イルカ・セラピー

イルカ・セラピー

                                                
 夏休みが1ケ月後に近づいた6月、僕は早くも海に行きたくてしょうがない。
 海といえば脳裏に浮かぶのはパラオ諸島を上空から撮った映像で、浅瀬はエメラルド、深い部分はコバルトブルーだ。波立って複雑な色彩を見せる様はいかにも優美で爽やかだ。穏やかでゆっくりと流れる時間。そこでは何をするにも自由で、貝殻を拾ったり砂のお城を作ったり、ただ海と空の境界を眺めたりしていたい。
 「軟弱者めが!聞いてるだけで身体が疼く、ってか泳ごうぜ!海行ったなら」
 徳富南は大きな口を歪ませる。肌は浅黒くて、制服の上からでもたくましい筋肉が分かる。
 「いや、いずみは泳げない。去年水泳の授業は全て見学していた」
 名田勇介とは一年生から同じクラスだ。剛直な髪は短く切り揃えられ、刈りたての芝生みたいだ。
 「見学とか女子かよ」
 高校生にもなって泳げないのかよ、よくそれで海とか言えるな、魚以下だな、などと南は色々と言う。クラスでは顔と身体つきに似合わず物静かな南だが、本当は良くしゃべる。むしろ騒がしいぐらいだ。
 「うるさいよ。それに確かに見学はしてたけど泳げないとは限らないでしょ?」
 「じゃあ泳げるってのか?」
 ・・・泳げません。
 仕方なく言うと、2人に失笑される。うぅ、屈辱。
 去年の体育の授業で、勇介がサメみたいにプールを往復していたのを思い出す。2年生からはプールはない。本当に良かった。
 「まぁ、こいつじゃなくてもさ、夏休み前に彼女は欲しいな」
 「まったくだ」
 まったくだ、と勇介は二度つぶやく。頬杖をついてけだるそうにしているが目はギラギラと光っている。こいつマジだ。
 南も勇介も常に彼女を欲している。
 ってかセックスしてぇよ、と勇介が口に出したのをきっかけに2人はハードな下ネタで盛り上がる。
 どうも男同士では性にオープンであることが美徳とされるようだ・・・僕には全く理解できないことだが。いつもこの流れに上手く乗れずに聞く専門になり、あげくムッツリスケベ扱いされる。いや、話に入りたいわけじゃないんだよ?
 下品でえげつない会話を聞き流していると勇介はふいにこちらを向く。
 「お前姉妹(きょうだい)いないの?」
 屈託なく笑って、白い歯がこぼれた。爽やかにしてみせても無駄だぞ、勇介よ。
 いません、そう言うと途端に冷めた目になる。
 「っんと役立たねーな、おめーは」
 何それ・・・。僕に姉妹(きょうだい)いたら付き合いたいってこと?
 「それに・・・いたとしても紹介するわけないだろ」
 露骨に身体目的じゃないか。
 「くそ!、で、南は?」
 勇介は懲りない。
 「・・・妹がいるな・・・・・・だが、お前とは絶対に付き合わせねぇ!」
 「そんな、お兄さん、お願いします!」
 「誰がお兄さんだ!」
 ニ年になってからは大体こんな感じ。三人で集まっている。もっとも、南はハンドボール部で勇介は剣道部、僕もそれなりに忙しいので放課後一緒にいるのは稀だ。
 時間は流れるように過ぎて行く。自然に解散になるが、足取りは重い。
 「明日、マジやべーかも」
 勇介がぽつりとつぶやく。
 「俺も」
 南は低い声で唸る。
 そりゃそうだ。
 明日から期末テストがある。
 3人で無為に時間を消費し、1秒もテキストなんて開いていない。

   ◇

 カレーから頼まれていた買い物をしてから帰る。
 「ただいま」
 返事はない。
 きっと勉強をしているのだろう。
 玄関で靴を揃えてから家に上がる。
 なんだかYシャツが肌に張り付く。少し汗をかいているかもしれない。
 洗面所に直行して顔を洗う。
 この季節の洗顔って何でこんなに心地よいのだろうか。顔の表面を覆っていた膜がはがれたような感覚がする。備え付けてある鏡で身だしなみをチェックする。まぁ、問題ないはず。髪が少し伸びた。たまに目にかかってうっとうしい。
 いつ美容室に行こうかな、と考えながらリビングに入る。
 カレーが部屋で勉強していた。
 スタンドライトしかつけていない部屋は薄暗く、顔の半分が影になっている。目を細めて手元を睨んでいる様子は迫力があって怯んでしまう。いつから勉強を始めたのかは知らないが、大分前からだろう。まだ制服のままだ。
 部屋の明かりをつけるとカレーは驚いたように顔を上げた。
 「ただいま」
 「あ、おかえり」
 カレーは腰を後ろにひねって時計を見る。女の子のこの動作って好きだ。身体のラインが分かるから。つられて視線を移すと18時30分だった。
 「あ、これテーブルに置いておくから」
 「ん、ありがと」
 あくびと一緒に返事をしたので「あふぃがと」と聞こえる。
 「お疲れですね。お茶でもいれましょうか?」
 「いい、下行ってくる」
 立ち上がりこちらにやってくる。
 隣に来たところで止まって顔をしかめてみせる。
 「・・・なんか臭い」
 うげ、ショックだ!
 顔や身体のこともそうなんだろうけど、臭いって言われると凄い傷つく。
 初夏の蒸し暑さに汗をかくのはしょうがない。
 それとも思春期の青年の匂いが香ばしく漂っているのだろうか。
 思わず身を引くと、あろうことかカレーは顔を近づけてくる。
 やめて!
 「あの・・・やめて下さい・・・臭いのでしょう?」
 「ん、こっちじゃないな・・・」
 今度は口元に鼻を近づけて来る。
 カレーの顔がドアップに迫ってきた。
 大きな瞳と一瞬だけ目が合う。
 「やっぱり匂う・・・、なんか食べた?」
 そういう意味か。
 体臭を指摘されたかと思っていたのでひと安心だ。
 「マクドナルドでポテトなどを少々」
 「ふーん」
 「食べたかった?」
 「いらない」
 カレーは身体を返して玄関に向かう。
 「あ、ごはん・・・、なんか食べたいのある?」
 こちらを振り返り、一言で返事をした。
 「餃子」
 餃子か・・・。餃子!?  
 カレーが餃子食べてるとこなんか見たことないぞ。[テスト前になると掃除をしたくなる法則]の派生で、普段食べないものを食べたくなるのだろうか。餃子の皮で餡を一枚一枚愛情込めて包んで下さいってこと?うわ、すごいめんどくさい!餃子は休みの日にテレビを見ながら作るのがいいのに!というか材料はあるのか?特に不安なのは皮だ。なければ小麦粉から作る?無理だ!コンビニだ。まずは冷蔵庫を確認しないと。
 瞬間的にここまで考えたが、動揺を隠してなんとか頷く。
 カレーは口元を少し緩めて玄関を出て行った。
 急いでリビングに戻り、キッチンに入る。
 やたらでかい冷蔵庫を開けると餃子の材料は揃っていた。
 流石カレー。ぬかりなしだ。
 とりあえず着替えて餡でも作ろう。
 
   ◇
  
 魔法のように餃子は出来た。
 気がつくと目の前に餃子君達が整然と積み重なっていて、自分でもびっくりだ。
 無意識のうちに手を動かしていたらしい。
 日頃のバイトのたまものだ。
 慣れって素晴らしい。
 包んだばかりの餃子は白く、いじらしくこちらを見つめる。
 いかにも無垢な餃子の運命は僕が握っているのだ。
 ふふ、これから君達を、こんがり焼いちゃうぞ!
 「・・・きもちわる、さっきから何言ってるの?」
 声の方に顔を向けるとカレーがキッチンの向かい側の椅子に座っている。
 いつからそこにいたんだ・・・。この家のキッチンはリビングに向き合うように作られている。
 「びっくりした。いつ戻ってきたの?」
 「さっき。ていうかまだできてないの?」
 もう9時なんだけど、とカレーは髪を手で払う。
 いつの間にか時間が経っていたようだ。
 「すいませんー、あと30分はかかるよ?」
 「そんなに?さっさとやってよ」
 「努力致します・・・ねぇ、君って餃子好きだっけ?」
 一瞬カレーは目を細める。
 何!?ダメなこと言った?
 「・・・どうかな?分かんない」
 ・・・分からないのか。
 カレーの好きなものはラザニアにシチュー、たらこスパゲティーに目玉焼きだ。
 リクエストはただのきまぐれだろうか。まさか嫌がらせってことはないと思うけれど・・・。
 カレーはハマってるバンドについて話し始める。
 10年ぐらい前に世界中で大ヒットしたイギリスのバンドなんだけど僕には良さがさっぱり分からない。
 お気に入りのアルバムを何度か聞かせてもらったが、どれもこれもなんだか寂しい感じがした。「それがいいんじゃん」、とカレーはニヤリ。
 カレーの声を聞きながら作業をする。この人の声はサラサラした感じで聞き心地がいい。流しを片づけて作り置きの煮物をレンジで温めて味噌汁を火にかける。本来味噌汁は最後に温めるのだが今回は違う。最も優先されるのは餃子であるべきだ。
 フライパンをセットしてコンロに火を入れて油をひく。
 油の温度が高くなって、いよいよこいつらを焼く段になる。
 ヘラに餃子を乗っけてフライパンに滑らせる。
 油がはじけて、たまらなくいい音がした。
 餃子が焼ける音を堪能しながらテンポよく投げいれる。
 じゃんじゃん焼いちゃうぞー!
 餃子達はフライパンの中に素直に収まり、景気よく焼けていく。
 「楽しそうだね」
 楽しい?うん、楽しいのかもしれない。
 カレーはリビングから廊下を通って僕の隣にやってくる。顔を見るとカレーも笑っている。
 女の子と2人並んで餃子が焼けるのを見ていたことはない。
 なんか新鮮な感じだ。
 鳥ガラスープを入れてガラス蓋をして蒸し焼きにする。
 あと3分ぐらいかな。
 「どうですか?」
 「おいしそう」
 でしょ?こんなもんおいしいに決まってるのだ。
 水分がなくなると見るやごま油を投入だ。
 キッチンに香りが引き立つ。
 頃合を見てフライパンを傾け、そのまま大皿に移す。
 底を上にした餃子達はくっつきあって、一つの円盤になる。
 素晴らしい。
 我ながら上手に出来た。
 焼き色が輝いてるぜ、まったく。
 完成、と言うとカレーは隣で拍手してくれる。
 ご飯に味噌汁をよそって、リビングに料理を運ぶ。
 いつもよりちょっと遅くなっちゃったけどまぁしょうがない。
 「さ、食べようぜ」
 いただきます、とカレーは小皿をとって醤油とラー油を入れ、混ぜる。この配分は食べる人のこだわりがあり、カレーは結構辛くするみたいだ。お酢を入れる人もいるが、カレーは使わないタイプみたいだ。僕と同じ。そして、こんがり餃子をそのタレに少しつけて口に運んだ。
 どうですか?
 「おいしい」
 やったぜ。美味しいを頂きました。
 上機嫌で箸を動かすカレーを見てうれしく思う。お客さまの笑顔が一番ですよ、ほんと。
 自分でも食べてみると、うむ、うまい。
 しばらく無言で箸を動かして食に集中する。至福の時間だ。そもそもカレーって食事の時はほとんど話をしない。テレビもつけないので育ちがいいんだねって感じ。
 ふと、カレーが手をとめてこちらを見つめる。
 「何?どうしたの?」
 「ねぇ、いずみ、テスト大丈夫なの?」
 今そのこと聞くー?
 
   ◇

 深夜までカレーは勉強をみてくれた。
 教えてくれた、というよりもヤマをはってもらって、あとは黙々と自分でやるのだが。
 ノートから目を上げると、カレーが眉を寄せて自分の勉強をやっている。
 信じられないことだが、今やっているのは試験範囲ではないらしい。普段通りのお勉強。
 カレーが顔を動かした際に、僕の視線に気づいたらしく参考書から顔を上げる。
 「何見てんの?」
 「いや、カレーは偉いなと思ってさ」
 口を横に大きくしてカレーは笑う。
 「っははっ、余計なこと考えてないで、集中しなよ」
 「ほい。でもちょっと休憩。祥平さん見てくるね」
 さっきまで見回りはカレーがやっていた。
 立ち上がると骨が軋んで音がした。
 洗面所で手洗いを済ませて隣の部屋に入る。
 1階に祥平さんが住んでいて、2階がカレーだ。こういうのを二世帯住宅っていうのだろうか。あれ?この場合言わないかな?
 ベッドに横になっている祥平さんに足音を立てないように近づく。
 眠っているようだ。
 痰がつまってしまったり、苦しくてうなったりするので注意してみなければならない。
 少しの間様子を見ていたが、特に異常はないみたいだった。
 薄暗い部屋はベッドの他には最小限の家具しかない。
 はっきり言って殺風景だ。
 観葉植物や絵でも飾ればいいのにと思うが、当の祥平さんが好まなかったらしい。
 部屋に戻るとカレーが顔を上げてこちらを見る。
 ありがと、と小さい声でつぶやいた。
 カレーはTシャツとジャージを着ていて、Tシャツの襟は着古してゆるゆるだ。胸元が見えそうでドキッとする。
 今度シャツを買ってきてあげようかな、と思う。
 だがやめた方がいいかもしれない。
 正直、何がカレーの逆鱗に触れるか分からない。
 この人の怒りは脈絡もないし、理不尽なので天災のようなものだ。
 なにしろ、その激怒たるやすさまじい。行動は慎重を期すことが望ましい。
 「眠ってたよ」
 「そう」
 カレーの二重がいつもよりくっきりしている。眠そうだ。
 「カレーもそろそろ寝たら?」
 「・・・そうしようかな」
 息をひとつ吐いて、ノートを閉じる。
 「いずみは?」
 「まぁ、もうちょっとやっとこうかと」
 このまま徹夜しても試験範囲が終わることはなさそうだった。
 でも、もう少しあがいてみてもいいはずだ。
 そう?、と言ってカレーは部屋を出る。布団を持ってきて、おもむろに敷き始めた。
 ここで寝るのかよ・・・。
 「え?今日はこっちで寝る系?」
 「上行くの面倒。そこで勉強してていいよ」
 勉強してていいって言われても・・・。なんて言えばいいのか考えている間にカレーは手早く布団の支度を終えて、横になる。
 さっきまで机に向かって険のある顔つきだったのに、今はリラックスしているようだ。
 本当にいいのだろうか・・・。
 電気もついているし、ペンを動かす音なんかうるさいはずだ。
 やはり2階に行こうと思って立ち上がろうと腰をあげる。
 「いいから、そこでやって」
 はい、ととっさに声を出す。慌てたので変な声になってしまった。
 「ふふ、『はひっ』 だって、ふはは」
 人の事を言えないほど変な声でカレーは笑う。
 もー、じゃあ、本当にここでやっちゃうよ?寝苦しくてもしらないから。
 人のことをかまっている場合じゃない、このままだと明日には身の破滅だ。
 やっぱりちょっと気になっていたけど、無理やり手を動かした。
 しばらくするとかすかな寝息が聞こえてきた。
 顔を上げてカレーを見る。
 髪が前に垂れて顔が半分隠れているが確かに眠っているみたいだった。
 異常なしかな?
 近付いて確かめることはしない。
 カレーには必要ないのだ。

   ◇

 7月になった。
 先週いっぱい大雨だったのに昨日から高気圧接近、からっとしたものだ。
 太陽の光がなんというか、強い。
 これはとうとう来ますね。待ちに待ったサマーってやつが。
 あと1週間登校すれば、晴れてハッピーバイト生活だ。
 うっしゃ稼ぐぞー!
 「何はしゃいでんだよ、殺すぞ」
 南はドスの効いた声を出す。
 「こわっ。乱暴な言葉使わないでよ」
 「うっせぇガリ勉野郎が!」
 汗を吸ったTシャツを脱ぐ。黒い肌に腹筋が割れて板チョコみたいだ。
 「それを言うなら勇介でしょ?」
 テストはなんとか切り抜けることができた。カレーのはってくれた[ヤマ]が見事に的中したのだ。涼しい顔をしている勇介は好成績で、確かに抜け駆けされた気分だ。
 「ヤバイって言ってたじゃん」
 「全然勉強してない、とも言ってたよな、お前」
 得意顔の勇介。こいつは[全然勉強してない、と言って影で勉強してる系]の奴だ。けしからん。
 「ま、頭の出来が違うってことだ!」
 勇介はパンツ一丁で高笑いする。なんて嫌味なやつだ。
 赤点連発の南は追試を受けるハメになったらしい。
 かわいそうに。
 「君らはこれからもうずっと部活?」
 「そうだな」
 二人の声が揃っていて、勇介と南は顔を見合わせて罵り合う。実に醜い光景だ。
 「休みは?」
 「お盆のあたりに1週間」
 「あ、俺もだ。せっかくだからどっか遊びに行くか?」
 勇介がズボンを履く。ベルトがカチャカチャと鳴った。
 「無事だったらな・・・」
 南のハンドボール部は夏[地獄]の合宿があるらしい。
 ようするに朝から晩までしごかれるイベントで、僕なんかは、大げさな、と思うが言葉少なに語る南の目はうつろだ。
 去年の合宿でトラウマを植えつけられたらしい。
 「あー、俺も合宿ある!ヤなこと思い出したー!」
 勇介も腕で頭を抱えて苦悩する。
 大変そうだねぇ!
 口にはしなかったのにこちらを見た勇介はため息をつく。
 「お前はいいよな」
 「バイトなんか大してやんねぇんだろどうせ、夏休みなんだからお前女と・・・、うぅ・・・許せねぇ!」
 「いずみ、啓さんとはどこまでいってんだよ?」
 「夏休みどんな予定だコラ」
 やいやいうるさい二人を無視して汗抑スプレーを使う。
 夏の男子更衣室の匂いって最低だ。獣じみた匂いがする。自分に使った後は南と勇介にもふりかけておいた。臭いからね。
 啓とは1ケ月連絡をとってない。
 素早く制服を身につけて部屋を出る。
 南と勇介は置き去りだ。
 最後に啓に会った時の責めるような目が忘れられない。
 いや、カレーの家に住んでいる罪悪感からそういうふうに見えたのかな。

   ◇

 バイト先で勇ましく働いているとシフトが同じ女の子から、話がある、と切り出される。
 え?何々?と分からないふりをするが、内心、いよいよきたか、という感じだった。
 こういうことは雰囲気で分かる。
 バイト終わりにファミレスに誘われ、そこで告白をされる。
 「・・・好きなの、付き合ってくれない?」
 瞳がきらきらしている。この女の人は大学生だ。茶髪にパーマをあてていて、ネックが広くあいたカットソーを着ている。
 「あの、付き合ってる人がいるって言いましたよね?」
 彼女はうなだれてみせる。
 ボディタッチしてきて、私用のメールが増えたあたりで牽制して話しておいた。
 「それでも好き」
 そう言ってうつむいた時、涙が落ちた。
 「そうですか・・・」
 それじゃあしょうがないね、ってそれで話が終わるはずがない。
 沈黙が気まずい。
 友達じゃダメですか?という意味の言葉を表現を変えて何度も言ってみるが、女の人は泣くばかりで、こっちもだんだん疲れてくるし面倒くさくもなるし最初からこうなることも予想してたしで、なんだかんだ付き合うことになる。女の人、笑顔。
 そのまま自宅に誘われるがそれを断って帰る。
 こういう場合ってどちらが悪いのだろうか。
 今まで告白されて断ったことがない。
 さっき「でも好き」と言われたが、これって真理だと思う。
 恋愛は好きになった方が負け、という格言があるが、どんなに最低で気に入らないことがあっても[好き]の前には歯がたたない。
 彼女がいる、妻がいる、借金がある、でも好き。格好悪い、暴力をふるう、頭が悪い、でも好き。
 これで終了。
 最低でもなんでもいいが僕はこの[好き]を尊重したい。
 とりあえず付き合って、相手が[好き]じゃなくなって振られるのが理想だ。
 相手がまだ[好き]なのに断るのと何人もと付き合うのってどっちがひどいのだろうか。
 答えは出ない・・・って一般的には僕の方が悪いのかもしれないけど。僕の中では出ない。
 そんなことを考えながら電車に乗ってカレー家に帰宅する。
 時計を見ると11時を過ぎている。
 門限を破ってしまった・・・。
 カレー怒るかな・・・、怒るかもしれない・・・・・・。
 家の前で覚悟を決めて深呼吸する。
 
