丘沢静也についての小レポート

大槻漠 作

 丘沢静也(1948-)は東京大学文学部修士課程卒業後、東京都立大学(首都大東京)にて教壇に立っているドイツ文学者だ。丘沢静也は主に翻訳者として活動しており、ミヒャエル・エンデ、ヴァルター・ベンヤミン、フランツ・カフカなどの訳書を多数手掛けている。特に近年では光文社古典新訳文庫においてニーチェやカフカ、そしてヴィトゲンシュタインらの翻訳を担当している。
 光文社古典新訳文庫は「いま、息をしている言葉で」をキャッチコピーに掲げて二〇〇六年に創刊された新興レーベルで、文庫形式という斬新さもあってか売上は好調のようだ。しかし亀山郁夫訳の『カラマーゾフの兄弟』や野崎歓訳の『赤と黒』など、古典新訳文庫は誤訳をあまりに多く含んでいるとの指摘もある。こうした諸議論の背景には単純な誤訳の問題だけでなく、「いま、息をしている言葉」を重視する新訳の翻訳観と従来の翻訳観の間の、重大な認識齟齬の問題が潜んでいるように思われる。事実、光文社文芸局長兼文芸編集部編集長の駒井稔は、「翻訳文体は明治以来の日本の文化をつくってきた面もありますが、同時に西洋に対するあこがれや過大視も反映している。そういうものをはぎ取った等身大の翻訳にする。現代日本語で書かれた日本語作品として文学や哲学や社会科学を読めるようにするのが、このシリーズの狙いです。」と述べ、旧来の翻訳観への疑問をほのめかしている。丘沢静也の訳書については特にこれまで誤訳が指摘されていないが、先行訳と丘沢静訳との間に大きな印象の違いがあることは、丘沢静也自身が認めている。だとすれば問題が単なる誤訳問題の範疇に収まらず、新旧翻訳観の信念闘争の様相を呈してきた場合には、むしろこれまで大きな誤訳が指摘されていないがゆえに、丘沢静也の名は問題の中心に据えられることになるだろう。
 ところでヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙せねばならない(野矢茂樹訳)」という記述は有名だが、これを丘沢静也は古典新訳文庫において「語ることができないことについては、沈黙するしかない」と訳した。訳者あとがきにおいて丘沢静也は「ん? その気になれば語ることができるのだろうか。「せねばならない」にはお説教の匂いがする。」と旧訳への違和感を表してから、「「せねばならない」ならヴィトゲンシュタインはmußではなく、sollと書いただろう。助動詞soll(つまりsollen)の基本的な用法は、「主語に対する他者の意思」だ。助動詞muß(つまりmüssen)の基本的な用法は、「選択の余地がこれしかない」。最後の文章を普通に読めば、「語ることができないことは、黙っているしかない」となる。」と新訳にあたっての根拠を述べている。しかしあくまで教科書的逐語訳に準ずれば、müssenを「しなければならない」と訳すことは誤りではない。そもそも日本語においては「ねばならない」が義務の意味と当然の意味を同時に担ってしまうために、sollenとmüssenを文脈に頼らず訳しわけることはひどく難しい。だとすればこうした訳語の差異は翻訳業界内部においてのみ重大な些末な問題なのだろうか。いやsollenが重要な哲学用語であるからには、問題は些末な翻訳作法の問題にとどまらない。それどころかむしろそうした一見些末な翻訳観の問題こそが、日本語話者が西洋哲学や西洋文学を読むにあたってもっとも根源的で重大な問題であるかもしれない。前掲した引用において駒井稔が指摘せざるをえなかったように、明治以来日本にとって西洋文化の理解とはすなわち翻訳文体の構築そのものだったし、さらにいえば近代化という近代日本の建国自体が翻訳された西洋文化を礎になされたものだったのだから。
