文学を科学する講義レポート
大槻漠 作
大学講義レポート課題:講義の内容をふまえて、文学は科学できるかどうか論じよ。
http://www.ocw.titech.ac.jp/index.php?module=General&Nendo=2011&action=T0300&GakubuCD=150&GakkaCD=150&KougiCD=0453&Gakki=2&lang=JA
夏目漱石という巨大な知性に十分な信頼をおいたうえで、まずは疑念を提示することからはじめたい。はたして《夢十夜》は暗号なのか。
確かに《夢十夜/第一夜》は象徴学的に豊潤だ。けれどやや戯画的な《第二夜》、不安的恐怖に満ちた《第三夜》と続くに従って、この豊潤さは急速に失われていく。《第四夜》に至っては、連作短編としてはそれが序盤と中盤をつなぐ重要な位置を占めているにもかかわらず、《第一夜》と比べるとその象徴学的魅力はひどく貧困である。端的にいえば暗号としての出来が悪い。《夢十夜》が解かれるべき暗号であるのだとすれば、これは重大な背信である。しかし漱石という当時一流の文豪が、これほど明らかな失態を犯すだろうか。そもそも精神的不安定さを頻繁に指摘されていたであろう漱石が、西洋色の濃い精神分析的好奇心に満ちた解読を、本当に期待していたとは思われない。しかしこの疑念を解消するために、まずはあえて《第四夜》を暗号とみなして解読していこう。その結果おそらく我々は解読に失敗し挫折するだろうが、私の考えではその挫折こそが《第四夜》読解の鍵であるからだ。
まずは《夢十夜》を暗号とみなすならば、その解読はどのようになされるべきか確認しておきたいと思う。通常、字義は辞書的に限定されており、その連鎖によって素朴に文脈が決定される。けれどテクストによっては字義の連鎖を拒絶する単語が混在している場合があり、読者になんらかの工夫が求められる。こうした事態に辞書の拡張をもって対応する行為を、本レポートでは象徴学的解読と呼びたい。つまり、外部に存在する規則に従って字義を置換し、その結果素朴な字義の連鎖、すなわち文脈が回復されることを期待するような行為を、ここでは象徴学的解読と定義する。それは形式的には統語論的な手法であり、具体的には夢判断的な試みである。
さて、《夢十夜/第四夜》において文脈を明らかに阻害している単語は「蛇」と「真っ直ぐ」だろう。他にも前後の文脈から浮いた字義は存在するが、まずはこのふたつの単語の字義を変換しないことには、全体的な文脈の決定は難しいと思われる。しかし「真っ直ぐ」の妥当な変換先は素朴には選定できない。よってまず変換されるべきは「蛇」であり、これは「生命力」「ペニス」「神秘的化身」「永遠性」などに置換できる。これらの変換をてがかりに文脈を回復するのは、実際のところ可能である。老人の呪術的おこないや仙人を連想させる衣服を合わせて考えれば、《第四夜》とはつまり、「神秘性/生命力」の循環的膠着を脱して「真っ直ぐ」になることを祈願する老人を描いたテクストであるといえる。それが《第四夜》の象徴学的解読によって回復されるやや抽象的な文脈である。たとえばこれを題名から連想されるフロイト的文脈を重視して具体化するならば、《第四夜》はインポテンツに悩む老人のいささか滑稽な執念深さを描いたものだといえよう。つまりそれは「蛇」を「ペニス」、「真っ直ぐ」を「勃起」に変換したときに回復される文脈である。
しかしこうして象徴学的解読に成功したかに見えた我々は、ある大きな不安に直面する。回復されたはずの文脈の、あまりの粗末さによってである。《第三夜》までは象徴学的解読によってある程度有意味な文脈が回復されていたにもかかわらず、《第四夜》のそれはあまりに無価値なのだ。老人のインポテンツがどうしたというのだ。それを無理矢理高尚な概念に引き上げることもできなくはないだろうが、正直あまりに馬鹿らし過ぎる。もちろんこの粗末さを根拠に《夢十夜/第四夜》を駄作と認定することは可能だろう。けれど冒頭に掲げたように、漱石という作者にたいして十分な信頼を預けている限り、我々はこのあまりに無価値な解読結果を受容するわけにはいかない。よって我々は象徴学的解読の失敗を認めざるをえなくなる。挫折はこのようにして導かれる。
さて、こうして我々は予定調和的に挫折したわけだが、それは漱石への信頼によってであった。ならば我々は救済の道標もまた、漱石への信頼のなかに見出すべきだろう。具体的には以下のような論理でもって、我々は《第四夜》の再読に立ち向かうべきだと考える。
