星が見守る夜に

好きな人ができた日

 高校に入学してまもなく、新しい環境でバタバタと慌しい日々が続いていたが、夏になる頃には高校生活がすっかり日常となっていた。定期試験も終わり、夏休みが目前に迫るころ、僕は駅前にある本屋でバイトを始めた。もちろん金銭的な目的もあるけど、他にも大事な理由があった。
 僕は小さいころから、社会に属することが怖かった。何が怖いのか、具体的に尋ねられても答えられない。暗闇の田舎道に一人ぼっちにされてしまうような、えも言われぬ『恐怖』を感じた。
 そうした、社会に属することを『恐怖』とする僕の中で、一番のホラーは、会社に入って働くことだった。生まれた家系の都合上、働かずして生きていけるほど親の脛は太くなく(物理的には別として)、よっていつかは僕自身が社会の荒波にもまれなくてはならない。高校を出て、大学に入って、卒業して。その後に待ち受ける『恐怖』に対して、練習なしの一発本番で戦い抜いていく自信がなかった。
 そう、つまり練習が必要なのだ。集団行動のステップという意味では、学校もその一つなのだが、どちらかと言えば教育機関としての比重が大きい。自分の行動に、社会的な責任を求められるポジションに身を置いてこそ、練習になるはずだ。
 ……と、ここまで壮大な嘘を吐いて、頭の固い母を説得した。実際は「遊ぶカネ欲しさ」という身もふたもない理由だったが、それで納得する母ではなかったので仕方がない。結果、高校三年からは勉強に専念するという形でなんとか首を縦に振らせることができた。

 本屋の仕事は割合楽しかった。売れ筋から次の入荷数を設定したり、客層を考慮して本棚をディスプレイする仕事は、特別本を読まない僕でも苦になることはなかった。ただ、一緒に働いている仲間が野郎ばかりで、華のないことは玉に瑕だったけど。
 バイト付き高校生活は、光陰なんとやら、あっという間に過ぎ去っていった。年を取ると時間が早く感じる、なんてよく言うけど、とんでもない。十代の今だって、いつの間にか一年が過ぎている。これじゃあ大人になったとき、どれだけ時間が早く進むのか末恐ろしくある。人生はなんて短いんだ、……なんて学生のうちから考えることでもないけど。
 そうやって充実した生活が二年を過ぎた、高校二年の学年末試験。母親が遠まわしに、成績についての苦言を呈してきた。少し成績が下がってきているだとか、自宅での勉強時間が足りないんじゃないかとか。つまりはそろそろバイト辞めなさい、とのことだった。
 まあ、元々そういう約束でとりつけた話だ。働き慣れた職場や仲間と別れるのはいくら相手が野郎と言えど多少寂しかったりする。だが僕の成績が赤点ギリギリの危険な低空飛行をしていることは事実だ。このまま勉学に手をつけず大学に行けるほど、世の中スイーツ(笑)じゃないだろう。僕は素直に母親の意見を受け入れた。
 いきなり辞めるのも迷惑かな、と考えて退職する日程を三週間後に決めた。その旨を伝えに髪の薄い店長の下へ向かうと、そこでは見知らぬ女性が店長と会話を弾ませていた。
 女性の年齢は二十前半から真ん中くらいで、黒い長髪の似合う小柄でスレンダーな人だった。長い髪を後ろで纏め、ハーフパンツと、子供用にも見えるテカテカ光るエナメルのスニーカーをものの見事に履きこなしていた。パッと見た感じでは中学生のようにも見えるが、端正な顔立ちが大人の風格を漂わせている。……つまるところ、美人だった。
 先月辞めていった社員の代理で、新しい人が来るという話は小耳に挟んでいた。だが辞めた社員が四十過ぎのおっさんだったので、まさか女性が来るとは……。
 僕に気付いた店長が声をかけてくる。
「何か用事かい?」
「いえ、今後も仕事がんばらせていただきます」
 この日から、バイトをする理由が変更された。
 世の中やっぱりカネじゃなく、愛だよ。

