ひとつの運命

酒井信雄 作


 小林秀雄はその文壇デビュー作「様々なる意匠」(一九二九年)を次のようにして閉じた。

――私は、今日日本文壇のさまざまな意匠の、少なくとも重要と見える者の間は、散歩したと信ずる。私は、なにものかを求めようとしてこれらの意匠を軽蔑しようとしたのでは決してない。ただ一つの意匠をあんまり信用し過ぎない為に、寧ろあらゆる意匠を信用しようと努めたに過ぎない。

 実に颯爽とした若々しい文章である。一読しただけでは、彼が、世に蔓延る上等とは言い難い「様々なる意匠」を歯牙にもかけず、己の道を勇ましく突き進まんとしているようにも見えるが、二七歳の若き小林が読者にそう見せているだけである。この文章の影には、何かを信じたいのに何ものも信じられず、もがき苦しみつつも、そんな自分の姿を周囲に見せまいというプライドから素直になれない、憔悴しきった若者の姿がある。
 「批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語る事ではないのか!」という認識を持っていた小林にとって、「己れの夢を懐疑的に語る事」すら知らぬ無邪気な批評――というより言説全般――を一蹴することは容易なことだった。小林のこの認識を、彼の言葉に対する理解の仕方に絡めて解釈すれば次のように言えるだろう。言葉は既に常に使われてしまっているが故に使われているのであって、言葉が「実在物」や「概念」に正確に対応することなどあり得ない、だからこそ、言葉によって表現されるほかないあらゆる言説は根本的に無根拠であるほかなく、にもかかわらず、人が何かを語るのは人が夢を持たずにはいられない存在であるからだ、と。注目すべきは、ここに、言葉に対する冷静な認識だけでなく、人間に対する情熱的な認識が存在することである。彼の「宿命の理論」、つまり「私」がどのような属性を持っていようとそんなことに関係なく、「私」は「私」でしかありえないという驚くべき事実(宿命)に真正面から向き合ったときにのみ人は創造的であり独創的でありうるという「理論」は、後者の認識とある種の親和性がある。その親和性とは、理屈ばかりが先行して何かを信じようにも信じられなくなった小林がそれでもなお、理屈では捉えきれない人間存在の積極的な性格を直観してしまっていることである。どれほど自意識に苦しもうとも、自分に素直であり続けた小林だからこそ、こうしたことが言い得たのだろう。
 「様々なる意匠」で雑誌『改造』の一九二九年度懸賞評論二等当選を果たした小林秀雄は、翌年から連載「アシルと亀の子」を始める。彼は、デビュー作で見せたのと同じ手法、同じ口吻で文壇の批評家たちを軽々と手玉に乗せてみせた。だが、間もなく彼は自分のしていることに虚しさを感じ始める。一九三一年初頭に、彼はこう言っている。

――私は、あの感想文[前月発表の論文「マルクスの悟達」のこと――引用者注]で狭く言えば私が文章を作る覚悟、広く言えば知識人としてのあじけなさ加減を述べたに過ぎない。私はひどく元気のない一文を恥じているのである。(中略)計り知れない程間抜けな言葉というものは、言われて決して気持ちのいいものではない。言葉というものはこわいものだ。人間精神が言葉というもののためにどれくらい深刻な陥穽にあがいているかという事は、殆ど信ずる事が出来ぬ程のものである。(「文芸時評」、傍点引用者)

 文体の変化は明らかだ。小林はもはやプライドにすがって、強気の文章を書くことができない。周囲の批評家を一蹴していくなかで、否応なく彼は、自分自身が周囲とさして変わった存在ではないことを思い知らされる。彼の肥大化した自意識は、他の批評家と同じく、言葉をはじめとする自意識の外部から制約を受けたものでしかない。ひとえに、圧倒的であり絶対的な外部を前に、彼の自意識などあまりに矮小なものでしかなかった。
 先程私は、小林が「様々なる意匠」で言葉に対する冷静な認識を持っていたと書いたが、あれは間違いである。冒頭で引用した文章からもわかるように、デビュー当時の彼の文章は、自意識が言葉を凌駕している文体、正確には自意識が言葉を操作できると錯覚している文体であるが、ここで引用した文章は、自意識が言葉に畏れをなしている文体である。「言葉というものはこわいものだ」。小林の嘘偽りのない感覚、というより、言葉を前に嘘偽ることすら許されない現実への怯えが、ここにはある。いや、怯えという表現は正しくない。言葉に限らない、自意識と外部にあるものとの絶対的で不可避な関係に怯えつつも、絶望に打ちひしがれて余裕を失っているのとも違う、不思議な感覚を読者に覚えさせる。暗さの背後には、明るさがある。
 ここから、小林秀雄の苦闘が始まる。一九三三年に始まり一九六四年に終わる「ドストエフスキイ・ノオト」、戦争体験、結婚、「徒然草」や本居宣長といった日本古典との出会い、骨董品や絵画への関心、そして単に年月を重ねるという散文的経験を経て、彼はやがて自分の居るべき場所を見つけ出すだろう。この場でその経過をたどる事はできない。だが、五〇歳頃の彼がどのようなものの考え方を抱いていたのかだけは見ておきたい。

――齢不惑はとうに過ぎ、天命を知らねばならぬ期に近付いたが、惑いはいよいよこんがらがって来る様だし、人生の謎は深まって行く様な気がしている。成る程人並みに実地経験というものは重ねて来たが、それは青年時代から予想していた通り、ただ疑惑の種を殖す役に立って来た様に思われる。それというのも、私は、若い頃から経験を鼻にかけた大人の生態というものに鼻持ちがならず、老人の頑固や偏屈に、経験病の末期症状を見、これに比べれば、青年の向こう見ずの方が、寧ろ狂気から遠い、そういう考えを、持って来たが為である。心に疑惑の火を断たぬ事、これが心に皺がよらない肝腎な条件に思えた。ところが、近年、そんな料簡では、どうも致し方がないと時々思うようになった。思うようになったと言っても格別どうという事はない。実は未だよく解らぬのかも知れないし、或いはもともと解るという様な筋合いの事ではないのかも知れない。が、確かにそんな気だけはしている。(「年齢」、一九五〇年)

 これは老人の戯言ではない。読者に対して見栄を張ったり、説教をしようとする姿勢などはまるでない。天才主義者や人生の講釈師などといった小林に対する通念とは逆に、彼は実に不器用な男だった。彼に才能がなかったとは言わない。才能はあっただろう。だが、小林秀雄の小林秀雄たる所以は、彼の才能にではなく、彼の誠実な不器用さにこそある。過剰なまでの自意識ゆえに遠回りしつつも、この歳にしてようやく、そうだ、ようやく、小林は何かを手にした、何かを信じられるようになったのである。その何かとは、悲劇に関わるものだったように思える。

――一方に人間の弱さや愚かさがある、一方にこれに一顧も与えない必然性の容赦のない動きがある、こう条件が揃ったところで悲劇が起こるとは限らぬ。悲劇とは、そういう条件にもかかわらず生きる事だ。気紛れや空想に頼らず生きる事だ。全ては成る様にしかならぬ、如何なる僥倖も当てに出来ない、そういう場所に追いつめられても生きねばならない時、若し生きようとする意志が強ければ、私たちにはどういう事が起るかを観察してみればよい。このどうにもならぬ事態そのものが即ち生きて行く理由である、という決意に自ら誘われる、そういう事が起るでしょう。(「政治と文学」、一九五一年)

 理屈で回る自意識は、「人間の弱さや愚かさ」を見抜くであろうし、歴史や社会の「必然性の容赦のない動き」も理解するだろう。だが、そんなことはくだらない。虚しいだけだ。理屈では割り切れぬ何か、自覚し感得するほかない何かが、否応なく、虚しさを呼び起こしてしまう。その何かこそ、悲劇に関わる感情である。理屈の上では倒錯しているかもしれない、だが、人は、にもかかわらず、感動し充実し「このどうにもならぬ事態そのものが即ち生きて行く理由である、という決意に自ら誘われる」のである。

 悲劇を見る人は、事件の外的必然性の前では、人間の意志や自由は無意味になるという考えを抱く事は決して出来ない。寧ろ全く逆の感情を味うのである。人間の挫折の方に外的必然が順応しているという感情を、どうしようもなく抱かされるのである。

