革命ソース
「革命だよ」と真辺誠四郎は言い、桜色に上気した頬を平手で二度三度叩いた。「夢じゃない」。稲光が走り、瓶底眼鏡が白く瞬く。大地を揺るがすような雷鳴が轟き、再び研究室に閃光がひらめくと白衣を着た初々しい発明家の細く尖った顎を青白く照らした。
「食のノーベル賞かもしれない、これは」そう言って真辺は肩口まであるぼさばその髪の毛をかき上げながら血のような赤い液体がボコボコと泡立つフラスコの前で立ち止まり、パチンと指を鳴らした。ぎいっ、と研究室の錆びた鉄扉が軋みながら開き、斧をかついだ傴僂男(せむしおとこ)が現れた。
「およびで」
「すまんエスパス。今のはお前を呼んだんじゃないんだ」
「さいですか。しかしながら、先だってお申し付けのものを持って参りましたので」
「そうか。そこに置いといてくれ」
奇岩のような鼻をした傴僂男は、爛れた声ではい、と返事をすると、石段を降りて斧の柄に括りつけていた麻袋をどさっと床に降ろす。「——旦那様が、例の測定結果はまだかと」「あぁ、今それどころじゃないんだエスパス。後にしてくれ」「承知いたしました」エスパスと呼ばれた醜悪な面相の召使いは、彎曲した背中をさらに曲げて一礼すると再び斧を担いで階段を上り、扉を閉めて本館へと続く長い石畳の廊下へと去った。つま先の丸まった、緑色の靴を履いていた。
古びた洋館の円弧形をした出窓を横殴りの雨が叩く。ヒマラヤ杉に囲まれた森の向こうに広がる工業地帯の空が白く煙るのが見えた。
「この偉大な、歴史的瞬間に立ち会えたことに感謝したほうがいいぜ、米田氏」真辺はそう言って分厚いレンズ越しにぼくを見た。人を呼ぶとき、ナントカ氏とつけるのは真辺の癖である。中学時代から友人のことをすべて「くん」でも「ちゃん」でもなく氏を付けて呼んだ。いかにもオタクっぽい——というかまったくの科学オタクなんだけど。
「とにかく、味見をしてみないと分からないよ」とぼくは言った。どういう風にして食べたらいい?
「それが、どういう風にして食べてもいいんだよ。そこが画期的なところなのさ」真辺は研究所の隅まで歩いていった。そこには深さ二〇センチほどの半円にくり抜かれた臼があって、天井からつり下げられた両頭の杵に似た棍棒が白く泡立つ液体を攪拌し続けていた。その臼のようなものはなんだい、と真辺に尋ねると、裏庭に生えていた樹齢百年を越えるケヤキの原木を切り出したんだよ。エスパスに頼んでね。バレて親父に大目玉をくらったんだけどさ。だけど、どうしてもこれが必要だったんだ。ケヤキは油分を含んでいるから、割れにくいし、機械で作るよりもいい粘りがでるのさ。
真辺はそう言ってゴムべらで臼に入っている粘液をすくってボウルに移し、軽く混ぜながらそれぼくの目の前に置いた。それはカスタードクリームのような黄白色で、粘りけを帯びていた。
「油の脂肪酸は、オレイン酸が中心なんだ。油っこく感じられるかもしれないけど栄養学的にはとても優れている。コクを感じるのでコレステロールが高いと思うかもしれないけど、それほどではない。それにこのコレステロールは身体に溜まらないから、今の時代にもぴったりだ。特定保健用食品の認定も狙えるかもしれない」
塗装のはげた細長い鉄ボンベの前に立って真辺は言った。彼の右手にはライムグリーンの計器ボックスあり、時計みたいなメーターが真ん中についている。その下にいくつものランプがあって、定期的に点滅する赤と緑の光が真辺の銀縁メガネを照らしだしていた。狂気の科学者。マッドサイエンティストさながらの風格だ。
「——腹こわさないよな?」
まあ、一口食べてみれば分かるよ、と真辺が言う。その口調は自信に満ちあふれている。ゼミ時代の合コンの時に、どういう風に張り切り過ぎたのか、キノコ雲のような髪型をして現れ、結局一言も喋らずテーブルの隅で俯いてポケットの中のストップウォッチを握り締めていた科学オタクとはまるで別人だ。スプーンか何かないのかい? と聞くと「手でいいよ」との返答にちょっと躊躇しながら、僕はその奇妙な調味料を小指で軽く引っかくようにして舌先に乗せた。ピリッとした刺激を感じて、口の中につばが迸る。
