月が見ていた

月が見ていた

 一週間ほど続いた残業がようやく片付いた。
 デスクに散らばる書類を整理し、椅子の背にもたれた。細い息を吐きながらすすけた天井を見上げる。蛍光灯の光がやけにまぶしい。まるで水の中にでもいるようだ。二三度首を回し、ふと卓上にある小さなカレンダーが目についた。
 十二月。今年もがむしゃらに働いた。誰よりも早く出社して誰よりも遅く帰る。まだ二十代だからできる働き方。カレンダーを見つめながらぼんやりと考えていた。そのとき、何かが気になった。体を起こし、ゴシック体で書かれた数字に目をこらす。短い時間考えたがわからなかった。きっと気のせいだろう。腕時計に視線を落とすとあくびをしながら席を立った。今なら終電に間に合うはずだ。コートを着込み、消灯すると僕はオフィスをあとにした。

 すし詰めの車内からようやく解放され、自宅アパートにたどりついた。酔っているわけでもないのに足元がおぼつかない。ゆっくりと歩を進め、階段横にある集合ポストの中をのぞいた。
 派手なピザ屋のチラシに地味な役所からの手紙、デリヘル利用を呼びかける風俗のチラシもある。僕はうんざりしながらそれらをつかんだ。すると、奥に何かが入っていることに気がついた。チラシを隅に寄せ、引き抜いた。それは真っ白な封筒だった。差出人名はおろか、切手や宛名さえも書かれていない。見おぼえのない封筒だ。何だろう。意味がわからなかったがとりあえず部屋に上がった。寒さに敗けて、すぐにエアコンを起動させる。風呂場へ行き、浴槽に湯をためた。ネクタイを緩めながらテーブルの上に置かれた封筒を手にとった。わずかばかり逡巡した後、開封した。
『あなたの秘密を知っている』
 便箋には手書きでそう書かれていた。女のように繊細な筆跡だった。僕の秘密? 可能な限り思い返してみたがそんなものは出てこない。当たり前だ。大学を卒業して七年、朝から晩まで仕事に明け暮れる毎日。独り身で異性との交際も曖昧にして働いてきたのだ、秘密などあるわけがない。タチの悪いイタズラに腹が立ち、手紙を丸めると屑かごに放った。
 
 疲れた体を癒すべくゆったりと湯に浸かった。固くよじれた絹糸が解けるように疲労が霧散していく。スムーズに動くようになった指先で水面をピシャンと弾いた。飛沫が浴槽の縁の水滴と一緒になり、緩やかに落ちていった。僕が幼かったころ、父とよくやっていた遊びだ。湯気でかすんだグレーの壁。その壁を見ながらいつかの光景を思いだす。平屋建ての小さな家、その縁側に笑っている父がいる。狭い庭には痩せたひまわりが植えられており、周囲を子どもの僕が走り回っている。両手で湯をすくい、顔にかけた。しばらくして、ざらりとした感覚が頭の隅をよぎった。――女のような文字。もしやと思った。手紙の送り主がアイツなら――。嫌な予感だけがあった。居ても立ってもいられなくなり、風呂から飛び出した。乱暴に髪を拭き、濡れたままの体で下着を身につけてスウェットに着替えた。上着を羽織り、財布と携帯電話を握りしめると壁掛時計に目を走らせた。午前零時三十五分。まだ起きているはずだ。部屋を出ると大通りまで行き、タクシーに乗り込んだ。決着をつけなければいけない。しっかりとした座席に身をゆだねながら僕はそう考えていた。

