消えた女天使


新貝みはまは午後になるとゼリー状の膜に閉じ込められ、そこへねっとりした羊水が流れ込んできて窒息するビジョンを見た。この羊水はみはまの血や骨の源だったものではなく、生臭くて落ちつかなくて、自分とはどこか食い違った人間のものだった。それは喘息の発作ように突然やってくる。初めにゼリーのようなドロドロしたものが頭に降りかかると、みはまの輪郭に沿ってあっという間に膜をつくる。閉じ込められて動けなくなってしまったみはまの靴には、すでに羊水が染み込んできている。羊水はどんどんかさ増しし、やがて口元まで水位をあげる。苦しくてもがくと意に反し羊水は肺や胃にみな入ってくる。嗚咽にも似た嘆きの中苦しくてもがくと羊水は膜の中いっぱいになり、みるみる肺や胃から背骨の芯に染み込んでいきドロドロに溶かしてしまう。するとゼリー状の膜が突然破裂して美浜の意識が戻る。
今日もそのビジョンがいつものようにみはまを突然襲ったいつもと同じ午後だった。みはまは閑古鳥が鳴く倉庫で、艀船やコンテナ船がまき散らしたオイルで汚れた海を眺めていた。
汚泥色の海の中を海月がしこりのように浮遊している。スーパーの白いゴミ袋が日差しを浴びながら海面を漂っている。

今日は久しぶりの梅雨の合間の晴れ日だ。

昨日まで降っていた雨は各地で甚大な被害を出していた。勢力の強い台風と局地的な豪雨が繰り返しやってきて、鶴見川中流では河原で遊んでいた小学生二人が鉄砲水に流され意識不明の重体。秦野市では地滑りと土砂崩れが起こり、旅行に出かけていた運転中の男女四人の乗る車に落石し全員即死。その中にみはまの彼女が居た。
そんな中、久しぶりに晴れたら異例の猛暑日だ。太陽はかんかん照り現在気温は三十五度を超えている。一年中長そで長ズボンで仕事をしなきゃならないみはまは頭に血が上りすぎてコンクリートが歪んでみえていた。
みはまはもう一度額ににじむ汗を腕でぬぐい、重たい体をゆっくりと伸ばしながらぼんやりとみなとみらいの方角を眺めていた。彼の居る本牧ふ頭から海をまたいで反対岸に、かまぼこ形の上屋倉庫が櫛比と並ぶ。その周りをフォークリフトが絶えず動き回っている。さらに奥にはみなとみらいの象徴的建造物ランドマークタワー、となりにはインターコンチネンタルホテルが寄り添って建つのが分かる。
海に浮かぶヨットの帆をイメージしてつくられたインターコンチネンタルホテルは、その外観の最上部に、見事な翼の生えた女天使が祀ってある。
みはまの居る本牧ふ頭はインターコンチネンタルホテルの東南東の方角に位置し、双眼鏡を使うとちょうど真正面から女天使を拝むことができる。
みはまはこの女天使を眺めているときだけ、仕事の退屈さや、羊水の生臭さを紛らわすことができた。
三時十分になり、彼はいつも持ち歩いている双眼鏡nikonモナーク7をカバンから取りだして女天使に焦点を合わせた。仕事中とはいえ、本当になにもやることがないのだからだれにも咎められる筋合いはない。もしなにか追加の仕事がまわってくれば、そのときは双眼鏡をカバンにしまいきっちりと仕事をこなせばいい。
いつものようにモナーク7でインターコンチネンタルの頂上を狙うと、昨日まで居たはずの女天使が居なくなっていた。すぐにメンテナンス工事かなにかで一時的に取り外されているのかと思ったが、足場もかけられていないしクレーンも見当たらない。工事をした形跡はなにもなかった。最近ではこういった工事は人知れず夜中にやるのかもなと、この場は疑問を安易に腑に落とした。
ただ、女天使だけが忽然と消滅したインターコンチネンタルホテルは、動物のいない動物園の檻のように侘しいものだった。しばらく女天使の消滅したあたりをぼんやりと見ていたが、だんだんとても落ち着かない気持ちになった。となりのランドマークタワーの頭上に十字形の小さな雲が浮いているのを見つけた。空にはその小さな雲以外とりとめのない空間が漠然と広がっているだけだった。いつもはしきりに飛んでいるカモメが一羽もいない。

「何見てんだ?」と小太りの先輩が汗でびしょびしょになった作業着を扇ぎながら倉庫の中からやって来た。

「いやぁ、それがインターコンチの女天使が見当たらないんすよ。昨日までいたのは見たんですが。」みはまは軽く会釈をして双眼鏡を渡した。

「あほんとだ。

消えた女天使

消えた女天使

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-14

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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