風とカンガルー
1
ひとかけらの雲が浮かんだりするが、すぐに蒸発してしまうから雨を召喚するのはむずかしい。ここいらは草が疎らに生える、砂礫でいっぱいの平原だ。
カンガルーの男の子がひとり、平原にいた。お母さんカンガルーの袋から顔だけを覗かせ、一日じゅう風のゆくえを追っている。
風には色々なタイプがある。長いこと旅をしてきた風もあるし、ここで生まれ、死んでいった風もある。或いはさらに旅をつづける風も。
カンガルーの棲息する平原から出発し、風のひとつが砂漠を吹き抜けていった。そうしてやがては大陸のはじっことおぼしきところ、切り立った断崖へと辿りつく。
と、カンガルーの男の子の瞳に真っ青な海がたぷたぷうつる。
どうして、お母さんの袋にいるはずの彼に海がみえるのだろう?
それは、彼が風だから。
男の子の意識は風に乗り、いや、乗るばかりではなく風そのものになって旅をすることができたから。
ここいらはとても乾燥している。が、それでも近くには小さな森があったし、川は涸れることがなかった。雨にまったく縁のない土地というわけではない。しかし、風となって旅をするカンガルーの男の子は目撃する。ここよりも、もっとふんだんに水があり、息苦しいほどに草が密生する場所がたくさんあることを。袋の中にいて顔をだしているだけなのに知っている。水の潤沢な地域では空気はしっとりと濡れ、雲の山々をつくりだし、おびただしい雨を降らすことだってあることを。
そして雲をつくり雨が降ったなら、新たな風を巻き起こし、さらに旅をつづける男の子なのだった。
なぜ、旅をしているのかわからなかったし、知ろうともしない。
ただ、全地球的なおおきさでもって流れる風となるばかり。彼はカンガルーの男の子だったにもかかわらず、人工衛星のとぶ高度からブルーの涙滴みたいな地球を見下ろしていることさえあった。
そのうちに彼自身も雨となって降下をはじめる。
湾曲する地平線のまるいかなたにむかって氷じみた林が延々とつづいている。
林は巨大な塔にみえなくもない。フロアは半透明になっていて、そこにおびたたしい数のホモ・サピエンスが群がっている。サイダーを満たしたみたいにあかるいガラスの塔。それは人工的な建築群だった。
カンガルーの男の子はいま風となり、はかなげな雲となり雨となり、さらにはこまかな雫となって、その塔の一つへと落下してゆく。
2
塔の屋上には人為的につくられた森がひろがっていた。
梢がアーチをつくり、その下を十歳くらいの女の子がひとり逍遥している。葉っぱは柔らかな黄緑色を燦然とこぼし、ほほえみをたたえながら見上げる女の子の瞳には、青空のきらきらしい断片が映っている。
風が吹き、葉っぱが鳴った。青い空。遠い雲の頂きから雫が落ち、見上げる樹々をほんのわずかばかりではあったけど濡らした。少女の頬っぺたにも、また。
雨、
もしかして降っている?
雲はあるけど、いまにも消えてしまいそう。
だから?
女の子は眉をひそめる。ちがう。ざあざあ降りの雨ふりじゃない。だって、空はこんなにもきれいに澄みきって、鳥でさえ傷つけることのできない硬度を保っているんだもの。雨が斜線を引っぱって青空に引っ掻き傷をつけるなんて、ちょっとむり、考えられない。
ふつうの気象現象がもたらした雫ではないのだ、これは。
――じゃあ、ここにきたのは誰かしら?
