石を積む
大槻漠 作
小説とはなにかと問いたいならば、「小説とはなにか」と問うてはならない。そもそも「小説とはなにか」という問いは自身の意味内容に相反し、当該問いの答えのまさに直上に築かれる。何故なら真に小説について無知であるものは、「小説とはなにか」という問いの存在もまた知りはしないからだ。小説についてある程度の共通理解を有していて初めて、当該問いは可能になる。
そしてそうした既知の公的な小説像に満足しているかぎり、彼には「小説とはなにか」と問う理由がない。よってにもかかわらずわざわざ改めて「小説とはなにか」と彼が問うとき、その問いはほとんど不可避に既知の公的な小説像にたいする異議申し立てとして機能してしまう。彼の当初の問題意識を置き去りにして、既知の公的な小説像ではなく、未知の私的な小説像をこそ希求してしまう。
つまり結局のところ「小説とはなにか」という問いは、「私にとって小説とはなにか」と補完される幾分身勝手なそれにすぎない。ゆえに当該問いから彼が導くことになる小説像も、所詮彼個人の夢想する理想的なそれに留まる。そして彼が夢を語るようにして小説を語り、浮き足立った解釈の自由に酔い溺れるとき、本来彼が求めていた小説一般に深く突き刺さる根源的本質は、ついに霧中に姿を消すだろう。
だから小説とはなにかと問いたいならば、その根源的本質を問いたいならば、「私にとって小説とはなにか」と問うてはならない。せめてむしろ当該問いは以下の通りに転倒されてしかるべきだ。すなわち、小説にとって私とはなにか。
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まずは小説における私の互換性とその周辺を議論する。
たとえば「ぼんやりとした不安」のような物理的には実在しない概念も、けれど文字を使えばこの通り書き表すことができる。文字をもって構成される小説という表現形式が、思惟や感情など心的内面の表現に適性を持つその所以だ。耳に聴こえない概念を奏でるには技術がいるし、眼に見えない対象を撮影するには工夫がいる。その点小説ほど無邪気に心中を表現できる媒体は他にない。しかしそうした文字の特性は、あくまで心的内面の表現を可能にしているに過ぎない。それが「可能であること」と「許可されていること」の区別は、正しくつけられてしかるべきだ。それでは文字一般の特性が心的内面の表現を可能にしている一方で、あまりに無邪気な心的内面の表現を許可しているのは、はたして誰か。もしくはいかなる効果によってか。
そもそも前提として、人間が感覚できる心的内面は当人のそれに限られている。他人の心中を推測することは可能だが、代わりにそれを感覚することは現実においてはふつうできない。だから一般的な文章においても、素朴な感覚の代理は許されていない。より正確に表現すれば、現実において二個の独立した心的内面は併存しえない。少なくとも二個の独立した心的内面を、同時に観測し体験することはできない。特に当該観測者がどちらか片方の心的内面の当事者であればなおさらだ。何故なら一般的に心的内面は、それぞれの主体に固有の領域であるからだ。もし仮に複数の心的内面を同時に観測できたとしても、それらの領域は実はもともと一個の心的内面だったのだということになる。独立した二個の内面などではなかったのだということになる。これはどんな案内掲示板にも、現在地は一箇所までしか記載されていないことに似ている。一度に複数人分の晩餐を食べることならできるとしても、一度に複数回の晩餐を食べることはどんな大食漢にもできないのと同じだ。心的内面と観測者はそれらの例と同様に、その緊密さゆえ必ず一対一に対応している。だから奇異な文章をもって感覚の代理を描くことは可能かもしれないが、その際当該文章は必ずなんらかの違和感を伴う。
このように一見自由に思われる心的内面の周囲は、実は暗黙の制限によって治められている。だとすれば当人自身を主語に冠していない内面告白には、相応の違和感が付帯してしかるべきだ。小説において物理的な制限を破ることは容易かもしれないが、それでも観念的な制限を無視することは容易でない。ゆえにもしこうした制限が表面上破られているような例があるとすれば、そこにはなにか考察に値する特別な事情が隠されていなければならない。