結果的には挫折した象徴学的解読だったが、読者のこの挫折を漱石が予想していなかったとは思えない。明らかに《夢十夜》は象徴学的解読を要請する外見をもっているうえ、実際まではそれである程度の成功をおさめることができる。当然読者は《第四夜》の象徴学的解読からも、有意味な文脈が回復されるはずだと期待しただろうし、漱石も容易にそうした読者の心情を予想できたはすだ。つまりこの挫折は、漱石の想定の範囲内でなければならない。だとすればこの失敗は、《第四夜》を真に読解するためにむしろ必要な失敗なのかもしれないと推測できる。このような漱石への強い信頼のもとに《第四夜》を再読してみると、しかしながら驚くべきことに、そこにはまさしく「この私」の心象が描かれていることに気がつく。「この私」の心象とは、すなわち以下のような心象である。
素朴な文脈を獲得することのできない「子供」である私は、「老人」の呪術的なおこない、すなわちテクスト外部の象徴学的辞書による字義の置換によって、「真っ直ぐ」な文脈がそこに回復されることを期待していた。けれど有意味な文脈はいつまでたっても回復されず、我々はどこまで辞書を拡張すれば有意味な文脈が回復されるのかという暗い混迷にとらわれ、「暗くな」り、「深くな」り、ついに解読を挫折する。つまり「真っ直ぐ」な文脈を導いてくれるはずの「老人」は、川の奥深くに姿を消してしまう。ついに「真っ直ぐ」な「蛇」をみることができなかった私は、もはや茫然と川縁に立ち尽くすほかない。
以上の通りに、《第四夜》は二重構造を持っており、上層における必然的挫折を下層において写し取り救済するという、極めて体験的な読書を要請するテクストだった。我々はこの《第四夜》の二重構造の体験を経た結果、あるひとつの知見に辿りつくことができる。煩雑な論述は必要ない。我々はただ中国語の部屋という有名な思考実験を想起するだけで、自然とこの知見に向かって収束していくことになる。
本レポートにおいて定義した象徴学的解読とは、まさに中国語の部屋に監禁された箱中人がおこなう解読方法である。つまりは意味不明なテクストを、辞書という外部の規範にのみ依存して置換し、結果として素朴な会話の成立を祈念するそれは手法である。しかし極めて重要なことに、箱中人は変換の結果出力するテクストの意味もわかっていない。これは結局から有意味な文脈を引き出せなかった我々の立場と酷似している。
このように中国語の部屋という結節点を経由して、先述の議論を《文学を科学する》という本講義のテーマへと敷衍させていこう。
象徴学的解読はすなわち統語論的解読である。確かにこの統語論的解読は一定の文脈を回復することができる。けれど我々が漱石への信頼ゆえに川縁に立ち尽くさざるをえなかったように、回復された文脈を我々が素朴に享受できる保証はない。というよりも私の実感によれば、ほとんどの場合統語論的解読は読者の実感にマッチしない。なぜならそれは《第四夜》の子供があくまで傍観者であったことと同様に、統語論的解読は経験的な読解ではないからだ。中国語の部屋の思考実験は「統語論は意味論を含まない」というテーゼに還元できるが、本レポートの文脈に引きつけてこれを換言するならば、すなわち「統語論的解読は体験的納得を付随しない」となるだろう。まさに体験によって納得は与えられるし、納得によって意味は正当化されるという素朴な関係が、そこにはある。
ゆえに文学は科学できない。その実践的証明として、まさに《第四夜》は書かれていた。
けれど《第四夜》が表層においては統語論的解読を求め、その予定調和的挫折によって読者を体験的読解へと誘導する仕掛けがなされていたことを、ここで再度思い出してもらいたい。《第四夜》と同様の構造を保持できるならば、あくまで科学をツールとして用いる限り、科学は文学することに有用に寄与しうるのだ。つまり、統語論的解読は経験を付随しないがゆえに読者の納得を導かない。けれどその納得が導かれない結果、読者は必然的に体験的読解の地平へと自ら歩みださざるをえなくなる。それはすなわち『無私の解読が「この私」の読解を求める衝動に繋がっていく』という、文学にとって実に有益な構図である。けれどそれは、科学と文学がお互いにお互いの性質と限界を把握してはじめて具体化する構図でもあるだろう。現状を観察するに文学と科学は過剰に反発しあっており、この有益な構図の実現はひどく難しいことのように思われる。しかしながら、その小さな成功はすでに夏目漱石が《第四夜》によってもたらしているのだ。我々はこの成功に最大限の尊敬と信頼をおいたうえで、可能な限り前向きに、科学の文学への転用を試みていくべきだろう。
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