彼女は肩をすくめてみせる。でも、ほんとうのところ、何日も前からここに訪問者がくることはわかっていた。
小径を右に折れてすぐのところにベンチがある。そこで一休みしようと思っていた矢先のことだった。曲がったところでベンチに先客がいるのをみつけた。
「ここに坐ってもいいのかな?」
そこにいるのが誰なのかわからなかったけれど、取り敢えず訊いてみる。問われた方にしても、どうこたえたらいいのかわからなくて困っているようすだった。いかにこたえを組み立てたら「ただしい」のか、その方法がわからず考えあぐねている。
「えっと、じゃ、ここ坐るね。いつもはあたしだけの場所なんだけど、今日はきみが先にきたんだね。じつをいうとね、えへん、あたしはきみがここにくること前もって知っていたんだよ。ともあれ、はじめまして、こんにちは」
彼女はそういうと、ベンチの右のはじっこにすとんとお尻を落とした。左のはじっこにいる存在は、相も変わらず困り切ったようすだったけれど。
そんな相手の事情にはおかまいなく、彼女はスカートのポケットから貝を取りだす。二枚貝ではない。巻き貝ばかりをいくつもベンチの上に並べていったのだ。
ベンチの左のはじっこにいる誰かはずいぶん緊張をしているみたいだった。ただ、緊張しながらも好奇心からなる視線を女の子は感じていた。
女の子はそのうちの一つを手にとると、てのひらのうえに転がし、寄り眼になるまで瞳を近づけた。そうしてから彼女は、深い緑のむこう側が仄かにすき透った貝殻を耳にあてた。
「あのね、巻き貝のなかから波の音が聴こえてくるんだよ。でも、それは海を懐かしがっているわけじゃないの。ほんとうはね、その海の音の正体ってね、貝殻の構造が空気を集めて鳴らしている風の音なの。風が吹いているんだよ、貝殻の中で。いろんな種類の巻き貝があるけど、その利用目的はただ一つ。空気を集める特性を利用し、誰かが風になり、雲となり、ここにやってくるのをスキャンするセンサーとして活用すること」
「え……え……あ……う」
相手が語りだそうとする。
が、はじめのうちは、もやもやとした音のけはいのようなものでしかなく、ふつうの人間の耳に聴こえるものではない。
「えっ、えっ、えっ、え、えええええ」
相変わらず何をいおうとしているのかわからない。それでも少女は辛抱強く耳を傾ける。そうしてやっと傾聴の姿勢が功を奏しはじめたのか、それらの音の羅列がじょじょに意味をなす言葉としてつながりだし、みずからを開示しようとするのを敏感にとらえた。
「か、い、が、ら、な、の、に?」
「ようやく耳に馴染んできたよ。もう少し」
少女は励ます。
すると。
「えっと、」
「うん?」
「えっと、えっと、」
「いいよ、その調子で」
「えっと、えっと、えっと、もしかして」
「もしかして、何?」
「もしかして、か、か、か、貝殻、っていうのに」
「はい」
「も、もしかして貝殻だ、っていうのに風の音を聴くというの?」
「うん、そうだよ。よくいえたね。それから?」
「かつては海の生きものだったというのに……」
ベンチの左のはじっこから聴こえてくるそれは、まだ十分な音声にまで育っていなかった。だから、もしここに彼女以外の人間がいたしても「彼」のことを耳にすることはできなかったし、その音声を発した当の本人の姿を可視化することだってかなわなかっただろう。だが、彼女はあたかもそこにコミニュケーション可能な存在がいるものとして話をつづけた。
「うん。海にいたのに不思議だね。死んで殻の内部で風を巻くようになったんだよ。そしてきみがここにくるのも、もうずっと前からわかっていたの。それを死んでしまった貝が教えてくれていたんだ」
風はぐるぐる、吹きすさぶ。砂漠からもジャングルからも、そしてシヴァ神のすむ冠雪した岩塊の頂きすらも超えて遥々やってくる。さらには血の飛沫によって錆びついた砲弾のにおいまでふくみこんでいるから、まさしく嘘偽りのないこの惑星の風なのだった。そうして風の訪れをしらせるのが、これら巻き貝の役割だった。
巻き貝のしらせのとおり男の子はここに降り立った。ガラスの塔の屋上部分につくられた森に飛来したのだ。