しかしながら話し言葉の文章規則は、こうした内面性にまつわる制限を実に素朴に反映している。たとえばそれが台詞である限り「私はとても怖かったです」と「彼はとても怖かったです」では、明らかに「怖かった」の語の意味が異なっている。前者の「怖かった」は感情にまつわる内面的な意味内容を成すのにたいして、後者の「怖かった」は相貌にまつわる外見的な意味内容を成している。発話者当人とは一致しえない三人称を主語に冠した内面告白が、十分不自然であるがゆえに起こるほとんど不可避の読み換えだ。このように話し言葉の私は、他の主語とは互換性のない内面的特徴を有している。
しかし小説の地の文においては、つまり書き言葉においては事情が異なる。たとえば書き言葉においては「私はとても怖かった」の主語を、「彼はとても怖かった」と置換しても同様の意味で文が成り立ちうる。つまり「彼はとても怖かった」という文も、感情にまつわる内面的な文章として解釈することが可能だ。彼という三人称が明らかに筆記者当人とは別の人物を指しているにもかかわらず。
このとき話し言葉では許されなかった三人称を主語に冠した内面告白が、小説においては表面的には許されているようにみえる。しかしそれでもなお感覚の代理が許可されないとするならば、そこにはなにか考察に値する特別な事情が含まれているはずだ。でなければ話し言葉では許されていなかった三人称を主語に冠した内面告白が、唐突に許されるはずがない。しかしまず論じられるべきは、むしろなぜ話し言葉においてはそれが許されていなかったのかという点だ。
そもそも三人称を主語に冠した内面告白は、話し言葉においても可能ではあった。確かに「怖い」という語には二種の意味があるために、「彼はとても怖かったです」を内面告白の台詞として読むことは極めて難しい。けれどその代わりに「民衆は怒っています」とやや無理矢理に言うことはできる。けれど本当に重要なのは、そうした台詞には決して少なくない違和感が伴う事実だ。実際に当該台詞を誰かが厚顔無恥にも発した場合には、「どうしてあなたには彼らの気持ちがわかるのか。どうしてそんなふうに代弁できるのか」というような反論がつい浮かぶ。ここに可能ではあるが許可されていない典型がある。一方で書き言葉においては、ごくごく自然に「民衆は怒っていた」と書くことができる。つまり書き言葉においては三人称による内面告白が可能だし、しかも許可されている。
そして人が理由を求めるのは、可能であることがにもかかわらず禁じられている場合だ。可能であることが許可されていても、さして疑問は浮かばない。通行可能な道路を散歩しているときに、なぜこの道を通ってよいのかとはふつう考えない。どうみても通行可能な道路への侵入がけれど阻まれた場合にこそ、人は理由を求めるのだ。だからまず検討されるべきなのは、なぜ書き言葉においては内面告白が許されているのかという疑問ではない。むしろなぜ話し言葉においてはそれが許されていなかったのかという疑問から、議論は始められなければならない。
では改めて、なぜ話し言葉においては私だけが特別なのか。話し言葉において私とは誰を指す語であるのか。しかし問いの答えは即座に与えられる。話し言葉において私とは、すなわちその台詞の発話者のことだ。たとえば「私は~」と誰かが語ったとき、「いま言った私というのは誰のことですか」と聞き返す人はいない。また複数の人間がかわるがわるに「私は~」「私は~」「私は~」と繰り返しても、それぞれの私がどの人物を指しているのか分からなくなるということはない。私が常に発話者当人を指す語であるからだ。そして前述したとおり他人の心中を推測することは可能だが、代わりにそれを感じることは現実においてはふつうできない。だからこそ話し言葉における私は、互換性のない内面的特徴を有していた。話し言葉は発話現場を蝶番にして現実の物理的身体と接続しているがゆえに、こうした物理的な不可能性を規則的な不当性として保持し続けているのだ。つまり話し言葉における私の特別性は、すなわち実在する発話者の物理的身体性によって保障されている。