 彼女の名は田中さん。見た目同様に子供っぽい性格で、男臭い職場に華を散らす女神のような人だった(すでに盲目)。仕事の担当が同じ文庫担当になったことを活かし、僕はなけなしの勇気を目一杯消費して彼女に話しかけた。そんな僕に、彼女はいつも優しい笑顔で返事をくれた。
 ただ、バイトをしている理由を聞かれたときには少し困った。田中さんの前では猫を被っていたので、素直に「遊ぶカネほしさ」とも言いづらく、母親に吐いた嘘をそのまま流用した。確か、社会が怖いので先んじて経験がしたい、だったかな?
 そんな僕の嘘に対しても、彼女は疑うことなく真剣に考えて、彼女なりの答えを教えてくれた。
「私も初めて会社に勤めるときは、ドキドキしたわ」
「『恐怖』を乗り越えた先にあるから、出会いには価値があると思うの。別れも含めてね」
「誰だって集団行動には気を遣うでしょ?」
「あなたはそこに偽善の痛みを感じるだけなんじゃないかしら? 心が綺麗なのよ。きっと」

 僕は田中さんの話に心を打たれ、その美しさに心を惹かれ、そして自分の嘘の醜さに心を痛めた。それ以来、田中さんに嘘を吐くのはやめた。彼女のあまりの純粋さに、自分の心が浄化されてしまうような気がしたからだ。田中さんが眩しすぎて、そのまま自分が溶けてしまいそうだった。
 そんな僕の女神になった田中さんとの別れは、実にあっけないものだった。忘れもしない、高校三年の七月七日。本屋の営業時間が終わってバイト仲間と店の裏口から岐路に着こうとしているとき。曇り空を見上げていた僕に向かって田中さんが口を開いた。
「私明日から異動なの。だからここで働くのは今日まで。キミにはまだ言ってなかったよね?」
「……は、い?」
 田中さんの言葉が理解できない僕は、二の句を継げなかった。……いや、それは正確ではない。言葉の意味を先に理解した脊髄あたりが現実逃避を起こし、大脳までの情報伝達を拒否して強引に「なかったこと」にしようと頑張ったのだ。
 そんな僕の葛藤も空しく有限実行、次の日から田中さんと顔を合わせることはなかった。僕は人生の意味の大半を見失った。ついでにバイトを続ける理由も見失ったので、一週間もしないうちに職場からおさらばした。二年も働いておいて、多少なり薄情かなと思ったけれど、それ以上に僕の心は薄っぺらになっていた。胸の中にあるのは、田中さんへの思いと、それを伝えることが出来なかった後悔だけだった。