「船に乗り換えたのは賢明だとしても、それじゃ、まだまだ何を表現しているかわからないよ」
船というのは、そのものが纏っている形のことらしい。ありていにいえば肉体のこと。しかし、いま彼女の眼に投じられた像はスライムのようでもあった。像はメタモルフォーゼをくりかえしている。少しでも彼女に理解できるようなものになろうとして試行錯誤しているのだ。
「まだ、わからない?」
男の子は訊いた。
「そうね、何がなんだか」
「これでどう?」
「なにかな? 犬のようなイヌ?」
「イヌってなあに?」
「え、と、犬のことはあとでいいよ。ああ、それじゃ、何がなんだかますますわかんないよ」
「じゃ、この方向で形を変えてみるね」
「チューニングがあってきたよ」
「そう?」
「もう少し」
「こうかな」
「それじゃ、カンガルーになっちゃう」
「かんがるー?」
「あ、ごめん。カンガルーっていう概念がないんだね」
「もともとの形だったものかな?」
「うん。そういうこと。どうせだったら人間になってみたら?」
「にんげん?」
「あたしみたいな生きもののことだよ」
「ああ、それならわかる」
鳥のかたちになったり、かと思えばゼリーみたいに崩壊したりするうちに、フォルムの調律ができるようになってきたようだった。ベンチの左のはじっこには人間の男の子がひとり、ちょこんと坐っている。しかも、きちんとした身なりの子だった。彼こそが風に乗り、旅をしてきたカンガルーの男の子なのだった。
「どうしてここにいるの?」
女の子が訊いてくる。
「どうして、って」
わからないのだ。そんなことを訊かれても。
「誘われたの?」
「え? 誘われた、って?」
「ここはね、音の出るところなの」
「音のでるところ?」
心に浮かぶイメージをまさぐって、なんとかこたえを探しだそうとこころみる男の子だった。が、まだ情報が不足しているのか、感情の波はそよとも動いてはくれないし、想像はいっこうに形をなしてくれない。
「あのね、ここは特異点なの。地球の風がありとあらゆる方向から吹いてきて、このビルの上でぶつかりあい、色んな音をだすの」
「ビルってなに?」
「建物のことだよ」
「蟻塚に似てるかな?」
女の子は男の子の連想に思わず笑った。なるほど、蟻塚とはね。その斬新な発想に心地よく笑いが漏れた。
「うん。似てるかもしれない。蟻じゃなくて人間がうじゃうじゃいるけど」
「ビルとは蟻じゃなくて人間がいる蟻塚のことなんだね」
「ま、そういうことにしておく。そしてここはね、全地球の風が四方八方から集まってきて、すてきな音をだす庭なのよ」
「樹があるね」
男の子はあたりを見まわし、すぐ頭上にある梢を見上げた。
「うん。ここはビルの屋上なんだけど、樹々が鬱蒼として小鳥だってたくさんいてる。彼女たちは森で卵を孵し、雛を育てている。虫もいっぱいいるよ。小さなせせらぎもあって冷たく澄みわたり、水底には落ち葉が堆積して雨水を濾過してくれているの。お魚だっているんだよ。そうして、この森はね、あるお年寄りが自分の愉しみのためだけにこしらえたの。お金持ちだったけど、孤独なお爺さんだった。それでね、なんでお爺さんが森をつくったかっていうと、ここに地球のありとあらゆる方角から風が集まって音を鳴らしていることを知っていたからよ。その人は寿命がきて死んでしまった。庭師の人以外は立ち入り禁止になってしまった森なんだけど、でもね、じつはさまざまな生きものたちが、きみみたいに風に乗って、ここに集まってきている。すべて地球的な風のおかげ。とても秘密めいているくせに、その実、生きものたちでいっぱいにあふれかえり、賑やかなところなんだ」
「だから、ぼくも誘われたってことなの?」
「そうかもね。だってきみは風になり雲になり、さいごは雨になってここにやってきたんだから」
「あなたは誰なの?」
男の子からの問いかけだった。だが、訊いてから戸惑いが生じた。その戸惑いがどこからやってくるのか、しかし男の子にはわからなかった。
「じゃ、きみは誰なの?」
逆に訊き返してくる女の子。
「ぼく?」
そうだ。戸惑いの正体はこれだ。彼は自問自答する。――ぼくが誰なのか、わからないというのに。
じぶんとはだれだろう、とあらためて問いかけてみる。