だとすれば書き言葉における許容範囲の変動は、私という語の変質に由来しているに違いない。事実たとえば「私は言葉を話せません」という台詞は違和感を伴うが、「私は文字が書けない」という文章はさほど不自然でない。特にそれが小説においてであればなおさらだ。つまり少なくとも小説において、私という語は必ずしも筆記者当人を指し示さない。もし後者の私も筆記者を指示する語であったとしたら、当該例文は矛盾を含んで破綻してしまう。しかしそうはなっていないのだ。だから書き言葉における私は、往々にして筆記者から独立した一個のキャラクターに過ぎない。そのように私は変質している。話し言葉において有していた物理的な身体性を、他の人称に互換されない内面的特徴を、既に書き言葉における私は喪失している。であれば私が互換されうる一個のキャラクターに過ぎない以上、私が彼と同列に扱われることはむしろ自然だ。
傍証として書き言葉でも私と筆記者が明瞭に一致している場合には、私は依然として特別性を維持しうる。たとえば日記などにおいて「彼はとても怖かった」と書かれていたなら、当該「怖かった」はほとんどの場合で相貌にまつわる外見的な意味として読まれるだろう。話し言葉の場合と同じように、当該私は機能するだろう。日記であれば私が筆記者当人を指示していることは自明だからだ。また逆の例として舞台袖に隠れて発せられるナレーションは、小説の地の文と同様に他人であるところの役者の心的内面にまで言及することがある。しかしそこに違和感はない。少なくとも観客にとって、それが物理的身体を有していない声だからだ。誰からも発話者の顔がみえなければ、実在する発話者と台詞中の私との接続が緩むのは当然のことだ。
だからやはり逆説的に小説における私は、実在する筆記者との接続を失うことによって変質している。小説の私は筆記者を指示していない。少なくとも指示していないと解釈することが可能なのだ。だとすれば発話者が話し言葉の意味内容の内側に存在していたのにたいして、筆記者は書き言葉の意味内容の外部に存在していることになる。物語の外側から内側について語っていることになる。
ならば小説でおこなわれる内面告白一般は、実のところ告白などではない。私を含むすべての人称が無機的なキャラクターに過ぎない以上、告白をおこないうる主体性は既に小説の内部には存在しない。一見内面告白にみえるすべての文章は、実は小説の外部に存在する筆記者がおこなう内面描写に過ぎない。身体性を有する他人の心中を代わりに感じることはできないが、身体性を有さないキャラクターの心中を外から俯瞰することはひどく容易い。筆記者は心的内面の外側から内側について語っている。だから筆記者によって俯瞰され対象化された私は、既に互換性のある一個の描写対象以上の価値を持つことができない。
ところでこの他人と互換されてしまいうる私というキャラクター的な私は、一般的に語られる近代的個人のそれとあまりによく似ている。そしてそれは小説が繰り返し主題に掲げてきた自我意識にも通じている。小説一般は社会性や時代性を写す鏡であると、批評家たちがこぞって賞する所以だ。しかし本論はこうしたキャラクター的な私の性質を、すべて書き言葉の原理的条件からのみ導いてきた。社会性や時代性などの議論は一切してこなかった。さて、ならば合わせ鏡の最初の一枚は、はたしてどちらか。
※※※
次に小説における私の二重性とその周辺を議論する。
前節の議論では小説における私が筆記者当人を指示していないことが明らかになった。小説の私は他の人称によって代替される一個のキャラクターに過ぎなかった。だとすれば小説文中の私は、私という主体的な語の印象からはあまりに遠い。むしろ主体性の観点からすれば小説の外部に君臨する筆記者当人のほうが、余程私という語にはふさわしい。そこで今後は語の印象と内実の食い違いによって無駄に議論が煩雑化することを防ぐために、筆記者を「書いている私」、文中の私をせめて「書かれた私」と呼称することにする。能動態に強い主体性のニュアンスを込めて、受動態に客体性のニュアンスを込めてのことだ。