 向かった先は都内にある瀟洒(しょうしゃ)なマンションだった。
 赤坂の駅からほど近い、雑多なビル群を抜けた先にある建物だ。不動産の大手、一ノ瀬グループ所有の物件。ひと部屋億はくだらないだろう。およそサラリーマンには無縁な場所、そこにアイツはいる。
 オートロック式のエントランスは人気もなくひっそりとしていた。両サイドから淡いオレンジの灯が照らされ、中央のガラスドアを明るく染めている。その灯を見つめながら電話をかけた。この時間だ、繋がるかどうかわからなかったが予想に反し、すぐに彼女は出た。
「アイツの携帯番号を教えてくれ」
 わざとらしく眠そうにあくびをする彼女を無視し、それだけ伝えた。彼女は驚いた様子もなく滑らかに番号を唱えた。彼女とは幼馴染だった。実家がすぐ近くで、父親同士が同僚だったこともあり、小さいころからよく一緒に遊んでいた。思春期になり、僕たちはお互いを意識するようになっていた。まだ肌寒さが残る三月の終わり、僕たちはひとつになった。中学三年生だった。今にして思えばやけにませたガキだったことだろう。あのころのふたりは生き急いでいた。迫ってくる何かから逃げるように僕は彼女を抱いた。何度も何度も体を重ねた。そうして十代は過ぎた。大学進学を期に僕たちは別れたが、今でも体の関係だけは続いている。仕事に没頭できるのも飽きるまで彼女を抱いたからかもしれない。アイツの番号を記憶しながら、ふとそんなことを思った。
「すまない、早希」
 どうしたの? 心配する早希に礼を言い、電話を切った。美容に悪いからと零時までにはかならず就寝する彼女が起きていたことが意外だった。すぐに教えてもらった番号にかけ直した。五回目のコールのあと、歳の割に幼い声がスピーカーの向こうから聞こえた。
「やあ、久しぶりだね」
 部屋に入れてくれと頼むと了解する旨の返事があった。しばらくして内扉が開いた。アイツの部屋は八階だ。僕は急いだ。エレベーターを待つのももどかしく、階段で一気に駆け上がった。疲れているはずの肉体は水を得た魚のようにするりと動いた。息を切らした向こう側、八〇一と書かれた分厚いプレートが鎮座している。呼吸を整えて近づき、呼び鈴を鳴らした。カシャン、と鍵の開く音がした。
「いらっしゃい、兄さん」
 誠は柔らかな笑みを(たた)え、そう言った。向かって右の口角を持ち上げて僕を見つめている。幼いころからの癖、彼に会うのは久しぶりだった。義祖父の葬儀以来だから実に五年ぶりだ。少し痩せたような気がする。こちらに伸びた低い視線、車椅子の銀フレームが室内の光をまんべんなく受け止め、跳ね返している。
「元気そうだな」
「そう見えるかい?」
 誠は車椅子の上にある体を確認するみたいに一瞥し、また微笑んだ。
 種違いの弟、その足を歩けなくしたのは母だった。彼女は弟を溺愛していた。しかし生まれつき体が弱く、勉強はできたが運動はからきしな弟を完璧主義者である母は徐々に遠ざけていった。理想の終焉、愛情が憎しみに変わるのに時間はかからなかった。テストの点数が減るたびに誠の体には醜い傷が増えていった。でも、彼は母を愛していたらしい。小学生のときベランダから突き落とされ、両足が不自由になっても彼の顔から笑みが消えることはなかった。
「今日だったね」
 誠は歌うようにそう言った。
「何がだ」
「命日さ、自殺した母さんの」
 心臓に氷の塊を押し付けられたように息が詰まった。母の厳しい眼差しが蘇り、ゴクリと喉が鳴った。思いだした。十年前の今日、十二月十八日、母は自宅前の雑木林で首を吊り、あっけなく死んだ。享年、四十五。楽しみにしていた国内旅行を目前にしての突然の死だった。遺体が脳裏に浮かび、頭に手をやるとチリチリとした痛みが後頭部に走った。何の痛みだろう、わからない。そんな僕を見て、誠はまた微笑んだ。
「忘れてたんだろ? 兄さんらしいね」
 図星を指されて、思わず下を向いた。
「俺はね兄さん。母さんが自ら命を絶ったことを恨んではいないよ。母さんはいつかそうなる運命だったんだ」
 言い終わると車椅子を稼動させた。タイヤが大理石調の床を踏む、きゅっという小気味よい音だけが室内に響いた。窓際まで行くとベージュ色のカーテンを思い切り開け放った。窓の向こう、くっきりとした満月が僕たちを見下ろしている。
「母さんは美しいものが好きだったね。……そう、あの満月のように。俺は彼女の理想に近づこうと努力したけれど、結局ダメだった。母さんの理想は俺たちには高すぎたんだ」
 自殺する前日、僕と母は口論になった。部屋でセックスをしていたところを見られたからだ。(鍵はかけたはずなのに)、狼狽(うろた)えていると(けが)らわしいッと母は叫び、僕と早希は上半身裸のままベッドから引きずり下ろされた。無礼な所作に十代だった僕は激昂した。母の胸ぐらをつかむとそのまま廊下に躍り出た。興奮していたのだ、ここが二階ですぐ近くに階段があることさえも忘れるほどに。危ないッ、早希の声に呼応するように階段から転げ落ちた。僕は意識を失い、次に目が覚めたときは病院のベッドの上だった。見知らぬ天井がまるで何もなかったかのようにのっぺりとした風景を描いていた。
 後頭部の痛みが増した。
「兄さんは頭に、母さんは顔に傷を負った。皮肉なものだね、完璧を求めていた母さんが一番醜い傷を負うなんて」
 静かな部屋に誠のやるせない溜息が吐き出された。黒い空に浮かぶ満月が笑ったような気がした。
