当たり前に来る明日 1

『お姉ちゃん、本当に行っちゃうの?』
『うん。でも、いつも生意気な茜が泣くなんて。』
『だって、だって……!』
『別に、生きてればまた会えるって。それじゃあ、またね、茜。お母さんのこと、よろしくね。』
 少女は自らの足で車に乗り込み、ドアを勢いよく閉める。そしてもう振り返らない。


 時は九月、朝七時二〇分。
既に強烈に照りつける日差しの中、少女は目を細めて校舎を見上げる。
 時間帯もあってか、周囲はほぼ無人である。
「ここが…私の新しい学校…。」
強張ったような面持ちで、夏物のセーラー服に身を包んだ少女はぽつりと呟く。その微かな声に紛れるようにして、規則正しい足音が複数近づいてくる。足音はやがて止まり、少女の背中を柔らかな声が撫でる。
「おはようございます。私立鈴野原学園へようこそ。」
「えっ、あっ。」
 先の少女は、近づいてくる足音に気付いていなかったようで、うろたえている。
「ビックリさせちゃったかしら。はじめまして。あなたが、転入生の木戸(きど)葵(あおい)さんね。私は、高等部二年で生徒会長をさせてもらってる、平野(ひらの)由(ゆ)希(き)といいます。」
 そう言って、落ち着いた雰囲気の少女は、華のように微笑んだ。白いブラウスに細かいチェックのスカートを可憐に着こなしている。スカートからは細い足がすらりと伸びている。その立ち姿はまるで、ファッション雑誌に出てくるモデルのようだ。
「はじめまして、木戸さん。理事長から話は聞いてるよ。同じく副会長の高木(たかぎ)翔(しょう)です。ようこそいらっしゃい。」
そう言って、やや長身の、整った顔立ちの青年、翔は微笑む。どうやら、理事長が気を配って、学園の会長・副会長に根回しをしたようだ。しかし、一方の葵はどうしてよいか分からず、うまく返事ができない。
「あぁ、緊張してる?いいよ、同じ学園の生徒だし、緊張しないで。リラックス、リラックス。うん、制服も似合ってるね。」
そう言って、翔は葵の頭に手をポンと乗せた。そして、そのまま頭を数回撫でた。
「ひっ、ひゃあ、あのっ…」
 葵は、突然のことに顔を赤らめ、さらには素っ頓狂な声をあげ、ドギマギしている。
その刹那。由希は持っていた鞄で翔の脇腹に一撃。
「翔!初対面の女の子にそんなに触ったらビックリして当然!少しは考えなさいって!セクハラ!セ・ク・ハ・ラ!!」
「ぐ!」
寸刻前の柔らかな声など嘘のように、凛々しい声で翔に抗議を入れる由希。初対面で緊張している葵にでも、この人はこちらが本性では、と感づかせるまでの豹変ぶり。
「ぐっ!うっ…」
 翔は、腹を抱えて悶絶している。
「あれ、そんなに力入れてなかったのに。」
力加減を誤ったのか、さては偶然当たり所が悪かったのか、はたまたかなりの力を込めて鞄を振ったのか。鞄がヒットした後、翔はまだその場で腹を抱えて悶絶している。そんな様子を、由希は特に悪びれもせずに、涼しい顔で眺めている。しかし、その顔から、次第に余裕が消えてきた。
「あっ…。」
 由希がぽつりと漏らす。
「げほっ、大丈夫、由希。僕はもう痛くないから、気にし…」
回復した翔の言葉を遮り、由希が葵の肩を掴む。
「ごめんなさい、木戸さん。今のは忘れて頂戴?」
「へ?あ?」
 葵は、展開についていけず、先ほどとは別の意味でドギマギしている。
「ああ、意味分かんないよな。由希会長は、見栄張るタイプだから、他人に暴力を振るったとか中等部で話題になったら、都合が…」
 再び、翔の言葉を遮って、由希が続ける。
「違う!ほら、高等部の男子が中学部の女子にセクハラしたりとかって、中学部の女の子の間で噂になったら、かっこ悪いなぁって思ったの。それだけよ!まぁとにかく、今あったことは、全て忘れて頂戴ね。お・ね・が・い・ね?」
 華のような笑顔を向けられているはずなのに、葵の背中には何故か冷や汗が一筋伝った。
「ちょっ、まぁいいか。まぁ、忘れてやってくれ。」
 翔はやや不満そうな顔をのぞかせたが、すぐにその整った顔を綻ばせた。

