夜光虫の群れ

涙しかでてこない、それしか出来ない恋だった。ただ、あなたにあいたかった。

 
 「螺旋階段の手すりを、手を離さず降り終ると会いたい人に会える」
 そう、教えられたのはいつだっけ。女子高時代だった気がするし、陽の当たる庭で祖母に教えられた気もする。
 …朝日が差し込む。天井の真っ白さが目に沁みる。見渡す限りの白で、一瞬自分がどこにいるのかもわからなくなった。
 夜光虫を見に行こうと、最初にいったのは彼女だった。あの時のわたしは女子高生で、バレー部の部活帰りだった。汗で冷えた首筋に自転車で切っていく夜風がすこし、つめたかったのを覚えている。うみが近い地域だったから、自転車を漕ぐたびに、わたしも彼女も息がどんどん白く靄にきえていった。
 「ほら、みて」
 堤防を越したあたりで彼女がきゃあきゃあ声を上げる。遠い水面に灯台の灯が当たって、なにか小さく見えた気がした。
 「漕ぎながらなんかみえないよ」
 宥めるようにわたしがいう。顔はわらっていた、はずだ。
 
 砂浜に下れる階段のところで勢いをつけたまま彼女が自転車を飛び下り、そのままうみに駆け出していく。ふたりともばかみたいにはしゃいで、妙なテンションのままうみへ駆けていく。
 「こないだ赤潮が出たっていうからいけるとおもったんだよね」
みて、と急に声を潜めた彼女の足元、うしろ、うみを掬った手に、きれいなあおみどりいろの宝石。
 「わあ…」
わたしは大したことも言えずにずっと彼女と海を見ていた。ローファーと靴下をぬぎさってしまって、うみに足首だけ浸かっている彼女が、まるで人魚姫みたいにきれいだったから。
 彼女はわたしと目があうと、そっとわらってみせた。顔なんかあどけなくて、二人とも田舎の堅苦しいセーラー服で。
 でも、それでも月明かりと夜光虫に照らされた彼女は、おどろくべき儚さでそこに笑って立って居た。

 もう、ずいぶんと前のことになる。
あのあと、二人でいろいろ話した気がするのに、今となってはすべてがおぼろげ過ぎてちっとも思い出せない。ここの壁と天井みたい。なんだか腹が立つ。
潮の匂いが鼻につく。
 「階段を下りている途中、声を掛けられてもけっして振り返ってはいけないんだって、声を出してもいけないって」
 記憶の中の誰かがうしろからささやいてくる。わたしはあの時うみを照らしていた灯台に今居る。そうして、螺旋階段を、こつん、こつん。ひとつずつ下っていく。ヒールの音がすごく響く。
 あれからわたしは郊外の大学に進学して、彼女とは離れ離れになった。あんなに仲が良かったはずなのに、環境の違いからかどちらともなく自然に連絡を取らなくなった。そうしてお互いいい歳になって、わたしは印刷関係のOL、彼女はアパートの販売員なんて平凡な仕事に就いちゃって。それも友達づてに聞いて。
 今回帰ってきたのは、地元で法事があったからだ。
 彼女が車に轢かれて亡くなった、という連絡すらも友達からきた。そういえば最近、彼女があなたに会いたがっているよ、なんて聞いたっけ。お盆前の仕事のピークで断ってしまったけれど、なにか感じるものがあったのだろうか。

こつん、こつん。
 嫌味じゃない程度の大きさで、ヒールが響く。ゆっくりゆっくり階段を下っていく。もちろん階段の手すりには、左手をつけたまま。薬指にひっついてるダイヤがちらりと光る。
 「ねえ、戻ってきてよ。俺と結婚しよう」
 そう、後ろからささやくのは大学時代同居してた彼氏だった。いやよ、あなた甲斐性がなかったじゃない。そう、こころのなかで嘯く。
 肩に置かれた手はなんの未練も無くふっと離れていく。噂できいたところによると、彼は今、三児のパパらしい。時の流れは速すぎて、あっというまにわたしはおばさんになってしまった。
 
 「愛と恋の違いってようは持続力だと思うんだ。恋は一瞬のときめきだけど、愛はそれより効力が長い。僕はきみを愛し続ける自信がある」
 そういって後ろから抱きすくめられた手を、右手でそっと払いのける。
 そういわれて結婚したわたしだけど、あなたちっとも帰ってこないじゃない。仕事なのか接待なのか誰かと逢ってるのなんかなんてわからないわ。だって、最近はお互いにひとことも喋ってないから。
 肩に抱かれた手は、若干名残惜しそうに霧散した。彼の香水の匂いだけが残るけど、なんていう香水かもわすれてしまった。
 そのまま、しずかに、こころもまるで波立つこともなく。わたしは静かに淡々と階段を下っていく。
 
