど、でも強敵には間違いないわね」
 麗華は遠藤と顔を見合わせ、肩をすくめた。
 「冗談じゃないわ、そんな先のことなんて。今日の試合だってかなり危ないのに」
 「大丈夫よ、相手の篠溜高校は強くないから、普通にやればうちがコールドで勝てる相手だし、あたしが投げても完封できるようなチームなの。ほんとにだめだったらあたしがいつでも代わってあげるから」
 遠藤はにっこりと微笑んでそう言ってくれた。
 口調は別として、その笑顔は麗華にはひどく頼もしくみえるのだった。

麗華マウンドに立つ

――まずいな……――
 大鉄は思わず不安を顔に出しそうになり、慌てて押し止めた。
 試合前の準備投球のため、マスクを被っていないことを思い出したのだ。
自分が先頭になって青ざめた顔など見せたら、やつはますます硬くなるだろう。
とにかく仁をこれ以上追いつめるのはよくない。                 
もともと仁は神経質でアガリ性で、立ち上がりは悪いのだ。
 だが、今日の調子は特にひどい。
 球がまったく走っていない。
 本来、仁のストレートはマックスで百四十七キロ出るのだが、どういうわけか今日は百三十五キロも出ていないのではないか。
 ――セーブしているのか?準備投球だから――
 いや、そうじゃない。
 投球フォームがいつもと違う。
 どこかギクシャクしている。
 それに、変化球も全然だめだ。
 仁の球種は、ストレートとスライダーとフォークボール。
 スライダーは確かに曲がるが、全くキレがない。
 これではちょうど打ちごろだ。
 その上、ストレートに比べ極端にコントロールが悪くなるようだ。
 いや。ストライクゾーンから外れてくれるならまだいいが、間違って真ん中などにきたら、今日の相手でも打たれるかも知れない。
 フォークは要求しても投げようともしない。
 元来やつはフォークに関しては特に神経質で、試合前にはしつこいほどチェックするのだが。
 ――どうする?――
 怒鳴りつけて気合を入れるか。
 おだててリラックスしてもらうか。
 やはり、彼女の自殺のショックから立ち直れていないのだろう。
 当たり前だ、立ち直れるはずがない。
 まだ一昨日の話なのだ。
 今日の相手ならこれでも勝てるだろうが、なんとかして立ち直るきっかけでもつかんでもらわないと、予選を勝ち抜くのはとても無理だ。
その上観客はほぼ満員である。
予選の一回戦としては異例の盛況ぶりだ。
皆仁を見にきたのだ。
甲子園出場経験こそないがプロのスカウトの目に留まっているという噂を、皆よく知っているのだ。
特に地元の沢谷香市では、町おこしの期待も込めて、市長までが仁に注目しているという噂だった。
長い高校野球の歴史の中で、沢谷香市は一度も代表校を輩出したことがなかったのだ。
これで緊張するなという方が無理というものだ。
――怒鳴りつけるのは逆効果だろう――
やつは心底俺を恨んでいるようだ。
現にさっきも背中を蹴ってきた。
あんなことくらいで恨みが消えるとは思えないが、少しでもやつの気が晴れるなら、いくらでも蹴られてやるさ。
…………
 ――マウンドの上って、こんなに暑かったのね――
 麗華は早くも汗びっしょりだった。
 キャッチャーの大鉄までの距離も、想像していたよりずっと遠く感じる。
 応援席では仁の父と母が、期待と不安の込もった眼差しでこちらを注視している。
 父親は仕事を休んで見にきたのだった。
 ゆうべの遠藤との特訓の甲斐があって、見た目はなんとかピッチャーらしいフォームになってきたが、直球とスライダーはともかく、フォークは全く無理だった。
 とても一朝一夕で体得できるものではなかったのだ。
 投球練習が終わると、大鉄が笑いながら駆け寄ってきた。
 「なんだよお前、またアガってんのか?」
 大鉄に挑発されて、麗華は少しむきになった。
 「え?いや、そうでもないけど……」
 すると大鉄は笑いながら、「俺もアガってんだけどよ」と麗華の肩を叩いた。
 「緒戦だから無理もないさ、でも、今日の相手はお客さまだ、落ち着くまではサインなんかいいから、全部ど真ん中に思いきり直球投げてこいよ、溜まった鬱憤を晴らしてやれよ」
 ――結局、どうしてもあたしが投げなきゃなんないのね……――
 ブルペンでの投球練習で、仁がいつもの調子の見る影もないほどの状態であることくらい大鉄が一番判ったはずだった。
 だが、もしかしたら今日は遠藤でいってくれるのでは、と密かに寄せていた期待も裏切られてしまったのだった。
 「試合終わったらまた満腹亭で特盛りラーメンとジャンボギョーザ食って帰ろうぜ、おごるからさ」
 大鉄は真っ黒に日焼けした顔に白い歯で笑い、ホームベースに戻って行った。
 ――結構いいやつ、認めたくないけど――
 麗華は一度、大きく深呼吸した。
甲高いサイレンが、有無を言わせぬほどの大音量で鳴り渡った。
もう、後戻りはできないのだ。
 ちなみに試合に臨む沢谷香高校のオーダーは次のとおりである。
 一番ショート  牛若小次郎
 二番センター  花川口悟
 三番サード   鎮西八郎
 四番キャッチャー大江戸大鉄
 五番ファースト 高橋エンリケ誠
 六番ライト   遠藤盛遠(メアリー)
 七番セカンド  柏薔薇魔裂
 八番レフト   梶原景時
 九番ピッチャー 藤村仁(麗華)
 ――ここまできたら、やれるとこまでやるだけよ――
 麗華、振りかぶって、第一球。
 「うおおおっ……」
 観客がどよめいた。
 ――あれ、なに?――
 バッターが倒れている。
 主審が「デッドボール」と叫んだ。
 ――しまった――
 すかさず相手のベンチやスタンドからヤジが飛んでくる。
 いや、相手からだけではなかった。
 「おいおい、たのむぜ」
 サードを守っている八郎が、土を蹴って聞こえよがしにブツブツ言っている。
 「やれやれ、天才のやることってな理解できねえよ」
 ショートの牛若がそれに続く。
 「ドンマイ、真ん中投げよう真ん中」
 キャッチャーの大鉄とライトの遠藤だけが、そんな意味のことを叫んで励ましてくれた。
 ファーストのエンリケは、ぼんやりと相手の応援席をながめていた。
 恐らくチア・ガールを見ているのだ。
――どうしたんだろう?練習ではちゃんとストライクが入るようになってたのに――
実を言うとこれには、麗華には解らない不運がいくつか重なっていた。
 硬式の、試合で使うような新品のボールというのは、それなりの投球力のある者が投げると、思いもよらない変化をすることがあるのだ。
 麗華は直球を投げたつもりだったが、それがほんのわずかだが汗で滑ってシュートをしてしまい、しかも相手の打者は、最初からヒットを打つのが難しいことを見越して、かなりベース寄りに被って構えていたのである。
 麗華は新品のボールを投げるのは、これがはじめてだったのだ。
 味方の罵声まで浴びる四面楚歌だが、とにかく考えても仕方ないかと、気持ちを切り替える。
 意外とマウンド度胸はあるのだ。
 ――こういう時は、一塁に牽制球ってのを投げるのよね――
 麗華は冷静に自分の置かれた状況を把握していた。
 だが。
 「ボーク!」
 主審がまた叫んだ。
 なまじ平常心があったことが返って裏目に出てしまい、投げなくてよい牽制球を投げ、しかもボークになってしまったのである。
 結果、ノーアウトでランナーが二塁に行ってしまった。
 麗華はまだ、一球しか投げていない。
 「てめえ、なにふざけてんだバカヤロー」
 今度は相手のヤジより早く、八郎が怒鳴りつけてきた。
 「まったく、乗っけから忙しいこと」
 牛若の嫌味がそれに続く。
 ――ぼ、ボークって、なに?――
 それは麗華にとって、はじめて聞く言葉だった。
 麗華が見ていた試合では、仁はボーク、つまり反則投球を一度もやったことがなかったのだ。
今麗華がやったのは、プレートを踏みながら打者に足を踏み出して――つまり、打者に向かって投げるフォームで――一塁に投げる、という初歩的なボークだった。
――なにがなんだか分からない、一体どうすればいいのよ――
麗華もさすがに平常心を失い、呆然としてしまった。
ピッチャーにとって立ち上がりのボークは、ヒットを打たれるより心理的に辛いものなのである。
「タイム」
大鉄が駆け寄ってきて、内野手を集めた。
「お前ら、さっきから味方なんかヤジっていい加減にしろよ」
八郎と牛若を咎めたが、顔は相変わらず笑顔である。
「ヤジじゃねえよ、愛のムチだよ」
八郎が苦々しげに吐き捨てる。
「そうそう、叱咤激励、切磋琢磨ってやつだね」
牛若が他人事のようにうそぶく。
「まあ、まだ点取られたわけじゃないさ」
大鉄が麗華に微笑みながら言った。
「牽制球は投げなくていい、ランナーは気にすんな。今日の試合は三点や四点取られたって大丈夫だから、なにも考えずに投げてこいよ」
麗華はその笑顔と言葉に救われ、少し落ち着きを取り戻して「うん」とうなずいた。
――な、なんか、認めたくないけどありがとう――
だが。
「バカヤロウ、緒戦の弱小相手だからこそ、完璧に勝って勢いをつけるんじゃねえか」
八郎が割って入ってくる。
「そうそう、獅子はうさぎ相手にも全力を尽くすってやつだね」
牛若がそれに続く。
「分かった分かった、打たせるからお前ら完璧にやれよ、うちの守備にはつけ入る隙なんてないってところを見せつけてやろうぜ」
大鉄は笑顔で二人をなだめてから、鋭い目になり「しめていくぜ!」と気合を入れた。
八郎も牛若も「おう、あたりめえだ」「どんどんこいや」と口々に叫びながら守備に散って行った。
大鉄は一人残り、再び麗華に笑顔を向け、
「みんなまだ、硬さがとれなくてイライラしてるんだよ、野手ってのは、最初の打球を捌(さば)くまで落ち着かないからな。ランナーは気にしなくていい、お前はバッターに思いっきり投げるだけでいいよ、ヒット打たれてもいいから打たせていこうぜ、あいつらにいっぱい仕事してもらおう」
そう言い残して戻って行った。
――すごい――
麗華は遠藤の言葉を思い出した。
試合になると本当に頼もしいやつ。
まるで別人のように生き生きとしている。
あんな曲者連中を、ほんのわずかのやり取りで、調教師のように操ってしまった。
大鉄自身だって、緒戦の不安は同じはずなのに。
それになんという目をするのだろう。
あれは子供が、楽しい遊びに夢中になっている時の目だ。
生きているのが楽しくて仕方ない、という目だ。
そんな目で見られ、麗華もいつの間にか落ち着きを取り戻しているのだった。
次のバッターは早くもバントの構えをしている。
「いいぞ、やらせろやらせろ」
大鉄が両手を広げて大きく構えた。
――バントなら、何度も見たことあるわ――
麗華は投げるのと同時に飛び出す。
だが。
「うわっ、痛てえ!」
夢中で打球を追いかけて、八郎とぶつかってしまった。
麗華もそのまま倒れ、一塁・三塁オールセーフになってしまうのだった。
「バカヤロウ、テメエはファーストのカバーだよ……っうか、初球から簡単に三塁線にバントさせんな、このドアホウ」
八郎は真っ赤になって麗華に食ってかかった。
――な、なによ、カバーってなに?ピッチャーって投げるだけじゃないの?――
麗華は再び、なにがなんだか解らなくなってしまった。
マウンドに戻りながら、スタンドを見上げると、仁の父親がうなずきながら、こちらに向かってなにかを叫んでいる。
隣の席では母親が、お祈りをするように両手を合わせ、強く目を閉じてうつむいていた。
その上の座席を見て麗華は愕然とした。
そこにはあの胡桃美琉久がいたのだが、その目。
遠くから気味の悪い動物でもながめているような、蔑んだ目でこちらを見下ろしていた。
――好きな男が頑張っているのに、よくあんな目で見られるわね――
麗華は唾を吐きたい気分だったが、今はそれどころではなかった。
次の打者へ、第一球。
はじめてストライクが取れたが、一塁ランナーには簡単に走られ二塁に行かれてしまった。
だが、これでなんとか、ストライクを投げる感触はつかめた。
第二球。
「走った!」
麗華が足を上げたところで、サードの八郎が叫んだ。
大鉄はその声より早く、立ち上がっていた。
相手のスクイズを完全に読んでいたのだ。
だが。
――え?――
普通にストライクを投げるのが精一杯の麗華が、投球動作の途中からウエストボールを投げることはできなかった。
ボールは大鉄のはるか頭上に逸れ、大鉄が思い切り飛んでも届かなかった。
二人のランナーが次々と、ホームに還った。
ホームのカバーに入っていた八郎が、グローブをグラウンドに叩きつけて麗華になにか怒鳴っている。
用もないのに、小次郎が麗華の隣まできて、小声で、毒を吐き捨てるようになにかささやいている。
だが麗華にはなにも聞こえず、視界に入る景色も陽炎のように歪んで揺れているのだった。
しばらくの間、遊びにまぜてもらえない子供のように、そうして立ち尽くしていた。
かなり長い時間だったような気がするが、時間にすれば一分もたっていなかったかも知れない。
やがて、真っ暗なベンチから監督が姿を現し、ピッチャー交代を告げるのを、麗華は他人事のようにながめていた。
大鉄と遠藤が近寄ってきて、なにか優しげな声をかけてくれたようだったが、結局その二人に促されベンチに下がった。
「お前はもう必要ない」と、その時誰かが言ったような気がした。
八郎だったようでもあるが、誰も言っていなかったようでもあった。
――結局この世に必要のない人間――
自分の心の中の自分がそうささやいたようだった。
ベンチに戻る際、スタンドの仁の父親と目が合った、父親は真っ直ぐに麗華を見てうなずいていた。
母親は両手で顔を覆っていた。
その後ろの座席に美琉久の姿はなかった。
探す気もなかったが、近くの大きな出入り口の階段に向かって歩く姿がすぐに見つかった。
出入り口脇のゴミ箱に沢谷香高校の応援の小旗を捨て、そのまま階段を降りていくのが見えた。

自転車で橋の所に差しかかると、にわか雨はうそのようにあがり、強い日差しが戻ってきた。
いつの間にかあたりの木々では蝉が啼いている。
シャワーのような雨に打たれ、下着までずぶ濡れになると麗華は返ってすっきりした気分で、いつもより少しだけ水嵩の増した川の流れをながめていた。
――終わった――
試合後のミーティングは、まるで負け試合のように重苦しく沈んだ反省会だったが、最早誰一人麗華を責める者はいなかった。
それはまるで欠席裁判のようだった。
あたかもその場に麗華がいないかのように、「今後遠藤でどう戦うか」ということにばかり議論は終始したのだ。
試合は十対四。形の上ではうちの完勝だった。
だが、完封、コールド勝ちで当たり前と思われていた相手に思わぬ苦戦を強いられた八郎たちチームメイトは、怒りを通り越して完全に麗華を見限っているようだった。
「監督、俺にも責任があります」
大鉄がそう言って、全員にかけ合ってくれた。
「こいつ一昨日、付き合っていた女の子が自殺したんです、俺が二人の交際をじゃましてたんです、こいつはまだ、ショックから立ち直れていないんです」
遠藤もそれに被せて、麗華を弁護してくれた。
みな、そのことは初耳だったようで、一応驚いて見せたが、彼等が長年くすぶらせていた麗華への不信感を覆すには及ばず、結局二人の意見は隅に押しやられてしまったのである。
麗華もそんなやり取りを、薄笑いを浮かべながら聞いているしかなかった。
――もう、いいよ――
みじめさも度を越えると、そんな力のない嗤いしか出てこなかった。
これで自分の無力さは証明された。
次の試合から遠藤の先発でいけばいい。
ただそれだけのことではないか。
「今から遠藤の先発を想定した練習をしよう」
練習オタクの八郎がそう言い出したところへ、にわか雨が降り出し、ミーティングが解散になったのである。
麗華にとってはそんな雨も渡りに船だった。
「肩が冷えるから」と心配する大鉄を振り切って、逃げるように帰ってきたのだった。
とにかくこれで終わった。
形はどうあれ、試合は勝ったのだし良かったではないか。
次の試合は十七日。
七日もあれば、いくらなんでもフィリップだって仁を連れ戻してきてくれるだろう。
これで思い残すこともなく、自分も霊界に行けるのだ。
――川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず……か――
川の水はいつもより濁っていて、仁の顔が映ることはなかった。
早ければ今日、明日にでもこの体から出られるのだ。
――一応やることはやったんだから、木にされるなんてこと、ないよね――
麗華は苦笑しながらペダルを踏み出した。
仁の家に着いて玄関の前にしばらく立ち尽くした。
仁の両親は、さぞがっかりしているだろう。
恐らく、二人して努めて明るく振舞い、当たり障りのない言葉をかけてくるに違いない。
だが、自分は決してこれに同調してはいけない。
うっかりそんな優しさに引き込まれたところで、お互いに良いことなどないのだ。
自分がこの世に未練を残すより、さっさと仁と交代してもらった方が、チームにとってもあの両親にとってもよい結果になるのだ。
そう考えると、麗華は少しだけ寂しい気分になったが、自分は自分だけのことを考えて「あの世」へ行こうと、割り切るのだった。
麗華の最後の務めとして、彼らと同じように明るく振舞い、こちらも当たり障りのない言葉を返していればいいだけのことなのだ。
麗華が扉に手を伸ばすと、扉は中から開けられた。
中から顔を出したのは仁の父親だった。
「なんだよお前、そんなに濡れて、とにかく着替えてこいよ」
その様子を見て麗華は少し拍子抜けするのだった。
父親はがっかりした様子もなく、不自然に明るく振舞うでもなく、そう声をかけてきた。
もしかしたら、それは麗華が知る限り最も自然な「お父さん」の顔かも知れなかった。
キッチンのテーブルには、今日の祝勝会のために用意したらしいご馳走がところ狭ましと並んでいた。
しかも今度は肉ではなく、寿司や刺身ばかりである。
「今までお前にはすまないことをしたな」
麗華が着替えて椅子に座ると、父親が正面に座り静かにそう言ってきた。
母親はずっとこちらに背を向けたまま、鍋でなにかを煮込んでいた。
「え?」
芝居がかった励ましの言葉を予想していた麗華が驚くと、父親はゆっくりと続けた。
「お前、苦しかったんじゃないか?子供のころからみんなに期待されて」
「そ、そんなことない……と、思う」
父親は珍しく居住まいを正し、正面から麗華を見ている。
麗華に向かって「まあ、食いながら聞けよ」と勧めると、淡々と語りだした。
「お父さんもな、正直なこと言っちまうと、そりゃ確かに期待してたさ、こんなしがない小さな町工場の作業員の息子が、甲子園に出てプロに入って稼いでくれるかな、なんてな。俺たちもそんなお前のことを確かに自慢に思っていたよ。でも、それはお前に俺みたいな人生を歩んで欲しくなかったからそう思ってたんだよ。でもな、野球でプロなんぞになるより、お前がこの二日間、どういうわけか急にいい子になってくれたのが、お父さんもお母さんもどれだけ嬉しかったか、お前のお陰で俺も母さんも目が覚めたよ」
「目が覚めた……って?」
「お前が苦しんでいるのを知っていながら、上手に励ますことも、お前の我儘を叱ることもできなかったのは、決してお前に対する優しさなんかじゃなく、俺たちが逃げていただけだってことさ。仕事場でちょっとお前の自慢がしたいとか、高校を卒業したら少しお金を稼いでくれるんじゃないかなんて、結局自分のことばっかり考えてたわけさ。それがお前のためになんか、これっぽっちもなっていないって気がついた時には、もう手遅れだった」
麗華は「うっ」と息を漏らし、肩に下げていたタオルに顔をうずめた。
自分の中で、なにかが壊れる音が聞こえたようだった。
それは、自分の感情を抑えていた堰が壊れる音だった。
涙が、後から後から止まらなくなった。
「もう、いいじゃないか」
と、父親は言った。
「地元の英雄とその親、なんて肩書きは、もういいじゃないか、次の試合で負けようが、野球辞めようが、お前がいい子になってくれさえすれば俺たちはそれで充分だよ、お前はやっぱり俺たちの自慢の息子だよ」
そう言うと父親は幸せそうな顔で笑った。
「なあ母さん」
父親が声をかけると、母親ははじめて振り返って「ええ」と笑った。
「まるで仁が小学校の……野球をはじめる前に戻ってくれたみたいだったわ」
母親の目は真っ赤に腫れ上がっていたが、その顔は晴れやかだった。
「思い出すよなあ……」
母親の言葉につられて、父親は遠い目をしながら湯呑み茶碗を口元に持っていった。
今日は晩酌をしないつもりらしい。
「だめよ、お父さん」
麗華は堪らず叫んでいた。
「まだ大会は終わったわけじゃないんだから」
麗華が激しく首を振ると、涙があたりに飛び散った。
だが、それだけ言ってみたものの、その先の言葉が出てこない。
説明のしようもないのだ。
両親はしばらく驚いたような顔で呆気にとられていたが、お互いに顔を見合わせ「ああ、すまんすまん」と父親が慌てて謝った。
「そうだな、大会はまだはじまったばっかりだってのに、負けるとか辞めるなんて不謹慎なこと言っちまったな」
――そうじゃないの、違うんだってば――
「とにかく、今日のあたし……俺、は本当の俺じゃないんだから」
麗華がそう言いかけた時、玄関のチャイムが鳴った。
「大鉄君がきてるわよ」
戻ってきた母親が、麗華に告げた。
………
――一体、なんて言って声をかけりゃいいんだよ――
仁の家まできてみたものの、自分がなにを言いにきたのかという説明すら大鉄はできないでいた。
励まし、叱咤、最後の忠告、お別れの挨拶。
はっきり言えばその全てなのだが、いくら叱咤激励したところですでに手遅れとも思えた。
思えばこれほど扱いの難しいピッチャーもいなかった。
おだてれば図に乗りすぎるし、叱りつければ臍を曲げて練習を休みやがる。
せめて八郎の半分でも練習してくれれば。
それでも本番の試合で見せる速球の非凡さは本物で、だからこそ自分もそれに惚れ込み、数限りない理解不能の悪ふざけにも付き合ってきたのだった。
昨日からの気持ちの悪い女言葉も、責任の一端を感じているからこそ聞き流してきたのだ。
責任は確かに自分にもある。
だが、今日の試合でのやつのプレーは、ただの感情のこじれからきているだけではないのではないか。
あまりにもひどすぎる。
小学生だって、あれほどひどくはあるまい。
ただ単に体調が悪いとか、集中力がなくなっているとかのレベルではなかった。
――そうだ、その原因を見極めるのが、俺の最後の責任だろ――
みんなは強がってあんな風に言っているが、次の相手の目蒲学園はそんなに弱い学校じゃない。
遠藤一人では、恐らく勝てまい。
なんとかあいつとみんなを繋ぎとめる橋渡しでもできれば。
それには、あいつと腹を割って話を聞いてみなくては。
玄関から出てきた麗華の顔を見て、大鉄は一瞬目を見張った。
いくらタオルで涙を拭いても、麗華の目からはまだ涙があふれていたのだ。
「お前、そんなに悔しいんだったらもっと練習まじめにやってれば……」
大鉄があきれて咎めると、麗華は「ごめん」とさえぎった。
「まじめに練習するから、見捨てないで」
そう言って抱きついてきた。
――き、気持ち悪いな――
「練習するって、今からか?」
「うん」
「遅くねえか?今さら」
「死んだ気になってやるわ……一度死んでるからそれは大丈夫」
「死んでるって……ま、またわけわかんねえ」
「とにかくお願い、いろいろ教えて、なんでも言うこと聞くから、もう少しだけ付き合って」
「俺にできることならなんでもするけど……」
大鉄はそう言いかけて、背後に強い気配を感じて振り向き驚いた。
「え、遠藤……」
遠藤が呆気に取られて立ち尽くしていた。
麗華は「きゃあっ」と悲鳴をあげて、大鉄と離れた。
――きゃあ?――
「ち、ちがうのよ、そうじゃないのよメアリー」
――メアリー?――
「お前、いつからそこにいたんだよ?」
遠藤は後退りしながら「さっきからずっと」と麗華と大鉄を見比べた。
「仁が落ち込んでると思って、大黒屋のケーキを買ってきたんだけど……」
「誤解しないで、別に変なことしてたわけじゃないんだから」
麗華の言葉で混乱していた大鉄も我に返って「そ、そうだよ、誤解だよ」と、苦笑いした。
「俺、そんな気持ちの悪い趣味ないから、ははは……」
だが、遠藤は余計に悲しげな目になり、
「そんな、気持ちの悪い趣味って……」
と、泣き出しそうになるのだった。
人の思いというものは、言葉にしなければ伝わらないことがある。
だが、言葉にしたところで伝わらないこともある。
この三人にとって幸運だったのは、大鉄という人間が、自分の頭で理解できないことを敢えて理解しようとしない性格だったことなのだろう。
――一体どこまで面倒なんだよ、こいつら――
大鉄の頭では、そこまでが精一杯だった。