 その後が意外と大変だった。バイトを辞めるという約束を破っていたことで怒りに震える母を静めるために、バイト代を使って塾に通ったり、参考書を買い漁ったりした。こういうことをなんて言うんだっけ。自業自得? 因果応報?
 しかし、現実は厳しかった。僕のあがきもむなしく、第一志望の大学は見事落選。後期試験で受けた、第二志望の地元大学へ通うことが決定した。一人暮らしではなくなり、お金の工面が幾分か楽になったことを母親は素直に喜んでくれた。……一人暮らししたかったな。
 続く大学生活は、実に平々凡々としたものだった。新しくバイトをやろうかと考えたこともあったが、どうしても田中さんの顔がちらついて、踏ん切りがつかなかった。かと言って家に引きこもっているわけではなく、受験勉強の反動もあって、遊んで暮らすようになっていた。我ながらダメ人間。
 それでも単位のためにと、講義に出席して退屈と対決をしていると、教授の声しか聞こえない静かな教室内で電子音が鳴り響いた。
 僕の携帯だった。
 しまった。マナーモードにし忘れていた。慌てて側面のボタンを操作し携帯を静める。開いて確認するまでもない、今の曲は同じ大学の悪友からだ。
 僕は友達によって流れる音楽を変えている。初めのうちは『ピリリリ』というデフォルト設定のまま変更していなかったけど、田中さんに「親父くさいよ」と言われたので急遽、全員に音楽を割り振った。「全員は分けすぎじゃない?」じゃあどないせえっちゅーんじゃ。
 そういや田中さんのメアドすらゲット出来てないな……今更だけど。
 田中さんの着信用に、僕が一番好きな曲をとっているが、その曲が着信音として使われることはもうないだろう。その曲を田中さん以外の人に割り振る気なんてないし。
 悪友からのメールを確認しようと携帯を開くと、待ち受け画面に表示された日付に目が行った。
 七月七日。
 あれからちょうど、一年が経っていた。
 奇しくも、願いが叶うはずの七夕に夢打ち砕かれていた。むしろすごい。
 織姫星と彦星も自分たちだけイチャイチャしていないで、少しは周りに気を配ったらどうだろうか。何ら不思議パワーも使わずにキャッキャウフフしているだけなら街に蔓延るバカップル同様に目障りなだけですよ。田中さんを彼女に、なんて言わないからさ、チャンスくらいさ……。
 くだらないことを考えつつ、机に顔を伏せた。
 そういえば皆さん、授業中に寝る場合、どういう姿勢をとっているだろうか? 頭を上げたまま器用に寝ている同級生がいたけど、僕にはあれがどうにも出来なかった。人より頭が重いのか(大きいのではなく詰まっているのだと信じたい)、机に頭を乗せなければ寝ることが出来なかった。大学生になった今では一度に授業を受ける学生の数も多く、わざわざ起こされるなんてことはないけど、高校の頃は本当に大変だった。いちいち教科書で頭を叩かれて
「こら、授業中だ。起きなさい」
 そうそうこんな風に……、え。あれ?
 顔を上げる。伏せていたので視界がぼやけている。目を細めて見たその先には大学の講義室……ではなく高校の教室が広がっていた。
「ゴゴイチの授業だから眠くなるのは分かる。が、ちゃんと聞きなさい」
 すいません、とほとんど反射で返事をした。数学担当のサトケンは教壇へ戻ると、黒板に書かれた数式の解説を始めた。
 そう、サトケンこと佐藤健一は数学担当の高校教師。僕の母校である高校で教鞭をふるっているはずの人間である。なんでここに……と、考えるより早く、自分とさらには周りの異変に気付いた。
 僕は今朝、夏の暑さに負けて、Tシャツに短パン、さらにはサンダルという実にだらしな……ラフな格好で大学の講義に出席していた。それがどうだ、白のカッターシャツに学生ズボンという実に高校生らしいスタイルに変貌しているではないか。
 周りに目をやる。
 高校時代の同級生たちが雁首そろえて同じ授業を受けていた。
 ……ゆ、夢か! そうか! とりあえず目の前の光景から逃避するために睡眠体制へ入る。ランナウェーイ。僕がそんなタイムスリップなんて不思議体験に巻き込まれるような主人公体質でないことなど中学二年の終わりに気付いていたしそれにポンポンと肩を叩かれて
「次はないぞ?」
 す、すいません……。サトケンの気迫に押されて起き上がり、仕方なく現実と向き合う。改めて見回しても変わらず、平凡な高校の日常が広がっているだけだった。そこでふと思いつき、ポケットにつっこまれていた携帯を開く。なんとなく日付を確認してみようと思ったのだ。
 液晶に表示される、電池残量と電波感度、それに七月七日の文字。なんだ、やっぱり七月七日か……と安心したのもつかの間、西暦を見て愕然し、納得する。
 なんてことない、僕は、一年前に戻ってきているのだった。

 さて、この場合大学生活のほうが、数学の授業中に見た夢である可能性もあるが、それは考えたくなかった。あれだけ苦労した受験生活(しかも失敗)を、また繰り返すのは御免蒙りたい。これからの頑張りによって受験成功ルートに方向転換することができるかもしれないが、失敗ルートの僕だって精一杯勉強していたんだ。あまり期待値の高いものではないだろう。
 よって希望的観測も込めて、大学生の僕が現実で、今の高校生の僕は夢だと決めつけた。今は夢だ夢だ、わーい。
 人間、割り切ると何でも出来るもんだ。数か月ぶりの高校生活だったけど、放課後まで問題なく過ごすことが出来た。また、多々デジャヴを感じたことで、今の世界が夢である可能性に確信を持つきっかけにもなった。
 授業も無事に終わり、自転車で帰路に着く。帰りながら、何か違和感……。
 あ、バイト。学校からいつもバイト先へ向かっていて、直帰した経験がほとんどないことを体が覚えていた。七月七日ってシフト入れていたっけ。……入れていたよね。だって田中さんに会う最後の日だもの。
 ふう、と溜息をつきつつも、バイト先の本屋へ向かう。またあの喪失感を味わうことになるのか……。メランコリーになりながらペダルをぎこぎこ。どうせ夢なら別の日にタイムリープしてくれればよかったのに。
 本屋に到着し、事務所に入る。
 刹那、田中さんの姿が目に飛び込んできた。ああ、一年振りの田中さん……(夢だけど)。僕はこの後別れを告げられるんだな……。
 そしてこれまた久しぶりのアルバイト。レジ打ちは体が覚えていたけど、本の発注手順は忘れていたので、店長に「昨日はできていたのに、鳥頭か」と馬鹿にされた。まあこの後受験に失敗する程度には馬鹿なんですけどね!
 一年前の記憶を辿りつつなんとか自分の仕事を終えることができた。ただ、その仕事の中に見える彼女の姿や聞こえる声が、とても夢とは思えないほどのリアルだったことに、僕はどうしようもなく胸が締め付けられた。