「右目の下」
「えっ」
「傷の位置さ。長さは五センチもあった。母さんは病室を抜け出してあくる日の朝、家の前で死んだ。汚い傷跡に耐えられなかったんだろうね」
 誠の切れ長の目をじっと見つめた。彼の目的がわからない。何のために手紙をよこし、そしてこんな話をしているのか。考えれば考えるほど深い森の中に迷い込むようだ。眩暈がし、反射的に目頭を押さえた。頭痛はいつの間にか消えていた。
「僕にどうしろと言うんだ? あれはアクシデントだった」
 誠は声を出して笑った。
「さっき言ったじゃないか、俺は兄さんを恨んでなんかないさ。刺激をもたらしてくれるおもちゃがひとつ減った。ただそれだけのことだよ。でも――」
 そこで誠は言葉を切った。母に似た強い眼差しが僕に向けられた。
「早希を悲しませるのだけは許さない。彼女は俺の大切な女性だ」
 一年ほど前から早希と弟が付き合っているのは知っていた。セックスをしている最中、彼女の携帯電話に着信があった。誠からだった。出ろよ、早希を上にさせ、携帯を渡した。早希は震える声で応答していたが胸を揉みしだき、下から突き上げてやると息を詰まらせ、唇を噛んだ。身悶え、声を出さないよう必死に抵抗する姿はひどく妖艶だった。
「早希がそう言ったのか、それでお前はあんな手紙を」
 誠は疑問符を顔に浮かべたあと、首を横に振った。二十五にしては女のように細い首、その首筋に僕は確かに母を見た。
「――彼女は何も言わない。ただ黙って醜い俺を受け入れるだけだ」
「お前は醜くなんかない、僕のたったひとりの弟だ」
 彼はまた笑った。諦観を含んだ笑みだった。あのときと同じ、嫌な予感がした。
「俺は一ノ瀬グループ会長である親父のせいでどこへ行ってもお坊ちゃん扱いだ。でも、ほとんどの奴らが歩けもしないくせにと心の中で見下してる。わかるんだよ。母さんが死んで残ったのは体の傷と動かない足だけになった。そんなとき、彼女に出会った。早希は俺を一人の男としてみてくれる、この世で唯一の女性さ」
 誠の顔にはっきりとした陰が落ちた。母が最期の場所に選んだ雑木林のように暗い陰。胸の鼓動が一際強くなった。何かが警鐘を鳴らしている。それがどういう意味なのかはわからない。
「早希と別れたらいいのか? それでお前は救われるのか?」
 僕の言葉を待たずに彼は声を出した。
「あの日、俺は覗いてたんだ。早希と兄さんの交わりを。兄さんの上で身をくねらせ、悦に入る早希はとても綺麗だったよ。まるで絵画のように輝いていた。俺は悔しかった。いや、羨ましかったのかもしれない。嫉妬が心を叩いた。延々と叩き続けた。早く帰ってきてくれ。気がついたら母さんに電話をしていたよ。結局、母さんを殺したのは俺だ。兄さんじゃない」
 言い終わったその目に先ほどとは違う陰があった。近づこうと足を動かすと、彼はまた口を開いた。
「もう遅い、遅いんだよ兄さん」
 双眸からゆっくりと涙がこぼれた。穢れを知らない美しい涙だった。
「早希の心は、はじめから兄さんに向けられていたんだ」
「誠……」
「今夜、早希と食事をしたんだ。彼女は俺の好きなビーフシチューを作ってくれたよ。でも、とても辛そうな顔をしていた。何度も求めてくる俺が重荷だったのだろう。愛する女の落ち込む顔なんて見たくない」
 誠はうなだれた。小さな体がさらに小さく見えた。
「もう早希とは会わないよ、だから――」
「子どもができたらしい」
「えっ」
「早希のお腹さ。兄さんとの子どもが」
 寝耳に水だった。彼女からそんな話は聞いていない。
「早希は何も……」
「言えなかったんだろうね、俺たちのことを気づかって。早希らしいな」
 誠は天井を仰いだ。その目にいくつかの淡い光が降り、瞬いた。
「夜が明けたら、俺はこの国を出て行くよ。もう決めたんだ、最後に兄さんと話せてよかった」
 最後という言葉に体が強ばる。不意に訪れた別れにどうしたらいいのかわからない。口から空気の漏れる情けない音がした。
「そんな顔しないでよ、別に死ぬわけじゃない」
 誠はすべてを許すように溜息をつき、そして笑った。不思議とその顔に陰はないように思われた。
「吐露したら喉が渇いたな。――そうだ、良いワインが手に入ったんだ。兄さんも一緒にどう?」
 うなずいた。歩きかけたところで後頭部に痛みが走った。何かが警告するような痛みだった。僕は振り向いた。
「キッチンはそこの廊下を――」
 そこまで言いかけて誠は吐血した。突然のできごとだった。飛び散った鮮血が汚れひとつない白い床を蹂躙(じゅうりん)した。
「誠ッ」
 あまりの非現実的な光景にすぐには信じられなかった。彼も同じなのか、目を見張り、震える手で口元を押さえた。咳込んだ。指の間から真っ赤な血がゆるりと落ちた。
「なんだよ、これ……」
 誠は血に染まった手のひらを見つめたあと、糸が切れたマリオネットみたいに力なく倒れた。悪夢を見ているようで僕はしばらく立ち尽くしていた。主のいなくなった車椅子、その後ろで絶佳な月だけが僕たちを見ていた。    了

月が見ていた

*6/7、後半部分を少し変えてみました。

月が見ていた

一人の女を愛してしまった二人の男の物語。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-06-04

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