クマ

Kentaro Morita

 ある日僕は、森の中でクマと出会った。
 薄暗い森だった。陽は昇っているはずの時刻なのに、光がほとんど差さず、夜のように暗かった。辺りは野鳥の声と、自分の体に当たって葉っぱのこすれる音がするだけで、森はひっそりと静かだった。
 クマは、僕を見て立ち止まっていた。ちょうど木の間からのっそりと姿を現したところで、歩いていた僕と遭遇したのだった。ここにいるはずのないものでも見たかのように、クマはぴたっと止まって動かずに、こっちの方を見ていた。この森に人間はあまり姿を現さないのかもしれない。
 真っ黒な体に、真っ黒な眼で、どこまでも深く続いているようなその瞳は、きれいだし、不気味だった。微動だにしないものだから、何を考えてるのか分からなかった。そのクマだけは、まるで森の一部ではないかのように、僕には思えた。もっと深く暗いところからやって来た生き物みたいだった。僕も動くわけにはいかなかった。動いたら、負けなのだ。喰われてしまう。僕が、食べ物だっていうことに気づかれる。なにか、“にんげん”という弱いものじゃなくて、もっと不気味な恐ろしいものだと思われる必要がある。僕に近づいたら危ないのだと、だから僕を食べようだなどと思うなと、伝える必要がある。
 果たしてクマは近づいてこなかった。意味のない沈黙が長いこと続いた。僕はいっそ、このクマと仲良くなれるのではないかとすら思った。それは、物事を都合よく解釈する僕の悪い癖だった。けれど同時に、なれるものならクマとでもいいから友達になりたいという気持ちがこみ上げてくるのを感じた。僕の心の寂しさが、クマとのこうした無言の見つめ合いによって、揺り起こされたのだった。いやいっそ、僕は相手がクマだからこそ友達になりたいのだった。なぜだかわからない安堵と涙の溢れるようなうれしさが、僕の胸を満たしていった。
 ある時僕は、そのクマのもとに向って歩き出していた。抑えがたい切ない気持ちが、僕の体を動かしていた。すると、クマの方もまた、僕の方へ近づいてきた。ああ、僕は、深い安心とともに、何かもっと深い恐ろしさのようなものが、体を四方から覆って僕の肌を粟立てだすのを感じた。しかし、僕の体はもう止まらなかった。一歩ずつ、僕はクマの方へ近づいていった。そしてまた、クマも僕の方へ近づいてくる。ついに、1メートル先にはクマの顔があるというところにまで僕は近づいた。おそらく僕の死もまた1メートル先にいるのだろう。しかし僕は、手を伸ばしてクマの顔に触れようとした。すると、クマもまた僕の方に手を伸ばした。僕は観たことの無い『ET』の有名なワンシーンを思い起こした。
 僕の指先が、クマの指先に触れた。こつんという音を立ててぶつかった。その時僕は、自分の体こそがクマであることと、目の前にそびえる巨大な鏡に気がついた。僕は鏡に映った自分の姿とにらめっこをしていたようだ。なるほどそういえば、僕はクマだ。しかし森を歩いて、こんな大きな鏡のある場所に行きつくとは考えていなかった。僕はため息をついた。それから元来た道を引き返した。が、途中で気が変わり、この巨大な鏡を伝って端の方へと歩いてみることを思い立った。森の出口を見失っていた僕にとって、鏡の壁は千載一遇の道標だった。

クマ

クマ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-13

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