 階段を登って2階のドアのチャイムを鳴らす。
 しばらく待つ。心臓がドキドキする、嫌だなぁ。
 少しだけドアが開くが、チェーンがかけられている。
 「何?」
 カレーは目つきが鋭く、不機嫌そうだ。
 うぅ・・・、やっべー。
 「あの、ごめんなさい、入れて頂けないでしょうか」
 「なんで?」
 「・・・・・・家がないからです・・・」
 カレーは舌打ちしてから怒鳴り声を出す。
 「なんで遅いの?」
 「ごめんなさい、ごめんなさい」
 「聞いてんでしょ」
 眉根を寄せてすごむカレー、マジ般若。女の子がそんな顔しちゃだめなのに・・・。ちがう、早く言い訳しないと・・・。あれ?なんで遅いんだっけ・・・。頭が回らなくて、バイトから今までのことを全て話してしまう。カレーは無表情でただ聞いている。ファミレスで告白されて彼女が増えたと言うと「最低」とつぶやく。
 カレーの怒りが収まるまでそれから何度も謝って、しまいには土下座してようやく家に入れてもらう。浮気した夫ってこんな感じなんだろうか・・・。プライドなんて元々ないけどそれでもやっぱり惨めだ。
 廊下を先に歩くカレーの後ろ姿は毅然としていて、しなやかな黒髪は光ってて清潔な印象がする。
 なんだか神々しいカレーと自分を比較すると、情けない、を通り越してむしろ清々しい気分になる。思考が停止していて、軽い気持ちで声をかけてしまった。
 「ねぇ、カレー、ご飯食べた?」
 カレーは立ち止まる。
 小さい声でぼそっと何かをつぶやく。
 え、何?聞こえない。
 迂闊なことは言うものじゃない。
 こちらを振り向くカレーはまた般若顔。
 食ってねーよ、という怒声が再び身体を貫く。
 ごめんなさい!
 それから急いでうどん茹でて冷凍していた野菜あっためてカレーにサーブする。
 テーブルにつき、ようやくいつもの澄ました顔に戻ったカレーはうどんをすする。
 どうか怒りをお鎮め下さい・・・。
 目の前で箸を動かすカレーを眺める。
 「ねぇ?」
 「はい?」
 なんだろうか。
 まさかまだ怒り足りないのだろうか。
 あんなに怒ったのに!?
 「私、あんたとは絶対付き合わないと思う」
 唐突に傷つくことを言われる。
 そうでしょうとも・・・。
 カレーの中では思考の流れがあって、それで出した結論なのかもしれないけど。
 無表情で、瞳は澄んでいる。カレーは大人びているが、ひどく子供っぽくみえることがある。カレーと付き合う、ね。考えたこともなかったよ。
 でも、カレーから告白されたら、断りませんよーう?
 勿論思っていてもそんなことは言わない。また怒りに火をつけたら大変だからだ。
 「そうなの?」
 そう答えて、微笑んでみた。

   ◇
  
 高校生っていうのはどうしてこう忙しいのだろうか。
 お勉強に部活にバイト、遊びに恋愛、僕はそのうちの3つしかやってないけど予定びっちり大回転って感じだ。大学生や社会人はもっと忙しいっていうけど信じられない。なんせ一日は24時間しかないのだ。これ以上どこにつめられるのだろうか。
 バイトのキッチンで調理し、ホールで注文をとり、女の子と遊んだり予備校の夏期講習に行ったりたりしてあっという間にお盆になる。僕が大過なく過ごしていると、カレーの家では祥平さんが肺炎を起こして入院してしまう。カレーは勉強も部活もバイトも遊びも恋愛もせずに毎日病院に通っている。身体壊さないといいんだけど・・・。
 
 バイトがない日にデートの誘いを断ってカレーについていくことにした。
 別にやることないよ、なんて言われるけど。病院は電車とバスで行く。
 カレーはTシャツGパンにスニーカー、髪をゴムで簡単に結んでいて、はっきりいってダサい。
 二重の大きな目に薄い唇、背は高いわけではないけど手足が長くてスタイルが良い、もったいないね。NYロゴの入ったキャップや原色のパーカーなんかも着こなせるポテンシャルは十分にあると思うのだ。・・・そこまで攻めたファッションにする必要ないかもしれないけど・・・・・・。
 カレーの肌は青白くて目の下にはクマができている。
 「ちゃんと寝てる?」
 少し間を置いて、寝てる、とつぶやいた。電車のシートに座ってうつむいているカレーは疲れているようだ。
 2人でいても特に話すことはない。
 カレーはテレビを見ないし芸能人なんか興味ないし流行りの音楽やファッションは抑えてないし映画小説漫画と見事に趣味が合わない。僕のお気に入りの映画は「冷静と情熱の間」だがカレーのベストは「ハンニバル」だ。僕は少女漫画の[NANA]が好きだけど、カレーは「うしおととら」が好きだという。
 ・・・でも、この沈黙は嫌いではない。もの憂げな表情で時折窓の外を見るカレーは絵になるし、この静けさって他の女の子には出せない・・・、価値があるもののように思うのだ。
 暑い日で、バスを下りると日差しは容赦なかった。
 「日焼け止め塗った?」
 前を歩くカレーはこちらを振り返る。
 「ううん」
 「持ってるから後で塗んなよ」
 「何あんた、日焼け止めなんて持ち歩いてんの?」
 声を上げてカレーは笑い出す。
 無性に恥ずかしい。持っててもいいじゃないか・・・。
 病院の中に入ると独特の匂いが鼻をつく。これ苦手なんだよね。
 私も、とカレーは顔をしかめる。好きな人はいないか。
 病院は人が多い。ざわついてて、皆忙しそうだ。
 カレーの後をついていく。病室は四階で個室。うちのじいちゃんは2人部屋を使っていたので経済力の差を感じる。こんな時に不謹慎かもしれないけれど。
 祥平さんの病室に入るのは初めてだったので一応カレーに僕が来ることを伝えてもらってから部屋に入った。カレーはベッドのそばに座る。近付いて挨拶をして手を握らせてもらう。少し痩せたみたいだが、祥平さんの手は温かい。今は目を開けないが、優しい目をしていたことを覚えている。
 祥平さんに最近のカレーのことを報告する。毎日水ようかんばかり食べていること、通信教育のテストで優秀者リストに載ったこと、相変わらず洋楽に夢中なこと。特に反応はないけど、カレーのことを一番聞きたいはずだ。いつもカレーのことを心配していたみたいだったから。
 祥平さんにはとても感謝をしている。家に置いてくれているのはカレーもそうだが祥平さんのおかげだ。
 お昼を病院の食堂で食べて午後はまたベッドのそばにいた。
 カレーからは、帰っていい、と言われたけど帰らなかった。カレーは音楽を聞かず本も読まずゲームもしない。たまに祥平さんの手を握ったりするだけだ。邪魔かな、とも思ったけど邪魔ならはっきり言うだろう、そういう人だから。
 
 帰りは夕方だった。夏の空はまだまだ青い。
 カレーは昨日も一昨日も、もうずっとこの生活パターンのはずだ。
 それを考えると胸に熱いものが・・・考えていると身体が動いた。前を歩くカレーの手をつかんだ。
 「ねぇ」 
 ぎゃっ!とカレーは声をあげる。
 「なんなの!?びっくりした」
 「ごめんごめん、ねぇ、まだ早いしどっか遊びに行かない?」
 「ちょっと、何・・・?」
 カレーは怪訝な顔をする。
 断られる前に早口で提案する。カレーは勘が鋭いしプライドが高い。気をつかってることがバレたら機嫌が悪くなるだろう。それだけならまだしも、激怒される恐れもある。
 「カラオケか映画か、それかケーキでも食べよ?どれがいい?」
 カレーは何かを言おうとして、口をつぐむ。
 おそらく断るつもりだったんだろうが、ちょっと考えている。
 提案のどれかが気に入ったのかもしれない・・・。
 ちょっとだけでいいからさ、たまには遊んでよ、ねぇ、お願い、などと重ねて言うとカレーが吹き出す。
 「・・・カラオケかな。なんであんたそんなに必死なのよ」
 「決まりっ!じゃあ行こっか!」
 カレーは呆れてみせるが、ちょっと愉快そうだ。つないだ手はすぐに振りほどかれたけれど。
 病院からバスに乗ってターミナル駅にあるカラオケ店に入った。
 しぶしぶ来た割には時間はがっつり2時間だ。
 「カラオケ久しぶり」
 カレーはきょろきょろと部屋を見る。僕は1週間前に来たばかり。
 「さぁどんどん歌おうよ」
 「いずみ先歌って」
 マイクと電目を渡される。
 ふ、カレーめ、先歌っていいんだね?ハードル上がっちゃうよ?
 こちらを見て、何その顔・・・、とカレーはつぶやく。
 危ない危ない。自信満々の顔してたかもしれない。気をつけないと。
 最も得意なのはラブソングだけど一緒にいるのはカレーだ。そんなもん歌ったら引かれるに決まっている。
 盛り上がる感じのアイドルソングを歌う。
 1番を歌い終わった時点で気づいていたけど、カレーはやたら白々とした目でこっちを見てくる。
 カレー・・・この人、JーPOPを軽蔑するタイプの洋楽好きなのかもしれない・・・。
 それでも気をとりなおして歌いあげる。カレーはこっちを一瞥してすぐにモニターに向き合う。
 選んだ曲は当然ご贔屓の洋楽。
 熱唱。
 この夏何人かの女の子の歌を聞いたけどカレーが一番良かった。
 上手いというか、曲の理解度が違う。
 家でもよく歌を口ずさんでいたけどそれとはまた違った印象だ。
 1曲づつ交代で歌ったんだけど、足りなそうだったので時間いっぱいカレーに歌ってもらった。
 手を叩いたりしてこっちのやっていることは完全に接待だったが、カレーが気分良さそうにしてたので良かった。
 
 帰ってご飯作るのも面倒だったのでデパートのレストラン街で食事をした。
 色んな店があったけど蕎麦を選ぶあたりがカレーらしい。いや、ただの気分なんだろうけど。
 店には高校生どころか、若者なんて一人もいなかった。
 音を立てずに蕎麦を食べるカレーは帰りにレンタルビデオ屋に寄ると言い出す。
 「なんか見たいのあるの?」
 「パラノーマル・アクティビティ」
 「何それ、ホラーじゃないよね?」
 「ホラーだよ?」
 ・・・・・・そうですか。まぁ借りる分なら、いいんじゃないのかな?
 「いずみも一緒に見るけどね」
 えっ!?
 何当たり前みたいに言ってるの!?
 「きったな!蕎麦飛んだんだけど!」
 いやいやいや、それどころじゃないよ!
 「なんで?怖いの嫌なんだけど」
 「ちょっと、先に謝ってよ」
 カレーは鋭い目つきをする。
 ごめんなさい。
 鞄からハンドタオルを取り出して顔をぬぐうカレー。
 「えっと、だからなんで僕もなのかな?」
 「一人で見たら怖くもなんともないから」
 毅然と言うカレー。
 ・・・一人の方が怖いのではないだろうか・・・・・・。
 カレーの言い分では、こういうものは怖がりと見るのが一番らしい。
 緊張感や不安が隣にいて伝わるからだと言うが・・・。
 「ジェットコースターなんかでもそうでしょ?」
 そうかもしれない。去年の社会科見学で横浜に行ったが、みなとみらいのジェットコースターで勇介がビビりまくるのでこっちまで怖かった。
 澄ました顔が憎たらしい。
 まさかの展開にとてもテンションが下がったが、当初の目的はカレーを元気づけることのはずだ。残りの蕎麦をすすってつゆもそば湯で割って飲む。
 「よくそんなの飲めるね」
 「嫌い?」
 「やったことないし」
 「飲んでみれば?」
 胡散臭そうな目をこちらに向けたが自分のつゆにそば湯を注いで口をつけた。
 「どう?」
 「・・・悪くないかも」
 でしょ?大体カレーは食わず嫌いが多いのだ。エビチリもカップ焼きそばも鳥レバーも嫌がったが、食べてみたらおいしいと喜んでいた。
 得意になってそれを指摘したのがまずかった。
 「じゃあ、いずみもホラー見れば意外といけるかもね」
 カレーは今日一番の晴れやかな笑顔。
 何か反論しなきゃと思ったが、喉が小さく鳴っただけだった。

   ◇

 恐怖体験は娯楽に入るのだろうか。
 娯楽というのは文字通り[楽しい]ということで、[怖い]ということは意味的にも語義的に入らない。だからお化け屋敷、怪談、ジェットコースターなんかも娯楽に入らないと思っていたのだが、カレーの様子を見て考えを変えた。カレーはホラー映画を[楽しんで]いる。信じられないことだが、13日の金曜日に虐殺が起き、大蛇に人が呑まれ、井戸から悪霊が這い出てくる・・・、そんなおぞましいシーンを見て喜んでいるらしいのだ。しかし、恐怖体験を好む人種は恐怖を求めながらも[怖さ]から自ら離れてしまうことに気づいていない。ジェットコースターは乗るたびに慣れてしまって恐怖は薄まる。何度乗っても最初の感動に再び出会うことはないのだ。ホラー映画好きは何種類も見て詳しくなり、恐怖を味わい難くなる。そう、怖さというのは求めれば求めるほど遠ざかっていくものなのだ。
 ぐだぐだ言っていると、「言いたいことはそれだけか」と問答無用で映画を見せられた。わざわざ室内灯を落としたリビングは薄暗く、緊張の中見た映画はそれはそれは怖かった。エンドロールが流れてカレーが部屋の電気をつけた時、頭の中がぼうっとしていた。
 「・・・そんなに怖かった?顔色悪いよ?」
 カレーは眉を下げて心配そうに僕の顔を覗き込む。 
 いや、別に、と言うが唇が上手く動かなくてかすれた音しか出なかった。
 満足そうにカレーは笑う。君、全然怖がってないじゃん。「残念、いまいちだったね」、とカレーは感想を話す。この人には刺激が足りなかったようだ。
 妙に疲れたのでシャワーを浴びて寝ることにする。
 私も寝ようかな、とカレーはあくびをしたので心底ほっとした。
 明日は午前午後とバイトが入っている。
 リビングを出て、キッチンの流し台を片づけてからシャワーを浴びる。
 普段はお風呂を使うけれど、カレーもいいといってくたので浴槽を洗わずシャワーだけだ。
 広い浴室で身体と髪を洗い終えるとようやくほっとすることが出来た。それまでは緊張していたようだった。とにかく、怖かったんですよ・・・・・・。
 
 部屋のベッドに横になってメールをチェックする。
 着信は5件あった。
 
 [ねぇ、今何してるの?(絵文字)(絵文字)]
 [明日バイトの後時間ない?会いたい(絵文字)]
 [返信してよー]
 [まさか彼女の家?]
 [声聞きたいんだけど、電話しちゃダメ?(絵文字)(絵文字)(絵文字)]

 全部彼女からだった。宛名が全部同じ時点でうんざりだったけど、電話しない訳にはいかない。こういうのは早めに対応しないとマズいのだ。シフトが同じなので明日会うだろうし・・・。
 メールの返信を打っているといきなりドアが開いた。思わず声を出してしまった。
 「『ひゃあっ』だって、あはは」
 カレーは身体を[く]の字に折って笑う。
 「いや、仕方ないでしょ。誰だって驚くよ」
 部屋に入る時にはノックをして頂きたい。そんな権利ないと言われればそれまでだが。
 しばらく笑っていたがようやくおさまったみたいだ。
 「で、どうしたの?」
 「・・・ねぇ、今日ここで寝ていい?」
 えっ!?流石カレー、唐突だ!
 まじまじと顔を見てしまう。カレーは真顔。
 何を考えているか分からないよ・・・。
 ふざけている感じではなさそうだけど・・・。
 シャワーを浴びた後らしく髪の先が少し濡れていて、チェック柄のパジャマを着ている。胸の部分が盛り上がっていて・・・。
 「いいけど、一緒に寝るってこと?」
 違う、いや、違わないのかな・・・?、とカレーは歯切れが悪い。
 違うのか違わないのか・・・・・・。
 今までこんなことはなかったし、そんな予感なかった。今日のデートが何らかの影響を与えたのだろうか。それにしても、カレー的には告白とかすっとばしていきなりベッドなのだろうか・・・。大胆な人だ・・・。
 少し考えたが、カレーの望むままにしようと決める。
 シャワーを浴びた女の子をドアの前でもじもじさせておくわけにはいかないし・・・。しかしこのタイミングでカレーを抱くことになるとは思わなかった。兄妹(きょうだい)みたいに思っていたとは言わないが、異性として意識してはいない。
 ちょっとうつむいて、言葉を探している様子がいじらしい。
 まぁこういうなりゆきもあるのかもしれない。
 「いいよ、来て」
 身体をずらしてベッドを空けてあげる。
 カレーはその場に立ちすくんで、澄んだ目で僕を見る。
 あれ・・・?来ない・・・。
 この表情はなんだろうか、唖然としているようだ。
 目に色が入る瞬間を見た気がした。
 「バッカ、何考えてんの」
 「は!?」
 「信じられない。やけに動揺してると思ったらエロいこと考えてたんだ」
 「いや、えー?」
 「ほんと、そういうのじゃないから」
 いや、そういうことだと思うでしょ!
 誘われてるのかと思いましたよ!
 カレーは口汚く僕を罵った。
 スケベ野郎、破廉恥高校生、恋愛脳、などと色々言われる。
 「分かったから。分かったから」
 興奮が収まってから、カレーは部屋に布団を持ってくる。
 結局ここで寝るようだ。
 こっち来んな、あんま見んな、変なこと考えんな、と散々言ってカレーは電気を消し、横になる。
 理不尽だ・・・。
 カレーの気持ちは考えてみても良く分からない。
 なにせこれまで知りあってきた女の子達と違いすぎる。
 それに、女の子と同じ部屋で寝るというのにこんなに嬉しくないのは初めてだ。
 ドキドキはするが胸の高鳴りはない。
 目が冴えるが興奮はしない。
 とにかくタイミングが最悪だ。
 はっきり言って・・・、ホラー映画を見たせいで怖いんだよ!
 今の僕にはカレーが霊にとりつかれたり悪魔を呼び寄せたり謎の変死を遂げたりする想像しかできない。
 あぁ、早く朝になって下さい・・・。
 部屋は暗くて、隣の布団の影が濃い部分がカレーだろうか、よく分からない、怖い。
 「ねぇ、寝た?」
 突然暗がりから声がする。ひぃい。
 無論寝ていない。神経冴え冴え。
 動揺を悟られたくないのでわざと眠そうな声を出す。
 「・・・んー?」
 「今日ありがと」
 ぶっきらぼうに言った。今日のこと、カレーは気づいていたみたいだ。
 少しは気晴らしになっていれば良いけれど。
 どういたしまして?こちらこそありがとう?何て言えばいいのか分からない。
 迷っているうちに浅い息づかいを感じて、結局返事はしなかった。