さて繰り返してきたとおり、小説において内面描写を独占しているのは書いている私であって、書かれた私はその描写対象に過ぎない。しかしにもかかわらず多くの小説において、書かれた私が物語の主人公に据えられやすいのははたして何故か。書かれた私は他の人称とその内面性においては同等であるにもかかわらず、それでもなお彼よりも私のほうが中心人物の人称に採用されやすいのはどうしてなのか。これは前節の議論をふまえれば一見不可解な事実だ。だからまずはその理由が明らかにされてよい。
たとえば小説において「彼の名前は太郎だ」や、「私の名前は太郎だ」は許される。さらに「次郎というのが彼の名前だ」も許されるし、同様に「次郎というのが私の名前だ」も許される。そしてどちらの場合においても彼と私を置換した両者の間に、大した意味内容の違いはない。ここまでは前節で確認したとおり、私は他の人称と互換的な凡庸な人称に過ぎない。ところが「彼の名前は太郎だ。太郎には弟がいる。次郎というのが彼の名前だ」は問題なく許されるのにたいして、「私の名前は太郎だ。太郎は弟がいる。次郎というのが私の名前だ」は明らかに許されていない。
このように書かれた私はその内面性において他の人称と積極的な差を持たないにもかかわらず、他の三人称との素朴な置換を拒む場合がある。これは彼が同時に複数の人物を指示しうる人称であるのにたいして、私は常に単一の人物しか指示しない人称であることに由来する。こうした書かれた私の性質は、固有名詞のそれに概ね近い。たとえば「彼は彼のことが嫌いだった」は文脈次第で二通りの解釈を持つ。つまり「いつも偉そうに振る舞ってしまう彼自身のことが、彼は嫌いだった」という意味にもとれるし、「いつも偉そう振る舞っているあの彼のことが、彼は嫌いだった」という意味にもとれる。しかし「太郎は太郎のことが嫌いだった」は自己嫌悪の意味にしか読めない。それと同様に「私は私のことが嫌いだった」もまた、自己嫌悪の意味にしか読めない。
しかし固有名詞の場合は、偶然の一致が起こりうる。小説中に太郎が複数人登場することはありうるし、そういう設定はたいしておかしくない。けれど私が複数人登場することはふつうないし、あったとしても奇抜な設定だ。だからふつう小説文中の私は常に独自性を保っている。書かれた私はただひとりしか存在しない。この独自性こそが、書かれた私が小説の中心に据えられやすいその理由だ。書かれた私は内面性においては一個のキャラクターに過ぎないにもかかわらず、その役割においては他の人称との互換を拒む主体的な語たりうる。
ここに小説文中の私は私という語の印象からあまりに遠いとしながらも、あくまで書かれた私と呼称することにした理由がある。私という文字を残しておいた理由がある。確かに書かれた私はそのキャラクター的な貧困さゆえに内面的な主体性を持たないが、けれど一方でその独自性ゆえに物語中では彼や彼女を差し置いて主体的に行動する。この書かれた私の奇妙な独自性やそれに支えられた主体性のせいで、書いている私だけに私という語を配分することが難しいのだ。書いている私だけを主題化するにはあまりにも、書かれた私の独自性は主張が強すぎる。
つまり往々にして小説は、異なる二種の私に引き裂かれている。内面的な主体性を担う書いている私と、物語主人公的な主体性を担う書かれた私。思い切って事態を抽象化すれば、こうした私の二重性は思惟と行動の分裂にも等しい。しかもここには奇妙な捻じれが存在する。書いている私は実在の身体性を有した主体であるにもかかわらず、内面的な主体を担っている。また一方で書かれた私は実在しない観念的な主体であるにもかかわらず、具体的な行動にまつわる主体を担っている。当然話し言葉をもって構成された物語であれば、こうした奇妙な二重性は起こりえない。たとえば舞台演劇ならば、役者の物理的身体を蝶番に思惟と行動は連結されている。前節で確認したとおり、発話者と台詞中の私は常に一致している。しかしやはり前節で確認したとおり小説においてはその形式的必然性から、書いている私と書かれた私の分裂が強制されている。
