ある男
男と豊満な男
男は街灯もまばらな薄暗い街路を歩いた。時代が見向きもしない町の一角に男は住んでいた。趣味はなかった。趣味とはいったい何を指すのかさえも彼には理解できなかった。
黒い煙を出す不気味でのっぽな煙突はあれども、皆を見下ろす高い電波塔はない。ここは電波もまともに入らない。
男は黒いコートを着て、黒いトランクボックスを持っていた。細身の体には似合わない大きさのトランクボックスだった。
男は前日に猫を拾っていた。飼い猫かもしれないし野良猫かもしれない。そうなると盗んだのかもしれない。
帰路で男は猫に名前を付けていないことに気付いた。
「名前は何にすればいいだろうか」
男の家が近づくにつれて道幅は狭くなった。窮屈な道に不釣り合いな大きい電柱を男がよけて通った時、男は猫に名前が不要であると気づいた。
男の世界には、男とその猫しかいなかった。
少ない街灯を二つ過ぎて男は自宅についた。茶色く色あせたそのアパートは二階建てで、男の部屋は階段を上ってすぐの部屋だった。トイレはあるが風呂はなかった。
中に入ると猫はいた。フローリングとは名ばかりの汚い板の上で眠っていた。男が近づくと猫は男に気付いた。猫は額を男の足にあてながら、八の字を描いた。
男は持っていたビニール袋から缶詰を取り出し、猫の前にそっと置いた。
そして男は来ていた黒いコートを脱ぎ、その場に横たわると、自分の腕を枕にそのまま眠りについた。
男が目を覚ましたとき、まだあたりは暗かった。男は胸ポケットから懐中時計をとりだして時間を確認した。おおよそ男の身なりに似つかわしくない、黒ずんではいるが、しっかりとした時計だった。
男の隣には空になった缶詰が置いてあった。猫の姿はなかった。
立ち上がって洗面台までいき、蛇口をほんの少しひねった男は、ちょろちょろと零れ落ちるほどの水で顔を洗った。その洗面台には鏡がなかった。
コートを着て、男は町に向かった。男の顎には髭が蓄えられていた。
町についた男は広場のベンチに座って、まだ人もいない広場をぼんやりとみていた。鳩が男の足元に集まってきた。
「おまえらは客じゃないだろう」
男は無表情に上をむいて言った。
広場は駅からオフィス街に向かうショートカットのコースになっているため、ビジネスマンがほとんどであった。そのため、人通りのほとんどがサラリーマンだった。
列車から降りてくる人達の軍団が現れると、いち早くその足音を察知した鳩たちは、一斉に男の足元から飛び立ち離れていった。これは男にとって仕事の始まりを意味していた。
その集団の中から一人、豊満な男が足早に男のもとへと近づいていった。
「おい、おまえ、急ぎで頼むよ」
男は黙って台を、その豊満な男の足元に差し出した。
「おい!急いでくれ」
豊満な男は体の割に小さな足をその台の上においた。
「はい」
男はそう答えると、焦る様子なくトランクケースからブラシを取り出して靴を磨きだした。男は無愛想だが、仕事は丁寧だった。男が磨き終わると、その豊満な男の靴はピカピカになっていた。そしてその豊満な男は言った。
「手際が悪いよ。この世はスピードが命さ。さ、これで充分か?」
そういうと銅貨を2枚、投げ捨てるように男に渡し、足早にその場から去って行った。男は立ち去る男の姿を見送った後、ぼそりといった。
「これで缶詰でもかってやるか」
豊満な男は自分のオフィスにいた。そのオフィスはこの街の中でも一番高いビルの中にあった。そのオフィスの一番端の席に豊満な男は座っていた。彼の横にはたくさんの書類が山積みになっている。それに埋もれるようにして缶コーヒーが置いてあった。
「ヤマキ君!これも頼むからね」
眼鏡をかけて年老いた男が書類を置いて去って行った。彼は対照的に細すぎるほどやせている。だぼだぼのシャツにショルダーベルトを着けていた。
「課長!いつまででありますか?」
「今すぐ!この世はスピードが命だからね」
「は、はい、わかりました!」
ヤマキはため息を一つついた後にその書類を手に取った。
彼の仕事は書類を会議の始まりまでに複製しておくことだった。毎回の会議では、25部と決められていた。なので、ヤマキはその書類を25部コピーした。ヤマキは課長のもとに向かった。
課長の席はこの部屋の中央奥に位置していた。席と席の細い道を、ヤマキはその豊満な体ですり抜けていった。
「課長。終わりました」
「終わりましたじゃないでしょ、もう5分で始まっちゃうでしょ」
「すいません」
「誤っても仕方ないでしょ。この世はスピードなんだ」
課長はそう言って会議に向かった。ヤマキは会議に参加したことはない。ヤマキが入社してから10年が経っていたが、一度もなかった。
ヤマキはこの課長に怒られている時間が苦痛だった。怒られるのはもう慣れていたが、周りに怒られている姿をさらすのが苦痛であった。ヤマキは肩をすくめ、その豊満な体をできる限り小さくしながら自分の席に向かった。その途中、ヤマキは自分がクスクスと笑われていることに気付いていたが、なるだけ冷静を装った。しかし、その努力とは裏腹にその膨らんだほっぺは赤らんでいた。
ある男