自分という存在は取替えがきかない、という感じが強くある。それはひどくたしかな手でさわれることのできる実感だったりするものだけど、そういう自分という実感が悪意でもって踏みにじられてしまうことに対する恐怖がある。でも、そればっかりじゃなくて、風のように軽やかに吹きすぎてゆき、あとには痕跡すらも残さない短い音楽のフレーズのようなものとしても自分というものはあるような気がするのだ。
「もしかして名前で呼べるものなのだろうか? 存在は名前でもある、ってどこかで聞いたことあるよ。あなたには名前があるの?」
男の子がたずねる。
「あるわ。あたしは、ヨーコ。きみの名前は?」
ああ、そうだった。訊いてしまってから、――しまった、と男の子は臍を噛む。
みだりに自分の名前をいうもんじゃないし、人に聴いたりしてもいけないんだ、と。男の子は後悔する。名前というものは神聖な領域に属するということを、どこか本能的なこととして知っていたような気がする。いまのいままで忘れてしまっていたけれど。
「だいじょうぶだよ。そんなこと、気にしなくても」
女の子は、彼の心の中身を読みでもしたみたいにつぎの言葉をいった。
「あのね、あたしの好きな音楽家にルボミール・メルニク(Lubomyr Mernyk)っていう人がいるの」
「え、音楽家?」
なんで唐突にミュージシャンの話題がでてくるんだろうか、と男の子は訝しげに首を捻るが、少女はたのしそうに微笑みをこぼしているだけだ。
「ウクライナ出身でカナダの音楽家らしいんだけど」
「うん」
気のない相槌をこぼす男の子。でも、彼女はたのしさのテンションをまったく変えずに話をつづける。
「だから、ルボミール・メルニク」
「うん、メルニク」
「で、どんな音楽かっていうと、おんなじフレーズをずっとリフレインしつづけるミニマルミュージック的ピアノ楽曲をつくり、みすから演奏する人なのね」
ヨーコと名乗った女の子はそこでいったん言葉を区切ると、男の子の黒い瞳を覗き込んだ。男の子の反応をたしかめているのだ。
すると、瞳の中に冷静で知的な光が静かに話のつづきを待っていることに彼女は気づいた。ヨーコはふたたび口をひらき、言葉を奏でだす。
「えっと、風鈴がね、鳴っている、それも一つとかふたつとかじゃなくて、ここいらの樹に吊り下げてもまだまだ足らないくらいのとんでもない数の風鈴が風に吹かれていっせいに鳴っている、そんなふうに聴こえる音楽なんだよ。きらきら、しゃりしゃりした、どっちかっていうとガラス質のきれいで涼しげな音楽なんだけど、これが一台のピアノで、しかも一人の人間の指から紡ぎだされるんだから不思議だよね。作曲者であるメルニク本人が弾いてるんだ。超絶的な演奏テクニックの持ち主だともいわれているらしい」
「聴いてみたいな、その音楽」
男の子はいう。ヨーコは瞼を閉じると、首をほんの少し傾げた。彼女の髪がゆれる。ヨーコの眉間のあたりに青くて透明な翳りが生じた。そこからメルニク自身がじかにピアノにタッチし、弾いている音がやってきた。男の子の内なる耳に、そのおびただしい風鈴のようなピアノの音が響いた。
風はなにかと擦れたり、ぶつかりあって音をだす。風鈴も風に押されて鳴る。メルニクの指さばきが風ならば、ピアノもまた風の琴となり、鳴りだす。
「群れをつくる生きものってさ、どうやって仲間のことを識別すると思う?」
女の子がいう。たぶん、話題は名前のことに戻ってきたんだな、と男の子は思う。
「群れをつくる動物ってトリケラトプスもそうだし、シマウマもそうだよね」
「あとイルカも、仲間内で個体を識別しなきゃいけない」
と、女の子。
「だとすれば、どのみちやっぱり名前が必要になってくるよね」
「うん、だから風なんだ」
「どうして?」
「動物は言葉をもたないから、それぞれの個体がもっている音で判別するの」
「個体がそれぞれに持っている音で?」
「そうよ。いのちって束の間吹きすぎ、通り過ぎてゆく風なの。風には善い風もあるし、悪意に染まった風もある。そして個体には怒りっぽい風もあれば、赤っぽい風もある。かと思えば砂混じりの風だってあるわ。きみだって元々は風だった。それも個性ある風だったことはわかるでしょ」