――こういうところに芸術家の詐術を見るのは間違いだ。私達は騙されているどころか、己の本体を知らされている。私達が、緊張した意識をもって充実した行為を行っている時には、私達は皆そうした人間ではないのか。まさしく悲劇を演ずる俳優ではないのかと考えてみればよいのであります。(「悲劇について」、一九五二年、傍点引用者)

 小林秀雄は己に嘘をつくことなく、誠実に歩みを進めただけだった。若々しくもあり痛々しくもあるデビュー作でも、彼が虚しさを吐露した文章でも、その時々の彼なりの誠実さで一貫していた。
 私は、小林の歩んだ道こそが、万人が歩むべき道だとは思わない。人は、生れによって、育ちによって、気質によって、社会的境遇によって、あるいは広く偶然によって、互いに異なる存在である。そこにひとつの正解があるなどと言うことは、暴力以外の何物でもない。自分にとっての正解と、他人にとっての正解は違うかもしれないのである。 
 だが、このことは、他者への批判を禁じるものではない。正確には、禁じることができない。特定の立ち位置から、別の立ち位置にいる人間を批判することはどうしても起こる。人は時として、己の必然のなかで、他者への批判を行わずにはいられないことがある。そうした批判は単なる誹謗中傷とは無縁であるばかりか、むしろ、人が人と出会い付き合うための条件ですらあるのではないか。人が人であるための条件ではないのか。

 私は、ある男の運命を想う。それは、悲劇を生きられなかった男の運命だった。



 一九九八年、鎌田哲哉は「丸山真男論」で群像新人文学賞に当選した。彼が日の目を見た瞬間だった。三五歳だった。
 これ以降、鎌田は、柄谷行人と浅田彰の雑誌『批評空間』での論文投稿・シンポジウム参加や雑誌『早稲田文学』での連載「進行中の批評」、雑誌『重力』の創刊をはじめ、さまざまな媒体で批評を続けた。彼の文章から溢れる憤怒・情熱・理想は、読む者を唸らせた。鎌田がデビューして間もなくの頃、彼にとって良くも悪くも因縁の存在であり、当時の批評シーンを形作っていた柄谷行人は、福田和也との対談でこう述べている。

柄谷 最近批評をやる人がいないんです。批評を書いている人はいるけれど、学者に近い。僕から見て、直感的にこいつは根っからの批評家だと思う人は非常に少ない。最近では、「丸山真男論」と「知里真志保の闘争」というのを書いた鎌田哲哉ぐらいかな。批評家というのはうまく定義できないけれど、サルトルの言葉でいえば「アンガージュマン」、江藤淳の言葉でいえば「行動」が、書く人の根底にある人のことだと思います。つまり、決断があるかどうかということですね。
福田 決断というか、価値の決定ですね。それが批評だ。
(対談「江藤淳と死の欲動」)

 鎌田哲哉の批評は、決断ないし価値決定だけから成ると言っても過言ではない。所謂ポスト・モダンやポスト・コロリアニズムといった、おのれの立ち位置を「学問的に」不問に付し、相手の「政治的」鈍感さを衝くタイプの、はっきり言って軽薄な言論が蔓延るなか、鎌田のように自分自身の立ち位置を明確に宣言し、理想を掲げて倫理的に振る舞おうとする批評家は稀有な存在だった。山城むつみの著書『転形期と思考』に寄せた書評で、彼はこう言っている。

――「正しさ」はある。「いやしさ」や「小ささと弱さ」を通過しない正しさは正しくない。「いさぎよさ」として他人に強いる正しさ、自らが暴力に絶えず転化するからくりを見ない正しさ、「公正への誘惑」に屈した正しさ、物質的な余裕が可能にしただけであることを自分の認識に繰りこまない正しさ、それら全てが正しくない。にもかかわらず、「正しさ」は正しく、「誤り」とそれへの居直りは誤りでしかない。現存する関係の非対称性に非合理に固執する限り、正しさと「正しさ」との倫理的な差異は必ず個体をつかむ。(「「卑しさ」と「正しさ」」)

 鎌田の「正しさ」へのこだわりには異様なものがある。ここで引用した文章に対して論理的に反駁することはできないだろう。彼にとって「正しさ」とは、求めるべきものというより、求めざるをえないものとしてある。「人間は誰しもが正しさを負わされているのではないか。正しさというのは、誰かが主体的に選択するとか拒否する、それが可能である、というものじゃなくて、容赦なく強いられてくるものだと思う」(石川忠司との対談「文壇政治屋を撃つ」での発言)。彼は魯迅の「フェアプレイはまだ早い」という言葉を好んで引用するが、これは、人がどれほどフェアで(正しく)あろうとしても、いかなる場合でも相手と自分はどちらかが大きな力を持つ非対称な対象な関係であらざるをえないがゆえに、原理的にフェアプレイはできない。にもかかわらず、世の「「誤り」とそれへの居直り」を弾劾するためには、アン・フェアに振る舞わざるをえず、しかし、その際のアン・フェアこそ、というよりむしろ、その際のアン・フェアだけが、実のところ、唯一ありうるフェアな態度である、という意味である。いわば、身を粉にして初めて得られる正しさこそ、彼が言う「正しさ」なのである。このような認識を持った鎌田にとって、「批評」とは次のようなものであるほかない。

――まず断定する。君はそう言うが僕はこう思う、というのは批評の出発点ではあるが、批評そのものではない。見解Aに対してそれは間違いだ、見解Bが正しい、と述べるのは、批評の必要条件ではあるが、永久に十分条件にはなりえない。Aが生成するのは何故か、相手がどんな理由でそう考えてしまうのかを、その具体的な言動の一つ一つについて分析し、そこに潜在する認識上の前提C(CAUSA?)にさかのぼって相手を叩く、それ以外にイデオロギー分析=批評の原則は存在しない。しかも(以下が最も重要だと私は思う。そうでないと、イデオロギー分析はそれ自体イデオロギーになるから)、われわれがそうするのは、相手の主張を先回りして完封するためにでは絶対にない。批評は対象の認識=所有=支配とは全く違う。というよりそんなことは原理上できない。できれば人は批評とは別の行為に加担したに違いない。では、最後の一歩手前までは無遠慮かつ徹底的に分析する義務が我々にあるのはなぜなのか。――それは、自己批評こそ批評にとっては不可欠だからだ。お高くとまる限りで見せなくてすむ(と思い込んでいる)手の内一切を率直に示し、そのことで対象と自己を真に分離しうる基盤をつくること、それこそが批評にとっての「自己批評」だからだ。(「進行中の批評⑤ 批評と放蕩」、傍点引用者)

 ここに鎌田哲哉の批評原理が示されている。これもまた、論理的に反駁することはできないものだろう。もちろん、イデオロギー分析が「批評」なのかという疑問はあるにせよ、彼がそういうものとして「批評」を位置づけているのだから、彼の批評を読む上ではその前提を受け入れるしかないので、気にすべきではない。別のところで、「普通は見落とされてしまう何かがあり、そこに鋭敏にこだわることが批評である」(共同討議「いま批評の場所はどこにあるのか」での発言、傍点原文)とも言っていることと合わせれば、彼のなかで「批評」とは、「普通は見落とされてしまう何か」=「イデオロギーが不可避に持つ盲点」にこだわることであると言える。「ちょっとの違い」に敏感であることで日常のなかに潜む政治性を見出す批評を行った中野重治を念頭に置いているのかもしれない。何にせよ、今、私が注目したいのは、この文章で私が傍点を付した、鎌田が頻繁に用いる言葉についてである。これらは大きく二つの傾向に分けられる。
 「断定」「永久」「原則」「原理」「絶対」「全く(~ない)」「徹底的」「加担」「不可欠」「一切」「率直」「真」。先に述べたような「正しさ」を達成しようとすれば(こう言うことを書くとき、鎌田ならば、「正しさ」を達成したと感じてしまった瞬間に思い上がりを生み出し、その「正しさ」は直ちに他者への優しさを偽造した陰湿な暴力へと転化するだろう、と付け加えるだろう)、論理で割り切って倫理的に純粋なものを志向する、こうした言葉が文中に現れるのは必然と言える。
 残る二つの「我々」と「分析」については、あとで詳しく触れることになるが、さしあたり、鎌田哲哉にとって、両者が鎌田の自己矛盾ないし自己崩壊の「徴候」(これも鎌田が好きな言葉だ)であるとだけ言っておく。

