小さな手のひらに愛の花びら

悪夢は唐突に

「あなたの余命は残り一年です」
 そう余命宣告をされたとき、彼女は驚きも悲しさも見せずに、ただ小さく笑った。

          *

「先生、もうすぐ初夏の時期が来るね。わたし、夏は好きだから楽しみだな」
 真っ白な病院服に身を包んだ少女は楽しげに笑う。日向ぼっこをするように屋上のベンチに座り、気持ちよさそうに空を仰いでいた。
 話しかけられた僕は煙草を吸うために伸ばしていた手をビクッと止める。
 病院の中じゃ禁煙なので屋上へ来ていたが、子供がいる前じゃ堂々とは吸えなかった。名残惜しい気持ちでポケットに煙草をしまい直して彼女に近づく。
「そうだね。僕も夏は嫌いじゃないよ。暑さも風の匂いも、夏独特の騒がしい雰囲気も嫌いじゃない」
 隣のベンチに座って話す僕を彼女は不思議そうな顔で見つめた。
「嫌いじゃないは好きとは違うの?」
「うーん、違うかな……」
「じゃあ先生の好きって何?」
「僕の好き……? そうだな、考えてみるとあまり思いつかないな」
 困った顔をする僕を彼女は不思議そうに見ていた。そしてふいに何かひらめいたように立ち上がった。
「それじゃあ私が先生の好き、見つけてあげる!」
 楽しそうに、まるでこの世界全体を楽しむように彼女は笑っていた。
 そう、いつも彼女は笑っていたんだ。病気ひとつ背負っていないはつらつとした少女のように。
 だから誰も、彼女にはもう、わずかな時間しか残されていないのだとは思わないだろう。


 ふわふわと毛をなびかせ空を飛んでいた綿毛は、ある日いきなり雨が降って地面に落ちた。
 そんな言葉が似合うほど天然ウェーブのかかった少女、楓花は突然病を患ったのだ。
 病は急成長していき、傍から見ても体を蝕んでいくのが分かるほどだった。病院へ来たとき、楓花の余命は残り一年と宣告された。
 両親は娘に突然襲い掛かった悲劇に悲しみ、周りの人間もまだ若い彼女の未来が消えてしまったことに憐みの目を向けた。けれど当本人である彼女だけは何事もないかのような顔をしていた。
 楓花の担当医師になった僕は彼女の反応が不思議でならなかった。
 それから彼女がもっと普通の女の子と違うのだと確信していく。
 雨が降ると屋内へ避難するのではなく、逆に外へ駈け出していく。
 裸足で地面を歩くことを好み、芝生の上ではよく昼寝をしている。
 気づけばどこかへ姿を消していて、消灯時間になって帰ってくることもしばしば。
 まるで病という足かせなどないかのように彼女は飛び回った。この世界を思いっきり体で感じているようだった。

「ねえ、君は病気が怖くないの?」
 ある日こんな質問をしたことがある。彼女があまりにも自分の状態を気にしていなかったためだ。けれど口にした瞬間失敗したと感じた。だって病気が怖くない人間なんてどこにいる?
「怖いよ」
 彼女は驚くほどあっさり肯定した。やっぱりそうなんだ、彼女でも病気は怖いものなんだ。腑に落ちたような心地で僕もうなづく。
 けれどいきなり彼女はその場で一回転してぐっとつめよった。
「でも面白いの方が勝ってる」
「え?」
 眉をひそめて彼女を見た。その様子を見て彼女は悪戯が成功した子供の様に笑う。
「だって病気になったことで、より一層世界が美しく見えるようになったの。一分一秒が愛しくてキラキラ光ってて。こんな素敵な体験、病気になってなかったらできなかったんだよ、先生」
 さも当たり前のことのように彼女は言った。やっぱり僕は不思議でならなかった。
 彼女の思考は僕が考える思考とはまったく違う。いつも前向きで自由で強か。とても眩しく見えて、つい目を細めた。