それぞれの夏

「おい二年!」
鳥羽茂男はグラウンドに入るなり、額をひくつかせながら怒鳴った。
恐ろしい形相だ。
三日月山高校野球部、総勢二十三人の二年生部員は全力疾走で鳥羽の前に集合した。
皆血相を変えて、中には「ひっ」と小さな悲鳴を漏らしている者もいた。
突然の「集合」だが、皆よほど慣れているのか、まるでマスゲームのように整然と鳥羽の前に整列する。
無礼なほどに小綺麗な「気をつけ」の姿勢は、一糸乱れぬ緊張感で今にも張り裂けそうだった。
「とりあえず跳べや……」
「跳べ」とはジャンピングスクワットをしろという意味だ。
「とりあえず」で三百回。
「しばらく」で五百。
「いいというまで」で千回、以前には二千回になることもあった。
「跳びながら答えろ」
鳥羽は、人嫌いな野良犬のような濁った目で、二年生部員を見下ろしている。
身長百九十三センチの鳥羽の顔は、二年生がジャンプするより高い位置にある。
真っ黒に焼け、痩せた顔の眉間に怒り皺を寄せると、とんでもなく迫力があった。
「お前ら、タマに洗濯させてただろ?」
二年生たちの黒目が一斉に小さくなった。
「なんで一年生にやらせないのかなー?」
鳥羽はまるで幼稚園児にものを尋ねるように首をかしげるが、その充血した目は殺気をはらんで大きく見開かれている。
キレる寸前の目だ。
「し、知りませんでした」
鳥羽の正面の男が跳びながら答えた。
「今年の一年生さまはずいぶんとお偉いんだね、おい。三年の玉川(たまがわ)先輩に洗濯までさせるんだもんねー」
「すいませんっす」「知りませんでした」
二年生たちは真っ青な顔で、口々に叫んだ。
彼らにとっては、寝耳に水だった。
三日月山高校野球部では、三年生と一年生は直接口をきくことすらない。
一年生のしでかした不始末は、二年生が責任をとる決まりなのだが。
一年生の仕事であるグラウンド整備や洗濯などの雑用に、二年生が付きっきりで指示を出すのは、せいぜい最初の一週間である。
一年生が四月に入部して三ヶ月もたつこの時期に、ほとんど目が行き届かなくなっているのは、むしろ当然といえた。
逆に、入部してまだ三ヶ月しかたっていない一年生が、三年生である玉川太(たまがわふとし)に、「自分が洗濯する」と言われ、断われないのはむしろ当たり前でもあるのだ。
「てめえら、そのうちケツまで拭かせる気なんじゃねえか?俺らに」
 鳥羽がそう言って全員をにらみつけた時、グラウンドの外から一人の部員がのそのそと走り寄ってきた。
 身長百六十センチの短軀(たんく)はぽっちゃりと太り気味で、短い手足をばたばたと泳がせながら走る不様な姿は、とても野球部員とは思えない。
 「シゲちゃん、もういいよ、俺がやるって言ったんだよ」
 玉川太は鳥羽の隣にくると、子供が親にすがりつくように見上げて言った。
長身の鳥羽と小太りの玉川が並んで立っていると、まるで一昔前の漫才コンビのようである。
 「だから、なんでテメエがやんだよバカヤロウ、そんなこたあ一年坊にやらせとけよ」
 「だって、他に俺にできることなんてないし……」
 玉川は口の中でそうつぶやいて一度うつむいてから、
 「みんな、ごめん。俺が悪かったんだよ、やらなくていいよ」
 と、二年生に向かって両手を振った。
 鳥羽はよけいに目をつり上げて、「うるせえ」と怒鳴った。
 「見せしめだ、全員しばらく跳んどけや」
 そう吐き捨ててその場を離れてしまった。
 「とりあえず」が「しばらく」になってしまった二年生たちは、それでも返って安堵の表情で「ごっつあんです」と元気よく返事を返した。
 「いいと言うまで」と言われなかっただけまだましなのだ。
 一年生たちは、その地獄絵図を呆然と見ているしかなかったが、中にはべそをかいて泣き出す者までいるのだった。
 玉川は心配そうに何度も二年生たちを振り返りながら、鳥羽の後について歩いた。
 「なあシゲちゃん、もういいよ、止めさせてやれよ」
 だが、鳥羽はそれには答えず、
 「お前えはベンチ入りしたんだぞ、いつまでも雑用なんぞしてんじゃねえよ」
 と言った。
 「だって、それはシゲちゃんが……」
 玉川のベンチ入りは鳥羽が監督に強く推薦して、強引に決めさせてしまったのである。
 「関係ねえよ」
 鳥羽は吐き捨てるように言ってから、薄笑いを浮かべて、
 「どうせ誰がスタメンになったって、誰も打てやしねえんだからよ、うちのチームは」
 と鼻で嗤った。
 「全員案山子だよ、カ・カ・シ……泣けるぜ、女の子入れたっていいくれえだよ」
 玉川が回りを見ながら「シゲちゃん」と鳥羽の腕を引っぱる。
 近くにいる三年生たちには、二人のやり取りが全て聞こえているようだったが、皆聞こえないふりをしていた。
 玉川は鳥羽の幼なじみだった。
 もっというなら、たった一人の友達である。
 人一倍大きな体と、その猛獣のような性格が災いして、誰一人近寄ってこようとしない鳥羽と、気が優しくお人好しだが、見た目と性格の鈍臭さで回りの人間からほとんど顧みられない玉川。
 体格も性格も正反対だが、周囲から孤立している点においてだけよく似たこの二人はなぜか子供のころからウマが合うのだった。
 「俺はシゲちゃんと一緒に野球ができるだけでいいんだよ」
 それが玉川の口癖だったが、野球のセンスはその外見どおりゼロで、チーム内では一年生も含めて最も下手だった。
 しかし、本人もそのことはよく理解していて、練習よりも雑用に熱心で、いまだに一年生がやるような仕事でも喜んでやっているくらいなのだが、そんな先輩の姿は下級生から見ても野暮ったく見えるもので、一年ほど前に下級生の中から彼に軽口を叩く者まで現れ。
 何年か前に多摩川に出現したアザラシに彼の見た目と名前が似ていることから、そのまま「タマちゃん」というあだ名で呼ぶ者が出てきてしまったのである。
 玉川本人は全く気にしていなかったが、これが運悪く鳥羽の耳に入り逆鱗に触れ、今の二年生全員が二千回「跳ばされた」のが、実はこの時だったのだ。
 「だあああっ、ちくしょうめ!」
 鳥羽は無性にいら立つ自分を押え切れないように絶叫したが、グラウンドにいる者は誰も振り向きもしなかった。
 はじめて見る者にとっては異様な光景かも知れないが、これはいつものことだった。
 試合が近くなり、練習が軽いメニューになると、鳥羽は力を持て余し、傍目も気にせず爆発的な不機嫌さをまる出しにするのである。
鳥羽のそんな姿はさながら、エサを求めて咆哮しながら徘徊する肉食恐竜のようである。
「チーム打率二割のスタメンが聞いて呆れるぜ、センスの無さじゃ全員がお前えといい勝負なんだよ」
だが、鳥羽が嘆くのももっともな話で、チーム打率二割というのもほとんど鳥羽が打って上げているアベレージであり、つまりこのチームの勝った試合のほとんどは鳥羽が完封し、自分で打ってきているのである。

 「三百球……?」
 「投げ込みを?」
 八郎と牛若が目を丸くする。
 「合宿ん時だってそんなに投げなかったじゃん、あいつ」
 と、八郎。
 「まさに怠け者の節句働きってやつだね。もう大会はじまってんのに、今ごろそんな無理したって体壊すだけじゃんかよ」
 と、牛若。
 「それに疲れだって残るだろうが」
 と、二人顔を見合わせてうなずき合う。
 大鉄は「なんだよお前ら」と、皮肉っぽい笑いを返す。
 「あいつはもう戦力外なんだろ?今さら体壊したっていいだろが別に」
 「まあ、そりゃそうだけどね」
 牛若が苦笑いしながらうなずく。
 「実は昨日も家に帰った後、俺相手に二百球投げたんだよ。いやいや、手のひらが痛てえ痛てえ……」
 大鉄はわざと満足そうな笑みを浮かべながら左の手のひらを二人に見せた。
 本当は百五十球だったのだが、みんなの気を引くために少し大げさに吹聴しているのだ。
 「ほんとかよ?」
 練習と聞くと、さすがに八郎は喰いつきがいい。
 「冗談じゃないよ」
 最も反発したのは、仁に次いで練習嫌いのエンリケだった。
 「やっと大会がはじまって、練習が少なくなったってのに、こっちまでとばっちりがくるじゃないの」
 「いやいや」
 と大鉄は首を振った。
 「お前が仁の球受けりゃいいだろ、チンタラ守備練してるより楽だぜ」
 「なるほど、そうだな」
 エンリケは目を輝かせ、あっさり快諾した。
 この大男は「楽」と聞くと喰いつきがいいのだ。
 「けっ」
 と、八郎は吐き捨てた。
 「バカ言ってんじゃねえよ、たった一週間で今までサボった分が取り返せるだあ?ナメるにもほどがあるぜ」
 だが、その目はどこか嬉しそうだった。
 ――あ、暑い……く、苦しい……――
 ブルペンは木陰になっているがグラウンドを渡ってくる熱風が体中にまとわりつくようだ。
 ――野球のユニフォームって、なんでこう、二枚も重ね着しなきゃなんないのよ――
 麗華はすでに、二年生を相手に百五十球投げていた。
昨夜、結局フィリップは現われなかったが、そんなことはもうどうでもよかった。
と言うより、そちらの方はほとんど忘れているくらいだった。
今の麗華はとにかく時間が惜しかった。
寸刻を惜しんで野球漬けでいたかったのである。
 この投げ込みの後も、大鉄と遠藤にたのんで居残り練習の約束をしてあるのだった。
 昨日の試合で大失敗をしてしまった牽制球とバント処理は言うに及ばず、挟殺プレーやサインプレーなど、やることは山ほどある。
 投手とはいえ、当然バッティングの練習もしなくてはならなかった。
 ――負けるもんですか……これ以上あのお父さんとお母さんを悲しませるなんてできないわ――
 麗華は本格的にスポーツに没頭するのはこれがはじめてだった。
 中学では手芸部に所属し、高校では「リラックマクラブ」というクマのぬいぐるみを作り続けるサークルに入っていたのである。
 そんな麗華にとって、生まれてはじめて大きな目標に向かってハードなメニューを一つ一つ消化してゆく充実感は全てが新鮮であり、苦しいながらも楽しくもなってきているのだった。
 麗華は少しずつ変わってきていた。
 一球一球投げるごとに増していく球速は、生身の人間としての成長を意味し、それにつれて流れる汗と溜まってゆく疲労は生きている証を麗華に自覚させてくれるのだった。
 ――なんだか素敵、生きてるって感じがするわ――
 たまたま人生の幕を自分で引いてしまったが、実際には成長期の少女であり、まだまだ人生をやり直すには充分な年齢なのである。

 ゴギーン!
 ガギーン!
向学大付属高校野球部第二練習場では、不気味な金属音が鳴り響いていた。
金属バットでボールを打つ快音ではない。
鉄と鉄がぶつかり合う、昔の鍛冶屋の作業音のような音である。
「足利、もうそれくらいにしておけ」
監督の勅使河原が呆れた顔で声をかける。
「あと十五本であがります」
足利は肩で息をしながら、ちらりとそちらに顔を向けた。
顔からは汗が滝のように流れている。
手に持っているのはバットではない、ハンマーである。
土建業者が工事現場などで使う、先端が鉄でできているハンマーである。
打っているのも野球のボールではなく、陸上競技のハンマー投げで使うハンマーである。
つまりワイヤーのついた鉄球だった。
それを上から吊り下げて、ハンマーの先端で打っているのだ。
――うふ、うふふふ……藤村君。僕のバッティングは更なる高みに達したぞ――
足利は今日の試合で二本のホームランを打っていた。
その他の打席は全て敬遠されたのだ。
試合は十五対三で圧勝だった。
――僕にとってこの一年がどれだけ長かったか――
去年の準決勝、向学大付属は沢谷香高校に試合では勝ったが、足利は個人的に仁に完全に押さえ込まれたのだった。
三打数二三振、一内野フライ。
まさに完敗だった。
仁のちゃらんぽらんな性格は、足利のような真面目で思い込みの激しいタイプとは、実に相性がよかったのである。
最終打席で打ったホームランは、仁に代わって出てきた三年生のリリーフから打ったのだった。
練習不足の仁がスタミナ切れを起し、途中で交代したのである。
だが、足利にとってそれは耐え難い屈辱であり、以来彼はこの打撃練習を毎日百本、日課としてきたのだった。
――嬉しいぞ、藤村君。僕は君と対戦するためだけに、一年間この特訓を続けてきたんだ――
足利にとって不幸なのは、去年の夏の大会以来、仁とは一度も対戦することができなかったことだ。
去年の大会以来、沢谷香高校はどういうわけか――ほとんど仁が原因なのだが――秋も春も向学大付属と対戦する前に負けてしまっており、足利は仁との遺恨を晴らすことができずに今日に至っているのだった。
「もう大会がはじまってるんだから、ほどほどにしとけよ」
勅使河原は苦笑いしながら言った。
「そんなアホな練習、ほとんど意味ないし」
そんな言葉が喉元まで出かかったが、口には出さなかった。
――まあ、放っておいてもこいつは勝手に打ってくれるんだし、気のすむようにさせておくか……――
勅使河原は自分の肩を叩きながらため息をついた。

「五回コールドで十五点だってよ……」
「足利はホームラン二本だって?相変わらず景気がいいね、向学大は」
「大暴れだな」
八郎と牛若が首を振りながら呆れる。
「いよいよシード組が出てきたな」
大鉄はやや緊張した面持ちでつぶやいたが、その声は心なしかいつもより元気がなかった。
「三日月山は一対ゼロだってよ、鳥羽がノーヒットノーランだと」
八郎はわざわざ持ってきた朝刊を皆に見せた。
「相変わらず渋いね、あそこは」
牛若がいつものこととばかりに、それを一瞥して言う。
「あと新聞には書いてねえけど、鳥羽のやつエラーした味方に食ってかかって、あわや退場寸前なんて一幕もあったらしいぜ」
「味方と乱闘かよ」
牛若が肩をすくめる。
「これまた相変わらず殺気立ってんね、やっこさん……で、その一点ってのも鳥羽が打ったんだろ?」
「いや、玉川ってやつがサヨナラヒット打ったって」
牛若が「えっ」と驚いて八郎に手を伸ばし新聞を受け取った。
「誰だそいつ、一年生か?」
「いや、三年だよ」
大鉄が答えた。
「鳥羽が二塁打打って、その玉川ってやつが代打で出てきてヒット打って還したんだってさ」
「聞いたことねえぞ、そんなやついたっけ?」
八郎が首をかしげて言う。
牛若が写真を見て「ああ……」と叫んだ。
「こいつ、あのマネージャーじゃね?」
「ああ、そう言えばそんなやついたな、太った体でうろうろしてる、よく歩くアザラシみてえのが。あいつ、選手だったのか」
「まあ、よそはよそ。うちはうちだよ。とにかく明日の試合を勝たなきゃな」
大鉄はあえて声を励まして言った。
「そうそう、なんたってしがないノーシードだからね、うちの場合」
牛若がさりげなく皮肉るが、その目はどこか自信に満ちていた。
「まったく、藤村の野郎が、もっと早く今みてえなやる気を出してくれればよ……」
八郎も舌打ちをするが、顔はにやけている。
むしろ笑いが止まらない、といったところらしく、その証拠にこんな風に話を続けるのだった。
「でもまあ、俺としちゃあ一試合でも多くできる方が楽しめるけどな」
「そうそう、終わりよければ全てよし、ってやつだね、それにノーシードから甲子園なんてのもカッコいいし……」
「甲子園?」
牛若が思わず口にした言葉を二人はもう一度復唱し、固まって顔を見合わせた。
「……もしかして。ほんとに行けたりしてな……その、甲子園、とか」
「いいなあ、行きてえなあ、甲子園……」
二人はうっとりして、遠い目になるのだった。
大鉄は独り、暗い面持ちで二人をながめていた。
――まずいな――
それは大鉄も密かに恐れていたことだった。
仁(麗華)の指の血豆が潰れたのだ。
この一週間の仁は、明らかに投げすぎだった。
当然大鉄も黙って見ていたわけではなかった。
疲労や故障のことも含めて再三「やりすぎ」を注意したのだが、仁が頑として止めようとしなかったのだ。
今日は試合の前日ということもあり、監督と大鉄の説得でさすがに仁も渋々ながら普通の調整に切り替えたのだが、一度潰れてしまった血豆が明日までに固まることはないだろう。
やはりこの一週間の急な無理のツケがきたのである。
それにしても、と大鉄は改めて感心していた。
エースの存在感がチームにこれほど大きな影響を与えるとは。
この二三日、沢谷香高校ナインの雰囲気は過去に例をみないほどよくなってきていた。
当初懐疑的だった八郎と牛若も、今ではすっかり仁の「やる気」を信用しているように見える。
――まさかこのチームが、ここまでまとまってくれるとは――
だが、と大鉄は一方で冷静に考える。
いくら仁が頑張ったとはいえ、それは現実には、この、たったの一週間なのである。
今自分がうっかりやつの血豆の話などすれば、八郎も牛若も手のひらを返し、それ見たことかと仁を再びなじり、チームはたちまち数日前のあのギスギスした雰囲気に戻ってしまうに違いない。
つまり、部員同士の信頼といっても、やっと芽が出てきたところなのである。
それを本物にするには、黙って試合で結果を出すしかないのだ。
全てがもう一歩なのである。
――やっぱりみんなには黙っていようか――
大鉄は独りため息をついた。
この男は、とことん苦労性にできているのだ。

二つの覚醒

「どおおおりゃあああ!」
「ナイスサード」
――フッ……また捕っちまったぜ――
八郎は今日三度目のダイビングキャッチを決め、ニヒルに微笑むのだった。
――それにしても世間ってな冷てえもんだぜ――
八郎はスタンドを見回し苦笑いする。
一回戦での仁の醜態に皆呆れたのか、今日はあの日の三分の一も観客は入っていなかった。
だが。
「ノッてきたノッてきた。ノッきたぜ」
思ったとおり今日の彼は忙しい。
調子のいい時の仁ならば三振の山を築くはずだが、今日はよく打たれる……というより打たせている。
やはりあの投げ込みの疲れが出ているのだろう。
――当たり前えだぜ、あんなに無理すりゃ――
だが、八郎にとっては楽しいことこの上ない。
やっぱ野球はこうでなくちゃ。
――相変わらずふざけて女言葉なんか使いやがって、やつの人間性は今でも許せんが、野球に関しては、話は別だ。試合は手を抜かねえぜ――
「チェスッットオオオ!」
見ろ、この華麗なグラブさばき。
――とにかく人間性は許せんが――
一方牛若は。
「ふんっ!」
「ナイスショート」
――フッ……笑止!ファインプレーなど素人好みのけれんですよ――
体全体がグローブなどとは悠長な話だ。
ショートストップというポジションはファンブルすることすら許されない。
ちょっともたついただけで内野安打になってしまうのですよ。
見よ、この職人芸。
――打球の方角を瞬時に、そして正確に見極め、しっかりと体の真ん中で確実にグローブに収め、一塁へ……しかーも。新品のボールは遠投になるほど変化するから、それも計算に入れて。遠投する――
「ふんっ!」
――基本の積み重ねこそ、美しいんです。まあ、うちの三遊間が鉄壁の鬼門であることを教えてあげましょう――
そしてエンリケは。
――試合したかったんだよなー目蒲学園。ここのチアガールは県内一だぜ、ふふふ……ってまた内野ゴロ打たれやがったよ、めんどくせえな、頼むからチアガールに集中させてくれっての、たまには二十七人連続三振とかできねえのかよまったく。ぶつぶつ……――
そもそもブラジル系の彼がなぜサッカーではなく野球を選んだか。
それは、サッカー場では広すぎてチアガールがよく見えないから、という理由に他ならなかった。
しかも距離が遠い上にサッカーというスポーツは忙しすぎて、じっくり鑑賞しているヒマがないのだ。
それに引き換え野球の、特にファーストのポジションは彼にとって特等席なのである。
距離が近い上に下から見上げられるという余禄までついているのだ。
――これだからファーストのポジションは誰にも渡せねえんだよ――
一応遠藤も。
――これじゃあ俺の出番はないかな、この試合――
俺が君の近くに行けるのは、試合が負けそうな時だけ。
勝てそうな試合は、いつもこうして君を遠くから見ているだけ。
――大鉄――
でも、負けたら、君とはもう一緒に野球ができないんだね。
最近麗華も君のことを完全に見直したみたいだ。
もしかして、気があるのかな。
俺は遠くから二人を見守っているしかないのかな……。
その大鉄は。
「ふふふ……」
マスクの下で頬が緩みっぱなしだった。
――とんだ取り越し苦労だったぜ――
いつものように三振がとれない仁を誰も非難することなく、皆自分のプレーに集中している。
しかもこいつら確実にレベルが上がってる。
それも全員がかなりのレベルだ。
――これもやつのお陰というのは言い過ぎかもしれんが……――
皆、仁というモンスターに呑み込まれまいとあがき続けたお陰で、一人ひとりが強くなっている。
そもそも、弱者同士の馴れ合いやなぐさめ合いをチームワークだなどと称するのは、弱いチームの欺瞞(ぎまん)でしかないのだ。
強い「個」がお互いにしのぎを削り合うからこそ、チームはより強くなるのである。
沢谷香高校ナインは仁という内なる敵と戦い続けた結果、最早まごうかたなき強い「個」の集団……「戦闘集団」へと変貌を遂げていた。
――強くなったもんだ――
まさかこんな逆説的な切磋琢磨の形があったとは。
大鉄は笑いをこらえながら、感嘆のため息を吐き続けていた。
 嬉しい誤算はそれだけではないのだ。
 今日の仁である。
 ――これ、カットボールじゃねえか?――
 大鉄は思わず唸るしかない。
 カットボールとは、「曲がるストレート」である。
 ストレートが甘いコースにきたと見せかけ、バットに当る直前にわずかに曲がる。
空振りよりも打ち損じを誘う変化球である。
 今日の仁は、このボールで三振ではなく凡打の山を築いていた。
 ――こいつ、こんなに器用だったか?――
 大鉄が驚くのは今日の仁が、血豆が潰れて滑る指を逆に利用していることだった。
 先にも書いたが硬式のボールというのは指先の微妙な加減で意外な変化をする。
 指先が濡れていれば尚更であり、そのため、ルールでは故意に指先を濡らす――例えば指を舐めたりなど――ことを禁じているが、出血の場合は不可抗力といえるのである。
 ――アクシデントを逆に武器にしちまうとはな――
 本物の変化球投手というのは、雨の試合こそ真骨頂を見せるという。
 雨に濡れてボールが滑るのを利用して、普段より余計にボールをグイグイと変化させてしまうのである。
 だが、そのためにはそれなりのコントロールと冷静さが必要で、並みの投手であればその変化に自分がついて行けず、投球が乱れ、そのまま崩れてしまうものなのだ。
 現に、この春の大会での仁は、雨で完全に自分を見失い大崩れしているのだ。
 ――こいつも大幅に進歩してるってことか……それにしても――
 このチームは強い。
 鉄壁の守りと、つながる打線、そしてなにより精神的に見違えるほど成長した大エースの存在。
 大鉄は感動のあまり叫びだしたい自分を抑えるのに精一杯だった。
 一生こいつらと野球していたいくらいだ、と本気で思うほどだった。
 最後に麗華は。
 ――うふ、ちょっとずるいみたいだけど、いいよね――
 麗華は血のにじんだ人差し指を見ながらニヤリと笑った。
 先週の一回戦で初球がデッドボールになった理由を遠藤から聞いて、もしかしたらと思っていたらやはり期待が的中した。
 ストレートを投げると、ボールが勝手に曲がってくれるのだ。
 それもほぼ速球の速さで。
 だが、麗華がそれを武器として使いこなせるには、彼女が元々持っていた幾つかの能力が作用していた。
 一つには、麗華は指先が器用なのだ。
 生まれついての器用さにくわえ、中学時代の手芸部と高校でのリラックマクラブで鍛え抜かれた器用さは、野球部員の男子高校生などの比ではなかったのだ。
 そしてもう一つ、麗華には武器があった。
 それは並外れた辛抱強さである。
 ひたすら仁を想い続けて耐えてきた我慢強さ。
 くる日もくる日もクマのぬいぐるみを作り続け、手芸と裁縫で鍛え抜かれた根気よさ。
女性特有の粘り強さといってもいいが、麗華の場合その精神力が並みではないのだ。
 ちょっとやそっとの制球の乱れで麗華の集中力が途切れることは、まずありえないのである。
 つまり、これがなにを意味するか。
 ずば抜けて器用な指先と不屈の精神を持った麗華の魂が、百四十七キロの速球を投げる仁の肉体に宿ったらどうなるか。
それは最早、普通の高校生が打ち崩せるなどというレベルではない。
――か、勝った――
「やった、勝った……勝ったのよ、あたしが……やったあああ」
麗華はこぼれるような笑顔で両手を挙げた。
「ナイスピッチャー」
大鉄をはじめナインがいっせいにマウンドに駆け寄り、麗華をねぎらった。
これも今までの沢高には見られなかった光景である。
「よくやったな」
と、麗華とハイタッチをしながら大鉄が笑う。
「とんでもない、みんながよく守ってくれたからよ、何度も危ない所を助けてもらったわ」
と、麗華は笑顔で答える。
――こいつ、こんなにいいやつだったっけ?――
八郎は麗華とハイタッチしながら首をかしげた。
試合は八対三。
麗華の成績は、奪三振六、被安打七、与四死球三――三失点のうち二点は、エンリケのよそ見によるエラー。
傍目には、ほとんど話題性のない平凡な試合である。
 だが、一流投手としての条件を全て兼ね備えた「怪物」が、この予選の、誰も見向きもしないような凡戦で、非常な難産をチーム全員の助けを借りながら――一人足を引っぱる者もいたが――人知れずひっそりと産声をあげたことは、観客をはじめ誰一人、麗華自身さえもこの時には気づいていなかったのである。

 「跳べ……」
 鳥羽の言葉には感情らしい抑揚がまるでこもっていない。
 パソコンの読み上げ音声のような口調でそれだけ言うと、さっさとその場から離れてしまうのだった。
その顔も、能面のように無表情である。
 「ごっつあんです」
 鳥羽が離れるのを合図のように、二年生たちは一斉にジャンピングスクワットをはじめた。
 「おい鳥羽」
 鳥羽の行く手を主将の七篠が塞いで、その顔を見上げた。
 「もう、いい加減にしてやれよ、大会中なんだぞ」
 「だめだ」
 鳥羽は七篠の目をまっすぐ見返すが、その目にも言葉にも気持ちはこもっておらず、犬の糞でもよけるようにくるりと七篠を回りこんで歩き出そうとした。
 「おい鳥羽」
 七篠は鳥羽の腕をつかんで引き止めようとする。
 「俺の右腕に触んじゃねえ」
 鳥羽は鬼のような形相で、七篠の手を払いのけてにらんだ。
 「俺はあいつらと賭けをしてるんだよ、二年のスタメン、一人の凡打一回につき百回跳べってな……」
 三日月山高校ではスタメンに二年生が二人いた、つまり二人が四打数ノーヒットならば二年生は全員八百回跳ぶことになる。
 だが昨日の試合で二年生のスタメンは二人のうちの片方が一本だけヒットを打ち、また、一応二人とも一本ずつ送りバントを決めたので、今日は五百回で許されていた。
 鬼の鳥羽も犠打の分は許してやるらしい。
 「参考までに教えておくが、エラーは一つにつき五百回だ」
 鳥羽はたっぷりと皮肉を込めて、仏頂面でそう言った。
 七篠は返す言葉がない。
 昨日の試合でエラーをしたのは三年生だったのだ。
 「気持ちは解るが、味方の体力を削るようなまねはよせよ」
 「気持ちが解る……だあ?」
 鳥羽は鼻で嗤ってみせた。
「味方だってんなら三年も跳べよ。俺は失点一点につき千回跳ぶ約束してるぜ」
七篠は実直そうな眉を寄せて強く目を閉じ、鳥羽の言葉を呑み込むように何度も小さくうなずいてから、
「味方だよ」
と言った。
「俺は味方だよ……俺だけじゃない。ここにいる全員がお前の味方なんだよ。でも、打てないものは打てないんだよ、三振やエラーをしたくて試合に出てるやつなんて一人もいないよ。一生懸命やった結果なんだからしょうがないだろ」
「タマは打ったぜ」
鳥羽が言うと、七篠は再び言葉に詰まった。
「なんで打てたんだろうねー、今まで一度もフリーバッティングに混ぜてもらってないタマちゃんが?」
鳥羽は血走った目を見開いてそう言うと、七篠の返事を待たずに歩き出した。
――ほんと、なんで打てたんだ……いや、なんであんなスイングができたんだ――
昨日の試合。
「どうせ延長になるなら、こいつにも打たせてやってください」
自分の次の打者に玉川を代打に送る約束を監督にさせて、鳥羽は打席に向かったのである。
五番打者の代打である。
実のところ鳥羽本人も、やけくそだった。
まさか玉川が打てるとも思っておらず、また、監督がいくらなんでもそこまで鳥羽の意見を呑んでくれるとも思っていなかったのだ。
だがどういうわけか監督は了承し、そして奇跡的に玉川は打った。
いや、鳥羽には奇跡には見えなかった。
玉川のスイングは、当然のように打つべくして打った一振りだったのだ。
鳥羽は玉川の姿を目で探した。
まさか、今日も洗濯しているわけではあるまい。
フリーバッティングのゲージの中にいる玉川を見つけ、鳥羽は歯軋りをするのだった。
――いまさら――
玉川は今日、はじめてそこで打つことを許されたのだった。
三年間野球部に在籍していて、今日がはじめてである。
昨日の試合のご褒美とでも言いたいのか。
それが鳥羽の神経を余計に逆なでするのだった。
――一生懸命だあ?笑わせるぜ、お前らの中の一人でもあいつくらいバット振ったやつがいたかよ――
玉川はこの三年間、ほとんど毎日素振りをしていた。
他の部員が帰った後、全ての雑用を終えてから、一人グラウンドの隅で。
鳥羽が聞いた限りでは毎日二千回以上振っていたらしい。
鳥羽もそれに気づいたのは三年になってからだった。
それは偶然だった。
監督に見つからぬよう、ベンチの陰に隠しておいた携帯電話をそのまま忘れてしまい、探しに戻ったところ、真っ暗なグラウンドの端で玉川が一心不乱にバットを振っていたのである。
鳥羽は呆れながらも、翌日から日の出ている間くらいはつきあい、トスを上げてやったり、時には――本当に気が向いた時だけだが――バッティング投手をしてやったりしてきたのである。
だが、玉川は一向に上達する気配すらなかった。
「おい、俺と代われ」
鳥羽は玉川に投げているピッチャーと交代した。
先ほどから十球ほど玉川のバッティングを見ていたが、ジャストミートが一つもないため、じれったくなったのだ。
「真ん中投げるから、ちゃんと打てよ」
玉川は左打ちである。
彼の父親は野球が好きで、高校までレギュラーで活躍するほどだったらしい。
その父親が、玉川が子供のころに期待を込めてわざわざ左打ちを教えていたのは鳥羽もよく見ていた。
だが、はじめのころこそ熱心に指導していた父親も、一年二年とたち、まるで上達しない玉川に見切りをつけて、五年生になるころには相手をしてくれなくなった。
才能のかけらもない玉川の「左打ち」は、子供のころにはよく同級生たちにからかわれ、鳥羽はその全てを拳骨(げんこつ)で沈黙させたのだが、実は当の鳥羽がそれを最も面白がっているくらいだったのだ。
そしてそれは、中学時代には無性な腹立たしさに変わり、高校生になってからは痛々しく憐れにさえ思えているのだった。
金属バットが軋むような音を立て、まるでバントのようなゴロが内野に転がった。
――スイングの速さだけなら足利よりすげえのにな――
鳥羽は苦笑いする。
玉川は、身を削るほど繰り返した素振りの甲斐があって、スイングのスピードだけは高校生離れしていた。
「なんだよタマ、昨日の振りと全然違うじゃねえか」
鳥羽は二塁から見ていたのでよく分かる。
――昨日はもっとこう、バットが生き物みてえに……――
見ていた鳥羽も半信半疑である。
今でも信じられないが、ボールの方がバットに吸い付いて行くようなバッティング……それはプロでも一流のバッターのスイングだった。
「そんなこと言われたって、俺だって全然覚えてないんだよ」
玉川はそう言ってからも、ど真ん中のゆるいボールを凡打し続けた。
三球。四球。五球……。空振りこそないが全てひどいドンヅマリだった。
――このやろう、もたもたしやがって――
鳥羽はだんだんイライラしてきた。
元々打てないならばともかく、現に昨日はできたではないか。
「昨日はできたじゃねえか、なんで一日たったらできなくなってんだよ?」
鳥羽は腹立ちまぎれにわざと玉川の太ももを目がけて、少し強めに投げてやった。
鳥羽としては加減するつもりだったが、ボールが手から離れる瞬間、彼の気性が一瞬出てしまい、それは全力投球に近くなってしまうのだった。
――やばい強すぎるか?でもそこなら怪我もしねえだろ――
「うわっ」
玉川は思わず悲鳴をあげたが、同時に、心地よい快音が糸を引いて、打球は美しいライナーを描き金網に当った。
角度からいえばファールだったが、玉川は体をゴムのようにぐにゃりと捻りながら自分の体に向かってくる鳥羽の速球を打ってしまったのだ。
「なにすんだよシゲちゃん」
玉川は泣きそうな顔で鳥羽を見る。
にらむのではなく哀願するような目である。
「それだよ」
――解った、そういうことだったのか……――
鳥羽は満足そうに一人でうなずきながら投球を止め、その場を去ってしまうのだった。