「よく分かりませんが、今のやり取りは、誰にも言いません。」
 由希の迫力に圧される葵。
「お、いい子だ!由希も助か…」
 そこまで言いかけて、翔はどこからか何かを感じ取り、口を閉じた。葵が由希に目をやっても、柔らかな微笑みを絶やさない。
「じゃあ、気を取り直して、と。適当に校舎を歩いた後、控室の理事長室まで案内するよ。」
 そう言って翔は葵の目線まで僅かに腰を下ろし、爽やかな笑顔を向けた。その端正な顔立ちに、思わず葵もドキッとしてしまう。


 嵐のようなやり取りの後だったが、由希と翔の簡単な校舎案内は穏やかに終わった。葵は理事長室で朝のHRが始まる時間まで待つ。朝はあんなに緊張していたのに、二人のお陰か、思ったよりはリラックスして教室へ向かうことができた。

チャイムが鳴って、ひとまず全員が席に座る。
「はぁい。みなさんおはよ~。きょうはぁ、あ、そうそう。転校生を紹介します。はい、入ってきて~。」
 気だるげな女教師が、葵に入室を促す。
 生徒たちは、とくにざわつく様子もなく扉の方を見る。
 少し強張った表情の葵が入ってくる。だが、動き自体はなめらかだ。
「えっと~、あ、うん。今日からこの三年D組に編入することになった、木戸葵さんです。えっと~以前の学校はぁ、千葉のぉ~どこだっけ?」
 女教師がキラキラと輝く付け爪を顎に当てながら葵を見る。
「えっと、千葉市立桜ケ丘中学校です。」
 葵が答える。
「んん、あ、そうそう。そこに通ってて、おうちの都合でここに通うことになりました。女子の皆さんは、寮でも一緒ですね。そんな感じで、なかよくしてあげてくださぁ~い。先生からのこれで連絡はおわりかなぁ~。」
「えっ、結城(ゆうき)先生、自己紹介とか、木戸さんの席とかは?」
 後方左側の、赤茶けたポニーテールの女子生徒が遠慮がちに突っ込みを入れる。
「あぁ、ホントね。じゃぁ、木戸さん、自己紹介ど~ぞ。」
「はい。みなさんはじめまして。木戸葵です。頑張って慣れたいと思いますが、この学園のことは分からないことばっかりなので、色々と助けてください。よろしくお願いします。」
 葵は内心、この先生は大丈夫だろうかと思ったが、短く挨拶をして、頭を下げた。
「席は~、金田さんのお隣ね。金田さんもちょっと前に編入してきたからぁ、転校生同士で仲良くなれるんじゃない?はぁい、じゃあぁ、これで朝のHRは終わり~。」
 やる気など微塵も感じられない女教師――もとい、結城先生は、そう言い残して、教室を去って行った。葵は、指定された席に移動しながらも、葵は取り残されたような気分になった。葵とて、小学校・中学校に通う中で、ざっと数十人の教師を見てきたが、あれほどにいい加減な態度の教師は見たことが無かった。もしや、この学園の教師は、結城先生みたいなタイプばかりなのでは、と思うと、先が思いやられた。

 席に着くと、先ほど遠慮しながらも結城先生に突っ込みを入れた少女、金田(かねだ)梨奈(りな)が葵に話しかけてきたのが救いだった。
「ごめんね。結城先生、何かいつもあんな感じみたいで…。あたしは、金田梨奈。梨奈でいいよ。三カ月ぐらい前に、この学園に入ってきたの。私も、よく分からないこととかたくさんあるけど、何でも相談に乗るから!よろしくね。」
「ありがとう。とっても心強いよ。改めて、木戸葵です。私のことも、葵でいいよ。よろしくね。」

 その日の授業は、特に何事もなく過ぎていった。幸いにも、結城先生以外の教師たちは、おおむね 好印象な教師が多かった。そして、葵の休み時間は、梨奈に学園について教えてもらう時間になっていた。
 