そういえば、そうだった。カンガルーの男の子は風になり、このビルへとやってきたのだ。生きもののなかを流れる風のちがい。ちがいがあるからこそ、それぞれを個体として識別することが可能となる。だから、それは言葉によらない名だとさえいえる。ただ、音だけが聴こえる。個性ある音として。
名とは、プネウマ。風にこそ命が宿る。
だから、カンガルーの男の子もほんとうの名前はあかすことができない。あかせば、命を他人に預けることになるからだ。
ヨーコという名前も、おそらく便宜的なもの。だったら、ぼくは好きな名前を名乗ることにしようと、彼はふいに思いついた名前を口にした。
「ぼくの名前は三郎というよ」
女の子は表情を綻ばせる。
「ほんと? 三郎くん、じゃ、よろしく。青い胡桃にそれから酸っぱいかりん、あとは放射能だけを吹き飛ばしてね」
三郎という名前と、胡桃を風によって吹き飛ばすことにいかなる因果関係があるのかわからなかったが、男の子は曖昧に笑った。
「じゃ、握手ね」
「あくしゅ?」
「こうするの」
いきなりだった。ヨーコは三郎の腕をつかみ、それから左のはじっこにいる彼を自分の方へと引き寄せた。と、にっこり笑う。花の蜜のすがすがしくも甘やかな匂いが三郎の鼻尖きを掠め、胸がときめくのを感じ、赤らめた顔を俯けた。
「あのね」
「うん?」
「どっか行かない?」
「どっか?」
三郎はヨーコの声に顔を上げた。ヨーコの瞳が近い。くっついてしまいそうになるほど額を寄せてくるから三郎は困ってしまうのだ。それにしても長いこと旅をしてきた。風になり雲となってここにやってきたというのに、いまさらどこにゆくというのだろう。三郎は首を傾げる。
「街よ。街に行くの。街に行けば、いままで見たこともないような愉快なもの、憧れにハートが痛くなっちゃうほどどきどきするものや、美しさにうっとりしちゃうものなんかが、これでもかっていうくらいいっぱいあるんだから」
「あ、あの、ぼくたちふたりでいくの?」
ヨーコはベンチから立ち上がると腰に左手をあてがい、上から三郎を睨みつけた。それから右のひとさし指をピン、と立てると、左右に振ってみせる。
「まさか? 一人で街を味わいたいっていうんじゃないでしょうね。ふたりだから意味があるのよ」
そして一転、優しげに微笑むと、もう一度、三郎の手をとっていった。
「ね、行こう。愉しいよ」
三郎も眼を輝かせ立ち上がった。
ふたりは手に手をとって駆け出していた。
3
「迷路を突破するための賢い方法って知ってる?」
ヨーコが走りながら笑顔を三郎にむけ、訊いてくる。ふたりはすでに森と蟻塚的ビルを脱出して、いま地上のアスファルトの上を手を繋いで疾走しているのだった。いくら走っても息が切れることはなかった。テンションは鰻登りに上昇し、もう嬉しさでいっぱい、どうにかなってしまいそうだ。
「さあ? どういうこと?」
三郎も笑いながらヨーコに顔をむけ、逆に訊き返している。
「あのね、ビルのなかは迷宮なんだよ」
「森も迷宮だった」
たしかにそうだったね、と女の子は頷いた。森は迷路になっていた。それもビルの屋上に庭園をこしらえ、そこを森にした老人が悪意をもって迷宮へと仕立て上げたのだ。
人を阻み、視線の行方を遮り、森の存在自体を邪な魔法でもって隠匿した。ここに足を踏み入れたなら最後、脱出することは罷りならんとする、人に対する寂寥のおもい、それから憎しみとが綯い交ぜになった呪詛を練り上げ、森を脱出不能なラビリンスと化していたのだった。
ヨーコは思う。亡き人の哀しみを柔らかく解きほぐさなければ、と。森は悪しき老人の霊によって支配されていたのだから。
彼女は巻き貝にさまざまなエッセンスを封入していった。きれいに濾過された水、草のかぐわしさ、小鳥の懐かしい囀り、朝、蜂から頂いた蜂蜜、三郎が持っていた雲に関する記憶の破片、青い海の記憶、それからヨーコ自身の息を吹き入れたものなど、森のあちこちにある祠にお供えし、贈りものとし、浄めていった。
それはひいては苦悶する老人の霊を慰める行為となり、やがて森は迷宮を解除した。ヨーコの贈った合図というか、メッセージはつぎのようなものだった。