県立国分寺球場では、今大会四度目の沢谷香高校校歌が流れていた。
地方テレビ局の放送室では解説者が、沢高ナインを絶賛している。
「藤村投手については言わずもがなですが、とにかくこのチームは攻・走・守のバランスが素晴らしいですね、私は春の大会もこのチームの試合を見ていますが、そのころと比べて、藤村投手をはじめメンバー全員が見違えるほど成長しています。例えば一回戦では藤村投手の乱調で非常に苦戦していましたが、春までのこのチームだったら、もしかしたらあのまま押し切られてしまったかもしれません」
「藤村投手もそこから尻上がりに調子を取り戻してきたようですが……」
と、アナウンサーが言葉をつなぐ。
「なんと、二試合連続ノーヒットノーランです。明後日の準決勝では、これまた三試合連続ノーヒットノーランの記録を引っさげて勝ち上がってきました鳥羽投手擁する三日月山高校と対戦するわけですが」
「非常に楽しみな投手戦が期待できますね」
麗華はチームメイトに揉みくちゃにされながら、本人が一番驚いた顔をしていた。
「あれ?今日もヒット打たれなかったんだっけ」
「てんめえ、とぼけくさって、このやろう」
八郎が満面の笑顔で麗華の肩を叩く。
「お前えがみんな三振させちまうから、こちとらヒマでしょうがねえぜ」
「だって、あたしだっていっぱいいっぱいなんだもん、ごめんなちゃーい」
「けっこう余裕あるじゃねえか、このやろ、このやろ」
「痛い痛い、あははは痛いってば。キャッキャッ……」
「すでにマブダチかよ、こいつら、いつの間に?ハチローのやつ、なんちゅうタンサイボー……」
牛若が目を丸くしながら呆れる。
麗華は三回戦と、この準々決勝で、合計三十七の三振を奪っていた。
試合の結果は。
三回戦  六対ゼロ。
準々決勝 五対ゼロ。
最早並みの高校生では、麗華と沢高ナインの勢いを止めることはできなかった。
しかも三回戦の勝利者インタビューで麗華が、
「生きてるって、本当に素晴らしいことなんだと思いました……」
と、思わず漏らした本音が、言葉の真意はともかく、その初々しさと爽やかさから大勢の人々の感動を呼び、麗華はすでに、単なる高校野球県予選という枠をはるかに超えた人気者になってしまったのである。

それぞれの戦い

麗華が球場を出ると、色紙を持った小学生たちが駆け寄ってきて回りを囲む。
 今や麗華はちょっとした町の人気者なのである。
 「サインと、あの言葉を書いてください」
 サインをねだる子供たちのほとんどはそう言ってきた。
 麗華はこの何日かで「あの言葉」……生きているって素晴らしい……という自分の言葉を写経のように何千回と書かされていた。
 生きているって素晴らしい。
 生きているって素晴らしい……。
 ――ほんと、生きているって、こんなに素晴らしいなんて――
 麗華は書いていて、ふと涙が出そうになることがあった。
 生きているって素晴らしい。
 姫野麗華として生きていたころには、当たり前すぎてほとんど気にもかけないでいたこの言葉が、今の麗華にはもう手の届かない、過去に誤って捨ててしまった宝物のように思えてくるのだった。
 ――もしもう一度、やり直せたら――
 だが、いくら後悔してみたところで自分はもう手遅れなのである。
 後はこの子たちが自分のような過ちを犯さないように、この子たちの心に少しでもこの言葉が響いてくれたら。
 それは懺悔と贖罪の行のようであった。
 道ですれ違う人にはよく「生きているって素晴らしい、の人ですね?」などと声をかけられた。
 中には間違えて「素晴らしく生きている人……」などと言う人もいた。
 ――素晴らしく生きる……か――
 自分は今、他人から見て素晴らしく生きているのだろうか。
 ついこの間、自殺したバカ娘だった自分が。
 そういえばフィリップはあれ以来一度も現われないが、悪魔との交渉が難航しているのだろうか。
 ――できればまだしばらくの間、このままの方がいいんだけど――
 「こら、ジンは芸能人じゃないのよ、あっち行けシッ、シッ」
 ――うわっ、ミルク――
 どこからか間に割り込んできたのは胡桃美琉久だった。
 「私がジンの恋人兼マネージャーなの、勝手にジンに近寄らないで」
 美琉久はそう叫びながら、子供たちを手当たり次第に突き飛ばした。
 中には小さな女の子も混ざっていて、転びそうになる子もいた。
 「なにすんのよ、危ないじゃない」
 麗華はあわてて女の子を抱きかかえ、美琉久をにらみつけた。
 美琉久はあわてて「ごめんなさい」と謝ったが、その目は完全にそっぽを向いている。
 「だって寂しかったんだもん。私のジンがすっかり人気者になっちゃって、私も鼻が高いんだけど、なんだかどんどん私から離れて行っちゃうみたいで……」
 大げさに泣き声をあげて、そう言って拗ねて見せた。
――よく恥ずかしげもなく出てこれるわね、今ごろ――
「あんた、ずっと姿見せなかったけど、どこでなにしてたのよ」
――顔なんて見たくもなかったけど――
すると美琉久は、思い出したように「ごほん、ごほん」と咳をしてみせ、
「ず、ずっと風邪ひいてたのよ、応援にきたかったんだけどこられなかったの」
「じゃあちょうどよかったわ」
麗華はできる限りの毒を、顔と言葉に込めて言い放った。
「もう、あたしに近寄ってこないで、あんたの性質(たち)の悪い病気を感染(うつ)されちゃかなわないわ」
「なんですって?」
美琉久は一瞬目を丸くしたかと思うと、思い切り顔をゆがめ、麗華をにらみつけた。
よくこんな表情(かお)ができるものだと感心するほどの、ケダモノ丸出しの形相である。
「この子たちにも近寄らないでね」
「よくも私にそんなこと言えるわね」
美琉久の声が憎しみで震えている。
頬も気味の悪い生き物のようにワナワナと震えていた。
「毎日毎日、高級食材のお弁当を作ってあげたのに」
「そんなのあんたが勝手に寄越したんじゃない、誰もくれなんて言ってないわ」
「憶えてらっしゃい、このクソ野郎、後できっと後悔するわよ」
美琉久はそう言い残すと、くるりと背を向け去って行った。
群がる子供たちを「どきなさいよ」と怒鳴りつけ、肩を怒らせ、がに股で歩く後ろ姿は、二速歩行をするゴリラのようである。
「まったく、ああも顔つきが変わるもんかね」
牛若がそれを見送りながら肩をすくめた。
 「七人の子は生(な)すとも女に心許すな、ってやつだね、恐い恐い」
「あいつ、とんでもないワルだよ」
遠藤もいつの間にか後ろにきていてささやく。
「俺、なんとなく判るんだけど、気をつけた方がいいよ、ああいう女」
女の心を持った遠藤が言うとひどく説得力があった。
「そうそう、はじめは処女の如く後は脱兎の如く、ってやつだね」
牛若がしたり顔でうなずいて見せた。

――きゃああっ……――
部屋に入るなり叫びそうになる麗華の口を、フィリップの手があわてて塞ぐ。
「フィリップ……さん?本当にフィリップさんなの?」
麗華は恐怖に顔をひきつらせながら、やっと声をしぼり出して聞いた。
「よく分かったね」
フィリップはそう言って微笑んだつもりらしいが、その顔は醜く歪むだけだった。
フィリップの顔は、前よりひどくなっていた。
ひどいなどと言うものではなかった。
右の眼球は飛び出してそのままぶらさがっていて、鼻は潰れ、顔は縦横にいくつも大きな裂け目が口を開けていて、しかも顔中にはまんべんなくひどい火傷の痕があり、髪の毛はほとんど全て焼けてしまったようで、わずかに残った根元の部分がこげて煤けていた。
「ほんとに大丈夫なの?そんな大怪我して」
「少したてば治るよ」
フィリップは全く頓着(とんちゃく)していないかのように、手を振って見せた。
「ひ……久しぶり、ね」
麗華は緊張しながらそう言った。
――ついにきたか、当たり前だけど――
「いやいや、すまんすまん、すっかり話がこじれてしまってね」
「それじゃあ、ジンの魂は返してもらったのね?」
――できればもう少しだけ、あのメンバーと野球をしたかったけどな――
「いや、それが、だね」
とフィリップは言いにくそうに言葉を濁した。
「それが、まだなんだが……だが、今度こそ心配は要らないよ。霊界では特別救助隊を編成することになってね、今度は本物の戦士が一緒に行くことになったからね」
「そ、そうなの……」
麗華はそう聞いて、少しほっとしたような気持ちになるのだった。
「今日ここにきたのはその話ではないんだよ」
フィリップは少し、声に張りを持たせて続けた。
「これからはなにかと話が急になるだろうから、君にもいろいろと心の準備をしておいてもらおうと思ってね」
「心の、準備?」
「彼ら救助隊が首尾よく仁君の魂を取り返せたら、その後すぐにでも本人の肉体に戻さなければならないんだ、つまり、別の悪魔が臭いを嗅ぎつけてやってくる前に。そのため君はこれから数日の間、いつ何時仁君と入れ代わってもいいように、気持ちの整理をつけておいて欲しい」
「今度はそんな急な話になったんだ」
麗華は複雑な気分でそう答えた。
「まあ、さすがに今日中というわけにはいかないだろうが、この数日のうちには片付くだろう。だが、その入れ代わりのタイミングの約束まではできなくてね。君にとってそれは突然やってくることになるだろう。つまりそれは君の食事中になるかも知れんし、野球の試合中かも知れん。その時、君の回りに誰もいなければいいんだが、もし近くに誰かがいたら極力その人たちに不信感を持たれないように円滑に行動してほしい、ということだ」
「数日の、うちに……突然に?」
――つまり、みんなにさよならも言えないってこと……――
確かに最初から分かりきっていたことではある。
仁の体に入って、まだ二週間あまりだが、それは今までの麗華の人生の中で最も充実した日々だった。
友人もできた。
遠藤、八郎、牛若、エンリケ、そして……大鉄……。
今では皆かけがえのない仲間だった。
今までの十六年の人生と比べて、一度死んでからのこの二週間、この短い日々のなんと濃密なことであろうか。
しかし、それはあくまで仁の人生なのである。
つまりは借り物の人生でしかないのだ。
「ところで、君の方はずいぶんとご活躍のようだが」
「うん、楽しかったわ……生きててこんなに楽しかったのってはじめてだった」
麗華は遠い目をしながらそう答えた。
この二週間の思い出に浸る一方で、仁の両親にも、野球部の友人たちにも、さよならの一言も言えない自分の立場が、無性に寂しく思えてくるのだった。
「やっぱりそう思ったかね?」
フィリップは声を弾ませてそう聞いてきた。
「実は霊界でも君への特例措置が検討されていてね、それが今日の二つ目の報告だ」
「特例って?」
「特別に君の転生の許可がおりそうなんだよ。同年代の人へのね」
「本当?」
麗華は目を輝かせた。
「君の予想外の頑張りに対しては霊界の評価もとても高くてね、それに、ここのところ君は自分の人生についてずいぶんと考え直したみたいだからね。そこで、転生先の家庭環境その他、君の希望などを聞きながら、できるだけ君の条件に合いそうな死者を選んで生まれ変わってもらおうと思うのだが。やっぱり次も女の子がいいかね?」
麗華は少し興奮しながら「そうね」と考え込んだ。
「男の子も悪くないけど……」
そこまで言ってから急に顔を真っ赤にして、
「やっぱり女の子がいいかな」
と言ったが、また慌てて「いや、でもやっぱり……」と首を振った。
何故か目の前を大鉄の顔が横切ったような気がしたのだ。
――なんであいつの顔がちらつくのよ――
だがフィリップがその後に言った言葉は麗華を愕然とさせるのだった。
「ただし、転生をした後に今の君の記憶はなくなるがね」
「そ、そんな……」
「いや、これは当たり前だよ、前世や私の記憶を残した者に人間界をうろうろされては、なにかと混乱をきたすだけだからね、転生した後はその相手の人格になって、一生を過ごしてもらうわけだね、これが」
「ず、ずいぶんと冷たいのね」
麗華はひどくがっかりして、やっとそれだけ言うのだった。
「これでも、自殺をした者に対しては前例のない破格の厚遇だよ」
「それを言われちゃうと、返す言葉もないんだけど」
「まあ、その後の自分の運命は自分で切り開くってことだね、カーマは気まぐれってことで……」
フィリップはそう言い残すと、窓から射し込む真っ赤な西日の中に溶けていった。
麗華はしばらくその夕日の中で呆然と自分の影をながめていた。
やっぱり自分は仁の影武者、所詮この影のような存在にすぎなかったのか。
どこからか町工場の機械が、忙しげなリズムを刻む音が聞こえてくる。
その音につられて、自分の心拍も早くなっていくような気がした。
だが、この心臓も結局は仁のものなのだ。
そして心臓から送り出される温かい血も、血管も、骨も筋肉も……。
この体を出たら、そこで全てが終わる。
そう思うと涙が止まらなくなった。
そしてこのなん日かの間、心の中でなんども浮かんでは自ら打ち消し続けてきた甘い葛藤がはっきりと一つの想いとして形になるのだった。
麗華は最早、それを素直に受け入れるしかなかった。
――大鉄……とうとうさよならも言えないのね――
生まれ変わり、記憶が消された後で大鉄と再び出逢うなど、奇跡でも起こらない限り、ありえないのだ。

荒ぶる精密機械

「まともにやれば、それほど恐いチームというわけでもなかったんだけどな、ここは」
マウンドで準備投球をする鳥羽を見ながら、大鉄が独り言のようにつぶやいた。
「そうなの?」
麗華は隣で喋る大鉄にちょっとドキドキしながら聞いた。
「だって、すごい迫力じゃん、あの大きな体」
マウンド上で早くも闘志むき出しの鳥羽は、やはり圧巻である。
それに守りについている他のメンバーもどこかピリピリしていた。
「そう、確かに鳥羽はすごい、でも、すごいのはやつだけだったんだ」
「ここは鳥羽一人で勝つしかないようなチームだったのよ」
今度は遠藤が反対側に立って、そう言ってきた。
この何日かの遠藤は、麗華と大鉄が近づくのをどこか気にしているようなところがあった。
「鳥羽が投げて相手を完封して、あとは鳥羽が打って、それにバントや相手のエラーやフォアボールとかをからめて、とにかく一点二点をとってそれを守りきる、っていうのが三日月山の勝ちパターンだったの」
「逆に言うなら、こちらが二点以上とってしまえば、ほぼ九割がた勝てるってことさ。まあ、いずれにしても、向学大みたいな爆発的な恐さはなかった……っつうかお前だってよく知ってるだろうが?」
大鉄は驚いた顔で麗華の目を覗き込んだ。
「え?そ、そうだけど……」
麗華は慌てたが、大鉄はほとんど気にかけずため息をつきながら続けた。
「ところがこの大会に入ってから、玉川という伏兵が出てきたってわけさ」
「オーダーに入ってないってことは、今日も代打で出てくるのかしら?」
「この試合の鍵はそこだな、どうにかして玉川を代打に出させない、つまり、鳥羽を完全に押さえ込むことができるかどうかだな」
「そうなのよね」
「ところで遠藤……」
大鉄は堪りかねたように麗華の背中越しに遠藤に話しかけた。
「なんでお前まで女言葉なんだ、今日は?」
遠藤は「あらっ」と笑った。
「な、なんだか仁の言葉がうつっちゃったみたい、あははは……」
大鉄は「ふーん」と遠藤を横目で見ながら離れて行った。
それを見送りながら、肩を落としてうなだれる遠藤の姿が麗華には痛々しかった。
彼はここへきて、さりげなく大鉄にアピールしはじめたのだ。
それも、彼なりに精一杯、自分の存在を主張している。
――なんだかかわいそうみたいだけど――
同情というよりは奇妙な連帯感を麗華は感じていた。
遠藤の想いが成就しなければ良いなどとは思わないが、大鉄の様子から見てその可能性はほとんどゼロと思ってよいだろう。
だが、一方で自分も境遇は遠藤とほとんど大差ないのだ。
今の仁の体のまま想いを告げるわけにもいかないだろうし、女の子に転生したところで記憶を消されては二度と大鉄に再会することもないに違いない。
その気になればずっとそばにいられるという点では、まだ遠藤の方が幸せか。
「でも、どうやってこんなピッチャーから二点もとるの?」
麗華は気持ちを切り替えて遠藤に尋ねてみた。
「鳥羽って、あの物腰からは想像できないけど、実は筋金入りの変化球投手なのよ」
「そうみたいね」
それは今までの三日月山の試合を見ていて麗華にも理解できた。
身長百九十三センチの高さから、長いリーチで投げ下ろす球はただでさえタイミングがとりにくいのだが、それに加え、あの野獣のような人となりからは想像もできない、精密機械のようなコントロールと駆け引きで、あだなは「コンピュータを搭載したメカザウルス」と呼ばれていた。
ただし、そのやり口のえげつなさは鳥羽の激しい気性とひねくれた性格丸出しだった。
「彼の生命線は、横の揺さぶりなの」
つまり内角の、打者の体にぶつかるぎりぎりのシュートで恐怖心を与え、次に打者の目から最も遠い外角低めの沈むスライダーで打ち取る。
いわゆる対角線投法、別名ケンカ投法である。
特にシュートは一級品で、右打者の内角のストライクゾーンをぎりぎりにかすめた直後に、とんでもない角度でバッターに向かって咬みつくように曲がっていく。
コースがストライクであるため、それは危険球になることはなく、更にすごいのは、そんな際どいボールを多投するくせに、鳥羽はこの三試合の死球がゼロなのである。
「ところが……」
と、遠藤は続けた。
「うちには内角攻めを恐がらないバッターが三人もいるのよ」
「ハチローと、大鉄と、エンリケ……」
「そう、その上そのハチローとトップバッターの牛若は左打ちだし」
遠藤がそこまで言ったところで、マウンドの鳥羽が「おい、お前ら」とこちらに向かって叫んだ。
「この一年、俺は臥薪引水の思いだったが、今日は絶対勝たせてもらうぜ」
「ガシンインスイ、ってなに?」
麗華は混乱して遠藤に聞いた。
「臥薪嘗胆って言いたかったんじゃない?鳥羽っていつもあんな感じなの」
遠藤はほとんど気にもかけない様子で、鳥羽を見ながら答えた。
――我田引水と混ざっちゃったのね……――
「目にもの言わせてやっから指洗って待ってやがれ」
鳥羽は上機嫌でさらに言い放った。
「まともに聞かない方がいいわよ、試合に集中できなくなるから」
――ジンが試合の後までバカにするわけだわ――
牛若がいれば細かくツッコんでくれそうだが、今彼は打席に入るところである。
試合はやや緊張感を削がれた感じで、しかも鳥羽のペースではじまってしまうのだった。
「おらあっ!」
「速い……」
麗華は思わず声をあげた。
初球はアウトコース低めいっぱいに、鋭い音をたててキャッチャーミットに納まった。
「近くで見るとストレートも思ったよりずっと速いわね」
「スピードガンの表示だと百三十五キロ前後らしいんだけど、あの身長とリーチで十キロくらいは速く見えるわね」
しかもフォームもグニャグニャギクシャクしていていかにもタイミングがとりにくそうである。
二球目。
牛若の動きも早い。
ビデオの早回しのような身のこなしで、バントの構えに変化し、それとは対照的な、スローモーションのようなゆるいゴロを一塁線に転がした。
みえみえの作戦ではある。
だが、試合開始直後の一塁手は、決して意表を衝かれたわけでもないのに、動きが鈍い。
牛若の足は速い。
慌てて一塁のカバーに入る鳥羽と牛若の、競走のようになった。
鳥羽は一瞬狼狽した顔になったが、かろうじてアウトにした。
――昨日の作戦どおりね――
昨日のミーティングで確認した作戦だった。
決して鳥羽を気分よく投げさせないこと。
ピッチャーが気分よく投げるパターンは二種類ある。
一つは空振りの三振をバタバタと獲る場合。
そしてもう一つは、バッターを自分の思うとおりの変化球で「打たせる」場合だ。
鳥羽の場合はあきらかに後者で、打者をシュートで仰け反らせ、外角のスライダーを引っかけさせて打ち取ることに独りニンマリとほくそ笑むタイプである。
つまり、同じアウトになるにしても、鳥羽の術にはまって打ち取られないことを徹底させるのである。
現に鳥羽は先頭打者を仕留めた割には不機嫌な顔になっていた。
そして。
――ずいぶんと解りやすい性格ね――
この神経質で感情の起伏の激しい性格が、鳥羽の最大の弱点であった。
続く二番の花川口も一塁線へバント。
結果、牛若よりも余裕を持ってアウトになったが、打者二人分、ファーストのカバーに全力疾走させられた鳥羽は露骨に不機嫌な顔になった。
応援スタンドでは、しばしのため息の後「ハチローコール」の合唱が起こりはじめた。
ここまでの打率四割を超える活躍と、ファイトあふれるプレーで、この軽薄な頑固者は意外と人気があるのだ。
鳥羽の顔が緊張に引きしまる。
去年の大会では、このハチローと大鉄に打たれて負けているのである。
だが。
「あっ……」
今度は完全に鳥羽も内野手も一瞬呆然とした。
八郎もバントをしたのだ。
しかも、今度はピッチャーの足下、やや三塁寄りにプッシュし、地を這うような強めのゴロを転がしたのである。
バントの構えを見て、ファーストのカバーに一歩足を踏み出していた鳥羽は一瞬逆を衝かれた。
鳥羽が慌てて長い腕を伸ばすが、バットに当る寸前に強く押し返されたボールは、その横をすり抜け更に転がり続けて行く。
ショートが慌てて前進し、ファーストに投げるが、それがハーフバウンドになり、タイミング的には微妙だったが一塁手はそれをミットに当てて落としてしまったのだった。
鳥羽はスコアボードに点(とも)った「エラー」のランプを確認し、一度安堵の表情を浮かべてから目をつり上げ、
「てめえ、そのくれえ捕れよバカヤロウ」
と、一塁手をにらみつけて毒づいた。
このチームのもう一つの弱点はこれだった。
三日月山ナインは、全員がどこか鳥羽の顔色を伺い、おどおどしているところがあるのだ。
ツーアウトランナー一塁。
チャンスというほどではないが、お祭男の序盤の出塁にベンチもスタンドも、いやが上にも盛り上がるのだった。
そして迎えるバッターは四番、大江戸大鉄。
ここまでの打率は五割を超え、ホームランも二本打っている。
足利ほどの派手さはないが、最も頼りになる男である。
「やったあ」
いきなり初球がサードの頭を越えたが、それはすぐにため息に変わって行った。
打球は三塁手の頭を超えた後、急速にきれてファールグラウンドに落ちたのである。
「シュートを無理やり引っぱったから、バットの根っこだったね」
遠藤が苦笑いしながら言った。
詰まってファールになったとはいえ、充分なヒット性の当たりにベンチは活気づく。
――シュートが曲がる前に打つ――
大鉄は集中力を切らさぬために、再びこの言葉を心の中で繰り返していた。
ベースの角をよぎって曲がるほどの鋭いシュートを逆手に取る。
理屈は簡単だが、これは誰にでもできることではなかった。
大鉄のスイングスピードを持ってしても、今のようなファールになる確立の方が高いのだ。
だが、次のバッター、五番エンリケはどういうわけかこの大会でノーヒットの大ブレーキなのだ。
――玉川の存在も気になるし、なんとしても、ここで打っておかなければ――
第二球もシュート。
大鉄はぎりぎりまで脇を締め、体を軸にするように小さくバットを振った。
ボールは再び快音を響かせ、サードの横を襲った。
当たりこそ鋭いが、今度は完全なファールである。
当たりはどうあれ、結果大鉄はツーナッシングと追い込まれた。
――だが、鳥羽も精神的には辛いはずだ――
ピッチャーにとって、得意なボールをコツコツとミートされるのは、気分のいいものではないのだ。
――外角に。スライダーかストレート……――
ボールにヤマを張る場合、球種かコースのどちらかを予想するのが基本である。
大鉄はコースにヤマを張った。
次も内角のシュートならば、咄嗟にカットするくらいはできそうだ。
だが。
「な、なんだ?」
それは大鉄には一瞬、明らかに失投に見えた。
いや、失投というより投げそこないにしか見えなかった。
ボールが鳥羽の頭上より高く、すっぽ抜けたように舞い上がったのだ。
――あ、あ、あ……――
だが、ボールは不自然な弧を描き、落ちるというよりは下に向かって急激に曲がり、大鉄の頭上から膝元まで一気に急降下して、キャッチャーミットに入るのだった。
「ストライクスリー!」
球審が一呼吸おいてから確かめるように宣告した。
――ド、ドロップってやつか――
それはいわゆる「縦に曲がるカーブ」だった。
「どうだ大江戸、俺さまの新魔球は?」
鳥羽がマウンド上でゲタゲタと笑った。
「魔球って、ただの落ちるカーブじゃねえか……」
ベンチで牛若がいまいましげにつぶやいた。
「名づけて大リーグボール四号、ナイアガラ……」
 だが、鳥羽はそこまで言って固まってしまうのだった。
 「魔球ナイアガラ……なんか中途半端ね」
 「いや、続きを忘れたんじゃねえか?」
 「……エアーズロック!」
 鳥羽はどこか切羽詰った感じで両方の眉を思い切りつり上げて笑った。
 「どうだ、声も出まい」
 「ぐうの音も出ねえよ……」
 牛若はため息と一緒に吐き捨てた。
 「ナイアガラ……エアーズロック?」
 「……日本語にすると、富士山琵琶湖、みたいな感じかね。っつうか、頭に浮かんだ単語をただつなぎ合わせただけじゃね?っつうか、アメリカなのかカナダなのかオーストラリアなのか、一体どこのなんなんだよ?」
 「あいつの言うことは気にしない方がいいわよ」
 牛若の独壇場とも言うべきツッコミを遠藤が冷静に締めくくった。
 「お前の女言葉も気になるよ……」
 賑やかなベンチをよそに、大鉄は顔にこそ出さないが独り背中に冷たい汗をかいていた。
 ――これは、打てない――
 縦に曲がるカーブ。
使い古された変化球だが、鳥羽のような長身の投手が投げると、まさにナイアガラの滝のような落差になる。
実に効果的な変化球だった。
「シッポまくっておとといきやがれ」
鳥羽はそう言い捨て、肩で風を切ってベンチへ下がって行った。
恐るべし伝家の宝刀ナイアガラエアーズロック。
恐るべし鳥羽語録。