 帰りのHRの時間になると、朝よりも少しテンションが上がった結城先生が教室は入ってきた。
「はぁい。今日もお疲れさま~。今日も活動があるらしいから、皆それぞれの班に分かれて、担当の先生とかに従うこと~。あ~、木戸さんは七二班らしいよ~。あと、寮のカギ預かってるからぁ、早く職員室に取りに来てねぇ~。じゃあまた明日~。」
 そう言い残して、結城先生は職員室へと去って行った。
 え?これで解散なの?と葵が呆気にとられていると、梨奈が後ろから肩をたたく。
「……結城先生のペースにも、すぐに慣れるって。それより、早く職員室行かないとね!急いで!」
「職員室って、そんなに遠かったっけ?」
「ん~、そんなに遠くないんだけど、結城先生、すぐに帰っちゃうからさ。あたしが転入した日も、おんなじこと言われて職員室行ったはいいけど、先生が用事だとかで帰った後でさぁ。結局カギ受け取れなくて、寮母さんに頼んで開けてもらう羽目になっちゃってさぁ…。」
 梨奈が遠い目をして話し続ける。
「いやぁ、あのときは参ったよ。とんだ災難。帰るならせめて、他の先生にカギ預けてくれたら良かったのにさ。さすがに、もう少し頭使ってって思ったなぁ~。んでもって、先生の用事って何だったと思う?」
「えっ、分かんない…。」
「まぁ、あたしも直接確かめたわけじゃないんだけど、放課後になったら、熱心に婚活してるらしいよ~。皆噂してるし。アラサーだからか、焦ってるらしいよ?でもまだ二十代なんだし、あたし的にはそんな焦らなくてもいいと思うけどな~。葵はどう思う?」
「婚活かぁ。私にはよく分からないけど、結城先生って、HRいい加減な感じだし、あんまりいい印象持てなかったな。」
 噂が本当かどうか、葵には分からないが、最初から悪かった結城先生のイメージが、梨奈の話によって、さらに悪いものになった。
 梨奈に連れられて職員室に行くと、結城先生はまさに職員室を出ようとするところだった。その姿は、先ほどまでのカッターシャツとは打って変わって、いかにも男性受けしそうな感じの、ふんわりとした淡いピンクのブラウスだった。首元には、ハートマークをあしらったプラチナピンクの小さなペンダントトップが輝いている。葵は、間に合って良かったと思う反面、どうやら噂は本当みたいだな、と複雑な気持ちで、結城先生からカギを受け取った。結城先生は、カギを渡すとすぐに、職員玄関の方へ去って行った。職員室には、まだ仕事をしているらしい教師が何人もいる。皆それぞれ、忙しそうだ。結城先生はかなり若い先生なのに、こんなに早く帰れるのだろうかと、葵が不思議に思っていると、葵の手元を覗き込んだ梨奈が驚いたように声をあげた。
「二〇三号室!?うそっ!あたしと相部屋だ!」
「え?」
「わああ!嬉しい!すっごく嬉しい!これから、よろしくね!」
 梨奈は、突然子どものようにはしゃぎ始めた。そして、葵の両手を取って続けた。
「あたしね、ここに来た時から、ずっとルームメイトが欲しいなって思ってて。でも、あたしも三カ月前にここに来ただけだから、ずっと一人部屋でさ。ベッドがいつも一つ空いてんのが、寂しかったの!だから、葵が来てくれるの、すっごく嬉しい!」
 そう言ってさらに強く葵の手を握り締める。その目には、うっすらと涙が浮かんでいた。葵は内心、「大袈裟だよ」とも思ったが、梨奈のあまりの喜びように、ついにそんなことは言えなかった。そんなことは言ってはいけないような気さえした。
 葵はそのまま、心底うれしそうな梨奈に引っ張られるようにして、学生寮に向かった。
 学生寮は全部で四棟あり、男と女、さらに小学部と中・高等部に分けられている。
「さ、こっちだよ、葵!」
 梨奈に促され寮に入ると、恰幅の良い割烹着姿のおばちゃんがテーブルを拭く手を止めておかえりー、と声を掛けてくれた。いかにも、下町の食堂を切り盛りしているような、豪快で人のよさそうなおばちゃんである。
「寮母の真鍋さんだよ。朝晩の食事の面倒も見てくれるの。おばちゃんのお料理、とっても美味しんだよ!他にも寮母さんはいるけど、このおばちゃんは別格。一緒にこの寮に住んでくれるし、あったかいし、この寮のアイドルなんだから!」
 梨奈は、テンションが上がっているからか、饒舌になっている。
「あはは!梨奈ちゃん嬉しいこと言ってくれるねぇ!じゃあ、そんなかわいいお口には、今日のミートボール、一個と言わず十個サービスしようかな!」
 おばちゃんは、豪快な笑いで返す。
「あぁ、ごめんね。今日からこの寮に来てくれた、木戸葵ちゃんだね。理事長から話は聞いてるよ。遠いところご苦労さん。ここにいる人間は、みんな似たような境遇、神様の引き合わせ、縁。だから今日からここを自分の家だと思ってね!おばちゃんも一緒だからさ。」
そう言って、おばちゃんは二カッと愛想の良い笑顔を浮かべた。
葵が、ありがとうございますと返事をするやいなや、梨奈はまた葵の手を引いて部屋へと駆け出した。一階の大きな食堂のような場所から階段で二階へ駆け上がる。