たった十パーセントの確率

彼女が病院を我が家とし始めてから一か月、大きな発見があった。彼女の治療法が見つかったのだ。
 けれど家族側は手放しでそれを喜べなかった。
「手術の成功確率が十パーセントって本当なんですか、先生」
 すがるような目で彼女の母親はハンカチを握りしめてこちらを見る。僕はただうなづくことしかできなかった。
「……はい。お嬢さんの手術はこの国でも成功した例がほとんどないものなので、手術の成功は確信できません。もちろんこちらでも最善は尽くしますが」
 途端に母親は泣き出した。その小さく震える方を父親が優しく抱く。
 やっと芽生えた小さな希望。けれどその希望はあまりにも細くて薄かった。
 手術したとしても失敗する確率の方が高い。かと言ってこのまま手術しなければ彼女は残されたわずかな時間しか生きれない。どちらを選ぶとしてもそれは過酷な道となるだろう。
 そしてその二択を選ぶ時間も少なかった。
「もし手術をなさるなら早々に判断してください。病気が進行するほどにリスクは重たくなります」
「そんな……早くしろなんて!」
 母親は目を見開く。ぐっと唇をかみしめて考えるように瞼を伏せると、大きく首を振った。
「わたしは反対です。失敗する可能性の方が高い手術なんて楓花に受けさせられないわ! もし手術が失敗したらそこで楓花は人生を絶たれてしまう。それならいっそ一年の命だとしても生きていてほしいのっ!」
 叫ぶように否定の言葉を口にする母親を、父親はいたわるようになだめた。母親は傍から見ても痛々しかった。その後、真剣な眼付でこちらを向く。
 芯の一本通ったような真っ直ぐな姿に僕はつばを飲み込んだ。
「確かに妻の言うことはわたしも同感です。けれど娘の、楓花の決断を優先してください」
 楓花が決めることだから、そんな父親の呟きに僕は深く深くうなづいた。
 手術の否をきめる場面には何度も立ち会ってきたはずなのに、なぜか今回は胸が張り裂けるような苦痛を伴っていた。

  *

 その日は豪雨が降った。昼まで晴れ晴れしいほど真っ青だった空は曇天に覆われている。まるで悪夢を引き連れてくるような縁起の悪い光景だった。
 僕は今日の仕事を早め切り上げふわふわと髪をなびかせて踊る少女の姿を探した。彼女に判断を仰ぐためだ。
 この話を聞いたら彼女はどんな答えを選ぶだろうか。
 雨の湿気でしっとりとする髪を鬱陶しげに振り払って僕は彼女の姿を探した。けれどどこにもいない。
「どこにいったんだよ……」
 空白の廊下に乾いた呟きが響いた。楓花が病室にいないのは当たり前で、いつもどこかへ消えるようにいなくなってしまう彼女を見つけるのは無謀だったのかもしれない。
 もどかしい気持ちで辺りを見渡したとき、窓の外側の景色が眼の端にちらついた。向こう側にはよどんだ人影があった。
 ――楓花がいる。
 確認した瞬間、僕は走り出していた。彼女が泣いているように見えたから。


「楓花、なんでこんなところに……! 早く中に入れっ」
 雨が激しく地面を撃ちつける中、楓花は空を仰いで立ちすくんでいた。髪も服もびっしょりと濡れきっているではないか。
 豪雨で消されそうになる声を必死に張り上げて呼びかけた。けれど彼女はこちらを見向きもしない。気づいていないのだろうか。
「ったく……」
 仕方がなく、けれどためらわずに僕は雨の中へ出て行った。彼女の傍に近づいて引くように掴む。掴んだ瞬間、楓花は大げさなほど肩を揺らして、こちらを振り向いた。その表情を見て僕は息をのんだ。
 今まで見たことのないほど悲しげな表情だった。
 驚く僕を見て楓花は慌ててうつむく。その仕草に僕は確信した。彼女はやっぱり泣いていたのだ。
「怖い……?」
 手首を握りしめたまま聞く。雨の音のせいで聞こえるか聞こえないかの言葉。けれど彼女はまた肩を揺らした。
「……手術の件、聞いたの」
 楓花はためらうよに顔を上げた。そして空元気なのが分かるほど、からっぽの笑みを浮かべた。
「言ったでしょ、怖くはないよ。病気も手術も怖くない。だから私は手術を受けるよ」
 手術をやる、それが彼女の決断なら今最も最善の道すじに見えた。けれど疑問が湧く。この先の未来に恐怖を感じているのでないのなら、なぜ泣いていた?
 そっと血の気を失って冷たい頬に手を当てた。全部、話して。そう口にはしないあが伝わるように念じる。
 優しく包み込むように頬を撫でて、張り付いた髪の毛を横へ流した。そうしているうちに涙の跡がはっきり残る瞳は熱くうるんだ。
「先生、ずるいよ。そんな風に優しくされたらきつく結んだ心のひも、簡単にほどけちゃうじゃん」
 すねたように言う彼女の眼に涙が再び溢れてくる。雨の中に立っていたのはこの涙を隠すためなんじゃないか、とつい思った。
 言葉を待ち続ける僕を彼女はしばらく見つめる。その後参りましたと言うように、かるく苦笑した。
「あのね、死ぬのは怖くないよ……でも『寂しい』の。この世界をもう体感できなくなることが寂しくて、さよならすることが悲しいの」
 微笑んだ少女の頬にはいくつもの涙が流れた。かける言葉もどうしたらいいのかも分からず僕は堪らず彼女を引き寄せて抱きしめる。その肩は華奢で今にも折れてしまいそう。
 彼女はまだ幼く、持っている力だって弱い。けれど誰よりも世界を愛していて強かった。眩しいくらい強かで楽しそうだった。
 僕には今にも消えてしまいそうな彼女を必死に抱きしめて、引き留めることしかできなかった。