 何にせよ、鎌田哲哉は輝いていた。倫理的に高潔であろうとする彼の姿は、確かに輝いていたのである。鎌田と雑誌『重力』で関係した、鎌田より一三歳年下の大澤信亮は、のちに当時を回想し、鎌田を批判しつつも、こう述べている。

――でも鎌田さんのことを考えると本当にいろいろ思うんですよ。鎌田さんも朝まで対話に付き合ってくれるタイプの人でね。(中略)僕みたいな一回り以上も年下の人間とも、二人であって誠実に議論してくれてね。文学関係で会ったなかではやっぱり、鎌田さんという人は本当に文学者という感じがしたな。(杉田俊介との対談「十年の対話」)

 私が先に紹介した鎌田の文章から、口先だけのエゴイストを連想した人もいるかもしれない。だが、そうではない。少なくとも、そうではない一面が、鎌田にはあった。鎌田の批評の詳細はあとで検討するが、ここでは大澤の実感のこもった回想を読めば事足りるだろう。鎌田が、自己保身と自己防衛のために汲々とし、自身が権力批判をする権力者であることに鈍感なタイプの人間とはどこか違う人間だった。
 その一方で、鎌田哲哉という人間に対する違和感や不信感もなかったわけではない。浅田彰は鎌田も参加していたシンポジウムで鎌田がやろうとしていることは「いわば一人荒野で怒号しているということ」であると言い(共同討議「批評と運動」)、福田和也は鎌田との対談で、小林秀雄以降の批評が商品としての自立(売れること)と作品としての自立(思想的価値があること)を目指してきたのに対して、鎌田の批評は「たぶん商品になることを拒否していて、だけれども作品になっているという感じがした」と言っている(対談「江藤淳と私たち」)。福田の言わんとするころをざっくばらんに言い換えれば、鎌田は売れなくてもいいから言いたいことを言うという方針で批評している、ということである。対談のなかで鎌田はそれを否定しているが、福田が受けた印象は鎌田批評の一面を衝くものではあった。
 浅田や福田の鎌田評価はまだ穏健で理性的なものだが、『重力』で鎌田と一時期深くかかわった松本圭二はかなり踏み込んだことを言っている。

――[鎌田は]忘れたふりをしたり、ヤバいと思ったら耳を塞ぐような人間を認めない。沈黙も認めない。それは明らかに鎌田さん自身の繊細さ、神経症的な強迫観念の裏返しだと思った。でもそれだけなら青いで済む。でもそれで済まないのは、批評の言葉如きで沈黙してしまうやつは最初から沈黙しとけ、死んでしまうようなやつは死んでしまえ、と言い切ってしまう図太さがあるからだ。井土[紀州]さんは「鎌田は批評家になっていなかったら人殺しをしていただろう」と言ったことがあるが、その直感は正しいと思った。(「合評資料C 「合評会」を読んで」『重力02』所収)

 鎌田哲哉にはどこかおかしなところがあった。言うまでもなく、それは魅力的なのに一方でおかしいというより、魅力と隣り合わせのものとしておかしさがあると言うべきであろう。過剰なるものは、ときに魅力として、ときにおかしさとして、目に映るものである。
 このおかしさは、論文「知里真志保の闘争」で犯した自らの誤りに触れて、彼が、「引用箇所を中心に私は初歩的な間違いを四度は犯した。暇な奴は勝手に探せ。それしかできない学者先生にも生きる権利はある。勝ち誇られては癪なので私自身も今後は気をつける」と言っているところにも表れている(「訂正その他」)。論理だけを取り出せば、彼は自らの批評原理に忠実に、間違えたことを率直に告白し、今後は同じ間違いをしないように気をつけると言っているのだが、言い方がどう考えてもおかしい。これは雑誌『群像』の随筆欄に書かれたものなので、つい気を抜いて書いてしまったのだと解釈できないこともない。だが、この種のおかしさは彼が硬派の批評を書く際にも表れる。『批評空間』での共同討議への付記で、彼なりのやり方で柄谷行人に忠告しようとする鎌田は、こう述べる。

――柄谷は、(私の不信が何もしないでいる疲労と怠惰の正当化に常に陥りかけるであろう愚劣さと同程度に)統制的理念を語る自らの肯定的な態度が、他者に容易に幻想を抱くがゆえに容易に幻滅に陥る連中への、つまり「絶望の虚妄なるは希望の虚妄なるに相同じい」という命題をどうしても理解できない連中への甘い蜜として機能する愚劣さを忘れるべきではない。(中略)マルクスや宇野弘蔵を論じているだけの理由で、何者でもないにもかかわらず自分が何ものかであると勘違いしている連中のはねあがりはつねにすでに結晶しつつあり、この連中が「好況」時には誰よりも極力先鋭的にふるまうことに努めながら、肝心の時と場合に常に頬被りをして済ませて来たし、また今後も済ませるであろうことも自明である。(中略)私は現実の卑小なレベルで、これからもこれまでもどんな意味においても、これらのごみ屑どもに打算と忘却と増長の総過程を再生産する機会を与えるのは絶対にいやだ。(「統制的理念の不可能性と不可避性」、傍点引用者)

 「連中のはねあがり」や「ごみ屑ども」とは穏やかではない。「絶対にいやだ」という言い方も、あまりに直情的である。また、「好況」時に云々というくだりも、この論文の全体を読んだ上でなら、鎌田は二十代のころにバブルを迎え、周囲には軽薄な人が多くいて、彼が非常に不快な思いをしたということがわかるのだが、公に晒す文章で、個人的な経験に過度に執着した書き方には違和感を覚えざるをえない。冒頭にある括弧内の文章も、余裕のない自己反省であり過ぎる。全体の印象としては、鎌田が真面目で誠実なことはわかるのだが、彼の精神にどこか重大な歪みがあるように思えてならないのである。
 鎌田哲哉がデビュー当時から持っていたこの精神の歪みこそが、柄谷行人が主導したNAM(New Associationist Movement)の崩壊と柄谷への絶望を経て(二〇〇二年夏ごろか)、彼の変質をもたらした。精神の歪みは、もはや取り返しのつかないほどに拡大してしまった。いや、この説明では、NAMさえなかったら、柄谷に絶望しなかったら、鎌田は変わらずにやっていられたと思われるかもしれない。そうではない。私はむしろこう思う、鎌田の変質は必然だった、鎌田はデビューした時点からして、さまざまな要因が重なったために精神が深く蝕まれてしまっていたからこそ、変質するのは時間の問題でしかなかったのだ、と。
 醜く変質してからの鎌田哲哉の文章を引用する。どのような文脈で鎌田がこうしたことを言っているかは説明しない。文脈を説明したところで、受ける印象に変わりはないから。

――ついでにもう一言。校正担当の蛭田という老人は、のちのQ‐NAM紛争において、柄谷の意を体してQの代表や副代表をさんざん誹謗中傷した男である。(中略)人間は、ここまで他人に精神的に依存しながら長生きする必要がるのだろうか。――おい、蛭田の爺さんよ、あんたはQ‐NAM問題で少しは懲りたのかい。まだお灸の量が足りないのかい。あんたら満腹のガキのなれの果ての行く末など、俺の知ったことではない。見かけは穏やかで、他人に親切にふるまいながら、その親切さが直ちにねちっこい押し付けがましさに転化する、その悪癖からあんたが手を切る時は来ないだろう。それだけならまだいい。仮にあんたらが自分の過去の痣を化粧でごまかし、全てをなかったことにして対抗運動だの散種だのと周囲をまた恫喝し始めるなら、あんたらの頭上に再び言葉のハンマーが降り注ぐことになる。絶対に忘れるな。そのことを、あんたの周囲にうじゃうじゃいるモッブどもにしっかり伝えてくれ。最後に、俺はあんたらの親分みたいに、組織的に動いて他人の言動を封殺したことは一度もないよ。文句があれば、個人の力で俺に公然と言い返してみろ。それができない根性無しだから、あんたら日本人は俺に永久に馬鹿にされるんだ。(「編者序文」『LEFT ALONE 構想と批判』所収、二〇〇五年)