「なんか……酸っぱいね」「そうだろ? それが肝なんだよ」「食べ方は?」「まだ研究中だけど、かなり汎用性は高そうだ。今のところ生野菜につけるのが一番かな」真辺はそう言って白衣のポケットからくの字に曲がったきゅうりを取り出してひょいと投げた。それを慌ててキャッチしようとして、僕は足もとにあるピストン棒が何本も突き出している炊飯器のような機械を思いっきり蹴っ飛ばした。
「あ痛っ、君はいつもポケットにきゅうりを入れているのかい?」真辺はふふっと薄い唇の口角を上げて、こういうのも入っています、と言ってまた白衣のポケットからトマトを取り出して投げる。さらにはにんじん、レタス、ブロッコリー、春キャベツ、と次々と投げてよこすので、一体そのポケットの仕組みはどうなっている? きみはドラえもんか! とぼくは叫んだ。
「そこにナイフがあるから。食べやすい大きさに切って、ソースをつけて食べてごらん」ああ、と僕は言ってパソコンのディスプレイ、セロテープの台、顕微鏡、サランラップ、乱雑に積み上げられ大学ノートの束、でごちゃついたステンレスの台の上に僅かなスペースを見いだし、ペティナイフでさくっときゅうりを三分の一ほどに切る。ボウルから黄金に輝く粘りのある液体——革命ソース!——を掬い取りきゅうりにつけると、半固形状のそれは断面に付着してほとんど垂れない。ほのかに酸いにおいが鼻腔をくすぐる。俺あんまりきゅうり好きじゃないんだよね、瓜系は青臭くてと言いながらディスプレイに目をやると、そこにはカラフルなヒストグラムが映っていた。「ところで君は何をやっているんだい?」「親父に頼まれて今、簡易熱起電力測定を行ってる。実はあんまりやりたくないんだけどね、研究所を使わせてもらってるから」「簡易……熱デンリョクソクテー? ぜんぜん簡易じゃないけどね、俺に言わすと——」と言ってきゅうりを頬張ると、思わず、おおっと声が出た。真辺は得意げにうなづきながら「どうだい?」「青臭さがしない!」「そうだろ? 酸味と甘いコクが野菜のにおいを消すんだよ」「爽やかで、まろやかというか——」ぼくは他の野菜に次々とソースをかけて口に運んだ。それらはシャクという瑞々しい歯ごたえのあとソースと交わり舌の上でふくよかなハーモニーを奏でる。優しい旋律。「すごい、これは確かにうまい」ぼくは次々と野菜をかっ込んだ。トマト、にんじん、レタス……信じられないぐらい食が進む。「これは——たしかに画期的かもしれない」真辺は微笑みを浮かべてゆっくりこちらに近づくと、白く長い手を無言で差し出した。強く握手を交わしながら、おめでとうと言った。うっすらと彼の目尻には涙が滲んでいた。あのクールな科学オタクが! だからぼくは言いそびれてしまったんだ。その画期的なソースが——なんというか、言いにくいのだけれど、率直にいうと、まったくにしてマヨネーズの味がしたことを。
「今世紀最大の発明かもしれない」と真辺誠四郎は言い、昂ぶり赤く染まった頬を自ら強くビンタした。ビタン! ビタン! 何度もビンタするので「おい、もうやめろよ」と止めたほどだ。そして肩を震わせながら「やっぱり、夢じゃない」と言った。「卵黄と酢と植物油。『革命ソース』の原料は基本的にこの三つだ。作る手順はこうさ。最初に酢と卵を調合して混ぜ合わせる。そこへ少しずつ植物油を足してさらに革命マシーン——そこにある臼のことさ——で攪拌し後は塩などで味を整える。思いのほか簡単だろう? 真に偉大なものっていうのは意外と単純にできているものなんだよ!」真辺はこちらに背を向け、濃密な霧の立ち込める出窓の向こうを眺めながら言った。ぼくは、革命マシーンをハンドミキサーに変えれば、以前実家の母親が作っていたマヨネーズの調理法とまったく同じだ、と思った。
「これほどのものをつくるのに、どれほどの時間を要したことか……」
うちの母親は十分ぐらいで作ってたけどな……。