「さっきの一階が食堂で、朝と晩は皆でご飯を食べるの。そんで、二階から上は、私たち生徒の部屋。原則二人一組の相部屋になってるかな。特に、学年とかも関係なく部屋が割り振られるみたいだけど、やっぱり相部屋のパートナーは、同じ学年の子になるみたい。えへへ。」
 梨奈は嬉しそうに説明を続ける。
「お待ちかね!二0三号室へようこそ!」
 梨奈が勢い良く扉を開ける。
 部屋はシンプルな内装だった。扉の近くにに小さな上履き入れがあり、靴を脱いで部屋に入る。フローリングの床には、シングルサイズのベッドが二つと、教室にあるものと全く同じ勉強机が二セット、小さな本棚と、その上に小さなラジオが乗っていた。クローゼットの扉も見える。窓は大きく、ベランダにも出られるようになっていた。梨奈が手入れをしているのか、部屋は清潔で、物は少なめにまとまっている。
「生徒の部屋にテレビは無くて、見たい時は食堂にある大きなテレビを皆で見るしかないかな。あと、パソコンは学校からの貸し出しだけど、ネットがしたいなら、学校のパソコン室を予約するか、研究棟に行くしかないかなぁ。テレビとかネットとかが無いと、最初は不便に思うかもしれないけど、慣れたらそうでもないよ。まぁ学生寮だし、娯楽は本当に少ないかな。あ、でも娯楽があっても、夕方とか夜は忙しいことの方が多いから、楽しんでる暇も無いかな。」
 言い終わると、梨奈はふぅ、と小さくため息をつき、その身をベッドに投げ出した。その拍子に、枕元に置いてあった三〇センチほどの薄汚れたテディベアが床に落ちた。梨奈はそのテディベアを両手で抱きあげると、両手で「たかいたかい」をした。よく見ると、テディベアの右手の先には不自然な修繕跡もあった。まるで裁縫の経験の無い子どもが無理矢理繕った跡のような――
「うん。誰かと一緒に寝るなんて、何年ぶりだろうね。ふふっ…」
 梨奈の声は僅かに熱を帯び、そして微かに震えていた。触れては壊してしまいそうな脆さと、孤独には耐えられない切ない雰囲気を体現するかのような梨奈に、葵はただ彼女を見ることしかできなかった。
「あたしね、前はお母さんと暮らしてたんだけどさ――」
 梨奈は、テディベアを抱き寄せる。
「お母さんが――」
 そう言いかけたその時。ピンポンパンポーン、とコールサインが鳴った。
『五時一〇分前です。中等部三年生、高等部の皆さんは、研究棟に集合してください。繰り返します。中等部…』
「ん…、そうだよね。ごめんね。今の忘れてね、あははは!初対面なのに、あたしってば何を言おうとしてたんだか!変な奴だよね~!!」
 梨奈は、明るく笑って見せ、ベットから跳び起きた。梨奈に放り投げられたテディベアは宙を舞って、ベッドに不時着した。


「あ!もちろん、研究棟に行くのも初めてだよね!歩きながら説明するね!ん~!今日のあたしは名ナビゲーター!」
 梨奈はカラカラと笑う。おばちゃんの「気を付けてね」の声を背中で聞いて、寮を出た。