――あたしたち、あなたがここにいること知ってるよ。
風が集い、鳥や虫がやってくる素敵な森をつくってくれてありがとう。
みんな、とっても喜んでる。あなたに感謝している。
そうしてふたりは迷宮でなくなった森を脱出してしまうと、庭師の眼をも欺き、いま、ビルの外にいるというわけなのだった。
老人は風となり、正統な死者として招かれ、召されるべき場所へと赴くことができた。かつて老人だった風はもうこの森にはいない。
彼女はといえば、ひと仕事終えた人みたいなさっぱりとした顔をしている。三郎もまた、すがすがしさでいっぱいだった。
「とっても厄介な迷宮だったけど、でも難しくはなかった。最後はとてもすてきなお爺さんになっていたし」
輝けるばかりの好々爺となり、聖母被昇天のモチーフさながらにピンク色のつやつやした微笑みをこぼしながら雲の上へと引き上げられていった老人。くろぐろとした悪意はすっかり消滅したのをふたりは眼にしていたのだった。
「うん。お爺さんは最後は賢者になっていたね」
「なっていたね」
ヨーコも頷くと、三郎にウインクした。
ヨーコと三郎はこんもりと葉っぱを繁らせた樹の下にある停留所にいて、バスがやってくるのを待っている。
「色が動いている」
「色?」
ヨーコは三郎が指をさした方に眼をやった。そこには二車線の舗装路があるだけだった。
「ほら、色が動いているよ。白や黒、それに青だったり。たまにピンクも動いていたり」
「あ、わかった。車のことだね」
「くるま?」
「そう。車が動くのが早過ぎて三郎くんの動体視力にまだ馴染んでいないんだよ」
「鳥が飛んでいるのは、ぼく、みることができるんだけどな」
「慣れの問題かな。車が走っているのが色彩の流体みたいにみえるんだね。しばらくのあいだ、慣れるのを待つこと。あ、三郎くん、バスがやってきたよ」
「え、ばす?」
「あれがそう」
「乗ればどこにでもいけるの」
「うん。でも、どこにでも、ってわけじゃないけど。この街をぐるぐる循環しているだけ。街の外には出られない。地球規模で循環している風じゃないから」
「そっか、風じゃないから」
「風はあたしたち」
「う、うん」
ふたりの眼の前に蟻塚より遥かにおおきな車体が流れるように滑り込んできた。薄く延ばした鉄板を溶接して長方形に加工し、エッジには丸みをつけ、車輪があり、多くのホモ・サピエンスが乗車していた。
「これに乗るんだよ」
ヨーコが三郎にむかって叫んだ。
バスは停止すると、開いた扉からおびただしい数の人の群れを吐きだした。ヨーコは開いた扉の中に手を延ばすと手摺につかまり、ステップへと足をかける。そして三郎に顔をむけると、いった。「さ、早く乗って。バス、出ちゃうよ」
「え、乗るってどういう?」
三郎は緊張した。バスになんて乗ったことがないからどうしたらよいのか皆目、見当がつかない。風になっての移動や、お母さんの袋に入っての有袋類の子どもとしての移動ならわかるんだけどな、と思い、ひどく困惑している。
「早く!」
上から声が聴こえる。ヨーコが促してくる声だ。焦る、とても。
三郎は眼を瞑った。
だけど。
訊くより、からだを動かしたほうが早そうだ。ぼやぼやしているとおいていかれてしまいそうだったし。
三郎はステップを駆け上がった。運転手がこちらを、ちらと一瞥したが、ヨーコがウインクをすると何もいわず、フロントガラス越しにみえる樹の幹や、バス停のほんの少し先にある郵便ポストに眼をやった。
ヨーコは一番まえのシートに坐り、三郎も彼女にならって前輪のうえの高いところにあるシートの肘掛けにつかまり、やっとのことで攀じ登るとお尻を落ち着かせた。坐ったと思ったとたん、バスが動きだし、背もたれに背中を押しつけられる。びっくりしたが、ヨーコをみると何の合図かわからなかったけど、にこにこしながら右手の親指を三郎にむかって突きだした。
エンジンが震えている。鼓動だ。鼓動が聴こえてくる。車体もあたかも生きているかのように振動している。三郎は感心する。鉄でできているけれども、バスもまた生きている。バスが動きだすと、三郎はお母さんの袋によく似ているな、という感想を抱く。だって、鉄の袋に守られて移動するのだから。もっとも平原での跳躍しながらのカンガルー的な移動ではなく、四つの車輪をもちいての水平方向の移動になるのだけど。