咆えろアザラシ

――さすがに体がだるいわ――
麗華は準備投球をしながら、軽く体を捻ってみる。
予選の日程で準々決勝からは中一日、間があいたが、ここへきて一回戦の後の、あの無謀ともいえる投げ込みと、一試合毎に蓄積された疲労が、まるで機械が錆びついていくように麗華の体にまとわりついているのだった。
「マッサージしてやろうか?」
昨日大鉄がそう言ってきたが、麗華は断わった。
いくら仁の体とはいえ大鉄に全身を触られるのが恥ずかしかったのだ。
だがそれで、せっかく大鉄と二人きりでゆっくり話せそうな機会まで失ってしまったことが、麗華には残念だった。
大鉄とは二度、試合後に一緒に食事をしたが、それは二度とも満腹亭のカウンターに並んで慌しくラーメンをすすっただけで、話題は野球のことばかりだった。
一度くらいはゆっくりコーヒーでも飲みながら、野球以外の話もしてみたかったが、それは到底かないそうになかった。
今度フィリップが現われた時は、ほぼ間違いなく仁を連れてくるだろう。
昨夜は結局こなかった。
それでは今日くるのだろうか。
この試合中にくるのだろうか。
いや、もしかしたら今、この瞬間にくるかも知れない。
止むを得ない事情とはいえ、ひどい話だと麗華は思う。
自分の気持ちなど全く無視されているのだ。
――もう、大鉄には全部本当のことを言っちゃおうかな――
昨日からふとそんな衝動に駆られることが何度もあったが、それは大鉄にとって迷惑以外のなにものでもないのだ。
今日と明日の試合で甲子園に出られるかどうかという時に、エースの仁がまたわけのわからないことを言い出せば、彼の余計な心配事が増えるだけだった。
「今までいろいろとごめんね」
なにも知らずにマウンドに駆け寄ってきた大鉄に麗華はとにかくそう言ってみた。
考えてみればはじめて仁として会ったあの時、つい口から出てしまったあの言葉が、この素敵な野球バカをどれだけ傷つけたことだろうか。
大鉄は「えっ」と一瞬戸惑った直後、一度ひどく悲しげな目になったが、すぐに、
「今は試合に集中しろ」
と、言い放った。
その目と言葉のあまりのアンバランスに、麗華は胸を絞めつけられ、そして失笑してしまいそうにさえなるのだった。
この大根役者は、あふれるほどのいたわりと優しさと自己否定を、その目で饒舌に語っているくせに、口ではまるで真逆のセリフを言葉少なに語って、この期に及んでなお悪役を演じているのだ。
男というのは変な生き物だと、麗華はつくづく思う。
麗華は噴き出しそうに笑いを堪えながら「うん」とだけ返事を返すのだった。
大鉄はそっけないくらいにぶっきらぼうに麗華に背中を向けて、ホームへもどろうとした。
――野球選手って、かっこいい……――
麗華はなんだか堪らない気分になって、気づいた時にはその背中を膝で蹴っているのだった。
「痛ってえな、なにすんだよ」
大鉄はどこか嬉しそうに麗華をにらみつけた。
彼も苦しんでいたのだ。
いつもマウンドにくる時には笑顔を絶やさないが、マスクの下ではどんな顔をしているのだろう。
――こん畜生、絶対甲子園行けよ――
大鉄の背番号2がにじんで見え、麗華は小さく咳き込んだ。
自分がこの世で、最も好きになった男。
手をつなぐことすらできない男。
この万人に誇れるヘタクソな千両役者の、子供じみた大きな夢が今は自分の右肩にかかっているのだ。
――負けるもんか……絶対――
麗華は渾身の力を込めて、第一球を投げた。

試合は大かたの予想通り、投手戦となった。
鳥羽は大胆にもクリーンナップ以外にはセカンドとショートを大幅に前進させるという露骨なバントシフトをとらせ、ヒッティングにきた相手には例の「落ちるカーブ」(ナイアガラエアーズロック)を多投し。一方麗華は一巡目の打者のほとんどを三振に仕留め。
お互い一歩も譲らず、それぞれ打者一巡目をノーヒットに抑えたのである。
だが、この三振ショーが麗華にとっては返って仇となった。
無意識のうちに力んで全力で投げ続けた疲れが五回の裏になってじわじわと効いてきたのである。
五回裏先頭打者、二巡目の四番鳥羽。
麗華としてはこれまでと同じように投げているつもりの球が、二球とも高めに浮いてしまったのだ。
カウントはツーボール・ノーストライク。
溜まった疲労と、意識のしすぎによる力みがボールを浮かせたのだった。
ボールを握る手が無意識に深くなりすぎていることを危惧した大鉄がスライダーを要求したが、鳥羽はこれをねらっていた。
長いリーチで振りぬかれた打球はセカンドの頭上を高々と超え、右中間の真ん中を深々と破りフェンス際まで飛んだ。
スタンディングダブル。
それはスライディングすることなく、余裕でセカンドベースを踏む二塁打だった。
 つまりフェンス際まで転がって行った打球からすれば、三塁を窺ってもよさそうな当たりを、あえて二塁打に止めておくところに次の打者に対する絶対的な信頼が表れていた。
 すでに三日月山の応援スタンドはさざ波のように湧き立っている。
 「出てくるぞ、あいつが……」
 そんな声がグラウンドまで降ってきた。
 三日月山のベンチが動く。
 監督は最早五番打者への代打に、なんのためらいもないようだった。
 場内アナウンスが玉川の代打を告げると、三日月山の応援スタンドでは嵐のような太鼓の連打が吹き荒れた。
とうとう最も恐れていた事態を迎えてしまった。
 「咆(ほ)えろ!アザラシ」
 そう書かれた横断幕が待ちかねたように広げられた。
 ――勝てる、これで勝てる――
 鳥羽は唇の端を歪めて笑った。
 ――今年は違う、去年までのうちとはまるで違うんだよ――
 とうとう現われてくれたのだ、喉から手が出るほど欲しかった、待望のポイントゲッターが。
 まさか、こんな身近にいやがったとは。
 監督が見損なっていたのもむりはねえ。
 毎日一緒に練習してた俺でさえ気づかなかったんだからな。
 ――みんな俺が強引にベンチ入りを薦めたと思ってやがるんだろうが、監督(やつ)がそんなに甘いわけねえだろ――
 鳥羽は単刀直入に玉川の手を見せて頼み込んでみたのだった。
 だめで元々と思っていたが、意外にも監督は「わかった」とだけ言ってうなずいたのである。
 知っていたのだ。玉川が一人、練習していることを。
 だが、それだけでベンチ入りさせるまではできなかったのだ。
 ――俺だって、まさかタマの野郎がほんとに打つとは思ってなかったもんな……――
 グラウンドに雨のような拍手が降ってきた。
 三日月山の応援席は、総立ちである。
 玉川がベンチから出てきたのだ。
 のそのそと這い出るように。
 小柄でなで肩でぶよぶよの体。
 およそユニフォームの似合わない不恰好なこの男こそ、三日月山高校にとって、今大会彗星のように現われた新しいスターだった。
 その太い首に、すでに汗が光っているのを大鉄はじっと観察していた。
 ――やはり裏でずっと素振りをしていたのか――
 試合開始直後から大鉄は三日月山ベンチに玉川の姿を探していたのだが、今まで一度も見つけられなかったのだ。
 野球部員の中にあっては目立つ体型である。
 三年間、三日月山にこの男がいることは知っていたが、打席に立つのを見たことは一度もなかった。
 ところが、最後の、この大会になって突然現われ三打数三安打。
 三日月山の数少ないチャンスに代打で出てきて必ずヒットを打ってきた。
 ――チャンスに強い、ということか――
 だが三打席だけではなんとも言えなかった。
 トーナメントブロックの都合で、三日月山の試合は一度もテレビ中継されていなかったため、大鉄はこの玉川が打つところを一度も見たことがなかったのである。
 ――油断してた、まさかこれほど警戒するような打者だったとは――
 だが、次の瞬間、大鉄は愕然とした。
 ネクストバッターズサークルに転がっていたマスコットバットに足をとられ、玉川がひっくり返ったのである。
 スタンドがどっと笑いに包まれた。
 ――もしかして、地に足が着いてないのか……?――
 それはコントのような派手な大転倒だった。
 足を乗せたマスコットバットが転がり、玉川は背中から地面に落下したのだった。
 「す、すいません、すいません……」
 玉川のような男の習性ともいうべきか、彼には反射的に周囲に謝る癖がついていた。
 実際にはなにが起きたのか、自分でも分かっていない。
 もしかしたら、転んだことさえ分かっていないかも知れないほど、この男はアガっていた。
 ――か、監督、無理ですよ、代打の代打を……――
 「さっさと行ってこい」
 泣きっ面でなん度も振り返る玉川に業を煮やし、監督の北条が思わず怒鳴りつけた。
 「すいません、すいません」
 ――ひどいよ、みんな無理なの分かってて……――
 「君……早くバッターボックスに入りなさい」
 審判にまで急かされ玉川は反射的に「すいません」と謝ったが、彼はもうその相手が誰かも解ってはいなかった。
誰かになにかを言われたので、とりあえず「すいません」と反応しただけなのだ。
――バットが震えてるのか?――
玉川が構えたバットが小刻みにヘルメットにぶつかって音を立てている。
しかもまだ一度もバットを振っていないにも関わらず、すでに緊張のためか息遣いまで荒くなっていた。
――決して油断するわけじゃないが、恐らく普通の代打に対するようなやり方でいいだろう――
つまり、打者に考えるすきを与えないくらいの早いテンポで、三球続けてストライクを投げる、最も単純だが効果的な攻略法である。
代打の打者というのは、ピッチャーの投げる球に目が慣れているはずもなく、試合のリズムにも乗れていないものだ。
つまり、落ち着いてしまう前に「気がついたらストライクを三つ取られていた」という形に持って行ってしまえばよいのである。
第一球。
大鉄はストレートを要求した。
――ナイスボールだ――
だが、鋭い金属音が聞こえ、ボールは大鉄のミットには入らなかった。
慌ててマスクを飛ばして目で追ったが、すでにバックネットに当っていた。
――当てた……真っ青な顔で震えてたくせに、仁の速球に、一球目から……いや、そんなことより……――
見ると当の玉川は勢い余って尻餅をついている。
相変わらず怯えたような顔で、肩で息をしてむせていた。
大鉄はタイムをとってマウンドに駆けた。
 「あいつ、スイングだけはすげえぞ」
 「聞こえたぜ、サードまでブーンって音が」
 八郎も興奮しながら話に入ってきた。
 「ありゃ高校生の振りじゃねえよ、いったいどんな練習したらあんな音が出るんだよ」
 「三試合連続ヒーローってのは、まぐれじゃないってことか」
 「どうしよう……?」
 「あのスイングだとお前の速球でもまぐれ当たりってことも充分考えられるだろう、当れば飛びそうだしな……代打で目が慣れてないから変化球だったらついてこれないだろう、低めのきわどいところを攻めよう。狙い球を絞らせないようにテンポよくこいよ」
 「わかったわ……」
 ――代打で目が慣れてないから変化球を低めに集めろ……大方そんなところだろうな――
 セカンドベースの上で鳥羽はせせら嗤った。
 ――よかったじゃねえかタマ、あいつらも今までのやつらと同じようにお前の見た目に騙されてくれて。警戒されて敬遠なんかされちゃあ泣くに泣けねえもんな――
 先ず内角低めいっぱいにスライダー。
 外れてボールになってもよし、手を出してくれれば儲けもの。
 どの道あの出っ張った腹が邪魔でイン・ローは見えねえだろうし、バットを振ろうにも腰が回らねえだろう。
 ――俺にはバレバレで笑っちまうくらいだが……でもな……――
 金属製の打楽器を鳴らしたような美しい快音が糸を引き、打球は低い弾道のアーチを描いて、ライト線へ飛んだ。
 観客は一瞬期待と不安を込めて沈黙するが、それはすぐにため息に変わった。
 わずかに切れたのだ。
 だがそれはフェンスにダイレクトで当るほどの大飛球だった。
 ――やつに小細工は通用しねえのさ――
 横の変化に、ああまで完璧に対応されて、大江戸もさぞ頭が痛いことだろうな。
 ストレートにバットが当った時は、半分はまぐれだと思っていただろうが、これでまぐれじゃないことを思い知らされたわけだ。
 こうなるともう、残りは縦の変化しかねえ。
 今度は外角低めにボールになるフォークで、縦の変化に対する反応を見る。
 ――だが……――
 「うおおおおん……」
 アザラシが咆えた。 
 咆えたというより悲鳴をあげたように麗華には聞こえた。
 追いつめられた獣が少しでも早くその苦痛を逃れたくて呻いた悲痛な慟哭のようだった。
 ゴギン!
 ボールの芯を外したバットは痛々しいほど鈍い音を球場に響かせた。
――打ち取った……――
麗華は「センター」と声をかけ、腰が砕けて尻餅をつく玉川を目の端に見ながら、サードのカバーに走った。
――タッチアップがくる――
だが、ボールは落ちてこない。
青い空にふわふわと舞い上がったまま、まるで白い小鳥のように、むしろ加速していくようにさえ見える。
――まさか……まさか――
観客が一瞬静まり返る。
皆固唾を呑んで、ボールの行方を注視している。
やっとボールが落ちてきた。
だがその下のセンター花川口は構えていない。
背番号8をこちらに向けて、呆然とボールを見送っていた。
――そ、そんな……――
ボールはバックスクリーンの手前で大きく跳ね上がった。
三日月山の応援席からは歓喜の雄叫びがあがった。
沢高の応援席からさえ感動のため息がもれた。
この最高に不様なホームランは敵味方を超えて、見ている者に感動を与えるほどにドラマチックだったのである。
――当った?……バットに当ったのか――
玉川は打球がフェンスを越えたころ、やっと我に返っていた。
――走らなきゃ――
慌ててゴム鞠のように跳ね起きると、太った体を本物のアザラシのようにだぶだぶとくねらせながら、一塁まで全力疾走した。
まだ足の震えが止まらない、つんのめって体が一回転するほど派手に転んだ。
――まずい、アウトになる――
文字通り這うように一塁ベースにたどり着いても、まだボールはきていなかった。
――あれ?もしかして、またファールだったのかな?――
「さっさと走れよデブ、ホームランだよ」
ベースを踏んできょろきょろしている玉川に鳥羽が堪りかねて怒鳴りつけた。
「え?ホームラン……この俺が?」
「いいから走れ、もたもたすんじゃねえ」
「あわわ……俺が、ホームランだなんて、ウソだ」
だがその時になってはじめて球場を見回すと、自軍の応援席から降り注ぐ大歓声と、痛烈で温かい祝福の罵声に包まれている自分に気がつき、玉川は恐縮のあまり再び地に足が着かなくなってしまうのだった。
――こんなやつが世の中にいるとは――
三日月山の監督、北条時政はさすがに呆れてベンチで苦笑いし、首を振っていた。
天才だった。
それも天性のバットコントロールとパワーを具(そな)えたスラッガーだった。
好打者と呼ばれる選手は大きく二種類に分かれる。
一つには、素振りできっちりスイングの軌道を作り込んで、「形」で打つタイプ。
そしてもう一つは、スイングの形を持たず、投手の投げた球に臨機応変にバットの軌道を変化させて対応してしまう、「無形」のタイプだ。
玉川は典型的なこの後者のタイプだったわけだが、彼にとって不幸だったのは、自分にはそんな器用さなどないと頭から思い込んでいるところだったのだ。
彼の見た目の悪さも災いしていた。
今まで彼と接した人間の誰もが、彼の体型や動作の野暮ったさに騙され、彼の才能に気づこうともしなかったのだ。
だが、だからと言ってそれらの人たちを責めることはできないだろう。
彼の父親からして、最初に左打ちを教え込んだ際に、彼の才能に気づくことなく、徹底して「形」から教えてしまったのである。
そして玉川も、頑ななまでにそれを守りすぎた結果、いざ投手の投げたボールを打つにあたって、その型にはまりすぎたスイングが仇となり続けてきたのだった。
ところが。
神は彼を見放してはいなかった。
彼の極度なアガリ性の性格が、試合の時だけ彼のスイングの「形」を忘れさせるのである。
舞台が大きくなり、顔面が蒼白になり、頭の中が真っ白になった時だけ、彼はその呪縛から解放されるのである。
追いつめられてはじめて天性の才能を垣間見せるバッター。
練習では、その一割も実力を発揮できず、大試合でしか能力の出せない、開き直れない性格。
天才というより異能打者と言うべきだろう。
もっとも監督の北条からしても、まだそこまで気づいているわけではない。
玉川のベンチ入りを決めたのは、確かに鳥羽に対する気遣いもないではなかった。
また、玉川が一人残って血のにじむような練習をしていたのも知っていた。
だが、それだけで誰が見ても実力のない者をベンチに入れたのでは、ОBや父兄に説明がつかない。
野球部などという得体の知れない組織の力学に、彼は臆していたのである。
――他の部員を発奮させるため、なんて言えば聞こえはいいが――
三日月山の貧打線に業を煮やしていたのは、鳥羽だけではなかった。
この北条とて、この「点の取れない打線」に忸怩たる思いでこの夏を迎えていたのである。
不動のレギュラーという座にあぐらをかいて、通り一遍の練習しかしようとしない他の部員たちに一泡吹かせてやりたい。
自分たちが打てないことを他人事のように棚に上げて、まるで鳥羽一人が頑張っているのが悪いかのように、陰でぶつぶつ言っている連中に思い知らせてやりたい。
鳥羽に玉川の手を見せられて、その思いが一気に弾けた。
中学・高校・大学と野球部に席をおいたが、あれほどカチカチに硬くなった手のひらは見たことがなかった。
一体どれくらいバットを振ったら、あんな手になるのか。
――いいぞ玉川、この試合は残りの打席も全部打たせてやる、お前がどこまでやるのか見せてみろ――
結果、ばくちというより自爆、玉砕と言ってもいい大抜擢が的中したのだった。
「お前、なに泣いてんだよ、試合中に?」
大鉄は二点先行されたことも忘れて、つい呆れて笑ってしまった。
「だって、悔しいんだもん、あんたに甲子園行ってもらいたかったのに……」
「まだ二点とられただけだよ、ヒットだってまだ二本打たれただけだ」
「ホームラン打たれるのが、こんなに悔しいなんて」
「フォークはちゃんと落ちてたよ、あんなワンバウンド寸前のクソボールをあそこまで飛ばされちゃ、プロだってお手上げだよ」
「信じられないわ、バットが軌道を変えて、ボールを追いかけてきたみたいだった」
「まるでイチローだな、あんなやつがまだいたなんて」
大鉄はボールの吸い込まれたバックスクリーンをまじまじと振り返った。
「とにかくこれでランナーがいなくなったんだし、思い切りバッターに集中していこうぜ」
――これ以上打たれるもんですか。悔しい、キーッ!――
三日月山の応援はがぜん勢いづいて、足を踏み鳴らし、太鼓もブラスバンドも押せ押せの鳴り物をならしている。
だが麗華の立ち直りは見事だった。
返って不屈の闘志に火がついたかのように疲れも忘れ、その後の打者を三者三振に仕留めたのだった。

イレギュラー

六回は両チームともに三者凡退で、試合は七回表、沢谷香高校の攻撃を迎えていた。
この回先頭の二番花川口はファールで四球粘ったものの、最後はナイアガラエアーズロックで三振にたおれた。
鳥羽はまだノーヒットピッチングを続けている。
ここまでくると球場は鳥羽の四試合連続ノーヒットノーランの期待にざわめきはじめているのだった。
だが沢谷香高校も決して鳥羽を気分よく投げさせていたわけではない。
序盤のバント作戦が封じられると今度は全員がファールで粘り、できるだけ鳥羽に球数を投げさせる作戦に切り替えていたのである。
「チッ!」
八郎はしばらく粘った後、シュートを引っかけ、舌打ちをしながら一塁に走った。
「いや、面白いぞ……」
ベンチで牛若がつぶやいた。
当たり損ないだったが、飛んだコースがショートの左の深いところだったのだ。
「よしっ!」
ベンチの全員が異口同音に口の中で叫んだ。
ボールはショートのグローブからこぼれ出て転がっていた。
内野手がよくやる失敗である。
送球をあせるあまり、捕球するより先に投げる方向を見てしまい、ボールから目を離したのだ。
「記録は……?」
皆一斉にスコアボードを注視し、そして一斉にため息を吐いた。
ランプはEに点いていた。
「まあ、よしとするか」
相変わらずノーヒットノーランという屈辱的な記録は続いているが、久しぶりのランナーにベンチは色めきたった。
だが。
「ばかやろう、さっきもワンバウンド投げやがって、いいかげんにしろ」
一回表に続くショートの二度目のミスに鳥羽の額はひくひくと震えていた。
「辞めちまえ、てめえなんざもういらねえ」
鳥羽は審判が見かねて「もう止めないか」と声をかけるまで、ショートを罵り続けるのだった。
ここへきて鳥羽は、はっきりと疲れを見せはじめていた。
沢高のファールによる消耗作戦と、自らのノーヒットノーランの記録のプレッシャーに加え、三日月山高校としては珍しく中盤に二点のリードを得たことで勝ちを意識する焦りが鳥羽に目に見えない重圧を与え続けてきたのである。
そしてこの鳥羽の乱心は、三日月山のチーム全体に張りつめていた緊張の糸を、思わぬ形で断ち切ることになるのだった。
四番の大鉄は、早くもバントの構えをしている。
――次のエンリケが絶不調なのを考えるともったいないみたいだけど――
だが、これは大鉄が自ら監督に志願したバントだった。
大鉄という男は、そういう人間だった。
バントも巧い。
内角高めのシュートを実に巧妙に、一塁線ぎりぎりにボールを転がす。
ところが。
一塁手の動きは不自然なくらい緩慢だった。
――ファールになるのを待ってるのかな?――
だがそうではなかった。
悠々とフェアグラウンドでボールを拾い上げ、鳥羽の顔をにらみつけている。
「ばかやろう、なにやってやがんだ」
怒鳴りつける鳥羽に返事をする代わりに口の端をつり上げた歪んだ笑みで応え、あきらかに遅すぎる送球を一塁に放り投げたのである。
それはまさしく「放り投げる」という表現が適切だった。
彼はわざと大暴投を投げたのだった。
しかも一塁のカバーには誰も入っていない。
本来そこにいるべきセカンドは定位置から動こうとせず、腰に手を当てて突っ立っていた。
およそ野球の試合としてはありえない、異様な光景だった。
八郎も大鉄も、呆気に取られながらもそのまま走り続け、代打からライトのポジションに入っていた玉川が、ボールに追いついた時にはすでに八郎はホームインし、大鉄は二塁まで進塁してしまっているのだった。
「て、てめえら……」
鳥羽の目が真っ赤に血走って、顔中の筋肉が怒りのあまり小刻みに震えている。
「よせ、鳥羽、やめろ」
一塁手に向かって歩き出そうとする鳥羽に、サードを守っている主将の七篠が後ろからしがみついた。
「お前ら、なにやってんだよ」
七篠も驚きのあまり声を裏返して一塁手と二塁手を交互ににらんだ。
観客も静まり返っている。
誰も声も出ないようだった。
両投手の好投と、玉川のホームランという好試合に熱狂していただけに、その光景はあまりにも寒々としていた。
「タイムお願いします」
七篠は慌てて叫んだ。
ショート、セカンド、ファーストの三人が、監督の交代の指示も出ていないのに、勝手にベンチに向かって駆け出してしまったのである。
監督の北条は慌てて三人の交代を告げた。
「なにやってんだ、あいつら……」
たった今ホームインしてきた八郎が、息を弾ませながら狐につままれたような顔で、グラウンドを振り返った。
「船は帆で持つ帆は船で持つ。鳥羽の暴言は度を越えてたもんね、まさに自業自得の四面楚歌ってやつだね」
牛若も呆れて目を丸くしながらそう言った。
「いいのかよ?こんなんで一点もらっちまって」
「クーデターだよ、向こうが自滅したんだから仕方ないさ、三年の野手にとっちゃ下級生の前で鳥羽に怒鳴られ続けてきた鬱憤がたまりにたまってただろうからな。そういう意味じゃうちだって……」
牛若は声を一段低くして、
「ついこないだまで事情はたいして変わらなかったけどな」
とチラと麗華を見た。
「なあに?」
麗華も牛若を見ていて、目が合ってしまった。
「いや、なんでもない、気にすんなよ」
牛若も特に悪気はなかったので、すっかり動揺してしまった。
「ま、まあ、後味は悪いけど、うちにとっては願ってもない棚ボタだよ、一点入ってまだランナー二塁だもんな」
「でも、次はエンリケだぜ、ここはバントじゃね?」
「まったくあいつ、今大会まだノーヒットだもんな、一体どうしちまったんだ」
牛若はいら立たしげにエンリケの背中をにらんだ。
もともとエンリケは波の激しい打者なのだが、今大会のブレーキは特にひどかった。
だが彼の場合、一旦当り出すと爆発的な固め打ちをするという期待感もあるため、引っ込めてしまうわけにもいかないのである。
「ランナーを三塁に送れば、遠藤なら内野ゴロくらい打てるだろ、向こうの内野はほぼ総入れ替えになって浮き足立ってるし、転がしゃあなんとかなりそう……え?」
「ストライクスリー」
八郎が言い終わらないうちに主審が三振を宣告していた。
「は、早すぎだろ、あのバカ」
「このチャンスで三球三振かよ、あのバカ」
「お前、少しは粘れよ、せっかく相手が自滅してくれてるってのに」
首をかしげながら帰ってきたエンリケに、八郎が咬みつく。
「いやー、あんまりボールがバットに当らないから、試しに目をつぶって振ってみたら、やっぱり当らなくてさ」
エンリケはにやにやしながらそう言った。
相手チームが乱闘寸前にもめていようが、この男には関係ないらしい。
「お前……」
三振したエンリケよりむしろ八郎と牛若の方が泣きそうな顔になって口をそろえた。
「……狂ってるよ……」
「そうかな?ははは」
「こ、このやろう、いつもエラーはしやがるし、今日負けたらお前のせいだぞ、ドアホウ」
「いやいや、大丈夫、次は打てるから」
「なんだとこのやろう、根拠のねえハッタリぬかしやがって」
「いい作戦を思いついたよ」
「けっ、だいたいこのままじゃ次はもう、お前えまで回らねえよ」
「まあ頑張って回してちょうだいな、次は保証するから」
「死火山が噴火するのを待つようなもんだぜ」
牛若の痛烈な嫌味にもエンリケは肩をすくめてにやにや笑うだけである。
――いやいや、ほんとはチアガールが気になっちゃって打てないから見えないように目をつぶった。なんて言ったら怒るんだろうなこいつら――
敵に回すと彼ほど恐い男もいないが、味方につけてもこれほど頼りにならないやつもいない。
エンリケという男はそういう人間だった。
一方、遠藤はよく粘ったが、結局平凡なサードゴロに終わるのだった。
 だが、沢谷香高校はこの回ノーヒットで貴重な一点を手に入れたのである。

