【あじさい・静けさ・ワンピース】

 玄関扉はいつも重い。私はドアノブに手をかけたまましばらく虚空を見つめていた。十分整っているはずの呼吸を何度も整える。力を込めて開いた扉が闇を吐き出した。人の気配がしないことに安堵と絶望を抱きながら靴を脱いだ。
 誰もいないリビングの静けさが心地いい。まぶたの裏に浮かぶのは、どこにでもある温かな家庭の光景。そしてそれは、もうここにはない光景。
 両親の心が離れて、家族が家族でなくなってから、もう一年に近くなる。両親はそれぞれ別の誰かに心酔していて、あったはずの心が消失した家庭には、取り返しのつかない虚無感だけが蔓延している。
 見えない亀裂は、きっともっとずっと前から崩壊の予感を孕んでいたのだろう。
 あの日、お父さんが叩きつけたグラスが割れて、両親の怒鳴り声と共に私たちの家族は二度と修復できないくらい粉砕した。お母さんの真新しいワインレッドのワンピースが、まるで血液みたいにいつまでも私の心に流れ続けている。
 ダイニングテーブルの上に、紙の束が置かれていた。手に取ってみると数枚のチラシをホチキス止めした地域の広報誌だった。一ページ目の下の方に「ショートコラム・子は鎹」と見出しが打たれている。
 私は鼻から短く息を吐いて広報誌を破いた。一ページずつ引き剥がして細かく破いていく。最後の一ページを破り終えるとき、指に痛みが走った。冊子を止めていたホチキスの針が開いて指に刺さったようだ。血は出ていないが指先がズキズキと痛んで視界が一気に水中に沈んだ。
 以前、雑学好きの教師が「鎹はホチキスの針のような形だ」と言っていたことをふと思い出した。私は筆箱からホチキスを取り出してクローゼットの奥に山積みにされたアルバムを引っ張り出した。
埃とカビのにおいの表紙を開くと、今の両親よりも私の年齢に近い二人の照れくさそうな笑顔の瞬間が切り取られていた。お母さんの物と思われる日記に近い手書きのメッセージも添えられている。ページを重ねるごとに二人の距離は近く、表情は自然になっていく。
 私は写真を一枚ずつアルバムから取り出して、2人の間にホチキスを打ち込んだ。
 バチン、バチン。
 二冊目のアルバムにも同様にホチキスを打ち込んでいく。三冊のアルバムには私も映っていた。青いあじさいを背景に、白い布にくるまれた私をお母さんが抱いている。その反対側から私を挟むように頬を寄せて破顔するお父さん。
 私はまだ人間らしくないクシャクシャの顔をした自分の顔にホチキスを打ち込んだ。何度も、何度も、ホチキスの針が尽きるまで打ち続けた。
 私が十七年かけて成長する間に、両親にも同じだけの時間が流れたのだ。私が這って、立ち上がって、歩いて、言葉を覚えて、文字を読んで、ペンを持って、ランドセルを背負って、制服を着て、受験をして、恋を覚えたように、両親も変わっていったのだ。生まれた瞬間の気持ちなんて、私は覚えていない。だからきっと、両親も十七年前の今日の気持ちなんて、覚えていないのだ。十七年前の今日の、私が生まれた日の気持ちなんてもうどこにも、この世界の誰の心の中にも、存在しないのだ。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-10

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