   ◇

 夏休みが終わり学園祭が始まり、また終わる。
 気温が低くなって空気が乾燥して空が高い。
 休み時間にちょっと外の空気が吸いたくなって教室を出た。こういう時は屋上に行ってみたいんだけど、学校の屋上って映画なんかとは違って施錠されているものだ。危ないからね。代わりに廊下の奥からつながっている非常階段に南と勇介を誘った。
 ここ最近だけでも目まぐるしく色々なことがあった気がする。文化祭では占いをやって、合唱祭では民謡を歌って体育祭では優勝した。行事続きの1週間だ。
 [やっぱり地獄だった合宿]を乗り越えて身体が一回りでかくなった勇介と南は体育祭で大活躍だった。リレーではそれぞれゴボウ抜きし、騎馬戦では関羽、張飛もかくやと思わせる一騎当千の働きをした。
 「いずみ、てめぇ、自分は劉玄徳のつもりか?お前が俺らのリーダーなのか?あぁん?」
 「ミスターに選ばれたからって調子乗ってないか?」
 南は胸を張り、勇介は肩をいからせる。
 そういえば、学園祭で行われた人気投票で1位になった。
 はは、どうもどうも。
 「へらへらすんなよ」
 「女ってやつは男の外見しか見ていないってことが明らかになったわけだ」
 「同じことを女の子達も思ったんじゃないかな・・・」
 女子の1位は啓だった。体育館のステージ上で久しぶりに会った。小顔で腰が細く胸と尻は張り出していて青年誌で人気のグラビアアイドルみたいな体型だ。あらためて向かい合うとやっぱり見目麗しい。話しかけてもみたけど無視された。このまま自然消滅パターンな気がする。啓から無理やり近付いてきたのに離れる時はあっけないものだ。諸行無常なことであるよ。まぁ寂しいけど仕方ないね。
 形を成していない霞みのような雲を眺めていると勇介が咳払いする。
 「どしたの?」
 勇介と南は互いに目配せをして落ち着かない様子で身体を揺する。
 「お前、8組の杉並って知ってる?」
 いや、知ってるでしょ。カレーのことだ。
 「カレーがどうかしたの?」
 南は苦々しい表情で、呼び捨てかよ、とつぶやいた。
 「あのさ、いずみが杉並佳麗と付き合ってるって噂があるんだけど・・・」
 何それ・・・。学校ではほとんど会ってないんだけどな。
 「付き合ってないよ」
 「そうだよな、黛啓が彼女なのに二股なんてする馬鹿いねーよな」
 南は豪快に笑う。勇介が注意深くこちらを見ているので表情は変えられない。もうたぶん啓とは長くないだろうけど、残念ながら僕は南が言うところの馬鹿だった。
 「っていうかなんで急にそんなこと聞くの?」
 もしかしてカレーのことが好きなのだろうか。勇介か南がカレーと付き合っていることを想像してみるが上手くいかない。カレーは基本明るいがたまに暗く、優しいがドライでキレると手がつけられない。空気が読めないところがある一方で勘が鋭く繊細だ・・・。失礼だけど、初めての彼女としてふさわしいパーソナリティとはいえない・・・。いや、本当に失礼か。
 「いずみが杉並と私服で一緒にいたのを見た奴がいるんだよ」
 勇介はなおも疑いの目を向けてくる。腕組みして仁王立ちする姿は迫力がある。
 「あと、お前が杉並の家に入った目撃証言もあんだよ、本当に付き合ってないのか?おい?」
 げ、見られていたか。家に入る時はいつも注意してるつもりなんだけどな・・・。
 眼光鋭くこちらを睨む2人にひとつ咳払いをする。もう、目が血走ってるよ怖いなぁ。
 「付き合ってないってば」
 勇介はやっと表情を緩ませる。
 「あぁ、良かった、杉並までお前にひっかかってると思うと胸が痛んだ」
 「なにそれ。カレーは友達だよ」
 「じゃあ噂は出たらめってことか?」
 カレーと私服で町を歩いたことはあるし家に行ったことがある、というか住んでるし、おまけに一緒の部屋で寝たことまである。
 「まぁ否定はしないけどね」
 「なんだそれは!じゃあ一緒にいたのか?」
 「杉並の家に入ったことあるのか?」
 返事をしないでいると2人は呻き肩を落とす。
 「杉並、見損なった。清楚だと思ってたのに」「女なんてもう信じられない」「家で何やったんだよ・・・あぁ・・・・・・」
 南は頭を抱え、勇介は悶絶している。キ、キモい。
 「勝手な想像するなよ・・・」
 「うるさい!お前に俺たちの気持ちが分かってたまるか!」
 「異性不純交友反対!」
 2人は謎のハイテンションで暴れ出す。こいつらってパワーが余っているんだよね。南と勇介のどつき合いを眺めていると予鈴がなる。次の授業は国語だ。面倒くさいなー。
 「教室戻ろうよ」
 互いの肩を殴り合っている2人をおきざりに先に歩きだす。
 ちょっと待て、と後ろから勇介の声。
 「おい、いずみ」
 「は?」
 「お前と杉並さんの噂なんだけどさ」
 何度も蒸し返されるとさすがにうんざりだ。
 「なに?」
 ちょっと言い方がキツかったかもしれない。勇介は苦笑いして遠慮がちに続けた。
 「その、啓さんに頼まれたんだよ・・・本当か確かめてくれないかって・・・・・・」
 えぇ・・・?何なの、マジで。
 
   ◇

 放課後に6組に行ったが啓には会ってもらえなかった。取り次いでくれた女の子は気の毒そうな顔をしてそれが余計に恥ずかしかった。メールを送っておいたが返事は来るか分からない。この調子ではこないだろう。啓がこのタイミングで行動を起こした意味を考えてみる。僕の友人を通して不実を確認してきたというのがポイントで、勇介が僕に啓の名前を出すところまで想定しているはずだ。啓の名前が出れば勿論こちらから会いにいく。いや、行かないこともあるかもしれないけど、それはまさしく仮定の話で僕なら行く。だけど会うのを啓は断った。啓からすれば僕が啓のところに行くことまでは読んでいるはずなので、断ったのも何か意志のあることなのだ。何の?嫌がらせか、駆け引きか・・・。啓は人当たりが良くて接しやすいが考え方に女子特有の回りくどさやずるさがある。例えば、啓から積極的に近づいてきて付き合うことになったのだが、周りの友人には僕から[告白された」と話していたし、自分の感情を隠してこちらの気持ちを知ろうとしたりする。友人は男女共に多いがスクールピラミッドを感じる人選をしてるように見える。目的が駆け引きならば関係修復の可能性もあるが、嫌がらせだったら恋愛関係が壊れ別れることになるだろう。ここで重要なのは別れる/別れないということではない。きっと、啓の美学と価値観を満足させるような過程が大事なのだ。その結果が別れることになっても。まずは啓の気持ちを探り、知ることが最優先だろう。
 「ねぇ、何真面目な顔してるの?」
 「そう?」
 「してた。悩みでもあるの?」
 「いやーないない」
 悩み、というか考えてることならあるけど正直には話せない。啓もそうだし、カレーのこともある。カレーはこのところ毎日僕の部屋で寝ていて、様子が心配だ。祥平さんがあんまり良くないようなのだ。
 「あ、嘘ついてる」
 彼女は目に笑みをたたえて身体を絡ませてくる。
 学校帰りに彼女のマンションに寄った。部屋はピンクを基調としたかわいい感じでアロマの良い香りがする。ベッドのマットは体が沈むほど柔らかい。
 「ついてないよ」
 「ついてるでしょ」
 首筋に鼻を押し当ててきてくすぐったい。思わず笑ってしまう。彼女はつられて笑いながらもYシャツを脱がせようとしてくるので慌ててそれを逃れる。
 「いやいや、あ、もう帰らなきゃ」
 門限を守らないとカレーにまた激怒されてしまう。
 「もうちょっといてよ」
 「ダメ」
 瞳をうるませて見つめてくるがその手には乗らない。
 身体を起こしてベッドから立ち上がって身支度を整えていると後ろから抱き締められる。
 彼女は耳元でささやく。
 「また来て」
 顔だけ振り返ると彼女は上目遣いで甘えた顔をしてくる。きっと自分の可愛い角度を知っているのだ。でもそういうのは僕には通じないよ。
 またね、と笑ってキスをすると、予期していなかったらしく彼女は身体を震わせる。
 ゆっくりと顔を離した時、見つめ合った目の奥に強い光が宿っていた。少し嫌な予感がする。
 僕としたことがより深くひっかけてしまったみたいだ。
 大人なのにすぐ本気になっちゃダメだぞ、なんて思うが、高校生と付き合う女子大生ってそんなに大人でもないのかな?

 帰り道になんとなくコンビニに入って商品を眺めると牛乳プリンがあったので買ってみる。無性に食べたくなる時ってあるよね、これ。2つ買って、カレーが食べなかったら両方食べよう。コンビニから出る時に勇介の話を思い出す。カレーの家に入るところを目撃されたらしい。周りを見てみるが知り合いは誰もいない。というかもう日が落ちて薄暗いので良く分からない。それに、用心しようと思ったが注意して防げるようなものではない。
 駅から10分程歩いた住宅地は密集しているのに静かだ。明かりが灯っていて家族の団欒を想わせる。一人で大きな家にいるカレーを思うと早く帰った方がいいような気になる。そうして一歩を踏み出した瞬間突然後ろから突き飛ばされる。
 「っわ!」
 「きゃあ!」
 言い訳させてもらうと、背中を押してきた力はかなり強かったわけだし、突然だったわけだし、普段は出さない上ずった声が出てしまったわけだ。
 後ろを振り向くとカレーだ。
 「何あんた、ふ、ふははは」
 僕の悲鳴が笑いのツボに入ったらしくその場で身体を折って笑いだす。
 髪を振り乱して肩掛けのスクールバッグが揺れている。
 「しょうがないじゃん、おどかすためにやったくせに」
 「だからってさ、ふ、あはははは」
 閑静な住宅地にカレーの笑い声がよく響く・・・。
 なかなか笑いは引かない様子だったがやがて落ちついたので並んで歩く。
 「今日遅いじゃん、どっか行ってたの?」
 「ちょっとね、ふひひ」
 僕を見てまた笑った。
 制服のままだから学校帰りにどこかに寄ったのだろう。マックとか?
 そういえばカレーって友達いるのだろうか。部活は美術部らしいけど参加している気配はない。携帯をいじっている姿もあまり見ないし、もしかしてそういうことだろうか。かわいそうに。せめて僕だけでも仲良くしてあげよう。本当に友達がいないようだったら南と勇介を紹介してやってもいいし。2人とも乱暴でスケベだが優しくていい奴らなのだ。
 「ちょっと」
 「へ!?」
 「家、通りすぎてんだけど」
 「えぇ!?」
 信じられないものを見たみたいに目を大きく開くカレー。
 「いや、分かってたよ?」
 咄嗟に出た言い訳も苦しすぎる。
 は、何、あんた・・・、最後まで言い終わらないうちにカレーは笑いだす。
 他ならぬ君の事を考えていたんだけどなー。そんなに笑うことかね。
 笑いが止まる気配がないカレーなんて放って先に家に入りたいがあいにく鍵はもらっていない。当たり前といえば当たり前か。さっきの倍の時間を要してようやくカレーは回復する。グレーで塗られた階段を身体を震わせながら上がるので足を踏み外さないかと心配になる。もしもの時に後ろで受け止められるように手すりをつかんで昇った。
 「・・・もう。ひどいめにあった」
 「そんなに笑うことないじゃん」
 カレーは鞄から鍵を取り出してドアを開けてくれる。
 この場面を見られたらまた噂になっちゃうな。
 「どうしたの?入りなよ」
 まぁ、なったらなったでしょうがないか。カレーにはかわいそうだけど。
 脱ぎ散らかしたカレーのローファーも揃えて玄関を上がる。玄関を後で掃除をしよう。ちょっと汚れている。
 廊下の奥の洗面所からはうがいの音が聞こえてくる。仕返しに後ろから驚かすことを思いついたが実行はしない。どんな反応をするか読めないのがカレーだ。入れ違いに洗面所に入って手を洗い、なんとなくカレーの後をついてリビングに入る。カレーは制服のままソファーに倒れ込んだ。
 「制服しわになるよ」
 うっさい、とくぐもった声がする。
 丁度カレーがいるソファーから視線を上げたところにある時計を見ると18時30分だ。
 「なんか食べたい物ある?」
 「何があるの?」
 鳥肉だから・・・
 「親子丼か照り焼きかトマト煮かフライかな・・・」
 フライは時間かかるから勘弁だが。
 ソファーの上で身体を横にしてカレーはこっちを向く。
 「んーとね・・・、ねぇ、それ何?」
 コンビニの袋を持ったままだった。あぁ、これね・・・。
 ソファーの前にある長テーブルに牛乳プリンを袋から取り出して置く。牛乳プリンと僕をまんまるな目で順番に見るカレー。
 「牛、乳、プリンて・・・」、最後まで言い終わらずに爆笑する。身をよじってソファーから落ちて床でなおも笑い、文字通り笑い転げる。もはや意味が分からない。今日はカレーの笑いのツボが完全に壊れてしまっているのだろう。
 しまいには涙を流しながら顔を真っ赤にして笑うカレーを見ながらメニューを考える。なんだか夕飯に何を作っても笑われそうだ。呼吸を一生懸命整えながらカレーはソファーに這い登る。
 「あんた、私を笑い殺す気?」
 マラソンの後みたいに肩を上下させている。
 「いやぁ、まさか、こんなことになるとは」
 細く息を吐くカレー。
 「で、何だっけ?」
 「今日のご・は・ん」
 「そんなのどうだっていいよ」
 どうだっていいのか・・・。ちょっと悲しいぞ。カロリーメイトでも出してやろうか。怒られるだろうけど。
 最速で夕食の形が整う親子丼に決定する。とりあえず着替えよう。リビングを出ようとドアの前まで行く。
 「ねぇ」
 「ん?」
 カレーはもう笑ってない。真面目な顔だ。
 「やっぱいい、何でもない」
 「気になるよ、なになに?」
 「何でもないって言ってんでしょ!」
 急に大声を出されて慌てて退散する。
 はいはい。
 カレーの気まぐれにも困ったものだ。感情の起伏が激しく、脈絡がないので対応が難しい。

   ◇

 食後にスカパーの[アニマルプラネット]を見ていると珍しくカレーも隣のソファーに座る。手にはあれだけ笑っていた牛乳プリンを持っていて、おもむろにフタを開ける。プリンが2つにスプーンが一つ・・・?黙って横目で見ているとミルク味を少し食べてから隣のコーヒー味にスプーンを突き立てた。モニターを見たままでカレーはスプーンを口に入れる・・・。
 「ちょっと、普通どっちかじゃないの?」
 「え?」
 指摘されて初めて気づいたみたいだ。
 「私にくれたんじゃないの?」
 「一つは僕のです」
 それなら早く言えよ、とカレーはキッチンに行って取り皿とスプーンをもってきてくれる。いや、言わなくても分かるものじゃないかな・・・。ライオンは獲物を奪っても仲良く分けたりしない、そういうことだろうか。
 番組は猫特集をしていた。子猫が親猫にまとわりつく様子は実に心が和む。
口はピンクで毛艶が良く、ピカピカしている。
 「ねぇ、ペット飼ってたことある?」
 「金魚」
 カレーは即答する。金魚・・・・・・。
 魚ってペットに入るのだろうか・・・。いや、入るのかもしれない。犬か猫を想像してたけど、生き物をかわいがって一緒に暮していればペットだ。聞けば7年程生きていたようで、それは確かにすごい。カレーが水槽に手をかざすと金魚は寄って来たらしい。それは餌の時間と勘違いしてたんじゃないだろうか。
 「いや、お父さんがやっても来なかったし」
 「本当に!?」
 その金魚はカレーを認識してたというのだろうか?そうだとしたら驚きだ。金魚の知能も捨てたものではないのかもしれない。
 すごいね、というとカレーは得意気な顔をする。
 ペットの話をすると飼い主は馬鹿になるのだ。
 「いずみは?」
 「いや、残念ながら」
 犬も猫も金魚も飼ったことがない。一時期猫が飼いたくて調べてみたことがあるけどそれだけだ。あんなにかわいいのに、飼うとなると大変なことばかりらしい。ネットを調べただけでもトラブル事例が数多くあった。
 「なーんだ」
 それからサバンナで暮らす凛々しい猫をカレーと眺めた。猫は目つきが鋭くて野生を感じる。家でぬくぬくしてる奴らと俺は違う、とでもいうような。
 「・・・ねぇ」
 「はい?」
 「ペットの定義を述べよ」
 「は?」
 カレーは目を輝かせて薄笑いを浮かべている・・・。
 なんだか憎たらしい顔だ。この人って僕のこと小馬鹿にしてるというか、下に見ているふしがある。
 ペットの定義・・・ねぇ・・・・・・。こういうのは対義語を考えると早かったりする。アニマルプラネットでは家猫とサーバルキャットを対比させてた。ペットの対義語が[野生]とするならば、人に属してるってことか?でも商品になる家畜とペットは違うから、かわいがる動物ってこと?生産者の人って家畜もかわいがってるよね?意外に難しいな。
 「人が世話してかわいがってる動物・・・かな?」
 まぁ、そんなとこなんじゃないだろうか。そもそもこれって正しい答えあるの?誰が決めてるの?法律とか?
 「どう?合ってる?」
 カレーは首をかしげてにっこりと微笑む。
 「さぁ?」
 「『さぁ』って何。答え知らないんじゃん」
 僕の言葉を聞いていないかのようにこちらをじっと見つめるカレー。
 瞳が透き通っていてドキッとする。
 もう笑ってない。
 「ねぇ、いずみもペットに入るのかな?」
 うっげ!
 カレー、それを言いたかったんだ!なんかえげつなーい!
 必死で頭を働かせる。ペットにされてはかなわない。反論しないと。今僕が言った定義の[動物]に人間が該当するのだろうか、するかもしれない。じゃあ[かわいがる]はどうだろうか。ペットっていうと犬猫が筆頭だが金魚に鳥、蛇に虫と様々だ。ふれ合ったり会話できなかったりしても世話をするって時点で[かわいがる]を満たすのかもしれない。勿論僕はカレーと家族ではないし、ここに来た時は友達でもなかった。それに、[かわいがってない]って言われるのも寂しい気もするし、そんなことを主張するなんてそれこそ馬鹿みたいだ。え?何?もしかしてカレーのペットなの?僕?ちょっと、この辺ははっきりさせたくないし考えて欲しくない。うやむやに時間を過ごすのが居候道だ。
 僕はソファーを下りてフローリングの床に正座、カレーを仰ぎ見る。
 「あの、カレーさん、そのあたり、手加減してもらえないでしょうか・・・」
 そう言って地面に頭を擦った。
 こういう時はひたすら卑屈にへりくだるに限る。正面から張り合ってはだめで、肩すかしをするのが効果的だ。相手の攻撃的な気分が治まるまで待つべし。
 ふーん、とカレーはつぶやく。
 「あんたはペットっていうより召使かな?うーん、それにしてはねー」
 顔を上げるとカレーは足を組んで膝の上に肘を置き、頬杖をついている。
 「は、何でもお申し付け下さいませ」
 カレーはあきれたような表情になった。
 「前から思ってたんだけど、いずみにはプライドってものがないの?」
 プライドねー、ないねー。
 ヘラヘラしていると、何かを諦めたように息を吐いて手を軽く振った。[もういい、下がれ]、だ。御意に。空の容器と食器を持ってリビングを出る。キッチンを簡単に片付けて、使わせてもらっている部屋に向かう時につい考えてしまう。なぜカレーは僕を家に置いていてくれるのか。予想してることはあるけど、カレー自身が自覚していないと思う。