 sollenは哲学あるいは社会学用語として当為または不許不と訳される。それぞれ存在(sein)と不可不(müssen)に対比される用語だ。「あること」や「あらざるをえないこと」という自然必然性にたいして、「まさにあるべきこと」や「まさになすべきこと」といったある種の理念性を担うsollenは、実存哲学や社会倫理の文脈で多くの人を惹きつけてきた。確かに「主語に対する話者以外の意思」を基本用法とするSollenは、その背後に西洋的な神、あるいは超越的な第三審級の存在を仄めかす。進歩史観や倫理設計に魅せられた人間が、こうしたsollenという語に一種神秘的な魅力を感じることは極めて自然だ。事実、学生運動が盛んであった時代には、sollenこそが存在に先立つ実存の源であり、現在の神無き日本、理念なき日本に欠けている重要概念であると論じられもしたらしい。しかしながら学生運動の凋落とポストモダンの混乱を経た現代において、「seinに先立つsollen」という標語じみた言説ほど胡散臭く感じられるものはない。そもそもSollenは用法によっては「という噂だ」の意味で用いられることもある。また確度を表す用法においてmüssenは「そう思うほかない」という強い確度を示すが、sollenは「伝聞によればそう推測できる」程度の弱い確度を示す。つまりsollenが背後に仄めかすのは必ずしも神のごとき超越的第三審級であるとは限らない。たんなる常識的な一般論しか前提にしていない場合も多いのだ。だとすればsollenに神秘的な実存の根拠を読むような態度は、誤りではないにしても、やや過剰といえるだろう。難破船において各国の男性を海に飛び込ませるにはどう言うのが最適かというジョークにおいて、「みんな飛び込んでますよ(だからあなたも飛び込まなければ)」などいう台詞があてられる日本人にとって、sollenはむしろ馴染み深い概念であるようにすら思われる。
 さてここまで掘り下げてから丘沢静也の論理哲学論考訳者あとがきを振り返ると、そこにはやはり思想的な立場表明を読み取ることができる。「せねばならない」に「お説教」を感じるということは、すなわち「当為」に「押しつけがましさ」を感じるということにおおよそ等しい。確かに事実から乖離した理念には、独特の滑稽さと危うさがある。丘沢静也が青春を過ごしただろう時代を思い浮かべれば、もっともらしい理念を謳いあげ闘争に向かう人々の姿に、重々しさの押売りを見出してしまう彼の感性は想像に難くない。この日本的同調圧力と表裏一体の深刻さを糾弾せんとする丘沢静也の姿勢は、古典新訳文庫の他の訳書のあとがきからも明確に読みとれる。たとえばフランツ・カフカ『訴訟』の解説においても丘沢静也は、「おどろおどろしく深刻な『審判』は卒業したい。古典新訳文庫は、Der Processの意味をねじ曲げずに、すっきり『訴訟』というタイトルにした。」と書いている。さらに丘沢静也は「ブロートはカフカを宗教思想家にしようとした。そのせいもあって、まじめで深刻な「カフカ」像が流通するようになり、しかつめらしい顔をして「カフカ」が語られ、「カフカ」が論じられるようになったのかもしれない。」と書いているが、これはそのままブロートをウィーン学団に、カフカをヴィトゲンシュタインに、宗教思想家を実存哲学者と置き換えてしまっても意味は通じる。なるほど確かに「いま、息をしている言葉」で訳しなおすことは、神話化されてしまった諸作家たちを適切に読み直すための、優れた手段であるのかもしれない。
 しかしかつてはもっとも鮮烈な神話解体者でありながら、徐々にもっとも熱心な神話信仰者に成り変わっていった江藤淳の例を思い返すまでもなく、形而上学的な神話の解体は漏れなく新たな神話を呼び覚ます。ユーモアに満ちた陽気なカフカという像もまた、神話でないという保証はない。またカフカを論じるにあたってテクストの配置順序の変更もまた恣意的編集であると指摘していた丘沢静也が、論理哲学論考を訳するにあたっては、「じつは最初、この古典新訳文庫には、ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(以下、『論考』)を横組みで、ホーフマンスタール『チャンドス卿の手紙』(1902)を縦組みで、縦横ハイブリッドの1冊にしようと考えていた。『論考』を世紀転換期ウィーンの哲学の代表作として、『チャンドス卿』を文学の代表作として。」と無邪気に書いていることも、彼の考える恣意性の線引きの不確かさを感じさせて不安になる。もちろんそうした「ハイブリッド」はヴィトゲンシュタインの意図を鑑みて実行には移されなかったわけだが、そもそもそうした発想の軽さこそ、新訳の長所であるとともに致命傷となりうる決定的な急所だろう。