――私はここで改めて提案する。それは一方で、今の私に余裕がないための衷心からの切望だが、他方で諸君が歴史に恥辱を遺し続ける事態を危ぶむ一度限りの忠告でもある。――雑誌『桿』は、『映画芸術』や『D/SIGN』は、そしてそれらに及ばぬ一群のお馬鹿な商業文芸誌・論壇誌・『赤旗』・ロスジェネ(ゼロアカ)商売誌の編集者どもは、直ちに本書を通読し、のみならず『武井昭夫批評集』『演劇の弁証法』『戦後史のなかの映画』その他全著作を踏まえた上で、武井に連続討議を挑んで彼との緊張をはらむ共同活動を開始すべきであろう。(中略)大切なのは、武井との討議やその痛烈な直言にさらされて諸君が殆ど何も考えて来なかった事実がまず暴露されることであり、そのこと自体が諸雑誌の薄っぺらさと程度の低さを根本的に打開する契機になるはずだ。(「「地獄への道」を拒否する「楕円」」、二〇一〇年)

 特に注釈する必要はない。鎌田の歪みが、目も当てられないほどに拡大していることは容易に見てとれる。少なくとも私には、この変質が断絶的変化ではなく連続的変化であるように思える。

 私がここで試みたいのは、鎌田を弾劾することでもなければ、鎌田が陥った陥穽を鮮やかに剔抉してみせることでもない。ただ、少しばかり、彼の胸中に想いを致してみたいだけだ。志賀直哉を批判する坂口安吾に対して、小林秀雄はこんなことを言っていた。

――志賀さんという人は、僕が世話になった大先輩だ。そういう人に対して不満を持つかもしれないが、悪口は言わぬ。それが僕の主義だ。一体人情というものを抜きにした冷静公正な批評に耐えられるような大人物は百年に幾人も現れないものだよ。そういう大人物に対しては僕は戦う。あとは人情主義で言って誤る事はない。僕はそう思う様になっている。(対談「伝統と反逆」)

 私は、鎌田哲哉に多くのことを学んだ。彼の文章から、直接的であれ、間接的であれ、多くの示唆を受けたのである。だからこそ、私は「人情」に悖ることなく、彼のありのままの姿を描きたい。彼の運命をたどりたい。



 鎌田哲哉にとって、「世界」観念というものが全ての議論の出発点にある。「世界」と如何に向き合うかという問いが、彼を突き動かす。例えば、先に述べた「正しさ」とは、「世界」観念を持ったものが待たざるをえないと彼が考える「正しさ」のことである。「フェアプレイはまだ早い」(魯迅)とは、「世界」と向き合った人間の言葉として理解される。また、青山真治監督の映画『EUREKA』への批判は、この「世界」観念を踏まえている。

――我々は、必然性を偶然性で批評したつもりで、ある特定の偶然性だけを絶対化=必然化する悪循環に陥っていないか。現時点での真の課題は、これらのからくり全てと手を切ることにある。換言すれば、ある偶然性に驚き別の偶然性には驚き得ない現実自体を偶然的に捉えることにある。従って我々の問いはこうなる。青山真治はバスジャックの偶然性を明晰にとらえたが、主人公達のその後の荒廃を強いた物質的な偶然性には自覚的だったか、と。この疑問が言いがかりではないことを私は信じる。たとえ全てを青山が故意に行ったとしても、見たいものだけを見るファンタジーが何を抹消するかを私は進んで問うだろう。               (「『EUREKA』と「紀州ツアー」」、傍点原文)

 鎌田が傍点を付したところに、彼の「世界」観念が現れている。そして最後の一文で「見たいものだけを見るファンタジーが何を抹消するかを私は進んで問うだろう」と言うとき、鎌田は「世界」との向き合い方を述べているのである。彼にとってそれは「政治」あるいは「批評」あるいは「運動」と呼ばれるものとなる。だが、これだけは説明が不十分である。彼の言う「世界」や「政治」が何であるかは、彼のデビュー作「丸山真男論」で明瞭に述べられている。

 「丸山真男論」は一見すると、丸山眞男批判の論文である。だが、もし、このそっけいないタイトルとは別のタイトルをつけるなら、それは「丸山真男の批判的継承のために」となっただろう。
 鎌田は、これまでになされた丸山に対する批判も継承も、丸山の一面を彼の全体だと取り違え、丸山以前のレベルでなされた低級なものに過ぎなかったとする。丸山の批判者にも(自称)継承者にも欠けていたのは、丸山が持っていた「世界」観念であった。この世にある正/不正、善/悪、内/外などといったあらゆる区分は、所詮相対的なものでしかないという痛烈な自覚を持ってしまった者は、もはや何事をも超越的に評価してみせることができない。超越的な立場から何らかの区分に物事を押し込める振る舞いは、この世にある区分を素朴には信じられない者にとってはあまりに無邪気で滑稽なことに映らざるをえないのである。これは単なる相対主義ではない。いってみれば、口先だけの相対主義ではなく、個人に不条理かつ無根拠な倫理的態度決定を迫る相対主義なのである。鎌田は、丸山眞男が、このような、ある種の不条理で無根拠な「世界」観念を持っていた(持ちかけていた)と言う。「福沢的な相対主義を作動させる空間的な条件への問いは、唯物論者であれキリスト者であれ主体の超越性を破砕する「世界」を見つめた者の思考へ丸山を近づける。この「世界」観念の転回こそ丸山の「政治」認識=運動を規定する導きの糸なのである」。例えば、丸山眞男を近代主義者として批判する者は、丸山が近代を絶対化していると勝手に仮定している時点で丸山以前である。丸山の批判者も継承者も、あらゆる物事が相対的であることを個人に徹底して知らしめる「世界」観念とは無縁の人たちだった。
 こうした「世界」観念を持ったとき、「政治」はどのようなものとして現れるのか。「丸山が究極的に求めたのは、明六社に代表される自生的な小集団が複数的に分立し、そのいずれもが支配的な地位に立つことなくポリフォニックな討論と競争を継続する、しかもこの競争が持続される限りでそれが同時に他者への寛容の表現でもある光景なのだ」。鎌田はさらに敷衍して言う。

――要するに、以上の諸考察は全て政治に他者を導入する実践、――非政治的集団を政治集団から解放させる凡庸な自由主義にすぎないかにみえて、この自立化を通して前者と後者に討論と契約を樹立する新たな空間的な実践に関わる。彼[丸山]自身がそのような定義を用いていないにしても、こうした空間の創設および維持こそ、(狭義の政治、つまり「あらゆる政治権力は常に腐敗する」という意味での政治から区別された)丸山にとっての「政治」なのである。(「丸山真男論」)                      

 このような独特の「政治」観念は、ハンナ・アーレントの「政治」あるいは「活動」によく似ている。「空間の創設および維持」という言い方は、アーレントの『革命について』を連想させるし、鎌田自身、この論文も含め多くの文章でアーレントの「活動」概念を積極的に参照している。彼が丸山やアーレントに見出す「政治」や「活動」は、鎌田の言葉で言うところの「真理(道理)」や「運動」に関わるものとして把握される。「「道理」(理性的なもの)は単一の存在の権限ではなく複数の諸契機の闘争を通して自己を貫徹すること、「運動」は真理を伝達する媒体であるというよりはその存在様式そのものであること、さらに、人間と人間の関係に関わる事柄に理論に真理を機械的に適用すること自体が「政治」の抑圧でありそこでは無矛盾性にこだわらず他者との交通空間を維持することがむしろ「真理」であるということ」が、鎌田の議論の前提である。ここには、彼の議論に通底して見られる、ある重大な過誤、ないしは彼の精神的歪みの根底にあるものが見え隠れするが、それは後で述べよう。
 すでに述べたように鎌田において、「政治」は「批評」や「運動」と同義である。それは倫理的であり実存的であり無限持続的なものであるほかない。ここまできてはじめて、連載「進行中の批評」第一回冒頭の「宣言文」が理解できる。

