偲び雪

 粉雪舞う季節の、失恋にまつわるお話です。
 テーマとしては「泣き笑い」と「過去との距離」を念頭に置いて書きました。

 二度出てくる、泣きながら笑うシーンで、それぞれ違う涙が描けていればと思います。

(原稿用紙換算16枚)

 この季節は世の中が、緑と赤と、白に染まる。通りに面するどの店も、日頃とは違うクリスマスの装いに身を包んだ。
 しつこいほどに甘い香りが、表にまで漂っている。最近かなり繁盛しているらしく、テレビや雑誌でもその名を見かけるドーナツ店の前には、若いカップルや女子高生たちが、あまり賢そうには見えない出で立ちと佇まいで、列を為していた。
「あんなの、よく並ぶよね」
 恭子(きょうこ)はそう口を尖らせたが、その声の底にはどこか、妬みのようなものがうっすらと感じられた。
「若さゆえでしょ。うちらにはもう、厳しい」
「ちょっとぉ。そんな悲しいこと言わないで」
 休日を恭子と過ごすのは久し振りである。ふたりとも、大学に通っていた頃とは比べものにならないほど多忙な毎日を送っているため、時間を見つけるのは容易ではない。
 買い物を楽しめたのも、しばらく振りだ。楽ではない仕事に追われ渇き切った生活に、再び潤いが取り戻されたような気がする。
 カフェで少し脚を休めることにして、ふたりで同じカフェモカを頼む。仲良しの割に趣向の違うふたりであったが、この時はいつも、ふたりの声は揃った。
「クリスマスに誰と過ごすかは決まった?」
 恭子は背もたれに体を預け、鼻から大きく息を吐いてから訊ねる。
「決まってないよ。そっちは?」
「優希(ゆうき)がそう言うと思って、空けてある」
「ひとりぼっちを人のせいにしないでよ」
 もしかしたら本当に、恭子は優希のためを思って、誰とも約束しなかったのかもしれない。確証はないが、そんな気がする。でもその優しさに、礼は言わなかった。
「小柴の誘い、断ったんだって?」
 片眉を吊り上げて、小馬鹿にするように恭子は笑った。
「なんで知ってんの」
「優希関連の話は全部、わたしんとこに集まるようになってるから」
 けたけたとひと通り笑った後、恭子は真剣な面持ちで、小さな溜め息を漏らした。
「あの人が忘れられないから?」
「別に、そんなんじゃない」
「そうじゃないとしても、まあ、小柴はないか」
 店内のBGMが切り替わり、流行のアイドルの曲から一変して、懐かしさすら感じられるクリスマスソングが流れ出す。
 あの頃も同じような季節で、町でこの歌を聴いた。
 遠く離れ、小さく見えていたそんな思い出も、ふとした時に近く感じられるのは、まだ優希が、想いを断ち切れていないからなのだろうか。