 足に妙な感覚を感じてきゅうに立ち止まる。これは高校時代飼っていたヨークシャーテリアだ。わたしが帰ってくるとなんども脛におでこをこすりつけてきたっけ。今みたいに。
 法事の際に実家に顔を出すと、ちいさなお墓が庭の真ん中にたっていた。かわいい奴だった。わたしがいやなことがあって帰った日なんてぐるぐる何度も足の周りを回ってずっと元気づけようとしてくれたっけ。
そのまま声を上げずに微笑むと、わたしが喜んだのを察したのか彼はきゃん!とひとこえ鳴いて彼方に駆けて行った。
 しずかに、また階段を下る足を進めていく。
 
 昇りより妙に長い階段を下っていくと、信じがたい光景がわたしの目の前に広がった。階段が浸水しているのだ。嘘でしょ!?といいたい気持ちをぐっとおさえる。水面には魚ものんきに泳いでいる。

 「だいじょうぶ。そのまますすんで。」
わたしを信じて、紀子ちゃん。
懐かしさにかられて思わず振り向きそうになるわたしを、彼女の左手がそっと、止める。
 「だいじょうぶ。紀子ちゃんならできるよ」
信じて。彼女は高校時代からよくそう言っていた。部活内で先輩が不祥事を起こしたときも、それをわたしが高校側に伝えたときも。彼女のこの言葉だけが勇気だった。そうしてその言葉は、本当だった。
また、彼女を信じて私は足をすすめる。水面はひやっとしているものの、真夏のプール並みの温度のそれはいともたやすくわたしを受け入れた。
そうしてどんどんどんどん、わたしは水底に向かっていく。なぜか息苦しさは感じない。口を水面にむけてひらくと、ごぼ、と空気の泡が昇って行った。

 もうずいぶん階段を、いや、水底に向かって下っていく。ずいぶん辺りは暗くなり、あんなに鬱陶しいほど明るかった陽のひかりももうみえないほどにきた。鼻先を昔水族館でみた深海魚が優雅に泳いでいく。

 深海にまでいったところ、わたしはリュウグウノツカイを見送ってまだ下っていた。
あたりは何も見えないほど暗い。左手の手すりの感覚を頼りに、探るように私はまだ下っていく。

 ふいに、ぽう、となにかが光った気がする。
何も見る気すら起きてなかったわたしの目の前にもそれは視界に飛び込んでくる。
そして、わらわらと周りが次第に明るくなっていく。
 夜光虫だ。
あのときよりもたくさんの夜光虫が、ひかりの洪水のように今目の前にいく。
わたしはもうほとんど駆けるようにして階段を下っていく。いままでみたどんな宝石よりもきれいなひかりの渦のなか、もう靴ははいていない。気が付けば薬指の指輪もない。長い髪も、たゆたわず短くなっていて体が軽い。そう、セーラー服だから。
 そうやって階段を下りった先に、夜光虫の群れがいた。
懐かしい背中が見える。彼女はまるで星に手をのばすように、夜光虫の群れとたわむれている。
 「希緒ちゃん!」
そうやって出した声が深海に静かにひびく。口から出たあわをしずかに夜光虫たちがよける。それすらかきわけてわたしはそのまま彼女の背中に抱き着く。
 「あのね。わたし、あなたがすきだった。ほんとうにすごく。でも希緒ちゃんが他校の先輩のことすきって気づいてたの、だから、わたし!つらくて…あんなプレーしちゃって、うちの先輩ケガしちゃって、それで、本当に…」
彼女がふりむいて、海水にとけてく生暖かい涙をぬぐってくれる。やわらかい指だった。
 「紀子ちゃん、あのね、わたしぜんぶ気づいてたの。でもね、なにも出来なかった。なにもしなかった。それはとても残酷だったとおもう」
 「ごめんねを言うのはわたしのほうだよ」
おでこをこつん、とぶつけあうようにして希緒ちゃんがささやく。深海にはわたしたちと、見守る夜光虫たちしかいない。
 「ずっとここで二人でいよう」
わたしは泣きじゃくってうなずくことしか出来ない。もうあのうみの夜を思い出に、糧にしていきなくていい。
 「ずっといっしょよ」

 恋が一時的なものだなんて誰がいったんだっけ。
わたしはずっと彼女に恋をしていた。燃えるほど熱く、なのに嗚咽しかでてこない。かなしい、かなしい恋だった。

 もうわたしの人魚姫はどこにも逃げなかった。だってわたしも足に鱗をはやしたのだから。
そうしてずーっと、わたしたちは夜光虫の群れを黙って眺めていた。

夜光虫の群れ

夜光虫の群れ

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-02

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