「活動のこと、簡単には説明聞いてるよね。これからあたしたちは、この学園の『“実態”浄化活動』に参加するんだよ。と言っても、あたしはまだまだ見習いみたいなもんだし、葵は見学って形になると思う。あたしも最初はそうだったし。わけわかんない場所で、敵みたいなのと戦うのは怖いけど、ここに来た以上やるしかないもんね。」
 葵は、白衣のおじさん――石田と名乗った中年のおじさんが、ほんの二日前に説明してくれたことを思い出す。
『君にはまだ通える学校がある。住む場所は学生寮だ。鈴野原学園は学費も無償だ。君たちに一切の金銭的負担を掛けない。約束する。ただし、それには条件があって、にわかには信じられないかもしれないけど、ちょっと地球でわるさをしている奴らと、ちょっくら戦ってもらわないといけないんだ。』
「ビックリするよね。そんな、SF、いや、オカルトかな。子供だましみたいな話。でも、現実なんだよ。黒い影みたいなよく分かんないのが出てきて、私たちを襲おうとするんだもん。葵も、最初はびっくりすると思うけど、ひとりじゃないんだし、落ち着いてね。」

「着いたよ。ここがこの学園の研究棟って言う場所ね。普段はほとんど来ない場所なんだけど、中等部3年生から高等部2年生までは、放課後ここに集合するんだよ。同じ班ごとに集まって、班ごとに現場に向かうの。」
 研究棟、と少し敷居が高そうな名前だが、外見は、以前葵が遊びに行った近所の大学にあった無個性な建物そのものだった。中に入っても、一階部分は殺風景どころか特に何も見当たらない、ただ広い空間となっていた。そこに、3~4人ぐらいの生徒が何グループか集まって話をしているようだ。通用門のようなやや狭い出入り口から、外へ出ようとしている生徒たちもいる。名前は分からないが、教師らしき大人も数人立って、何やら生徒たちと話している。
「うん。もうさっそく、現場に向かう班もいるみたいだね。この様子だと、もう出発した班も結構いるのかも。研究棟に来たら、まずは3階へ行くんだ。そこで、同じ班の先輩たちと合流するの。その後、研究員さんとかの指示を聞いて、みんなで現場に行くってわけ。」

 階段を上り終え三階に着くと、広場のような場所に、横幅二メートルはあるであろう大きなスクリーンが壁に三つと、パソコンが十台ほど、そして特大サイズのテーブルには、東京周辺の地図が三メートル四方で置かれているのが目に入った。葵にとっては現実感も無く、例えば映画やドラマに出てくる指令室の撮影セットのように映った。

