冷たい水

目が覚めたら日の光が視界いっぱいに広がり眩しかった。太陽はもう空のてっぺんにある時間だ。足元にくしゃくしゃに丸まっている布団に目をやる。ガウンは汗を吸ってべとべとする。気持ち悪い。脱皮できる生物に生まれてくればよかった。へびとか。ザリガニとか。さなぎとか。そしてさなぎは羽化はするが脱皮しないことに思い当たる。羽化とか脱皮とかそういう問題じゃなく、このまとわりつく汗をなんとかしたい。
浴槽に水を溜めた。暑い季節には水風呂に限る。夜と違って昼間の浴槽は水がきらきらしている。キラキラヒカル。水。生命がうまれた場所。胎児をつつむもの。かつて胎内にいたころのことなど、しかしもう思い出すことはできない。
水の中に身体を投げ出す。浴槽内の水がちゃぷちゃぷと波打つ。窓の外からは近所の子供達が遊んでいる声がする。白い雲が流れる。空は薄い透き通った青。静寂な風呂場。昼間の風呂場は天井がすこし翳っている。仰ぎ見る体勢で水に浸かる。身体から熱が溶けてゆく。清潔を保つのはいつも冷たい水だ。水の中で爪先のネイルだけが身体と分離している。紫色の、大粒のラメが薄い光に反射している。髪の毛が濡れている。茶色い毛先から冷たい水がつたう。静かな浴室。うるさいのは嫌い。こうしてずっと静かに生きていたい。取り留めのない思考回路。女はものを考えるようにはできていない。愛の在り処についてふんだんに時間を使って考える考えたところで無意味だという結論に至るまでありあまる時間をつかい静かな浴室で考える。皮膚が呼吸をしている。平日の肌は化粧下地とファンデーションとルースパウダーで覆われて息ができない。家を出てから風呂に入るまでの14時間肌の上には三層の地層ができる。昼過ぎにはその上から皮脂が分泌されるので四層になる。油取り紙で層を薄くする作業を一日に二、三回は行う。女は無意味な行動をとらねばならない宿命を負って生まれる。ちゃぷん。いまは風呂の中。層はゼロ。肌が呼吸している。
爪先が痺れる。表面がふにゃふにゃしている。子供の頃、長風呂をすると手がしわしわになった。大人になった今、どんなに風呂に浸かっても手のひらは決してしわしわにならない。子供の頃は大人になんかなれないと思っていた。大人になって、人間を大人にするには膨大な時間さえあれば簡単なのだと知った。
水、水に浸る皮膚は潤いを得る。外に出れば、風が吹きさらし水分は奪われるいっぽうだ。遠い昔、ヒトの先祖は陸にあがるべきではなかった。水の中が生物の生きる場所として適切だった。水だけが。水の中こそが。
油分を感じることもない。油分は不快因子。水分さえあればいきていける。水の中なら水分は逃げてなんかいかない。
水と空気の境目はぴちゃぴちゃする。淡く光を反射している。水面をたたくと、ちゃぽんと音が鳴る。水がからだにかかる。

冷たい水

冷たい水

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-08

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