――長い間、私は石川啄木の所謂「批評」=「明日の考察」を求めていた。空想上の勝利の全てを拒絶して、「今日」の主題の具体的な分析が「明日」への必要条件をも具体的に指示する考察、世界の愚劣さに飛び込まされてそれらを浄化する実践に、自分自身がどうしても着手したかった。それは決して「生きた言葉との接触を回復する」という意味ではない。私が書くのは、逆に状況的な言葉がことごとく死に絶えているからであり、いかに巧みに自分を粉飾しても、弛緩と腐敗が彼らの「書くこと」の微かな差異のうちに露出する他ないからだ。――だが、前口上はよそう。考察の成否、私の言葉が対象同様死に絶えていないか否か、それについては今後の実践を見てほしい。今言えるのは、私にとって批評上の格率は一つしかなく、それゆえ恐れることなく状況判断を提示する、ということだけだ。「明晰化の作業は、勇気をもって行わなければならない。勇気がないと、その作業は、たんなる利口なお遊びになってしまう」(ヴィトゲンシュタイン)。(「進行中の批評① NAMへの自立、NAMからの自立」、太字原文、傍点引用者)

 「状況的な言葉」とは、魯迅のように、世の不正に憤りつつも「世界」観念を持った者が高い倫理性(勇気)を持って「正しさ」を提示するような言葉である。それは「恐れることなく状況判断を提示する」ものである。そして、それを永続的に行い、他者からの反論に誠実に応え、容易に「誤り」へと転化する「正しさ」を「正しさ」であらしめ続けることこそが「政治」であり「批評」であり「運動」なのである。
 そのために必要なのは、「分析」することである。具体的には「世界には理由のある憂鬱が山ほどあることを明確にする作業」「汲めども尽きぬ「怒り」を温顔に変えたと称する試みに対してそれが単に忘れっぽかっただけであることを指摘する作業」がその内容となる(「進行中の批評⑤ 批評と放蕩」、傍点原文)。
 さて、私は先に、鎌田哲哉が頻用する語彙として「分析」を挙げ、「我々」という言葉とともに、それが鎌田の自己矛盾ないし自己崩壊の「徴候」だと述べた(五頁)。鎌田において「分析」はどのような位置を占めるのか。それを考えるにあたって見るべきは、小林秀雄のドストエフスキー論を扱った長大な論文「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」である。この論文は『批評空間』と『重力』に分けて発表されたもので(以後、両者を区別しない)、鎌田自身にとってはこれこそが本来のデビュー作であるはずだった。というのも、群像新人文学賞を「丸山真男論」で当選する数年前の、おそらく一九九五年頃、鎌田はこの論文を『批評空間』に投稿していたからである。のちに鎌田が初めて『批評空間』のシンポジウムに参加した際、柄谷行人は次のように言っている、「鎌田さんは(中略)以前に『批評空間』に小林秀雄論を投稿してきていた。浅田彰をボロクソにやっつけているんだけれども、そのためではなく、長さの問題で、載せられなかった。四〇〇枚以上もあったから『批評空間』に掲載できるように改稿しろと言ったら、断ってきたからです(笑)」(共同討議「いま批評の場所はどこにあるのか」)。鎌田自身はこのことを相当根に持っていたようだが(「内藤祐治への感謝」)、何にせよ、「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」は鎌田が渾身の力を込めて、彼の「理論(分析)」を詳細に述べたものにほかならない。
 もっとも、その長大さにもかかわらず、この論文の結論は本論を必要としないほどに純真な鎌田の心情吐露でしかない。私がこの論文に見たいのは、傍から見ればただの心情吐露でしかない結論を得るために、鎌田はなにゆえこのような長大な文章を書かねばならなかったかという点である。鎌田の胸中にはどのような思いが渦巻いていたのか。自己矛盾ないし自己崩壊の「徴候」などという、やくざな言葉はもうやめよう。理屈や解釈を考えても虚しいだけだ。小林秀雄はラスコーリニコフの言動に余計な解釈を加える愚を戒めて言う、「そうだ、見ることが必要なのである。だが、評家は考えてしまう」(「「罪と罰」についてⅡ」、傍点原文)。



 「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」は、鎌田自身の言葉を借りて言うなら、小林秀雄の「ドストエフスキー論、特に戦後の諸考察を、できるだけ理論的に読んだ」ものである(共同討議「いま批評の場所はどこにあるのか」での発言)。小林が戦後発表したドストエフスキー論は、「「罪と罰」についてⅡ」と「「白痴」についてⅡ」である。特に後者により当てはまることだが、ドストエフスキーや作中人物に取り憑いたようにして語る小林の文章は、読む者を驚かせる。これらの文章を「理論」的に考察したのが、鎌田の「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」である。異様な文体でありながらも読者を唸らせる文章を書いた小林秀雄は、まさにそのときにこそ、最高度に「理論」的であった、というのが議論の骨子である。結論は、最高度に「理論」的だった小林に「我々」が学んでなすべきことは、必ずしも彼のようにノート形式で文章をつづることではなく、各々の必要に応じたやり方で、徹底して「理論」的に書くことだ、というものである。言い換えれば、「理論」的に見えないにもかかわらず読者を圧倒する小林のドストエフスキー論が、実は「理論」的に書かれていた、ゆえに、「我々」も「理論」に徹して明晰に書けばよいのであって、彼のような異様な文体をとる必要はない、というのである。
 この論文の隠れたモチーフは、鎌田哲哉のなかにある江藤淳的性格を小林秀雄によって批判し去ることだった。「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」の後半が掲載された『重力02』(二〇〇三年)には、鎌田がデビュー以前に欠いた二つの未発表論文が補遺として載せられている。一つは「準備のためのノート――江藤淳「小林秀雄」における読解の基礎原理の破壊」(一九九〇年十月九日、札幌。一九九三年二月、大麻にて全面改稿)で、もう一つは「山城むつみ「小林批評のクリティカル・ポイント」について」(一九九五年一〇月三一日、東京。一部修正)であり、どちらも彼の「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」を書くための前提となる考察がなされている。特に前者は一人称が「僕」となっている点をはじめ、文章に柔らかさがあることが特徴的だ。
 「準備のためのノート――江藤淳「小林秀雄」における読解の基礎原理の破壊」での徹底した江藤批判は、次のようなものである、江藤淳は「私」を語ろうとしてそのまま「私の言葉」で語ろうとするが、言葉は商品のように流通するがゆえに流通するものであって個人が独占できるものではないがゆえに、江藤のやり方は原理的に間違っている(一頁参照)。「私」を語るには、「私」を文章から消去した「理論」によるほかない、というよりむしろ、「理論」によってしか真に「私」を語ることはできないのだ、と。鎌田は議論の途中で「他者」という概念を持ち出すが、その重要性は見かけだけのものである。彼にとって重要なのは、真に「私」を取り戻すことだった。次の文章は、江藤を鎌田として言い換えて読むと面白い。文体の柔らかさにも注目してほしい。

 おそらく彼[江藤]がどうしても「私の言葉」を必要とした本当の理由は、「概念」が(江藤がいうのとは逆に)たとえ「生きている」としても、すなわち現実の諸関係を記述するためにどれほど有効に機能していようと、その有用性には決して還元できない本質的な異和とねじれとが彼の内部に存在するからなのだろう(中略)。それは、(中略)「私」をつかむ切迫した危機の率直で鋭敏な表現であり、この率直さは批評が批評でありうるための絶対的な条件でありながら、決して誰もがしていることではない。

――人には「私の言葉」を消去することによってしか私を語りえないことがあるのだ。たとえばマルクスによって、「資本論」が私の言葉であるのは、それが資本の運動の徹底的な記述であるという逆説による。理論主義は、自己を自己として徹底する限りで私(ただし非―江藤的な意味での)を奪回することが可能になる。それぞれの個人は、私を「私」と書くことによってではなく、自分に必要な事柄を必要な形式で語ることによってはじめて私の言葉に到達する他ない。小林の理論主義は、生きる試みのなかで僕達をそれぞれにつかむ異和(小林のいわゆる宿命)への彼の固執と直ちに同義である。(「準備のためのノート」、傍点原文)

 「小林の理論主義」という言い方には違和感を覚えずにいられないが、鎌田にとって「理論」が、自分のなかにある許しがたい江藤的な自己絶対化の契機を馴致するための装置であったことを思えば、とやかく言うべきことではない。小林秀雄のドストエフスキー論を「理論」的に読むことは、彼にとって生きるために必要なことであった。

――最後に僕は僕にとって必要な現実を書く。「何をなすべきか」という当為ではなく「いかに強いられているか」という必然として、そして「ドストエフスキー・ノート」についての僕の試みが理論的―実践的に証明してゆくはずの命題として、だが何よりも僕自身が生きることをこれから再び始めるために、そのことを書きとめる。――すなわち、書くことは書くことであり、生きることは生きることである。その誤差は「算術的に」(中略)正確であり、僕たちに可能なのは、この分裂を生きることだけである。(同上)