 七回裏、三日月山高校の北条監督はベンチの前に円陣を組ませていた。
試合は二対一、点こそリードしているとはいえ、勢いは沢高にある。
しかもつい今しがた一点取られた三日月山の内野陣は、総崩れと言っていい。
だがそんな緊迫した局面にあって、北条は実におだやかな口調で選手たちに語りかけていた。
 「……この大会が終わったら三年生のうち、何割が野球を続けていくか俺は知らん。だが、お前たちには野球の世界だけでなく、ごく普通の社会人として生きてゆくためにも、一つだけ大事なことを言っておく」
 先ほど自ら退いた三人の内野手は円陣に加わろうとしなかったが、北条は強いて入れとも言わなかった。
 北条はただバックスクリーンのあたりをぼんやりとながめていた。
 「全員玉川の手のひらをよく見ろ、お前らも言いたいことはあるだろうが、俺がお前らに教えられなかったことをこいつの手が教えてくれるだろう」
 北条は「それだけだ」と言うとベンチの奥に引っ込んでしまった。
 そしてベンチの隅に座っている三人にも「おい」と声をかけた。
 「お前らも、試合終わってからでいいから、よく見ておけ」
 そう言い残していつもの場所にどかりと腰をおろした。
 北条が腰をおろしたのを合図のように、円陣の選手たちは次々に、玉川の手を取った。
 玉川が恥ずかしそうに出す手を見た者は、まるでその手に頬を張られたかのようにうなだれ、その打たれていない張り手の痛みに堪えるように顔を歪めるのだった。
 「残り三回だ、力を出し切れ」
 全員が一通り見終わると、ベンチの奥から北条の力強い檄が飛んだ。
 「オスッ」
 彼らの返事は、今にも泣き出しそうに裏返っていた。
 ――どうしたんだろう、急にバッターの目の色が変わったわ――
 三日月山高校三番、主将七篠の目つきは前の打席とはあきらかに違った。
 構えも違う。
 バッターボックスのラインぎりぎりに立ち、ホームに被っている。
 あわよくばデッドボールでも出塁しようという構えだ。
 ――今まではいじけた子供みたいだったけど――
 三日月山高校の打者には、共通した特徴があった。
 よく言えばスマートと言えなくもないが、悪く言えば淡白、というより、もっと鼻につく屈折したニヒリズムのような雰囲気を、鳥羽と玉川以外の三年生は漂わせていたのだ。
 運動のできない小学生などが、一生懸命やって出来ないのが格好悪いため、体育の授業などで最初から本気でやろうとしない、あのかわいげのない虚無感である。
だが、この打席の七篠はまるで別人のように泥臭かった。
内角球を恐れず、逆に「当ってくれ」とばかりに体を寄せてくる。
不恰好なほど短く持ったバットで、とにかくコツコツと当てにきていた。
 ――いったいなにがあったか知らないけど、打たせはしないわ、この回は鳥羽と玉川に回るんだから――
 しかし、麗華も疲れている。
 決め球の、空振りを獲るはずのスライダーが甘く入った。
 いや、それでもいつもなら空振りが獲れたかも知れない。
 相手は三番で主将、腐っても鯛だ。
しかも目の色が違う。
 執念で振り抜いた打球はショートの左に転がった。
 ――オーケー任せろ――
 当たりは悪くないが牛若の守備範囲は広い。
 だが。
 「うわっ、痛てっ」
 打球は七篠の執念が乗り移ったようにイレギュラーし、牛若の左肩に当った。
 ショート強襲の内野安打である。
しかも七篠は一塁にヘッドスライディングをして、三日月山のベンチもにわかに湧きかえっている。
この回の三日月山はあきらかに違った。
 そして。
 ――え?――
 ――おいおい……――
 沢高の守備陣全員が、我が目を疑った。
 鳥羽がバントの構えをしているのだ。
 ――プライドがユニフォームを着てるようなこの男が、よほどもう一点が欲しいんだな――
 無理もないことだと大鉄は思う。
 三日月山は三人もの内野手が突然入れ代わったのだ。
 少なくともその三人が、スタメンより優れているとは、とうてい思われなかった。
 投手戦で恐いのは、長打とエラーと四死球だ。
 三日月山はその長打で優勢に立っているものの、これからの八、九回、自軍のエラーの影におびえ続けなければならないのである。
 ――させるもんですか――
 麗華は内角高めに思きり速球を投げたが、鳥羽はあっさりと一塁線にボールを転がしてしまうのだった。
 そして「あの男」がおどおどしながらバッターボックスに入ると、グラウンドには再び、拍手の雨が降ってくるのだった。 
 「敬遠。する?」
 「お前、勝負させろ、って顔に書いてあるぞ」
 大鉄は苦笑いしながら、麗華の顔を覗き込む。
 麗華は不機嫌にそっぽを向いて「そお?」と言った。
 「いいのよ、あたしのプライドなんて。打たれて試合に負けたんじゃなんの意味もないんだから」
 「まあ、確かにここでもう一点取られたら……」
 と大鉄は真顔になって、一度玉川をちらと見て、ため息をついた。
 「鳥羽相手に四点取るのは難しいな」
 「じゃあ敬遠しましょう。あたしのことならお気遣いなく」
 「いや、確かに俺もそう言いにきたんだけど、お前の目を見て安心したよ、お前、ちょっと打たれるとすぐいじける性格だったのに、成長したんだな」
 大鉄が仁のことを言っているのは麗華にも解かったが、麗華はにやりと笑った。
 「女は好きな男のためなら、いくらだって強くなれるのよ」
 「女?」
 だが大鉄は面倒臭そうに顔をこわばらせるだけだった。
 「いえ、なんでもないわ」
 「ま、まあ、いくらあいつだって十割打てるわけじゃないんだろうし、ぎりぎりの臭いとこつきながら様子を見よう」
 大鉄はそう言うと首をかしげながら帰って行った。
 ――もう、全部本当のこと言えたら楽なのに、キーッ――
 「なんども振り返るんじゃねえよ、ばかやろう」
 玉川は鳥羽に怒鳴られて、ようやくバッターボックスに入った。
 足の震えが止まらない。
 ――そんなになんどもマグレなんて出ないよ――
 さっきの打席の記憶は完全に飛んでいる。
 どんな球種をどんな風に打ったのか、全く憶えていなかった。
 それが玉川を余計に不安にさせていた。
 だが、試合には勝っている。
 勝てばまた鳥羽と野球ができる。
 負けたらその場で終わる。
 玉川にとって大事なのは、下手な野球を十年近くもやっていたことではない。
 鳥羽と一緒にやっていた、ということだけが、唯一他人に誇れる矜持なのである。
 プロへ行った友達と、ずっと一緒に野球をやっていた。
 大人になって、それだけが自分の人生を支えてくれるはずだ。
 仕事が終わり、夜テレビをつけると自分の友達がプロ野球のエースとしてそこに映っている。
 なんの取り柄もない自分にとって、それがどんなに誇らしい思い出になることか。
 ――勝たなきゃ……勝たなきゃ――
 朦朧(もうろう)とした頭に、それだけがなんども木霊する。
 灼熱の炎天下、応援席ではブラスバンドが幻想的なほど執拗に同じメロディーをくり返しているが、玉川には全く聞こえていない。
 鳥羽は甲子園の出場経験こそなかったが、プロ野球のスカウトがなんどか家にきたと、言っていたことがあった。
 だが、三年間、予選で負け続けたとしたら、彼らはそんな無名の投手を本気で誘ってくれるかどうか。
 できれば甲子園に行って、プロのスカウトにもっと鳥羽の名前を覚えてもらいたかった。
 たくさんの球団から上位で指名してもらいたかった。
 ――勝つんだ、勝つんだ、勝つんだ……――
 鬼気迫るほどの蒼白な顔でなんども呪文のように、心の中で強く念じた。
 ――困ったな――
 大鉄は独り、マスクの下で顔をしかめていた。
 あんな風に言ってみたものの、変化球はスライダーもフォークもほぼ完璧に対応されてしまっている。
今日の仁のカットボールではとても勝負球には使えない。
 二回戦のあの時は、やつの指が出血していたからよく曲がってくれただけで、今日はあの試合のようなキレがない。
 ストレートにもほとんどタイミングが合っていた。
 ――いや、待てよ――
前の打席で、唯一打ち損じてくれたのはストレートだった。
最初にストレートをファールされたことに惑わされすぎていたのではないか。
 いい当たりは二球とも変化球だった。
 ――あのスイングの速さに、俺が一番ビビッちまったんだ――
 本当は低めの変化球が得意なのかも知れない。
 初球、ちょっと勇気が要るが、内角高めに思い切り速いストレート。
上下に揺さぶってみよう。
――いくらなんでも仁の速球を、そう簡単にジャストミートはできないさ――
 大鉄の配球は一見博打のようだが、絶好球とウイークポイントは意外と紙一重であることが多い。
 打者は甘いボールがきたことで、思わず力んだりボールから目を離してしまったりするのである。
 高めとはいえ、仁の伸びのある速球ならば、並みの打者であれば空振りに終わったであろう。
 だが。
 「がおおおおん……」
 玉川はこの、見送ればボールだったかも知れない高めの球に、見事にバットを被せてしまったのである。
 濁りのない金属音が球場に木霊した。
 ――やられた――
 今度はジャストミートだった。
 打球はまるで弾丸のように空を切り裂き、ライト遠藤の頭上を超えていく。
 ――入るな、入るな――
 大鉄は祈るような気持ちで、ボールの行方を見守った。
 この試合最速と言ってもいいくらいの速球だった。
 悔やまれるが、あの速球をあそこまで完璧に打たれては、二塁ランナーが還るのは仕方がない。
 ――だが入ったら、ホームランになっちまったら――
 四点目が入ってしまう。
 今日の鳥羽から五点を取るのは無理だと、大鉄は思っていた。
 ――入った……?――
 ボールがフェンスを越えてしまった。
 観客のどよめきが丸い球場の中で渦を巻いた。
 さすがの大鉄も途方に暮れ、一瞬呆然と立ち尽くした。
 ――いや――
 塁審が指を二本立てている。
 エンタイトルツーベースだった。
 ――た……助かった――
 遠藤の影でボールがよく見えなかったが、打球はワンバウンドしてフェンスを越えたようだった。
 高めのボールにバットを被せるように打った打球は、ドライブの回転がかかっていたのである。
 この場合、ルールでは打者・走者ともに二つ分の進塁が許されるため、打った玉川は二塁打、セカンド走者の七篠は、ホームインが許される。
 ――三点目か。キツイな……――
 三日月山に、値千金の一点が入ってしまった。
 ようやく一点返した直後に、長打で追加点を入れられるというのは典型的な劣勢のパターンだった。
 しかも、相変わらずワンアウト・ランナー二塁のピンチが続いている。
 だが、大鉄はまだ前向きに考えている。
 その根拠は鳥羽が強打ではなく送りバントをしたことだった。
 それは、ミスというものとは別物なのだろうが。
 大鉄にとって鳥羽は、玉川と同じくらい嫌なバッターだったのだ。
 そんな曲者が、犠打とはいえ簡単にアウトになってくれたのは正直助かったと、大鉄は思っていた。
 あそこで鳥羽がヒットを打っていたら、沢高のピンチはこんなものでは済まなかったであろうし、ピッチャーである鳥羽が、体力と精神力が大きくものを言うこの終盤でヒットを打てば、それはピッチングにも影響するであろう。
 ――まだ首の皮一枚でつながってる、ってことさ――
 見ればマウンドの仁は、今度は泣いていなかった。
 次のバッターは、すでにバントの構えをしている。
 ――玉川の足を考えれば、盗塁は、まずないと思っていいだろう。だったら……――
 一球目、外角にスライダー。
 麗華は投球が終わるのと同時にダッシュする。
 これがランナーにプレッシャーをかける。
 バッターはぎりぎりまでボールを見極めようと前のめりになる。
 投球は外角に外れるボール。
 バッターは寸前にバットを引く。
 セカンドランナーは味方のバッターにフェイントをかけられ、中途半端に離塁する。
 ――そこがねらい目なのさ――
 大鉄は、一歩横に踏み出し、セカンドへ。
 強肩の大鉄の送球が風斬り音を上げてセカンドに発射される。
 それは観衆も息を呑むほどの、麗華の速球と大差ないくらいの剛球だった。
 塁審が「アウト」のコールを叫んだ。
 麗華と何度も練習したサインプレーだった。
 送りバントの際のセカンドランナーというのは意外と熟練が必要なのだが、ランナー玉川の離塁が素人であることを瞬時に見破った大鉄の隠れたファインプレーだったのである。
 ――もう一点もやれない、無駄なランナーも出さない、出せばまた玉川まで回る。それには……――
 玉川本人をアウトにするのが一番なのである。
 大鉄の頭はすでに先の先まで考えていた。
 気落ちした六番バッターは、その後あえなく三振にたおれたのだった。

エンリケカーニバル

「冗談じゃねえぞ」
 九回表、沢谷香高校ベンチでは、八郎の怒りが爆発していた。
 「うちはまだノーヒットなんだぞ」
 八回は両チームともによく粘ったが、三者凡退に終わっていた。
 得点は三対一、泣いても笑ってもこの回二点以上入れなければ、沢高の負けである。
――ほんと、冗談じゃねえぜ――
 トップバッターの牛若は、珍しく顔に焦燥の色を覗かせながらバッターボックスに入っていた。
 沢高の攻撃は、打順だけは一番からの好打順だった。
 得点差は二点。
 ここまでくると、バントやファールでの揺さぶりはあまり意味を持たなくなっている。
 三日月山もすでにシフトはとってきていない。
 だが、それがねらい目だった。
 ――途中から交代した一塁手に捕らせる――
 第一球目、牛若は内角に沈むスライダーをいきなり一塁線にバントした。
 鳥羽も一塁手も一瞬棒立ちになった。
 ボールは一塁線のラインぎりぎりを転がって行く。
 「うまいっ」
 沢高のベンチから思わず声があがった。
 だが。
 「捕るな、見送れ」
 鳥羽が一塁手に怒鳴った。
 ――捕っても間に合わねえ――
 一塁手が鳥羽の声に弾かれたように、横に飛びのいた。
 「入れ、入れ……」
 沢高のベンチでは、皆うわ言のようにつぶやきボールの行方を見守っている。
 ボールはまるで生き物のようにゆっくりと転がり続け、ラインの上に乗り、ダイヤモンドの外へとそれて行った。
 「あ……ああ……」
 沢高のベンチからは、悲鳴ともため息ともつかない声がもれた。
 「くそっ」
 すでに一塁を駆け抜けていた牛若は、思わず叫びながらホームに戻って行った。
 「いけるいける、鳥羽も疲れてるぞ」
 大鉄が一人、ベンチで声を張り上げた。
 「あいつ今マウンドから動こうとしなかっただろ、足がもつれて動けなかったんだよ」
 大鉄はよく見ていた。
 鳥羽はバント処理にもファーストのカバーにも走ろうとせず、一塁手に口で指示を出しただけだったのだ。
 カキンという鋭い快音が轟いた。
 「やった」
 「抜けた」
 皆が口々に叫んだが、それは一瞬でため息に変わった。
 鳥羽が、反則なくらい長いリーチをいっぱいに伸ばして、そのライナーを捕ってしまったのである。
 ――もうだめか――
 運にも見放されてしまった。
 ベンチの空気は鉛でも溶かしたように、一気に重くなってしまった。
 当たりはよかったのだ。
 相手が普通のピッチャーだったらセンター前に抜けていた可能性が高かっただけに、ベンチの落ち込み方の落差も大きかったのである。
 「ナイスバッティング。あの調子だよ、鳥羽の球がジャストミートできるようになったじゃないか」
 大鉄だけが大声で盛り立てていた。
 大鉄の言う通り、ここへきてようやく沢高の打者は鳥羽の変化球に目が慣れてきたようで、また鳥羽の投げるボール自体にも、前半のような威力がなくなってきているのも確かだった。
 だが。
「ストライクスリー」
鳥羽はこの土壇場で、恐ろしいまでの執念を見せた。
牛若にジャストミートされたことで、返って野獣のような闘志に火がついたらしく、信じられないくらいの集中力で、二番花川口を三振に仕留めるのだった。
マウンドで仁王立ちになる姿には、近寄り難いほどの迫力がある。
沢高のベンチはもう、声も出なかった。
 ――つくづく恐ろしい男だぜ――
 ネクストバッターズサークルに向かいながら、大鉄も思わず下唇を噛んだ。
 沢高の応援スタンドからは祈るようなハチローコールが起こる。
 反対側の三日月山のスタンドからは、「あと一人」コールが聞こえ始めていた。
 球場が、真っ二つに割れたようになっていた。
 「みんな、声が出てねえぞ」
 大鉄が振り向いてベンチに声をかけると、皆やっと我に返り、しぼり出すように声を張り上げた。
 「まだ、これからさ」
 大鉄は自分を奮い立たせるように、今度は独りつぶやいた。
 ――こんな時のハチローは頼りになるんだ――
 まるで野球選手の鑑のような男。
 大鉄は日頃から八郎をそう思っていた。
 攻・走・守、なにをやらせても巧い。
 およそ野球選手としての素養を全て備えているくせに、決して天狗にもならないのだ。
 人一倍練習熱心で、地味で泥臭いことも喜んでやるし、どんな時でも一塁まで全力疾走する。
 誰よりも野球に対して誠実な男。
 それが鎮西八郎という男なのである。
 あんなに仲の悪かった仁とも、最後の最後で打ち解けてくれた。
 それもひとえに、八郎の野球に対する誠実さの表れでもあるのだ。
 ――こいつが野球の神様から見放されるはずないさ――
 八郎と鳥羽の勝負は、まるで死闘だった。
 鳥羽は鬼のような形相で投げ込んでくる。
 八郎も必死で変化球に喰らいつき、バットに当てるが、全てファールになり、じりじりと追い込まれてしまった。
 ――あのボールがくる――
 鳥羽はまるで予告するように長い脚を高々と挙げた。
 ナイアガラエアーズロックである。
 八郎も気合負けすることなく強振した。
 当った。
 だが。
 「あっ!」
 それは完全な凡打だった。
 気合充分に思い切り振り抜いたバットの勢いとは裏腹に、拍子抜けするような力のないゴロが、鳥羽の足下に転がった。
 ――終わった……?――
 沢高のベンチから聞こえていた声が、完全に途切れてしまった。
 鳥羽は勝利を確信したように右手を挙げ「うおっ」と短く咆えて、ボールをすくい上げた。
 だが、次の瞬間。
 スタンドは大きくどよめいた。
 鳥羽が柔道の足払いをかけられたように、横向けにひっくり返ったのだ。
 沢高のベンチでは皆、言葉にならない声を発した。
 最早誰がなにを言っているのか分からないが、全員が必死でなにかを叫んでいた。
 ――足が滑った?いや――
 踏ん張りがきかないのだ。
 やはり鳥羽は疲れ切っていた。
 スパイクの裏を覗いたり地面を踏み慣らしたりなどしてごまかしているが、すでに限界と言っていいほど、疲労困ぱいしていたのである。
 ――また、首の皮一枚で助かった――
 大鉄は一度、大きく深呼吸してから、バッターボックスに入った。
 落ちるカーブは、決め球に使ってくるはずだ。
 その前に見せ球として投げるであろう、内角のストレートかシュートをねらう。
 第一球。
 「う……?」
 大鉄は手が出なかった。
 鳥羽は初球から、落ちるカーブを投げてきたのである。
 ――裏をかかれた……だが、次こそ内角にシュートかストレートがくる――
 だが第二球も同じボールだった。
 ――くそっ、手が出ない――
 追いつめられた。
 それも一度もバットを振らずに。
 ――だが――
 と大鉄は考えた。
 二球ともバットを振らなかったお陰で球筋がよく見えた。
 鳥羽の落ちるカーブには明らかに前ほどの落差がなくなっていた。
 ――これなら、打てるかも知れない――
 三球目、速い。
 大鉄は「うわっ」と思わず声を上げた。
 主審が一瞬間をおいた。
 ――やられた……?――
 「ボール」
 と、主審がいつもより時間をおいてから言った。
 大鉄は大きく息を吐きながら、顔からしたたり落ちる冷たい汗を、アンダーシャツの袖で拭った。
 完全に裏をかかれた。
 それは審判も迷うほど外角に、ギリギリに外れたスライダーだった。
 ――もう、こうなったらヤマを張る余裕なんてない――
 きた球を打つしかなかった。
 ストレートのタイミングで待って、右に打つ。
 右ねらいならば、変化球にも対応できるはずだ。
 四球目。遅い、ボールは鳥羽の頭上にふわりと上がった。
 ストレートのタイミングで待っていた腰が、条件反射のように勝手に回りだす。
 大鉄は走り出そうとする馬の手綱を引くように、体勢を整えるが、体の軸は崩されてしまった。
 ――ストライクだ、ファールでもいい、とにかくバットに当てなくては――
 ボールが急降下してくる。
 あの落ちるカーブ、ナイアガラエアーズロックだった。
 「ふんっ」
 喰らいつくように振り抜く。
 ――当った、だが……――
 ボールは、とてもジャストミートとは言えない不快な打撃の感触を手に残し、右上空に飛んで行き、大鉄は忸怩たる思いでそれを見送るのだった。
 それは大鉄も何度も経験している平凡なライトフライの軌道だった。
 体の軸が崩された分、打球が伸びることも期待できない、ただの手打ちの、浅いライトフライだった。
 万事休す、だった。
 ――みんな、すまん――
 大鉄は思わず空を見上げた。
 歓声があがる。
 ――終わったか……?――
 だが、その歓声は沢高の応援席からあがっていた。
 三日月山側からは、悲鳴のような声が聞こえてくる。
 「え……?」
 落としたのだ。
 ライトの玉川が、平凡なライトフライを一度グローブに当てて、落としてしまったのである。
 守備に不慣れな玉川が、浅めのライトフライの目測を完全に誤り、一度バックしてから慌てて前進して、落球したのだった。
 ――た、助かった……とにかく、また助かった――
 大鉄は、再び空を見上げた。
 空が、先ほどとはまるで違った色に見えた。
 彼の精神力をもってしても、自ら崩れ落ちそうになる体を支えるのが精一杯だった。
 「ちっ、くしょう」
 鳥羽はマウンドで、独り奥歯を鳴らしていた。
 ――タマに守備練させておかねえから――
 だが、どんなに悔やんでも、自分と玉川のエラーでは文句の言いようもなかった。
 ――でも、点が入ったわけじゃねえ――
 ファーストランナーの八郎は、サードで止まっていた。
 右のふくらはぎが、別の生き物のように痙攣している。
 先ほど転倒した際に、足が攣(つ)ったのだった。
 ――ちくしょう、あと一人だってのに――
 鳥羽は憎しみを込めて、自分の右の尻をなんども拳で叩いた。
 「代打だろ?」
 「んだんだ、代打だよな」
 沢谷香高校ベンチでは、最早誰もが露骨にエンリケへの代打を主張していた。
 「ちょ、ちょっと待てよみんな、誰も応援してくれないのかよ?」
 バッターボックスに向かうはずのエンリケが、わざわざ駆け戻ってきて、皆に訴えた。
 「作戦があるって言ったでしょうが」
 「お前えの作戦なんざ、当てになるかよ、代打だよ、代打代打」
 牛若がそう言うと、沢高ベンチから代打コールが湧き上がった。
 これは鳥羽とはまた違った四面楚歌だったが、監督は動かなかった。
 皆、口ではエンリケに辛く当りながらも一方では、こんな場面で任せられる打者も、強心臓のエンリケくらいしかいないことはよく分かっているのだ。
 「ひでえやつらだな、まったく」
 エンリケはぶつぶつ言いながらボックスに向かった。
 「おいおい……」
 エンリケの構えを見た沢高のベンチからは一瞬で「代打コール」が消えてしまった。
 全員開いた口がふさがらなくなってしまったのだ。
 エンリケは馬鹿でかい体で、目いっぱいホームベースに被って構えたのである。
 「さ、作戦って、そういうことかよ」
 牛若が目をぱちくりさせながらつぶやいた。
 ――このやろう――
 一方鳥羽は血走った目でそれをにらみつけていた。
 ――そんなくれえでこの俺さまが内角に投げられなくなるとでも思ってやがんのか――
 せこいまねしやがって。
 そんなにぶつけてもらいたきゃ、ぶつけてやるぜ。
 鳥羽は全く構わずに内角ぎりぎりに投げた。
 硬球が人間の肉にぶつかる生々しい音がベンチにまで響いてきた。
 鳥羽のシュートがエンリケの左わき腹に当ったのである。
 だが。
 「ストライク」
 主審は冷静にストライクのコールをした。
 「や、やっぱり?っつうか、当たり前だよな」
 牛若もただ呆れて首を振るばかりである。
 例えバッターの体に当ったとしても、投球がストライクゾーンを通ればそれはストライクである。
 「あのバカ、当てられ損だっての、それにしても痛そうだな」
 ところがエンリケはなんどか咳き込んだだけでにやにや笑い出し、こう言ったのである。
 「なんだよ、こんな遅せえ球ちっとも痛くねえよ、みんなこんなの打てなかったのかよ」
 エンリケワールド全開だった。
 「あ、あのバカ……そういうことだったのか」
 気性の激しい鳥羽は、この挑発に乗って次ははっきりとぶつけてくるだろう。
 コントロール抜群の鳥羽に対して、生半可に被って構えたところで、デッドボールなどそうそう期待できるものではない。
 ならば鳥羽を本気で怒らせて、はっきりとぶつけにきてもらう、というわけである。
 エンリケはそこまでして、塁に出ようというのだ。
 ――あいつらしい、といえばらしいやり方だな――
 鳥羽の顔面は怒りのあまり蒼白になっていた。
 ――なめたまねしやがって、そんなにまでしてデッドボールが欲しいならくれてやるぜ、思いきりな――
 満塁になったところで、次のバッターを打ち取ればいいだけのことだ。
 あと一人くらい余計にランナーを出したって、こっちは痛くも痒くもねえぜ。
 エンリケは顔がストライクゾーンに入るほど更に深く被って構えている。
 ――そこまで深く被れば危険球はとられねえだろう。地獄へ行け――
 「おらあっ」
 鳥羽はエンリケの顔を目がけ、思い切り速球を投げた。
 ところが。
 「うおりゃあああ!」
 バットがすさまじい快音を上げた。
 エンリケはこのボールを思い切り振り抜いたのである。
 彼はこの球を待っていたのだった。
 「ば、ばかな……」
 思わず叫んだのは鳥羽だけではなかった。
 スタンドからも沢高のベンチからも、同じ言葉が聞こえてきた。
 ボールは「キィーン」という、調子に乗った風斬り音を残して、レフト上空に舞い上がった。
 「ま、まさか……」
 その場に居合わせた全員が呆気にとられながら見上げるボールはゆっくりと弧を描き、レフトスタンドに吸い込まれて行った。
 「は、入った?」
 鳥羽は、悪い夢でも見ているような顔で、つぶやいた。
 「サンバー」
 エンリケは脳天気な声で叫ぶと、踊るような足取りで走り出した。
 ――いやいや。こうすりゃ間違いなくストレートをこっちの予想したコースに投げてくれると思ったよ――
 つまり彼にとって、自分の体を目がけて投げさせる、というのは全く別の意味があったのだ。
 彼は変化球が苦手なうえ、配球の駆け引きではとても鳥羽にはかなわない。
 だが、鳥羽を怒らせれば、間違いなくストレートを自分の体目がけて、ぶつけにくると読んだのである。
 エンリケの頭には最初(はな)からデッドボールなどという文字はなかったのだ。
 「めちゃくちゃだぜ……」
 牛若が呆れ返って、口の中で吐き捨てるようにつぶやいた。
 彼のような小柄で技巧派の選手がどんなに頭で考えて百策をめぐらせようと、ゴリラのようなバカ力の一振りに一瞬で全てひっくり返されてしまう。
 牛若にとっては、最も馬鹿馬鹿しい瞬間だが、それが野球というスポーツなのである。
 「サンバー」
 球場が異様な雰囲気に包まれる中、エンリケはすっかり有頂天で、ダイヤモンドを一周し、サンバのステップを踏みながらホームインし、そして、審判に怒られたのである。