 そもそも正しい翻訳とははたしてなにか。「作者が言おうとしたこと」をそのままに他言語に移すことであるのか。それともいつでも「テクストそのもの」を回復できるように、ある程度の逐語訳に留まることであるのか。つまりsollenの翻訳に立つべきか、あるいはseinの翻訳に立つべきか。前者が新訳に後者が旧訳に対応しているならばまだしも問題は簡潔なのだが、読みやすさというまったく異なる尺度の存在によって事態はいっそう複雑になっている。けれど「正しさ」や「読みやすさ」といった尺度を厳密に定義し直すまでもなく、既に人々は古典を読んでいる。訳す以前の段階で内容を理解していなければ、実際に翻訳に取りかかることなどできないだろう。文社古典新訳文庫は「息をしている言葉」を掲げたが、そもそも「言葉になるまえの息(souffle)」を感じとれなければ翻訳などできないだろう。それはたんに他言語の学習を修めているか否かなどという問題ではない。言葉以前の段階で問題の前提を共有してしまっているか否か、という問題である。だからこそ「そうとしか読めない」という訳出が可能となるのだ。解釈の前提を既に共有してしまっていることが重要なのだ。「そうとしか読めない」という不可不な状態においてこそ、「こう訳さねばならない」という方針が産まれる。だとすれば少なくとも日本語圏においてseinとsollenの対立は、müssenによって解消されなければならない。この前解釈にむかってこそ努力しなければならない。
 しかしながら先述したとおり、日本語の「ねばならない」は義務も当然も同時に意味してしまう。そもそもsollenとmüssenの使い分けの必要性は、それぞれの語に対応する英語であるshouldとmustでもって考えると理解が早い。たとえば「He must take medicine.」は非文であるが、「He should take medicine.」は非文でない。なぜならmustは「主語に対する話者の意思」を意味するが、Shouldは「主語に対する話者以外の意思」を意味するからだ。「彼は薬を飲まねばならない」ことの必要性が、話者によってもたらされるのはややおかしい。だから「I must take medicine.」は非文でない。それでもShould(推奨)より強い強制力でもって彼に薬を飲ませなければならないのであれば、話者は内的な強制ではなく外的な強制を示す「have to」を用いることになる。しかしながらそもそも日本語においては、mustの意味で「ねばならない」を用いることは稀である。「私は薬を飲まなければならない」という文章さえ、「(一般常識に照らせば)私は薬を飲まなければならない」と解釈するのが普通だ。だとすればsollenこそ神無き日本に欠ける概念であると信じた運動家たちの希求を裏切って、実のところ日本に欠けているのはmüssenのほうだ。「みんな飛びこんでますよ」と言わなければ、彼に難破船から飛び降りることを強制できないのが、日本語という言語なのだ。
 しかし本当にそうであるならば、「seinとsollenの対立は、müssenによって解消されなければならない」と日本語でもって私がいうとき、その「ねばならない」はmüssenではなくsollenにこそ対応してしまう。かつて論理哲学論考のテーゼを「沈黙せねばならない」と訳さざるをえなかったように。なぜならば日本語には正しくmüssenに対応する語がないのだから。それでも私がmüssenを述べようとするならば、丘沢静也に習って「müssenによって解消するしかない」と言うしかない。けれどそのとき「この前解釈にむかってこそ努力しなければならない」と書いた私の決意が、十分救われているとは思えない。よって私が「言おうとした」元来の意思を正しく表現するために、実際の表現の手前で、私は沈黙せねばなるまい。

丘沢静也についての小レポート

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  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-12

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