ところで前節において、小説における内面告白の難しさを指摘した。小説においては物語外部の書いている私が内面的主体性の一切を占有しているために、どれほど物語内部において巧妙に内面告白を試みても、結局は内面描写になってしまうという問題があった。しかし書いている私と書かれた私の分裂は、こうした内面告白の難しさをよりいっそう加速させている。最低限度の倫理的な問題として、分裂した私にまともな内面告白など期待できるはずがない。さらに当該分裂がその内部に奇妙な捻じれを含んでいるようではなおさらだ。どんなに誠実な私も、小説を書くにあたっては十分淫らにならざるをえない。何故ならそもそも書き言葉自体が既に、対象化と二重化の瑕疵を含むのだ。
また具体的な私小説作品を持ち出すまでもなく、こうした書いている私と書かれた私の分裂は度々小説の主題として掲げられてきた。むしろその差異を利用して、内面告白の不可能性と戯れてみせる作品も多くあった。しかし繰り返し問うがそうした主題は本当に、社会性や時代性によって用意されたのだろうか。そもそも本当に自我意識の問題が近代以降の芸術一般に課せられているのであれば、それはたとえば歌曲や映画においても広く主題化されていてしかるべきだ。しかしながら歌曲も映画も少なくとも小説ほどには、自我意識を主題化してはいない。だとすればやはり内面告白を巡る自我意識の問題は、書き言葉をもって構成される芸術に特有の問題ではないのか。それでもなお「確かに自我意識の問題は時代性や社会性によって用意されたのではないかもしれない。けれどたとえばその場合、自我意識の問題は人間固有の実存によって用意されたのではないか。書き言葉の性質などという外的な体系によってそれが用意されたなどというのは、いかにも飛躍だ」という意見はあるかもしれない。確かにそうなのかもしれない。けれどたとえば他の動物から人間を特権的に定義するとき、時に学者は言葉の使用を誇張する。確かに動物も声を使って複雑なコミュニケーションをとる。しかし人間ほど複雑な言葉を操る動物は少ないだろうし、ましてや書き言葉を使いこなす動物など他にいるはずもない。そんな言説はなるほど十分な説得力を持つ。確かに書き言葉を使いこなす人間は特別に優秀だ。しかしたとえば自画像を描くにあたっては鏡を使う。けれどそのとき覗き込まれているのはどちらなのか。同様に、自意識を書くにあたっては文字を使う。けれどそのとき覗き込まれているのははたしてどちらなのか。自己表現の素材にされているのは、はたしてどちらなのか。それでも実存の感覚だけは、書き言葉が抱える瑕疵の鏡像などではないはずだと、どうして彼はいえるのだろうか。それすらも、かつて人が書き残した言葉であるというのに。
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最後に小説における私の時間的不定性とその周辺を議論する。
前節と前々節においては、主に私という語の周辺を追ってきた。しかしだとすれば私という語を用いずに小説を書いた場合には、種々の問題は発生しないのだろうか。たとえば完全な三人称小説などであれば、厄介な自我意識の問題を避けて通ることができるのだろうか。もしもそうであるとしたら本論は、あくまで私小説やその亜種にのみ通用する限定的な議論にすぎない。冒頭に掲げた小説の根源的条件を明らかにするという試みは、ついに達せられないまま終わるだろう。けれど書き言葉が抱える瑕疵の影響は、私という語を超えて支配的だ。
確かに徹底的に私の内面性を廃した小説の創作も、それが極めて困難であるのは間違いないが、絶対に不可能だとまではいえない。三人称主語だけを使って写実的描写に徹すれば、ひとまずは内面告白を避けて通ることもできるだろう。けれどなにも私を構成する主観的な概念は、思惟や感情に限らない。むしろもっとどうしようもなく紛れ込むもの、そしてそれなしではいかなる主観も成り立たないものが確かにある。時制がそれだ。