 この文章は論理的でない。「書くこと」と「生きること」が違うことであるのに、なぜ「僕自身が生きることをこれから再び始めるために」このようなことを「書く」のか。だが、そのような矛盾は問題ではない。私なりに鎌田の胸中を忖度するなら、鎌田は「書くこと」と「生きること」を区別しようとしているが、この両者の上に「正しくあること」という超越項が存在し、それが「書くこと」において当為として現れ、その当為を受けて「生きること」が駆動する。つまり、「書くこと」は安易な「私」を排除した当為の「理論」という名の倫理であらねばならず、それが私の「生きること」の指針となるのである。「書くこと」と「生きること」の密接な関係ゆえに、鎌田は小林に依拠して江藤を徹底的に批判した「準備のためのノート」を次のようにして閉じた、「僕がここで真に区別したかったのは、生きることについての両者の姿勢の差異だった。だがさらにいえば、それはすでに小林秀雄の問題でも江藤淳の問題でもありえない」。
 「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」は倫理を説いた論文だった。鎌田にとって、徹底的して「理論」的に小林秀雄を読み込むことは、「生きる」ために必要なことだったのである。「理論」が「私」を排するということは、「理論」が理屈から成るということである。理屈は自意識の専売特許である。この時点で、どれだけ鎌田哲哉が切実かつ誠実であろうと、自意識の空転から逃れられないことは明らかである。この論文のなかで「小林が「見る」のは、(中略)内省と行為の間に広がる深淵である」と言うとき、鎌田は自分自身の「書くこと」(理論・内省)と「生きること」(行為)の間に広がる「深淵」を見なかったのか。こうした反論に対し、鎌田は言うだろう、「我々は(中略)「理論」の絶対的な遅れのなかに永久にあるほかない(中略)としても、それを我々自身の言葉で明晰に言語化する試みは依然可能だと考える」(「山城むつみ「小林批評のクリティカル・ポイント」について」、傍点引用者)。ここにある矛盾については目をつむろう。私が気になるのは、鎌田の逆説的で余裕のない口吻であり、このように考えた鎌田が現実にたどった末路についてである。
 鎌田は無理をしている。「理論」にせよ「正しさ」にせよ、鎌田は自分を縛りつけることしかしていない。私はそれ自体を否定はしない。だが、人には向き不向きというものがある。気質といってもよい。問題は、自分を縛りつけた彼が、のちにどのような人間になってしまったかという点にある。彼は自分を縛りつけられるタイプの人間ではなかったのである。さらに言うなら、そういうタイプの人間でないことは、鎌田の異様に硬直した文体や、すでに指摘したようなあまりに直情的で自分勝手な心情吐露を見れば明らかであった。鎌田がもし、自分に素直であったなら、何らかの軌道修正ができたはずである。だが、鎌田はそれをしなかった。「準備のためのノート」を書いた頃の鎌田であれば、かろうじてできていたかもしれないが。
 鎌田に一貫してなかったものは何か。



 鎌田哲哉が考える「政治」がハンナ・アーレントのそれによく似ていることはすでに述べた。だが、両者はある点であまりに対照的である。鎌田は、次のようなことを言える人間ではなかった。

[インタヴュアー]彼ら[学者]は今日、人類の歴史的発展の現段階において未来にありうる選択肢は、資本主義か社会主義しかないという見解をとっています。別の選択肢があると思われますか。
HA[アーレント]歴史上そのような選択肢があるとは思えません。未来に何が起こるかわかったものではありません。そんな「人類の歴史的発展」などという大袈裟な話はやめましょう――十中八九そのどちらとも一致しない方向に向かうでしょうから、私たちのびっくりするようなことになるのを楽しみにしていましょう。
(「政治と革命についての考察」『暴力について』所収、傍点引用者)

 アーレントの著書を読む者は、間違いなくその迂遠な言い回し、論旨不明な展開に、ときに魅了され、ときに辟易させられる。もちろんよく読めば一定の骨子をとりだすことができるのだが、それはともかく、ここで傍点を付したアーレントの発言は、一体何を意味するのか。
 これは奇蹟である。アーレントは、いかなる状況にあろうと、絶望とも希望とも違う、精神の根底にある明るさを常に持ち続けよ、と言うのである。この発言を無責任だと難ずるのは野暮であり、文字通りに受け取って心躍らせるのは軽薄である。そして、この発言の背後にある彼女の揺るぎない信頼感を見ずして、「活動」や「政治」を言うのは滑稽であろう。奇蹟は、何かを信頼するところに生まれる。何かを新しく始める奇蹟の能力とされる「活動」とは、人が自らの生きる世界を信頼しているからこそ可能となる。こう言ってもいい、奇蹟がいわゆる奇蹟に見えるのは、理屈だけが先行し世界への信頼感を失っているからであり、本来、奇蹟こそごくごく当たり前に起こっている現象でしかないのだ、と。
 小林秀雄もまた、世界への信頼感を持った人間だった。小林は、馬鹿/悧巧というくだらぬ枠組みから離れるように説く。「馬鹿とは、多かれ少なかれ悧巧に足りないものだという安易な考え方」から逃れるチャンスは、「例えば何という馬鹿だ、馬鹿ほど怖いものはない、自分には、どうしてああ馬鹿になれるかまったく理解できない」と誰もが言うときにこそある。これが「馬鹿は馬鹿なりに完全であって、足りない人間ではないという簡明な事実を合点るチャンス」である。小林はある種の世界観の転換を見る、「馬鹿が怖いと思った時、実人生の姿がチラリと見えたのである」。人との本当の意味での付き合いを通じて世界は違った風に見え出す。

――そして、あの世界がだんだんとよく見えてくる、あの困った世界が。それぞれの馬鹿はそれぞれ馬鹿なりに完全な、どうしようもない世界が。困った世界だが、信ずるに足りる唯一の世界だ。そういう世界だけが、はっきり見えて来て、他の世界が消えて了って、はじめて捨てようとしなくても人は己を捨てる事が出来るのだろう。志を立てようとしなくても志は立つのだろうと思える。それまでは、空想の世界にいるのである、上等な空想であろうと下等な空想であろうと。(「匹夫不可奪志」、傍点引用者)

 一方の鎌田哲哉は、何ものも信頼できない人間だった。
 彼には、アーレントや小林にある信頼感が見えなかった。それは単なる誤読というより、鎌田哲哉という人間が必然的に犯した誤読である。鎌田が「恐れることなく状況的な判断を提示」(十一頁)し、他者からの批判には誠実に応え、「非政治的集団を政治集団から解放させる凡庸な自由主義にすぎないかにみえて、この自立化を通して前者と後者に討論と契約を樹立する新たな空間的な実践」(十頁)を行ったつもりでいても、それは独りよがりなものでしかない。鎌田哲哉には、他者や言葉をも包含する世界への信頼感が欠けていた。彼は自意識の内部で空転を続けていただけだった。だから、『重力』で関わった松本圭二は、鎌田には「批評の言葉如きで沈黙してしまうやつは最初から沈黙しとけ、死んでしまうようなやつは死んでしまえ、と言い切ってしまう図太さがある」(七頁)と言ったのである。
 彼がいう「批評」「政治」「運動」が、常に世界の不正をただすという方向でしか問われないのも、奇蹟を起こすことが「政治」であるというアーレントとの差異を明瞭に証し立てている。鎌田は「僕は、正当な批判ならいくらでも受け入れるけど、自己相対化ができない奴等を野放しにするのは絶対にいやです」と言う(石川忠司との対談「文壇政治屋を撃つ」での発言)。しかし、「私の不信が何もしないでいる疲労と怠惰の正当化に常に陥りかけるであろう愚劣さ」(七頁)という過剰な自己反省が示すように、実際に鎌田が嫌がっているのは、自己相対化ができない自分自身のことである。過剰な自己反省を公の文章で書いてしまうという振る舞い自体が、自己相対化ができずに、鎌田が重要だという「他者」に無関心である何よりの証拠であろう。「他者」に強いられることを踏まえてしか倫理は語れないと鎌田は言うのだが、鎌田は倫理を「他者」に強いていただけだ。彼が文中で「我々」ということを思えば、彼は自分の自意識の空間へ「他者」を強引に連れ込むことを「批評」であり「政治」であると言ったのではないかと疑わせる。
 だが、鎌田哲哉の議論の盲点を示すことに意味はない。今私がいった程度の批判は、おそらく当時の鎌田は周囲から受けていただろう。鎌田に信頼感が欠けていたと言ってもそれは外在的な指摘でしかない。むしろ、鎌田はなぜ、自意識の空転から抜け出せなかったのか、それが問題である。小林秀雄は、そのような人間を「狂人」と呼んだ。