窓の外の光景に眼をうつす。帽子を被った女の人がみちを歩いている。帽子につけられた青いリボンが風にゆれている。と、思ったら、ひらり宙に舞う。だとしたらあれはリボンではない。座席から身を乗りだし、風に煽られてはとぶ、ひらひらしたものの軌跡を追っている。
蝶々だ、と三郎は思う。青のうるわしい光沢をはなっていたから、てっきりリボンだと思い込んでしまったのだけど。
蝶々は風に乗り、ふわ、と舞い上がると、窓から車内へと入ってきた。三郎の鼻尖きすれすれを掠めたかと思った瞬間、ふたたび窓の外へとでて行く。咄嗟にからだを捻り、眼はその残像を追いかけたが、見失ってしまった。しばらく三郎の視界に青の余韻が尾を曳いていたけれど、それもすぐに消えた。
プラタナスの葉叢をすかし、さらに見上げると、雨水が染み込んだ建物の黒い壁があった。壁のうえには鉄塔の骨組みが聳え、そこはラジオ局になっていて三郎は聴こえるはずのない音楽が耳にできるような気がした。
バスは走りつづける。窓の外の色彩も流れる。三郎の意識も、この街の色彩と一緒になって動き、くるくる優雅なワルツを踊りながら小さな旅行をたのしむのだった。
4
バスに乗って街じゅうを走り、やがて飽きるとふたりはバスから降りた。そしてソフトクリームを食べながら街なかを散歩した。
ソフトクリームを食べてしまったあとは映画館に行った。映画館の入り口は、回転式のガラス扉になっている。
「三郎くん、カンガルーのしっぽを挟んじゃいけないよ」
といいながらヨーコは建物のなかにさっさと入っていってしまう。
三郎は慌てた。しっぽを挟まれるのは怖い。けれど、ガラスとぶつかってしまうのは、もっと怖い。何枚ものガラスの仕切りが回転している。後続の仕切りがやってくるその前に中に入ってしまえばいいのだけど、問題はタイミングだった。
ともあれ、風になればいい、と思う。
風になり、吹き抜けてしまえばいい。
と、呼吸をととのえ、イメージをした瞬間、三郎は一陣のつむじ風を巻いて突入していった。そうして風となった彼の鼻尖きには、さっきバスに乗っているときに遭遇した、あの青い蝶がふたたび掠め飛ぶのだった。
傍にはヨーコがいる。気がつくと、建物の中に入り込んでいる。そうして彼女はといえば、天井から琥珀の色を放ちながら瀑布となって流れ、そしてそれがふいに時間の停止とともに凍結してしまったような氷の量塊を見上げているのだった。
「この氷はなに?」
三郎はその壮大さに呆気にとられた。氷だというのに冷たくはなかった。それに光を放ってさえいる。
「シャンデリア、っていうんだよ」
ヨーコが教えてくれる。
「え、しゃんでりあ」
「氷じゃなくてね、ガラス。人工的な灯り、とでもいったらいいのかな」
「すごいね」
「すごいよ。でも、もっと、すごいものがあるよ、こっちにきて」
ふたりは手を繋いで映画館の赤い絨毯が敷かれたロビーを走ったが、咎めだてる大人は一人もいなかった。
「ここはどこ?」
「映画をみるの」
「えいが?」
「楽しいものよ」
「どんなふうに楽しいの?」
「はじまればわかるよ」
「いつはじまるの」
「しっ! 静かに。他のお客さんに迷惑がかかるから、静かにしていて」
「もうすぐ?」
「うん、もうすぐだよ」
ふたりはクッションの効いたふかふかのモスグリーンの色をした座席に深く蹲るようにして腰掛けた。
そうこうしているうちブザーが鳴った。すると仄暗かった空間だったのが、さらに暗くなってしまう。光はみるみるうちに失われ、三郎の指さえも見えなくなった。
「だいじょうぶ。今からはじまるよ」
ヨーコが三郎の指に自分の指を搦めながら囁いた。急に暗くなったので、すんでのところでパニックになりかけたが、三郎はどうにか叫びださずにすんだ。
スクリーンに灯がともる。そこにフィルム上に焼き付けられたもう一つの現実が映しだされ、三郎はその光景に魂を奪われた。
映しだされているのは三郎がすんでいた平原だった。真昼の光があふれている。骨を削ってこしらえたかのような釣り針じみた月が儚げな雲みたいになって青空にぽかり、浮かんでいるのだった。