「ここが三階で、研究員さんたちとか、一部の生徒たちが東京周辺の“実態”を観測している場所だよ。それで――」
 梨奈が、声のトーンを落として、ナビを続ける。
「やあ、梨奈ちゃん。今日も元気だね。おっ、転校生もいっしょだね。いいよ、ここからは俺が引き継ぐよ。七一班は、君以外全員揃ってるようだから、一階に行くといい。他のメンバーも一階に下ろすようにこちらから連絡するよ。今日の詳しい話は、栞ちゃんに言ってあるから、彼女から聞いてくれ。それじゃあ、頑張って。」
 突如、背後から現れた白衣のおじさん――彼はどうやらここの研究員らしい――石田が、ゆったりとした口調で割り込んできた。突然の登場だったが、葵も梨奈も、何故か驚きは湧かなかった。それは、彼が持つ、独特のアウトローな雰囲気がそうさせるのかは分からない。初対面だからとかいった理由は恐らく関係なく、雰囲気自体に掴みどころが無く、飄々としているのだ。
「あ、石田さん。了解です。じゃあ、そんな訳で、先輩たちが待ってるみたいだから、悪いけどあたし行くね。じゃあまた帰ってから、寮でね!楽しみにしてるから~!」
 梨奈は、嬉しそうに手をぶんぶんと振って、転がるように一階へ駆け下りていく。今までにぎやかに喋ってくれていた梨奈が、葵の傍からいなくなった。
「改めまして、二日ぶり、木戸葵ちゃん。ここの研究員で長をしている、石田だ。これから、なにかと共に活動することが多くなると思うから、名前ぐらいは覚えてくれ。」
やや適当な感じが漂う挨拶だ。
「まぁ、今は質問も浮かばないだろうから、また疑問が湧いたら俺のところにおいで。答えられる範囲で、お答えするよ。」
 ついでに葵は、胡散臭さも感じ取った。「答えられる範囲で」とか言っている辺りがどうにも――と、葵が考えかけた瞬間、石田は首尾よく次の話題を投げかけてきた。
「じゃあ、早速だけど、七二班のメンバーとご対面と行こうか。別室に待たせているから、案内しよう。」
 そう言ってスタスタと歩き出した。葵も慌ててついていく。そして石田が、いくつも並んでいるドアの一つに手を掛けた、その瞬間。
――ピピピピピピピ!!!
 突然、携帯電話の着信音と思しき音が大音量で鳴り始めた。石田は、ゆったりとした口調とは裏腹な素早い動作で携帯を耳に当てる。
「ん、わかった。じゃあ、予定変更。七二班をすぐに向かわせる。」
 先ほどより多少は早口で喋り、通話を切った。
「ごめんね、葵ちゃん。そんなわけだから、すぐに出てもらう。葵ちゃんは、先に一階へ行ってて。他のメンバーには、俺から説明をして、すぐに下へ向かわせるよ。」
 葵は、何が起こっているのかイマイチ理解ができないまま、一階へ駆け下りて、先ほどの広い場所で待つ。先ほどは何人かいた生徒たちのほとんどはいなくなっていた。
 しばらくすると、数人の生徒が階段を駆け下りてきた。それは今朝会ったばかりの会長と副会長、そして――
「茜?」
 葵は目を見開いて、思わずつぶやく。心臓は早鐘のように鳴り止まない。
「ん!?あれ、君は今朝の――転校生じゃないか。ってことは、七二班になったんだ!これからよろしく!」
「茜――!?」
 翔の声など耳にも入らず、つい、大きな声を挙げる葵。しかし――
「はぁ?」
 明らかに嫌そうな顔を浮かべる、一見して一四〇センチメートルほどの小柄なツーテールの少女。背中には、少女の体ほどもあるのではないかとさえ見える大きな鞄を背負っている。
「まぁ、少しは惜しいですね。一文字違いです。私の名前は氷川(ひかわ)天音(あまね)、あ・ま・ね、です。」
「あ―――――」
 所在なく目線を下げる葵。そんな葵の葵を半眼で見ている天音。その様子を不思議そうに見つめる翔。場には微妙な空気が流れている。
「翔、天音ちゃん。」
 その微妙な空気に割って入ったたのは、今朝会った会長、平野由希だった。そして、すっと小さく息を吸い込んだ。
「今から現場に向かうんだから、今は余計なことを考えないで、活動に集中しましょう。」
 朝のお姉さんのような口調と明らかに違う、凛とした声が響いた。
「そうだな。いざ、出陣といこうか。」
「そうですね。今は狩に集中ですね。」
翔と天音の気持ちはひとまず活動の方へ切り替わったようである。
「ごめんね、木戸さん。話は後で必ず。じゃあ、行きましょう。」
 先ほど見た通用門のような出入り口から外へ出る。そして、校門近くの普通乗用車に乗り込む。運転席には、すでに運転手と思しきおじさんが待機していた。運転手にはすでに目的地が伝えられているのか、無言で車を走らせ、一般道を走っていく。
「今から、私たちで現場に向かって、“実態”の浄化活動をするの。木戸さんは初めてで、戦えなんて言われてるんだとは思うけど、何をどうしていいか分からないでしょうから、今日は私たちの様子を見学してくれたらいいかな。だから、とにかく今日は、私の傍から離れないで。」
 由希は葵に微笑みかける。
「ありがとう……ございます。」
「やっぱり、緊張する?」
 由希はつとめて優しく、葵の様子をうかがう。
「えっと……はい。」
 ぎこちなく返事を返す葵。内心は、天音と名乗った少女のことが気になって仕方が無かった。葵にしてみれば、見れば見るほど、天音はあまりにも―――

「着きましたよ。ここから先は、車では入れないようなので、私はここで待機しています。」
 車に乗り込んで15分ほどで、運転手は路上駐車した。由希、翔、天音が車を降り始めたので、葵も車を降りる。周囲を見回すと、西日がきつく照りつける明るい道だった。周囲には似たような建物が立ち並ぶ、団地のような場所だった。しかし、不思議と人影はほとんど無かった。西日がきついせいか、建物と建物の間の影の黒が、鮮やかなまでにくっきりと浮かび上がっていた。