 さよならと、口に出して言ってみても、あまり意味は無かった。
 その言葉を冷淡に突き付けるには、おそらく、己の中の冷淡さを泥団子のような塊にして、投げ付けるくらいの気概でないと意味が無い。あるいはバケツの中身を、すべて相手にぶちまけるほどに。
「こんなことを言う権利はないってわかってるけど……幸せに――」
「ふざけないで」
 声音は抑えられても、心は抑えられない。わかっているから、ついて出てしまう言葉に何度も後悔した。
「ふざけてなんかないよ」
 あの人は嘘が下手な割に、何度も嘘をついた。何度も嘘には気付いたけれど、ある時は知らぬ振りをしたり、ある時はそれを逆手にからかってみたり、それを楽しむのが好きだったのかもしれない。
「ふざけてるでしょ。もし本当にそう思ってるなら、そんなこと言わない」
 また、後悔する。そんなことを言いたかったわけではない。こんなこと、言ってはいけないのに。相手の幸せを願っているのは、お互い様なのだから。
「ごめん」
「それは言わない約束」
「あ、ごめ――いや、えーっと……うん、悪い」
 違う言葉を使ったって、謝っていることは同じなのに、あの人はいつもそうだった。こちらが問題としているのは心の所作であって、言葉そのものではないと言うことが、わからないのだろうか。
 このレストランで食事を共にするのは、何度目だろう。これが最後であることは間違いのないことであるが、そんな日が訪れることなど考えもしていなかったため、数を数えたことなどなかった。
 食後のデザートには、決まってチョコレートケーキを頼んだ。それをいつも、ふたりで分けて食べた。
 でも今日は、それぞれの皿に盛られた食事が片付いても、ふたりがデザートを頼むことはなかった。食後のコーヒーが、いつもより少し苦い気がした。
「カナコさん……って言うか、子供は?」
「……うん、特に問題はないよ。ちゃんと通院してる」
「そう」
 浮気をする人の気持ちなどわからないと、常々思っていたし、恭子が恋人と、浮気を理由に別れたという話を聴いた時ですら、浮気と言うものは自分の世界とはまた別の次元の話であって、接することなど未来永劫あり得ないとさえ思っていた。
 だから、共通の知人にその話をされた時は、怒るよりも先に、狼狽えた。
『酒が入るとちょっとたがが外れるやつなんだ、昔から。素面(しらふ)ならそんなことするようなやつじゃないし、むしろ優希ちゃんのこと、バカみたいに自慢してきて、うざいくらいなんだけど』
 だからちゃんとお灸据えときなよ――知人はそう言ったが、優希にはそれができなかった。壊れること――壊れ、離れ離れになってしまうことへの恐れを前に、為す術もなかった。
 一夜の過ちで子ができてしまったと、あの人が教えてくれたのは、知人にその話をされた、約半年後のことである。
「うわ、雪だ」
 レストランを出ると、細かい雪が舞っていた。近年では、師走の雪は珍しい。あの人は子供のように目を輝かせながら、降る雪を見つめていた。
「もう会うことは、ないよね」
 意図せずに、そんなことを呟いていた。
「うん……そうなるかな」
 事情が事情なだけに、彼らの結婚式は親族のみで内々に行われることになったらしい。互いの親が、本人たちの意思は問わないまま、そう決めたそうだ。
 だから来なくていいよと言われた。しかし誘われたところで、どんな面を下げて赴けばいいと言うのであろうか。
「あんたさ、カナコさんのこと、好きなの?」
 告知をされて以来、優希はあの人のことを「あんた」と呼んでいた。本当は、夫婦となってしばらくしてから、親しみを込めてそう呼びたいと思っていたのに、そのちっぽけな夢は無残に散った。
「……どうかな」
 あの人は粉雪を見つめながら言った。
 基本的に、何かを言い切ったり、決めつけたりすることが苦手な人だった。それでも優希のことは、好きだと断言してくれた。それを嬉しく思い、誇らしく思っていたのは、そんなに遠い過去の話ではない。
「こんなこと――いや、あんまりいろいろ話すと、また怒られるからいいや」
 優希よりもいくらか歳は上だったのに、あの人にはどうも少し子供っぽいところがあった。それを嫌に思ったことはないし、むしろ、そんなところも含めて、きっと好きだったのだろうと、今なら思える。
「いいよ。怒らないから、言って」
「……おれは今でも、優希が好きだよ」
 あの人はよく嘘をつく。知っていてもなお、その言葉に心を揺さぶられる。それも嘘なんでしょう、と心で呟きながらも、実際には言葉にならず、唇を噛み続けることしかできなかった。
「でも優希なら、おれなんかよりもっといい人と出逢って、幸せな人生を送って行ける。そう思うから……ってのは言い訳だな。ごめ――あ、いや、うん。でも多分、カナコのことも好きなことは好きだし、それにあいつは、優希みたいに強くないから」
 強いという言葉ほど、卑怯な言葉はないと思った。
 強さとは何だ。弱さとは何だ。
 浮気されても泣き崩れることなく、耐えることが強さなのか。浮気を許してしまうほど仕事に励み、疲れても弱音を吐かぬことが強さなのか。
 ――多分、違う。正解はわからないけれど、違うと思う。多くの人はそれを武器として、あるいは人を騙すための術として使っているだけであろう。
 君は強い人だからと、まるでそれが黄門様の紋所であるかのごとく突き付ける。卑怯だ。こんな屈辱はない。
 それでも、折れる。「強い」と言う言葉は、人をとことん弱くする、魔法の言葉なのかもしれない。
「だからこれからは、カナコを愛していくよ」
 自らに言い聞かせるようにそう言い、逃げるように背中を向けて、あの人は歩き始めた。逃げたくなる気持ちはわかるけれど、逃げないでほしいこちらの気持ちもわかってほしかった。
 あの人が住んでいるマンションは、そこから歩いて十五分ほどのところにあった。だからいつも、駅まで優希を送ってくれた。少し遠回りをして、人通りの少ない静かな遊歩道を歩くのが日課であった。一メートルほど前を優希が歩き、少し後ろにあの人が付いてくる。
「幸せになりなよ」
 駅に続く大通りまでもう少しというところで立ち止まり、呟くと、後ろでも足音が止んだ。
「幸せになってね」
 振り返ると、あの人は苦みを顔全体で表していた。優希が笑むと、ぎこちなくではあったがあの人も口元を歪ませて笑い、「ありがとう」と小さく言った。
「優希も」
「うん」
 別れの言葉は、それで充分であった。
 固く結ばれていたふたりは、ある時から少しずつ解け始め、そしていつの間にか、窮屈に絡み合ってしまっていた。しかしこの時、絡み合った糸たちはするりときれいに解け、ようやく一本ずつの糸となった。
 あの人の糸の片端は、別の糸と結ばれている。優希の糸は、強靭であるらしいがゆえに、結び目の無いただの一本の糸になってしまった。
「もういいよ、ここで」
「え、でも、駅はもうすぐだし――」
「いいって。もうわたしたちは、恋人じゃないんだから」
 渋るあの人を追い立て、別れた。背中を向け、自宅へと帰って行く背中は何度も振り返り、でも途中で諦めたのか、一度深く頭を下げてから、粉雪の向こう側へと姿を消した。
 泣きながら微笑んで、あの人を見送った。弱さを見せたくなくて。あの人の前では、強い人でいたかったから。
 影さえ見えなくなると、その重さに耐えきれず、瞳からは悲しみの雫が溢れ、頬を伝った。その場を動くこともできず、ただ泣きながら、微笑むことのできない自分を、粉雪が慰めてくれるのを待っていた。