 営業時間が終わり、店の裏口から外へ出る。昼間の熱気が残る夏特有の匂いを感じながら、空を仰ぐ。そして想定通り、田中さんは僕に向かって口を開いた。
「あ、私明日から異動なの。だからここで働くのは今日まで。キミにはまだ言ってなかったよね?」
「……はい」
 夢だから、異動はなくなりましたーぐらいの変更点はあってもよさそうなのに。あくまで基本に忠実なやつめ。
 またいつかね、と手を振る田中さんを直視できず、僕は空を見ながら、ひとりごちた。雲のない空に、零れんばかりの星々が自己主張激しく輝いていた。星座に詳しくないから、どれが織姫星と彦星かは分からないけど……たぶんあれが天の川かな。


 織姫星と彦星か。
 ……。
 ……あ。え? ああー、なるほど。もしかして。まじで? そうか。ははーん。


 つまりそういうことか。なんだ、俺主人公体質じゃん。そしてやるしかないわけですね。ていうか、だったら初めからここにしろよ。
 無言で愚痴を零しつつ、顔には笑みが止まらない。傍から見たら、急にニヤニヤし出した怪しいやつだけど、もう周りの目なんて気にならない。
「田中さん!」
 声をかけ、呼び止める。例え夢でも、そうじゃなくても、僕はこれ以上後悔なんてするつもりはないんだ。
 大きく息を吐き、吸う。そして……また吐く。
 もう一度だけ空を仰ぐ。見つけることが出来なかった織姫星と彦星には、きっと僕の姿が見えているだろう。応援しているのか、笑っているのか。ええい、笑ってないで今だけは応援しろ。

 そして僕は、大きく息を吸って
「田中さん、僕は――」



 ポケットの携帯が鳴る。はっとして顔を上げると、誰もいない大学の講義室で僕はよだれを垂らしていた。静かな室内に一人ぼっちで座っていることに気付き、焦り、頭をフル回転させる。ああ、講義終わっちゃったのか。
 というか、やっぱり夢ですかそーですよね。うたた寝しただけにしては妙な疲労感大きいな、と頭を傾げつつ席を立つ。体を伸ばしストレッチ。さっきの講義、出席大丈夫かな。
 そういえば今携帯鳴っていたな。ポケットに手を突っ込み、携帯を取り出す。やっぱりというか、メール送信者は同じ大学の悪友で、メール内容も先ほどとほぼ同じだった。よっぽど麻雀の面子に困っているらしい。友達の少ない奴め。
 今夜の予定を組みながら、メールの内容を考える。どうせ暇だし、行ってやろう。僕が参加する意思表示のメールを打っていると、またもや携帯が騒ぎ出した。
「しつこいな、行くっつーの」
 着信は、予想通り悪友からの三通目のメール、ではなかった。電話だ。そもそも着信音が違う。
 この曲は……僕が一番好き曲だった。
 他の誰にも割り当てないと決めていた、勇気を出して好きな人に告白する歌だった。
 携帯を落としそうになる。息を吸って、吐いて、深呼吸。

 なんだ、やるじゃん、織姫星と彦星。いや、これは僕の努力の結果かな。
 講義室を飛び出し、廊下を突っ切って外に出る。息を切らしながら空を見上げると、まだ夕方にも至らない天には、太陽が我が物顔でのさばっていた。
 理科の授業で習った。星は、見えないだけで昼間もそこにあると。きっとベガとアルタイルも、どこかで僕を見ているだろう。
 相変わらず僕は見つけられないけど。家に帰ったら理科の教科書を引っ張り出して、星の位置を調べておくので許してください。
 見上げる空には快晴に広がっていたが、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、自身の存在を知らせるように二つの星が瞬いた、気がした。
 許してもらえたってことかな。
 それに僕ばかり何度も助けてくれないだろうし。今後は自力でがんばります。
 二つの星に誓いを立てて。
 慣れない天体観測のためにも、今夜の夜空は晴れますように。

 僕はそう心に願いながら、携帯の着信に応じた。

星が見守る夜に

中学生のころの処女作をそのまま載せてみます。

星が見守る夜に

はじめて好きな人に告白したあの日を思い出すなあ・・・なんて。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-05

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