「学校を休んでいると思ったら、こんな研究をしていたんだな真辺」
「苦労したのは粘性。油が少ないとうまくソースが固まらないんだ。どうしても緩くなってしまう。これじゃあ、駄目だ! ありきたりなサラダドレッシングになってしまう。もちろん、それだって充分にうまかったと思う。だけど、俺が作りたいのはそんなもんじゃない。俺がつくりたいのはそんな凡庸なもんじゃないんだ! 俺はソースを床に叩き付けた。そうやって何度も何度も試作を繰り返したんだ」雷鳴が轟いた。真辺は出窓の下に積まれたダンボールに片足を置き、その膝の上に肘を乗せて無精髭の生えた顎を撫でた。白衣が、潮風になびくトレンチコートのように揺れた。
「あの……とても滑らかな味わいだったと思うよ」とぼくはなぜだか調子を合わせて、マヨネーズだけどね、と心の中で付け加えた。真辺はちょっと米田氏には難しいかもしれないけど、と前置きして「『界面化学』上だと、水の中に油分が拡散している状態だから、このソースはO/Wエマルションに類別されるわけだ。卵黄の中に含まれているリン脂質が、わずかな水分を親媒する表面活性剤として乳化の役割を担っている。これがO/WからW/Oの相に転移してしまうと、食感が変わる。革命ソースならではの滑らかさは薄れ、べたべたとした食感になるというわけ。つまり革命ソースを革命ソースたらしめている絶妙の舌触りの秘密。それは相転移しないO/Wにある」
ぼくは、よく分からないけれど、すげえ、と言った。まさに革命じゃないか、とも追従した。自分の調子の良い性格が少しいやになった。
「どうだろう米田氏。この『革命ソース』を世間に発表するにあたり、名前を決めたいと思うんだけど——」
「名前?」
「そうだ、なにかよい名前はないかい。君なんだか広告とやらに詳しいそうじゃないか。ぜひお知恵を拝借したい」
「詳しいってほどじゃない。ちょっとかじっただけだよ。それに、おそれ多いよ、そんなの」
「ぜひ、君に相談したかったんだ。実は——」真辺は壜底眼鏡の丸い縁の奥から細い目を開いてぼくを見た。
「なんだよ」
「実はこのソースの発明には君の力がなくてはならないものだった」
「どういうことだい?」
「ああ、実は行き詰まっていたんだよ。ホントのところを言うと」
「オレが一体何をしたっていうの?」
「二週間ほど前、ここに来たことがあったろう。あの時、ちょうどこのソースの研究をしていたんだよ」
「来たけど、忘れ物を届けてすぐに帰ったじゃないか。君が資料室に置きっぱなしにしてた実験用具が怪しいって学校でちょっとした騒ぎになって——」
「材料は揃っていたんだ。だけど、何度やっても失敗だった。つまり僕はすべての材料を一度に混ぜてしまっていたのさ。そうすると水分と油が分離したままのソースしかできない。革命マシンには卵黄と酢を混ぜ合わせたあとに油を投入しなければならなかった。こんなの小学生でも分かる単純なことなんだけど、没頭すると意外とそういうことを見過ごしてしまう。焦って時間ばかりが過ぎて——」
「じゃあ、今日までずっと体調が悪くて休んでたんじゃないのかよ」
「スマン。だけど、どうしてもこれだけは成功させたかったんだよ」
「単位ヤバイんじゃないの?」
「そんなセセコマシイことはいいんだよ。世紀の大発明なんだぜ。ヤバかったら俺の代わりにエスパスを送りこんでおくよ」
「あんなのが来たら……キャンパスは阿鼻叫喚だよ」
「エスパスにも今回は助けてもらった。あの大仰な革命マシーンを手斧一本で作ったのはエスパスなんだぜ。一週間ほとんど寝ないでね。ただケヤキを切ったことがバレて親父に鞭で打たれたんだけど。ホントに悪いことしたと思ってる」
「俺は何もしてないじゃん」
「それが、そんなことないんだよ。君が、ちょうど忘れ物を届けにきてくれたとき、革命マシーンに卵黄と酢を投入したところだった。いつもならすぐに油を入れてしまうのだけれど、君が訪れたことによって、一時作業が止まった。その間に革命マシーンは卵黄と酢を攪拌し続け、分離せずに油分を受け入れる理想的な状態になったというわけさ」