旅立つ二匹のモンスター

――疲れた……――
 鳥羽は一人、奥のベンチでがっくりとうなだれていた。
 六番の遠藤をどうやって打ち取ったのかも憶えていない。
 確か、打たれたヒットは、たったの一本だった。
 四試合投げて、たったの一本打たれただけだ。
 だが、それがホームランなのだった。
 ベンチの中では、絶叫に近い怒声が飛び交っている。
 皆、バッターに向かって、つべこべともっともらしいことを怒鳴っている。
 ――もう、無理だよ――
 今さらしらじらしいことすんじゃねえよ。
 打順は一応、一番からの、傍目から見れば好打順だった。
 だが。
 ――うちに打順は関係ねえぜ――
 俺とタマ以外はゴミクズだ。
 つまりこの最終回、四番の俺まで回ることなんかねえ、三者凡退にされて、それで終わりってことだよ。
 どんな形でも、一人でも塁に出れば鳥羽まで回るが、その可能性はきわめて低かった。
 審判が「ストライクスリー」と叫ぶ声が、鳥羽には他人事のように聞こえてきた。
 ――もう三振しやがったか、バカヤロウが――
 下腹のあたりに、やり場のない怒りがこみ上げてくる。
 鳥羽は怒りに任せて、自分の右のふくらはぎを殴った。
 内野の守備陣どころか、自分の体まで、土壇場で裏切りやがった。
 去年、この沢高に負けて以来、本当に血のにじむような思いで体を作り上げてきた。
 三日月山高校にはその名前が示すように、学校の裏に三日月山という小さな山があった。
 冬の練習では、その三日月山を毎日二十キロ走って下半身をいじめ抜いてきたのだ。
 それが、なんという体たらくだろうか。
 誰かが自分に話しかけているようだった。
 隣に立ってグズグズとなにか言っている。
 「うるせえな」
 見上げるとそこには玉川の顔があった。
 「ごめんよシゲちゃん……」
 玉川は試合も終わっていないのに早くも涙を流しながら、なんども詫びていた。
 ――うっとうしいな――
 鳥羽は舌打ちをして、さえぎるように片手を挙げた。
 試合どころか守備練習すら満足にやらせてもらえなかった玉川の守備など、最初から期待していない。
 もともと三日月山は自分一人で勝つしかない。
 ずっとそうやってきたのだ。
 それが宿命のようなチームだったのだ。
 また、主審が「ストライクスリー」と叫ぶ声が、聞こえてきた。
 「帰るぜタマ、したくしろや」
 力の入らない右の足を気にしながら、鳥羽はゆっくりと立ち上がった。
 「だめだよシゲちゃん、まだわかんないよ」
 玉川が泣きながら、鳥羽にすがり付いてきた。
 「七篠が、絶対にシゲちゃんまで回すって言ってたよ」
 「うるせえな、あいつに打てるわけねえだろ」
 ――こんなクソチーム、やっとこれで終われてさばさばするぜ――
 その時、金属バットの鈍い音が聞こえてきた。
 いい当たりの音ではない。
 ――終わったか……――
 鳥羽は「けっ」と吐き捨てて、グラウンドに背中を向けた。
 だが、観客の歓声が鳥羽を追いかけてきた。
 思わず振り向くと、七篠の打球はライト前に抜けていた。
 ――まだやれってのか……――
 一度灰になりかかっていた闘志の炎が、再びぶすぶすと燃えてくる。
 鳥羽は右足を引きずりながら、バッターボックスへと向かった。
 ――あのくらい捕れよ――
 飛んだコースは確かにヒット性だったが、ファーストの守備範囲と言えなくもない、当たり損ないだった。
 エンリケがまたよそ見をしていたのだ。
 自分がホームランを打ったことで、すっかり安心していたのだろう。
 ――仁がかわいそうだろ――
 仁の疲れ方が目に見えてひどい。
 空振りをとりにいった球が、振り遅れとはいえ、一二塁間に転がされてしまった。
 試合終了のはずが、これでランナーを出して鳥羽まで回ってしまった。
 大鉄はかろうじで気持ちを切り替え、バッターボックスに向かう鳥羽を観察した。
 ――右足を引きずっている、あの転んだ時になにかあったか?――
 通常ならば、こんな時の鳥羽は本当に恐いバッターだ。
 配球の読みが上手く長打力もある、しかも恐ろしく勝負強い。
 だが、これなら並の打者と変わらないか。
 悪いが仁も、もう限界だ。
 遠慮なく弱点を攻めさせてもらおう。
 ――内角低めに沈むスライダー――
 いくら鳥羽でも、怪我した足に向かってくるボールを、足を引きながら打つなどできないだろう。
 ところが。
 快音とともに、糸を引くようなライナーがセンター前にぬけて行った。
 鳥羽はこれを狙っていたのである。
 足を引き、腰を沈めて、長い腕を器用に折り曲げて、トスバッティングのようにあっさりと打ち返してしまったのだった。
 ファーストランナーは三塁まで達してしまい、これでツーアウトながらランナー一塁三塁になってしまった。
 ――ちっ、センター前が精一杯だぜ――
 鳥羽は、なんとか一塁に駆け込みながら、自分の右足をにらみつけた。
 右足が言うことをきかないのは確かに本当だった。
 だが鳥羽がこの一年間鍛えぬいた下半身の粘りは、シングルヒットていどであれば、左足一本で充分支えられるほど強靭だったのだ。
 鳥羽はわざと大げさに右足を引きずって見せ、内角低めのスライダーを誘ったのである。
 そしてこれは逆転のランナーだった。
 ――これでタマまで回ったぜ――
 今度は鳥羽の方が空を見上げた。
 三日月山の応援団が、最後の力をふりしぼるように、太鼓を連打する。
 すがるような期待を込めているのだろう。
 チアガールが胸の前で握り合わせた両手を抱きしめるようにして祈っている。
 その、せつないまでの思い入れの念力に押し出されるように、蒼白の魔人がバッターボックスに入ってきた。
 目が据わり、足下はおぼつかない。
 ともすれば、自分に対する声援に背中を押された弾みで、前のめりに転びそうなほどそれは頼りなく見える。
 その、自分の真正面しか見えていないような目つきからは、狙い球が全く読めない。
 大鉄にとってこれほどリードしにくいバッターもはじめてだったが、この打席に関して大鉄は玉川と心理戦の駆け引きをするつもりはなかった。
 ――とにかく今回は歩かせる方向で、ボールを続けさせよう――
 恐らくギリギリのコースなどは、物ともせずに打ってくるに違いない。
 外角にはっきりと外していこう。
 手を出して凡打してくれれば儲けもの。
 振ってくれなければフォアボールでも仕方ないだろう。
 仁も今回は、黙って従ってくれるはずだ。
 ――負ける……俺のせいで、俺のエラーで。俺が二塁でアウトになったせいで、負ける――
 玉川はおびえたような目でつぶやき続けていた。
 ――負ける……俺が打たなきゃ、今打たなきゃ負ける――
 せっかく勝っていたのに。
 俺がエラーをしたせいで負けている。
 もう逃げるわけにもいかなかった。
 仮に今ここで代打に代わってもらったりしたら、鳥羽は一生、自分を許さないだろう。
 ――打たなきゃ、俺がここで、打たなきゃ、打たなきゃ、打たなきゃ――
 「うおおおおん!」
 火の出るような打球が三塁線を襲った。
 「うおうりゃああ!」
 気合とともに横に飛ぶ八郎のグローブの左を、ボールは一陣の風のように通り過ぎて行く。
 だが、ボールはサードベースの上を通過した後わずかに切れて、レフト線のファールグラウンドでバウンドした。
 ――た、助かった……――
 大鉄は、この試合なんどもつぶやいた言葉を、また繰り返していた。
 肝を冷やす、というより呆れていた。
 完全なボール球だったのだ。
 それも遊び球ではなく、仁が全力投球した外角低めのボール球が、ほぼ完璧にジャストミートされたのだ。
 この男にはこんな球でさえ、凡打を期待できないのか。
 ――中途半端な敬遠じゃだめか――
 大鉄は立ち上がり、はっきりと敬遠の構えをとった。
 ところが。
 「がおおおおん!」
 外角のあきらかなボール球を、玉川は飛びつくようにほぼジャストミートしてしまったのである。
 「ば、ばかな」
 大鉄は思わず叫んでいた。
 打球は今度もレフト線へ。
 だが、今回は角度が違う。
 それは間違いなくスタンドに入る飛距離だったが、レフトのポールを数メートルほどそれてファールになってくれた。
 ――バットの届く範囲じゃだめってことか……――
 だが、これ以上外に外したら、三塁のランナーにホームスチールされる可能性がある。
 縦の変化、横の変化、高め、低め外角、内角。敬遠の球まで、全て打たれた。
 まるで詰め将棋のように一駒一駒逃げ場を塞がれたようで、その上その、一手一手が大鉈で木を削るように荒々しく重い。
 最早絶望だった。
 ――もう、投げる球が……いや――
 一つだけあった。
 大鉄はタイムをとって、マウンドのゆるい傾斜を駆け上がった。
 「どうしよう、これじゃあ敬遠もできないし、もう投げる球がないわ」
 仁も疲れと不安で、青ざめていた。
 「いや、一球だけ思い出したよ。ほらお前二回戦の時、何球か投げてただろ?」
 「ああ、あれ……あれ、変化球だったの?」
 「お前、もしかして、知らないで投げてたのか?」
 「だって、あの時は指先に怪我してたから、痛くない握り方を試して投げてみただけだったのよ。でも、大丈夫なのあんなボールで?」
 大鉄は大きくため息をついて、ちらと玉川をひとにらみした。
 「まあ、かなりのバクチだけど、どの道、手の届く範囲はなに投げたって打たれるってことだからな」
 「もう、他人事みたいな言い方して」
 「女は度胸、だろ?」
 「えっ?」
 大鉄はにやりと笑って戻って行った。
 ――もう、こんな時に、とぼけたこと言うんだから――
 大鉄の背中を見送りながら、麗華は思わず噴き出していた。
 でも、お陰で少しリラックスできた。
 ――なんで女扱いすると嬉しそうにするんだ?――
 大鉄は自分で自分のわざとらしさが恥ずかしくなり、マスクの下で顔をしかめていた。
 だがこれで少しは気楽に投げてくれるか。
 今から投げるボールは、あらゆる球種の中で最も度胸の要る球である。
 どんな手を使ってでも、例えやつに調子を合わせてでも、それが少しくらい自分にとって不本意であっても、とにかくリラックスしてもらわなくては。
 ――いや、俺は調子を合わせただけだったのか?――
 妙な気分だった。
 時々仁が本当の女に見えてくる。
 この大会の直前から、急にいいやつになった。
 それは確かだ。
 そして、いいやつになったと思ったら、今度は女みたいになりやがった。
 いや、「みたいに」などというものではない、もっとリアルに女そのものになったのだ。
 頭でもおかしくなったか。
 ――いや、もしかして、おかしくなったのは俺の方か――
 ふと気がつくと、こいつが本当に女だったら、と本気で考えていることがある。
 大鉄は慌てて首を振った。
 ――女だったら、どうするというんだ――
 というか、誰が見たって、どう考えたって女じゃない、男なんだぞあいつは。
 馬鹿馬鹿しすぎる妄想だ。
 ――それに今は試合中なんだぞ――
 大鉄は一度大きく深呼吸して、意識を玉川に向けた。
 玉川は相変わらず震えながら肩で息をしている。
 世の中には、とんでもないやつがいるもんだと、大鉄は横目でそれを見ながらつくづく呆れた。
 勝負は一球。
 これで終わりだ。
 終わらせなければ、この一球で打ち取らなければ、もしファールにでもされたら。
 間違いなく二球目は通用しないだろう。
 いや、その一球目だってこの化け物に通用するかどうか。
 大鉄はごくりと喉を鳴らした。
 口の中はからからに乾いている。
 ――勝負だ……――
 クイックモーション、主に玉川へのフェイントだ。
 投げた。
 速い球、ど真ん中だ。
 「うおおおおん……」
 怪物が、悲鳴のような咆哮を上げながら打ちにくる。
 大鉄から見てボールは完全にバットの陰に覆われた。
 ――だめか……?――
 大鉄の肌が粟立ったその瞬間。
 「うっ、うわっ」
 怪物が叫んだ。
 同時にミットにはボールの感触があった。
 「ストライクスリー」
 審判が叫んだ。
 「や、やった……」
 大鉄は思わず、ミットの中のボールを見た。
 丸くなめらかな白い球体に、ほんのわずかにバットに触れた痕が刻まれていた。
 ――危なかった――
 大鉄は背筋に寒気を感じ、思わずその場に崩れ落ちそうになった。
 「勝った……」
 その事実だけが体を支え、マウンドに向かわせた。
 そこにはすでに内野の仲間たちが集まって麗華を囲んでいた。
 「おい、最後の球、ありゃあなんだよ?」
 「チェンジアップだよ」
 目を丸くする八郎に、大鉄が答えた。
 「チェ、チェンジアップ?そんな球、仁の球種にあったか?」
 八郎は余計に目を丸くした。
 「二回戦の時に三球か四球投げてたよ」
 「よくこんな時にそんな球投げたな」
 「バクチだよバクチ、恐くてお前らには言えなかったよ」
 八郎は「うへえっ」と肩をすくめた。
 「聞いてなくてよかったぜ、知ってたら心配で守ってらんなかった」
 チェンジアップとは、いわば「遅いストレート」である。
 ちなみにこれは、スローボールとは違う。
 手のひらでボールを包むように親指と小指で挟んで、その他の三本の指はボールに引っかからないように立てて握り、ストレートの腕の振りで投げる。
 初速はストレート並みに速いが、ボールに回転がかかっていないため、途中から急激に失速して、バッターの手元で沈むのである。
 投手の能力によっては、フォークボール並みに落ちることもあるが、多くの場合、「落す」ことよりも、ボールに急ブレーキをかけることに目的を置いた、「タイミングの変化球」なのである。
 「玉川が打った変化球は全部、ストレート系の変化球だっただろ?だからあとは遅いボールでタイミングを狂わせるしかないと思ったんだよ」
 スライダーとフォークは、ともにストレートのタイミングで変化するボールである。
 打者のタイミングを狂わせるスローボール系の変化球の代表はカーブだが、仁はカーブが投げられない。
 だが麗華は二回戦で偶然、指の負傷をかばったことで、本人も無意識のうちに、このチェンジアップを投げていたのである。
 そうは言っても、これは大鉄も言っているように、きわめてリスクの大きな賭けだった。
 このチェンジアップというボールは、「タイミングの変化球」といえば聞こえはいいが、見方を変えれば、ただの「伸びのない遅いストレート」、つまり棒球とも言えるボールで、打者にとっては絶好のホームランボールと紙一重なのである。
 玉川の実戦経験の少なさと、超人的なスイングの速さと、そしてなにより彼の最大の武器である、アガリ性による極限まで張りつめた集中力が、返って仇になったのである。
 張りつめすぎた糸ほど切れやすいのだ。
 かくして諸刃の刃同士の対決は、かろうじて麗華に軍配が上がったのだった。
 「……おい、立てよデブ」
 鳥羽は玉川を見下ろしながら声をかけた。
 玉川は這いつくばっている。
 バッターボックスで、額をグラウンドにこすりつけたまま動こうとしなかった。
 大きな肩と背中がぶよぶよと震えている。
 「そんな格好、ほんもんのアザラシだってしねえぜ」
 「ごめんよシゲちゃん」
 喉からしぼり出すようにやっとそれだけ言うと、声を上げて号泣した。
 人目もはばからず、子供のように。
 鳥羽の言葉を借りるなら、本物のアザラシでも、そんな声で鳴かないだろうほど、獣じみた嗚咽の奇声を上げた。
 「なんのこたあねえ」
 鳥羽は口の端を歪めて笑った。
 「俺はホームランを打たれて、お前えは三振させられて、ごく当たり前の負け。完敗じゃねえか」
 ――もっと早く、こいつの才能に気がついてりゃあ……――
 それだけが悔やまれた。
 整列して一礼する間も、玉川は泣き続けた。
 「おい、どうせお前えはプロに行くんだろう?」
 別れ際に鳥羽が麗華に声をかけてきた。
 相変わらず歪んだ笑顔だが、目もとはどこかすがすがしかった。
 麗華はとりあえず「うん」と言っておいた。
 ――どうせジンはプロに行きたがってたんだし、まあいいか――
 「俺は大学に行くことに決めたぜ。こいつと大学に行って、もっと一回りも二回りもでかくなって、プロに行く。そん時はこてんぱんにしてやるから、せいぜい指洗って待ってろや」
 「うん、よろしくね、ボッコボコにしちゃっていいから」
 ――ジンなんて、こてんぱんにされちゃえばいいのよ、っつうか、指じゃなくて首でしょ、洗って待ってるのは――
 「ちょっと待ってよシゲちゃん」
 鳥羽に「こいつ」と言われた玉川が、突如泣き止んで泥だらけの顔で割り込んできた。
 額にはバッターボックスの白線の石灰まで、汗で貼り付いている。
 「俺、大学なんて無理だよ、頭悪いし、うちは貧乏だし」
 「授業料免除の野球特待生として誘われてんだ。お前えも一緒だったら行くって言ってやるよ」
 「だから俺に大学で野球なんて無理だよ」
 「だまれ、あんだけ打っといて甘ったれんじゃねえ。まあ、もっとも野手じゃ無理だろうから、お前えは俺さまのキャッチャーやらせてやる、俺さまと一緒にプロ目指せや」
 「そ、そんな、メチャクチャだ……」
 「明日から俺と特訓だ……今日から、と言いてえが、今日はやることがあるんでな」
 鳥羽は玉川にそう言うと麗華に向き直り、
 「月日はひゃくだいのくわかくにして、行きかふ年もまた旅人なり。ってな」
 と、また意味不明な言葉を残して背中を向け、足を引きずりながら去って行った。
 「それを言うなら月日は百代(はくたい)の過客(かかく)にして……だろ。大学行くならもっと勉強しろよ」
 牛若が鳥羽の背中を見送りながらつっ込んだ。
 「明日から特訓だってよ、最後の試合がたった今終わったばっかだってのに、まったく恐ろしい男だぜ」
 練習マニアの八郎は、なんどもうなづきながら盛んに感心して見せた。
 だが、鳥羽という男の恐ろしさは、そんなものではなかったのだ。
 彼が「今日やること」と言ったのは、「跳ぶ」ことだったのだ。
 鳥羽は馬鹿律儀に下級生たちとの約束を守り、監督以下、野球部員全員が止めるのも聞かず、疲れきった体と傷めた右足も無視して失点×千回、つまり四千回跳んだのである。
 敵に回しても味方につけても恐ろしい男、それが鳥羽という男なのだ。

決戦前夜

コーン!
 コーン……!
 向学大付属高校野球部第二練習場では、不気味な斧の音が響いていた。
 「うふ……うふふふ……」
 ――嬉しいぞ藤村くん、僕は猛烈に感動しているよ――
 足利が振っているのはバットではなく、斧だった。
 打っているのはボールではなく丸太である。
 一抱えほどもある太い丸太を、お寺の鐘突き棒のようにロープで吊り下げて、足利はそれを振り子のように揺らして打っているのだった。
 ――我が宿命のライバルよ――
 ついに明日、試合をすることに決まった。
 「うわあっ」
 足利は悲鳴をあげて弾け跳んだ。
 丸太の勢いが足利の斧だけでなく彼の体ごと跳ね飛ばしたのだ。
 「大丈夫か足利?」
 後ろで見ていた監督の勅使河原が慌てて駆け寄った。
 「試合はもう明日なんだから、それくらいにしておけ。今怪我でもしたらとり返しがつかないだろ」
 足利は汗びっしょりの顔で「だめです」と首を振った。
 彼の着ているアンダーシャツは、絞ればしたたり落ちそうなほど汗でぐしょぐしょになっている。
 「だめなんです、藤村くんはもう去年までの彼じゃない、すでに別人と思った方がいいですよ」
 「まあ、確かにインタビューとかじゃあ女言葉で話したりして、人が違ったみたいだったな」
 「そんなことじゃありませんよ監督、彼はこの一年間で飛躍的に成長しています、チェンジアップという新しいボールを引っさげて僕の前に現われたんですよ」
 ――だから、チェンジアップにこんな特訓意味ないんだって――
 勅使河原はそう思いながらも「そうか」とにっこり微笑んだ。
 ――チェンジアップってのは、駆け引きの変化球なんだよ、読み負けさえしなけりゃ、ただの棒球だろうが――
 「だめだだめだ。だめなんだこんなことじゃあ」
 足利は首を振って立ち上がると、再び丸太に挑みかかった。
 「うわあっ」
 そして再び跳ね返されるのだった。
 「くそっ、こんなことで藤村くんのチェンジアップが打てるか」
 勅使河原は舌打ちをしながら、黙ってそれを見ているしかなかった。
 ――そんなに恐けりゃ、最初からチェンジアップを待ってりゃストレートより楽に打てるってんだよ――
 勅使河原が名門、向学大付属高校の監督をするようになって、十年以上になる。
 その間、何度も甲子園に行き、プロの道へ進んだ教え子も、両手に余るほどだった。
 だが、そんな教え子たちの中でも、この足利の才能はひときわ群を抜いている。
 しかもその才能に全く驕ることなく、練習量も桁違いである。
 ――これでもう少し頭がよければな――
 勅使河原は足利の汗まみれの背中をながめながら、首を振った。

 「ごめんね、すっかり遅くなっちゃって」
 麗華は横を歩く大鉄に言った。
 バスに乗っていた時から、これで三度同じことを言っていた。
 大鉄の話題を、野球のこと以外の話に変えるきっかけをつかみたいのだが、今日の大鉄は珍しく饒舌で、自分たちの試合の後に見てきた向学大付属の試合のことばかり熱っぽく語っていた。
 大鉄の家は、仁の家から歩くと一時間ほどかかる。
 大鉄はよほど話し相手が欲しいのか、麗華と一緒にバスを降りて、「俺は家まで歩いて帰るから」と言って麗華についてきたのだった。
 麗華も今となっては少しでも長い時間を大鉄と一緒にいたかったので、断わらなかったのだ。
 マッサージも今日は黙って受けた。
 向学大の試合の後、学校にもどって簡単なミーティングが終わると、大鉄に勧められるまま、部室のベッドに横になった。
 しかし、いざ二人きりになると、話す話題も見つからず、あれこれ考えているうちに麗華は不覚にも眠ってしまったのである。
 あたりはすでに薄暗くなっていて、東の空にはいくつか星が見えはじめている。
 大鉄は眠っている麗華を起さずに、毛布をかけて待っていてくれたのだった。
 「やっぱ強いな、向学大は……」
 大鉄は首を振りながら、先ほどからなんども同じことを言っていた。
 試合は十三対二で向学大の圧勝だった。
 向学大は典型的な打撃のチームで、今大会ことごとく大量得点による大差で勝ちあがってきだのである。
 特に足利を中心とするクリーンナップの破壊力は脅威で、足利はこの試合でも二本のホームランを打っていた。
 ――せっかく恥ずかしいの我慢したのに、結局なんにも話せなかった――
 麗華はしゃべり続ける大鉄の横で独り臍を噛んだが、極限まで疲れきっている体はどうしようもなかった。
 麗華は歩きながら焦りを感じてきていた。後数分も歩けば仁の家に着いてしまうのだ。
 ――もう全部本当のこと言っちゃおうかな――
 「あのさ……」
 麗華が大鉄に向かって話しかけようとしたその時だった。
 白塗りのベンツが二人の横を通り過ぎて、道を塞ぐように停まった。
 型の古い、中古で安く売っているであろう大型のベンツに趣味の悪い装飾をほどこした改造車の窓ガラスは真っ黒で、中は全く見えない。
 狭い道のため二人は一度立ち止まるしかなかったが、後ろからも車の排気音が聞こえたので振り向くと、路地の入り口を大きなワンボックスが横付けに塞いでいた。
 こちらも窓ガラスは真っ黒である。
 ――なんだろう、嫌な感じ……――
 麗華がそう感じた瞬間、二台の車のドアが開き、それぞれの車から二人ずつ、四人の男が出てきたのだった。
 「ひゃっ」
 思わず麗華は、しゃっくりのように短い悲鳴をあげていた。
 全員、年齢はほとんど麗華たちと同じくらい若いが、どう見ても普通じゃなかった。
 タンクトップから大木の枝のように出ている筋肉隆々の腕や肩には刺青があり、髪は赤や金色に染め上げてある。
 だが、麗華が金縛りのように身を縮こませたのは、そのいでたちよりも、彼らのうちの二人が、手に護身用の警棒や木刀を持っていたためだった。
 その二人が、大股で麗華たちに近づいてきたのである。
 残りの二人は、見張りのためなのか、前後の車の裏へ回って行った。
 「なにか用か?」
 大鉄が勇敢に、麗華の前に立ち塞がって、二人の男に聞いた。
 「うるせえな、狭え道に二人並んで歩きやがって、お前えらのマナー違反にお仕置きしてやるんだよ」
 あきらかに根拠のない言いがかりだったが、男はそう言いながら、暗がりを透かして見るように麗華と大鉄の顔を見比べていた。
 「なにか気に障ったんだったら謝るよ、この通りだ、俺たちは明日、大事な試合があるんだ、許してくれ」
 大鉄は言いながら最敬礼で頭を下げた。
 麗華は震え上がって声も出ない。
 「うるせえ、今さら遅えんだよ」
 男たちは大鉄に凄んで見せながら、小声でなにか言い合っていた。
 「……暗くてどっちだか分かんねえぜ」
 「めんどくせえ、両方やっちまおうぜ」
 大鉄の耳にそれが聞こえてきた瞬間、
 「俺は藤村仁という沢谷香高校のピッチャーだ、明日の試合で投げなくちゃならないんだ、許してくれ」
 彼は即座に、そう言っていた。
 ――ちょ、ちょっと……――
 麗華が声を出そうとした時には、もう遅かった。
 「そうかい」
 大鉄の言葉を合図のように、金髪の男が大鉄に向けて木刀を振り回した。
 「ぐわっ」
 頭を目がけて横薙ぎに振られた木刀を、大鉄はとっさに左腕で受けていた。
 「きゃあああっ」
 麗華はその時になって、やっと悲鳴を上げることができた。
 「おい、後ろのそいつもうるせえ、黙らせろ」
 大鉄を叩いた金髪が、もう一人の赤毛に言った。
 「待て、こいつはだめだ」
 大鉄は、麗華に抱きついて男たちから守ろうとした。
 「ぐわっ」
 その背中を、男たちの持つ得物が容赦なく打ちつける。
 「いやあああっ」
 麗華は再び悲鳴を上げた。
 その時。
 「なんだてめえ、ここは立ち入り禁止じゃこらあ」
 ベンツの向こう側で見張りをしていた男の怒鳴る声が聞こえてきた。
 「……って、止めねえかこら、止めろ、痛てえ、痛ってえええ!」
 続いて、凄んでいたはずの男の悲鳴が聞こえてきて、二人組みの男たちも殴るのを止め、そちらを振り返った。
 「エンリケ」
 ベンツの陰からひょいと顔を覗かせた巨体を見て、麗華は思わず叫んでいた。
 「エ、エンリケ?」
 二人組みの男たちは、釣られるようにエンリケの名前を復唱すると、なぜか電気が走ったように、棒立ちになってしまうのだった。
 「愛の戦士、エンリケ参上」
 エンリケはベンツと塀との狭い隙間を、いかにも窮屈そうに体を捻じ込んで入ってきた。
 ベルトのバックルが遠慮なくベンツの窓のあたりをガリガリと擦っているが、エンリケは全く気にしていない様子で、後ろの手では見張りの男が髪の毛をつかまれて引きずられ、じたばたともがいている。
 「やっぱり仁の悲鳴だったか」
 そう言いながら見張りの男をポイと前に投げ捨てた。
 「止めろエンリケ、暴力は止めろ、出場停止に……」
 大鉄の言葉が終わらないうちに、金髪の男が「もしかして」とさえぎった。
 「も、もしかして、エンリケさんって、あの、暮佐野場二中にいらした、あのエンリケさんのことですか?」
 暗くて顔までは分からなかったが、男の声はあきらかに震えていた。
 「ワシが男塾塾長、エンリケ誠である」
 エンリケは、返事になっているんだかいないんだか意味の解からない口上を、歌舞伎役者のように芝居がかった調子で言った。
 その瞬間、大鉄は目を見張った。
 二人組みの男たちが、雷で打たれたように弾け飛び、警棒と木刀を投げ捨て、地面にひれ伏したのである。
 「も、もしかして……その方たちはお連れさんでしたか?」
 「マブダチだよ」
 エンリケが天井面で言うと、男たちは笛のように喉を鳴らして息を吸い込んだ。
 「すいません、すいません、すいませんでした」
 男たちは「スイマセン」と鳴く鳥のように、何度も何度も甲高い声を発して頭を下げた。
 「俺ら金で頼まれただけなんス」
 「だめだよ、もう頭にきた、許さないよ」
 エンリケは哀れむような口調で、男たちを見下ろす。
 男たちは「ひいっ」と悲鳴を上げて、地面に額をこすりつけた。
 いつの間にか、ワンボックスの裏にいた男も、その中に加わっている。
 「エンリケ、馬鹿なまねは止めろ、出場停止になっちまうぞ」
 大鉄が、やっとの思いで体を支えながら、再びそう言った。
 「俺が手を出さなきゃいいんだろ?」
 エンリケは、ちらと大鉄を見てそう言うと「お前ら……」と男たちに向かって一歩踏み出した。
 静かに、たった一歩前に出ただけだったが、男たちは「うわあっ」と土下座をしたままカエルのように飛び退き、同じ姿勢で着地した。
 「その木刀と警棒で、お前ら同士で殴り合え、俺がいいって言うまで」
 エンリケの抑えた口調には、底知れぬほどの憎しみの険がこもっていた。
 「止めろ、もういいんだよ」
 大鉄が珍しく、怒りの感情をあらわにして、エンリケを怒鳴りつけた。
 「お前が手を出さなくても、この場に居合わせてるだけでも問題になっちまうんだよ、あんたたちも、もういいから早くどっかへ行ってくれ、やられた俺がいいって言ってるんだ」
 男たちは恐る恐るエンリケと大鉄の顔を見比べている。
 特にエンリケの顔色を食い入るように窺っていた。
 「……だ、そうだ」
 エンリケはため息をつきながら、男たちに声をかけた。
 「それならさっさと消えろ、俺が五つ数え終わるまでにいなくなれ」
 男たちは恐るべき素早さで、「すいませんでした」と、なんどもくり返しながら車に乗り込み走り去って行った。
 男たちが姿を消すと、大鉄は力つきたように「うーっ」と唸って、背中を押さえながらうずくまってしまった。