いくら三人称を用いるとも小説が散文の一種である以上、時制を排除しえないことは自明だ。そしてふつう時制という文法規則は、とある誰かの視座に沿って運用される。たとえば同じ出来事の描写でも、「彼は書いた」と「彼は書く」では明らかに時間的な視座が異なっている。それでは当該視座ははたして誰のものであるかといえば、それは当然書いている私の視座に他ならない。映画からカメラの存在を排除しえないように、小説は時制を運用する私の存在を排除しえない。だから時制の運用にあたって小説は、ついに純粋な客観には徹しきれない。写実すら時制という主観を含むのだ。ここに書いている私の主観が書かれた私の主観を描写するという、分裂した私の問題が再帰している。
そしてそもそも時制という文法規則は、実際の発話行為を前提にして編まれている。たとえば「彼は走っていました」と話すとき、彼が走っていたのは発話以前の出来事だと解釈するのが普通だ。少なくとも走っている彼を発話者が目撃したのは、発話行為以前の出来事なのだろう。もしもいま現在彼が走っているのを発話者が観察している場合であれば、その台詞は「彼は走っています」となるはずだからだ。このように時制という文法規則は基本的に、発話時点を起点にそれ以前と以後を区別する表現なのだ。
けれどだとすればあらかじめ発話現場を喪失している書き言葉においては、時制という文法規則は当然健全には作動しない。私という語が書き言葉において変質を余儀なくされていたように、時制という主観的な体系もまた変質を強いられている。たとえば書き言葉において「彼は走っていた」と書くとき、それは必ずしも過去の記述にはならない。むしろ大抵の場合、それは現在の記述として解釈される。「財布を拾いました」と話せばそれは必ず過去に財布を拾ったという意味になるのに、「財布を拾った」はいままさに財布を拾ったという意味に解釈できてしまう。書き言葉においては発話時点が既に存在しないがゆえに、時制が本来の機能を失ってしまっているのだ。
だからもし「財布を拾った」という文を確実に過去の記述として読ませたいのであれば、「昨日財布を拾った」などのように時間にまつわるなんらかの修辞を用いる必要がある。しかし注意すべきこととしてこの「昨日」は、暗黙うちにとある現在を基準に用いられている。今日なくして昨日は定義できないからだ。だとすればその現在が書いている私の現在であるかそれとも書かれた私の現在であるかによって、文のニュアンスは当然異なってくる。もしも文章全体が回想に基づいて書かれている場合、昨日は書いている私にとっての過去だろう。そして文章は常に過去形によって綴られるだろう。しかしそれが文中のキャラクターにとっての昨日であった場合、次の文には現在形が採用されうる。たとえば「彼は昨日財布を拾った。けれど彼はまだそれを警察に届けていない」などのように。そしてさらに主語が私もしくはそれに準ずる語であった場合、事態はよりいっそう複雑になる。たとえば「私は昨日財布を拾った。けれど私はまだそれを警察に届けていない」という文における昨日は、はたして書いている私にとっての昨日なのか。それとも書かれた私にとっての昨日なのか。そもそもこれは記述なのか、それとも回想なのか。断言することは既にひどく難しい。
そしてこれは一度気がついてしまえば、ひどく煩わしい二意性だ。時制が誰かの視点によって運用されている以上、時制の揺れはすなわち視点の揺れに等しい。それは一度意識してしまった読者あるいは筆者にとっては、まさに苛立たしさの温床だ。しかも小説はある程度の物語性を保つために、必ず時間的な推移を含む。だから小説冒頭において書かれた私が定位している時間と、小説結末で書かれた私が定位している時間は概ねの場合において異なっている。そうした事情もふまえると小説における時間性は、極めて複雑に乱れている。事実往々にして小説における主文末には、過去形と非過去形が混在している。ここに一定の使用基準を見出すのは容易ではない。
