象徴

【ピアノ・木・トランプ】

 木漏れ日がブラウスの上で戯れるのを、僕はずっと見ていた。休日の学校は平日のそれと違って多くはない人の気配を、しかし強く感じさせる。運動部の熱気、吹奏楽部の奏でる音色。そんな昼下がりの校舎脇に僕はいた。大きなナンジャモンジャの木が枝を広げた木陰で、眠る彼女を見つめていた。
 開け放たれた三階の窓からピアノの旋律が聞こえる。彼女はよくこの場所で眠っていた。白いブラウスに包まれた小さな隆起が規則的に上下して、色素の薄い猫っ毛が時折風に揺れる。
「下手くそ。」
 不意に彼女が言った。目は閉じたままだが起きていたのだろうか。
 僕は三階の窓を見上げた。そこは第二音楽室だったはずだ。そこから零れ落ちる旋律は切れ切れで、お世辞にも上手な演奏とは言えない。それを奏でているのが誰なのか、彼女は知っているようだった。そして、その反応を見て僕もそれを図り知った。
 いつから彼女たちは、この木陰に並んで寝転ばなくなったのだろう。少し前までは、温かい陽だまりの中で賑やかな笑い声を上げながら小突きあう彼女たちをたびたび見ることができたのに。窓から漏れる旋律はいつも軽やかな歌声と笑い声が混じって、どこまでもキラキラと輝いていたのに。
 ピアノの音色は歩き始めた幼児のような拙さで続いている。
 見ているだけの僕は、彼女たちに何もしてあげられない。
 僕は胸ポケットから一枚のトランプを取り出した。白くてつるりと光沢のある紙に、黒色のマークが1つだけ描かれている。
 スペードのエース。
 それが何を意味するものなのか、僕だけは知っている。そして、知っている故にズキズキと痛む胸を堪える以外の術がない。
 出来ることならば彼女に、彼女たちに手を差し伸べたいのに。胸に痛みが走る。それはとても不思議な感覚だ。胸が、その奥のもうないはずの心臓が、痛みを覚える。まるで生きている人間のように。
 僕は自分のことをよく知らない。気が付いたら死んでいて、気が付いたらここに、この学校にいた。長い間この学校にいるが、校舎の中に入ることはできないし、学校の敷地外に出ることもできない。稀に鋭い生徒が僕のことを怪訝そうに見ていることはあるが、特に干渉してくるわけでもない。
 人の一生は驚くほど短い。おそらく僕は、生きていた時間よりもずっと長い時間、死者としてこの世界に留まっている。驚くほど短い一生の中で、学生という肩書きで過ごす時間は本当に刹那だ。それでも誰かと仲互いをして一生癒えない傷をつけあうには十分な時間なのだが、それではあまりにも悲しすぎる。
 そして、不思議なことに生きている人間はそのことに気付かない。
 僕はもう一度トランプを見た。スペードは、死の象徴。僕の世界と、彼女たちの世界を、こんなにも近くに在るのに、決して交わらない世界を、しかし本当は手を伸ばせば届いてしまう二つの世界を、隔てる象徴。

象徴

象徴

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-10

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