 「へええ、花川口の家って、整形外科のクリニックだったんだあ?」
 牛若は待合室を見回して感心していた。
 「そうだ、悪いか?」
 「いや、悪くはないけどさ」
 「僕は卒業したら医大に進んで、ここを継がないといけないのさ、だから甲子園には行くけどプロへは行かない」
 「そ、それは正しい選択だね」
 「だろ?僕はプロ野球選手より医者にむいているのさ」
 「そ、それはどうか分からんけど」
 ――それを言うなら医者よりもプロ野球選手には向いてないって言った方がいいんじゃねえか――
 花川口の人柄はともかく、沢高野球部にとっては、とにかく表沙汰になることなく大鉄の治療ができるのは僥倖(ぎょうこう)だった。
 待合室は沢高のおもだった部員たちで、ごった返している。
 エンリケが大鉄を背負ってここへ転がり込んだことを知った花川口が、連絡したのだった。
 麗華はベンチのすみに腰掛けて壁にもたれ、放心している。
 遠藤がその隣で、一言二言なにか話しかけていた。
 「それにしても、エンリケお前、大活躍だったんだってな?」
 牛若は珍しく、ちょっと尊敬の色を目に浮かべてエンリケに振り返った。
 エンリケはよほど決まりが悪いのか「がっはっは」と大げさに照れ笑いをして見せた。
 「ただのゴリラじゃなかったんだなあ」
 牛若は皮肉も忘れなかった。
 「でもお前、なんで仁の家の近くにいたんだよ?」
 今度は八郎が、エンリケの後ろで首を捻った。
 「いやいや、それがだね、中学時代のアミーゴたちから連絡があってね、この何日か、仁の回りで変な動きがあるって、それで仁の家に行ってみたら、まだ帰ってないって言われたんで、バス停と家の間をうろうろしてたんですわ」
 「お前、顔が広いんだね、襲ってきたヤンキーもお前のこと知ってたんだって?」
 「中学のころ悪いやつを懲らしめてたら、暮佐野場市内じゃ有名人になっちゃってね、そのうち相撲部屋からスカウトがきたりして、よけいにみんなから恐がられちゃってさ、いやいや、有名人は辛いね」
 ――前からとんでもないやつだと思ってたけど、そんなに恐いやつだったのか……これからは、こいつとの付き合い方を考えなおそう――
 牛若は顔には出さなかったが、独り心の中で合点合点するのだった。
 八郎は「思い出した」と目を開いた。
 「そうだ、相撲部屋から誘われた話は、一年の時聞いたことがあったぞ、なんで行かなかったんだよ?そっちの方が金稼げるじゃん野球なんかやるより」
 「……」
 牛若も「ああ……」とそれに次いだ。
 「聞いた聞いた、その話、野球より相撲やってりゃよかったじゃん、お前、相撲なら日本一になってたぞ、全然そっちの方がよかったじゃん、野球なんかより」
 二人の話を聞いているエンリケの、眉間に刻まれたしわが見る見る深くなっていく。
 「や、野球じゃだめなのかよ?」
 八郎と牛若は顔を見合わせて「だって、なあ?」とうなずきあった。
 「そもそもお前はチームスポーツに向いてねえよ、自分勝手で」
 「そうそう、それに不器用なんだし球技なんて止めときゃよかったんだよ」
 「あと、あれだな。集中力が長い時間持続しないんだから。全然だめだよ、相撲だったら個人技だし、十秒くらいで終わるし、とにかく相撲だったら……」
 「うるさいな」
 エンリケはついにキレた。
 「相撲じゃ、チアガールが見れないだろ」
 つい本音を言ってしまった。
 「お前……」
 ――なんちゅう不純な動機なんだ――
 牛若と八郎が呆れて、あんぐりと口を開けた時、診察室の扉が開いて、花川口の父親が出てきた。
 「骨は大丈夫だったよ、骨はね……」
 父親は頭を掻きながら、言葉を探しているようだった。
 「分厚い筋肉のおかげで、骨には傷ひとつついてなかったよ」
 「じゃあ、明日の試合は出れるんですよね?」
 八郎がすがるように聞いた。
 だが父親が残念そうに、
 「結論から言うならノーだね」
 と答えると、チームメイトたちは「ええっ」とはじめて顔色を変えた。
 「だってエンリケの話じゃ、途中まで歩いてこれたって……」
 「さすが、よく鍛えてあるね、普通の人じゃあ考えられない」
 「そ、そんなにひどいんですか?」
 麗華と遠藤が真っ青になって詰め寄った。
 「特に背中はね、起立筋の打撲による部分断裂……皮膚の上からでも分かるくらいひどいのが二箇所、若干だが血尿もあるから腎臓にも炎症があるんだろう、一週間は絶対安静だよ」
 父親の説明が終わるのを待ちきれず、全員が雪崩のように、診察室に駆け込んだ。
 「あんまり話しかけるなよ、麻酔で痛みを止めてあるけど、筋肉は切れてるから」
 花川口の父親がため息をつきながら言った。
 診察室のベッドで大鉄はうつ伏せに寝ていた。
 「お前ら、もっと静にしろよ、待合室の声がこっちまで聞こえてきたぞ」
 「なんだよ元気そうじゃん」
 大鉄の怪我人とは思えない笑顔に、部員たちは再び安心して軽口を叩きはじめたが、大鉄の体は左の腕から背中、腰にかけて体の半分ほどに包帯が巻かれていて、その姿が麗華にはひどく痛々しく見えるのだった。
 「大鉄」
 麗華は堪らず大鉄にしがみつくように泣き崩れていた。
 「本当だったらあたしがやられるはずだったのに」
 あのヤンキーどもは、大鉄がとっさに気転をきかせて「藤村仁」だと名乗ったのを聞いて、襲いかかったのだ。
 ――あたしの身代わりに、こんなことになっちゃうなんて――
 「気にすんなよ」
 大鉄は笑いながら言葉をかけてきたが、その笑顔はどこか虚ろで苦渋を覗かせていた。
 「そういえばあいつらに聞くの忘れちまったな」
 エンリケが頭を掻きながら、上から覗き込んだ。
 「あいつら、金で雇われた、って言ってたけど、雇ったやつの心当たりあるかい?」
 ――こんなことするのは、あいつくらいよ――
 麗華は怒りに頬を震わせた。
 心当たりはありすぎるほどあった。
 そもそもあのバカ女は仁のことが好きだったはずだ。
 それが自分の意に沿わないとなったら、金で人を雇って襲わせるとは、仁をさらった悪魔より卑劣だ。
 ――ちっくしょう、ミルクめ――
 「もういいよ」
 だが、大鉄は即座に話題を打ち切ってしまった。
 「最初からあいつらに目的なんてなかったんだよ、相手構わず手当たり次第に暴れたかったんだろ、たまたまそこに出くわしたのが俺だっただけのことさ、エンリケお前、よけいなことすんなよ、頼むから」
 大鉄は横になったまま、正面を見据えてそう念を押した。
 例え一方的な被害者であっても、警察沙汰になれば、明日の試合にもなんらかの影響を及ぼすことは目に見えている。
 そんなことより大鉄の頭の中は、試合のことでいっぱいなのである。
 「当面の問題は、明日の試合……だな」
 八郎が自分の首の後ろを揉みながら、大鉄の気持ちを汲み取るようにつぶやいた。
 「大丈夫、俺は結構平気だぜ」
 大鉄は笑いながら、自分で自分を励ますように言った。
 「あんまり長居しちゃ悪いし、あたしたちはそろそろ帰りましょうか?」
 遠藤が皆の顔色を窺うように切り出した。
 「そ、そうだな」
 全員がお互いの顔を見合わせてそう言い合う中、
 「ひ、仁は残っててあげなよ、バッテリーなんだから」
 遠藤は笑いながら麗華だけを引き留めた。
 「え?仁が残るんなら、俺ももう少し……」
 名残惜しそうに振り返ろうとする八郎のシャツの背中を、遠藤は強く引っぱった。
 「馬鹿ね、少しは気を利かせてあげなさいよ」
 「な、なにを、気を利かせるんだよ?」
 八郎は不思議そうな顔で遠藤を見て首をかしげた。
 「いいから、二人っきりにさせてあげるの」
 「だからなんで、男同士で二人っきりにさせるんだよ?」
 「いいから、黙って言う通りにしなさいよ」
 「お前、女言葉で気持ちの悪いこと言うなよ」
 「うるさい、どこが気持ち悪いって?」
 しきりに首を捻る八郎だったが、結局遠藤の迫力に押し出されて、渋々と診察室から出て行った。
 ――ありがとう、メアリー、本当にありがとう――
 麗華は心の中で何度も遠藤に頭を下げたが、遠慮して辞退する余裕はもう、残されていなかった。
 「ごめんね大鉄」
 二人きりになると麗華は少しだけ落ち着きを取り戻し、改めて大鉄に謝った。
 「だから大丈夫だって、明日の試合だって出られそうだよ、勝って甲子園行こうぜ」
 この男にとって、「甲子園」という言葉には魔法の力でもあるのか、みるみる顔が生気を取り戻してくるように麗華には見えた。
 「そんなことより、俺の方こそ、今までいろいろとごめんな、お前にいろんな我慢させちまって」
 麗華は強く首を振った。
 「いいのよ、あたしの方こそ、おかげでいろんな本当のことが分かったわ、この藤村仁って男がどんな人間かよく分かった」
 ――そ、それで女になった、って?――
 大鉄の笑顔が一瞬でこわばった。
 女遊びを禁止された欲求不満から、自分が女になって、男相手に切り替えた……。
 麗華の言葉にはそんな誤解を相手に与える要素が含まれていたが、大鉄は「そうか」と笑って、さりげなく話を元に戻した。
 「今さら言うまでもないけど、夏の大会が終わったら、もうお前の好きにしていいよ、遠慮なく彼女つくって付き合いなよ」
 だが、麗華は再び首を振った。
 「いいのよ、あたしには大鉄がいれば……」
 ――だ、だからそういう趣味はないんだって、俺は――
 大鉄は首を捻ろうとして、「痛てて」と顔をしかめた。
 しかし麗華は大鉄の困惑にひるんでなどいられなかった。
 ややためらいはしたが、強く決心して大きく息を吸い込んでから言った。
 「これからあたしが言うことは、深い意味とかは考えなくていいから、話だけは覚えておいて」
 麗華が「いい?」と念を押すと、熱意だけは伝わったようで、大鉄も真剣な顔で「うん」とうなずいた。
 「あたしはもうすぐ、前の藤村仁に戻るの、あんたもよく知ってる、あの生意気で変人で変態でうじ虫みたいな仁に戻るのよ、でも、その前にあんたに言っておきたいことがあるの」
 「う、うん」
 大鉄はうなずきながら、ちょっとホッとしていた。
 ――よかった、男に戻ってくれるのか……って、それも考えものだけど――
 「今、あんたのことが大好きな女の子が一人いるんだけど、その子はたぶんこれから一生あんたに会えないの、でも、もし、もしも奇跡が起こってあんたに、その子が会えたら……あんたの目の前にその子が現われたら……」
 どう考えたってこの言葉の真意が大鉄に伝わるはずなどなかった。
 「その時には、その子に優しくしてあげてね」
 だが、全てをありのままに話して、大鉄が解かってくれるとも思えない。
 麗華は話しながら、もどかしさに涙を抑えられなくなってきた。
 「お願いだから、野球のじゃまだなんて、邪険にしないであげてね……」
 そこまで言ったところで、麗華はたかぶる感情とこみ上げてくる嗚咽が抑えきれなくなり、後は言葉にならなくなってしまった。
 しかし、この泣きながら言った最後の一言だけは、大鉄にもはっきりと理解できたのだった。
 「……わかった、約束するよ」
 大鉄は不思議そうな顔をしながらも、力強くうなずいて見せるのだった。

 話は一時間ほどさかのぼる。
 麗華と大鉄が襲われた襲撃事件の場所からそれほど離れていないホームセンターの駐車場に、例のベンツとワンボックスが並んで停まっていた。
 「だらしないわね」
 ワンボックスの後部座席で、胡桃美琉久は不機嫌にたばこを吹かしながら、男たちに毒づいた。
 先ほどの襲撃の一部始終を、その座席からスモークガラスの窓越しに見ていたのである。
 まるで物見遊山、高みの見物だった。
 麗華がすくみあがり、大鉄が警棒や木刀で打ちのめされる様子を、にやにやと薄笑いを浮かべてながめていたのだが、途中からとんだ邪魔が入った。
 「顔、覚えられちまったかな?」
 「いや、暗かったから大丈夫だろ?」
 「とにかく髪の毛の色は落として、しばらくこの街から出ようぜ」
 四人の男たちは美琉久のことなど完全に無視して、自分たちの今後の保身の対策に余念がなかった。
 男たちの情けないくらいの狼狽ぶりに、美琉久のいらいらは頂点にたっしていた。
 「ちょっとあんたたち、あたしの話を聞きなさいよ、四人もそろって、なんでそんなにビビッてるのよ、あんな馬鹿、ただのスケベなガイジンじゃないの」
 「冗談じゃねえ」
 金髪の男がうるさそうに助手席から振り返った。
 「俺はあいつ……あの人と同じ中学だったんだ。学年は俺らより一コ下だったけど、あいつ、あの人はとんでもねえバケモンだよ、あんなにおっかねえ人はいねえよ」
 「このあたりのゴロツキでエンリケさんの名前を知らねえやつはいねえぜ」
 赤い髪の男も真っ青になって、首を振った。
 「とにかく強ええなんてもんじゃねえんだよ、中学の時にはもう、相撲部屋とヤクザの事務所から誘われてた、って噂だぜ」
 「K1の道場からもだよ、その道場から、とりあえず遊びがてら見学にこいって誘われて、ふざけ半分でスパーリングやって、あの人に叩きのめされた相手の選手がこないだテレビの試合でKO勝ちしてたらしいぜ……遊び半分だったにしても、素人の中学生がトップファイターをボコボコにしたんだってよ」
 「ふざけないでよ」
 麗華は灰皿でたばこをもみ消しながら怒鳴った。
 「あたしがいったいいくらあんたたちに払ったと思ってんのよ、こんなことなら返してもらうからね、お金」
 「やかましいぜ」
 だが男たちの剣幕は、美琉久よりさらに激しかった。
 「言われたことはちゃんとやったぜ、ちゃんと相手のやつに怪我させたじゃねえか」
 「馬鹿言うんじゃないよ、あれは藤村仁じゃないわ、相手間違えやがって脳無しどもが」
 「うるせえこのアマ、こんなやべえ話に俺らを巻き込みやがって、裸にひんむいてここの看板から吊っちまうぞこら」
 「ちょ、ちょっと、なによあんたたち、汚い手で触るんじゃないわよ」
 「けっ、どうせしばらくこの街にゃいられねえんだ、やっちまおうぜ」
 「ちょっと、いや、やめて、きゃあああっ……って、このうじ虫どもがあああ!」
 「うわっ、やべえ、こいつスタンガン持ってやがるぜ」
 芸は身を助けるというが、性格の悪さも美琉久ほどになると、立派な特技といえるのかも知れない。
 彼女はこの一芸が幸いして、虎口を逃れ、裸にされることなく車から蹴り落とされ、その場に置き去りにされただけで助かったのであった。

グッバイゲーム

――暑いわ……――
 キャッチャーの遠藤が、陽炎のかなたのように遠く見える。
 満員のスタンドのどよめきや、ブラスバンドの同じフレーズのくり返しが、催眠術のように麗華の眠気を誘ってくる。
 麗華はゆうべ、ほとんど一睡もできなかった。
 あれから一時間ほど後、大鉄の両親が迎えにきて、麗華もその車で仁の家まで送ってもらったが、麗華は床に就いてからもあれこれ考えてしまい、眠れなかったのである。
 変な連中に襲われたことは、大鉄から堅く口止めされ、大鉄の両親には練習で怪我をしたということで口裏を合わせておいた。
 結局大鉄はこの試合にも出ることになったが、キャッチャーはさすがにできず、遠藤とライトのポジションを入れ代わっていた。
 大鉄は、試合の前に再び花川口クリニックで痛み止めの注射を打ってもらい、この試合に臨んでいたのである。
 そうまでしてでも大鉄を外すことはできなかった。
 攻守の要である彼が、グラウンドにいるのといないのとでは、他のメンバーに精神的に与える安心感がまるで違ってしまうのだ。
 今のところ薬が効いて、痛みはかなり治まっているようだが、今日の試合に大鉄のバッティングを期待することはできないだろう。
 打順も遠藤と入れ代わって六番にさがっていた。
 遠藤は三番に入り、三番を打っていた八郎が四番に入っていた。
 ――それにしても、よく打つわねこのチーム――
 麗華はすでに足利から、二本のホームランを打たれていた。
 向学大先攻の一回表にスリーランを、三回表にソロを打たれ四点を取られていた。
 だが、試合は沢高が一点リードしていた。
 大鉄の穴を埋めて余るほど、エンリケが原因不明の大爆発をしているのである。
 この気まぐれな火山は一回裏に足利と同じくスリーランホームランを打ち、三回に二点タイムリーとなるツーベースを打ち沢高は合わせて五得点をあげていたのだ。
 他のメンバーも準決勝の貧打の鬱憤を晴らすようによく打っていたが、やはり大鉄がブレーキだった。
 一方麗華も毎回ヒットを打たれながらも、足利以外は要所を抑え四回までなんとか四失点で切り抜けてきたのだが、五回表一番と三番にヒットを打たれ、ワンアウト一・三塁で三度目の足利を迎えていた。
 「どうしよう……」
 遠藤が陽炎のかなたからやってきて、困り抜いた顔で麗華に聞いてきた。
 「仕方ないわ、敬遠しましょう、満塁になっちゃうけど……」
 麗華は暑さと疲れにぼやけた頭で、即座に判断した。
 玉川もそうだったが、足利のバッティングセンスも、ちょっと異常だった。
 その上去年立て続けに凡退させられた屈辱からか、今日の足利はさらに目の色が違う。
 また、麗華の疲れ方もひどかった。
 昨日の大鉄のマッサージが効いている感覚は確かにあるのだが、そんなことくらいではこの真夏の連投の疲れが完全になくなるはずなどないのだ。
 キャッチャーの遠藤が立ち上がると、足利はものすごい目でこちらをにらみつけてきた。
 その目には、ありありと軽蔑の色が浮かんでいる。
 向学大のベンチと応援席からは、矢で射るような非難の怒声が降ってきた。
 ――く、くやしいけど、なんとしてもこの一点を守りきらなくちゃ――
 麗華にはある予感があった。
 この試合中にフィリップが、仁の魂を連れてくるような気がしてならないのだ。
 フィリップは昨日もこなかった。
 理屈から言えばもう、いつきてもおかしくないことになるだろうが、麗華はこの試合がはじまってから、妙な胸騒ぎを感じていた。
 魂がなにかを報せている感じだった。
 試合中に仁と交代するからには、石にかじりついてでも勝っている状態で、仁に渡したかった。
 仁への義理ではなく、仁では当てにならないと麗華は思っているのである。
 少しでも沢高に有利な状態で、仁と交代したかった。
 「よし」
 麗華は思わず声に出していた。
 五番をスライダーでサードゴロを打たせ、ホームゲッツーにしとめたのである。
 「きのうの鳥羽と比べりゃ打ちごろな球だぜ」
 ベンチで牛若がうそぶいた。
 確かに牛若もこの試合ではよく打っていた。
 今朝の朝刊では、総合力で向学大がやや有利、と書かれており、しかも攻守の主軸である大鉄が負傷していたが、いざはじまってみると沢高はよくやっていた。
 なんとしてでも、このまま逃げ切りたかった。
 五回裏、この回も遠藤と八郎がヒットを打ち、チャンスでエンリケに回ったが、エンリケは敬遠されてしまった。
 六番の大鉄が普通の状態ではないことが、向こうにもばれてしまったようだった。
 そしてこの回も、大鉄がブレーキになってしまうのだった。
 「みんな、ごめん」
 大鉄は心の底からすまなそうな顔をしたが、誰も彼を責める者はいなかった。
 顔色が青ざめている。
 口には出さないが、徐々に薬の効果がきれてきているようだった。
 「大丈夫、一点あれば充分よ」
 麗華は胸を絞めつけられるような思いで、精一杯の笑顔で声をかけた。
 大鉄のそんな顔を見るのは堪らなかった。
 六回は両チームとも三者凡退に終わった。
 だが、七回表、再びピンチが訪れた。
 ツーアウトから二番と三番に連打され、足利の四度目の打席を迎えてしまったのである。
 麗華がうなずくと、遠藤は黙って立ち上がった。
 足利の前にランナーが出たら歩かせよう、とあらかじめ決めておいたのだった。
 だが第一球目、スタンドが大きくどよめいた。
 足利は自分の頭ほどの高さにきたボール球を空振りして見せたのだった。
 それもボールを打ちにいったのではなく、ど真ん中の球を打つように、思い切り強振したのだった。
 そして、痛烈な抗議と非難の眼差しを麗華に向けた。
 「藤村くん、僕は猛烈に残念でならない」
 向学大のスタンドは、「勝負しろ」コール一色である。
 足利はその呪文のような大合唱を背に、彼らの代表者のように熱弁を振るった。
 「僕は悲しいぞ、この一年間僕がどんな思いで過ごしてきたか、君なら解かるはずだ。我が終生のライバルよ、頼むから僕をがっかりさせないでくれたまえ」
 「乗せられちゃだめよ」
 タイムをとって駆け寄ってきた遠藤が、麗華を諌めた。
 その時だった。
 麗華が遠藤に「うん」と言おうとしたまさにその時だった。
 ついにきてしまったのである。
 フィリップが。
 遠藤の後ろに立っている。
 麗華は息を呑んで、その、麗華以外の人間には決して見えない顔を見つめてフィリップの言葉を待った。
 今日のフィリップの顔は傷ひとつなかった。
 ――どうやら、うまくいったみたいね……でも……――
 こんな時に。
 最悪のタイミングだった。
 だが、フィリップはにっこりと笑った。
 「いや、よかったよかった。気になったんで先に私だけ様子を見にきたんだが、かなりとりこんでいるようだね。こちらは全て上手く運んだよ。後数分で本隊が到着する予定だから、それまでに一段落させておいてくれたまえ。いくらなんでもこんな大観衆の目の前で交代させるわけにもいかないからね」
 ――今すぐじゃないだけまだいいんだろうけど、後数分でこのピンチを終わらせろだなんていい気なもんね――
 後数分。
 敬遠などしていたら間に合わない可能性が高い。
 また、最悪の場合、満塁で仁に交代することになってしまうのだ。
 仁の虫けら並みの精神力など、麗華はまるで当てにできなかったが、麗華はフィリップに無言で大きくうなずいて見せた。
 麗華の心が一気に弾けたのだった。
 フィリップが右手を挙げながら笑顔で姿を消すと、麗華は一度ライトの大鉄に振り向いた。
 大鉄は何度もうなずいていた。
 正確な事情など知るはずもなかったが、彼なりに「勝負しろ」と言っているようだった。
 ――さよなら、大鉄――
 麗華は心の中で別れを告げると、今度はスタンドに座っている仁の両親に向き直り、別れのあいさつをした。
 ――さよなら、仁のお父さん、お母さん。いつまでもお元気で――
 そして、守備に就いているチームメイト一人一人を見回し、短くお別れの挨拶をし、最後に全員に言葉をかけた。
 「みんな、今まで本当にありがとう、今から最後の勝負をするから、しっかり守ってね」
 「こっちこそありがとうよ」
 真っ先に答えたのは八郎だった。
 「お前のおかげでここまでこれたんだ、好きに勝負しろよ」
 「そうそう、俺たちゃ一蓮托生ってやつだよ、いつでもお前と心中してやるよ」
 牛若がそれに続いた。
 麗華の言葉の真意は解からないまでも、皆元気いっぱいの笑顔を返してきた。
 「な、なにかあった、みたいね?」
 遠藤だけが事情を察して、悲しげな顔になりあたりを見回した。
 「さっき、あなたの後ろに例の天使のおじさんが立ってたの、もうすぐ仁を連れてくるって」
 「ええっ?」
 と驚いて後ろを振り向く遠藤に麗華は「もういないわよ」と笑った。
 「メアリーには一番お世話になったわね、本当に感謝してるわ、ありがとう、あたしはもうすぐ仁と代わっちゃうけど、がんばって甲子園に行ってね」
 「いいのよ、そんなこと。でも、本当にいいお友だちになれたのに、こんな急に……」
 遠藤が両目から涙をこぼすのを麗華は「だめよ」とたしなめた。
 「今から投げる球は、目に涙をためていちゃ捕れないわよ、ほら、涙を拭いて、しっかり捕ってね」
 「今から投げる球?」
 「一つだけ試してみたいボールがあるの」
 麗華は遠藤と打ち合わせを終わると、今度は足利に向かって言った。
 「足利さん、ボールを振ってくれたお詫びに予告します、今からあたしは二球ストライクを投げます、プロへ行った後もこの男、藤村仁のことをよろしくね」
 堂々の宣言を受けた足利の表情が、みるみる嬉しげに引きしまった。
 まるで決闘をする前の武士が刀を腰に収めるように、足利はバットを左手で下げ、深々と一礼した。
 「心得た、こちらこそよろしくお願い申し上げる」
 顔を上げた足利の目はまさに武士のそれだった。
 今にも火を噴いて麗華を焼きつくしそうな眼光である。
 両者の間の空気が歪む。
 ――みんな、今まで本当にありがとう、絶対に勝って甲子園に行ってね――
 麗華の五感がここへきて極度に研ぎ澄まされていく。
 目を閉じるとランナーの足音や足利の息づかいが、手に取るように分かった。
 ――一塁ランナーはまだ走らない、半信半疑でようすを見ているわ――
 麗華は自分の指先だけに意識を集中し、投げた。
 「ば、ばかやろう」
 思わず叫んだのは八郎だった。
 麗華の投げたボールが、ただの山なりのスローボールにしか見えなかったのだ。
 だが、打者の足利は手が出なかった。
 思わず呆然と、その小学生以下の遅い球を見送っていた。
 足利の手が出なかっただけではない。
 キャッチャーの遠藤が捕れなかった。
 あらかじめ球種を知っているはずの遠藤が捕球できず、ミットからボールをこぼしていた。
 あわててボールを拾って、ランナーを見回す。
 だが、一・三塁のランナーも呆然と立ちつくして、動いてはいなかった。
 ――なんだ、今の球は?――
 遠藤が捕球できなかったことで、八郎も事の異常さをはじめて知った。
 球場全体が静まり返った。
 まるで全員が妖術にでもかけられたように、口を開け声も出ない感じだった。
 足利はおびえたような顔で麗華を見ていた。
 ――こ、これは……この球は……――
 真夏の炎天下だというのに、足利は全身に冷たい汗が流れていた。
 「ナックル。じゃねえか?」
 麗華の後ろから見ていた牛若が言った。
 「ナックル?」
 八郎も釣られて復唱していた。
 「こっから見ててもボールが揺れてたぜ」
 ――ナックル――
 ――ナックル……――
 向学大のベンチやスタンドから、ささやく声が聞こえてくる。
 ナックルとは、現代の魔球と呼ばれる変化球である。
 握り方は親指と小指でボールをはさみ、残りの三本の指をボールに立てて、その指で弾くように投げる。
 ほとんど回転を与えられず投げられたボールは、風の抵抗によりまるで氷の上を滑るように、左右に不規則に揺れながら落ちる。
 だがこれは、世界中にも数人ていどしか投げられる投手がいないことでも解かるように、極めて難しい変化球なのである。
 麗華の常人離れした指先の器用さが、まさに奇跡を起したのだ。
 ――これが、最後よ……あたしの、最後の一球――
 麗華が足を上げると、一塁のランナーがスタートを切った。
 ――走るのは分かってた、でも無駄よ――
 そんなことで麗華の平常心を崩すことはできなかった。
 ナックルを投げるには、指先の器用さの他にもう一つ、どんなことがあっても揺るがない平常心が必要だったが、今の麗華の心は月を映す湖のように澄みきっているのだった。
 麗華の指に弾き出されたボールが、人を喰ったような山なりの弧を描く。
 スピードガンでも計測不能なほどの超スローボールが、風にもてあそばれる羽毛のように大きく、不規則に左右に揺れた。
 捕手が捕球できないほどの魔球である。
 「く、くっそうっ」
 足利が日頃他人には見せたことがないくらいの取り乱しようで、声を裏返し、まるで真剣で斬りつけるようにバットを一閃させた。
 だが、すでに羽毛と化した麗華のボールが斬れることはなかった。
 「くっ……」
 遠藤はやはり捕球できなかった。
 ボールを自分の前に落すのが精一杯だった。
 ――振りに逃げがあるわ――
 慌ててボールを拾い上げたが、足利は一塁には走っておらず、その場に放心して立ちつくしていた。
 「バッターアウト」
 遠藤がボールを足利にタッチすると、主審は高らかにそう宣告し、一呼吸おいてスタンドが熱狂的に湧き上がった。
 「サンバー」
 麗華も思わず叫んでいた。
 「なんという……」
 足利は天を仰いだ。
 「なんという、猛烈な感動だ……こんな僕などとの対決のために、君はこんな途方もない魔球を身につけていたのか、君は本当に我が終生のライバルだよ藤村くん」
 足利はそう言ってマウンドを指差したが、そこにはすでに麗華の姿はなかった。
 「ナックル……高校生が、ナックル……プロでもほとんど投げねえのに、高校生がナックル?」
 ベンチで八郎が目を丸くした。
 「いつ練習してたんだよ、そんな高等な変化球?」
 牛若も目を輝かせて聞いてきた。
 「こないだ入門書で読んだの憶えてただけよ」
 麗華が忙しげに答えると八郎が「入門書?」と、よけいに目を丸くした。
 「高校生にもなって、入門書?最後の大会だってのに、入門書?」
 ――いちいちうるさいわね――
 麗華はそれどころではなかった。
 早く人気のない所へ行かなければ。
 だが、八郎の興奮は治まらなかった。
 「そうか、そういうことか、つまりどんな時にも初心を忘れるな、ってことだよな。よし、俺も初心に帰るぞ、明日から、いや、今この瞬間からニュー八郎の誕生だ、俺は初心に戻るぞ、オウッ!」
 「あのな……」
 牛若がうんざりした顔で首を振る。
 「高校三年生の、最後の大会の決勝戦で言うせりふじゃねえだろ。今さら初心に戻ってどうすんだよ」
 ――この二人の掛け合いを聞くのもこれが最後ね――
 麗華は苦笑いしながら、つい足を止めてつかの間それをながめていた。
 離れたくなかった。
 本当に素晴らしい仲間たちだった。
 特に。
 ――大鉄……――
 大鉄は本格的に痛みがぶり返してきたのか、ベンチのすみで一人うずくまるように座っている。
 その姿に麗華は胸が痛んだ。
 一言くらい声をかけたかったが、少しでも言葉を交わしたら、麗華はこの場を離れられなくなることが分かっていた。
 ――さよなら、大鉄、さよならみんな。あたしの、とっても長くて短かったロングリリーフはここまで――
 麗華は静かにその場を抜け出して、トイレへと向かった。