ここに至ってはもはや誠実な内面告白など試みるだけもはや虚しい。私は空間的にも時間的にも分裂し、二種類の主体性の間で揺れ動いている。しかもそれは筆記者の人間的欠陥に由来する問題ではなく、書き言葉の瑕疵によって引き起こされた分裂なのだ。しかもそれは積極的に見出すことのできる欠陥ではない。こうした書き言葉の瑕疵は、話し言葉を強引に書き言葉に移してしまったがために生じた瑕疵だ。だとすればそれは欠陥というよりはむしろ不備と呼ぶべきだろう。もともと言葉が書き言葉として編まれたものであったならば、これほどの混乱は生じなかったに違いない。これまで検討してきた様々な欠陥は、発話現場を有さない書き言葉の土壌に最適な言語体系を、十分な制度で構築できなかった不手際に由来している。
しかも一度露見してしまった不備は、小説全体を脅かす。誠実であろうとすればするほど、弁明のために綴られた書き言葉は私の誠意を乱し続ける。往々にして人がもっとも饒舌になるのは、露呈してしまった不備を覆い隠そうとするときだ。しかし不備を覆い隠すための書き言葉がさらなる不備を含んでいるからには、ついに私の誠実が救われることはない。むしろ新たに生じた不備は、いっそうの釈明を私に求める。一度海水を飲んでしまえばもう助からない。苦しみぬいた末に洋上で孤独に死ぬだけだ。書き始めたからには書き続けなければならない。けれどそうした努力は書き言葉の不備のために、ついに救われることはない。だとすればそれはもはや病に等しい。顔の汚れが鏡の疵であると気がつかず、必死にそれを拭い去ろうと擦るとき、彼は自らの手でさらに顔面に疵を刻む。それを執拗に繰り返す。傍からみれば、それはさぞかし滑稽な悲劇だろう。
※※※
ところで簡単のためにここまでは、日本語に限定して議論を進めてきた。そして本論の分析がそのまま諸外国語に転用できるかといえば、それは無理だろう。地理的にも時間的にも言語は多様だ。日本語の内部においてさえ、方言ごとにその性質は異なっている。しかしながらまた同時に、話し言葉と書き言葉で運用形態が一切変化しない言語など、はたして存在するだろうか。もしも存在したとして、はたして当該言語はその純潔を保ち続けることができるだろうか。もちろんできるはずがない。
そもそもいかなる言語も完全ではない。ひとつの語を用意するたびに、その語はまた連鎖的に新たな概念を呼び覚ます。あらゆる概念とその用法にたいして一対一に専用の語を用意しておくことは、その際限の無さ故についに不可能だろう。だとすればいかなる言語も自身の内側に不備を孕まずにはいられない。そもそも完全な言語を完全な言語のまま凍結保存しておくなどという発想は、仮定の話だとしてもあまりにナンセンスだ。使われてこその言語なのだから。
また発話されるものとして形成された既存の言語体系が、現実の発話行為を喪失したまま酷使される小説という場は、不備が肥大するにあたっては絶好の環境だ。不備を暴露するためだけに書かれたような小説すら存在する。それほどに小説は言語にとって不浄な場なのだ。だから不備の属性や種類はともかく、いかなる言語も小説においては次から次に不備を孕む。増殖させる。特に私という語は指摘してきたとおり、おそらくもっとも理想的な不備の温床だ。だが穢れが生に転ずるように、そうした私の猥雑性は可能性の中心でもある。不備を孕むことは往々にして、物語を孕むことに等しい。何故なら前節において指摘したとおり、人は不備を覆い隠そうとするときにもっとも饒舌になるからだ。もし書き言葉が一切の不備を孕んでいないのだとしたら、もともと書きたいと思っていた分量以上に筆が進むことはないはずだ。けれどまさに海水を飲むようにして、人は小説を書く。不備に憑かれて、うなされるようにして書く。特に一度誠実の証明を目的に筆をとってしまったが最後、彼の物語はついに幸福な完結をみない。伝統的に純文学と呼ばれるような小説が、読者よりはむしろ作者にとって致命的な文芸だったその所以だ。