 「狂人とは、狂人たらんとする不幸な意志に燃えている人間である」(「金閣焼亡」)。狂人は頭が悪いのではない。考えることはできるのだが、その考えが頑な過ぎるのである。「狂人は間違って考えるのではない、寧ろ正しい考えに閉じこめられて身動きが出来ない」。なぜなのか。それは自分の考えを変えるために必要な、「真似」という契機が、狂人にはないからである。画家は模写という先人の真似をするのが、それは「信頼し尊重する人の思想を、よく理解したいと思うと、画家は自ら模倣という行動に誘われる」からである。狂人が、何かを真似て自分の「正しい考え」から脱け出せないのは、「他人への信頼」が持てないからである。

――狂人という閉ざされた精神には、他人への信頼が欠けている。他人というものが、そもそも存在しない。したがって、真似はするが、自分自身を真似るより他仕方がない。(中略)彼は、自分の狂気を執拗に追うより他に何の関心もない。果てしのない自己との会話である。犯人[金閣寺に放火した青年]に反省が欠けているのではない。反省のための反省しかできないのである。この孤独な演技者は、拍手も喝采もしてくれない自己という観客の前で、いつも演技を繰り返さねばならぬ。その意識が、彼の無効な演技の唯一の推進力であり、彼はいつもそれに耐えきれず発作を起す。そんな風に思われる。(「金閣焼亡」、傍点引用者)

小林秀雄は「狂人と同棲もしたし、交友もあった」ために、このような洞察を持ったと言うが、私には、かつての小林自身が狂人に近しかったという自覚がなかったとは思えない。小林が『罪と罰』を「如何に生くべきかを問うた或る「猛り狂った良心」の記録」と言うとき、彼は自分の半生を思い浮かべなかったはずはない。

――自意識の過剰に苦しむとは、流れてやまぬ意識の最先端に、自我という未来に向かう「無」を常に感じている苦しみに外なるまい。(中略)絶望的な自嘲は、ラスコオリニコフには親しい逃げ道なのだが、逃げ道が袋小路であることも、彼はよく承知していた。(中略)生きて行く理由は見付からぬが、何故死なないでいるのか解らない、そういうときに、生きる悲しみがラスコオリニコフの胸を締めつけるのである。(「「罪と罰」についてⅡ」)

 ラスコオリニコフの周りには、優しき人々がいた。ソオニャは「見抜いて了う。この人が何を言おうと何を為ようと、神様は御存じた、この人は限りなく不幸な人だ、と」。ソオニャはラスコオリニコフに聖書を読み聞かせ、彼の自白を結果としてもたらすことになったが、それでも彼は依然自意識の渦から脱け出せない。母親も妹もなぜだか自分を気遣ってくれる。だが、彼は変わらない、変われない。

――ラスコオリニコフはソオニャの沈黙の力のような愛を痛切に感じるのだが、これに答える術を知らぬ。ここで彼の孤独も亦新しい暗礁に乗り上げるのである。何故俺は一人ぼっちではないのか。何故ソオニャも母親も妹も、俺の様な愛しても仕方のない奴を愛するのか。何という俺は不幸な男だろう。「ああ、もし俺が一人ぽっちで、誰ひとり愛してくれるものもなく、俺も決して人を愛さなかったとしたら、こんな事[傍点原文]は一切起こらなかったかも知れぬ」と彼は考える――これは深い洞察である。この時この主人公は、作者の思想の核心をチラリと見る。だが彼には、この考えを持ち堪える事が出来ぬ[傍点引用者]。(同上)

 私が言いたいことは明らかだろう。鎌田哲哉という狂人は「限りなく不幸な人」だった。彼は「正しい考えに閉じこめられて身動きが出来ない」。彼の書くものは「如何に生くべきかを問うた或る「猛り狂った良心」の記録」であったが、結局のところ、「他人への信頼が欠けている」ために、彼は「狂人たらんとする不幸な意志に燃えている人間」になってしまう。そこから脱け出せない。
 鎌田哲哉はなぜ、他人、ひいては「困った世界だが、信ずるに足りる唯一の世界」(十五頁)を信頼できなかったのか。そのチャンスはなかったのか。例えば、次のような鎌田の発言を顧みるとき、私は悲しみを禁じえない。

――実はね、『批評空間』のシンポジウムで最初にお会いした時は、本当は福田さん[対談相手の福田和也のこと]を叩くつもりでした。(中略)でも、控室におしぼりが一つしかなくて、そのとき「鎌田さんにも持ってきてあげて下さい」と福田さんが言ってくれたんです。僕は友達がいないから、人に親切にされて涙が出そうになって、結局方針を変更した。だめですね(笑)。(対談「江藤淳と私たち」)

 鎌田哲哉は理屈の上では福田和也を批判しようと思った。だが、福田の些細な親切によって、批判できなくなってしまった。理屈の蠢く自意識が、「困った世界だが、信ずるに足りる唯一の世界」に敗れたのである。彼はなぜ自分に素直にならなかったのか。ここで私が例示した出来事以外にも、似た出来事を鎌田は数多く経験していたはずだ。自分自身が「理論」や「正しさ」で割り切って生きられる人間ではないと、なぜ気付かなかったのか。極端なことを言えば、もし鎌田が「理論」や「正しさ」だけで生きられる人間なら、そのようにして生きればよかったのである。もし鎌田がいう「異和」(柄谷行人)だけで生きられるならそうすればいい。だが、現実は違う。鎌田はどうしようもなく感情に動かされる人間であり、誰かに深く感情移入してしまうタイプの人間だった。レトリカルな言い方をするなら、彼は「異和」より「共感」に生きてしまう人間だったのである。例えば、江藤淳への屈折した共感示すとき(十三頁)、あるいは、橋川文三の晩年の作の衰えに気付いて「(この人はもう死ぬんだ)と心から思った(事実彼はその後すぐ死んだ))」と書くとき(「橋川文三」)、小林秀雄の初期批評に可能性を見出して、小林が「一言一句を具体的に真っ向から分析して、死ぬまで若い奴とでも議論しあうとか、そういう小林をもう一度見たかった」と呟くとき(鼎談「小林秀雄を批評する」での発言)、柄谷行人の小林解釈を批判しつつも「たとえそれが、ある生きた持続への感覚を回復するために当時の彼がどうしても必要な作業であったとしても」と保留をつけるとき(「「ドストエフスキー・ノート」の諸問題」)、彼は自分が自己と他者との間に不可避に存在する「異和」に苦しんでいたのではなく、むしろ他者への「共感」に生きていたのである。そもそも、彼の文章が読者を魅了したのは、彼の「理論」ではく、彼の情熱であった。感情で動く人間は、それはそれなりの「理論」や「正しさ」があるのではないか(それを「理論」や「正しさ」と呼ぶとして)。そのことに思い至る道はなかったわけではないはずだ。
 しかし、このような指摘は虚しいだけだ。それらしい理屈で考えて、鎌田の錯誤を剔抉したところで何になろうか。現実の鎌田はすでに変質してしまっている。かつての輝いていた頃の鎌田は、もう二度と帰ってこない。私は小林秀雄の言葉を思い出す。

――人類の発展に好都合な発展だけがなぜ必然なのでしょう。歴史の必然と言うものが、そのような軽薄なものではないことは、僕等は、日常生活で、いやという程経験している筈だ。死なしたくない子供に死なれたからこそ、母親の心に子供の死の必然な事がこたえるのではないですか。僕等の望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、そこの処だけに、僕等は歴史の必然を経験するのである。(中略)この経験は、誰の日常生活にも親しき、誰の胸にもある素朴な歴史感情を作っている。若しそうでなければ、僕等は、運命という意味深長な言葉を発明した筈がないのであります。(「歴史と文学」、傍点引用者)