「あれは、」
と三郎は言いかけて口を噤んだ。ヨーコが彼の指を強く握り、喋るのをたしなめたからだ。だけど。――そう、あれは雌のカンガルーだった。そして有袋類である彼女の袋のなかには、耳を動かしながらこちらを黒いつぶらな瞳で、こちらを窺っている男の子のカンガルーがいた。
三郎は帰らなくてはならない時間がきていることを悟った。ヨーコもそのことを知っていて、もう一度、三郎の指を強く握りしめた。
彼女はもしかしたら、こう言いたかったのかもしれない。
――もう少しだけ一緒にここにいようよ。ううん、できたら永遠にこのままずっと。
でも、それは叶うことの許されない夢であり、三郎もヨーコもそのことはよく知っているのだった。
街はそろそろ夕暮れが訪れようとする倦怠した空気にくるまれていた。
映画館を出たあと、公園に噴水をみにいった。風に水は靡き、平行に入射する光線によって燦めく黄金色のしぶきとなり、きらきら舞った。ふたりはまばゆさに眼を細め、暫くのあいだ、すっかり黙りこくってその金の針が飛び散るさまを眺めた。
5
すでにここ屋上では、オレンジ色のひかりがそろそろ消えてゆこうとしている。陽が傾くにつれ、まるで下方から雲を映画のスクリーンにして薔薇色に染めているかのようにみえるのだ。
ヨーコと三郎はふたたび、もはや迷宮ではなくなった森を抜け、はじめてふたりが出会ったベンチへと舞い戻っていた。ふり仰ぐ空は水よりも青い。
ふたりは寄り添ってはいるけれども、何も喋らないでいる。別れの時が迫ってきているのはわかっていた。だけど、三郎は別れを認めたくはなかった。
――だって、あんなに楽しかったのだもの!
しかし、しだいに森は暗くなり、葉っぱのなかに溜め込んでいた闇も取り返しがつかないまでにその濃度を濃くし、翳ってゆく。光は失われる。樹々は黒々としたシルエットになり、三郎はなんとか森に吸い込まれてしまわないように眠気をこらえ、瞼を懸命になって見開いていた。
ヨーコはまだ、消えてはいない。彼女の声がした。眠りに甘く蕩けていきそうな声だった。ベンチにはそこだけまだ仄白く薄い光がわだかまるように残っている。
「もうすぐ一日が終わってしまうね」
ヨーコはいった。ひどく気だるそうに。
「楽しかったね」
三郎もこたえる。
「さようなら」
三郎は認めたくなかった。
「さようなら、って……」
蝶の屍骸と、貝殻とがベンチに残されている。ヨーコはもう三郎の傍にはいないのだった。貝殻を手にしても旅立っていったヨーコの行方を知ることはできない。しかし、たった一日の逢瀬ではあったけれど、千年もの時間の堆積を三郎は十分に満喫していた。
海の底ふかく潜航していったような青ぐらい層にむけ、三郎もまた、その形を徐々に沈めていった。蝶の屍骸を優しく拾い上げ、てのひらのうえに横たえると彼は何事かを短くつぶやいた。指に青い鱗粉がついたようだったけど、輪郭さえもすでに見分けがつかなくなった。藍色の闇のなか、蝶の屍骸も風に乗り、飛ばされ、いずこかに消えた。
ヨーコとは仮初めの便宜的な名前でしかなかった。三郎もまた。
森のなかのベンチでお喋りをしたり、バスに乗ったり、アイスクリームを舐めながら街を散策したり、映画をみたり、噴水のしぶきと戯れたりしたけれども、それは彼にとっていかなる時間であったのか、もう三郎自身にすらわからない何か、砂丘の上に朧げに浮かぶ蜃気楼の街でしかなかった。
けれど、一千年もの時間はターコイズの色をした小さな丸い石として結晶した。いまは彼の意識の海の底に沈んでしまったが、いつの日かひょっとしたら眼を覚ますかもしれない。
風が吹くその日を待ちながら石もまた、眠りに就く。
彼はカンガルーの男の子に戻っていた。
バスのことも、あれほど甘かったアイスクリームのことだってすっかり忘れ、お母さんの袋のなかにいてじっとこちらをみている。
その時だった。
お母さんは何を思ったのか西の方角をめざし、ひときわ滑空時間の長く、しかも美しい弧を描く跳躍を敢行した。
すると、カメラのフレームからカンガルーのお母さんも男の子もすっかり消えてしまった。
あとはただ、風が鳴っているばかり。
さようなら。
風とカンガルー