たとえば日本において小説は、主に国家的な近代化あるいは西洋化を背景に語られてきた。私小説という伝統的な形式も、経済成長に伴う近代的で西洋的な自我意識の需要過程が産んだ軋みの文化的表出として、一般的には理解されてきた。けれど前述した私の猥雑性を踏まえると、社会情勢を背景に小説を語ろうとする問題意識が、実は転倒した問題意識である可能性に否が応でも気づかされる。彼は書いたのではなくて、書かされたのではないだろうか。表現の素材は言葉ではなくて、むしろ彼のほうだったのではないだろうか。表現の主体は彼ではなくて、むしろ書き言葉のほうだったのではないだろうか。
そもそも少し文学史を紐解いてみればわかることだが、この国では似たような問題があまりに多く繰り返されすぎている。自意識は時に芸術家の問題として、時にマルクス主義の問題として、時に部落の問題として、時に消費社会の問題として、時にモラトリアムの問題として現れてきた。そしてそれらの小説は、毎度その表面的な主題である社会問題とセットで語られ、往々にして当代ごとの抽象的な時代性の問題へと帰されてきた。だからたとえば近代やポストモダンなどの時代を区切る各種用語も、各論を比べてみればそれぞれの役割にたいした違いはなかったりする。
このように日本の文芸は、類似の問題をあまりにも多く繰り返し続けている。だとすると実のところ問題の核心は、時代ごとの社会情勢などにはないのではないだろうか。むしろ近代以降の社会を支えてきた書き言葉の隠し持つ重大な瑕疵が、時代を超えて同じ問題を幾度も幾度も社会に課し続けているのではないだろうか。エラーの原因は実のところ思想(ソフト)にではなく、言葉(ハード)にこそあるのではないだろうか。そんな疑念は既に不可避だ。書き言葉の不備に憑かれて、猥雑な私に唆されて、人は小説を孕む。ならばやはり小説の可能性の中心は、あくまで書き言葉の不備にこそ求められる。そしてその不備の全貌は、明晰な光によっては決して対象化できない暗然たる深淵なのだろう。あまねく私に小説を書かしめる根源的な動機は、常にその暗い水底から湧き上がってくる。だから「私によって小説が書かれている」という認識は、ついに転倒されなければならない。むしろ小説によって私は書かされているのだ。
だとすれば文芸批評は学問であってはならない。学問は不備を避けて通る。あるいはそれを駆逐する。それは確かに学者としては誠実な態度だろう。けれど前述したとおり、小説はむしろ不備によってこそ特徴づけられている。不備こそが小説の中心に君臨している。だから彼が学に留まろうとする限り、ついに彼は小説の本質を知りえないだろう。適切な言説を紡ぎえないだろう。言葉の持つ致命的な不備を致命的な不備と認めてようやく、文芸批評は文芸批評たりえる。
しかし批評それ自身が言葉を用いて紡がれる言説であるからには、不備を受け容れることは同時に己の限界を認めることに等しい。それが同じ書き言葉を用いて編まれている限り、小説の不備はまた文芸批評の不備でもあるはずだ。つまり文芸批評は定義上、潔白でも無謬でもありえない。だとすればすべての小説が虚しいのと同様に、すべての文芸批評もまた虚しい。それは決して完成しないことを知りながら、賽の河原で石を積み続けるような行為に似ている。崩れては積み、崩れては積む。その繰り返しだ。
けれどにもかかわらず、あまねく私は不備に憑かれて言葉を紡ぐ。言葉の不備を、私の不備を、筆記者自身の不備として文字列に起こす。私の互換性を、私の二重性を、私の時間的不定性を、ただ書き表し続ける。それが価値ではなく、既に病であるがゆえにだ。そして書き言葉を使い続ける以上、病に治癒の見込みはない。いくら時代が推移しようと、いくら社会が変容しようと、誰しも書き言葉の不備から逃れることはできない。むしろ社会が前進すればするほど、書き言葉の重要性は増すばかりだ。だからやはりこれからも相変わらず、あまねく私は彼岸を夢みて此岸で石を積み続けることだろう。おそらく例外はない。もちろんいま書いているこの私もまた、このようにして、石を積む。
石を積む