あなたと恋をしたい

「ねえ、先生。私ね一つ夢があるの」
 手術当日、彼女はふいに秘密を明かすように小さな声で教えてくれた。
「好きな人と恋をして、幸せになってみたかったの」
 少女なら誰もが夢見る自分の未来。けれど彼女が口にするとそれはどこか切なく、儚さが混じっていた。
 僕は何も言えず押し黙った。大丈夫だよ、なんて軽々しく言えない。そんな根拠もない言葉など言っても空気に等しいからだ。
 いつまでも返答できずにいる僕を楓花はからかうように見て、ひらひらと手を振った。
「そろそろ時間だ。それじゃあ行くね、先生」
 そのまま背を向けて手術室へ足を向ける。そのさっぱりした態度に僕は驚いた。
 もし、もし例えば手術が気体にそぐわない結果だったら、これが最後の瞬間となってしまうのだろう。それなのに彼女はちょっと近所まで出かけてくるかのような軽さだ。
 あまりにも簡潔な別れに僕はつい反射的に彼女の手首を掴んでいた。
 雨の日の記憶が甦る。
「……寂しい?」
 ぽつりと聞くと彼女は不意を突かれたように目を丸くして、掴まれた手首をほどくとしっかり僕の手を握りしめた。
「まあ、ね。でも大丈夫。先生がこうして近くにいてくれるからそこまで寂しくないよ」
 えへへ、と照れ笑いをする。手は雨の日と違って温かかった。
 今度こそ彼女は手術室へと向かう。その背を目に焼き付けるように見つめていると、突然楓花はくるりと振り返った。
「そうだ先生、言い忘れてたことがあったんだけどさ。……――恋するなら先生とがいいな」
 そう言い残し彼女はその場を去る。僕はただ立ち尽くしていた。ぼんやりと霞む頭でわかったのは、熱すぎる顔の体温と裂けるような胸の痛みのみだった。

               *

 あるところに若くして重い病にかかった少女がいた。病は体を蝕むように日々、少女を襲っていく。
 けれど少女は自分の残された命を精一杯生きるかのように、世界を慈しみ楽しんでいた。
 そんな少女は最後の希望である、小さな小さな可能性の低い奇跡に己のすべてを託した。成功率十パーセント。恐ろしい数字は少女へ降りかかる槍のようだった。けれど少女はそれを振り払うかのように力強く未来を手繰り寄せたのだった。

 手術は無事成功した。
 その言葉を聞いた瞬間、僕は奇跡の実在を確信した。
 両親は歓喜に震え、病院の人たちもまだ若い少女の未来が続くことを喜んだ。彼女の姿を再び目に焼き付けたとき、僕はいつの間にか泣いていた。
 ――今日もまた、病院を舞台に楓花はふあふあと飛び回る。

「もうすぐ退院だね。手術後だから何かと検査が多いけど、それもあとちょっとだから」
 屋上でボリュームたっぷりの雲を眺めながら僕は言った。それに隣に座っている楓花も大きくうなづく。
「うん。もうすぐだよ。……そういえば先生、前にここで私が言った言葉覚えてる?」
「ん?」
 首をかしげる。まったくの検討もつかなかった。
「先生の好き、見つけてあげるって言ったでしょ。先生は嫌いじゃない、しか言わないから」
「ああそういえば」
 そんなこともあった気がする。懐かしむようにうなづく僕へ、彼女は突然身を乗り出してきた。
「先生の好きは『私』でしょ」
 突然の爆弾発言に僕は思考を一度停止させてた。フリーズ状態の僕をお構いなしに彼女は言葉を重ねる。
「そうでしょ先生。わたしも先生のこと好きだよ。どうなの」
「な、なにをいきなりっ……」
「どうなの」
 あたふたする僕を圧倒するようにさらに身をこちらへ乗り出してくる。
 彼女へ抱いている感情、想い、これはきっと特別と呼ぶものなのだろう。彼女の強い引力に惹かれて僕はいつの間にか捕えられていたんだ。
 彼女の圧力に恥じらいのまつ毛を伏せて、僕は小さくうなづいた。
「……僕も好き、です」
 その言葉に満足したように彼女は束縛を解いた。ほっと息を吐いたのをつかの間、ぎゅうっと手を握られる。
「先生、私と恋して、私を幸せにしてよね」
 上から目線な態度と年齢がそぐわず、つい噴出してしまいそうになる。それを抑え込んで僕は微笑んだ。
「はい、頑張ります」
 手を握り返して、僕らは笑いあった。
 このなんでもない日々がとても愛しく感じるのはきっと君のお陰。
 今日も世界は美しい。
 
 
(小さな手のひらに愛の花びら おわり) 

小さな手のひらに愛の花びら

小さな手のひらに愛の花びら

ある日突然病気になった少女、楓花。唐突に余命一年と宣告される。けれど彼女は思いもしない考えの持ち主で……!? 不思議な少女に僕は飲み込まれていく。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-16

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  1. 悪夢は唐突に
  2. たった十パーセントの確率
  3. あなたと恋をしたい