鑑賞記録-アマヤドリ スタジオパフォーマンス”雨天決行”season.3「ヘッダ・ガーブレル」より


池袋にあるstudio空洞にて観劇。
このような作風を目にしてまず単純に思考されたのは、演じる役者が演じていて楽しいのかどうか、であった。この「楽しい」の解釈も様々で語弊を生じやすい表現ではあるが、設けられた作品の道筋に対し、その向上に明確な意識を持ち、変化・発展させていくことが可能なのかどうか、という意味においてである。
こと舞台上“演じる”うえで、どのようなスタイルを選択するか。それは種種雑多に個々人の考えるところであるが、何れにしろ役者が肉体を携え、つまりは感覚を用いて時間・空間と対峙せねばならない点において、演劇では古今東西、ほぼ絶対的な根源ルールとなっている。
“感覚を用いる”とは、より人間らしい“温み”を有すると同義だ。しかしながら、今作「ヘッダ・ガーブレル」では(もちろん目論みとしてであろうが)そうした温みは限りなく排除され、極めて形式的な、モノクローム人間として一切を構成していた。
もちろん演劇において、形式美を追求した演劇人は過去枚挙にいとまがない。鈴木忠志「鈴木メソッド」や太田省吾「無言劇」は、あまりに有名なその代表例であろう。だが彼らの作品には共通して、単なる形式を超越した、むしろ形式を通してみなければ出現し得なかっただろう“凄み”があった。そうした“凄み”は、観客へと伝染し、容易く彼らの想定外を捉え、いわんや形式なぞどうでもよくなってしまうような、言い表し難い感動を招いたのである。
要するに私は、「ヘッダ・ガーブレル」を観劇し終えてあき足らなさを感じたのだ。スタイルにしろ何にしろ、劇場へ赴くからには何らか内なる変化を期待してしまう。果たして、その表現が観客を変化させるだけの起爆足りえたのか。はたまた策に溺れてミイラ取りがミイラになってやいまいか。今回、私は後者でないかと感じてしまったのが残念なのである。

鑑賞記録-アマヤドリ スタジオパフォーマンス”雨天決行”season.3「ヘッダ・ガーブレル」より

鑑賞記録-アマヤドリ スタジオパフォーマンス”雨天決行”season.3「ヘッダ・ガーブレル」より

「池袋にあるstudio空洞にて観劇。 ……」

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-06-02

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