由希が、ふいに自分の胸元から何かを取り出して、手のひらに乗せた。葵は無意識に由希の掌を覗き込む。円柱型の平べったいケース、揺れ動く針――、どうやら、理科の実験で使う方位磁針のようだ。しかし、妙なことに、方位を表すNとかSとかの印字は無い。
「あっち。」
 由希が指を指すと同時に、翔と天音が指示された方向へ駆けだす。葵と由希も後に続く。葵は、建物と建物の間の隙間のような、狭い通路のような場所を進んでいくことに不安を感じながらも、必死でついていく。そして、やや遅れながらも、翔と天音に追いついた。葵の息は、軽く上がっているが、三人は呼吸一つ乱れていない。

「ここですね。」
「間違いないな。」
翔と天音の視線の先には、一見普通の建物が―――しかしよく見ると、建物の輪郭線が、わずかに繋がっていない。
「あれ!?輪郭がおかしい!それにここ、何だか――!」
 葵が強烈な違和感をその肌に感じ取り、思わず声を挙げて取り乱しかける。
「落ち着いて。説明は後。」
由希は、静かに制止する。
「すみません。」
 葵は深呼吸をして、不安と混乱ので渦巻く胸中を何とか鎮めようとする。

「もう入りません?時間切れなんてカッコ悪くて報告できませんって。こちらの準備はいつでも。」
 天音が、由希と葵の方を見る。天音は、いつのまにか制服の上から黒いチェストガードを装着しており、腕にはアームガード、背中には持ち運び用のボウケースを背負っている。手には、小柄な少女には似つかわしくない、フィールド競技用の洋弓が握られていた。
 葵が気が付く頃には、既に由希の手にも、1メートルほどの木製の杖が握られていた。
「じゃあ、入るぞ。」
 翔は持っていた袋から鞘付きの剣を取り出し、ベルトで腰回りに固定する。そして、柄の部分を握り、一気に引き抜く。剣道で使うような竹刀ほどの長さだが、模造刀では無い。正真正銘、本物の両刃剣である。
 翔はそれを真剣な眼差しで構え、大きく振りかぶり―――
「あっ、そうだ、忘れてた。」

「うぇ、こんな時に何なんですか、高木先輩。」
 肩すかしを喰らった天音が眉をひそめて小さく抗議する。
「いや、そういえば、木戸さんは武器も何も持って無かったよね。そんな話もする間もなく、出てきちゃったわけだし。それじゃあやっぱり、万が一何かあったとき危ないと思うから、これ、渡しておくよ。」
 そう言って、翔は袋からもう一振りの剣を取り出して、葵の手に握らせた。見た目には何の装飾も無い、シンプルな剣のようだが、葵はやはりどうして良いか分からず、手の中にある長物を持て余している。
「あ、渡されただけじゃ困るよな。じゃ、ちょっと失礼。」
「ちょ…!!せん……ぱ…!!」
 翔は、言うやいなや葵の正面に膝をつき、腰に手を回す。
「じっとしてて。」
 葵にしてみれば、突然抱きつかれたようなものである。顔を真っ赤に染め、慌てふためくばかり。
「んっ……!ちょ……!」
「はい、終わり。って、どうしたの?」
 その場にへたり込む葵。由希は、持っていた木製の杖をぽとりと地面に落とした。
「いや、高木先輩、今のは流石に色々とアウトだと思いますよ。」
 天音も、しれっと言い放つ。
「え?はっ!!いや違う!天音、誤解だ!僕はただ、武器も持たないで亜空間に入るのがだな!」
「それは、私にじゃなくて平野先輩に言った方が良いと思いますよ。」
「ちょっ、なんでそこに由希が出てくるんだ!」
「はいはい、もういいから。遊びに行くんじゃないから。」
 一応は、先ほど葵を制したトーンで場を引き締める。そして、持ち直した杖で、建物の不自然な部分目掛けて殴りかかる。すると、音も無く景色が割け、人ひとりがやっと通れるほどの隙間が現れた。

当たり前に来る明日 1

当たり前に来る明日 1

中学3年生の木戸葵(きど・あおい)は、ひょんなことから衣食住・学費全て無償という鈴野原学園(すずのはらがくえん)へ転校する。 しかし、引き換え条件として葵に待ち受けていたのは、学園に在籍しながら、「亜空間」内で“実態”と戦う運命だった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-13

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted