隻影

隻影

探偵を本業にしていた時、渋谷で会った1人の少女がモデルです。
わずか10分ほど話をしただけなのですが、未だ、私の記憶から忘却される事はありません。
私と約束してくれた事・・・ ストーリーの中でも、主人公の『 なつき 』を通して触れますが、それは実行されているのでしょうか。

普通・一般の方では、絶対に見聞する事の出来ない世界・・・ そこで実際に生活し、強いられた人生の日々を、それこそ、必死に生きている人たちがいます。 それぞれの『 存在 』を胸に秘めながら・・・

* この作品は、探偵として見て来た『 裏 』の世界の実情を基に、ストーリーのほとんどを、その業務経験・実話で構成しました。

1、月下の街

1、月下の街


 月を見上げていると、悲しくなる。
 暗い夜空に、たった1人で浮かんでいる自分を見ているような・・・ そんな気分になる。

 街は、好きだ。
 夜でも、明るいから・・・
 自分以外に、沢山の人がいてくれる。
 1人じゃない。
 例え、それが他人であっても、自分以外に、ヒトがいる事には、違いはない。
 それに、都会の明かりは、月を目立たなくさせてくれる・・・


 なつきは、渋谷のハチ公前のベンチに両膝を抱えて座り込み、そんな事を想っていた。
 膝上20センチくらいの長さの、デニム素材のミニスカート。 英文ロゴがプリントされた黒のTシャツに、白いカーディガン。 肩くらいまである茶髪の前髪を、ヘアピンで止め、左に分けている。
 ピンクのトートバッグを両足の間に挟み、ほころびかけた銀色のミュールを指先で触れながら、なつきは、小さなため息を尽いた。
( おなか、減ったなぁ・・ )
 今日は、朝から何も食べていない。
 首から下げた、ペンダントに付いているデジタル時計を見ると、午後7時を回っていた。
 6月の上旬。 日が長くなったとは言え、さすがにこの時間ともなれば、辺りは薄暗くなって来ている。
 空を見上げると、丸い月が、街路灯と見間違うかのように、ポッカリと浮かんでいた。
「 ・・・・・ 」
 暮れ切らない夜空の為か、今日の月は、何だか印象が違う。 なつきには、それが、とても美味しい食べ物のような気がした。
( 甘~くて・・ 何か、とろ~っとしたカンジ・・? 美味しそうだなぁ・・ )
 半分、口を開けて見上げている、なつき。
 やがて、見上げていた月を覆い隠すように、男性と思われる2つの人影が、なつきの視界に入って来た。
「 キミ、ずっとここにいるね? 」
 1人の男が尋ねる。
 無言で、2人を見つめる、なつき。
 声を掛けて来た男性は、中年。 少し薄くなった頭に、白いポロシャツとスラックス姿。 もう1人は、多少に若く、グレーのトレーナーに、ジーンズとスニーカーを履いている。
( この格好と、雰囲気・・ )
 なつきは、ピンと来た。 私服警官だ・・・!
 若い方の男が尋ねる。
「 誰かを、待っているのかな? 」
 なつきは、とりあえず、無言で頷く。
「 4時間もかい? 我々が、気付いて4時間だから・・ もっと前から、いたんだろう? 高校生? 名前と住所は? 学校は? 」
 やはり、警官だ。
 なつきが、逃げ出さないようにと警戒してか、2人は、なつきを、斜め前から囲うようにして立っている。 なつきは、トートバッグを掴み、中年男性の脇を、すり抜けるようにして逃げ出した。
「 あ、こらっ・・ 待てっ! 」
 若い方の男性が叫ぶ。
 雑踏を、かすめるようにして逃げる、なつき。 何人かと、ぶつかった。
「 ひゃあ・・! 」
 老婆を、突き飛ばしてしまった。 だが、構ってはいられない。
「 ごめんね、おばあちゃん! 」
 声だけを掛け、なつきは、渋谷駅の駅舎の中に逃げ込んだ。 会社帰りの人たちで、ごった返している駅構内。 おそらく、追っては来まい。 後を振り返る、なつき。
 何事もなかったかのように、流れて行く、人の背・背・背・・・
 ふうっと、息をつき、なつきは歩き始めた。
( 今日はもう、あそこには戻れないなぁ・・ お気に入りの場所なのに )
 常に、人が行き交い、話し声が聴こえる場所。
 なつきは、そんな場所が好きだった。

 行く宛ては、無い。
 しばらく構内を歩き、反対側の出口から外へ出る。
 ふと空を見上げると、先程の月が、ビルの間に見えていた。
( カオリのトコにでも、行くか・・ )
 まだ『 仕事 』をするには早い。
 なつきは、『 109 』前の3叉路を横切り、路地へと入って行った。

「 ハーイ、ナッキー! ヒマしてんの? 」
 ナッキーとは、なつきのニックネームである。
 路地に面した、小さな雑貨屋の中から、なつきと同じ年頃の少女が、声を掛けて来た。
「 ボ~っとしてたらさぁ、お巡りに職質されちゃってさ・・ うざったくてさぁ~ 」
 路上まで、はみ出したダンボール箱に入れられた雑貨を押しのけ、出て来た少女は、着ていたエプロンのポケットから、外国製のメンソールタバコを取り出すと、1本を口にくわえて言った。
「 アンタ、また1箇所にいたんでしょ? ダメだって~、そんなん。 ポリがチェックしてんだからさぁ~ 」
 ライターを取り出し、火を付ける。
「 分かってんだケドね~ つい、ボ~っとしちゃってさ・・ 」
 カラフルな色が着色された、長い付け爪をつけた指先でタバコを挟み、ふう~っと、煙を出す彼女。 ラメ入りのルージュから吐き出される煙が、暮れ始めた夜空に立ち昇って行く。 割と、スレンダーな体付き。 身長は、なつきより少し高い。 腰辺りまである長い茶髪で、ワンレングスだ。
 なつきは言った。
「 どう? カオリ。 このバイト、実入りイイ? 」
 カオリと呼ばれた彼女は、タバコを挟む指をピンと伸ばし、フィルターを口に持って行きながら答えた。
「 ダメダメ。 あんま、儲かってないもん、この店。 テナント料ばかり高くて、赤字よ。 店長も、ヤル気なしだしさぁ 」
「 店長って・・ あの、おっかない顔の? 」
「 そー。 総和会の幹部だって言ってたケド、下っ端よ、下っ端・・! 」
 ふう~っと、煙を出しながら言う、カオリ。
「 いつもいるの? 今は? 」
「 いるワケないじゃん。 あんな、イカつい顔のオッサンがいたら、ダレも来ないって、こんな店~ 」
 カオリからは、いつも1人で店番をしていると聞いていた。 ある意味、店を任せられているようにも取れるが、実際は、放ったらかしにされているようである。
 吸っていたタバコを、なつきに渡す、カオリ。 なつきも吸い、ふう~っと、煙を出しながら言った。
「 でも、気楽でイイじゃん。 あたしみたいに、お巡りに、追い駆けられないしさぁ 」
「 まあね。 住所不定のあたしらを、雇ってくれるだけでも有り難いケドさ・・・ でも、夜は夜で、タイヘンよぉ? 」
「 タダ? 」
「 当ったり前じゃん、そんなん。 あの、アホ店長だけならまだしも、チンピラを連れて来んのよ? それも3人とか。 ヤダね~、モテない男ってのは。 しかも、若い三下みたいなヤツ・・・ 飢えてんのよね~・・ クドくってさぁ 」
 眉間にシワを寄せて言う、カオリ。
 長い前髪を、かき上げながら続けた。
「 そう言えば、ナッキー。 アンタ、ホテルの受付のバイト、どうしたのよ? 」
「 ホテルじゃないって、あんなの。 雑居ビルの部屋に、受付を作っただけの、ただの『 連れ込み 』だって 」
「 それでも、時給、良かったんじゃない? 」
「 でもないよ? マスターが、売上持って逃げちゃってさ。 支配人、あたしにマスターやれって言うのよ? ヤバそうだったから、逃げて来ちゃった 」
「 ふう~ん・・・ 」
 段ボール脇に座り込む、カオリ。 なつきも同じく、店前の路上に座り込んだ。 お構い無しに、路上に尻を付け、持っていたトートバッグを傍らに置く。 日中の、太陽の日差しで暖められた、歩道のアスファルトの暖かさが、じんわりと伝わって来る。 タバコをカオリに返し、なつきは、両手を後に付いて両足を投げ出すと、暗くなりかけた空を仰ぎながら言った。
「 おなか、減ったなぁ・・・ 」
 カオリが、煙を出しながら、申し訳無さそうに答えた。
「 ごめん、ナッキー。 あたしも今、お金、持ってないんだ 」
「 あ・・ ううん、いいの。 そんな意味で言ったんじゃないからさ 」
 慌てて補足する、なつき。
 生きて行くには、お金が要る。 1人で生活をする言う事は、その生活費を全て、自身で補う事を意味する。
 家を飛び出して、半年・・・
 カオリのような『 同志 』に出会い、互いに何かと助け合いながら、なつきは、この街で生活していた。 他にも、同じ境遇の子たちと、たくさん出合った。 だが、時期が経つと1人、2人・・ と、姿を消して行く。 家に帰った者もいれば、『 その世界の者 』と暮らす道を選択する者もいるのだ。
 カオリとは、家出した当初から知り合った、この世界では、付き合いの長い友人だ。 気も合う為、なつきは、相談事などは、必ずカオリにしていた。
 家出歴、3年のカオリ・・・ 確か、歳は19歳。 大人びた顔立ちの為、20歳以下には見えない。 着る服にもよるが、24~5歳を演じる事は、造作もないようだ。 仕事選びの時、カオリは、この『 特技 』を最大限に利用する。 これも、生きる為の手段なのだ・・・
 まず最初に、カオリがバイトなどを見つけ、働き出す。 その後、紹介という形で、なつきが入って来る・・ そんな手法で、過去に、幾つかの職を共にした。 この世界、『 紹介 』『 コネ 』ほど、確かなモノはない。 半年間で、なつきは、身をもってそれを経験した。

 カオリが尋ねる。
「 今晩、仕事すんの? 」
 ぼんやりと夜空を見上げながら、答えるなつき。
「 うん・・ お金、無いから 」
「 青山の方、中人、変わったらしいよ? 」
「 へえ、そうなんだ。 行ってみようかな・・ アッチの方が、客層、良さそうだもんね 」
『 中人( なかにん ) 』とは、路上で『 商売 』をする者を、監視する役の者の事を指す。 多くは、『 組 』の下っ端の者がやっている。 新参者を排除したり、他の組の者から、自分たちの配下の商売人を、守ったりするのが仕事だ。 『 守られている者 』は、中人に、売上の一部を献上する。 この世界には、暗黙のルールと、犯してはならないテリトリーがあるのだ。
 中人が変わったと言う事は、その地域を束ねている『 組 』が変わった事を意味する。 ただ単に、人が変わっただけでは、そんな表現はしない。
 カオリが言った。
「 気を付けなよ? ここいらなら、あたしや総和会の顔が利くケド、アッチには知り合い、いないからサ 」
「 うん、分かってる・・・ 」
 夜空を見上げたまま、なつきは答えた。
 都会の夜空は、眠らない。
 そんな表現が似合いそうな、黒でいて暗くない、都会の夜空。
 なつきは、小さなため息を尽く。

 けだるい夜空には、薄黄色の月が、陰気に浮かんでいた・・・

2、夜の街角にて

2、夜の街角にて


 午後8時。
 繁華街には、そろそろ、ほろ酔い気分のサラリーマンが姿を現す。 赤ら顔で、仕事の不満を演説する者、上司のプライベートを、スキャンダルよろしく暴露する者・・・ たいていは、4~5人連れだ。 そのうち数人は、足元をフラフラさせながら、路上を歩いて行く。
『 連れの客はダメよ? せいぜい、2人連れまでね 』
 カオリの訓示が、なつきの脳裏に甦る。
( まずは、中人に話しを通さなきゃ・・・ )
 とあるオフィスビルの入り口付近に立ち、なつきは辺りを見渡した。
 帰りを急ぐOLやサラリーマン、 ラフなTシャツ姿の学生らしき若者も歩いている。 2車線ある車道には、ヘッドライトを点けた車が、引っ切り無しに走っていた。
 ふと、左の方を見ると、若い女性が数人、なつきと同じようにビルの壁を背にし、立っている。
( 待ち合わせ・・・ じゃないよね。 こんな、中途半端なトコだし )
 おそらく、『 同業者 』だろう。 なつきと同じく、仕事を拾いに来ているのだ・・・
 すぐ隣に立っていた女性が、なつきを見た。 彼女の視線が、なつきの顔から胸・腰・足元へと移って行く。 再び、視線をなつきの顔に戻し、彼女は言った。
「 ・・初めて? ココ。 見ない顔だね 」
 24~5歳くらいに思える年齢からは、想像もつかないような、しゃがれた声。 背中辺りまである茶色の髪には、緩やかなウェイブが掛っており、ルックス的には、目鼻立ちの通った、割と美人の女性だ。 開いた、白いワンピースの胸元から見える乳房のふもと辺りには、蝶の刺青があった。
 なつきは、答える。
「 初めてです。 駅の方で、やっていたから・・・ 」
「 ふう~ん・・・ 」
 もう1度、じろりと視線を体の方にやる、彼女。 ニッと笑うと、自己紹介をした。
「 あたし、祥子。 アンタは? 」
「 なつきです 」
「 歳は? 」
「 17 」
「 ・・・若いのね 」
 過去は、聞かない。 この世界の、暗黙のルールだ。 ここに立つようになった他人の経緯など、知っても、何の得にもならない。 それに、大体、おおよその見当は付く。 マトモな生活をしていれば、こんな所に立つはずは無いのだ・・・
 祥子、と名乗った彼女は言った。
「 もうすぐ、中人が来るわ。 アタシ、ココの顔だから、通してあげる 」
 どうやら彼女は、ここの『 常連 』らしい。 『 通す 』とは、紹介を意味し、ここで、仕事が出来る事を示唆する。
「 ありがとう。 祥子さん・・ だっけ? 親切なのね 」
「 ヤメてよォ~・・! アンタみたいな若いのが横にいると、アタシにも、おこぼれが来る確率が高いからよ。 ヘンな、親切心からじゃないわ。 稼ぐ為の手段。 アンタ、甘い考えしてると・・ 街に食われるわよ? 」
 祥子は、笑いながらそう言った。 肩から下げていた、ブランドもののバッグの中から、市販のミントの小粒を出し、なつきに勧める。
「 要る? 」
「 あ、持ってるんで・・・ 」
「 そう 」
 数粒を口に入れ、祥子は言った。
「 アンタ・・ タバコの匂いがするよ? 」
 先程、カオリにもらって吸っていたタバコの事だろうか。 なつきは、右手を口に当て、言った。
「 あ・・ さっき・・・ 」
 祥子は、視線をなつきにに向け、悪戯そうな目で言った。
「 オトコにとって、ゲンメツもいいトコよ? 」
 慌てて、トートバッグの中をまさぐる、なつき。
「 あははははっ 」
 何が、おかしいのか、祥子は笑った。
「 ほう・・ 今日は、ゴキゲンだな、祥子。 いいコトでも、あったのか? 」
 なつきの右側から、突然に声が聞こえた。 声の主を見やる、なつき。
 短めの髪をワックスで逆立て、胸元の開いた、濃いグレーのシャツを着込んだ男が立っていた。 細い縦縞の、濃紺のスーツを着ている。 腕には、金のベルトのロレックス・・・ いかにも、そのスジの人間だ。
( この人が、中人だわ・・! )
 なつきは、そう思った。
「 アンタ、こんなトコ、うろついていて・・ イイの? ヤバイんじゃないの? 」
 そう言う、祥子。
 男は、笑いながら答えた。
「 ドコをどう歩こうと、オレの勝手だろう? 組にゃ、カンケー無いこった 」
 30代前半、のような印象を受ける。 スーツの襟には、銀バッジが光っていた。
 祥子は言った。
「 先週から、ココは緑風会のシマよ? 成和興業 幹部のアンタが歩いてて・・ 緑風会の連中が、イイ顔するワケないじゃん 」
 どうやら、この男は、前の中人なのだろうか。 祥子との会話からは、ヤバそうな雰囲気が感じられた。
 なつきは、男と祥子の成り行きを、じっと見守る。

『 余計な事には、首を突っ込まない 』

 これは、この世界で生きて行く為の、心構えでもある・・・
 はたして、男の後ろに、2人の男が立った。 1人は、大柄でスキンヘッド。 鼻の下と、顎下にヒゲを生やし、ハデな柄のTシャツを着て、ダブダブのチノパンを履いている。 もう1人は、背が高く、30代後半くらい。 やはり濃紺のスーツを着ていた。 ノーネクタイに、白いカッターシャツの襟元をはだけ、薄いブラウンが入ったメガネを掛けている。
「 成和の暴れん坊、柴垣か・・・ 元気そうだな 」
 メガネを掛けた男が、静かに言った。
 柴垣と呼ばれた男は、チラリと後ろに視線を向けたが、振り返らず、首を回したままで答える。
「 ・・・斉田か。 イイ気になってんじゃねえか、おまえんトコの叔父貴・・・ 」
 突然、スキンヘッドが叫んだ。
「 ナニ、イキっとんじゃ、コラァッ! おお~っ? 兄貴の方、向いたらんかい、コラァッ! 」
 メガネの男が、スキンヘッドの男を右手で制し、言った。
「 さわぐんじゃねえ、トシ・・! 」
 スキンヘッドは、コメツキバッタのように、何度も小さく頷き、頭をかいた。
 メガネを掛けた、斉田という男が、柴垣に言った。
「 上のモンが何してるのかは、オレたちにゃ、関係無い。 与えられた仕事をするだけだ。 騒動は、起こしたくねえ。 柴垣・・ おめえも、分かってくれるよな・・・? 」
 柴垣は、相変わらず首を回したまま、フッと笑うと、答えた。
「 斉田・・・ てめえは、いいヤツだ。 緑風会の中で、話しの分かるヤツは、てめえだけだぜ。 あとは、ボンクラだ 」
 しばらく間を置いて、斉田は、メガネを右手で掛け直し、言った。
「 組のモンを、ボンクラ呼ばわりされたとあっちゃ、オレも黙っているワケにはいかねえ。 ・・ま、今のは、聞かなかったコトにしておくぜ 」
 初めて振り向き、柴垣は言った。
「 口が過ぎたな・・・ 以後、気をつけよう 」
 その言葉に、ニッと笑う、斉田。 メガネに、車道を走る車のヘッドライトが、光って流れる。
「 てめえの口が悪いのは、重々、承知だ。 せいぜい、その口が元で、災いを背負い込むなよ? 」
 柴垣は、斉田の忠告に、無言で軽く手を上げ、答える。 やがて、行く宛ての無いような、ゆっくりとした足取りで、ネオン街へと消えて行った。
 行き詰まる会話を、微動だにせずに聞いていた、祥子となつき。 ふうぅ~~っと、長いため息を尽きながら、祥子が言った。
「 どうなるかと思ったよ・・・! 」
 柴垣が消えて行った方角を見やりながら、斉田は言った。
「 あいつも、バカじゃないさ。 だが、挑戦的な態度は、直しようがないな・・・ ヤツが、中人だった頃は、苦労したんじゃないのか? 」
「 まあね。 でも、アタシらには優しかったよ? 」
 笑いながら答える、祥子。
 斉田は、なつきを見た。 祥子が、紹介をする。
「 あ、この子、新人ね。 なつきって言うんだ。 駅の方でやってたらしいよ? 」
 なつきが、ペコリとお辞儀をした。
 斉田は言った。
「 緑風会の斉田だ。 住むトコは、あんのか? 」
 無言で首を振る、なつき。
「 SSか・・・ 」
 SSとは、ステーション・ステイの略で、業界造語だ。 いわゆる、路上生活者を指す。
 斉田は続けた。
「 明日、連れていってやる。 5時頃、ココへ来い。 いいな? 」
 無言で頷く、なつき。
『 連れていってやる 』とは、アパートなどを紹介すると言う事であり、組で保有する『 ねぐら 』を持っている事を意味する。 そこに、住めという訳だ。 たいていは、4~5人が、同居している。
( ラッキー♪ これで、雨がしのげるわ )
 シャワーなども、毎日、浴びられるだろう。 今までの、駅方面のシマを仕切っていた組には、そういった『 施設 』が無かった。
( ・・と、言う事は・・・ )
 なつきが、そう推察しかけた時、その答えを斉田が言った。
「 アガリは、半分だ。 ちょろまかすなよ? 調べれば、すぐにバレる 」
 儲けの半分は、組に持っていかれるらしい。 まあ、仕方がないだろう。 新人でもある、なつきには、反論する事すら許されない。 イヤなら、他で仕事をするしかないのだ。
 なつきは、お辞儀しながら、小さく言った。
「 宜しくお願いします 」
 斉田は、ニッと笑うと、スキンヘッドを従え、柴垣が歩いて行った同じ方向へと消えて行った。
 祥子が言った。
「 さて、仕事開始ね・・・! 」
 ビルの壁に寄り掛かり、腕組みしながら続ける。
「 アンタ、どういったタイプが、イイの? 」
 なつきは答えた。
「 若いのは、ダメ。 くどいから 」
「 あっはははは! 言えてるわね。 アンタ、中々と手馴れてるじゃん? 」
 高らかに笑いながら、祥子は言った。

3、泡沫の夢

3、泡沫の夜


「 は~い、彼女ォ~? ドライブ、行かなァ~い? 」
 ラップミュージックの男性ボーカルの声が、大音響で聴こえる車内から声を掛ける若者。 フルスモークの国産高級セダンだ。 高そうなアルミホイールを履き、大口径のマフラーからは、地鳴りのようなエキゾーストが聞こえる。
 助手席の窓を開け、身を乗り出して誘っている、若い男。
「 うっとおしいわね・・! 」
 祥子は、腕組みをしたまま、眉間にシワを寄せながら呟いた。
 こういう連中は、なつきたちの『 お客 』ではない。 金もないし、この世界の『 常識 』も知らない。
 祥子は、腕組みしたまま、叫んだ。
「 サッサと家に帰って、ママのおっぱいでも、しゃぶってな! 」
 若い男の顔から、笑いが消えた。
「 ・・ンだと? コラ 」
 ドアを開け、外に出て来る、若い男。
「 ちっ・・・ 」
 腕組みしたまま、祥子は舌打ちをした。
 若い男が、歩道を横切り、こちらへと近寄って来る。
「 もういっぺん、言ってみなコラ・・ おお? 」
 凄む、若い男。 意外と筋肉質で、屈強そうな感じである。
 なつきは、ドキドキした。
( 祥子さん、どうする気なんだろ・・ あたし、とばっちり受けんの、ヤだな )
 だが祥子は、お構いなしのようである。 例の、ハスキーボイスで言った。
「 アンタ、若いのに、耳が遠いの? ウチ帰って、エロ本で一発、抜いとけって言ったのよ! 」
 物凄い、挑発発言である。 若い男は、キレたらしく、祥子のワンピースの胸元を捻り上げ、凄んだ。
「 てめえッ! ナマ言ってんじゃねえぞ、コラァっ! 」
「 あら、どうする気かしら? この手。 殴るの? 殴んなさいよ、ホラ。 どうなっても知らないわよ? 」
 平然としている祥子。
「 て~ンめえぇ~~・・! 」
 あまりに無抵抗で、あまりに平然としている祥子に、若い男は、どうしたら良いのか、分からなくなったようだ。
『 何かある 』
 そんなメッセージみたいなものが、祥子の態度からは読み取れた。
 車の運転席から、別の男が声を掛けた。
「 おい、マサト、やめとけって・・! その女、ヤーさんの女かもしれねえぞ? 」
 祥子の胸倉を掴んでいる若い男が、ビクッとした。
 祥子は言った。
「 あたしら、高いわよ? 払えなかったら、アンタらの体で払ってもらうかんね? 腎臓とかでさ・・・ 」
 慌てて手を離す、若い男。
「 ・・フ・・ フカシてんじゃねえよ・・・! 」
「 なら、試してみる? ・・イイ車、乗ってんじゃん。 付き合おうか? ヒルトンのスゥイートまで 」
 若い男は、一歩、後退りすると踵を返し、逃げ込むように車に乗った。 タイヤを軋ませ、走り去る車。
「 あっはははは! 」
 高らかに笑う、祥子。
 なつきは、胸を撫で下ろした。
( 怖かったぁ~・・・! やっぱ、コッチは客層が違うわ。 駅の方は、ヤンキーもいたケド、突っ掛かってくるコト、なかったもん )
 祥子の、挑発するような言動も加味されてはいるのだろうが、所を変えれば、状況も変わるものだ。 今晩は、この祥子と、行動を共にした方が良さそうである。
 祥子は言った。
「 この位置が、ココいらでは、1番イイのよ? 大きなビルの前で、覚えやすいでしょ? リピーターの目印になるの。 うざったい連中をスルーする為に、場所を替えるのは、自分の客を捨てるのと同じよ? 」
 経験から悟った、知恵であろう。 普通、自分の掴んだコツは、他人にはレクチャーしないものだ。 自分の稼ぎが減ってしまう事にもなる。 だが、祥子は、なつきに教えてくれた・・・
( いいヒトかも )
 なつきは、そう思った。
 先程から、少し離れた所に立っている女性に、中年男性の酔っ払いが絡んでいる。 彼女もまた、なつきたちと同業者のようだ。 ・・どうやら彼女は、男性を客として拾ったようである。 タクシーを停め、乗り込むと、どこかへと出掛けて行った。
「 あれは、エミコね・・・ 最近、見ていなかったケド。 あのオヤジ、お金、持っていなさそう・・ 歩きだもんね 」
 なつきは、なるほど、と思った。 確かに、今までの経験から言っても、車で拾いに来る客は、羽振りが良かったように感じる。
 祥子が、なつきの肩を小さく突付きながら、小声で言った。
「 ・・見て、あの車・・・! 絶対に、拾いに来たのよ・・! 」
 車道の方を見ると、一台の車が路肩に寄り、ゆっくりと走って来るのが見えた。 銀色のベンツだ。 型は、比較的に新しい。 運転者の男の他に、助手席にも男が乗っている。 なつきたちの目の前に、その車は停まった。
 祥子は、車の方を凝視しながら、小声で続けた。
「 フルスモークの車に、近付いちゃダメ。 イキナリ、連れ込まれちゃう。 でも、普通ガラスの車だったら、人相が見えるし、この場合・・ 」
 そう言いながら、停まった車に、腕組みをしたまま近付く祥子。 運転者も助手席の男も、こちらを見ている。 なつきも、祥子の後を追って、車に近付いた。 運転席の高級そうな、ブ厚い窓ガラスがゆっくりと開き、ハイカラーのシャツに、黒いブレザーを着た中年男性が声を掛けた。
「 やあ、今晩は・・・ 空いてるかい? 」
「 いいわよ? ソッチは、2人? 」
 車の窓枠に肘を掛け、しなを作りながら、祥子が答える。 祥子の、口調のトーンが高い。 おそらく、ハスキーボイスを隠す為だろう。
「 ああ。 その子は? 」
 なつきの方を見ながら言う、男性。
 助手席には、黒いポロシャツを着た、比較的若い男性が座っていた。
「 空いてるわよ? ラッキーね、あなた達 」
 ウインクしながら答える祥子。
「 よし、乗りなよ 」
「 失礼しまぁ~す♪ 」
 明るく挨拶をしながら、車の後部ドアを開け、祥子は乗り込んだ。
「 なつき、早くしなよ 」
 祥子に手招きされ、呼ばれたなつきも、車に乗り込んだ。
「 なつきちゃん、って言うのかい? 」
 助手席の男が、後部座席を振り返りながら尋ねた。
 祥子が答える。
「 そうよ。 あたし、祥子。 宜しくねぇ~♪ 」
 先程、若い男をあしらっていた女性とは、全く別人だ。 祥子のリードに、飲まれっぱなしの、なつき。 まあ、今晩は『 初出勤 』だ。 『 先輩 』に任せておくのが、良策なのかもしれない。
( おかげで、お金を持っていそうな客も拾えたし・・ ま、いっか )
 車は、夜の目抜き通りを、滑るように疾走して行った。

「 君、いつも、あそこにいるね? 前から、気になっていたんだ 」
 左ハンドルの運転席にいた男は、ハンドルを切りながら言った。
 祥子が答える。
「 いつも、見ててくれたの? 嬉しいなぁ~ やっと誘ってくれたのね ♪」
 バッグの中から手鏡を出し、ファンデーションの手直しを始める祥子。
 助手席の、黒いポロシャツの男が尋ねた。
「 いくらだい? 」
「 3つよ 」
 すかさず答える、祥子。
 男は、1万円札を6枚出すと、小さく折りたたみ、運転席シートの間から祥子に手渡した。
「 ありがと 」
 それを受け取り、3枚をなつきに渡す。
( 駅前では、2つだったケド・・・ )
 受け取った札を見て、一瞬、躊躇したなつき。 チラリと、祥子を見る。 祥子は、ニッと笑うと、なつきにウインクした。 皆まで言わなくとも、祥子には分かっているようである。 はたして、なつきが思った事への答えなのかどうかは分からないが、とりあえず、お金を自分のバッグに入れる、なつき。
 運転席の男が、ウインカーを出しながら言った。
「 そっちのコは、初めて見るな 」
 なつきは答えた。
「 アソコでは、今日が初めてなの 」
「 ふ~ん・・ 幾つ? 若そうだね 」
「 これでも、22だよ? 」
 年齢をゴマかす、なつき。 祥子が、男たちに気付かれないように、クスッと笑った。
 助手席の男が尋ねた。
「 最近、警察の巡回が厳しくなって大変だろう? 」
 祥子が答える。
「 そうね~ でも、あたしたちを必要とする殿方がいる限り、頑張っちゃう。 需要と供給の関係よ 」
 運転席の男は、笑った。
「 はっはっは! そりゃ、そうだ 」

 車は、繁華街を抜け、赤坂の方へと走って行った。

4、蒼い影

4、蒼い影


 月が見える。
 仰向けに、寝転んだベッド・・・
 顔を、左によじると、小さなテラスがあり、誰も座らないであろうガーデンチェアと、パラソルがあった。
 ぼんやりと、それらを照らす、薄明るい月の色。
 誰にも、公平に照らしている、その明かり・・・
 ドアを開けて外に出れば、自分にも、その明かりを体に受ける事は出来る。
 だが、それが何だと言うのだ。
( 勝手に照らしているだけじゃない・・・ )
 なつきは、そう思った。
 ロマンチックな想いに耽る、心のゆとりは無い。
 月は、太陽のように、暖かさを感じる事が出来る訳でもない・・・
 なつきは、月が嫌いだった。

「 ・・・あん・・ 」
 ホテルの一室で、ジーンズと下着を脱がされた、なつき。 男性が、なつきの露になった局部を舐めている。 小声でよがり、顎を突き上げた、なつき。
男性の両手が、なつきの細い両足を抱えた。 顔を左に向け、紅潮した息の中で、うっすらと開けたなつきの目に、再び、月が映る。
「 ・・・・・ 」
 じっと、こちらを見ているような、月。
 なつきは、視線を反らして右を向き、シーツで顔を覆った。 男性が、なつきの体の中に入って来る。 やがて、ベッドを軋ませ、男性は動き出した。
「 あ・・ あん、あっ・・! あっ・・! 」
 なつきの声が、明かりを落とした室内に響く。
 月は、じっと、なつきを眺めていた・・・


「 もう、どれくらいやっているんだい? 」
 ゆっくりと、タバコの煙をたなびかせながら、男性は言った。
「 ・・・別にイイでしょ・・ そんなん・・・ 」
 まだ幾分、荒い息の、なつき。 紅潮した顔を見られるのが恥ずかしく、シーツで顔を覆ったまま、なつきは答えた。
 男性は、天井に向け、ふう~っと、煙を出しながら言った。
「 そりゃ、そうだ・・・ 」
 ベッド脇の、サイドカウンターの上にあった灰皿で、タバコを揉み消す。 男性は、ベッドから降りると、シャワールームへと入って行った。
「 ・・・・・ 」
 シーツから顔を出し、部屋を見渡す、なつき。 相変わらず、月が、じっとなつきを見つめている。
( ブラインドがあったら、閉めていたのに・・・ )
 なつきにとって、存在価値の見出せない、月。 風情や情緒など、生きる為の糧にはならない。 ただ空にあり、全てを見透かすかのように浮かんでいる、月。 無表情に地表を青白く照らし、その影は、限り無く闇に近い蒼。 全てのモノから、全ての生命力を吸い取るかのような、不思議な蒼い影・・・
 なつきは、月が嫌いだった・・・

 枕元から手を伸ばし、コントロールパネルを操作する。 スピーカーからは、流行の邦楽が流れて来た。 ボタンを押し、選曲する。 幾つかのジャンルの音楽が聴こえ、なつきは、静かな弦楽曲のチャンネルで、ボタンから手を離した。
 ・・・クラシックなど、分からない。 ただ、こういった静かなアンサンブル曲は、気が落ち着く。
 なつきは、着ていたTシャツを脱ぎ、押し上げられていたブラを外した。 ベッドの上で仰向けになったまま、両手を頭にやり、髪をもてあそびながら、ボンヤリと天井を眺める。
( 祥子さん、ウマくやってるのかな・・・? )
 確か、1階下の部屋に、車を運転していた男と入ったはずである。
 祥子は、どれくらいの期間、この『 商売 』をしているのだろうか・・・ 揉みしだかれる、蝶の刺青が、なつきの脳裏を横切った。
「 へえ~、高尚な音楽を聴くんだな・・・ 」
 シャワールームから出て来た男性が、濡れた髪を、備え付けのバスタオルで拭きながら言った。
「 よく分かんないケド・・・ こういうの、好きなんだ、あたし 」
 髪を、もてあそびながら答える、なつき。
 男性が、トイレ横の壁に備え付けてあった冷蔵庫を開け、尋ねた。
「 何か、飲むかい? 」
「 ミネラルウォーターが、あったら・・・ 」
「 天然水、ってのがあるぞ? 」
「 それでいい・・・ 」
 外国製の缶ビールと、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを持って、男性はベッドに戻って来た。 ペットボトルをなつきに渡し、プルトップを開けると、バスタオルを首に掛け、イッキにビールを飲み始めた。 なつきも、上半身を起こし、枕を縦にして首筋にあてがうと、ペットボトルのフタを開ける。
「 ふいぃ~っ・・・! たまに飲むと、外国製はウマイんだよな 」
 缶のデザインラベルを、なつきに見せながら、男性は言った。
「 あたし、飲まないから、分かんない 」
 両手でペットボトルを持ち、少し笑いながら、なつきは答えた。
 ・・・あられもなく、男性の前に、裸体をさらしたままの、なつき・・・
 男性は、残りのビールを飲み干すと、空き缶をサイドカウンターの上に置き、ベッドに仰向けになっている、なつきの左側に寄り添って来た。 右手を伸 ばし、なつきの胸に手を置く。
「 あたし・・ あんま、大っきくないでしょ? 」
 男性は、小さく笑い、言った。
「 デカパイは、嫌いだ・・・ 」
 男性の手が、胸からおなか、腰へと動いて行く。 やがて・・ なつきの、まだ薄い下腹部の茂みに触れる。
 なつきが、言った。
「 ・・・もう1回、したい・・・? 」
「 追加料金が、要るかな? 」
 少し笑いながら答える、男性。
「 いいよ・・ 今日は 」
 両足を開く、なつき。

 月が、じっと見つめていた・・・


 朝日が眩しい。
 時間は、7時を廻った頃だろうか。 昨夜、月の視線が入り込んでいた窓とは別の窓から、初夏の太陽の光が、なつきの顔に差し込んで来ている。
 なつきは、目を擦った。
「 ・・ん、起きたかい? 」
 なつきが腕を動かす気配に、目を覚ましたらしい男性の声が、横から聞こえた。 サイドカウンターの上に置いたロレックスの腕時計を手に取り、時間を確認する男性。 やがて両手を伸ばし、伸びをしながら、大きなあくびをした。
「 会社は? 」
 なつきが尋ねる。
「 ふあぁ~あ・・・ フレックスだよ。 まあ、9時頃に行けば、いいかな・・・ 」
 どんな仕事をしているのかは、分からない。 だが、身なりからして、年収は良さそうだ。 大手の会社の、中間管理職クラスだろう。 生活に、余裕がありそうな感じである。
( 左手の薬指に、指輪が無いってコトは、独身なのかな? )
 夜遊びをする際、外す人もいる。 その推察の信憑性は薄いが、昨夜からの話し方には、生活感が無い。 おそらく独身なのだろう。
 なつきは、シーツを体に絡ませ、右側で横になっている男性に背を向けるようにして、寝返った。 ベッドのすぐ横の床に、なつきの履いていたジーンズや下着が脱ぎ捨てられている。 横を向いた、なつきの目の前には、Tシャツとブラがあった。
「 ・・・・・ 」
 朝日が差し込み、明るくなった室内に散乱するそれらは、ひどく恥ずかしいものに思える。 今すぐ回収して、男性の目に見えないようにしたい・・・ そんな心境を覚える、なつき。
「 朝食でも、頼むかい? 」
 ベッドを降り、インターホンが掛けてある壁の方に歩きながら、男性は言った。
 とりあえず、目の前にあったTシャツとブラを手に取り、胸元のシーツの中にとり入れながら、なつきは答えた。
「 オゴリ? いいの? 」
「 ははは。 構わないさ。 ナニ食べる? 」
 小さなガラス製テーブルの上にあったメニュー表を見ながら、男性は笑った。
 なつきは、シーツに包まったまま、答えた。
「 じゃあ・・ スクランブルエッグと、オレンジジュース 」
「 分かった。 ・・ああ、フロント? スクランブルエッグ2つと、オレンジジュース。 あと、ホットを1つ。 砂糖とミルクは、要らない 」
 インターホンで注文をし、受話器を掛けると、男性は、ベッドの方へやって来た。 明るい部屋で見る男性の全裸は、妙に恥ずかしい。
 なつきは、シーツで顔を覆った。
「 さあ、起きて・・・ 顔を、洗っといで 」
 男性が、なつきの顔に掛っていたシーツをめくる。 なつきの首の下に腕を入れ、なつきをベッドから抱き起こした。 ふと見ると、男性の手には、なつきの下着があった。
「 履かせてあげる。 ほら 」
 なつきの体に掛っていたシーツをめくり、下着を履かせようとする男性。
「 い、いいよ・・! 恥ずかしいから、自分で履く・・ 」
「 いいから 」
 男性は、無理やり、なつきの足を掴み、下着を履かせた。 ・・考えてみれば、他人に、下着を履かせてもらった記憶など無い。 小さい頃、親に履かせてもらっていた記憶が、薄っすらとはあるが、勿論、定かではない。 何だか、くすぐったいような・・ 嬉しいような・・・
 なつきは、顔を赤らめていた。
 飾り気の無い、シンプルな、白い綿製のセミビキニの下着・・・
( もっと、シルクとか・・ レースのスケスケとか・・・ セクシー系のパンツにした方がイイのかな? )
 客に対してではなく、この男性に対して、そう思ったなつき。
 何度も、自分を選んでくれるリピーターの中には、『 リクエスト 』をする客がいる。 白衣を着ろとか、OL制服・セーラー服・・・ 着用する下着を指示する客もいるのだ。 しかし、彼らの要求には、応えない事が多い。 いちいち要求を呑んでいたら、キリが無いからだ。 だが、この男性には、自分から『 更なるサービス 』を検討した自分・・・ 何故かは、分からない。 紳士な口調が、そうさせたのだろうか。 そうとは言え、金で女を買っている下俗な輩には違いは無い。 紳士的とは言え、中身は、下衆な連中と同じだ。 まあ、自分も、そんな連中相手に、体を売っているのだが・・・
 携帯を取り出した、男性。
 なつきは、誰かと携帯で話し始めた男性の横顔を、じっと見つめていた。

5、日向にて

5、日向にて


 騒々しく、目の前を横切る、トラック。
 排煙を吐き出しながら、交差点を走り去って行く。
 それを追従するかのように、車、都営バスなどが、轟音と共に、なつきの前を通り過ぎて行く。
 後に残る、熱気。
 横断歩道の音楽が聴こえ、車のクラクションが、ビルの壁に長くこだまする・・・

 平日の昼間だと言うのに、都会には、人が溢れている。
 皆、どこへ行くのだろうか。
 仕事・遊び・用事・・・
 それぞれに目的地があり、1人で、あるいは他の者と連れ立って歩いている。
( あたしは、ドコへ行くの? )
 自分に問い掛ける、なつき。
 初夏の日差しが照り付ける、乾いたアスファルト。
 そこに映る自分の影を踏み付けながら、なつきは渋谷の街を歩いていた。

 昨夜、客として拾った男性とは、ホテルで朝食を取った後、別れた。
 男性は、『 加賀 』と名乗っていた。 とある商社の課長だ、と言う事である。 年齢は37で、バツイチの独身。 明日、今度は1人で拾いに来ると言っていた。
( ま、お金を持っていそうだし、常識的な人っぽいし・・・ )
 リピーターとしては、最高だ。 会えば、幾らかの金が手に入る。 昨晩のように体を預ければ、一晩で、3万円の収入が見込めるのだ。
( どことなく、影のあるヒトだったな )
 なつきは、そう思った。
 加賀からは、どう思われたのだろう・・・? 夜の街角に立つ、女・・・ 当然、過去には、それなりの状況があっての現在だと、思った事だろう。
( もっと、色々と聞いて来て欲しかったな )
『 もう、どれくらいやっているんだい? 』
 加賀の質問に対しては、無下に答えた、なつき。 今思えば、加賀の質問の答えは、自分の気持ちの『 裏 』の部分が出ていたように思える。 本当は、相手にして欲しかったのだ。 自分を見つめてくれる相手を、心のどこかで探していたのだ。 ・・だが、出会ったばかりの男である。 本当に、親身になって話しを聞いてくれるとは思えない。 興味本位で尋ねて来たのかもしれないのだ。
( 確かに、金で女を買っているヒトだけど・・ いいヒトかも )
 なつきは、寂しかった・・・ ひと時でいいから、誰かと、じっくりと話しをしたかった。 夜空に、ぽつんと浮かぶ月のように、なつきの心は、いつも孤独だったのだ。 寂しさを紛らわす為に、常に虚勢を張る・・・ そう、月のように、たった1人で、輝いて見せている・・・ だが、自身で輝いている訳ではなく、太陽という大きな光源に頼っているに過ぎない。 だから、月が嫌いなのだ。 1人では、何も出来ない。 ・・そう、まるで、不甲斐無い自分を見ているようで・・ 自分で、自分の心を見透かせているようで・・・

「 ハ~イ、お姉ちゃん、どう? 見て行ってよ! 」
 若い男の声。
 歩道脇を見ると、アクセサリーを売っている露店があった。 露店と言っても、歩道に布を広げ、そこに商品を並べてあるだけである。 手製のネックレスやピアス、指輪を売っているらしい。 歩道のガードレールに座っていた若い男が、ネックレスを手に持ち、言った。
「 これなんか、どうよ? 自信作だよ 」
「 へえぇ~、可愛いじゃん 」
 男に近寄り、商品が並べられた布の前に腰を下ろす、なつき。
 若い男は、ガードレールから下りると、商品の説明を始めた。
「 全部、オレが作ったんだぜ? 世界に1つしかない、フルオリジナルさ。 コッチのは、純銀製だ。 アメジストが埋め込んであるんだぜ? どう? 可愛いだろ? 」
 25歳くらいだろうか。 ボサボサに伸びた髪に、短いヒゲを生やしている。 穴だらけのジーンズを履き、十字架に、蛇が巻き付いた絵柄のプリントTシャツを着ていた。
「 キミには、コイツ辺りが似合うぜ? 」
 幾つもの指輪をはめた指で、先ほど見せたネックレスを、なつきの首に掛ける。
「 ふ~ん・・ イイね 」
「 だろぉ~? ・・おっ、可愛いじゃん。 土台のイイ子が付けると、オレのセンスの良さが引き立つねぇ~! 」
 調子の良い男である。 でも、嫌味は感じない。
 なつきは、ネックレスに付いていた小さなプライスカードを見た。
( 8千800円か・・・ ちょっと高いな )
 ネックレスは、幾つも持っている。 勿論、安物ばかりではあるが・・・
 デザイン的には気に入ったが、別に、どうしても欲しい訳ではない。 買うか、立ち去るか・・・ なつきは、躊躇した。
「 おい、兄ちゃん。 誰の許可得て、商売してんだ、コラ! 」
 ふいに、なつきの頭越しに、巻き舌で凄む声がした。 なつきが振り向くと、眉毛の無いヤンキー風の男が立っており、露店の若い男を睨みつけている。 真っ赤な開襟シャツに、白いダブダブのスラックス。 足は素足で、女性用と思われるミュールのようなものを履いていた。
 露店の若い男が答えた。
「 ・・え? 別に、 誰にも・・・? 警察に、許可を申請しなくちゃいけないのか? 」
 路上での個人営業許可など、警察に許可を申請しても降りるハズが無いだろう。 どうやら、この男は、全くの素人らしい。
 眉毛の無い男には、警察への許可申請の返答が、バカにした冗談と取れたらしく、えらい剣幕で騒ぎ出した。
「 ナメとんのか、コラァッ! 緑風会のモンじゃ! ウエに、挨拶しとんのか、テメーッ! ああーッ? 」
 眉毛の無い男が、商品が並べられた布を、足で蹴散らかした。 路上に散乱する、アクセサリー。 歩道を歩く通行人は、見て見ぬフリだ。 なつきも、ゴタゴタには巻き込まれたくない。 立ち上がり、その場を立ち去ろうと歩き始めたが、その途端、誰かとぶつかった。
「 きゃっ・・! ごめんなさい 」
 ぶつかったのは、おそらく、誰かの胸だ。 なつきの後に、誰かが立っていたらしく、白いカッターシャツと思われる物体が、なつきの目の前にあった。 ブランドの香水が香る・・・
「 ん? おまえは、昨日の新人じゃねえか 」
 その声には、覚えがあった。 なつきが顔を見上げると、そこに立っていたのは、茶色のメガネを掛けた斉田であった。
「 あ・・・ 斉・・ 藤・・ さん? 」
「 斉田だ、コラ。 覚えとけ 」
「 あ・・ す、すみません・・! 」
「 ナニしてんだ? アクセサリーが、欲しいんか? 」
「 あ、いえ・・ そんなんじゃなくて・・・ 」
 眉毛の無い男は、若い男の胸倉を掴み、凄んでいる。
 斉田は言った。
「 そのヘンにしとけ、ミツヒロ! てめえは、血の気が多くてイカン 」
 ミツヒロと呼ばれた眉毛の無い男が、若い男の胸倉を離した。
 斉田は、なつきに言った。
「 待ち合わせは、5時のはずだぞ? ・・ん? そうか。 この兄ちゃん、おまえのツレか 」
 勝手に勘違いしたらしい斉田。 なつきは、とっさに適当を決め込んだ。
「 そ、そうなんです・・! 中学のセンパイで・・・ 東京に店を出すんですけど、業者の手違いで、今日から開店出来なくて・・・ 持って来た商品を整理していただけなんです。 ねっ? センパイ・・! 」
 若い男に、同意を求める、なつき。 男は、なつきの演出に気付いたようで、答えた。
「 そ、そうです・・! すいません、紛らわしい事して・・・ 陳列の方法を考えていまして・・・ 」
 斉田は、ミツヒロとか言うヤンキーに言った。
「 おい。 散らかした商品、片付けるのを手伝え 」
 ミツヒロは、急に大人しくなり、蹴散らした商品を拾い始めた。
 なつきの方を向き、続ける斉田。
「 ・・なつき、だったな? 悪かったな。 お前のセンパイにも、迷惑を掛けたようだ。 済まなかったな 」
 そう言って、サイフを出すと、中から1万円札を1枚抜き、若い男に差し出した。
「 品に、キズが付いたかもしれん。 ま、見たところ、これで足りるだろう。 悪かったな 」
「 ・・い、いえ・・! お気遣いなく! 大丈夫ですっ・・! 」
 両手を振り、斉田の弁償を断る、若い男。 斉田は、無言で札を出したまま、じっと男を見据えている。
『 オレの厚意を、無下にする気か? 』
 そんな、表情だ。
 若い男は、受け取っておいた方が良いと判断したのか、何度も頭を下げながら、札を受け取った。


 軽快な洋楽を鳴らす、ファーストフード店。
 盛夏を思わすような陽気も手伝ってか、平日の昼前だと言うのに、路上に出されたパラソル付きのガーデンチェアーには、かなりの客が座り、アイスを食べている。
 行き交う、人の足。 革靴・ヒール・スニーカー・素足サンダル・・・ どこへ行き、どんな目的があるのだろう。
 なつきは、そんな事を想いながら、耳に入って来る音楽を聴いていた。

「 はい、チョコミント。 さっきは助かったよ、サンキュー 」
 コーンに乗ったアイスを片手に、アクセサリー売りの若い男が、ガーデンチェアーに座っている、なつきの所へやって来た。
「 ありがと 」
 アイスを受け取り、一口食べる、なつき。 男も、なつきの横のイスに座り、アイスを食べ始めた。
「 ショバ代が要るなんて、考えもしなかったよ。 東京ってのは、意外とノスタルジックなんだな 」
 そう言う男に、なつきは答えた。
「 競争、激しいもん。 そのスジの世界の人たちって、クスリなんかの取り締まりが厳しくなって、大変なのよ? 」
「 ふ~ん・・・ 地元じゃ、勝手に路上営業してたんだけどな・・・ こりゃ、考えなくちゃ 」
 アイスを食べながら、男は、呟くように言った。
 なつきが尋ねる。
「 東京、初めて? 」
「 いや、学生時代に、日暮里の方に下宿してた。 学校が、田端だったんだ。 コッチは、初めてだけどね 」
 コーンを、バリバリと食べながら、男は答えた。 なつきも、コーンの端をかじる。
( いくつくらいの人なんだろう? フリーターかな )
 学生時代・・ と言っていたところから推察するに、大学時代を、東京で過ごしていたと思われる。 大学を卒業したのか、中退したのか・・・ 風体からは、生活感が感じられない。
 男は、コーンの包み紙を丸め、近くにあったゴミ箱に入れると、ジーンズのポケットから1点のネックレスを出して、言った。
「 改めて、さっきは有難う。 これ・・ お礼に、もらってくれないか? 」
 男が、なつきの首に掛けてくれた商品だ。 薄紫色に輝く小さなアメジストが、銀の台座に埋め込まれている。
「 え? そんなん・・ 悪いよ 」
「 いいから、いいから! あのオッさんから、万札もらってんだ。 おつりが要るくらいだよ 」
 笑いながら、男は、なつきの首にネックレスを掛けた。
「 ・・でも・・・ 」
「 やあ~、やっぱり可愛いや! よく似合ってるよ? 」
 戸惑う、なつきにお構いなく、男はニコニコ顔である。
 首に掛けてもらったネックレスを手に取り、淡い紫に輝く、小さな宝石を見る、なつき。
「 キレイ・・・ 」
「 コイツは、僕が作っている時から、キミの首に掛かる運命にあったのさ 」
 少々、青臭いセリフではあるが、なつきは、嬉しくなった。
( 純粋な人、なんだな・・・ 宝飾が、好きなんだ )

 初夏の日差しが、なつきの胸で、小さく躍っていた・・・

6、アメジスト

6、アメジスト


 アクセサリーを売っていた若い男は、正岡 修一郎と名乗った。 25歳、フリーターである。 鳥取県出身。 東京の大学を中退して、専門学校で宝飾技術を学び、一時、故郷に帰っていたが、この春からまた東京へ舞い戻って来たそうである。
 なつきが言った。
「 修一郎さんって、宝飾が好きなのね 」
「 まあね 」
 商品をまとめて入れた紙袋を軽く叩きながら正岡は答え、続けた。
「 オヤジが、時計屋をやっているんだ。 アクセサリーも、多少は置いてあってね。 ガキの頃から、こういったモンを見ていたから・・ 何となく、ね 」
「 コレ・・ ホントに、もらっていいの? 」
 なつきは、首にかけていた正岡からもらったネックレスに、指先で触れながら尋ねた。
「 いいって。 そんな大した原価のモンじゃないから・・・ あ、定価設定にクレームが入るかな? 」
 悪戯そうな目で、なつきに微笑みながら答える正岡。
 なつきは言った。
「 アメジストって、2月の誕生石なんでしょ? あたし、2月生まれなんだ。 嬉しいな 」
「 そりゃ、良かった 」
 正岡は、ジーンズの左ポケットから、クシャクシャになったタバコを取り出した。箱の潰れを、指先で直しながら、残り少なくなったタバコを1本取り出すと、右のポケットからジッポーライターを出し、火を付けた。 くわえタバコのまま、続ける。
「 アメジストは、月の女神 ダイアナに仕える女官 アメシストの悲劇から、名が付けられた宝石だよ 」
「 月の・・・? 」
 正岡は、タバコの煙をくゆらせながら続けた。
「 酒神バッカスは、ある日、悪戯をしかられた腹いせに、今から最初に出会った人間を、自分の家来であるピューマたちに襲わせようと決めたんだ。 そこへ現れたのが、無口で信心深い、美しい少女 アメシスト。 ピューマたちが、一斉に襲い掛かって・・・! 」
「 食べられちゃったの? 」
 不安気な表情の、なつき。
 正岡は、微笑むと、なつきに言った。
「 逃げ惑う彼女が、ピューマの餌食になりかけた瞬間、彼女の体は、見る見る小さくなり、あっという間に、透き通った石になった。 月の女神 ダイアナが、アメシストを守る為、純白に輝く水晶に変身させたんだ 」
 なつきは、ホッとした表情を見せ、言った。
「 助かったのね? ・・でも、水晶になっちゃったんだ・・・ 」
 正岡は続けた。
「 バッカスは、水晶になったアメシストの、あまりの美しさに呆然として、自分の罪の深さを懺悔したんだ。 反省の意を込めて、その水晶に、ぶどう酒を注いだ。 すると、それは透き通った紫水晶に生まれ変わった・・・ ギリシャ神話の話しさ 」
 なつきは、小さなため息をつきながら言った。
「 そんなお話しがあったなんて・・ 全然、知らなかったわ。 修一郎さんて、物知りなのね 」
「 ははは、やめてくれよ。 単なる、物好きなだけだ 」
 一笑する、正岡。 初夏の日差しに、正岡の歯が、白く映える。 爽やかな青年だ。 大都会で出会った、『 日向 』の匂いがする青年である・・・
 なつきは、この正岡が気に入った。 どちらかと言えば、『 夜 』のイメージを先行させる友人・知人が多い中、唯一『 昼間 』の表情を見せる、数少ない存在人になりそうである。 もっとも、彼が、なつきの『 商売 』を知れば、正岡の方から去って行く感はあるが・・・
( 昨日の加賀さんは、知人。 この修一郎さんは、友人・・・ かな? )
 勝手に、設定を決め込む、なつき。
 ・・・正岡の前では、仕事を悟られてはいけない・・・
 本当の自分の姿を見られれば、間違いなく正岡は、なつきの元から去って行く事だろう。 出会って間もないが、屈託なく話し掛けてくれる正岡は、なつきにとって、失いたくない人物になりつつあった。
( あたしは、修一郎さんの前では、普通の女の子・・・! )
 なつきは、固く、そう心に誓った。

 販売場所を追われた、正岡。 明治通り辺りに、場所を替えるとの事で、なつきも付いて行く事にした。
「 なつきちゃんは、大学生? いいね、もうすぐ夏休みで 」
 通りを歩きながら、正岡が尋ねる。
「 ・・あ、いや・・ 専門学校だよ? 簿記を習ってんだ 」
 とっさに、適当な返事をする、なつき。
「 ふう~ん、オレも高校、商業科だったからさ。 懐かしいな 」
 ・・やぶ蛇だ。 そのまま、なつきは、口を閉じた。
 正岡が、再び尋ねる。
「 家は、ドコ? 」
「 ・・・・・ 」
 答えられない。 その『 家 』を紹介してもらう為、今日の5時に、あの斉田と待ち合わせなのだ。
 なつきは、また適当に答えた。
「 ・・五反田の・・ 方 」
 正岡が、学生時代に所縁のある日暮里・田端などの荒川方面は避け、山手線で言う、反対方向で答えた、なつき。
 はたして、正岡は言った。
「 五反田には、ツレが多くてね~! 奇遇だなぁ~♪ 目黒や恵比寿なんかには、良く行ったよ 」
( あっちゃ~・・・! )
 なつきは、再び、沈黙した。

 神宮前交差店を、東郷神社の方へと歩く。
 しばらく歩道を正岡と歩いていると、比較的大きなシティホテルがあった。 歩道を横切るように、車道までビニールテントのアーケードがある。 その端の車道に、1台のベンツが停まっていた。 黒とシルバーのツートンで、フルスモーク。 アーケードの傍らには、運転手だろうか、1人の男が立っている。 短く刈り込んだ頭に、口ヒゲ。 白い開襟シャツに、黒の縦縞スラックス姿・・・ いかにも、そのスジの人間であるかのような風体である。
 アーケードを通り過ぎようとした時、ホテル玄関のガラス製自動扉が開き、中から1組の男女が出て来た。
( ・・あ・・・ )
 男は、見覚えがある。 ワックスで、髪の毛を逆立てた男・・・ 柴垣だ。 その傍らには、何と、祥子がいた・・・! スラックスのポケットに入れた柴垣の右腕に、祥子が、抱きつくようにして寄り添っており、そのまま、歩道を横切るアーケードの下を通って、なつきたちの目の前を歩いて行く。 祥子は、幾分、柴垣の方に頭を傾け、微笑んでいた。
( 祥子さん・・・ )
 なつきに気付くかと思ったが、祥子は、歩道の方には一度も振り向かず、そのまま、なつきたちの目の前を通り過ぎて行った。
 アーケード脇に立っていた男が、ベンツの後部座席のドアを、うやうやしく開ける。 最初に祥子、後から柴垣が乗り込んだ。 男は、ドアを閉めると、運転席のドアを開け、車内に乗り込む。 やがて車を発進させ、なつきたちの、右横の車道を走り去って行った。
( 柴垣って言う、前の中人と祥子さんは・・ デキてたんだ・・・! 祥子さん、シマの組が代わって、やり難いだろうな )
 本当に、愛人関係なのかどうかは、分からない。 だが、今の祥子の表情からは、そう言った間柄である事実が、窺い知れた。 『 女の直感 』、とでも言おうか・・・
 しかし、禁断の恋でもある。
 昨日の、柴垣・斉田とのやり取りからは、組同士のイザコザも推察出来た。 シマを束ねる緑風会と、柴垣が所属しているらしい成和興業との間には、暗雲が立ち込めている感がある。 ともすれば、一瞬即発のような感じだ。 祥子は、緑風会のシマで仕事をし、対立している成和興業の幹部と、愛人関係にある・・・
 なつきは、心配になった。
( 祥子さんは、イイ人だと思う。 何も起こって欲しくないな )
 走り去り、小さくなって行く車の後ろ姿を見送りながら、なつきはそう思った。
「 どうしたの? 知り合い? 今の人 」
 じっと、祥子と、走り去る車を目で追っていた、なつき。 その行動に気付いた正岡が、声を掛けた。
「 え? あ・・ ううん。 知り合いに、良く似ている人だと思ったの。 違う人だった 」
 微笑みながら、正岡に答える、なつき。
 正岡は、祥子たちが出て来たシティホテルの玄関を見ながら、言った。
「 暴力団幹部と、そのオンナ・・ ってカンジだったね 」
「 ・・・・・ 」
 なつきは、何も答えなかった。
 ・・・実際、誰が、誰と付き合うか・・・
 それは、本人たちが決める事だ。 他人が、とやかく言う事ではない。 しかし、それが通らぬ世界がある。 なつきが、身を置いている世界・・・ まさに、その世界が、そうである。 個人の意思は、皆無だ。 組に雇われ、組に従う究極の世界・・・
 自由を求め、この世界を抜け出すには、相当なリスクを背負う事となろう。 義理人情で渡って行けたのは、遠い昔の話しだ。 どんな者に対しても、入り口は甘く広く、出口は皆無。 下の者を宛がわられ、いつの間にか舎弟が出来、組の内部へと入り込んでいくに従い、上を見るしか無くなっていく・・・ なつきのような女性には、まだ選択の余地はあるが、祥子のように、幹部と情事を重ねるようになると、その身の振り方にも、危険を伴うようになる。
( 祥子さんは、この先、どうしたいのだろう )
 それは、ある意味、自分への問い掛けでもある。 日々を過ごすのに、精一杯の今・・・ しかし、今なら、元の生活を取り戻すのに、最も近い位置にいるとも言えよう。
( でも、あたしは・・・ 家には、帰らない )
 その気になったら、帰る事の出来る家がある、なつき。
( まだまだ、充分に甘いのかもね・・・ )

 歩道に映る自分の影を踏みながら、なつきは、そう思った。

7、屈辱

7、屈辱


「 待ったか? 昼間は、悪かったな。 あの兄ちゃんは、どうした? 」
 斉田が、茶色のメガネの奥から悪戯そうな目をしながら、なつきに言った。
「 ひとまず、滞在先の友人宅に帰りました。 斉田さんに宜しく、との事です 」
 お辞儀をしながら答える、なつき。
 ・・・夕方、五時前の、渋谷。 斉田は、少し早めにやって来た。 1人の男を従えている。 昼間の、赤いシャツの男ではない。 幹部である斉田には、きっと何人もの舎弟がいるのだろう。 会う度に、違う男を従えている。
( あれ? この人・・・ )
 なつきは、斉田が従えていた男に気付いた。 短めの髪に、白い開襟シャツと、黒の縦縞スラックス・・・ 昼間、祥子と柴垣が乗って行ったベンツを運転していた男だ。 柴垣を送って行ったと言う事は、成和興業の人間のはずである。 なぜ、緑風会の斉田と共にいるのか・・・? まあ、深い事情もあるのかもしれない。 深入りは、禁物だ。 なつきは、男の事に干渉するのはやめた。
 斉田の携帯が鳴る。
「 おう、オレだ。 どうした。 ・・・なに? 」
 斉田の表情が変わった。 しばらく、無言の斉田。
「 ・・分かった、すぐに行く。 いいか? この事は、誰にも言うんじゃねえ。 白黒、ハッキリするまでだ。 いいな? 」
 そう言うと、携帯をポケットに入れ、斉田は、白シャツの男に言った。
「 ・・矢野。 コイツを、マンションに連れて行ってやれ。 オレは、少々、用事が出来た 」
「 分かりました、兄貴 」
 答える、矢島とか言う、白シャツの男。
 斉田は追伸した。
「 その後、すぐ事務所に来い。 まァ、アセるコタぁねえが・・ 急いで来い。 いいな? 」
「 へい 」
 お互いの視線からは、何やら、暗黙の了解が読み取れる・・・
 斉田は、なつきの方を見ると言った。
「 なつき。 今晩から、屋根付きだ。 しっかり、稼ぎな 」
 ニッと、茶色のメガネの奥で笑う斉田。
「 宜しくお願い致します 」
 お辞儀をしながら答える、なつき。 斉田は、なつきの右頬に左手をそっと当てると、軽く数回叩いた。 やがて、遠くを見るように視線を泳がせると、スッと真顔になり、なつきたちに背を向け、込み合い出した夕方の街へと、姿を消して行った。
( 何か、あったのかな・・・ )
 斉田が姿を消して行った方角を見つめる、なつき。 一瞬、不安な気持ちが、その脳裏を過ぎる。
「 何してんだ。 行くぞ、なつき。 コッチだ 」
「 ・・あ、はい 」
 なつきは、歩き出していた矢野の後を、慌てて追った。

 銀座線 表参道駅から神宮橋の方へ行った神宮前4丁目辺りに、そのマンションはあった。築、そんなに経っていない5階建ての、比較的に新しいマンションである。 外壁は、茶色のレンガ風。 オートロックではないが、ローマ風の柱が玄関に立ち、中々に洒落ている。 玄関ポーチも、綺麗に清掃されており、集合ポストには、良く見かけるチラシ類も無く、管理が行き届いているようだ。
 ふと、集合ポストの表札を見る、なつき。
( どの部屋も、表札が無い・・・ )
 どうやら、このマンション全体が、組のものらしい。 住んでいるのは、全員、なつきのような、家の無い者たちなのだろう。 となると・・・ 集合ポスト脇にあった、管理人室を見る。 明らかに、組の者と思われる男が、小さな窓越しに見えた。 幾つものピアスを耳に付け、ハデなアロハシャツを着て、金髪を逆立てた若い男が週刊誌を読んでいる。 傍らの事務机に置いたテレビからは、バラエティー番組の音が聴こえていた。
 矢野が、小窓を軽く叩きながら言った。
「 おい、テツ! 新入りだ。 斉田さんから、連絡が来てンだろ? 」
 テツと呼ばれた若い男は、読んでいた週刊誌を放り出し、慌てて管理人室から出て来ると言った。
「 矢野さん、お疲れっス! ・・ありゃ? 随分と若いですねぇ~ 稼げるんスか? こんなんで 」
「 テメーよか、よっぽど稼ぐだろうよ。 ・・おい、玄関脇の観葉植物の水、やったんか? テレ~としてると、街金集金に回すぞ、コラ! 」
 テツとか言う男は、慌てて、玄関ポーチの脇にあった水道ホースに取り付いた。
 矢野は、なつきに言った。
「 部屋は、コイツに案内してもらえ。 オレは、事務所に行かなくちゃならねえ。 いいな? 」
「 はい、分かりました。 お世話になります 」
 お辞儀して答える、なつき。
 矢野は言った。
「 お前は、礼儀正しくていいな。 まずは、礼節からだ。 それでいいぞ 」
 ニッと笑う、矢野。 プランターに、水をやっているテツを振り向き、言った。
「 事務所に戻る。 後は頼むぞ、テツ! 」
「 へいっ! お疲れっス! 」
 矢野の姿が見えなくなると、途端にホースを放り出し、テツは、履き捨てるように言った。
「 けっ・・! エラそうに・・・ おい、お前。 名前は、なんつーんだ? 」
 管理人室に戻り、台帳のようなものをパラパラとめくりながら、テツは尋ねた。
「 なつきです 」
「 なつき・・・ね。 え~と・・・ 205号室は、いっぱいか・・・ んじゃ、305号室だな。 うるせーババアがいるが、ガマンしろ 」
 台帳に、何やら書き込んだテツ。 やがて、なつきを手招きして言った。
「 コッチ来い 」
 管理人室に入る、なつき。 綺麗に清掃管理された玄関ポーチに比べ、この部屋は、散らかし放題である。 壁際には、雑誌や新聞がうず高く積まれ、段ボール箱や毛布、シャツ・コートなどが、そこいら中に散乱している。 コンビニ弁当の空き箱や、ビールの空き缶などがコロがる中、男は、事務イスに座って言った。
「 そんじゃ~ま~、試させてもらうか 」
「 ? 」
 なつきが、きょとんとしていると、テツは突然、イスに座ったまま、ズボンのジッパーを下ろした。
「 ・・・! 」
 テツが、ニヤニヤしながら言う。
「 まさか、ネンネじゃねえだろうな? 客を満足させられるかどうか、オレが試験してやるよ。 乗れ 」
 ・・・逆らう事は、出来ない。 この男は、管理人である。 今後、ずっと、顔を合わせていかなくてはならないのだ。 ここで命令を拒否し、目を付けられては、後々の生活に、支障が出る事も懸念される。 しかし、この部屋・・ この状態で・・・
「 早よせんか、このガキ! 客が、待ってんじゃねえか、コラ! 」
 テツが、荒々しく叫ぶ。
 なつきは、ジーンズと下着を下ろすと、男の股間の上に跨った。
 男の体が、イキナリ、なつきの中に入って来る。
「 ・・あ・・・ 」
 屈辱的であった。
 今まで随分と、男に体を預けては来たが、こんな場所で、しかも『 奉仕 』のようにさせられるのは、初めての経験である。
「 動かんか、コラ。 そうそう・・! 中々、イイじゃねえか、お前 」
 テツは、傍らにあった週刊誌を手に取り、巻頭のヌード写真をめくり始めた。
「 イイねぇ~、このデカパイ。 そそるねぇ~! ・・・コラ! ちゃんと、動いてろ、てめえ! ・・そうそう、分かりゃイイんだ 」
 テレビからは、番組司会者とタレントたちの笑い声・・・
 テツは、視覚的にはグラビアのヌード写真を見て興奮し、体感的には、なつきの体を代用していた。 週刊誌のグラビアを見ているテツの顔が、いやらしく笑っている・・・
 ・・・最低だ・・・! この、シチェーション・・ この男・・・! そして、こんな男に体を預けている、今の自分・・・!
 なつきの頬を、涙の筋が伝わった。 悔しさではない。 自分自身の不甲斐なさに、腹が立ち、情けなくなって来たのだ。
( 何であたし・・ こんなヤツに、してあげなくちゃならないの? )
 家を飛び出した自分に、元凶があるのは分かっている。 だが、今更どうしようもない。 自らの意思で終止符を打ち、家に帰らなければ、このような屈辱には、今後も、何度となく出遭う事だろう。 そこまでして得る自由の価値は、果たしてあるのだろうか・・・?
 テツに悟られないように、指先で涙を払う、なつき。 男に、体を預ける事に対しては、もう何の抵抗も無い。 だが、今回の事は、なつきにとっては、大いにショックな事だった。 まだ、月が出ていない夕方だった事が、せめてもの救いであった・・・

「 ここだ。 お前の他に、3人いる。 1人は、ババアだ 」
 3階の1室に案内された、なつき。 『 情事 』を済ませたばかりだと言うのに、テツは、あっけらかんとしていた。
 305号、と表札のあるドアを叩く、テツ。
「 ババア~、いんだろぉ~? 新入りだ。 仲良くやんな 」
 やがて、ロックを解除する音が聞こえ、1人の老婆がドアを開けた。
「 叩かなくても、チャイムがあんだろ? ったく・・・! 」
 薄くなった白髪を後で縛り、ベージュ色の、麻のワンピースを着ている。 足は、素足だ。 痩せた体型で、落ち込んで窪んだ目の周りには、幾重にもシワが刻まれている。 年齢は、70代前半だろうか。 左目の上に、太陽の黒点のようなシミがあった。
 テツが、老婆に言った。
「 なつきだ。 仲良くな 」
 老婆は、じろりと、なつきを見た。
「 宜しくお願いします・・・ 」
 お辞儀をしながら、小さな声で挨拶をする、なつき。 老婆は、怒ったような表情をしながら、なつきに言った。
「 ・・入んな。 他の2人も、丁度いるから 」
 テツが言った。
「 いるんか? 眞由美も、若菜も? 」
 部屋の奥に向かって、続けて言うテツ。
「 仕事せんか、お前ら! 」
「 まゆちゃんは、朝帰りだよっ! 若ちゃんは、生理! 用務員が、エラそうに命令すんじゃないよっ! ダレのお陰で、おまんま食ってると思ってんだいっ? 」
 荒々しく、ドアを閉める老婆。 テツの顔面に、ドアが当たった音がした。
「 ・・ってえぇ~~・・っ! ダレが、用務員だ、コラァっ! ババア、早く死ねっ! 」
 外から、テツが、ドアを蹴り上げる。
「 あんま、用務員をからわない方がいいわよ? ヨネさん 」
 1人の女性が、玄関の狭いフローリング廊下に立ち、言った。 グリーンのストライプが入ったパジャマ姿。 白いカーディガンを、肩掛けしている。 両手を腰に当て、ため息をついた彼女は、右手で、長い髪をかき上げながら続けた。
「 402のアキコ、用務員とケンカして・・ マンション、追い出されちゃったのよ? アイツに、デタラメ、組に告げ口されてさぁ・・・ 」
 ヨネ、とか言う老婆は言った。
「 いつか、あのバカにゃ・・ 毒入りタコ焼きでも、食わせてやるよ・・・! 」
 それを聞き、クスッと笑う女性。
 ヨネが、女性に言った。
「 起こしちまったようだね、まゆちゃん。 寝不足じゃないかい? 」
 おそらく、この女性が、テツの言っていた眞由美と言う女性なのだろう。 なつきは、お辞儀をしながら、女性に挨拶した。
「 初めまして。 なつきです。 宜しくお願い致します 」
「 眞由美よ。 宜しく 」
 再び、長い髪をかき上げながら、眞由美が答えた。
 ヨネが言った。
「 あたしゃ、庄田 ヨネ。 新宿の駅前で、たこ焼き屋をやってんだ。 今度、来な。 食わせてやっから 」
「 有難うございます 」
 小さく答える、なつき。
 ヨネが言った。
「 なつきちゃん・・ か・・・ アンタ、その顔・・ 用務員に、ヤラされたね? 」
 少し、ビクッとする、なつき。
 ヨネは、ため息をつきながら続けた。
「 ・・ったく、あのバカは・・・! タダのモンは、何でも食っちまうからね。 大丈夫かい? ナニも付けずに、ヤラれちまったんだろ? 」
 なつきは、下を向き、小さく答えた。
「 今日は・・ 多分、大丈夫です・・・ 」
 眞由美が、玄関脇を指しながら言った。
「 そこにバスルームがあるから、洗っといで。 キモチ悪いでしょ? 」
「 有難うございます。 ・・使わせて頂きます 」
「 そんな、他人行儀にしなくってもいいわよ? もっと楽にしなよ、楽に 」
「 はい。 有難うございます 」
 お辞儀をしながら答える、なつき。
 眞由美が言った。
「 だ~からぁ~・・! そんなかしこまった挨拶、しなくてイイって 」
「 はい。 有難うございます・・ じゃなくて、えっと・・・ すいません。 あれ・・・? 」
「 あはははっ! 面白い子ね、アンタ! あはははは! 」

 眞由美は、高らかに笑った。

8、ルームメイト

8、ルームメイト


 熱いシャワーは、久し振りである。 いつも公園の水道で、夜、人目を避けて髪を洗っていた、なつき。 冬場はスーパー銭湯などを使用していたが、陽気が良くなって来た最近は、もっぱら公園を利用していた。他を気にせず、自由に使えるバスルーム・・・ 人間の生活を取り戻せたようで、ホッする。 狭いユニットバスではあるが、湯が使えるのは、やはり最高だ。

 先程、テツに弄ばれていた陰部にシャワーを当て、洗う。 指先には、ぬるっとした感触があり、見たくも無い『 汚物 』が、体内から出て来る。 なつきは、執拗に陰部を洗った。 どんなに洗った所で、全てを浄化出来る訳ではない。 しかし、洗う事で、思い出したくも無い過去を、いくらかでも消し去る事が出来るように思えて来る・・・
( あんなヤツに・・・ )
 週刊誌を見て、ニヤついているテツの顔が想い起こされた。 なつきの頬に、また涙の筋が流れて来る。 シャワーを顔に掛け、その雫を流す。 流しても流しても、涙は頬を伝って来る。 じっと、シャワー口から噴出す湯を眺める、なつき。 やがて、その噴出す湯が、涙でぼやけて来た。 目頭が熱い。 涙は頬を伝う事無く、目から直接、バスタブの中へと落ちて行く。
 男に体を預け、こんな虚しい想いをしたのは初めてだった。 だが、管理人のテツと、昨夜、ベッドを共にした加賀と、どこが違うと言うのだろう。 金さえ貰えば、今までだって、同じような情事をした事はあった。 なのに・・・
( もう・・ 分かんないよ、あたし・・・! )
 小さな肩を震わせ、しゃくり上げる、なつき。 シャワーを、勢い良く顔に向ける。
 ・・・声も無く、なつきは、泣いた・・・

「 タオル、ここに置いておくからね 」
 眞由美の声が、片観音開きの半透明樹脂ドアの外から聞こえた。
「 あ・・ 有難う・・・ 」
 感情で、声が上ずっている。 何度か鼻をすすり、なつきは、シャワーを止めた。 用意されたバスタオルで体を拭き、それを体に巻いて、バスルームから出て来る。
「 サイズは、Sだねえ~・・・ コレなんか、いいんじゃないかい? 」
 ヨネが、ジッパー式の布製簡易クローゼットから、無地の白いTシャツと、デニム地のミニスカートを出しながら続けた。
「 香水でゴマかしてるけど・・ なつきちゃん、洗濯してないだろ? ダメだよ、そんなんじゃ。 今、洗ってるから、コレ着てな 」
「 すいません。 宿無しだったんで・・・ お借りします 」
 Tシャツとスカートを受け取る、なつき。
 傍らのフローリングの4畳洋室に数個の座椅子と小さなテーブルがあり、そこで缶ビールを飲んでいた眞由美が言った。
「 前にいた子が、置いてったものだから、遠慮しなくてイイよ? なんだったら、持っていきなよ。 邪魔だし 」
 眞由美の隣に、もう1人、女性がいる。 肩くらいの茶髪の髪で、薄いグリーンのサマーセーターに、ジーンズ。 足の指のネイルを手入れしている。 歳は、20代半ば。 目がクリクリっとして、可愛い感じの女性だ。
 彼女は、足先に息を吹きかけながら、なつきに言った。
「 あたし、若菜よ。 よろしくね、なつきちゃん 」
 なつきは、慌てて若菜の前に座ると、挨拶した。
「 な・・ なつきです。 よ、宜しくお願い致します・・・! 」
 若菜は、眞由美と目を合わせると、びっくりしたように言った。
「 随分と、礼儀正しい子ねぇ~? 」
「 でしょ~? 妹みたいで、可愛いくな~い? 」
 ビールで、顔を赤らめた眞由美が、笑いながら答える。
 若菜が尋ねた。
「 幾つ? 」
「 17です 」
「 ふ~ん・・ 家出? 」
「 ・・・ええ 」
 眞由美が、ビール缶をチャプチャプと振りながら言った。
「 あたしも、したなぁ~・・ 18の時に。 ツレの家、泊まりまくってさぁ~・・・ 結局、親に見つかって、引きずり戻されたケドね 」
「 それで・・ そのまま、家に戻ったんですか・・・? 」
 なつきが尋ねる。
「 まさか。 速攻、その日の夜に、逃げ出したわよ 」
 残りのビールを、イッキに飲み干す、眞由美。 空になった缶を、コンッ、とテーブルに置き、ふう~っと息を出すと、眞由美は続けた。
「 あたしなんか、どうでも良かったのよ、あの親・・ 世間体を、気にしただけ。 PTA会長に、一流商社の部長だもんね。 小さい頃から、親に遊んでもらった記憶なんて、これっぽっちも無いわ・・・ 結局、離婚した後は、あたしの事なんか、探しもしなかったし。 清々したわよ、ホント 」
 今は、悠々と、自由気ままに生活する事が出来る環境に、満足していると言うのだろうか・・・
 その事が気になったなつきではあるが、初対面で、そこまで尋ねるのは、早々だと思い、なつきは沈黙した。
 若菜が言った。
「 あたしも、似たようなモンかなぁ~ 施設で育ったからね。 生まれつき、親の顔なんて見た事ないもん。 ある意味、親があるのを、羨ましいと思う事があるケドね・・・ 」
 足先の『 手入れ 』を終え、傍らの小さなテーブルの上にあったスナックを手に取ると、口に運びながら続ける。
「 虐待が、ヒドクてさ。 ・・ほら、コレ見てよ。 アイスピックで、刺されたのよ? 」
 そう言って、左足の膝辺りを見せる若菜。 彼女が見せた膝の内側には、直径、2センチくらいの、丸い赤黒いシミのような跡があった。
「 抵抗すると、連中、もっとヒドイ事、するのよ? だから、黙ってたの。 そしたら化膿して、キズが腐っちゃってさ・・・ アイロンを、押し付けられたコトだってあるのよ? 」
「 施設の中でも、そんな事が・・・? 」
 なつきには、意外だった。 施設で暮らす孤児たちは、つつましく、平和に過ごしているイメージがあったのだ。
 若菜は言った。
「 すべての施設が、そうだとは言わないケドさ。 でも、少なくとも、あたしのいた施設では、日常茶飯事ね。 特に、あたしに対しては。 ・・だって、あたしをイジメたって、誰も文句、言わないもん。 親戚すら、いないからね、あたしには。 捨て子だから 」
「 ・・・・・ 」
「 あたしを、最初に犯したのは、施設の先生よ? あたしが、12歳の時だったかな・・・ 施設の連中と手を切りたくて、16の時、逃げ出したのよ。 案の定、あいつら、あたしを探そうともしなくてさ・・・ コッチにとっちゃ、好都合だったわ 」
「 ・・・・・ 」
 何も言えなくなってしまった、なつき。
 眞由美も、若菜も、自分の不幸を自慢している訳ではない。 それは、言葉の話し方からも推察出来た。 今の彼女たちにとって、過去は過去であり、現在の生活には、何の意味も、支障もないからであろう。 堂々と、『 人生 』を語っている。
 眞由美が言った。
「 別に、なつきちゃんを見下してるんじゃないわよ? こんな過去、無い方がイイに決まってるしね。 ・・だけど、泣いたらダメよ? 自分で選んだ道なんだから 」
 バスルームで泣いていたなつきを、見通していたのだろうか。 眞由美の目は、厳しくもあり、いたわるような優しい視線でもあった。
 若菜が、部屋の片隅に置いてあった携帯を持って来て、なつきに渡した。
「 アンタのよ。 自由に使えるケド、通話料は月末、斉田の舎弟が集金に来るわ。 その日に払えないと、ペナルティーとして1日、ヘルスで無料奉仕させられるから、現金を用意しておいた方がイイわよ? 」
 型は古いが、これは助かる。 ペナルティーは御免被りたいが、これでカオリとも、リアルタイムで連絡をつける事が出来る。
眞由美が、操作を説明した。
「 コレを押して、こうすると・・ 電話帳ね。 この事務所ってのが、斉田の事務所。 『 まゆ 』が、あたしで・・ 『 わか 』が若菜。 ヨネさんのは・・ 無いのよね~ 」
 そう言って、ヨネを見る、眞由美。
 脱衣所にある洗濯機で、なつきの服とジーンズを洗っていたヨネは、眞由美の視線を背中に感じたのか、なつきたちの方には振り向かずに言った。
「 あたしゃ、どうもケータイは好かん。 大体、邪魔だわ 」
 ・・・ヨネには、どう言った過去があるのだろう。 眞由美や若菜の、歳をとった姿が、ヨネなのだろうか・・・
 なつきが、そう思った時、玄関のチャイムが鳴った。 近くにいたヨネが、玄関ドアに付いている小さなのぞき窓から外を窺う。
「 祥ちゃんだよ 」
 眞由美の方を振り向き、ドアのロックを外しながら、ヨネが言った。
「 ハ~イ、なつき! 来たのね? 」
 聞き覚えのある、ハスキーボイス。 それは、祥子だった。
「 祥子さん・・! 祥子さんも、このマンションなの? 」
 なつきが答えた。
「 そうよ。 上の401。 ・・アンタ、なんて格好してんの? 」
 バスタオルを1枚、体に巻いただけのなつきの姿に、祥子が言った。
「 今、シャワーを使わせてもらったの 」
「 そっか、SSだったもんね、アンタ。 これからは、マトモな生活、出来そうね 」
 ウインクしながら答える祥子。
 なつきは、昼間、祥子を見かけた事を言いそうになったが、やめておいた。 プライバシーに関する事でもあるし、ましてや、組の問題もある。 あの場面は、知る者が少ない方が良い・・・ なつきは、何となく、そう感じた。
「 祥子ぉ~、ビールあるよぉ~? 」
 若菜が、部屋の奥から、眞由美が飲んでいたビール缶を手に取り、言った。
「 イイねぇ~♪ でもあたし、これからまた出掛けるんだ 」
「 仕事かい? 」
 ヨネが、洗濯機の中から、なつきのジーンズを出しながら聞く。
「 ちょっとね・・・ 会わなくちゃならない人がいるの。 また今度ね 」
 なつきの脳裏に、昨晩の事が甦る。
( 加賀さん・・ 今晩、あたしを拾いに来る、って言っていたケド・・・ 祥子さんが相手したヒトは、どうだったのかな? もしかして、そのヒトと会うのかな。 それとも、柴垣さん・・・? )
 どちらかと言えば、昨夜、加賀と一緒にいた人物と、会って欲しい・・・ なつきは、そう思った。 柴垣からは、危ないニオイがする・・・
 笑顔でドアを閉め、立ち去ろうとする祥子の顔に、傾きかけた夕日が映えている。 なつきに微笑んでいる、祥子の笑顔。 とても楽しそうだ。 おそらく、今から会う人物は、祥子にとって『 特別 』な存在の者なのだろう。 やはり、柴垣と会うのだろうか・・・
 ドアを閉め、祥子は出掛けて行った。
「 絶対、オトコよ、オ・ト・コ・・・! 」
 若菜が、スナックを口に放り込みながら、眞由美に言った。
「 イイじゃん、そんなの別に。 アンタ、妬いてんの? 」
 2本目の缶ビールのプルトップを、プシッと開けながら答える、眞由美。
 若菜が、両手を頭の後ろで組みながら言った。
「 妬いてなんか、いないよ? ただ、羨ましいな~、ってサ 」
「 それ、妬いてんじゃん 」
「 違うよ、羨ましいだけだよ。 妬くのとは、違うのっ 」
「 はい、はい 」
 呆れ顔でビールを飲む、眞由美。
 片ヒザを立て、『 姉御 』のような雰囲気の眞由美。 なつきは、眞由美が気に入った。以前から、姉が欲しかったと思っていた事もあり、家出仲間のカオリが、現在は、それにあたる。 しかし、歳がなつきと近い為、友だちとしてのイメージが先行していた。
 カオリに、近い雰囲気を持った女性、眞由美・・・ 歳は、カオリよりも年上であろう。 眞由美こそ、姉らしい存在感がある。
 なつきは、嬉しくなった。
「 眞由美さんは、もう長いんですか? 」
 尋ねてから、しまったと思った、なつき。 過去を聞くのは、タブーだ。 だが、眞由美は、ニコニコして答えた。
「 3年くらいかな? これでも元は、商社のOLだったのよ? 」
 ワンレングスの長い髪が、妙に色っぽく、左目に掛っている。 開いたパジャマの胸元から見える、胸のふくらみ。 柔らかそうな、そのふもと・・・ オトナの女性だ。 同性である、なつきにしてもドキドキする。
( 男なんて、イチコロなんだろうなぁ・・・! )
 なつきは、そう思った。

9、過去

9、過去


 8時を過ぎた渋谷。 相変わらず、人通りは多い。
 昨夜、加賀たちに拾われた場所に、1人で立つ、なつき。 夜空には、少し欠けた月が浮かんでいた。
『 アメジストには、月の女神と酒神が関係している 』
 正岡から聞いた話しが、なつきの脳裏に甦る。
「 ・・・・・ 」
 胸に小さく光る、アメジスト。
 因果な事なのかも知れない・・・ 月が嫌いな、なつき。 気に入った青年からもらった、アメジストのネックレス・・・
 小さな宝石を指先に持ち、なつきは、夜空の月を見上げた。
( 欠けた分が、修一郎さんの分かな・・・ )
 そう思うと少しは、今日の月は、気に入る事が出来そうだ。 見えないが、全部が嫌いではない。
 小さなため息を尽き、足元の歩道を見やる、なつき。 その視界に、黒い革靴が入って来た。
「 頑張ってるな? 」
 斉田だ。 今日は、舎弟を連れていない。 1人だ。 なつきは、無言で挨拶をした。 肩から下げていた、いつものピンクのトートバッグから、幾らかの金を出すと、斉田に渡した。
「 昨日の、アガリか 」
 斉田は、金を確認すると、着ていたスーツの内ポケットにそれを入れ、茶色のメガネの奥で笑い、言った。
「 しっかりな 」
 そう言い残すと、斉田は、どこへとなく姿を消して行った。
( 斉田さんの過去は、どんなだろう・・・? )
 おそらく、それを聞ける機会は無いと推察される。 組の幹部と、組が束ねるシマで仕事をする、1少女・・・ なつきから見れば、斉田は1人であるが、斉田から見れば、なつきは、大勢いる人間の中の1人だ。 稼げば、それなりに目は掛けてくれるであろうが、普通にしていれば極端な話し、なつきなど、どうなっても構わない存在であろう。 斉田が、なつきに自分の身の上話しをする可能性など、今のところ皆無に思われる。
( 斉田さんの過去を知ったところで・・ あたしの生活には、何の変化も無いわよね )
 自分で思いついたにも関わらず、妙に冷めた心境になる、なつき。 無邪気な少女の想いと、夜の女の顔が同居する、なつきの心・・・ 時々、自分で、自分が嫌になる時がある。
( 明日辺り、カオリに会いに行こうかな )
 なつきは、そう思った。

 昨晩と同じ時間、加賀は、なつきを拾いに来た。 黒いBMWに乗っている。
「 やあ、待っててくれたんだね 」
 左ハンドルの運転席窓ガラスを開けながら、加賀は言った。 車内からは、軽いポップスが聞こえている。
「 拾いに来てくれる、って言ってたからね 」
 先日の祥子のように、開けられた窓ガラスの枠に、右腕をかけながら答える、なつき。少し『 しな 』を作り、左手で髪を触る。 自分ながら、妙に色香が付いたように思えた。
「 乗りなよ 」
 加賀は、空いている助手席のシートを、右手の親指で指しながら言った。 車道側に周り、車に乗るなつき。 黒皮製のシートが、車内のエアコンで冷やされ、ひんやりして心地良い。
 車は、軽くエキゾーストを鳴らしながら、夜の町へと走り出して行った。

 加賀は、優しかった。 ベッドの上でも、食事中のイタリアレストランでも・・・
 行動も、常に紳士的で、常識的。 どうやら、『 カタギ 』のようである。 現在、知り得る知人・友人の全てが『 裏世界 』に属する人間であるなつきにとって、普通の生活を営んでいる加賀は、新鮮だった。
( どうして加賀さんは、離婚したのかな )
 素朴な疑問が、なつきの脳裏を過ぎる。
 ・・・ルックスは、申し分無い。 生活も安定しているし、収入は平均以上と推察される。 会社では、何人もの部下を持ち、それなりの地位を確保しているようだ。 離婚した妻は、何が不満だったのだろうか・・・
( 仕事本位で、家庭を大事にしなかったのかな? )
 それだけで、離婚にまで至る事はないだろう・・・ 若干17歳のなつきには、それ以上の想像がつかない。 とりあえずは、最高の『 お客 』である。
 なつきは、加賀と頻繁に会うようになっていった・・・

 ある夜、いつものように加賀と会い、ホテルのベッドで体を預けていた、なつき。 幾分、まだ荒い息で加賀の胸に寄り添い、尋ねた。
「 ・・・加賀さん・・・ どうして、奥さんと別れちゃったの? 」
 無言の、加賀。
 なつきが視線を上げ、見てみると、加賀はじっと天井を見つめたまま、遠くを見るような目をしていた。
( いけないコト、聞いちゃったのかな? やっぱ・・・ )
 なつきが、そう思っていると、しばらくして加賀は言った。
「 オレは、結婚には向かない男なんだ・・・ 」
 なつきには、理解出来ない。 やはり、仕事人間なのだろうか。
 加賀の胸元に顔を寄せ、なつきは言った。
「 ・・そんな人、いないと思う 」
 加賀は左手で、なつきの頭を優しくさすりながら答えた。
「 なつきは、良い子だな・・・ 」
 加賀の微笑を感じながら、なつきは、加賀の胸に抱き付く。

 ・・・どこへも行けない自分。 どこへ流れて行くのかも分からない自分・・・

 なつきは、加賀に、自分と『 同じ匂い 』を感じた。
 静かに上下する、加賀の胸の向こうに窓が見え、向かいの雑居ビルとマンションの間から、太った三日月が見える。
( また、のぞいてる・・・! )
 こちらを見透かすかのように、夜空に浮かぶ、月。
 なつきは目を瞑り、加賀の胸に顔を埋めた。 月の視線から、逃れるかのように・・・


「 ナッキー、大人っぽくなったんじゃない? 」
 久し振りに会ったカオリが、なつきに言った。
「 そう? えへへ~、嬉しいな 」
 黒いノースリーブに、白いレースのカーディガン。 今日は、ジーンズではなく、ベージュのノープリーツスカートを履いている。 足元は、相変わらず、ほころびかけたミュールではあるが・・・
 渋谷駅前の小路を入った所にある、小さなオープンカフェ。 今日は、土曜だ。 昼下がりの時間帯ともあって、かなりの人が出ている。
 なつきは、店の前を行き交う人々の足元を眺め、飲んでいるブルーのソーダ水に浮かぶ氷を、ストローの先で突付きながら言った。
「 もう、SSじゃないんだ。 ちゃんと毎日、シャワーだって使えるんだよ? 」
「 良かったじゃん。 あたしもサッサと店辞めて、ソッチ行こうかなぁ 」
 アイスコーヒーを飲みながら、答えるカオリ。
 なつきは言った。
「 あたし、顔の人、知ってるよ? 古株で、組の幹部の人とも、知り合いなの。 祥子さんって言う人。 その気があるんなら、紹介してあげる 」
 ・・・そう言えば、祥子とは、ここ1週間ほど会っていない。 シマにも立っていないし、マンションにも帰って来ていない。
( 柴垣、って言う人のトコにいるのかな? )
『 これから、人と会うの 』
 嬉しそうに言っていた祥子の笑顔が、思い起こされる。
 カオリが言った。
「 ありがと。 実は昨日、純が来てさ・・・ 」
 純とは、2歳離れた、カオリの弟である。 高校を中退し、塗装工務店に勤務しているらしいが、カオリは、この弟だけとは連絡を取り合っていた。
「 純クンが? 」
 グラスの氷をストローの先で回しながら、なつきが聞く。
「 うん・・・ お母さん・・ 入院したらしいんだ 」
「 ・・・・・ 」
 カオリの過去は、知らない。
 沈黙する、なつき。
 手にしていたアイスコーヒーのカップをテーブルに置くと、カオリは話し始めた。
「 あたしの、家出理由だけどさ・・・ 」
 聞きたくも無い気がするが、なつきは、無言のままでいた。
 カオリが続ける。
「 お父さんが、交通事故で死んじゃってさ・・・ しばらくは、お母さんと純と、3人で暮らしてたのよね。 でも、お母さん・・ 1年もしないうちに再婚してさ・・・ フツー、考えられる? そんなん 」
 なつきを見る、カオリ。
 当時のカオリは、16歳だったはずである。 大人であれば、それなりに、納得はしていたかもしれない・・・ だが、多感な年頃・・ それに女の子だ。 当時のカオリの心情が、分からなくもない。
 なつきは、少し、頷きながら答えた。
「 ちょっと、イタイよね・・・ そんなの 」
「 でしょ? しかも、再婚したオトコ、あたしに暴力振るうのよ? そりゃ、あたし・・ 反抗的だったから、仕方なかったかもしれないケド・・・ 」
 再婚した父親の暴力に耐えかね、家を飛び出したらしいカオリ。 初めて聞かされた過去である。 おそらく、母親との間にも、多少のイザコザがあったと推察される・・・
 なつきは尋ねた。
「 純クンは? 新しいお父さんと、仲良くやってるの? 」
 再び、カップを手にし、答えるカオリ。
「 純は、男だし・・・ 再婚したオトコは、建築関係の仕事をずっとやってて、今、純が行っている塗装屋も、アイツの会社なの。 いいわね、男は。 仕事だと、割り切れて。 あたしは、ダメだなぁ・・・ 」
 はたして、純も納得して働いているのだろうか・・・
 今度は、カオリが、なつきに尋ねた。
「 なつきは? どうして、家出したの? 」
 この世界では、タブーとされている、他人の過去・・・ カオリから尋ねられるとは、思いもよらなかった事である。 気丈なカオリも、実の母親が入院した事で、気が弱くなっているのだろうか。 でも、カオリになら話しても良い・・・ そんな心境になる、なつき。
 なつきは答えた。
「 あたし・・・ お父さんに、ヤラれちゃったんだ 」
「 え・・? 」
 さすがのカオリも、驚いた様子である。 飲みかけたカップを口から離し、テーブルに置くと、顔をなつきに近付け、小声で聞き直した。
「 ・・それ・・・ ホントなの・・・? 」
「 うん・・・ 」
 伏目がちにテーブルに視線を落とし、なつきは、小さく頷きながら答えた。
 顔を離し、大きなため息を尽く、カオリ。
「 そんなんって・・・! 」
 なつきは続けた。
「 お酒好きでね・・・ いつも、夜は飲んでいたなぁ・・・ お酒が入ると、性格が変わるの。 よく、ぶたれたわ。 そのうち、外でオンナ作って・・・ お母さん、知ってたケド、何も言わないの。 あたし、頭に来て、お父さんとケンカしたのね。 そしたら・・・! あの日は、相当、飲んでたし・・・ あたし、妊娠しちゃったの 」
「 ・・・・・ 」
 声が出ない、カオリ。
 その後、母親に連れられ、産婦人科の病院で『 処置 』を行った、なつき。 処置室の外で、母親は、泣いていたのであろう。 その後、なつきの前に現れた母親の、真っ赤に腫らした目が、今も鮮明に、なつきの記憶に刻まれている。
 屈辱感は、感じなかった。 ただ、悲しかった。 無性に、悲しかった・・・
「 病院から帰った日の夜、家出したの 」
 ストローの先で、グラスの中の氷を突付きながら、なつきは言った。
 ・・・父親に、無理やり犯されていた時、部屋の窓から、月が見えていた。 見事に丸い、満月が・・・
「 ナッキー・・・! 」
 テーブルの上で、なつきの左手を両手で掴み、泣き出しそうな表情を見せる、カオリ。
 なつきは、無理に作った笑顔で答えた。
「 そんな顔、しないでよ、カオリ。 もう、過ぎたコトだよ・・・ あたしは、家には帰らない。 でも、カオリは、帰った方がいいよ? せめて、病院に行って、お母さんに会いなよ 」
 今まで、なつきの『 先輩 』としてあった、カオリ。 しかし、今は、その立場は逆転したように思われる。 家出人としての立場は、過去の傷の大小で決定されるものではない。 家族を想う気持ちが現れた時点で、経験・年齢の差なく、決まるのだ。
 1人で生きて行く、というモチベーションは、自身のキモチによって大きく左右される。 自分の生活より優先される事項が発生し、それを認知した時期が、『 帰る 』時でもある。
 今、カオリは、それを選択する時期を迎えていた・・・

10、夢と、現実の弱歩

10、夢と、現実の弱歩


 ビルの壁面に設置された大型のカラービジョンが、携帯電話メーカーのCMを映し出している。 その画面に呼応するかのように、大小、様々なモニターやスピーカが音を放ち、騒々しい都会の風景を増殖させる。
 シルバーコーティングされたビルの窓ガラスに反射する、幾つもの太陽の光。 時折り、ビルにこだまするバイクや車のクラクション。 カラー舗装の上を行き交う人、たむろす人・・・ ポケットティッシュを配る女性の笑顔が、何故か虚しく感じられるのは、今日だけだろうか。 その笑顔の見返りは、彼女の価値観か、報酬か・・・

 カオリに会った翌日の、日曜の昼下がり。 ハチ公前の広場には、沢山の人が出ていた。
 何食わぬ顔で立つ人、大声で笑い合っている人・・・
 銀色のパイプで出来た『 腰掛け 』に、1人の若い男性が座っている。
「 ごめんなさい。 少し、遅れちゃった~! 」
 なつきは、その男性に声を掛けた。
 大型画面を見上げていた男性が、なつきの方を振り向く。
「 やあ、こんにちは! ね、あのスマホさぁ・・・ 今度、替えようと思ってるんだ 」
 画面を指差しながら、男性は答えた。 正岡である。
「 修一郎さん、この前、買い換えたばかりだったんじゃないですか? 」
「 だって、あの新型、便利な機能が多いんだよ? 写真だって、光学だけど、ズーム機能が充実してるしさ 」
 歩き出す、なつきと正岡。 時々、こうして正岡と会っている、なつき。 付き合いは、至って真面目である。 学校の友達同士のような関係だ。 もちろん、手も握った事もない。 なつきの交友範囲の中では、正岡は唯一、素性が分かっている『 カタギ 』である。 加賀も、そうだとは思えるが、私生活は分からない。 しかも、『 夜の相手 』だ。
 屈託なく話せる相手、正岡・・・ 鳥取の田舎から出て来た、経済力の無いフリーターではあるが、なつきにとって、心許せる知人でもあった。
「 バイトしてる先輩の知り合いに、店舗を貸してくれそうな人がいてさ。 今度、会うことになったよ。 まあ、店舗と言っても、5㎡にも満たないスペースだけどね 」
 なつきの方を見ながら、嬉しそうに言う、正岡。 やはり、路上での販売は、やり難いのだろう。 例え小さな店舗であっても、販売しているのはアクセサリーだ。 そんなに大きなスペースは必要としないと思われる。
 なつきは、笑顔で答えた。
「 良かったですね! 場所は、ドコになるんですか? 」
「 原宿だよ。 雑居ビルの小さなテナントらしい。 でも、1階だからイイな。 客が、入りやすいからね。 これから一緒に、下見に行こうよ! 」
 賃貸契約を結ぶのか、『 間借り 』するのか・・・ 子細は分からないが、自分の店を持つと言う事は、モノを販売していこうと考えている者にとって、まずはクリアしなくてはならない重要な課題でもある。 正岡は、今、新たなる1歩を踏み出そうとしているのだ。 なつきにとって、その姿は、とても眩しく見えた。
( あたしは・・・ これから、どうしたいのだろう・・・ )
 希望に燃え、輝いて見える正岡の姿に、明日をも知れない自分の身を投影し、その先行きを案ずる、なつき。
 初夏の光が照り付ける、アスファルト・・・ そこに映る、自分の影を踏み付けながら、なつきは、自分の影の薄さを感じ入るのだった。

 正岡が借りる事になるかもしれないと言う雑居ビルは、JRの山手線 原宿駅から東に5分ほど歩いた緩やかな坂の途中にあった。 周りには、小さなブティックや雑貨店がひしめき合い、歩道には、若者が溢れている。 界隈のシチュエーションは良さそうだ。 間口、7mくらいの小さな5階建てのビルで、歩道から向かって左側には営業中の理髪店がある。 右側が、小さな部屋になっており、以前は、携帯のアンテナショップだったようである。 携帯メーカーの看板が、そのまま放置してあった。 ドアは、ガラス製だが、自動ではない。
「 ふぅ~ん・・・ 小さいケド、人通りも多いし、イイんじゃないですか? 駅からも近いし 」
「 だろ? 何と、家賃は7万でイイ、って話しなんだ 」
 それが、高いのか安いのか、なつきには分からない。 だが、正岡の口調からすれば、破格値なのだろう。
 なつきが尋ねた。
「 見たトコ、トイレが無いケド・・・? 」
「 2階にあるんだ。 だけど、ほら、あそこ・・・ 」
 正岡が指差した方角を見やる、なつき。 道を挟んだ斜め東向かいに、小さな公園がある。 どうやら、公衆トイレの存在を指しているようだ。 深夜、公園の水道で髪を洗っていた頃を思い出す、なつき。
( この公園だと、夜でも人がいそうね・・ もっと、住宅街にある公園でないと・・・ )
 もう、そんな心配をする必要はない。 身に染み付いた自分の反応に、嫌悪感を覚える、なつき。
「 あ、噴水がある。 キレイな公園ね 」
 思わず心情を口にしてしまいそうな感覚を抑え、なつきは、そう言った。
「 雨の日は仕方ないけど、わざわざ2階まで行くよりは気分転換にもなるし、公園の公衆トイレを使った方が良さそうだ 」
「 それもそうですね 」
「 もうすぐ、夏休みだからね。 店舗は、それまでには何とかしたいな。 アクセは、夏とクリスマスが稼ぎ時だから 」
 腕組みをし、目の前にある小さな空き店舗を見つめながら、正岡は、呟くように言った。
「 ショーケースとか、店内のディスプレイは、どうするんですか? 」
 ポーチから出したハンカチで、襟元辺りを扇ぎながら、なつきが尋ねる。
「 小さなディスプレイ台は持ってるよ。 基本的には、壁に黒いビロードを貼って、そこに掛けるつもりなんだ。 それより、エアコンを何とかしなくちゃ・・・ 」
 入り口脇に、エアコンの室外機を設置していたと思われるブロックが残されている。 前の居住者が、退去の際、撤去して行ったのだろう。 これから暑くなる。 店舗は南向きで、若干、日の光が店舗内にも入るようだ。
「 小さなビニールテントを張るか・・・ レジも買わなくちゃ。 玄関マットも要るし、掃除機にディスプレイライトとスタンド・・・ ウインドウにも、カッティングシートで、文字を入れなくちゃな 」
 何かと、物入りのようだ。
 なつきが聞いた。
「 お店の名前は? 」
「 それが、まだ決めてないんだよね~・・・ 」
 頭をかいて、苦笑しながら答える正岡。 だが、ある程度の案は考えているような気がする。 なつきは、何となく、そう直感した。 逆に、沢山のノミネートがあり、決めかねているのではないだろうか。
 なつきは言った。
「 ロゴタイプも、考えなきゃね 」
「 そうだね 」
 小さく答えた正岡の目は、何だか、遠くを見ているような目だった。
( やっぱり、幾つかの店名は、考えてあるみたいね・・・ )
 勝手な推測ではあるが、そう思った、なつき。
 ・・・なぜか、正岡の心が読める・・・
 これも、勝手な憶測かもしれないが、なつきは嬉しかった。
 正岡とは、心の会話を共有出来る・・・
 そんな優越感にも似た心境が、心地良かったのだ。
 何のわだかまりも無く、すうっと通り抜けて行く、初夏の風のような存在の正岡。
( 修一郎さんと一緒にいると、何か、ホッとして落ち着くのよね )
 心満たされる心境になる、なつきであった。


 たまには、他の街も良い・・・
 生活の基盤を、渋谷に置いていた、なつき。 この原宿も、人通りが多いが、渋谷に比べてみると、道行く人の年齢層が若いように思える。 開放的で、明るい街だ。
 近くの喫茶店でランチを食べた後、バイトに行く正岡と別れた、なつき。 例の公園のベンチに座り、噴水を眺めながら、ボンヤリとしていた。
( 修一郎さん、店を持ったら、あたしにバイトで来ないか、って言ってたケド・・ どうしようかな・・・ )
 時給は、おそらく低いと推察される。 『 夜の仕事 』に比べたら、雲泥の差であろう。 だが、健全な働き口である。 しかも、好意を寄せる正岡と一緒だ・・・
( そうなったら、今のマンションも出て行かないと・・・ )
 経済的にも、生活してはいけないであろう。 問題は、『 住む所 』だ。 まさか、正岡のショップに寝泊りする訳にはいかない。 それに、今までの、なつきの『 本当の姿 』が露見する恐れが大だ。
( それだけはイヤ・・・! 修一郎さんには、絶対に知られたくない )
 健全な生活に戻りたい気持ちと、束縛されない、現在の生活を続けてみたいキモチ・・ その狭間で揺れる、正岡への、ほのかな心境・・・
 ため息混じりに、足元を見る、なつき。
 ・・・幾何学模様のカラーレンガの目地を、アリが、隊列を組んで歩いている。 同じような光景を、幼い頃、どこかで見た記憶がある。 あれは、どこであったのであろうか・・・
( 家の近くの公園よ・・・! )
 記憶の源を突き止め、なつきは安堵する。
( 家、かぁ・・・ )
 昨日、カオリと会った時の事を思い出す、なつき。
( ・・・あたしも、潮時なのかな・・・ )
 先程別れた正岡の顔が、なつきの脳裏に浮かぶ。
 いずれは、知られてしまうかもしれない・・・
 なつきの本当の姿を知った時、正岡は、どんな反応を見せるのだろう。 やはり、なつきの前から去ってしまうのだろうか。 だが、生活していく為には、現在の『 仕事 』を辞める訳にはいかないのだ・・・
 なつきは、アリの隊列に、ふうっと、息を吹き掛けた。 隊列を崩されたアリたちが、右往左往する。 その光景に、少なからず、今の自分の状況・心境を見出す、なつき。
 ・・・流されているのかもしれない・・・
 そう思いたくはないが、現実には、それに近い状況であるのは確かである。 指標こそは無いが、現在、現実を1人で生きていると言う自負が、わずかに、なつきの心を支えていた。
( 誰にも束縛されない自由が、今のあたしには、ある。 たとえ、それが底辺の生活でも、あたしは構わない・・・ 自分で選んだ道なんだから )
 眞由美も、同じような事を言っていた。 現在は、それでやって行ける。 だが、未来はどうなるのだろうか・・・? 尋ねたら、眞由美は、答えてくれるのだろうか・・・
 安定した未来・・・ 心配の無い未来・・・ それは、経済的根拠の上に成り立っていると言えよう。 つまりは、『 計算 』出来る未来を指す。 収入と、支出。 その計算で差し引きされた『 残額 』が、安定した未来の根源である。
( 考えてみれば、つまらないコトよね・・・ 凡人のあたしには、そんな計算で弾き出された『 残額 』でしか、未来を計れない・・・ )
 もう一度、ため息を尽く、なつき。
 やがて、隊列を離れた1匹のアリが、なつきの足に取り付き、足首を登って来た。 手を伸ばし、振り払おうとしたなつきだが、ふと、その手を止めた。 くすぐったいのを我慢し、しばらく、アリの好きなようにさせてみる。
 ・・・いずれは、なつきによって振り払われてしまう運命にある、1匹のアリ・・・
 ところが、アリは突然に方向を変え、なつきの足を下り始めた。 足首から甲、指の先、ミュールの先端・・・ やがて、アリは地面に降り、目地を行き来していた仲間と合流した。
「 頭、イイじゃん、あんた・・・ 」
 なつきは、クスッと笑った。
「 やっぱり・・・! なつきちゃんじゃないかい? 」
 ふいに、声がした。 顔を見上げると、コンビニのビニール袋を下げた老婆が立っている。
「 ヨネさん! 」
 マンションで同室の、庄田ヨネだ。 薄茶色のワンピースに、割烹着姿。 ビニールサンダルを履いている。
「 こんな所で、ナニしとんじゃ? 」
「 あ・・ 実は、知り合いの人が店を出す事になってね。 さっきまで、その下見をしていたの。 ・・ヨネさんこそ・・・ 確か、新宿の方で、たこ焼き屋さんをしてたんじゃないの? 」
「 先週から、コッチに替わらされてな。 ・・ほれ、あれじゃ 」
 ヨネが指差す方を見ると、公園の反対側の木陰に、出店が見える。 まだ、開店していないらしく、青いビニールシートに包まれた状態だ。
「 焼きソバ屋だったら、どうしようかと思ったが・・・ 同じ、たこ焼き屋でな。 今から開店するトコじゃ 」
「 あたし、手伝います! まだ、仕事に出るには早いし 」
「 そうかい? 助かるのう~ 肩が痛くて上がらんのじゃ。 ビニールシートを外したり包んだりが、難儀でのう~ 」

 なつきの足元では、何事も無かったように、アリが隊列を組んでいた・・・

11、1つの人生

11、1つの人生


「 バアちゃ~ん、たこ焼き1個な~ 」
 作業着を着た中年男性が、店先にやって来た。
「 あいよ~、今日は、早いのう。 仕事帰りかえ? 」
 ピックの先に刺し上げ、焼き上がったばかりのたこ焼きを、パックに入れながら、ヨネが尋ねる。
「 今日は非番でね。 やるコト無いから、1日中、スロットだよ 」
「 出たんか? 」
「 3万、ヤラれた 」
「 ナンじゃそら。 ・・ほれ、2個オマケじゃ! 」
 6個入りのパックに、無理やり8個を入れ、輪ゴムを掛ける。
「 お~、すまんな 」
 作業着ズボンのポケットから、くしゃくしゃになった千円札を出した男性に、なつきが、おつりを渡しながら言った。
「 有難うございま~す♪ 」
「 お? バイトか? この子 」
 半円形の穴が幾つも開いた、たこ焼き用の鉄板に、油を塗りながらヨネが答える。
「 そうじゃ、ワシの孫じゃ。 手ェ出したら、承知せんぞ? 」
 ヨネの『 設定 』に、クスッと笑う、なつき。
 男性が言った。
「 孫だとぉ~? バアちゃんと全然、似とらんぞ? 可愛い過ぎる 」
「 ほっとけ! たこ焼き、2個返せ、こら 」
 ヨネを尻目に、男性が、なつきに尋ねた。
「 高校生? 名前、何て言うの? 」
「 なつきです。 毎度、有難うございます 」
 笑顔でお辞儀をして答える、なつき。
 ヨネが、ピックを持った右手を、小バカにするようにヒラヒラさせながら、なつきに言った。
「 コイツはな、日給を全~部、パチンコでスッちまうアホじゃ。 相手にしたら、アカン 」
「 ひっでェ~なぁ~、バアちゃん。 いつも、買いに来てやってるのにぃ~ 」
「 たこ焼きを主食にしとるヤツに、大事なワシのなつきが、紹介出来るか! 」
「 じゃ、今度、大当たりした時は、ブランドもんのバックに交換して持って来てやるよ 」
「 あぶく銭で、釣る気かえ? もっと精進せえ、っちゅうとんじゃ、お前 」
 2人の会話に、なつきは、笑い出す。 たこ焼きを手にした男は、頭をかきながら、夕暮れの街中へと消えて行った。
「 2パック、ちょうだい 」
 今度は、買い物袋を、幾つも下げた身重の主婦だ。
「 あいよ。 ・・そろそろ、臨月じゃないのかい? 」
「 ええ。 来月なんですよ 」
 大きなお腹を擦りながら、主婦は答えた。
 ピックの先で、鉄板のたこ焼きを裏返しながら、ヨネが言う。
「 旦那さん、帰って来れそうかね? 」
「 札幌ですからね・・・ ゴールデンウイークも、イベントの手伝いだとかで、帰って来れなかったし 」
「 商社の課長さんも、大変だねえ~・・・ はい、お待ち~ 」
「 ありがと。 またね~ 」
 結構に、客が来る。
 なつきは言った。
「 忙しいのね。 いつも、ヨネさん1人でやってるんでしょ? 」
「 まあね。 慣れたよ 」
 シワくちゃの顔で、笑って答えるヨネ。
 鉄板を熱する火力を最大にし、全ての鉄板を使って、何パック分かのたこ焼きを焼く。それをパックに詰めて保温ケースに入れ、ある程度の『 作り溜め 』をすると、バーナーの火力を絞り、傍らにあったパイプイスを出して、なつきに勧めた。 自分も、座布団を木箱の上に置いて座ると、タバコを出し、火を付ける。
「 ここいらは、元、稲辺会のシマだったんだよ・・・ この屋台も、元、稲辺会のモンさ 」
「 緑風会が取った・・ ってコト? 」
「 ・・ま、取ったか、『 統合 』したのかは、知らないがねぇ・・・ 」
 煙を、ふうっと出しながら、なつきの問に答えるヨネ。
 なつきが尋ねた。
「 ヨネさん・・・ 長いの? この、お仕事 」
 再び、煙をふうっと出しながら、ヨネは答えた。
「 そうさね・・ もう、18~9年になるかねぇ・・・ その前は、仲居・ホステス・踊り子・・・ 考えてみりゃ、夜の世界でしか、働いたコト無いねぇ~ 」
「 ・・・・・ 」
 結婚は、していたのだろうか。 一緒のマンションに同居している事から察するに、おそらく家族は、いないものと思われる。 親戚くらいは、いるかもしれないが、高齢だ。 若菜のように、天涯孤独の身も、あり得るかもしれない。
 なつきは、少々、小さな声で聞いてみた。
「 ・・・家族は? 」
 チラッと、なつきを見やったヨネ。 豪快に、笑い飛ばしながら答えた。
「 は~っはっはっはっは! そんなモン、とうの昔におらんわ! 」
「 ・・・・・ 」
 やはり、複雑な事情があるのだろうか? はたしてヨネは、真顔に戻り、鉄板下のバーナーの小さな青い火を見つめながら、呟くように繰り返した。
「 ・・・とうの昔に、な・・・ 」
 タバコのフィルターを、シワが寄った口に運ぶ。 より赤く、タバコの先の火を輝かせ、また煙をふうっと出すと、ヨネは続けた。
「 ワシは、自分の本当の名前を、知らんのじゃ・・・ 」
「 え? 」
 意外な、発言だった。 なつきは、目を丸くして、ヨネを見つめる。 名前を知らないとは・・・ ヨネもまた、若菜のように施設で育ったのであろうか。
 なつきは、身じろぎもせず、ヨネの次の言葉を待った。
「 4歳くらいかのう・・・ 小さい頃の記憶は、微かにあるんじゃ。 家は、木造の2階建て・・・ 小さな庭があってな・・・ くぐり戸の脇に、立派な松があった。 母親からは、『 ヨネちゃん 』と呼ばれていた記憶もある・・  父親は、海軍さんじゃった。 士官服姿の写真でしか、見た事が無いがのう・・・ 」
「 ・・・・・ 」
 ヨネは、続けた。
「 あれは・・・ 今日みたいな、よく晴れた夏の日じゃった。 空を埋め尽くすように、大きな飛行機が、編隊でやって来てな・・・ ピュー、ピューって、爆弾を落としたんじゃ。 ワシは、母親に手を引かれ、何歳か年下の弟と逃げた。 あたり一面、火の海じゃ。 火だるまになった人間が、何人も、地面をころがり回っておった。 倒れたゼンマイ仕掛けのオモチャのように、こう・・ 空を掴みながらな・・・! 」
 パントマイムのように、両手を振って見せる、ヨネ。
「 そのうち、ワシらの近くで、爆弾がハゼたんじゃ。 母親は、突然に倒れ、動かなくなった。 見ると、首の辺りが切れて、赤い血が、シュー、シューって噴出しておるんじゃ・・・! ワシと弟は、わんわん泣きながら、母親の側におった。 やがて、火が迫って来て、母親の着ていた着物を、焦がし始めたんじゃよ。 ワシは、必死で、手で叩いて消しておったんじゃが、みるみるうちに、母親は燃え出してしまったんじゃ・・・! 」
「 ・・・・・ 」
 声の出ない、なつき。
 ヨネのタバコの灰が、ポロリと膝に落ちる。
「 ・・・誰か知らんが、通り掛った男に引き離され、ワシと弟は、防空壕に連れて行かれた。 火は、丸1日・・ 次の日の夕方まで、燃えておったのう・・  ワシと弟は、泣きながら辺りを歩き回っておった・・・ 行く宛てなど、皆目、見当がつかんかったんじゃ。 その後は、ヤミ市や、燃えていない駅の周辺で残飯を漁ったり、イモを万引きしたりして、飢えをしのいでおったのう 」
 膝に落ちていたタバコの灰を手で払い除け、短くなったタバコを、灰皿代わりの空き缶に捨てる。 組んだ右足の膝を両手で抱えたヨネは、テントの隙間から見える夕闇が迫った空を見上げながら続けた。
「 ・・・食うモンなんぞ、なぁ~んも、ありゃせん。 雨が降るとな・・ 事の他、ひもじいんじゃ。 弟と、膝を抱えて1日、橋の下じゃ。 寒くてのう・・・ 手足なんか、骨と皮しか無いくらいヤセてしもうた。 あばらの隙間に、小石が乗ったほどじゃ 」
 胸の辺りを手で擦って見せる、ヨネ。
 なつきは、何も答える事が出来ず、ヨネを見つめ続けていた。
「 弟の名前は・・ 忘れたのう・・・ 終戦の年の、昭和20年の暮れ・・ 有楽町の駅構内で、死んでしもうたわ・・・ ぽか~んと、半分、目を開けたままな・・・ 固くなった饅頭に見立てた小石を、両手に握ったままじゃった 」
「 ・・・・・ 」
 もう1本、タバコを出し、火を付ける、ヨネ。 吐き出す煙が、バーナーの火で暖められ、暮れかかった空に立ち上って行く。 その煙の行方を見ながら、ヨネは呟くように言った。
「 ワシの弟は・・ 何の為に、生まれて来たんかのう・・・  もう、顔立ちも忘れちまったが、『 お腹減った~、お腹減った~ 』ちゅう声だけは・・ 未だ、よう忘れられん 」
 タバコの灰を、空き缶に落とすヨネ。
「 ・・・ワシの、記憶の中にだけしかおらんのじゃ、あの弟は・・・ 確かに、生きていたんじゃがのう・・・ 人なんぞ、そんなモンかもしれん。 ワシは生き残ったが、一族まとめて死に絶えたモンも、数知れんのじゃ。 誰の記憶に残るでもなく、のう・・・ 」
 煙たそうにタバコを吸う、ヨネ。 目に煙がしみたのか、右目をこすりながら、続けた。
「 弟の体は、役場のモンが来て、どこかへ持って行ったわい。 片手でヒョイと持って、麻袋に詰めてな・・・ ワシは、その後、施設に収容されたんじゃ。 戦災孤児ってヤツよ。 園の所長さんが、庄田と言う人でな。 養女にしてもらって、新しく戸籍も移されたんじゃ。 それ以来、ワシは庄田じゃ 」
 ・・・戦争により、何もかも失ったヨネ。 家族のみならず、自分の名前も失ってしまったのだ・・・
 戦前には、確かに存在した家族・・・ 父親が軍人で、士官であったと言う事から、それなりの家系であったに違いない。 それが今では、跡形も無い訳である。
 煙を鼻から出しつつ、空き缶でタバコを揉み消しながら、ヨネは言った。
「 母親から聞いた事があるが・・・ 父親の乗っておった船は、連合艦隊の『 霜月 』と言う名前の軍艦でな。 駆逐艦じゃよ。 施設に入ってから、園長さんが調べてくれたんじゃが・・ もう、終戦の1年以上も前に、フィリピンのボルネオ、とか言う島の沖合いで撃沈されておったそうじゃ 」
「 ・・・・・ 」
 その後の人生は、先程に聞いた過去の職歴から、なつきにも想像が出来た。
 半世紀以上前の、凄まじい記憶・・・ おそらく、あまり人には、語ってはいないのだろう。 ヨネの話し方には、封印した過去を思い出すかのような感じが、見受けられた。
 これも、1つの人生なのかもしれない。 それにしては、惨過ぎる人生だ・・・
 なつきは言った。
「 ヨネさん、1人ぽっちなのね・・・ 」
 ヨネは、少し笑いながら答えた。
「 生きるのに、必死だったからのう・・・ そんなコトは、あまり考えた事は無いわい。 だがのう・・ 薄ら寒い、雨の日なんぞは・・ 弟と膝を抱えておった橋の下の事を、未だ思い出すのう・・・ 」
 ヨネの耳には、今も、弟の声が聞こえているのだろう。 住む所も、食べる物も・・ 行く所すら無く、寒風吹き抜ける橋の下に、ただ、うずくまる、幼い姉弟・・・ 息を引き取ったという駅構内も、暖房設備の無かった当時は、身を切るような寒さであったに違いない。
「 2パック、ちょうだ~い! 」
 店先に、5歳くらいの子供を連れた、主婦らしき女性が来た。
「 毎度 」
 座布団から立ち上がり、ヨネが応対する。 客からもらった代金を、使い込んだブリキ製の菓子箱に入れながら、ヨネは、なつきに言った。
「 ・・帰れる家があるのは、良い事じゃ・・・ 帰れ、とは言わんが・・ その気になったら、帰れる家がある事を『 有り難い 』と、思わなイカンぞえ? 」
「 ・・・・・ 」
 ヨネの身の上には、同情する。 でも、だからと言って、家に帰ろうと言う気には、今の所、なれない。 確かに、家を懐古する気持ちは、若干はあるのだが・・・
 その事は、ヨネも理解している事だろう。 基本的には、なつきに、家に帰ってもらい、まっとうな生活をして欲しいとは思っているに違いない。 だが、なつきには今の所、その気は無い・・・ それが分かっているからこそ、それ以上の注進を、ヨネは避けているのだ。
 ・・・ヨネのように、波乱の人生あり、とある機会にてそれを語ったとしても、基本的に人は、自分の人生への同情や、注進に対しての聞き入れを、して欲しいとは思わないものである。 ましてや、自己のコメントはしても、強制などは絶対にしないものだ。 相手が、自分の方向性に拒否を示しても、それはそれで良い、と判断する。
 そう・・ 他人には、他人の価値観の上に成り立つ『 指標 』の存在があるのだ。 手助けでの意味合いから、コメントする事はあっても、他人を洗脳するような言動は避けた方が良いだろう。
 また、別見地の観点もある。 家を出て来たからには、それなりの理由が存在するはずである。 その理由の大小を決定するのは、本人の価値観であり、他人には、決して計る事の出来ないモノである。 家出理由の大小によって、『 帰る 』時期が判断出来る事など、あり得はしないのだ。
 ・・・確かに、家出は良い事ではない・・・ 現実からの逃避以外、何ものでもないからだ。 当然、どんな理由があろうとも、正当性は無い。 だが、1人で生きていくと言う強い意志と精神力があり、現実に直面しても尚、その決意が揺るがないのであれば、その逃避の価値観は、誰にも計れない事であろう。 継続と終了は、自身の判断に委ねられるのだ。

 その日の夜。
 渋谷の街角には、なつきの姿があった・・・

12、儚き命

12、儚き命


 8月の下旬。
 江東区 千歳の両国橋近くの隅田川で、女性の他殺死体が浮いているのが発見された。
 年齢は、20代半ばから、後半。
 パーマを掛け、緩いウエーブの茶髪で、長さは背中辺り。
 淡いベージュのワンピース姿で、素足。
 両手を、後ろ手で縛られ、胸元には、蝶の刺青があった。
 祥子であった・・・

「 死因は、絞殺みたいよ・・・! 」
「 お客と、トラブったんじゃないの? 」
 幾つものフラッシュが瞬き、何人もの捜査員が、部屋の玄関の扉を出たり入ったりしている。 ドアの所には警官が立ち、階下を見ると、マンションの駐車場には、赤色灯を回転させたパトカーや、警察車両が停まっていた。 刑事らしき男2人が、3人の女性に何かを聞いている。 祥子の部屋の同室者たちに事情聴取をしているようだ。 祥子が入居していた部屋の階のポーチには、立ち入り禁止の黄色いテープが貼られていた。
 なつきは、他の居住者たちに混じり、そのテープ前から、警官や刑事たちが動き回る様子を、呆然と眺めていた。
( 祥子さんが・・ 祥子さんが・・・! )
 誰かの手が、なつきの肩に乗った。 振り向く、なつき。
「 大変なコトに、なっちゃったわね・・・ 」
 眞由美だ。
 思わず、なつきは、眞由美に抱き付いた。 眞由美も、なつきの小さな肩を、優しく両手で包む。
「 どうして・・・ どうして、祥子さんが・・・! 」
 肩を震わし、眞由美の腕の中で泣き出す、なつき。
「 分からないわ・・・ なつき、しっかりして。 泣いたって、もう祥子は還って来ないのよ? 」
「 だって・・ だって・・・! 」
 泣きじゃくる、なつき。
 傍らにいた若菜が、静かに言った。
「 慣れてた祥子が、お客とトラブるなんて考えらんない・・・ 何か、事件に巻き込まれたのよ・・・! 」
「 事件って? 」
「 分かんないケド・・・ 」

 検死の結果、祥子は、川に投げ込まれる前に、絞殺されていた事が判明した。 所持品は無く、乱暴された痕跡も無い。 身元判明の決め手は、胸にあった蝶の刺青。 夜の渋谷界隈を中心とし、かなりの『 顔 』だった祥子。 蝶の刺青から、その身元は、すぐに判明したのである。
 皆の前から姿を消し、2週間。 変わり果てた姿で、祥子は発見された・・・


 いつもの街角に立ち、客を拾っていた、なつき。
 ふと、周りを見渡した。
 待ち合わせらしき男性、携帯でメールをしている女性・・・ その中には、数人の『 同業者 』の女性も見て取れる。 なつきは、そんな中に、祥子を探していた。
『 ナニしょげた顔、してんのよ。 客が、逃げちゃうでしょ? 』
 そんな声が、なつきの脳裏に甦る。
( 祥子さん・・・ )
 手鏡を出し、ルージュを引き直す祥子の姿が、他人の女性と被る・・・
「 ・・・・・ 」
 犯人は、未だ見つかっていない。
 祥子が殺されてから、もう3週間。 最近は、マンションに訪れる刑事の姿も見なくなった。
( 住所不定のあたしらなんか、生きようが死のうが、あんま関係ないって事ね・・・ )
 先日の、ヨネの話を思い出す、なつき。
『 ワシの弟は、何の為に生まれて来たんかのう・・・ 』
 祥子の人生も、泡沫のようだ・・・ この世界に入る前の事は知らないが、世を去るには、あまりに若過ぎる。 人の命の儚さを、感じずにはいられない、なつきであった。

「 おう、やってるな? 」
 斉田だ。
 なつきは、ポーチから幾らかの金を出すと、斉田に渡した。
「 ちょっと、茶でも飲まないか? 」
 斉田は、渡した金を確認する事もなく、それをスーツの内ポケットに入れると、そう言った。
「 え? あ、はぁ・・・ 」
 斉田から誘われた事など、1度もない。 予想外の誘いに戸惑い、あやふやな返事をした、なつき。
「 誰か、予約してんのか? 」
「 いえ 」
「 じゃあ、ちょっと付き合え。 話しがある。 今日の分のアガリは、取っておけ 」
「 はあ・・・ 」

 道の、反対側にある喫茶店に入った、なつきと斉田。
 席に付くなり、斉田は、辺りを見渡した。 あまり、他人には見られたくないような雰囲気が見て取れる。 なつきは、何となく、胸騒ぎを覚えた。
「 何、飲む? オレは、ブレンドだ 」
 おしぼりと水の入ったコップを持って、やって来たウエイトレスを尻目に、斉田が尋ねる。
「 あ、じゃあ・・・ アイスカフェオレ、頂きます 」
「 それを 」
 ウエイトレスに目配せする、斉田。
「 かしこまりました 」
 ウエイトレスは、一礼するとカウンターへ戻って行った。
「 実はな・・ 祥子の事だ・・・ 」
 おしぼりをビニールから出し、手を拭きながら、斉田は言った。
「 祥子さん? 」
「 ・・ああ。 お前も、眞由美や若菜と同じように、親しかったろ? 」
「 ええ。 このシマを通してくれたのも、祥子さんですから・・・ 」
「 そうだったな 」
 タバコを取り出し、火を付ける、斉田。 なつきも、おしぼりを取り出し、手を拭う。
 斉田は言った。
「 警察が、マンション管理人のウチ事務所の所にも来て、結構ヤバかったが・・・ それは、まあいい。 お前、祥子の交友関係について、何か知っていないか? 」
 祥子の、交友関係・・・ あの、柴垣の事だろうか。 斉田は、祥子と柴垣の関係を知っているのだろうか・・・?
( 祥子さんはもう、故人だし・・・ 言っても、問題はないかも )
 斉田が、なつきに顔を近付け、小声で追伸した。
「 祥子の死に方にゃ、疑問がある・・・! 」
「 どういう・・ 事ですか? 」
 斉田は、茶色のメガネの奥から、鋭い視線をなつきに向けながら、答えた。
「 ナンで、川に捨てる? 」
「 ・・・・・ 」
「 フツー、見つからないように、山に捨てるか、埋めると考えるのが正論だろうが? 川だとしても、山奥の川とかよ。 あんな、都会のド真ん中の川に、フツーは捨てねえぜ? 」
 ・・・確かに、一理ある。 まるで、誰かに見せたいかのようにも取れる。
「 まさか・・・ 見せしめ・・・? 」
 斉田は、茶色のメガネの中心を、右手の中指で上げ、言った。
「 そりゃ、違うな。 慌ててたんだよ 」
「 慌てる・・・? 」
「 お待たせ致しました 」
 ウエイトレスが、オーダーを持って来た。
 斉田が、なつきに近付けていた顔を離し、イスに、もたれ掛かる。 テーブルに置かれる、コーヒーとカフェオレ。 なつきは、ウエイトレスに軽く、一礼した。 タバコを灰皿で揉み消し、ウエイトレスがテーブルを離れるのを待つ斉田。 伝票をテーブルの端に置き、ウエイトレスがカウンターの方へ戻って行く。 斉田は、コーヒーにフレッシュだけを入れると、カップを手に持ち、口へ運びながら言った。
「 これは、オレの直感だがな・・・ 犯人は、祥子の身近な人間。 しかも、山奥まで運んでいけないほど、忙しいヤツだ 」
 夜間も、管理されている人間・・・? そんな人間が、存在するのだろうか。 どんな仕事をしていても、勤務時間が過ぎれば、開放されると思うのだが・・・
 戸惑い気味のなつき。
 斉田は、カップをソーサーの上に置きながら言った。
「 何かあったら、電話1本で飛んで来なきゃならねえ、オレたちみたいな家業のヤツさ 」
「 ・・・! 」
 斉田は、同業者・・・ 組の、構成員を疑っているらしい。 それは緑風会なのか、それとも、他の組なのか? 一体、何の為に・・・?
 なつきは、おそるおそる言った。
「 ・・・祥子さん・・・ 他の組の人と、付き合ってました 」
 斉田の目が、メガネの奥で光る。
「 それは・・・ 柴垣か? 」
 無言で頷く、なつき。
 ふう~っと、ため息を尽き、斉田は、目を伏せると言った。
「 ・・・やはりか。 まあ、仕方ねえだろう。 祥子と柴垣は、オレが、シマを束ねる前からの付き合いだ。 オレだって、ヤボなマネはしたくねえ。 感付いてはいたが、黙っておくつもりだった 」
 斉田は、ある程度は気付いていたらしい。
 再び、カップを持ち、続けた。
「 アイツは、アブねえ男だ。 ナニ考えてんだか、見当がつかねえ・・! おそらく祥子は、ヤツのトラブルに巻き込まれた公算が、大だ 」
 なつきは以前、初めて斉田と会い、対峙していた時の柴垣を思い出した。 柴垣の、不敵な笑い顔が、なつきの記憶に甦る。
「 まさか、柴垣って人が、祥子さんを・・・! 」
「 いや、それはないな。 ヤツは、無愛想だが、オンナに手を掛けるようなヤツじゃない 」
 斉田は、言い切った。
 祥子は、好意を寄せていた相手に、手を掛けられたのではなさそうである。 なつきは、少しホッとし、カフェオレにストローを入れ、口を付けた。 想像の域ではあるが、最悪のシナリオは、描かれてはいないようだ・・・
 斉田は、カップを置くと、タバコを出し、呟くように言った。
「 祥子はな・・・ 柴垣に、カタギになって欲しいと言っていたらしい。 これは、他の女たちからの情報だ。 オレもな・・ ヤツとは、この世界で・・ あまり、向かい合いたくはないんだ。 出来れば、そうだな・・ 1度、じっくりと話しがしてみたい 」
 じっと、手にした火の付いていないタバコを見つめる、斉田。
 なつきは、ふと、斉田に、柴垣に対する友情のようなものの存在を感じた。 敵対する組の構成員同士ではあるが、柴垣を語る斉田の口調には、どこかしら、敬意が感じられる。 対峙していたあの日・・ 柴垣も、斉田を認めるような発言をしていた。 どこかで、違う出会いをしていたら・・・ もしかしたら、斉田と柴垣は、最強・最良なコンビになっていたかもしれない。 性格的には、沈着冷静な斉田に対し、自由奔放な柴垣・・ 相容れぬ2人だけに、自分には無い、互いの長所を認め合っているのではないのだろうか。 なつきは、そんな事を想像した。
「 あ・・・! 」
 なつきが、何かに気が付いたように声を上げた。
「 ・・ん? 何だ? 」
 怪訝そうに、なつきを見ながら、タバコに火を付ける斉田。
「 そう言えば、おかしな光景を見たわ、あたし・・・ 」
 ストローを摘んだまま、なつきは言った。
「 おかしな光景? 」
 ふうっと、天井に向けて煙を出しながら、斉田は聞いた。
「 はい。 えっと・・ この前、斉田さんが連れていた男の人・・ 矢野さん、でしたっけ? 」
「 矢野? 矢野が、どうかしたのか? 」
「 柴垣さんと、一緒にいました 」
「 ・・・・・ 」
 斉田の眼つきが、瞬時に険しくなる。 硬直したように、じっと、なつきを見つめ・・ いや、睨み付けている。
 やがて、静かに言った。
「 ・・・一緒だと・・・? 間違いねえだろうな・・・! 」
「 間違いありません。 祥子さんとも、一緒だったんです。 黒いベンツで、運転手をしていました。 何で、緑風会の人が、柴垣さんのお付きをしてるのかなぁ、って・・ 不思議に思いましたから 」
 斉田の目尻が、小刻みに動いている。 ・・これは、ただ事では、なさそうだ。 なつきの証言は、思わぬ事態に発展しそうな雰囲気である。 棚引く、タバコの煙の向こうに、斉田の目が鋭く光る・・・!
 やがて斉田は、なつきを見据えながら言った。
「 よく覚えててくれたな、なつき・・! いいか? この事は誰にも言うな。 いいな? ・・もう、誰かに言ったか? 」
「 いえ、あたしも忘れていましたから 」
「 ・・・よし・・・ うむ・・ よし、よし・・・! 」
 視線を、なつきから離し、何かを考えながら、自身に頷く斉田。 携帯を出し、誰かに連絡を取る。
「 ・・おう、オレだ。 矢野は今、いるか? 」
 しばらくの無言。 タバコをくわえ、煙を出す。
「 何・・? 連絡が取れねえってのは、どういうコトだ 」
 チラリと、なつきを見やる斉田。 どうも、様子がおかしいらしい・・・
「 分かった。 とにかく連絡を付けろ。 至急だ・・! 」

 なつきの、カフェオレのグラスの中で、氷が、カランと鳴った。

13、裏切り

13、裏切り


 数日後、斉田から、なつきの携帯に電話があった。
『 矢野とは、どうしても連絡がつかない。 オレの感が当たっていれば、ヤツは今、ヤバイ状態だ。 見かけたら連絡してくれ 』
 どういう風にヤバイのか、なつきには、全く想像がつかない。 祥子の死に、関連がありそうなのだが、祥子と矢野の接点が見つからないのだ。 ただ、車に同乗していただけである。
( 祥子さん・・・ 柴垣さんに、この世界から足を洗って欲しかったのね )
 先日の、斉田からの話しを思い出す、なつき。 祥子も、女性として、小さな幸せを掴みたかったのであろう。 『 裏の世界 』に長くいた者ほど、『 普通 』の生活に憧れるものである。 祥子も例外ではなかったのだ・・・ 同じ同性として、祥子の気持ちが痛いほど分かる、なつき。 自分もまた、加賀や正岡を意識している・・・
 叶わぬ事かもしれないが、『 夢 』は、誰しも見る権利があるのだ。 例え、それが泡沫の夢であっても、夢見るひと時は、現実から逃れる事が出来る。 それすら無駄だと思う者は、全てに絶望している者であろう。 どう考えるかは、個人の自由ではあるが・・・
( 柴垣さんは、どう思っていたのだろう? 祥子さんのコト )
 単なる、遊び相手だったのか、将来を約束していた間柄だったのか・・・ 個人的希望としては、後者であって欲しいと思う、なつき。
( 最後に見た祥子さん、嬉しそうだったし・・・ )
 あの日、マンションの玄関先で会話したのが、最後になってしまった。
『 これから、人と会うんだ 』
 傾きかけた夕日に映えていた、祥子の嬉しそうな笑顔・・・ あの後、柴垣にあっていたのかどうかは定かではない。 しかし、なつきは、心の中で確定していた。 祥子は、柴垣に会いに行ったのだ、と。 あの日の、満ち足りたような祥子の表情は、心許せる特定の人に会いに行くからこそ出来た笑顔であったように思えてならないのだ。 自分もまた、正岡や加賀に会いに行く時は、多分、あんな表情をしているのだろう・・・
 ふと、なつきは考えた。
( 柴垣さん・・・ 祥子さんが亡くなったコト、知っているのかしら )
 斉田の話によると、警察には、祥子の叔父とか言う初老の男性が、司法解剖の後、遺体を引き取りに来ていたらしい。 尼崎から来た、との事である。 葬儀には、こちらからは誰も行っていない。 ・・・行かない方が、良いだろう。 夜の仕事に従事していた仲間が参列した所で、遺族は、煙たがるだけだ。 学生時代の友人を装ったとしても、突っ込まれた話しをされれば、バレてしまう。 従って、葬儀に柴垣が参列していたかどうかは、確認は出来ない。 基本的に、組の違う柴垣には、情報すら行かないはずである。 だが、この世界では、顔の知れた祥子の事だ。 独自の、友人ネットワークが構築されていたと考えるのが順当である。 だとすれば、柴垣は、祥子の死を知っている・・・!
( 犯人が誰なのか、斉田さんに連絡して聞いて来るはずよね・・・ それが無いってコトは・・ 柴垣さんが、犯人・・・? いや、斉田さんも言っていたケド・・ あたしも、柴垣さんが、女性を殺してしまうような人だとは思えない )
 直に話しをした事のない人物ではあるが、なつきは柴垣を、そう評価した。 正岡と一緒にいた時に見掛けた、ホテルから寄り添って出て来る2人の姿・・・ その仕草からは、明らかに愛情を感じられたからである。
「 何を、考えているんだい? 」
 なつきの思案を断ち切るかのように、加賀が、ベッドの中で、隣に横たわっていたなつきに尋ねた。
「 ・・あ、ううん。 ちょっとね・・・ 」
 加賀と会っている、いつものホテルの一室。 なつきは、全裸で、仰向けに横たわっていた。
 加賀が手を伸ばし、なつきの乳房をそっと掴む。
「 あん・・・ 」
 見計らったように、サイドボードに置いてあった加賀の携帯が鳴った。 小さく舌打ちをして携帯を取り、着信者を確認して携帯に出る加賀。
「 矢野か? どうした 」
( ・・・・・! )
 今、確かに『 矢野 』と言った。 聞き違いかもしれないが、なつきの耳には、そう聞こえた。 どうして、加賀が矢野と知り合いなのか・・・? 同姓の他人かもしれない。 だが、タイムリーとも言える合い間で聞こえて来た、矢野と言う名。
 なつきは、じっと耳を澄ませ、携帯の相手の声を探った。
 ・・・どうやら、男性のようである。 矢野とは、あまり会話をした訳ではない。 どんな声だったか・・・ おぼろげに覚えているだけだが、加賀の携帯から漏れ聞こえて来る声には、確かに記憶がある声のように思えた。 ベッドに、仰向けに寝たまま、加賀は会話している。
「 ・・・だから、余計な事をするなと言っただろう? アイツの事だ。 何をしでかすか、分かったモンじゃないぞ・・・! 今、どこだ? 」
 電話の相手からは、少々、焦った状況がうかがえる。 ビジネス・・ とは考え難い、加賀の返答内容だ。 なつきは、固唾を呑んで聞いていた。 仕方がない、と言ったようなため息を尽く加賀。 強い口調ではあるが、静かに言った。
「 分かった。 アミューズまで来い。 ・・わめくんじゃねえ。 オレも、今から行く 」
 携帯を切った加賀は、なつきの頬に手を当て、優しく擦りながら言った。
「 仕事が入ってしまった。 今から行かなきゃならない。 またな・・・ 」
 優しく微笑んではいるが、表情には、陰りが見える。 視線は、なつきではなく、明らかにどこか遠くを見ていた。 その視線の奥に感じる、苦悩。 なつきは言った。
「 今から・・・? もう、12時過ぎだよ? 」
 ベッドから起き上がり、ワイシャツを着ながら、加賀が答えた。
「 ちょいとしたアクシデントさ。 取引先からクレームだ・・・ 」
 そんな内容の会話ではなかった。 加賀は、明らかにウソをついている・・・! もし、今、掛って来た携帯の相手が、あの矢野だったら・・ 一体、加賀の正体は、何なのだろう・・・?
 カタギだとばかり思っていたなつきは、にわかにうろたえ始めた。
「 何て顔してんだ。 また会ってやるから 」
 なつきの表情の変化を察したのか、いつものように優しく言う加賀。 だが、なつきの表情は、硬いままだった。 不明ではあるが、加賀の私生活に、疑いの兆しが現れ始めていたからである。
 インターホンでフロントを呼び出し、退室を告げる加賀。 服を着て、なつきと加賀は、ホテルを出た。

「 1人で帰れるか? 」 
 ホテルの駐車場に停めた車に向かうすがら、申し訳なさそうに、加賀は、なつきに尋ねた。 どうやら、車で送って行けない事を示唆しているようだ。
「 いいよ。 近いから、歩いて帰る 」
 ・・・ドコに、何が近いと言うのか。
 自分で言っておきながらも、意味不明である。 だが、加賀は、納得した様子で言った。
「 悪いな。 今度、旨いモンでも食べに行こう。 じゃ・・・ 」
 エンジンを掛け、なつきに軽く手を上げながら、車を発進させる加賀。
 ・・・嫌悪感を感じる。
 性欲の、捌け口に使われたような気分だ。 ラブホテルから1人で出て来るのは、何とも屈辱的な気分になる。 もっとも、自分は・・・ そんなオンナであり、『 道具 』に過ぎない。 金で買われたオンナなのだ・・・

 近くのJRの駅まで行き、タクシーを拾う。
 ネオンが煌く繁華街を横目に、なつきは、先程の加賀の言葉を思い出していた。
( 明らかに、仕事の話しなんかのような内容じゃなかったわ・・・ やっぱり、あの『 矢野さん 』なのかしら・・・ )
 思い出せば思い出すほど、加賀の携帯から漏れ聞こえていた声が、わずかな記憶の声と一致して来る。
( アミューズ・・・ )
 なつきも知っている。 中央本線の千駄ヶ谷駅から、北参道へ行く途中辺りにある大きなショッピングモールである。 大規模なゲームセンターもあり、深夜過ぎでも若者を中心に、大勢の人で賑わっているアミューズメント・スポットだ。
( 加賀さんは・・ やっぱり、裏世界の人なのかしら・・・ )
 表面上、カタギの商売を名乗っている者は多い。 いや・・ 今や、ほとんどの者が、そうではないだろうか。 取締りが厳しくなった現在、堂々と、組の看板を掲げている『 事務所 』は少ない。 中には、全く気が付かれないようにしている組もある。 どこから見ても、普通の会社なのだ。 不動産屋だったり、中古車販売の店だったり、土建屋だったり・・・ 何と、警備会社であったりする場合もある。
 加賀も、はたしてそんな1人なのだろうか。 出来れば、そうであって欲しくはない・・・ なつきは、判断に苦慮した。 商社の課長と聞いていただけに、尚更である。 確かに、加賀の身なり・言動からは『 そのスジ 』のイメージは湧かない。
( でも、携帯と話していた時の加賀さんの声・・ いつもとは、違ってた )
 ・・・妙に、ドスの効いた口調。 乱暴な言い方こそしてはいなかったが、声質は、なつきが聞き慣れた『 それ 』そのものだったのだ。
( 広いモールだとは言え、スペースは限られているわ。 駐車場だって、たしか1ヶ所だったし・・・ )
 行ってどうなるのかは、予想が付かない。 だが、加賀を発見出来れば、少なくとも『 矢野 』の確認が出来る。
( もし、あの矢野さんだったら、斉田さんに報告しなきゃ・・・! )
 祥子の、失踪と死にも関連しているかもしれないのだ。 それに、加賀の正体も判明する・・・
 知りたくないような、知りたいような気持ちになる、なつき。 だが、このまま、モヤモヤしたままでは、どうにもやり切れない。 事実をハッキリさせたいのが、本当の気持ちだ。 もしかしたら、なつきの思い過ごしかもしれないのだ。
 ・・なつきは、決断した。
 ベンチシートに両手を付き、タクシーの運転手に告げる。
「 すみません、千駄ヶ谷までに変更して下さい 」

14、目撃

14、目撃


 けだるい色の、都会の夜空・・・ 漆黒でもなく、薄明るいでもない。 ただ単に『 暗い 』。 そう、ネオンが見やすいように暗くなっているように感じる。 夜ではなく、都会の一部に過ぎないのだ。 多少、明るくても暗くても、それは何の意味合いも持ちはしない。 都会の夜空など、誰も見上げる者はいないのだ。 いるとすれば・・・ 心に、疲れを感じている者だろう。 だが、彼らから見ても、それが『 夜空 』である必要は無い。 たまたま、ふと見上げる時間・・・ それが夜の時間帯であり、そこに、都会の夜空が存在しているだけなのだ。 今宵、薄い雲の間に、細い三日月が浮かんでいるのに気付いた者も、そんなに多くはないだろう。
 雑居ビルの横に、陰気に光る三日月を見上げながら、なつきは思った。
( 横目で、あたしを見てる・・・ )
 本当の目は、陰の部分にある。 人には見えない、黒く暗い月の影・・・ そこには、人の心を見透かす、不気味な『 目 』があるのだ。
( 太陽の方を向きながらも、密かに影の目で、こちらをじっとうかがっているのよ・・・! )
 なつきは、そう感じていた。
 ・・・加賀を追って、アミューズに来た、なつき。 月に、そんな自分の行動を、じっと監視されているような心境になる。
( いやらしい・・・! )
 見上げていた三日月から顔を背け、なつきは、駐車場に目をやった。
 広い駐車場だ。 所々に街路灯が設置され、意外に明るい。 車上狙いも頻発している為、防犯上からの事もあるのだろう。 特定の車種を探すのには、好都合である。
 なつきは、ほどなく、見覚えのある黒いBMWを発見した。
( ナンバーは、知らないケド・・・ 多分、これだわ )
 近寄って、ボンネットに手をかざしてみると、まだエンジンの熱気が冷めていない。 駐車して、そんなに時間が経っていないと判断出来る。
( どこにいるんだろう・・・ )
 辺りを見渡す。
 アベックや若者が数人、駐車場内を歩いており、向こうの方には、ゲームセンターやファミリーレストラン、ファーストフード店が、煌々と明かりを点けている。
( いるとすれば、アッチの方よね )
 なつきは、駐車場から一番近いファミリーレストランに向かって歩き始めた。 ふと、横に立っていた街路灯の脇に人影を感じ、チラリと見やる。
( ・・加賀さん・・・! )
 何と、加賀だ・・!
 街路灯の光を真正面から受け、顔がハッキリと分かった。 慌てて、なつきは、近くに停まっていたバンの陰に入り、息を潜める。 そっと体をかがめ、車の陰から様子をうかがった。
 ・・・誰かと喋っているようである。 もう1人の背中が、確認出来る。
 白いカッターシャツに、黒っぽいスラックス・・・ 髪は、短く刈り込んであるようだ。 男が、何かを喋りながら、ゲームセンターの方を見やった。
( ・・・・・ )
 男の口元に、見覚えのある口ヒゲが見えた。
 柴垣と、祥子を送っていった男・・・ なつきを、マンションに案内した男・・・!
 矢野だった。
( どうして・・? なぜ加賀さんが、矢野さんと・・・! )
 答えは、1つだ。
 加賀もまた、『 裏の世界 』の人間だったと言う事である。 商社の管理職であるという事は、ウソではないだろう。 夜と昼の顔がある、と言う事なのだ。 どちらが『 本職 』なのかは、定かではないが・・・
『 結婚に向かない男なんだ 』
 加賀の言った言葉の意味が、少し分かったような気がする。
 しばらくは、加賀に裏切られたような心情が脳裏に交錯し、なつきは、我を忘れていた。だが、次の疑問が湧いて来た。
( 加賀さんは・・ 緑風会の人? それとも、総和会? )
 矢野と知り合いである以上、斉田と同じ、緑風会と見るのが順当だ。 だが矢野は、総和会の組織である成和興業に属する柴垣と行動を共にしていた・・ しかも、現在、斉田が探している『 お尋ね者 』でもある。
( 分かんない・・・ どうなってるの? )
 とりあえずは、斉田に報告するのが先決のようだ。
 なつきは、陰にしていた車を離れ、携帯を出した。

 嫌な予感がする・・・
 それが何であるかは、なつきには分からない。 とにかく、嫌な予感がするのだ。
( 祥子さん・・・ )
 なつきは、顔を上げ、夜空を仰いだ。
 薄い雲の陰に、三日月は入ったらしく、ボンヤリと、その輪郭を透かせている。 なぜか、祥子の顔を思い出し、ばつきは、おぼろげな薄明るい雲に、記憶の顔立ちを重ねた。 いつだったか、胸に入れた刺青について話してくれた祥子の言葉が思い起こされる。
『 あたしの彼さぁ・・・ 背中に牡丹が彫ってあるの。 だから、あたしは花に舞う、蝶にしたのよ 』
 祥子は、笑っていた。 そして、嬉しそうだった・・・
( そう言えば、祥子さん・・ 夜のオンナは、昼間はパッとしていなくても、夜は華麗にしていなきゃダメだ、って言ってたなぁ・・・ )
 夜空を見上げながら、なつきは、追憶のように想いを馳せる。
 夜に舞う、蝶・・・
 だが、舞い降りた先は、幸せの地ではなかった。 冷たい川の水にさらされ、無残な姿で死を迎えた祥子・・・ なつきは、足元に視線を落とし、ため息をついた。

「 よくやったぞ、なつき・・・! いるか? 」
 数人の足音と共に、息を切らして斉田が現れた。 他に、4人の男。 以前見た、大柄のスキンヘッドの男や、ミツヒロとか言うヤンキー風の男もいる。
 なつきは、少し離れたファミリーレストランを指差して答えた。
「 あそこに入ったままです。 出口は、ここから見える正面だけ。 窓側じゃなくて、奥のテーブルに座っています 」
 なつきの指すファミリーレストランを見据えたまま、斉田は言った。
「 ・・相手の男は、加賀と言うんだな? 」
 無言で頷く、なつき。 斉田は続けた。
「 総和会の幹部だ・・・ 策略家だよ。 おまえの客だったとはな 」
 目を伏せる、なつき。 下を向いたまま、打ちひしがれたように、力なく、なつきは尋ねた。
「 加賀さん・・ どうなるんですか・・・? 」
「 他の組のモンにゃ、手は出さねえ。 戦争になるからな。 オレたちが用があるのは、矢野だ 」
 茶色のメガネの奥で、斉田の目が光る。
 やはり加賀は、組の人間であった。 しかも、総和会・・・! 何となく、なつきにも状況が把握出来て来た。 矢野は、緑風会を裏切ったのだろう。 情報を総和会に流していたと思われる。 パイプ役だったのは、おそらく柴垣だ。 情報をまとめていたのが、加賀であろう・・・
 斉田が、ファミリーレストランの方を見据えながら言った。
「 ・・・祥子を殺ったのは、おそらく矢野だ・・・! どういう理由があったのかは知らんが、オレが想像する限り、祥子が邪魔になったんだろう。 柴垣には、足を洗って欲しいと言っていたんだ。 もしかしたら柴垣は、それに同意したのかもしれん 」
 斉田の推察が正しければ、柴垣は、やはり祥子を愛していたのだ。 カタギになり、祥子と暮らす平穏な生活を夢見たのかもしれない。 そうなれば、面白くないのは、矢野だろう。 組を裏切ってまで柴垣に付き、危険な状況に身を置いたというのに、その見返りが無くなってしまう訳になる・・・ おそらく、斉田たち緑風会に取られたシマを、取り返すのが目的で計画された、総和会のヘッドハンティングであろう。 成功した暁には、それ相応のポストや報酬が、矢野に対し、用意されていたと推測される。 祥子がいなくなれば、柴垣は、カタギにはならない。 だから、祥子を・・・!
( あくまで想像だけど、それなら、全てがつながるわ・・・! )
 おそらく、矢野が祥子を殺した事を、柴垣は知ったに違いない。 ・・あの性格の柴垣だ。 修羅のように怒り、矢野を探している事だろう。 怯えて逃げ回っている矢野が、大元である加賀に連絡をして来た、と言う推理が成り立つ。
( あたしたちのようなオンナたちを束ねていた柴垣さんなら、かなり細かい情報を、オンナたちから入手出来るはず・・・ もしかしたら、ここへ現れるかもしれない。 そうなったら・・・! )
 ・・最悪のパターンである。 柴垣は、矢野に報復をするだろう。 斉田たちにとってみれば、矢野は、まだ自分たちと同じ組員である。 その組員が、他の組の者に手を掛けられたら・・・!
( 間違いなく、組同士の抗争になっちゃう・・・! だから斉田さんは、矢野さんの拘束を急いでいるんだわ・・・! )
 なつきは、ようやく事態が、呑み込めた。
 これは、一刻も早く矢野を拘束しなくては、取り返しの付かない事になりそうである。全てが想像ではあるが、信憑性は高い。 どちらにせよ、矢野には尋ねなくてはならない不可思議な行動がある。 斉田が、他の者に言った。
「 いいか? 加賀には、絶対に手を出すな。 ヤツも、オレらを見て、突っ掛かって来る事はしねえ。 むしろ、避けるハズだ。 戦争は、断じて回避するんだ・・・! せっかく、イイ感じで組の運営が来てるトコに、余計な騒動は厳禁だ。 いいな? 」
 無言で頷く、男たち。
「 ミツヒロは、左から行け。 お前らは、右だ。 オレは、正面から行く。 口は、利くんじゃねえぞ・・・! 全て、オレに任せろ 」
 再び、無言で頷いた男たちが、何食わぬ顔で、ファミリーレストランに向かって歩き始める。 なつきの方を向き、斉田が言った。
「 ここで待ってろ。 動くんじゃねえぞ? 見ててもいいが、関係ないような顔してな 」
 なつきも、無言で頷いた。
 斉田と男たちは、多少に散らばりながら、ファミリーレストランの明かりに吸い寄せられるように歩いて行った・・・

15、復讐の計略

15、復讐の計略


 ミツヒロが、ファミリーレストランの扉を押し開け、出て来る。 続いて、大柄なスキンヘッドの男・・・
 うつむいた、矢野の姿が確認出来る。 両脇を男たちに抱えられ、まるで身柄を拘束された指名手配犯のようだ。 矢野の後ろから、斉田も出て来た。 どうやら、何事も無く済んだようである。 ガラス越しに見えるレジでは、加賀が清算をしているようだ。 連れ出されて行く矢野の方を、何度も振り返って見ており、その表情には幾分、慌てた心情が窺い知れる。
( ・・・加賀さん )
 再び、裏切られた心境が心に蘇り、加賀の姿を遠目で睨む、なつき。 しかし、なつきとは、ただの『 客 』である。 加賀自身には、なつきに対し、何の仕打ちをした訳でも無い。
( でも・・・ もう、加賀さんとは会わない )
 なつきは、そう決心した。
 月を嫌う心情と似たような意識が、加賀に対し、湧いて来る。 落胆と共に、悲しい気持ちが、なつきの心中を覆う・・・
 類は共を呼ぶ、とでも解釈しようか。 夜の世界に、身を置くなつきには、やはり夜の『 顔 』を持った者たちが集うのだ。 自分にまつわる因果を、やるせない気持ちで想う、なつき。
( 修一郎さんも・・・ 加賀さんと同じように、夜の顔があるのかしら・・・ )
 なつきの脳裏に、ひさかた会っていない正岡の顔が横切る。
 『 連行 』されて行く矢野の姿を目で追いながら、なつきは、小さくため息をついた。

「 説明してもらおうか、矢野。 どういう事だ? 」
 ファミリーレストランの駐車場の一角。 並立するビルの、陰のような所に矢野を連れ出し、斉田は言った。
 外灯が届かない、暗い一角。 観念したように目を伏せ、矢野は沈黙しているようだ。 なつきは、斉田たちがいる所へそっと忍び寄り、大きな室外機の陰に隠れて状況を見守った。
 ミツヒロが、ポツリと言った。
「 信じてたんスよ? 矢野の兄貴・・・ 」
 チラリと、ミツヒロに目をやったが、すぐに下を向く矢野。
 斉田が、静かに言った。
「 叔父貴に報告しないワケにゃ、いかねえ・・・ だが逆に、おめえも総和会の情報を共有しているハズだ。 手土産になりそうなモン、何かねえか? 」
 斉田は、何とか矢野を救おうとしているようである。
 はたして矢野は、視線を上げ、斉田を見据えた。 再び、しばらくの沈黙。
 やがて、重々しく口を開いた。
「 ・・・オレのオヤジは・・・ 代々木で、何代も続いたテキヤだった・・・ 」
 斉田は、おもむろにタバコを取り出し、火を付けながら答えた。
「 知ってるよ。 駒田一家だろ? 随分前に、緑風会に吸収されたって話しだ 」
「 吸収じゃねえっ・・! カンバンを取られたんだ! ハメられたんだよ、オヤジは・・・! 」
 語気を荒げる、矢野。
 ふうっと、煙を夜空に吹上げ、斉田が答える。
「 他のモンのやり方は、そいつら次第だ。 オレは、認めもしねえし、指図もしねえ 」
「 ・・・・・ 」
 憎々しげな視線で、斉田を睨む、矢野。
 斉田は続けた。
「 じゃ、何か? てめえは、復讐する為に、緑風会の杯を貰ったってワケかい・・・ 」
「 ・・・・・ 」
 斉田の吐き出す煙が、矢野の顔の前を、ゆっくりと横切る。
 右手の親指と中指でタバコを摘み、煙たそうに吸うと、斉田は言った。
「 この世界、食うか食われるか、だ・・・ てめえも、それは分かってるよな? 手段はどうあれ、力のないモンは、自分以上のモンの下に着く 」
 矢野は、沈黙を続ける。
 煙を出しながら、斉田が言った。
「 加賀に、そそのかされたんだろう? 幹部のイスを手土産に、柴垣と共によ 」
「 ・・・・・ 」
 無言のままの、矢野。
 斉田は、タバコを地面に落とし、それを足先で揉み消すと、そのまま、タバコを揉み消す足先を見ながら続けた。
「 だが、祥子を殺ったのは、失敗だったな・・・! 」
 室外機に掛けた、なつきの指先が、ピクリと動く。
 矢野が言った。
「 柴垣の野郎・・ 女に、骨抜きにされちまいやがって・・・! 抜き身のような気迫が、全然、無くなっちまいやがった。 てめえのシマも、組に返上して、カタギになるとか抜かしやがったんだ・・・! 」
「 柴垣のシマ・・・ 代々木か 」
「 ああ、そうだよ! 元、オレのオヤジの・・ 代々から、あったシマだ! 」
 両拳を握り締め、声を荒げながら、矢野は言った。
 ・・・因縁だ。
 弱肉強食の、この世界の事は、先に斉田が言った通り、矢野も理解しているであろう。 例え、策略にはめられ、財産を失ったとしても、己に、知識管理と力が無かったと言われれば致し方無い。
 だが今回、その『 古傷 』に、甘い誘惑が加味されたのだ。 うまくいけば、失ったモノを取り返す事が出来る。 更に、復讐という観点からも、優越的な気分になれる・・・ 心理を突いた、有効的な策略だ。 矢野にしてみれば、誘惑的でもある。
 なつきは、事態を見守りつつ、ふと思った。
( 加賀さんは、全てを計算の上で、矢野さんに接触したのね・・・! )
 斉田、曰く、『 策略家 』である。 ・・人の心を操る策略ほど、緻密なものはない。 ただ一点、祥子の存在が、誤算であったと思われる。 また意外にも、柴垣が女性に対して純粋であった事・・・ これも、今回の結果には、加味されるべき要点であろう。
 矢野は続けた。
「 シマも、家も、財産も・・・ 全てを取り上げられたモンの気持ちなんざ、アンタにゃ、分からねえだろうっ? オヤジは、酒びたりになり、くたばっちまいやがった・・! オフクロは、オレら兄弟3人を食わす為、必死で働いてよ・・・ 結果、過労で死んじまったんだ・・! 」
 矢野の目には、かすかな外灯の明るさに反射し、小さく光るものがあった。
 斉田が、静かに言った。
「 ・・・矢野。 てめえだけが苦労の人生、経験して来てんじゃねえ。 ここにいるモン全員が、何かしかの苦労、背負ってんだ 」
 なつきは、室外機に掛けた手を、ぎゅっと握った。
 確かに、なつきにも、普通ではない過去がある。 しかし・・・ 矢野や、不幸な死を迎えた祥子に比べたら、どうであろうか。 自分には、帰る家がある。 両親も健在だ。 経済的には、何一つ不自由はない。
( ・・・・・ )
 それぞれの、人の価値観こそ、違いはあるにせよ、普通の生活を過ごすにあたり、どんな弊害があると言うのか・・・? 家を飛び出し、あえて苦労・屈辱を義務とする生活・・・ それは、いつか報われる日が来るのだろうか。 その未来は・・・?
 斉田の言葉は、なつきの心に深く響いた。
 思わず見上げた夜空に、三日月が浮かんでいるのが見える。 揺れる自分の心を見透かす『 陰の目 』・・・ 今夜の『 目 』は、なつきの心を、静かに諭すように感じられる・・・
「 矢野オォッ! 」
 突然、聞き覚えのある声が、矢野を呼んだ。
 室外機の向こう側に、人影を見出す、なつき。
( 柴垣さん・・・! )
 何と、柴垣である。 どこから現れたのか・・ いや、つけていたのかもしれない・・・! 黒っぽいスーツに、カッターシャツの胸をはだけ、仁王立ちだ。 暗くて分かり難いが、その表情には、ハッキリと殺気が感じられた。 斉田が振り向き、驚きの表情をすると共に、矢野の前に、立ちはだかるようにして言った。
「 柴垣・・・! そこを動くな 」
 しかし、斉田の言葉を無視し、ゆっくりと矢野に歩み寄る、柴垣。 その殺意的な視線は、目の前にいる斉田を通り抜け、後にいる矢野に突き刺さっているようだ。 ミツヒロたち、他の男たちが身構えた。
「 手を出すんじゃねえッ・・! いいか、何もするなっ・・! 」
 斉田が、他の男たちを制する。
 柴垣は、斉田の目の前まで来ると、立ち止まった。 柴垣を見据える、斉田。
 やがて斉田が、静かに言った。
「 ・・久し振りじゃねえか、柴垣。 矢野に用か? 」
 柴垣の背中が、泣いている・・・ なつきは、そう感じた。 正面からは、歯向かう者を全て蹴散らす、憎悪にも似た、修羅のような気迫を発しながらも、背中からは、愛する者を失った哀惜の情に満ちている・・・
( 柴垣さん・・・ )
 なつきには、柴垣の心情が、手に取るように理解出来た。 人生の裏街道から、陽の当たる暮らしへ転化しようとしていた柴垣。 その、きっかけを作ってくれた祥子を、永遠に奪われたのだ。 今、目の前にいる矢野に・・・! 柴垣の目は、まさに、鬼畜のような目をしている事だろう。
 柴垣は答えた。
「 てめえら・・・ 今すぐ、オレの前から消えろ・・・! 」
 斉田は、柴垣を見据え返しながら言った。
「 そうは、いかねえ・・! 矢野は、まだ緑風会の構成員だ。 この意味は、分かるな・・? この後の処置は、叔父貴が決める。 今日の所は、大人しく収めてくれないか? 」
 しばらく無言の後、柴垣は答えた。
「 ・・・戦争になろうがなろまいが、オレには関係ねえ・・・ どけや・・・! 」
 スーツの内側に右手を差し入れる、柴垣。 出したその手には、短刀が握り締められていた・・・! 一斉に身構える、男たち。
 斉田が叫んだ。
「 オタつくんじゃねえ、お前らッ! 下がってろッ・・! 」
 やがて、斉田を睨みながら、柴垣は、ゆっくりと鞘を抜いた。 カコン、と乾いた音が響き、鞘が落ちる。 暗闇に、三日月の淡い明かりが反射し、抜き身が鋭く輝いた・・・

16、生と死の狭間にて

16、生と死の狭間にて


「 光りモンを収めろ、柴垣! おめえとは・・ やり合いたくねえっ・・・! 」
 斉田が、搾り出したような声で叫んだ。
 短刀を右手に構え、じっと斉田を見据える柴垣。 他の男たちも、何か動きがあれば斉田を守ろうとしてか、身構えている。 行き詰まる、時・・・!
 柴垣が、フッと小さく笑い、静かに言った。
「 てめえは、いいヤツだ、斉田・・・ 」
 瞬間、抜き身の光が、闇を切り裂く。 続いて、二度・三度。 ピュン、ピュン、と言う風切り音が、小さく聞こえる。 なつきは、両手で口を覆った。
「 やめろ、柴垣ッ! 」
 制止を聞かず、柴垣は、短刀を振り回し続けた。
 切っ先が、斉田のスーツの端を切り裂く。 寸前で、刃を避ける斉田。 斉田の陰に隠れていた矢野が、柴垣の前に露になった。
「 し、柴垣・・・! 」
 矢野の顔が、硬直する。
 ゆっくりと短刀を構え直し、柴垣は、矢野を見据えた。 矢野は、蛇に睨まれたカエルのように動かない。 恐怖に怯え、小刻みに唇を震わせている。 柴垣が振り被り、矢野に切り付けようとした時、斉田が叫んだ。
「 てめえは、ここで終わる男じゃねえッ! 」
 柴垣の動きが、止まった。
 しばらく固まったように動かず、やがてゆっくりと短刀を、右脇に構え直した。 その切っ先は、矢野の胸を捕らえたままだ。 顎をしゃくり上げ、硬直したままの矢野・・・! 恐怖に怯えた矢野の表情を、鋭く見据えたまま、後ろにいる斉田に、柴垣は言った。
「 ・・・終わらなきゃ・・・ どうなるってんだ・・・? 」
 その言葉には、重い響きがあった。 シマや地位、金よりも大切なモノを欲している・・・ そんな意味合いが織り込まれているように感じられた。
「 ・・・・・ 」
 言ってはみたものの、斉田は、柴垣を満足させるような返答が返せない自分に気付いた。 何も答えれられない。 逆に、沈黙してしまった。
 柴垣が言った。
「 金では、買えねえモンがあるって事を、あいつは気付かせてくれたんだ・・・ 答えろ、斉田・・! オレを、納得させてみろ! 」
 顎をしゃくったままの矢野の額から、汗が滴り落ちる。 恐怖に慄き、上ずった声で、矢野は言った。
「 し・・ 柴垣・・・! オレは・・・ 」
「 てめえは、黙ってろッ! 」
 矢野を制する、柴垣。
 茶色のメガネの中心を右手で押し上げ、斉田は、静かに答えた。
「 オレは、組の飼い犬だ・・・ おめえが、何を望もうと・・ オレは、組の為に動くしかねえ・・・! 」
 スーツの内から拳銃を出し、撃鉄を起こす斉田。 コッキングする、チキッと言う音に気付き、柴垣は、少し後を振り返るとニヤリと笑い、言った。
「 ・・・やっぱ・・・ てめえは、いいヤツだ・・・ 」
 柴垣は、短刀を構えたまま、矢野の体に体当たりした。
「 うぐぉっ・・! 」
 矢野の体が、後にあったビルの壁に押さえ付けられる。 尚も、柴垣は、その刃で矢野の体をえぐった。 激痛に耐えかね、柴垣の背中を掻きむしる、矢野。 スーツが裂け、シャツがはだける・・・! そして、1発の乾いた銃声が、牡丹の花に散った。
「 ・・・祥・・ 子・・・! 」
 柴垣は、がくりと両膝を地面に突き、矢野に覆い被さるように、ゆっくりと崩れ落ちた。
 辺りに硝煙の匂いが立ち込め、外灯の薄明かりに、わずかな煙が棚引いている。 息を呑んだような、一時の静寂が周りを包み、斉田の指示で成り行きを見守っていた男たちも、微動だにしない。 スキンヘッドの男が、小さく言った。
「 ・・さ、斉田の兄貴・・・! 」
 斉田は、銃口から煙が立ち上がる拳銃をゆっくりと下し、大きな息を吐くと、言った。
「 車を回せ・・・! 急げっ! 」
 斉田の指示に、男たちは、弾かれたように駐車場へと走り出した。
 1人、残った斉田。
 拳銃を片手に持ったまま、折り重なって倒れている矢野と柴垣の側に、片膝を突いてしゃがみ込む。
 ・・・赤く染まる、牡丹・・・
 斉田はスーツを脱ぎ、その真紅の花に掛けると、しばらく間を置き、小さく呟いた。
「 ゆっくりと、話も出来なかったな・・・ 柴垣よ 」
 1人の足音が、近付いて来る。
 加賀だ・・・!
 斉田は、チラリと加賀を見た。 しゃがみ込んでいる斉田の前まで来て、立ち止まった加賀。 スラックスのポケットに両手を入れたまま、じっと、スーツを掛けられた2人を見つめている。
 やがて、加賀は言った。
「 有望株の若手に、経験豊かな中堅・・・ お互い、駒を1つ、失ったな 」
 加賀の方を見やる、斉田。 何か、言いた気であったが、何も言わず、視線を戻した。
 加賀が続けた。
「 戦争は、お互いに不益だ・・・ 今夜は、何も見なかった。 何も知らなかった・・ そうしておこう 」
 その言葉に、斉田は再び加賀を見やったが、すぐに、動かなくなった2人の方に視線を戻し、吐き捨てるように言った。
「 ・・・勝手にしやがれ 」


 相殺された、2つの命・・・
 一部始終を目撃していたなつきは、しばらく呆然としていた。
 やがて、斉田に、車でマンションまで送ってもらう事になった、なつき。 その間も、無言でいた。 斉田も、何も話し掛けなかったが・・・
( また、月が見てる )
 車の窓からは、相変わらず、細い三日月が見えた。 愚かにも、果てない『 共食い 』を繰り広げる人間たちを、月が見ている。 じっと。 ただ、じっと・・・
( いいわね、アンタは。 そこでそうして、あたしたちを見ているだけなんだもん・・・ )
 薄く黄色が掛った色で、夜空に浮かぶ、三日月。 こうして、千夜一夜のように繰り広げられて来た人間の争いを、一体、どれだけ見て来たのだろうか・・・ 最後の願いを掛けた者もあろう。 志半ばにして倒れ、最後に目に映した者もいよう・・・
 ただ、夜空にある、月。
 なつきは、薄黄色の輪郭を通し、誰かが語り掛けて来ているような雰囲気を感じた。
( 誰? あたしに語りかけてくるのは・・・ それとも、ただ見ているだけなの? いつものように・・・ )
 月に問い掛ける、なつき。 しかし、それはある意味、自分自身への問い掛けと等しかった。 誰かと、話しがしたい。疑問に、答えてくれなくてもいい。 優しく自分を見守りつつ、じっと話を聞いて欲しい・・・
 なつきの心は、消えた3つの命の狭間でも、揺れ動いていた。
 ・・・もし今、自分が死んだなら・・・
 両親は、悲しむだろうか? 久方、会っていない級友たちは、どう思うのだろうか? 眞由美や、斉田たちは・・・? なつきの心に、正岡の顔が浮かぶ。
( 修一郎さん・・・ )
 もし、正岡に『 裏 』の顔があったら・・・
 車の、窓ガラス越しに揺れるネオンに重なり、正岡の笑顔が、浮かんでは消えて行く。 なつきは、正岡に会いたいと思った。 正岡が、なつきの事を、どう思っていようと構わない。 とにかく今、自分がいる世界とは、無関係な人間に会いたかったのだ。 しかし、現実には、なつきの周りに存在するのは、夜の世界で生きる者たちと、裏の顔を持つ者たち・・・
 実際、『 人殺し 』に送られている、自分。
 これも、何という現実だろう。 だが、『 殺人者 』という認識は、なつき自身、斉田には感じられなかった。 ただ、『 義務 』を果たしただけの、1組員。 そう感じられた。
( あたし・・・ 感覚が、マヒしちゃったのかなぁ・・・ )
 義と偽り。 夢と未来。 愛・現実・・・
 色んな情報が錯綜し、色んな経験が想い巡り、なつきは分からなくなった。 自分の指標・夢・希望・・・ 今は、行き着く所さえ見出せない。

 マンションの玄関前で、車から降りた、なつき。
 車の窓を開け、斉田は言った。
「 全て、忘れろ 」
 ・・・人の命を、忘れろと言うのか。 存在の記憶も、声も顔も・・・ 彼らの生きた意味は、何だったのか・・・? 彼らとの巡り会いは、なつきの人生に不要であったのか・・・?
 ヨネの言葉が、なつきの脳裏を横切った。
『 ワシの弟は、ナンの為に生まれて来たんかのぅ・・・ 』
 走り去る、斉田の車の、赤いテールランプ。 なつきの脳裏に、真紅に染まった牡丹の花がシンクロする。
『 あたしの彼さぁ・・・ 背中に、牡丹が彫ってあるの 』
 ヨネの言葉に替わり、なつきの耳に甦る、祥子の声。
( 祥子さん・・・ )
 目から一筋の涙が溢れ、頬を伝った。やるせない気分が、なつきの心を包む。 今は・・・ 誰 かに会いたい・・・ 誰かに甘えたい・・・!
 そんな心境になる、なつきであった。

17、夜空に彷徨うモノ

17、夜空に彷徨うモノ


 斉田の車を見送った後も、しばらく、その場に立ち尽くしていた、なつき。
 ふいに、後から声がした。
「 なつきちゃん 」
 振り返ると、パジャマ姿の眞由美がいる。
 なつきは、慌てて手の甲で涙を拭いた。 それを見とがめた眞由美が、心配そうに尋ねた。
「 どうしたの・・・? 斉田さんに、ひどいコト、言われたの? 」
「 あ、ううん。 目に、ゴミが入っちゃって・・・ 」
 言い訳をする、なつき。
「 眞由美さんこそ・・ こんな時間まで、どうしたの? 」
「 何か、眠れなくってね。 最近、暑いじゃん? 窓、開けてボンヤリしてたら、なつきちゃんがいたから 」
 眞由美は、屈託なく、笑って見せた。 その笑顔に、少し救われるような気持ちになる、なつき。 眞由美は、何となく、なつきの心情を察したらしい。 植え込み脇のベンチを指差し、言った。
「 少し、話そうか 」
「 はい 」

 時折り吹く、かすかな夜風が心地良い。 足元の芝も、いつの間にか、青々とした色となっている。 芽吹く、命の営み・・・
 今夜、2つの命が失われた。 それも、なつきの目の前で、だ。 命の儚さを、感じずにはいられない・・・
 眞由美は言った。
「 帰りたくなったの? 」
 なつきの心に、優しく響く眞由美の問い。 思わず頷いてしまいそうな心境を押さえ、なつきは、自分に問い掛けた。
( 本当は・・・ 帰りたいの・・・? )
 帰りたくないのであれば、即答が出るはずである。 それが出ない・・ いや、その答えを出そうとしない何かが、心の中にいた。
 自由を謳歌出来る現状。 1人で生きていると言う自負・・・
( それが、何だって言うの? )
 もう1人の自分が、第2の自分に詰め寄る。 どちらが、本当の自分なのだろう。 今は、認識する手段すら思いつかない。 特に、今日は・・・
 なつきは、しばらく間を置いてから答えた。
「 ・・・分かんない 」
「 そう 」
 眞由美は、どうなのだろうか。 気丈そうな眞由美でも、そう思う事があるのだろうか?
 なつきは、尋ねてみた。
「 眞由美さんは、どうなんですか? 帰りたいって思うコト、あります? 」
 クスっと笑いながら、眞由美は答えた。
「 あるよ 」
 きっぱりと答えた、眞由美。
「 じゃ、どうして帰らないんですか? 」
「 キッカケかなぁ・・・ 」
「 きっかけ? 」
「 そう 」
 ベンチの上で両膝を抱え、笑いながら、眞由美は答えて見せた。
 ・・・きっかけ・・・
 今のなつきにとって、それは、現状を打破してくれる天使のような存在に思えた。 ある意味、他力本願なイメージを受けるが、姉的な存在である眞由美から発せられた事が、なつきの心には、事の他、大きく響いていた。
「 きっかけがあったら・・ 帰っちゃうんですか? 」
 不安そうな顔で聞く、なつき。
 眞由美は、終始、笑顔のままで答える。
「 なってみなければ、分かんないわ。 でも・・・ う~ん・・ やっぱ、分かんない 」
「 ・・・・・ 」
 誰でも、そう答えるのかもしれない。 その『 きっかけ 』は、いつ、どんなカタチで眼前に現れるか、誰も知る良しなどないのだ。
 全ては、己が判断する・・・
 自身で納得し、自身の足で『 帰る 』のだ。 そうでなければ、すぐに再び、戻って来る事になるであろう。 そう・・ 眞由美は、過去にそれを経験している。 ある意味、悟っている眞由美だからこそ、笑って答えられるのだ。
 ふと、眞由美が、何かに気付いたように言った。
「 あ・・・ そうそう。 なつきちゃん、カオリって子、知ってる? 」
「 え? カオリ・・・? 」
 突然に話を振られ、なつきは一瞬、何の事か分からなくなった。 だが、すぐに理解した。 多分、あのカオリの事だ。 家出したなつきに、何かと面倒を見てくれたり、アドバイスをくれたカオリ・・・ しばらく前に会った時は、母親が入院したとかで、家に帰るかどうか悩んでいた記憶がある。
 なつきは答えた。
「 あ・・ 多分、前にいたシマで世話になっていた友達です。 センパイってゆ~か・・・ 」
「 ふ~ん、そうなんだ。 昨日ね、客待ちをしていた若菜に、聞いて来たらしいの。 『 なつき、って子、知ってますか? 』って 」
「 カオリが・・・ 」
 何だか、今となっては懐かしい『 友 』の名である。
 眞由美は、続けた。
「 その子が言うには、母親は退院して、自分は、定時制に通う事にしたんだって。 なつきちゃんに、そう言えば分かるから、って、言伝を頼まれたらしいの 」
 どうやら、カオリは、普通の生活に復帰したようである。 もう、街角に立つ事はないだろう・・・
( 久し振りに、会ってみたいケド・・・ もう、カオリは、あたしには会わない方がいいかも )
 カオリは、表社会に復帰したのだ。 生活が変われば、考えも変わる。 例え、友人であったとしても、暮らす世界が違えば、その思考も自ずと疎通されなくなるものだ。
( カオリとは、気の合った仲間、と言う記憶のままでいたい )
 なつきは、そう思った。
「 前のシマの、友達なのね? いいわね、友達って 」
 優しく微笑みながら言う眞由美。 眞由美には、友達はいないのだろうか。
 なつきは、尋ねてみた。
「 眞由美さんには、いないんですか? 友達 」
 両膝を抱えたまま夜空を仰ぎ、遠くを見つめるような目をしながら、眞由美は答えた。
「 ・・・いるよ? 若菜とか、なつきちゃんとか・・・ ヨネさんも、そうね 」
 自分の名が挙げられた事に、少し嬉しくなる、なつき。
 天を仰いだままの、眞由美の横顔を見つめながら、なつきは言った。
「 この世界・・ 辛い事が、いっぱいだけど・・・ あたし、眞由美さんたちに出会えて、良かったと思います 」
 眞由美は、天を仰いだまま、視線だけを悪戯っぽくなつきに向け、言った。
「 あら、光栄だわ。 ナニも出ないわよ? 」
 クスッと笑って見せる、眞由美。
 なつきも、小さく笑って応えると、言った。
「 みんな、それぞれに色んな過去や性格があるけど・・・ 基本的には、あたしと同じなんですね 」
「 どう同じなの? 」
 顔をなつきの方に向け、微笑みながら尋ねる、眞由美。
「 寂しがり屋。 ・・あ、ごめんなさい・・・! 」
 眞由美は笑った。
「 そう。 そうね・・・ 寂しがり屋なのよ、あたしたち。 それを隠す為に、強がってみたり、あえて何でもない顔をしてみたり・・・ どちらかなのよね。 なつきちゃん・・ よく見てんだ 」
「 あ、いえ、そんな・・・ 」
 眞由美は、再び、夜空を仰ぐと真剣な表情になり、やがて呟くように言った。
「 ・・・寂しいから、逃げ出すのよね・・・ 」
「 眞由美さん・・・ 」
 逃げ出しても、現実からは逃げられない。 例え、今の状況からは開放されても、違う現実が待ち構えているのだ。 それは、逃げ出した現実より、更に過酷な現実になる場合もある。
 小さな自由の代償・・・
 人によっては、虚像とも言えるであろうフリーダムに、価値を見出せるかどうかの判断は、自身が下すのだ。 その判断と、その後の結果の良し悪しもまた、人それぞれである。
 ・・・カオリは、家を飛び出し、結果的には家に帰った。 きっかけは、母親の存在・・・
 嫌っていた存在ではあるが、病に倒れたのを機に、その存在の大切さに気付いたのだ。 結果的には、良かったと言えるのかもしれない。 その判定も、人それぞれだろう。
( あたしは、どうなんだろうか? )
 自分を犯した父親・・・ もし、事故や病に倒れ、明日をも知れない状況に陥ったら・・・
( 今は・・・ 分からない )
 なつきは、そう思った。
 冷静に考えてみると、家に帰りたいと言う気持ちの半分は、母親に会いたいと言う気持ちである。 父親への懐古ではない。
 だが実際、酒が入っていない時の父親は、申し分の無い人格であった。 しばらく会っていないと、人の記憶は、良い所だけの記憶が増幅されるものである。 なつきの心に、父親に会いたいと思う領域が、わずかに存在するのもまた、事実であった。
 眞由美が、夜空を扇いだまま言った。
「 あんな、クソ親でもね・・ 会いたいと思う時があるんだ、あたし・・・ 」
 自分を探していないと思われる親の所へは、よほどの『 きっかけ 』がない限り、自分の意志で帰る事は出来ないであろう。 眞由美は『 帰る 』時が、まだまだ来ない・・ と、自身の中で確信しているのだ。
 家を出た者は、皆、心のどこかで『 帰る 』日を夢見ているのかもしれない。

 夜風に、眞由美の髪が揺れている・・・
 そよぐ髪を、右手で梳かしながら、眞由美は続けた。
「 ・・・でも、帰る時は、一言、言ってね。 あたしや若菜も・・ 絶対、黙っては行かないから 」
 眞由美は、なつきに帰る時期が来ている、と思っているのだろうか。 半分は認めたくない、なつき。 確かに、心の中には、家に帰りたい気持ちがあるのは否めないのだが・・・

 今夜、目の前で起こった惨劇・・・
 なつきの心に、深く傷を残しながらも、何事も無かったの如く、ただ静かに、夜は更けて行った・・・

18、真昼の月

18、真昼の月


「 修一郎さん、久し振り! 」
 明るい初夏の日差しの中、なつきは、待ち合わせ場所のハチ公前に現れた正岡に、声を掛けた。
「 やあ、お待たせ 」
 笑顔で応える正岡。 もう一人、男性を連れている。 なつきには記憶に無い人物である。
( 友達なのかな? 修一郎さん、何も言っていなかったケド )
 友人にしては、年齢が離れている。 チャコールグレーのスーツを着込み、手には、黒いブリーフケースを持っていた。 髪には、白髪が混じっており、一見、サラリーマンのように見える。
( 店舗の、関係者なのかな? )
 怪訝そうな、なつきの表情に、正岡は言った。
「 ・・あ、紹介するよ。 こちら、村井さん。 なつきちゃんに用事があるそうだ 」
「 ? 」
 なつきにとって、おそらく初対面の男性である。 過去の記憶を探したが、この男性に会った覚えはない。 しかし、なつきに所用があるようだ。 男性は、なつきを知っているらしい。
「 ・・・なつきです。 あの・・ どちら様でしたでしょうか? 」
 なつきは、相手の表情をうかがうように挨拶をした。
 はたして男性は、名刺を出しながら言った。
「 初めまして。 村井と申します 」
 受け取った名刺の肩書きには、『 有限会社 トラスト代表 村井 慎二 』とある。 住所は、新宿区。 だが、業種や職種の明記が無い。
 あまり名刺など貰った事が無いなつきは、困惑した。
( 名刺って、会社の職種なんかが、分かるように印刷してあるものじゃないのかなぁ・・・? )
 あえて、職種を伏せてあるのかもしれない。 しかし、そんな職種の仕事とは・・・?
 なつきは、困惑の表情を隠し切れないでいた。 そもそも、正岡が連れて来ている事に、疑問が湧く。 なつきにとって今日は、正岡との『 デートの日 』、と認識していたからである。 出来れば、2人きりで時間を過ごしたかった・・・
 少々、不満気な、なつき。 正岡にとって、なつきと言う人物の存在は、やはり『 ただの知人 』としての認識しかないのだろうか。
( あたしの・・ 一方的な、片思いだしなぁ・・・ ) 
 なつきは少し、寂しさを覚えた。
 正岡が言った。
「 村井さん、実はね、探偵なんだ 」
「 え・・・? 」
 車のクラクションが、ビルの壁に、長く尾を引いて鳴った。


「 お待たせ致しました 」
 ウエイトレスが、アイスコーヒー2つと、レモンスカッシュをトレイに乗せてやって来た。
「 有難う 」
 正岡が、軽くお辞儀をしながら答える。
 運ばれて来た注文を、なつき・村井の前に置く、正岡。 なつきが、小さくお辞儀をした。
「 すみませんな 」
 村井が、そう言いながら、フレッシュをグラスに入れた。
 路地を入った所にある、小さな喫茶店に入った3人。 なつきは、切り出した。
「 村井さん・・ でしたっけ? あたしに、用事とは? 」
 村井は、コーヒーに一口、口をつけるとグラスを置き、言った。
「 あなたは、新堂 なつきさん・・・ 間違い無いですね? 」
 小さく頷いて答える、なつき。
 村井は、上着の内ポケットから1枚の写真を出し、テーブルに置いた。
「 ・・・! 」
 その写真には、見覚えがあった。 確か、今年の正月、初詣に行った神社で撮った写真だ。 鳥居脇に立つ、なつきの横には、優しく微笑む母親が立っている。 撮影したのは、デジカメを買ったばかりの父親・・・
「 ・・・・・ 」
 どうしてこの写真を、村井が持っているのか・・・?
 なつきは、直感した。 母親か父親が、村井に、なつきの行方を依頼したのだ。
「 ・・・・・ 」
 写真を見つめながら、沈黙するなつき。
 次の疑問が、なつきの脳裏に展開する。 なぜ正岡が、村井を連れて来たのか・・・? 更に、最悪の予想が連想された。
( あたしの『 正体 』が、修一郎さんにバレた・・・! )
 どこで、どう正岡と村井が、つながったのかは定かではない。 しかし、最後に連想された、自分の素性が正岡に知れたかも知れない、と言う事実だけはどうしても避けたい。
 胸の鼓動が、急速に高まる。
 やがて、事実を肯定するが如く、村井が言った。
「 お父さんが、探しています 」
「 ・・・・・ 」
 やはり、なつきの感は当たった。 自分が家出少女だという事も、正岡には知れた事であろう。 だからこそ、正岡が連れて来たのだ。
( 修一郎さん・・・! )
 正岡の顔を見られない、なつき。 写真を見つめたまま、無言で、うつむいている。
 村井は続けた。
「 先月の上旬、お父さんから依頼を受けました。 実際、行方調査はTVの特集でも、よくやっていますが、そう簡単に見つかるものではありません。 約、1ヶ月間、カンを頼りに新宿・渋谷・原宿を中心に、聞き込みを続けました 」
 正岡が言った。
「 びっくりしたよ。 新宿前で、アクセを売っている知人の手伝いをしててさ。 突然、村井さんが知人に写真を見せて、この子知らないか? って聞いて来たんだ。 僕が、写真を見せてもらったら、なつきちゃんが写っててさ・・・! 」
 偶然とは、こんなものなのだろう。 正岡の知人の所へ辿り付いた、村井の努力も然る事ながら、そこに正岡が居合わせたのは、まさに偶然の賜物である。
 ・・・しかし、これで正岡が、なつきの真の姿を知った事は確実となった。 恐れていた事態が、現実の事となったようである。 正岡は、どう思っているのであろうか。 なつきは、正岡の気持ちが、真っ先に気になった。
( あたしから・・ あたしから離れて行かないで、修一郎さん・・・! )
 先日、加賀の素性を知り、心許せる相手と思っていた知人を1人、失ったばかりである。 もっとも、なつきの方が、一方的に想いを寄せていたのではあったが・・・
 なつきは、蚊の鳴くような声で言った。
「 ・・・ごめんなさい、修一郎さん・・・! あ・・ あたし・・・ 」
 正岡が、なつきの言葉を制するようにして答える。
「 いいんだ、なつきちゃん。 イヤな事は、誰だって言いたくないモンだ。 大切なのは、未来だよ? これからどうするか、だ 」
 優しい正岡の言葉が、なつきの心に触れる。 その言葉からは、なつきに対する思いやりが、確かに感じられた。
( ああ・・ この人は、あたしを裏切らない・・・! あたしが、想っている通りの人・・・! )
 大粒の涙が、ポロポロとなつきの頬を伝い、テーブルに落ちた。
「 あたし・・・ あたし・・・! 」
 ・・・正岡になら、良い。 許されるのであれば、全てを知り、理解して欲しい・・・! なつきは、そう思った。
 肩をしゃくり上げ、声を殺して泣き始める、なつき。
 村井が言った。
「 全ての内容は、お聞きしていませんが・・・ お父さんは、なつきさんに随分と酷い事をされていたようですね。 酔うと見境がつかなくなる事に関しては、お父さんご自身も真剣に悩んでいた事だそうで・・・ 精神科の医者にもカウンセリングに行き、指導を受けたそうです。 なつきさんが失踪されてから、お父さんは、お酒は辞められました。 今までを反省し、お酒に関しては今後、祝いの席でも一切飲まない、とおっしゃっています 」
 なつきは、肩を震わせ、村井の話しをじっと聞いている。
 村井は続けた。
「 商売柄、この渋谷で、どうやって半年間を生活していたかは、私には想像がつきます。でも、報告書には記載しません。 友人・知人宅を泊まり歩いていた、とでもしておきましょう。 本当は、報告書の捏造は、厳禁なんですがね・・・ 」
 正岡に苦笑して見せる、村井。
 なつきの前に置いてある、レモンスカッシュのグラスの中の氷が、カランと音を立てた。一面に、汗をかいたようなグラス。 なつきの心を投影するかの如く、ゆっくりと一筋の水滴が伝って行く。
 少し顔を上げ、やがてなつきは、涙で上ずった声で尋ねた。
「 本当に、お父さんは・・・ あたしを探しているのですか・・・?」
 村井は、微笑みながら答えた。
「 だからこそ、私は、ここにいるのですよ? 」
 ・・・自分を虐待した、父親。 自分を犯した、父親・・・
 だが、そんな父親でも、なつきにとっては、この世でただ1人の父親である。
『 親がいる事を、羨ましく思う事もあるケドね 』
 いつか、若菜が言っていた言葉が、なつきの脳裏に甦る。
 なつきは、消え入りそうな声で言った。
「 でも・・ 今のあたしには・・・ 父親の存在が、分かんない・・・ 」
 レモンスカッシュの氷が動き、また小さな音を立てた。
 手に持っていたグラスをテーブルに置き、正岡は言った。
「 父親じゃないよ。 『 家族 』だよ。 家族は、一緒に暮らすモンだ。 例え離れて暮らしていても、いつでも、連絡が取れる状態でなきゃ 」
 村井が追伸する。
「 お父さんには、なつきさんの現住所は伏せておきます。 『 心の整理が付いたら帰って来る 』と言っていた、と申し上げておきましょう。 多感な時期の娘さんですから、自身で納得して頂いた方が良いかと思います。 お父さんには、探し出して連れ帰る事の無いよう、ご提案しておきますから 」
「 ・・・・・ 」
 無言のなつき。
 村井は、確認するように尋ねた。
「 また行方を眩ます、なんて事はしないで下さいね? ・・約束、して頂けますか? 」
 更に視線を下げ、やがて小さく頷く、なつき。

 テーブル横の窓ガラスからは、ビルの横に見える空に、真昼の月が見えていた・・・

19、月と涙と、白いハンカチと

19、月と涙と、白いハンカチと


 村井が帰った後、2人でテーブルに残った正岡となつき。
「 ・・温くなっちゃうよ? 」
 汗をかいたグラスを指差し、正岡は言った。
 なつきは、無言で、ストローの包み紙を開封し、グラスに入れた。 すっかり解けた小さな氷が、グラスの中で、かすかな音を立てる。
 なつきは、俯いたまま、か細く言った。
「 今まで、騙していてごめんなさい・・・ 」
 謝って済む事とは思えない。 加賀に対して、なつきが味わった事と同じような仕打ちを、正岡に対して、したようなものである。
 小さなため息の後、正岡は言った。
「 ・・正直、驚いたケドね・・・ まあ、東京は、色んな人がいる・・・ それぞれ、過去に何かを背負って出て来た人だっているだろうし 」
 グラスを持ちかけ、コーヒーを飲み干した事に気付いた正岡。 代わりに、水の入ったコップを持ち、一口飲む。
 なつきは、視線を落としたまま、尋ねた。
「 もう・・ 会っては・・・ くれないのでしょうか・・・? 」
「 どうして? 」
「 だって・・ 家出少女なんだもん 」
 正岡は、笑いながら言った。
「 家出少女と会ったらいけない、なんて法律、無いよ? 」
「 だって、あたし・・・ 」
 そこまで言って、なつきは、口をつぐんだ。
「 だって・・ 何だい? 」
 ・・・それは、言えない。 いや、例え正岡が知っていたとしても、なつき自身の口からは言えない。
「 夜のオンナ・・ を、していた事かい? 」
 他の客に聞こえないよう、幾分、小さな声で言った正岡。 なつきは、弾かれたように顔を上げ、頬を紅潮させながら、正岡を見た。
「 修一郎さん・・・! 」
 正岡は、優しく微笑みながら言った。
「 強い人なんだな、なつきちゃんは 」
「 そんな・・・ 」
 再び、コップの水を飲みながら、正岡は言った。
「 生きる糧の大切さを知っている人だよ、なつきちゃんは。 ・・ま、奨励出来る生活方法じゃないけどね・・・ 」
「 ・・・・・ 」
 生きていく為には、手段が無かった事を、正岡は理解してくれているようだ。 もっとも、なつきが選択したその手段は、最善なものであったとは、決して言えない事も示唆しているが・・・
 また目が潤んで来た、なつき。
( こんなあたしの存在を、認めてくれている・・・ )
 同情などではなく、一個人として、その存在を認めてくれている正岡の優しさに、なつきは嬉しくなった。
 正岡の顔が、涙でくしゃくしゃになる。 なつきの頬を、再び、大粒の涙が伝った。 だが、不思議な事に、泣けては来ない。 ただ、堰を切ったように、涙が溢れて止まらないのだ。
 正岡が、幾分、体をよじり、ジーンズの後ポケットから、ハンカチを出した。 テーブルの上に手を伸ばし、なつきの頬を拭う。
 洗剤の香り・・・
 正岡の、ラフな風体からは想像が付かないような、真っ白なハンカチ。 頬に触れる感触が、限り無く優しい・・・
( 修一郎さん・・・ )
 なつきは、涙を拭いてもらいながら、じっと、正岡の顔を見つめた。
 ボサボサの髪、少し細い目、口の右脇にある小さなホクロ・・・
 後から後から、涙が溢れて来る・・・
 正岡が言った。
「 そんなに涙を出すと、のどが渇くよ? 」
「 ・・・・・ 」
 少し間を置いて、小さく吹き出す、なつき。 上ずった声で言った。
「 そんなコト・・・ 聞いた事がないですよ? 」
「 やっぱり? 」
 正岡も笑った。 だが、すぐに真面目な顔に戻り、尋ねた。
「 いつまで、こんな生活を続けるつもりだい? 」
「 ・・・・・ 」
 若い男女4・5人が、陽気に喋りながら、なつきたちの横のテーブルに座った。
 正岡は、チラリと彼らを見やり、続ける。
「 僕の店を手伝ってくれないか? 」
「 修一郎さん・・・ 」
「 まず、家に帰るんだ。 ご両親には、とりあえず謝らなきゃいけないよ? どんな生活をしていたかを話す必要はない。 身の周りが落ち着いたら、店においで 」
「 修一郎・・ さん・・・! 」
 更に、涙が頬を伝う。
 なつきの肩が、激しく震える。 隣のテーブルに座った男女たちも、なつきの様子に気付いたようだ。 チラチラと、なつきの方を見ている。
「 場所を変えようよ 」
 伝票を取り、なつきの手を引いて、正岡は席を立った。

 初夏の木漏れ日が、木々の間からこぼれている。 新緑の隙間を行き交う小鳥たちのさえずりが、心地良い。
 少し、ペンキが剥げかかった木製のベンチ。 その脇に設置してある水飲み用蛇口の窪みに溜まった水に、小鳥たちが、くちばしをつけている。 雑居ビルに囲まれた、小さな公園・・・ こんな都会の中でも、小鳥たちは生活しているのだ。 数羽の鳩が、地面をついばんでいる。

「 まあ、気が向かないのなら、無理にとは言わないけど・・・ 」
 正岡は、ベンチに腰掛けるとタバコを出し、火を付けながら言った。
 ふうっと煙を出し、続ける。
「 今の姿は、なつきちゃんらしくないな、って思ってね。 僕の店でよかったら、手伝って欲しいな 」
 正岡は、ベンチに腰掛けるよう、なつきに手招きした。
「 ・・・・・ 」
 無言のまま、正岡の横に座る、なつき。
 正岡から渡されたハンカチを両手で持って膝の上に置き、それを見つめながら、小さな声で尋ねた。
「 今のままでも・・・ 会ってくれますか・・・? 」
「 勿論だよ 」
 なつきの方を向き、笑顔で答える正岡。
 再び、タバコを口に持って行きながら続けた。
「 東京に出て来て、思ったよ。 ホント、色んな人がいる。 みんな、必死で生きてるんだ。 様々な方法でね。 ・・だけど、自分を見失ったらダメだからね? 」
 ・・・自分は、どうなのだろう。 生きる為に、自分を見失っているのだろうか? そもそも、夢は・・・?
( 分からない。 何もかも・・・ )
 家を飛び出して来た時には、その開放感・自由に酔っていた記憶がある。 そして、1人で生きているという自負が、後から付いて来た。 だが、その先の夢は・・・
( 夢なんて、何も無かったわ。 今も )
 生きるのに精一杯だったように思える。 毎日の糧を得る為に、その手段も、なりふり構わずになって来ていた。 この先、どんな自分が待っているのだろうか。 どんな自分になって行くのだろう。 そして、その結末は・・・
( ・・・・ )
 波乱の生涯を閉じた、祥子の顔が思い起こされる。 人の欲望と葛藤の狭間で、命を落とした祥子・・・ 全ての幕引きが、祥子のようになるとは限らないであろう。 だが、祥子は死んだ・・・ 夢を求めた結果が、死であったという結論が及ぶが、祥子の場合、他人の意志・意図が絡んでいる。 全てを割り切る解釈は、出来ないだろう。
( あたしの夢って、何なの? )
 自由を謳歌する事は、夢ではない。 それは、単なる希望である。 自分をどうしたいのか。 何がやりたいのか・・・ それが『 夢 』だ。 家を飛び出してでも、叶えたかった夢・・・ それは、何か。
( そもそも、そんな夢があったの? )
 ・・・自分を虐待した父親から逃れる事・・・
 家を飛び出した理由は、その一点に尽きる。 更に、冷静になって考えてみると、実の父親に犯されたと言う、やり切れなさ・悲しみに耐え切れず、その場を逃げ出したのだ。
『 弱かった 』と、説く者もいるかもしれないが、それは個人の意志の差でもある。 17歳のなつきには、逃げ出す事しか、考えが思い付かなかったのだ。
 ならば、父親が改心し、自分の行方を探していると言う現在。 はたして自分は、この世界にいる必要があるのだろうか・・・?
 なつきは、ハンカチを握った自分の手をみつめたまま、思慮した。
 チチッ、という短い鳴き声と共に、水を飲んでいた小鳥たちが飛び立つ。 公園の樹木を飛び越え、その向こうにあるビルの壁をも飛び越え、都会の空へと飛んで行く。
「 さっきも聞いたけど、いつまで、この生活を続けるつもりなんだい? 」
 沈黙を続けるなつきに、正岡が尋ねた。
「 20歳になったら・・ 考え直そうと思って・・・ 」
 手にしていた正岡のハンカチを、指先でなぞりながら、なつきは答えた。
 しかし、そう答えたなつき自身、決めている訳ではない。 キリの良い歳に、当てはめているだけである。 カオリが3年間、家出中であった事も加味されていた。 実際のところは、分からない。 それ以上に長くか、それ以下に短いかも・・・
「 20歳になったら、じゃなくて・・ 常に、考えてなくちゃ 」
 正岡は、ポケットから携帯用灰皿を出し、地面で揉み消した吸殻を入れながら言った。
 ・・・確かに、そうかもしれない。
 人間、その日が暮らせれば、後日の事に関しては、思慮が欠けるものである。 惰性で、生きてしまうのだ。 そうはならない人もいるとは思うが、万人の心の片隅に、そんな怠惰な気持ちは、必ず存在する。
 なつきは、無言のまま、小さく頷いた。

 なつきの前に、枯れ葉が1枚、落ちて来た。 新緑の時期には似合わない、くしゃくしゃに丸まった枯れ葉。 おそらく、どこかの枝に引っ掛かっていたのだろう。 全てが新緑、とは限らないのだ・・・ それぞれの存在を持ち、それぞれに経過・未来がある。
 空を見上げる、なつき。
 先程、喫茶店の窓から見えていた月が、新緑の間からのぞいていた・・・

20、心の旅立ち

20、心の旅立ち


「 先月、隅田川で死体で発見された、本多 祥子というホステスだがね。 君、知ってるね? 」
 無精ヒゲを生やした小太りの男は、手帳をめくりながら、なつきに尋ねた。
 ホステスとは、店舗内で客を接待する女性を指す。 店舗で『 営業 』していなかった祥子やなつきたちは、ホステスではない。 あえて開き直って言うのであれば『 娼婦 』。 まあ、警察にしてみれば、大差は無いのだろう。 最近は、ホステスを『 カウンターレディー 』と称し、一線を画する努力が、業界では見受けられるが、ロクな商売ではない、と思っているのだろう。 特に、なつきたちが属する世界は・・・
 娼婦など、誰だって、なろうと思ってなっている者はいないのではないだろうか。 生きる為に、糧を得る為に、仕方なくしている者が大多数と思われる。
「 はい。 それが何か? 」
 そっけなく答える、なつき。 幾分、したたかな印象を受ける返答だ。 刑事らしき男は、見かけ年齢から想像していたなつきの口調に少々、誤差を感じたようである。
 刑事は一変して、脅すような話し方で尋ねた。
「 知っている事を言ってもらおうか。 隠すと、ためにならんぞ? 」
「 何のためになるんですか? 」
 玄関の戸口の壁に寄り掛かり、腕組みをしながら、なつきは答える。
 刑事は、イラついた様子になり、言った。
「 お前らが何人死のうが、コッチにゃ、関係ねえんだ! 知ってる事、全部、話しゃイイんだよっ! 」
 本性を現した感の、刑事。 なつきの顔に自分の顔を近寄せ、凄むような目つきをすると、なつきを睨み付けながら言った。
「 ・・・けっ! どうせ、組同士の抗争にでも巻き込まれたんだろう? モメごとを起こすんじゃねえっ! 調べたって、ロクな事たぁ、出て来ねえに決まってんだ。 こちとら、早いとこ終わらせてえんだよ! お前ら、そのうち全部、しょっ引いてやるからな! ああっ? 」
 豹変したかのように、顔を真っ赤にして怒鳴る、刑事。
 全てを知っているなつきではあったが、喋れば、組に迷惑がかかる。 しいては眞由美たち、他の者の『 仕事 』をも、奪う事になりかねない。 それ以前に、なつきは、祥子の事を他人に喋りたくなかった。 特に、自分たちを見下げている警察には・・・
 祥子は、死んだのだ。 そっとしておきたかったのである・・・
「 確かに、祥子さんとは友達でした。 でも、何も知りません。 聞きたいのは、こっちです。 早く、犯人を探して下さい 」
「 てめえに言われなくとも、やってるよ! コッチは、これが仕事なんだからな。 ったく・・ 可愛い顔して、何人の男をイワせてんだ、お前。 あ? 楽なモンだよな~、オンナは。 アホな男がいる限り、のうのうと暮らしていけんだからよ 」
 おそらく、なつきが、世間から身を隠している者である事を、分かって言っているのであろう。 だからこそ、こんな発言が出来るのだ。 調べられたら困るのは、なつきの方である。 暴力さえ振るわなければ、何を言っても、なつきから告発される事は、まず無い。 『 組 』の庇護の下、なつきたちのように底辺で生きる者たちには、人権すらないのだ。 もっとも、社会を捨てた者に、人道的配慮など、あろうはずは無いのだが・・・
「 オレの所轄で、クスリなんぞ売るんじゃねえぞっ? 分かったか、てめえ! 」
 刑事は、捨て台詞を残して帰って行った。
 ため息交じりに、玄関のドアを閉める、なつき。
 眞由美が、部屋の奥から顔を出し、言った。
「 終わった? 」
「 はい。 帰って行きました 」
「 アイツ、しつこいのよねぇ~ 」
 テーブルの上に立て掛けた手鏡をのぞき込み、ファンデーションを付けながら、眞由美は言った。
「 ちょっと、うざったく言ったら、急に怒り出しちゃった 」
 眞由美の横に座り、頭をかく、なつき。
 眞由美の対面で、同じようにメイクをしていた若菜が、ブラシで髪を梳かしながら、言った。
「 なつきちゃん、あしらい方がウマクなったんじゃなぁ~い? オ・ン・ナ、ってカンジよ? 」
「 そうですか? ちょっとは、大人になったかな? 」
 眞由美が、クスッと笑う。
 キッチンで、食器を片付けていたヨネが、なつきの方を振り返り、言った。
「 今日、仕事はしないのかえ? そろそろ準備しないと 」
 なつきは、眞由美の横で、改めて正座をした。
「 ・・・・・ 」
 雰囲気を悟ったらしい眞由美が、ファンデーションを付ける手を止め、なつきの方を向き直る。 若菜も、クシを梳かす手を止め、なつきを見た。 ヨネも、気付いた様子だ。 割烹着の裾で手を拭きながら、なつきたちの方に来た。
「 眞由美さん、若菜さん、ヨネさん・・・ 今まで、お世話になりました 」
 指先を揃え、お辞儀をする、なつき。
「 ・・・帰るのね? なつきちゃん 」
 なつきは、眞由美の問に、無言で頷く。
 若菜が言った。
「 え・・・ 帰っちゃう・・ んだ。 なつきちゃん・・・ 」
 ヨネも、ため息を尽きながら、呟くように言う。
「 それがええ・・・ それが 」
 眞由美は、なつきの手を取り、笑顔を見せながら言った。
「 おめでとう、なつきちゃん・・・! 新たな旅立ちだね 」
「 眞由美さん・・・ 」
「 よく決心したわね。 偉いわよ? ちょっぴり寂しいケド 」
 目頭が熱くなって来た、なつき。
 眞由美は、手にとっていたなつきの手を、更に強く握り、言った。
「 ・・・あたしたちのコト、忘れないでね 」
「 絶対・・ 絶対、忘れません! あ、あた・・ あたし・・・ 」
 大粒の涙が溢れ出し、声が詰まって後の言葉が出て来ない。
 眞由美は、なつきを抱き締めた。
「 さようなら。 あたしたちの妹・・・! 」
「 ・・・眞由美さん・・・! 」
 若菜が、顔をくしゃくしゃにしたかと思うと、突然、泣き始めた。
「 うええぇ~えぇ~~ん・・! なつきちゃん、帰っちゃうんだぁ~・・・! イヤだあぁ~、ふえぇ~~ん・・! 」
「 ナニ、泣いてんじゃ、若ちゃん。 めでたいこっちゃ。 笑って送ってやらにゃ 」
 ヨネが、若菜をたしなめる。
「 だって・・ だって・・・! うええぇ~~ん・・・! 」
 ヨネも少し、若菜の姿に、感極まったようである。 そっと、割烹着の裾で目頭を押さえた。
 眞由美が言った。
「 後の事は、任して。 なつきちゃん、まだ入って間もないから、組からは、何も言われる事はないと思うわ。 ただ、ここでの事は、他言無用よ? 特に、祥子の事はね・・・! 」
 溢れる涙を頬に伝わせつつ、頷くなつき。
 少し、寂しそうに笑って、眞由美は続けた。
「 本当は、あたしたちの事も忘れるべきなんだケド・・・ 」
「 イヤですっ・・! あたし・・ あ、あたし・・・ みんなの事は、絶対に忘れたくないっ・・! 仲間だから・・ 友達だから・・・! 」
 なつきは、眞由美の胸に抱き付くと、泣きじゃくり始めた。
 眞由美が、なつきの頭を、優しく撫でる。
「 ありがとう、なつきちゃん。 こんなあたしたちを認めてくれるなんて、嬉しいわ・・・ 」
 若菜が、子供のように両手足をバタつかせ、泣き叫んだ。
「 イヤだ、イヤだ、イヤだああぁ~~っ! なつきちゃん、帰っちゃダメだあぁ~っ! 」
 若菜の、こんな子供のような姿は、見た事が無い。 ヨネは、若菜を抱き締め、言った。
「 二度と、会えないワケじゃなかろう? またどこか、街で会えるて。 のう、若ちゃん・・・ 」
「 うええぇ~えぇ~ん! ヨネさあぁ~ん・・・! 」

 ・・・なつきは、嬉しかった。

 自分の存在を、こんなにも必要としてくれる者がいたのだ。 別れに際して、ここまで純粋に涙してくれる友が、今まで、いたであろうか。 無慈悲・欲望・策略・行脚・・・ 人を殺める事すらある、裏の世界・・・ 友情などと言う青臭い事など、一笑される世界だ。 しかし、だからこそ、真の友情に迫れるのではないだろうか。
 人を中心に巡り、輪廻とも思える煩悩が、毎日のように交錯する荒んだ世界の中・・・ 実際に、なつきは、色んな人物に出逢った。 それぞれに、それぞれの人生を持ち、それぞれに性格を持っている。 受け入れられない者もいれば、受け入れられる事すら拒否する者もいる。 まさに、人それぞれだ。
そんな、それぞれの存在が寄り集まり、巨大な街は形成されている。

 街は、人である。

『 甘い顔をしてると、街に食われるわよ? 』
 いつか、祥子が言っていた。
 街を知っていたはずの祥子。 その祥子すらをも飲み込んだ、巨大な街・・・
 街は、自らの夢・希望を達成する為に、平気で『 共食い 』をする。 弱みを見せると・・ あるいは、時期・条件・因果関係などの判断を誤ると、あっという間に飲み込まれてしまうのだ。 昼と夜との顔を持ち、多種多様な人が、それぞれの個性と存在を持ち、夢を競っている。 そして、互いの夢を貪っているのだ。 自身の存在を残す為に・・・

 なつきの、震えている両肩を掴み、腕の中から離す眞由美。
 じっと、なつきの顔を見つめながら、言った。
「 自分の足で、納得して帰るのよ? ここに、戻って来ちゃダメ・・・! 」
 なつきは、肩をしゃくり上げながら頷いた。
 眞由美は、続ける。
「 よく聞いて、なつきちゃん・・・ やり直す機会はいくらでもある、って、よく言うけど・・ それはウソよ? 経験が無いか、失敗した人の言い訳なの。 機会なんてものは、早々、巡っては来ないわ・・・! 決めたんなら、脇道は考えず、前進あるのみ。 若いんだからこそ、周りをよく見て歩くの。 いい? 」
 眞由美の言葉に、なつきは、何度も頷いた。
 親身な眞由美の言葉・・・ なつきの心には、事の他、強く響いていた。 眞由美は、続ける。
「 よく見て歩いて・・ 自分の希望を叶えるのに、最善な道を見つけたら、今度は、迷わず行きなさい。 多少の苦労は、付いて廻るものよ? それを克服してこそ、本当の幸せが待ってるの 」
 新たな涙が、なつきの頬を伝う。
 眞由美は、なつきを諭すように、優しく、静かに繰り返した。
「 周りを・・ よく見て、歩いて行くのよ・・・! 」

 一時は、人に絶望していたとも言える、なつき。 飛び込んだ、荒んだ世界の中で、なつきが唯一、見つけた宝・・・ それはやはり、『 人 』
であった。

21、それぞれの存在

21、それぞれの存在


「 有難うございました~! 」
 店舗を出て行く客を見送り、なつきは、入り口のガラスドアを閉めた。
「 修一郎さん、銀のアクセ、また売れちゃったよ? 」
 カウンター奥の狭い一角で、オリジナルのアクセサリーを制作している正岡に、なつきは声を掛けた。
「 え? また? ・・アレ、手間が掛るんだよなぁ~ 」
 回っていたグラインダーを止め、正岡が答える。
 なつきは、壁一面に掛けてあるアクセサリーの整頓をしながら言った。
「 値段、もう少し高くしたらどうですか? 割が合わないと思うんですけど 」
 エプロンに付いた、細かい金属片をはらいながら、正岡が出て来た。 黒いエプロンには『 ダイアナ 』と、店名が、英文ロゴでプリントしてある。
「 う~ん・・ 露店で売っていた頃から作ってるヤツだからなあ~・・・ 口伝えで、買いに来るお客もいるしね 」
 なつきが、笑顔で答えた。
「 わざわざ、買いに来てくれるお客さんがいるのは、嬉しいですね! 修一郎さんさえ良ければ、値段は、そのままの方が良いかも 」
「 どうも僕は、商売気が無くてイカンなぁ~ ・・あ、そろそろ、お昼にしようか? 」
 店内の壁に掛けてある時計を見て、正岡が言った。
「 今日、ヨネさんのお店、午前からやっていますよ? 」
 ガラスドア越しに、公園の方を見やりながら言う、なつき。
「 お! じゃ、僕は大玉入りにしよう。 ヨネさんのたこ焼き、うまいからな 」
 エプロンを外す、正岡。 なつきも、着ていた、正岡とお揃いのエプロンを外し、レジの上に置きながら言った。
「 あたし、買って来ますね! 飲み物は、緑茶で良いですか? 」
「 OK~! 」

 公園の樹木が、露店の屋根に、涼しげな木陰を落としている。
 AMラジオの音。 芳ばしい香り・・・
 なつきは、店先に駆け寄り、声を掛けた。
「 ヨネさ~ん! たこ焼き2つ~! 1個は、大玉ね~! 」
「 おう、なつきちゃんかえ? よしよし、2個づつオマケじゃ 」
 ヨネが、嬉しそうに答える。
 パックに、たこ焼きを詰めながら言った。
「 もう夏じゃのう。 学校へは、行っとるんかえ? 」
 汗ばんで来た、胸元のTシャツを指先で摘み、パタパタさせながら、なつきは答えた。
「 先日、学年主任の先生に会って来ました。 出席数が足りないから進級は出来ないけど、2学期からはちゃんと行くよ? 中退せずに、来年もう一度、2年生をやるの 」
 ハキハキと答える、なつき。
 ヨネは、目を細めながら言った。
「 ん~ん~・・ それでええ。 頑張るんじゃぞ? 」
「 はい! 」
 たこ焼きの包みを受け取りながら、なつきは答える。
 タバコに火を付け、店の方を見ながら、ヨネが言った。
「 あのアクセサリー屋は、儲かっとるんかいのう~・・? 」
 笑いながら答える、なつき。
「 安いものばかりだから、そんなに儲かってないよ? でもね~、若い子たちの人気はあるの。 修一郎さんが創るオリジナルアクセ、評判良いんだから! 」
 なつきの胸元には、あのアメジストのペンダントが、夏の日差しに小さく輝いている。
 眩しそうに、それを見ながら、ヨネは言った。
「 モノを創る報酬は、大きさや値段じゃないんじゃ。 人が身に付けるものなら、尚更の事・・・ 修一郎とか言ったかのう? 若いが、見込みがある。 精進する事じゃ 」
 なつきは、満足そうに微笑むと答えた。
「 うん、伝えておくね! 有難う 」

 店に戻るすがら、公園を歩いていたなつきは、正面に立つ高層マンションの横の空に、月が見えている事に気付いた。 青い空に、真っ白な月だ。 若干、ぼけて見えている。
( 夜の顔と、昼の顔・・・ どちらも、同じ月なのよね。 それぞれの『 顔 』があるんだわ )
 これも、1つの『 存在 』である。 『 見られている 』と思うか、『 ただある 』と思うか・・・ どう感じるかも、その人次第だ。
 なつきは、以前から月に対して持っていた嫌悪感が消えている事に気付いた。 元の生活・・ いや、新しい生活を開始した事が、その心境の変化に、大きく影響する要因となっていたのは間違いなかった。
( 明日をも知れない生活に対する不安と、過去の記憶が重なってたんだ・・・ )
 白く、ぼんやりと夏空に浮かぶ、真昼の月を見ながら、なつきは、そう思った。
( あたしを、じっと見張っているんじゃなくて、見守ってくれている・・・ そう思う事にしよう。 いつも、どんな時も、変わらず天空にある・・ そう思えば、心強いものね )
 以前には、考えも及ばなかった思考の変化。 なつきは自分自身が、少し、大人になったと感じた。 生活に、何も不安が無いと言う事実は、心境的にも大きく影響する。 こんな、些細な事に安心感を抱いている今の自分が、ある意味、不思議に思えて来る。
「 でも、やっぱ、少し幼稚なのかな・・・ 」
 たこ焼きのパックを顔へ持っていき、芳ばしい香りを楽しみながら、なつきは小さく呟いた。

 公園内を、向こうから中年男性が歩いて来る。
 なつきは、気が付いた。 その、小太りの男性には、見覚えがある。 あの、刑事だ・・・
「 お? てめえは・・・ あん時の、小娘じゃねえか 」
 向こうも覚えていたらしい。
 なつきは、無言で通り過ぎようとした。
「 ナンだ? 昼間の仕事に職種変えか? あばずれオンナを雇ってくれる奇特なヤツが、よくいたな 」
 ・・・相変わらず、暴言とも取れる発言。
 そのまま、立ち去ろうとしていたなつきは、足を止めた。 おそらく彼は、なつきが、まだ裏世界に所属している人間であると思っているのだろう。 こんな口調を平気でするのが、その証拠である。
 なつきは、ゆっくりと刑事を振り返った。
「 ん? ナンだ、その目・・・! 風俗法違反でパクってやっても良いんだぞ、コラ。 てめえらのような下衆な連中が、エラそうに、オレを見るんじゃねえよ 」
 苦々しい表情で、なつきを見る、刑事。 持っていたセカンドバッグの中からハンカチを出すと、額に浮いた汗を拭きながら、続けた。
「 見たところ、てめえは未成年だろうが。 ロクに、学校へも行かねえヤツは、クズだ・・・! クズは、考える事をしねえ。 だから一生、クズのままだ。 てめえもな! 」
 なつきは、後腰にしていたウエストポーチの中から、生徒手帳と学校発行の身分証を出した。 それを、自分の顔の横に凛と立て、刑事に見せる。
 なつきは、言った。
「 私は、新堂 なつき。 都立第2高校の2年生です。 あなたは、私を誰か、他の人と勘違いされているようですね。 私は今、そこのアクセサリーショップで働く、アルバイトです。 両親と学校の先生からも、承諾をもらっています 」
 刑事は、ぽか~んとした顔をしている。
 なつきは続けた。
「 何か、私に問題でもありますか? 」
 少し、慌てたような表情が、刑事の顔に確認出来る。
「 ・・え? いや、あの・・・ 」
 なつきは、生徒手帳と身分証をポーチにしまうと、刑事を見つめた。
 バツが悪くなったのか、刑事は、口をモゴモゴさせ、盛んに首筋辺りの汗を拭いている。
 なつきは言った。
「 あなたは、刑事さんですね? 」
「 ん? ま・・ まあ、そうだが・・・ 」
「 刑事さんは、人に対して暴言を吐いても良いのですか? 」
「 ・・・・・ 」
「 世の中、色んな世界や仕事があります。 中には、好んで、その仕事に就いた訳じゃない人だっています。 そんな事を、考えた事がありますか? 」
 ・・・高校生に説教されている大人の図、である。 裏の世界で、究極・最低の経験をして来た、なつき。 だからこそ、諭せるのかもしれない。
 刑事は、ただ無言でいた。
( この人だって、最初からこんなじゃ、なかったのかもしれない。 底辺の毎日を、啓発も無く怠惰に生活している人は、確かにいる・・・ そんな人たちを相手しているうちに、いつの間にか、基本を忘れちゃったのかも )
 なつきは、小さなため息を尽いた。
 彼もまた、この街を形成する、ひとつの存在である。
 日夜、犯罪を摘発する彼、暴言を吐く彼・・・ その存在は、時により変化する。 それもまた、彼の中にある『 存在 』なのだ。
 踵を返し、歩き始めた、なつき。
 刑事は、なつきの背に向け、思い出したように言った。
「 ・・・本多 祥子を知ってるか? 」
 その名に、再び、なつきは立ち止まった。
 ふわり、と夏風が木々の葉を揺らし、なつきの頬を滑る。

  『 あたし、祥子。 アンタは? 』

 なつきの脳裏に、聞き覚えのある声が甦った。
( 祥子さん・・・ )
 再び、ゆっくりと、刑事の方を振り向く、なつき。
 刑事は、照りつける夏の日差しの中に立ち、なつきを見つめている。 なつきもまた、彼を見つめた。
 くたびれた襟のワイシャツ、だらしなく結ばれたネクタイ、腕に掛けた上着・・ 磨り減ったウォーキングシューズからは、哀愁と共に、彼の人生の機微が感じられる。
 なつきは、静かに答えた。
「 ・・・昔の・・ 友達の名前です。 もう・・ 亡くなりました 」
 ひと時の静寂が流れ、わずかに、時間さえも止まったかのような静けさが感じられた。
 遠くに聞こえる、車のクラクション。 横断歩道のスピーカー・・・
 やがて、刑事は尋ねた。
「 その友達の事を・・ 覚えていないか? 何でもいいから 」
 夏風が、再び、なつきの髪を揺らした。
 風の感触に、懐かしさを感じる。 誰かが、なつきの心に、呼び掛けている・・・

  『 あたし、祥子。 アンタは? 』

 なつきは、髪を右手で押さえながら、遠くを見るような表情をした。
「 随分、前の事ですから・・・ 」
 呟くように、そう言ったなつきが、刑事を見る。
「 ・・・そうか 」
 刑事も、なつきを見つめながら答えた。
 暗黙の了解。
 なつきが核心を語る事は無い、と彼は判断した事であろう。 祥子の死から何を追及したいのか・・・ その意図は、なつきにも、おぼろげながら推察出来た。 組織の解体と、違法風俗営業の撲滅・・・ だが彼は、祥子の『 線 』からの追及は、諦めた事であろう。 他の方向性からの摸索。 それを検討する事を決めたが如く、なつきに言った。
「 分かった。 手間を掛けたな。 すまん 」
 視線を、自分の足元に落とし、彼は小さく謝った。
 なつきは、じっと彼を見つめる。
 視線を感じ、顔を上げた彼が、なつきに尋ねた。
「 ・・・いいヤツ、だったか? 」
 無言で頷く、なつき。
「 そうか 」
 視線を、再び足元に移し、ワイシャツの胸ポケットからタバコを出すと、火を付けて言った。
「 前に一度、パクった事があるんだ。 足を洗う約束を、してくれてたんだがな・・・ 」
 刑事は、空を仰ぎ、ふうっと煙を出した。
 ・・柴垣に対し、カタギになって欲しいと進言していたらしい祥子。 その心理の裏には、この刑事との『 約束 』の存在があったからかもしれない。
 履行される事のなかった未来、夢・・・
 なつきは、言った。
「 彼女は、この街の一部だった人なんです・・・ 」
「 ? 」
 なつきを見つめる刑事。
「 私も、刑事さんもね 」
「 ・・・どういう意味なんだ? 」
 人差し指と、親指で摘んだタバコを口に持って行き、煙を吹かしながら、刑事が尋ねた。
「 ひとつの、存在です 」
 そう言うと一礼し、なつきは、公園の出口に向かって歩き始めた。
 遠ざかる、なつきの姿を、じっと見つめる刑事。 やがて、小さく呟くように言った。
「 ひとつの存在・・ か・・・ 」
 刑事は、タバコを口にくわえ、腕に掛けていた上着を肩に掛け直すと、なつきとは反対方向へと歩き始めた。

 生まれたばかりの、夏の日差し。
 そよぐような緩やかな夏風に、ゆっくりと、公園の木々の葉が揺れている。
 流れて行く存在、融和する存在、主張する存在・・・
 ある時は、猛々しく。 また、ある時は、孤高に。
 優雅な存在、個性的な存在、誕生する存在、そして、消滅して行く存在・・・

 薄青い都会の空には、ぼんやりと白く、真昼の月が浮かんでいた。
 街に暮らす、沢山の『 存在 』を見守るかのように・・・


                                        隻影 / 完


 エピローグ


 仕事で立ち寄った渋谷・・・ 忠犬ハチ公前で、私は『 なつき 』と出会った。
 声を掛けて来たのは、彼女。 『 客取り 』だ。 いわゆる『 お誘い 』である。
 10分ほど、話をした。
「 20歳になったら、考え直そうと思って・・ 」
 物語に出て来たセリフは、彼女のもの。 一語一句、違わない。

 この物語を制作してから3年後、探偵を生業としていた私は、『 業界 』の伝を頼り、『 なつき 』の消息を調べてみた事がある。
 ・・そう、ハタチになっているはずだからだ。
 結果、新宿界隈での目撃情報を入手。 まだ『 帰って 』はいなかった・・・
 そうそう上手く、物語通りには、いかないものだ。
 

 世の中には、人に知られない世界が存在する。 そこで暮らし、想像もつかないような経験をしながらも、尚且つ、たくましく生きている人たちがいる。
 その人たちの人生を、何人たりとも、愚弄す事は出来ない。
 目的も無く、意志も持たずに明日を彷徨う者は、見よ。 自負ある者たちの気高さを。 たくましさを・・!
 そして思い知るのだ。 悩ましき己の世界の、何と小さな事か・・・!
 成し得る明日は、自分が思うほど簡単にはやって来ない。 偶像の中に過ごすか、可能性在る未知を探るか、2つに1つである。

 流されて行くのではなく、流れて行く・・・ どうしようもない岐路に遭遇した時は、そんな観点に立ってみると良い。 自身が見えてさえいれば、
 ほとんどの場合、大丈夫なのだから・・・

 『 生きる 』という大変な事を、難なくやってのけている今の自分に、もっと自信を持て!
 明日こそが、未来だ。 夢と可能性は、未来にしか存在しない事を認識せよ。

 明日をも知れない状況下においては、人は、意外に強くなれる。 一際、未来への希望に執し、生きる事に貪欲になるのだ。
 苦労の人生を、あえて進め、とは言わない。 だが、長い人生の一部・・ わずかな時期でも良いから、生きる事に餓鬼になれる経験が、『 人 』には
 必要である。


                                        夏川 俊

隻影

最後までお読み頂き、ありがとうございました。
最終話『 21話 』の最後に記述させて頂いたエピローグは、探偵として見て来た人々の運命・人生の経緯から見出された岐路の集約です。
辞めてしまったら、それで終わり。 何も変わる事はありません。 永久に・・・
死んでしまったら、未来の可能性は体験出来ません。 永遠に・・・
この物語を通して、『 何か 』のヒントを掴んで頂けたら幸いです。

隻影

家出をした女子高校生『 なつき 』。 渋谷界隈で、同じような遍歴を持つ仲間と共に、『 夜の女 』としての生活をしていた。 そして、ある夜・・・

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1、月下の街
  2. 2、夜の街角にて
  3. 3、泡沫の夢
  4. 4、蒼い影
  5. 5、日向にて
  6. 6、アメジスト
  7. 7、屈辱
  8. 8、ルームメイト
  9. 9、過去
  10. 10、夢と、現実の弱歩
  11. 11、1つの人生
  12. 12、儚き命
  13. 13、裏切り
  14. 14、目撃
  15. 15、復讐の計略
  16. 16、生と死の狭間にて
  17. 17、夜空に彷徨うモノ
  18. 18、真昼の月
  19. 19、月と涙と、白いハンカチと
  20. 20、心の旅立ち
  21. 21、それぞれの存在