「なんだよそれ。ただの偶然じゃないか」
「万有引力も、電池と電流もすべて偶然が手を貸してくれなければ起こらなかった発明だ。逆説的にいえば、偶然によって生まれる発明こそ、真に偉大なるものというわけだ」
真辺はそう言って、マヨネーズくさい研究室で高らかに笑った。「そんな偉大なものの名前を俺が決めていいのかい?」「ああ、君にはそんなわけで世話になったからな。率直にジャッジしてほしい」「候補はある?」「自分自身の名前を使いたい」「『真辺ソース』とかかい? 小惑星の発見者に自分の名前がつくみたいで、ロマンチックだな」「いや、俺の名前だけじゃないんだ。ぜひ、関わった人たちの名前を盛り込みたいと思っているのさ」「と、いうと?」
真辺は指を折りながら、ぼくに言った。「真辺の『真』、米田氏の『米』、エスパスの『エス』で、『真米エス』っていうのはどうかな」
「真米エス!?」
ぼくは、マヨネーズに似ていると思った。
「そう!真米エス!」
「真米エスか」
「どうだい? 悪くないだろう真米エス」
「真米エスの真米をカタカナ、エスをアルファベットにしてみるっていうのはどうだい、マヨネS」
「マヨネS。悪くないね。スーパーとか、S級とか、なにか特別なもののようなかんじがするマヨネS」
「あと、そうだな。エスの部分を一流とか一級を意味する『エース』と伸ばしてみるのもいいかもしれない。マヨネエース」
『マヨネエース!?』
「そうマヨネエース」
さらに、マヨネーズに近づいた。
「そいつはいい、きっとマヨネエースは世間にも大々的に受け入れられぞ米田氏。野菜ぎらいの子はマヨネエースをつけて食べることで野菜が好きに。マヨネエースを海老と合わせれば、海老マヨネエースに。明太子と合わせれば明太子マヨネースに。勘だけど、パスタとかに合うと思う。そしてマヨネエースが好きな奴はマヨラーと呼ばれるに違いない!」
ぼくは、もうそういうのは居るなどとは到底言えなかった。真辺は興奮したのか鼻の下に玉のような汗を浮かべ、恍惚とした表情で研究所内をグルグルと歩き回った。そして、マヨネエース。いいね! とパチンと指を鳴らすと研究室の扉がガチャリとあいてエスパスが顔を出した。「マヨネーズのほうが、語呂がいいんじゃないですか?」
「差し出がましいぞエスパス! 向こうへ行ってろ!」
「へえ、すいません」
「まったく、たまに立ち聞きしているんだよ。あいつ。またお父さんに言いつけて鞭で打ってもらわないと」
ぼくはぼく自身の早まる動悸を感じながら、思い切ってあのう、エスパスが言っていた、『マヨネーズ』というネーミングはどうだい? おそるおそる聞いた。
マヨネーズ?
と言って彼の動きがぴたりと止まった。
研究所の隅で静かにうねりを上げる冷蔵庫のモーター音と、曲がりくねったガラス管の中で泡立つ液体のぽこぽこという音が聞こえた。
ぼくは、傘持ってきてないんだよな、と言い窓の向こうに目をやる振りをして真辺の顔をこっそり覗き込んだ。彼の目はただその道ばかりのことで苛立ちと熱に憑かれた少年のように真摯で、一瞬でも疑った自分を恥じ入らせるものだった。真辺は腕組みしながら首をひねりマヨネーズ……マヨネーズ……と呪いのように低く何度も繰り返しながら「少し考えさせてくれ」と言った。
そのあと「何か飲むかい」と言って真辺は冷蔵庫を開けた。すまんね、お気づかいなく。けど前みたいにビーカーにジュースを注ぐのはやめてくれよな、と笑いながら振り向いて、ぼくははっと胸を突かれた。フランケンシュタインが誕生するぐらいの電流が体中を駆け巡った。冷蔵庫の扉の内ポケットには並んだ白い卵が見え、その下に牛乳パックと1.5リットル入りペットボトルのコーラ、そして、その横に見慣れた赤いキャップを装着した下ぶくれの形。半透明のポリエチレン容器に入ったマヨネーズがあった。普段通り、日常のようにあった。何のお変わりもなく、あった。半分ぐらい、減っていた。それを見たぼくが、えっ、と声を上げるのと同時に外で稲光が瞬いた。
革命ソース