   ◇

 関東圏の学生で修学旅行といえば京都だ。
 僕らの2年2組では何のひねりもなく京都・大阪・奈良という行き先が担任からつげられる。2泊3日の関西旅行。
 クラスの反応はなんとも微妙なものだった。リアクションが薄い。[やっぱりね][最初から期待してなかったよ]そんな感じ。それでも実行委員の勇介が頑張り、ひねり出した[渾身のアイディア]によってクラスメイトは概ねこの旅行に満足したようだ。一人を除いて。その恐るべきプランとは、行動班別にそれぞれコースを提案し、ヒアリングを行った上で練り上げるというものだった。個別対応、というアイディア。営業マンばりの勇介の執念だ。そんな彼は善意で委員活動をしたわけではない。大きな野望があったのだ。
 勇介の真の狙いとは同じクラスの井上秋穂、通称アッキーだった。井上さんは身長が高めで、童顔巨乳。髪はショートで、滑らかなうなじがセクシーだ。男子と下ネタが言えるのに誰ともつきあったことがないらしく、やさしいところが勇介の気に入ったらしい。勇介の策略によって彼女の班と我々は常に行動を共にした。喜び、驚き、感動が盛り込まれたイベントの数々によって井上さんの心は揺れ動き、夜庭園で告白され、めでたくハッピーエンドになる・・・、はずだった。
 哀れ也!
 ほとんど勇介の目論見どおりに事は進んだがもっとも肝心の部分が失敗する。運命の女神は勇介に微笑まなかったのだ。3日目に終日呆然としていた勇介は痛々しかった。策略が裏目に出て、帰りの新幹線は勇介と井上さんは隣同士だ。気をきかせて僕が勇介と座席を替わったのだが、井上さんはやたら機嫌がいい。正直、もっと空気読んで神妙にしろ、と思った。だが、それはこっちの言い分で、勇介サイドの人間の発想だ。でも、井上さんは鈍感という感じではないのに、なんでだろう・・・。テンションが高くて、浮かれているみたいだった。積極的に話しかけてきて、ちょっと、やたら身体を押し当ててくる。しまいには座席の下、足の裏で僕の足を触ってくるわももの内側に手を添えてくるわで、この子イカンですよ、勇介さん!奴から聞かされていた井上秋穂像と全然違う。こういう子はちょっと、お近づきになりたくないな。でもきっと告白されたら断れないんだろうな。勇介には悪いけど。
 そんなただ遊び呆けただけの修学旅行にカレーは行かなかった。集合写真は写らない人間が逆に目立ち、学校行事もまた欠席者に注意が払われる。ふとしたときに思い出してしまって、旅行中カレーのことばかり考えていた気がする。やたらおみあげを買ってしまったし。
 一般的に怪我や病気、友達がいない、などの理由で欠席される学校行事だが、カレーは自身のことが理由で休んだ訳じゃない。なんとか誘ってみたけど、そうほのめかされるとそれ以上僕にできることはなかった。だからせめてものおみあげのつもりだ。
 リビングで生八橋の箱を開けたカレーは、餃子みたい、とつぶやく。定番だが、なかなか気に入っている。中はあんこで甘いのですよ。皮は特有の香りがするが、僕は好きだ。
 つまんで一口でほおばった。ほんとだ。甘い、と言ったらしい。もごもごと口を動かしている。
 「なかなかいいでしょ?」
 「ねぇ、それは?」
 やっと口が空になったらしく、今度はクリアな発音だ。
 がさがさと音を立てて包みを開けるカレー。
 「ッバッカ・・・。まさかとは思ったけど・・・・・・」
 修学旅行といえば木刀である。
 無用の長物とはまさにこれのことだけど、[修学旅行に行った気分]を重視する上では外せなかった。しげしげと眺めるカレー、鋭い目をしてその切っ先をこちらに向け・・・ないで、ください!危ないから!
 「待って!分かるでしょ!それ樫製だから!」
 振り回されたら間違いなく痛い。
 「こんなもん何に使うの?言え!」
 「いや、ほら、護身用に」
 「いつも脇に差しとけって?何なの!?」
 確かにいざという時には木刀は側にないだろう・・・。
 さんざん文句を言った後少し笑ってくれたので、まぁ良かった。無用というわけではなかった。ある意味役目を全うしたわけだ。
 ネタに走ったのはこれぐらい・・・、ではなくて地名の入ったちょうちんにペナント、青春18切符に外国人観光客向けのTシャツなんかも押さえてあった。他は銘菓に[ようじや]で買った実用品だ。
 ひとつひとつ検分したあとで、ありがと、とカレーはつぶやいた。
 わざとそっぽを向くので表情は分からなかった。ちょっと、そういうの、クセになりそうだから普通にお礼言ってくれないかなぁ。ハマってしまいそう。カレーのすることって、いちいち印象に残るのだ。

 「なんかもう行事終わったし学校行く感じしないな」
 どうせあとは受験になるのだ。普段から学習しているカレーとは違ってそろそろ始めないとまずそうだ。それぐらいは分かる。
 「・・・あんた、進学するつもりなの?」
 カレーは目を大きくして驚く。
 え、そんなにマズいのかな・・・僕。大学行けない!?
 「まぁカレーさんと同じとこには行けないだろうけどさ」
 「なにそれ」
 ふっ、カレーは笑う。
 「そっちは留守中変わりはなかったですか?」
 無言でうなずく。なら良かった。
 おもむろに立ち上がり、リビングを出るカレー。
 この話題はお気に召さないようだ。
 これ以上聞くのはやめよう。
 携帯をチェックするとバイト先に彼女と井上さん、それに啓からメールがある。なんだろうか。向こうからアクションがあってからまめにメールをしてクラスに足を運んでいた。そろそろ展開があると思っていた。落ち着いて、順番にメールをチェックしていこう。
 井上さんの他愛のないメールを読み終わったところで、いずみ、と呼ばれる。
 顔を上げるとリビングのドアの前にはカレーだ。
 「どう?似合う?」
 おみあげのTシャツを着ている。生地は黒で中央には金色の特大文字で、[侍]とプリントされている。
 うーわ、ダッセー。そしてそれが超イカす!
 
   ◇

 啓からのメールでようやく面会が許されることになる。
 明日の放課後職員室前で待ち合わせだ。職員室前って、不敵な人だ・・・。
 どういう話し合いになるか予想がつかない。啓のことが好きかと問われれば好きだが、別れたいかと言われればどっちでもいい。啓の知らない、今付き合ってる彼女とどちらを優先するかといえば啓だが、一人だけ選ぶことはできない。とりあえず明日に備えてパックをしておこう。この前彼女に分けてもらった資生堂のものが肌に合ってなかなか良かった。
 ねぇ、いずみ、と言いながらカレーが部屋に入ってくる。
 「ぎゃっ」
 「あはは、何?」
 素直に驚いてくれて嬉しい。
 「パソコン止まった」
 「はいはい」
 カレーの後ろについて部屋を出て階段を下りる。
 リビングの机の上にノートパソコンが乗っている。
 「見てもいい?」
 頷くのでモニタを覗くと[初期設定を完了して下さい]などと述べている。機械の分際で生意気をいいやがって。
 「どうしたの、これ」
 バンドのサイトを見ていたら動かなくなり、電源を落として再起動したらこうなったらしい。携帯でちまちま調べながら類似のケースを探して作業をする。無事復元できたのでよかった。パソコンに詳しいわけではないけどカレーよりはましだ。こういうの、南が詳しいんだよね。意外だけど。
 「はい、でーきました」
 「いい、切って」
 「使わないの?」
 「寝る」
 「そう」
 時計を見るともう日付が変わっていた。あ、パックとらないと。
 カレーの部屋までノートパソコンを運ばされる。部屋に入ることは許されていないけど運搬作業で足を踏み入れることは多い。カレーの部屋はシンプルだ。ベッドに本棚、製図用の大きいデスク。部屋の1角にオーディオコーナーがあるぐらいだ。壁に制服がかかっていなければこの部屋の持ち主が女子高生とは思われないだろう。
 カレーの指示の元、布団を僕の部屋に運び入れる。
 敷布団をベッドの隣に置くと、毎回必ず位置を直される。
 近すぎると離し、遠すぎると近づける。前日とほとんど同じ位置にしてもダメなので、どうやら自分で調整したいらしい。
 最近めっきり涼しくなったので掛け布団が一枚増えた。
 カレーの身体がすっぽり隠れるようになってしまう。・・・別にいいんだけどね。夏はタオルケット一枚だったから・・・。
 布団をめくってカレーは横になる。鼻まで掛け布団をかけて苦しくないのかな。
 「おやすみ」
 「まだ寝ないの?」
 「もうちょっとかな?」
 頭を上下させる。頷いたみたいだ。
 目をつぶったカレーは無垢な表情で、ずいぶん子供っぽくみえる。
 まつげが長い。
 肌の血色は一時期より良い。
 髪が流れて白い額が輝いている。
 コンディションが整えばかなりイケてる女の子だと思うけど・・・。
 オシャレして化粧して、カレーがばっちりキメる姿は見れないのだろうか・・・。
 「・・・ちょっと、見ないでよ」
 「寝てないじゃん、ってか目つぶってて分かるんだ」
 「視線感じるから」
 そんなものかもしれない。
 「ごめんごめん」
 「・・・もう、早く用事終わらせて来て」
 え?それって、僕を待ってるってこと?
 カレーは寝返りをうってこちらに背中を向ける。
 髪が波打ってきらめいた。
 
   ◇

 体育の授業はテニスで、ダブルスをやったのだが南と勇介相手にうっかり本気を出してしまった。
 2人はパワーはあるが経験不足で球を変化させると対応できない。
 「お前、今日機嫌悪いの?」
 「そんなことないよ」
 南はむっつりしている。拳を堅く握り締めているので悔しいのだろう。適当にやって負けてあげればよかった。なんか緊張してる、というか神経がとがっている気はする。テニスコート脇の荷物置き場からタオルをとって汗をぬぐう。身体を動かしてちょっとは力抜けたかな。
 啓は今どんな気持ちなんだろうか。
 ムカついてる?苛立ってる?緊張してる?
 どれもありえる気がするし、ありえない気がする。
 ただ、どんな気分でも表には出さないだろう。
 湖面に優雅に浮かぶ白鳥は水面下では必死に足を動かしている。
 涼しい表情をしているが一生懸命だ。
 啓は人に頑張っている姿をあんまり見せたくないようだ。余裕を好み、全力を隠す。ほんとは美容に気をつかい、人間関係に注意を払い、陰では一生懸命なんだろうけど。
 啓は僕を白鳥仲間としてみているふしがある。swan's lake。外から見る分には格好良くて好きなんだけど、同じようにはできない。たぶん僕にはプライドが足りないのだ。
 アヒルの中に混ざる白鳥、[醜いアヒルの子]、の逆パターンってわけだ。一見白鳥っぽいけど、アヒル。
 [美しい白鳥の子]?あれ?逆にならないぞ。
 啓のことを闘牛の2人に相談してみた。僕たちが座るベンチの前ではラリーが繰り広げられている。勇介は顔をうつむけて深く考えている風だが、僕の話を聞いて南は怒っている。
 「全く鼻持ちならねぇ匹夫だなっ!啓さんは別にお前が白鳥じゃないから離れた訳じゃねぇよ。お前が浮気者の最低野郎だから嫌気がさしたってことだ。自分を正当化しようとすんな!」
 よどみなく話す南。
 悔しいが一理ある気がする・・・。啓との連絡が途絶えたのは去年の夏頃、丁度カレーの家に転がり込んだ辺りからだ。だけどそうなるといよいよ僕が出来ることって、ないよね。
 「じゃあどうしたらいいのかな・・・?」
 勇介を挟んだところに座っている南の顔をうかがう。腕を組んで眉をいかめしく吊り上げていて仁王像のようだ・・・。
 南はにべもない。
 「謝罪して振られろ!そして大学生の彼女とやらを大切にしろ」
 う・・・、また正論っぽいぞ。胸に響くものがある。それがベストなのだろうか。勇介は[振られろ]のところで頭を抱えて身をよじり、苦しみだす。悲しみがまだ癒えていないみたいだ。南の説が正しいとしても、もうなるようにしかならないってことだ。立つ鳥跡を濁さず。啓が白鳥だとしたら、それはそれは見事に飛び立つだろう。僕は涙を飲んでその様を見よう。
 ひそかに覚悟を決めていると、再びテニスの順番が回ってくる。テニス部のクラスメイトと組んで、南と勇介をまたこてんぱんにしてやった。

 運命の時は近づく。
 5限目が終わって放課後になると職員室の前に啓がいて、先延ばしにしてきた結論を出すのだ。  
 行くのが億劫だ。胸が窮屈でキシキシとする。
 世界史の先生はオスマントルコ帝国の充実ぶりを目を輝かせて語る。好きなんだろうなぁ、歴史。腕をまくらにして一眠りしようとすると、教室の後ろのドアが叩かれる。割合大きな音だったので驚いて振り向くと、ドアのガラス越しにカレーが立っていた。必死な表情で、僕を呼んでいる・・・?
 慌てて席を立って教室を出る。
 「どうしたの?」
 カレーは唇を震わせて泣きそうな様子だ。
 お父さんが、とだけ言って、あとは顔を歪めて口を閉じる。
 落ちつけカレー。いや、僕か。
 とにかく入院している祥平さんに何かがあったらしい。
 すると、今から病院に向かうということだ。合ってるかな?
 「病院?」
 カレーは頷く。病院!
 教室に戻って携帯と財布が入ったカバンを持ってくる。
 「行こう」
 授業なんて知らない。
 早足で階段を下り、下駄箱で靴を履き、校舎を出る。学校から病院までどれぐらいかかるだろうか・・・。バスにもよるだろうけど、1時間はかかるだろう。青白い顔で無言のカレー。駅まで徒歩10分、電車に乗って40分、それからバスか・・・。学校の最寄り駅までの道がやたら長く感じる。このカレーの様子だとただごとではない。よく行くパン屋を過ぎ、本屋を過ぎ、マックの前を通る。大通りに来た時点で腕時計を見るとちょうど10分。ペースが早くて、カレーにはきつかったかもしれない。
 「大丈夫?」
 返事はない。
 定期をかざして駅内に入る。
 電車を待つ間、カレーは胸の前で両手を組んでいる。祈るようなポーズだ。さほど待たずに電車に乗れた。シートは空いているが座ろうとしない。僕もカレーの横で立っていた。現実感がない。電車の窓から見える景色はどんどん変わるが、目的地には辿りつかない気がする。浮遊しているような感覚。
 カレーはうつむいていて、髪が垂れてその表情を知ることができない。手すりをつかむ力が強くて、こわばっていた。
 「病院に連絡はしたの?これから行くって」
 本当は何が起きたか知りたいんだけど。口を開いてはもらえなかった。カレーの様子が明らかにおかしい。これは、そういうことなのかもしれない。
 たぶん、現状を把握しても、できることなんてないのだ。
 息を吸って、吐く。息を吸って、吐く。
 ただ静かに動作をすることだけ心がける。
 電車に運搬されていく。
 ただの物体になる。
 カレー、隣にいる?
 横目で見ると、電車に乗ったままの姿勢でそこにいる。
 祥平さんと会った時のことを思い出す。
 こういう時、どうしたらいいんだろう。
 電車は地下に入って、窓の外が急に暗くなる。
 時間の感じ方がおかしい。
 カレーもそうだろうか。
 もう、着いてしまった。
 やっと着いた、というべきかもしれない。
 降りようとしないカレーの手をとって、バスターミナルに向かう。途中タクシーがあることに気づいて、そちらに乗り込んだ。運転手は愛想の良さそうなおじさんだったけど、行き先を聞いて、カレーの顔を見ると黙ってしまった。手が冷たい。温めてあげたいけど、たぶん、僕の手も冷たいだろう。そんな気がする。車は坂道を何度か越えて病院の前につく。白く無機質で、やたら大きい病院。
 行ける?
 うつむいたまま、カレーは一歩づつ足を前に出す。
 病院の受付に並んで、やがて順番になる。行き先はいつもの病室ではない。カレーの手が小刻みに震え出す。僕はいたたまれない気持ちで、ただ辛い。祥平さんは亡くなったのだ。

   ◇

 カレーは祥平さんの手をずっと握っていたが、瞳は暗く、呆然としていた。告別式、通夜と葬儀をひととおり済ませ、霊柩車が祥平さんを迎えに来た時も無表情だった。火葬場は近県にあったんだけど、そこは高台の崖の近くにあって、寂しいところだった。風が強い日で、少し伸びた髪をカレーはなびかせる。その後ろ姿を見てたら涙が止まらなくなってしまった。カレーの気丈な振る舞いが、なんだか胸に来たのだ。
 別れを悼む時間がないほどごたごたしていたけど、ようやくそれが収まり出す。カレーは学校を休むというので、それもそうかと放っておくと、休みはその日に止まらない。翌日、二日、1週間、定期テストが始まり、終わり、冬休みに入ってしまう。カレー・・・。
 カレーはふさぎこんでいて自分の部屋の隅で眠っていたりぼうっとしていたりしているようだ。食が細く、これまで作ってきたお気に入りメニューも全て残し、一番[食いがいい]のはウィダーインゼリーという状態だ。一度は倒れて点滴を打った。カレーの様子があまりにも厳しいのでバイトを予定より早くやめた。しばらく一人になりたいのかもしれないけど、一人にさせたくない。カレーは何も言わないし話さないし語らない。これがいつまで続くのかは正直分からないけど、カレーが立ち直るのをひたすら待つことにしよう。待ってあげたい。それまでは家の掃除をして温かい料理を作り、受験勉強でもすることにする。勉強したくないけど。何も言われないから分からないが、いつまでこの家にいられるかも分からない。既に居心地が良くなってきたこの家も、カレーの意向次第では立ち去らないといけない。そんなことになったら受験どころではなく、非常にまずい。彼女の家は1LDKで無理だし、啓とはよりを戻して元鞘、毎日電話とメールしてるけど、幸せな啓の家族に僕が入る余地はない。頼みの綱は勇介で、いざという時は実家の寺に置いて頂きたい・・・!冬休み前に勇介と南にはこれまでのいきさつを話した。2人は呆れ、怒り、説教を垂れたが、一定の理解を示してくれた。いや、「わけがわかんねぇよ、お前・・・」と言われたんだっけ。
 ケーキを買ってチキンを焼いたもののカレーは部屋から出ないクリスマスを過ごし、新年のカウントダウンを一人で広いリビングで迎え、元日はカレーと顔を合わせることはなかった・・・・・・。避けられているようなふしがあり、理由を考えても分からない。やっぱり一人になりたいんだろうか・・・。「そっとしといてあげろよ」と勇介は言うし「焦らず、様子を見ろ」と南は助言をくれる。く、この2人、いざという時頼りになる・・・・・・!それで、とりあえずカレーのことはたまにちょっかいを出しつつ放置しておくことにする。お風呂は毎日入っているようなので、色んな種類の入浴剤を置いておいたり、香りで誘おうとマドレーヌを焼いたり、部屋の前でアロマを炊いたりしてみた。
 反応なし。うむ。
 学校が始まってスクールメイトとの再会があるが、家で一人のカレーのことばかり考えてしまう。
 「お前さ、ちょっと疲れてないか?」
 「は?」
 「気づいてないのか、ため息野郎!」
 僕は憂鬱な表情でため息をついていたらしい。
 「いや、さ、そろそろ受験じゃん?」
 勇介と南は顔をしかめる。
 痛ぇんだよ、そういうの、と南は吐き捨てるように言った。
 「君ら学部決めたの?」
 南は決めておらず、勇介はなんと医学部!
 無理無茶無謀!、と南と一緒にからかうが、「俺はやる」と言葉少なに言って、格好いい。顔は悪いけど。去年の秋以降僕の中で勇介の株が上がりまくっている。僕はまぁ学費が安い公立か国立の中で狙えるところを目指すよ。
 学校は気晴らしになって良い。カレーも来てみればいいのに。友達いるか分からないけど・・・、友達!?カレーの心を動かせる親友がいるかもしれない!
 早速勇介と南に手伝ってもらって8組の調査をする。そして、分かったことがある・・・。奴め、友達がいない!意外にも当たり障りなくやっていたらしいが、特別親しい人はいなかったらしい。優しくて静かな人だよね、と啓の友人の女の子は言っていた。どうやら家と学校では様子が違うらしい。そういえば、澄ました顔で廊下を歩く姿を見たことがある。カレーの性格って、好き嫌いがはっきり分かれそうなもんだけど。そして、一年以上一緒に暮らしてきた僕だから分かる。これ以上の調査はまずい。探偵団は解散だ。たぶんこの話題ってカレーの逆鱗に触れる類のものだ。怒らせてみればカレーの気分も変わるかもしれない、とも思ったが、現段階で刺激は禁物だ。積極的な介入はできないと分かっただけでも収穫かもしれない。カレーの心が変わることを待つしかないんだ・・・。
 
 その日帰ると、偶然部屋から出てきたカレーとはちあう。
 やぁ、と微笑みかけてみるが、言葉は返してもらえない。
 カレーは僕を無視して、素通りする。
 階段を降りて、トイレに行くようだ。これはチャンスだ。
 トイレのドアの開閉音を聞いてから、カレーの部屋のドアを開ける。
 ドアノブがべたついていて、手を見ると血がついてた。ドアノブには血痕。
 嫌な予感がしていつもカレーがいる部屋の隅に行くと、紙屑が山になっている。拾いあげてみると、それは写真の断片だった。血がついているものも多くて、指紋の跡がある。おそらく手で力任せに破いたんだろう・・・。これだけの量だ、両手が傷ついてもおかしくはない。どんな写真かは確認したくない。ちらっと目に入ったのはずいぶん若い祥平さんだったから、たぶん・・・・・・。
 足音を立てないように静かに部屋を出た。
 胸がドキドキしている。
 このまま放っておいてもいいんだろうか。・・・よくない気がする・・・・・・。
 部屋の前で待っているとしばらくしてカレーがやってくる。
 足取りがしっかりしておらず、ふらついている。
 「・・・ねぇ」
 また僕を無視して、部屋に入る。
 このままじゃいけない、ドアを開けてカレーを追う。
 「ちょっと」
 腕をつかむと、ゆらり、とこちらを振り返る。
 痩せたみたいで身体が一回り小さく見える。
 「ちょっと話でもしようよ」
 なんて声をかけようと迷ったが、そう、カレーと話したい。
 ただ会話を少しすればいいんだ。
 声が聞ければいいんだ。
 目を線のように細めるカレー。
 こうした後、カレーは怒る。尻尾を逆立てた猫と同じサインだ。
 でも僕をどなったりしない。そのまま力なく部屋の隅にいってしまう。
 写真の残骸が散らかった布団の上に、崩れるようにして腰を下ろした。

   ◇

 夜、雪が降った。
 外に出てみると雪は粒が細かくて軽い。じっと見つめていると視界がゆらぐ感覚がする。きっと雪が微妙に揺れていて、軌道が不規則だからだ。見上げてみると黒い空に雪が無限に重なっていて、立体的だ。かなり寒かったけどしばらく外にいた。頭の芯まで冷えていくような気がして心地良い。
 土曜日は彼女と、日曜日は啓とデートした。彼女は大学の試験が近いらしくて珍しく少しとげとげしかった。そんな様子なので早めにマンションを出て1ケ月ぶりに元のバイト先で一人ご飯を食べる。帰りにキッチンに入って挨拶すると喜んでくれた。大学入ったらまた雇ってくれるらしい。ありがたい。カレーとは顔を合わさなかった。次の日啓とデートしたんだけど待ち合わせ場所から既に機嫌が悪くて何を話しても反応が悪い。今考えれば啓は関係ないんだけど、前日の彼女や日々のカレーの態度で僕も苛々していた。なので午前中からホテルに連れ込んで啓を抱いた。ベッドでは啓は従順で僕にされるがままだ。付き合った時からすごく感度がいいが、やり直してからゴムもつけなくなった。ピルを飲ませている。啓の中で射精すると、ごくりごくり、と精子を飲むみたいに膣を動かしてきて、それがたまらなく気持ちがいい。むしゃくしゃしていたので携帯でハメ撮りしてやった。
 終わった後に自己嫌悪に陥っていると、啓は僕をまっすぐ見て語りだす。いつもと様子が違う。目は必死で、自分を選んで欲しいと懇願してくる。もっと大事にして欲しい、と言葉を尽くして訴えてくる。いつも隙がなくて本心を巧みに隠す啓とは思えない。

 「ごめんね、でも啓は一番大事だよ」
 「嘘」
 「嘘じゃないって」
 最優先は啓だ。彼女ともそういう条件で付き合ってるし、啓がこの前疑ってきた井上さんとは何もない。
 「・・・ひどいよ、いずみ」
 啓は身体を震わせる。
 抱き締める腕に力を込めて、もう片方で頭を撫でてやる。大事にしていないつもりはない。啓のことは好きだ。本当に。
 「他の子と別れて。あと、佳麗さん・・・」
 カレーのことは話していないけど、知っているらしい。どこまで知っているか分からないけど。情報源は勇介と南だろう。
 「カレーとは付き合ってないよ」
 一緒に住んでいるだけだ。・・・だけ、といえないのかもしれないが、そういう事情があるので啓を直視できずに顔を背ける。
 だから言ってるの、と啓はつぶやく。
 「その子のことばっか考えるのをやめてよ・・・付き合ってないんでしょ!?私のことだけ考えてよ・・・・・・彼女は私なんだよ・・・?」
 声が震えていて痛々しい。
 こっち見て、という声に引かれるように顔を向けると、啓は瞳に涙を溜めている。整った眉に手入れの行き届いた肌、目を奪われてしまう。長い髪は薄暗い部屋の中でもしなやかでつややかさが分かるようだった。最近のカレーとはえらいちがいだ。
 しばらく何もいわず、2人で抱きあう。
 本当に啓は好きなんだけど、求める付き合い方は、残念ながらできない。考え方を以前にも話して、それでいいって言ってくれたんだけど、感覚的には受け入れられなかったのだろう。ごめんね、傷つけて。これ以上はちょっと、無理かもね・・・。名残を惜しんで、啓の髪を撫でる。キメこまかくて、指に纏わりつく。髪の先をつかんでみると、手からするりと逃げていった。抱いていた啓の身体を離してベッドから立ち上がる。一度シャワーを浴びてこよう。これから初めて、自分から別れを切り出すことになる・・・。
 啓と目があった時、何かを感じとったのかもしれない。部屋を出ようとすると、嫌、と声をあげる。振り返らないで進むと、後ろから啓が飛びついてくる。前につんのめったが、踏みとどまった。
 後ろを向くと、啓は僕の目を見て首を振っている。
 嫌、やめて、お願い、なんでもするから、別れたくない、と言葉を重ねる。足元に跪いて、額を足の甲につけた。お願い、お願い、と何度も何度も言う。
 あのプライドの高い啓にここまでさせてしまうなんて・・・・・・。
 そんなことしないで、と言葉をかけると啓は泣き崩れる。
 白い背中に放射状に髪が散っている。
 啓が泣きやむのを待って、一緒にシャワーを浴びた。
 結局別れることはなく、「また話そう」ということになった。本当に啓には申し訳ない。

   ◇

 8組の担任の先生にカレーがこのまま欠席しても大丈夫なのかを聞いた。化学の教科担当の先生なんだけど、無精ひげがすごくて着ている白衣はいつも汚い。一年の中間期末と赤点を連続してとり、補習を受けて以来割と話しやすい先生だ。
 「電話してもいつも出ないんだよね、遊田君、連絡とれるの?」
 先生は困った顔だ。
 「最近はとれません」
 1ケ月以上会話がない。ここ2日は顔を合わせてもいない。困った顔をしたいのは僕だよ・・・。
 本当は教えちゃいけないんだけどね、と前置きして出席簿を開き確認する。ありがたいんだが、本当にまずくないですか、それ?しかし教えてもらえるのは助かる。なんとこのまま休んでも進級はできるらしい。テストは受けないとまずいらしいが。思いがけない朗報だ。だが、果たしてテストまでに学校に来れるのだろうか・・・。はっきりいって疑わしい。
 「なんとか伝えたいと思います。」
 「よろしく。そうなったら、一度こっちに連絡するように言ってくれるかな」
 お礼を言って職員室を後にした。家によく電話がかかってくるんだけど、カレーは無視している。僕は電話をとる訳にはいかないし・・・。カレーの家に住んでることなんて学校には話せない。そのうちのどれかが学校からの電話だったのだろう。
 もう学校には用事がなかったんだけど、なんとなく家には帰りたくない。かといって勉強する気分ではないし、啓や彼女とも会いたくもない。なんか疲れた!眠い。最近眠りが浅い。カレーが原因とは言わないけれど、漠然とした心配や不安が頭の隅にずっとあって、脳の一部が常に活動してる感じがする。
 目的もなく校舎を歩いていると3階の自分のクラスに着く。慣れなのか所属に回帰する本能だかは分からない。教室には誰もいなくて、電気がついていない。そのまま自分の席に座って机に顔を伏せてみた。退屈な授業を受けている時なんかはこうして寝てしまうのだが、まな板の上に乗った魚になったような気分になる。机の天板が木目模様で茶色いから、こんなことを思い浮かべるのだろうか。意識は遠のくが、うとうととしただけで、やはり眠れなかった。カレーは眠れているのだろうか・・・。
 立ち上がりがたくてうだうだしているといつの間にか時間が経っている。今から教室を出ないと門限に間に合わない。一度しか破ってないけど、その時カレーはそれはそれは怒った。怒髪天を衝く、とはかくやといったふうに。
 カレーの怒声、懐かしい気がする。
 声を聞きたい。サラサラとした聞き心地の良い声。ダイナミックな笑い声。このさい罵声でも怒声でもかまわない。話もしてくれないのは一緒の家に住んでいて辛い。何も出来ない自分がもどかしい。いっそ遅く帰って怒られてみようかとも思うが、きっと企みはカレーに気づかれないまま終わるだろう。気づいていても、そんな僕を放っておくかもしれない。それにカレーのご飯もある。あ、ウィダーインゼリーが切れてる。買っておかないと。
 立ち上がろうと足を動かそうとすると、動かない。おかしいな、と思って上体を起こそうとしても全然だめだ。落ちついてやろうとしても動かなくて焦る。困った。まるで夢の中で足掻いているようで、自分の身体が思うように動かない。いや、動いてはいる。かなり鈍くて重いのだ。一生懸命やろうとするのだが、そこで意識が途切れる。
 何が起ったのか分からなかったがさっきのは夢だったのだろうか。眠っていた気はしない。気を失っていた?今度は身体が動いて、上体を起こすことができる。時計を見ると針は19時を回っている。今から教室を出ても、門限オーバーは確定だ。とりあえず携帯を出してメールを打つ。
 [ごめんなさい。家に帰るのが遅れてしまいます]
 カレー、携帯見てくれるだろうか・・・。一応携帯と家に電話もかけてみる。誰も出ない。
 身体が動くようにはなったものの普段より重くて動かしづらい。なんとか学校を出る。
 駅までの道は平気だったが電車の席に座るとまた意識を飛ばしてしまう。気づいたら乗り過ごしていて、カレーの家についたのは結局門限を2時間も過ぎていた。
 カレー家の門の前で様子を伺ったが、物音ひとつない。カレーの部屋の窓からはカーテンを通して明かりが見えるから家にはいるのだろう。カレーはどんな反応をするだろうか。怒るだろうか、それとも気づいていないだろうか、無視するのだろうか。怒られてもいいよ・・・。むしろ、カレーの激怒が見たい気がする。実際はかなり大変なんだけど、それぐらいのことがあっていい。階段を昇ってドアの前に立った時に、鍵を持っていないことを思い出す。鼓動が大きくなる。嫌な予感がする。
 ドアに手をかけて、開ける。開かない。
 これは・・・。
 なんでだ・・・?
 僕が学校に行った時はドアは開いたままだ。鍵を閉められないのだから。普段家に帰るとドアは開いている。ずっとカレーが部屋にいたとするならば、今ドアは開いていてもいいはずだ。でも開かない。
 つまり、カレーは鍵を閉めるのだ。
 きっと僕が登校してからドアの鍵を閉め、帰ってくる頃に開けてくれていたのだ・・・。
 いつもドアは開けっ放しで門限破った今日だけ鍵を閉めた可能性もあるけど、さすがにそんなことはしないだろう。
 カレーの信頼を裏切ったような、悪いことをしてしまった気がする。
 インターフォンを押す、誰も出ない。電話をかけても無反応だ。ノックしてもだめだし寒空の下で1時間半待ってみてもダメだった。こういうことになるのか・・・。今日家に入るのは諦めて彼女に連絡をしてみる。返事がすぐにあって、泊まってもいいらしい。カレーの家からも近くて本当にありがたい。マンションのドアを開けてくれた姿は大げさではなく天使に見えた。今日で全ての試験が終わってテンションが高い彼女と最近暗めの僕とは噛み合わなかったけど仲良くすごせた。最初一緒のベッドに寝たんだけど、彼女が眠った後も寝れなくて、キッチンの狭い通路に横になった。何度かうとうとすることが出来たけど、快眠からはほど遠い。

   ◇

 彼女は寝ていたので起こさずに家を出た。学校に行かないとならない。鍵を閉めて、それをドアについている郵便受けに入れたんだけど大丈夫だろうか。昨日と同じ下着にYシャツで気持ち悪いけど、夏じゃなくてまだマシだった。シャワーも浴びれたし体はすっきりしている。
 休み時間に南と勇介、それに井上さんとしゃべっていると、井上さんが急に顔をYシャツの首元に近づけてくる。
 なんか、前にもこんなことがあった気がする・・・。
 「ちょっと・・・、どうしたの?」
 身を離しても寄ってくる。顔を上げた井上さんは唇の端を上げて薄く笑った。猫みたいな目が光る。
 「いずみ君、いつもと匂い違うね」
 何それ!?
 何かに気づいたの?この子?いつもと体臭が違うってこと?同じYシャツ着てきたから?いずれにしろ怖い。南と勇介は胡散臭そうな目を向けてくる。
 「ごめんね、実はYシャツ、昨日と同じのなんだ」
 だから離れてね、と言うが、もう一度井上さんは顔を近づけてとうとう顔をくっつけてくる。
 「違う。これって・・・女の人の・・・・・・」
 うわ、何言う気なの、この子!?たまらず席を立って逃げ出した。待て、と追いかけくるのは南と勇介だ。懸命に走ったが廊下の奥で捕まる。
 「今度は何だ、井上と何かあったのか?」
 「どういうことだ!説明しろ、いずみ!」
 知らないよ!僕だって!
 南に後ろから羽交い締めされる。痛い、痛い!
 2人には昨日起きたことを話した。呆れたような、うんざりしたような表情をされる。
 「だってしょうがないじゃん。行くとこなかったんだから」
 それよりも、と勇介は沈んだ声を出す。
 「俺、あんな井上見たことない・・・・・・・」
 「お前、分かってると思うが、いい加減にしろよ?」
 南は真面目な声だ。
 いや、何もないし、僕はどうも思ってないよ。
 ちくしょうっ、と声を出して勇介は抱きついてくる。うわっ!突然なんだ!?勇介はさっき井上さんが顔をつけた場所に頬ずりをしている。馬鹿さと気持ち悪さを通り過ぎて、哀れに思ってしまう。かわいそうに・・・。
 南は勇介の気持ちが分かるのかしきりに慰める。「まぁ俺らにはそのうちいいことあるさ、いずみにはいずれ天罰が下るだろう」
 天罰は昨日下ったかもしれないんですよね・・・。
 
 全ての授業で集中できず、かといって眠れず中途半端な時間を過ごした。頭が働かない。首の上にかぼちゃが乗っているんじゃないかと思うほどだ。カレーは昨日ご飯を食べただろうか。冷蔵庫に食べ物は入っていたはずだが、調理が必要なものばかりだ。肉を生のまま口に入れるカレーを想像する。ダメだってば、ちゃんと火を通さないと。あ、ハムが入ってるか、チーズも。昨日彼女に作ってもらったオムライスはおいしかったな。ハートの形のケチャップがイタかったけど。校舎には集中暖房がかかっていて、教室はやたら暑い。ブレザーを脱いだけど頭の奥に熱がこもる感じがする。加熱されてるみたい。教壇から2列目の席に座る南を見るとYシャツ一枚に袖をまくりあげている。さすがに一人だけ季節が違うぞ・・・。南の広い背中を見ていると無性に夏の海に行きたい気持ちだ。ビーチで波の音を聞いて昼寝をしたい。南国リゾート。そうだ、カレーも連れていってあげよう。白い砂浜に瑠璃色の波打ち際、カレーもきっと泳ぎまわったりしない。2人でゆっくり過ごせるはずだ。場所はパラオかモルディブがいいな。ハワイは混んでるイメージだ。無人島とまではいわないが人はあまりいない方がいい。

 放課後になって、緊張しながら校舎を出る。心臓が飛び出そう、という表現があるが血液がどんどん送り出されて鼓動が強い感じがする、胸が内側から叩かれているようだ。リラックスするように心がけて駅まで歩くが、自然と早足になってしまったのだろう、すぐに着いてしまう。不安なのでマックに寄ってコーヒーを飲む。全然味がしなかった。黒い液体の表面に自分の顔が写っていて、強張った表情だった。トイレに行って鏡の中で一人笑顔をつくる。ただでさえ家には辛気臭いカレーがいるのに、僕まで仏頂面してたらよくない。顔を両手で揉んで表情筋をゆっくり動かすこと10分、ようやく自然な表情になってくる。何をしているのかと自分でも思う。鏡の中の自分と目が合って、笑ってしまった。君、必死に何やってるの?少しの間そうしていたが、いつまでもトイレで一人で笑っているわけにはいかない。心を落ちつけて個室を出た。いつも通りにしよう。電車に乗り、もう住んで1年半になるカレーの家に向かう。謝れば、いくらカレーだって許してくれるはずだ。
 昨日と全く変わらない様子のカレー家は、部屋の電気がついていて、物音はしない。階段を昇ってドアを開ける、開か、ない!気落ちするし悲しくなるけど、チャイムをならしてドアを叩き、メールを打ち電話をする。何も反応がない。ドアに背を預けてしゃがみ込む。コンクリートの地面が冷たい。開けてよ、カレー・・・。
 幸いここは家の正面に来ない限りは近所の人も僕には気付かないはずだ。しかし寒い。今日は晴れていたので気温が下がるが早いのだろうか。夕方だったのが、夜になる。暦の上ではもう春らしいが、うそっぱちな程寒い。このまま眠ったら凍えて死んでしまうのだろうか・・・。大げさか。たぶん、これぐらいでは死なないだろう。カレー、一生懸命お父さんの世話をしててショックだったんだろう。ずっと一人だったようだし。きっとその気持ちは僕なんかには分からないものなのだ。残念だけど。なんとなく一緒に住ませてくれた理由は分かっている。たぶん、カレーは一人でお父さんを看取りたくなかったんだと思う。でも、それが終わったらお役御免っていうのはひどいんじゃないだろうか。カレーは優しくてキツくてしっかりしてるけど天然な部分もあって論理的で感性が鋭く、クールだと思えば情に厚い・・・。複雑な人で未だにカレーは捉えきれない。僕じゃカレーを理解できないし、力になれないかもしれないけど、せめて関わらせて欲しかった。
 夜中まで待ってみたけど、結局ドアは開けてもらえなかった。
 とうとう野宿するハメになるかと思ったけど、捨てる神あれば拾う神あり!勇介からメールがあったので折り返し電話をする。とりあえず家に泊めてくれることになる。ありがたい。バスもなかったので駅からタクシーで最寄り駅まで向かった。深夜のタクシーって超高い。2駅分で2200円もとられた。こんなにするなら走っていけば良かった。不幸中の幸いか、必要なものは全て持っている。しかし、これからどうなるのだろうか・・・。
 駅前で勇介は待っていてくれる。
 私服を見るのは久しぶりだ。私服といってもジャージだけど。
 「とうとう女に捨てられたか」
 軽口を叩かれるが笑えません・・・。文字通り捨てられたような気がしてるから。
 案内されたのは寺ではなかった。
 「寺に住んでるわけないだろ」
 考えてみれば当たり前か。カレー家も広かったが比べものにならない程勇介の家はでかい。
 まさに坊主丸儲けだ。とてもそんなことは言えないけど。
 玄関も広くて、鷹の剥製や伊万里焼の大皿なんかが置いてあってつっこむ気も失せる。絵に描いたような資産家だ。リビングで父親に挨拶をしてとりあえず今日泊めてもらえることになる。客間を使っていいらしい。
 長い廊下からは整えられた庭が見えて、別の世界に来てしまったみたいだ。勇介は医者希望だし、妹が一人しかいないから僕に寺を継がせてもらえないだろうか。
 部屋はフローリングで少し意外だった。
 客間といえば和室な気がしたからだ。
 あんまり汚すなよな、と言って勇介はすぐに部屋を出て行く。ずいぶん気をつかってくれているみたいだ。ありがたく床に座って壁に背をもたれさせると、今日のことが遠い。色々あったような気がするが、家に入れてもらえなかった、という一言に尽きるだろう。起こったことは少ないが、思考の流れは長かったし重かった。さっぱりと整えられた部屋は清潔で落ちついた内装だったが、布団に横になって目を閉じてもまったく眠れなかった。

   ◇

 「そんなにいいなら今度この俺も泊めてもらおうじゃねぇか!なぁ!」
 南は非常階段の手すりに背を預けている。腕を組んだ二の腕は木の幹のように太くごつい。
 「お前を泊める部屋などない。どこぞの山にでも下るがいい」
 傲然と言い放つ勇介。
 てめぇ、と南はいきりたつ。
 「ふざけやがって。やんのか?おい?」
 言うが早いか勇介の上腕を殴りつける。
 「望むところだ。思い知らせてくれる」
 勇介は助走をつけて勢いよく殴り返す。鈍い音がした。
 ぐわぁ、と南は声をあげる。
 「あ、わり、強すぎた?」
 痛みに顔をしかめる南を気づかう勇介。
 何をやってるんだ、毎回・・・。
 勇介の家は居心地が良かった。お母さんの食事は朝晩おいしく、お弁当まで持たせてくれる。食材の下ごしらえなんかは手伝えると思うのだが、申し出ると断られてしまった。キッチンは不可侵の聖域らしい。調理技術もさることながら盛り付けに品があり、華がある。味付けも繊細でだしが効いていてやわらかい味だ。何よりも、父、母、勇介、妹と仲良く食卓を囲んでいるから美味しく感じるに違いない。その中に入れてもらっているのだが、毎回目頭が熱くなってしまう。ありがたい。夕食の後には部屋に呼ばれ、お父さんが訓話を説いてくれる。お父さんの話は面白く、教養を感じる。ただの銭稼ぎに目がない坊主ではなく、人格が優れているようだ。僕の事情やここに至る経緯については詳しく聞いてこない。考えさせられるような話で、そこから何か気付けということなのだろう。妹はかわいく、勇介はいかつい。
 そんな名田家に移って今日で1週間になる。家族に優しくしてもらうほど、考えるのはカレーのことだ。家で一人、大丈夫だろうか・・・。血がついた写真を思い出して、嫌な想像をしてしまう。早まったことをしないで欲しい。ちゃんと食べて夜は寝て欲しい。学校に来て欲しい・・・。毎日電話をかけてみるがやっぱりカレーは出ない。
 「またでかいため息か」
 「ほっとけ、どうせ女のことを考えてんだよ」
 そうだけどさ・・・。
 「あ、そういえば啓さんとは上手くいってんだろ?聞かせろよ」
 「そうだ。あの子とヤってんだろ?どんな感じだよ」
 いつも通り下品でいやらしい奴らだ。無論、話には付き合わずに黙殺だ。何も言っていないのに卑猥な妄想で2人は盛り上がる。しかし南も勇介も知らない。現実は彼らの想像を凌駕しているのだ。

 黒板の上で革命が起こる。フランスでは18世紀の終わりに王を中心とした封建体制に対し平民が反抗、王を捕らえて処刑した。発足した議会も一枚岩ではなく、派閥争いに内乱、粛清、クーデター。血みどろの大量殺戮を伴う大義は価値のあるものなのだろうか、と世界史の先生は熱っぽく語る。
 はっきりいって全然ついていけない。先生の太い声は腹に響き眠気をさますが、内容は耳から耳へと通り抜ける。どうやら頭の中が空洞になってしまった。スカッスカ。何かが通っても抵抗なし。それに世界史の授業って去年の晩秋の日以来好きじゃなくなってしまった。何か嫌なことが起りそうで。何にもないのに時々携帯をチェックしてしまう。熱心な先生には悪いんだけど。あの日からまだ3ケ月経っていない。遠い昔みたいに思うのに。時間の流れるのがやたら遅く感じる。
 諸行無常の境地で瞑想にふけっていると、教室の後ろのドアが叩かれる。意外に大きな音で驚いて後ろを振り返る。既視感に総毛立つ。
 まさか!
 ドアの前に立つのはカレーで、大きなマスクをつけていて目は無表情だ。
 何で!?
 目が合うと顔をそらしてドアから少し離れる。急いで鞄をひっつかんで教室を出る。
 久しぶりに会ったカレーは髪につやがなくて痩せていて目の下のくまがひどかった。制服にコートを羽織っていて鞄を持っていない。何て声をかけていいのか分からなくてじっとみつめてしまう。カレーは無言だが、僕を睨んでいる。
 「久しぶりだね、元気だった・・・?」
 声がかすれて出た。
 なんていうんだろうこの気持ちは。とにかく喜ばしいはずだ。なにせこれまでずっと家にいたカレーがここまで出て来たのだから。その上僕に会ってくれるなんてこれ以上望むことはないのかもしれない。でも、自然と笑顔になる僕とは違ってカレーの表情は硬く、責めるような目だ。もしかしてまた良くないことがあったのだろうか・・・?これ以上何が・・・?
 「ねぇ、何かあったの?」
 遠慮がちに聞くと、カレーは顔を背けて僕の手を引いた。
 げっ!また何かあったんだ!
 手を握るカレーの力は強くて、伸びた爪が手の甲に食いこんで痛かった。本当に何があったんだろうか。祥平さんの時は勘ずいたけど、今回は本当に分からない。
 ねぇ、大丈夫、カレー?、返事はもらえない。
 カレーにつれられて早足で校舎を出て、まっすぐ駅につき、電車に乗る。
 どこかに移動するらしい。ここまで急いだのでカレーはくたびれている。
 ちゃんと食べているのだろうか。一見病的な感じには見えないだろう。制服はクリーニングに出した後だし、髪はゴムで一つに束ねられ、マスクでごまかしている。
 座ったら?、空いている座席を指さすがそれも黙殺される。カレーに従うしかない。どこに行くか不明だけど。何かが起ったのかもしれないのに不謹慎だが、手をつなげて嬉しい。ずっと無視されていて、今も口を開かないけど避けられていたと思っていたのだ。家にいても顔を合わせようとはしなかったし、カレーがふさぎこんでいる原因に僕が入っているかとすら考えたのだ。この調子だとどうやらそれはなさそうだ。
 平日の午後で、一番利用者が少ない時間なのかもしれない。車両に人は少なく、がらがらだ。
 これだけ席が空いているのに立っている姿はちょっと変かもしれない。まぁいい、僕らを見る人もいないのだ。
 何も考えないで流れ去る風景だけを漠然と見る。視点を手前にもってくるとドアの前のガラスに手をつないだ僕とカレーが映って、まるで2人が景色の上を移動しているようだった。
 3駅目に停車した時にカレーは腕を引っ張ってくる。
 え?降りるの?
 そこはカレー家の最寄り駅だった。
 駅のターミナルでタクシーに乗り込み、車はすぐにカレーの家の前に着く。
 意味が分からない。家で何かが起ったということだ。
 何かあったの?、と聞くと一瞬手の力が強くなった。痛いぐらいだ。
 カレーの表情を横目で盗み見ても何も読みとれない。全くの無表情だ。階段を上がり、開けてもらえなかったドアの鍵をカレーは開ける。カレーに導かれるまま家の中に入る。
 ずいぶん久しぶりに家に上がった気がするが、たったの1週間しか経っていない。
 息を吸いこむと家の匂いがして落ちつく。彼女の家とも名田家とも違う。良い匂いが特別するわけではない。でも特有の匂いはするのだ。洗面台に行くのかと思ったら、階段を上がる。手、洗わないの?と思うが、連れて行かれるのがカレーの部屋で僕の理解を超える。
 立ち入り禁止されている部屋のドアが開き、中に連れられる。
 部屋の中は、汚い。広い部屋はシンプルで物が少なく散らかりようがないはずだが、ゼリー飲料の空が無造作に捨てられているし、タオルや衣服が床に脱ぎ散らしてある。写真の破片の山もそのままだ。
 口を開こうとするとカレーは目でそれを制する。
 鋭い目つきで、迫力がある。つないでいた手を離し、ドアから一番離れた部屋の隅に行くように促される。さすがにいい予感はしないが言われた通りにすると、カレーは部屋のドアに戻って、鍵を閉める。そもそも2人しかいないのになんでだろうか。ぼんやりとカレーを眺めていると、施錠した鍵の上にビニールテープを一生懸命巻く。ちょっと異常だ。作業が終わって、こっちに来る。こちらを振り返った瞬間、カレーの形相が変わる。肩をいからせて、目は血走っている。眉の端は上につり上がっている。
 僕の目の前まで来て、唇を微かに動かす。
 何で?
 へ?
 何で出ていったんだよ!
 突然カレーは大声を出した。カレーの唇が切れた瞬間が見える。
 何でって・・・入れてくれなかったじゃん
 あんたが約束破ったからでしょ!
 でも、謝ったし、電話もメールもしたんだよ?
 謝られてない!
 それはカレーが会ってくれなかったからだ・・・。そもそもそれまでの間ずっと部屋から出なかったし、僕のことを無視していたじゃないか。でも、カレーに何を言っても無駄だろう。早くも僕は悟る。
 ごめんなさい
 ふざけんな!
 これまでで一番の激昂だ。すごい剣幕で全部怒鳴り声だ。
 謝っても許さないから!
 勝手に出て行くな!
 何でずっとドアの前で待ってないの!?
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい
 本当に理不尽だが、興奮が鎮まるまで待たないとならない。
 ひたすら謝っていると、馬鹿にすんな!とカレーはそばにあった木刀を手にとって僕に振るう。
 とっさに腕でかばったが、骨に響くような痛みがある。力の加減をしてない。
 痛いよ、ちょっと、待って
 カレーの目が据わっている。
 鋭い目つきで睨みつけてきて、本気で身の危険を感じる。
 待って、ちゃんと話して
 最後まで聞かず、力任せに木刀をなぎ払う。振り抜いた切っ先が部屋の壁に当たって重い音を立てた。
 やばい、と思った瞬間に足が動いて、ドアの前まで走るが、ドアが開かない。ドアノブがさっきのカレーの細工のせいで回せない。部屋の隅に追い詰められた僕をカレーは叩く。
 痛い、やめてよ
 うっさい、あんたが悪い!
 腕や足を何度も叩かれる。
 謝れよ!
 ごめんなさい
 許さない!

 何度目かに振り下ろされた木刀をやっとつかんで、カレーの手から奪う。
 やめてって
 武器を奪われてもカレーは怯えたりしない。
 私を殴る気?
 目は強い光を帯びていて、背筋良く立つカレーは猛々しい。
 そんなことしないから、ちゃんと話そ?
 木刀を床に放り捨てようと思ったが、また使われてはかなわないので窓から放り捨てることにする。窓の傍に歩いていくと、窓は閉まっていて、鍵が入口と同様テープでふさがれている。
 カレーの方を見ると無表情でまっすぐ僕を見ている。
 なんて奴だ・・・。
 最初からこういう計画だったのか・・・。
 しかたがないので木刀は床に投げる。
 カレーは責めるように言う。
 どこ行ってたわけ?女の家?
 違う、勇介って知ってるでしょ?そいつの家
 許さないから
 なんでよ
 許さないから
 話すから、聞いて
 ヤダ
 お願い
 ヤダ、絶対許さない

 こんな調子でずっとやっているが、きつい。カレーの怒りが収まる感じがない。あの日以来、内に籠った感情が爆発したのだろうか。
 こういう形で!?
 「ねぇ、ごめんなさい、僕が悪かったから」
 「あんたが悪いのよ」
 「僕が悪いです」
 何度も謝って土下座をしてみてもカレーの心はほぐれない。ひたすらカレーに媚びてみる。
 「どうすればいいの?お願いします。許して下さい」
 カレーはようやく自分を抑えてきて、ずいぶん余裕のある表情に戻った。ふぅ、今回の怒りはかなり持続したなぁ・・・。
 カレーの前で正座して言葉を待っていると、やがて唇を動かす。
 「あんたもうこの部屋から出さないから」
 は?なんで?
 「あの、どういうことでしょうか?」
 「家から出すと帰って来ないからここから出さないって言ってるの!」
 意味不明だ。
 頭の中でカレーの行動を整理してみる。カレーは僕が門限を破ったことで怒った。謝罪がなく、他人の家に寝泊まりしたことが火に油を注ぐことになった。僕を連れ戻しにカレーは学校に来て、部屋では僕を殴った。僕が家を出ると帰ってこないので部屋に閉じ込めることにした。
 訳が分からない。
 全然つながっていないように思うが、カレーの中では因果関係があるのだろうか。
 「この部屋にいろってこと?」
 カレーは頷く。
 「分かった」
 すぐに返事をする。深く考えても無駄だ。
 カレーはもう一度頷いて、オーディオコーナーの方に歩いていく。目で追っていると多目的収納の引き出しを開けて、プラスチックケースを取り出す。
 「いずみ、手出して」
 言われた通りにする。
 「両手」
 苛立ったように語気を強める。
 ちょっと、乱暴にしないでよ。
 両手を出すと、カレーは銀色の手錠を取り出して僕に取り付ける・・・。
 ・・・・・・・えぇ?
 「あの・・・、なんでこんなの持ってるんですか?」
 「買ったから」
 部屋を見回してみると、Amazonの段ボール箱がある。インターネット販売で手に入れたのだ。親指を拘束する手錠はつけないでくれた。手首だけだ。これなら最悪逃げられるな、と思っていると、今度はチェーンを鞄から出して手錠の間につなげる。
 いやいやいや。
 チェーンの逆側をデスクにでもくくりつけられたら逃走は不可能だろう。指の太さほどもあるチェーンはちぎれそうもない。この人、本気で僕を監禁するつもり?
 「あの、逃げないからさ」
 「嘘」
 「本当。これはやめてくれない?」
 地震なんかが来たら助からないし、カレーのことも助けられないよ、と主張すると思案するように手を顎にあてた。
 ・・・どこまでも本気みたいだ・・・・・・。
 結局僕の主張は通り鎖でつなげられることはなくなったが、代案として[百叩き]の罰が用意される・・・。
 カレーは正座する僕のすぐ前に立ち、ルールを言い渡す。
 [この部屋から出てはならない][出た場合は木刀で百叩き]である。
 通信機器の使用は許可が必要でその他、必要に応じてルールの変更をするものとするらしい・・・。
 「あのさ、トイレはどうすればいいんですか?」
 「ここ」
 「どうやって?」
 カレーが取り出すのは尿瓶とお丸。
 「消毒はしたから」
 まっすぐな瞳で僕を見つめるカレー・・・。
 頼むから真面目な顔しないで!
 冗談だよ、って言って笑ってくれ!
 しかしいくら待ってもその瞬間はやって来ない。カレーの瞳は残酷なまでに澄んでいて、その意志は小揺るぎもしないようだ。
 冗談で言っている訳じゃないんだ・・・。
 もう、参った。どうにでもなれ、と壁に背を預けてずるずると足を伸ばし、横になる。
 なんとか楽観的に考えてみる。
 とにかくカレーと会話することはできたし、カレーは部屋を出て学校にも来れたじゃないか。それでよしと・・・、しよう。
 ・・・・・・。
 カレーはこちらを見て何かに気づいたような表情をする。それから、鞄と戸棚からタオルとバンドエイドをそれぞれ取り出す。
 「血、出てる」
 爪が割れたり、あちこち出血していた。どうも体中が痛いと思ったらさっきこの人にぶたれたんだった。カレーは丁寧に血を拭きとり、消毒液をかけ、バンドエイドやテープを巻いてくれた。ありがとう。でも君がやったんですよ?それ。きっと、カレーの心に矛盾はないのだろう。僕を折檻し木刀を振るうカレーと優しく傷の手当をしてくれるカレー。どちらもこの人なのだ。

   ◇

 部屋の中では自由に過ごしてもいいらしい。
 まずは勇介に電話をする。カレーは渋ったが電話を許可してくれた。携帯の操作はカレーがして、電話を耳にあてがわれる。誘拐された人質の気分だった。今日から名田家に厄介にならないことを伝える。勇介のお父さんにも替わってもらってお礼を言って、いずれ直接挨拶に行くと話した。頑張れよ、とお父さんは一言だけ言葉をくれた。ありがたい、けど、この状況ではどうすればいいんだろう・・・。
 とりあえずカレーと会話することはできるようになったので、話しかけてみる。学校のことを伝えると、そう、とだけ言った。それだけ。カレーは明日から行くの?僕は?怖いのでまだ聞かないでおく。なにしろさっきまで怒っていたのだ。
 他には当たり障りのないこと。言葉少なにカレーは返した。
 「ねぇ、何食べてたの?」
 「それ」
 部屋のあちこちにころがっているゼリー飲料とカロリーメイトだ。部屋の隅にでかい段ボールがあるんだけど、それってまさか。近くに行ってみると予想は当たっていた。ミネラルウォーターもある。箱ごと買ったらしい。栄養が偏るよ。これだけじゃ。
 話したいことがたくさんあったのに言葉が出てこない。カレーは壁に背中をつけて座り、無表情で虚空を見つめている。何を考えているんだろう。
 ぼんやりカレーを眺めているうちに時間が過ぎて、尿意をもよおしてくる。ドアは当然、封鎖されている。部屋を出ると百叩き、か。冗談のつもりで買ってきた木刀がまさか自分に振るわれることになるとは思わなかった・・・。カレーの目は据わっていて、本気だった。この分だと[百叩き]もマジでやるかもしれない・・・。かといって尿瓶を使用するというのもちょっと・・・。プライドなんてものは持ち合わせていないが人間の尊厳も失ってしまう気がする。
 「あの、カレー・・・」
 目だけこちらに向ける。
 「・・・トイレに行きたいんですけど」
 無言で尿瓶の入ったビニールバッグを指さす。
 ほんとに・・・、本当に!?
 二の語をつがせないカレーのまなざし。どうやら運命に抗うすべはないらしい。
 もう我慢もできない、仕方ない。・・・・・・仕方ない。
 「あっち向いててもらえる・・・?」
 興味なさそうにカレーは元通り座り直した。背中を向けてくれる気はないらしい。バッグから尿瓶を取り出す。
 マジか・・・。
 今日の昼まで、こんなことになるとは思わなかった。
 そして、僕の中で何かが失われる。
 なんだか色々壊れた気がする。
 カレーは立ち上がり、ドアのテープをはがす。
 「ちょっときて」
 呼ばれるままそばに行くと、テープをはがすように命じられる。力一杯巻いたのでとれないようだ。これは願ってもないことなのでテープをはがす。ぐ、硬ぇよ・・・。どんだけ必死に巻いたんだよ・・・。そして、手錠のせいで非常に作業がしにくい。時間がかかったが、ドアの封鎖が解かれる。どうするのかと思ったらカレーは僕の使用した尿瓶を持ってドアを開ける。外の世界が一歩先には広がっている。カレーは僕を一瞥して、「百叩き」とつぶやいて出て行った・・・。怖ろしい奴・・・。
 戻ってきた時には瓶が空になっていたので、中身をトイレに捨ててきたのだろう。ウォッシュペーパーを渡される。これで手を拭けということらしい。

 カロリーメイトを2人で向かいあって食べて、僕は勉強、カレーは思考に励む。これが全然はかどらない。時間があっても勉強ってやってられない時はやってられないのだ。かわりにすごく眠くて、まぶたが落ちてくる。
 「眠いね」
 返事を期待したわけじゃなかったが、「布団使っていい」とカレーは言う。
 布団って、部屋の隅に敷きっぱなしの、あの布団・・・?カレーがいつも使ってるもので、すぐそばには写真の山がある・・・。正直気味が悪い。だが、もう色々とどうでもいい気がする。これだけ重い眠気は久しぶりなので、いっそ眠ってしまいたい。参考書をしまって布団に近づく。シーツには長い髪の毛が落ちていて、ところどころのしみは血だろうか・・・。
 思考をやめて布団に入ることにする。
 足を入れかけるが、カレーが言う。
 「制服のままでいいの?」
 あ、そういうとこは気にしてくれるの?
 「着替えたい」
 隣の部屋からジャージと替えの下着を持ってきてくれる。戻ってきたときにはカレーも部屋着になっていた。手錠を外してもらい。着替えが終わるとまた施錠される。外してはくれないんですね・・・。
 布団に入ると、濃い、女の匂いがした。
 そんなこと想像していなかった。カレーっていちいち予想外のやつだ。
 明るいと眠れないかな、と思っていたが部屋の電気が消える。
 目を閉じると強い眠気があって、睡眠の予感がする。
 しかし、色々とあった一日だった・・・。
 しばらくすると足音が近づいてきて、背中側の布団がめくられる。
 静かにカレーは布団に入ってきて、少しだけ身体がくっつく。
 人の気配。
 存在感。
 ちょっと動揺したが、カレーは何も言ってこないので僕も何も言わない。
 背中の後ろ側が暖かい。

   ◇

 部屋に閉じ込められて4日が経った。
 カロリーメイト食にも慣れ、尿瓶を使って用を足すことにさほど抵抗がなくなってしまった。手錠も馴染んだ。同じ部屋に2人で生活するってストレスが溜まると思っていたが、思ったよりは快適な気がする。この部屋に十分な広さがあるからだろうか、15畳ぐらいはあるのかな?ストレッチはおろか、軽い運動ならできるだろう。それとも、相手が見知ったカレーだからだろうか。
 あんまり散らかっているので掃除をした。床にごみは落ち、衣服がちらばり、下着も無造作に放られていた。元々ものが少ないこともあってそう時間はかからない。部屋が片付くと、この部屋で監禁されているような感じはいよいよしない。小綺麗な部屋に女の子と一緒にいる感じ。
 カレーは寝てばかりいる。
 最初の日に僕は昼頃まで寝てしまったが、カレーが起きたのは夕方だった。目覚めてからも壁に背をつけてうとうとしたり、机につっぷして寝たりした。僕が勉強する目の前で。妙にカレーが近くに寄って来るので、寂しいのかと思って頭を撫でてみた。髪を触った瞬間カレーはこちらをにらみ、僕には木刀が振るわれる。
 「触るな!」
 脛をしこたま打たれた。悶絶した。
 でも夜になると布団に入ってくるのであった・・・。
 起きている時は話をした。
 漫画に小説、ドラマ、映画、音楽。これまで見たり聞いたり読んだりして、印象に残ったり気に入ったりしてるもの。
 学校の話もする。去年の修学旅行に学園祭、一年生の時と時間をさかのぼって中学生の頃の話。僕としてはこの辺はあんまり話したくなかったけど、しゃべってしまう。
 最初聞き役だったカレーも少しずつしゃべるようになる。でも、本当に小さなことだ。何かがカレーの中でひっかかってるみたいで時折顔を曇らせる。だんだん表情がやわらかくなってきたのに残念だ。話しづらそうにする時は話題を変える。南が占いを信じていて、制服のポケットにクリスタルの丸玉を隠し持っていることや、勇介が愛用の竹刀を[村雨]と名づけていることを話す。秘密にしろ、とそれぞれから言われているのだが。ふふ、とカレーは笑った。表情を緩めてくれたので内心2人に感謝した。
 カレーとはこの数日で前よりも仲良くなったが、相変わらず学校には行っていないしふさぎ込むことも多い。食事もちゃんと摂っていないので心配だ。というか、僕も強制的に同じ状況にされたわけで、自分の身を心配するべきかもしれない・・・。
 この状態を解消するにはやはりカレーの心を解きほぐし、心の平衡を取り戻してもらうのが一番だ。カレーが一人部屋にひきこもっている時に色々と調べてみた。親を亡くすと大人でもショックを受ける。それが長引く人もいるみたいだった。ましてやカレーはまだ高校生で、しかも祥平さん以外の家族がいない・・・。たぶんカウンセラーにみてもらうのがいいと思うんだけど、カレーは行かない気がする。そうなると気晴らししながら日常生活を送ることになるが、無趣味にみえるカレーには何がいいのか・・・。アロマを炊いたりバスボムを用意してみたのだが少しは気が紛れただろうか・・・。あぁ、僕は海に行きたいよ、エメラルドの海。何考えてるの、とカレーは顔を覗き込んでくるので、パラオ諸島の海がいかにすばらしく、そこで過ごす時間がいかに有意義であるかを語った。
 「一緒に行く?」
 「なんかいいかも」
 結構カレーは乗り気だ。
 「イルカ見たい」
 カウンセリングについて調べていた時にイルカセラピーっていうのがあることを思い出す。
 イルカセラピーとは動物療法の一種で、イルカの持つ【癒し】の力によって精神を高揚させるらしい。旅行会社のパッケッージとしても出ていて、人生に疲れたOLや悩みがあるサラリーマンがターゲットのようだ。イルカは動物の中でも知能が高く、仲間同士でコミュニケーションをとることができる。人間に警戒心はあるが馴れることもあり、一緒に泳いだりできるという。商品ではイルカを見たり泳いだりした後、船の上で各々の体験を語るセッションがあるようだ。やってることはイルカが介入しただけで、よくあるグループワークな気がするけど・・・。そういえば参加者の中にはイルカが笑いかけてきた、と感じる人や、イルカとしゃべった!、と言い出す人もいるらしい。真偽は不明だが、本当なら素敵なことかもしれない。カレーにそのことを話してみる。
 「イルカとしゃべれるの?」
 「らしいよ?」
 少しぐらいの冗談は許されるだろう。
 いいなぁ、とカレーは何度かつぶやく。
 やたらイルカ好きな人っているよね。優しそうだし、かわいいからだろうか。カレーもイルカファンなのかな?
 水上コテージから身を乗り出してイルカとおしゃべりするカレーを想像する。
 なんだか微笑ましい光景な気がする。
 カレーはふいに顔を上げてこちらを向く。
 「いずみ、イルカやって!」
 は?
 まっすぐ僕を見るカレー。
 透明な瞳で無垢な表情だ。そんな目で見つめないでくれ・・・。
 イルカやれってどういうことだろう。イルカの真似をしろってこと?どういうこと?確かにウグイス、カラス、カエルの鳴き真似には習熟してるけど・・・。カレーにも披露したことがあるけど・・・。その要領でイルカの真似をすればいいのだろうか。確かイルカは超音波を出して仲間と会話し、脳の前にはメロンという特殊な器官が・・・って、イルカの知識を確認している場合ではない。訳が分からんが、カレーのためだ、えぇい!やってやる!

 「キュィキュァクキュ」
 カレーは目を大きく開いて驚いた表情になる。
 「イルカだ!」
 「何で!?えぇ!?」
 「ィッキュキィィ」
 「すごい!うわぁ」
 カレーは僕に飛びついてくる。
 体に腕を回してきて、頬ずりをする。
 顔を上げて僕を見る。瞳が輝いていた。
 「イルカさん、どこから来たの?」
 「ィュキィィィュ」
 「パラオ諸島ね!すごい!分かる!」
 カレーは笑い出し、すごい!すごい!と何度も言う。子供みたいにはしゃいでいる。
 「なんで来てくれたの?」「カァキィュッカキィィッュィィ」「ありがとう、うれしい」「ッカッカッカッカクワァ」
 にっこりと微笑むカレー。
 「ちょっと待ってね、それ外してあげるね」
 急いでカレーは自分の鞄から鍵を取り出し、手錠を外す。
 「キュィュゥキュュキィ」
 「ふふ、ごめんね」
 カレーはしばらく無言で[イルカさん]に抱きついていたが、「イルカさん、聞いて」と静かに語りだす。祥平さんとの思い出から始まり、痴呆症になったこと。中学生の時の介護の日々。本当は部活続けたかった、とカレーは漏らす。
 「こんなこと言って、私悪い奴かな?」
 「リィユィキィュキュゥ」
 「・・・・・・ありがと」
 カレーは目に涙をためていたが、やがて大粒の涙を流す。ひとしきり泣いた後、まだ赤い目で、へへ、と笑った。
 「ねぇ、ここじゃつらいでしょ?水の中の方がいいよね」
 は?どこだよ、水って。プール?泳げないぞ、僕。あ、風呂か。
 「キッキッキュゥュ」
 「遠慮しないで!待って、用意してくるね!」
 声を弾ませてカレーは部屋を出て行く。
 おいおいおい。どうすればいいの?
 
 カレーに手を握られて脱衣所に連れて行かれる。どうなるかと思っていたが、カレーはおもむろに服を脱ぎ始める。シャツのボタンを外し、ジャージを脱ぐ。動作に迷いがない。あっという間に下着姿になる。背中に手を回し、サイズが全然合ってない小さいブラを外すと、抑えつけられていた胸が弾けて飛び出した。痩せてあばら骨が浮いているのに胸は大きい。乳首の色が薄くて、細かいうぶ毛が生えている。肌は白くて血管がうっすら透けて見える。カレーは腰を折って最後の下着を外し、あっという間に裸になる。カレーの裸を真正面から見る。全然恥ずかしがっていなくて、穏やかに微笑んでいる。脇や下の毛の処理をしていなくて、野生的な魅力がある。そんなカレーの裸に見とれている場合ではない。これ、どうすればいいの?こちらを見つめる目には邪心がない。カレー、僕を騙してるってことはないよね?いや、むしろ騙されていた方がいいのかもしれない。なんせ、いま、僕、イルカだ。
 考えている場合ではない。
 どうしたの?とでも言うようにカレーは首を少し傾ける。
 表情は自然でリラックスしているようだ。
 もうなるようにしかならないと覚悟を決める。
 「ッキュュキュィュユューー!」
 やけっぱちで一声鳴いて服を脱ぎ去る。
 下半身のある部分なんてつっ立っている。
 にっこりと微笑んでカレーは僕の手をとる。
 「さ、いこ」
 カレーに導かれるまま浴室に入り、身体を洗わずに浴槽直行。
 何はともあれ、お風呂に入るのも数日ぶりだ。濡れタオルで身体を拭いてはいたけど。ゆっくりあったまりたい。混浴だね。
 足をお湯につけると、ぬ、温い。
 給湯器の温度に目を走らせると湯温は27℃だ。
 イルカ基準か!
 「温度大丈夫だったかな?」
 「キュゥユュ」
 「よかった」
 浴槽では僕の足の間にカレーが入り、背中を僕の胸につけて寄りかかる。僕の腕はカレーの肩を抱くような位置にある。
カレーの身体には僕のギンギンの性器が当たっているが、そこは無視だ。どういうリアリティをつくっているのだろうか・・・。謎だが、終わりまで付き合うしかない。
 機嫌良くカレーは話の続きをする。学校の話や、家での話。
 [遊田いずみ]のことも語る。
 遊田いずみという男の子と出会った時、カレーは高1で中学から続く介護に心底疲れていた。「家がない」などとうそぶく同級生を拾ったのはこき使うためだったと言う。ベッドから動けず、痴呆が進行したせいでわがままばかり言っていた父はいずみが暮らすようになると急にしっかりとしたらしい。被介護者は家族には甘えるが、他人の前ではプライドを見せることはよくあることらしい。いずみは嫌な顔をせずに入浴や食事を手伝ってくれて助かり、炊事や家事ができるのでついでにやらせることにしたとカレーは言う。ナルシストで女にだらしがなく、頭が悪いが優しい、とカレーは淡々と言った。
 そんなふうに思われていたのか・・・。
 「夏休みにお父さんが入院して、一人で病院に行っていたんだけど・・・、ある日、いずみがついてきてくれて、帰りに遊んでくれたの。カラオケに行ったりして、本当に楽しかった」
 あぁ、あの日ね。楽しんでくれたなら良かった。僕も楽しかったし。
 「・・・その時から、いずみのことが気になってる。イルカさん、私、あいつのこと好きなのかな?」
 っはっ!?
 こいつ僕のこと好きなの?微塵もそんな気持ち伝わってないぞ!カレーめ!
 「ッッュイィッキュィィン」
 「そうかな、そうかも・・・」
 顔を赤らめてうつむくカレー。どうなんだよ。それきりこの話題は打ち切られる。
 そして、話の中で時間は進んで、祥平さんが亡くなる。
 カレーは体を震わせて、お風呂の水面が波立つ。
 しゃくりあげながら、カレーは話す。
 「お父さんが死んで、すごく悲しかったんだけど、やっとかって気持ちもあって、そんなこと思ってお父さんがかわいそうで、お父さんには私しかいなかったのに、申し訳なくて、何もする気がおきなくて、学校にも行きたくなくて、誰にも会いたくなくて、いなくなりたかった。私が生きてる意味ってなんだったんだろうって思って、ほんと、何も食べたくないのにお腹は減るし、私だけ残してってムカつくし、頭くるし、本当最悪って思って・・・・・・」
 カレーは両手で顔を覆ってしくしくと泣き出す。・・・・・・かわいそうに。やり切れない気持ちをぶつけてアルバムの写真を破ったりしたのだろうか。
 「いずみも本当ムカつく。私に気をつかってるのが見え見えで食べたくないのに好きなものばっか作ってきて、やたら話しかけようとしてきて、無視したら距離をとるし、変な匂いのお香を部屋の前で炊きだすし・・・」
 お香って・・・。アロマは不評だったらしい。
 「帰ってくるって言った時間に帰って来なくて、私と一緒にいるのが嫌になったかっていうの。約束やぶって、あいつが悪い癖に勝手にどっかいって本当自分勝手な奴」
 興奮してカレーはこぶしで水面を叩く。水が跳ねた。
 「だから、学校行って捕まえて一発殴ってやろうと思って、そしたら何も分かってないの、あいつ。ほんと頭くる。なんか殴られて喜んでるの」
 僕が喜んでいるように見えたのだろうか・・・。超痛かったんだけど。一発じゃないし。
 カレーはこちらを振り向いて媚びるような目をする。首筋から胸の谷間、下半身までパノラマで見える。絶景だ・・・。
 「ねぇ、私、どうしたらいいのかな」
 「ッキュゥンッキィユィイィイ」
 学・校・へ・行・け。僕・を・解・放・し・ろ。
 「・・・そうかな」
 そうだよ。
 「でもあいつ楽しそうだよ?私といて」
 「ッキィィュヤキィュキィッ」
 いや、これまでと比較したらね。そりゃ。会えば無視したりずっと機嫌悪かったりしたからでしょ。心配してたんだから。
 「・・・うん、もう少し考えてみるね」
 おい。

 「ねぇ、身体拭いてあげるね」、と言ってカレーはタオルで肌をぬぐってくれる。ボディソープはつけず、力は優しく弱い。イルカ仕様だ。カレーは薄く微笑んでいて、動くたびにカレーの柔らかい部分が当たるので下半身がムズムズする。カレーはばっちり僕の性器も握るがそれは介護でしてきたようにスムーズなものだった。
 身体を拭き終わると、カレーは僕に向きあい、首に腕を回して正面で抱き合う格好になる。じっと目をみつめきて、きらめく瞳に僕の姿が映る。それは勿論若く美しい人間だ。イルカなどではない。カレーの目には僕がどう見えているのだろうか・・・。不思議だ。
 しばらくそうしていたが、カレーは立ち上がる。
 「ごめんね、私、ちょっと寒くなっちゃった。イルカさんも出よ」
 手をとられ一緒に、浴室を出る。
 脱衣所では、バスタオルで身体を拭いてくれた。タオルは湿っていてちょっと気持ち悪い。カレー洗濯してないな。
 カレーは自分の身体を拭き、簡単にドライヤーで髪を乾かす。
 こちらを向いて、にこっと笑った。
 それが終わると僕の手をとって、部屋に戻った。服は着ない。
 部屋では布団の上でずっとカレーがしゃべっていた。何の中身もない話。祥平さんも僕も学校も出てこない話。カレーは晴れやかな表情で、よく笑った。つられて僕も、ッカッカッカッカ、イルカ笑い。
 夜、カレーがとった出前の寿司のネタだけを食べる。良かった、食べてくれて、カレーはそう言って笑ったが、僕としても生のアジが出されるのではないかと冷や冷やしていた。良かった、寿司ネタで。そういえば、イルカってマグロなんか食べるのだろうか。食べない気がするぞ。カレーはいつものカロリーメイト食。美味しそうに食べた。
 布団に寝そべり、[イルカさん]である僕に腕を巻きつけていたカレーだが、「今日はここにいて」と潤んだ目で訴えてくる。ということは、僕は明日までイルカだ。「キュィィィュキィィイ」「ありがとう」、カレーは腕の力を強める。ひとつだけ残して電気を消して、恋人みたいに抱き合って布団に横になった。カレー、いい匂い・・・。部屋は薄暗い。カレーはうっとりとこちらを見つめて、薄目にきらきらした光が見える。カレー、こんな表情するんだ、と思っていると、顔をかしげるようにして近づけ、唇を当ててくる。不意打ち。すぐに顔を離して「おやすみ、イルカさん」とカレーはつぶやく。キスをしたことで僕の中でスイッチが入りそうになるが、イルカさん、と言われたことで一瞬で萎える。僕の気持ちを無視してカレーは目をつぶり、静かに眠りに落ちた。


   ◇

 翌日、カレーは熱を出した。
 27℃の温水に長時間浸かり、部屋ではずっと裸でいたからだろう。
 ぐったりして見るからに具合が悪かったので部屋から出て看病することにした。[百叩き]が頭をよぎったが仕方ない。
 体温を測ると37度3分。熱の割に状態が悪いのは最近の不摂生のせいかもしれない。
 カレーの汗を拭いて服を着せ服を着て、僕の部屋のベッドに寝かせる。カレーの布団は汗で湿っていたし、血がついてたりでなんか不衛生だったのだ。
 冷えピタ貼って氷まくら作って、薬を探す。一通り揃っていて良かった。
 ベッドで横になるカレー。このまま寝てもらおうと部屋を出ようとすると、服の裾を手で握られる。
 まさか、イルカ継続中!?
 カレーはうつろな目で何かを訴える。
 手を握ると、安心したように目を閉じた。
 まぁ、これぐらいなら・・・。眠るまで手を握っててあげよう。
 しかし、カレーも不憫な奴だ。
 熱の時に食べるものといったらカロリーメイトとウィダーインゼリーだ。
 これじゃ、普段食べてるものと変わらないじゃないか。

 動けるようになるまで2日かかったがカレーは復活する。
 良かったね、と頭を撫でると、「触んな!」と言って僕の手を払う。
 何!?だが、僕がカレーに触れることが許されたのは[イルカさん]だった時だけで、[遊田いずみ]は同じ布団で寝たときですら手錠をかけられていた・・・。カレーは僕と1頭を明確に区別している。そして、それを考えると、今の僕は[遊田いずみ]だと認識されているわけだ。素直に喜んでいいんだよね、うん。
 カレーは時計を見ると僕の部屋のベッドから起き上がり、自分の部屋に行く。
 ついていくと、服を脱いで制服に着替えだした。
 学校に行くの!?
 あまりに唐突だがカレーは寝てる間に何かを考えていたのだろうか。
 きっ、と僕をにらむカレー。
 「何なの!?出てってよ」
 そりゃそうだ。
 僕も部屋で制服に着替える。登校できるの?展開の唐突さに信じられない思いだが、どうやらそうなりそうだ。
 先に着替え終わって少し待っていると、部屋から出てきたのは制服をばっちり着た女子高生のカレーだ。着崩していなくて、凄い清潔そう。顔色は良くて、唇もピンクだ。
 「ニヤニヤしないでよ」
 カレーはバツが悪そうに顔を背ける。
 本当に不思議。元気な頃のカレーに戻ったみたい。
 でも、何はともあれ、学校に行くらしい。
 カレーの後に付いて階段を下りる。もう家を出ないと遅刻だ。カレーはローファーを乱暴に履いてドアを開ける。施錠して、階段を下りる。
 いつもの日常に戻ったみたいだ。ずいぶん時間がかかったような気がする。
 でも良かった、ほんとに。
 家の前で歩き出すと、ねぇ、と声をかけられる。
 へ?
 立ち止まって、振り返ると手を握られる。
 指を交互に噛み合わせてがっちりとした握り方だ。力が強い。
 顔を見ようとしたが、カレーはすぐに歩き出し、表情は見れなかった。
 校門に入るまで、僕の手を離さなかった。

   ◇
 
 カレーも僕も無事進級する。
 3年生ではクラス替えがなくて、また勇介と南と同じクラスだ。
 だけど文系、理系、また習熟度別に授業は違うので、同じ授業を受けることも少なくなってしまった。
 ちょっと残念だ。
 誰から始めたのか分からないが、時間が空いていると非常階段に集まることになっていた。
 授業が終わってから廊下を抜けると、既に勇介と南、それにカレーがいた。なにやら盛り上がっているようだ。
 カレーは学校に出るようになってから僕らのグループに混ざるようになった。
 「今何の話してたの?」
 暑い日で、勇介も南もシャツの袖をたくしあげている。勿論僕はそんなことはしてない。
 僕の姿を認めると、2人はやたらと慌て出す。
 「いや、何でもないぞ、Y染色体の偽装と実践だっけか?なぁ?」
 勇介はメガネの位置を人差し指と中指で直した。縁なしのメガネには度が入っていない。彼の視力は1.5のはずだが、「勉強がはかどる気がする」と勇介はお気に入りだ。
 「おぅ!その通りだ!俺達もやってやれないことはないはずなんだ」
 南は勇介の肩を殴る。意味不明だ。
 仲間外れにされているような気分でおもしろくないので、ヘルプの視線をカレーに送る。
 カレーは涼しい顔で参考書を眺めていたが、息をふっと吐き出す。
 「・・・女装したいずみとHできるかどうか話してたよ・・・こいつら」
 はっ!?
 「言わないでくれるって言ったじゃん!」
 「ひでぇ!そりゃねぇぜ」
 でかい図体の2人はカレーに詰め寄る。約束破り、人でなし、裏切り者、などと口々に喚いている。 「うっさい!結論までバラすぞ!」
 「待って!それだけは!」
 「後生だ!俺達にも家族がいるんだ」
 まるで命乞いだ・・・。
 冷たい目でカレーは二人を睨む。
 僕は一人そら寒い思いだ。
 言えないような結論って・・・それ答え出てるよ・・・・・・。なんて哀れなんだろう・・・。
 それから僕も加わって中身のない話をする。カレーもときどき笑顔を見せて、ふはは、と笑った。
 なんだかんだ溶け込んでいる。4月に入ってからは登下校に手をつなぐこともなくなった。もう触れることもなくなって、昔に戻ったみたいだ。勇介と南にカレーを紹介した時、誇張ではなく飛び上がるほど喜んだが、程なくしてカレーの逆鱗に触れ、文字通り縮み上がった。「聞いてる話と違う」「女子って皆こうなのか?」「綺麗な薔薇には棘がある・・・」2人は口々に言うが、カレーの持つ棘はこんなもんじゃない。木刀を振るわれてからが勝負だ。カレーは上品ぶるのをやめたようで、僕の調査によるとクラスでもサバサバした性格を発揮しているようだ。前は猫かぶってたわけだ。「別にそんなことないから」と目を細めるのでそれ以上は僕も言えなかったのだが・・・。 
 「ねぇ、たまにはカラオケ行こうよ」
 「あー、いいな、けど引退したらな」
 「同じく」
 2人はまだ部活をやっているらしい。
 風が強く吹いて、それはまだつめたい。
 「えー、今日行きたいのになー」
 色々あったことがすっきりして、勉強しかすることがない・・・。
 「暇人め!勉強でもしとけ!」
 「そうそう、部活は今しかできないのだ」
 「今の我々の苦労が、血となり肉となり明日の糧となる・・・!」
 「お前にはなにもないな、いずみ!将来困れ!」
 「あ、私行く」
 カレーの一言で南と勇介は呻き苦しむ。羨ましい妬ましい、と悶え出す。2人を宥めながら一瞬だけカレーに視線を送ると、それを察して微笑みを返してくる。なんだかいい感じだ。そう遠くないうちに告白される予感がする。カレーと付き合うことになるのだろうか。

   ◇

 思い出はいつも美しいもので、高校生活もなかなか良かった。大変なことも多かった気がするけど、その時必死にやってきたおかげでどれもかけがえのないものだ。
 すがすがしく晴れた日で、まだ肌寒いけど新しい春を予感させる。
 となりを歩くカレーの表情は穏やかで、去年から伸ばしている髪は背中を越して、風になびいて輝いている。もう学校もあと一日だね、とお互いに微笑み合う。
 卒業式を残せば今日が最後の登校だ。
 ゆっくりと駅までの道を歩く。
 急いで駅を目指したり、出たりすると大抵大変な目にあった。そのことを言うと、やだ、とカレーは頬を赤らめる。
 余裕をもって電車に乗る。席が空いたので勧めたが、断られた。
 車窓の景色は流れていく。
 去年もその前もこんなふうに2人で電車に乗っていたのに不思議な気持ちだ。本当にタイムスリップしたみたい。
 時間の感覚。
 電車を下りる。学校の最寄り駅を使うことも少なくなるだろう。
 通学時間で生徒が一斉に学校に向かう。並んで歩く。
 「ねぇ、何が一番の思い出?」
 カレーは相変わらず唐突だ。
 「え・・・学園祭とか?」
 「なんで疑問形なの?じゃあ違うでしょ」
 そういうのは即答できるものだよ、とカレーは言う。
 そうなのだろうか・・・。でも、色々あって本当に迷うよ。
 「・・・で、カレーは?」
 ふっと息を漏らして目だけで笑う。
 「教えない」
 「なにそれ、ひどい」
 こういうのって最初に言い出した人が実は一番言いたいのだ。でも、カレーは笑うばかりで本当に話してくれない。
 まぁ、楽しそうだからいいけどね。
 学校が近づいて、もう校門が見える。
 思い出、と聞かれたので答えられなかったが、一番大きな出来事ははっきり答えられる。
 僕は結婚し、父になる。

 最後の登校日なんてのは授業はなく、学級活動だけだ。
 午前中にはそれも終わったので、勇介と南を呼んで久しぶりに集まることにした。
 5階の多目的室が空いているのでそこに入りカレーを待つ。
 カレーのクラスはまだ終わっていないみたいだ。
 机の上に座る南と勇介は相変わらずいかつく、制服がパンパンだ。南に至っては膝のあたりに穴が空いている。どうすればこんなことになるだろうか。僕のはクリーニングに出したばかりだし、我ながら綺麗なものだ。
 「あっという間だったな」
 「本当だぜ。まぁ、やり残したことはないけどな」
 お前と違って、と南は勇介を小突く。南も僕も大学が決まり、勇介はもう一年だ。
 「お前な、普通もっと気をつかわないかね」
 「てめぇにつかう気などないわ。剣道をやり過ぎて本物の浪人になるとは世話ないぜ!」
 南は勇介を挑発する。
 何を、やるのか、と2人は最後の殴り合いをしようとするが、その時カレーが部屋に着く。
 「あんたらの蛮行も見おさめね」
 ふはは、とカレーは笑う。
 勇介と南は呆然と拳を下ろし、カレーを見つめる。
 カレーを見おさめなのは2人の方なのだ。
 学校でなんでもない話をするのも最後だ。
 話し始めると脱線が起き止まらない、しかしそれが楽しいのだ。しばらく盛り上がっていると、カレーは僕に視線を向ける。
 「もう言ったの?」
 「いや、なんか、言いにくいし」
 「早く言いなよ」
 仕方がない、言うか・・・。
 南と勇介は僕らを見て騒ぐのをやめ、口を閉じる。余計言いにくいよ・・・。
 多目的室・・・静かだ。
 「いや、あの、子供が出来たから、結婚することになった」
 硬直する2人。
 たっぷり5秒は固まった。
 先に動きだしたのは勇介だ。
 「おめでとう、幸せになれよ」
 ありがとう。勇介には色々助言をもらったし、家族にもお世話になった。
 「お前・・・とうとうやっちまったな、いつかこういう日がくると思っていた。ま、頑張れや。浮気すんなよ」
 南って下品でガサツだけど本当は倫理観あるよね。密かに尊敬しているけど、本人には言わないつもりだ。
 2人はカレーに向き直ると真剣な表情だ。なんだか嫌な予感がする。危ないぞ、2人共。
 「おめでとう、こいつのこと、見捨てないでやってくれ」
 「なんでいずみを選んだか理解できないが、幸せになってくれ!」
 カレーは目を細める。
 あぁ、まずい・・・。
 何カ月?大学どうするの?男、女?などと言う2人にカレーは激怒する。
 「馬鹿!私じゃない!」
 隣にいた僕まで痺れるような怒声だ。
 正面から声を浴びた南と勇介は硬直している。破壊力あるんだよね・・・、これ。でも、カレーの怒声も最後に聞けたので良かったような気すらする。
 カレーは口汚く2人と、ついでに僕を罵る。だから自分のペースで説明したかったのに。2人には全然経緯とか話してないから。

 去年の春から僕とカレーはこれまでになく上手くいっていた。
 2人で一緒に勉強したり、食事をしたり。もう手をつないだり、一緒に寝たりといったことはなかったけど。
 カレーを良く思わなかったのは啓だった。
 考えれば当たり前なんだけど、冬からあんまりかまってなくて、ストレスが溜まっていたようだ。それでも我慢してくれていたみたいだけど、カレーと手をつないで登下校し、噂になったところで限界が来たらしかった。僕は「カレーとは付き合ってない」と言うが全く信じてもらえず、僕は啓に尾行され、カレーとの同棲が疑われる。啓は僕ではなく、カレーを責めた。一方的な言い分でカレーはキレるかと思われたが、大人の対応をしていたようだ。「一緒に住んで欲しくない」という啓の言い分は認められ、僕は1階の家を使わせてもらうことになる。ありがたい。僕を追い出せばカレーとしては解決なのに。僕には啓からのメールと電話が激増し、返事をしないと泣かれたりなじられたりした。啓はなおカレーを疑っていて、学校で友人を使ってカレーを見張ったり探ったり小さな嫌がらせをしていたようだ・・・。それもしつこく長く。辟易したカレーは、僕と付き合うことはない、と何度も説明し、念書まで書くハメになったらしい・・・・・・ごめん、カレー。

 聞いているだけで、2人はうんざり顔になる。
 「啓さん・・・、これだから女ってやつは・・・・・・」
 カレーは静かに頷く。最初から啓とカレーは合わないと思ってたよ・・・。僕のことをなしにしても。
 勇介は何か考えているふうだが、顔を上げて尋ねる。
 「あの、怒らないで欲しいんだけど、佳麗って、こいつのこと好きじゃなかったの?」
 直球だ。
 地雷原を土足で踏み込む。
 誰も呼吸をしなかった。
 一瞬の緊張。
 カレーはふっ、と息をもらす。
 「こんな最低野郎と、付き合いたいと思ったことないよ」
 2人はそれを聞いて手を叩いて喜ぶ。
 「いやぁ、良く言ってくれたぜ!やっぱ、こいつ最悪だよな?」
 「最低。糞野郎」
 「もう一声!」
 「女ったらし。ドスケベ」
 ゲラゲラと南は笑う。カレー、女の子がそんな言葉遣いしたら嫌だよ・・・。
 「俺達は不思議だったんだ、こいつのどこがいいんだって」
 「顔だね」
 カレーは即答する。
 「あぁ・・・、なんか救われたよ・・・・・・。外見じゃなくて、本質を見抜いてくれる女の子がいるって事実にさ・・・」
 勇介は胸の前で手を合わせてカレーを拝む。すまん勇介、この分では知ってそうだけど、去年井上秋穂とも付き合っていて、秋穂の初めてをもらった。
 3人は僕を置いて好き勝手に話す。
 「私啓って女嫌い。ほんとムカつく。人の家で何やってんだって感じ」
 一旦鎮まった怒りがまた沸いてきたらしく、床をバン、と踏みつけた。
 啓は毎日のようにカレー家に来た。名目としては、[友人の佳麗]の家に遊びに来た、ということだが目的は僕だ。カレーは相手をするのが面倒なので1階の僕のところへ啓を行かせた。追い返せば学校で嫌がらせされると察知したのだ。そして、カレー家1階で僕らは過ごし、セックスを重ねた・・・。カレーが現場に出食わせたこともある。
 「落ちつけよ、怒ったっていいことないぞ、どうせ全部いずみが悪い」
 そうだよね、とカレーは息を吐く。
 ・・・合ってるけどさ。
 「でも啓さんも子供、生むんだな、こいつの」
 神妙に窓の外を眺めていたと思ったら南はぽつりという。
 こんなことは3人には言わないけど、啓はずっとピルを飲んでいなかった。僕の目の前で飲んだ時もビタミン剤とすり替えたりしたらしい。啓にとっては[やっと]した妊娠だったという。何しろ一年以上だ。向こうのお父さんが反対の末に生むのを認めてくれたのも啓がこのことを話したからだ。
 僕は啓と生まれてくる子供に尽くさないとならない。本当に。啓の他にいた2人の彼女とは別れた。僕から話を切り出して、かなり辛かったけど、やっぱり悪いのは僕なのだ。
 「啓さんならこの先もっとグレード高い男と出会っただろうにな。こいつを選ぶのか」
 「面食いなんだろ?どうせよ」
 相変わらず正直すぎる2人だ。
 「なんでなんだろうな?」
 カレーは、でも、とつぶやく。
 「・・・いいとこもいっぱいあるからじゃない?」
 そっぽを向いて、小さな声で言った。
 ・・・・・・カレー。ありがとう。本当に感謝してる。一緒に暮らせて楽しかったよ、僕は。
 勇介と南は何かを察したように一瞬黙り込むが、話は終わったとばかりに話題を変え、「カラオケ行こうぜ」、と場を盛りたてる。
 いいね。約束してたのに、行けてなかったんだ。

 結婚式はパラオで挙げた。
 中高大学と、困難にぶつかる度に夢想した僕の楽園だ。
 忙しくて予定より1年伸びてしまったけど、啓が笑顔なので良かった。
 僕は大学を卒業して首尾よく就職、メーカー勤務2年目のサラリーマンだ。子供は5歳で啓のお腹には2人目がいる。これから頑張らないと。
 浜辺は白砂で、海はエメラルド。この景色がずっと見たかった。式場はオーシャンビューで絶好のロケーションだ。
 マーメイド型のドレスを着た啓はさながら人魚姫で、本当に綺麗だ。
 式はつつがなく進行し、終わる。
 大学時代の友人は多いが、僕が高校の同級生で招待したのは3人だけだった。
 記念品を渡し、写真を撮っていると、2人の屈強なボディーガードを引き連れたカレーがやってくる。
 黒いノースリーブドレスで、ほっそりとした肩が見えている。肌は白く、胸は張り出し腰は細い。思わず見惚れてしまった。なんだか垢ぬけて見える。原石が磨かれて、まばゆい光を放つ宝石を見た思いだ。
 カレーを認めると啓はちょっと顔をこわばらせる。未だに警戒しているらしい・・・。大丈夫だよ。それにしてもずいぶん久しぶりだ。
 勇介と南に簡単に挨拶する。わざわざお祝いに来てくれてありがたい。
 そして、カレーは僕の目の前で立ち止まる。
 斜め後ろに控えた勇介と南は緊張した顔をする。何を言い出すのか不安のようだ。
 カレーは妖艶に微笑んで、グロスを薄く塗った唇を動かした。
 「おめでとう、イ・ル・カ、さん」
 余韻を残すような目をして、カレーは去っていく。
 啓は意味が分からないようで、説明を求めて僕の方を向いた。
 あの日のことは誰にも話してないし、これからも話すことはないだろう。印象的で強烈な体験だった。あの時のカレーの様子は普通じゃなかったけど、覚えていたのか・・・・・・。
 でも、わざわざ結婚式で言うかね、普通?
 僕は思い出す。カレーってこういう奴だよ!                                                   

イルカ・セラピー

 この度は目を通して頂きまして、ありがとうございます。アマの丹羽つつじです。本作を読み、何か心にひっかかりを覚えていただけたならば、それに勝る喜びはありません。
 さて、本作【イルカ・セラピー Dolphin healing】について少々追記させて頂きます。
 この作品はオリジナルであり、フィクションです。実際の人物・団体とは無関係です。多重投稿を【しています】。具体的には個人のHPと【星空文庫】【小説家になろう】です。名義は全て【丹羽つつじ】です。ご理解お願いします。

 これまで近しい友人の間でしか文章を公開していませんでしたが、これからは積極的に投稿をしようと思っています。一人で進めるのも好きですが、詩友に交わらないと虎になってしまうと中島敦大先生も書いていたような気がします。なので感想や批評を歓迎しています。励みになるのでよろしければ是非お願いします。特に類似の作品(プロアマ問わず)を教えて頂けると非常に助かります。お友達も広く募っています。

イルカ・セラピー

顔だけがとりえの高校生遊田いずみは遊びにバイト、恋愛と忙しい学校生活を送っていたが、ある秘密があった。それは同級生の美少女、杉並佳麗【カレー】と同居していることだった。いずみは小間使いとして父親を介護するカレーを手伝いながらも、その強烈な性格に振り回される。カレーは次第にいずみに魅かれていくが父の死後心を閉ざしてしまう。快復のためにいずみが手をつくしていると、カレーはイルカセラピーに興味を示す。2人だけの【イルカセラピー】が行われ、カレーといずみの心は近づいていく。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-06

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