「あの人、どうしてるんだろうね」
 甘いデザートに手を出したい欲求を、メニューを閉じることで抑えつけながら、恭子は神妙な口振りで言った。
「さあ……どうだろうね」
「幸せに、やってるんじゃない?」
「そうかもね」
 恭子は上目遣いにこちらの反応を確かめるようにしながら話していた。その心配はわかるから、決して不快ではない。
「優希の中では、やっぱ避けては通れない思い出なんだね」
「思い出っていうか……まあ、そういう過去ではあるかな」
 突如、恭子はにまーっと嫌な笑みを浮かべた。これは、凶兆である。
「何?」
「わたしはね、過去に意味がないなんて思わない派なのよ。そりゃあ未来も大事だけどさ、過去だって、同じくらい大事にしたいって言うか――今の自分って、要するに過去の自分の足し算でできてるわけじゃん? 良い思い出も、嫌な過去もひっくるめて全部。だから、別にあの人のこと、忘れろなんて言わないよ」
 あれ以後、恭子は優希に対して、説教じみたことも、慰みも、口にはしなかった。恭子がこの件について語るのは、今日が初めてである。
「でも、それを過去と認められるなら、少しずつ離れていかないと。時間軸は一方通行の数直線。雪は積もれば融けるもの。過去から離れないことには、未来に近付いていかないでしょ」
 恭子のまっすぐな瞳を見つめ返す。そこに宿る、本当の強さに心が震えた。
「過去には、時々近付いてみればいいの。そうやってあったかい気持ちになったり後悔したり、それを未来に進む糧に変えてさ」
 過去が遠ざかって行くことが怖かった。大きかったはずの、あの人と過ごした大切な過去が、どんどん遠ざかって、小さくなっていってしまうのが怖かった。
 きっとそれは、今もまだ愛しているからだとか、そういう理由ではない。
 大切だったものが大切でなくなるのが、怖いのだと思う。自分自身と、あの人と、今ここにあるこの世界とが、あの時大切だったあの世界と、どんどんかけ離れていってしまうことそれ自体に、言いようもない恐怖を感じていた。
「もっと泣いたって、喚いたっていいんだよ? 優希が泣いたって、過去は消えないし、壊れたりしない。ずっとそこにあって、でもずっと離れてって、小さくなって……でも、ずっとあるの」
 恭子が机の上で組んでいた指を解いて、右手を伸ばした。その指先が頬に触れ、ようやく雫が伝っていたことを知る。
「こうやって時々近付いて、泣いて、また進んでいきな」
 正直に零れる涙は粉雪のようで、軽く、また清々しくもあった。恭子がカバンから取り出し、差し出してくれたハンカチを、首を横に振って断る。
「わたし、強い人なんだって。だから、大丈夫だよ」
 泣きながら微笑んで答える。指先で涙を拭うと、恭子が「バーカ」と笑って舌を出した。

偲び雪

偲び雪

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-11

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