 トイレのドアを開けると、フィリップたちはすでにそこに立っていた。
 ――ジン……――
 麗華は思わず奥歯を鳴らした。
 フィリップの後ろに仁が立っているのだ。
 トイレにはその他に二人、霊界の護衛の兵士なのか黒いスーツにサングラスをかけた屈強な感じの男が、窓際と入り口の所に立っていた。
 「すまなかったね、ずいぶん長いこと待たせてしまって」
 フィリップは相変わらず鷹揚な物言いだったが、言葉には誠意がこもっていた。
 ――こ、こいつ――
 麗華は仁をにらみつけていた。
 仁はまるで悪びれない、斜め上を見上げたまま麗華を見ようともせず、薄笑いを浮かべている。
 反省どころか、懲りてもいないようだった。
 ――ぶん殴ってやろうか――
 麗華が一歩前に出ると、仁ははじめて麗華に気づいたかのように「ああ、久しぶり」と空々しく笑って見せた。
 「ごくろうさんだったね、で、今試合の方はどうなの?」
 麗華はこの元カレと改めて言葉を交わして、つくづく思い知らされた気分だった。
 悪いのは悪魔じゃない、全ての悪の元凶はこいつだったのだと。
 だが一方で、この男のおかげで良い思い出がたくさんできたのも事実であり、それが麗華をかろうじて思いとどまらせているのだった。
 「……試合は七回、五対四でうちが勝ってるわ、たった今足利さんを三振させてきたから、あんたが頑張ればもう、あの人まで回らない」
 麗華はチクリと皮肉を込めたつもりで説明した。
 「なんだよ、四点も取られたのかよ、もっと楽させてくれよ」
 仁もたっぷりと嫌味を込めてそう言って笑った。
 この男もすでに姫野麗華とはこの世で二度と会わないだろうことを知っていて、全てを承知の上で自分の悪意を隠す必要がないと思っているらしかった。
 ――つくづく不幸な男だわ――
 麗華は呆れ返ると、怒るのもバカバカしくなってくるのだった。
 「さ、さ、はじめようか、ぐずぐずしてはいられない」
 フィリップはそう言うと、二人を近づけ、両手をそれぞれ二人の額にあてがって、例の呪文を唱え「カーマハキマグレッ!」と念じた。
 麗華が目を開けると、目の前についさっきまで自分自身だった藤村仁が立っていた。
 仁は「あれっ」と回りを見回していた。
 「もう、彼には私たちの姿は見えないよ」
 フィリップが動物の観察でもするような口調で麗華にささやいた。
 「魂だった時の記憶も消えた、代わりにニセモノの記憶を入れておいた。彼は、多少の混乱はするだろうが、今まで自分が投げ抜いてきたと思い込んで試合に戻れるだろう」
 仁は首をかしげながら、本当にその場に誰もいないように麗華たちに目をくれずそのまま無言で出て行ってしまった。
 仁本人には未練など微塵も感じなかったが、麗華にはその後ろ姿が、ひどく懐かしく思え、なんともいえない寂しい気分でそれを見送るのだった。
 ――さよなら、頑張ったあたしの体――
 フィリップがひと仕事終えたとばかりに「ふーっ」と息を吐いて護衛の二人に合図をすると、二人組みの黒服は、表情を変えることなく黙って消えていった。
 すっかり脱力して自分の肩を叩いているフィリップに、麗華は「ねえ」と話しかけた。
 「この試合くらい、最後まで観てっていいでしょ?どうせそんなにすぐ、いい死体なんて出ないんでしょうから」
 フィリップは「ええっ?」と困った顔をした。
 「ま、まあ確かに、そう言われるとそうなんだが……」
 「どうせ後八回と九回だけなんだし、お願いよ。どうしても気になるの」
 麗華にしつこく頼まれて、フィリップは渋々承諾するのだった。
 
 「なにやってんのよ、まったく」
 麗華はグラウンドを見下ろしながら、一人息巻いていた。
 八回の表、仁はツーアウトから七番と八番に連打されたのである。
 「魂でいる間は疲れを知らないんだよ、久しぶりにいきなりくたくたに疲れた自分の体に戻ったから、無意識のうちに戸惑っているんだろう」
 「そう言えば、それであたしはこんなに元気なのね」
 麗華とフィリップは今、バックネット裏のスタンドの最上部に立って観ていた。
 仁は苦戦しながらも、なんとか九番をサードゴロに打ち取り、ピンチを逃れたのだった。
 麗華は「ふーっ」と息を吐いた。
 「後一回、なんとか一点差で勝ってるけど、危なっかしくて観ていられないわ」
 向学大の打線相手に、たったの一点差では、ほとんど同点と変わらなかった。
 しかも九回の向学大は一番からの好打順である。
 向こうは死に物狂いで、四番の足利につなげてくるだろう。
 せめてもう一点、なんとしても追加点が欲しかった。
 だが八回の裏、沢高は八番の梶原がヒットを打ち一番の牛若がフォアボールを選んだものの、結局花川口が三振に倒れてしまったのである。
 ――しかたないわ、こうなりゃ最終回をなんとしてでも三人で終わらせて……――
 ところが。
 仁はツーアウトから三番にヒットを打たれてしまったのである。
 ――な、なにやってんのよ、今の仁じゃ足利さんは抑えられないわ、敬遠よ、敬遠――
 遠藤がマウンドに駆けて行く。
 しかし仁は首を振っている。
 二人がしばらく言い合っていると、八郎たちも笑いながらマウンドに集まって行った。
 彼らは仁のナックルを当てにして安心しているのだ。
 だが、遠藤だけが知っているのだ。
 今の仁が、さっきまでの仁とは別人ということを。
 しかも厄介なことに、当の本人である仁でさえそのことを知らず、前の打席の足利を自分の力で三振させたと思い込んでいるらしいのだ。
 結局遠藤が仁をはじめとする他のメンバーに、上手く説明できるはずはなかった。
 仁のくだらないプライドと、他の全員の笑顔に押し切られたらしいことが遠目にも見てとれた。
 ――まさか、ナックルを投げるつもりじゃないでしょうね?――
 仁が歌舞伎役者のような、格好つけたしなでセットポジションに入るとスタンドは水をうったように静まり返った。
 ボールが仁の指を離れる。
 皆いっせいに目を凝らしていた。
 日本人の投手ではほとんど投げる者がいないこの魔球を、皆一球でも多くその目に焼き付けておきたいのだろう。
 ところが、その沈黙はほんの一瞬後には足利の快音に破られてしまうのだった。
 足利の打った打球は、レフト上空に高々と舞い上がり、そのままスタンドを超えて場外へと消えて行った。
 ――あ、あのドアホウが……――
 仁のナックルが変化するはずがなかった。
 それは小学生の投げるボール以下の、ただのスローボールだった。
 麗華はフィリップをにらみつけた。
 「なんでナックルの記憶まで入れるのよ?」
 「いや、そう言われてもね。君の記憶を参考にしたわけだから……」
 「も、もうだめだわ……」
 麗華は霊体であるにも関わらず、その場にへたり込んでしまった。
 ――なんで敬遠しないのよ――
 試合は五対六。
 たった一球だった。
 麗華が時に屈辱に耐え、時に奇跡まで起して、血のにじむような思いで守り抜いてきた一点のリードがひっくり返された。
 いや、自分の頑張りだけならまだいい。
 八郎や牛若や、他のチームメイト全員の夢が。
 あんな大怪我までして守ってきた大鉄の夢が。
 仁などという、下劣な男の、虫けらの排泄物より下衆なプライドに全て踏みにじられたのである。
 「……どうしてくれんのよ?」
 「そ、そんなこと言われてもな」
 「もしこの試合が負けたら、あたしは死んでも死にきれない……」
 麗華がそう言って泣き崩れようとした、その時、また快音が聞こえてきた。
 ――もう、いい加減にしてよ――
 麗華が顔を上げて打球を目で追うと、打球はライトのファールグラウンドに高々と上がっていた。
 ――よかった、ファールだわ――
 麗華が安堵したのもつかの間だった。
 「大鉄」
 負傷している大鉄が、打球を追いかけて全速力で走っている。
 「無理しなくていいのよ、そんなの、追いかけないで……」
 麗華はライト方向に打たせた仁を呪いながら、思わずそう口に出していた。
 だが、大鉄は走った。
 フェンスを気にすることなく、ボールだけを見て走り、フェンス際すれすれに落ちてきたファールフライを見事にキャッチし、そして、フェンスに激突したのである。
 「きゃあああっ」
 ――どうして大鉄ばかりが、こんなに苦労するのよ――
 審判が駆け寄り、アウトを宣告した。
 ボールは大鉄のグローブにしっかりと収まったままだった。
 だが、大鉄が起きてこない。
 ――まずいわ、かなりまずい……――
 「頭は打たなかったようだが……」
 フィリップが遠目にながめながら、呑気につぶやいた。
 エンリケが。八郎が。牛若と遠藤が。
 皆が心配そうに駆け寄るが、大鉄は動かなかった。
 仁だけが、涼しい顔でベンチに引きあげて水を飲んでいた。
 麗華とフィリップも大鉄を間近に見下ろせる所に移動した。
 大鉄は目を開けていない。
 完全に失神しているようだった。
 背中の痛みと、その痛みに耐え続けてきた極度の疲労と、そして恐らく腎臓の不具合による脱水。
 大鉄の消耗はすでに限界を通り越していたのだろう。
 「フィリップ……」
 麗華は大鉄に視線を落としたまま、声をかけた。
 「だめだよ、それは」
 フィリップはにべもなく即答した。
 「どうして解かるのよ、あたしまだなにも言っていないのに」
 麗華はフィリップをにらんだ。
 「彼に憑依させてくれ、と言いたいんだろう。できないことではないが、私は反対だ」
 「お願いよ……」
 麗華はフィリップに両手を合わせて頭を下げた。
 その目は涙であふれている。
 「最後のお願い」
 「君に許されている転生は、一回だけだ。今やったら君はもう生き返れないよ」
 つまり、生き返って大鉄と再会できる唯一ののぞみも完全に消えるということである。
 だが麗華は即座に言った。
 「いいわ、それでも」
 フィリップは冷静に首を振った。
 「いいかね、よく考えるんだ。彼がこのまま病院に運ばれても、試合が続行できなくなるわけではない、彼の学校の控えの選手と交代すればいいだけだよ」
 「でも、次の回で同点にするには、チャンスで大鉄に回ってくるわ、控えの選手にそんな場面でヒットを打てる子はいないのよ」
 最終回の沢高の攻撃は三番の遠藤からの好打順だったが、恐らくチャンスで五番のエンリケに回ったとしても、向学大は間違いなくエンリケを敬遠してくるだろう。
 「君が代わっても打てるという保証はないがね」
 「そうだけど、でも、自分と交代して出た人が打てなくて試合に負けたと知ったら、彼はどんなに悲しむかしら、例え負けたとしても、彼には少しでも悔いを残して欲しくないの」
 麗華は言いながら気持ちを抑えられなくなり、ついに号泣してしまうのだった。
 「彼はあたしの身代わりに怪我をさせられたのよ……」
 フィリップは大きくため息を吐いた。
 「仕方がない、試合が終わったら私と一緒に霊界に行くことになるが、いいんだね?」
 「かまわないわ」
 フィリップを見てうなずく麗華の目には、強い決意が表れていた。
 「彼の体に入った瞬間、君はひどい激痛に襲われることになる。意識を失わないように気を強く持つんだよ、君まで失神しては元も子もないからね」
 フィリップはそう言いながら麗華を大鉄の隣に座らせると、二人の額に手のひらを当て、また呪文を唱え「カーマハキマグレ」と言った。
 麗華(大鉄)は目を開け背中を押さえながらゆっくりと立ち上がった。
 スタンドからは歓声が起こり、雨のような拍手が降ってきた。
 「まったく、どうしてそう何度も人間に生まれたがるのか。そもそも人間なんて生きているだけでも辛いもんなんだがね、霊体でいれば痛みも疲れも、悲しみも知らずにすむものを」
 運ばれてきたタンカを断わってベンチに向かってゆっくりと歩き出す麗華の後ろ姿を見送りながら、フィリップは独りごちた。
 ――痛い、痛い、痛い……想像していたより何倍も痛い。とんでもなく痛い。それに苦しい、寒気もする。かなり熱があるみたいだわ。こんな状態で今まで野球やってたなんて――
 やっとの思いでベンチにたどり着き、痛みを気にしながら恐る恐る尻だけを椅子に着けた。
 回り中からチームメイトたちが心配そうな顔でなにか話かけてくるが、視界はぼやけ耳鳴りもひどくてほとんど聞き取れない。
 麗華は適当にうなずきながら「お水ちょうだい」と言った。
 牛若が水と一緒に濡らしたタオルを持ってきてくれたので、麗華は「うーん……」と唸りながらしばらく額と目を冷やすと、目は普通に見えるようになってきた。
 その視界に三番の遠藤がサードフライに打ち取られる姿が入ってきたが、今の麗華には落胆する余裕すらなかった。
 ――どうしよう、夢中で入ってみたけど、これじゃあバットだって振れないかも――
 だが、自分の転生をあきらめてまで大鉄に憑依しておいて代打を頼んだのでは、あまりにも浮かばれなかった。
 とにかく少しでも体を休めよう。
 たった一振りでいい、バットを振る力が戻ってくれれば。
 麗華はふらふらと立ち上がり、水道の蛇口にすがりつくと頭から水を被った。
 しばらくそうしていると、少しは楽になったような気がしてくるのだった。
 水の流れる音に混じって快音が聞こえた。
 振り向くと、八郎がライト前にヒットを打っていた。
 これで回ってくる、六番の自分まで。
 ――できればここで、エンリケが打ってくれないかな――
 麗華は淡い望みを抱きながらゆっくりと、ネクストバッターズサークルへと向かった。
 向学大のキャッチャーが立ち上がっている。
 エンリケはやはり敬遠された。
 ――やっぱり?こうなりゃあたしがなんとかしなくちゃ、なんとか……――
 麗華は試しに軽くバットを振って「うわっ」と思わずうめき声を上げた。
 気が遠くなるほどの痛みが背中と左腕を走り抜けたのだ。
 ――や、やっぱりだめ、無理みたい――
 麗華が視線を落としたその時、快音が聞こえ、スタンドから歓声があがった。
 「えっ?」
 エンリケが敬遠のボールを打ったのだ。
 ボールはライトの上空に高々と上がった。
 「も、もしかして……入る?」
 エンリケの行為は一見無謀なように見えるが、この男なりに大鉄を気づかい、できるだけ自分の番で片をつけたかったのであろうことが麗華にも理解できた。
 だが。
 「くっそおっ」
 エンリケが珍しく感情を露わにして悔しがった。
 打球はライトの深くまで飛んだものの、伸びがない。ライトはしばらく全力でバックしたが、さほどの苦もなくその飛球を捕ってしまうのだった。
 即座に八郎がタッチアップして二塁にたっした。
 皆懸命に最後まであきらめず、全力で戦っていた。
 麗華はそれを見ていると胸が詰まって、体が震えてくるのだった。
 すると、どういうわけか、体中にまとわり付いていた痛みが薄れ、わずかだが力がみなぎってくるような気がしてきた。
 ――大鉄……?――
 大鉄の体が反応している。
 意識が完全に途絶えているはずの大鉄が、彼らの全力のプレーに応えているのである。
 ――これなら一回くらいはバットを振れるかも――
 大鉄の意識が、すぐ隣にある。
 気のせいではない。
 温かく優しい大鉄の心が、麗華と一緒に戦ってくれているのだ。
 麗華は胸に手を当てて、一度大きく深呼吸した。
 落ち着いて、大鉄に教わったバッティングを思い出していた。
 「欲張って振り抜こうとするから空振りするんだよ、捕球する時みたいに、バットでボールを捕りにいくような気持ちでボールに合わせればいいんだ……」
 ――わかったわ、大鉄、やってみる――
 ねらい球は初球。
 相手のピッチャーは、この試合最も恐いエンリケを労せずして外野フライに打ち取ったことで、かなり安心しているはずである。
 一方、大鉄は先ほどのフェンスへの激突で負傷をしていることは、誰の目にも明らかである。
 ――絶対油断してくるはずだわ――
 だが勝負は一球きりである。
 それ以上は本当に代打を出してもらうしかなかった。
 ピッチャーが、投げた。
 きた、真ん中寄りの甘い球だ。
 ――捕球する気持ちで、ライトを目がけて――
 「えっ?」
 バットが軽い。
 大鉄が、一緒に振っている。
 麗華には確かにそう感じられた。
 当った。
 ボールはなんと、高々とライトの頭上に上がっていく。
 ――バットに当てるだけのつもりだったのに――
 伸びる。打球がどんどん伸びていく。
 ――あんまり飛ばないで、ヒットでいいんだから。ライトフライじゃ試合が終わっちゃう――
 ライトがフェンスを背にしてこちらを向いた。
 ――ま、まさか……?――
 腕をめいっぱい頭上に延ばしてグローブを突き出している。
 ――捕らないで、お願いだから――
 ボールがわずかに。
 ほんのわずかにそのグローブの上をかすめて、フェンスを越えて行った。
 「は、入っ……た?」
 グラウンドが、かすかに揺れていた。
 観客が興奮して踏み鳴らす足音が地響きのように、伝わってきていた。
 麗華は痛みを気にしながら、一歩一歩確かめるように足を踏み出し、ダイヤモンドを一周した。
 どういうわけか痛みはうそのように消えていた。
 ホームを踏むと、先にホームインしていた八郎が狂喜して抱きついてきた。
 なぜかベンチからは仁が、こんな時だけ真っ先に駆け寄ってきた。
 「いやあ、ごくろうさん。俺の勝利に花を添えてもらって嬉しいよ」
 ――こ、このボケナスが、全部お前のせいだ、このヤロウ――
 麗華はついに最後の最後で堪忍袋の緒が切れて、その顔に思い切り張り手を見舞うのだった。
 ボコボコにしてやりたかったが、背中と腕の痛みがぶり返し、二発だけ殴るのが精一杯だった。
 テレビ中継ではアナウンサーが、
 「いやはや手荒い喜びの洗礼ですね」
 などと苦笑いしながらいい加減なことを言っていた。
 「麗華?麗華なんでしょう?」
 何番目かに抱きついてきた遠藤が、目を輝かせて聞いてきた。
 「そうよメアリー、よく分かったわね」
 「やっぱりそうなのね、なんとなく分かったわ」
 その場の全員が喜びのあまり、わけがわからなくなっていた。
 麗華と遠藤が大声でこんなやりとりをしても、誰一人まったく気にとめるものはいなかったのである。
 「で、でも大鉄はどうしたの、まさか死んじゃったの?」
 「大丈夫、気を失ってるだけよ、すぐに目を覚ますわ」
 「よかった、そうなんだあ」
 遠藤は珍しく少し邪(よこしま)な邪念を見せ、今がチャンスとばかり、大鉄の胸に顔をうずめて人目もはばからず泣きじゃくった。
 ――い、痛い。でも、この子には本当にお世話になったんだし、これくらいのサービスはしてあげてもいいかな――
 麗華は痛みで気が遠くなりながらも、しばらく遠藤の好きなようにさせておいた。
 ふと気がつくと、二人の隣にフィリップが立っていた。
 「気の毒だがそこまでだ、もうすぐ彼が意識を取り戻すよ」
 フィリップはそう言って、また例の呪文を唱えはじめたが、麗華は「カーマハ……」という言葉を聞く前に意識を失っていた。
 大鉄は立ったまま「うーん」と目を覚ましたように唸った。
 「大好き大好き、わたしの大鉄……」
 遠藤はなにも知らず、相手が麗華と思い込み胸に顔をうずめて、日頃はとても口にできない想いを言葉にしていた。
 「お、お前、なにやってんだよ」
 「ええっ」
 想い人の豹変ぶりに驚き顔を上げた遠藤は、大鉄の冷めた視線と目が合い、愕然とするのだった。
 「あ、いえ、あの、これは……」
 「ちょ、ちょっと離れてくれねえかな」
 大鉄は目の端でちらりと遠藤を一瞥すると、背中を向けて仲間たちの輪にもみくちゃにされながら離れて行った。

 ――あら?――
 どれくらい時間がたったか、麗華はベッドの上で目を覚ました。
 ひどく頭が痛む。
 ――どうしたんだろう、霊体に痛みなんか感じないはずなのに――
 麗華は自分にかけられたタオルケットをめくって仰天した。
 ――なにこれ?――
 自分はまた、誰かの体に入っている。
 しかもこれは大鉄でもない、女の子だった。
 どこかの学校の制服を着た女子高生らしかった。
 「お目覚めかね?」
 背後からフィリップの声が聞こえた。
 「どうしたの、これ?」
 「見ての通りさ、君は同い年の女子高生に転生したんだよ」
 「だ、だって、あたしはもう転生できないんじゃ……」
 「まあ、堅いことは言いっこなしだ。今回の件で君にはずいぶんと頑張ってもらったからね、私の独断でやらせてもらったよ」
 フィリップは少し疲れたような顔で笑いながら言った。
 「ありがとう、なんてお礼を言ったらいいか」
 「いやいや、いいんだよ。ただし相手の女の子も私の独断で決めたから、君が気に入るかどうかは保証できないがね」
 「そんな、いいのよ、あたしは生きていられるだけで本当に嬉しいわ」
 麗華は感激のあまり少し涙ぐみながら部屋を見回した。
 「ねえ、ここって、もしかして?」
 「そう、君が試合をした野球場の保健室だよ、その子は西島奈緒美という君と同じ町に住んでいる女子高生だ」
 「野球場って。じゃあ、あの試合中にこの子は死んだの?」
 「そう、ほとんどの人が気づかなかったがね」
 「熱射病とかで?」
 麗華が妙な胸騒ぎを感じて聞くと、フィリップは哀れむような目をしながら、しっかりと麗華の目を見て答えた。
 「お別れの前に君には一応本当のことを教えておこう、彼女、西島奈緒美は君が打ったホームランのボールが頭に当って亡くなったんだよ」
 「そんな……」
 麗華は蒼白になって言葉に詰まった。
 「あたし、そんな子に転生なんてできないわ」
 フィリップは大きくため息をついて言った。
 「いいかね、よく聞くんだ。彼女にとってはこれも運命だったんだよ。君にとっては辛いだろうが本来人間なんてものは生きているだけで罪深くて、辛く苦しいものなんだよ、自分が幸せになるために、例え不本意でも誰か他人を不幸にしてしまうこともある。君は野球というスポーツでそれをよく学んだはずだが?」
 「そ、それは……」
 麗華の脳裏に、鳥羽や玉川や足利をはじめ、自分との勝負に敗れて戦いの場から去って行ったライバルたちの顔が浮かんでは消えた。
 「君はもう、誰かに道を譲って自殺などしてはいけない、君は今から記憶がなくなるが、譲る者とそれに取って代わる者の両方の記憶をわずかに心のすみに留めて、それを背負って生きて行くんだ。これが私の君に課する行(ぎょう)だ。彼女の分まで真剣に生きて、そして楽しむんだよ、君たちの人生を」
 フィリップは珍しく感情の抑揚を言葉に込めて麗華に説いて聞かせた。
 「いやよ、あたしそんな風に他人を不幸にして生きたって、ちっとも幸せなんかじゃないわ……え。君たち、って?」
 「君は幸せになる、少なくとも私はそう願う」
 フィリップがそう言いながら扉を指差した瞬間、その扉が勢いよく開いて、一人のユニフォームを着た若者が真っ青な顔で飛び込んできた。
 「えっ?」
 麗華は驚きのあまり声も出なかった。
 「おっとそこまで、カーマハキマグレッ」
 麗華は思わずフィリップに振り向いたが、すでにその姿は見えなくなっていた。
 「悪いが約束どおり、君にはたった今から西島奈緒美として生きてもらうよ」
 フィリップはそう言葉をかけたが、その声ももう、麗華には届いてはいなかった。
 「よかった……ああよかった。気がつかれたんですね?」
 若者は心から安堵の表情を浮かべると、思い出したように「痛ててて……」と背中を押さえベッドの脇に這いつくばってしまった。
 「あなたこそ大丈夫ですか?フェンスにぶつかったりしてたけど」
 西島奈緒美は、まったく思いがけない人物との邂逅(かいこう)に戸惑いながら聞いた。
 「俺は大丈夫です、それより、本当にすいませんでした、俺の打った打球があなたの頭に当ってしまったそうで、俺、なんて謝ったらいいか」
 奈緒美はクスッと笑った。
 「いいんですよ、わたし、よっぽど頑丈にできているのか、意外となんともないみたいなんです……」
 二人の若い男女のやりとりを、フィリップは部屋のすみで満足げな笑みを浮かべてながめていた。
 「やれやれ、これでこの私もただじゃすまないな。天使の資格を剥奪されて、人間に生まれて修行し直すことになるかも知れん……もしかして、この二人の子供に生まれてきたりして」
 フィリップはそこまで言って、クククと含み笑いをした。
 「まさかそこまで話はできすぎておるまいて……だが、カーマは気まぐれってことで……」
 フィリップは独りうなずきながら踵を返し、部屋のすみに消えて行った。
 真夏の風が舞い起す土ぼこりや、観客の捨てて行った紙くずが、保健室の窓に張り巡らされた金網を優しく叩いている。
 グラウンドでは整備の作業車のエンジンが、群れからとり残された獣の遠吠えのように、寂しげな唸りを上げていた。
 興奮冷めやらぬ観客もすでにほとんどが立ち去って行った。
 こうして夏の高校野球の戦いの舞台は甲子園球場へと移り、地方の予選会場はその、年に一度のお祭りの舞台の役目を終え、いつもの静かな球場へと戻って行くのだった。
               了

カレに代わってピッチャー元カノ

カレに代わってピッチャー元カノ

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-12-20

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 天使フィリップ
  2. ジンの家
  3. 県立沢谷香高校
  4. ボーイ・ミーツ・ボーイ
  5. 麗華マウンドに立つ
  6. それぞれの夏
  7. 二つの覚醒
  8. それぞれの戦い
  9. 荒ぶる精密機械
  10. 咆えろアザラシ
  11. イレギュラー
  12. エンリケカーニバル
  13. 旅立つ二匹のモンスター
  14. 決戦前夜
  15. グッバイゲーム