 鎌田哲哉の変質は、考えれば考えるほど必然に思えてくる。私は先にそのように述べてしまった(八頁)。だが、考えてはいけない、見なければならない。私の脳裏には「運命という意味深長な言葉」が憑いて離れない。ここがいけなかった、あのときこうすればよかった、などという指摘は、運命という圧倒的な言葉の前に、無価値である。「そうだ、見ることが必要なのである。だが、評家は考えてしまう」(十二頁)という小林の言葉は、運命を感得せよ、という意味にほかならない。実際、小林秀雄はラスコオリニコフに運命を見出していたように思える。小林が描くラスコオリニコフは、最後まで自意識の空転から脱がれられなかった。小林は言う、「ラスコオリニコフは、――やっぱり駄目だった」(「「罪と罰」についてⅡ」)。原作ではラスコオリニコフが新しく生まれ変わるという展開になるのだが、そこには読者を戸惑わせる飛躍があり、ドストエフスキーが強引にラスコオリニコフを再生させたという印象が強い。小林はドストエフスキー内部の飛躍が腑に落ちなかったからこそ、ラスコオリニコフは「やっぱり駄目だった」と言わねばならなかった。
 運命は、人を慄かせる。運命を前に、人は、厭世家になるか、悲劇人になるかを選択しなければならない。ニイチェに仮託して「悲劇は、人生肯定の最高の形式だ」と言う小林は、こう続ける。

――否定や逃避を好むものは悲劇人たり得ない。何も彼も進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。不幸だとか災いだとか死だとか、凡そ人生に於ける疑わしいもの、嫌悪すべきものを悉く無条件で肯定する精神を悲劇精神という。こういう精神のなす肯定は決して無智から来るのではない。(「悲劇について」)

 私は鎌田哲哉が運命というものに鈍感であったとは思わない。先程指摘したように、江藤淳や橋川文三、小林秀雄、柄谷行人に、理屈では否定しつつも感情ではどこか肯定感を持ってしまうとき、鎌田は、これらの人びとの運命を感じていたのではなかったか。その運命を生き抜こうとした彼らに悲劇人を見出しかけていたのではなかったか。「悲劇は理論家や観念派には、なかなか到来しにくいのである」(小林秀雄「政治と文学」)。鎌田は「理論」に生きられる人間ではなかった。悲劇に生きるべき人間であった、悲劇にしか生きられない人間であった。が、もはや、どうすべきであったかなどはどうでもよい。厳然たる事実としてあるのは、鎌田哲哉という人間は、運命を前に逃走し、醜く変質したことである。
 きっかけは、すでに述べたようにNAMの瓦解と柄谷行人への幻滅である。特に後者について言うなら、柄谷信奉者であった鎌田はまさに信奉者であるからこそ、NAM以前から変質の兆しを見せつつあった柄谷に対して批判を繰り返していた。NAMの瓦解過程で柄谷が見せたという醜態によって、鎌田は柄谷に見切りをつけ、「尼崎の老いた負け犬」(「「闇斎学と闇斎学派」について」)などという批判(批評?)を始める。それ以後の鎌田の歩みについては措いておこう。鎌田が柄谷行人に幻滅したとき、彼はかつて自分の惚れ込んだ柄谷像が崩壊するさまを見ただろう。NAMが始動し始めた頃に出版された柄谷の著書の文庫版『〈戦前〉の思考』の解説で、鎌田は「正直言って、私は柄谷行人の不合理な情熱に依然魅了され、その古風な怒りに無限のなつかしさを感じる一方、現在の彼が作り出す実践的な帰結には冷淡な感情しかもたない」と述べた。「冷淡な感情しかもたない」と言いながら、彼は、「統制的理念の不可能性と不可避性」や「進行中の批評① NAMへの自立、NAMからの自立」、あるいは柄谷へのインタヴュー「文学と運動」「飛躍と転回」で、批判を交えつつも極力柄谷を擁護し、柄谷の取り巻きを批判し続けた。安易な柄谷追従者がNAMの瓦解や柄谷への幻滅によって受けた衝撃より、NAMに入らず徹底して外部からその運動を批判し続けた鎌田の方が、遥かに甚大な衝撃を受けたことに疑いの余地はない。私は、柄谷に幻滅するまでの鎌田の言動は、多少の留保はつけつつも、立派なものであったと思う。問題はその後だった。
 鎌田哲哉のなかの柄谷行人が「死んだ」とき、彼は運命を噛みしめるべきだったのである。「死なしたくない子供に死なれたからこそ、母親の心に子供の死の必然な事がこたえるのではないですか」(十八頁)。宿命の自覚が勇気と確信をもたらすとすれば、運命の感得は悲哀と悔恨をもたらす。この二つが交差するとき、人は真に生きるだろう。だが、それは並大抵のことではない。加速する自己反省に呑まれた狂人鎌田哲哉は、宿命を知らなかった。真っ当に悲しむことのできない鎌田哲哉は、運命を知らなかった。心を傷つけ悲しみを生きるとは、そして、運命を噛みしめ悲劇を生きるとは、何と困難な道であろうか。

――心が傷つくという事はなかなか大した事であって、傷つき易い心を最後まで失わぬ人は決してざらにいるものではない。ほんと言えば作家としてほんものであるか、いかものであるかという事は、こういう心の一種の誠実のみにかかると言っても過言ではないと私は思う。大概の心は傷つくまでにふて腐れちまうか、泣き出すかどちらかである。(小林秀雄「文芸時評」)

 鎌田哲哉は「ふて腐れちま」ったのか、「泣き出」したのか、私は知らない。どちらにせよ、彼には「心の一種の誠実」がなかったことは確かである。だが、もうやめよう。余計な詮索はもうしまい。
 鎌田哲哉は悲劇を生き抜くことができなかった。運命から逃げ出した彼の姿はあまりに哀れである。それは、小林秀雄がラスコオリニコフに見たものであったかもしれない。
 鎌田哲哉は、――やっぱり駄目だった。



 雑誌『早稲田文学』での連載「進行中の批評」最終回は異様なものだった(二〇〇二年十一月号、文末には2002-08-04 とある)。ローマ字で書かれていたのである。鎌田は石川啄木の『ローマ字日記』を真似たのである。「A LETTER FROM N43°」(鎌田の故郷札幌の北緯が四三度)というタイトルも、啄木が大逆事件に際して書いた「A LETTER FROM PRISON」を真似ている。鎌田本人によれば、こうした表記法をとったのは昔から『ローマ字日記』が好きで、連載でも石川啄木の批評をずっと念頭に置いていた(十一頁参照)という以外に理由はないと言っているが、これは嘘である。
 彼は単に、公の場で文章を書けなかっただけだ。何度か指摘したように、他の論文の随所で露骨な心情吐露をしていたこと自体、彼が最初から公の場というものを意識できない人間であったことを示している。画家が先人を信頼しておこなう模写と違って、鎌田の真似という行為は、ただ彼が自分自身を誤魔化すためのものでしかなかった。
 ローマ字という仮面を被ってまで嘘をつく彼を嗤うことは容易い。狂人に相応しい振る舞いだと皮肉ることもできよう。が、あくまで私は、そんな鎌田の声に耳を傾けたい。

――Yôsuru ni, boku wa dame ni natteimasu. Aru seishin-teki na kinchô wo shirokuji-chû iji surukoto ga dekinai. Tokidoki kurai kimochi de mogakimasu. Futo nanika no dekigoto ya yujin no kioku ni torawarete, isshun wa funki shimasu ga, sujikan to sono jôtai wo mochikotae raremasen.(中略)Hige de naku, kijutsu no eikaku ga ushinaware, bunshô no zentai ga kesshô kara suna e, suna kara nigotta doro e, kaimetsu shitsutsu aru. Jibun no mi-kanketsu ni wa, tochû de chikara tsukite iki taeru mono no nai-teki seimei-ryoku no kokatsu wa aru ga, mi-kanketsu de aruga yue ni kaette imada namae wo motazu ni iru mono e hirakareteiru, to iu tegotae ga mattaku ari masen.(「進行中の批評最終回 A LETTER FROM N43°」)

  運命は、残酷である。

ひとつの運命

(二〇一四年三月三十一日完成、五月九日修正)

ひとつの運命

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-12

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted