迷子の財布
公園のブランコは、見かけるとつい腰かけてしまう。
下校もなく、幼稚園のお迎えもない時間帯のブランコは落ち着いて見える。嬉々として座り、もう一時間半は仲良くしている。
少年が水飲み場のわきに立ち、こちらを見ている。目付きの悪いやつと思う。私も普段、何を怒っているわけでもないのに怖がられるので、きっと何思うわけでもなくそういう顔なのだろう。気にせず空を見上げていると、警戒しながらブランコまで歩み寄ってきた。その動きは野良猫のように見える。
少年は私の足元を見たかと思うと、パッと引き返して走り去った。その動きもまた、野良猫のようであった。
さて私も帰ろうかと立ち上がり、なんとなくポッケに手をやって、しまった、と尻を叩いた。
財布がない。
自販機の横に置いたか。違う。公園の門か。違う。
水飲み場だ。そう、そこで顔を洗った時にへりに置いた。
あの少年の姿を思い起こす。そうだ、あの少年は常にこちらを警戒し、そして手元を見せなかった。私の足を見ていたのは、立ち上がる気配を感じ取るためだったのか。
いや、しかし、少年がわかって盗んだと決まったわけではない。私はなんてことを考えたのか。それでなくとも怒っているように見える顔だというのに、ここで怒って何になろう。
安心しきってブランコに揺られていた自分を恥じる家路はなんと情けない。
今日の出来事をつける。まず、新聞紙から一番気に入った記事を切り抜いて貼る。その次に自身に起きたことを書く。これが厄介である。実は、たいてい私の日記というのは新聞の切り抜きだけと決まっている。自身のことは書くのが面倒だし、書こうと思っても、途中で終わっていたり、キーワードだけだったりして、後で見ても面白くない。しかし、今日は公園でのことを書きたいと思ってしまった。
浮かぶままにパッパサッサと書き連ねても、自分の中に置いている丁寧な文章の条件をすべてのんだ上で書きあぐねても、なにかわるいことをしている気になる。
息抜きにと口をつけるカップの中の景色は揺れている。
私の財布が少年の手の中にある姿を思う。少年の汗ばんだ小さな手が、茶色い革の長財布を落とすまいと、ぎゅっと力をこめている。雑踏の中で、少年の財布を握りしめた音を聞く者はいない。
遊ぶ金になるのだろうか。食費だろうか。それとも募金か。それはないか。
たしかに、生活の苦しそうな少年であったが、あれほどの金で何をしようというのだろう。
財布をいつも置いていた場所に目をやる。娘が唐突にくれたプレゼントだった。髭の絵が型押ししてあり、それが私の髭と似ているから、と言うのだった。しかし茶色い髭は使い込む度に艶を増し、私の髭はどんどん灰色がかっていった。若者の間で人気のブランドの財布らしかった。髭の男性を好むなら理解できるが、なぜ若い女性が髭単体を好むのかはさっぱりわからなかった。しかし娘がくれたからと大切に使い続けていた。
今日の状況を思い出せば思い出すほど、普段身につけていた物がなくなることの心さみしさのほうが、ずんずんと膨らんでゆくのだった。
後日、我が家にあの少年がやってきた。誰から聞いたのかわからないが、初めての道だろうに、ちゃんと着いたことに私は驚いた。
「返しに」
少年は札を握りしめた右手を私にずいと差し出した。
「来たのか」
財布はと聞くと、奪われたと答えた。
「でもま、そのときにはなーんにも入ってなかったがな。いい気味」
さっぱりした顔で少年は言うが、それは私の財布である。奪われ損に終わった財布がゴミ箱にだらしない姿で捨てられているのを思い浮かべる。
「さて、この金はどうしたのだ」
「俺が稼いだ」
裸の札はくしゃくしゃの中に湿った空気を含んで、私の手の中にある。
「…俺が死ぬ気で稼いだんだから、死ぬ気で生きろよ」
「……ああ…」
私はそんなに、死にそうな顔をしていたのか。もしかすると、死ぬつもりならと、財布を盗んだのかもしれない。たしかにその時、私は死について考えていたのであった。ただ、それは私自身のことではない。兄弟のことである。
少年には迷いもあったろう。盗む直前、ブランコまで近寄ってきたのは、財布を渡すためだったのではなかろうか。
「俺、盗って、悪いことしたなって、思ったんだよ。あい…っ」
「よく返してくれた」
少年が、はっと口をつぐんだものだから、私は気にしないふりで遮った。使い道が良かろうが悪かろうが、盗んだ金なのだ。
茶の間から妻が顔を出しているのが横目に見えた。妻が心配するのもわかる。私も妻が死にそうな顔をすればそれは焦るだろう。しかし、私には死ぬ気がない。これからもっと髭を白くするつもりだ。心配する必要はないのである。心配するなら、こんなことを考え付く少年のほうにしてやるべきだと思う。ちなみに、死ぬ気で稼いだとは何をしたのかと聞くと、新聞配達だと答えた。死にそうなぐらい眠かったらしい。
「私も生きるから、君も生きなさい」
手の中の札を見て言うと、少年は安心したように笑った。
「ああ、帰る前にひとつ、聞きたいことがあるんだ。おじさん、あの財布、どうやって手に入れたの」
「あれは娘からの贈り物さ」
「…そうだったのか……」
少年はすまなそうな顔をした。
「いいんだ。さ、日が暮れるぞ。夕焼けの間にお帰り」
少年が帰ってから札を広げると、財布に入っていた倍の額があり、慌てた。財布代にしてもそれほど高価ではないだろう。しかし妻に訊いてみると、それくらいするのではと言われた。若い女性の経済力たるや。
その時ふと考え付いた。
もしかすると少年は、現金ではなく財布が欲しかったのではないか、と。
女性向けの財布なのだから、そういう店に置いてあるのだろう。それを買うのが恥ずかしかったのでは。もしくは、店を巡ったが手に入れられなかったか。
会話の中で一瞬聞こえた「あい」という単語について考えた。あい。あいこ。あいつ。彼女か、妹か。
「そうかあ」
真相はわからないが、解明できたような気になって、コーヒーを飲み干した。それならば、財布は迷子ということにしておこう。
この日の日記は興奮の余り、日本語訳された詩のようになってしまった。
あの少年にならまた財布を盗まれてもいい、とつぶやく度に、妻には呆れられている。
迷子の財布