天使のなみだ(仮)

 静かな図書館で、誰よりも早く、君を見つける。
誰かと競争でもしているかのように、意地になって。
一瞥して見つけられないと、苛立つ。
 
 今日は、すぐに見つけられた。彼女がよく見える
席に腰を下ろす。カモフラージュに、そのへんにある
本を手にとって。ひとつに結わえた髪の結び目には、
白いリボン。細すぎない体は、制服のブレザーを
きちんと着こなしている。本を取ってはパラパラとめくり、
また戻してを繰り返す。そのうちの何冊かは彼女の
お眼鏡にかなって腕に抱かれたまま、カウンターへ運ばれる。

 本を選ぶときの彼女の横顔は真剣で、楽しそうだ。
それが俺は多分好きなんだろう。

 誰にでも分け隔てなく向ける笑顔。いつかはそれを
俺にも向けてもらえるだろうかと思いながら、いまだに
話しかけることすらできずにいる。

 彼女が出て行った数分後、俺も図書館を出た。
本はあんまり好きじゃない。新書はたまに読むけど、
小説はまったく。

 小説にはいつも、俺の世界は描かれていない。
俺が生きる、スタンダードではないらしい世界。
俺にとってはどの小説も大体ファンタジーだ。
感情移入なんてできやしない。思うに、俺は少なくとも
同世代の若者が羨み憧れるものを持つ一方で、
彼らの多くが経験し得ない悩みにも苦しんでいる。

 抗えない運命、といったところだろうか。
 
 そんなわけで、俺は図書館に来る時も帰る時も手ぶらだ。
彼女の事を誰にも邪魔されず、ゆっくり見ていられる。
俺にとっては、図書館はそういう場所なのだ。

「玲。」

 柱の陰から突然なんでもないように出てきたのは、
幼馴染のユリアだった。

「待ち伏せかよ。悪趣味だな。」

 気の強そうな目が、俺をキッと睨む。

「あなたこそ、こんなとこに用もないのに毎日足を運んで。
 なんてことない女の子を一目見る為だけに。
 馬鹿馬鹿しくて笑っちゃう。」

「ほっとけ。」

 ユリアは金持ちの家に生まれた一人娘でプライドが高く、
同性に負けるのを極端に嫌う。典型的なお嬢様といった
ところだろうか。

「…私の方がずっといい女じゃない。」

 ユリアは、人形のように端正な顔立ちをしている。
イギリス人の母親を持ち、そのため日本人離れした顔をしている。
色素の薄い瞳に、高い鼻、顔は小さく、手足もすらりと長い。
色白でもある。人形らしいのは外見だけではなく、内面も
だった。いつからか、感情を表に出さなくなった。笑わない。
まさに人形のように、無表情だ。

「はいはい。またな。」

 後ろ手に手を振りながら、ユリアとの距離を広げていった。

 もし俺の人生が、抗えない運命によって支配されているのなら、
ユリアを好きになった方がうまくいくだろうし、ずっと楽なこと
なのだろうと思った。それでもユリアの好意に気づかないふりを
するのは、全てを諦めておとなしくレールの上を歩けるほど、
俺が大人ではないからだろう。



 慣れた手つきで番号を押してロックを解除し、大きな門が
自動で開くのを待って中に入る。
 
 無駄に広い庭を五分ほどかけて抜けると、大きな屋敷が
現れる。小さい頃、俺はただただ恐ろしくてたまらなかった。
他の家の数倍も広いこの敷地、屋敷、家族以外の人間が
何人も行き交うこの家の全てが。それは今思えば、抗えな
い何かに浸食されていく、その恐怖だったのだろう。

「あら、帰ってたの。」

「…ただいま。」

「ねぇ、見て!このバッグいいでしょう?」

 満足そうに高級ブランドの革のバッグを撫でているのは、
俺の母親だ。俺が小さい頃の母の記憶は、こんなにも嫌な
人間ではなかったように思う。高級なバッグも、煌めく宝石
も、何もなくても素敵だったあの頃の母は、もう死んでしまっ
たのだろうか。

「宿題あるから、部屋に行くよ。」

 吐き気がする。甘すぎる香水の香り、毎日増えていく高級
ブランドのバッグ、服、それから厭らしいほど大きな宝石の
ついたジュエリー。じんましんが出そうだ。

 金が人をこんなにも醜いものに変えてしまうなら、むしろな
くていいと思う。それはきれいごとだろうか。

 自分の部屋だけは、極力余計な飾り物を置かせないように
していた。あるのは勉強机とクローゼット、ベッドにソファ。
せいぜいその程度だ。

 家に帰ってくるたび、俺は牢屋に閉じ込められたような気に
なる。息が詰まる。俺たちとは違う世界、多くの人にとって当
たり前の世界に住んでいる人間がたくさん通う学校にいると
きの方がずっと気分がよかった。

 ちゃんとした名門の私立高校に行けとうるさかった両親の
反対を押し切ってわざわざ公立の進学校に進んだのは、俺が
軽蔑するような人間ばかりがうじゃうじゃいるところで三年もや
りきれる自信がなかったからだ。きっと気がおかしくなってしま
う。色々と理由をつけてなんとか今の学校へ進んだが、条件が
いくつかあった。その中に、成績は常にトップクラスであること
というのがあったので、渋々勉強しているわけだ。

「……ふぅ。」

 窓を開けると、冷たい風が吹き込んでくる。体にまとわりつい
た嫌悪感が、少しずつ剥がされていくような気がする。

 目を閉じると、彼女の笑顔が浮かんだ。特別綺麗というわけ
じゃない。でも、見ていると穏やかな気持ちになる。彼女を輝か
せるのは、香水でもブランドのバッグでもない。誰もが一度は
手にし、途中で己の欲と引き換えに置き去りにしてきた、ありの
ままの自分だ。

天使のなみだ(仮)

天使のなみだ(仮)

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-15

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